第583話:意志葬送(前編) 作:◆5Mp/UnDTiI
「……ふむ」
「どうしたのさ。難しそうにため息なんかついたりして?」
イザークの洩らした小さな唸り声を、しかし娯楽に飢えていたディートリッヒは聞き逃さなかった。
彼ら管理者のみに入室を許されたモニタールーム。そこには“ゲーム”の進行状況が刻々と映し出されている。
一日が過ぎ、既にゲームは佳境。『刻印』を解除できそうな集団も現れ始めている。
イザークの視線の先にある電光板にはいくつもの点が映されていた。
これはひとつひとつが参加者――その身と魂に捺された『刻印』を表すものだ。
基本的に刻印は不滅だ。死後もそれは残る故に、その数は減ることがない。
だからこそ、それはイレギュラーとしてカウントされた。
「刻印の反応がひとつ、ロストした」
「……消えたってこと? 除去されちゃったのかい?」
「いや、直前の会話を聞く限りそれはないよ。さすがにあれは演技ではないだろうからね」
気付けば銜えていた細葉巻はほとんど灰になっていた。だいぶモニタに気を取られていたらしい。
演技でない本物の慟哭、宣言、裏切り、吐露――下手な演劇を見るよりは格段に楽しめた。
その余韻と共に紫煙を吐き、燃え尽きたシガリロを灰皿に押しつける。
彼ら管理者に与えられている権限は、実のところそれほど多くはない。
刻印の発動権限を除けば、あとは盗聴や島中に隠した監視カメラの映像をみるのが精々だ。
(クライアントにとって我々は駒でしかない。目的を達するための道具であって、参加者と同列程度にしか見ていないだろう。
……もっとも、こちらも似たような認識なのだから他人のことは言えないが)
自分らとて、籠の中の鳥には違いないのだ――魔術師はそう考える。
だが自由に羽ばたけぬ鳥も、餌箱の中身くらいは自由にできる。喰らうも、払い落とすも自由だ。
そも、その鳥が金網を突き破って羽ばたくような怪鳥ではないと誰がいいきれるのか――?
あちらが自分たちを良いように使っているように、こちらも向こうを利用できるモノとしか見ていない。
騎士団としては、異世界の技術が手に入ればそれでいい。
それに対して求められた、クライアント達の望む物は――
「心の実在を証明せよ、か……」
それは喉に刺さった小骨のようなものだ。些事だが、それでも常に気に障る。そんな呟き。
その微かな囁きを人形使いの耳は拾うことが出来た。
僅かに虚空を見上げるようにして考え込み――だがすぐに記憶の検索を放棄して、尋ねる。
「なんだっけ、それ。どっかで聞いた覚えはあるんだけど」
「クライアントがこの話を持ちかけてきた時、さ」
ああ――と納得した風に鳶色の瞳が揺れ、そしてすぐに小馬鹿にした笑みへと変じる。
こんな箱庭を造り、あまつさえ好き放題に他世界へ干渉した挙句、求めるものが『心の証明』。
馬鹿馬鹿しい。そうとしか言いようがないではないか。
「本当は何が目的なんだろうねぇ。まさか本当にあんな理由でここまで酔狂をすると思うかい、イザーク?」
「無いとも言いきれないさ。それになかなか興味深い問いかけだよ、これは。
古文詩における偉人達も幾度としてそれを綴ってきた。だが正答はいまだ現れていないのだから。
機会があるのならば、答えを聞いてみたい問いではあるね」
肩をすくめながら、魔術師。
それを見てディートリッヒは笑った。
その態度こそが、イザークなりの『答え』に見えたからだ。
「イザーク。君はさ、心の証明ができるなんて信じちゃいないんだろう」
「心はあると信じているよ。私なりの証明としてはそれで十分だ。
すでに持っている存在の有無など、悩むだけ無駄というものだろう。
それよりも刻印の問題に取りかかるとしようか」
「それもそうだね。消えたのは誰だい?」
あっさりと興味を失い、ディートリッヒがコンソールに触れた。高速で流れていく数字の羅列。
それは参加者のデータ――能力や生い立ちに至るまでを詳細に綴られたものだった。これも神野から提供された物である。
「NO.078……ダウゲ・ベルガー。最終確認地点はC-6」
それを確認し、イザークがその名を読み上げる。
ディートリッヒはモニターの端から端まで目を通し、だがすぐにうーんと困った風な声をあげた。
「出自はぶっとんでるけど、彼自身に刻印をどうこうできるような能力はないね」
「すると、要因は別にあるというわけか……人形使い、支給品の選定をやったのは君だったね?」
「そうだけど?」
さして興味もなさげに、ディートリッヒ。
ここではない別の部屋には、魔剣から高機動戦艦まで様々な異世界の物品が収められている。
すべてクライアントから提供された品で、支給品として配布した物以外は好きにして良いらしい。だが、
「なら、彼の支給品はなんだったんだい?」
「……説明書が付いてなかったけど、確か黒い置物じゃなかったかな?」
だが中には正体不明の品も数多くあるため、手を出せないと言うのが現状だった。
触れた瞬間爆発する可能性も否定できないため、人形使いがわざわざ屍兵を使ってまで『気紛れに』選別したのである。
イザークは複数あるモニターの一枚を指した。どうやらそれは参加者が島を移動した軌跡を線で示しているらしい。
その中で、NO.078を示すマーカーは奇妙だった。線が途中で何回か途切れている。
「過去のデータを見るに、彼に支給されたのは瞬間移動を可能にする品だったらしい。
だがそれでは刻印の反応が消失する理由にはならない。証拠は不十分、か。さて、どうしたものかな?」
「刻印を発動させてみれば良いんじゃない? 不安要素なんだし」
それはつまり「殺せば良いんじゃない?」ということと同義だ。
何気なく、彼らは死を提案できる。
刻印の発動は瞬時。望めば、それこそ瞬きする暇もなく参加者を皆殺しに出来るだろう。
そう。主催者に従い殺す者や、それに抗う者。迷う者。
その全ての努力を、一瞬で無為に帰すことが出来る。
「そうすることは簡単だが、さて……」
魔術師は小さく呻き、そして――
「どうしたのさ。難しそうにため息なんかついたりして?」
イザークの洩らした小さな唸り声を、しかし娯楽に飢えていたディートリッヒは聞き逃さなかった。
彼ら管理者のみに入室を許されたモニタールーム。そこには“ゲーム”の進行状況が刻々と映し出されている。
一日が過ぎ、既にゲームは佳境。『刻印』を解除できそうな集団も現れ始めている。
イザークの視線の先にある電光板にはいくつもの点が映されていた。
これはひとつひとつが参加者――その身と魂に捺された『刻印』を表すものだ。
基本的に刻印は不滅だ。死後もそれは残る故に、その数は減ることがない。
だからこそ、それはイレギュラーとしてカウントされた。
「刻印の反応がひとつ、ロストした」
「……消えたってこと? 除去されちゃったのかい?」
「いや、直前の会話を聞く限りそれはないよ。さすがにあれは演技ではないだろうからね」
気付けば銜えていた細葉巻はほとんど灰になっていた。だいぶモニタに気を取られていたらしい。
演技でない本物の慟哭、宣言、裏切り、吐露――下手な演劇を見るよりは格段に楽しめた。
その余韻と共に紫煙を吐き、燃え尽きたシガリロを灰皿に押しつける。
彼ら管理者に与えられている権限は、実のところそれほど多くはない。
刻印の発動権限を除けば、あとは盗聴や島中に隠した監視カメラの映像をみるのが精々だ。
(クライアントにとって我々は駒でしかない。目的を達するための道具であって、参加者と同列程度にしか見ていないだろう。
……もっとも、こちらも似たような認識なのだから他人のことは言えないが)
自分らとて、籠の中の鳥には違いないのだ――魔術師はそう考える。
だが自由に羽ばたけぬ鳥も、餌箱の中身くらいは自由にできる。喰らうも、払い落とすも自由だ。
そも、その鳥が金網を突き破って羽ばたくような怪鳥ではないと誰がいいきれるのか――?
あちらが自分たちを良いように使っているように、こちらも向こうを利用できるモノとしか見ていない。
騎士団としては、異世界の技術が手に入ればそれでいい。
それに対して求められた、クライアント達の望む物は――
「心の実在を証明せよ、か……」
それは喉に刺さった小骨のようなものだ。些事だが、それでも常に気に障る。そんな呟き。
その微かな囁きを人形使いの耳は拾うことが出来た。
僅かに虚空を見上げるようにして考え込み――だがすぐに記憶の検索を放棄して、尋ねる。
「なんだっけ、それ。どっかで聞いた覚えはあるんだけど」
「クライアントがこの話を持ちかけてきた時、さ」
ああ――と納得した風に鳶色の瞳が揺れ、そしてすぐに小馬鹿にした笑みへと変じる。
こんな箱庭を造り、あまつさえ好き放題に他世界へ干渉した挙句、求めるものが『心の証明』。
馬鹿馬鹿しい。そうとしか言いようがないではないか。
「本当は何が目的なんだろうねぇ。まさか本当にあんな理由でここまで酔狂をすると思うかい、イザーク?」
「無いとも言いきれないさ。それになかなか興味深い問いかけだよ、これは。
古文詩における偉人達も幾度としてそれを綴ってきた。だが正答はいまだ現れていないのだから。
機会があるのならば、答えを聞いてみたい問いではあるね」
肩をすくめながら、魔術師。
それを見てディートリッヒは笑った。
その態度こそが、イザークなりの『答え』に見えたからだ。
「イザーク。君はさ、心の証明ができるなんて信じちゃいないんだろう」
「心はあると信じているよ。私なりの証明としてはそれで十分だ。
すでに持っている存在の有無など、悩むだけ無駄というものだろう。
それよりも刻印の問題に取りかかるとしようか」
「それもそうだね。消えたのは誰だい?」
あっさりと興味を失い、ディートリッヒがコンソールに触れた。高速で流れていく数字の羅列。
それは参加者のデータ――能力や生い立ちに至るまでを詳細に綴られたものだった。これも神野から提供された物である。
「NO.078……ダウゲ・ベルガー。最終確認地点はC-6」
それを確認し、イザークがその名を読み上げる。
ディートリッヒはモニターの端から端まで目を通し、だがすぐにうーんと困った風な声をあげた。
「出自はぶっとんでるけど、彼自身に刻印をどうこうできるような能力はないね」
「すると、要因は別にあるというわけか……人形使い、支給品の選定をやったのは君だったね?」
「そうだけど?」
さして興味もなさげに、ディートリッヒ。
ここではない別の部屋には、魔剣から高機動戦艦まで様々な異世界の物品が収められている。
すべてクライアントから提供された品で、支給品として配布した物以外は好きにして良いらしい。だが、
「なら、彼の支給品はなんだったんだい?」
「……説明書が付いてなかったけど、確か黒い置物じゃなかったかな?」
だが中には正体不明の品も数多くあるため、手を出せないと言うのが現状だった。
触れた瞬間爆発する可能性も否定できないため、人形使いがわざわざ屍兵を使ってまで『気紛れに』選別したのである。
イザークは複数あるモニターの一枚を指した。どうやらそれは参加者が島を移動した軌跡を線で示しているらしい。
その中で、NO.078を示すマーカーは奇妙だった。線が途中で何回か途切れている。
「過去のデータを見るに、彼に支給されたのは瞬間移動を可能にする品だったらしい。
だがそれでは刻印の反応が消失する理由にはならない。証拠は不十分、か。さて、どうしたものかな?」
「刻印を発動させてみれば良いんじゃない? 不安要素なんだし」
それはつまり「殺せば良いんじゃない?」ということと同義だ。
何気なく、彼らは死を提案できる。
刻印の発動は瞬時。望めば、それこそ瞬きする暇もなく参加者を皆殺しに出来るだろう。
そう。主催者に従い殺す者や、それに抗う者。迷う者。
その全ての努力を、一瞬で無為に帰すことが出来る。
「そうすることは簡単だが、さて……」
魔術師は小さく呻き、そして――
◇◇◇
「アラストール……出来るか」
『もちろんだ……ダウゲ・ベルガー』
紡ぐ言霊はただ一言。
その一言に少女の遺志を。女帝の遺志を。
そして全てを織り交ぜた絶大な自身の意志を伴って、彼らは往く。
目標は怨敵。このゲームの黒幕である神野陰之。
「それで? 君達はどうする気かね?」
その進撃を、神野が嗤う。
「ダウゲ・ベルガー。神の半身たる“運命”を失った君ではこの無名の庵を切り拓くことは敵わない。
断罪の王よ。もとより契約者を失った君に何が出来る?」
無名の庵に出入り口はない。
参加者は神野自身がそれを許可するか、でなければ“偶然”に頼ることでしかここに立ち入ることは出来ない。
――否。“出来なかった”。
そう――その法則は、すでに過去のものだ。
それはもはや打ち破られた。ただ弄ばれることしかできなかったはずの二人によって。
ダウゲ・ベルガーとアラストール。その両名が抱いた、独りの少女に対する想い。
それはルールの一端を破戒した。ならば黒幕達の思惑など、すでに障害となりえない。
故に彼らは恐れない。進撃は止まらない。
「おい、自分で言っといてもう忘れたのか?」
『貴様は言ったな。ああ確かに言った。死者の側から為せることは何もないと。
我らは生者だ。ならば我らは貴様に届くぞ。屍を乗り越えて進むぞ。死の河を渡って進むぞ。志を背負って進むぞ。
――そしてその果てに、我らは必ずや貴様を打ち砕こう』
その言葉を具現するように、コキュートスを身につけたベルガーは歩き出した。神野に向かって一直線に。迷うことなく強靭に。
そして彼らの宣言と行軍を前にして退きもせず、神野は近づいてくるベルガーに言葉を投げる。
「――だが、不可能だ。
なるほど、その気概はなかなかどうして強固だ。打ち砕くのは容易ではない。
それでも君たちはどこにも行けない。歩む意志があっても、足と道が無くては進めないだろう」
彼らには決定的に“手段”が不足しているのだと。
神野は、その現状を突きつけた。
それは確かに事実かも知れない。
単純な力技でここら脱出するのならば、それこそ神に等しい力でもなければ不可能だ。
それでも彼らは歩みをとめない。
「お前の妄言は聞き飽きた。ずっと聞いていた。シャナの心がズタボロにされるのを、ただ聞かされていた」
意識の手綱はいつから戻っていたのか。
思考を取り戻した瞬間の記憶はなく、ただ曖昧な感覚だけがある。
それでも彼は知っていた。
自らを犠牲にして彼を救った少女を。それを決断をした男を。
破壊精霊の攻撃で離ればなれになってしまった二人のその末路を。
己の生存の代価である、仲間の死を知っていた。
それは神野の話を聞いていたからか。それとも何か他の理由があるのか。
いずれにしろ、取るべき道は一つしかない。ベルガーは獰猛に笑った。
「だから、迷わないさ。俺は世界で二番目に、諦めが悪い男なんでね」
歩むための四肢が無いというのなら、地面を喰らってでも這いずろう。その為に、まだ自分は生きている。
進むための道が無いというのなら、埋め立てて進もう。その為の代償は、すでに支払われてしまった。
如何なる障害を前にしても、もはや、折れない。ダウゲ・ベルガーは疾く直進する。
神野とベルガーの距離は縮まり、あと数歩で両者は届く。
それでも神野は嗤っていた。一歩も動かずに、ただ飄々とそこに佇み、冒涜を口にし続ける。
「ただ『私』は真実を述べているだけだよ。一面に置いての真実かも知れないがね。
つまりある一面に置いて、彼女は確かに誤った選択肢を選び――」
その冒涜が、唐突に途切れた。
代わりに響いた声はベルガーの静かな恫喝――
「――約束だからな、シャナ」
そして同じく響いた音はとても鈍い音。骨が肉越しに敵の骨を打つ音。
『その想いを否定できるものなど居るものか。
居たら、俺が殴り飛ばしてやる』
それは炎髪灼眼の少女が消滅する寸前に、ベルガーが交わした誓い。
その果たされた約束は、神野の横面を捉えていた。
躊躇いもなく全力で打った拳からは、確かに相手の骨を砕く感触が伝わってくる。
その感触。音。そして確かに変形した筈の神野の顔をベルガーの視覚は捉えていた。確かに五感で感じていた。だが、
「彼女を否定する気は無いさ。無論、肯定するつもりもないが」
朗々とした声は、ベルガーの背後から響いた。
ゆっくりと振り返ると、殴られた頬に痣一つ無く、嘲笑を浮かべたままの神野が立っている。
殴られた事実など無かったように、一瞬前となんら変わらず闇はただ悠然と存在していた。
「そして君たちを弄言でどうにかできるとも思っていない。
いまので身を以て実感したのではないかな? 抗える手段はない、と」
そこで神野はいったん言葉を切った。
動じもせずにこちらを静かに見据えているベルガー。その眼に恐怖が無いことを確かめ、ふむと頷くと、
「故に、『私』がその手段を提示しよう。君にはその資格と可能性がある。
何、難しいことではない。只の問いかけだ。これまでただのひとりしか解答を示せなかったというだけの。
――心の実在を証明せよ。ただし、我が盟友が満足する言葉でだ」
『それに答えて、我らに何の益がある?』
アラストールが逆に問い返す。ただし、確かな返答拒絶の意志を伴って。
それは神野にも伝わっていだろう。
だがあえてそれに気付かない風をして、万能の暗黒はただその支払われる報酬を提示した。
「全て、だ。解答者が彼の望みを満たして未知でなくした時。
この瞬間で最も強き未来精霊の願望を叶えられる者がいるのならば、『私』はその者の願いを悉く叶えよう。
例えば――この盤上で死した者達との再会、などというのはどうかね? 無論、黄泉での再会などという戯言ではなくだ」
暗い嗤いを止めずに、神野。
――僅かに落ちる静寂の帳。
ただどこまでも陰の広がる荒野の中で、その言葉は不釣り合いなほどに希望に満ちていた。
――旗を立て直し、かつての誇り高き炎を再燃させる。
騎士の曇りを拭い去った少女を、漆黒のデュラハンを、魔界医師を、猛き竜の化身を、デモンスレイヤーを、陰陽を司る者を。
その全てを、ただの一言で取り戻すことが出来る。
「そして、なにもそれはこの島の中だけに限らない。天壌の劫火、望むならば君の前契約者ですら――」
『……』
その囁きに天罰を司る魔神は沈黙した。
神野の言葉が真実かどうかは分からない。神野にそれほどの力があるのかも判断は出来ない。
だが、それはあまりにも魅力的な提案だった。
アラストールの前契約者。先代『炎髪灼眼の討ち手』。
死に別れた彼女とアラストールは浅からぬ関係にあった。
それはただの契約者と被契約者という間柄以上の縁であり、そしてアラストールは完全に彼女のことを忘却したわけではない。
(……マティルダ・サントメール)
いましがた、その存在の末期にさえ心を痛みに満たされた少女に勝るとも劣らぬほどに、その存在は愛しい。
『彼女を、知っているのか』
「当然の如く。ここに招いた者のことで『私』が知らぬことなどないさ」
一呼吸置いてアラストールが口を開き、その一呼吸の間を楽しむように神野が応じた。
『いいや――知らぬのだろう』
だがアラストールは疑問を差し挟む余地など許さぬといった風に、その言葉を否定する。
名を知っている? ああ確かに知っているのかもしれない。だがそれは上辺だけだ。その名の持つ意味を知っているのならそんな提案が出来るはずがない。誇り高く死した彼女を侮蔑するような提案を出せるはずがない。
だから返答は決まっていた。空間が弾けるように震える。
夜闇の魔王の顔に影が落ちた。
神野が纏う闇ではなく、それは炎の光によって生まれた影だった。
ベルガーの周囲の空間に火の粉が飛び散り、爆ぜている。
陰に満たされた無名の庵に、陽炎の如き紅蓮の光が生まれつつあった。
『あの子の決意を弄び、あまつさえ誇りある死すら冒涜しようとするその性質。『徒』にも劣る下衆め、我が名を刻むがいい。
我は天壌の劫火アラストール。両世の調律を守護する者。それが貴様などに与するものか!』
空間を振るわす程の怒号。消えかけてなお、紅世の魔神はその純度を落としてはいない。
それでも相対する『闇』は揺れず、ただ粛々と言葉を紡ぐ。ひたすらに嗤いながら。
「なるほど。君たちの『決意』は知れた。それでは最初の問いに戻ろう。
さあ、君たちは如何にしてこの世界から逃げおおせる――?」
無明の地たる無名の庵。それを改めて示すように両腕を掲げる神野。
そしてその問いを待っていたように、ベルガーとアラストールの返答は刹那の間すら挟まなかった。
ざん――と、荒野を削る足音。彼らが一歩、暗黒すら蹂躙するように力強く踏み出している。
『逃げる必要などあるまい』
アラストールが宣言する。契約者はなくとも、さらに発する炎熱を高めながら。
「ああ。なんたって黒幕が目の前にいるんだからな――お前は、ここで倒す」
ベルガーが継ぐ。その手に運命はなくとも、彼の言葉は道を拓く。
唱和した意志は高らかに――
「ここで――閉幕だ」
――このゲームの終焉を予言した。
「……契約。それが君たちの手段かね?」
彼の世界を冒す灼熱。だんだんとその範囲を広げる火の粉の雨の中、神野はぽつりと洩らした。
「フレイムヘイズ。運命を対価としその身に<王>を宿した者。
なるほど、ダウゲ・ベルガー。己が運命すら振るう君ならば真正の魔神たる断罪の王を収められる器ともなるだろう」
神野が呟く傍ら、ベルガーの背に巨大な翼が生まれた。
轟炎が満たす部分の闇は駆逐され、陽炎に空間が揺らぎ始める。
「だが、無駄だ」
炎に包まれながら、神野は涼しげにそう断言した。
赤が冒すのは極々一部の空間のみ。無限に広がる無名の庵は飲み干せない。
「刻印で弱体化した、それも急造の炎の揺らぎでは世界など打ち破れまい。
そも、君の炎髪灼眼の討ち手すら盤上からは逃れられずに果てた。そうではなかったか?」
『……その通りだ。故に、ここで貴様を討滅する』
「それこそ不可能というものだね。フレイムヘイズが在るのは紅世と現世の『現在』のみ。
ダウゲ・ベルガー自身もそれは同じ。故に、無数に偏在する『私』を殺せない」
その返答に、ベルガーは笑みを零した。目には見えないが、きっとアラストールも。
――こいつは何も分かっちゃいない。犬はどこまでも食らいつき、そして天壌の劫火は相手が何者であっても審判を下す。
すでに神野陰之の“運命”は決まっている。
瞬間、さらに劫火が膨れあがった。
轟々と燃え盛る巨大な赤灼。周囲に満ちる力を薪として、それは既に天にも届こうとしている。
その時になって、神野も気付いた。
「ほう……?」
笑みをさらに深くし、僅かに驚いたような息をつく。
いつのまにか、炎の位相が神野を越えようとしている。神野陰之が持つ狂気と畏怖を薄めるほど、火勢が強くなっている。
これはフレイムヘイズではない。弱体化したフレイムヘイズにここまでの力量はない。
ならば、これは――
『荒振る身の掃い世と定め奉る、紅蓮の絋にある罪事の蔭』
粛々と、名も無き庵に祝詞が響く。遠雷が轟くような、地を震わす声が荒野を駆ける。
ダウゲ・ベルガーの声ではない。ならばこれはアラストールか。
だがその声は神器越しに聞く、どこか遠い声ではない。
そう、それはまるで――世界という薄い膜の裏側で轟くような響きだった。
『其が身の罪という罪、刈り断ちて身が気吹き血潮と成せ――』
その響きに導かれ、帳が落ちる。夜闇の世界を裂くように紅蓮の幕が引かれていく。
捧げられるは魔王の力。四界に繋がる四つの宝玉。その全てが彼の者の『心臓』となる。
「……なるほど。正直、これは予測していなかった。さすがに魔神の心までは読めないか。
贄はおろか、喚び手もなしに顕現するとはね。
そうか、砕かれた石の名はデモンズ・ブラッド――君にも匹敵する魔王達を表すモノであると同時に、その異界へ通じるモノでもある。
この場で、その全てを捧げた上での芸当というわけだ」
無名の庵は『どこでもあってどこでもない場所』。
全ての世界から皮一枚分だけ外れ、全ての世界が交錯する場所。
故に『歩いていけない隣』にあるそれは、ささやかな薄皮を突き破った。
この世界を壊すには神にも等しき力でなければ不可能。ならば容易い。それはすぐそこにある。
紅世から無名の庵までを突き抜けて、神威が召喚される。
ベルガーの背後にあった翼はその位置を高くし、その翼が在る者は全容を顕わにしていた。
盤上という『制限』から脱し、顕われたのは炎の衣に身を包んだ見上げるほどの巨人。
その熱量は膨大。その威容は無限。
審判と断罪の権能を持つ天罰神。故に、その名を、
「天破壌砕――王の中の王。紅世真正の魔神たる“天壌の劫火アラストール”」
神野のその呼びかけに答えるように、天を衝く魔神は無名の庵を睥睨した。
『覚悟を決めよ、神野陰之――』
その厳かな宣告に重ねるようにして、別の声も響き渡る。
声の主はダウゲ・ベルガー。
炎を背にしているというのに、彼の顔は逆光の影に侵されてはいなかった。
「俺とアラストール、そしてシャナの魂――」
告げる、告げる、告げる。その役柄を以て、彼らは全霊を込めて宣告する。
『もちろんだ……ダウゲ・ベルガー』
紡ぐ言霊はただ一言。
その一言に少女の遺志を。女帝の遺志を。
そして全てを織り交ぜた絶大な自身の意志を伴って、彼らは往く。
目標は怨敵。このゲームの黒幕である神野陰之。
「それで? 君達はどうする気かね?」
その進撃を、神野が嗤う。
「ダウゲ・ベルガー。神の半身たる“運命”を失った君ではこの無名の庵を切り拓くことは敵わない。
断罪の王よ。もとより契約者を失った君に何が出来る?」
無名の庵に出入り口はない。
参加者は神野自身がそれを許可するか、でなければ“偶然”に頼ることでしかここに立ち入ることは出来ない。
――否。“出来なかった”。
そう――その法則は、すでに過去のものだ。
それはもはや打ち破られた。ただ弄ばれることしかできなかったはずの二人によって。
ダウゲ・ベルガーとアラストール。その両名が抱いた、独りの少女に対する想い。
それはルールの一端を破戒した。ならば黒幕達の思惑など、すでに障害となりえない。
故に彼らは恐れない。進撃は止まらない。
「おい、自分で言っといてもう忘れたのか?」
『貴様は言ったな。ああ確かに言った。死者の側から為せることは何もないと。
我らは生者だ。ならば我らは貴様に届くぞ。屍を乗り越えて進むぞ。死の河を渡って進むぞ。志を背負って進むぞ。
――そしてその果てに、我らは必ずや貴様を打ち砕こう』
その言葉を具現するように、コキュートスを身につけたベルガーは歩き出した。神野に向かって一直線に。迷うことなく強靭に。
そして彼らの宣言と行軍を前にして退きもせず、神野は近づいてくるベルガーに言葉を投げる。
「――だが、不可能だ。
なるほど、その気概はなかなかどうして強固だ。打ち砕くのは容易ではない。
それでも君たちはどこにも行けない。歩む意志があっても、足と道が無くては進めないだろう」
彼らには決定的に“手段”が不足しているのだと。
神野は、その現状を突きつけた。
それは確かに事実かも知れない。
単純な力技でここら脱出するのならば、それこそ神に等しい力でもなければ不可能だ。
それでも彼らは歩みをとめない。
「お前の妄言は聞き飽きた。ずっと聞いていた。シャナの心がズタボロにされるのを、ただ聞かされていた」
意識の手綱はいつから戻っていたのか。
思考を取り戻した瞬間の記憶はなく、ただ曖昧な感覚だけがある。
それでも彼は知っていた。
自らを犠牲にして彼を救った少女を。それを決断をした男を。
破壊精霊の攻撃で離ればなれになってしまった二人のその末路を。
己の生存の代価である、仲間の死を知っていた。
それは神野の話を聞いていたからか。それとも何か他の理由があるのか。
いずれにしろ、取るべき道は一つしかない。ベルガーは獰猛に笑った。
「だから、迷わないさ。俺は世界で二番目に、諦めが悪い男なんでね」
歩むための四肢が無いというのなら、地面を喰らってでも這いずろう。その為に、まだ自分は生きている。
進むための道が無いというのなら、埋め立てて進もう。その為の代償は、すでに支払われてしまった。
如何なる障害を前にしても、もはや、折れない。ダウゲ・ベルガーは疾く直進する。
神野とベルガーの距離は縮まり、あと数歩で両者は届く。
それでも神野は嗤っていた。一歩も動かずに、ただ飄々とそこに佇み、冒涜を口にし続ける。
「ただ『私』は真実を述べているだけだよ。一面に置いての真実かも知れないがね。
つまりある一面に置いて、彼女は確かに誤った選択肢を選び――」
その冒涜が、唐突に途切れた。
代わりに響いた声はベルガーの静かな恫喝――
「――約束だからな、シャナ」
そして同じく響いた音はとても鈍い音。骨が肉越しに敵の骨を打つ音。
『その想いを否定できるものなど居るものか。
居たら、俺が殴り飛ばしてやる』
それは炎髪灼眼の少女が消滅する寸前に、ベルガーが交わした誓い。
その果たされた約束は、神野の横面を捉えていた。
躊躇いもなく全力で打った拳からは、確かに相手の骨を砕く感触が伝わってくる。
その感触。音。そして確かに変形した筈の神野の顔をベルガーの視覚は捉えていた。確かに五感で感じていた。だが、
「彼女を否定する気は無いさ。無論、肯定するつもりもないが」
朗々とした声は、ベルガーの背後から響いた。
ゆっくりと振り返ると、殴られた頬に痣一つ無く、嘲笑を浮かべたままの神野が立っている。
殴られた事実など無かったように、一瞬前となんら変わらず闇はただ悠然と存在していた。
「そして君たちを弄言でどうにかできるとも思っていない。
いまので身を以て実感したのではないかな? 抗える手段はない、と」
そこで神野はいったん言葉を切った。
動じもせずにこちらを静かに見据えているベルガー。その眼に恐怖が無いことを確かめ、ふむと頷くと、
「故に、『私』がその手段を提示しよう。君にはその資格と可能性がある。
何、難しいことではない。只の問いかけだ。これまでただのひとりしか解答を示せなかったというだけの。
――心の実在を証明せよ。ただし、我が盟友が満足する言葉でだ」
『それに答えて、我らに何の益がある?』
アラストールが逆に問い返す。ただし、確かな返答拒絶の意志を伴って。
それは神野にも伝わっていだろう。
だがあえてそれに気付かない風をして、万能の暗黒はただその支払われる報酬を提示した。
「全て、だ。解答者が彼の望みを満たして未知でなくした時。
この瞬間で最も強き未来精霊の願望を叶えられる者がいるのならば、『私』はその者の願いを悉く叶えよう。
例えば――この盤上で死した者達との再会、などというのはどうかね? 無論、黄泉での再会などという戯言ではなくだ」
暗い嗤いを止めずに、神野。
――僅かに落ちる静寂の帳。
ただどこまでも陰の広がる荒野の中で、その言葉は不釣り合いなほどに希望に満ちていた。
――旗を立て直し、かつての誇り高き炎を再燃させる。
騎士の曇りを拭い去った少女を、漆黒のデュラハンを、魔界医師を、猛き竜の化身を、デモンスレイヤーを、陰陽を司る者を。
その全てを、ただの一言で取り戻すことが出来る。
「そして、なにもそれはこの島の中だけに限らない。天壌の劫火、望むならば君の前契約者ですら――」
『……』
その囁きに天罰を司る魔神は沈黙した。
神野の言葉が真実かどうかは分からない。神野にそれほどの力があるのかも判断は出来ない。
だが、それはあまりにも魅力的な提案だった。
アラストールの前契約者。先代『炎髪灼眼の討ち手』。
死に別れた彼女とアラストールは浅からぬ関係にあった。
それはただの契約者と被契約者という間柄以上の縁であり、そしてアラストールは完全に彼女のことを忘却したわけではない。
(……マティルダ・サントメール)
いましがた、その存在の末期にさえ心を痛みに満たされた少女に勝るとも劣らぬほどに、その存在は愛しい。
『彼女を、知っているのか』
「当然の如く。ここに招いた者のことで『私』が知らぬことなどないさ」
一呼吸置いてアラストールが口を開き、その一呼吸の間を楽しむように神野が応じた。
『いいや――知らぬのだろう』
だがアラストールは疑問を差し挟む余地など許さぬといった風に、その言葉を否定する。
名を知っている? ああ確かに知っているのかもしれない。だがそれは上辺だけだ。その名の持つ意味を知っているのならそんな提案が出来るはずがない。誇り高く死した彼女を侮蔑するような提案を出せるはずがない。
だから返答は決まっていた。空間が弾けるように震える。
夜闇の魔王の顔に影が落ちた。
神野が纏う闇ではなく、それは炎の光によって生まれた影だった。
ベルガーの周囲の空間に火の粉が飛び散り、爆ぜている。
陰に満たされた無名の庵に、陽炎の如き紅蓮の光が生まれつつあった。
『あの子の決意を弄び、あまつさえ誇りある死すら冒涜しようとするその性質。『徒』にも劣る下衆め、我が名を刻むがいい。
我は天壌の劫火アラストール。両世の調律を守護する者。それが貴様などに与するものか!』
空間を振るわす程の怒号。消えかけてなお、紅世の魔神はその純度を落としてはいない。
それでも相対する『闇』は揺れず、ただ粛々と言葉を紡ぐ。ひたすらに嗤いながら。
「なるほど。君たちの『決意』は知れた。それでは最初の問いに戻ろう。
さあ、君たちは如何にしてこの世界から逃げおおせる――?」
無明の地たる無名の庵。それを改めて示すように両腕を掲げる神野。
そしてその問いを待っていたように、ベルガーとアラストールの返答は刹那の間すら挟まなかった。
ざん――と、荒野を削る足音。彼らが一歩、暗黒すら蹂躙するように力強く踏み出している。
『逃げる必要などあるまい』
アラストールが宣言する。契約者はなくとも、さらに発する炎熱を高めながら。
「ああ。なんたって黒幕が目の前にいるんだからな――お前は、ここで倒す」
ベルガーが継ぐ。その手に運命はなくとも、彼の言葉は道を拓く。
唱和した意志は高らかに――
「ここで――閉幕だ」
――このゲームの終焉を予言した。
「……契約。それが君たちの手段かね?」
彼の世界を冒す灼熱。だんだんとその範囲を広げる火の粉の雨の中、神野はぽつりと洩らした。
「フレイムヘイズ。運命を対価としその身に<王>を宿した者。
なるほど、ダウゲ・ベルガー。己が運命すら振るう君ならば真正の魔神たる断罪の王を収められる器ともなるだろう」
神野が呟く傍ら、ベルガーの背に巨大な翼が生まれた。
轟炎が満たす部分の闇は駆逐され、陽炎に空間が揺らぎ始める。
「だが、無駄だ」
炎に包まれながら、神野は涼しげにそう断言した。
赤が冒すのは極々一部の空間のみ。無限に広がる無名の庵は飲み干せない。
「刻印で弱体化した、それも急造の炎の揺らぎでは世界など打ち破れまい。
そも、君の炎髪灼眼の討ち手すら盤上からは逃れられずに果てた。そうではなかったか?」
『……その通りだ。故に、ここで貴様を討滅する』
「それこそ不可能というものだね。フレイムヘイズが在るのは紅世と現世の『現在』のみ。
ダウゲ・ベルガー自身もそれは同じ。故に、無数に偏在する『私』を殺せない」
その返答に、ベルガーは笑みを零した。目には見えないが、きっとアラストールも。
――こいつは何も分かっちゃいない。犬はどこまでも食らいつき、そして天壌の劫火は相手が何者であっても審判を下す。
すでに神野陰之の“運命”は決まっている。
瞬間、さらに劫火が膨れあがった。
轟々と燃え盛る巨大な赤灼。周囲に満ちる力を薪として、それは既に天にも届こうとしている。
その時になって、神野も気付いた。
「ほう……?」
笑みをさらに深くし、僅かに驚いたような息をつく。
いつのまにか、炎の位相が神野を越えようとしている。神野陰之が持つ狂気と畏怖を薄めるほど、火勢が強くなっている。
これはフレイムヘイズではない。弱体化したフレイムヘイズにここまでの力量はない。
ならば、これは――
『荒振る身の掃い世と定め奉る、紅蓮の絋にある罪事の蔭』
粛々と、名も無き庵に祝詞が響く。遠雷が轟くような、地を震わす声が荒野を駆ける。
ダウゲ・ベルガーの声ではない。ならばこれはアラストールか。
だがその声は神器越しに聞く、どこか遠い声ではない。
そう、それはまるで――世界という薄い膜の裏側で轟くような響きだった。
『其が身の罪という罪、刈り断ちて身が気吹き血潮と成せ――』
その響きに導かれ、帳が落ちる。夜闇の世界を裂くように紅蓮の幕が引かれていく。
捧げられるは魔王の力。四界に繋がる四つの宝玉。その全てが彼の者の『心臓』となる。
「……なるほど。正直、これは予測していなかった。さすがに魔神の心までは読めないか。
贄はおろか、喚び手もなしに顕現するとはね。
そうか、砕かれた石の名はデモンズ・ブラッド――君にも匹敵する魔王達を表すモノであると同時に、その異界へ通じるモノでもある。
この場で、その全てを捧げた上での芸当というわけだ」
無名の庵は『どこでもあってどこでもない場所』。
全ての世界から皮一枚分だけ外れ、全ての世界が交錯する場所。
故に『歩いていけない隣』にあるそれは、ささやかな薄皮を突き破った。
この世界を壊すには神にも等しき力でなければ不可能。ならば容易い。それはすぐそこにある。
紅世から無名の庵までを突き抜けて、神威が召喚される。
ベルガーの背後にあった翼はその位置を高くし、その翼が在る者は全容を顕わにしていた。
盤上という『制限』から脱し、顕われたのは炎の衣に身を包んだ見上げるほどの巨人。
その熱量は膨大。その威容は無限。
審判と断罪の権能を持つ天罰神。故に、その名を、
「天破壌砕――王の中の王。紅世真正の魔神たる“天壌の劫火アラストール”」
神野のその呼びかけに答えるように、天を衝く魔神は無名の庵を睥睨した。
『覚悟を決めよ、神野陰之――』
その厳かな宣告に重ねるようにして、別の声も響き渡る。
声の主はダウゲ・ベルガー。
炎を背にしているというのに、彼の顔は逆光の影に侵されてはいなかった。
「俺とアラストール、そしてシャナの魂――」
告げる、告げる、告げる。その役柄を以て、彼らは全霊を込めて宣告する。
貴様如きに――推し量れるか?
瞬間、膨大な量の業火が神野に向かって放たれた。
それはまるで炎の津波。たったひとりの人間に向けて放たれるには大げさを通り越して、最早馬鹿馬鹿しい。
だがそれはあくまで人間を相手にした場合。
受肉した神の片鱗は時を越えて偏在する故、ほとんどの干渉を受け付けない。
溶鉱炉の中に飛び込もうが絶対零度の中に在ろうがその存在に影響はない。
だがすでに神野の顔に嗤いはなかった。
己が呪圏たる『影』を以てして、全力で炎を迎え撃つ。
隆起し、神野と外界を遮断する壁のような黒色と、すべてを烏有に帰す紅蓮が衝突する。
森羅万象を飲み込む虚無の口と、それすら凌駕し氾濫しようとする熱波。
――その軍配は、不意打ちに近かったアラストールに上がる。
「……っ」
神野の顔に、久しく浮かぶことの無かった苦痛が象られる。
そう。アラストールの炎は、到達しない経過であるはずの彼を『灼いて』いた。
偏在という枷を破り、神野陰之という存在を害していた。
「……そうか。アラストールという存在自体が『神野陰之』という器と同等以上の古さを持つのか。
君自身が『私』を殺し得る呪物というわけだね」
傷は深くない。それこそほんの僅かに火傷を負った程度。だが、神野は顔を歪ませていた。
魔神の炎は、神野陰之を殺し得る。
アラストールの焔がここにいる神野陰之を焼けば、その火は偏在する神野陰之にまで燃え移るだろう。
こと浸食することにかけて火は最速。いかに夜闇の魔王が究極の魔法だとしても滅びからは逃れられない。
「ここが『私』の世界でなかったら、終着を見せていたかも知れないな」
それでも、まだ神野の方が有利だ。
アラストールはその身を維持するため、タリスマンの残滓とシャナの残した存在の力を消費している。
その力は莫大だが、無尽蔵というわけでもない。
そして神野は、『いつぞや』のように拠点の守護を命じられているわけではなかった。
「さらばだ。天罰神よ」
彼はここを去り、ただ別の場所でアラストールが自然消滅するのを待つだけでいい。
再びその白い貌に嗤いを浮かべた神野の姿が薄れていき、そして消えた。
――いや、消えるはずだった。
だが唐突に、夜闇の魔王の双眸が僅かに見開かれる。
『かつて』呪い釘を打ち込まれた時のように、それは彼を磔刑に処す。
その眼に映るのは魔神ではなくただの人間。
アラストールの足下に佇んでいたダウゲ・ベルガー。
その手に彼の半身たる強臓式武剣“運命”は、ない。
アラストールとは違い、彼は神野に対して有効な攻撃手段をなにも持っていない。
だけど、この場で最も神野に対して致命的なものを持っていたのは彼だった。
呪文ですらない。それは本来何の意味も持たず、ただ噛み締めるように紡がれた言葉。
その言霊が成す未来を神野は知った。
それは本来有り得ざる未来。あまりにも出来すぎている、どこか恣意的なものさえ感じさせる結末。
『ああ。なんたって黒幕が目の前にいるんだからな』
ならば、それこそが運命だというのか。
宣言は既に。誓いは既に。
運命を捧げたフレイムヘイズでない、未だ人の身であるダウゲ・ベルガーの『願い』は唱えられていた。
そのどこまでも純粋な意志の誓言が――
『――お前は、ここで倒す』
神野陰之を、ここに封じ込めた。
「……感服せざるを得ないな。“契約者”でもない限り、彼無きこの時間では都合の良い偶然は起きないというのに。
いや、そうか。だからといって偶然が起きないというわけでもない、ということかな」
彼らは神野陰之という存在の性質を知らない。その言葉は神野を縛ることを目的としていなかった。
――それでも彼らの意志はここにこの瞬間、覇道への“運命”を手繰り寄せたのだ。
願いによって、神野がその輪郭を再びはっきりとさせる。
課された制限は『逃走』。決着が付くまで、神野はこの場から消えることは出来ない。
「これが君達の手段か。なるほど、世界樹に吊されし魔術師と同等、あるいは凌駕する願いだ」
ならば、叶える者の成すべきことはひとつだけ。
「いいだろう――ならばその『願い』を受理しよう」
神野の呟きは命令だった。
その一言で世界が胎動する。無名の庵が主の命に従い蠢く。
闇に満たされた荒野。この世界そのものが神野の『領域』である。
暗黒が膨れあがり、造り上げられたのは影の大波。
先刻の炎に対抗するかのように、それは天を衝くアラストールさえ凌駕する巨大さ。
舞台照明が暗転するかの如く、影が落ちるのは瞬時。魔神が何かするよりも早く、夜色がベルガー諸共魔神を飲み込んだ。
無明の庵が再びその暗さを取り戻す。
ほんの、一瞬だけ。
『――無駄だ。影如きでは我が身を包み切れん』
重圧さえ感じさせる、威厳に満ちた声が響いた。
影が炎を遮ったのは刹那にも満たない時間。
火とは照らすもの。いかに深い影であっても、燃え盛る篝火の明るさは奪えない。
ただその存在のみで神野の呪を打ち破り、アラストールは悠然とその場に在った。
夜闇では炎に勝てない。常世の炎ならば兎も角、天壌の劫火を飲み込める影は存在しない。
そして何より――いまのアラストールは神野の闇に恐れを見ない。
「……そのようだね。力量は互角でも相性が悪いか。
もっとも、ダウゲ・ベルガーに関してはその通りではないが――」
神野がちらりと視線を移動させた。
アラストールの足下。彼の影に覆われる直前にベルガーが立っていた位置には誰も居ない。
「例の装置が働いたようだ。この空間に来ることが出来たのだから、出ることも可能なのは道理だね。
潰えた種とはいえ、天なる人類を甘く見ていたか」
『この期に及んで、そのような思考は無意味だろう』
天から響く声に、神野が視界を上げる。
その頬を、轟風が撫でた。
アラストールがその巨大な翼を羽ばたかせていた。だが巻き上がるのはただの風ではない。
それは紅蓮の風。触れたモノを灰燼に帰す暴風。
まるで刃の如く荒野に深い爪牙の痕を刻み、乱立するモノリスを打ち砕く。
幾条にも吹き付ける赤の線は、その全てが神野へと収束していく。
「――君こそ彼の心配をした方がいい。あれは持ち主の身内の元へ転移するが、彼はその全員の死を知っている。
ならばアレがどこに飛ぶのかは想像も付かないだろう。
盤上へと戻るのか、果てまた元の世界へ帰還するのか、異次元に落ちるか。
いや、そもそも装置は起動したのか? 彼は闇に飲み込まれただけかも知れない」
神野の影が再び膨れあがる。今度は余裕を持って、魔神の放った赤の嵐をすべて飲み干す。
一欠片の熱波すら残さず、暗闇のなかで神野は問いを発した。
「君は確たる『解答』を出すことが出来るのかな? 天壌の劫火」
『無論。ダウゲ・ベルガーは生きている』
「それをどうやって証明する?」
『貴様に答える必要があるか?』
「違いない」
神野は嗤う。声は出さずに、ただ頬を吊り上げる吐き気を催す笑み。
それを潰すために、魔神はただ火力を絶えることなく放ち続けた。
地面が溶け、空が燃え落ちていく。その様はまさに煉獄。
「少し話をしよう。つまらない身の上話だがね。
『私』は――神野陰之という存在は、ただ願いを叶えることしかできない存在だ。
いまこうして真っ正面から君と対峙しているのも、ダウゲ・ベルガーの願いがあるからに他ならない」
だがその劫火のなか、影による防御を続けながら後退する神野はそれでも饒舌だった。
「そして今、『私』はひとつの願いを叶えるためにある。
心の実在を証明すること。だが、願望無き『私』という存在が口にする心の定義では彼は満足しなかった。
故に今回の盤上遊技を提案したのだが、さて――この意味が分かるかね?」
『――貴様と話す舌など!』
戯言を一言にて切り捨て、アラストールはさらに存在の力を燃やし、その神威を高めていく。
「ふむ。まあ聞きたくないと願うのなら、それを拒むことは出来ないが」
神野はさして気にしないとでもいう風に、ただ炎を防ぎ続ける。
影による防御は完璧。初撃以降は、火の粉すら神野に触れることは叶わない。
されど炎は無限にその熱量を高めることができる。
踊る二体の魔神。だが炎と闇の鍔迫り合いは、決して均衡を保つことはなかった。
じわじわと――だが確実に、神野の呪圏が追いつかなくなってきている。
アラストールの放つ炎がその輝きを増し、神野の影を打ち消し始めていた。
闇と、それを焼き尽くす炎。
『逃走』を願いによって制限された神野と、全力で追撃するアラストール。
それは殆ど出来レースのようなものだ。
アラストールが踏み出す。合わせて神野が後退する。
差は縮まる一方。歩幅が違う。だがなによりも神野は積極的な逃げに徹することができない。
そのことを理解していてなお――神野陰之は『冷静すぎる』。
(策がある、ということか)
アラストールは胸中で確認するように呟いた。
このまま続ければ間違いなく自分が勝つ。眼前の黒衣の男もそれは分かっているはず。
それで慌てていないという事は、まだ罠やその類のものを用意してあると考えていい。
「――逃げ切れないか」
苦笑しながら、神野。だがさしてあせる風も無く、魔王はパチンと指を鳴らした。
響く乾いた音色。渦巻く熱波に掻き消されぬこともなく涼やかに響き渡ったそれは、正しく魔性の類である。
闇に満ちる無名の庵に、更に闇が増した。
それは今までそこにあった影とは異なる陰。文字通りの異界の闇。
ぽっかりと恨めしげに開いたその穴から、白い手がぬらりと這い出てくる。
「神隠し――この場合は少し意味が違うかもしれないが」
通じた穴は一つだけではなかった。
闇の違いを見分けるのは困難だが、それを知るのは容易だった。
なぜならば、穴から伸びる白い線は無数に、そこかしこから引かれているのだから。
「堕ちたまえ」
号令と同時、怪異は宙を出鱈目に走りまわった。
関節がいくつもあるかのようにガクガクと折れ曲がりながら、複雑な軌道を描いてアラストールに掴みかかる。
無論、白い腕は触れた部分から消し炭になった。
だが燃え尽きるよりも穴から伸びてくる方が早いらしく、白い腕は着々と魔神を拘束していく。
圧倒的な物量による力押し。
だが、それでもまだ不十分。
アラストールはさらに力を取り込み、それまでよりも強力な自在法を発現させる。
瞬間、白の線は赤に変じ、一瞬後には炭色となって、そしてぼろぼろと剥がれ落ちた。
火はどこまでも浸食し、線が出てきた『穴』の中にまで到達する。
名の無い荒野に、いくつもの絶叫が響き渡った。
「さすが。足止めにもならない」
耳を劈くような異形達の断末魔の中で、神野は笑っている。
どんな怪異を呼び出してもアラストールには届かない。だが、哂っている。
(なるほど、奴の狙いは――)
神としてのアラストールは無敵だ。神野が如何な怪異を用いようが、それを正面から粉砕できる。
より強力な自在法で――より莫大な存在の力を消費して。
今のアラストールは、不完全な天破壌砕で顕現している。
呼び手も、贄もない、力尽くでの神威召還だ。
自然、彼は存在の力を消費しなくてはその身を維持できない状態となっていた。
だからこそ神野は待っているのだ。燃料を消費しきり、劫火が鎮火するその瞬間を。
なるほど。確かに怪異は足止めにもならない。
だがアラストールに一手を打たせることはできる。
神野は只管に駒を張り続けていればいい。いずれ、アラストールはその一手が打てなくなる。
――それが、奴の狙いだというのなら、
『愚かな』
その一言に尽きる。
厳かな宣言。それは紛れも無い死刑判決であった。
アラストールは大きく呼吸した。だが取り入れるのは酸素ではない。紅世の王の炎は酸素では燃えない。
取り込むのは存在の力。文字通りの生命線。神秘の劇薬。
膨大な量の力を取り込み、そして解放する。
魔神の全力。それはまさに、世界が溶鉱炉にでもなったかのような錯覚。
炎が世界となり、世界が炎となる。その主である神野も当然灼熱に包まれた。
だが、それでも神野には届かない。
神野にとって、僅かな隙間もない防御陣を造り上げるのは造作もないことだ。
事実、神野の周囲に落ちた影は完全に炎を食い止め、その熱波を万分の一も伝えない。
この炎は無意味だ。ただ巨大なだけの炎壁では、神野陰之を倒せない。
そう――この炎自体に攻撃の意味はないのだ。
「……まあ、そうなるだろうね」
影の内側から神野は見ていた。
陽炎の中に、炎を纏った魔神の姿が消えるのを。
アラストールが貴重な存在の力を大量に消費してまで造り上げた大火が持つ意味は単純にして明快。
すなわち――梅雨払いである。
『――捕らえたぞ、神野陰之』
周囲はタングステンすら蒸発する灼熱に包まれ、もはや怪異を呼び出しても全てが一瞬で消えうせるだろう。
故に、アラストールの一手は神野にかかる。
チェックメイト。
天上から延びてきた巨大な炎腕は、なんの障害もなく神野の体を鷲掴みにした。
それはまるで炎の津波。たったひとりの人間に向けて放たれるには大げさを通り越して、最早馬鹿馬鹿しい。
だがそれはあくまで人間を相手にした場合。
受肉した神の片鱗は時を越えて偏在する故、ほとんどの干渉を受け付けない。
溶鉱炉の中に飛び込もうが絶対零度の中に在ろうがその存在に影響はない。
だがすでに神野の顔に嗤いはなかった。
己が呪圏たる『影』を以てして、全力で炎を迎え撃つ。
隆起し、神野と外界を遮断する壁のような黒色と、すべてを烏有に帰す紅蓮が衝突する。
森羅万象を飲み込む虚無の口と、それすら凌駕し氾濫しようとする熱波。
――その軍配は、不意打ちに近かったアラストールに上がる。
「……っ」
神野の顔に、久しく浮かぶことの無かった苦痛が象られる。
そう。アラストールの炎は、到達しない経過であるはずの彼を『灼いて』いた。
偏在という枷を破り、神野陰之という存在を害していた。
「……そうか。アラストールという存在自体が『神野陰之』という器と同等以上の古さを持つのか。
君自身が『私』を殺し得る呪物というわけだね」
傷は深くない。それこそほんの僅かに火傷を負った程度。だが、神野は顔を歪ませていた。
魔神の炎は、神野陰之を殺し得る。
アラストールの焔がここにいる神野陰之を焼けば、その火は偏在する神野陰之にまで燃え移るだろう。
こと浸食することにかけて火は最速。いかに夜闇の魔王が究極の魔法だとしても滅びからは逃れられない。
「ここが『私』の世界でなかったら、終着を見せていたかも知れないな」
それでも、まだ神野の方が有利だ。
アラストールはその身を維持するため、タリスマンの残滓とシャナの残した存在の力を消費している。
その力は莫大だが、無尽蔵というわけでもない。
そして神野は、『いつぞや』のように拠点の守護を命じられているわけではなかった。
「さらばだ。天罰神よ」
彼はここを去り、ただ別の場所でアラストールが自然消滅するのを待つだけでいい。
再びその白い貌に嗤いを浮かべた神野の姿が薄れていき、そして消えた。
――いや、消えるはずだった。
だが唐突に、夜闇の魔王の双眸が僅かに見開かれる。
『かつて』呪い釘を打ち込まれた時のように、それは彼を磔刑に処す。
その眼に映るのは魔神ではなくただの人間。
アラストールの足下に佇んでいたダウゲ・ベルガー。
その手に彼の半身たる強臓式武剣“運命”は、ない。
アラストールとは違い、彼は神野に対して有効な攻撃手段をなにも持っていない。
だけど、この場で最も神野に対して致命的なものを持っていたのは彼だった。
呪文ですらない。それは本来何の意味も持たず、ただ噛み締めるように紡がれた言葉。
その言霊が成す未来を神野は知った。
それは本来有り得ざる未来。あまりにも出来すぎている、どこか恣意的なものさえ感じさせる結末。
『ああ。なんたって黒幕が目の前にいるんだからな』
ならば、それこそが運命だというのか。
宣言は既に。誓いは既に。
運命を捧げたフレイムヘイズでない、未だ人の身であるダウゲ・ベルガーの『願い』は唱えられていた。
そのどこまでも純粋な意志の誓言が――
『――お前は、ここで倒す』
神野陰之を、ここに封じ込めた。
「……感服せざるを得ないな。“契約者”でもない限り、彼無きこの時間では都合の良い偶然は起きないというのに。
いや、そうか。だからといって偶然が起きないというわけでもない、ということかな」
彼らは神野陰之という存在の性質を知らない。その言葉は神野を縛ることを目的としていなかった。
――それでも彼らの意志はここにこの瞬間、覇道への“運命”を手繰り寄せたのだ。
願いによって、神野がその輪郭を再びはっきりとさせる。
課された制限は『逃走』。決着が付くまで、神野はこの場から消えることは出来ない。
「これが君達の手段か。なるほど、世界樹に吊されし魔術師と同等、あるいは凌駕する願いだ」
ならば、叶える者の成すべきことはひとつだけ。
「いいだろう――ならばその『願い』を受理しよう」
神野の呟きは命令だった。
その一言で世界が胎動する。無名の庵が主の命に従い蠢く。
闇に満たされた荒野。この世界そのものが神野の『領域』である。
暗黒が膨れあがり、造り上げられたのは影の大波。
先刻の炎に対抗するかのように、それは天を衝くアラストールさえ凌駕する巨大さ。
舞台照明が暗転するかの如く、影が落ちるのは瞬時。魔神が何かするよりも早く、夜色がベルガー諸共魔神を飲み込んだ。
無明の庵が再びその暗さを取り戻す。
ほんの、一瞬だけ。
『――無駄だ。影如きでは我が身を包み切れん』
重圧さえ感じさせる、威厳に満ちた声が響いた。
影が炎を遮ったのは刹那にも満たない時間。
火とは照らすもの。いかに深い影であっても、燃え盛る篝火の明るさは奪えない。
ただその存在のみで神野の呪を打ち破り、アラストールは悠然とその場に在った。
夜闇では炎に勝てない。常世の炎ならば兎も角、天壌の劫火を飲み込める影は存在しない。
そして何より――いまのアラストールは神野の闇に恐れを見ない。
「……そのようだね。力量は互角でも相性が悪いか。
もっとも、ダウゲ・ベルガーに関してはその通りではないが――」
神野がちらりと視線を移動させた。
アラストールの足下。彼の影に覆われる直前にベルガーが立っていた位置には誰も居ない。
「例の装置が働いたようだ。この空間に来ることが出来たのだから、出ることも可能なのは道理だね。
潰えた種とはいえ、天なる人類を甘く見ていたか」
『この期に及んで、そのような思考は無意味だろう』
天から響く声に、神野が視界を上げる。
その頬を、轟風が撫でた。
アラストールがその巨大な翼を羽ばたかせていた。だが巻き上がるのはただの風ではない。
それは紅蓮の風。触れたモノを灰燼に帰す暴風。
まるで刃の如く荒野に深い爪牙の痕を刻み、乱立するモノリスを打ち砕く。
幾条にも吹き付ける赤の線は、その全てが神野へと収束していく。
「――君こそ彼の心配をした方がいい。あれは持ち主の身内の元へ転移するが、彼はその全員の死を知っている。
ならばアレがどこに飛ぶのかは想像も付かないだろう。
盤上へと戻るのか、果てまた元の世界へ帰還するのか、異次元に落ちるか。
いや、そもそも装置は起動したのか? 彼は闇に飲み込まれただけかも知れない」
神野の影が再び膨れあがる。今度は余裕を持って、魔神の放った赤の嵐をすべて飲み干す。
一欠片の熱波すら残さず、暗闇のなかで神野は問いを発した。
「君は確たる『解答』を出すことが出来るのかな? 天壌の劫火」
『無論。ダウゲ・ベルガーは生きている』
「それをどうやって証明する?」
『貴様に答える必要があるか?』
「違いない」
神野は嗤う。声は出さずに、ただ頬を吊り上げる吐き気を催す笑み。
それを潰すために、魔神はただ火力を絶えることなく放ち続けた。
地面が溶け、空が燃え落ちていく。その様はまさに煉獄。
「少し話をしよう。つまらない身の上話だがね。
『私』は――神野陰之という存在は、ただ願いを叶えることしかできない存在だ。
いまこうして真っ正面から君と対峙しているのも、ダウゲ・ベルガーの願いがあるからに他ならない」
だがその劫火のなか、影による防御を続けながら後退する神野はそれでも饒舌だった。
「そして今、『私』はひとつの願いを叶えるためにある。
心の実在を証明すること。だが、願望無き『私』という存在が口にする心の定義では彼は満足しなかった。
故に今回の盤上遊技を提案したのだが、さて――この意味が分かるかね?」
『――貴様と話す舌など!』
戯言を一言にて切り捨て、アラストールはさらに存在の力を燃やし、その神威を高めていく。
「ふむ。まあ聞きたくないと願うのなら、それを拒むことは出来ないが」
神野はさして気にしないとでもいう風に、ただ炎を防ぎ続ける。
影による防御は完璧。初撃以降は、火の粉すら神野に触れることは叶わない。
されど炎は無限にその熱量を高めることができる。
踊る二体の魔神。だが炎と闇の鍔迫り合いは、決して均衡を保つことはなかった。
じわじわと――だが確実に、神野の呪圏が追いつかなくなってきている。
アラストールの放つ炎がその輝きを増し、神野の影を打ち消し始めていた。
闇と、それを焼き尽くす炎。
『逃走』を願いによって制限された神野と、全力で追撃するアラストール。
それは殆ど出来レースのようなものだ。
アラストールが踏み出す。合わせて神野が後退する。
差は縮まる一方。歩幅が違う。だがなによりも神野は積極的な逃げに徹することができない。
そのことを理解していてなお――神野陰之は『冷静すぎる』。
(策がある、ということか)
アラストールは胸中で確認するように呟いた。
このまま続ければ間違いなく自分が勝つ。眼前の黒衣の男もそれは分かっているはず。
それで慌てていないという事は、まだ罠やその類のものを用意してあると考えていい。
「――逃げ切れないか」
苦笑しながら、神野。だがさしてあせる風も無く、魔王はパチンと指を鳴らした。
響く乾いた音色。渦巻く熱波に掻き消されぬこともなく涼やかに響き渡ったそれは、正しく魔性の類である。
闇に満ちる無名の庵に、更に闇が増した。
それは今までそこにあった影とは異なる陰。文字通りの異界の闇。
ぽっかりと恨めしげに開いたその穴から、白い手がぬらりと這い出てくる。
「神隠し――この場合は少し意味が違うかもしれないが」
通じた穴は一つだけではなかった。
闇の違いを見分けるのは困難だが、それを知るのは容易だった。
なぜならば、穴から伸びる白い線は無数に、そこかしこから引かれているのだから。
「堕ちたまえ」
号令と同時、怪異は宙を出鱈目に走りまわった。
関節がいくつもあるかのようにガクガクと折れ曲がりながら、複雑な軌道を描いてアラストールに掴みかかる。
無論、白い腕は触れた部分から消し炭になった。
だが燃え尽きるよりも穴から伸びてくる方が早いらしく、白い腕は着々と魔神を拘束していく。
圧倒的な物量による力押し。
だが、それでもまだ不十分。
アラストールはさらに力を取り込み、それまでよりも強力な自在法を発現させる。
瞬間、白の線は赤に変じ、一瞬後には炭色となって、そしてぼろぼろと剥がれ落ちた。
火はどこまでも浸食し、線が出てきた『穴』の中にまで到達する。
名の無い荒野に、いくつもの絶叫が響き渡った。
「さすが。足止めにもならない」
耳を劈くような異形達の断末魔の中で、神野は笑っている。
どんな怪異を呼び出してもアラストールには届かない。だが、哂っている。
(なるほど、奴の狙いは――)
神としてのアラストールは無敵だ。神野が如何な怪異を用いようが、それを正面から粉砕できる。
より強力な自在法で――より莫大な存在の力を消費して。
今のアラストールは、不完全な天破壌砕で顕現している。
呼び手も、贄もない、力尽くでの神威召還だ。
自然、彼は存在の力を消費しなくてはその身を維持できない状態となっていた。
だからこそ神野は待っているのだ。燃料を消費しきり、劫火が鎮火するその瞬間を。
なるほど。確かに怪異は足止めにもならない。
だがアラストールに一手を打たせることはできる。
神野は只管に駒を張り続けていればいい。いずれ、アラストールはその一手が打てなくなる。
――それが、奴の狙いだというのなら、
『愚かな』
その一言に尽きる。
厳かな宣言。それは紛れも無い死刑判決であった。
アラストールは大きく呼吸した。だが取り入れるのは酸素ではない。紅世の王の炎は酸素では燃えない。
取り込むのは存在の力。文字通りの生命線。神秘の劇薬。
膨大な量の力を取り込み、そして解放する。
魔神の全力。それはまさに、世界が溶鉱炉にでもなったかのような錯覚。
炎が世界となり、世界が炎となる。その主である神野も当然灼熱に包まれた。
だが、それでも神野には届かない。
神野にとって、僅かな隙間もない防御陣を造り上げるのは造作もないことだ。
事実、神野の周囲に落ちた影は完全に炎を食い止め、その熱波を万分の一も伝えない。
この炎は無意味だ。ただ巨大なだけの炎壁では、神野陰之を倒せない。
そう――この炎自体に攻撃の意味はないのだ。
「……まあ、そうなるだろうね」
影の内側から神野は見ていた。
陽炎の中に、炎を纏った魔神の姿が消えるのを。
アラストールが貴重な存在の力を大量に消費してまで造り上げた大火が持つ意味は単純にして明快。
すなわち――梅雨払いである。
『――捕らえたぞ、神野陰之』
周囲はタングステンすら蒸発する灼熱に包まれ、もはや怪異を呼び出しても全てが一瞬で消えうせるだろう。
故に、アラストールの一手は神野にかかる。
チェックメイト。
天上から延びてきた巨大な炎腕は、なんの障害もなく神野の体を鷲掴みにした。
◇◇◇
「あ――は。あは、は、は」
燃え盛る空気の中であれば、その外に声は漏れない。
狂気に濡れた笑いはただ彼女の周囲を無限に旋回し、心の傷をより抉っていく。
炎が浸食する部屋の中。熱は彼女を容赦なく炙っていたが、それでもまだ致命的なことには至っていない。
慶滋保胤の矜持は彼女を救った。
ほんの僅か、彼女から死を遠ざけた。
十分な量の燃焼剤があれば、遅かれ早かれマンションの一室など火の海となる。
すでに火の粉は机上のレポートに燃え移り、そこを新たな苗床として炎を生んでいた。
もっとも、集合住宅という種類の建築物はそのほとんどが耐火構造になっている。
たとえばこの火災で、マンション一棟が丸焼けになるということはないだろう。
……だけど、部屋の中に有るものはまた別の話だ。
海野千絵がまだ生きているのは、彼女が部屋の入り口に――炎の発生点からやや遠い場所に居たというだけの理由に過ぎない。
それでもすでに炎は部屋の大部分を浸食し、もう少しで彼女を飲み込むであろうことは明白だった。
(ここにいちゃ、いけない)
その赤の侵略に対し、彼女は立ち上がろうとしていた。
心的外傷を負っても、それを癒やすことのできる者が居なくても、脅威は目の前にあるのだから。
(……ここにいちゃ、いけないんだ)
――いや、はたしてそれは炎から逃げようとしての行動だったのか。
千絵は窓を見て、そしてすぐに無言の悲鳴を上げて視線を逸らす。そこには未だ、彼女を見ている死体がいたからだ。
彼女が逃げだそうとしているのは、身を焦がす炎熱などではなく――
己の罪。その罪悪感ゆえに他ならない。
(やっぱり私は、ここにいちゃいけないんだ!)
奇しくもそれは、彼女と同じく吸血鬼の呪いに苦しんだ少女のように。
千絵は己の過ちを恐れ、この集団から逃げだそうとしていた。
恐れは思考から自由を奪ったが、逃走という行為だけは促進した。
進む。逃げ出すために、弱々しく足を踏み出す。
だけど、それすらも折れた。
時計の針が零時を示した瞬間、放送が始まるその寸前に。
『1日目と2日目の境。狭間の時間。鏡の中と外が入れ替わる』
零時迷子の能力で制限はされたものの、それでも魔女の綴る物語は健在で。
窓の中に存在する死者の国と、現実たる部屋の中が入れ替わってしまったように。
硝子から這い出てきた男の手が、千絵の、足に。
「あ――」
確たる感触を以て、彼女を捕らえた。
万力の如き剛力。
だがそこから伝わってくるのは痛みなどではなく、ただ絶対に逃さないという負の感情。それのみ。
「ひ――あ?」
視線が合う。
生前の男の人なりを、千絵は知らない。
だからその男が纏う怨嗟の不自然さにも気付かずに、彼女は異界に引きずり込まれた。
「――や、あ、ァァアアアアアアアアアアア!」
悲鳴を上げる。バタバタと身じろぎする。
だけど体中を欠損している男は、その部分を有り得ないくらいにねじ曲げ、伸ばし、彼女の肢体に絡みついた。
――逃サナイ。逃サナイニガサナイニガサナイニガサナイ……!
耳元でひたすらに囁かれる呪。逃れられないのだと理解するのに時間は掛からない。
「や――ごめ、ごめんなさ、あ」
謝罪は不可能だ。すぐに気付き、口をつぐむ。
触れられたのは一瞬だった。男の虚像が現実に這い出てきたのはほんの一秒。零時ジャストのその瞬間だけ。
だけど、その感触が残したものはそうではなかった。
永劫に残るであろう傷跡。外目には見えない致命的な裂傷を、その幻影は置き土産にしていった。
――どうすればいいのだろう。
精神への負荷が限界になってほとんどの思考が停止する中、それでも最後に残ったのはその疑問だった。
どうすれば良いのか。身を焦がす赤色の中、ただその解だけを模索する。
どうすれば、この痛みから逃れられるのか。
……その問いに対して、彼女の精神は賢明だったと言える。
崩壊を防ぐために、かつて存在した『痛まなかった』時期を記憶の中から探し出し主に提供し、それを指針とした。
「――あ、」
目の前には剣の柄。リナ・インバースが己に突き立てた光の剣。
刃は既に無かった。それを拾い上げ、懐に仕舞う。密かな武装行為。誰かを害するための行為。
海野千絵という少女は、最悪なまでに不幸だったといわざるを得ない。
その痛まなかった時期というのは、仲間に恵まれていた時でも、陽光の下に回帰した時でもなく――
――暗黒に身を委ねている時だけだったのだから。
「……あはっ」
千絵は緩みきった笑みを浮かべた。まるで決壊したダムのような、ある種の清々しさがそこにはあった。
――支払うべき対価はここに。あの女怪の記憶は留めている。
「『だが、おまえが私を見つけだして望んだならば、再び吸血鬼にしてやろう』」
約束された言葉を吐き、自ら陵辱した男の残影を背負って。
彼女はゆらりと立ち上がった。
燃え盛る空気の中であれば、その外に声は漏れない。
狂気に濡れた笑いはただ彼女の周囲を無限に旋回し、心の傷をより抉っていく。
炎が浸食する部屋の中。熱は彼女を容赦なく炙っていたが、それでもまだ致命的なことには至っていない。
慶滋保胤の矜持は彼女を救った。
ほんの僅か、彼女から死を遠ざけた。
十分な量の燃焼剤があれば、遅かれ早かれマンションの一室など火の海となる。
すでに火の粉は机上のレポートに燃え移り、そこを新たな苗床として炎を生んでいた。
もっとも、集合住宅という種類の建築物はそのほとんどが耐火構造になっている。
たとえばこの火災で、マンション一棟が丸焼けになるということはないだろう。
……だけど、部屋の中に有るものはまた別の話だ。
海野千絵がまだ生きているのは、彼女が部屋の入り口に――炎の発生点からやや遠い場所に居たというだけの理由に過ぎない。
それでもすでに炎は部屋の大部分を浸食し、もう少しで彼女を飲み込むであろうことは明白だった。
(ここにいちゃ、いけない)
その赤の侵略に対し、彼女は立ち上がろうとしていた。
心的外傷を負っても、それを癒やすことのできる者が居なくても、脅威は目の前にあるのだから。
(……ここにいちゃ、いけないんだ)
――いや、はたしてそれは炎から逃げようとしての行動だったのか。
千絵は窓を見て、そしてすぐに無言の悲鳴を上げて視線を逸らす。そこには未だ、彼女を見ている死体がいたからだ。
彼女が逃げだそうとしているのは、身を焦がす炎熱などではなく――
己の罪。その罪悪感ゆえに他ならない。
(やっぱり私は、ここにいちゃいけないんだ!)
奇しくもそれは、彼女と同じく吸血鬼の呪いに苦しんだ少女のように。
千絵は己の過ちを恐れ、この集団から逃げだそうとしていた。
恐れは思考から自由を奪ったが、逃走という行為だけは促進した。
進む。逃げ出すために、弱々しく足を踏み出す。
だけど、それすらも折れた。
時計の針が零時を示した瞬間、放送が始まるその寸前に。
『1日目と2日目の境。狭間の時間。鏡の中と外が入れ替わる』
零時迷子の能力で制限はされたものの、それでも魔女の綴る物語は健在で。
窓の中に存在する死者の国と、現実たる部屋の中が入れ替わってしまったように。
硝子から這い出てきた男の手が、千絵の、足に。
「あ――」
確たる感触を以て、彼女を捕らえた。
万力の如き剛力。
だがそこから伝わってくるのは痛みなどではなく、ただ絶対に逃さないという負の感情。それのみ。
「ひ――あ?」
視線が合う。
生前の男の人なりを、千絵は知らない。
だからその男が纏う怨嗟の不自然さにも気付かずに、彼女は異界に引きずり込まれた。
「――や、あ、ァァアアアアアアアアアアア!」
悲鳴を上げる。バタバタと身じろぎする。
だけど体中を欠損している男は、その部分を有り得ないくらいにねじ曲げ、伸ばし、彼女の肢体に絡みついた。
――逃サナイ。逃サナイニガサナイニガサナイニガサナイ……!
耳元でひたすらに囁かれる呪。逃れられないのだと理解するのに時間は掛からない。
「や――ごめ、ごめんなさ、あ」
謝罪は不可能だ。すぐに気付き、口をつぐむ。
触れられたのは一瞬だった。男の虚像が現実に這い出てきたのはほんの一秒。零時ジャストのその瞬間だけ。
だけど、その感触が残したものはそうではなかった。
永劫に残るであろう傷跡。外目には見えない致命的な裂傷を、その幻影は置き土産にしていった。
――どうすればいいのだろう。
精神への負荷が限界になってほとんどの思考が停止する中、それでも最後に残ったのはその疑問だった。
どうすれば良いのか。身を焦がす赤色の中、ただその解だけを模索する。
どうすれば、この痛みから逃れられるのか。
……その問いに対して、彼女の精神は賢明だったと言える。
崩壊を防ぐために、かつて存在した『痛まなかった』時期を記憶の中から探し出し主に提供し、それを指針とした。
「――あ、」
目の前には剣の柄。リナ・インバースが己に突き立てた光の剣。
刃は既に無かった。それを拾い上げ、懐に仕舞う。密かな武装行為。誰かを害するための行為。
海野千絵という少女は、最悪なまでに不幸だったといわざるを得ない。
その痛まなかった時期というのは、仲間に恵まれていた時でも、陽光の下に回帰した時でもなく――
――暗黒に身を委ねている時だけだったのだから。
「……あはっ」
千絵は緩みきった笑みを浮かべた。まるで決壊したダムのような、ある種の清々しさがそこにはあった。
――支払うべき対価はここに。あの女怪の記憶は留めている。
「『だが、おまえが私を見つけだして望んだならば、再び吸血鬼にしてやろう』」
約束された言葉を吐き、自ら陵辱した男の残影を背負って。
彼女はゆらりと立ち上がった。
◇◇◇
闇は恐怖である。したがって、神野陰之は恐怖の具現である。
故にその影に包まれた瞬間、ノルニルの緊急避難装置は作動した。
だがその装置は何処へ繋がったのか?
黒い卵は所有者をその身内の下へ転送する。
だがベルガーと同じ世界からきた旧友はすでに亡く、彼が身を置いていた集団もほとんど崩壊していた。
生き残りは彼の他に僅かに二名。海野千絵と折原臨也。
だが満足に会話したことすらないこの両名を、避難装置は身内と見なすのか。
しかし、その二人以外には誰もいない。
「――ならばどこにも届かない。そうではないかね?」
結果として、ベルガーが落ちたのは深い闇の中。
無名の庵のような荒野ですらなく、ただどこまでも黒一色でしかない粘液のような空間だった。
そんな場所で、夜色の外套を纏った神野陰之とダウゲ・ベルガーは対峙している。
神野の言葉を無視して、ベルガーは短い問いを発した。
「どうしてここにいる?」
「『私』はあらゆる空間と時間に偏在する。どこにだっているさ――“こんな場所”にさえ」
その白い貌が目立つ暗黒の世界を示しながら、神野は見透かすような目でベルガーを見ていた。
「ああ――君は心配しているのかな? 『私』が天壌の劫火を打ち破り、君を追ってきたと?」
「まさか。あのアラストールが負けはしないだろうさ」
「その根拠は?」
尋ねる神野。ベルガーはすぐさま返答した。
「お前に答える義理は、ないな」
「いいや、はっきり言いたまえ――無いのだろう? そんなものは」
ベルガーが訝しげな表情を浮かべる。
嬲るようなその言葉に、怒りは沸かなかった。
何故なら、その言葉を吐いた神野がどこまでも感嘆している様子で、さらに拍手などしているからだ。
「そう、君の言葉に根拠など無い。だが、君はその言葉を信じている――素晴らしい。いや、素晴らしいよ。僅か一日にして、か」
「……なにを言ってるんだ?」
「君達は答えに辿り着いたのさ、ダウゲ・ベルガー。心の存在証明。
かつてとある一人の契約者が未来精霊を退けた解答を手に入れた」
それはこのゲームの根源、その存在意義だ。
心の証明。ただそれだけのために、この殺し合いは開幕した。
その解答を手にしたというならば、つまりダウゲ・ベルガーは勝利したということ。
この殺戮の舞台上から去る権利を得たということだ。
だから――ベルガーはPSG-1を構えた。
まるで拳銃でも扱うかのように片手で保持し、その銃口を神野の鼻先に突きつける。
「ああそうか。それで?」
「それで――とは?」
凶器を向けられながらも、神野は笑みを崩さない。
神野に対し、今の自分は有効な手を何も持っていない。それは理解している。
だからこの行為は、ただ拒絶の意を明らかにしただけ。
「勝手にこんな場所に拉致しておいて、用が済んだらもう帰れ、はないだろう。
それに、その口ぶりだとまだ帰す気はなさそうだが?」
「その通り。君たちが体現した『無条件の信頼』という答えはいまやアマワに通用しない。
かつてアマワはそれを突きつけられ、それでもなお更なる解を望むのだから」
「……それはまた、ずいぶんと傲慢だな」
ため息混じりに、ベルガー。
なんとはなしに漏れた言葉だった。ほとんど反射的だったとさえいっていい。
「そう、傲慢だ。式に対する解答が必ずあると確信するなど」
だから、それに対する反応があったことに、ベルガーは一抹の疑念を抱く。
不吉を予告するように、周囲の闇が蠢いた。
「お前は、アマワとやらに協力してるんだろう? 心の実在を証明するために。なら」
「ならば『私』も証明の方程式があると信じているはずだ――かね?
だがその論理は適用されないよ。『私』は他者の願望によって動く者でしかないのだから」
淡々と、当たり前のことでも話すかのような神野。
いや、それは神野にとっては当たり前なのだろう。だが彼を知らぬ者にとっては未知なのもまた道理。
(こいつは協力しておいて、答えがでるとは思っていない?)
ベルガーは思考する。どこか焦るように、思考する。
対峙した時間は一刻にも満たない。それでもこの神野という怪物の力は理解させられていた。
神野陰之は闇そのものだ。人を脅かす怪異の根底に存在する。
それを目の前にすれば、人は誰しも恐怖を抱く。
ベルガーは気丈な方だ。恐怖ではなく、まだ不安や疑念といったレベルで済んでいる。
――そう。まだ、いまのところは。
アラストールという篝火が傍にあったときは、まだ。
「それじゃあ、お前は」
「ひとつだけ質問を許可しよう」
遮る形で、どこか面白がるように神野はそんな提案を投げかけた。
「君のあらゆる質問に答えよう、ダウゲ・ベルガー。
刻印の解除法、この世界から脱出する術、管理者たちの部屋へ至る道筋。
ただひとつだけ、何の制限もなしにあらゆる解答を提示しよう。無論、私が知る範囲でだが」
唐突な、そして無視できないほどに破格の条件。
神野は発せられる問いを待つ。只管に笑いながら。
それはまるで、これから起こる哀れで愚かな惨劇を慈しむように。
ベルガーは、応えない。
なにかを黙考するかのように、じっと神野を睨み付けたままだ。
「心の実在が証明できるか、あるいは我々を倒すことが出来るか――ふむ、君の心配事はそれかね?」
その思考を見透かしながら、神野は嗤い続ける。
ベルガーは喋らない。その表情にはなにも浮かんでいない。
それでも神野は、どこか満足げに頷くと、
「なに、証明の可能不可能はこのさい問題ではない。君達はもとより心の証明などする気はなかったのだから。
ならば取るべき手段は一つだけだ。
我々を倒す。理に適っているよ。『私』か『彼』か。そのどちらが潰えてもこの遊戯は崩壊する。
そして刻印を持たず、あの盤上における制限もないアラストールならばそれも可能だろう」
まるで他人事のように神野はそう言い切った。ただしもう一言だけ、付け加える。
「ところで、決まったようだよ」
「なにがだ?」
「天壌の劫火アラストール。その敗北が」
神器コキュートス。アラストールの意志を伝える術。
ベルガーの胸にあったそれから、あの厳かな声が聞こえる。
それは強く、高らかで、そして――どこまでも恐怖に溢れる、絶叫と知れた。
故にその影に包まれた瞬間、ノルニルの緊急避難装置は作動した。
だがその装置は何処へ繋がったのか?
黒い卵は所有者をその身内の下へ転送する。
だがベルガーと同じ世界からきた旧友はすでに亡く、彼が身を置いていた集団もほとんど崩壊していた。
生き残りは彼の他に僅かに二名。海野千絵と折原臨也。
だが満足に会話したことすらないこの両名を、避難装置は身内と見なすのか。
しかし、その二人以外には誰もいない。
「――ならばどこにも届かない。そうではないかね?」
結果として、ベルガーが落ちたのは深い闇の中。
無名の庵のような荒野ですらなく、ただどこまでも黒一色でしかない粘液のような空間だった。
そんな場所で、夜色の外套を纏った神野陰之とダウゲ・ベルガーは対峙している。
神野の言葉を無視して、ベルガーは短い問いを発した。
「どうしてここにいる?」
「『私』はあらゆる空間と時間に偏在する。どこにだっているさ――“こんな場所”にさえ」
その白い貌が目立つ暗黒の世界を示しながら、神野は見透かすような目でベルガーを見ていた。
「ああ――君は心配しているのかな? 『私』が天壌の劫火を打ち破り、君を追ってきたと?」
「まさか。あのアラストールが負けはしないだろうさ」
「その根拠は?」
尋ねる神野。ベルガーはすぐさま返答した。
「お前に答える義理は、ないな」
「いいや、はっきり言いたまえ――無いのだろう? そんなものは」
ベルガーが訝しげな表情を浮かべる。
嬲るようなその言葉に、怒りは沸かなかった。
何故なら、その言葉を吐いた神野がどこまでも感嘆している様子で、さらに拍手などしているからだ。
「そう、君の言葉に根拠など無い。だが、君はその言葉を信じている――素晴らしい。いや、素晴らしいよ。僅か一日にして、か」
「……なにを言ってるんだ?」
「君達は答えに辿り着いたのさ、ダウゲ・ベルガー。心の存在証明。
かつてとある一人の契約者が未来精霊を退けた解答を手に入れた」
それはこのゲームの根源、その存在意義だ。
心の証明。ただそれだけのために、この殺し合いは開幕した。
その解答を手にしたというならば、つまりダウゲ・ベルガーは勝利したということ。
この殺戮の舞台上から去る権利を得たということだ。
だから――ベルガーはPSG-1を構えた。
まるで拳銃でも扱うかのように片手で保持し、その銃口を神野の鼻先に突きつける。
「ああそうか。それで?」
「それで――とは?」
凶器を向けられながらも、神野は笑みを崩さない。
神野に対し、今の自分は有効な手を何も持っていない。それは理解している。
だからこの行為は、ただ拒絶の意を明らかにしただけ。
「勝手にこんな場所に拉致しておいて、用が済んだらもう帰れ、はないだろう。
それに、その口ぶりだとまだ帰す気はなさそうだが?」
「その通り。君たちが体現した『無条件の信頼』という答えはいまやアマワに通用しない。
かつてアマワはそれを突きつけられ、それでもなお更なる解を望むのだから」
「……それはまた、ずいぶんと傲慢だな」
ため息混じりに、ベルガー。
なんとはなしに漏れた言葉だった。ほとんど反射的だったとさえいっていい。
「そう、傲慢だ。式に対する解答が必ずあると確信するなど」
だから、それに対する反応があったことに、ベルガーは一抹の疑念を抱く。
不吉を予告するように、周囲の闇が蠢いた。
「お前は、アマワとやらに協力してるんだろう? 心の実在を証明するために。なら」
「ならば『私』も証明の方程式があると信じているはずだ――かね?
だがその論理は適用されないよ。『私』は他者の願望によって動く者でしかないのだから」
淡々と、当たり前のことでも話すかのような神野。
いや、それは神野にとっては当たり前なのだろう。だが彼を知らぬ者にとっては未知なのもまた道理。
(こいつは協力しておいて、答えがでるとは思っていない?)
ベルガーは思考する。どこか焦るように、思考する。
対峙した時間は一刻にも満たない。それでもこの神野という怪物の力は理解させられていた。
神野陰之は闇そのものだ。人を脅かす怪異の根底に存在する。
それを目の前にすれば、人は誰しも恐怖を抱く。
ベルガーは気丈な方だ。恐怖ではなく、まだ不安や疑念といったレベルで済んでいる。
――そう。まだ、いまのところは。
アラストールという篝火が傍にあったときは、まだ。
「それじゃあ、お前は」
「ひとつだけ質問を許可しよう」
遮る形で、どこか面白がるように神野はそんな提案を投げかけた。
「君のあらゆる質問に答えよう、ダウゲ・ベルガー。
刻印の解除法、この世界から脱出する術、管理者たちの部屋へ至る道筋。
ただひとつだけ、何の制限もなしにあらゆる解答を提示しよう。無論、私が知る範囲でだが」
唐突な、そして無視できないほどに破格の条件。
神野は発せられる問いを待つ。只管に笑いながら。
それはまるで、これから起こる哀れで愚かな惨劇を慈しむように。
ベルガーは、応えない。
なにかを黙考するかのように、じっと神野を睨み付けたままだ。
「心の実在が証明できるか、あるいは我々を倒すことが出来るか――ふむ、君の心配事はそれかね?」
その思考を見透かしながら、神野は嗤い続ける。
ベルガーは喋らない。その表情にはなにも浮かんでいない。
それでも神野は、どこか満足げに頷くと、
「なに、証明の可能不可能はこのさい問題ではない。君達はもとより心の証明などする気はなかったのだから。
ならば取るべき手段は一つだけだ。
我々を倒す。理に適っているよ。『私』か『彼』か。そのどちらが潰えてもこの遊戯は崩壊する。
そして刻印を持たず、あの盤上における制限もないアラストールならばそれも可能だろう」
まるで他人事のように神野はそう言い切った。ただしもう一言だけ、付け加える。
「ところで、決まったようだよ」
「なにがだ?」
「天壌の劫火アラストール。その敗北が」
神器コキュートス。アラストールの意志を伝える術。
ベルガーの胸にあったそれから、あの厳かな声が聞こえる。
それは強く、高らかで、そして――どこまでも恐怖に溢れる、絶叫と知れた。
◇◇◇
「強い意志や願いは力となる。いまの君たちのように」
アラストールにその身を握りつぶされる寸前であるというのに、神野の声は涼やかだった。
だが、涼やかなのは声だけだ。
身に纏う外套は焦げ臭い匂いを発し、その色を夜色から焦げ色へと変えている。
神野陰之とは名付けられた闇。故に、その本体こそが統べられた世界の暗黒。
だからこそ天壌の劫火に握られてもその程度で済んでいる。
――緩やかに死に行くだけで、済んでいる。
「では力とは何だろう。力とは蹂躙するものだ。
刀は触れた物を斬る。銃弾は砕く。炎ならば焼く。ならばつまり、意志とは蹂躙するものだ」
それでも、覆せぬ死が眼前にあるというのに神野陰之は語り続ける。
まるでそれこそが己の役割だとでもいうように。
「この期に及んで戯言か。ならば応えよう。
我が力は――我が意志は、決してその方向を違えん!」
「言い切れるかね、天壌の劫火。君の、君たちの意志が何か致命的なものを何一つ見逃していないと」
慎ましくもなく、苦し紛れでもなく、はったりでもなく。
――夜闇の魔王は、ただ真実のみを口にする。
「この瞬間、貴様を討滅するこの一瞬に、そのようなものが介入する余地などない」
アラストールがさらに存在の力を拳に籠め、神野に加える熱量を上げていく。
炭化した外套がぼろぼろと剥がれ、零れ落ちていった。
初めて――恐らくその誕生から初めて、神野陰之という存在が致命的なまでに害されていく。
「あるさ。蹂躙する側の君が気付かないというだけで。
ふむ。解答を提示することは吝かではないが、それは拒絶されているのだったね」
「……」
アラストールは最早、応えない。
神野という存在は、既に焼け始めていた。恐らく、もってあと十数秒。それで闇は名を失う。
「意志は、より強い意志に打ち砕かれる。だから願望なき『私』の言葉は君に届かず――」
そして神野の存在が燃え尽きる、その寸前に。
「君は敗北するのだ、天罰狂い」
――炎の衣を纏うアラストールを、地下より吹き上がった別種の炎が包み込んだ。
「なっ――!?」
驚愕するアラストール。その隙に、神野陰之はその手から飛び出していた。
着地し、満ち満ちる闇をその身に絡めるように一回転すると、それだけで傷は消え、黒の外套も復元されている。
そうして全快した魔王は、改めてアラストールへ視線を向けた。
炎に包まれる巨人。それだけならば、先程と何ら変わりはない。
だが、分かる。いま魔神を包んでいる炎は、決して天壌の劫火ではない。
アラストールは炎に捲かれたまま数歩後退し、そして察した。知っている。自分はこの感覚をかつてから知っていた。
「これは――坂井、悠二の――!?」
「その通り。零時迷子が復元する世界の疵痕。獣精霊ギーアの残滓」
嘲る言葉をたどり、発見する。炎の向こう側、いまだ健在している神野陰之。
あと一息。あと一息で、倒せたというのに――
そう。あと一息だった。では諦めるか? あと一息だったと笑いあって諦めるか?
――まさか。諦められるものか。
「このようなもの……!」
さらに存在の力を注ぎ込む。
まずはこの炎を跳ね飛ばし、それからもう一度神野を焼き滅ぼす。
それを切望して――だが、出来ない。
残りの存在の力が少なすぎるからというだけではない。
炎から伝わってくる怒り、悲しみ、喪失感――それらが、あまりに巨大すぎる。
自分すら飲み込みかねないほどに。
「無駄だよ。いかに君とてその炎からは逃れられない。
それは、本来何者からも干渉されるはずのなかった未来精霊すら封じる力だ。
宝具によって復元され、今も世界とアマワを焼き続けている――丁度その位置に、君は踏みこんだ」
ほぼ無制限に広がる無名の庵。そのほんの僅かな一画。猫の額よりも狭い空間に、その場所はあったのだ。
そして不運にも、アラストールはその場所に踏み込んだ――?
「馬鹿な、そのような――」
「偶然があるわけない? だがその『偶然』はあの盤の上で散々付きまとっていただろうに。
アマワは偶然を操る――もっとも、そのアマワも今は君同様に焼かれているがね。
だがそれでも“あの盤上でないのなら”偶然は起こるのだよ」
「なぜだ!」
抵抗を止めぬまま、アラストールが叫ぶ。
それは焦燥と苛立ちが生み出した意味の無い叫びだ。
だが同時に、紛れも無くそれは心の底からの紛糾だった。
――それが、最後の一線。
神野が嗤う。醜悪に、毒々しく、嬲るように――だが淡々と。
「君の意志が蹂躙したのは『私』の言葉だ。
『契約者でも無い限り、この空間で都合の良い偶然は起きない』。
裏返せば、契約者であれば偶然に守護されるということ。
あの盤上で君たちの力を縛る制限は二つ。その身に捺された刻印と、そして外部から隔絶する為に箱庭自体に施した刻印。
前者は認識しやすい脅威として、後者は君のような規格外を制限するために用意させて貰った。
保険のようなものだったが、君の同類の例から見て間違いではなかったようだ」
(――マルコシアス!)
送還されたか、それとも果てたか――どちらか分からないが、それでも志は折れたのだろう。
哀れだった。惨めだった。
今の自分のように。
「後者の刻印は外部からの働きかけを制限する。加護や概念の類ですらもね。
だからこそ、契約者とてあの盤上では死ぬ。
そして『彼』のことを『私』が何と呼んだか――君は覚えていないだろう、アラストール」
「……っ」
「“盟友”だよ。『私』は契約者だ。
やや変則的だが、心の証明に協力する限り――つまりこのゲームが続いている間はほぼ滅びることがない。
少なくとも"君程度"の脅威ならば。
今のように、あらゆる偶然が『私』を助けてしまう。これはすでに結ばれた約定なのだから、アマワの有無は関係ない」
紅世の王の力ですら、神威ですら破ることのできない約束。
ならば、何がそれを壊せるというのか。
「ぬ……ぐぅ……!」
呻く。獣精霊の炎は天壌の劫火を掻き消すほどではないが、それでも拮抗していた。
脱出は不可能ではない。
それでも、それをした後に神野を再び追い詰められるかと言えば、おそらく無理だ。
――だけど。
「――諦めるか……諦めるものか!
契約をした! フレイムヘイズの契約ではない、だが絶対の契約をダウゲ・ベルガーと交わしたのだ!」
その約束を、果たさねばならない。
契約の不履行など、この断罪の魔神にあってはならない。
天壌の劫火は獣精霊の炎を纏いながら、一歩、また一歩と――僅かな、だが確かな歩みを見せる。
「そうだね。君らの『意志』と『願い』は強固だった。その獣精霊の残滓を凌ぐほどに。
『私』を倒す、ゲームに幕を引く。ああ、確かに強固だった。だが――」
神野は、動かない。
もとよりそれほど距離が離れていたわけではない。アラストールがあとほんの少し踏み出せば、神野に届く。
――だが、それでも闇に浮かぶ嗤いは絶えず。
「だが、それでもゲームは続いている。それが君達の限界だ、アラストール」
神野の言葉によって、道は閉ざされた。
思い出す。否、強制的に情報を叩き込まれる。目の前の存在が如何なるモノであったかを。
より強き願いによってのみ動く究極の魔法、神野陰之。
それがまだゲームを続けているということは――
「そうだ。君たちの『願い』も『約束』もアマワのものに届かなかった。
君たちの意志はアマワより薄弱で、君たちの決意はアマワより劣っていた。
君達は正しくして――より強き想いに敗北した」
砕けた。
天壌の劫火。その巨体を支える膝が折れ、地に伏す。
前進しようとする心は四散して、燃え盛っていた輝きは鎮まった。
精霊は、ただ一つの意味に硝化して生まれる。
アマワは隙間を埋めることの出来る存在を求めるが為に生じた。
ただ本当に、なんの混じりけもなく、そのためだけに。
叶えることにおいて夜闇の魔王が究極ならば、未知の精霊は求めることにかけての極致。
「そ、んな――」
否定しようと口を開き――それでも言葉は出てこない。
ダナティアの高らかな宣言。他者を生かすために自刃したリナの遺志。自分が守ろうとしたシャナの誇り。
そしてダウゲ・ベルガーとの約束。それらが全て取るに足らないものだったと――
(ならば、我らが抗う意味とは――?)
「……アラストール」
そして意志の折れたアラストールに、神野の言葉を防ぐ力はなく。
哀れむような嘲るような、丸眼鏡の向こうの双眸に心の底まで貫かれ。
「事実だ」
その言葉に、アラストールは恐怖した。
届かない――いかに気高い決意も、強固な意志も、あらゆるすべてが届かない!
気付かず、悲鳴を洩らしていた。
いつの間にか、アラストールは神野陰之という存在に恐怖を覚えていた。
「さて、『私』と君の力量は互角。それでも、二対一ならば――」
だけど、その悲鳴はすぐに、
「――消え去るがいい。“天壌の劫火”」
断末魔となった。
アラストールにその身を握りつぶされる寸前であるというのに、神野の声は涼やかだった。
だが、涼やかなのは声だけだ。
身に纏う外套は焦げ臭い匂いを発し、その色を夜色から焦げ色へと変えている。
神野陰之とは名付けられた闇。故に、その本体こそが統べられた世界の暗黒。
だからこそ天壌の劫火に握られてもその程度で済んでいる。
――緩やかに死に行くだけで、済んでいる。
「では力とは何だろう。力とは蹂躙するものだ。
刀は触れた物を斬る。銃弾は砕く。炎ならば焼く。ならばつまり、意志とは蹂躙するものだ」
それでも、覆せぬ死が眼前にあるというのに神野陰之は語り続ける。
まるでそれこそが己の役割だとでもいうように。
「この期に及んで戯言か。ならば応えよう。
我が力は――我が意志は、決してその方向を違えん!」
「言い切れるかね、天壌の劫火。君の、君たちの意志が何か致命的なものを何一つ見逃していないと」
慎ましくもなく、苦し紛れでもなく、はったりでもなく。
――夜闇の魔王は、ただ真実のみを口にする。
「この瞬間、貴様を討滅するこの一瞬に、そのようなものが介入する余地などない」
アラストールがさらに存在の力を拳に籠め、神野に加える熱量を上げていく。
炭化した外套がぼろぼろと剥がれ、零れ落ちていった。
初めて――恐らくその誕生から初めて、神野陰之という存在が致命的なまでに害されていく。
「あるさ。蹂躙する側の君が気付かないというだけで。
ふむ。解答を提示することは吝かではないが、それは拒絶されているのだったね」
「……」
アラストールは最早、応えない。
神野という存在は、既に焼け始めていた。恐らく、もってあと十数秒。それで闇は名を失う。
「意志は、より強い意志に打ち砕かれる。だから願望なき『私』の言葉は君に届かず――」
そして神野の存在が燃え尽きる、その寸前に。
「君は敗北するのだ、天罰狂い」
――炎の衣を纏うアラストールを、地下より吹き上がった別種の炎が包み込んだ。
「なっ――!?」
驚愕するアラストール。その隙に、神野陰之はその手から飛び出していた。
着地し、満ち満ちる闇をその身に絡めるように一回転すると、それだけで傷は消え、黒の外套も復元されている。
そうして全快した魔王は、改めてアラストールへ視線を向けた。
炎に包まれる巨人。それだけならば、先程と何ら変わりはない。
だが、分かる。いま魔神を包んでいる炎は、決して天壌の劫火ではない。
アラストールは炎に捲かれたまま数歩後退し、そして察した。知っている。自分はこの感覚をかつてから知っていた。
「これは――坂井、悠二の――!?」
「その通り。零時迷子が復元する世界の疵痕。獣精霊ギーアの残滓」
嘲る言葉をたどり、発見する。炎の向こう側、いまだ健在している神野陰之。
あと一息。あと一息で、倒せたというのに――
そう。あと一息だった。では諦めるか? あと一息だったと笑いあって諦めるか?
――まさか。諦められるものか。
「このようなもの……!」
さらに存在の力を注ぎ込む。
まずはこの炎を跳ね飛ばし、それからもう一度神野を焼き滅ぼす。
それを切望して――だが、出来ない。
残りの存在の力が少なすぎるからというだけではない。
炎から伝わってくる怒り、悲しみ、喪失感――それらが、あまりに巨大すぎる。
自分すら飲み込みかねないほどに。
「無駄だよ。いかに君とてその炎からは逃れられない。
それは、本来何者からも干渉されるはずのなかった未来精霊すら封じる力だ。
宝具によって復元され、今も世界とアマワを焼き続けている――丁度その位置に、君は踏みこんだ」
ほぼ無制限に広がる無名の庵。そのほんの僅かな一画。猫の額よりも狭い空間に、その場所はあったのだ。
そして不運にも、アラストールはその場所に踏み込んだ――?
「馬鹿な、そのような――」
「偶然があるわけない? だがその『偶然』はあの盤の上で散々付きまとっていただろうに。
アマワは偶然を操る――もっとも、そのアマワも今は君同様に焼かれているがね。
だがそれでも“あの盤上でないのなら”偶然は起こるのだよ」
「なぜだ!」
抵抗を止めぬまま、アラストールが叫ぶ。
それは焦燥と苛立ちが生み出した意味の無い叫びだ。
だが同時に、紛れも無くそれは心の底からの紛糾だった。
――それが、最後の一線。
神野が嗤う。醜悪に、毒々しく、嬲るように――だが淡々と。
「君の意志が蹂躙したのは『私』の言葉だ。
『契約者でも無い限り、この空間で都合の良い偶然は起きない』。
裏返せば、契約者であれば偶然に守護されるということ。
あの盤上で君たちの力を縛る制限は二つ。その身に捺された刻印と、そして外部から隔絶する為に箱庭自体に施した刻印。
前者は認識しやすい脅威として、後者は君のような規格外を制限するために用意させて貰った。
保険のようなものだったが、君の同類の例から見て間違いではなかったようだ」
(――マルコシアス!)
送還されたか、それとも果てたか――どちらか分からないが、それでも志は折れたのだろう。
哀れだった。惨めだった。
今の自分のように。
「後者の刻印は外部からの働きかけを制限する。加護や概念の類ですらもね。
だからこそ、契約者とてあの盤上では死ぬ。
そして『彼』のことを『私』が何と呼んだか――君は覚えていないだろう、アラストール」
「……っ」
「“盟友”だよ。『私』は契約者だ。
やや変則的だが、心の証明に協力する限り――つまりこのゲームが続いている間はほぼ滅びることがない。
少なくとも"君程度"の脅威ならば。
今のように、あらゆる偶然が『私』を助けてしまう。これはすでに結ばれた約定なのだから、アマワの有無は関係ない」
紅世の王の力ですら、神威ですら破ることのできない約束。
ならば、何がそれを壊せるというのか。
「ぬ……ぐぅ……!」
呻く。獣精霊の炎は天壌の劫火を掻き消すほどではないが、それでも拮抗していた。
脱出は不可能ではない。
それでも、それをした後に神野を再び追い詰められるかと言えば、おそらく無理だ。
――だけど。
「――諦めるか……諦めるものか!
契約をした! フレイムヘイズの契約ではない、だが絶対の契約をダウゲ・ベルガーと交わしたのだ!」
その約束を、果たさねばならない。
契約の不履行など、この断罪の魔神にあってはならない。
天壌の劫火は獣精霊の炎を纏いながら、一歩、また一歩と――僅かな、だが確かな歩みを見せる。
「そうだね。君らの『意志』と『願い』は強固だった。その獣精霊の残滓を凌ぐほどに。
『私』を倒す、ゲームに幕を引く。ああ、確かに強固だった。だが――」
神野は、動かない。
もとよりそれほど距離が離れていたわけではない。アラストールがあとほんの少し踏み出せば、神野に届く。
――だが、それでも闇に浮かぶ嗤いは絶えず。
「だが、それでもゲームは続いている。それが君達の限界だ、アラストール」
神野の言葉によって、道は閉ざされた。
思い出す。否、強制的に情報を叩き込まれる。目の前の存在が如何なるモノであったかを。
より強き願いによってのみ動く究極の魔法、神野陰之。
それがまだゲームを続けているということは――
「そうだ。君たちの『願い』も『約束』もアマワのものに届かなかった。
君たちの意志はアマワより薄弱で、君たちの決意はアマワより劣っていた。
君達は正しくして――より強き想いに敗北した」
砕けた。
天壌の劫火。その巨体を支える膝が折れ、地に伏す。
前進しようとする心は四散して、燃え盛っていた輝きは鎮まった。
精霊は、ただ一つの意味に硝化して生まれる。
アマワは隙間を埋めることの出来る存在を求めるが為に生じた。
ただ本当に、なんの混じりけもなく、そのためだけに。
叶えることにおいて夜闇の魔王が究極ならば、未知の精霊は求めることにかけての極致。
「そ、んな――」
否定しようと口を開き――それでも言葉は出てこない。
ダナティアの高らかな宣言。他者を生かすために自刃したリナの遺志。自分が守ろうとしたシャナの誇り。
そしてダウゲ・ベルガーとの約束。それらが全て取るに足らないものだったと――
(ならば、我らが抗う意味とは――?)
「……アラストール」
そして意志の折れたアラストールに、神野の言葉を防ぐ力はなく。
哀れむような嘲るような、丸眼鏡の向こうの双眸に心の底まで貫かれ。
「事実だ」
その言葉に、アラストールは恐怖した。
届かない――いかに気高い決意も、強固な意志も、あらゆるすべてが届かない!
気付かず、悲鳴を洩らしていた。
いつの間にか、アラストールは神野陰之という存在に恐怖を覚えていた。
「さて、『私』と君の力量は互角。それでも、二対一ならば――」
だけど、その悲鳴はすぐに、
「――消え去るがいい。“天壌の劫火”」
断末魔となった。
◇◇◇
「これで君は切り札を失ったな、ダウゲ・ベルガー」
絶叫は絶え、いまやコキュートスからはなんの意思も伝わってこない。
追うように、ベルガーも沈黙を守っている。
ただ闇だけが、まとわりつくように言葉を発していた。
「さて。改めて、君はどうするのかな?
この空間から脱出する術も知らず、『私』を倒す手段も失われ。
君達の意志の脆弱ささえ証明された。さあ――どうする?」
成せることは……何も、ない。
あのアラストールでさえ駄目だった。自分たちの意志さえ否定された。
文字通りの八方塞がり。ならば、どうしようでもないではないか?
それでもベルガーが口にしたのは、懇願でも狂気でも泣き言でもなく、問い掛けだった。
「質問を許可する、といったな」
「ああ、その通りだ。あらゆる問いに真実を返そう」
「なら――質問だ。
"その質問を許された代価は?"」
だが、ベルガーの心中は穏やかでない。
闇を前にしている恐怖がある。仲間を奪われた怒りがある。
彼を支えていたのは誓いだった。
怒りに身を任せず、諦めに心を委ねず。
彼らの御旗。ダナティア・アンクルージュの宣告は、未だ彼の中で生き続けている。
――それでも、御旗を照らす篝火は失われた。
ベルガーが発した問い掛け。それは、本当に諦めから来たものではないのだろうか?
幾多の死線を潜り抜けてきた彼の嗅覚は、だいぶ前から最大の警鐘を鳴らしている。
しばしの沈黙。その後に、神野は高らかに嗤い声を上げた。
「君は本当に賢しいな、ダウゲ・ベルガー。
そう。確かにあんな破格の質問が許されるはずが無い。
――なに、何かを支払えというわけではないさ。
ただ、ああいった質問が許されるのは“どういった人物”なのだろうね?」
饒舌な神野とは対照的に、ベルガーは押し黙る。
それは口を開くタイミングを逸したというよりは、むしろ重圧で口が開けなくなっているという方が正しい。
知らぬうち、ベルガーは己の心臓の辺りを服の上から鷲掴みにしていた。
――脳裏をよぎるのは、炎髪灼眼の少女。
彼女は何故、自分の行為が織り成す絶望を知ることが許された――?
それを見越したように、闇はその醜悪な嗤いを強めていた。
「開始時に説明されたはずだ」
「――なに、を?」
――呼吸が、出来ない。
片肺は未だに再生中。いくら空気を吸ってもどこからか漏れている気がする。
だが、この息苦しさはそれだけで説明できるだろうか――?
「刻印の発動条件さ。違反に応じて、それは発動する。
この『ゲーム』を壊す為の『前準備』ならば容認もしよう。偶然に導かれて集うのも問題はない。
だが、ダウゲ・ベルガー。契約者ですらない君が、アマワが存在しない時間に無名の庵に踏み込んだ。
脱出を禁じられた箱庭から飛び出し、主催者に危害を加えようとした。
今回君が冒したのは明確な『ルール違反』だ」
そして、と神野は続ける。陰のように静止した笑みを口許に浮かべながら。
「刻印を作ったのはこの『私』だ。無論、それを発動する権限も――」
――シャナが己の行為の結果を知ることができたのは、すでに参加者ではなかったから。
それはまるで、最終章のダクトを振り下ろすかのように。
神野の指が、虚空を滑る。
瞬時にベルガーの胸に灼熱が走った――
絶叫は絶え、いまやコキュートスからはなんの意思も伝わってこない。
追うように、ベルガーも沈黙を守っている。
ただ闇だけが、まとわりつくように言葉を発していた。
「さて。改めて、君はどうするのかな?
この空間から脱出する術も知らず、『私』を倒す手段も失われ。
君達の意志の脆弱ささえ証明された。さあ――どうする?」
成せることは……何も、ない。
あのアラストールでさえ駄目だった。自分たちの意志さえ否定された。
文字通りの八方塞がり。ならば、どうしようでもないではないか?
それでもベルガーが口にしたのは、懇願でも狂気でも泣き言でもなく、問い掛けだった。
「質問を許可する、といったな」
「ああ、その通りだ。あらゆる問いに真実を返そう」
「なら――質問だ。
"その質問を許された代価は?"」
だが、ベルガーの心中は穏やかでない。
闇を前にしている恐怖がある。仲間を奪われた怒りがある。
彼を支えていたのは誓いだった。
怒りに身を任せず、諦めに心を委ねず。
彼らの御旗。ダナティア・アンクルージュの宣告は、未だ彼の中で生き続けている。
――それでも、御旗を照らす篝火は失われた。
ベルガーが発した問い掛け。それは、本当に諦めから来たものではないのだろうか?
幾多の死線を潜り抜けてきた彼の嗅覚は、だいぶ前から最大の警鐘を鳴らしている。
しばしの沈黙。その後に、神野は高らかに嗤い声を上げた。
「君は本当に賢しいな、ダウゲ・ベルガー。
そう。確かにあんな破格の質問が許されるはずが無い。
――なに、何かを支払えというわけではないさ。
ただ、ああいった質問が許されるのは“どういった人物”なのだろうね?」
饒舌な神野とは対照的に、ベルガーは押し黙る。
それは口を開くタイミングを逸したというよりは、むしろ重圧で口が開けなくなっているという方が正しい。
知らぬうち、ベルガーは己の心臓の辺りを服の上から鷲掴みにしていた。
――脳裏をよぎるのは、炎髪灼眼の少女。
彼女は何故、自分の行為が織り成す絶望を知ることが許された――?
それを見越したように、闇はその醜悪な嗤いを強めていた。
「開始時に説明されたはずだ」
「――なに、を?」
――呼吸が、出来ない。
片肺は未だに再生中。いくら空気を吸ってもどこからか漏れている気がする。
だが、この息苦しさはそれだけで説明できるだろうか――?
「刻印の発動条件さ。違反に応じて、それは発動する。
この『ゲーム』を壊す為の『前準備』ならば容認もしよう。偶然に導かれて集うのも問題はない。
だが、ダウゲ・ベルガー。契約者ですらない君が、アマワが存在しない時間に無名の庵に踏み込んだ。
脱出を禁じられた箱庭から飛び出し、主催者に危害を加えようとした。
今回君が冒したのは明確な『ルール違反』だ」
そして、と神野は続ける。陰のように静止した笑みを口許に浮かべながら。
「刻印を作ったのはこの『私』だ。無論、それを発動する権限も――」
――シャナが己の行為の結果を知ることができたのは、すでに参加者ではなかったから。
それはまるで、最終章のダクトを振り下ろすかのように。
神野の指が、虚空を滑る。
瞬時にベルガーの胸に灼熱が走った――
◇◇◇
魔術師が指を弾いた。
途端、新たに銜えられていたシガリロの先に赤が点る。
「様子見、というところにしておこうか」
「あれ? 刻印は作動させないんだ?」
「クライアントは過度な干渉を控えるように忠告していただろう……君の遊びも度が過ぎるぞ、人形使い」
吐き出す紫煙に諌める言葉を載せながら、魔術師。
肩をすくめて部屋から去っていく人形使いを尻目に、彼は深い思考に埋没していく。
彼にはひとつ懸念している事柄がある。
それは、このゲームが始まってから付きまとって離れない違和感についてだ。
“黒幕”と“管理者”の迎合は、切っ掛けも何もなく唐突な瞬間から始まった。
最初にそれと接触したのはイザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー。通称“機械仕掛けの魔導師”。
厳重な警戒システムがあった筈の彼のラボに、気配も前兆もなくそれは現れた。
現れた男の名は神野陰之。
“心の実在を証明する気はないかね?” ――それが闇を身に纏ったその男の第一声だった。
それから細々としたやり取りを経て、彼らは管理者という役柄に納まるに至っている。
――どこか、おかしい。
魔術師は懸命に思考する。だが、その思考が解にたどり着くことはない。
薔薇十字騎士団は短生種だけではなく長生種をも構成員に含んでいるが、それでも一応は人間的な思考で動く組織である。
対して、神野陰之は人間であれば恐怖心を抱かずにはいられない暗黒だ。
確かにオルデンは他人の野心等に付け込み、それを利用する形で自らの目的を果たそうとする性質が有る。
だが同時に彼らは慎重だ。果たして、それこそ『魔女』のような精神構造を成してない彼らが神野と取引をするだろうか?
誰も、違和感を覚えない。
例えば、参加者の会話を盗聴できることに彼らは疑問を抱かない。
住んでいる世界が違うというのに言語を理解できる。その理由を想像しない。
例えば、彼らは安全な場所に居るが故に己の全力を行使する必要はない。
だからその能力が低下していることに、気づかない。
最初に神野と対峙したケンプファー以外は、そもそも黒幕に対しての不信感など抱いていない。
完全な状態の刻印を植えつけられる前に神野を知ることのできたケンプファー以外は、誰も違和感を覚えない。
そしてその魔術師にもすでに刻印は刻まれている。だから、違和感の正体には気づけない。
『管理者』という区別をされた、証明への参加者たち。
彼らは揺り籠/牢獄の中にいる。
途端、新たに銜えられていたシガリロの先に赤が点る。
「様子見、というところにしておこうか」
「あれ? 刻印は作動させないんだ?」
「クライアントは過度な干渉を控えるように忠告していただろう……君の遊びも度が過ぎるぞ、人形使い」
吐き出す紫煙に諌める言葉を載せながら、魔術師。
肩をすくめて部屋から去っていく人形使いを尻目に、彼は深い思考に埋没していく。
彼にはひとつ懸念している事柄がある。
それは、このゲームが始まってから付きまとって離れない違和感についてだ。
“黒幕”と“管理者”の迎合は、切っ掛けも何もなく唐突な瞬間から始まった。
最初にそれと接触したのはイザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー。通称“機械仕掛けの魔導師”。
厳重な警戒システムがあった筈の彼のラボに、気配も前兆もなくそれは現れた。
現れた男の名は神野陰之。
“心の実在を証明する気はないかね?” ――それが闇を身に纏ったその男の第一声だった。
それから細々としたやり取りを経て、彼らは管理者という役柄に納まるに至っている。
――どこか、おかしい。
魔術師は懸命に思考する。だが、その思考が解にたどり着くことはない。
薔薇十字騎士団は短生種だけではなく長生種をも構成員に含んでいるが、それでも一応は人間的な思考で動く組織である。
対して、神野陰之は人間であれば恐怖心を抱かずにはいられない暗黒だ。
確かにオルデンは他人の野心等に付け込み、それを利用する形で自らの目的を果たそうとする性質が有る。
だが同時に彼らは慎重だ。果たして、それこそ『魔女』のような精神構造を成してない彼らが神野と取引をするだろうか?
誰も、違和感を覚えない。
例えば、参加者の会話を盗聴できることに彼らは疑問を抱かない。
住んでいる世界が違うというのに言語を理解できる。その理由を想像しない。
例えば、彼らは安全な場所に居るが故に己の全力を行使する必要はない。
だからその能力が低下していることに、気づかない。
最初に神野と対峙したケンプファー以外は、そもそも黒幕に対しての不信感など抱いていない。
完全な状態の刻印を植えつけられる前に神野を知ることのできたケンプファー以外は、誰も違和感を覚えない。
そしてその魔術師にもすでに刻印は刻まれている。だから、違和感の正体には気づけない。
『管理者』という区別をされた、証明への参加者たち。
彼らは揺り籠/牢獄の中にいる。