ビスマルク事変

概要

ビスマルク事変(独:Bismarck-Zwischenfall)とは、統一歴200年の12月21日から12月29日にかけて発生したモスクワ軍政国で起こった強硬派と穏健派での一連の軍事衝突である。この事変によってモスクワ軍政国の実権がモスクワ第二帝国亡命政府穏健派から強硬派へと移ることとなった。一種のクーデターに近いものとされている。



背景

第二次モスクワ内戦でのモスクワ共和国新政府の勝利後、行われた総選挙において、主に軍人が所属する軍国主義を掲げた国家軍事党が勝利し、共和国の実権は軍部が握った。この政治体制はかつてモスクワで築かれた第二帝国体制とほとんど変わらないものであり、このことから軍事政権発足以後主に熟練兵・中堅を主とする第二帝国亡命政府との和解を目指す穏健派と青年兵・青年将校を主とする強硬派で分裂した。当時は軍事政権は穏健派のトップであるエルヴィン・フォン・ビスマルクが主となっていたため、強硬派の青年将校たちはビスマルクを筆頭とした穏健派閣僚の排除と強硬派による軍政国の実権獲得を目標として秘密裏に行動を開始した。



エルヴィン・フォン・ビスマルク暗殺未遂事件と軍事衝突の発生
統一歴200年12月21日、軍政府官僚たちとの会合を終え、モスクワ軍政府中央政治執行部本部から出てきたビスマルクを、強硬派の兵士で、実行役に選ばれたカール・アーノルトが襲った。突然の出来事に不意をつかれたSPたちは対応することができなかった。それはビスマルクも同様だったが、それでも長い軍属経験で培った反射神経により心臓を狙ったカールのナイフをなんとか脇腹に逸らし、即死にはいたらなかった。カールがトドメを刺そうとしたが、立て直したSPたちによりアーノルトは射殺された。しかしながらエルヴィンは大きな傷を負い、致命傷にこそならずともしばらくの間歩くことすら不可能な状態となった。カールが犯行に及んだことを確認した強硬派幹部は強硬派所属の兵士に一斉武装蜂起を命令。武装蜂起を鎮圧するため派遣された穏健派の兵士たちと衝突した。



軍事衝突発生後


モスクワ第二帝国亡命政府の介入
強硬派の武装蜂起に対し軍政府や穏健派は武装蜂起を公然と非難、周辺国に援助を要請した。が、周辺諸国は穏健派より強硬派を支持しており、軍政府・穏健派に援助の手は来ないかと思われた。が、この要請に対し唯一答えたのが第二帝国亡命政府だった。亡命政府最高指導者(総統)ルドルフ・ヨーゼフは以下のような内容の演説を行った。
「我が亡命政府は、我ら亡命政府との和解の方法を模索し、平和的解決を目指す現地代理行政執行自治体の自治政府の努力を高く評価する。また、愚かにも自治体政府の打倒を目指して反乱を起こす強硬派の行動はあまりにも愚かで、世界の平和的安定の道を閉ざす危険な組織である。我々亡命政府は自治体政府、もとい同胞達の救出のためいかなる行動も辞さない。」(部分要約)この発言は事実上の本内紛への軍事的介入を示す発言であり、亡命政府を承認していない軍政府はあくまで「平和のために行動する勇敢な軍事組織の行動に感謝する。」と返した。



穏健派の内部対立
第二帝国亡命政府からの支援を取り付けた軍政府・穏健派内でも内部対立が生じていた。穏健派内にも第二帝国亡命政府への対応で差異があり、ビスマルク派と呼ばれる第二帝国亡命政府との統合を目指すいわゆる軍部穏健派と、シーボルト派と呼ばれる第二帝国亡命政府の存在を黙認し、あくまで統合は行わないとする方針の2派閥で分かれていた。そしてビスマルク暗殺未遂事件によりビスマルク派の力が弱まると、シーボルト派はビスマルク派を吸収するために行動を開始した。しかしながらシーボルト派の一部は強硬派側につつくなど、連携は取れていなかった。そこでビスマルク派はシーボルト派の連携の弱さを突きシーボルト派の各地の拠点を同時に襲撃、連携の取れていないシーボルト派はそのほとんどがビスマルク派に吸収され、一部は強硬派についた。なお、シーボルト派の指導者であるヨハネス・フォン・シーベルトは数人の腹心を連れて脱出を試みたが途中で強硬派の兵士に捕まり拘束、尋問の末射殺された。

撤退開始
穏健派の内部対立が終結し指揮系統は統一されたことを知った強硬派は少なからず危機感をもった。数だけなら依然として強硬派が優っていたが、穏健派に比べて実戦経験に乏しく、質の上では明らかに劣っていた。そこで強硬派は統一のいざこざで少なからず疲労していると見積もり、穏健派が拠点としている首都モスクワへ攻勢を電撃的に仕掛け、一気に殲滅する作戦をとった。しかしながらこの作戦を察知した穏健派は強硬派とまともに戦えば質は良くとも数で劣っている時点で大きな被害が出るのは間違いないと見積もり、モスクワ市から撤退を開始、旧東欧連邦領だったエストニア・ラトビアにて防衛戦を築いて戦う作戦への変更を開始した。しかしながら強硬派の進軍速度は穏健派の予想を上回るものとなり、背後から攻撃を受ける形となった穏健派は少なからず被害を被った。

穏健派の亡命
穏健派への支援を表明していた第二帝国亡命政府の艦隊がバルト海に到着したことを確認した穏健派は、モスクワからの撤退中に受けた損害で防衛戦をできるほどの戦力はもはやなく、この戦いの勝者は決まりつつあった。モスクワ市内の高等病院から部下の護衛を受けて命からがら逃げ出したエルヴィンは、第二帝国亡命政府と支援艦隊を経由して第二帝国亡命政府への亡命の許可を要請した。亡命政府は「今までの地位ほどの役職は準備できない」「穏健派各員は亡命政府軍管轄下の兵士となる」等様々な条件を提示し、エルヴィンがそのほとんどを受託したため亡命政府は亡命を許可し、現地支援艦隊に亡命の援護を命令した。なお、バルト海沿岸部の港の大半やモスクワ海軍は穏健派が多かったことからモスクワ海軍強硬派は行動することができず、ただ大量の艦艇と兵士がモスクワを去っていくのを見続けることしかできなかったという。



終戦

穏健派の最後の1人が最後の艦艇に乗り込み、無事にバルト海から脱出すると、エルヴィンは正式に穏健派の降伏を宣言したことにより正式には戦闘は終結した。が、すでに穏健派の各員は亡命政府軍に登録されており、実際のところ穏健派は1人たりとも存在しておらず、ほぼ意味のない、言えば穏健派の最後の強硬派に対する侮辱を込めた嫌がらせであった。



影響

この一連の戦闘の影響でモスクワ軍政国の実権は軍部強硬派がにぎり、もはや第二帝国亡命政府との和解は不可能な状態となった。また穏健派は武器装備を保有したまま亡命政府軍に参加したため、亡命政府軍はさらに強化され、東方戦争後に保有していた戦力の7割を回復するに至った。一方軍政国軍、特に海軍の衰退は著しく、国防に不安を抱えつつも戦後復興・軍備増強に努めなければならなくなった。
最終更新:2025年10月02日 21:58