概要
モスクワによるヴォロネジ侵攻とは、統一歴204年の2月11日から3月22日にかけて、
モスクワ軍政国が
東方戦争後にモスクワ・アークランド両国の間の緩衝国として成立した
ロシア民主共和国連邦に侵攻したことで発生した一連の軍事衝突である。
背景
東欧大戦で、
モスクワ軍政国は勝利こそしたものの、大きな被害をおっており当時のモスクワの軍政は東欧大戦後、急激に求心力を失っていた。そのため、当時のモスクワの指導部は求心力回復のための明確な戦果を欲していた。そこで、軍政モスクワの指導部は
東方戦争で成立したロシア民主共和国連邦へ侵攻・併合し、旧モスクワ帝国領の統一というこれ以上にないほどに明確な戦果を挙げ、求心力を回復させることを図った。
開戦
統一歴204年2月11日、雪もちらつく中でモスクワ軍はロシア民主共和国連邦との国境を越境、宣戦布告なしにロシア民主共和国連邦軍への攻撃を開始した。ロシア民主共和国連邦の指導部はこれに驚愕こそしたものの、その対応はいたって冷静なものであった。ロシア民主共和国連邦では攻撃開始後僅か1時間ほどで戒厳令及び総動員令が発令され、総動員体制へ移行した。
軍事衝突発生後
連邦軍の善戦と戦線停滞
侵攻開始後、得意とするAMUや豆戦車での電撃戦により民主共和国連邦北部をほぼ占領したモスクワ軍は、そのままロシア民主共和国連邦の首都であるヴォロネジの占領を目指した。が、モスクワ軍は東欧大戦でただでも無く軍が疲弊・弱体化していた上に、派遣された軍は東欧大戦末期の総力戦体制(通称:12月体制)の時に動員された訓練も終えていない未熟な学生兵ばかりであり、さらには士気も低い状態だった。そのため、本来圧倒できるはずのロシア民主共和国連邦正規軍相手に数・質で優っているにも関わらず、連邦正規軍の士気が高く、予想以上に善戦したのもありほぼ拮抗状態と化し、戦線は早くも停滞しつつあった。
不満の蓄積
本来1週間でロシア民主共和国連邦全土を占領できると考えていたモスクワ指導部は、戦線の停滞に大きな不満を持ち、さらなる戦力投下を行い、一気に全土を占領して遅れを取り戻そうとした。が、これに対して軍部は非協力的で、さらなる戦力投下は不可能だった。また、国民にも軍政府が「戦争をしたがる政府」として映るようになり、モスクワ指導部は現在の派遣軍のみでの戦争続行を行うしかなくなり、現地の派遣軍にも不満が蓄積した。
トゥーラ蜂起
そんな中で、不満を持つ国民やら軍部の一部は遂に暴発、トゥーラ州にて統一歴204年3月10日に軍部の一部が主導し武装蜂起が発生した。モスクワ指導部は寝耳に水の出来事でありモスクワ軍はそちらの対応に回らないといけなくなり、現地の派遣軍は補給も途絶え連邦正規軍相手に徐々に押され始めた。ほぼ全域を占領していたロシア民主共和国連邦北部も連邦正規軍に奪還されてしまった。武装蜂起自体は1週間もたたずに鎮圧されたものの、その間に現地の派遣軍は全戦力のおよそ4割近くを喪失することとなった。
終戦
全戦力のおよそ4割を喪失したモスクワ軍は、遂に撤退を開始した。連邦正規軍もそのままモスクワへ逆侵攻を行う余裕は無く、全土を奪還した連邦正規軍はモスクワとの国境部に展開し、第二波に備えたものの、すでにモスクワには継戦能力はなく、その心配は杞憂に終わった。3月22日には全てのモスクワ軍がロシア民主共和国連邦から撤退し、戦闘が停止された。
影響
この一連の戦闘の影響で
モスクワ軍政国の軍事政権の求心力はさらに低下し、また軍部内での対立も浮き彫りになった。これら一連の不安定化が、後に発生する
10月革命にも繋がっていくことになる。一方でロシア民主共和国連邦も国土に被害を出し総動員体制に一時的とはいえ移行したことで極右・極左が影響力を持ち、しばらくの間国内情勢が不安定な状態となった。
なお、この軍事侵攻をアークランドが後方支援していたとの噂があるが、真相は不明である。
最終更新:2026年01月26日 18:17