東欧大戦


東欧大戦
The Easten War
  目次
  1.概要
  2.戦争の背景
  3.開戦
  4.開戦後の推移
  5.終戦
  6.影響

  概要
戦争: 東欧大戦
年月日: 203年1月4日 - 203年12月31日
場所: ハニカム公国東部、モスクワ軍政国西部、バルト海東部
結果: モスクワ軍政国の勝利(事実上引き分け)
交戦勢力
帝国枢軸同盟機構 モスクワ軍政国側
ハニカム公国 モスクワ軍政国
大オーストリア帝国 アークランド軍事統制国
モスクワ第二帝国亡命政府 聖オストン王国
ドイツ帝国
スカーレット王国(兵器提供)
SFM Co.
西アフリカ合衆国(支援のみ)
クリーニングラード青色評議会連盟
ネストニア共和国連邦
セレニア連邦王国(支援のみ)
ヴィルニア帝国(兵器提供)
東欧大戦は、主に東ヨーロッパ地域で行われたハニカム公国・大オーストリア帝国・モスクワ第二帝国亡命政府からなる帝国枢軸同盟機構と、モスクワ軍政国とその同盟国・支援国との間で行われた戦争である。(写真はモスクワ軍政国国旗)

  戦争の背景
統一歴202年9月21日15時19分。それはハニカム公国3代公王ベアード・サマーンが31歳にして寿命により息を引き取った時刻である。一匹の英雄王の死と共にその戦いは始まった。元々、ハニカム公国とモスクワ軍政国間では領土問題を抱えており、更にエクスノール爆撃事件の際のハニカム側の攻撃等が重なって起きたものであった。
ハニカム公国国旗

  開戦
統一歴202年1月3日、モスクワ軍政国とハニカム公国の国境沿いのコッカーブ州にて、ハニカムとの開戦の誤報を受けたモスクワ軍政国軍の部隊がコッカーブ基地を攻撃し多数の犠牲者を出す。その後互いの政府は誤報であった事を知り、72時間の停戦を盛り込んだ戦争条約を締結。これが後にコッカーブ・クライシスと呼ばれた戦いである。
ベアード・サマーン公王肖像画

  開戦後の推移
   地上戦線
条約締結から72時間後、ハニカム、モスクワ両国とも国境沿いに自国の陸戦部隊を集結させ、開戦。最初こそ自国の部隊による戦いにおいてハニカム公国軍が有利であったものの、モスクワ軍政国へ次々と同盟諸国の援軍や兵器提供により徐々に劣勢になっていた。1月上旬頃、西アフリカ合衆国セレニア連邦王国などは邦人保護の為、艦隊を送り出した。その後2月31日にはネストニア共和国連邦の第61師団3200名ほどの兵士が到着。翌週にSFM Co.から軽機砦部隊、歩兵師団機殻(AMU師団)、砲兵師団が戦場に投入。3月21日にアークランド軍事統制国から15の師団が次々と到着。それに続く形でアークランドに駐在していたクリーニングラード青色評議会連盟の第1独立機構化偶兵師団がアークランドの防衛に参加。また同じ頃、聖オストン王国から2個歩兵師団、2個機甲師団、砲兵師団、降下猟兵士団、2個試験大隊が到達した。一方ハニカム側の大オーストリア帝国は陸軍兵士3225名を派遣した。その後数で圧倒された公国軍はコッカーブ州から撤退をせざるを得ない状況となった。地上戦末期にはスカーレット王国ヴィルニア帝国から秘密裏に大型兵器がヨーロッパへと移送されたと言われている。これらの大型兵器により公国軍のAMU部隊は大きく消耗した。これが戦いを左右する決定打となった。戦いは1月4日〜7月上旬まで続き、追い詰められたハニカム公国側は衛星軌道上からの攻撃を主体とする事を発表した。そしてコッカーブ州を占領する形でモスクワ軍政国が事実上勝利した。
投降し拘束されるハニカム兵
   宇宙戦線
7月下旬から11月下旬地上戦でモスクワ軍政国とその同盟諸国に大敗したハニカム公国軍は、宇宙から直接モスクワ軍政国本土に攻撃を入れる事を計画した。それを止めるべく、モスクワ軍政国宇宙軍はやむを得ず地上軍の戦力を減らし本土防衛作戦に出ることとなった。宇宙戦では、ハニカム公国のポラリスエレクトロニクス宇宙前哨基地が重要な拠点となった。お互いに宇宙での戦いを援護する同盟国は少なく、ほとんどモスクワ軍政国宇宙軍とハニカム公国総合宇宙軍の一騎打ちとなった。9月23日にモスクワ軍政国側のSFMからI級砲撃型艦隊が3つ、I級機動型艦隊が2つの合計130隻が派遣された。四ヶ月間の戦いは膠着状態が続いた末に多くの犠牲者を出しながらもハニカム公国側が勝利し制宙権を得た。しかしながら戦力の大半を削られたハニカム公国軍は衛星軌道上での攻撃を断念した。そのころモスクワ軍政国では、同盟諸国の艦隊を引き連れ合艦隊がハニカム公国へ向けて続々と集結しつつあった。これを察したハニカム公国側も自国艦隊やノボリヴィーツ隊、陸軍の生き残り、同盟諸国の艦隊を引き連れて最終防衛海上要塞"フェルガド"で正面から迎え撃つ事が決定した。
ポラリスエレクトロニクス宇宙前哨基地
   フェルガド攻防海戦
1ヶ月ほど両軍には外国人、邦人保護の為に静寂があった。セレニア連邦王国の第二艦隊、第二海上戦闘群等がそれにあたる。そして遂に戦いの火蓋が切って落とされた。12月31日モスクワ連合艦隊の一斉艦砲射撃によりその静寂は破られる。聖オストン王国の第二、三艦隊やドイツ帝国の海兵旅団等などの支援に加え、その圧倒的な物量により、モスクワ連合艦隊はフェルガドの距離をどんどんと縮めていく。ハニカム公国第1〜7艦隊、大オーストリア帝国海軍ハニカム駐在艦隊、モスクワ第二帝国亡命政府艦隊からなる枢軸艦隊は自由射撃により、大きなダメージを与えるが追い詰められていった。両艦隊が近づいた所でハニカム枢軸艦隊は、大量破壊兵フレスト・レザーを使用した。これにより連合艦隊の旗艦を含めた約4割の戦力を沈めた。しかし、依然として枢軸艦隊は劣勢の状況であった。追い詰められた両軍は至近距離の艦砲射撃により決着をつけた。互いに9割以上の戦力を削ったものの、グレイヴォルフ連合王国の領海に侵入後、巡洋艦3隻を失っていたハニカム公国軍にとって厳しい戦いであった。その後フェルガドの大破によりこれ以上は戦えないと判断したハニカム公国軍が降伏し、終戦に至った。

  終戦
東欧の大戦は終結し、勝利したモスクワ軍政国であったが、現地のゲリラによる撹乱や戦後復興への集中などのためにモスクワはコッカーブ州を返還し、再度終戦条約を結んだ。その条項の中にはコッカーブ州等のモスクワとの国境線上の都市を非武装地帯とすることや公王に政治の実権を握らせる事はできないとのようなことまでも含まれていた。これによりハニカム公国は崩壊し、後のハニカム社会主義共和国連邦が台頭する基礎が出来上がったのである。一方、戦勝国側であるモスクワでも度重なる戦争によりただでもなく疲弊していたのに加え、今戦争が総力戦体制で行われ、生活水準が悪化するなど明らかに国民にかなりの負担がかかっていたにもかかわらず、結果が事実上の引き分けというのには国民の不満が爆発するのに十分であった。軍事政権は倒れ、モスクワもまた、新たな政府が樹立されることになったのだった。この東欧大戦中に起こった出来事を元にして作られた映画こそスティル・パーク監督の映画「東欧の冬景色」である。
戦場カメラマンにより撮られた大破するフェブ。モスクワ軍政国の勝利の象徴的な写真。



コメント

  • 👏 -- Dora (2025-10-19 05:49:41)
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最終更新:2025年10月19日 22:42