| 車種名 | ER7 |
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| クラス | B |
| 最高出力 | 330ps |
| 車体重量 | 1300kg |
| パワーウェイトレシオ | 3.9 |
| 吸気形式 | ターボ |
| 駆動方式 | F4 |
| 入手金額 | |
| 0-100km/h加速 | xxx sec. |
| 最高速度 | 183km/h |
| メモ | 三菱最後のワークスマシン。 最初で最後のWRカー |
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概要
元ネタ解説
三菱・ランサーエボリューションWRC
WRカー規定の施行された1997年。周囲がラリーに有利なニューマシンを続々と投入する中、グループA規定のランエボで競技を続行。あくまで市販車ベースに拘った上での判断である。T.マキネンらのドライブによってランエボは実にドライバーズタイトルの4連覇、そして98年のダブルタイトル獲得という輝かしい戦績を残す。しかし、WRカー規定を味方につけた他のメーカーはさらに強力なマシンを開発しており、グループAのランエボは改良程度ではもはや太刀打ちが不可能な領域へと性能が向上。これを受け、三菱は遂に2001年にWRカーへの移行を決定したのであった。
繋ぎとしてランエボⅥトミ・マキネン・エディション(通称エボ6.5)を投入しつつ完全なるニューマシン、ランサーWRCの開発がスタートする。エンジンは従来から変わらず4G63であるが、長年エンジン開発を手掛けてきたHKSによるチューンが加えられた。また、WRカー規定を生かして限界までエンジンを後方に傾けて搭載。縦置きであるが故にWRカー規定に苦しめられたライバルとは違って横置きレイアウトを採用していたため、この辺りはランエボの方が有利だったとも言えるだろう。しかしながら、これだけの改良を行なったにも関わらずデビューイヤーとなる01年シーズンは苦渋を舐めさせられる結果となる。エースドライバーのマキネンはこの車両に切り替わってからは完走1戦に留まり、この年のドライバーズランキングは3位。その獲得ポイントのほとんどはほぼグループAのトミマキエディションによるものであり、あまり目立った活躍はできずじまいであった。
02年はドライバー陣を一新、かつてフォードのエースであったF.デルクールやあのC.マクレーの弟であるA.マクレーを迎え入れる。マシンもエンジンと駆動系以外はラリーアート・ヨーロッパに設計段階から担当させて熟成を図り、ランサーエボリューションWRC2としてデビューさせる。しかし、それほどの改良を行なったWRC2もマクレーが2ポイントを獲得する程度にとどまり、三菱の競技力が急速に衰えているのは誰の目にも明らかであった。全ての市販車とともにラリーカーも岡崎センターで開発し、ラリーカーの要求を満たす市販車を送り出していた従来の三菱の体制では、もはや戦えなくなるほどまでWRCのフィールドが変化してしまっていたのである。
03年シーズン、三菱は1年間ワークス参戦を休止し、マシンの改良に注力。そして04年シーズンに新たなランサーWRCを投入した。ドライバーにはG.パニッツィを軸としてD.ソラ、G.ガリ、C.ソルベルグ(P.ソルベルグ一族とは無関係)がハンドルを握る体制を築き、開幕戦モンテカルロではパニッツィが6位入賞。やっと本調子が戻るかと思われたが、人員不足によってマシン開発は思うように進まず、信頼性にはまだまだ難ありと言わざるを得ない状況。苦戦を強いられるのはあまり変わらなかったようだ。それでもマシン戦闘力自体は着実に向上していたようで、同シーズン15戦のラリー・カタルーニャには改良をしたWRC04で参戦。11戦ラリー・ジャパンからの参戦を一時見送ってマシン開発を進めた甲斐あってソラが6位、ガリが7位入賞と地道に性能を向上させていたことが窺える。
05年シーズンは、新たな車両規定に則ってエアロパーツや足回りなどを変更。開幕戦モンテカルロではパニッツィがいきなり3位表彰台を獲得し、三菱としては実に3年6ヶ月ぶりとなる表彰台獲得となった。ラリー・ジャパンではワークスドライバーを全員送り込む総力体制で挑み、H.ロバンペラが5位を獲得。最終戦ラリー・オーストラリアではロバンペラが2位を獲得して最後の最後にランエボWRCの進化を証明したのであった。そして、このシーズンを持って三菱はWRCへの参戦を休止し、ダカール・ラリーへの参戦へ一本化することを発表する。この幕引きは、ランエボにとって最高の幕引きであったと言えるだろう。
市販車への要求性能の反映と、そこから得られるフィードバックが何よりの武器であったランエボにとって、WRカー規定に則る開発はその強みを活かせない形であったかもしれない。そのような環境で開発された三菱最初で最後のWRカー、そして最後のWRCマシンとなったランエボWRCの戦績はかつての栄光のランエボたちと比較すれば決して華々しいものとはいえない。だがどれほど成績が低迷しようとも、最後には上位争いを演じたランエボWRCの進化の軌跡は大いに評価されるべきだと言える。そして、ランエボの進化によって熟成された四輪駆動技術などは、今の三菱の市販車にも生かされているのである。
繋ぎとしてランエボⅥトミ・マキネン・エディション(通称エボ6.5)を投入しつつ完全なるニューマシン、ランサーWRCの開発がスタートする。エンジンは従来から変わらず4G63であるが、長年エンジン開発を手掛けてきたHKSによるチューンが加えられた。また、WRカー規定を生かして限界までエンジンを後方に傾けて搭載。縦置きであるが故にWRカー規定に苦しめられたライバルとは違って横置きレイアウトを採用していたため、この辺りはランエボの方が有利だったとも言えるだろう。しかしながら、これだけの改良を行なったにも関わらずデビューイヤーとなる01年シーズンは苦渋を舐めさせられる結果となる。エースドライバーのマキネンはこの車両に切り替わってからは完走1戦に留まり、この年のドライバーズランキングは3位。その獲得ポイントのほとんどはほぼグループAのトミマキエディションによるものであり、あまり目立った活躍はできずじまいであった。
02年はドライバー陣を一新、かつてフォードのエースであったF.デルクールやあのC.マクレーの弟であるA.マクレーを迎え入れる。マシンもエンジンと駆動系以外はラリーアート・ヨーロッパに設計段階から担当させて熟成を図り、ランサーエボリューションWRC2としてデビューさせる。しかし、それほどの改良を行なったWRC2もマクレーが2ポイントを獲得する程度にとどまり、三菱の競技力が急速に衰えているのは誰の目にも明らかであった。全ての市販車とともにラリーカーも岡崎センターで開発し、ラリーカーの要求を満たす市販車を送り出していた従来の三菱の体制では、もはや戦えなくなるほどまでWRCのフィールドが変化してしまっていたのである。
03年シーズン、三菱は1年間ワークス参戦を休止し、マシンの改良に注力。そして04年シーズンに新たなランサーWRCを投入した。ドライバーにはG.パニッツィを軸としてD.ソラ、G.ガリ、C.ソルベルグ(P.ソルベルグ一族とは無関係)がハンドルを握る体制を築き、開幕戦モンテカルロではパニッツィが6位入賞。やっと本調子が戻るかと思われたが、人員不足によってマシン開発は思うように進まず、信頼性にはまだまだ難ありと言わざるを得ない状況。苦戦を強いられるのはあまり変わらなかったようだ。それでもマシン戦闘力自体は着実に向上していたようで、同シーズン15戦のラリー・カタルーニャには改良をしたWRC04で参戦。11戦ラリー・ジャパンからの参戦を一時見送ってマシン開発を進めた甲斐あってソラが6位、ガリが7位入賞と地道に性能を向上させていたことが窺える。
05年シーズンは、新たな車両規定に則ってエアロパーツや足回りなどを変更。開幕戦モンテカルロではパニッツィがいきなり3位表彰台を獲得し、三菱としては実に3年6ヶ月ぶりとなる表彰台獲得となった。ラリー・ジャパンではワークスドライバーを全員送り込む総力体制で挑み、H.ロバンペラが5位を獲得。最終戦ラリー・オーストラリアではロバンペラが2位を獲得して最後の最後にランエボWRCの進化を証明したのであった。そして、このシーズンを持って三菱はWRCへの参戦を休止し、ダカール・ラリーへの参戦へ一本化することを発表する。この幕引きは、ランエボにとって最高の幕引きであったと言えるだろう。
市販車への要求性能の反映と、そこから得られるフィードバックが何よりの武器であったランエボにとって、WRカー規定に則る開発はその強みを活かせない形であったかもしれない。そのような環境で開発された三菱最初で最後のWRカー、そして最後のWRCマシンとなったランエボWRCの戦績はかつての栄光のランエボたちと比較すれば決して華々しいものとはいえない。だがどれほど成績が低迷しようとも、最後には上位争いを演じたランエボWRCの進化の軌跡は大いに評価されるべきだと言える。そして、ランエボの進化によって熟成された四輪駆動技術などは、今の三菱の市販車にも生かされているのである。
添付ファイル
