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System=話し合い
レグルス戦争
▶概要 中東を支配するレグルス帝国と、その侵略を受けたビュザンティウム連合、神聖ローマ帝国、ロシア社会主義諸国、
セントラル自由主義条約機構(CELTO)
間の戦争。開戦当時は地中海での戦争であったが、戦争中期にレグルス帝国がロシアに侵攻しそれに呼応する形で新大陸を拠点とするCELTOが介入したことで事実上の世界大戦となった。 レグルス戦争は144年1月15日のレグルス軍による
フランス帝国
・
モレラ共和国
の軍港に対する奇襲攻撃で開始された。開戦直後、レグルス軍は
トラキア・ローマ帝国
の植民地であった
尾鷲(エジプト)
を電撃的に制圧し、次いでギリシアに侵攻し長年の宿敵であったモレラを征服した。147年にはレグルス軍は突如としてロシア社会主義諸国へ攻撃を開始しモスクワ前面までを支配下に置いた。 このように開戦当初はレグルス側が優勢に戦いを進めたものの、陣営全体の総合的な国力で劣るレグルス軍は147年の終わりから徐々に防勢に転じ、各正面から圧迫を受けたレグルスは149年のレグルス本土決戦で敗北し無条件降伏した。レグルス帝国の崩壊によってOFCの凋落は決定的になり、後の仏連=celto戦争によるCELTOの没落と合わせて二大機構による対立構図は崩れ世界は多極化に向かって進むことになった。
▶参戦国 レグルス戦争ではレグルス帝国とそれに対抗する連合国陣営で争われた。レグルス帝国は
オストロアジア連邦共同体
に属していたが、加盟国の多くは間接支援にとどまり終戦まで直接介入はなかった連合国陣営はビザンティウム連合、神聖ローマ帝国、ロシア社会主義諸国、CELTOなどイデオロギー的に多様な国家の集まりだった。レグルス戦争中はこれらの国々は連帯を維持していたが、戦後は特にCELTO・フランス間で対立が起き、仏連=celto戦争に至ることになった。
▶戦争形態 新大陸のCELTO諸国や
シランナ社会主義連邦共和国
など一部を除き、多くの国の国土が戦場になった。参戦国のほぼすべてが国家総力戦体制を構築し戦争を遂行した。レグルス自身を含む周辺諸国はその全土が一時期占領下におかれることもあった。占領地では両軍とも残虐行為が頻発し、戦後も歴史問題として禍根を残している。
▶被害 統計には大きなばらつきがあるが、両軍合わせて軍人だけで1000万人以上、民間人を含めると4000万人以上が犠牲になったとされる。特に単独で戦争を遂行し本土決戦を行ったレグルスの死者は非常に多く民間人死者の2/3はレグルス帝国人である。 |
レグルス戦争 Regulus War |
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年月日:144年1月15日~149年5月12日 |
場所:欧州、大西洋、北アフリカ、西アジア |
結果:レグルス帝国の崩壊 |
交戦戦力 |
レグルス帝国陣営 レグルス第二帝国
レグルス領ルークリア
他 |
連合国陣営
フランス帝国
トラキア・ローマ帝国
最も高貴な共和国モレラ イットリカン民主主義国
月ノ谷共和国連邦
他 |
レグルス帝国陣営
レグルス帝国陣営は大戦中一貫してレグルス帝国とその支配下にあったレグルス領ルークリア、事実上の傀儡国であった南コーカサス連邦と国家社会主義ペルシアのみで戦争を遂行した。レグルス帝国は
オストロアジア連邦共同体
に加盟していたが、後述するように他の加盟国は消極的支援か中立にとどまり直接参戦は行わなかった。
中立国
連合国側の国々は同盟関係を履行してレグルスへ宣戦布告したが、反対にOFC諸国、つまり本来レグルス側に立つと予想された国々は全てが中立を保った。OFCの条文上明示的な参戦義務はなく、またOFC自体が参加国同士の不可侵的な意味合いが強い組織で加盟国には他国を支援するという意識が薄かった。しかしこのような態度はレグルス帝国や後の
舞羅帝国
の滅亡をみすみす許す結果になりOFCそのものの存在意義を揺るがす結果となってしまった。
レグルス戦争の戦域はアナトリア・バルカン戦線、北アフリカ戦線、ロシア戦線に大別できる。レグルス軍に対しアナトリア・バルカン戦域ではBU・HRE軍が、ロシア戦域ではロシア社会主義諸国が対峙した。北アフリカ戦線は開戦当初はBUの尾鷲軍が、レッドストーントーチ作戦以降はCELTO軍がレグルス軍と戦った。
この3つの主要な戦線のほかにも大西洋・インド洋でもレグルス軍と連合国軍が衝突した。
またレグルス軍の戦争計画の中には北米・南米・太平洋に対する侵攻計画も存在していたことが戦後明らかになった。
複数の国の全土占領を含む総力戦によって従来の戦争とは比較にならない軍民の被害が生じた。レグルス軍、連合軍の双方が戦略爆撃を行ったほか、レグルス軍と連合軍はそれぞれ地中海・大西洋と地中海・インド洋で潜水艦による通商破壊作戦を展開し多くの民間人が巻き込まれた。またレグルス軍は戦況が不利になるにつれて戦争資源の調達のため苛烈な搾取を行い、それに反発した民衆に対し占領地で大規模なジェノサイドを行った。
また戦争末期にはレグルス軍がNBC兵器を投入し、特に本土決戦では大量に用いられたため連合国の兵士だけでなくレグルス人も多くが犠牲になった。化学兵器と核兵器による汚染は戦後もレグルスの土地に残り戦後復興を難しいものにした。
レグルス戦争中は連帯を維持した連合国だが、戦後になるとそれらの枠組みはすぐに崩れ落ちた。連合国とは呼ばれていたものの、実際には雑多なグループの集合でそれらが連帯を保っていたのはレグルス分割までだった。特にこの戦争後CELTOとフランス間の関係は悪化の一途をたどり
仏連=celto戦争に帰結した。
この戦争によって国土が大きく荒廃し中央政府を失ったレグルスは戦後パレスチナやキプロスを外国に占領され、中央政府不在の無政府状態に突入した。この分裂状態は
再統一戦争、
第十一次十字軍、
第三次東地中海戦争を通し終戦から20年が経過した170年に至りようやく旧レグルス領全土が
新ソ連
の元に統一された。
144年1月14日、レグルス帝国はフランス・モレラ両政府に対しクレタ島の割譲を認めることを求める最後通牒を送付した。翌日15日、政府軍がテッサロニキ、トゥーロン、ブレストの軍港を攻撃しレグルス戦争が始まった。欧州の二大国家に加え強力な海軍国家を敵に回したレグルスの敗北は時間の問題であるとした当時の専門家の意見とは裏腹にレグルス軍は快進撃を続け、開戦僅か2か月でエーゲ海諸島、エジプト、アナトリア半島の半分を支配下に置いた。
145年、レグルス軍はクレタ島を起点にギリシア南部に上陸し橋頭保を築いた。モレラ軍を主体とするBU軍はギリシア奪回のための反撃作戦を行ったが、レグルス軍はこれを退けた。またアナトリア半島では多大な犠牲を背負いつつも物量による攻撃でレグルス軍はアナトリア半島を完全に攻略した。海上ではレグルス軍がジブラルタルを攻略し地中海の支配を盤石なものにした。
146年1月、レグルス海軍は昨年攻略したジブラルタルを起点に北大西洋に進出、フランス海軍を破壊するため北海に撤退する彼らを追撃したことで北海海戦が発起した。この海戦でレグルス軍はフランス海軍を破り制海権を握った。バルカン半島ではレグルス軍はアナトリアとギリシャの両方面からブルガリアを攻撃、前年の攻勢で疲弊したBU軍を破りトラキアローマ帝国首都ソフィアを攻略した。しかしトラキアは首都をベオグラードに移転し徹底抗戦を表明した。ここまでの激戦、特にアナトリア攻略戦によってレグルス西部方面軍は大きく疲弊しており、マケドニアの山岳地帯を突破する必要のあるベオグラードの攻略は翌年以降に回された。また146年後半にかけて、レグルス帝国では鉱物資源の不足が深刻化した。戦争に伴う莫大な金属需要にレグルスは自身のブロック経済圏だけでは戦争を維持できなくなっていた。またレグルスの財政も危機に陥っており、これまで戦勝による金準備の略奪・賠償金を頼りにしていた財政が進撃の停止によって破綻を目前にしていた。このためレグルス軍は鉱産資源に優れ略奪価値のある資産をため込んでいるロシア社会主義諸国への侵攻を決意した。
147年2月、レグルス帝国はボルシェヴィキの排除を唱え保護国であった南コーカサス連邦の国境から月ノ谷へ侵攻を開始した。(
蒼天作戦)これに応じて社会主義諸国と友好関係にあったCELTOがレグルスのこれ以上の拡大を阻止するためレグルス帝国に宣戦布告した。レグルス軍は当初キュリンシングラード、ヴォロネジを攻略し勢いに乗っていたが、11月に行われたモスクワの戦いに敗れ、同市攻略に失敗した。逆にモスクワの戦い後に行われた反撃でレグルス軍はモスクワ前面からの撤退を余儀なくされ、開戦以来初めての大きな敗北を喫することになった。また年末にかけて行われたCELTO海軍撃滅を狙って行われたカリブ海作戦でもレグルス軍は大敗を喫し制海権を失った。このためレグルス軍はCELTO軍の上陸が予想される北アフリカ全域に進駐した。
148年は連合国の本格的な反撃年だった。レグルス軍はベオグラードの攻略を目指し年始から攻撃を行いベオグラードを半包囲下に置いたが、増援に到着したシェラルド軍の側面攻撃を受け同市攻略部隊20万を失う大敗を喫し、続き行われた連合軍の追撃でバルカン半島戦線は瓦解し年末までにレグルス軍はバルカン半島の大半のみならずアナトリア西部まで失った。CELTO軍はレグルス軍の予想通り北アフリカ、モロッコへ攻撃を行った。カナリア諸島沖海戦でレグルス機動艦隊を撃破したCELTO軍は長く貧弱な補給にあえぐ脆弱なレグルス軍を排除し東進を開始した。ロシアでも連合国による大攻勢(
バグラチオン作戦)が行われ、レグルス軍は主力の8割を失いボルガ・ドン川まで押し込まれた。年末にはレグルス軍がロシア連合軍を排除すべく局所的な反攻を行ったが無駄に戦力を失う結果に終わった。
このような情勢下でレグルス国内では経済・人材の戦時動員が進み国民生活は窮乏した。またインド洋で開始されたCELTO軍の通商破壊やレグルス本土への爆撃は確実にレグルス帝国の戦争継続能力を破壊した。レグルス内部の反体制派は「白いオーケストラ」を結成しクーデターを起こしたが(ワルキューレの夜)、失敗しレグルス国内の反体制派は一掃された。また占領地ではクーデターに伴う親衛隊の地位向上や苛烈な搾取に対する市民の抵抗への報復でより過酷な占領政策がとられるようになった。
149年になるとレグルス首脳部は決定的な敗北を意識し始めたが、総力戦となったこの戦争はもはや止めることはできなかった。レグルス政府は少しでも有利な講和を引き出すためレグルス本土での決戦を志向した。149年2月にレグルス本土決戦が開始され、レバノンからBU軍が、アナトリアからHRE軍が、パレスチナからCELTO軍が、クルディスタンから赤軍がレグルス本土に流れ込んだ。レグルス軍はNBC兵器を大量使用し老若男女問わず動員し最後まで抵抗したが、4月30日に総統ギース・クロムウェルが自殺、翌月12日にレグルス帝国は無条件降伏した。
二度の地中海戦争
戦争の直接の原因となったレグルスとモレラ間の対立は両国の建国直後までに遡る。ほぼ同時期に成立した両国だったが、レグルス国は建国から地中海への野心を示しモレラ国にクレタ島の租借を要求した。レグルス国にとって中央地中海に進出する拠点たり得る同島は、モレラ国にとってはアジア・アフリカからの侵攻を阻止する防波堤であり、当然これは受け入れられず両国の関係は悪化した。その後レグルスは世界最強の国家と名を馳せていたヒトラントに接近し、一方でモレラ国は欧州地域に接近した。対立から8年後、十分に戦力を整えたと判断したレグルス国は最後通牒を布告、
第一次東地中海戦争が開始された。しかしこの戦争でモレラ国の陸軍、レグルス国の海軍双方が甚大な被害を受け戦争は千日手に突入、なし崩し的に戦争は終結した。それから10年後、軍事力を飛躍的に増大させたレグルス国はリベンジを狙いモレラ国に再び侵攻、
第二次東地中海戦争が開始された。この戦争はレグルス国の優位に進み、念願のクレタ島を遂に征服した。しかしレグルス国の国家予算が破綻を目前とした事、モレラ側同盟国として参加していたシェラルド本国への侵攻が困難な事から戦争は終結、レグルス国はドデカネス諸島を獲得するも本命のクレタ島は得られず、一方でモレラ国は領土を奪われ双方共に不満を抱く結果となった
国際金融危機
第二次東地中海戦争終結とほぼ同時期、極東の中華連邦では
東トルキスタン紛争からの復興需要に伴うバブル景気が起こっていた。投資は増加の一途をたどり、海外投資家もこぞって投資を行った。レグルス帝国も同じOFC加盟国である中華に対する投資として資金投下を行っていたが、フランスも投資を行ったことで両国間の投資競争が発生した。しかし両国の官製投資にとどまらず、投資家の資金投下は既に実態をはるかに上回っていた。景気を保証していた地価はある時期を境にピークを迎え、その後下落した。結果として住宅ローンは不良債権となった。その後もローンの供給は続いたが、137年1月、遂に証券の暴落が発生した。中華連邦は未曽有の恐慌に対応できず、世界各国で連鎖的に恐慌が発生していた。中でもフランスと競うように投資を繰り返していたレグルスの損害は直接的な損害だけで6000億ドルに達し、その後の恐慌によるGDP減衰を含めると実に1兆円以上の資産が失われた。
国家社会主義政権の発足
第二次東地中海戦争の不満とレグルスを襲った恐慌は国内での急進派の伸長を招いた。国内最大の企業REPインダストリアルの破綻を許すなど恐慌に何ら手を打てなかった政府は崩壊し、代わって
クロムウェル政権が発足した。クロムウェルは統制経済と強力な指導体制確立を掲げ、
国家社会主義化を推し進めた。強力なリーダシップの確立を標榜していたクロムウェルは圧倒的な民衆の支持を背景に自らの独裁体制を完成させた。従来強力だった大統領の権限はさらに強化され、更に儀礼職であった首相職を統合してクロムウェルは
総統を名乗った。
政権は半官半民であった従来の混合経済を完全な計画経済へ転換した。全ての企業・事業体は国営化され、合理化のため強引に統廃合が推し進められた。しかしこれらの計画経済は、当初こそ成功を収めたものの、レグルス経済圏がアウタルキーを確立し広大な市場を持っていたにもかかわらず、間違った経済政策が行われたことで失敗し経済は停滞を続けた。
レグルスの拡大政策と孤立
経済政策に失敗したレグルスは国内の不満を外に向けるため度々対外戦争を行った。
アフリカ大戦、
トランスコーカサス戦争はその代表的なものである。これらの領土拡張戦争は
ニューイングランド事変を除き概ね成功に終わったが、その結果レグルス帝国は国際的な孤立を深めた。これによってレグルス経済は外国から隔離され更に低迷した。
また戦争のためレグルス帝国では軍事費が浪費され放漫財政となっていた。経済成長もないままに債務残高は拡大の一途を辿り、破綻のリスクを粉飾決算で誤魔化している状態であった。レグルス帝国が国家財政の破綻と経済崩壊を回避するために取れる手段はドラスティックな軍縮か他の地域から略奪する以外になかった。そしてレグルス帝国の首脳部は国民と、戦争の中で影響力を拡大していく軍部の機嫌を損ねないために後者の選択を取らざるを得なくなっていた。皮肉にも度重なる勝利がレグルスを破滅に導いていたのである。
レグルスが孤立を深めると、反対に反レグルス諸国は徐々にその結束を強めつつあった。レグルスが世界中の戦争で勝利し『世界の敵』と見なされるようになると、それまで対立していた
CELTO
、
神聖ローマ帝国、
ビュザンティウム連合
は接近を強めた。このレグルスを抑止するための包囲網はレグルス指導部の危機感を煽り、却って双方にとって破滅的な戦争へ突き進ませた。
コレク覚書
143年9月20日、クロムウェルは国内の経済不況とレグルス包囲網を打ち破るための全面戦争を決意し、コレク山に存在する自身の別荘に閣僚を呼びつけ秘密会議を開いた。そこでクロムウェルはモレラとそのバックにある
トラキア・ローマ帝国
との戦端を開くという自身の考えを示した。この構想に対する閣僚の考えは概して好意的であったが、エレヴァン・ドッジ経済相を始め少数の閣僚からは反対を受けた。またオスカー・レーデルン外務相はBUへの全面攻撃はHREの介入を確実に招くと指摘し、クロムウェルを含む出席者の大多数の同意を得た。
この会議によってレグルスはBUとHREに対する全面戦争に向けた動きを始めた。軍事的には国内軍の動員を準備し、内政面では会議で開戦に反対したドッジら非戦派を政府から排除し戦争に向けた政府の統一を目指した。
このコレクで行われた会議の内容は機密事項とされ議事録なども作成されなかったが、152年にクロムウェル自身が作成したメモが総統官邸の地下室から発見された。このメモは
コレク覚書としてレグルス戦争開戦に関わる一級の歴史史料として扱われている。
グリフォン作戦
144年1月13日、レグルス政府は
フランス帝国
・
モレラ共和国
に対しそれぞれ
アナトリア
・クレタ島からの撤退を求める外交声明を発した。声明の中でレグルスは軍事力の行使を仄めかす表現を用いていたが、仏希両政府はレグルスから同様の外交声明が以前から度々行われていたためにこれをデモンストレーションに過ぎないと見なして黙殺した。
15日早朝、レグルス空母機動艦隊がブレスト・トゥーロン・テッサロニキ(サロニカ)の軍港を襲撃した。この攻撃はレグルスによる宣戦布告前に行われた国際法違反の奇襲攻撃であった。この攻撃によってフランス地中海艦隊は壊滅、フランス大西洋艦隊とモレラ主力艦隊も半壊と言って良い大損害を負った。この大戦果によってレグルス帝国は開戦から4年間地中海における絶対的制海権を確立することになり、以後の海上機動作戦を可能にした。また大打撃を受けたフランス大西洋艦隊のブリュン提督は独断で艦隊を北海沿岸のフレンスブルクに後退させた。この行為は敵前逃亡ではないかと問題となり、ブリュンは軍法裁判に掛けられた。最終的にブリュンは有罪とされ大西洋艦隊司令官の地位を解かれたが、それまでの間フランス大西洋艦隊はフレンスブルクから身動きできなかった。
宣戦布告のない奇襲攻撃を長年の仇敵レグルスが行ったという事実はモレラ国民を沸騰させ、反レグルス感情はごくダイに達した。モレラ政府は「卑劣なだまし討ち」としてこの攻撃を非難し国民の戦意を高めた。その一方で度々海軍の敗北を経験し、戦争にも慣れ切っていたフランス市民はそれほど反応を見せなかった。
攻撃から遅れること2時間後、レグルス帝国政府はフランス・モレラ、及びトラキア・ローマ帝国に宣戦布告を通達し、正式に戦争状態に入った。
エジプト戦線
海上の奇襲攻撃から僅かに遅れてレグルス帝国は地上作戦を開始した。レグルス陸軍の第一の目標は当時トラキア領で、軍事上の要地でもある
エジプト(尾鷲)
だった。エジプトがレグルス帝国によって侵略されるのは
アフリカ大戦以来、僅か5年ぶりの事だった。
先の占領の傷が癒えないエジプトの侵攻に対する備えは不十分と言うほか無かった。一植民地に過ぎないエジプトの復興に対する本国からの援助は十分ではなく、まして軍の再建は遅々として進んでいなかった。かといってトラキア帝国は先の大戦でエジプトが即時陥落した経験からエジプトの本格的な防衛は不可能と判断しており、増援を得ることもできていなかった。
十分な準備ができないエジプト軍の防衛戦略は先の大戦と同じ狭隘なシナイ半島国境での防衛を踏襲した。国境周辺での防衛であればエジプト軍は先の大戦で使用された陣地を再利用することが可能であったからである。エジプト軍は数少ないリソースを陣地の要塞化に注ぎ、
クレオパトラ線と呼ばれる要塞陣地を築いた。クレオパトラ線にはエジプトが再建した最良の部隊が配置された。しかしながらそれがエジプト軍の総力であり縦深防御は一切なされていなかった。
開戦から30分後の現地時間朝7時40分、レグルス軍は作戦計画オベリスクを発動しクレオパトラ線への攻撃を開始した。レグルス軍はエジプト軍の防衛体制を高い精度で認識しており、機甲師団による機動戦によって戦線を崩壊させることを企図した。レグルス軍は第一装甲集団とジェット機を含む第二航空艦隊という精鋭部隊をを投入し北方から戦線突破を目指した。
突破に先立って、レグルス軍は要塞線に対して激しい重砲爆撃を加えた。西方方面軍司令オリエランテ元帥の指示によって開戦前から65cm自走砲、80cm列車砲、83cm超重自走砲といったレグルス中の重砲・攻城砲がかき集められ、要塞線破壊のために投入された。
これら重砲によって開戦と同時に行われた3時間の砲撃で投射された火薬量は小型核兵器に匹敵した。当該エリアで最も堅牢といわれた
「ガイウス・ペトロニウス」重トーチカが土台を残して消滅させるなど空前絶後の規模の集中砲撃によってレグルス軍は突破口を切り開いた。なおペトロニウストーチカの土台は現在も残っており、周囲に未だに残る砲弾クレーターと共に当時の砲撃の凄まじさを体感する事ができる。
6時間の砲撃で要塞線に穴をあけたレグルス軍は前進を開始した。エル・アンダイエン中将率いる第一装甲集団は2日で180kmを踏破しシナイ半島を横断、3日目にはスエズ運河東岸を占領し、クレオパトラ線に立てこもる尾鷲第一軍以下シナイ半島の尾鷲軍12万を包囲下に置いた。
第一装甲集団は包囲網の殲滅もそこそこに、航空輸送で渡河機材が輸送されると1月21日にスエズ運河の渡河戦闘を開始した。後方に呼び戦力として配置されていた尾鷲第三軍の砲兵部隊がこれを阻止すべく射撃を加えたが、位置を晒したところでレグルスの急降下爆撃機の餌食となった。
22日の午前中には第一装甲集団の先遣隊が運河西岸に橋頭堡を形成、当日中に第一装甲集団の過半は運河を渡った。アンダイエン中将は渡河成功の報を聞いて「これでこの(エジプト)戦役は終わったようなものだ」と述べたと言われている。
実際レグルス軍がスエズ運河を渡河したあとに尾鷲軍はほとんど抵抗することができなかった。第一装甲集団はアフリカ大戦時の地図を元に縦横無尽にナイル平原を蹂躙し、尾鷲軍をバラバラに切り刻み殲滅した。第一装甲集団の進撃を阻むものは兵站とナイル川だけであった。
それでも第38空挺師団の降下作戦により27日にカイロが、第1装甲師団によって29日にアレクサンドリアが相次いで陥落し尾鷲の統治機能は崩壊した。エジプトの主要都市が東北部に密集していた事による悲劇だった。尾鷲の首脳部はトラキアローマへの空路での逃亡を企図したが輸送機が空襲で撃破された事で断念、サハラ砂漠に撤退し遊牧民と共に終戦まで遊撃戦を展開した。2月11日に第一装甲集団が尾鷲最南端の都市アブシンベルを攻略したことでエジプト戦役は終結した。
レグル軍は尾鷲市民に歓喜の声で迎えられた。尾鷲にとってレグルスはかつての同盟国で、レグルスは大多数の市民から解放軍として扱われた。しかし尾鷲市民の期待に反して、レグルスはエジプトを独立させるつもりはなかった。作戦終了後、レグルスは尾鷲に残っていた親レグルス派の尾鷲人を集め尾鷲国民政府を組織し、国民政府と休戦交渉を行った。休戦交渉は一方的なものであり、レグルスに有利な条件が押し付けられた。
この第三次レグルス=尾鷲休戦協定の発効により形式的に尾鷲は主権を回復したが、依然として尾鷲の全域にはレグルス軍の駐屯が行われた。更にシナイ半島とスエズ運河はレグルス領に編入され、シナイ大管区とスエズ帝国特別直轄区が置かれた。
加えて尾鷲には「同時に休戦協定の遵守を監視する」機関としてナイル総督府が設置された。ナイル総督府はレグルスによる事実上の占領統治機関であり、尾鷲国民政府はナイル総督府の「勧告」に従わなければならず、植民地支配の継続を意味するものでしかなかった。総督府の統治は当初こそレグルスと尾鷲の統合を目指し穏健な策がとられていたが、戦局が逼迫するにつれて次第に苛烈なものとなり、尾鷲人のレジスタンス活動を招いた。
アナトリア戦線
エジプト戦線とともにレグルスが抱えた戦線がアナトリア戦線である。レグルスと長年敵対していたフランスはこの地に多数の有力な部隊を配備しており、攻略には困難が予想された。そのためレグルス軍は北方戦線軍として100万を超え
兵力を配備して縦深攻撃によってこの戦線を破壊せしめることを企図した(
フォーマルハウト作戦)。
エジプトの戦いと同様重火力投射によって始まったアナトリア戦線ではレグルス軍の大攻勢が発起した。レグルス軍はアナトリア東部の占領を意図して強引に戦力を前進させた。しかしフランス軍の初期の奇襲からの立ち直りは早く、フランス軍は山岳地形を巧みに生かした防御陣地を形成しレグルス軍を効果的に迎撃した。レグルスの第一次攻勢はこの防御戦略によって頓挫し、国境から150km前進したところで攻勢限界を迎えた。
アリアドネ作戦
グリフォン作戦で地中海の制海権を握ったレグルス軍はクレタ島へ部隊を進めた。クレタ島は言わばモレラ本土を守る楯であり、第一次東地中海戦争以来レグルス・モレラ間で争奪の対象となっていた。そのためモレラはクレタ島の防御を厳重に固めており、侵攻してきたレグルス軍との間で激しい戦闘が行われた。レグルス軍はこの作戦に第一海兵隊師団と第二空挺師団、親衛隊第十七上陸猟兵師団を投入し、対するモレラ軍は2個師団を投じて防衛に充てた。
上陸に先んじてレグルス軍は作戦の障害を排除するため艦隊をクレタ島へ派遣した。モレラ軍司令部は崖を利用した水雷艇基地に隠していた魚雷艇を投入して艦隊の撃退を図った。しかし作戦前に行われた航空戦による消耗でエーゲ海上の制空権はレグルスに握られており、これら水雷艇の攻撃はロードス島から発進したレグルス空軍に阻まれて有効な迎撃ができなかった。レグルス艦隊は島に確認されたトーチカ・魚雷艇基地を破壊したが後の降下作戦で利用するため飛行場の破壊を行わなかった。
上陸の準備を整えたレグルス軍は1月27日にクレタ島南東部のメッサラ平原に海兵師団・上陸猟兵師団を上陸させた。上陸部隊の目標は島東部、特に最大の都市であるイラクリオンの占領であった。レグルス軍は航空優勢と海上の支援を得て前進したが、地形を知悉したモレラ軍は頑強に抵抗した。島全体の標高が高く支援攻撃の効率が低下したことや、モレラ軍がレグルス軍の上陸箇所を正確に予測していたこともレグルス軍の侵攻を妨げた。レグルス軍は当初3日で島全体を占領する予定であったが、2日目に至ってもイラクリオンにすら進出することができていなかった。
このスケジュールの遅れを憂慮したサイアム・オリファン少将は予備戦力である第二空挺師団を投入することを決断した。空挺師団は上陸部隊がその目的を達成できなかった場合島東部のマレメ飛行場に降下する計画であった。
師団は1月30日午前8時にマレメ飛行場への降下を開始した。師団は通常のパラシュート降下に加え飛行場へのグライダー降下を実施した。しかしこの攻撃は第二次東地中海戦争で同様の作戦計画が用いられていたことからモレラ軍の激しい対空砲火・砲撃に晒された。降下部隊は辛うじて飛行場を確保したが、降下時の脆弱なタイミングを狙われたために多大な損害を負った。一説によれば降下開始からわずか3時間で降下部隊の半数が死傷したとされる。
この大損害を伝えられた司令部は大変なショックに襲われ、攻略作戦そのものの作戦失敗すら囁かれた。焦燥に駆られたオリファンは降下部隊の支援のために気化爆弾を使用することを命じた。命令によって爆装したMe-262の編隊がロードス島から発進し、午後12時20分に相次いで爆弾を投下した。この時使用された気化爆弾は石炭粉・液体酸素を利用した原始的なものだったが、飛行場を包囲するように展開していた歩兵・砲兵部隊に絶大な威力を発揮した。5発の気化爆弾によって核兵器が使用されたかと誤認されたほどの爆轟が生じ、空港周辺に展開していたモレラ軍2個連隊が壊滅した。しかしこの攻撃によって周辺家屋・民間人にも被害が出ただけでなく、飛行場のレグルス兵にも損害が出た。
脅威を排除したと判断した司令部は飛行場に対し輸送機による補給を開始した。この輸送機は大した抵抗もなく飛行場に到達し、空挺戦車を含む有力な部隊を展開させることに成功した。師団はハニアの港湾を確保するため東進を開始した。
気化爆弾による大損害を受けたモレラ軍は急遽島に増援を送ることを決定した。増援として3個旅団が編成され、徴用された漁船を含む急造の船団でイラクリオン・ハニアに向け2月2日の夜にアテネを出港した。護衛として旗艦サイレンを含む2隻の巡洋艦と5隻の駆逐艦が付いた。
船団は発見を避けるため海岸沿いを南下したが、スペツェス島沖で船団はクレタ島の海上封鎖を行っていたレグルス第17水雷戦隊に発見・通報された。同戦隊は夜闇に紛れ船団を追尾し、アルゴリス湾の外で攻撃を仕掛けた。同戦隊は僅か3隻の駆逐艦からなる小規模な艦隊だったが、夜間水雷戦を得意とするレグルス艦隊は鈍足の船団を護衛しなければならない護衛部隊を翻弄した。17戦隊は全艦どこかしらに被弾したものの撃沈艦はなく、対してモレラ艦隊は砲戦によって駆逐艦1隻、雷撃によって巡洋艦1隻を失った。
またこの戦闘で船団は大きく散開し、すぐに再集結できたのは船団の2/3にとどまった。残り1/3は再集結を行うには散りすぎていたため各自で島へ向かうことになったが、多くは夜の間にレグルスの小型潜水艦部隊に撃沈された。
船団は当初は夜明けまでにクレタ島に到着する予定であった。しかし17戦隊の攻撃によってスケジュールが乱れたことで船団はクレタ島目前で夜明けを迎え、それと同時にレグルス空軍の激しい攻撃を受けることになった。この攻撃で船団は壊滅し、作戦は中止された。
この増援作戦の失敗はクレタ島保持は困難であるとモレラ軍司令部に印象付けることになった。そのため司令部は本土決戦に備える方針を決定し、事実上クレタ島を見捨てた。この決定は島の守備隊にはひた隠しにされ、この作戦以降も駆逐艦や潜水艦を用いた補給・増援が細々と送られ続けたが、クレタ島防衛の司令官ザホス・ペトロス将軍から要請された大規模な援軍が送られることはなかった。
増援・支援の欠如にも関わらず、クレタ島守備隊は良く抵抗した。クレタ島を東西に走る山岳地帯はそれそのものが地形的障害として機能するだけでなく、そこに築かれた坑道陣地は難攻不落の防衛拠点として機能した。レグルス軍はこれを火炎放射器を用いて排除していったが、内部で連絡された地下通路によってその効果は大きく提言した。
また民間人のレグルス軍への抵抗も起こった。モレラでは反レグルス感情が根強く、島民も武器を取って抵抗に参加した。モレラ政府が戦前からレグルス軍の侵攻を予期して島民の軍事訓練と武装化を施していたため、これらの抵抗は極めて激しいものになった。レグルス軍はこれらの民間人レジスタンスを非合法と断定し即決裁判や報復としての虐殺を伴う苛烈な対応を行った(実際には彼らの大半はモレラ軍の腕章を身に着けていたため戦時国際法内の保護対象であった)。また彼らの抵抗を目撃したレグルス軍はノウハウをレグルス本国へ持ち帰り、後の本土決戦では民間人の大量動員が行われる要因の一つになった。
しかしこれらの妨害も空しく、モレラ軍はレグルス軍の攻撃の前に徐々に後退を余儀なくされていった。徐々に物資が欠乏していくモレラ軍に対し、レグルス軍は十分な補充を受け支援も万全であった。レグルス軍は比較的地形の平坦な海岸沿いを進出し、万力のように島を東西から締め上げていった。
2月19日に激しい市街地戦の末にハニアが陥落すると西部の戦線にほころびが見え始めた。東部でモレラ軍の戦線突破に失敗し続けていたレグルス軍は確保したハニアの港湾から増援を送り込み西部からの圧力を高めた。モレラ軍も同じく戦力を東部に送って対抗したが、一度動いた戦線を止めることは難しかった。レグルス軍はじりじりとではあるが戦線を東へ東へと押し込んでいった。
3月2日、レグルス軍は占領したモレラ軍陣地で地下陣地の構造図を発見した。これはモレラ軍が破棄するのに失敗したもので、旧版であったため新造の坑道は未記載ではあったが、司令部・弾薬庫などの重要構造物の情報がレグルスに渡った。レグルス軍はこの情報に従い、3月6日、東部モレラ陣地の地下弾薬庫に対し10トン徹甲爆弾を投下した。爆弾は山岳地盤を20mに渡って貫通し炸裂した。爆弾自体は弾薬庫まで貫通することはなかったものの、爆発の衝撃によって坑道そのものが歪み、一部坑道は崩落するに至った。この崩壊は少なくない将兵が生き埋めにしただけでなく、レグルス軍の攻撃を一か月以上にわたって押しとどめ続けていた陣地への地下連絡路を寸断することにもなった。この陣地は7日中に放棄され、展開していた部隊は夜間に脱出することに成功はしたものの、戦線に大きな穴をあけることになった。
3月10日、東部に展開していたレグルス軍が当初の攻略目標であったイラクリオンに達した。イラクリオンでは激しい市街地戦が繰り広げられ、モレラは軍民問わず激しく抵抗した。しかし22日に西部から進出したレグルス軍もイラクリオン攻撃に参加するようになり、モレラ軍はイラクリオンを放棄した。
イラクリオンを放棄したモレラ軍はその後も抵抗を続けたが、物資の払底によってその能力を失っていった。イラクリオン陥落直後の24日にはペトロス将軍がレグルス空挺兵によって捕虜にされており、モレラ軍の指揮統制は急速に失われた。一般にクレタ島におけるモレラ軍の組織的抵抗は4月を目前にした3月29日の司令部玉砕で終了したとされる。
しかしながら、組織的抵抗が終わった後もパルチザンや2000人以上に及ぶ残存兵士による抵抗は続いた。これらレジスタンスにとってクレタは依然秘匿された山岳陣地や協力的な市民の民家など隠れ家に困らない理想的な環境であった。これにレジスタンス対してレグルス軍は手を焼き続け、度々掃討戦を行ったが完全に鎮圧することはできなかった。
またレグルス軍はレジスタンスに関与したとして集団処刑を繰り返したが、これはレジスタンスを増加させるだけであった。しかしその占領末期、占領行政の担当が軍から親衛隊に代わると親衛隊はさらに苛烈な手段を講じた。親衛隊は街規模での集団処刑を行い、解放されるまでの僅か2か月半で23000人以上を殺害した。
またクレタ島は戦争末期に連合国によって解放されたが、この際逆に降伏を免れたレグルス兵が山岳陣地に身を隠し終戦まで抵抗を続けた例がある。
エーゲ海の戦い
クレタ島の陥落はレグルス軍に対してモレラ本土侵攻の可能性を開いた。当初の戦争計画ではモレラ本土侵攻はアナトリア侵攻終了後に行う予定であったが、アナトリア戦線が停滞していたためこの計画は破綻した。しかしクロムウェルはモレラ侵攻を強硬に主張した。クロムウェルはモレラ本土に侵攻することでアナトリアの部隊を引き付けることができると主張したが、実際にはモレラへの『復讐』が目的であることは明らかであった。軍司令部は転用できる戦力はエジプト侵攻に参加した部隊のみで戦力不足であること、モレラ人の激しい抵抗が予見させること、戦力誘引だけならアナトリアへの海上侵攻で十分達成可能であることを指摘し反対したが、最終的にクロムウェルが意見を押し通した。
モレラ本土侵攻に先立ってレグルス軍はエーゲ海の小島嶼を制圧する必要があった。これらの島々はモレラ軍の航空機・魚雷艇・潜水艦の秘密基地になっており、これらの部隊によってモレラ本土侵攻の際に側面を突かれる恐れがあった。レグルス軍はこの作戦にコード『プレアデス』を割り当て、クレタ島侵攻に参加した部隊を充当した。
エーゲ海諸島に対する最初の侵攻は144年8月9日に開始された。最初に攻撃目標となったのはキクラデス諸島南部の
アナフィ島
であった。同島はクレタ島陥落以降エーゲ海南部におけるレグルス軍監視の拠点となっていたが、島にはほとんど守備隊がいなかったため3時間の戦闘の後に降伏した。モレラはこれらの島嶼を防衛することはできないと判断しており、長期にわたってこれらの諸島を保持する意図はなかった。
アナフィ島陥落をきっかけに、8月中旬から9月下旬にかけてレグルス軍はエーゲ海諸島各地に侵攻した。モレラ軍守備隊は殆どがクレタ島の陥落に前後して本土に撤退していたため戦闘らしい戦闘は起こらなかった。しかしクレタ島の戦いで現地住民の抵抗に敏感になっていたレグルス軍は無抵抗の住民に対する虐殺を度々引き起こした。
またエーゲ海諸島の完全放棄はアナトリアに展開するフランスの抗議に晒された。エーゲ海諸島からの撤退はレグルスから秘匿するため同盟軍にも秘密に行われたため、フランスはアナトリアに近い島々は当然モレラ軍によって防衛されているものだと考えていた。しかし8月31日に一夜にして
ヒオス島
が陥落するとアナトリアのフランス軍司令官ポール・ラファエル将軍はショックを受け、コンスタンティノポリスに直接乗り込んで事態の説明を求めた。そこでモレラは初めてフランスに対しエーゲ海諸島から部隊を引き上げさせたことを明かした。ラファエルはエーゲ海諸島が陥落すればアナトリア戦線の後方を晒すことになるとして撤回を求めたが、モレラ側は応じなかった。憤慨したラファエルはフランス軍を依然健在な
レスボス島
に進駐させることを命じ、モレラ側はこれを黙認した。しかしながらこの動きはロードス島の航空部隊によって発見され、激しい抵抗を受けた。アナトリアと島の間の10kmに満たない短い海峡はレグルスの急降下爆撃機の狩場になり、12隻の船舶が撃沈・撃破され2000人以上の将兵と多数の重装備が失われた。
9月21日、第一海兵師団の2個連隊がレスボス島に侵攻した。フランス軍は僅かな兵士と未知の地形、その場しのぎの陣地で対抗しなければならなかった。戦闘はレグルス軍に圧倒的に有利に進み、フランス軍は壊滅的な損害を被った。フランス軍は対岸からの重砲支援の下で夜間に脱出した。
エーゲ海諸島における戦いは9月27日に
サモトラキ島
の守備隊が壊滅したことで終了した。
エーゲ海諸島の放棄を進めるモレラ軍はその一方でテッサロニキからの艦隊脱出を図る
チャレンジャー作戦を実行した。
黒海艦隊・
地中海艦隊はグリフォン作戦以降テッサロニキにとどまっていたが、クレタ島の陥落によってエーゲ海に閉じ込められていた。これらのエーゲ海に展開した艦隊は合計で200隻に迫る大艦隊であったが、グリフォン作戦によって損害を受けており戦闘力は隻数ほどのものではなかった。モレラ海軍はエーゲ海諸島の放棄と来るレグルス軍の本土侵攻によってこれらの艦艇が拿捕・破壊されることを避けるためトラキア領モンテネグロに脱出させることを決定した。
この作戦はトラキア・モレラ間の協議の末9月中旬の実行が決定され、
トラキア地中海艦隊旗艦
トライヤヌス・オプティムス・プリンケプス以下12隻の艦艇も参加するものとされた。しかしモレラ海軍は戦艦の機関復旧の遅れを理由として作戦実行を後倒しした。
最終的に3回にわたる作戦の遅延の末、作戦実行は11月16日にずれ込んだ。この日が選ばれたのは天気予報が大雨で艦隊行動を隠蔽できるとともに、レグルスの攻撃機を避けることができるからであった。艦隊は朝7時5分からモレラ海軍の重巡エクリプスを先頭にサロニカの軍港を出港した。
こうしたモレラ・トラキアの大規模な艦隊行動の予兆はレグルス諜報部・海空軍も知るところであった。しかしながらレグルス軍司令部は陸軍に大きな動きがなかったにもかかわらず、クレタ島に対する大規模反攻の予兆であると断定した。レグルス軍はエーゲ海諸島に展開した陸軍をクレタ島に差し戻し、主力艦隊をロードス島に展開した。レグルス軍は戦前からの計画の下で漸減要撃作戦を展開する予定であった。
しかしながら、これら主力艦隊はエーゲ海を南進した後に西進、
キティラ島
北部の海峡を突破して大きな妨害なくアドリア海へ脱出した。レグルス軍が事態を把握したのは艦隊の半数以上がエーゲ海を突破した後のことだった。クロムウェルは即座に追撃を命じたが、悪天候のため航空機は出撃できず、ロードス島の艦隊は追撃を行うには遠すぎた。
この作戦によってモレラ・トラキア両国はエーゲ海・黒海の主力艦隊を保全することに成功した。しかしその一方でエーゲ海の制海権は完全にレグルスの握るところとなった。またこれらの艦隊は後に行われたアドリア海の機雷封鎖によって戦争後期まで身動きを取ることができなくなり、作戦の成果は損なわれた。
一方レグルスではみすみすモレラの大艦隊を取り逃がしたことで軍の責任問題に発展した。海空軍・諜報部はお互いに責任を擦り付けたが、クロムウェルは海軍の責任が最も大きいと判断した。実際モレラによるクレタ島奪還作戦があると判断したのは主力艦隊司令官である
アポリー・ウルブリヒト大将であった。ウルブリヒトは即座に艦隊司令官を解任された上でクロムウェルの命令によって軍法会議に掛けられた。クロムウェルはウルブリヒトの銃殺を望んだが、海軍将校らの取りなしで極刑は免れた。しかし重大な判断誤認は明らかであり、ウルブリヒトは3階級降格と
ペルシア湾警備艦隊という閑職に左遷された。
ウルブリヒトがなぜこのような判断をしたのかは長年議論の的になってきたが、最も信頼性の高い推論はスパイ説である。
ウルブリヒトにはアンドレウ・ティモンというキプロス出身のギリシャ系の友人がおり、モレラのクレタ島侵攻計画はそこから聞き及んだものだった。それまでウルブリヒトはティモンから多くの情報を得てきており、彼はティモンを深く信用していた。この友人の話は軍事法廷でもウルブリヒトの口から話されたが、戸籍上にそのような人物はおらず、目撃者もほとんどいなかった。以前からウルブリヒトには酒乱癖があったため、このティモンの存在はウルブリヒトが作り出した妄想上の存在であろうと結論付けられた。
しかし後世の歴史家のみならず、当時からティモンが実在するスパイであると主張する者が絶えることはなかった。そして近年
[いつ?]公開されたモレラ国外務省の文書からティモンと特徴が一致するスパイの存在が確認されたことでこのスパイ説は現在もっとも信頼性の高い説であると見なされている。
ギリシャ本土侵攻
プレアデス作戦によってレグルス帝国は東地中海における作戦の自由を手に入れた。レグルス軍はエーゲ海全域の制海権を握り、モレラ本土への侵攻が可能になった。
レグルス軍のモレラ本土侵攻の組織的な研究は第二次東地中海戦争から行われてきた(参謀個人レベルでの検討は第一次東地中海戦争から行われていたが、当時のレグルスの国力ではモレラ本土への侵攻は現実的ではなかった。)。もっとも古い作戦計画は第二次東地中海戦争時の「黒鉄拳計画」で、その後の研究はこの計画を元に発展する形で建てられていた。この戦争においても参謀本部はこの計画を修正する形で作戦計画を立案した。
侵攻計画でまず問題となるのは上陸場所の選定であるが、レグルス軍の計画ではギリシャの港湾・地形を考慮してテッサロニキを主目標とする北方ルートとアテネを目標とする南方ルートが検討されていた。プレアデス作戦中に行われた会議によってトラキアローマから遠く同国軍の増援に時間がかかること、戦線が短く防衛が容易、半島状の地形が海上機動に適しているなどの理由から南方ルートを選択した。またギリシャ政治・文化の中心と考えられていたアテネの攻略にクロムウェルが固執したという説が現在でも広く流布されているが、それを支持する証拠は見つかっていない。
上陸目標を定めたレグルス軍は作戦を三段階に分けた。第一段階では海上機動戦力を港湾の存在するパトラ、及び交通の要衝であるコリントス、ラミアに上陸し橋頭保を形成すると同時にアテネへの増援を遮断する。第二段階ではコリントス・ラミアの戦力でアテネを挟撃しこれを攻略、最終段階としてアテネの港湾から主力部隊を揚陸させ戦線を形成することとされた。
作戦に割り当てられた部隊は当初クレタ島を拠点とする予定であったが、現地のレジスタンスによるスパイ活動やクレタの港湾能力の飽和が懸念され、上陸部隊はレグルス本土で待機することになっていた。
一方で攻撃を受ける側となったモレラ軍はレグルス軍の上陸地点をギリシャ半島の先端かサロニカとかなり正確に予想していた。そのどちらであるかを決断することはできず戦力を二分させはしたものの、そのどちらにも十分有力な戦力を保持していた。
モレラは開戦以降全成人に対する徴兵を行っており、半島部だけで100万を越える軍及び民兵を展開していた。これらの戦力は市街地・山岳・森林に隠匿され、上陸してきたレグルス軍に対し持久戦を図る計画であった。
侵攻は年を明けた145年2月15日に開始された。プレアデス作戦から期間が開いたのは作戦準備に手間取ったからであった。レグルス軍にとってこれほど大戦力を短期間にごく狭い戦域に上陸させるのは全く未知の経験で、装備の調達から作戦指揮系統の調整まで課題は山積していた。それらの解決に12月、1月は費やされ作戦開始は2月にずれ込んだ。
上陸の先陣を切ったのはラミアへの上陸を図る第7軍であった。しかし第7軍とその護衛艦隊はマリアコス湾の最奥にあるラミアにたどり着くまでに両岸からの激しい砲撃に晒された。航空偵察の結果レグルス軍は沿岸砲の危険はないと判断していたが、それらは単に隠蔽されていただけであった。レグルス軍にとっては幸いなことに沿岸砲はあくまで陸戦用・船団攻撃用の野戦砲・榴弾砲であり、護衛艦隊への脅威は少なかった。砲撃によって姿を曝した砲台は護衛の戦艦や急降下爆撃機の攻撃にさらされ虱潰しに排除されていった。しかしそれでも沿岸砲群は3時間にわたって上陸部隊を押しとどめ貴重な時間を稼ぎ出しただけでなく、17隻の輸送艦を撃沈もしくは撤退に追い込むことに成功した。この損害は後のラミア市街地戦やアテネ包囲戦まで悪影響を及ぼした。
ラミアへの上陸が始まったのとほぼ同時刻、パトラ及びコリントスに上陸の先鋒となる空挺部隊降下が行われた。空挺部隊はパトラに3200人、コリントスに4000人が降下した。彼らの目的は上陸部隊の到達までに沿岸砲台トーチカを破壊することであった。
しかし彼らはモレラ軍の激しい抵抗に晒された。クレタ島に降下した第二空挺師団と同様に、彼らの予想降下地点はモレラ軍のキルゾーンにされていた。事前に対空砲こそ破壊されていたものの、降下地点の農地に埋められていた地雷や藪の中の狙撃兵・機関銃陣地が容赦なく空挺兵を襲った。彼らの頼みの綱であった急降下爆撃機部隊も連続出撃によって稼働率が低下し十分な支援が行えなかった。コリントスの部隊は降下後3時間後に届けられた空挺戦車によって反撃に転じることができたが、パトラの部隊は壊滅的損害を負った後に郊外に脱出することを余儀なくされた。しかしパトラの民兵部隊が司令官の静止にもかかわらず彼らの追撃に移動したため、パトラの防衛部隊を引きはがす予期せぬ戦果が挙がることになった。
しかしながら、それでもこの作戦で空挺部隊が負った被害はあまりにも大きかった。空挺部隊が本隊と合流するまでにこれらの部隊は一般的な意味で全滅しており、殆どの熟練兵士たちを失った。これらの部隊は本土に移送され再編がなされたが、クロムウェルはクレタ・ギリシアと続いた空挺部隊の大損害を憂慮し以後大規模空挺作戦を行うことはなくなった。
上陸部隊の上陸に先駆けて、各上陸地点では2~3時間かけて艦砲射撃が行われた。しかし結果論で言えばこの数時間の射撃はあまりにも短く、規模の小さなものであると言わざるを得なかった。主要な防御地点は露出していたり、焦って反撃を行った一部の拠点を除いて艦砲射撃に耐えきった。加えて砲弾は市街地を破壊したが、これらの瓦礫は民兵に隠れる隙間を与えただけであった。
艦砲射撃の後にレグルス軍は上陸を開始した。この第一波上陸部隊は合計で20万に達する大部隊であった。これら上陸部隊はゼーレヴェ揚陸戦車やヴァロウズ揚陸APCを始めとする装甲上陸車両を先頭に立ててビーチへ殺到した。モレラ軍の水際陣地は目につき次第上陸部隊に砲撃を加えた。しかしこれらの攻撃は精彩を欠くもので、着岸までレグルス軍は大きな損害出さなかった。しかしいざ着岸し内陸に向け侵攻を開始すると多数のモレラ軍兵士による銃撃に晒された。揚陸戦車は機関銃陣地を次々と破壊したが、モレラ軍の戦車部隊が到着するとそちらにかかり切りになって兵士たちは再び機関銃の猛威に晒された。また揚陸戦車も水上浮行のため装甲が薄く、同クラスの戦車との対戦は厳しいものがあった。
この戦闘の勝敗を決したのは駆逐艦隊の直接支援だった。戦艦級の艦砲射撃は上陸後同士討ちを避けるため停止していたが、それらをエスコートする駆逐艦は座礁するほど近くまで沿岸に近づいて上陸部隊を支援した。駆逐艦と言えどもその砲撃力は一個砲兵中隊に迫るもので、取りこぼしたトーチカや崖の上の機関銃陣地、果ては戦車までも水平射撃で薙ぎ倒した。中でもラミアに展開していた駆逐艦エジンコートはモレラのアルマジロ重戦車を装備した戦車中隊相手に砲撃戦を仕掛けこれを全滅させている。
上陸部隊は17日までに橋頭保を確保し、ペロポネソス半島およびアテネの制圧に向けて動き出した。当初より内陸持久を企図していたモレラ軍は現地部隊を山岳、都市部に後退させるとともに、モレラ軍司令部はアテネへの連絡を回復するため北部から戦車師団を引き抜いてラミア橋頭保への攻撃を命じた。レグルス軍は18日昼過ぎからアテネに向け攻撃を開始し、モレラ軍第三機甲軍団は20日からラミア橋頭保への攻撃を開始した。
アテネ及びラミアの戦いは激戦となった。アテネが先に陥落すればレグルス軍がギリシア南部に盤石の拠点を築くことになり、逆にラミア橋頭保が破壊されればアテネ攻略は不可能になり上陸作戦全体が破綻するという二者択一を両軍は正確に認知していた。レグルス上陸軍司令部は機甲軍団の南進を確認してからはラミアの部隊にアテネへの攻撃中止と陣地死守を命ずるとともに、爆撃機部隊を橋頭保の援護に差し向けた。この決断によってアテネへの挟撃が不可能となり、航空支援も十分に得ることはできなくなった。しかし航空支援は都市部においてその効力を発揮し難いことや、これら航空部隊が第三機甲軍団相手に大戦果を挙げ反撃を阻止したことから、この判断は英断であったと評価されている。
しかし当初期待していた支援が得られなくなったコリントス・パトラ上陸部隊にとってはこれらは何の慰めにもならなかった。ゆっくりと砲撃支援を待つ時間的猶予もない彼らは彼らはアテネ市街地の建造物を盾として徹底抗戦を図るモレラ軍に対し肉弾戦でもって対抗するほかなかった。レグルス軍はこの戦いに戦闘工兵・軽機関銃・手榴弾といった部隊・装備を多数投入し徹底的な制圧・掃討戦を展開した。それに対しモレラ兵は下水管・裏道を活かしたゲリラ戦や狙撃によってレグルス軍に出血を強いた。お互いに砲兵・航空支援を欠いたこの戦いは非常に血なまぐさいものになり、3月9日までに両軍10万人以上の犠牲者を出した。
一方でラミア橋頭保も苦しい戦いを強いられていた。機甲軍団の南進と陣地死守を伝えられた第七軍は即席の塹壕・対戦車バリケードを並べ北部に向け対戦車陣地を形成し、2倍以上の兵力を持つ第三機甲軍団を迎え撃った。第七軍は対戦車砲こそ装備していたもののその火力は貧弱で、モレラ軍の中戦車を撃破できず撃破を航空支援か歩兵の肉薄攻撃に頼らざるを得なかった。また第七軍は依然沖合に展開する艦隊から火力支援を受けていたが、23日に行われた魚雷艇の夜襲で戦艦タラリアが中破する損害を受けたことで、戦艦の喪失を厭った海軍の命令によってそれらの艦隊は引き上げざるを得なくなった。
一方で戦力上は圧倒的に優位に立っていたはずのモレラ軍も苦戦を強いられていた。レグルス軍の抵抗が予想以上に激しかったことに加えて、航空機による対地攻撃が大きな被害を出していた。25日までは悪天候のためレグルス軍は満足な航空支援が得られず多くの陣地を失ったが、26日に5日間続いていた悪天候が晴れてからはモレラ軍は激しい爆撃に晒された。特に27日の戦いでは航空掩護を欠いたモレラ軍は戦車54両、自走砲13両、装甲輸送車25両、トラック70両を失う大損害を負った。この損害におののいたモレラ軍中央は慌てて北部に温存していた航空部隊を投入したため以後これほどの損害はなくなったが、以後も度々爆撃で装甲車両を無為に失った。
3月7日、アテネの総司令部が陥落したという知らせがモレラ軍中央司令部に届くと第三機甲軍団には攻撃停止と後退が命じられた。この知らせは実際には誤報で、確かにアテネ司令部が置かれていたアクロポリスは一時的にレグルス軍に占領されていたが、直後に奪還された上、司令部要員は退避に成功し依然健在であった。この誤解はアテネの長距離通信設備が破壊され意思疎通が取れなくなっており、航空偵察によってアクロポリスにレグルス旗が掲げられていたために起きたことだった。
しかし実際に第三機甲軍団は後退し、それによってレグルス軍は航空支援をアテネに送る余力が生まれた。このバランスの変化によってアテネの防衛線は決壊し、レグルス軍はアテネ市街地を掌握するに至った。残余のモレラ軍はバラバラに撤退し、北部への脱出や山岳・森林での継戦を行った。
ギリシャの精神的中心であったアテネの陥落はレグルスにとって非常に重要な意味を持つ勝利であり、アクロポリスに黒白赤の三色旗が大きく描かれた号外が配られた。レグルス人の多くはアテネの陥落によってモレラを打倒したと考え、彼らの反モレラ感情を満たした。
しかしながら実際のところモレラにとってアテネは南部の重要都市であったものの、国家の全てではなかった。またモレラ人はアテネよりコンスタンティノープルを重視しており、政治的にもそちらの方が重要であった。そのためアテネの陥落の与えた影響はレグルス人の大方の予想よりもはるかに小さなものにとどまった。
プロキオン作戦
アテネ攻略によってギリシア南部に確固たる地盤を築いたレグルス軍だったが、そこからの進撃は断念せざるを得ない状況にあった。アテネ攻略に手間取ったため狭隘な中央ギリシアにモレラ軍が大挙して防衛線を建設した上、後方でハラスメント攻撃を繰り返すゲリラが無視できない規模になっていた。この問題は特に多くの正規部隊が逃げ込んだペロポネソス半島で深刻で、繰り返される物資輸送に対する執拗な妨害はこれ以上の進撃を許さない規模に達していた。レグルス軍はアテネの港湾能力復旧を急ぎ、更に少なくない戦力をゲリラ掃討に差し向けたが、速やかな進撃は不可能と言って良かった。
アテネ陥落で自身を得て短期決戦を望むようになっていたクロムウェルはこの報告にひどく憤慨し速やかな攻撃を命じたが、将校らの説得を受け撤回した。しかしクロムウェルは正面攻撃を諦めた代わりとして再び上陸作戦を行って第二戦線を開くことを命じた。将校団は予備戦力が払底することや相手も既に沿岸防御を固めているとして反対したが、一度妥協させた以上更なる反対は厳しく、クロムウェルに押し切られる形になった。
将校団に自分の意見を認めさせたクロムウェルは作戦立案にも大きく介入した。当初エルリッヒ・ファルケンハウゼン大将を始めとする参謀本部は本格的な上陸作戦ではなく一時的な戦力誘引を目的とした作戦にしてお茶を濁そうとしていたが、クロムウェルの介入によってこの試みは未然に潰えた。クロムウェルはこの作戦でテッサロニキ・イスタンブールを占領しアナトリア・ギリシャ両戦線を一気に攻略する作戦案を提示した。
クロムウェルのした初期の計画案によれば、レグルス軍はテッサロニキ近郊のカヴァラ・ガリポリ半島に上陸、更に艦隊をマルマラ海に突入させイスタンブールを攻撃する計画だった。
バルカン・アナトリア攻勢
反攻の挫折
西欧の戦い
ブルガリアの戦い
レグルスのロシア侵攻・CELTOの参戦
ヴォロネジ・モスクワの戦い
北アフリカ進駐
大西洋海戦
ベオグラードの戦い
バグラチオン作戦
レッドストーントーチ作戦
レグルス崩壊の序曲
バルカン・アナトリア反攻作戦
北アフリカの戦い
ドン・クバンの戦い
レグルス本土侵攻前夜
本土決戦
レグルス国家の崩壊
The Black Curtain
レグルスが大戦に勝利した時間軸を描いた
ウォルター・クロウリーによる小説。作中では旧大陸全域がレグルスの恐怖政治の下に置かれており、新大陸も殆どがレグルスの植民地となっている。主人公は反レグルスレジスタンスとして南米の内陸部で戦うが、徐々に追い詰められていく。数あるレグルス戦争の架空戦記の中でももっとも著名。
開戦後の経緯 |
バルカン半島とアナトリアの戦い
フォーマルハウト作戦 - 開戦直後、長大なアナトリア=レグルス国境ではあらゆる火砲が一斉に火を噴いていた。レグルス陸軍の出した陸上戦に於ける最終結論は圧倒的な戦力を問答無用で叩きつける縦深戦であり、初期のアナトリアの攻防ではその回答が端的に示された。アナトリア側に築かれた要塞は80cm砲すら存在したといわれる火力戦の前に粉砕され戦線の突破を許した。最終的にレグルス軍の攻勢が停滞したのは前線が長い所では数百km前進していた場所であった。その後は山岳の途切れ目に築かれた都市と防御拠点を奪い合う凄惨な機動戦に戦闘は移行し最終的に両軍総合100万を越える犠牲を出し、レグルスの勝利に終わった。 開戦と同時にレグルス・モレラ両国にとって因縁の場所であるクレタ島にもレグルス軍は侵攻した。第二次東地中海戦争によって確保されたロードス島からの航空部隊によってクレタ島は沈黙され"絶対的"航空優勢が確保されたクレタ島の戦闘は終始レグルス軍優位に進んだ。しかし市街地に入るとモレラ軍の民兵の抵抗に直面し攻勢衝撃は減衰した。土地勘を知り尽くした民兵のゲリラ的抵抗は正規軍の市街地戦にも及ぶものであり、建物という建物が砲爆撃によって沈黙させられるか多大な出血を伴う制圧戦によって鎮圧されるまで抵抗は続いた(アリアドネ作戦)。これらの光景はモレラ本土の戦い、そして民兵運用を学習したレグルス国民軍の手によってレグルス本土で再現される事になる。 クレタ島を押さえたレグルス軍だったが、地中海の攻勢は未だ終わっていなかった。レグルス軍は立て続けにモレラ本土に侵攻、ペロセポネス半島を橋頭堡にアテネを攻略、レグルスの三色旗をアクロポリスに掲げるとモレラ重要拠点テッサロニキに照準を定めた。しかしアテネを攻勢発起点にし北上を目指した次の攻勢はテッサロニキ前面で停滞した。トラキア軍とモレラ軍による防衛線は強固なものであり、レグルス軍の狭い戦線からの攻撃はギリシアの南北の縦深と塹壕線に防がれて終わった。またこの時エーゲ海に取り残され拿捕の危機にさらされたモレラ海軍は危険極まるペロセポネス半島=クレタ島の海峡を突破している(チャレンジャー作戦)。レグルス軍の攻勢を受け切ったと考えたモレラ軍は反攻を開始した。本土が仇敵レグルスに掌握されているという事実に怒りを覚えていたモレラ軍の攻勢は激烈であり、同時に精彩は欠く物だった。レグルス軍はその弱点を突き抗戦したが、士気の差によってジリジリと押されアテネの放棄とペロセポネス半島への後退すら考えられたが、最終的にモレラ軍の息切れによって攻勢は終焉した。このモレラ軍の反攻作戦ウジェーヌは150kmの南下と莫大な犠牲者によって幕を閉じた。 モレラ軍の攻勢によってバルカンの攻勢が不可能になったレグルス軍は戦争への勝利をシェラルドへの一撃に求めた。開戦劈頭の攻撃でシェラルド地中海艦隊こそ沈黙させていたものの、ブレストのシェラルド大西洋艦隊は比較的損害軽微であり、この艦隊の地中海への進出が行われればレグルス海軍の勝利は覚束なかった。そこでレグルス軍はフェリックス作戦(レグルスのジブラルタル侵攻)を発動、精鋭親衛隊と戦艦5隻以上を投入し要衝ジブラルタルの攻略を目指した。この戦いではレグルス軍の綿密な上陸支援にも関わらず、シェラルド軍防衛隊は地下坑道で交戦を続け一週間の時間をかけて漸くレグルス軍はジブラルタルを確保した。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。肉弾戦を行うモレラ民兵(テサロニキ) |
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北海海戦
先述のとおり、ジブラルタルはレグルスの手によって陥落し地中海の制海権はレグルスの手に移った。しかしシェラルドの主力は未だブレストに停泊しその存在を示していた。レグルス海軍はこれに一撃を加えるべく海皇の名を冠すネプチューン作戦の発動を決定した。 ジブラルタル陥落から2週間、レグルス海軍の主力を結集した連合艦隊がジブラルタルを抜錨、シェラルド艦隊を撃滅すべく北進を開始した。シェラルド艦隊は既に行動を察知しブレストから北海に移動、これの要撃に当たると見られていた。 レグルス海軍は主力A部隊と囮であるB部隊に分離、B部隊はイギリス海峡を突破し主力合流の時間を稼ぐ任務を与えられた。しかしB部隊がイギリス海峡に侵入すると同時にシェラルド空海軍の猛攻撃が開始された。B部隊はそれでも任務を遂行せんと東進を続けたが海峡の出口、ドーバー海峡でシェラルド主力大西洋艦隊の要撃に遭う。最早敵に少しでも打撃を加え作戦目標達成に貢献しようと砲撃戦を開始したタイミングでA部隊がシェラルド艦隊後方より襲来、A部隊による僅かな砲火器を有する空母すら巻き込んだ壮大な艦隊突撃が敢行された。後方奇襲を受けたシェラルド軍は1/4を失いながらも機会を窺う為ノルウェー沖に後退、イギリス海峡の戦いは終局に向かった。 こうして危機を脱したレグルス艦隊だったが空母が無理な運用が祟り損耗、後退を余儀なくされた。しかし未だ砲雷撃戦部隊は健在であり、日が沈むと同時に史上最大級の水雷部隊を編成、ノルウェー沖にて再編成中のシェラルド軍を強襲、発射された魚雷は実に180本以上を数えシェラルド艦隊は更に南方へ敗走した。 戦力の過半を失ったシェラルド艦隊だったがその不幸は未だ終わらず、レグルス主力艦隊が日の出と共に襲来、奮戦するも艦隊司令ブリュン提督も戦死しシェラルド艦隊は消滅した。 この海戦の結果、シェラルド海軍は制海権を完全に喪失しアナトリアへ増派予定だった部隊は本土防衛の為本土に残置される事になり後のソフィア陥落の間接的要因になった。またシェラルド国全体に厭戦感情が一時的に広まる結果すら伴い、同時にレグルス海軍の絶頂期ともなった。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。統制魚雷戦を敢行するレグルス艦隊 |
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トラキアの前進と後退
こうして海でのの決着がついたころ、バルカンでは再び戦闘が始まっていた。ウジェーヌ攻勢を弾き返したレグルスバルカン方面軍はトラキアの打倒を目標とした作戦"アンタレス"を発動、ブルガリア=アルバニアのトラキア主要地帯攻略を目指し攻勢を開始した。攻勢で弱体化した敵軍を突く戦法はこれ以前にも、この後にも多く行われるがそれは今回でも有効だった。特にブルガリア地方は堅固な山岳があるわけでもなかった為、黒海に進出したレグルス海軍の支援と機甲師団の突撃の前にズルズルとトラキア軍は後退、遂に首都ソフィア(アンドロニコポリス)の攻防戦にもつれ込んだ。この戦いでは地の利を知るトラキア軍が優勢に思われたが、周辺戦域の戦局悪化に伴い補給線は細くなり続ける遂に破綻した。王族は臨時首都ベオグラード(シンギヌドゥム)に移転し徹底抗戦を表明、トラキアの戦争脱落を目指したアンタレス作戦の戦略目的は果たされなかった。この戦いの結果陥落した帝都ソフィアでは大規模な徴発が行われ、煌びやかな財産はレグルス本国に持ち出された。 この戦いの後、レグルス軍は主力を東に移転、対共産国家との戦争を開始し、また脱出した王族の一人がシェラルド国を説得し大規模介入を認めた事から、戦争のターニングポイントの一つとされる。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。攻勢を指揮するレグルス参謀本部 |
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蒼天の剣
バルカンと西欧での一連の勝利の後、レグルスは危機にあった。その危機は戦局そのものでは無く、戦争経済にあった。大量の物資を消費する近代総力戦においてレグルスは早速破綻の兆しを見せていたのである。一旦は現地からの収奪で経済を補っていたが長期膠着戦となると戦争の維持は不可能であり即ち国家の滅亡を意味していた。 これを阻止し尚且つ目先の脅威を排除する方策としてレグルス参謀本部は戦争計画"蒼天"を立案、発動準備を行なった。同戦争計画において示された内容は以下の通りである。 ・南コーカサス連邦(※レグルスの影響下にあるカフカスの政権)から電撃的に国境を突破、北コーカサスに領土を持つ月ノ谷へ侵攻 ・初撃で敵主力を粉砕、ボルガ川まで前進し主要拠点スターリングラード(キュリンシングラード)を攻略 ・交通の要衝ヴォロネジから電撃的に北上、ロシアの心臓、モスクワを攻略 ・敵の冬季攻勢の目標は鉄道始発点モスクワであると考えられるのでこれを事前の措置で防御を固め撃退 攻勢で弱体化した敵を春の訪れと共に追撃、レニングラードを攻略し欧州ロシアを征討する これらの作戦計画は補給面など深刻な問題を抱えた投機的な作戦ではあったが、経済が作戦実施無しで崩壊するとあっては実行しか策はなかった。 こうしてレグルスのロシア侵攻は開始されたが、早速レグルス首脳部にとって予想外の事態が発生した。この戦争計画はロシアの赤色勢力のみの参戦を想定していたが、これにceltoが介入、海上封鎖密度が飛躍的に上昇し経済崩壊の予測がさらに前倒しとなる。 とは言え奇襲は完全に成功し開戦数週間で月ノ谷防衛軍の過半が包囲殲滅され、残りは辛うじてユークバニアへの撤退を成功させた。その代償としてキュリンシングラードは僅か開戦4週間にして陥落する事になる。 北カフカスを攻略したレグルス軍は勢いそのままにボルガ川を突破、ヴォロネジへ迫った。ユークバニア軍も当然これを予測していたが、モスクワ防衛の為に多くの戦力は割けなかった。しかしヴォロネジの赤色連合軍はレグルス軍の連日の攻囲に耐え、モスクワ防衛要塞の構築を助けた。 やっとの思いでヴォロネジを攻略したレグルス軍だったが、モスクワは未だ遠かった。それでも装甲集団を先鋒にロシアを爆走、遂にモスクワ前面に到達した。しかし例年より早く到達した冬が灼熱の地の軍であるレグルス兵を苦しめた。モスクワ前面の攻撃火力は目に見えて激減し、赤色連合軍は開戦以来の休息を得た。 レグルス軍の攻勢停止を確認した赤色連合軍は反攻作戦ネプチューンを発動、冬季に震えるレグルス軍を強襲した。結果レグルス軍は潰走、反レグルス軍は初の完勝を得る事になった。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。寒波と共に反攻するユークバニア戦車隊 |
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ダイダルウェーブ作戦
ロシア方面での勝利の希望が一時的に阻止されたレグルス国は反攻の先を大西洋の対岸に求めた。CELTO諸国は多くが北南米に存在し、その石油資源はメキシコ湾岸とベネズエラの油田に依存していた。そこでレグルス海軍司令部はここを破壊すると共にこれの阻止に出撃するCELTO連合艦隊の撃破を画策する。 ダイダルウェーブ作戦と名付けられたこの作戦にはレグルス海軍の多くが参加し、北海海戦で損耗した機動艦隊とその直衛、及び小艦隊を除き殆どがこれに出撃した。大規模な艦隊のジブラルタル通過を確認したCELTO軍はこれを迎撃するべく海軍戦力をキューバ周辺に展開、レグルス艦隊の捜索を開始した。 両艦隊の接触はギアナ北方900kmの地点でピケットラインを展開していたCELTO軍早期警戒機がレグルス艦隊を捕捉したことで始まった。CELTO軍はこれに航空機による全力攻撃も可能だったが、発見したレグルス艦隊に空母が含まれていない事から空母が別にいる可能性を考慮し全力出撃は行われなかった。とはいえCELTO諸国は元より空母を重視する海軍を持つ国が多く、この時も艦隊に多くの空母が含まれていた事からその威力は絶大な物となりレグルス艦隊はその直撃を受けた。ここからの第四次までの攻撃でレグルス艦隊主力艦の半数がその戦略を何らかの形で喪失、ダイダルウェーブ作戦の失敗は確定的となった。 これを受けレグルス艦隊司令部は水雷戦隊の分離と残存艦隊の帰投を決定、夜間に際し水雷戦隊はCELTO軍を強襲し残存艦隊の脱出を支援するものとされた。レグルス水雷戦隊は勝利を確信していたCELTO艦隊を強襲、数的劣勢・火力的劣勢であるにも関わらずCELTO艦隊が諸国の連合であり、またあまりにも数が多く統制が取れていない事を見越し敵艦隊に浸透、壊滅と引き換えに劣勢の艦隊としては破格の戦果を挙げた。 とはいえ海戦としての勝利はCELTOにあり、レグルス海軍はその多くの艦艇を喪失、特に北海海戦の勝利の立役者たる水雷戦隊を失った事は後々のレグルス海軍の敗北にも繋がった。 この海戦の結果は双方に衝撃を与えた。CELTO首脳陣は制空権下においてさえ水雷戦隊に大打撃を受けた事を非常に重大な問題と捉えた。またレグルス本国はこの致命的な敗北によって国民の士気が低下する事を恐れ、レグルスの勝利と架空の戦果を計上した。また大西洋の制海権は事実上失われ、CELTOの大洋を越えた反攻を恐れたレグルス軍部は予備占領として北アフリカを占領した(エルヴィン作戦)。しかし派遣された部隊規模は中規模程度の部隊だったが、北アフリカは補給が劣悪であった為に占領した戦力はいたずらに疲弊する事になる。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。CELTO艦隊の超巨大空母ファーランドから発艦する戦闘機 |
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ベオグラード攻防戦
バルカン半島の戦線は停滞していた。レグルス軍は主力をロシアに送っており、トラキア軍は反攻可能な戦力を失っていた。だがロシアの攻勢が停滞するとレグルス陸軍は再びバルカン半島に目を向ける。トラキア側の戦力が僅かな事、バルカン半島方面軍は比較的補給状態が良好な事を理由にトラキアを完全に打倒する事を目標と定めたベテルギウス作戦を発動、トラキア側に残る最後の重要都市ベオグラード攻略を開始された。 攻勢初期においてはレグルス陸軍は戦闘を優位に進め、簡単にベオグラード前面に到達した。だがベオグラード市街内部に突入するとその勢いは急速に削がれ始める。元々市街戦は防御側に有利であり、臨時とはいえ帝都の防衛という事でトラキア軍の戦意は高かった。剛を煮やしたレグルス陸軍司令部はベオグラード周辺に計20万もの大軍を展開し力押しによる攻略を目指した。だが増援の到達によって戦況は完全に覆る。ソフィアを脱出したトラキア皇妃による支援要請を受けたシェラルド騎兵隊はレグルス軍後方の連絡線を襲撃、これを占拠した。これに対応するべきレグルス機甲戦力はその多くをロシアに回し、残り数少ない戦車は険しいディナル・アルプスで立ち往生していた。後方を遮断されたレグルス軍は動きに精彩を欠き、みすみすベオグラード攻略部隊を包囲下に置かれる事になった。 レグルス本国はベオグラード攻略中のヨーゼフ・エルベ大将をベオグラード方面軍司令に任命し、更に元帥に昇格し遠回しに降伏を禁止した(参考:レグルス総統クロムウェル演説:帝国元帥は決して降伏しない)。しかし二度の救援作戦(春の嵐作戦)が失敗し救援が絶望的となるとエルベ元帥は20万の将兵と共に降伏した。 結果としてバルカン半島での決定的な勝利を目指したレグルスの作戦は完全に失敗し、逆にバルカン半島での勝利の可能性は限りなく低下した。またレグルス本国ではエルベ元帥は名誉の戦死とされたが、家族は後のワルキューレの夜にて強制収容所に収監されている。 |
塹壕のトラキア軍と戦車 |
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東西の反攻
モスクワの戦い以降停滞していたロシア戦線は翌夏に再び動き出した。バグラチオン作戦と命名された大戦始まって以来の大反攻作戦において戦力を完全に整えたロシア連合軍(シランナ軍・ユークバニア軍・月ノ谷軍)はかつてレグルスがアナトリアで行った様な縦深戦術を使用、モスクワの傷を癒やしきれていないレグルス軍に襲いかかった。ロシア連合軍は縦深戦術を完全に理解して運用、後方線を破壊し撤退を妨害しつつレグルス軍を次々と破って行った。前線を食い破られたレグルス軍は体制の立て直しを図るが、ロシア連合軍の電撃的侵攻の前に対応は後手に回り続け正面戦力の8割を失う大敗北を喫した。 ロシア連合軍は包囲したレグルス軍を殲滅すると南下を開始、微弱な抵抗を蹴散らしながら一年前の逆再生をするかの様に進撃して行った。結局ロシア連合軍が停止したのはキュリンシングラード前面のボルガ=ドン防衛ラインで、しかも停止した理由はレグルス軍ではなく補給が未だ追いついていない事であった。 また反攻は西方からも押し寄せた。艦隊を再編したCELTO軍は旧大陸への反攻を実施する事を決定、攻撃目標はレグルスの読み通り北アフリカと定められた。そして奇しくもバグラチオン作戦発動と同日に新大陸からの反攻作戦レッドストーントーチが発動、CELTO艦隊に率いられたCELTO機構軍と各国軍はカサブランカに向け出港した。レグルスがこれを察知したのはピケットラインを構築する潜水艦が特定のポイント周辺で消息を絶った事で、レグルス軍はこれをCELTOの攻勢の予兆と正確に推定、修復を完了した機動艦隊によってこれを迎撃すると定めた。しかしCELTO艦隊とレグルス機動艦隊の戦力差は圧倒的であると推定され、この戦力差を埋める為攻撃機の支援を受けることが必要であり、これが可能なポイントととしてカナリア諸島が設定された。かくしてカナリア諸島海戦と呼ばれる航空艦隊決戦が幕を開けた。この海戦では序盤こそ拮抗していた物の、CELTO艦隊の防空網の前にレグルス航空隊が手も足も出ず迎撃されその戦力を失うとたちまちCELTO優位に変化した。結果レグルス海軍は部分的に上陸部隊に打撃を与えた代償として最後の主力と呼べる部隊を喪失した。海と空の支援を得た上陸部隊はカサブランカに強襲上陸を敢行、レグルス陸軍は防御陣地と共に激烈に抵抗したが、トーチカが空襲で破壊されるなど徐々に押し込まれとうとう撤退を余儀なくされた。 一連の敗北によってレグルスは一気に戦力を喪失、完全に勝機を失っていく事になる。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。カサブランカに乗り込むCELTOの将兵 |
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ワルキューレの夜とレグルスの狂気
カサブランカでの敗北後、レグルス内部の反体制派は急速にその組織を拡大していた。白いオーケストラと呼ばれる彼等はレグルスの敗北は不可避と断定、レグルス戦争指導部の破壊とクーデターによる戦争終結を画策した。 結果彼らはカウンタークーデター計画ワルキューレ(参謀本部の同意なく予備部隊の運用を可能とする物)を利用したクーデター作戦を開始する。しかしこのクーデターは最初から躓く、総統の爆殺を狙った爆破工作が総統の予定変更により無意味となったのである。今更クーデターを中止する事は出来ず継続を指示したクーデター側だったが、政権側は親衛隊情報部と共同し事態を早急に掌握、クーデター鎮圧を開始した。結果レグルス軍は殆どがクーデター側に寝返ることは無く、首謀者の殆どは自決或いは射殺された。 しかし事態はそれだけに止まらなかった。反対派によるクーデターという現実の脅威を受けたレグルス首脳部は反体制派の決定的壊滅を目的とした秩序作戦アルコダイトを発動、本国・占領地問わない大規模な粛清を開始した。親衛隊によって軍民・立場問わない「秩序の遂行」がなされた。特に苛烈だったのはモレラ国に於ける作戦で、親衛隊によってパルチザンの疑いを掛けられた一般市民が多数毒ガスで殺された。一説によればこの作戦は親衛隊による陰謀であり、反体制派狩りという名の反親衛隊狩りであったという説がある。 こうして狂気が増して行くレグルスの中でも戦争は続いていた。海上戦力が崩壊し資源輸入ルート遮断と本土上陸が現実になりつつあった中で、レグルス軍部は多数の施策を行なった。 まず徴兵年齢層が全成人に拡大、また学徒勤労動員法により学生が工場労働者となった。そして現在でもレグルス最大の狂気と言われる事の多い特別攻撃隊が編成された。これは海軍の主導によって編成された自殺攻撃部隊で、一般機による敵艦船への体当たり攻撃が任務だったが、急速にその組織は拡大し専用の機材が開発され、また特攻兵器は航空機に限らなくなった。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。総力戦演説 |
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バルカンとエーゲ海の反攻
ロシアでの致命的な敗北以後レグルスの陸上に於けるプレゼンスは急速に低下した。バルカン半島戦線では特にそれが顕著であり、主要な戦力をロシアに引き抜かれ、代償として配備されたのは武器を持って1ヶ月もたたない新兵の部隊だった。物資不足もそれに輪をかけており攻勢に出る戦力は既にバルカン半島のレグルス軍から失われていた。そのような後ろ寒いレグルス軍の内情を知った欧州連合軍はバルカン半島の完全奪還を狙う作戦を企図、トラキア領土奪還の第一作戦ビザンティンとモレラ領土奪還の第二作戦メガリ・イデアと銘打たれた欧州初の大規模反攻作戦が開始された。 これに対するレグルス軍は開戦初期の練度を完全に喪失しており、満足な後退戦闘もできず各個撃破されていった。このような状況に対し陸軍を早々に見限った武装親衛隊の部隊は独自に作戦行動を取ることを決定、混乱に拍車をかけた。さらに問題だったのが武装親衛隊の作戦行動であり、現有戦力での抗戦は不可能であり、敵にますます明け渡すならば破壊すべきであると占領していた各都市を徹底的に略奪し放火する焦土作戦を実施した。しかし武装親衛隊の努力虚しく欧州連合軍は僅かな遅れを見せるに留まり、ビザンティン作戦終了時にはレグルス軍はギリシア方面とイスタンブール方面に分断された。レグルス軍の想像以上の弱体を見たHRE・BU連合軍はメガリイデア作戦の目標を拡大、西部アナトリアの奪還もこれに定めた。ビザンティン作戦終了から僅か1週間で発動されたメガリ・イデア作戦ではレグルス軍は再び潰走、ギリシア方面の軍は壊滅しアナトリア西部方面もレグルス内部で行われたプロパガンダに反し急速に失陥した。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。 |
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レグルス本土侵攻
戦争末期、レグルス軍の全ての戦線は崩壊しつつあった。最盛期は25個有った軍(ここでは陸軍の編成単位の事)は各地での敗北により10個に減少し、その内実も定員割れした師団にすら兵器供給が間に合っていない有様であり、制海権・制空権も投入されたロケット戦闘機などの新兵器や特攻機の配備等の努力にも関わらず全ての戦線で失われた。同時に戦争経済も崩壊しつつあり北アフリカに進出したCELTO軍の爆撃機による空襲、親衛隊による治安維持下ですら発生するサボタージュ、失われた海上交通路によってレグルスは内側からも滅亡し始めていた。これらの状況、そしてクレタ島・キプロス島に対するモレラ軍の侵攻と現地防衛隊の壊滅によってレグルス総統府はレグルス本土が遂に敵軍の侵攻を受けるであろう事、及び滅亡が避けられないであろう事を認識した。しかしこの戦争はイデオロギー戦争であり抵抗を止める事は考えられなかった。レグルス総統府は滅亡目前の国家に見られるような究極まで希望的な観測に基づき、本土侵攻の迎撃が戦争の逆転勝利に繋がると考え、レグルス本土決戦作戦を策定した。 そして遂にほぼ同時に四方面から連合軍はレグルス本土に侵攻した。そしてこれまでのレグルス軍の弱体から楽観的な空気すら流れていた連合各軍は驚くべき光景を目の当たりにした。国家滅亡の恐怖に襲われたレグルス総統府は決戦遂行に際し戦力化可能な全てのリソースをこれに投入していた。レグルス各地でつい数日前に動員された民兵が火炎瓶や石斧で数に任せて夜襲を仕掛け対戦車刺突爆雷を持った自爆兵が砂漠に埋もれて連合国戦車を破壊し、民間人に偽装した正規軍は連合国の砲撃によって倒壊した市街に身を潜め毒ガスの散布とともに連合軍に突撃した。更に彼らは死体の頭蓋骨の中に糞尿と火薬を混ぜ込んだ炸裂弾を原始的な投石器で投射し麻薬で狂信的な「愛国者」となった兵士達は銃弾の直撃にすら怯まず、捕虜になったレグルス兵は生物兵器に感染していた。国家的狂気の中にあったレグルスに足を踏み入れた連合国軍は歴戦の部隊すらPTSDとなり戦闘不能になる様な戦場に直面する事になった。ほぼ全ての面でレグルスに対し優勢であったはずの連合国軍はレグルス内部に侵攻した瞬間にその侵攻速度を急激に落とした。それでも尚火力と物量を前面に押し出して再び連合軍が侵攻を開始した時、ベイルートを攻略しダマスカスに前進しつつあったモレラ・トラキア軍の直上に核爆弾が投下された。アライェ核攻撃と呼ばれた20ktの核を皮切りに各地で大小問わない無差別核攻撃が開始された。各地でレグルス軍の(他に比較し)精鋭な部隊が戦術核弾頭を発射し、核を積んだ特攻機で敵艦隊に突入し、陥落寸前の都市や要塞ごと自爆した。これらの攻撃はレグルス降伏までに少なくとも300発以上行われたとされる。 しかし戦争の趨勢は変わらなかった。連合軍は狂気的な攻撃を一刻も早く終わらせるべく全力でレグルス軍を攻撃した。各都市で民兵が玉砕し、兵士は倒れ、自爆した。レグルス本土侵攻から1ヶ月でアナトリアのHRE軍とカフカスから侵入したコミューン軍が合流、2ヶ月目にはコミューン軍はレグルスを東西に分断した。そして本土侵攻から4ヶ月、東西南北からの侵攻を受けたレグルスの首都ダマスカスは総統の自殺により防衛隊の士気は喪失し降伏開城した。それから2週間の間レグルスはクウェートで暫定戦争指導部を樹立し海外脱出と連合軍に一撃を加えるべく戦争を継続したが、遂に暫定指導者ルートヴィヒ・フォン・アルフレート元帥が降伏文書に調印し降伏した。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。 |
戦争の終結 |
停戦直後
こうして遂に終結したレグルス戦争だったが、各国の状況は悲惨そのものだった。シェラルドやシランナ、CELTO以外の各国は本土に大小の侵攻を受け、それらの地域はレグルス軍の焦土戦術によって荒廃し、また現地市民もレグルス軍のパルチザンの鎮圧の名目の下で行われたジェノサイドで多くが命を落とし、彼らの家財は失われていた。また戦争に勝利したとはいえ各国の軍も甚大な被害を受けており、戦争前半に多くの被害を負った共産国軍やトラキア・モレラ軍、海軍が再び敗北したシェラルド軍、そして最も被害は軽度とは言え元々の規模から相対的に高い損害を負ったCELTO軍、そして彼ら全員がレグルス本土でNBC兵器とレグルス軍の狂気によって目で見える所も見えぬ所も莫大な被害を負った。 そして彼等全体に匹敵する被害を受けたのが、当然の事ながら唯一の敗戦国であるレグルスである。国家経済、人的資源、軍事力、全てをレグルスはこの戦争で喪失し、国家そのものが崩壊していた。事実レグルス降伏に前後し各地で多様な組織がこれを好機と見て蜂起し独立を宣言していた。これらの組織の大半はそれぞれの衝突や連合軍の政策によって弾圧されたが、幾つかの力ある集団や、連合軍に迎合した者達はその維持に成功し戦後のレグルスの分裂時代を築いた。 |
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。廃墟と化したレグルスの都市 |
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パリ終戦条約
停戦とレグルスの崩壊によって戦争は事実上終結したが、それに加えて次は法的に戦争を終わらせる必要があった。即ち終戦条約の締結である。締結の場所には伝統的な都市であるパリが選ばれ、連合各国の代表が集った。 この会議では連合国同士の利益調整が主な議題に上がった。まず速やかに決まったのがレグルスの獲得していた各国の土地の還付であり、逆に最も紛糾したのはレグルスの土地の処置である。旧レグルス領は緊急的な措置として連合国が陣営ごとに分割していたが、正式な決定には至っていなかった。紛糾の最も大きな原因は欧州諸国による強い領土要求であり、トラキアがシリア、モレラがキプロス、シェラルドがイスラエルの継続した占領を主張して止まなかった。結果的にこれらの主張は(彼らの主張する土地の権益がCELTO・共産諸国の利益と干渉しないこともあり)承認された。また同時にCELTO・共産諸国の主張する他の地域での国家独立の承認も行われ、レグルスの分割に拍車を掛けた。 この様に法的にも完全に葬られたかに思われたレグルス帝国であったが、いまだ滅んではいなかった。その理由がなんとも言えないものであり、一部のレグルス海外領を全員見逃していたと言う締まらないものだった。 ともあれ条約は締結され、レグルスは滅びなかったもののその四肢は完全に破壊され辺境の小国に転落した。一連の戦争は遂に終結し、平和は回復した。しかし強力な軍事統制国家の消滅は広範な地域にパワーバランス変動の影響を及ぼすことになり、秩序の失われた中東は長く続く暗黒期に突入していった。 |
パリ講和会議 |
影響 |
全土をレグルスの占領されたモレラでは多くの国内資産や人的資源が失われ、国内の情勢が急速に悪化した。これらの混乱は外征による国内沈静化を図るルークリア継続戦争、ひいてはモレラ内戦に繋がる。 |
画像の説明 |
レグルスの占領地統治 |
苛烈な国内統治を行なっている事で有名なレグルス国は、国外の統治でも同様であった。占領地ではまず軍政が敷かれ、その後更なる処遇が下された。パターンは3種類あり、本国領土と同様に扱われ、(一方的に)編入された地域(アナトリア南部・エーゲ海諸島・シナイ半島)、レグルス本国との最終的な合同を目指し民政が敷かれ、総督府が置かれた地域(ナイル総督府・アナトリア総督府)、臨時の占領地域であると割り切られ苛烈な略奪と軍政下に置かれた地域(バルカン軍政領域・コーカサス軍政領域・ルーシ軍政領域)があった。 またいずれにしても最も寛大と言われる本国領扱いでさえスターリン時代のソビエト連邦に匹敵する状態であったから、現地の反発は強まった。そこでレグルス帝国は独自の軍事警察組織である親衛隊に治安対策を命じこれに対処した。あらゆる手段でレジスタンスに対応することを命じられた親衛隊は現地民に対し過酷な弾圧を行なった。特に過激だったとされるのが大戦後期のレグルス総統暗殺未遂と一連のクーデター未遂の後の対パルチザン作戦、アルコダイトと大戦末期のユダヤの反乱の鎮圧である。両者では共に莫大な数の毒ガスが投入されたとされ、その量はかつての第一次世界大戦で用いられた全ての量に匹敵するとされる程だった。特にユダヤの反乱の対処では潜在的抵抗者の鎮圧の名目の下、ゲファングナス(エルサレム)全域に毒ガスが散布され、同都市は壊滅的損害を被った。 |
ナイル総督府 |
出力 |
場所 |
攻撃目標 |
運搬手段 |
備考 |
20kt |
イェール |
モレラ軍 |
双発爆撃機 |
初の核投下 |
50kt |
エルバーハラ |
トラキア軍集結ポイント |
4発重爆の自爆 |
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18kt |
リマソール |
モレラ軍後方拠点 |
弾道ミサイル |
|
150kt |
マアラ・ミラン |
シェラルド軍兵站路 |
秘密地下鉄道 |
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2Mt |
カーミシュリー |
シェラルド軍攻囲部隊 |
自爆 |
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80kt |
アカバ |
拿捕されたレグルス艦艇 |
潜水艦搭載核魚雷 |
|
50Mt |
モースル要塞 |
コミューン軍 |
自爆攻撃 |
戦争最大の出力 |
800kt |
ザーレ |
モレラ軍機械化部隊 |
特攻機 |
|
500kt |
東地中海 |
CELTO艦隊 |
特攻機 |
|
30Mt |
エルサレム |
CELTO軍 |
MIRV |
|
15Mt |
ベツレヘム |
CELTO軍 |
MIRV |
発射母機同上 |
15Mt |
ヘブロン |
CELTO軍 |
MIRV |
発射母機同上 |
15Mt |
アシュケロン |
CELTO軍 |
MIRV |
発射母機同上 |
700kt |
アルビール |
コミューン軍 |
自爆 |
|
30kt |
ホムス北 |
シェラルド軍 |
核砲撃 |
|
45kt |
東地中海 |
CELTO艦隊 |
対艦弾道ミサイル |
EMP攻撃 |
75kt |
同上 |
同上 |
核特攻機 |
艦隊防空を沈黙 |
300kt |
同上 |
同上 |
重爆撃機による投下 |
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もしレグルスがこの戦争に勝利していたら?というifを描いた
ウォルター・クロウリーによる小説。作中では旧大陸全域がレグルスの恐怖政治の下に置かれており、新大陸も殆どがレグルスの植民地となっている。主人公は反レグルスレジスタンスとして南米の内陸部で戦うが、徐々に追い詰められていく。
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最終更新:2025年03月06日 01:14