人外と人間

人外アパート 大学生×人魚「人魚と魔術師見習い」4

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人魚と魔術師見習い 4 859 ◆93FwBoL6s.様

 円柱形のアクアリウムには、色鮮やかな魚が泳いでいた。
 吹き抜けを貫くようにそびえ立ち、円柱形に造られた分厚いアクリル板の内には人工の水域が形成されていた。
両手に買い物の荷物を抱え、秋野茜はアクアリウムを見上げていた。ショッピングモールを行き交う人々は多いが、
足を止めて魚達を見上げる目は少なかった。ここが水族館なら別だろうが、買い物を目的に訪れる場所でじっくりと
魚を鑑賞しようとする人間は少ないだろう。一匹のピラルクがゆったりと泳ぐ様を眺めていると、後頭部を小突かれた。

「魚なんて見て面白いか?」

 振り返ると、ヤンマが立っていた。その上両足には二人分のソフトクリームがあり、小突いてきたのは中右足だった。

「だって綺麗じゃない」

 茜はストロベリーとチョコのミックスを受け取ると、アクアリウムの手前にあるベンチに腰掛けた。ヤンマも腰を下ろし、
長い腹部を垂らした。春物の服が詰まった紙袋を置いてから、ソフトクリームを舐めた茜は、ヤンマの複眼を見上げた。

「ね、ヤンマ」
「んだよ」
「新しく引っ越してきた人ってさ、人魚さんと住んでいるんだよね。大学一年生の魔法使いで」
「それぐらい、知らねぇわけがねぇだろ。それがどうした」
「だから、真夜ちゃんに人魚さんの話を聞いてみたら、童話の人魚姫ってある程度までが本当なんだってさ」
「王子と結婚しなきゃ泡になって消える、っつーやつか?」
「うん、そうらしいよ。てっきりおとぎ話だとばっかり思っていたけど、ちゃんと元ネタがあったんだね」
「人魚っつっても人間大の大きさの生物だろ? それを泡にするには、結構な量の強酸が必要じゃねぇのか?」
「やだそれ生々しい。ファンタジックな会話が一気に殺伐とした雰囲気になったんだけど」
「自分から言い出したんだろうが」

 ソフトクリームを三口で食べ切り、顎を大きく開いてコーンを噛み砕いたヤンマは、長い下両足を組んだ。

「で、茜は何が言いたいんだ」
「えーと、なんだっけ」

 茜は溶けかけたソフトクリームを舐め取ってから、話を続けた。

「ああ、そうそう。童話の中じゃ人魚姫は声と引き替えに足を手に入れて陸に上がってきたけど、現実には人魚は
ほとんど陸に上がってこないんだって。そりゃ、生活習慣の違いもあるし、完全な水陸両用じゃないから人魚は陸じゃ
暮らしづらいのは違いないけど、魔法も科学も発達したから、多少制限はあっても陸上生活は可能なんだよね。現に、
ミッチーはちゃんと暮らしているし」
「ミッチー? って、ああ、そうか、ミチルだもんな。あの人魚の姉ちゃん」
「そう、だからミッチーね」

 茜は混じり合ったクリームを舐め尽くしてふやけてきたコーンに到達すると、囓り取った。

「真夜ちゃんが言うには、ミッチーみたいな人魚はもっと増えるべきなんだって。その方が人魚族と陸上生物双方の
繁栄に繋がるし、魔法も科学も発達するから、ってことなんだけど、人魚族は考えが古いからー、だってさ。難しいね」
「どこの世界でも、そういうのは変わらねぇんだな」

 ヤンマはかちかちと顎を小突き、遊泳するピラルクを複眼に映した。遠い昔、ヤンマの祖先である人型オニヤンマが
鬼として恐れられ敬われていたが、現代ではただの昆虫人間に成り下がったように、時代の推移には順応すべきだ。
守るべき部分はあるだろうが、変えるべき部分は変えなければならない。それが、生きるということではないだろうか。
 不意に、円柱形の水槽が陰って魚よりも大きな影が飛び込んだ。軽やかに水を蹴って降りてきたのは、人魚だった。
ショッピングモールの社員証をビキニの水着の胸元に付けたポニーテールの人魚は、来客達に笑顔を振りまいてから、
魚達に餌を与えた。茜が彼女に手を振ると、人魚は気安く手を振り返してくれた。人魚は艶やかなウロコに覆われた
下半身を揺らして泳ぎ回ってから、澄んだ声で歌い始めた。
 海の言葉で紡がれる、海の歌だった。


 予定通り、釣りに行った。
 実家から運び出した釣り道具を抱えて電車に乗り、海に向かった。引っ越してきたばかりで地理がよく解らないので、
私鉄の路線図だけでなく海岸沿いの地図も入手し、釣りが出来るポイントに当たりを付けて出発した。
 電車から降りた広海は、陸続きの島に向かった。砂浜もあるが、島の裏手に回れば岩場もあるので、釣りをするには
絶好のポイントだ。これなら、持参した釣り道具だけでなんとかなりそうだ。問題は、釣り場に他人がいるかいないかだ。
広海は島の周囲を歩いて岩場に向かい、見渡すが、天気が良い割に釣り人は思ったよりも少なかった。となると、ここは
それほど釣れないポイントなのかもしれない。それはそれで困るな、と思いつつ、広海は釣り道具を広げて支度してから、
海に狙いを定めてミチルを召喚した。魔法は格好がそれらしくなくても使えるが、完全な釣りの格好では何か妙だった。
 広海が召喚術を放った地点の海面が噴き上がり、爆ぜると、花見の際にプレゼントした水着を着たミチルが降ってきた。
ミチルはするりと海中に飛び込んでから、滑らかに泳いで広海のいる岩場の下に近付いてきた。

「やあ」

 広海が無難な挨拶をすると、ミチルは海水を含んだ髪を掻き上げた。

「温い海ね」
「まあ、春だしね。で、ここは釣れそうかな」
「さあ? この海にどんな魚がいるかなんて知らないし、あんたの腕が悪ければ一匹も引っ掛からないんじゃない?」
「まあねぇ…」

 広海は否定出来ず、曖昧に答えた。実際、広海は大して釣りが上手いわけではない。

「僕が釣っている間は、その辺りで泳いでいなよ。捕まえられそうな魚がいたら」
「勝手に喰うわよ。陸のものばっかりで飽き飽きしてたところだし、あんたが釣るのを待っていたら日が暮れちゃう」

 ミチルは尾ビレを広げながら転身し、飛び込んだ。波間に没した彼女の尾ビレはすぐに見えなくなり、影すらも岩場に
紛れて解らなくなった。きっと、深く潜ったのだろう。もう少し話したかったんだけどな、と残念がりながら、広海は岩場に
来る前に買ったゴカイを出し、釣り針に刺した。うねうねと動く虫を眺め、そういえばミチルはこれも食べるのだろうか、と
思った。きっと食べるだろうが、さすがにゴカイやアオイソメを食べる様を想像したくはない。野性味が溢れすぎている。
 考えるんじゃなかった、と払拭してから、広海は振りかぶって餌を付けた釣り針を投げ込んだ。ちゃぽんと波間に小さな
飛沫を上げて波間に吸い込まれ、程なくして手応えがあったので引っ張ってみると、なぜかミチルが釣れた。その手には
今し方広海がゴカイを刺したばかりの釣り針があり、ミチルは困り顔だった。

「…何よ」
「もしかして、それ、食べたいの?」

 広海がミチルの手中で蠢くゴカイを指すと、ミチルはむくれた。

「こんなにおいしいものを食べるなって言う方が無理に決まってる!」
「ああ、やっぱり食べるんだ、ゴカイ…」
「当たり前よ」
「じゃあ、一つ食べる?」

 広海がパックの中から新鮮なゴカイを一匹つまみ出すと、ミチルは目線を彷徨わせたが釣り針は離さなかった。

「別に、そんなに欲しいわけじゃないし」
「僕のはともかくとして、他の人の餌を横取りされちゃ困るから」
「見損なわないでよ、そこまで恥知らずじゃないわ」
「じゃあ、僕のを食べなよ」

 岩場から身を乗り出した広海がゴカイを差し出すと、岩場に手を付いて昇ってきたミチルは口を開けた。

「仕方ないわね」

 欲しがったのは君の方じゃないの、と、広海は言いかけたが、尖った歯の並ぶ口に活きのいいゴカイを落とした。
ミチルはゴカイに食らい付くと、ずるりと啜って咀嚼し、飲み込んだ。


「まあまあね」

 ミチルはまた岩場から海中に飛び込み、姿を消した。広海はやれやれと思ったが、彼女の魚らしさになんだか笑いが
込み上がった。ゴカイを食べたいのなら、素直に言えばいいのに。ミチルなりに広海に甘えてきてくれているのだろうか。
だとしたら、この前のことは気にしてないのかもしれない。広海も自分の蛮行を忘れようと努めているし、ミチルの方も
あの出来事については何が言ってくる気配はない。言いたくないほど嫌なのか、蒸し返したくないほど興味がないのか。
 花見と言うには物足りないがそれなりに充実した散歩の後から、ミチルの態度が変わったような気がしてならない。
肌を隠すための水着をプレゼントしたからか、ほんの少しだが付き合いが良くなっている。以前なら受け流されていた
会話も続くようになったし、滅多なことがない限りは一緒に食卓を囲んでいる。ミチルに指を舐められたせいで欲情した
挙げ句に押し倒し、無理矢理キスをしたのは、なかったことになっているのかもしれない。思い出せば思い出すほど
後悔に襲われるが、ミチルがなかったことにしているのなら、それに越したことはない。広海は少しだけ手応えのあった
釣り竿を引き、リールを巻いたが、釣り針からは餌が外れていた。最初はこんなものだよな、と妥協し、広海は次の餌を
付けて海中に投げ込んだ。それからしばらく待ったが、まるで引きがなく、やはりこの岩場は外れだったのかもしれない。
 潮風に吹かれていると、緊張しきりだった気持ちが緩んできた。慣れない大学生活や都会での生活で張り詰めていた
神経が解けていくのが感じられ、肩の力が抜けてきた。ミチルも広々とした海で泳ぐのが気持ち良いらしく、釣り人達の
邪魔にならないような場所で泳ぎ回っている。これがデートかどうかは解らないが、少なくとも自分とミチルの気晴らしに
なるようだ。これからも釣りに来よう、次はもっといいポイントを探そう、と弛緩した頭の片隅で考えていると、広海の竿の
先端が曲がってウキが沈んでいた。竿を持ち上げてリールを巻き取ると、銀色のウロコを輝かせた魚が釣り上がった。
 小振りながらも活きのいいアジだった。


 釣果は上々だった。
 だが、上々すぎて広海が持参したクーラーボックスはひどく重たくなった。ミチルをリヤカーに乗せて運ぶ時にも使った
軽量化の魔法を使わなければ、肩が砕けていただろう。今日、釣れたのは主にアジやサバで、大きさは大したことは
なかったが数が凄かった。広海以外の釣り人はそれほどでもなかったので、不思議といえば不思議だが、そのカラクリに
感付けないほど鈍くはない。恐らく、海中で遊んでいたミチルが魚を追い込んでくれたのだろう。素直に嬉しかったが、
ミチルは自分が食べる分の生魚を確保するために広海に釣らせていたのだろうと思うと、少々複雑な気持ちになった。
 一人で食べるには多すぎるし、冷凍保存しようにも冷蔵庫が狭すぎて溢れるので、広海はこれまでの御礼を兼ねて
釣れた魚を202号室のアビゲイルに分けることにした。アビゲイルは喜んで受け取ってくれ、茜ちゃんにもお裾分けして
いいかしら、と聞いてきたので快諾した。ミチルもアビゲイルとは仲が良いので、ちゃんと話せば解ってくれるだろう。
 自室に帰った広海は荷物を置き、フロートジャケットなどを脱いでから、ミチルを居間のビニールプールに召喚した。
水飛沫を散らしながら降ってきたミチルは、遊び回ってさすがに疲れたのか、ビニールプールに身を沈めて程なくして
寝入った。広海はその寝顔を眺めて頬を緩めたが、釣ったアジを加工もせずに放っておくのは良くないと思ったので、
アジを調理して夕食を作るついでに加工した。冷凍保存するため、頭を落として内臓を出して水洗いしなければならない。
釣りと同様に子供の頃から海に慣れ親しんだおかげで魚の処理は出来るので、広海は手早くアジの頭と内臓を外した。

「…ん」

 ごぽ、と小さく泡を吐き、ミチルが目を覚ました。長い髪から水を滴らせながら起き上がり、広海を見上げた。

「結構釣れたのね」
「うん、だから処理しておこうと思って」

 広海がアジの頭を切り落として腹を裂いていると、ミチルは身を乗り出した。

「ちょうだい」
「ああ、これ? 身じゃなくていいの?」

 広海がボウルに溜まったアジの頭と内臓を指すと、答えずにミチルは手を伸ばした。遊んで眠ったから腹が減った
とは、生理現象としては正しいが子供っぽくもある。広海は微笑ましく思いながら、アジの頭と内臓をミチルに渡した。

「人間は勿体ないことするわね。食べないで捨てるなんて」

 ミチルはアジの頭を難なく噛み砕き、飲み込んだ。広海は魚の血と脂にまみれた手を洗い、返した。


「残念だけど、食べるに食べられないんだよ。歯や顎もだけど、体そのものの構造が違うから」
「つまんないわね」

 ミチルは大きく口を開き、アジの内臓を放り込んだ。いずれもアジの新鮮な血にまみれているので、おのずとミチルの
口元や顎にはアジの血混じりの水が伝い落ち、肉食魚らしい様相になった。だが、広海は怖いとは思わず、血の赤さに
彩られた唇や雫が散らばる胸元に目を惹かれた。ミチルは一心にアジの頭と内臓を食べているので、広海の視線には
気付いていないようだったが、広海はなんだか気まずくなってアジの処理作業に戻った。
 アジだらけの夕食を終えた広海は、釣り道具の手入れをしながらミチルの傍にいた。ミチルは話し掛けてくることは
なかったが、こちらに気を向けているらしく、たまに付けっぱなしのテレビから目を外しては広海を窺ってきたが、目が
合いそうになると慌ててそっぽを向いた。広海は水洗いして砂と塩を落とした竿を拭きつつ、ミチルに声を掛けた。

「楽しかった?」
「退屈凌ぎ程度にはね」
「じゃ、また行こうか。今度は別のポイントで釣ってみようと思うんだ」
「勝手にすれば」
「うん、勝手にするよ。ミチルがどうしても行きたくないって言うなら、召喚しないけど」
「ばっ…!」

 ミチルはざばっと水を散らしながら腰を浮かせたが、広海が怪訝な顔をするとまたビニールプールに戻った。

「馬鹿じゃないの。私が広いところで泳ぎたくないわけないじゃない」
「そっか」
「当たり前でしょ」

 ミチルは冷ややかに言い返したが、語尾が弱っていた。広海はミチルの表情を見ようとするが、ミチルはすかさず
身を捻って顔を見せようとしなかったが、機嫌がいいのか尾ビレは揺れている。広海は竿をケースに片付けながら、
今まで訊くに訊けなかったことを訊いてみた。

「ミチルってさ、歌は歌うの?」
「そりゃ、人魚だもの。歌うわよ」
「どういう歌?」
「魔術師になりたいくせして、そんなものも知らないわけ?」
「人魚の歌がどんな歌かは知らないわけじゃないけど、細かいことまではね。僕が専攻しているのは技巧魔術で、
魔術文化じゃないから。良かったら、歌ってくれない?」
「なんで私がそんなことしなきゃならないの」
「だって、聴いてみたいし」

 広海は好奇心に任せて迫るが、ミチルは渋った。

「大したもんじゃないし、人に聴かせるほど上手くはないし、それに…」
「でも、歌は歌じゃない」
「仕方ないわね。但し、一度だけよ。二度は歌わないからね」

 ミチルは赤らんできた頬を隠すため、広海に背を向けた。歌を聴きたいと言われたのは初めてだが、正直言って
恥ずかしくてたまらなかった。もちろん、ミチルもそれなりに歌えるが、人魚の歌は人間の歌とは概念が異なっている。
人間は娯楽と芸術のために歌うが、人魚の歌は攻撃と威嚇、求愛行動だ。歌なんて歌ったら、広海に対する好意が
剥き出しになってしまう。人魚族の言語で歌えば広海には歌詞は解らないだろうが、それでも恥ずかしいものは
恥ずかしい。ミチルはしばらく迷ったが、深く息を吸って肺を膨らませると、近所迷惑にならない程度に歌い始めた。
 愛の歌だった。


 階下から聞こえる歌声に、茜はメールを打つ指を止めた。
 真夜から送られてきたメールに返信した後、耳を澄ませた。茜を下両足の胡座の上に座らせているヤンマも
触角を立てて、歌声に聞き入っている。声こそ違うが、メロディーと歌詞はショッピングモールで魚の世話をしていた
ポニーテールの人魚が歌っていた歌と同じものだった。茜は携帯電話を閉じてから、ヤンマに寄り掛かった。

「ミッチーの歌だね」
「違いねぇ」

 ヤンマは背を丸めて茜の背に覆い被さると、彼女の後頭部に顎を載せた。

「俺はこういうのはさっぱり解らねぇが、綺麗だな」
「うん、凄く」

 茜は目を閉じ、ヤンマに身を委ねた。ミチルの喉から紡がれる歌声は、伸びやかでありながら繊細で、確かな情熱が
込められていた。人間では到底出せない音階を容易に操り、空気を震わせる。ヤンマも茜も人魚族の言語はさっぱり
解らないが、ショッピングモールで魚の世話をしていた人魚の女性従業員、アサミによれば、この求愛の歌だそうである。
 あなたを愛しています。出会えたことを喜びます。母なる海よ、この運命を祝います。だから、どうか、愛する人よ、
この歌を受け取って下さい。身も心もあなたに捧げます。それが私の愛の証です。
 それが、アサミが歌っていた歌であり、今正にミチルが歌っている歌でもあった。だが、ミチルの歌はアサミの歌とは
違い、細く紡がれた声が切なげに震えていた。不安げでもあり、悲しげでもあり、必死ささえある歌声だ。聴いていると、
次第にミチルの感情に引き摺られそうになるほどだった。
 茜はヤンマの足に縋り付くと、ヤンマは茜を抱き寄せてくれた。ミチルは間違いなく恋をしている。思い人は他でもない、
岩波広海だが、彼女が伝えたい思いを乗せた歌は届いていないのだろう。だから、ミチルの歌声は、今にも千切れて
しまいそうな糸のように危うかった。
 近いからこそ、届かないものもある。






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