車種名 | WRB |
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クラス | B |
最高出力 | 300ps |
車体重量 | 1230kg |
パワーウェイトレシオ | 4.1 |
吸気形式 | ターボ |
駆動方式 | F4 |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | 3.90sec. |
最高速度 | 176km/h |
メモ | WRカー規定によって更にパワーアップ。 スバル伝統のソニックブルーを纏ったWRX |
記事は編集中です。
概要
Bクラスに登場。直線の安定感に振った1台。クラス随一のワイドなボディで非常にどっしりとした安定感があり、破綻せずに攻められる。裏返せばコーナーではアンダーステアに苦しめられるということでもあるが、それをいかに克服するかが腕の見せ所。実車の人気があるからかランキングではCT5やLD5に混じって熾烈なバトルを繰り広げており、上位陣とも渡り合えるポテンシャルを感じ取れる。
元ネタ解説
富士重工 スバル・インプレッサWRX WRC(GC8)


グループA全盛期。ランチアの牙城が陥落し、ハイパワーターボ+4WDの日本車勢群雄割拠の時代。WRCはスバル・インプレッサと三菱・ランサーエボリューション、さらにはトヨタ・セリカと日本車がその王座を争う格好となっていた。しかしながら、ほぼラリーウェポンそのものともいえる市販車を売れるメーカーは限りがあり、だんだんと寡占が進んでいくこととなってしまう。ホモロゲ取得の条件は12ヶ月に実に5000台(93年の緩和でも2500台)。寒暖差が大きく湿潤で、悪く言えば過酷な環境ゆえに四駆の需要が高く、インプやランエボがよく売れる日本はともかく、欧州メーカーとしてはそもそもの出場が困難となってしまったのだ。果敢にも欧州フォードは四駆スポーツのエスコートを投入し、日本車勢に真っ向勝負を挑んでいる。しかし、これはあくまで当時の例外である。
これに対し、FIAが特例として認めた規定がWRカーである。これは簡単に言えば年間25000台以上が生産された量産モデルが存在する場合、その中で2500台以上が売れた派生車種をベースとして駆動方式、エンジンの過給方式などを自由に変更できるという規定。これによりグループB時代の名門プジョーや東欧の雄シュコダ、ダークホースであるスペインのセアトに韓国からの刺客ヒュンダイなど、高性能な4WDマシンを持たない多くのメーカーもある程度自由に4WDマシンを開発し、参戦できるようになったのである。こうしてWRCはグループA末期の過疎が嘘だったかのような活況を見せることとなった。
そんな規定の施行に合わせ、王者日本勢やほぼ唯一のライバルフォードも当然新規のラリーカー開発に着手。かつての攻勢とは立場が逆転し、今度はその王座を守るべくより戦闘力の高いマシンを投入するに至った。こうして、スバルが従来のインプレッサセダンWRX(ホモロゲ名:インプレッサ555)に代わって送り出したのがこのインプレッサWRC。WRXからの主な変更点としては車体のベースがWRXから「リトナ」という2ドアモデルになったこと、車体の幅を広げるブリスターフェンダーで武装していることだろう。これはサスペンションの形状変更に由来し、よりワイド&ローな印象を与える。ボンネットのエアスクープは本来リトナには設置されていないが、WRXにはついているため販促の観点から特例で設置が許可された。実はこの時代、他メーカーも様々な特例を適用されながら参戦していたのだが、この項では割愛する。
エンジンは名機と名高いEJ20型水平対向4気筒ターボ。300馬力を発生し、四輪を駆動する。インプレッサは水平対向エンジンによって実現される低重心を生かした抜きん出た機動力が自慢であり、ワークスドライバーであったC.サインツ.セナモールは(グループA時代のマシンではあるが)この車のことを「勝てるマシン」と評していたようである。
ご存知の方も多いとは思うが、インプレッサはWRCを複数制覇している。ここでは先代のWRXことインプレッサ555の戦績と併せて解説を行う。
そもそもインプレッサが市場に出た時期に現役だったのは、先代のラリーウェポンであるレガシィであった。スバルの販売戦略としてもインプレッサを早期に投入したい気持ちは山々だったようだが、STiの初代社長であった久世隆一郎は「なんとしてもレガシィのスタッフたちに報いなければならない」とレガシィで勝つまでインプレッサを投入しない意思を表明していたという(のちに本人は否定しているが)。兎にも角にも、93年のラリー・ニュージーランドをもってレガシィの引退が通達される。迎えたレガシィの最終戦、ニュージーランドでは王者ランチアに加えてトヨタにフォードや三菱と、並いる強豪がひしめく一戦となった。また路面状況もトリッキーだったようで、ワークスドライバーのA.バタネンは残念ながらリタイアを喫してしまっている。一方、もう一人のワークスドライバーであり、スバルの名ドライバーとして名高いC.マクレーは熟成されたレガシィの確かな実力を遺憾無く発揮し、フォードのF.デルクールやトヨタのD.オリオールといった強敵たちを凌ぎ見事優勝。レガシィの引退に花を添え、インプレッサに引導を渡したのである。次戦、シーズン末の1000湖ラリーでは予定通りインプレッサが表舞台に立った。バタネンとM.アレンを擁して挑んだこのステージは、アレンがスタート直後、僅か800mの地点で石にヒットして戦線離脱してしまう(*1)。一方のバタネンは安定したペースで走り続け、ライトポッドの影響によるトラブルで惜しくも優勝を逃すもいきなり2位を獲得。その戦闘力の高さを見せつけた。94年シーズンはランチアから移籍したWRC2冠のサインツを迎え入れ、アクロポリスラリーにて初優勝。マクレーも2勝を挙げ、マニュファクチャラーズランキングで2位に食い込む大健闘を見せる。
95年シーズン。サインツがモンテカルロで圧勝するという好スタートを切ったスバル勢だが、次戦スウェーデンでまさかの全車エンジンブローという結末を迎えてしまう。リストリクター径の縮小に対応して組み込んだ新規パーツの強度が不足してしまったことが原因だった。しかしエンジニア陣の努力の甲斐あって、対策パーツ組み込み以降のトラブルの再発は免れた。このシーズンではラスト2戦に表彰台を独占する大勝利を含め8戦中5勝を挙げ、スバル初となる悲願のマニュファクチャラーズチャンピオンを獲得。さらにマクレーが当時史上最年少となる27歳と109日(*2)でドライバーズチャンピオンを獲得し、ダブルタイトルという偉業を成し遂げた。このことを記念し、スバルは当時のインプレッサWRX STi ver.Ⅱに95年の記念バッジとオリジナルバケットシート、WRCカラーのスポーツブルーといった豪華装備を与えられた限定モデル「Vリミテッド」を発売。これはスバルが優勝するたびにインプレッサに設定されるモデルとなり、優勝しなかった年は単に「リミテッド」として販売された。また、マクレーの故郷でありマシン開発を担当したプロドライブの本拠地でもあるイギリスでは、ドライバーズタイトル獲得を記念して「シリーズ・マクレー」というマクレーの名を冠したモデルを200台限定で販売。コスミックブルーのボディにゴールドのホイールが映える1台だった。
続く96年も、ドライバーズタイトルは三菱のT.マキネンに奪われてしまったものの、マニュファクチャラーズタイトルは防衛成功。2連覇を成し遂げる。この年にも当然だが96年のバッジを装備したver.Ⅲ Vリミテッドが発売された。余談だが、2012年の笹子トンネル崩落事故において、運転していたNHK記者とその妻を乗せて、大破しつつもトンネルを脱出したインプレッサがこのver.ⅢのVリミテッドであった。当該車両は中津スバルで修復された上で保管されているとのこと。修復の記事からバッジが確認できる。また英国スバルも限定商法に味を占めたのか、WRC2連覇を記念したモデルを200台限定で発売。このモデルにはマニュファクチャラーズタイトル連覇を決定した地にあやかってターボ2000「カタルニア」の名が与えられた。インプレッサの限定モデルとしては珍しくボディはブラックマイカ(*3)で、専用の赤いエンブレムが装備される他、一部ディーラーでは本革シートやサンルーフにも対応するなどの豪華仕様であった。
97年シーズンからは、当項目のWRカーが投入される。ドライバーズタイトルはマクレーとマキネンが争う構図となり、前年の王者相手にマクレーは奮戦するも惜しくも1ポイント差でマキネンにタイトルを防衛される。一方でマニュファクチャラーズタイトルはまたも防衛に成功。国産車としては初となる3連覇を成し遂げた。この年からVリミテッドはWRカーに合わせた新色「ソニックブルー」を纏うこととなり、さらに伝説の2ドアクーペ「22B」も400台限定で発売。このモデルはGC8のアプライドE型(STi ver.Ⅳ相当)のクーペモデルを製造ラインとは別の工場に運び込み、手作業で専用パーツを架装するという非常に贅沢な作りとなっていた。外観はブリスターフェンダーや形状の変更されたバンパーによってWRカーのイメージを再現。エンジンもボアアップによるトルク増強が図られた2.2LのEJ22を搭載。その他も専用品てんこ盛りのため価格は通常のWRX、しかもSTiバージョンが300万円に対してポッキリ500万円という設定。これでも人件費などを考えれば儲けはほぼ無かったようである。果たしてそんな値段をつけて売れるのかという意見もあったようだが、いざ販売してみればわずか2日で完売。現在では数千万円で取引されるというマニア垂涎のモデルとなったのであった。また3連覇の快挙には英国スバルも黙っているわけがなく、ターボ2000「Terzo」を333台限定で販売。この名称はイタリア語で「3番目の」を意味する。カラーはやはりソニックブルーが用意され、こちらも専用エンブレムの他、純正でイモビライザーが装備されていた。
98年、99年、2000年はトヨタや三菱の後塵を拝し、タイトルからは遠のいてしまう。しかしながら99年シーズンでは油圧式セミATを他マニュファクチャラーに先駆けて採用。トラブルの多さに悩まされたようだが、熟成が進んでくると11年にレギュレーション変更で禁止されるまで他メーカーも採用するなど、先見の明があると言えるシステムであった。
2001年より、インプレッサは新しく発売された2代目GD型をベースにWRCを戦うことになる。スバルはこの後もドライバーズタイトルを獲得するなどWRCで活躍しているが、その礎の一つには間違いなくこのGC型インプレッサが存在するであろう。WRカーのインプレッサは現在でもなお根強い人気を誇り、2023年にはマシン開発を担当したプロドライブが、インプレッサWRC開発25周年を記念してWRカーのルックスを再現したロードカー「P25」を限定25台で販売。ドナーカーのリトナをベースにEJ25と6速セミATを組み合わせ、ボディにはふんだんにカーボンが使用される。そのお値段なんと約9000万円とのことだが、それほどのこだわりを持ってこの車を売りに出すプロドライブには脱帽である。
ランエボと並び国産、いや世界中の車の中でもグループA最強格と讃えられるインプレッサ。この車は国内のラリー人気の火付け役としても欠かせない、日本のラリー界を代表する1台である。
これに対し、FIAが特例として認めた規定がWRカーである。これは簡単に言えば年間25000台以上が生産された量産モデルが存在する場合、その中で2500台以上が売れた派生車種をベースとして駆動方式、エンジンの過給方式などを自由に変更できるという規定。これによりグループB時代の名門プジョーや東欧の雄シュコダ、ダークホースであるスペインのセアトに韓国からの刺客ヒュンダイなど、高性能な4WDマシンを持たない多くのメーカーもある程度自由に4WDマシンを開発し、参戦できるようになったのである。こうしてWRCはグループA末期の過疎が嘘だったかのような活況を見せることとなった。
そんな規定の施行に合わせ、王者日本勢やほぼ唯一のライバルフォードも当然新規のラリーカー開発に着手。かつての攻勢とは立場が逆転し、今度はその王座を守るべくより戦闘力の高いマシンを投入するに至った。こうして、スバルが従来のインプレッサセダンWRX(ホモロゲ名:インプレッサ555)に代わって送り出したのがこのインプレッサWRC。WRXからの主な変更点としては車体のベースがWRXから「リトナ」という2ドアモデルになったこと、車体の幅を広げるブリスターフェンダーで武装していることだろう。これはサスペンションの形状変更に由来し、よりワイド&ローな印象を与える。ボンネットのエアスクープは本来リトナには設置されていないが、WRXにはついているため販促の観点から特例で設置が許可された。実はこの時代、他メーカーも様々な特例を適用されながら参戦していたのだが、この項では割愛する。
エンジンは名機と名高いEJ20型水平対向4気筒ターボ。300馬力を発生し、四輪を駆動する。インプレッサは水平対向エンジンによって実現される低重心を生かした抜きん出た機動力が自慢であり、ワークスドライバーであったC.サインツ.セナモールは(グループA時代のマシンではあるが)この車のことを「勝てるマシン」と評していたようである。
ご存知の方も多いとは思うが、インプレッサはWRCを複数制覇している。ここでは先代のWRXことインプレッサ555の戦績と併せて解説を行う。
そもそもインプレッサが市場に出た時期に現役だったのは、先代のラリーウェポンであるレガシィであった。スバルの販売戦略としてもインプレッサを早期に投入したい気持ちは山々だったようだが、STiの初代社長であった久世隆一郎は「なんとしてもレガシィのスタッフたちに報いなければならない」とレガシィで勝つまでインプレッサを投入しない意思を表明していたという(のちに本人は否定しているが)。兎にも角にも、93年のラリー・ニュージーランドをもってレガシィの引退が通達される。迎えたレガシィの最終戦、ニュージーランドでは王者ランチアに加えてトヨタにフォードや三菱と、並いる強豪がひしめく一戦となった。また路面状況もトリッキーだったようで、ワークスドライバーのA.バタネンは残念ながらリタイアを喫してしまっている。一方、もう一人のワークスドライバーであり、スバルの名ドライバーとして名高いC.マクレーは熟成されたレガシィの確かな実力を遺憾無く発揮し、フォードのF.デルクールやトヨタのD.オリオールといった強敵たちを凌ぎ見事優勝。レガシィの引退に花を添え、インプレッサに引導を渡したのである。次戦、シーズン末の1000湖ラリーでは予定通りインプレッサが表舞台に立った。バタネンとM.アレンを擁して挑んだこのステージは、アレンがスタート直後、僅か800mの地点で石にヒットして戦線離脱してしまう(*1)。一方のバタネンは安定したペースで走り続け、ライトポッドの影響によるトラブルで惜しくも優勝を逃すもいきなり2位を獲得。その戦闘力の高さを見せつけた。94年シーズンはランチアから移籍したWRC2冠のサインツを迎え入れ、アクロポリスラリーにて初優勝。マクレーも2勝を挙げ、マニュファクチャラーズランキングで2位に食い込む大健闘を見せる。
95年シーズン。サインツがモンテカルロで圧勝するという好スタートを切ったスバル勢だが、次戦スウェーデンでまさかの全車エンジンブローという結末を迎えてしまう。リストリクター径の縮小に対応して組み込んだ新規パーツの強度が不足してしまったことが原因だった。しかしエンジニア陣の努力の甲斐あって、対策パーツ組み込み以降のトラブルの再発は免れた。このシーズンではラスト2戦に表彰台を独占する大勝利を含め8戦中5勝を挙げ、スバル初となる悲願のマニュファクチャラーズチャンピオンを獲得。さらにマクレーが当時史上最年少となる27歳と109日(*2)でドライバーズチャンピオンを獲得し、ダブルタイトルという偉業を成し遂げた。このことを記念し、スバルは当時のインプレッサWRX STi ver.Ⅱに95年の記念バッジとオリジナルバケットシート、WRCカラーのスポーツブルーといった豪華装備を与えられた限定モデル「Vリミテッド」を発売。これはスバルが優勝するたびにインプレッサに設定されるモデルとなり、優勝しなかった年は単に「リミテッド」として販売された。また、マクレーの故郷でありマシン開発を担当したプロドライブの本拠地でもあるイギリスでは、ドライバーズタイトル獲得を記念して「シリーズ・マクレー」というマクレーの名を冠したモデルを200台限定で販売。コスミックブルーのボディにゴールドのホイールが映える1台だった。
続く96年も、ドライバーズタイトルは三菱のT.マキネンに奪われてしまったものの、マニュファクチャラーズタイトルは防衛成功。2連覇を成し遂げる。この年にも当然だが96年のバッジを装備したver.Ⅲ Vリミテッドが発売された。余談だが、2012年の笹子トンネル崩落事故において、運転していたNHK記者とその妻を乗せて、大破しつつもトンネルを脱出したインプレッサがこのver.ⅢのVリミテッドであった。当該車両は中津スバルで修復された上で保管されているとのこと。修復の記事からバッジが確認できる。また英国スバルも限定商法に味を占めたのか、WRC2連覇を記念したモデルを200台限定で発売。このモデルにはマニュファクチャラーズタイトル連覇を決定した地にあやかってターボ2000「カタルニア」の名が与えられた。インプレッサの限定モデルとしては珍しくボディはブラックマイカ(*3)で、専用の赤いエンブレムが装備される他、一部ディーラーでは本革シートやサンルーフにも対応するなどの豪華仕様であった。
97年シーズンからは、当項目のWRカーが投入される。ドライバーズタイトルはマクレーとマキネンが争う構図となり、前年の王者相手にマクレーは奮戦するも惜しくも1ポイント差でマキネンにタイトルを防衛される。一方でマニュファクチャラーズタイトルはまたも防衛に成功。国産車としては初となる3連覇を成し遂げた。この年からVリミテッドはWRカーに合わせた新色「ソニックブルー」を纏うこととなり、さらに伝説の2ドアクーペ「22B」も400台限定で発売。このモデルはGC8のアプライドE型(STi ver.Ⅳ相当)のクーペモデルを製造ラインとは別の工場に運び込み、手作業で専用パーツを架装するという非常に贅沢な作りとなっていた。外観はブリスターフェンダーや形状の変更されたバンパーによってWRカーのイメージを再現。エンジンもボアアップによるトルク増強が図られた2.2LのEJ22を搭載。その他も専用品てんこ盛りのため価格は通常のWRX、しかもSTiバージョンが300万円に対してポッキリ500万円という設定。これでも人件費などを考えれば儲けはほぼ無かったようである。果たしてそんな値段をつけて売れるのかという意見もあったようだが、いざ販売してみればわずか2日で完売。現在では数千万円で取引されるというマニア垂涎のモデルとなったのであった。また3連覇の快挙には英国スバルも黙っているわけがなく、ターボ2000「Terzo」を333台限定で販売。この名称はイタリア語で「3番目の」を意味する。カラーはやはりソニックブルーが用意され、こちらも専用エンブレムの他、純正でイモビライザーが装備されていた。
98年、99年、2000年はトヨタや三菱の後塵を拝し、タイトルからは遠のいてしまう。しかしながら99年シーズンでは油圧式セミATを他マニュファクチャラーに先駆けて採用。トラブルの多さに悩まされたようだが、熟成が進んでくると11年にレギュレーション変更で禁止されるまで他メーカーも採用するなど、先見の明があると言えるシステムであった。
2001年より、インプレッサは新しく発売された2代目GD型をベースにWRCを戦うことになる。スバルはこの後もドライバーズタイトルを獲得するなどWRCで活躍しているが、その礎の一つには間違いなくこのGC型インプレッサが存在するであろう。WRカーのインプレッサは現在でもなお根強い人気を誇り、2023年にはマシン開発を担当したプロドライブが、インプレッサWRC開発25周年を記念してWRカーのルックスを再現したロードカー「P25」を限定25台で販売。ドナーカーのリトナをベースにEJ25と6速セミATを組み合わせ、ボディにはふんだんにカーボンが使用される。そのお値段なんと約9000万円とのことだが、それほどのこだわりを持ってこの車を売りに出すプロドライブには脱帽である。
ランエボと並び国産、いや世界中の車の中でもグループA最強格と讃えられるインプレッサ。この車は国内のラリー人気の火付け役としても欠かせない、日本のラリー界を代表する1台である。
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