概要
10月革命とは統一歴204年10月12日から統一歴204年10月14日にかけて、モスクワ軍政国で発生したクーデター。別名、トゥーラ事変とも。
このクーデターをきっかけにそれまでモスクワを支配し続けてきた軍政は倒れ、第一帝政時代以来の君主制へと復古することになった。
背景
東欧大戦において、
モスクワ軍政国は大きな被害を出し、国民生活水準も著しく悪化した。しかしその結果としてハニカム公国率いる帝政枢軸同盟機構と事実上の引き分けに終わったことに対し、モスクワの軍事政権の求心力は急激に低下した。軍事政権は隣国でありアークランドとの戦争、
東方戦争で独立・成立した
ロシア民主共和国連邦に侵攻し、求心力の回復を試みたが、それも失敗に終わり、結果として軍事政権の求心力をさらに低下させることとなった。そんな中でモスクワでは軍事政権への不満が募るにつれ統一歴195年頃から長く続く軍政、ひいては共和制に対する疑問や不満も増えていった。そういった動きもあり統一歴204年の中頃になるとモスクワ内では極右政党で帝政復古を掲げる国家君主党が大衆の支持を集め、その支持者は軍事政権の支持者よりもはるかに多くなった。これに危機感を抱いた軍事政権は一党優位制の特徴を活かし、国家君主党の集会を妨害したりや国家君主党の要人の逮捕・暗殺、国民議会などや国営メディアでの弾圧など、多種多様な手で妨害工作を行った。しかしそれでも国家君主党の勢いは止まらず、統一歴204年7月に行われた通常選挙において、国家君主党が単独で国民議会の全議席の約46%を占めるまでに議席を増やした、はずであった。軍事政権により票数が偽装され、国家君主党は逆に国民議会での議席を失った。これに対し国民の不満は暴発、モスクワ各地でなんと総勢2000万人規模に及ぶ超大規模デモや約5000万人規模のストライキが発生、モスクワは急速に不安定化した。(9月革命)この革命は指導者がいなかった事、革命側勢力があまりにも貧弱すぎた事などから最終的に軍部によって鎮圧されたが、この鎮圧作戦も軍部の大半が拒否するなど、軍部・国民共に軍事政権に大きく不満を募らせていることが急激に表面化した。
革命の始まり
そんな中で、国家君主党は軍事政権に対抗するために軍部の反体制派を取り込み、私兵集団「帝国親衛隊」を結成した。統一歴10月10日には国家君主党要人による秘密集会が行われ、帝国親衛隊によるクーデターを行う事、決行日は10月24日とする事などが決定された。しかし軍事政権はこの動きを察知し、事前に革命の芽を摘むために行動を開始した。そのためクーデターの決行日は10月12日に早められ、帝国親衛隊を中心とする軍部の反体制派が10月12日にトゥーラ州を中心とする各地で武装蜂起し、革命が始まった。
革命の経過
各地で武装蜂起した反体制派は、本来であれば軍部によってすぐさま鎮圧されるはずであった。しかしながら軍部は、革命の鎮圧を拒否し、軍事政権の要望を一蹴、軍事政権は孤立した。また各地の国民も武装蜂起した反体制派軍を歓迎したため、急速に革命は広がりを見せ、10月13日の昼頃にはモスクワ領のほぼ全土が革命側勢力の手に落ちた。それでも軍事政権は抵抗し続けたものの、10月14日には首都モスクワの主要な政府関連施設は革命側勢力に占領され、軍事政権の幹部や国家軍事党の幹部・党員は拘束された。
軍事政権の終焉と新たなる政府
軍事政権の幹部や国家軍事党の幹部を軒並み拘束した国家軍事党は民主主義的な手続きに基づき国民議会・特別議会の双方を解散し、総選挙を行った。無論国家君主党は圧勝、得票率はなんと82.3%にも及んだ。民主主義を掲げる国家民主党や社会主義・共産主義系政党である国家労働党・人民連盟も議席を伸ばそうと試みたが国家君主党の圧倒的な支持の前に敗北、国家君主党が国民議会の議席の82%、特別議会の92%を獲得して第1党となった。国家君主党はすぐさま主要な法案を議会で可決させ、議会や政府機能を停止、国家君主党党首ヴァルター・フォン・パウルは帝政の復活を宣言し、軍事政権の終焉と帝政復古が行われ、
モスクワ第二帝政が成立した。
一方、軍事政権の残党や幹部の一部はエストニア諸島に脱出し、おなじく
ウクライナ蜂起で本土を喪失したアークランドに合流したり、
容赦なき憤怒作戦に参加するなど、様々な行動を起こした。
最終更新:2026年07月28日 00:47