第593話:ラスト・ソード(決着)(前編) 作:◆5Mp/UnDTiI
経過は一瞬だった。
余韻すら残さない。感覚が断裂したかのように、目の前の光景は一瞬で摩り替わっている。
「炎を抜けると、そこは部屋の中だった――か。ヴァーレンハイトでさえ、もう少しましな構成を考えるであろうに」
屠龍刀を背にしたギギナは、腕組みをしながら辺りを見渡し、誰ともなしにそう呟いた。
ここは、無名の庵。黒幕である神野陰之の支配する空間である。
甲斐氷太の悪魔と最悪の吸血鬼による襲撃を生き残った彼らは、アラストールの炎を踏み越えた。
そうして、炎から出た先がこの部屋だったのだ――もっとも、部屋と呼ぶには彼らが居るその空間は広すぎるかもしれない。
全員が入ってなお余裕がある大きさ。壁も天井も床も白一色で、その境界が見つけにくい。唯一、ある一面の壁だけをアラストールの炎が燃やしていて、それが盤面との出入り口になっているようだった。
ともすれば、無制限に広がっているような錯覚にも陥りそうで――そして本当に無制限に広がっていないという保証もない。
先頭を引き受けたギギナに続いて、ぞろぞろと他のメンバーもこの奇妙な空間に踏み込んでくる。そして同じように周囲を見渡して、佐山が首を傾げた。
「ふむ――ここに来たことがあるのはベルガー君とカーラ女史だったか。どうも聞いていた様子と差異があるようだが、なにか分かるかね?」
「さあな。だが通じていたのは間違いなくあの場所の筈だ」
佐山の問いに、ベルガーが間を置かず答える。
あの場所――すなわちそれはアラストールが消滅した場所だ。
アラストールが最後の力を以ってして創り上げたあの道は、そこ以外に繋がるはずがない。
「出口を別の場所に繋げられたというよりも、出た先を改変されたのでしょうね」
神野陰之の力ならばそれは容易い事だろう。カーラは肩を竦めながら呟いた。"無名の庵"は神野陰之の支配する世界だ。このくらいの芸当は出来て当然。
そも、やろうと思えば、アレはここに居る全員を瞬時に消滅させられるだけの力をもっているのだ。
それをしないのは、あれが生物よりも法則に近い存在だからに他ならない。
法則とは覆しようのないものである。だが、法則は法則の領域を超えることなく、自身に縛られる。
『刻印』という定められた殺害手段を破戒したいま、あれはこちらを直接的に害せない。
ならば、あとは――
「その通りだ、灰色の魔女よ」
声は彼らの中央から。
ざっ――と、人ごみが割れる。ある者は得物を構え、ある者はその身に宿る異能を発動できる体勢へと瞬時に動く。
その中心には、黒衣を纏った若い男が立っている。
神野陰之。この殺し合いを主催する首謀者の一人。
「君たちはルールを破った。本来ならばその瞬間に刻印が魂を消滅させただろう。
だが灰色の魔女はルールに抵触するのと同時に刻印を無力化した。
違反者への罰は『刻印による死』だと宣言していた以上、『私』はもう君たちを直接的に殺せない。
ルールに則らない参加者の殺戮は、盟友アマワとの契約に反する事になる」
「心の実在を証明せよ、というやつか」
出現した暗黒に気圧される中、佐山がかつての女帝のように一歩を進み出た。
「だが、それをしないという事を私はアマワに宣言した。そうすると、私はどういう扱いになるのだろうね?」
「君とアマワの望みは競合する。故に、『私』はより強い願望を優先させる
アマワの願望は桁外れに大きい。君たち全員が同じ願いを持っていても、残念ながら精霊の意志には及ばないね」
「その意志の強さとやらを規定した無粋な輩は誰だね?」
「これは単純な論理さ。アマワはあまねく人が抱える疑問の集約。だからこそ人では彼に及ばない。仮に君が100の願いを持っていても、アマワの願いは100に1以上を足したものになる。
皮肉なものだね。『私』は『人』の願いしか叶えぬが、彼の願いは正しくして人の願いでもあるのだから」
「だから無理やり証明に参加させると?」
「その通りだよ、佐山・御言」
神野は満足そうにひとつ頷くと、両手を広げるように掲げた。宣言する。
「君達はここまでたどり着いた。この証明遊戯の終点まで。
だがここには我が盟友に出会った者、『私』に出会った者、それ以外の者が混在している。
故に、改めて真意を語ろう。
この盤面を用意した『私』の名は神野陰之。『人』の願望を叶える世界の半身。
そして証明遊戯を主催したる者の名はアマワ。もっとも強き願いを持つ未知の精霊。
願いの内容は心の実在を証明することだが、さて――いまこの場に、それを成し得る言葉を持っている者はいるだろうか?」
「持っていたとしても――」
声が上がる。声の主はゆっくりと身を起こすところだった。床に落ちていた剣を拾い上げたのだ。
強臓式武剣"運命"。かつて失われた己が半身を再び手にし、野犬は言葉を突きつけた。
「お前にくれてやるつもりはない。俺はシャナとアラストールの約束を果たしに、お前を倒しに来たぞ、神野陰之」
「……"野犬"ダウゲ・ベルガー」
2度目の対峙に、神野はいつも通りの嗤いを張りつかせたまま応じた。
「アラストールさえ、本当の神ですら勝てなかった戦いに再び臨もうというのか。神の力を捨てた君が」
「お前如きを殴り倒すのに、そんなものはいらないさ。もう一度やってやろうか?」
「その行為に意味はない。故に、君は見逃されたのだからね」
神野はベルガーから視線を外すと、また別の者たちへ視線を向けた。だがそこに、黒幕達の願いに迎合しようというものはひとりもいない。
「そもそもここまでされて、そっちの望みを叶えてお家に返して貰う? 笑えない冗談だな。翼は奪われても、牙まで抜かれちゃいない」
ヴァーミリオン・CD・ヘイズが唸る。
「あなた達の願いを叶えても、今度は別の連中に――なんてことになりかねません。だったら、もう二度とこんな催しの対象にならないように」
エルメスを傍らに、キノが太股のホルスターに収められた『カノン』を、指先で軽く叩きながら呟く。
「そうね、次元を越えられる者が、ひとつの目的の為に協力する――そんな目論見が成功してしまえば、後に続く者が現れないとも限らない」
福沢祐巳の身体を用いる灰色の魔女は、元の少女に似合わぬ毒のような微笑を咲かせて否定を示した。
「そもそもこの大天才に解いて貰いたいというのなら、もっと科学っぽい証明問題を持ってくるのだな!」
バックパックを背負ったコミクロンが、ばさりと白衣の裾を翻して高笑いをあげる。
「……悪いが、落とし前はつけさせて貰うぜ」
つい先ほど死んだ相棒を想いながら、オーフェンが指の関節を鳴らす。
「まあ、そういうことだな。とりあえずぶん殴ってすっきりしてからだ」
出雲・覚が頷きながらG-Sp2を構える。
「……」
蒼い殺戮者は無用な問答などせず、静かに光の剣を起動させた。
「論理をこねくり回すのは、やりたい者がやれば良い」
目の前にある明らかに桁違いな強者を前に、ギギナは獰猛な笑みを浮かべる。
そして、火乃香は。
きょろきょろと周囲を見回しているバンダナの少女に視線が集中する。すぐそれに気づいた火乃香は、「いや、もちろんあたしも戦うよ?」と何とも締まらない台詞をもごもごと呟きながら再び辺りを確認した。間違いではないと確信してから、未だ姿を見せない仲間の名前を口にする。
「……フリウは?」
余韻すら残さない。感覚が断裂したかのように、目の前の光景は一瞬で摩り替わっている。
「炎を抜けると、そこは部屋の中だった――か。ヴァーレンハイトでさえ、もう少しましな構成を考えるであろうに」
屠龍刀を背にしたギギナは、腕組みをしながら辺りを見渡し、誰ともなしにそう呟いた。
ここは、無名の庵。黒幕である神野陰之の支配する空間である。
甲斐氷太の悪魔と最悪の吸血鬼による襲撃を生き残った彼らは、アラストールの炎を踏み越えた。
そうして、炎から出た先がこの部屋だったのだ――もっとも、部屋と呼ぶには彼らが居るその空間は広すぎるかもしれない。
全員が入ってなお余裕がある大きさ。壁も天井も床も白一色で、その境界が見つけにくい。唯一、ある一面の壁だけをアラストールの炎が燃やしていて、それが盤面との出入り口になっているようだった。
ともすれば、無制限に広がっているような錯覚にも陥りそうで――そして本当に無制限に広がっていないという保証もない。
先頭を引き受けたギギナに続いて、ぞろぞろと他のメンバーもこの奇妙な空間に踏み込んでくる。そして同じように周囲を見渡して、佐山が首を傾げた。
「ふむ――ここに来たことがあるのはベルガー君とカーラ女史だったか。どうも聞いていた様子と差異があるようだが、なにか分かるかね?」
「さあな。だが通じていたのは間違いなくあの場所の筈だ」
佐山の問いに、ベルガーが間を置かず答える。
あの場所――すなわちそれはアラストールが消滅した場所だ。
アラストールが最後の力を以ってして創り上げたあの道は、そこ以外に繋がるはずがない。
「出口を別の場所に繋げられたというよりも、出た先を改変されたのでしょうね」
神野陰之の力ならばそれは容易い事だろう。カーラは肩を竦めながら呟いた。"無名の庵"は神野陰之の支配する世界だ。このくらいの芸当は出来て当然。
そも、やろうと思えば、アレはここに居る全員を瞬時に消滅させられるだけの力をもっているのだ。
それをしないのは、あれが生物よりも法則に近い存在だからに他ならない。
法則とは覆しようのないものである。だが、法則は法則の領域を超えることなく、自身に縛られる。
『刻印』という定められた殺害手段を破戒したいま、あれはこちらを直接的に害せない。
ならば、あとは――
「その通りだ、灰色の魔女よ」
声は彼らの中央から。
ざっ――と、人ごみが割れる。ある者は得物を構え、ある者はその身に宿る異能を発動できる体勢へと瞬時に動く。
その中心には、黒衣を纏った若い男が立っている。
神野陰之。この殺し合いを主催する首謀者の一人。
「君たちはルールを破った。本来ならばその瞬間に刻印が魂を消滅させただろう。
だが灰色の魔女はルールに抵触するのと同時に刻印を無力化した。
違反者への罰は『刻印による死』だと宣言していた以上、『私』はもう君たちを直接的に殺せない。
ルールに則らない参加者の殺戮は、盟友アマワとの契約に反する事になる」
「心の実在を証明せよ、というやつか」
出現した暗黒に気圧される中、佐山がかつての女帝のように一歩を進み出た。
「だが、それをしないという事を私はアマワに宣言した。そうすると、私はどういう扱いになるのだろうね?」
「君とアマワの望みは競合する。故に、『私』はより強い願望を優先させる
アマワの願望は桁外れに大きい。君たち全員が同じ願いを持っていても、残念ながら精霊の意志には及ばないね」
「その意志の強さとやらを規定した無粋な輩は誰だね?」
「これは単純な論理さ。アマワはあまねく人が抱える疑問の集約。だからこそ人では彼に及ばない。仮に君が100の願いを持っていても、アマワの願いは100に1以上を足したものになる。
皮肉なものだね。『私』は『人』の願いしか叶えぬが、彼の願いは正しくして人の願いでもあるのだから」
「だから無理やり証明に参加させると?」
「その通りだよ、佐山・御言」
神野は満足そうにひとつ頷くと、両手を広げるように掲げた。宣言する。
「君達はここまでたどり着いた。この証明遊戯の終点まで。
だがここには我が盟友に出会った者、『私』に出会った者、それ以外の者が混在している。
故に、改めて真意を語ろう。
この盤面を用意した『私』の名は神野陰之。『人』の願望を叶える世界の半身。
そして証明遊戯を主催したる者の名はアマワ。もっとも強き願いを持つ未知の精霊。
願いの内容は心の実在を証明することだが、さて――いまこの場に、それを成し得る言葉を持っている者はいるだろうか?」
「持っていたとしても――」
声が上がる。声の主はゆっくりと身を起こすところだった。床に落ちていた剣を拾い上げたのだ。
強臓式武剣"運命"。かつて失われた己が半身を再び手にし、野犬は言葉を突きつけた。
「お前にくれてやるつもりはない。俺はシャナとアラストールの約束を果たしに、お前を倒しに来たぞ、神野陰之」
「……"野犬"ダウゲ・ベルガー」
2度目の対峙に、神野はいつも通りの嗤いを張りつかせたまま応じた。
「アラストールさえ、本当の神ですら勝てなかった戦いに再び臨もうというのか。神の力を捨てた君が」
「お前如きを殴り倒すのに、そんなものはいらないさ。もう一度やってやろうか?」
「その行為に意味はない。故に、君は見逃されたのだからね」
神野はベルガーから視線を外すと、また別の者たちへ視線を向けた。だがそこに、黒幕達の願いに迎合しようというものはひとりもいない。
「そもそもここまでされて、そっちの望みを叶えてお家に返して貰う? 笑えない冗談だな。翼は奪われても、牙まで抜かれちゃいない」
ヴァーミリオン・CD・ヘイズが唸る。
「あなた達の願いを叶えても、今度は別の連中に――なんてことになりかねません。だったら、もう二度とこんな催しの対象にならないように」
エルメスを傍らに、キノが太股のホルスターに収められた『カノン』を、指先で軽く叩きながら呟く。
「そうね、次元を越えられる者が、ひとつの目的の為に協力する――そんな目論見が成功してしまえば、後に続く者が現れないとも限らない」
福沢祐巳の身体を用いる灰色の魔女は、元の少女に似合わぬ毒のような微笑を咲かせて否定を示した。
「そもそもこの大天才に解いて貰いたいというのなら、もっと科学っぽい証明問題を持ってくるのだな!」
バックパックを背負ったコミクロンが、ばさりと白衣の裾を翻して高笑いをあげる。
「……悪いが、落とし前はつけさせて貰うぜ」
つい先ほど死んだ相棒を想いながら、オーフェンが指の関節を鳴らす。
「まあ、そういうことだな。とりあえずぶん殴ってすっきりしてからだ」
出雲・覚が頷きながらG-Sp2を構える。
「……」
蒼い殺戮者は無用な問答などせず、静かに光の剣を起動させた。
「論理をこねくり回すのは、やりたい者がやれば良い」
目の前にある明らかに桁違いな強者を前に、ギギナは獰猛な笑みを浮かべる。
そして、火乃香は。
きょろきょろと周囲を見回しているバンダナの少女に視線が集中する。すぐそれに気づいた火乃香は、「いや、もちろんあたしも戦うよ?」と何とも締まらない台詞をもごもごと呟きながら再び辺りを確認した。間違いではないと確信してから、未だ姿を見せない仲間の名前を口にする。
「……フリウは?」
◇◇◇
自分以外の全員が炎の向こうに消えるのを見てから、フリウ・ハリスコーはマンションの外へと戻った。
この馬鹿高い建物は相変わらず燃えさかっており、周囲に真昼の如き明るさを齎している。もっとも、それも長くは続かないだろう。遠くの空が白み始めている。夜明けは近い。そうなれば、この炎も太陽の明るさに紛れるはずだ。
「ふっ――まさかこの小娘が全ての黒幕だったとはな」
何やら物騒な物言いをするスィリーに、フリウはびくりと肩をふるわせて振り返った。
「黒幕じゃないもの。なんでそんなこと言うの」
「そうなのか? しかし被害者全員を炎の中に突入させて、自分だけ一人帰ってくるものだからてっきり」
くるくると付き纏ってくるスィリーを無視しながら、マンションの側にいくつか設置されているベンチに座ると、フリウはため息をついた。スィリーも真似するかのように、フリウの肩に腰掛けてくる。
「……あの人達は、強いから大丈夫だよ」
「大丈夫って何がだ。仕事を押しつけても怒られないとかそういう大丈夫度か」
「違うよ。アマワと戦える人達だってこと」
悪と戦う方法を、きっとあの人達は知っているだろう。かつて自分がアマワと戦った時のことも伝えた。ならば、自分が絶対に行かなくてはならないというような必要性はない。
「ふむ。よく分からんが、それでも行けばなんか役目はあるんじゃねっか。荷物持ちとか、荷物番とか。そういう仕事を薄給で地味だからと嫌がるから経済が停滞する」
肩の上でしたり顔で宣う人精霊に、フリウは苦笑を浮かべた。
「別に嫌だとも思わないけどね。荷物持ちも荷物番も、ハンターなら誰もがやることだしさ」
「じゃあなんでお前さん、こんなところでサボってんだ?」
「サボってるかはまだ分からないでしょ」
フリウが口を尖らせて言うと、スィリーは首を傾げて疑問符を浮かべた。
「なら、いつ分かるんだ?」
その問いに応えようとして。
声が出なかった。言葉に迷ったのではない。発声のため震わせようとした喉に、背後から指が掛かっていた。気道が摘ままれ、塞がれる感覚。以前にもこんなことがあったな、と記憶の底がかき回される。
だが、今回耳元で囁かれたのは、男の声だった。
「動こうとはしないほうがいいな、ベスポルトの娘」
(私のことを知ってる?)
その事実に、怖気よりも単純な疑問が先立った。
ベスポルト。亡き養父の名前。この世界で口にした覚えはなかった。知っている名前は名簿になかったはずだ。ミズー・ビアンカ以外には。
その戸惑いを指先で感じ取ったのだろう。背後の男は嘲るような吐息を漏らした。
「おやおや、父親の仇を覚えていないとは冷たいことだ」
父の、仇――その言葉でようやく思い出す。あの蛇のような男。帝都で見かけたのが最後で、そもそも碌に会話さえしておらず、実の所、名前さえ覚えていない。背後を振り向いて確認したところで、確実に記憶の像と一致させる自信もなかった。
仇と言われても、いまさら怒りは湧かない。というより、今の今まで仇とすら認識していなかったのだ。
とはいえ、それは本題ではなかったのだろう。フリウがじっとしていると、背後の男はさほど待たずに言葉を続けてくる。
「あの建物から出てきたな。だが、お前からは煙の匂いすらしない。あれは――なんだ?」
「……神様の炎だって言ってたけど」
ほんの一瞬、嘘をつこうか迷うが、どの道、この男は炎を調べるだろう。熱や煙による危険が無いことはすぐ分かるので、向こうの世界へ続く入り口もいずれは判明する。
「神などこの世界にはいない。いたとしても、それは無力か、無気力か――いずれにせよ、いないのと同じことだ」
「他の世界にはいるんだって」
「ではどの道、俺たちの神ではないな。理解の及ばない存在ということなら、精霊と同じようなものだろう。ところで、不思議と怯えていないな、フリウ・ハリスコー」
その事実を指摘されて、初めてフリウは自分が生殺与奪の権利を握られているにしては平静であることに気づいた。
この窮地から脱するための手段は思いつかない。触れられるほどにまで接近され、急所を押さえられている。フリウが念糸を紡ぐより、男が意識を刈り取る方が早い。
「死を恐れていない? それとも死を望んでいるのか?」
こんな殺戮の舞台にいれば、死を望むようになる者もひとりやふたりではないだろう。
だがその問いに、フリウは首を――気道を潰されながらも、可能な限り――横に振った。
「死にたいわけじゃないよ。ううん、死にたくない」
望郷の念はある。生命に備わっている、死を忌避する機能も働いている。
だが、フリウがこの場所へ戻ってきたのは、死から逃れる為ではない。
「でも、ここで死ぬかも知れないって覚悟をして戻ってきたの。あの人たちがアマワと戦うのを、誰かに邪魔をされないように」
「アマワだと?」
男の声音が、不快気なそれに変わる。
だが、それも一瞬のことだった。痙攣のような震えが、男の指を通してフリウに伝わる。背後の男が、喉の奥で秘めるように笑い出したのだ。
「やはり……やはり、奴か! この殺し合いも、全て奴の目論見か!」
その声には確かな喜悦が混じっていた。だが、決して品の良いものではない。敵に包囲された敗軍の将が、相手を巻き込んで自決できる量の爆薬を見つけた時に浮かべる笑みと同種のものだ。
男の哄笑は長くは続かなかった。声のトーンも低いものに戻る。
「アマワと戦う? 倒せるものか。奴の本質も知らぬ者たちに」
「簡単なことじゃないのは、あたしも知ってる」
かつてフリウはアマワを退けた。心の実在を証明したのではない。ただ、それはあるのだと信じ続けて見せることで、アマワを隙間の向こうへと追いやった。
だがそれでも、アマワを滅ぼしたわけではない。
消え去る際に残した予言の通り、アマワは再び現れた。今度は暗闇を伴い、さらに大勢の人々を巻き込み、問いかけている。
少女はアマワを退けた。勝利したと言ってもいいだろう。だが、それに何の意味があったのか。
「でも、あの人達はアマワと戦って退けるよ。あたしに出来たんだもの。あの人達だって、きっと悪なるものには屈しない」
フリウ・ハリスコーの戦いに意味があったとすれば、その結果を彼らに伝えることが出来たことだろう。
だが、背後の男はそんな結論にはもはや興味がないようだった。
「アマワを、退けた?」
感情が抜け落ちた声で、虚無に呟く。
はったりではないと、すぐに理解したのは男が拷問にも秀でていたからだろうか。指先から伝わる脈の鼓動。身体の震え。そんなものから胸中を読み取る術に、男は長けていた。
だが経験に裏打ちされた技術さえ信じられぬというように、男はかぶりを振る。
「ありえない……ならば貴様は、心の実在を証明したというのか。確かなものが、この世にあると証明できるというのか」
男の指は、もはやフリウから情動を読み取ることは出来なくなっていた。男の指、それ自身が震えを発している。
「それを俺に示して見せろ、フリウ・ハリスコー」
「あなたには、きっと見えないし、聞こえない」
畏れることなく、フリウは背後にいる人殺しの要求を撥ね除けた。
「それは人に示して貰うようなことじゃないもの。信じようと思えば、誰だって、いつだって信じることが出来るけど、信じようとしなければないのと同じ」
「ならば、お前はここで――」
男の言葉に怒気が宿る。その指が、自身の最も致命的な部分に食い込むのを感じて、フリウは全力で念糸を紡いだ。
おそらく、相手の方が早い。それは道理だ。念糸の特性。彼我の距離。そこから弾き出される計算結果。
だが、その道理が覆された。それも、同時にふたつ。
フリウは念糸を紡ぐことに成功し、しかし不可避である筈の念糸が空を切る。まるで男が一瞬で消えてしまったかのように。
(外した――!?)
ベンチから立ち上がり、背後を振り向いて。
そしてフリウは、つまらない現実を発見した。
男は消えてなどいなかった。ただ、地面に突っ伏すように倒れていただけ。そして、その理由も明確だった。
男は死に体だった。腕が一本なく、残された腕も歪に曲がっている。蛇のような顔からは半分ほど肉がそげ落ち、白い骨を覗かせていた。
よく見れば、男の全身は傷だらけだった。全身の肉がところどころ、同じように抉られている。
(さっきの悪魔に、この人も襲われたんだ……)
怪我の重大さに反し、出血はさほど見られない――血を流しきってしまったのかも知れない。そんな愚にもつかない妄想を思いつくほど、男からは血の匂いがしなかった。
生きているのが不思議な重傷だが、男の顔に痛痒は浮かんでいない。だがそれは、痛みを感じていないと言うよりは、それよりもさらに悲痛な物で上塗りされているというのが正確なところだろう。
「また……俺は死ぬのか。だが、死すら終わりではない……確かなものなど、なにも……」
残された顔の肉に絶望を貼り付けた男が、すがるような目つきでフリウを見上げてくる。
「……お前は、本当に……アマワを、退けたのか?」
その質問に意味が無いことは、男もすぐに悟ったのだろう。喘ぐように呼吸をして、言葉を付け足してくる。
「ならば、何故ここにいる? 何故、再びアマワと戦わない?」
「あたしは、あの人達を信じている。あの人達なら、アマワと戦えるって」
フリウは男から視線を外し、改めて再び燃えさかる建物を見つめた。正確には、その上空を。
確信はなかった。だが、もしも"あれ"が破壊精霊と同じ物ならば、世界そのものが足止めをしたところで、佐山の予想ほど長くは持たないのではないかと思っていた。
「だから――あたしは、あたしじゃなければ戦えないものと戦いに来たんだ」
その言葉が切っ掛けだったと言うことはないだろう。
だがそうであっても可笑しくないほどに、少女が言葉を発したまさにその直後、世界は急変した。まるで開門式でも唱えたかのように。
マンションの上空。その空間に亀裂が走る。同時、頭蓋骨を削るような金切り音が、島全体を揺るがした。
『――ィィィイイイイイイイイイイイィイイイイイイイイイ――!』
それは断末魔なのだと、フリウはすぐに気づいた。己が左目が視界を得た時、無意識に耳にしている物と同種の声。
空間の裂け目はだんだんと大きくなり、それに比例して断末魔もより鮮明となっていく。やがて、その声の主も姿を現した。
木竜ムキチ――あらゆるGが侵攻を諦めた、もっとも不滅に近い世界を体現するもの。
だが概念による完全な不死は不可能とされている。ムキチもまた、限りなく不滅に近くても、不滅ではない。
「――悪くない策であった。己の支配する世界に私を閉じ込める。殺しきれぬものは封じるのが古来よりの定石よな」
水竜の首を掴み、固定する手があった。それ単体でも絵画になりそうなほど美しい造形。その手の持ち主は、言わずもがな最悪の吸血鬼――姫。
液体の身体を持つムキチを、ただ掴んで掌握することなど常ならば出来まい。だというのに、美姫はまるで昆虫標本をピンで留めるかのように、ムキチの身体を捕らえて見せていた。
「だが気づくべきであったな。私を貴様の世界に隔離するということは、この世界が封じていた私の力もまた戻るということ」
ムキチに本来の力を取り戻させる為に概念解放を行い、4thの母体概念に満たされた概念空間を作る。本来の力を取り戻した竜は、世界諸共に美姫を封じ続ける。
だがその作戦は同時に、舞台に隠された刻印によって制限されていた美姫の力をも解放することを意味していた。
舞台の刻印が制限するのは、外界、世界そのものに干渉する力だ。"美しさ"や空間操作の術――そういったものを本来よりも格段に弱めていた。
それらが解き放たれた結果が、これだ。
『ごめ んなさ さや ま やく そく まもれ――』
「散るが良い」
ムキチの身体を貫いていた、姫の掌が閉じられる。次の瞬間、凄まじい爆圧でも生じたかのように、水の竜は飛沫となり、辺り一面に飛び散った。
さああ――と、小雨が降るように水竜の残骸が辺りを濡らす。通常なら、どれだけ分断されようがダメージとなり得ないだろうが、そこに復活の気配はない。もはやそれはただの水であり、4th-Gとしての概念は失われていた。ムキチは消滅し、4th-Gは10の異世界の中でただひとつ、完全な滅びを迎えることとなったのだ。
「たかが世界一つ。私を相手によく持ったほうだが」
存在に対する反存在――そう謳われた古の吸血鬼は、何ら感慨もなく、ひとつの世界の滅びを慣れたように嘲笑った。
文字通り、世界の命運を賭けて時間を稼ごうとし、それが失敗した。姫を封印できていたのは、時間にしてみれば小一時間というところだろう。
「結局は貴様らの抗いなど、無為よ」
「無駄なんかじゃない」
反抗の言葉を、吸血鬼の耳が拾う。
それはマンションの上空に浮かぶ姫の眼下。白髪隻眼の少女が、引き結ぶように食いしばった口から紡がれた言葉だった。
ほう、と呟いて、美姫はその場から降下し、少女の前に降り立った――その場で消し飛ばしても良かったが、霜が降りたせいで服が濡れていた。姫を濡らすまいとその水分すら自ら退散を始めているが、それでも完全に乾くまでには多少の時間が掛かる。それまでの暇つぶしにする心積もりだった。
「無駄ではない、か。これから私はお前を殺し、佐山を始めとした他の連中も、この催しを企んだ愚か者どもも全て鏖殺するが――抗えると?」
「戦える。そのつもりがあれば、いつだって」
断言するその少女を、姫は改めて観察した。
少女の身体は小刻みに震えていた。恐怖、寒気の類いではなく、それは熱――吸血鬼の有り得ざる美しさにあてられてのものだ。
姫の美貌が最大限に効果を発揮するのは男性相手である。同性相手では、多少はその影響力も落ちる――いまはこの箱庭による制限も再び加わっているためなおさらだろう。
だがそれでも、この距離で美姫と相対してなお敵意を保っていられるというのは尋常ではない。
「胆力は認めよう。だが――」
「――貴女は、どうして戦おうとしないの?」
怪物の言葉を塗りつぶすように、フリウが言葉を突き出した。
はて、と美姫は首を傾げる。
「いまから殺すと言ったが?」
「殺すことと戦うことは違う。聞いたよ。貴女は、愛した人が死んでしまったからそうしてるんでしょう? その気持ちは、とてもよく分かるけど――」
少女の指先が、地面を叩いた。
座り込んだり、倒れたりしたのではない。右の五指が、余さず切断されていた。地面に転がった己の指を見つめてから、一拍遅れてやってきた痛みに、フリウは悲鳴を上げて右手を抱き込む。
その様子を冷めた様子で見ながら、しかし確かな怒気を混じらせて、美姫が言葉を発した。
「貴様に何が分かるというのか。せつらの価値と、それが失われたという損失がどれほどのものか――知った風な口をきくでない、何も知らぬ童如きが」
痛みを堪えるように――あるいは出血を伴う傷に対するハンターとしての常識で、フリウは残された左手で右手首を強く握った。それでもなお、暖かい血液が地面に零れていく。
「……分かるよ。貴女は、その子供と同じことをしてるんだから」
「黙れ」
美姫が爪弾くように指を動かすと、次はフリウの左手が切り落とされた。新たな痛みに呻くが、言葉は止まらない。激痛は、美姫の美しさによる影響を削いでいた。
「あなたのそれは、ただの癇癪だよ。子供が喚いているのと何も変わらない」
フリウの右手首が切断される。
「砂のお城を踏み潰すことを戦いとは呼べない。貴女じゃ、アマワとは戦えない。戦いにならない」
左耳が削がれた。
「貴女は確かに全てを破滅させられるのかもしれない。誰だって殺せて、どんな物だって壊せるのかも知れない」
鼻が引きちぎられる。
「だけど地図を全て空白にしたところで、怪物領域が増えるだけ。アマワの手伝いをするだけ」
膝の骨を砕かれ、フリウは地面に転がった。だが、それでも視線を美姫から外さない。
フリウは美姫を見る。氷河に生じる亀裂のような、危うさと魔性を伴った美しさを持つ女。彼女に掛かれば、きっと帝国だろうがアスカラナンだろうが、片手間に叩き潰してしまえるのだろう。それ故に対等の者を得ることが出来なかった。人は二人いなければ生まれないというのに。
哀れみすら覚える。
「だからあたしは、あんたと戦うためにここに来たんだ!」
鼻の傷から血液が喉に流れ込まないように、やや俯きになりながらも、辺りに響き渡る大音声を叩き付ける。
フリウは右目を閉じた。世界が暗闇に閉ざされる。視力の無い左目。そこに光を取り戻す為の言葉を紡いだ。
「通るならば、その道」
暗闇に亀裂が入る。亀裂から漏れ出る光が、開門式を重ねるほどに強くなっていく。
「開くならばその扉。吼えるならば――」
そして、フリウ・ハリスコーの首は地面に転がった。
隣に浮かんでいた人精霊諸共に、もっとも致命的な部分が両断される。唱え掛けていた開門式が、空気となって切断された首の断面から漏れていった。
美姫の服が乾いていた。だから、この暇つぶしはもう終わり。当然の如く、最強の吸血鬼が放った一撃は、何ら問題なく少女の命を摘み取った。
「は――」
足下から響いた吐息に、美姫は視線を向ける。そこに転がっていた死にかけの男――ウルペンが引き攣るような絶望をその顔に浮かべていた。
精霊アマワを退けた者。心の実在の証明そのものである筈のその少女が、容易く消え去るところを目にして、男は狂ったように叫んだ。
「やはり……確かなものなどこの世にはないのか! 心など、存在しないというのか! ならば、俺は……アマワ――!」
「耳障りじゃ」
虫でも払うかのように、美姫が腕を振った。瞬時に空気がプラズマ化し、白熱した大気がウルペンを飲み込む。アラストールの炎による明かりを駆逐するほどの激烈な白は、しかし収まるのも一瞬だった。残されたのは、ぐつぐつと煮えたぎるように赤熱する地面だけ。ウルペンという男のいた痕跡は、細胞一欠片も残っていない。
もとより、そちらに興味は無かった。美姫の眼に映っているのは、地面に転がる少女の首の方だ。
名前すら知らない、美姫と比べれば無力に等しい少女。死の間際まで姫に対し咆え続けたというのも、彼女の永い人生を振り返れば、同じことをした人間は何人か挙げることが出来る。少数派でこそあれ、そこに特別さは感じない。
だというのに――なんだろうか、この苛立ちは?
「感謝してやる、童よ。貴様のお陰で、少しは熱が戻った」
その苛立ちを原動力に、美姫は歩みを早める。他の参加者、騎士団、黒幕の精霊と魔人。それら全てを、一刻も早く叩き潰し、この苛立ちを収めよう。
粘るような名残を振り切り、美姫は視線を燃えさかるマンション棟へ向けた。世界を燃やし続ける神威の炎は衰えを見せることなく、夜闇の境界を光でぼやかしている。
その視界の端に、姫は煌めく曲線を捉えた。
踊るようにくねるそれは、風の影響を受けるでもなく、ただ揺蕩うように夜闇の中をゆらいでいた。銀の糸。物質ではない。それはあらゆる物理的な制約を受けない。死後すらも発動すると謳われるように。
美姫の瞳が、ほとんど反射的にその糸を追う。大して時間も掛からない。その視線は、先ほど美姫が跳ね飛ばした少女の頭部、その白濁した瞳で終点となり、
――次の瞬間、無音の爆圧が姫を跳ね飛ばした。
破損した水晶眼を中心に起きたその爆発は、本来なら島をまるごと消し飛ばす威力を持っていただろう。そうならなかったのは、この世界に捺された刻印が機能していたからだ。世界に対する影響を減じさせるそれが、その威力をエリアひとつ分にまで減退させた。
それでもなお、その威力は絶大だった。精霊を閉じ込めた水晶檻が、何らかの要因で開門式を経ずその封印を不完全にした際に生じるエネルギーは、ただ閃光だけを伴って致命的な破壊をもたらす。
傍らにあったマンションは全て基部から砕け、存在の形跡すら残さずに消滅した。地形そのものが変わってしまうほどの破壊。C-6エリアが、ただの窪地に変じる。
無音でそれだけの変容が起きるというのは、どこか現実味がない光景だった。
だがもっとも現実味がないのは、その渦中に無傷の存在が佇んでいたことだろう。
「――なるほど、これが隠し球か」
吸血鬼が憮然と呟く。
あれだけの衝撃を受けてなお、美姫は無傷であった。服や髪に巻き上げられた土が付着しているということもなく、その美しさには一点の汚れもない。
爆圧で髪が舞い上がり、爛れた半面をほんの僅かに晒してしまったことが、唯一の痛手と言えるだろうか――美姫は撫でるように、傷を隠す為に降ろしている髪に触れた。
「誇るが良い。お前は確かに、私に傷を与えたのだから。――その身を賭した一撃による成果が、私の心にささくれを立たせた程度であるというのは不満かも知れぬがな」
今の爆圧で粉々に消し飛んだのだろう。少女の亡骸は欠片すら残っていない。それでも何となく姫が周囲を見回したのは、その苛立ちからか、あるいは――その出会いを予期していたのか。
そして、美姫はそれを見つけた。
吸血鬼から数十メートル離れた地点に存在する、クレーターの中心。そこにうずくまるようにして、巨大な影が出現していた。
偶然に生じた氷河の亀裂を鎧に纏う、銀の巨人。マンションが消えてもなお宙に残るアラストールの炎がその巨体を照らし出している。
俯くように首を下げていた巨人が、ゆっくりとその顔を上げる。その動きに地面が軋み、小さな、だが確実な破滅を予感させるような音を漏らした。
破壊精霊ウルトプライド。開門式でほんの一時だけ投影されるちゃちな影ではない、完全な実体。
巨人が咆哮をあげ、憎しみを込めるようにその拳で地面を叩いた。クレーターをさらに深く抉るように、そこから生じた罅が致命的な深度まで島を抉っていく。
次の瞬間、美姫は確かな変化を感じた。よどんでいた空気が急激に澄んでいくような――あるいは単に、頭から被っていた覆い布が取り払われたような。
理解する。永きを生きる吸血鬼は、そのため込んだ知識で解読する――この世界を閉ざす刻印を、あの巨人は一撃の下に破壊したのだと。
「――はは」
無意識の内、吐息を漏らす。
――かつて魔界医師メフィストは美姫をこう評した。
彼女は存在に対する反存在である、と。
故に、彼女は滅びない。故に、彼女は何もかもを根こそぎに滅ぼす。
だからこそ。
もしもこの最悪の吸血鬼を滅ぼせるモノがあるとすれば。
「我は物質の敵、破壊の王ウルトプライド――」
それは、彼女と同じ存在に他ならない。
音を撒き散らし、肉声を轟かせながら、精霊の"本体"が水晶眼から抜け出て、顕現する。数時間前に砕かれた影ではない。十全の力を備えた、それが。
「――全てを溶かすもの!」
その咆哮に世界が恐慌をきたす。溶けるように地面が揺れる。それは紛れもなく、全物質の天敵。世界を滅ぼす存在だった。
破壊精霊ウルトプライド。【あらゆる物質の反作用から生まれた】絶対破壊者。
【あらゆる存在に対する反存在】である美姫と同じく、何もかもを破壊しつくす。
「――ははは」
美姫は哄笑をあげた。そこには確かな歓喜の感情が混じっている。
あれは――己の輩(ともがら)だ。
姫の美しさに魂を譲り渡し、最後には憎悪を投げかけてくる有象無象ではない。
共に旅をした劉将軍や騏鬼翁とも違う。
恋い焦がれた秋せつらにさえ存在しなかった、姫と同じ性質。それをあの巨人は備えている。初めて出会った、自分の同類。対等の、存在。
「よもや――よもやよ! 矮小な箱庭で、このような逢瀬を果たすとは!」
そして二つの破滅が出会ってしまえば、もはや潰し合うより他はなく。
歓喜の叫びをあげて、美姫は全力で破壊精霊に飛びかかった。右腕を振るう。応じるように、銀の巨人も拳を突き出した。
女の細腕と、銀の豪腕と。対象とも言える存在が真っ向からぶつかり合う。その結果は激烈の一言。不可侵である筈の美しき指がへし折れる。再生はしない。それは不可逆な破壊だ。同時に、破壊精霊の肉体にも罅が入る。姫は初めての感覚にさらに愉悦を深め、破壊精霊は怒るように咆えた。
その傍らで、世界が崩壊していく。打ち合うごとに、島が――否。世界そのものが崩落していく。大地は沈み、海は枯れ、空が落ちる。
「さあ、心行くまで舞おうぞ!」
破滅の褥に誘う姫の言葉に、破壊精霊が応じるように咆哮する。
こうして、滅びは始まった。もはや誰にも止めることは出来ない。この世界を完全に溶かしつくし、対消滅を起こすまで、破壊の王と吸血姫のダンスは続くだろう。
この馬鹿高い建物は相変わらず燃えさかっており、周囲に真昼の如き明るさを齎している。もっとも、それも長くは続かないだろう。遠くの空が白み始めている。夜明けは近い。そうなれば、この炎も太陽の明るさに紛れるはずだ。
「ふっ――まさかこの小娘が全ての黒幕だったとはな」
何やら物騒な物言いをするスィリーに、フリウはびくりと肩をふるわせて振り返った。
「黒幕じゃないもの。なんでそんなこと言うの」
「そうなのか? しかし被害者全員を炎の中に突入させて、自分だけ一人帰ってくるものだからてっきり」
くるくると付き纏ってくるスィリーを無視しながら、マンションの側にいくつか設置されているベンチに座ると、フリウはため息をついた。スィリーも真似するかのように、フリウの肩に腰掛けてくる。
「……あの人達は、強いから大丈夫だよ」
「大丈夫って何がだ。仕事を押しつけても怒られないとかそういう大丈夫度か」
「違うよ。アマワと戦える人達だってこと」
悪と戦う方法を、きっとあの人達は知っているだろう。かつて自分がアマワと戦った時のことも伝えた。ならば、自分が絶対に行かなくてはならないというような必要性はない。
「ふむ。よく分からんが、それでも行けばなんか役目はあるんじゃねっか。荷物持ちとか、荷物番とか。そういう仕事を薄給で地味だからと嫌がるから経済が停滞する」
肩の上でしたり顔で宣う人精霊に、フリウは苦笑を浮かべた。
「別に嫌だとも思わないけどね。荷物持ちも荷物番も、ハンターなら誰もがやることだしさ」
「じゃあなんでお前さん、こんなところでサボってんだ?」
「サボってるかはまだ分からないでしょ」
フリウが口を尖らせて言うと、スィリーは首を傾げて疑問符を浮かべた。
「なら、いつ分かるんだ?」
その問いに応えようとして。
声が出なかった。言葉に迷ったのではない。発声のため震わせようとした喉に、背後から指が掛かっていた。気道が摘ままれ、塞がれる感覚。以前にもこんなことがあったな、と記憶の底がかき回される。
だが、今回耳元で囁かれたのは、男の声だった。
「動こうとはしないほうがいいな、ベスポルトの娘」
(私のことを知ってる?)
その事実に、怖気よりも単純な疑問が先立った。
ベスポルト。亡き養父の名前。この世界で口にした覚えはなかった。知っている名前は名簿になかったはずだ。ミズー・ビアンカ以外には。
その戸惑いを指先で感じ取ったのだろう。背後の男は嘲るような吐息を漏らした。
「おやおや、父親の仇を覚えていないとは冷たいことだ」
父の、仇――その言葉でようやく思い出す。あの蛇のような男。帝都で見かけたのが最後で、そもそも碌に会話さえしておらず、実の所、名前さえ覚えていない。背後を振り向いて確認したところで、確実に記憶の像と一致させる自信もなかった。
仇と言われても、いまさら怒りは湧かない。というより、今の今まで仇とすら認識していなかったのだ。
とはいえ、それは本題ではなかったのだろう。フリウがじっとしていると、背後の男はさほど待たずに言葉を続けてくる。
「あの建物から出てきたな。だが、お前からは煙の匂いすらしない。あれは――なんだ?」
「……神様の炎だって言ってたけど」
ほんの一瞬、嘘をつこうか迷うが、どの道、この男は炎を調べるだろう。熱や煙による危険が無いことはすぐ分かるので、向こうの世界へ続く入り口もいずれは判明する。
「神などこの世界にはいない。いたとしても、それは無力か、無気力か――いずれにせよ、いないのと同じことだ」
「他の世界にはいるんだって」
「ではどの道、俺たちの神ではないな。理解の及ばない存在ということなら、精霊と同じようなものだろう。ところで、不思議と怯えていないな、フリウ・ハリスコー」
その事実を指摘されて、初めてフリウは自分が生殺与奪の権利を握られているにしては平静であることに気づいた。
この窮地から脱するための手段は思いつかない。触れられるほどにまで接近され、急所を押さえられている。フリウが念糸を紡ぐより、男が意識を刈り取る方が早い。
「死を恐れていない? それとも死を望んでいるのか?」
こんな殺戮の舞台にいれば、死を望むようになる者もひとりやふたりではないだろう。
だがその問いに、フリウは首を――気道を潰されながらも、可能な限り――横に振った。
「死にたいわけじゃないよ。ううん、死にたくない」
望郷の念はある。生命に備わっている、死を忌避する機能も働いている。
だが、フリウがこの場所へ戻ってきたのは、死から逃れる為ではない。
「でも、ここで死ぬかも知れないって覚悟をして戻ってきたの。あの人たちがアマワと戦うのを、誰かに邪魔をされないように」
「アマワだと?」
男の声音が、不快気なそれに変わる。
だが、それも一瞬のことだった。痙攣のような震えが、男の指を通してフリウに伝わる。背後の男が、喉の奥で秘めるように笑い出したのだ。
「やはり……やはり、奴か! この殺し合いも、全て奴の目論見か!」
その声には確かな喜悦が混じっていた。だが、決して品の良いものではない。敵に包囲された敗軍の将が、相手を巻き込んで自決できる量の爆薬を見つけた時に浮かべる笑みと同種のものだ。
男の哄笑は長くは続かなかった。声のトーンも低いものに戻る。
「アマワと戦う? 倒せるものか。奴の本質も知らぬ者たちに」
「簡単なことじゃないのは、あたしも知ってる」
かつてフリウはアマワを退けた。心の実在を証明したのではない。ただ、それはあるのだと信じ続けて見せることで、アマワを隙間の向こうへと追いやった。
だがそれでも、アマワを滅ぼしたわけではない。
消え去る際に残した予言の通り、アマワは再び現れた。今度は暗闇を伴い、さらに大勢の人々を巻き込み、問いかけている。
少女はアマワを退けた。勝利したと言ってもいいだろう。だが、それに何の意味があったのか。
「でも、あの人達はアマワと戦って退けるよ。あたしに出来たんだもの。あの人達だって、きっと悪なるものには屈しない」
フリウ・ハリスコーの戦いに意味があったとすれば、その結果を彼らに伝えることが出来たことだろう。
だが、背後の男はそんな結論にはもはや興味がないようだった。
「アマワを、退けた?」
感情が抜け落ちた声で、虚無に呟く。
はったりではないと、すぐに理解したのは男が拷問にも秀でていたからだろうか。指先から伝わる脈の鼓動。身体の震え。そんなものから胸中を読み取る術に、男は長けていた。
だが経験に裏打ちされた技術さえ信じられぬというように、男はかぶりを振る。
「ありえない……ならば貴様は、心の実在を証明したというのか。確かなものが、この世にあると証明できるというのか」
男の指は、もはやフリウから情動を読み取ることは出来なくなっていた。男の指、それ自身が震えを発している。
「それを俺に示して見せろ、フリウ・ハリスコー」
「あなたには、きっと見えないし、聞こえない」
畏れることなく、フリウは背後にいる人殺しの要求を撥ね除けた。
「それは人に示して貰うようなことじゃないもの。信じようと思えば、誰だって、いつだって信じることが出来るけど、信じようとしなければないのと同じ」
「ならば、お前はここで――」
男の言葉に怒気が宿る。その指が、自身の最も致命的な部分に食い込むのを感じて、フリウは全力で念糸を紡いだ。
おそらく、相手の方が早い。それは道理だ。念糸の特性。彼我の距離。そこから弾き出される計算結果。
だが、その道理が覆された。それも、同時にふたつ。
フリウは念糸を紡ぐことに成功し、しかし不可避である筈の念糸が空を切る。まるで男が一瞬で消えてしまったかのように。
(外した――!?)
ベンチから立ち上がり、背後を振り向いて。
そしてフリウは、つまらない現実を発見した。
男は消えてなどいなかった。ただ、地面に突っ伏すように倒れていただけ。そして、その理由も明確だった。
男は死に体だった。腕が一本なく、残された腕も歪に曲がっている。蛇のような顔からは半分ほど肉がそげ落ち、白い骨を覗かせていた。
よく見れば、男の全身は傷だらけだった。全身の肉がところどころ、同じように抉られている。
(さっきの悪魔に、この人も襲われたんだ……)
怪我の重大さに反し、出血はさほど見られない――血を流しきってしまったのかも知れない。そんな愚にもつかない妄想を思いつくほど、男からは血の匂いがしなかった。
生きているのが不思議な重傷だが、男の顔に痛痒は浮かんでいない。だがそれは、痛みを感じていないと言うよりは、それよりもさらに悲痛な物で上塗りされているというのが正確なところだろう。
「また……俺は死ぬのか。だが、死すら終わりではない……確かなものなど、なにも……」
残された顔の肉に絶望を貼り付けた男が、すがるような目つきでフリウを見上げてくる。
「……お前は、本当に……アマワを、退けたのか?」
その質問に意味が無いことは、男もすぐに悟ったのだろう。喘ぐように呼吸をして、言葉を付け足してくる。
「ならば、何故ここにいる? 何故、再びアマワと戦わない?」
「あたしは、あの人達を信じている。あの人達なら、アマワと戦えるって」
フリウは男から視線を外し、改めて再び燃えさかる建物を見つめた。正確には、その上空を。
確信はなかった。だが、もしも"あれ"が破壊精霊と同じ物ならば、世界そのものが足止めをしたところで、佐山の予想ほど長くは持たないのではないかと思っていた。
「だから――あたしは、あたしじゃなければ戦えないものと戦いに来たんだ」
その言葉が切っ掛けだったと言うことはないだろう。
だがそうであっても可笑しくないほどに、少女が言葉を発したまさにその直後、世界は急変した。まるで開門式でも唱えたかのように。
マンションの上空。その空間に亀裂が走る。同時、頭蓋骨を削るような金切り音が、島全体を揺るがした。
『――ィィィイイイイイイイイイイイィイイイイイイイイイ――!』
それは断末魔なのだと、フリウはすぐに気づいた。己が左目が視界を得た時、無意識に耳にしている物と同種の声。
空間の裂け目はだんだんと大きくなり、それに比例して断末魔もより鮮明となっていく。やがて、その声の主も姿を現した。
木竜ムキチ――あらゆるGが侵攻を諦めた、もっとも不滅に近い世界を体現するもの。
だが概念による完全な不死は不可能とされている。ムキチもまた、限りなく不滅に近くても、不滅ではない。
「――悪くない策であった。己の支配する世界に私を閉じ込める。殺しきれぬものは封じるのが古来よりの定石よな」
水竜の首を掴み、固定する手があった。それ単体でも絵画になりそうなほど美しい造形。その手の持ち主は、言わずもがな最悪の吸血鬼――姫。
液体の身体を持つムキチを、ただ掴んで掌握することなど常ならば出来まい。だというのに、美姫はまるで昆虫標本をピンで留めるかのように、ムキチの身体を捕らえて見せていた。
「だが気づくべきであったな。私を貴様の世界に隔離するということは、この世界が封じていた私の力もまた戻るということ」
ムキチに本来の力を取り戻させる為に概念解放を行い、4thの母体概念に満たされた概念空間を作る。本来の力を取り戻した竜は、世界諸共に美姫を封じ続ける。
だがその作戦は同時に、舞台に隠された刻印によって制限されていた美姫の力をも解放することを意味していた。
舞台の刻印が制限するのは、外界、世界そのものに干渉する力だ。"美しさ"や空間操作の術――そういったものを本来よりも格段に弱めていた。
それらが解き放たれた結果が、これだ。
『ごめ んなさ さや ま やく そく まもれ――』
「散るが良い」
ムキチの身体を貫いていた、姫の掌が閉じられる。次の瞬間、凄まじい爆圧でも生じたかのように、水の竜は飛沫となり、辺り一面に飛び散った。
さああ――と、小雨が降るように水竜の残骸が辺りを濡らす。通常なら、どれだけ分断されようがダメージとなり得ないだろうが、そこに復活の気配はない。もはやそれはただの水であり、4th-Gとしての概念は失われていた。ムキチは消滅し、4th-Gは10の異世界の中でただひとつ、完全な滅びを迎えることとなったのだ。
「たかが世界一つ。私を相手によく持ったほうだが」
存在に対する反存在――そう謳われた古の吸血鬼は、何ら感慨もなく、ひとつの世界の滅びを慣れたように嘲笑った。
文字通り、世界の命運を賭けて時間を稼ごうとし、それが失敗した。姫を封印できていたのは、時間にしてみれば小一時間というところだろう。
「結局は貴様らの抗いなど、無為よ」
「無駄なんかじゃない」
反抗の言葉を、吸血鬼の耳が拾う。
それはマンションの上空に浮かぶ姫の眼下。白髪隻眼の少女が、引き結ぶように食いしばった口から紡がれた言葉だった。
ほう、と呟いて、美姫はその場から降下し、少女の前に降り立った――その場で消し飛ばしても良かったが、霜が降りたせいで服が濡れていた。姫を濡らすまいとその水分すら自ら退散を始めているが、それでも完全に乾くまでには多少の時間が掛かる。それまでの暇つぶしにする心積もりだった。
「無駄ではない、か。これから私はお前を殺し、佐山を始めとした他の連中も、この催しを企んだ愚か者どもも全て鏖殺するが――抗えると?」
「戦える。そのつもりがあれば、いつだって」
断言するその少女を、姫は改めて観察した。
少女の身体は小刻みに震えていた。恐怖、寒気の類いではなく、それは熱――吸血鬼の有り得ざる美しさにあてられてのものだ。
姫の美貌が最大限に効果を発揮するのは男性相手である。同性相手では、多少はその影響力も落ちる――いまはこの箱庭による制限も再び加わっているためなおさらだろう。
だがそれでも、この距離で美姫と相対してなお敵意を保っていられるというのは尋常ではない。
「胆力は認めよう。だが――」
「――貴女は、どうして戦おうとしないの?」
怪物の言葉を塗りつぶすように、フリウが言葉を突き出した。
はて、と美姫は首を傾げる。
「いまから殺すと言ったが?」
「殺すことと戦うことは違う。聞いたよ。貴女は、愛した人が死んでしまったからそうしてるんでしょう? その気持ちは、とてもよく分かるけど――」
少女の指先が、地面を叩いた。
座り込んだり、倒れたりしたのではない。右の五指が、余さず切断されていた。地面に転がった己の指を見つめてから、一拍遅れてやってきた痛みに、フリウは悲鳴を上げて右手を抱き込む。
その様子を冷めた様子で見ながら、しかし確かな怒気を混じらせて、美姫が言葉を発した。
「貴様に何が分かるというのか。せつらの価値と、それが失われたという損失がどれほどのものか――知った風な口をきくでない、何も知らぬ童如きが」
痛みを堪えるように――あるいは出血を伴う傷に対するハンターとしての常識で、フリウは残された左手で右手首を強く握った。それでもなお、暖かい血液が地面に零れていく。
「……分かるよ。貴女は、その子供と同じことをしてるんだから」
「黙れ」
美姫が爪弾くように指を動かすと、次はフリウの左手が切り落とされた。新たな痛みに呻くが、言葉は止まらない。激痛は、美姫の美しさによる影響を削いでいた。
「あなたのそれは、ただの癇癪だよ。子供が喚いているのと何も変わらない」
フリウの右手首が切断される。
「砂のお城を踏み潰すことを戦いとは呼べない。貴女じゃ、アマワとは戦えない。戦いにならない」
左耳が削がれた。
「貴女は確かに全てを破滅させられるのかもしれない。誰だって殺せて、どんな物だって壊せるのかも知れない」
鼻が引きちぎられる。
「だけど地図を全て空白にしたところで、怪物領域が増えるだけ。アマワの手伝いをするだけ」
膝の骨を砕かれ、フリウは地面に転がった。だが、それでも視線を美姫から外さない。
フリウは美姫を見る。氷河に生じる亀裂のような、危うさと魔性を伴った美しさを持つ女。彼女に掛かれば、きっと帝国だろうがアスカラナンだろうが、片手間に叩き潰してしまえるのだろう。それ故に対等の者を得ることが出来なかった。人は二人いなければ生まれないというのに。
哀れみすら覚える。
「だからあたしは、あんたと戦うためにここに来たんだ!」
鼻の傷から血液が喉に流れ込まないように、やや俯きになりながらも、辺りに響き渡る大音声を叩き付ける。
フリウは右目を閉じた。世界が暗闇に閉ざされる。視力の無い左目。そこに光を取り戻す為の言葉を紡いだ。
「通るならば、その道」
暗闇に亀裂が入る。亀裂から漏れ出る光が、開門式を重ねるほどに強くなっていく。
「開くならばその扉。吼えるならば――」
そして、フリウ・ハリスコーの首は地面に転がった。
隣に浮かんでいた人精霊諸共に、もっとも致命的な部分が両断される。唱え掛けていた開門式が、空気となって切断された首の断面から漏れていった。
美姫の服が乾いていた。だから、この暇つぶしはもう終わり。当然の如く、最強の吸血鬼が放った一撃は、何ら問題なく少女の命を摘み取った。
「は――」
足下から響いた吐息に、美姫は視線を向ける。そこに転がっていた死にかけの男――ウルペンが引き攣るような絶望をその顔に浮かべていた。
精霊アマワを退けた者。心の実在の証明そのものである筈のその少女が、容易く消え去るところを目にして、男は狂ったように叫んだ。
「やはり……確かなものなどこの世にはないのか! 心など、存在しないというのか! ならば、俺は……アマワ――!」
「耳障りじゃ」
虫でも払うかのように、美姫が腕を振った。瞬時に空気がプラズマ化し、白熱した大気がウルペンを飲み込む。アラストールの炎による明かりを駆逐するほどの激烈な白は、しかし収まるのも一瞬だった。残されたのは、ぐつぐつと煮えたぎるように赤熱する地面だけ。ウルペンという男のいた痕跡は、細胞一欠片も残っていない。
もとより、そちらに興味は無かった。美姫の眼に映っているのは、地面に転がる少女の首の方だ。
名前すら知らない、美姫と比べれば無力に等しい少女。死の間際まで姫に対し咆え続けたというのも、彼女の永い人生を振り返れば、同じことをした人間は何人か挙げることが出来る。少数派でこそあれ、そこに特別さは感じない。
だというのに――なんだろうか、この苛立ちは?
「感謝してやる、童よ。貴様のお陰で、少しは熱が戻った」
その苛立ちを原動力に、美姫は歩みを早める。他の参加者、騎士団、黒幕の精霊と魔人。それら全てを、一刻も早く叩き潰し、この苛立ちを収めよう。
粘るような名残を振り切り、美姫は視線を燃えさかるマンション棟へ向けた。世界を燃やし続ける神威の炎は衰えを見せることなく、夜闇の境界を光でぼやかしている。
その視界の端に、姫は煌めく曲線を捉えた。
踊るようにくねるそれは、風の影響を受けるでもなく、ただ揺蕩うように夜闇の中をゆらいでいた。銀の糸。物質ではない。それはあらゆる物理的な制約を受けない。死後すらも発動すると謳われるように。
美姫の瞳が、ほとんど反射的にその糸を追う。大して時間も掛からない。その視線は、先ほど美姫が跳ね飛ばした少女の頭部、その白濁した瞳で終点となり、
――次の瞬間、無音の爆圧が姫を跳ね飛ばした。
破損した水晶眼を中心に起きたその爆発は、本来なら島をまるごと消し飛ばす威力を持っていただろう。そうならなかったのは、この世界に捺された刻印が機能していたからだ。世界に対する影響を減じさせるそれが、その威力をエリアひとつ分にまで減退させた。
それでもなお、その威力は絶大だった。精霊を閉じ込めた水晶檻が、何らかの要因で開門式を経ずその封印を不完全にした際に生じるエネルギーは、ただ閃光だけを伴って致命的な破壊をもたらす。
傍らにあったマンションは全て基部から砕け、存在の形跡すら残さずに消滅した。地形そのものが変わってしまうほどの破壊。C-6エリアが、ただの窪地に変じる。
無音でそれだけの変容が起きるというのは、どこか現実味がない光景だった。
だがもっとも現実味がないのは、その渦中に無傷の存在が佇んでいたことだろう。
「――なるほど、これが隠し球か」
吸血鬼が憮然と呟く。
あれだけの衝撃を受けてなお、美姫は無傷であった。服や髪に巻き上げられた土が付着しているということもなく、その美しさには一点の汚れもない。
爆圧で髪が舞い上がり、爛れた半面をほんの僅かに晒してしまったことが、唯一の痛手と言えるだろうか――美姫は撫でるように、傷を隠す為に降ろしている髪に触れた。
「誇るが良い。お前は確かに、私に傷を与えたのだから。――その身を賭した一撃による成果が、私の心にささくれを立たせた程度であるというのは不満かも知れぬがな」
今の爆圧で粉々に消し飛んだのだろう。少女の亡骸は欠片すら残っていない。それでも何となく姫が周囲を見回したのは、その苛立ちからか、あるいは――その出会いを予期していたのか。
そして、美姫はそれを見つけた。
吸血鬼から数十メートル離れた地点に存在する、クレーターの中心。そこにうずくまるようにして、巨大な影が出現していた。
偶然に生じた氷河の亀裂を鎧に纏う、銀の巨人。マンションが消えてもなお宙に残るアラストールの炎がその巨体を照らし出している。
俯くように首を下げていた巨人が、ゆっくりとその顔を上げる。その動きに地面が軋み、小さな、だが確実な破滅を予感させるような音を漏らした。
破壊精霊ウルトプライド。開門式でほんの一時だけ投影されるちゃちな影ではない、完全な実体。
巨人が咆哮をあげ、憎しみを込めるようにその拳で地面を叩いた。クレーターをさらに深く抉るように、そこから生じた罅が致命的な深度まで島を抉っていく。
次の瞬間、美姫は確かな変化を感じた。よどんでいた空気が急激に澄んでいくような――あるいは単に、頭から被っていた覆い布が取り払われたような。
理解する。永きを生きる吸血鬼は、そのため込んだ知識で解読する――この世界を閉ざす刻印を、あの巨人は一撃の下に破壊したのだと。
「――はは」
無意識の内、吐息を漏らす。
――かつて魔界医師メフィストは美姫をこう評した。
彼女は存在に対する反存在である、と。
故に、彼女は滅びない。故に、彼女は何もかもを根こそぎに滅ぼす。
だからこそ。
もしもこの最悪の吸血鬼を滅ぼせるモノがあるとすれば。
「我は物質の敵、破壊の王ウルトプライド――」
それは、彼女と同じ存在に他ならない。
音を撒き散らし、肉声を轟かせながら、精霊の"本体"が水晶眼から抜け出て、顕現する。数時間前に砕かれた影ではない。十全の力を備えた、それが。
「――全てを溶かすもの!」
その咆哮に世界が恐慌をきたす。溶けるように地面が揺れる。それは紛れもなく、全物質の天敵。世界を滅ぼす存在だった。
破壊精霊ウルトプライド。【あらゆる物質の反作用から生まれた】絶対破壊者。
【あらゆる存在に対する反存在】である美姫と同じく、何もかもを破壊しつくす。
「――ははは」
美姫は哄笑をあげた。そこには確かな歓喜の感情が混じっている。
あれは――己の輩(ともがら)だ。
姫の美しさに魂を譲り渡し、最後には憎悪を投げかけてくる有象無象ではない。
共に旅をした劉将軍や騏鬼翁とも違う。
恋い焦がれた秋せつらにさえ存在しなかった、姫と同じ性質。それをあの巨人は備えている。初めて出会った、自分の同類。対等の、存在。
「よもや――よもやよ! 矮小な箱庭で、このような逢瀬を果たすとは!」
そして二つの破滅が出会ってしまえば、もはや潰し合うより他はなく。
歓喜の叫びをあげて、美姫は全力で破壊精霊に飛びかかった。右腕を振るう。応じるように、銀の巨人も拳を突き出した。
女の細腕と、銀の豪腕と。対象とも言える存在が真っ向からぶつかり合う。その結果は激烈の一言。不可侵である筈の美しき指がへし折れる。再生はしない。それは不可逆な破壊だ。同時に、破壊精霊の肉体にも罅が入る。姫は初めての感覚にさらに愉悦を深め、破壊精霊は怒るように咆えた。
その傍らで、世界が崩壊していく。打ち合うごとに、島が――否。世界そのものが崩落していく。大地は沈み、海は枯れ、空が落ちる。
「さあ、心行くまで舞おうぞ!」
破滅の褥に誘う姫の言葉に、破壊精霊が応じるように咆哮する。
こうして、滅びは始まった。もはや誰にも止めることは出来ない。この世界を完全に溶かしつくし、対消滅を起こすまで、破壊の王と吸血姫のダンスは続くだろう。
◇◇◇
炎が消え失せる。まるで、役目が終わったことを自覚したように。
無名の庵に踏み込んだ者たちは、出入り口であったアラストールの炎が消滅したことにそれぞれの反応を見せた。動揺、懐疑、あるいはそれ以外の何か。
島に戻る選択肢は無かったため、別に不利になったわけでもない。それでも、二つの世界を溶接していた神炎の消失は、何か不吉なものを暗示させた。
「これで、フリウ・ハリスコーが君たちに追いつくことはなくなったわけだ」
嗤いながら、神野陰之が呟く。
「今となっては些末なことだろうが――彼女の真意を知ることを望むかね?」
「必要ないね」
即答。吐き捨てるようにそう言い放ったのは火乃香だった。神野陰之を睨み付けながら、言葉を続ける。
「あの子はアマワに勝つために――あたし達が勝てるようにするために行動したんだろうさ」
「それをどうやって証明する?」
アマワからの問いかけを想起させるような神野の言葉。火乃香は周囲の面々を見回した後、不敵な笑みを浮かべて断じた。
「あたしが最後だ――証明なんかに手を貸す気はないよ。あたし達は、アマワって奴を倒しに来たんだ」
「心の実在を証明できれば、その者の願いを『私』が叶えると言っても?」
そんな神野の甘言に、心を動かされなかった者がひとりも居なかったというわけではないだろう。
だが、あからさまに頷く者もまた、いなかった。
おもねる者が出ないことを悟ったのだろう。神野はやれやれとでも言いたげに頭を振ってみせる。
「君たちの望みは理解した。だが、その望みは我が盟友の望みと完全に競合する」
そして、右手を自身の頭ほどの高さまであげた。
「では――こうするしかないだろうね」
指を弾く。瞬時に、全員の視界が闇に落ちた。
無名の庵に踏み込んだ者たちは、出入り口であったアラストールの炎が消滅したことにそれぞれの反応を見せた。動揺、懐疑、あるいはそれ以外の何か。
島に戻る選択肢は無かったため、別に不利になったわけでもない。それでも、二つの世界を溶接していた神炎の消失は、何か不吉なものを暗示させた。
「これで、フリウ・ハリスコーが君たちに追いつくことはなくなったわけだ」
嗤いながら、神野陰之が呟く。
「今となっては些末なことだろうが――彼女の真意を知ることを望むかね?」
「必要ないね」
即答。吐き捨てるようにそう言い放ったのは火乃香だった。神野陰之を睨み付けながら、言葉を続ける。
「あの子はアマワに勝つために――あたし達が勝てるようにするために行動したんだろうさ」
「それをどうやって証明する?」
アマワからの問いかけを想起させるような神野の言葉。火乃香は周囲の面々を見回した後、不敵な笑みを浮かべて断じた。
「あたしが最後だ――証明なんかに手を貸す気はないよ。あたし達は、アマワって奴を倒しに来たんだ」
「心の実在を証明できれば、その者の願いを『私』が叶えると言っても?」
そんな神野の甘言に、心を動かされなかった者がひとりも居なかったというわけではないだろう。
だが、あからさまに頷く者もまた、いなかった。
おもねる者が出ないことを悟ったのだろう。神野はやれやれとでも言いたげに頭を振ってみせる。
「君たちの望みは理解した。だが、その望みは我が盟友の望みと完全に競合する」
そして、右手を自身の頭ほどの高さまであげた。
「では――こうするしかないだろうね」
指を弾く。瞬時に、全員の視界が闇に落ちた。
◇◇◇
そして、管理室のモニターに表示されていた地図は、その最後の一片までもを欠落させた。
もはやあの島は――否。あの世界は存在しない。二つの破滅は島を砕き、海を吹き飛ばし、空を落として――あらゆる物質を溶かし、破壊し尽くした。
そこにあるのは世界の残骸。森羅万象は悉く硝化し尽くし、もはや意味すら消えうせた。
その様を見て、ケンプファーはまるで溜め息の代わりとでもいう風に紫煙を吐いた。手にしている細葉巻を灰皿に押しつける。
「退き際、かな」
「そうだねぇ。誰もいなくなっちゃったし」
電子調律師たるディートリッヒが、それでも名残惜しいとでもいうようにコンソールを叩くが、すでに監視用モニターは何の反応も示さない。
刻印は解除され、彼らの仕掛けていた盗聴、データ収集用の機能も停止させられていた。
ならば、彼らをここに縛る理由はない。
「"人形使い"、君はデータの回収を――私は総員に撤退の指示を出そう」
「……そういえばさ、あの天使サマはいつの間にか姿を消してたけど、どうする? なんかこそこそ動いてたみたいだけど」
ルルティエの天使長バベル――協力者という名目ではあったが、この催しを歓迎していないことは明らかだった。
彼女たちの力は未知数だ。参加者である三塚井ドクロの能力だけを見ても、それは窺えた。
バベルが救おうとしていた三塚井ドクロはすでに死亡しているが、だからこそ自暴自棄になる可能性はある。横合いから殴られてはたまったものではない。
そんな疑念を、だが魔術師は切って捨てた。
「施設内にいないことは確認済みだ。自分の世界に帰ったのか、それとも暗躍しているのか。どちらにしても、いまさら問題にはならないだろう」
りょーかい、と軽く答えてくるディートリッヒを横目に、ケンプファーは監視施設内のスピーカー機能を入れた。退避時に流す取り決めになっていたアラーム音が響き始める。
施設全体に響きだす退避勧告を耳にしながら、魔術師は此度の成果を脳内で計上する。
異世界の技術、生態、歴史、マテリアル――多くのものを入手することができた。こちらが対価として差し出したのは、成果と比べてみればほんの僅かな時間に過ぎない。
大儲けと言っていいだろう。手に入れたものを流用すれば、主であるカイン・ナイトロードの完全な復活に大きく近づくことができる。その確信がある。
「実験終了。各員に告ぐ。これより当初の予定通りに撤収を開始し――」
マイクに口を近づけ、定められた文言を読み上げる。装置によって増幅された彼の声は、通常の時空間と完全に隔絶したこの"管理者"用の施設に響き渡った。
――そう、響き渡った。
(なんだ……?)
ケンプファーは不意に感じた異常の気配に、コンソールから身を離した。警戒する。
静かすぎる。ここに詰めている騎士団の人員は数十名。それが勧告のアラームを合図とし一斉に動き出したのに――動き出した筈なのに、動き出さねばならない筈なのに、施設の中では警報だけが空虚に響き渡っていた。
「"人形使い"」
「ああ、分かってる」
二人はゆっくりと、この管制室と廊下を繋ぐ、唯一の扉に目を向けた。両開きのそれは、防音用のマットで覆われた重厚な造りになっている。
その扉が、外側から吹き飛んだ。
ケンプファーとディートリッヒは即座に左右に分かれ跳んだ。凄まじい力で爆砕した扉の破片が宙に舞う。その木片の幕を貫いて、一瞬前まで彼らがいた場所を通過し、彼らが背にしていたモニターに扉を爆砕した"砲弾"が直撃。血飛沫を撒き散らした。
それは人型をしていた。それは死体だった。それは、彼らのよく知る――
「……"毒竜の王"」
ノイマン三兄弟の長兄。石化毒を操る長生種。
数多の部下を従え数々の策略を紡いできたその男が――この絶対安全な筈の居城で死んでいた。
コンソールに衝突した衝撃か、それとも部屋に飛び込んでくる前からそうだったのか、その身体はほぼ真っ二つに裂けている。それも、縦に。頭頂部から股下までを唐竹割に切断されていた。
ディートリッヒが目を見張る。間違いなく致命傷はその一線の傷だろう。だが、注目すべきところはそこではない。バルタザールの身体には、それ以外に目立った傷が見受けられなかった。つまり敵は、"加速"状態に入れば人間の数十倍の反応速度を発揮できるメトセラを、碌に抵抗もさせず葬ったということになる。
そして、扉が破壊され、いまや出入りを拒むものがなくなったその接続から、吸血鬼殺しの犯人が滑る様にして姿を現した。
黒い筒のようなシルエット。ケンプファー達はその名前を知っていた。他でもない。ゲーム参加者の名簿に載っているのだから。
「……間に合った。間一髪というところだったが――紅世の魔神が振るった力の余波。佐山君の奸計。そして何より、"彼女"の導きがぼくをここに出現させた」
都市伝説に謳われる死神。世界の危機に対するカウンター。
そいつの名前は、ブギーポップという――
「何故、君がここにいるんだい?」
人形使いの詰問。
ここから盤上へは、完全な一方通行というわけではない。それこそパイフウを陥落させた時のように、"管理者"は望めばいつでも盤面に降りることができた。
だが、それはあくまでも自分達だけに許された特権だ。神野の力で空間的に断たれたこの施設には、およそ物理的な方法で侵入することはできない。
問いながら、ディートリッヒとケンプファーは戦闘態勢に入っていた。予感――いや、確信がある。
この施設に詰めていた騎士団のメンバーは、この黒帽子に、自分達を残して全滅させられている、と。
「その問いに意味はない。ぼくは自動的なのでね――あるべく所にあり、そして役目を果たせば去る。それだけの、取るに足りないものに過ぎない」
体に巻き付けられたマントのせいで足さばきが見えないままに、影法師はするりと一歩を踏み出してくる。
「だが――今回だけは、答えを用意しよう。彼女への手向けとして。そして何より、確かにぼく一人ではここに辿り着くことは出来なかっただろうからね」
そう言って、ブギーポップは自身を筒のように覆っているマントの下から、腕を掲げるように前へ出した。
そこに握られているのは一本のペットボトル。中には――焼けこげて、ほとんど灰になった紙切れが入っている。
「それは……!?」
ディートリッヒが呻く。見覚えがあったからだ。ほんの数刻前、彼自身が焼いて捨てたもの。
それはサラ・バーリンが没する寸前に著した、刻印解除の為のメモだった。冷たい雨の中、最後の気力を振り絞ってしたため、ペットボトルの中に封入し――人形使いに回収され、無意味と化した筈の努力の産物。
「そう、ぼくを導いたのは彼女だ。サラ・バーリン――彼女はこの刻印が、決してまともな手段じゃ解除できないものだと誰よりも早く理解していた」
そう言って、ブギーポップはペットボトルを床に落とした。響くのは薄い合成樹脂が床とぶつかり合う軽い音――だがそれは、まるで裁判長が打ち鳴らすガベルのように、何か決定的なものを感じさせる音だった。
「何故なら、君たちが居るからだ」
「……」
「"管理者"に与えられた役割はぼくらの監視とゲームの運営だったんだろう――だが、君たちはその領分を越えた。ぼくたちに刻まれた死の刻印に細工を施し、参加者がもつ特殊な能力に関する情報を集め、さらにその情報を多く集めるため戦闘を頻発させようと目論んで、参加者の一人を抱き込みさえした」
パイフウ。故郷を人質に取られた哀れな暗殺者。彼女は三人を殺し、その内二人は大なり小なりダナティアのグループを崩壊させる要素となった。
だがその情報を、この黒マントの怪人はどこで知ったというのか。
いや――それを問う意味は"最早"ない。
何故なら刻印から解放された"それ"は、いまや完全に本来の機能を取り戻していたからだ。
自動的な、死神。それはただ役割をこなす。相手の意志も力も加味せず、目的を無慈悲に果たしてしまう。そういった存在なのだ。
その死神が、言葉を続ける。
「虹の谷の魔女は、君たちが管理者の領分を越えていたことに気付いたんだろう。あるいは、越えるであろうことを予測したか」
それは例えば、ディートリッヒが最初に全員が集められた場でリナ・インバースに向けた嗜虐心溢れる態度であるとか。
イザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファーによって施された、盗聴やデータ収集の機能が刻印全体にもたらす機能の不自然さであるとか。
サラ・フォークワース・バーリン。彼女はそれに気づくことができた。
そして聡明な彼女なら気づいた上で、正答に至ることができる。管理者の性質や目的。図書室に収められていた異世界の知識。さらには黒幕たる神野陰之と相対し、彼女は十分なピースを手にしていた。
「……それは賭けのようなものだったのだろう。今際の際、そんなものに労力を向けるべきか否か。何の役にも立たない可能性だってある。もっと別のことに力を使うべきではないかと、彼女は悩んだだろう――」
マージョリー・ドーとの戦いで力を使い果たし、折原臨也の凶弾に倒れ、そして死すまでの僅かな時間。
その時、明晰なる頭脳を頂いた彼女は、果たして何をしていたのか?
「――そう。このメモに書くべきは、"刻印の解除法"なのではないかと、彼女は今際の際まで悩んだのだろうね」
人形使いの目が驚愕に見開かれ、床に落とされたペットボトルに向けられる。
「この内容が、フェイクだったって言うのかい? 死の間際の時間を使って作成した、これが?」
「そうだ。結局、彼女が正しくして刻印の解除法にたどり着いていたかは知らないがね。どちらにせよ、彼女は正攻法を選択しなかった。君たちがいる限り、刻印を無事に外すことは難しい――そう判断したのだろう」
それは結局、天使の長が施した細工と、ゲームの正規参加者でない灰色の魔女というふたつの要因が重なり、解決した。
だが逆を言えば、そんなイレギュラーでもなければ外せないような刻印であったということだ。
サラ・バーリンはそれを冷静に判断し、そして――
「メモに出鱈目を書き募る一方で、それに"印"をつけた。できるだけこのゲームが長引いて欲しいと願う君たちが、それを回収してしまう可能性に賭けて……それが、ぼくをここまで導いたものの正体だ」
「……辿ることのできるような反応を発する。そんな細工を付与されていたということか」
機械仕掛けの魔導師が呟く。やれやれと溜息をつきながら、ディートリッヒを見やった。
ケンプファーの責める様な視線を受けて、だが彼はそれを振り払うように頭を振る。
「そんな馬鹿な! ここに持ち込む前に何重ものセンサーを通したんだ! そんな反応があれば、絶対に気づける筈――」
そんなディートリッヒの様子を見て――
ブギーポップは「はっ!」と相手を馬鹿にし切ったように哂った。
浮かべているのは呆れているような、稚児の足掻きに微笑んでいるような、そんな左右非対称の表情。滴るような悪意(ウィキッド)がそこにはあった。
「君たち如きが気づけるものか。よく知りもしない精霊の願いに流されて、計り知れない魔人の力に乗っかっただけの君たちが」
「何を――」
「君たちは自分達が有利な位置にいるつもりだったんだろう。まるで高いところから下界を見下ろす仙人を気取っていたんだろう。何の対価も払わず、輝かしい成果を手に出来ると思ったんだろう」
影法師が更に一歩を踏み出す。攻撃の間合い、その僅か寸前に移動したのだと、残されたたった二人の騎士団は気取った。
「だが栄華を極める文明というのは、幾百の"失敗"の向こう側に広がるものだ。君たちがやろうとしたのはそんな苦労も知らないで、美味いところだけを掠め取ろうとしたようなもの――いくつもの世界を足蹴にする行為だ」
そんな目論見が、成功するわけないだろう?
言外にそう告げて、ブギーポップはその鋭い視線を眼前の二人に注いだ。
「だから、ぼくがここに出現した」
いつの間にか、退避の為のサイレンは派手なフル・オーケストラに変じていた。とある世界において、とある偉大な作曲家が作った最高の楽曲。ニュルンベルクのマイスタージンガー。第一幕への前奏曲。
そして、死神が"それ"を口にする。
「ぼくの名前はブギーポップ――世界の敵(コントラ・ムンディ)を名乗る君たちの、敵だ」
――決別の台詞を。
状況の変化は劇的だった。
死神のマントが翻る。その下から放たれた不可視の何かが世界の敵に向けて殺到し、そして命じられた役割――切断を果たした。
ばちり、と火花が散る。致命的な破壊を受けたコンソールが裂かれたパネルの隙間から紫電を放っていた。
死神の技が到達する寸前に、魔術師と人形使いは更に横っ飛びに跳躍している。単純な回避運動ではない。死神を挟み撃ちにする位置をとった。
人形使いが右へ。魔術師は左へ。それぞれが反撃の手管を用意する。
ディートリッヒが指を僅かに動かす。人形使いの指揮を受けて、部屋の隅に放置されていた亡骸が動き出した。パーンとガウリィ。共に一流の戦士――だったもの。完全な技量の再現こそ望めないが、彼らの肉体は長生種に匹敵する身体能力を備えている。雷光の如き二筋の剣閃が死神へ向かった。
さらに同時、機械仕掛けの魔導師もまた攻撃の準備を終えている。
「我が前にユンゲス、我が後ろにテレタルカエ、右手に剣、左手に盾、我が周囲に五芒星は輝き、石の中に六芒星が据えられたり。――来たれ、"ベルゼバブの剣"」
僅かな風切り音。ケンプファーが腕を振るう動きに呼応して、モノ・カーボン・ファイバーが虚空より飛来する。炭素の単分子で出来たこの世でもっとも鋭い刃が、死神を黄泉に還さんと振るわれた。
死人兵の猛き剣戟。魔術師の放つ鋭き裁断。左右より迫るこの挟撃から、死神は如何に脱するか――
否。死神は回避を選択しなかった。
マントを翻し、怪人が左へ跳ぶ。単分子ワイヤーの檻の中へ。脱出不能の死地へと自ら飛び込んだのだ。
だがケンプファーとディートリッヒは驚愕も油断もしない。人形使いは死人兵を、さらに奥へ――ベルゼブブの剣が振るわれる領域の中にまで追撃させた。一秒後、死人兵は影法師に剣を突き立てつつも、単分子の刃によってバラバラに切断されるだろうが、もとより使い捨てて惜しい駒ではない。
だがその予測は覆される。
先に飛び込んだブギーポップが、ワイヤーに接触する。あろうことか、死神は"向かってくる単分子ワイヤーを素手で掴んで見せた”のだ。
「――"鋼糸返し"。君たちが掠め取ろうとした異世界の技術のひとつだ」
絶技によりベクトルの向きを変えられたモノフィラメント・ワイヤーが死神をすり抜け、その背後から殺到する死人兵だけを両断する。もっとも、本来の使い手ならば、さらに魔術師と人形使いにも刃を返して見せただろう。
力を失ったワイヤーが床に散らばり、死人兵の残骸が突進の勢いそのままに死神の横を過ぎ去っていく。
必殺の同時攻撃を、難なく躱された――その光景を認め、人形使いは、
「――かかった!」
嗜虐の笑みを浮かべた。
もとよりノイマン三兄弟を無傷で一蹴したというのなら、死人ごときで仕留められるとは思っていない。奥の手は、躍り掛かる死兵の影から飛ばした"糸"だ。
肉眼では視認できないほどの細さを誇るその生体繊維は、ディートリッヒの指運に導かれ、死神の肉体にその先端を潜り込ませていた。
人形使いの用いる細さ数ミクロンの"糸"は、相手の肉体に侵入し、その神経系を乗っ取るという恐るべき作用をもたらす。
脳が焼き切れるような激痛も、一瞬で心を砕く快楽さえも、自由自在に相手の身に植え付けることができる。つまりは"糸"さえ接触させることができれば、相手がどのような力を持っていても無意味。ディートリッヒの勝利が確定するのである。
そして"糸"を通じ、人形使いはありったけの命令を送り込んだ。即ち、
(ありとあらゆる激痛に塗れて、死ね!)
この世に存在するありとあらゆる苦痛。外科的な負傷、内臓疾患、さらには精神的な超ストレス――それぞれの苦痛だけで十二分に死ねるほどの痛覚情報。それを"糸"伝いにまとめて送信したのだ。
びくん、と死神の身体が痙攣する。涙、涎、鼻水、汗、小水、大便、血液、組織液――人体に存在する穴という穴からあらゆる排泄が行われ、最悪の死に様を残す――
「やった――」
「生憎と――」
――その幻想が、破壊される。
「なっ……」
人形使いの勝利宣言を打ち消すように、平然とした様子のブギーポップが"ちっ、ちっ、ちっ……"と指を揺らして見せていた。
「ぼくは自動的なのでね。万全であれば、外から操られるような"余地"は存在しないのだよ――神野陰之に、教えて貰っていなかったのかい?」
そう、"管理者"達が受け取っていた情報は完全ではない。
オドー大佐が持つ"悪臭"の賢石を見逃した。もしも本当にその存在を理解していたのなら、彼の妖姫を舞台に登らせることなどしなかっただろう。
憐れむような、あるいは祈るような表情を浮かべて、死神は指の動きを止め、人形使いに差し向けた。
「ならば、どうなるか――行き場を失った命令は、主の下に帰るしかない」
「……え?」
ぽつりと呟かれた死神の言葉を、ディートリッヒがかみ砕いて呑みこむまでに1秒。
それはつまり、この世に存在するありとあらゆる苦痛。外科的な負傷、内臓疾患、さらには精神的な超ストレス。それぞれの苦痛だけで十二分に死ねるほどの痛覚情報が、行き場を無くし、逆流を――
人形使いは全力で"糸"を引き戻そうとしたが、それはあまりにも遅きに過ぎた。
「ぎっ、いっ、あぎゃああああああああああああ!?」
そのガラス細工の様に整った顔立ちが、一瞬でしわくちゃの老婆の様に歪む。
びくん、と人形使いの身体が痙攣する。涙、涎、鼻水、汗、小水、大便、血液、組織液――人体に存在する穴という穴からあらゆる排泄が行われ、最悪の死に様を曝した。
人形使いの不運は、その苦しみが一瞬では終わらなかったことだろう。彼の持つ加虐心から、敵が即死しないように調整したツケだった。
そして人形使いの幸運は、彼が設定していたほど長くは苦痛が続かなかったことだけだろう。
「――来たれ、"ベリアルの矢"」
ケンプファーの差し出した、五芒星の縫取りが施された白手袋に光が灯る。射出されたのは戦艦主砲並の威力を持つ電磁加速砲の一撃だった。
熱による輝きの帯は、死神諸共に人形使いをこの世から蒸発させた。人形使いが"糸"を奥の手としていたように、魔術師は更に一手先を読み、行動していたのだ。
「……友としての手向けだ、人形使い。せめて、凄惨な亡骸を晒さずに逝くと良い」
熱線が過ぎ去った後には、ディートリッヒが存在した痕跡は何も残されてはいない。射線の先では、施設の壁が何重にも穴をあけ、虚を晒していた。
ケンプファーは懐からシガリロを取り出した。機械仕掛けの思考回路が、新たな収支を算出する。
この計画に従事した面子は、自分以外死亡したと考えていいだろう――"べリアルの矢"まで放ったというのに、施設内部で全く反応がない。
騎士団はほぼ壊滅。だが、問題はない。自分が生きている。カイン・ナイトロードは復活する。とすれば、この程度の損害は許容範囲というところだ。
しいて面倒な点を挙げるなら、人手が足りないので実体のある"成果"を持ち帰るのに手間が掛かるという点だった。荷物の運搬が出来そうな使い魔を脳内でリストアップしながら、細葉巻に火を点け、紫煙を吸い込む。
――が、その一服は許されなかった。
ケンプファーが僅かに顔を仰け反らせる。頭上から降ってきた鋭い一撃が、静かな燃焼を始めていたシガリロの先端を切り落とした。
天井を仰ぐ。例の怪人が、衣装の端すら焦がすことなく万全の状態で宙に浮いていた。否。天井に張り巡らせた糸の上に佇んでいる。
「妖糸――元の持ち主に比べれば、僕のは拙い操り方だがね」
どうやらべリアルの矢が直撃する直前に己の身体を引き上げたらしい。"舞台"で持っていなかった筈の妖糸は、ここに来るまでに保管庫からとってきたのだろう。
無数に張り巡らされた妖糸の向こうにいる影法師は、さながら巣に掛かった獲物を吟味する蜘蛛の如く。寸前で一撃を避けた魔術師の頸部に向けて、続けて1000分の1ミクロンの殺意が放たれた。
だが、チタン合金製の妖糸が目標に届くことはない。
「――ふむ。これを貫くことはできないか」
"アスモダイの盾"。超電磁場による結界が妖糸を宙に固定していた。
眼前でぴたりと停止した糸越しにブギーポップを見つめながら、ケンプファーは思考する。
(退き時、か)
ほんの数分前に、今は無き人形使いへ向けた言葉を胸中で繰り返す。ただし、その意味合いは多少、変じていたが。
天人の遺産や紅世の宝具を始めとした物品の回収は諦める。問題はない。データだけなら自身の頭脳の中に保管されているのだ。
ケンプファーは廊下への扉に走った。白手袋を振るいオーダー。人造精霊をクールからホットへ。部屋の隅から粘液のような火精が染み出てくるのを見届けながら、自身も次の攻撃を用意する。
放つ次弾で距離をあけ、火精を足止め役に残し撤退する。
機械仕掛けの魔導師の頭脳は、それが可能であると弾き出していた。そして、それは正しい。火精に死神の切断攻撃は無意味だ。相手はこちらの一撃を避ける為に天井に退避したが、そのお陰で追撃へ移るには時間がかかる。
「我は汝を召喚す。恐ろしき炎の王よ――」
――そう、魔術師の能力が万全であれば、それは可能だったのだろう。
呪文(コマンド)を打とうとしたケンプファーの脳裏に激痛が走る。その身に刻んだ遺失技術の制御系が悲鳴を挙げていた。
刻印――参加者たちを苦しめていた物。能力を制限する為の装置。
"管理者"という区分にされた参加者であるケンプファーにも、それは刻まれている。それも完全な――違和感を覚えることのない刻印が。
「これは……っ」
コマンドが走らない。立ち上げようとした"べリアルの矢"と共に、"アスモダイの盾"が強制停止。常であれば問題にならない魔導の行使が、尋常でない負担となっていた。
彼らが"参加者"のように、己の能力を限界まで引き出さねばならないような極限状態にあったのなら、気づけていたであろう仕掛け。
「言っただろう……"失敗"の向こう側を行く覚悟無き者に、成功はないと」
いつの間にか天井から降りてきていたブギーポップが、つい、と指先を振るう。
迎撃、不能。防御、消失。人造精霊による足止め、間に合わず。
死の気配が己の頸部に集中するのを感じながら、ケンプファーはこっそりとため息をついた。あのお方以外の神など、問題にはならないと思っていたが。
どうやらこの死神の鎌は自分に届くということらしい。
目を閉じ、最期の瞬間を受け入れながら、機械仕掛けの魔導師は静やかに呟いた。このゲームへ参加を決めた判断ミスを自省するように。
「"輝くもの、すべて金とは限らず”――シェイクスピア」
今回は失敗だ。だが、次の――
――そこで、永きを生きた男の思考は停止した。
もはやあの島は――否。あの世界は存在しない。二つの破滅は島を砕き、海を吹き飛ばし、空を落として――あらゆる物質を溶かし、破壊し尽くした。
そこにあるのは世界の残骸。森羅万象は悉く硝化し尽くし、もはや意味すら消えうせた。
その様を見て、ケンプファーはまるで溜め息の代わりとでもいう風に紫煙を吐いた。手にしている細葉巻を灰皿に押しつける。
「退き際、かな」
「そうだねぇ。誰もいなくなっちゃったし」
電子調律師たるディートリッヒが、それでも名残惜しいとでもいうようにコンソールを叩くが、すでに監視用モニターは何の反応も示さない。
刻印は解除され、彼らの仕掛けていた盗聴、データ収集用の機能も停止させられていた。
ならば、彼らをここに縛る理由はない。
「"人形使い"、君はデータの回収を――私は総員に撤退の指示を出そう」
「……そういえばさ、あの天使サマはいつの間にか姿を消してたけど、どうする? なんかこそこそ動いてたみたいだけど」
ルルティエの天使長バベル――協力者という名目ではあったが、この催しを歓迎していないことは明らかだった。
彼女たちの力は未知数だ。参加者である三塚井ドクロの能力だけを見ても、それは窺えた。
バベルが救おうとしていた三塚井ドクロはすでに死亡しているが、だからこそ自暴自棄になる可能性はある。横合いから殴られてはたまったものではない。
そんな疑念を、だが魔術師は切って捨てた。
「施設内にいないことは確認済みだ。自分の世界に帰ったのか、それとも暗躍しているのか。どちらにしても、いまさら問題にはならないだろう」
りょーかい、と軽く答えてくるディートリッヒを横目に、ケンプファーは監視施設内のスピーカー機能を入れた。退避時に流す取り決めになっていたアラーム音が響き始める。
施設全体に響きだす退避勧告を耳にしながら、魔術師は此度の成果を脳内で計上する。
異世界の技術、生態、歴史、マテリアル――多くのものを入手することができた。こちらが対価として差し出したのは、成果と比べてみればほんの僅かな時間に過ぎない。
大儲けと言っていいだろう。手に入れたものを流用すれば、主であるカイン・ナイトロードの完全な復活に大きく近づくことができる。その確信がある。
「実験終了。各員に告ぐ。これより当初の予定通りに撤収を開始し――」
マイクに口を近づけ、定められた文言を読み上げる。装置によって増幅された彼の声は、通常の時空間と完全に隔絶したこの"管理者"用の施設に響き渡った。
――そう、響き渡った。
(なんだ……?)
ケンプファーは不意に感じた異常の気配に、コンソールから身を離した。警戒する。
静かすぎる。ここに詰めている騎士団の人員は数十名。それが勧告のアラームを合図とし一斉に動き出したのに――動き出した筈なのに、動き出さねばならない筈なのに、施設の中では警報だけが空虚に響き渡っていた。
「"人形使い"」
「ああ、分かってる」
二人はゆっくりと、この管制室と廊下を繋ぐ、唯一の扉に目を向けた。両開きのそれは、防音用のマットで覆われた重厚な造りになっている。
その扉が、外側から吹き飛んだ。
ケンプファーとディートリッヒは即座に左右に分かれ跳んだ。凄まじい力で爆砕した扉の破片が宙に舞う。その木片の幕を貫いて、一瞬前まで彼らがいた場所を通過し、彼らが背にしていたモニターに扉を爆砕した"砲弾"が直撃。血飛沫を撒き散らした。
それは人型をしていた。それは死体だった。それは、彼らのよく知る――
「……"毒竜の王"」
ノイマン三兄弟の長兄。石化毒を操る長生種。
数多の部下を従え数々の策略を紡いできたその男が――この絶対安全な筈の居城で死んでいた。
コンソールに衝突した衝撃か、それとも部屋に飛び込んでくる前からそうだったのか、その身体はほぼ真っ二つに裂けている。それも、縦に。頭頂部から股下までを唐竹割に切断されていた。
ディートリッヒが目を見張る。間違いなく致命傷はその一線の傷だろう。だが、注目すべきところはそこではない。バルタザールの身体には、それ以外に目立った傷が見受けられなかった。つまり敵は、"加速"状態に入れば人間の数十倍の反応速度を発揮できるメトセラを、碌に抵抗もさせず葬ったということになる。
そして、扉が破壊され、いまや出入りを拒むものがなくなったその接続から、吸血鬼殺しの犯人が滑る様にして姿を現した。
黒い筒のようなシルエット。ケンプファー達はその名前を知っていた。他でもない。ゲーム参加者の名簿に載っているのだから。
「……間に合った。間一髪というところだったが――紅世の魔神が振るった力の余波。佐山君の奸計。そして何より、"彼女"の導きがぼくをここに出現させた」
都市伝説に謳われる死神。世界の危機に対するカウンター。
そいつの名前は、ブギーポップという――
「何故、君がここにいるんだい?」
人形使いの詰問。
ここから盤上へは、完全な一方通行というわけではない。それこそパイフウを陥落させた時のように、"管理者"は望めばいつでも盤面に降りることができた。
だが、それはあくまでも自分達だけに許された特権だ。神野の力で空間的に断たれたこの施設には、およそ物理的な方法で侵入することはできない。
問いながら、ディートリッヒとケンプファーは戦闘態勢に入っていた。予感――いや、確信がある。
この施設に詰めていた騎士団のメンバーは、この黒帽子に、自分達を残して全滅させられている、と。
「その問いに意味はない。ぼくは自動的なのでね――あるべく所にあり、そして役目を果たせば去る。それだけの、取るに足りないものに過ぎない」
体に巻き付けられたマントのせいで足さばきが見えないままに、影法師はするりと一歩を踏み出してくる。
「だが――今回だけは、答えを用意しよう。彼女への手向けとして。そして何より、確かにぼく一人ではここに辿り着くことは出来なかっただろうからね」
そう言って、ブギーポップは自身を筒のように覆っているマントの下から、腕を掲げるように前へ出した。
そこに握られているのは一本のペットボトル。中には――焼けこげて、ほとんど灰になった紙切れが入っている。
「それは……!?」
ディートリッヒが呻く。見覚えがあったからだ。ほんの数刻前、彼自身が焼いて捨てたもの。
それはサラ・バーリンが没する寸前に著した、刻印解除の為のメモだった。冷たい雨の中、最後の気力を振り絞ってしたため、ペットボトルの中に封入し――人形使いに回収され、無意味と化した筈の努力の産物。
「そう、ぼくを導いたのは彼女だ。サラ・バーリン――彼女はこの刻印が、決してまともな手段じゃ解除できないものだと誰よりも早く理解していた」
そう言って、ブギーポップはペットボトルを床に落とした。響くのは薄い合成樹脂が床とぶつかり合う軽い音――だがそれは、まるで裁判長が打ち鳴らすガベルのように、何か決定的なものを感じさせる音だった。
「何故なら、君たちが居るからだ」
「……」
「"管理者"に与えられた役割はぼくらの監視とゲームの運営だったんだろう――だが、君たちはその領分を越えた。ぼくたちに刻まれた死の刻印に細工を施し、参加者がもつ特殊な能力に関する情報を集め、さらにその情報を多く集めるため戦闘を頻発させようと目論んで、参加者の一人を抱き込みさえした」
パイフウ。故郷を人質に取られた哀れな暗殺者。彼女は三人を殺し、その内二人は大なり小なりダナティアのグループを崩壊させる要素となった。
だがその情報を、この黒マントの怪人はどこで知ったというのか。
いや――それを問う意味は"最早"ない。
何故なら刻印から解放された"それ"は、いまや完全に本来の機能を取り戻していたからだ。
自動的な、死神。それはただ役割をこなす。相手の意志も力も加味せず、目的を無慈悲に果たしてしまう。そういった存在なのだ。
その死神が、言葉を続ける。
「虹の谷の魔女は、君たちが管理者の領分を越えていたことに気付いたんだろう。あるいは、越えるであろうことを予測したか」
それは例えば、ディートリッヒが最初に全員が集められた場でリナ・インバースに向けた嗜虐心溢れる態度であるとか。
イザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファーによって施された、盗聴やデータ収集の機能が刻印全体にもたらす機能の不自然さであるとか。
サラ・フォークワース・バーリン。彼女はそれに気づくことができた。
そして聡明な彼女なら気づいた上で、正答に至ることができる。管理者の性質や目的。図書室に収められていた異世界の知識。さらには黒幕たる神野陰之と相対し、彼女は十分なピースを手にしていた。
「……それは賭けのようなものだったのだろう。今際の際、そんなものに労力を向けるべきか否か。何の役にも立たない可能性だってある。もっと別のことに力を使うべきではないかと、彼女は悩んだだろう――」
マージョリー・ドーとの戦いで力を使い果たし、折原臨也の凶弾に倒れ、そして死すまでの僅かな時間。
その時、明晰なる頭脳を頂いた彼女は、果たして何をしていたのか?
「――そう。このメモに書くべきは、"刻印の解除法"なのではないかと、彼女は今際の際まで悩んだのだろうね」
人形使いの目が驚愕に見開かれ、床に落とされたペットボトルに向けられる。
「この内容が、フェイクだったって言うのかい? 死の間際の時間を使って作成した、これが?」
「そうだ。結局、彼女が正しくして刻印の解除法にたどり着いていたかは知らないがね。どちらにせよ、彼女は正攻法を選択しなかった。君たちがいる限り、刻印を無事に外すことは難しい――そう判断したのだろう」
それは結局、天使の長が施した細工と、ゲームの正規参加者でない灰色の魔女というふたつの要因が重なり、解決した。
だが逆を言えば、そんなイレギュラーでもなければ外せないような刻印であったということだ。
サラ・バーリンはそれを冷静に判断し、そして――
「メモに出鱈目を書き募る一方で、それに"印"をつけた。できるだけこのゲームが長引いて欲しいと願う君たちが、それを回収してしまう可能性に賭けて……それが、ぼくをここまで導いたものの正体だ」
「……辿ることのできるような反応を発する。そんな細工を付与されていたということか」
機械仕掛けの魔導師が呟く。やれやれと溜息をつきながら、ディートリッヒを見やった。
ケンプファーの責める様な視線を受けて、だが彼はそれを振り払うように頭を振る。
「そんな馬鹿な! ここに持ち込む前に何重ものセンサーを通したんだ! そんな反応があれば、絶対に気づける筈――」
そんなディートリッヒの様子を見て――
ブギーポップは「はっ!」と相手を馬鹿にし切ったように哂った。
浮かべているのは呆れているような、稚児の足掻きに微笑んでいるような、そんな左右非対称の表情。滴るような悪意(ウィキッド)がそこにはあった。
「君たち如きが気づけるものか。よく知りもしない精霊の願いに流されて、計り知れない魔人の力に乗っかっただけの君たちが」
「何を――」
「君たちは自分達が有利な位置にいるつもりだったんだろう。まるで高いところから下界を見下ろす仙人を気取っていたんだろう。何の対価も払わず、輝かしい成果を手に出来ると思ったんだろう」
影法師が更に一歩を踏み出す。攻撃の間合い、その僅か寸前に移動したのだと、残されたたった二人の騎士団は気取った。
「だが栄華を極める文明というのは、幾百の"失敗"の向こう側に広がるものだ。君たちがやろうとしたのはそんな苦労も知らないで、美味いところだけを掠め取ろうとしたようなもの――いくつもの世界を足蹴にする行為だ」
そんな目論見が、成功するわけないだろう?
言外にそう告げて、ブギーポップはその鋭い視線を眼前の二人に注いだ。
「だから、ぼくがここに出現した」
いつの間にか、退避の為のサイレンは派手なフル・オーケストラに変じていた。とある世界において、とある偉大な作曲家が作った最高の楽曲。ニュルンベルクのマイスタージンガー。第一幕への前奏曲。
そして、死神が"それ"を口にする。
「ぼくの名前はブギーポップ――世界の敵(コントラ・ムンディ)を名乗る君たちの、敵だ」
――決別の台詞を。
状況の変化は劇的だった。
死神のマントが翻る。その下から放たれた不可視の何かが世界の敵に向けて殺到し、そして命じられた役割――切断を果たした。
ばちり、と火花が散る。致命的な破壊を受けたコンソールが裂かれたパネルの隙間から紫電を放っていた。
死神の技が到達する寸前に、魔術師と人形使いは更に横っ飛びに跳躍している。単純な回避運動ではない。死神を挟み撃ちにする位置をとった。
人形使いが右へ。魔術師は左へ。それぞれが反撃の手管を用意する。
ディートリッヒが指を僅かに動かす。人形使いの指揮を受けて、部屋の隅に放置されていた亡骸が動き出した。パーンとガウリィ。共に一流の戦士――だったもの。完全な技量の再現こそ望めないが、彼らの肉体は長生種に匹敵する身体能力を備えている。雷光の如き二筋の剣閃が死神へ向かった。
さらに同時、機械仕掛けの魔導師もまた攻撃の準備を終えている。
「我が前にユンゲス、我が後ろにテレタルカエ、右手に剣、左手に盾、我が周囲に五芒星は輝き、石の中に六芒星が据えられたり。――来たれ、"ベルゼバブの剣"」
僅かな風切り音。ケンプファーが腕を振るう動きに呼応して、モノ・カーボン・ファイバーが虚空より飛来する。炭素の単分子で出来たこの世でもっとも鋭い刃が、死神を黄泉に還さんと振るわれた。
死人兵の猛き剣戟。魔術師の放つ鋭き裁断。左右より迫るこの挟撃から、死神は如何に脱するか――
否。死神は回避を選択しなかった。
マントを翻し、怪人が左へ跳ぶ。単分子ワイヤーの檻の中へ。脱出不能の死地へと自ら飛び込んだのだ。
だがケンプファーとディートリッヒは驚愕も油断もしない。人形使いは死人兵を、さらに奥へ――ベルゼブブの剣が振るわれる領域の中にまで追撃させた。一秒後、死人兵は影法師に剣を突き立てつつも、単分子の刃によってバラバラに切断されるだろうが、もとより使い捨てて惜しい駒ではない。
だがその予測は覆される。
先に飛び込んだブギーポップが、ワイヤーに接触する。あろうことか、死神は"向かってくる単分子ワイヤーを素手で掴んで見せた”のだ。
「――"鋼糸返し"。君たちが掠め取ろうとした異世界の技術のひとつだ」
絶技によりベクトルの向きを変えられたモノフィラメント・ワイヤーが死神をすり抜け、その背後から殺到する死人兵だけを両断する。もっとも、本来の使い手ならば、さらに魔術師と人形使いにも刃を返して見せただろう。
力を失ったワイヤーが床に散らばり、死人兵の残骸が突進の勢いそのままに死神の横を過ぎ去っていく。
必殺の同時攻撃を、難なく躱された――その光景を認め、人形使いは、
「――かかった!」
嗜虐の笑みを浮かべた。
もとよりノイマン三兄弟を無傷で一蹴したというのなら、死人ごときで仕留められるとは思っていない。奥の手は、躍り掛かる死兵の影から飛ばした"糸"だ。
肉眼では視認できないほどの細さを誇るその生体繊維は、ディートリッヒの指運に導かれ、死神の肉体にその先端を潜り込ませていた。
人形使いの用いる細さ数ミクロンの"糸"は、相手の肉体に侵入し、その神経系を乗っ取るという恐るべき作用をもたらす。
脳が焼き切れるような激痛も、一瞬で心を砕く快楽さえも、自由自在に相手の身に植え付けることができる。つまりは"糸"さえ接触させることができれば、相手がどのような力を持っていても無意味。ディートリッヒの勝利が確定するのである。
そして"糸"を通じ、人形使いはありったけの命令を送り込んだ。即ち、
(ありとあらゆる激痛に塗れて、死ね!)
この世に存在するありとあらゆる苦痛。外科的な負傷、内臓疾患、さらには精神的な超ストレス――それぞれの苦痛だけで十二分に死ねるほどの痛覚情報。それを"糸"伝いにまとめて送信したのだ。
びくん、と死神の身体が痙攣する。涙、涎、鼻水、汗、小水、大便、血液、組織液――人体に存在する穴という穴からあらゆる排泄が行われ、最悪の死に様を残す――
「やった――」
「生憎と――」
――その幻想が、破壊される。
「なっ……」
人形使いの勝利宣言を打ち消すように、平然とした様子のブギーポップが"ちっ、ちっ、ちっ……"と指を揺らして見せていた。
「ぼくは自動的なのでね。万全であれば、外から操られるような"余地"は存在しないのだよ――神野陰之に、教えて貰っていなかったのかい?」
そう、"管理者"達が受け取っていた情報は完全ではない。
オドー大佐が持つ"悪臭"の賢石を見逃した。もしも本当にその存在を理解していたのなら、彼の妖姫を舞台に登らせることなどしなかっただろう。
憐れむような、あるいは祈るような表情を浮かべて、死神は指の動きを止め、人形使いに差し向けた。
「ならば、どうなるか――行き場を失った命令は、主の下に帰るしかない」
「……え?」
ぽつりと呟かれた死神の言葉を、ディートリッヒがかみ砕いて呑みこむまでに1秒。
それはつまり、この世に存在するありとあらゆる苦痛。外科的な負傷、内臓疾患、さらには精神的な超ストレス。それぞれの苦痛だけで十二分に死ねるほどの痛覚情報が、行き場を無くし、逆流を――
人形使いは全力で"糸"を引き戻そうとしたが、それはあまりにも遅きに過ぎた。
「ぎっ、いっ、あぎゃああああああああああああ!?」
そのガラス細工の様に整った顔立ちが、一瞬でしわくちゃの老婆の様に歪む。
びくん、と人形使いの身体が痙攣する。涙、涎、鼻水、汗、小水、大便、血液、組織液――人体に存在する穴という穴からあらゆる排泄が行われ、最悪の死に様を曝した。
人形使いの不運は、その苦しみが一瞬では終わらなかったことだろう。彼の持つ加虐心から、敵が即死しないように調整したツケだった。
そして人形使いの幸運は、彼が設定していたほど長くは苦痛が続かなかったことだけだろう。
「――来たれ、"ベリアルの矢"」
ケンプファーの差し出した、五芒星の縫取りが施された白手袋に光が灯る。射出されたのは戦艦主砲並の威力を持つ電磁加速砲の一撃だった。
熱による輝きの帯は、死神諸共に人形使いをこの世から蒸発させた。人形使いが"糸"を奥の手としていたように、魔術師は更に一手先を読み、行動していたのだ。
「……友としての手向けだ、人形使い。せめて、凄惨な亡骸を晒さずに逝くと良い」
熱線が過ぎ去った後には、ディートリッヒが存在した痕跡は何も残されてはいない。射線の先では、施設の壁が何重にも穴をあけ、虚を晒していた。
ケンプファーは懐からシガリロを取り出した。機械仕掛けの思考回路が、新たな収支を算出する。
この計画に従事した面子は、自分以外死亡したと考えていいだろう――"べリアルの矢"まで放ったというのに、施設内部で全く反応がない。
騎士団はほぼ壊滅。だが、問題はない。自分が生きている。カイン・ナイトロードは復活する。とすれば、この程度の損害は許容範囲というところだ。
しいて面倒な点を挙げるなら、人手が足りないので実体のある"成果"を持ち帰るのに手間が掛かるという点だった。荷物の運搬が出来そうな使い魔を脳内でリストアップしながら、細葉巻に火を点け、紫煙を吸い込む。
――が、その一服は許されなかった。
ケンプファーが僅かに顔を仰け反らせる。頭上から降ってきた鋭い一撃が、静かな燃焼を始めていたシガリロの先端を切り落とした。
天井を仰ぐ。例の怪人が、衣装の端すら焦がすことなく万全の状態で宙に浮いていた。否。天井に張り巡らせた糸の上に佇んでいる。
「妖糸――元の持ち主に比べれば、僕のは拙い操り方だがね」
どうやらべリアルの矢が直撃する直前に己の身体を引き上げたらしい。"舞台"で持っていなかった筈の妖糸は、ここに来るまでに保管庫からとってきたのだろう。
無数に張り巡らされた妖糸の向こうにいる影法師は、さながら巣に掛かった獲物を吟味する蜘蛛の如く。寸前で一撃を避けた魔術師の頸部に向けて、続けて1000分の1ミクロンの殺意が放たれた。
だが、チタン合金製の妖糸が目標に届くことはない。
「――ふむ。これを貫くことはできないか」
"アスモダイの盾"。超電磁場による結界が妖糸を宙に固定していた。
眼前でぴたりと停止した糸越しにブギーポップを見つめながら、ケンプファーは思考する。
(退き時、か)
ほんの数分前に、今は無き人形使いへ向けた言葉を胸中で繰り返す。ただし、その意味合いは多少、変じていたが。
天人の遺産や紅世の宝具を始めとした物品の回収は諦める。問題はない。データだけなら自身の頭脳の中に保管されているのだ。
ケンプファーは廊下への扉に走った。白手袋を振るいオーダー。人造精霊をクールからホットへ。部屋の隅から粘液のような火精が染み出てくるのを見届けながら、自身も次の攻撃を用意する。
放つ次弾で距離をあけ、火精を足止め役に残し撤退する。
機械仕掛けの魔導師の頭脳は、それが可能であると弾き出していた。そして、それは正しい。火精に死神の切断攻撃は無意味だ。相手はこちらの一撃を避ける為に天井に退避したが、そのお陰で追撃へ移るには時間がかかる。
「我は汝を召喚す。恐ろしき炎の王よ――」
――そう、魔術師の能力が万全であれば、それは可能だったのだろう。
呪文(コマンド)を打とうとしたケンプファーの脳裏に激痛が走る。その身に刻んだ遺失技術の制御系が悲鳴を挙げていた。
刻印――参加者たちを苦しめていた物。能力を制限する為の装置。
"管理者"という区分にされた参加者であるケンプファーにも、それは刻まれている。それも完全な――違和感を覚えることのない刻印が。
「これは……っ」
コマンドが走らない。立ち上げようとした"べリアルの矢"と共に、"アスモダイの盾"が強制停止。常であれば問題にならない魔導の行使が、尋常でない負担となっていた。
彼らが"参加者"のように、己の能力を限界まで引き出さねばならないような極限状態にあったのなら、気づけていたであろう仕掛け。
「言っただろう……"失敗"の向こう側を行く覚悟無き者に、成功はないと」
いつの間にか天井から降りてきていたブギーポップが、つい、と指先を振るう。
迎撃、不能。防御、消失。人造精霊による足止め、間に合わず。
死の気配が己の頸部に集中するのを感じながら、ケンプファーはこっそりとため息をついた。あのお方以外の神など、問題にはならないと思っていたが。
どうやらこの死神の鎌は自分に届くということらしい。
目を閉じ、最期の瞬間を受け入れながら、機械仕掛けの魔導師は静やかに呟いた。このゲームへ参加を決めた判断ミスを自省するように。
「"輝くもの、すべて金とは限らず”――シェイクスピア」
今回は失敗だ。だが、次の――
――そこで、永きを生きた男の思考は停止した。
【非参加者 ディートリッヒ・フォン・ローエングリューン 死亡】
【非参加者 イザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー 死亡】
【その他、ノイマン三兄弟を始めとする、管理者として動いていた薔薇十字騎士団の構成員が死亡しました】
【非参加者 イザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー 死亡】
【その他、ノイマン三兄弟を始めとする、管理者として動いていた薔薇十字騎士団の構成員が死亡しました】
◇◇◇
「神野さんは、さ」
微笑みながら、十叶詠子は神野陰之に話しかける。
対峙する魔女と魔王。だがその絵面は傍目にはただの女の子と成人男性の仲睦まじい会話にしかみえない。
ここが荒野でさえなければ――そして二人を肉眼で見さえしなければ、誰も異常を感じなかったであろう。
腹部から粘る血液を溢しながら、魔女はいつものように薄く笑みを浮かべた。
「それを望まれ無い限り、嘘はつかない性格だよね」
「そういう性質ではあるね」
"神野陰之"とは魔法だ。生物ではない。人のカタチをした世界の半身。だがそれでも詠子はソレを人のように扱う。
善性で、悪意の一欠片すらない。されど、魔女。
そんな存在が紡ぐ言葉は、果たしてどのような結果をもたらすのか――
「そうだよね。神野さんはとても正直な人。だから私は確信したの。神野さんがこのゲームを主催して、心の証明を成せというのなら。きっとそれは不可能なことじゃないって」
何かが動いた。
目には見えない巨大なものが、まるで歯車がかみ合うが如く、規則正しく動き出す。
そんな気配が漂った。魔女の言葉によって。
「『私』がその答えを知っていると?」
「はい、あるいは、いいえ」
詠子は笑いながら答える。見えない歯車は、ぎちぎちと動き続けている。
「もしも答えを神野さんが持ってるならそれをアマワさんに教えてあげるだけでいいよね。だけど神野さんが答えを知らないなら、そもそもこの遊戯板の『ルール』が成立しない」
『それ』を成せば脱出できるというルール。それが、成立しない。
神野陰之が法則だというのなら、解のない命題は作れない。
「"御山"の子は、みんなにアマワさんのことを話してくれた。アマワさんは私たちの疑問から生まれた、疑問が解消されることを願う精霊。彼は問いかけることしかしないけど、その存在は何よりも純粋な願いそのものだから、こうして神野さんを誰よりも強く惹き付けている」
だけど、と魔女は続けた。
「アマワさんは問いかけることしかしない。たぶん、神野さんにも問いかけた。その問いかけに答える為に、アマワさんの願いを叶える為に、神野さんはあの舞台を整えた――"答えを得られる舞台"を」
「その通り。『私』は契約者だ。盟友アマワ。彼は今も『私』の『解答』を待ち続けている。それで?」
「うん。お願いしたのはアマワさんだけど、あの遊戯盤を実際に作って、ルールを定めたのは神野さんでしょう? いくつかは他の人の後付けだけど、それでも大原則を作ったのは神野さん。なら、終了の条件も神野さんが決めた筈――だからその"条件"は、神野さんが判定できるものじゃなきゃいけないよねぇ」
先ほども述べた通り、神野陰之は生物というよりも魔法、つまりは法則に近い。法則は矛盾を嫌う。特に神野は願いを叶えるという法則だ。己から言い出した条件であるのなら、それを違える事は決してない。
「それならきっと、正答に近い答え方はこうかな――"神野さんは答えを知っているけれど、持ってはいない"」
「ならば答えはどこにある?」
「この遊戯の試金石は私達なんだから、答えを持っているのも私達」
鉱物を削り合わせて金を見つけるように、人の交わりを利用して心の実在を証明しようとした。
「そう、私達は最初から"答え"を持っていた。それに気づいた時、この証明は完了する。神野さんはそういう風にルールを定めたんじゃないかな?」
「ではそれを示したまえ、魔女よ」
闇が隆起した。
魔女を取り囲むように、神野の呪圏が広がっていく。
「解答のチャンスは一度だけ。そういう『契約』の元、『私』はあの転移装置をダウゲ・ベルガーに施した。答えを誤ればそれまで。君は死に飲み込まれることになる」
隣に死神が立っているに等しいこの状況でも笑みを絶やさず、魔女は言った。
「私は気づくだけでよかった。神野さんが仕掛けた条件に、ただ気づくだけで。きっと他の誰も気づいていない。だけどそれは、あの人たちが心がない人種だって証明じゃない。私は彼に出会わなかったからそれに気づけた。客観的に見て気づくことができた」
魔女の言葉は呪文である。
神野の世界はそれを歓迎するかのように、誰の耳にも聞こえない、けれど酷く巨大な音を立てている。
その音を助長するかのように、魔女の言葉が重なった。
「――魂のカタチの違和感に」
微笑みながら、十叶詠子は神野陰之に話しかける。
対峙する魔女と魔王。だがその絵面は傍目にはただの女の子と成人男性の仲睦まじい会話にしかみえない。
ここが荒野でさえなければ――そして二人を肉眼で見さえしなければ、誰も異常を感じなかったであろう。
腹部から粘る血液を溢しながら、魔女はいつものように薄く笑みを浮かべた。
「それを望まれ無い限り、嘘はつかない性格だよね」
「そういう性質ではあるね」
"神野陰之"とは魔法だ。生物ではない。人のカタチをした世界の半身。だがそれでも詠子はソレを人のように扱う。
善性で、悪意の一欠片すらない。されど、魔女。
そんな存在が紡ぐ言葉は、果たしてどのような結果をもたらすのか――
「そうだよね。神野さんはとても正直な人。だから私は確信したの。神野さんがこのゲームを主催して、心の証明を成せというのなら。きっとそれは不可能なことじゃないって」
何かが動いた。
目には見えない巨大なものが、まるで歯車がかみ合うが如く、規則正しく動き出す。
そんな気配が漂った。魔女の言葉によって。
「『私』がその答えを知っていると?」
「はい、あるいは、いいえ」
詠子は笑いながら答える。見えない歯車は、ぎちぎちと動き続けている。
「もしも答えを神野さんが持ってるならそれをアマワさんに教えてあげるだけでいいよね。だけど神野さんが答えを知らないなら、そもそもこの遊戯板の『ルール』が成立しない」
『それ』を成せば脱出できるというルール。それが、成立しない。
神野陰之が法則だというのなら、解のない命題は作れない。
「"御山"の子は、みんなにアマワさんのことを話してくれた。アマワさんは私たちの疑問から生まれた、疑問が解消されることを願う精霊。彼は問いかけることしかしないけど、その存在は何よりも純粋な願いそのものだから、こうして神野さんを誰よりも強く惹き付けている」
だけど、と魔女は続けた。
「アマワさんは問いかけることしかしない。たぶん、神野さんにも問いかけた。その問いかけに答える為に、アマワさんの願いを叶える為に、神野さんはあの舞台を整えた――"答えを得られる舞台"を」
「その通り。『私』は契約者だ。盟友アマワ。彼は今も『私』の『解答』を待ち続けている。それで?」
「うん。お願いしたのはアマワさんだけど、あの遊戯盤を実際に作って、ルールを定めたのは神野さんでしょう? いくつかは他の人の後付けだけど、それでも大原則を作ったのは神野さん。なら、終了の条件も神野さんが決めた筈――だからその"条件"は、神野さんが判定できるものじゃなきゃいけないよねぇ」
先ほども述べた通り、神野陰之は生物というよりも魔法、つまりは法則に近い。法則は矛盾を嫌う。特に神野は願いを叶えるという法則だ。己から言い出した条件であるのなら、それを違える事は決してない。
「それならきっと、正答に近い答え方はこうかな――"神野さんは答えを知っているけれど、持ってはいない"」
「ならば答えはどこにある?」
「この遊戯の試金石は私達なんだから、答えを持っているのも私達」
鉱物を削り合わせて金を見つけるように、人の交わりを利用して心の実在を証明しようとした。
「そう、私達は最初から"答え"を持っていた。それに気づいた時、この証明は完了する。神野さんはそういう風にルールを定めたんじゃないかな?」
「ではそれを示したまえ、魔女よ」
闇が隆起した。
魔女を取り囲むように、神野の呪圏が広がっていく。
「解答のチャンスは一度だけ。そういう『契約』の元、『私』はあの転移装置をダウゲ・ベルガーに施した。答えを誤ればそれまで。君は死に飲み込まれることになる」
隣に死神が立っているに等しいこの状況でも笑みを絶やさず、魔女は言った。
「私は気づくだけでよかった。神野さんが仕掛けた条件に、ただ気づくだけで。きっと他の誰も気づいていない。だけどそれは、あの人たちが心がない人種だって証明じゃない。私は彼に出会わなかったからそれに気づけた。客観的に見て気づくことができた」
魔女の言葉は呪文である。
神野の世界はそれを歓迎するかのように、誰の耳にも聞こえない、けれど酷く巨大な音を立てている。
その音を助長するかのように、魔女の言葉が重なった。
「――魂のカタチの違和感に」
◇◇◇
瞬時に暗転した視界は、同じくらい唐突に光を取り戻した。
「ここは――」
佐山・御言は、一変した周囲の状況を頭の中で整理していく。
移動させられたのか、それとも周囲そのものが変じたのか。どちらにせよ、周囲の光景は、佐山にとって非常に馴染みのあるものになっていた。
UCATの奥多摩支部にある屋内訓練場。概念兵器の使用を前提にした頑強な造りの一室で、佐山もよく使用していた場所だ。概念を用いた空間拡張が施されており、広さは縦横30mほどもあるだろうか。
「もう面倒なので元の世界に戻された――というわけではないようだね」
出入り口となるスライド式の扉。その横に設置されている端末の、緊急用連絡ボタンを押してみるが、何の応答もない。3rdとの交渉以降は、24時間体制で自動人形達が待機している筈なのだが。
「こうも容易く分断されるか。予想していなかったわけでもないが。さて――どう思うかね、出雲?」
「俺が知るかよ」
G-Sp2を肩に担いだ出雲がぼやく。
この部屋にいるのは二人だけのようだった。佐山と出雲。共通点は言わずもがな、同じ世界出身であること。ならば、これはつまり。
「もしや貴様を殺せば外に出られると、そういうことだろうか。すまないが出雲、ちょっと息するのを止めて貰えるかね?」
「おっ、なんだ。てめえの息の根を止めるのを手伝えってお願いか? はい喜んでー」
出雲がG-Sp2を第二形態に変形させ、砲撃した。予想していた佐山が余裕でかわすと、射出された光弾が壁へ命中する。
部屋には概念による防御が施されているが、概念核兵器であるG-Sp2の一撃には耐えられない。当然、壁には大穴が開くが――しばらく待ってみても、誰かがやってくる気配はなかった。
「ふむ。やはりこの世界にいるのは私達だけか。Low-Gに戻ってきたわけではないと」
着弾痕を検分しながら、佐山が呟く。
「察するに、ここはあの島のミニバージョンというところだろうか」
「つまり、例の証明問題を解くまで出してくれないってことか。どうする、楽しくフォークダンスとかしてみるか? ――あ、悪い。やっぱ今の無し。想像しただけで蕁麻疹が」
「こちらから願い下げだ。まあダンスはともかく、向こうの望みは証明の式を解かせることだろうが、我々がそれをしないということも理解していると思うのだがね」
つまりは、ここに閉じ込めて終わりではない。強制の為のアクションがあるはずだ。
佐山は振り返ると、手にしている武器を意識した。神鉄如意。悪魔の襲撃を乗り越えた後、ベルガーから譲り受けたものだ。
(さて、ここまでは予想の範疇だが――)
敵の目的ははっきりしている。心の実在を証明させること。これは自分たちが無名の庵に踏み込んでも変化しない筈だ。フリウ・ハリスコーから聞いた情報では、精霊とはそういうものらしい。柔軟な対応とは無縁の存在。逆に言えば、諦めることもそうそうないということだが。
ではそれをさせる為に、敵が何をしてくるのか――これについては、敵が万能過ぎて事前に想定することは難しかった。
(だが解放されていない以上、自分たちはまだ参加者としての権利を失ってはいない筈だ)
参加者としての権利――それは当然、証明に挑むことだ。そしてその前提がある限り、精霊アマワは接触してくる。
(フリウ君の世界に、アマワを滅ぼす方法はなかった。だがカーラ女史曰く、異世界の中にはアマワを滅ぼす手段がいくつか存在するらしい)
時空間を越えて作用する力。意味を無くす力。世界構造を改変する力――
生憎、佐山自身はその力を持っていない。誰かがアマワを退けるまで、どうにかして生き延びるというのが事前に共有していた方針だ。アマワを滅ぼす術を持つ者だけが無名の庵に突入するという案もあったが、これは佐山自身が却下した。他人に全てを委ねるなど、到底許容できない。さらにフリウのお墨付きもあった。精霊アマワと戦うのに、特別な力は不要だと。
(――退けるだけなら、全員に可能性があると。ならば挑まぬのは嘘だろう)
そして、変化は現れた。
「……ドア?」
いつの間にか、訓練室の中央に扉が出現していた。本来なら何もなかったはずの空間に浮かぶようにして、縦長長方形のドアが存在している。この訓練室のスライド式の機械扉とは違う、丸いドアノブを備えたオーソドックスな木製のものだ。
「あれを通れってことか?」
呟きながら、出雲が一歩前に出る。だが扉にたどり着くよりも早く、さらに別の変化が訪れた。
ドアの前に立ち塞がるように、人影が現れる。まるで瞬間移動でもしてきたかのような唐突さ。佐山と出雲、両者とも咄嗟に武器を構えようとして――絶句する。
現れた人影は、大柄な出雲はもとより、佐山と比してもかなり小柄だった。男性か女性か、区別の難しい中性的な容貌。震える手で、こちらに機殻杖(カウリング・ストック)を向けている。
その概念兵器の名前を、二人はよく知っていた。名前だけではない。その特性も威力も知っている。
Ex-St。そしてそれを構えるのは、二人よりもその武装について知り尽くしている――
「……新庄、君?」
その人物の名前を、佐山が呟く。
声に震えが混じっているのは自覚していた。もう二度と会えないと思っていた有り難い人。本気を振るうため、忘却し、振り払ったその造形。
心臓の動きが不規則になる。狭心症の前触れ。克服したはずのそれが、再びやってこようとしている。佐山は脂汗を垂らして、己が胸に手を添えた。
「新庄? いや、あいつは―――俺が埋葬したんだぞ……」
佐山に比べれば、出雲の声はまだ平静を保っていた。
確かに亡骸を埋葬した筈の人物が、目の前に立っている。通常ならば、なんらかのトリックを疑うべきだ。偽物だとか幻影だとか――だが、出雲はふと思う。
自分が埋葬したあの死体が偽物だった可能性もないではない。少なくとも、目の前の新庄・運切は本物にしか見えなかった。
姿形だけではない。敵に向けたくもない武器を向ける時の躊躇いまで、本人のそれと相違ない。少なくとも、出雲から見れば。
「おい、佐山――お前から見てどうよ? あの新庄は本物か?」
「っ……ああ、あれは本物の新庄君だ」
精霊アマワによる似姿を見破ったように、佐山・御言ならば新庄・運切の紛い物など、容易く見抜くことが出来るだろう。それは純然たる事実だ。
「じゃあ……島にいた方が偽物だったってことか?」
「いや……それはない」
余裕無く、最低限の返答を返す。
新庄・運切は確かに失われてしまったはずだ。あの喪失感は錯覚ではない。新庄は死んだ。それもまた確かな事実だった。
死んだはずの人間が、確かに目の前にいる。ならば、それが意味するのは。
「生き返ったってことか?」
「……分からない。だがあれは、紛れもなく――」
「……なるほどな」
出雲は頷くと、G-Sp2を構えた。第一形態。長槍の穂先を敵へと向ける。
「悪いな、佐山。どうやら俺は、お前を殺さなきゃならんらしい」
――隣に立つ佐山・御言の頭に向けて。
「ここは――」
佐山・御言は、一変した周囲の状況を頭の中で整理していく。
移動させられたのか、それとも周囲そのものが変じたのか。どちらにせよ、周囲の光景は、佐山にとって非常に馴染みのあるものになっていた。
UCATの奥多摩支部にある屋内訓練場。概念兵器の使用を前提にした頑強な造りの一室で、佐山もよく使用していた場所だ。概念を用いた空間拡張が施されており、広さは縦横30mほどもあるだろうか。
「もう面倒なので元の世界に戻された――というわけではないようだね」
出入り口となるスライド式の扉。その横に設置されている端末の、緊急用連絡ボタンを押してみるが、何の応答もない。3rdとの交渉以降は、24時間体制で自動人形達が待機している筈なのだが。
「こうも容易く分断されるか。予想していなかったわけでもないが。さて――どう思うかね、出雲?」
「俺が知るかよ」
G-Sp2を肩に担いだ出雲がぼやく。
この部屋にいるのは二人だけのようだった。佐山と出雲。共通点は言わずもがな、同じ世界出身であること。ならば、これはつまり。
「もしや貴様を殺せば外に出られると、そういうことだろうか。すまないが出雲、ちょっと息するのを止めて貰えるかね?」
「おっ、なんだ。てめえの息の根を止めるのを手伝えってお願いか? はい喜んでー」
出雲がG-Sp2を第二形態に変形させ、砲撃した。予想していた佐山が余裕でかわすと、射出された光弾が壁へ命中する。
部屋には概念による防御が施されているが、概念核兵器であるG-Sp2の一撃には耐えられない。当然、壁には大穴が開くが――しばらく待ってみても、誰かがやってくる気配はなかった。
「ふむ。やはりこの世界にいるのは私達だけか。Low-Gに戻ってきたわけではないと」
着弾痕を検分しながら、佐山が呟く。
「察するに、ここはあの島のミニバージョンというところだろうか」
「つまり、例の証明問題を解くまで出してくれないってことか。どうする、楽しくフォークダンスとかしてみるか? ――あ、悪い。やっぱ今の無し。想像しただけで蕁麻疹が」
「こちらから願い下げだ。まあダンスはともかく、向こうの望みは証明の式を解かせることだろうが、我々がそれをしないということも理解していると思うのだがね」
つまりは、ここに閉じ込めて終わりではない。強制の為のアクションがあるはずだ。
佐山は振り返ると、手にしている武器を意識した。神鉄如意。悪魔の襲撃を乗り越えた後、ベルガーから譲り受けたものだ。
(さて、ここまでは予想の範疇だが――)
敵の目的ははっきりしている。心の実在を証明させること。これは自分たちが無名の庵に踏み込んでも変化しない筈だ。フリウ・ハリスコーから聞いた情報では、精霊とはそういうものらしい。柔軟な対応とは無縁の存在。逆に言えば、諦めることもそうそうないということだが。
ではそれをさせる為に、敵が何をしてくるのか――これについては、敵が万能過ぎて事前に想定することは難しかった。
(だが解放されていない以上、自分たちはまだ参加者としての権利を失ってはいない筈だ)
参加者としての権利――それは当然、証明に挑むことだ。そしてその前提がある限り、精霊アマワは接触してくる。
(フリウ君の世界に、アマワを滅ぼす方法はなかった。だがカーラ女史曰く、異世界の中にはアマワを滅ぼす手段がいくつか存在するらしい)
時空間を越えて作用する力。意味を無くす力。世界構造を改変する力――
生憎、佐山自身はその力を持っていない。誰かがアマワを退けるまで、どうにかして生き延びるというのが事前に共有していた方針だ。アマワを滅ぼす術を持つ者だけが無名の庵に突入するという案もあったが、これは佐山自身が却下した。他人に全てを委ねるなど、到底許容できない。さらにフリウのお墨付きもあった。精霊アマワと戦うのに、特別な力は不要だと。
(――退けるだけなら、全員に可能性があると。ならば挑まぬのは嘘だろう)
そして、変化は現れた。
「……ドア?」
いつの間にか、訓練室の中央に扉が出現していた。本来なら何もなかったはずの空間に浮かぶようにして、縦長長方形のドアが存在している。この訓練室のスライド式の機械扉とは違う、丸いドアノブを備えたオーソドックスな木製のものだ。
「あれを通れってことか?」
呟きながら、出雲が一歩前に出る。だが扉にたどり着くよりも早く、さらに別の変化が訪れた。
ドアの前に立ち塞がるように、人影が現れる。まるで瞬間移動でもしてきたかのような唐突さ。佐山と出雲、両者とも咄嗟に武器を構えようとして――絶句する。
現れた人影は、大柄な出雲はもとより、佐山と比してもかなり小柄だった。男性か女性か、区別の難しい中性的な容貌。震える手で、こちらに機殻杖(カウリング・ストック)を向けている。
その概念兵器の名前を、二人はよく知っていた。名前だけではない。その特性も威力も知っている。
Ex-St。そしてそれを構えるのは、二人よりもその武装について知り尽くしている――
「……新庄、君?」
その人物の名前を、佐山が呟く。
声に震えが混じっているのは自覚していた。もう二度と会えないと思っていた有り難い人。本気を振るうため、忘却し、振り払ったその造形。
心臓の動きが不規則になる。狭心症の前触れ。克服したはずのそれが、再びやってこようとしている。佐山は脂汗を垂らして、己が胸に手を添えた。
「新庄? いや、あいつは―――俺が埋葬したんだぞ……」
佐山に比べれば、出雲の声はまだ平静を保っていた。
確かに亡骸を埋葬した筈の人物が、目の前に立っている。通常ならば、なんらかのトリックを疑うべきだ。偽物だとか幻影だとか――だが、出雲はふと思う。
自分が埋葬したあの死体が偽物だった可能性もないではない。少なくとも、目の前の新庄・運切は本物にしか見えなかった。
姿形だけではない。敵に向けたくもない武器を向ける時の躊躇いまで、本人のそれと相違ない。少なくとも、出雲から見れば。
「おい、佐山――お前から見てどうよ? あの新庄は本物か?」
「っ……ああ、あれは本物の新庄君だ」
精霊アマワによる似姿を見破ったように、佐山・御言ならば新庄・運切の紛い物など、容易く見抜くことが出来るだろう。それは純然たる事実だ。
「じゃあ……島にいた方が偽物だったってことか?」
「いや……それはない」
余裕無く、最低限の返答を返す。
新庄・運切は確かに失われてしまったはずだ。あの喪失感は錯覚ではない。新庄は死んだ。それもまた確かな事実だった。
死んだはずの人間が、確かに目の前にいる。ならば、それが意味するのは。
「生き返ったってことか?」
「……分からない。だがあれは、紛れもなく――」
「……なるほどな」
出雲は頷くと、G-Sp2を構えた。第一形態。長槍の穂先を敵へと向ける。
「悪いな、佐山。どうやら俺は、お前を殺さなきゃならんらしい」
――隣に立つ佐山・御言の頭に向けて。
◇◇◇
火乃香と蒼い殺戮者は砂漠の只中にいた。
灼熱の日差し。乾いた空気。鼻腔を満たす砂の匂い――それらは紛れもなく故郷のもの。
「……いや、死ぬ死ぬ」
自動歩兵の巨体が生み出す日陰に隠れながら、火乃香はうめいた。郷愁に浸る暇も無い。砂漠は適切な装備――空調完備の砂上戦車など――がなければ容易く人の命を奪う。
気づけば砂漠のまっただ中だった。蒼い殺戮者が偵察飛行を行ったが、あの島と同じ高度制限と、さらには広さの制限もあるらしい。空間的なループ構造になっているらしく、まっすぐに飛んでいたはずの機体が、何度も火乃香の頭上を通り過ぎていった。
辺りには街どころか、日陰になるようなものもない。砂による日射の照り返しは、着実に火乃香から体力を奪い始めていた。
「拷問かよ。アマワって奴はどこなのさ?」
「上からでは見つからなかった」
常の無感情な声で蒼い殺戮者が返してくる。はあ、とため息を吐いて、火乃香は直立する自動歩兵の脚部の間から、向こう側の景色を覗いた。
「じゃあ、やっぱりあれをくぐるしかないかぁ……」
目線の先にあるのは、一面の砂景色の中、唯一の人工物であるドアだった。砂の上に、不自然に立っている。妙に大きいのは、蒼い殺戮者が通るのを想定しているからだろうか。
「あからさまに罠って感じだけど」
「地雷などの類いは感知できない」
「そりゃーありがたいことで」
皮肉交じりに呟いて、火乃香は立ち上がる。
そして次の瞬間、火乃香と蒼い殺戮者は同時に空を見上げていた。火乃香は額の天宙眼が伝えてきた気の乱れを、蒼い殺戮者はそのセンサーに有り得ざる機影が映ったことで。
陽光を、巨大な影が遮っている。
それは空を泳ぐように飛んでいた。空力を完全に計算した、しかしどこか生物的なフォルム。火乃香はともかく、蒼い殺戮者はそれをよく知っていた。
「――しずくだ」
「は?」
突拍子もない自動歩兵の発言を、しかし火乃香は否定しきれない。
言われてみれば、空を飛んでいるのはしずくの電子偵察機としての身体――本体と呼んだ方がいいだろうか――に似ているように思えた。まじまじと観察したことがあるわけではないので自信は無いが、しずくのバディである蒼い殺戮者が言うなら間違いないだろう。
だが、しずくは死んだはずだ。
「ガワだけ同じで、別の機械知性体を積んでるってこと?」
「いいや、あれはしずくによる制御がなければまともに飛ばない」
確信を込めて、蒼い殺戮者は呟く。フライトシミュレーションを何百時間と一緒に行ったのだ。間違えるはずがない。
「それにあの飛び方は、紛れもなくしずくだ」
二人の頭上を通り過ぎていった電子偵察機SHIZUKUが旋回反転し、再びこちらへ向かってきた。機首を下げたのを見て、着陸しようとしているのだと思った火乃香は、何となく場所を空けようとして、
額の天宙眼が、殺気を捉えた。
「――避けろ!」
叫び、咄嗟に砂の上に身を投げ出す。同時に、SHIZUKUに搭載されている20ミリ機関砲が火を噴いた。鉛玉を撃ち込まれた砂が水のように跳ねる。火線は一瞬前まで火乃香がいたところを正確になぎ払っていた。
火傷しそうなほど熱い砂の上から飛び起きて、火乃香は再び頭上を飛び去っていく機影を睨む。威嚇でも冗談でもない。感知したのは本気の殺意に他ならなかった。
次に視線を蒼い殺戮者に向けると、自動歩兵もまたその場から跳びすさり掃射を回避したらしい。彼に搭載された培養脳は、戦闘においては常に最適の選択をしてきた。
「俺が止める。お前はあの扉へ行け」
その彼が、単独での戦闘を選んだ。その意味を、火乃香は下唇を噛みながら理解する。
自在に空を飛ぶSHIZUKUに対し、今の自分は無力だ。カタナ一本でどうにかなる相手ではない。
「――戦えるの?」
「単純飛行の技量はともかくとして、戦闘時における判断能力は俺の方が上だ」
「そうじゃなくて――相手はしずくなんだろう?」
死んだはずの相棒が銃を向けてくる。そんなシチュエーションに耐えられるのか。
だが火乃香の質問に、蒼い殺戮者は即断を返す。
「逆だ。俺にしか戦えない。機体構造をよく知っている俺なら、最低限の損傷で飛行不能に追い込める」
「……分かった。悪いけど、ここは頼むよ」
そいつの返答に、迷いの無さを見て取って。
蒼い殺戮者が光の剣を起動しながら、轟音と共に飛び立つのを背後に、火乃香は扉へと駆けた。
灼熱の日差し。乾いた空気。鼻腔を満たす砂の匂い――それらは紛れもなく故郷のもの。
「……いや、死ぬ死ぬ」
自動歩兵の巨体が生み出す日陰に隠れながら、火乃香はうめいた。郷愁に浸る暇も無い。砂漠は適切な装備――空調完備の砂上戦車など――がなければ容易く人の命を奪う。
気づけば砂漠のまっただ中だった。蒼い殺戮者が偵察飛行を行ったが、あの島と同じ高度制限と、さらには広さの制限もあるらしい。空間的なループ構造になっているらしく、まっすぐに飛んでいたはずの機体が、何度も火乃香の頭上を通り過ぎていった。
辺りには街どころか、日陰になるようなものもない。砂による日射の照り返しは、着実に火乃香から体力を奪い始めていた。
「拷問かよ。アマワって奴はどこなのさ?」
「上からでは見つからなかった」
常の無感情な声で蒼い殺戮者が返してくる。はあ、とため息を吐いて、火乃香は直立する自動歩兵の脚部の間から、向こう側の景色を覗いた。
「じゃあ、やっぱりあれをくぐるしかないかぁ……」
目線の先にあるのは、一面の砂景色の中、唯一の人工物であるドアだった。砂の上に、不自然に立っている。妙に大きいのは、蒼い殺戮者が通るのを想定しているからだろうか。
「あからさまに罠って感じだけど」
「地雷などの類いは感知できない」
「そりゃーありがたいことで」
皮肉交じりに呟いて、火乃香は立ち上がる。
そして次の瞬間、火乃香と蒼い殺戮者は同時に空を見上げていた。火乃香は額の天宙眼が伝えてきた気の乱れを、蒼い殺戮者はそのセンサーに有り得ざる機影が映ったことで。
陽光を、巨大な影が遮っている。
それは空を泳ぐように飛んでいた。空力を完全に計算した、しかしどこか生物的なフォルム。火乃香はともかく、蒼い殺戮者はそれをよく知っていた。
「――しずくだ」
「は?」
突拍子もない自動歩兵の発言を、しかし火乃香は否定しきれない。
言われてみれば、空を飛んでいるのはしずくの電子偵察機としての身体――本体と呼んだ方がいいだろうか――に似ているように思えた。まじまじと観察したことがあるわけではないので自信は無いが、しずくのバディである蒼い殺戮者が言うなら間違いないだろう。
だが、しずくは死んだはずだ。
「ガワだけ同じで、別の機械知性体を積んでるってこと?」
「いいや、あれはしずくによる制御がなければまともに飛ばない」
確信を込めて、蒼い殺戮者は呟く。フライトシミュレーションを何百時間と一緒に行ったのだ。間違えるはずがない。
「それにあの飛び方は、紛れもなくしずくだ」
二人の頭上を通り過ぎていった電子偵察機SHIZUKUが旋回反転し、再びこちらへ向かってきた。機首を下げたのを見て、着陸しようとしているのだと思った火乃香は、何となく場所を空けようとして、
額の天宙眼が、殺気を捉えた。
「――避けろ!」
叫び、咄嗟に砂の上に身を投げ出す。同時に、SHIZUKUに搭載されている20ミリ機関砲が火を噴いた。鉛玉を撃ち込まれた砂が水のように跳ねる。火線は一瞬前まで火乃香がいたところを正確になぎ払っていた。
火傷しそうなほど熱い砂の上から飛び起きて、火乃香は再び頭上を飛び去っていく機影を睨む。威嚇でも冗談でもない。感知したのは本気の殺意に他ならなかった。
次に視線を蒼い殺戮者に向けると、自動歩兵もまたその場から跳びすさり掃射を回避したらしい。彼に搭載された培養脳は、戦闘においては常に最適の選択をしてきた。
「俺が止める。お前はあの扉へ行け」
その彼が、単独での戦闘を選んだ。その意味を、火乃香は下唇を噛みながら理解する。
自在に空を飛ぶSHIZUKUに対し、今の自分は無力だ。カタナ一本でどうにかなる相手ではない。
「――戦えるの?」
「単純飛行の技量はともかくとして、戦闘時における判断能力は俺の方が上だ」
「そうじゃなくて――相手はしずくなんだろう?」
死んだはずの相棒が銃を向けてくる。そんなシチュエーションに耐えられるのか。
だが火乃香の質問に、蒼い殺戮者は即断を返す。
「逆だ。俺にしか戦えない。機体構造をよく知っている俺なら、最低限の損傷で飛行不能に追い込める」
「……分かった。悪いけど、ここは頼むよ」
そいつの返答に、迷いの無さを見て取って。
蒼い殺戮者が光の剣を起動しながら、轟音と共に飛び立つのを背後に、火乃香は扉へと駆けた。
◇◇◇
「くそっ、こんなの有りかよ」
ヴァーミリオン・CD・ヘイズは、迫り来る黒い触手を必死に回避し続けていた。
巨大なドーム状の、ガラスの天蓋の下。中央訓練場と呼ばれるその広場に、ヘイズは見覚えがあった。シティ・北京によって高度2万メートル以上もの上空に建造された『龍使い』の実験施設だ。
ヘイズの知る限り、ここはニューデリー軍の一斉攻撃によって完全消滅した筈なのだが、今のところ、その辺りを気にしている余裕はなかった。
「おい、やめろ! 降参! 降参するから!」
触手による薙ぎ払いを、スウェーバックで回避しながらヘイズが叫ぶ。ヘイズの首から一ミリだけ隙間を空けて通り過ぎていった黒い鞭のようなそれが、まるで掃除機のコードを巻き取るかのように、持ち主である少女の翼に吸収されていった。
リ・ファンメイ。『龍使い』の魔法士。4人いた実験体の中で、唯一生存した個体。元の世界では、ヘイズと浅からぬ関係があった少女。
神野陰之の力でここに転移させられたのが30秒ほど前。ここがどういう場所なのかをすぐに思い出して、しかし頭の中にある過去の光景との違いを、ヘイズはすぐに発見した。訓練場の中央に、木製の茶色いドアがそれ単体で立っていたのだ。
そして訝しみながらも調べてみようと近づいた時、唐突に出現したのが彼女だった。以降は一方的に襲いかかられ、こうして防戦を強いられている。
「うるさいうるさいうるさーい! そうやって油断させる気なんでしょう!」
「そんなつもりは――」
あどけなさの残るその顔に警戒を滲ませながら、ファンメイが叫び返してくる。ヘイズもまた被せるように否定を繰り出すが、聞く耳持たず、少女は攻撃を続行してきた。背中から生やした蝙蝠のような黒い翼を、強靱な触手に変形させ、正確にヘイズの急所に向けて撃ち出す。
ヘイズはI-ブレインの予測に従ってそれらを危なげなく回避していく。ファンメイの攻撃パターンは完全に解析済みだ。無茶をしなければ、脅威となることはない。
だがそれはつまり、この戦いの結末が既に分かりきっているということでもあった。
『龍使い』は大抵の怪我などすぐに治してしまうし、スタミナも無尽蔵。その特性である『絶対情報防御』は、ヘイズの『破砕の領域』を完全に無効化する。
止めるには、唯一の弱点であるI-ブレインを破壊して殺害するしかない。持久戦でファンメイのI-ブレインに疲労を蓄積させて強制停止を狙うという方法もあるにはあるが、非現実的だ。ヘイズの体力の方が先に尽きる。
(……いや、その前に俺のI-ブレインが止まるか)
あの島における最後の戦いにおいて、美姫に向けて放った『虚無の領域』の疲労は抜けていない。概念解放が行われるまでの短い間に、ムキチの力で多少は回復したが、それでも蓄積疲労は8割越え。左手に握った<内なるナリシア>の補助があっても、そう長くは持たないだろう。
つまるところ、実質的にファンメイを殺害するしか止める方法がないということだ。
ヘイズはジャケットの裏に吊してある、ソーコムピストルの重量を意識する。キノから没収した装備を分配してもらった物だ。自分の演算能力なら、装填されている45口径を敵のI-ブレインに寸分の誤差無く撃ち込める。
(できるかってーの!)
毒づいて、ヘイズはさらに後退した。振り下ろされたファンメイの触手が訓練場の地面を抉り、その底に敷いてあるチタン合金を露わにさせる。
考えろ、とヘイズは己に命じる。それだけが自分の取り柄だ。あとは精々身体を張るくらい。少女ひとりを救う為の、何か都合の良いプランくらい思いついて見せろ。
時間稼ぎの為、触手を回避しながら、手近な物陰に飛び込む。身を隠した後に改めて確認すると、それは訓練場に植えてある大きな桜の木の内の一本だった。
論理回路を刻まれた強化建材ならともかく、ただの生木だ。強度には期待できない。ほんのコンマ数秒、触手の速度を鈍らせることが出来れば上出来だった。
だが、振るわれた触手が桜の木を貫く直前、その動きをぴたりと止める。訝しむヘイズを余所に、無理矢理な制動をかけた反動で、少女は転びそうになっていた。
「卑怯者ー! 出てきなさい! 木が傷つくでしょ!」
何やら非難めいた叫び声が聞こえたが、それは無視して、ヘイズは思いがけず出来た隙に呼吸を整える。
(……偽物、って感じでもねえんだよな)
あのファンメイはどういった存在なのか。自分たちが抵抗も出来ずに連れてこられたことを考えれば、追加で何人か攫ってくることも朝飯前ではあるのだろうが。
(俺のことを知らないってことは……記憶をいじられてるか、あるいは――)
思い出したのは、あの島で最初期からコンビを組んでいたコミクロンと、その同郷であるというキリランシェロだかオーフェンだかという男のことだった。
おそらく、オーフェンはコミクロンから見て未来の人物だ。一方的にコミクロンを知っていたこと、身体や魔術の精度が成長していたこと。それらを踏まえて考えると、この結論が一番しっくりくる。
(このファンメイは、俺と出会う前のファンメイってことか?)
だとすると、手加減は期待できないだろう。最初に出会った時、ファンメイは容赦なく致命傷になる攻撃を放ってきた。実際、今もそんな感じの攻撃を仕掛けてきている。シャオロン達の名前を出すのも逆効果になりかねない。
(それなら――)
思考を言語化できたのはそこまでだった。触手が桜を傷つけないよう、慎重に迂回してヘイズに迫って来ている。
ヘイズはすぐに木の陰から飛び出した。触手の追撃は予測通りこない。ファンメイが触手を引き戻しているのを横目に、訓練場の壁際に設けられた扉へ走る。訓練場の中央に出現している謎のドアではない。この施設に元々備え付けられていた、生活区へと続くチタン合金製の扉だ。
(――さて、こいつは賭けだが)
記憶を頼りに、扉の横に設置されたコンソールに指を走らせる。触手を引き戻し終えたファンメイは、その様子を見て馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「残念でした。その扉のパスワードは私達しか――なんで開くの!?」
賭けに勝った。ヘイズはゆっくりと開いていく扉の向こうに、記憶と同じ景色があることを確認する。
同時に、ファンメイが全速力で突っ込んでくる。こちらが訓練場から抜け出す前に追いつこうというのだろう。
ヘイズは懐から銃を抜くと、躊躇わずファンメイへ向けて発砲した。
「このぉ!」
ファンメイが足を止めて、己のI-ブレインを貫こうとしていた銃弾を翼で防御する。知覚速度を強化できる『龍使い』にとって、単発の拳銃弾などそうそう脅威にはならない。
当然、それをヘイズも知っている。目的は時間稼ぎだ。演算して弾き出した『ファンメイが立ち止まって防御せざるを得ない弾道とタイミング』で銃撃を続けながら、扉の向こうへ下がり、扉を閉めるよう反対側の端末に入力する。
正確に急所を撃ち抜こうとしてくる銃弾を翼で防ぎながら、しかしファンメイはにやりと笑った。扉を閉めたところで、ファンメイは解除コードを知っているのだ。入力する時間は精々数秒。そこから扉が開き始めて、ファンメイの身体がすり抜けられる隙間が出来るまでさらに数秒。合計10秒にも満たない時間で、いったい何が出来るというのか。
扉が閉まりきり、そんなファンメイの笑顔が扉の向こうに消える寸前、ヘイズは指を弾いた。
音は閉じ行く扉の隙間から訓練場側に響き、ファンメイ側にある入力端末を情報解体する。
「……むきぃいいいい――!」
完全に閉じきった扉が強い衝撃に揺れる。向こう側からファンメイが全力で破壊しようとしているのだろう。だが情報解体やゴーストハックを使えない『龍使い』が、単純な腕力で扉を破るまでに1分は掛かる。
ヘイズは弾切れになった銃を投げ捨てながら、生活区画へと走り込んだ。
ヴァーミリオン・CD・ヘイズは、迫り来る黒い触手を必死に回避し続けていた。
巨大なドーム状の、ガラスの天蓋の下。中央訓練場と呼ばれるその広場に、ヘイズは見覚えがあった。シティ・北京によって高度2万メートル以上もの上空に建造された『龍使い』の実験施設だ。
ヘイズの知る限り、ここはニューデリー軍の一斉攻撃によって完全消滅した筈なのだが、今のところ、その辺りを気にしている余裕はなかった。
「おい、やめろ! 降参! 降参するから!」
触手による薙ぎ払いを、スウェーバックで回避しながらヘイズが叫ぶ。ヘイズの首から一ミリだけ隙間を空けて通り過ぎていった黒い鞭のようなそれが、まるで掃除機のコードを巻き取るかのように、持ち主である少女の翼に吸収されていった。
リ・ファンメイ。『龍使い』の魔法士。4人いた実験体の中で、唯一生存した個体。元の世界では、ヘイズと浅からぬ関係があった少女。
神野陰之の力でここに転移させられたのが30秒ほど前。ここがどういう場所なのかをすぐに思い出して、しかし頭の中にある過去の光景との違いを、ヘイズはすぐに発見した。訓練場の中央に、木製の茶色いドアがそれ単体で立っていたのだ。
そして訝しみながらも調べてみようと近づいた時、唐突に出現したのが彼女だった。以降は一方的に襲いかかられ、こうして防戦を強いられている。
「うるさいうるさいうるさーい! そうやって油断させる気なんでしょう!」
「そんなつもりは――」
あどけなさの残るその顔に警戒を滲ませながら、ファンメイが叫び返してくる。ヘイズもまた被せるように否定を繰り出すが、聞く耳持たず、少女は攻撃を続行してきた。背中から生やした蝙蝠のような黒い翼を、強靱な触手に変形させ、正確にヘイズの急所に向けて撃ち出す。
ヘイズはI-ブレインの予測に従ってそれらを危なげなく回避していく。ファンメイの攻撃パターンは完全に解析済みだ。無茶をしなければ、脅威となることはない。
だがそれはつまり、この戦いの結末が既に分かりきっているということでもあった。
『龍使い』は大抵の怪我などすぐに治してしまうし、スタミナも無尽蔵。その特性である『絶対情報防御』は、ヘイズの『破砕の領域』を完全に無効化する。
止めるには、唯一の弱点であるI-ブレインを破壊して殺害するしかない。持久戦でファンメイのI-ブレインに疲労を蓄積させて強制停止を狙うという方法もあるにはあるが、非現実的だ。ヘイズの体力の方が先に尽きる。
(……いや、その前に俺のI-ブレインが止まるか)
あの島における最後の戦いにおいて、美姫に向けて放った『虚無の領域』の疲労は抜けていない。概念解放が行われるまでの短い間に、ムキチの力で多少は回復したが、それでも蓄積疲労は8割越え。左手に握った<内なるナリシア>の補助があっても、そう長くは持たないだろう。
つまるところ、実質的にファンメイを殺害するしか止める方法がないということだ。
ヘイズはジャケットの裏に吊してある、ソーコムピストルの重量を意識する。キノから没収した装備を分配してもらった物だ。自分の演算能力なら、装填されている45口径を敵のI-ブレインに寸分の誤差無く撃ち込める。
(できるかってーの!)
毒づいて、ヘイズはさらに後退した。振り下ろされたファンメイの触手が訓練場の地面を抉り、その底に敷いてあるチタン合金を露わにさせる。
考えろ、とヘイズは己に命じる。それだけが自分の取り柄だ。あとは精々身体を張るくらい。少女ひとりを救う為の、何か都合の良いプランくらい思いついて見せろ。
時間稼ぎの為、触手を回避しながら、手近な物陰に飛び込む。身を隠した後に改めて確認すると、それは訓練場に植えてある大きな桜の木の内の一本だった。
論理回路を刻まれた強化建材ならともかく、ただの生木だ。強度には期待できない。ほんのコンマ数秒、触手の速度を鈍らせることが出来れば上出来だった。
だが、振るわれた触手が桜の木を貫く直前、その動きをぴたりと止める。訝しむヘイズを余所に、無理矢理な制動をかけた反動で、少女は転びそうになっていた。
「卑怯者ー! 出てきなさい! 木が傷つくでしょ!」
何やら非難めいた叫び声が聞こえたが、それは無視して、ヘイズは思いがけず出来た隙に呼吸を整える。
(……偽物、って感じでもねえんだよな)
あのファンメイはどういった存在なのか。自分たちが抵抗も出来ずに連れてこられたことを考えれば、追加で何人か攫ってくることも朝飯前ではあるのだろうが。
(俺のことを知らないってことは……記憶をいじられてるか、あるいは――)
思い出したのは、あの島で最初期からコンビを組んでいたコミクロンと、その同郷であるというキリランシェロだかオーフェンだかという男のことだった。
おそらく、オーフェンはコミクロンから見て未来の人物だ。一方的にコミクロンを知っていたこと、身体や魔術の精度が成長していたこと。それらを踏まえて考えると、この結論が一番しっくりくる。
(このファンメイは、俺と出会う前のファンメイってことか?)
だとすると、手加減は期待できないだろう。最初に出会った時、ファンメイは容赦なく致命傷になる攻撃を放ってきた。実際、今もそんな感じの攻撃を仕掛けてきている。シャオロン達の名前を出すのも逆効果になりかねない。
(それなら――)
思考を言語化できたのはそこまでだった。触手が桜を傷つけないよう、慎重に迂回してヘイズに迫って来ている。
ヘイズはすぐに木の陰から飛び出した。触手の追撃は予測通りこない。ファンメイが触手を引き戻しているのを横目に、訓練場の壁際に設けられた扉へ走る。訓練場の中央に出現している謎のドアではない。この施設に元々備え付けられていた、生活区へと続くチタン合金製の扉だ。
(――さて、こいつは賭けだが)
記憶を頼りに、扉の横に設置されたコンソールに指を走らせる。触手を引き戻し終えたファンメイは、その様子を見て馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「残念でした。その扉のパスワードは私達しか――なんで開くの!?」
賭けに勝った。ヘイズはゆっくりと開いていく扉の向こうに、記憶と同じ景色があることを確認する。
同時に、ファンメイが全速力で突っ込んでくる。こちらが訓練場から抜け出す前に追いつこうというのだろう。
ヘイズは懐から銃を抜くと、躊躇わずファンメイへ向けて発砲した。
「このぉ!」
ファンメイが足を止めて、己のI-ブレインを貫こうとしていた銃弾を翼で防御する。知覚速度を強化できる『龍使い』にとって、単発の拳銃弾などそうそう脅威にはならない。
当然、それをヘイズも知っている。目的は時間稼ぎだ。演算して弾き出した『ファンメイが立ち止まって防御せざるを得ない弾道とタイミング』で銃撃を続けながら、扉の向こうへ下がり、扉を閉めるよう反対側の端末に入力する。
正確に急所を撃ち抜こうとしてくる銃弾を翼で防ぎながら、しかしファンメイはにやりと笑った。扉を閉めたところで、ファンメイは解除コードを知っているのだ。入力する時間は精々数秒。そこから扉が開き始めて、ファンメイの身体がすり抜けられる隙間が出来るまでさらに数秒。合計10秒にも満たない時間で、いったい何が出来るというのか。
扉が閉まりきり、そんなファンメイの笑顔が扉の向こうに消える寸前、ヘイズは指を弾いた。
音は閉じ行く扉の隙間から訓練場側に響き、ファンメイ側にある入力端末を情報解体する。
「……むきぃいいいい――!」
完全に閉じきった扉が強い衝撃に揺れる。向こう側からファンメイが全力で破壊しようとしているのだろう。だが情報解体やゴーストハックを使えない『龍使い』が、単純な腕力で扉を破るまでに1分は掛かる。
ヘイズは弾切れになった銃を投げ捨てながら、生活区画へと走り込んだ。
◇◇◇
「ここはエリダナか?」
周囲を見渡したギギナが呟く。
自分たちの事務所の裏手にある廃材置き場。気づけばそこに立っていた。記憶にある光景と寸分の違いもない。無数の廃車が山のように積まれてており、スクラップの底にいるような息苦しさを感じる。
「だが、戻ってきた訳ではない、か」
静か過ぎる。エリダナ特有のあの喧噪がない。まるで戦術級毒ガス咒式でも炸裂したかのように、その町は静謐だった。
本当にそれに類する殺戮が起きたのか、はたまたここがあの神野とやらが造ったモデルスケールに過ぎないのか――
そのような思考は無意味だろう。ギギナは連結させた屠龍刀ネレトーを引き抜き、片手で保持した。強化されたその耳朶に、この場の静謐さを破る音が聞こえていたのだ。
それは足音だった。音の響きからして男女の二人組。迷いとブレのない歩法は訓練されたもの。
そして、よく聞いた懐かしいもの。
「なるほど――"こういう趣向"か」
獰猛な笑みを浮かべるギギナの目線の先、廃材置き場の入り口に、完全武装のクエロ・ラディーンとガユス・レヴィナ・ソレルが現れていた。
二人の若き攻性咒式がギギナに向けるのは迷いのない殺気。放射される咒力の圧が肌に心地よい。
なぜ、とは問わない。操られている、とも思わない。死人が蘇ったなど、冗談にもならない。
今自分の前に立ち塞がったガユスとクエロは、自分の知っている彼らよりも若かった。
つまりこれは、そういうことなのだ。
「例の証明云々の続きをやれ、とでも言いたいのだろう。ならば良し。存分に議論しようではないか」
眼前の若き攻性咒式士たちが組成式を紡ぐ。応じる様に、ギギナは吼えた。
「……ただし。我らドラッケンの舌は、鋭き鋼で出来ているがな――!」
周囲を見渡したギギナが呟く。
自分たちの事務所の裏手にある廃材置き場。気づけばそこに立っていた。記憶にある光景と寸分の違いもない。無数の廃車が山のように積まれてており、スクラップの底にいるような息苦しさを感じる。
「だが、戻ってきた訳ではない、か」
静か過ぎる。エリダナ特有のあの喧噪がない。まるで戦術級毒ガス咒式でも炸裂したかのように、その町は静謐だった。
本当にそれに類する殺戮が起きたのか、はたまたここがあの神野とやらが造ったモデルスケールに過ぎないのか――
そのような思考は無意味だろう。ギギナは連結させた屠龍刀ネレトーを引き抜き、片手で保持した。強化されたその耳朶に、この場の静謐さを破る音が聞こえていたのだ。
それは足音だった。音の響きからして男女の二人組。迷いとブレのない歩法は訓練されたもの。
そして、よく聞いた懐かしいもの。
「なるほど――"こういう趣向"か」
獰猛な笑みを浮かべるギギナの目線の先、廃材置き場の入り口に、完全武装のクエロ・ラディーンとガユス・レヴィナ・ソレルが現れていた。
二人の若き攻性咒式がギギナに向けるのは迷いのない殺気。放射される咒力の圧が肌に心地よい。
なぜ、とは問わない。操られている、とも思わない。死人が蘇ったなど、冗談にもならない。
今自分の前に立ち塞がったガユスとクエロは、自分の知っている彼らよりも若かった。
つまりこれは、そういうことなのだ。
「例の証明云々の続きをやれ、とでも言いたいのだろう。ならば良し。存分に議論しようではないか」
眼前の若き攻性咒式士たちが組成式を紡ぐ。応じる様に、ギギナは吼えた。
「……ただし。我らドラッケンの舌は、鋭き鋼で出来ているがな――!」
◇◇◇
コミクロンが目を開けた時、目の前にいたのは自分のよく知る人物だった。
明らかに規則違反である腰まで伸びた黒髪。女性にしては長身の部類に入るだろう細身の身体は、だが決して弱々しい印象を受けない。それは彼女が≪塔≫でも屈指のバトル・アスリートとして名高かったからか、それとも単に、何十回も彼女の手で体技室の床に叩きつけられた経験が教えてくれるのだろうか。
ギシリと板張りの床が軋む。音源は自分のすぐ横。そこには彼女の弟であるキリランシェロが立ちすくんでいた。音の原因は彼が重心を移動させたからだろう。それは驚愕からか――あるいは知り合いに会えた安堵からか。
自分はどちらを感じていたのだろう――あるいはそれを確かめるために、コミクロンは無自覚の内に彼女の名を口にしていた。
「ティッシ――」
レティシャ・マクレディ。チャイルドマン教室の年長世代のひとり。死の絶叫と謳われた戦闘芸術品。
唐突に現れた、そんな彼女の愛称をコミクロンは呟いた。正確には、呟きかけた。
その呟きは、彼女の鋭い囁き(キーニング)にかき消されたが。
「光よ!」
瞬時に莫大な光が膨れ上がる。幾度も見た彼女の魔術構成。だが、ここまで強大なものはそうお目に掛かれない。かかったこともない。
その構成が人間の殺害を目的としたものだということに、コミクロンは魔術の効果が終わるまで気づけなかった。
「我は紡ぐ光輪の鎧――!」
殺到する光に応じるが如く展開される力場の盾。
キリランシェロが咄嗟に防御していなければ、永遠に気づかずに済んだ解答を、コミクロンは反撃の構成に魔力を通しながら悟った。
「コンビネーション2-7-5!」
呪文が世界を塗り替える。突き出した掌の先に灯る光球は光の速さで転移し、弾け、発生した電流はレティシャの運動機能を阻害する。
筈、だった。
防御の構成が閃き、球電が無効化される。そんなことは当たり前、何度もこの目でみた光景だ。
閃光が収まると、そこには無傷の彼女が、魔術の余韻に髪を揺らしながら悠然と佇んでいる。それを見て、コミクロンは舌打ちした。
「ティッシの奴、何を――」
「コミクロン」
遮るように、キリランシェロが言葉を張る。
「ティッシの後ろに妙なドアがあるの、分かるか」
言われて、コミクロンは視線を移した。確かに、本来この部屋にはなかった筈のドアが出現している。
見て取った雰囲気を察したのだろう。キリランシェロは視線をレティシャに固定したまま、ぶっきらぼうに言い放った。
「援護する、駆け込め」
「いや、何を言って――まずはティッシに話を」
「気づいてんだろ。さっきのはマジでこっちを殺そうとしてた。まともな彼女だったら、あんな威力は出さない」
「……」
話し合いは無駄だと言外に告げられて――コミクロンは納得するしかなかった。例え怒り狂った状態で魔術を放っても、彼女はきちんと死ぬ寸前にまで威力をセーブできる。
今のは明らかにそんなレベルを超えていた。コミクロンが見たことのない、制御できるギリギリの威力。人を殺すための魔術だ。
だが、とコミクロンは食い下がった。
「だったらなおさら、二人がかりの方が良いんじゃないのか」
「いや」
キリランシェロは、短く否定の言葉を紡いでくる。
「いや――あんたが彼女に本気で魔術を撃ち込めるとは思えない。ひとりで戦った方がましだ」
「そんなことは――」
「我は放つ光の白刃」
唐突に閃く熱衝撃波の構成。展開速度はおそらくチャイルドマンに勝るとも劣らないだろう。キリランシェロが使った魔術は、明らかに学生のレベルを超えていた。
だが防御術に優れたティッシもまた、ギリギリで障壁を編むことに成功していた。黒い壁のような断絶が白き死の奔流を妨げていく。
それを見て、コミクロンは歯噛みする――今の攻防は、どんな言葉よりも彼我の力量差を如実に示していた。
「分かったろ。あんたは足手まとい――」
「キリランシェロ。お前、未来から来ただろ」
キリランシェロが息を呑む。レティシャから目を離すわけにもいかないので、あくまでその気配がしたというだけだが。
「……いつから気づいてた?」
「具体的にいつというのはないが……論理的に考えれば分かるだろ。後輩が俺よりも成長してる理由なんてそれくらいだ」
魔術の余波がおさまっていく。無色の熱波が空間を歪ませているが、それもすぐに消えるだろう。コミクロンは、やや早口になりつつあることを自覚しながらも、言葉を続けた。
「お前に貸しを作られたら、俺はどうやってそれを返せば良い?」
仮に生きて元の世界に戻れたとして、コミクロンの知るキリランシェロは、この島であった出来事を知るまい。逆の場合――成長したキリランシェロの世界にいる自分は、過去の経験として知っている可能性はあるが。
そんな問いに対し、キリランシェロは肩を竦めて何でも無いように言った。
「なんだか俺がここで死ぬ前提みたいな話になってるが……そもそも、あんたがそんなに貸し借りに細かい性格だったことも知らなかったよ」
「お前一人でティッシに勝てるわけないだろ? ハーティアの奴も合わせた三人がかりでも一蹴されてたんだぞ――」
そんな正論を、キリランシェロはうるさそうに手振りで遮った。
「昔の俺にハンバーガーでも奢ってくれよ。ついでにこの殺し合いのことも教えてやれば、次はもっと上手く回るかも知れんぞ」
「……時空警察に捕まらんか?」
「そこまで責任もてねえな」
そんな風に苦笑を浮かべた次の瞬間、キリランシェロは再び目つきを険しくした。レティシャの展開する魔術構成が体技室の空間を満たすように広がり、
「怒りよ!」
「我抱き留めるじゃじゃ馬の舞い!」
空間破砕により歪みを得た空間が、キリランシェロの魔術による逆干渉で緩やかに復元される。余波による衝撃も発生しない。その空白の中を、キリランシェロが駆け抜けていく。レティシャとの間合いを詰めるように。
「行け!」
格闘戦を行っている間は、魔術の行使も難しくなる。レティシャをやり過ごすなら、今が最大の好機だ。
納得したわけではなかったが――しかし、常に諒を得られる保証などない。この島では、特にそうだ。
「……分かった。死ぬなよ、キリランシェロ」
呟いて、コミクロンは不自然に立つドアへと向かった。
明らかに規則違反である腰まで伸びた黒髪。女性にしては長身の部類に入るだろう細身の身体は、だが決して弱々しい印象を受けない。それは彼女が≪塔≫でも屈指のバトル・アスリートとして名高かったからか、それとも単に、何十回も彼女の手で体技室の床に叩きつけられた経験が教えてくれるのだろうか。
ギシリと板張りの床が軋む。音源は自分のすぐ横。そこには彼女の弟であるキリランシェロが立ちすくんでいた。音の原因は彼が重心を移動させたからだろう。それは驚愕からか――あるいは知り合いに会えた安堵からか。
自分はどちらを感じていたのだろう――あるいはそれを確かめるために、コミクロンは無自覚の内に彼女の名を口にしていた。
「ティッシ――」
レティシャ・マクレディ。チャイルドマン教室の年長世代のひとり。死の絶叫と謳われた戦闘芸術品。
唐突に現れた、そんな彼女の愛称をコミクロンは呟いた。正確には、呟きかけた。
その呟きは、彼女の鋭い囁き(キーニング)にかき消されたが。
「光よ!」
瞬時に莫大な光が膨れ上がる。幾度も見た彼女の魔術構成。だが、ここまで強大なものはそうお目に掛かれない。かかったこともない。
その構成が人間の殺害を目的としたものだということに、コミクロンは魔術の効果が終わるまで気づけなかった。
「我は紡ぐ光輪の鎧――!」
殺到する光に応じるが如く展開される力場の盾。
キリランシェロが咄嗟に防御していなければ、永遠に気づかずに済んだ解答を、コミクロンは反撃の構成に魔力を通しながら悟った。
「コンビネーション2-7-5!」
呪文が世界を塗り替える。突き出した掌の先に灯る光球は光の速さで転移し、弾け、発生した電流はレティシャの運動機能を阻害する。
筈、だった。
防御の構成が閃き、球電が無効化される。そんなことは当たり前、何度もこの目でみた光景だ。
閃光が収まると、そこには無傷の彼女が、魔術の余韻に髪を揺らしながら悠然と佇んでいる。それを見て、コミクロンは舌打ちした。
「ティッシの奴、何を――」
「コミクロン」
遮るように、キリランシェロが言葉を張る。
「ティッシの後ろに妙なドアがあるの、分かるか」
言われて、コミクロンは視線を移した。確かに、本来この部屋にはなかった筈のドアが出現している。
見て取った雰囲気を察したのだろう。キリランシェロは視線をレティシャに固定したまま、ぶっきらぼうに言い放った。
「援護する、駆け込め」
「いや、何を言って――まずはティッシに話を」
「気づいてんだろ。さっきのはマジでこっちを殺そうとしてた。まともな彼女だったら、あんな威力は出さない」
「……」
話し合いは無駄だと言外に告げられて――コミクロンは納得するしかなかった。例え怒り狂った状態で魔術を放っても、彼女はきちんと死ぬ寸前にまで威力をセーブできる。
今のは明らかにそんなレベルを超えていた。コミクロンが見たことのない、制御できるギリギリの威力。人を殺すための魔術だ。
だが、とコミクロンは食い下がった。
「だったらなおさら、二人がかりの方が良いんじゃないのか」
「いや」
キリランシェロは、短く否定の言葉を紡いでくる。
「いや――あんたが彼女に本気で魔術を撃ち込めるとは思えない。ひとりで戦った方がましだ」
「そんなことは――」
「我は放つ光の白刃」
唐突に閃く熱衝撃波の構成。展開速度はおそらくチャイルドマンに勝るとも劣らないだろう。キリランシェロが使った魔術は、明らかに学生のレベルを超えていた。
だが防御術に優れたティッシもまた、ギリギリで障壁を編むことに成功していた。黒い壁のような断絶が白き死の奔流を妨げていく。
それを見て、コミクロンは歯噛みする――今の攻防は、どんな言葉よりも彼我の力量差を如実に示していた。
「分かったろ。あんたは足手まとい――」
「キリランシェロ。お前、未来から来ただろ」
キリランシェロが息を呑む。レティシャから目を離すわけにもいかないので、あくまでその気配がしたというだけだが。
「……いつから気づいてた?」
「具体的にいつというのはないが……論理的に考えれば分かるだろ。後輩が俺よりも成長してる理由なんてそれくらいだ」
魔術の余波がおさまっていく。無色の熱波が空間を歪ませているが、それもすぐに消えるだろう。コミクロンは、やや早口になりつつあることを自覚しながらも、言葉を続けた。
「お前に貸しを作られたら、俺はどうやってそれを返せば良い?」
仮に生きて元の世界に戻れたとして、コミクロンの知るキリランシェロは、この島であった出来事を知るまい。逆の場合――成長したキリランシェロの世界にいる自分は、過去の経験として知っている可能性はあるが。
そんな問いに対し、キリランシェロは肩を竦めて何でも無いように言った。
「なんだか俺がここで死ぬ前提みたいな話になってるが……そもそも、あんたがそんなに貸し借りに細かい性格だったことも知らなかったよ」
「お前一人でティッシに勝てるわけないだろ? ハーティアの奴も合わせた三人がかりでも一蹴されてたんだぞ――」
そんな正論を、キリランシェロはうるさそうに手振りで遮った。
「昔の俺にハンバーガーでも奢ってくれよ。ついでにこの殺し合いのことも教えてやれば、次はもっと上手く回るかも知れんぞ」
「……時空警察に捕まらんか?」
「そこまで責任もてねえな」
そんな風に苦笑を浮かべた次の瞬間、キリランシェロは再び目つきを険しくした。レティシャの展開する魔術構成が体技室の空間を満たすように広がり、
「怒りよ!」
「我抱き留めるじゃじゃ馬の舞い!」
空間破砕により歪みを得た空間が、キリランシェロの魔術による逆干渉で緩やかに復元される。余波による衝撃も発生しない。その空白の中を、キリランシェロが駆け抜けていく。レティシャとの間合いを詰めるように。
「行け!」
格闘戦を行っている間は、魔術の行使も難しくなる。レティシャをやり過ごすなら、今が最大の好機だ。
納得したわけではなかったが――しかし、常に諒を得られる保証などない。この島では、特にそうだ。
「……分かった。死ぬなよ、キリランシェロ」
呟いて、コミクロンは不自然に立つドアへと向かった。
◇◇◇
ダウゲ・ベルガーは星空の下、鋼鉄の隔壁を踏みしめていた。
(どこだ、ここ?)
周囲を見回す。広大な敷地。建物の密度はまばらだが、その配置には秩序めいた法則を感じさせる――つまるところ、ここはどこかの軍事基地であるらしい。見覚えがあるような気もするが、時刻は夜。こう暗くては全体を把握するのにも苦労する。
完全に不法侵入だろうが、兵士が怒号を上げながら取り囲んでくるということはなかった。というより、人っ子一人見当たらない。2秒前まで一緒にいた仲間も、神野陰之も。
「おいおい、まさかここに閉じ込めようって腹じゃ――」
そう呟いた、直後。
視界の端、上方に輝きが生まれた。即座に反応して、ベルガーは空を見上げる。
星空に新たな光点が現れている。最初は星のひとつに紛れてしまうほどの光量だった。だが、見る見るうちに光は膨れ上がり、破壊的な圧力を伴い始めた。
同時に、天から声が響き渡る。人工声帯が齎す、掠れた声。
「……――あああああああああああああああああああああ!」
「っ!」
その声に聞き覚えがあったベルガーは、全力で駆けだした。空から降ってくる光――遺伝詞の連鎖崩壊による破滅を回避するために。
轟音と振動が、駆けるベルガーの背を打った。鉄製の足場を滑るようにして衝撃をいなし、振り返る。
げ、とベルガーは思わず呻き声を漏らした。
流星の如く落下してきた光の正体は人だ。それも、ベルガーが良く知る人物だった。
戦闘用ベストを身に着けた軍服姿の男。茶色の総髪が風に揺れている。
手にしている白銀の神形具を見せつけるように掲げて、ベルガーの人生における最強の宿敵が名乗りを上げた。
「――"皇帝剣"参上」
「……アルフレート・マルドリック!」
(どこだ、ここ?)
周囲を見回す。広大な敷地。建物の密度はまばらだが、その配置には秩序めいた法則を感じさせる――つまるところ、ここはどこかの軍事基地であるらしい。見覚えがあるような気もするが、時刻は夜。こう暗くては全体を把握するのにも苦労する。
完全に不法侵入だろうが、兵士が怒号を上げながら取り囲んでくるということはなかった。というより、人っ子一人見当たらない。2秒前まで一緒にいた仲間も、神野陰之も。
「おいおい、まさかここに閉じ込めようって腹じゃ――」
そう呟いた、直後。
視界の端、上方に輝きが生まれた。即座に反応して、ベルガーは空を見上げる。
星空に新たな光点が現れている。最初は星のひとつに紛れてしまうほどの光量だった。だが、見る見るうちに光は膨れ上がり、破壊的な圧力を伴い始めた。
同時に、天から声が響き渡る。人工声帯が齎す、掠れた声。
「……――あああああああああああああああああああああ!」
「っ!」
その声に聞き覚えがあったベルガーは、全力で駆けだした。空から降ってくる光――遺伝詞の連鎖崩壊による破滅を回避するために。
轟音と振動が、駆けるベルガーの背を打った。鉄製の足場を滑るようにして衝撃をいなし、振り返る。
げ、とベルガーは思わず呻き声を漏らした。
流星の如く落下してきた光の正体は人だ。それも、ベルガーが良く知る人物だった。
戦闘用ベストを身に着けた軍服姿の男。茶色の総髪が風に揺れている。
手にしている白銀の神形具を見せつけるように掲げて、ベルガーの人生における最強の宿敵が名乗りを上げた。
「――"皇帝剣"参上」
「……アルフレート・マルドリック!」
◇◇◇
「……なるほど。そういうこと」
左腕に捺された刻印。そこに指先を当てた状態で、カーラが耳を澄ませている。
当然ながら、カーラは刻印の解除装置を作製する際、そこに仕掛けを施していた。管理者が刻印に後付けした、情報の送信機能をジャックできるようにしたのだ。
魂に損傷を与える機能に手を入れることは難しい。刻印の仕組みにある程度通じている者なら、真っ先に安全性を確認する部位だからだ。
それに比べれば、管理者へ情報を送る仕組みについてはやりようがある。もともとこの機能は一定の時間ごとに情報を発信するというものであり、カーラが任意のタイミングで発動しても気づかれにくい。最悪、ばれたとしても『各員の状況をやりとりする為』とでも言えば言い訳は立つ。
把握できるのは生死の状態と音声情報くらいだが、それでも十分なアドバンテージだ。
(それぞれの元の世界での知り合いと遭遇し、戦闘になっている……心の実在を証明させる為の一環ということなのでしょうけど、具体的にどうするのが正解なのかしらね)
受信機能を停止させながら、胸中でひとりごちる。
考えていても仕方ない。自分がいまやるべきは、"英雄"がアマワを倒すまで生き延びることだ。
カーラは改めて自分が飛ばされた場所を見回した。
石畳できれいに舗装された道の両脇を、よく手入れされた銀杏並木が彩っている。やや離れた場所には、場にそぐわぬ異物感を醸し出しているドアが立っていた。
この場所に見覚えはなかったが、戦闘を行うのに問題は無い。足場はしっかりとしており、適度に障害物もある。
(さあ、誰が来るのかしら? どんな英雄が来たところで、この肉体の性能と武器があれば互角以上に戦えるでしょうけど)
"魂砕き"を携えながら、その時を待つ。
やがて、他の参加者たちが遭遇したものと同じ現象が起きる。つまりは、唐突な敵対者の出現。虚空からしみ出すように現れた人影に、カーラは焦点を合わせ――
(……誰?)
それは、カーラの知り合いではなかった。
10代後半と思しき女性。緑を一滴落としたような黒い生地を使った、ワンピースタイプのセーラー服姿。腰まで伸ばした黒髪はその先端まで丁寧に手入れされており、高貴で落ち着いた印象を周囲に与えている。
「――祐巳」
名前を呼ばれて、なるほど、とカーラは胸中で呟いた。他の参加者と同じく、出現したのは知り合いではあるのだ――ただし、カーラではなく福沢祐巳の。
(私が正規の参加者ではないから、ということかしら……ああ、やはりこの娘とごく親しい間柄だったようね)
祐巳の記憶を探り、すぐに相手の情報を見つけ出す。スール、という独特の関係性はすぐには理解できなかったが、とにかく非常に良好な関係性を築いていたということに違いはあるまい。
そして、これは自分にとって都合が良い展開だ――カーラは素直に微笑を表に出した。福沢祐巳の生きる世界は、フォーセリアとは比較にならぬほど平和なのである。特に彼女たちは温室栽培の花ごとく、武力とは無縁の環境で育てられた。これならばたとえ相手がこちらを殺そうとしてきても、時間稼ぎは容易い。
事実、相手は警戒もせずこちらに近づいてくる。体幹がしっかりしているのは武術の訓練を受けたのではなく、単純に教養というやつだろう。スカートのプリーツを乱さないように、白いセーラーカラーを翻さないように、ゆっくりと歩くことを身体に染みつかせている。
相手が間合いに入る前に、カーラはどう対処すべきか検討する。
殺すことは難しくないだろう。だがその後、何が起こるのか――心の実在を証明させるという目的から考えれば、おそらく殺したところで意味は無い。同じ相手が再び現れるか、別の知り合いが出てくるかするだろう。祐巳の知り合いにそうそう手練れの者はいないだろうが、可能なら無害と分かっているこの相手を維持したい。
無視して"ドア"を潜るという手は選択肢になかった。アマワも神野陰之も、例え"魂砕き"があったとて、容易く勝てる相手ではない。一連の現象の詳しい意図は不明だが、先に進んだ場合、アマワや神野と接触する可能性が現状よりも低くなるとは考えづらい。
そうして思考を巡らしている間にも、近づいてきた女生徒がこちらに手を伸ばしてくる。敵意のようなものは感じられないが、首でも絞めようというのか、左右から両手を同時に差し出すような挙動。
判断がつかず、とりあえずカーラはその手を軽く払いのけた。途端、相手の表情に影が落ちる。
「祐巳……怒っているの?」
気丈さの裏に、どこか泣きそうな気配を漂わせた、そんな声。
これは一体どういうことなのかと、カーラは逡巡する。他の場所では、出現したのが知己であっても戦闘に陥ったようだが――
(佐山達の前に現れた相手……新庄という人物とは戦いになっていないようだった。例外のケースもあるということ?)
おずおずと、目の前の人物が再び両手を差し出してくる。おそらくは、こちらを抱きしめようと。
再び払いのけるのは容易いが――カーラはされるがままに任せた。
いま重要なのは、時間を稼ぐこと。ハグのひとつでそれが叶うなら安いものだ。逆に抵抗して、癇癪でも起こされたら、それこそ激高して襲いかかってくる可能性もある。
「ああ、祐巳……」
熱と柔らかい感触が伝わってくる。身長差から、相手の身体で視界が塞がることに、カーラはさして違和感を覚えなかった。まさか相手が狙ってそれをやっているなど、夢にも思わなかったからだ。
そして、相手――小笠原祥子は、銀の短剣をカーラ/福沢祐巳の心臓に突き立てた。
(……は?)
背中に走る、予想外の激痛。思わず胸中で疑問符を漏らしてしまうほどの。
抱きしめて視覚を封じ、隠し持っていたナイフを取り出して、背中側から心臓を刺した。言ってしまえばそれだけのことだが、それを歴戦の魔法戦士でもあるカーラに対して行えたのは、ひとえに小笠原祥子がこの悍ましい島に対しどのように適応したのかという事実を、カーラも祐巳も知ることが出来なかったせいだ。
カーラが、己が乗っ取った肉体の本来の持ち主のことを慮ることなど、ほぼ絶無と言って良い。もしも祐巳の大切な人である『祥子お姉様』の情報を集めていたのなら、あるいはその死に場所を見たことがある出雲・覚辺りから、何か情報を聞くことができたかもしれない。その上で、小笠原祥子が手練れの戦士を含む4名を殺害したという事実に、あるいはその断片にでもたどり着くことが出来たかも知れない。
「ごめんなさい、祐巳――でも、祐巳を助けるためにはこれしか」
矛盾するような文言を口にしながら、祥子がカーラを抱擁から解放した。心臓が役目を果たさなくなり、血が脳に回らなくなるまでに数秒。その数秒で反撃を行うことも出来たが、当然、灰色の魔女はそれを選択しなかった。
確かに予想外の一撃を受けた。この肉体は死ぬだろう。だが問題ない。この肉体が滅ぼうが、サークレットの魔力は不滅だ。次は目の前の『祥子お姉様』の肉体を使えば良い。
(やめて!)
灰色の魔女の企みを察し、これまでほとんど声をあげることのなかった祐巳の精神が悲鳴を上げる。敬愛する紅薔薇を汚されるという悍ましさに、少女はほんの一時だけ全力で抵抗を行ったのだ。
だが、カーラの支配を撥ね除けるほどではない。所詮は平和な世界、平和な国で育った子女に過ぎないのだ。少女の全身全霊の抗いは、肉体の動作をほんの僅か、それこそ刹那の時だけ阻害する程度の効果しか生み出さない。
そしてその一瞬で、小笠原祥子は自らの首をも掻き切った。
「……は?」
湧き上がる疑問符を、今度は胸中で留められなかった。
先ほど祐巳を刺し貫いたのと同じ短剣で、小笠原祥子は躊躇いもせずに己自身の頸動脈に致命的な損傷を与えた。祐巳の抵抗のせいで、制止することも叶わなかった。血液がだくだくと噴き出す。明らかな致命傷だった。
(な――何故? 私のことを知っていたわけでもないでしょうに……)
小笠原祥子が、あの島で何を望んでいたのか――愛しい己の妹の為に、その命をどう使おうとしていたのか、カーラは知らない。
「これで……祐巳は……て……」
血液と共に零れ落ちる、吐息のような小さな囁き。それは自身がやり遂げたことに対する達成感に満ちあふれたものだったが、ふと唐突に、その感情が反転する。
祥子の瞳が焦点を結び、目の前で死に行く福沢祐巳のことを正しく認識する。
「あ……れ……どうし……て、ゆみ……」
祐巳以外の参加者を皆殺しにして、最後のひとりを殺した後、自らも自刃する。
そんな困難な計画を、自分はやりとげた筈なのに――何か、とてつもない間違いをしてしまったという恐怖が、心の底から大量に湧き出した。
紅薔薇が蒼白になり始めているのは、絶望からか、それとも単純に血液を流しすぎたせいか。
だが、散りかけたその薔薇に手を添える者がいた。
「お姉さま……」
動揺したカーラの隙を突いた福沢祐巳が、死ぬまでのほんの数秒だけ、その肉体の支配権を取り戻していた。
今度は祐巳の側から抱擁し、抱き寄せる。食鬼人としての力は、末期に際しても、その動作を可能にさせた。
祐巳も祥子も、流血により、その体温は急激に下がっていた。だが、それでも体温ではない暖かさが両者の間に共有される。
「祐巳……」
眠りにつく前の赤子のような安らかさを浮かべて、二人の乙女は血だまりの中にゆっくりと倒れていった。
地面に転がる際に生まれる、小さな衝撃。祐巳の額から外れたサークレットが転がり、二人の間から遠ざかっていく。
(……失敗したわね)
銀杏並木の端でその動きを止めてから、カーラは自らが選択を誤ったことを自覚した。
正式な参加者である福沢祐巳が死亡した以上、おそらく新たな人間はここに出現しない。つまり自ら動くことの出来ないカーラは、自発的にここから脱出することが不可能だということ。
ここは『無名の庵』だ。ロードスとは違う。偶然に訪れた冒険者が手にしてくれる、などという幸運は起こりえない。
(可能性があるとすれば、アマワを倒した後、誰かが私を回収してくれることだけど――無力になった私に、どれだけの価値を見出すものか)
「――それは難しいだろうね。今の君には、銅貨ほどの価値もないのだから」
闇が嗤う。
気づけば、銀杏並木は消え、そこは暗黒の支配する荒野に変じていた。『無名の庵』の本来の姿。そしてその支配者たる神野陰之が、サークレットを見下ろすようにして佇んでいる。
『神野陰之……何の用かしら?』
サークレットの内に渦巻く思念を当然のように読み取り、神野陰之はその嗤いを深めた。
カーラは警戒を深める。相手は具現化した法則――おそらく、その力は6大神にも引けを取るまい。
だが神野は自分を害せない筈だ。正式な参加者でこそないが、佐山を始めとした参加者との繋がりがある。明確な違反、もしくは逸脱が無い限り、神野陰之はゲームに干渉しない。
そんなカーラの保身を嘲笑うかのように、神野陰之はサークレットを拾い上げた。触れた箇所から伝わってくる底知れぬ闇に、さしものカーラも久しく覚えていなかった恐怖を思い出す。
だが次に神野陰之が紡いだ台詞は、カーラがまったく予期していないものだった。
「君をフォーセリアに帰還させる」
『――なんですって?』
聞き間違いではない。確かに神野陰之はカーラを元の世界に戻すと言った。
異世界に干渉できる存在への対策が佐山任せになってしまう以上、最上とはいえないが、しかし肉体を失った現状を考えれば破格の申し出だ。
ロードスに戻れば、適当な人間を支配することなど容易い。その後は異世界連合が成立すればそれに乗れば良いし、ダメでも再び挑む機会は巡ってくるだろう。
だが、それを行うのが『名付けられた暗黒』であるというのなら、素直に喜ぶことは出来ない。
『親切心で――という訳ではないのでしょうね』
「無論。『私』が行動する理由など、決まっているだろう?」
『……願い?』
神野陰之の、ただひとつの行動原理。願い持たぬ『彼』は、強い願いに惹き寄せられる。
彼がカーラをフォーセリアへ帰還させるというのなら、当然、それを願った者がいるということだ。
『誰がそれを願ったの?』
「……ふむ」
カーラの問いに直接は答えず、神野陰之は常の嗤いを浮かべたまま、小首を傾げて見せた。
「さて、なんと答えるべきか。君に分かりやすく言うならば、フォーセリアの民がそう願ったと、そう答えるべきなのだろうね」
有り得ない。神野陰之の言葉を耳にして、カーラは声に出さずそう断じた。
そもそも自分の存在を知る者はそう多くない。そしてその決して多くない者たちの中で、さらにカーラの不在について知る者は皆無だろう。
『カーラの帰還』という願いが生まれる余地はない。その筈なのだ。
だが同時に、法則である神野陰之が嘘を吐くこともまたあり得ない。
だから。
カーラはその質問を紡いでしまった。かつて同じくこの場所で痛めつけられた、炎髪灼眼の少女のように。
『どうしてそんな願いが生まれたの?』
「それを聞くことが君の願いかね?」
『……ええ』
嗤いを深くして、神野陰之は謳う。
「当然ながら、君の"破滅を回避したい"という真意を知った者たちが自省し、フォーセリアの真なる救世主を呼び戻そうとしている――というわけではない。むしろ、理由としてはその真逆だろう」
サークレットを摘まむ指に、ほんの僅かに力を込めて、神野陰之はその答えを告げた。
「彼らが君の帰還を願った理由――それは君のせいで、フォーセリアが滅んだからだ」
左腕に捺された刻印。そこに指先を当てた状態で、カーラが耳を澄ませている。
当然ながら、カーラは刻印の解除装置を作製する際、そこに仕掛けを施していた。管理者が刻印に後付けした、情報の送信機能をジャックできるようにしたのだ。
魂に損傷を与える機能に手を入れることは難しい。刻印の仕組みにある程度通じている者なら、真っ先に安全性を確認する部位だからだ。
それに比べれば、管理者へ情報を送る仕組みについてはやりようがある。もともとこの機能は一定の時間ごとに情報を発信するというものであり、カーラが任意のタイミングで発動しても気づかれにくい。最悪、ばれたとしても『各員の状況をやりとりする為』とでも言えば言い訳は立つ。
把握できるのは生死の状態と音声情報くらいだが、それでも十分なアドバンテージだ。
(それぞれの元の世界での知り合いと遭遇し、戦闘になっている……心の実在を証明させる為の一環ということなのでしょうけど、具体的にどうするのが正解なのかしらね)
受信機能を停止させながら、胸中でひとりごちる。
考えていても仕方ない。自分がいまやるべきは、"英雄"がアマワを倒すまで生き延びることだ。
カーラは改めて自分が飛ばされた場所を見回した。
石畳できれいに舗装された道の両脇を、よく手入れされた銀杏並木が彩っている。やや離れた場所には、場にそぐわぬ異物感を醸し出しているドアが立っていた。
この場所に見覚えはなかったが、戦闘を行うのに問題は無い。足場はしっかりとしており、適度に障害物もある。
(さあ、誰が来るのかしら? どんな英雄が来たところで、この肉体の性能と武器があれば互角以上に戦えるでしょうけど)
"魂砕き"を携えながら、その時を待つ。
やがて、他の参加者たちが遭遇したものと同じ現象が起きる。つまりは、唐突な敵対者の出現。虚空からしみ出すように現れた人影に、カーラは焦点を合わせ――
(……誰?)
それは、カーラの知り合いではなかった。
10代後半と思しき女性。緑を一滴落としたような黒い生地を使った、ワンピースタイプのセーラー服姿。腰まで伸ばした黒髪はその先端まで丁寧に手入れされており、高貴で落ち着いた印象を周囲に与えている。
「――祐巳」
名前を呼ばれて、なるほど、とカーラは胸中で呟いた。他の参加者と同じく、出現したのは知り合いではあるのだ――ただし、カーラではなく福沢祐巳の。
(私が正規の参加者ではないから、ということかしら……ああ、やはりこの娘とごく親しい間柄だったようね)
祐巳の記憶を探り、すぐに相手の情報を見つけ出す。スール、という独特の関係性はすぐには理解できなかったが、とにかく非常に良好な関係性を築いていたということに違いはあるまい。
そして、これは自分にとって都合が良い展開だ――カーラは素直に微笑を表に出した。福沢祐巳の生きる世界は、フォーセリアとは比較にならぬほど平和なのである。特に彼女たちは温室栽培の花ごとく、武力とは無縁の環境で育てられた。これならばたとえ相手がこちらを殺そうとしてきても、時間稼ぎは容易い。
事実、相手は警戒もせずこちらに近づいてくる。体幹がしっかりしているのは武術の訓練を受けたのではなく、単純に教養というやつだろう。スカートのプリーツを乱さないように、白いセーラーカラーを翻さないように、ゆっくりと歩くことを身体に染みつかせている。
相手が間合いに入る前に、カーラはどう対処すべきか検討する。
殺すことは難しくないだろう。だがその後、何が起こるのか――心の実在を証明させるという目的から考えれば、おそらく殺したところで意味は無い。同じ相手が再び現れるか、別の知り合いが出てくるかするだろう。祐巳の知り合いにそうそう手練れの者はいないだろうが、可能なら無害と分かっているこの相手を維持したい。
無視して"ドア"を潜るという手は選択肢になかった。アマワも神野陰之も、例え"魂砕き"があったとて、容易く勝てる相手ではない。一連の現象の詳しい意図は不明だが、先に進んだ場合、アマワや神野と接触する可能性が現状よりも低くなるとは考えづらい。
そうして思考を巡らしている間にも、近づいてきた女生徒がこちらに手を伸ばしてくる。敵意のようなものは感じられないが、首でも絞めようというのか、左右から両手を同時に差し出すような挙動。
判断がつかず、とりあえずカーラはその手を軽く払いのけた。途端、相手の表情に影が落ちる。
「祐巳……怒っているの?」
気丈さの裏に、どこか泣きそうな気配を漂わせた、そんな声。
これは一体どういうことなのかと、カーラは逡巡する。他の場所では、出現したのが知己であっても戦闘に陥ったようだが――
(佐山達の前に現れた相手……新庄という人物とは戦いになっていないようだった。例外のケースもあるということ?)
おずおずと、目の前の人物が再び両手を差し出してくる。おそらくは、こちらを抱きしめようと。
再び払いのけるのは容易いが――カーラはされるがままに任せた。
いま重要なのは、時間を稼ぐこと。ハグのひとつでそれが叶うなら安いものだ。逆に抵抗して、癇癪でも起こされたら、それこそ激高して襲いかかってくる可能性もある。
「ああ、祐巳……」
熱と柔らかい感触が伝わってくる。身長差から、相手の身体で視界が塞がることに、カーラはさして違和感を覚えなかった。まさか相手が狙ってそれをやっているなど、夢にも思わなかったからだ。
そして、相手――小笠原祥子は、銀の短剣をカーラ/福沢祐巳の心臓に突き立てた。
(……は?)
背中に走る、予想外の激痛。思わず胸中で疑問符を漏らしてしまうほどの。
抱きしめて視覚を封じ、隠し持っていたナイフを取り出して、背中側から心臓を刺した。言ってしまえばそれだけのことだが、それを歴戦の魔法戦士でもあるカーラに対して行えたのは、ひとえに小笠原祥子がこの悍ましい島に対しどのように適応したのかという事実を、カーラも祐巳も知ることが出来なかったせいだ。
カーラが、己が乗っ取った肉体の本来の持ち主のことを慮ることなど、ほぼ絶無と言って良い。もしも祐巳の大切な人である『祥子お姉様』の情報を集めていたのなら、あるいはその死に場所を見たことがある出雲・覚辺りから、何か情報を聞くことができたかもしれない。その上で、小笠原祥子が手練れの戦士を含む4名を殺害したという事実に、あるいはその断片にでもたどり着くことが出来たかも知れない。
「ごめんなさい、祐巳――でも、祐巳を助けるためにはこれしか」
矛盾するような文言を口にしながら、祥子がカーラを抱擁から解放した。心臓が役目を果たさなくなり、血が脳に回らなくなるまでに数秒。その数秒で反撃を行うことも出来たが、当然、灰色の魔女はそれを選択しなかった。
確かに予想外の一撃を受けた。この肉体は死ぬだろう。だが問題ない。この肉体が滅ぼうが、サークレットの魔力は不滅だ。次は目の前の『祥子お姉様』の肉体を使えば良い。
(やめて!)
灰色の魔女の企みを察し、これまでほとんど声をあげることのなかった祐巳の精神が悲鳴を上げる。敬愛する紅薔薇を汚されるという悍ましさに、少女はほんの一時だけ全力で抵抗を行ったのだ。
だが、カーラの支配を撥ね除けるほどではない。所詮は平和な世界、平和な国で育った子女に過ぎないのだ。少女の全身全霊の抗いは、肉体の動作をほんの僅か、それこそ刹那の時だけ阻害する程度の効果しか生み出さない。
そしてその一瞬で、小笠原祥子は自らの首をも掻き切った。
「……は?」
湧き上がる疑問符を、今度は胸中で留められなかった。
先ほど祐巳を刺し貫いたのと同じ短剣で、小笠原祥子は躊躇いもせずに己自身の頸動脈に致命的な損傷を与えた。祐巳の抵抗のせいで、制止することも叶わなかった。血液がだくだくと噴き出す。明らかな致命傷だった。
(な――何故? 私のことを知っていたわけでもないでしょうに……)
小笠原祥子が、あの島で何を望んでいたのか――愛しい己の妹の為に、その命をどう使おうとしていたのか、カーラは知らない。
「これで……祐巳は……て……」
血液と共に零れ落ちる、吐息のような小さな囁き。それは自身がやり遂げたことに対する達成感に満ちあふれたものだったが、ふと唐突に、その感情が反転する。
祥子の瞳が焦点を結び、目の前で死に行く福沢祐巳のことを正しく認識する。
「あ……れ……どうし……て、ゆみ……」
祐巳以外の参加者を皆殺しにして、最後のひとりを殺した後、自らも自刃する。
そんな困難な計画を、自分はやりとげた筈なのに――何か、とてつもない間違いをしてしまったという恐怖が、心の底から大量に湧き出した。
紅薔薇が蒼白になり始めているのは、絶望からか、それとも単純に血液を流しすぎたせいか。
だが、散りかけたその薔薇に手を添える者がいた。
「お姉さま……」
動揺したカーラの隙を突いた福沢祐巳が、死ぬまでのほんの数秒だけ、その肉体の支配権を取り戻していた。
今度は祐巳の側から抱擁し、抱き寄せる。食鬼人としての力は、末期に際しても、その動作を可能にさせた。
祐巳も祥子も、流血により、その体温は急激に下がっていた。だが、それでも体温ではない暖かさが両者の間に共有される。
「祐巳……」
眠りにつく前の赤子のような安らかさを浮かべて、二人の乙女は血だまりの中にゆっくりと倒れていった。
地面に転がる際に生まれる、小さな衝撃。祐巳の額から外れたサークレットが転がり、二人の間から遠ざかっていく。
(……失敗したわね)
銀杏並木の端でその動きを止めてから、カーラは自らが選択を誤ったことを自覚した。
正式な参加者である福沢祐巳が死亡した以上、おそらく新たな人間はここに出現しない。つまり自ら動くことの出来ないカーラは、自発的にここから脱出することが不可能だということ。
ここは『無名の庵』だ。ロードスとは違う。偶然に訪れた冒険者が手にしてくれる、などという幸運は起こりえない。
(可能性があるとすれば、アマワを倒した後、誰かが私を回収してくれることだけど――無力になった私に、どれだけの価値を見出すものか)
「――それは難しいだろうね。今の君には、銅貨ほどの価値もないのだから」
闇が嗤う。
気づけば、銀杏並木は消え、そこは暗黒の支配する荒野に変じていた。『無名の庵』の本来の姿。そしてその支配者たる神野陰之が、サークレットを見下ろすようにして佇んでいる。
『神野陰之……何の用かしら?』
サークレットの内に渦巻く思念を当然のように読み取り、神野陰之はその嗤いを深めた。
カーラは警戒を深める。相手は具現化した法則――おそらく、その力は6大神にも引けを取るまい。
だが神野は自分を害せない筈だ。正式な参加者でこそないが、佐山を始めとした参加者との繋がりがある。明確な違反、もしくは逸脱が無い限り、神野陰之はゲームに干渉しない。
そんなカーラの保身を嘲笑うかのように、神野陰之はサークレットを拾い上げた。触れた箇所から伝わってくる底知れぬ闇に、さしものカーラも久しく覚えていなかった恐怖を思い出す。
だが次に神野陰之が紡いだ台詞は、カーラがまったく予期していないものだった。
「君をフォーセリアに帰還させる」
『――なんですって?』
聞き間違いではない。確かに神野陰之はカーラを元の世界に戻すと言った。
異世界に干渉できる存在への対策が佐山任せになってしまう以上、最上とはいえないが、しかし肉体を失った現状を考えれば破格の申し出だ。
ロードスに戻れば、適当な人間を支配することなど容易い。その後は異世界連合が成立すればそれに乗れば良いし、ダメでも再び挑む機会は巡ってくるだろう。
だが、それを行うのが『名付けられた暗黒』であるというのなら、素直に喜ぶことは出来ない。
『親切心で――という訳ではないのでしょうね』
「無論。『私』が行動する理由など、決まっているだろう?」
『……願い?』
神野陰之の、ただひとつの行動原理。願い持たぬ『彼』は、強い願いに惹き寄せられる。
彼がカーラをフォーセリアへ帰還させるというのなら、当然、それを願った者がいるということだ。
『誰がそれを願ったの?』
「……ふむ」
カーラの問いに直接は答えず、神野陰之は常の嗤いを浮かべたまま、小首を傾げて見せた。
「さて、なんと答えるべきか。君に分かりやすく言うならば、フォーセリアの民がそう願ったと、そう答えるべきなのだろうね」
有り得ない。神野陰之の言葉を耳にして、カーラは声に出さずそう断じた。
そもそも自分の存在を知る者はそう多くない。そしてその決して多くない者たちの中で、さらにカーラの不在について知る者は皆無だろう。
『カーラの帰還』という願いが生まれる余地はない。その筈なのだ。
だが同時に、法則である神野陰之が嘘を吐くこともまたあり得ない。
だから。
カーラはその質問を紡いでしまった。かつて同じくこの場所で痛めつけられた、炎髪灼眼の少女のように。
『どうしてそんな願いが生まれたの?』
「それを聞くことが君の願いかね?」
『……ええ』
嗤いを深くして、神野陰之は謳う。
「当然ながら、君の"破滅を回避したい"という真意を知った者たちが自省し、フォーセリアの真なる救世主を呼び戻そうとしている――というわけではない。むしろ、理由としてはその真逆だろう」
サークレットを摘まむ指に、ほんの僅かに力を込めて、神野陰之はその答えを告げた。
「彼らが君の帰還を願った理由――それは君のせいで、フォーセリアが滅んだからだ」
◇
カーラが犯した最大の過ちが何かといえば、異世界に関する知識を得てしまったことだろう。
本人も自覚していたが、知ってしまえば、彼女はそれに対処せずにはいられない。だが破滅を回避する為、光と闇の勢力に均衡を齎すというだけでも大仕事であるというのに、数多存在する異世界にまでそれと同じことをしようとすれば、遠からず破綻は訪れる。
彼女がその魔術の奥義を用いて『フォーセリア』という世界から飛び出した時。管理者が準備を進める裏舞台に降り立ち、配分前の支給品にそのサークレットを紛れ込ませた際、彼女は自身が知るよりも遙かに多くの異世界から注目されていたのだ。
そしてその中に、禍つ式と呼ばれる者たちが住まう世界があった。
かの世界は崩壊の危機に瀕しており、住人たる彼らは常に移住先の世界を探していたのだ。既に目をつけていた世界もあったのだが、移住計画は上手くいかなかった。移住しようとしていた世界の先住民に抵抗されたということもあるが、最大の理由は越境それ自体の難しさにあった。
情報の側面を持つ彼らは、強大な力を持つ者ほど、物質世界に具現化する難易度が高くなる。必然、越境できるのは低級の禍つ式であり、彼らがさらに強大な大禍つ式(アイオーン)を呼ぼうと暗躍しても、先住民――咒式士達に阻止されてしまうという構造があった。
だが、フォーセリアはどうか?
そこに住む者たちは、禍つ式の存在など誰も知らない。さらに越境の難易度も低かった。これはカーラが強引に世界を渡ったため、世界を隔てる壁に罅のようなものが入ったせいだ。アラストールが『盤上』と『無名の庵』を繋げるに際して行ったのと同じことを、カーラは知らずの内に実行してしまっていたのである。
こうして禍つ式達は、フォーセリアへの侵攻を開始した。カーラの存在に最初に気づいた混沌派の指揮の下、壊れかけた壁の罅を拡張し、男爵級の大禍つ式を越境させることに成功する。
最初に犠牲になったのは、その大禍つ式が実体化した場所にあるザクソンという村だった。村人は一夜のうちに皆殺しにされ、その遺骸と、搾り取られた咒力/魔力をもって、混沌派の禍つ式が次々に越境を果たしていった。
あとはその繰り返しだった。禍つ式たちは付近の村へと散り、そこに住む人々を殺しては贄とし、着々と仲間の数を増やしていった。
無論のこと、その侵攻に対し、フォーセリアの人々が無抵抗だったわけではない。
ザクソンはアラニア王国首都アランからそう遠く離れていない場所にあり、禍つ式から逃げ延びたごく少数の村人たちからの嘆願に、すぐさま斥候を派遣した。
また、ザクソンの北にあるターバは、大地母神マーファを祀るロードス最大の神殿を擁している。マーファから邪悪なる者の降臨を神託として受け取った神官達は、いち早くその報を各地の神殿に伝えて回った。
惜しむらくはフォーセリアの人々にとって、禍つ式という存在が未知のものであったこと。そして何より、世界の壁が罅割れたことにより、通常より何倍も早く番号持ちの大禍つ式たちが越境を果たしていたことだった。
禍つ式の強大さを知っていれば、アラニアは即座に全兵力をザクソンへ差し向けただろう。あるいは相手が形式番号のない禍つ式の数体であれば、後手を踏んだとて殲滅も十分可能だったかもしれない。
だが斥候の生き残りがその強大さを王都に伝えた頃には、すでに戦略級攻性咒式を備える公爵級の大禍つ式までもが召喚されていたのである。
かくしてアランは一夜にして灰燼と帰し、アラニアという国が消えるまでに半月と掛からなかった。
これを受けてロードスに存在するすべての国家は同盟を結び、禍つ式の侵攻に対する共同戦線を張ったが、もはやそれすらも遅きに過ぎた。
侵略の先鋒を任された、大禍つ式の中では最低位である男爵級でさえ、ロードスにおける超一流の戦士たち数名と同時に斬り結べる剣技を持ち、強大な古代魔法さえも大幅に軽減し得る結界を常時展開しており、強固な城壁を一撃で破壊する核融合咒式を連発することが出来る。
そして、最低でもそれだけの力を持った大禍つ式が数百体、さらに番号の無い禍つ式が千体以上。派閥ごとの諍いはあれど、最低限の連携を取りながら襲ってくるのである。
連合軍も、英雄も、冒険者たちも、これに抗う術を持たなかった。
残る希望はただ一つ――最高位の神官による、最後の手段。
コール・ゴッド。その命と引き換えに、ほんの一時だけ神を降ろす御業。
ロードスに住む人々が決定的に追い詰められた時、とある神官がこれを用い、ほんの数分で男爵級6体、子爵級1体、侯爵級2体を消滅させるに至った。
侵略が始まってから初となる大戦果。それはロードスに生きる人々の希望になり――そしてさらなる絶望の呼び水になった。
数日後、我も続くべしとコール・ゴッドを行ったマーファ神官を迎え撃ったのは、番号一桁代の王侯級――フォーセリアの六大神に勝るとも劣らぬ、禍つ式たちの神だったのだ。
神には勝てぬと判断した大禍つ式たちは、即座に自刃し、その身に蓄えた莫大な咒力を束ねて、王侯級の召喚を試みたのである。
それは最後の最後までコール・ゴッドの使用を躊躇った人類と、何よりも効率を是とする情報生命体との違いだった。
かくして六大神の一柱、大地母神マーファは激戦の末に超定理系咒式をもって捕らえられ、人々の前で凌辱された。マーファ神官たちは魔法を失い、己が信仰する神々すら侵略者には敵わぬことを思い知らされた人々は、これ以上立ち向かう意気を失ったのである。
竜や魔神王も、個体として同等の力を持ちながら、組織的な戦略を執る禍つ式の前には敵わず、あるものは討ち死に、あるものは数法系咒式による封印処置などによって対処されていった。
ロードスを落とした禍つ式たちは、ここを拠点にフォーセリア全土へ支配域を伸ばしていき――
本人も自覚していたが、知ってしまえば、彼女はそれに対処せずにはいられない。だが破滅を回避する為、光と闇の勢力に均衡を齎すというだけでも大仕事であるというのに、数多存在する異世界にまでそれと同じことをしようとすれば、遠からず破綻は訪れる。
彼女がその魔術の奥義を用いて『フォーセリア』という世界から飛び出した時。管理者が準備を進める裏舞台に降り立ち、配分前の支給品にそのサークレットを紛れ込ませた際、彼女は自身が知るよりも遙かに多くの異世界から注目されていたのだ。
そしてその中に、禍つ式と呼ばれる者たちが住まう世界があった。
かの世界は崩壊の危機に瀕しており、住人たる彼らは常に移住先の世界を探していたのだ。既に目をつけていた世界もあったのだが、移住計画は上手くいかなかった。移住しようとしていた世界の先住民に抵抗されたということもあるが、最大の理由は越境それ自体の難しさにあった。
情報の側面を持つ彼らは、強大な力を持つ者ほど、物質世界に具現化する難易度が高くなる。必然、越境できるのは低級の禍つ式であり、彼らがさらに強大な大禍つ式(アイオーン)を呼ぼうと暗躍しても、先住民――咒式士達に阻止されてしまうという構造があった。
だが、フォーセリアはどうか?
そこに住む者たちは、禍つ式の存在など誰も知らない。さらに越境の難易度も低かった。これはカーラが強引に世界を渡ったため、世界を隔てる壁に罅のようなものが入ったせいだ。アラストールが『盤上』と『無名の庵』を繋げるに際して行ったのと同じことを、カーラは知らずの内に実行してしまっていたのである。
こうして禍つ式達は、フォーセリアへの侵攻を開始した。カーラの存在に最初に気づいた混沌派の指揮の下、壊れかけた壁の罅を拡張し、男爵級の大禍つ式を越境させることに成功する。
最初に犠牲になったのは、その大禍つ式が実体化した場所にあるザクソンという村だった。村人は一夜のうちに皆殺しにされ、その遺骸と、搾り取られた咒力/魔力をもって、混沌派の禍つ式が次々に越境を果たしていった。
あとはその繰り返しだった。禍つ式たちは付近の村へと散り、そこに住む人々を殺しては贄とし、着々と仲間の数を増やしていった。
無論のこと、その侵攻に対し、フォーセリアの人々が無抵抗だったわけではない。
ザクソンはアラニア王国首都アランからそう遠く離れていない場所にあり、禍つ式から逃げ延びたごく少数の村人たちからの嘆願に、すぐさま斥候を派遣した。
また、ザクソンの北にあるターバは、大地母神マーファを祀るロードス最大の神殿を擁している。マーファから邪悪なる者の降臨を神託として受け取った神官達は、いち早くその報を各地の神殿に伝えて回った。
惜しむらくはフォーセリアの人々にとって、禍つ式という存在が未知のものであったこと。そして何より、世界の壁が罅割れたことにより、通常より何倍も早く番号持ちの大禍つ式たちが越境を果たしていたことだった。
禍つ式の強大さを知っていれば、アラニアは即座に全兵力をザクソンへ差し向けただろう。あるいは相手が形式番号のない禍つ式の数体であれば、後手を踏んだとて殲滅も十分可能だったかもしれない。
だが斥候の生き残りがその強大さを王都に伝えた頃には、すでに戦略級攻性咒式を備える公爵級の大禍つ式までもが召喚されていたのである。
かくしてアランは一夜にして灰燼と帰し、アラニアという国が消えるまでに半月と掛からなかった。
これを受けてロードスに存在するすべての国家は同盟を結び、禍つ式の侵攻に対する共同戦線を張ったが、もはやそれすらも遅きに過ぎた。
侵略の先鋒を任された、大禍つ式の中では最低位である男爵級でさえ、ロードスにおける超一流の戦士たち数名と同時に斬り結べる剣技を持ち、強大な古代魔法さえも大幅に軽減し得る結界を常時展開しており、強固な城壁を一撃で破壊する核融合咒式を連発することが出来る。
そして、最低でもそれだけの力を持った大禍つ式が数百体、さらに番号の無い禍つ式が千体以上。派閥ごとの諍いはあれど、最低限の連携を取りながら襲ってくるのである。
連合軍も、英雄も、冒険者たちも、これに抗う術を持たなかった。
残る希望はただ一つ――最高位の神官による、最後の手段。
コール・ゴッド。その命と引き換えに、ほんの一時だけ神を降ろす御業。
ロードスに住む人々が決定的に追い詰められた時、とある神官がこれを用い、ほんの数分で男爵級6体、子爵級1体、侯爵級2体を消滅させるに至った。
侵略が始まってから初となる大戦果。それはロードスに生きる人々の希望になり――そしてさらなる絶望の呼び水になった。
数日後、我も続くべしとコール・ゴッドを行ったマーファ神官を迎え撃ったのは、番号一桁代の王侯級――フォーセリアの六大神に勝るとも劣らぬ、禍つ式たちの神だったのだ。
神には勝てぬと判断した大禍つ式たちは、即座に自刃し、その身に蓄えた莫大な咒力を束ねて、王侯級の召喚を試みたのである。
それは最後の最後までコール・ゴッドの使用を躊躇った人類と、何よりも効率を是とする情報生命体との違いだった。
かくして六大神の一柱、大地母神マーファは激戦の末に超定理系咒式をもって捕らえられ、人々の前で凌辱された。マーファ神官たちは魔法を失い、己が信仰する神々すら侵略者には敵わぬことを思い知らされた人々は、これ以上立ち向かう意気を失ったのである。
竜や魔神王も、個体として同等の力を持ちながら、組織的な戦略を執る禍つ式の前には敵わず、あるものは討ち死に、あるものは数法系咒式による封印処置などによって対処されていった。
ロードスを落とした禍つ式たちは、ここを拠点にフォーセリア全土へ支配域を伸ばしていき――
◇
『嘘よ!』
激高するカーラの声。だがそこに、どうしようもない怯えが混じっていることに、カーラ自身気付いていた。
神野陰之は嘘をつかない。サークレットに触れた神野陰之の指先から伝わってきたのは、嘘偽りないロードスの、フォーセリアの変遷――否、破局だ。
カーラが知らずの内に破ってしまった堰より殺到した化け物どもが、かつての大破壊を想起させる惨事を引き起こした。
決定的で、取り返しのつかない、滅びを。
『はぁ……はぁ……』
無限に心拍が上がっていくような焦燥。肺に穴が空いてるかのように、いくら酸素を取り入れようとしても満たされない虚脱。肉体を失っているカーラにとって、どちらも錯覚の筈だった。
否。本来なら、そんな錯覚さえ覚えることはない筈なのだ。
『私が……私がフォーセリアを発って、まだ数日の筈……』
「いいや、君があの世界を飛び出してから、すでに数年が経過している――世界を飛び越えるとは"そういうこと"なのだよ」
4次元すら内包する世界という存在を、無理矢理に越境したのだ。時の正確性など、誰が保証してくれるというのか。
「だから死神も言っていただろう? 君は既に、世界の敵となり得ないと」
『あ――』
ブギーポップの言葉の真意。フォーセリアの為ならば他の世界を滅ぼすことも厭わないカーラが、世界の敵でなくなったという理由。
それはつまり、カーラの動機そのものが消えてしまっていたから。
いや――より正確に言えば、
「世界の停滞を望む君は、死神の基準から見ても世界の敵であっただろう。だが、君が停滞させようとしていた世界は滅びてしまった。君が敵となる世界は、もう存在しない」
『あ――ああ――ああああ』
「とはいえ、美姫と破壊精霊が消滅させたあの箱庭とは異なり、フォーセリアという器それ自体が消えたわけではない。大禍つ式の秩序派は移住の主導権こそ握れなかったが、彼らは先住民に敬意を払い、完全な絶滅を唱えた混沌派を抑えに回った」
絶望に落ちようとしていたカーラの精神を、神野陰之の言葉が引き留める。
先住民。絶滅を抑えに回った。
それは、つまり――
『まだ……まだ、生き残りが――?』
そうだ。神野陰之は人間の願いしか叶えない。
カーラの帰還を望む者がいるというのなら、それは人間である筈なのだ。
ならばまだ逆転の目はある。かつて勢力が極端に偏った状態からでも、虐げられていた蛮族たちは立ち上がり、逆転してみせたのだ。
やれる。自分が戻れば、その手助けが出来る。ここに至るまでに、大量の異世界の知識を手に入れた。それを利用すれば、大禍つ式すら駆逐できる魔法すら生み出せるだろう。なんなら、佐山に頭を下げても――
「そう、人類は生き残っている」
――神野陰之が、嗤いながら頷く。
「秩序派が運営する人間牧場で、種を保存することだけを目的にごく少数がね。抵抗の目を削ぐため、遺伝子に手を入れられ、魔力に干渉できなくなるよう改造されてはいるが」
それはつまり、カーラが蓄えてきた深遠なる魔法の知識が、全て役立たずに成り果てたことを意味していた。
ぱきり、と。
己の内で何かが砕ける音を、確かにカーラは聞いた。
『そんな――そんな生き方、意味なんて――』
「おや、酷なことを。君の帰還を望んだのは、そこにいる"彼ら"だというのに」
『だから、それは何故なの!』
「君がフォーセリアを後にして"まだ"数年だ。当然、そこにいる彼らは幸福の味を覚えている。故に、それを奪った"元凶"を求めたのだよ」
人柱。槍玉。サンドバッグ。
祖先から受け継いだ世界を守れなかった悔恨。自分たちの子孫に明るい未来を残してやれなかった無念。それをぶつける為の、分かりやすい標的――それがカーラに求められた役割だった。
思い返すのは、かつての大破壊。カーラのその心を頑なにすることになった切っ掛け。ある意味でトラウマといっていいようなその混沌の坩堝。
それでも前回、カーラはある意味で"当事者"ではなかった。反乱が起こる前、蛮族に対してカーラは偏見を抱かず、平等に接していた。
だからあの時は、自分に責任があるわけではなかった。もしもカーラが他の者と同じく蛮族を虐げていたのなら、今のような俯瞰的な視点を持つことはなかっただろう。蛮族を恨んだか、あるいは己の行為を反省していたかも知れない。
だが、今回はあの時と同じ、いやそれ以上の大惨事に、当事者として叩き込まれると――?
カーラは唐突に、神野陰之の人差し指と親指で摘まみ上げられている現状を意識した。たった二本の指。酷く頼りなく感じるそれが、だんだんと指先に込める力を弱めているように感じる。
『いや……やめて……』
「残念ながら、その願いはフォーセリアの民の願いと競合している」
そう言って、闇は嗤い――
「故に、『私』はより強い願いを優先しよう」
『やめてええええええ!』
――指を、離した。
激高するカーラの声。だがそこに、どうしようもない怯えが混じっていることに、カーラ自身気付いていた。
神野陰之は嘘をつかない。サークレットに触れた神野陰之の指先から伝わってきたのは、嘘偽りないロードスの、フォーセリアの変遷――否、破局だ。
カーラが知らずの内に破ってしまった堰より殺到した化け物どもが、かつての大破壊を想起させる惨事を引き起こした。
決定的で、取り返しのつかない、滅びを。
『はぁ……はぁ……』
無限に心拍が上がっていくような焦燥。肺に穴が空いてるかのように、いくら酸素を取り入れようとしても満たされない虚脱。肉体を失っているカーラにとって、どちらも錯覚の筈だった。
否。本来なら、そんな錯覚さえ覚えることはない筈なのだ。
『私が……私がフォーセリアを発って、まだ数日の筈……』
「いいや、君があの世界を飛び出してから、すでに数年が経過している――世界を飛び越えるとは"そういうこと"なのだよ」
4次元すら内包する世界という存在を、無理矢理に越境したのだ。時の正確性など、誰が保証してくれるというのか。
「だから死神も言っていただろう? 君は既に、世界の敵となり得ないと」
『あ――』
ブギーポップの言葉の真意。フォーセリアの為ならば他の世界を滅ぼすことも厭わないカーラが、世界の敵でなくなったという理由。
それはつまり、カーラの動機そのものが消えてしまっていたから。
いや――より正確に言えば、
「世界の停滞を望む君は、死神の基準から見ても世界の敵であっただろう。だが、君が停滞させようとしていた世界は滅びてしまった。君が敵となる世界は、もう存在しない」
『あ――ああ――ああああ』
「とはいえ、美姫と破壊精霊が消滅させたあの箱庭とは異なり、フォーセリアという器それ自体が消えたわけではない。大禍つ式の秩序派は移住の主導権こそ握れなかったが、彼らは先住民に敬意を払い、完全な絶滅を唱えた混沌派を抑えに回った」
絶望に落ちようとしていたカーラの精神を、神野陰之の言葉が引き留める。
先住民。絶滅を抑えに回った。
それは、つまり――
『まだ……まだ、生き残りが――?』
そうだ。神野陰之は人間の願いしか叶えない。
カーラの帰還を望む者がいるというのなら、それは人間である筈なのだ。
ならばまだ逆転の目はある。かつて勢力が極端に偏った状態からでも、虐げられていた蛮族たちは立ち上がり、逆転してみせたのだ。
やれる。自分が戻れば、その手助けが出来る。ここに至るまでに、大量の異世界の知識を手に入れた。それを利用すれば、大禍つ式すら駆逐できる魔法すら生み出せるだろう。なんなら、佐山に頭を下げても――
「そう、人類は生き残っている」
――神野陰之が、嗤いながら頷く。
「秩序派が運営する人間牧場で、種を保存することだけを目的にごく少数がね。抵抗の目を削ぐため、遺伝子に手を入れられ、魔力に干渉できなくなるよう改造されてはいるが」
それはつまり、カーラが蓄えてきた深遠なる魔法の知識が、全て役立たずに成り果てたことを意味していた。
ぱきり、と。
己の内で何かが砕ける音を、確かにカーラは聞いた。
『そんな――そんな生き方、意味なんて――』
「おや、酷なことを。君の帰還を望んだのは、そこにいる"彼ら"だというのに」
『だから、それは何故なの!』
「君がフォーセリアを後にして"まだ"数年だ。当然、そこにいる彼らは幸福の味を覚えている。故に、それを奪った"元凶"を求めたのだよ」
人柱。槍玉。サンドバッグ。
祖先から受け継いだ世界を守れなかった悔恨。自分たちの子孫に明るい未来を残してやれなかった無念。それをぶつける為の、分かりやすい標的――それがカーラに求められた役割だった。
思い返すのは、かつての大破壊。カーラのその心を頑なにすることになった切っ掛け。ある意味でトラウマといっていいようなその混沌の坩堝。
それでも前回、カーラはある意味で"当事者"ではなかった。反乱が起こる前、蛮族に対してカーラは偏見を抱かず、平等に接していた。
だからあの時は、自分に責任があるわけではなかった。もしもカーラが他の者と同じく蛮族を虐げていたのなら、今のような俯瞰的な視点を持つことはなかっただろう。蛮族を恨んだか、あるいは己の行為を反省していたかも知れない。
だが、今回はあの時と同じ、いやそれ以上の大惨事に、当事者として叩き込まれると――?
カーラは唐突に、神野陰之の人差し指と親指で摘まみ上げられている現状を意識した。たった二本の指。酷く頼りなく感じるそれが、だんだんと指先に込める力を弱めているように感じる。
『いや……やめて……』
「残念ながら、その願いはフォーセリアの民の願いと競合している」
そう言って、闇は嗤い――
「故に、『私』はより強い願いを優先しよう」
『やめてええええええ!』
――指を、離した。
【非参加者 カーラ フォーセリアへ帰還】
◇◇◇
二人がその部屋に踏み込んだのは、全くの同時だった。
「コミクロン?」
「火乃香?」
互いの名を呼び合ってから、周囲を確認する。
扉を潜った先は、アラストールの炎を潜って最初にたどり着いた、あの空間に似ていた。壁と床の境も分からないような、一面の白。背後を振り返れば、潜ってきた筈のドアも消えている。
唯一あの場所と違うのは、新しいドアがひとつ、二人の横手に設置されていることだった。
「ええい、扉を潜ったらまた扉か。どうなっている」
「あんたも扉を潜ってここに来たの?」
忌々しそうにドアを睨むコミクロンに、火乃香が尋ねる。
「ああ、≪塔≫の体技室の中に、見覚えのない扉があってな。そっちもか?」
「うん。こっちは砂の上に浮いてたよ。それで、しずくが……」
「しずく? しずくは確か放送で呼ばれただろう?」
何となくの勘で安全そうだと断じていたコミクロンは、特に知り合いでも無いしずくのことを覚えていた。火乃香の知り合いだったと聞いた時には驚いたものだ。
「でも、居たんだ。しかも、あたし達に攻撃してきて……」
「あの人造人間様が残った訳か。こっちも似たような事情だが……いや、ティッシは別に死んでないか」
「人造人間様て」
火乃香は突っ込もうとして、そんな場合でもないかと言葉を飲み込んだ。この変人は、出会った時から妙に蒼い殺戮者のことを気に入っている。
それよりも今は、状況の把握に努めるべきだ。
「お互い元の世界での知り合いが出てきて、襲ってきたってこと?」
「そうなるな。戦力分散をするべきでは無かったかもしれんが……まあ、足手まといと言われてはな」
「こっちも似たようなもんだよ。しずくは空飛んでたし」
そこまで話して、火乃香は横手の扉を見やった。新たに誰かが入ってくる様子は無い。出身の世界ごとに分断されたというのなら、佐山と出雲は一緒に居たはずだが。
「で、どうするべきだと思う? この扉を潜る?」
「俺たちが入ってきた扉が消えたことを考えれば、たぶん次の部屋に移動できるのはひとりだけだろうな」
そもそも、とコミクロンは続けた。
「この一連の流れは何の意味があるんだ? 分断したいなら最初からそうすればいいだろうに」
「……多分、私達が自分でそれを選んだって体を取らせたいんだと思う。フリウが言ってたでしょ? アマワはひとりにしか問いかけないって」
「前にそれを指摘されたから、今度は俺たちの選択の結果だってことにしたいわけか。卑劣だな。卑劣精霊と名付けよう」
そんな愚にもつかないことを宣いながら、コミクロンはどさりと背負っていたバックパックを床に置いた。自由になった肩を回しながら、扉を指し示す。
「で、どうする? ひとりに問いかける形にしたいなら、たぶんここに居ても出てこないだろ。他の連中も追いついてこないみたいだし、当初の予定を果たすには、俺かお前、どっちかがこの扉を潜ってアマワを倒す必要があるわけだが」
おそらくアマワが接触するのは、単独になることを"選んだ"方だろう。つまりはこの扉を潜った者の元に、アマワは現れる。
「……あたしが行くよ。"気"を乗せた攻撃なら通じるって、あのカーラって奴が言ってたし」
「俺の魔術は通じるか分からんしな……分かった。ここは大人しく暴力担当に任せよう」
コミクロンはバックパックから水を取り出して火乃香に投げ渡した。無名の庵に突入する際、ほとんどのメンバーは必要最低限の装備のみを携帯するに留めたのだが、医療係としての役割を持っていたコミクロンだけは、傷の洗浄に使う為の水やその他物資を持ち運んでいたのだ。
数分とは言え、砂漠の日差しに身を晒すことになった火乃香は渇きを覚えていた。受け取って、手早くキャップを捻る。
「ありがと」
「これが俺の役割だからな……怪我はしてないか?」
「うん。万全」
「……死ぬなよ。死んでさえいなければ、俺の魔術で何とかする」
「あんたこそね。多分この部屋も安全地帯ってわけじゃないでしょ。前の部屋みたいに、知り合いが出てきて襲ってきても大丈夫?」
「ああ、魔術の撃ち合いは防御側が有利だからな。どうにでもなるさ」
コミクロンは気軽に手を振ってそう答えた。嘘では無いが、それこそ先ほど現れたレティシャのような隔絶した実力者相手には心許ない法則だ。
(だけどまあ……別にいま言うことでもないしな。知り合いか。レティシャじゃなくて、ハーティア辺りが出てくればまだ――)
と、そこまで考えて。
「……」
「コミクロン?」
「ん? ああ、なんでもない」
思いついた考えを、コミクロンは口にしなかった。火乃香相手に口にしても、意味は無かったからだ。
これはあくまで、個人的な問題なのだ。
それでも怪訝な表情を浮かべる火乃香に、コミクロンは再び拾い上げたバックパックを揺らして示した。
「色々と物資も持ってきたからな。格上が出てきても何とかなるさ。そんなに心配なら、さっさとアマワとやらを倒してきてくれ」
「……そうだね。ヘイズや他のみんなも心配だし、早く終わらせるにこしたことはないか」
火乃香は空になったペットボトルを投げ捨てると、ドアノブに手を掛けた。最後に一度振り返って、この島で共に戦った戦友の顔をしっかりと目に焼き付ける。
「じゃあ、またね、コミクロン」
「ああ、死ぬなよ、火乃香」
そして、少女が扉の向こうに消える。
予想通り、ドアは煙のように消失した。それを見届けると、コミクロンもバックパックから飲料を取り出し、一息に飲み干す。
少しだけ咽せてから、口元を拭い、目を閉じる。精神集中――キリランシェロのような専門の訓練は受けていないが、もとより魔術士には必須の技能だ。
必要なものを思い描いて、待つ。
やがて背後に現れた気配に、魔術の構成を展開しながらコミクロンは振り返った。
現れたその人影に対し、笑いかける。
「よう、久しぶりだな――」
しかし、その言葉が末尾を結ぶよりも早く。
コミクロンの心臓に、深々と短剣が突き刺さった。
「コミクロン?」
「火乃香?」
互いの名を呼び合ってから、周囲を確認する。
扉を潜った先は、アラストールの炎を潜って最初にたどり着いた、あの空間に似ていた。壁と床の境も分からないような、一面の白。背後を振り返れば、潜ってきた筈のドアも消えている。
唯一あの場所と違うのは、新しいドアがひとつ、二人の横手に設置されていることだった。
「ええい、扉を潜ったらまた扉か。どうなっている」
「あんたも扉を潜ってここに来たの?」
忌々しそうにドアを睨むコミクロンに、火乃香が尋ねる。
「ああ、≪塔≫の体技室の中に、見覚えのない扉があってな。そっちもか?」
「うん。こっちは砂の上に浮いてたよ。それで、しずくが……」
「しずく? しずくは確か放送で呼ばれただろう?」
何となくの勘で安全そうだと断じていたコミクロンは、特に知り合いでも無いしずくのことを覚えていた。火乃香の知り合いだったと聞いた時には驚いたものだ。
「でも、居たんだ。しかも、あたし達に攻撃してきて……」
「あの人造人間様が残った訳か。こっちも似たような事情だが……いや、ティッシは別に死んでないか」
「人造人間様て」
火乃香は突っ込もうとして、そんな場合でもないかと言葉を飲み込んだ。この変人は、出会った時から妙に蒼い殺戮者のことを気に入っている。
それよりも今は、状況の把握に努めるべきだ。
「お互い元の世界での知り合いが出てきて、襲ってきたってこと?」
「そうなるな。戦力分散をするべきでは無かったかもしれんが……まあ、足手まといと言われてはな」
「こっちも似たようなもんだよ。しずくは空飛んでたし」
そこまで話して、火乃香は横手の扉を見やった。新たに誰かが入ってくる様子は無い。出身の世界ごとに分断されたというのなら、佐山と出雲は一緒に居たはずだが。
「で、どうするべきだと思う? この扉を潜る?」
「俺たちが入ってきた扉が消えたことを考えれば、たぶん次の部屋に移動できるのはひとりだけだろうな」
そもそも、とコミクロンは続けた。
「この一連の流れは何の意味があるんだ? 分断したいなら最初からそうすればいいだろうに」
「……多分、私達が自分でそれを選んだって体を取らせたいんだと思う。フリウが言ってたでしょ? アマワはひとりにしか問いかけないって」
「前にそれを指摘されたから、今度は俺たちの選択の結果だってことにしたいわけか。卑劣だな。卑劣精霊と名付けよう」
そんな愚にもつかないことを宣いながら、コミクロンはどさりと背負っていたバックパックを床に置いた。自由になった肩を回しながら、扉を指し示す。
「で、どうする? ひとりに問いかける形にしたいなら、たぶんここに居ても出てこないだろ。他の連中も追いついてこないみたいだし、当初の予定を果たすには、俺かお前、どっちかがこの扉を潜ってアマワを倒す必要があるわけだが」
おそらくアマワが接触するのは、単独になることを"選んだ"方だろう。つまりはこの扉を潜った者の元に、アマワは現れる。
「……あたしが行くよ。"気"を乗せた攻撃なら通じるって、あのカーラって奴が言ってたし」
「俺の魔術は通じるか分からんしな……分かった。ここは大人しく暴力担当に任せよう」
コミクロンはバックパックから水を取り出して火乃香に投げ渡した。無名の庵に突入する際、ほとんどのメンバーは必要最低限の装備のみを携帯するに留めたのだが、医療係としての役割を持っていたコミクロンだけは、傷の洗浄に使う為の水やその他物資を持ち運んでいたのだ。
数分とは言え、砂漠の日差しに身を晒すことになった火乃香は渇きを覚えていた。受け取って、手早くキャップを捻る。
「ありがと」
「これが俺の役割だからな……怪我はしてないか?」
「うん。万全」
「……死ぬなよ。死んでさえいなければ、俺の魔術で何とかする」
「あんたこそね。多分この部屋も安全地帯ってわけじゃないでしょ。前の部屋みたいに、知り合いが出てきて襲ってきても大丈夫?」
「ああ、魔術の撃ち合いは防御側が有利だからな。どうにでもなるさ」
コミクロンは気軽に手を振ってそう答えた。嘘では無いが、それこそ先ほど現れたレティシャのような隔絶した実力者相手には心許ない法則だ。
(だけどまあ……別にいま言うことでもないしな。知り合いか。レティシャじゃなくて、ハーティア辺りが出てくればまだ――)
と、そこまで考えて。
「……」
「コミクロン?」
「ん? ああ、なんでもない」
思いついた考えを、コミクロンは口にしなかった。火乃香相手に口にしても、意味は無かったからだ。
これはあくまで、個人的な問題なのだ。
それでも怪訝な表情を浮かべる火乃香に、コミクロンは再び拾い上げたバックパックを揺らして示した。
「色々と物資も持ってきたからな。格上が出てきても何とかなるさ。そんなに心配なら、さっさとアマワとやらを倒してきてくれ」
「……そうだね。ヘイズや他のみんなも心配だし、早く終わらせるにこしたことはないか」
火乃香は空になったペットボトルを投げ捨てると、ドアノブに手を掛けた。最後に一度振り返って、この島で共に戦った戦友の顔をしっかりと目に焼き付ける。
「じゃあ、またね、コミクロン」
「ああ、死ぬなよ、火乃香」
そして、少女が扉の向こうに消える。
予想通り、ドアは煙のように消失した。それを見届けると、コミクロンもバックパックから飲料を取り出し、一息に飲み干す。
少しだけ咽せてから、口元を拭い、目を閉じる。精神集中――キリランシェロのような専門の訓練は受けていないが、もとより魔術士には必須の技能だ。
必要なものを思い描いて、待つ。
やがて背後に現れた気配に、魔術の構成を展開しながらコミクロンは振り返った。
現れたその人影に対し、笑いかける。
「よう、久しぶりだな――」
しかし、その言葉が末尾を結ぶよりも早く。
コミクロンの心臓に、深々と短剣が突き刺さった。
◇◇◇
底知れぬ冷たさを孕んだ風が、火乃香の肌を撫でた。
単に気温が低いというだけではない。その風は硝化していた。心なき冷たい風。無機なる終末を予感させる、そんな風だ。
コミクロンと別れ、ドアを通り抜けた後。水溶ける場所と呼ばれるその空間に、火乃香は立っていた。本来、専用の装備が無ければ、身じろぎせずとも10分と持たない硝化した世界。精霊の故郷。
だが、火乃香が一歩を踏み出しても、硝化の刃によって彼女のブーツの底が裂けるということは無かった。硝化した空気が、彼女から致命のレベルで体温を奪うということもない。
見せかけだけか――? 否、そうではない。回答する者の存続は許されている。ただそれだけのことに過ぎない。
「出てきなよ、アマワ。どうせ見てるんだろう」
「隠れていたつもりもない。君が見ていなかっただけだ――回答者よ」
火乃香の眼前、ほんの数メートル先に佇んでいたそれが、男とも女とも区別し難い声を発する。
未来精霊アマワ。実在を冒涜するような、茫洋とした人型。
それを、火乃香の居合いが両断する。
気を纏った一撃。その肉体と魂に宿っていた刻印は解除され、舞台による制限も脱した今、彼女は本来の力を取り戻していた。
異世界の知識を得た灰色の魔女が、必滅を約束した一撃。
「最初に告げておこう」
だが、アマワの声は消えない。
「単純な暴力は意味を成さない。例え君の一撃が時空間を飛び越えるものであったとしても、御遣いとの契約が私を守るからだ」
声は火乃香の背後から。
ゆっくりと振り返る少女の瞳に、再びゆらぐ精霊の姿が映る。
「君もまた、その契約に守られているからこそ、ここに立っている。君は新たな契約者に選ばれた。契約者、火乃香よ」
「そんな契約を交わした覚えは無いんだけど」
「君は最新の契約者ではあるが、新たな契約が結ばれたわけではない。フリウ・ハリスコーの契約を相続したのだ」
「フリウの……?」
その言葉に、一抹の怖気を感じる。
「フリウ・ハリスコーは死んだ。姫と呼ばれる吸血鬼を破壊するために舞台に残り、結果として相打ちとなった」
嘘ではないと、火乃香は直感した。フリウが黙って別行動した理由は、きっとその類のものであると予想していたからだ。
(フリウ……)
パイフウの仇。多くの被害を出した殺人者。
あるいは、友人になれるかも知れなかった少女の名前。それを刻み込むように、胸中でそっと呟く。
「君と彼女の間に血縁はないが、彼女は君に、私を討伐することを望み、託した。君は自らの意思で扉を開き、私との邂逅を望んだ。故に、君はこの場に立つことを許されている。契約者として」
「心の実在を証明せよ、だっけ?」
「その通り。その疑問から我々は生じた――この辺りは、既にフリウ・ハリスコーに聞いているだろうが」
彼女の世界において、精霊が発生した理由。
精霊は物質の隙間にあるもの、あるいは隙間そのものだ。人々は地図の空白、怪物が住まうとされた領域を知識で征服した。空白に怪物はいなかった――だが、本当にそうなのだろうか? どれだけ空白を埋めたとしても、疑問が埋まることはない。隙間に怪物がいるかもしれないという疑問は。
どれだけ物質を積み上げても、その隙間はなくならない。だから御遣いは、その隙間を満たせるものを求めた。即ち、心の実在を問うたのだ。
心の実在を証明しない限り、隙間は消えない。そして隙間が埋まることなく増え続ければ、世界はやがて消えてしまう――そんな思考遊びが具現化したものが精霊だとも言える。
「君の回答がその隙間を埋めることが出来れば、私もまた消えるだろう」
「なるほどね……」
カタナを鞘に戻しながら、静かに呟く。
「戦う必要はないってわけだ」
「その通り。さあ、君が最も信頼に足るものを思い浮かべるが良い。それが解答に足るものであれば――」
「――斬!」
不意打ち気味に居合いを放つ。だが、やはりその刃が精霊を捉えることはない。
「戦う必要はないと、そう告げた」
再び刃を振るったのとは別の方向から、アマワの声が響いてくる。
「別にあんたの流儀に合わせる必要も無いでしょ」
納刀したカタナの柄に、再び手を這わせて、火乃香は獰猛に笑った。
「信頼に足るものか……見せてやるよ。いや、見ることは出来ないかもね。その時、あんたは真っ二つになってるだろうから」
「無駄だと――」
精霊の言葉を断ち切るように。
火乃香はカタナに気を込め、三度大地を蹴った。
単に気温が低いというだけではない。その風は硝化していた。心なき冷たい風。無機なる終末を予感させる、そんな風だ。
コミクロンと別れ、ドアを通り抜けた後。水溶ける場所と呼ばれるその空間に、火乃香は立っていた。本来、専用の装備が無ければ、身じろぎせずとも10分と持たない硝化した世界。精霊の故郷。
だが、火乃香が一歩を踏み出しても、硝化の刃によって彼女のブーツの底が裂けるということは無かった。硝化した空気が、彼女から致命のレベルで体温を奪うということもない。
見せかけだけか――? 否、そうではない。回答する者の存続は許されている。ただそれだけのことに過ぎない。
「出てきなよ、アマワ。どうせ見てるんだろう」
「隠れていたつもりもない。君が見ていなかっただけだ――回答者よ」
火乃香の眼前、ほんの数メートル先に佇んでいたそれが、男とも女とも区別し難い声を発する。
未来精霊アマワ。実在を冒涜するような、茫洋とした人型。
それを、火乃香の居合いが両断する。
気を纏った一撃。その肉体と魂に宿っていた刻印は解除され、舞台による制限も脱した今、彼女は本来の力を取り戻していた。
異世界の知識を得た灰色の魔女が、必滅を約束した一撃。
「最初に告げておこう」
だが、アマワの声は消えない。
「単純な暴力は意味を成さない。例え君の一撃が時空間を飛び越えるものであったとしても、御遣いとの契約が私を守るからだ」
声は火乃香の背後から。
ゆっくりと振り返る少女の瞳に、再びゆらぐ精霊の姿が映る。
「君もまた、その契約に守られているからこそ、ここに立っている。君は新たな契約者に選ばれた。契約者、火乃香よ」
「そんな契約を交わした覚えは無いんだけど」
「君は最新の契約者ではあるが、新たな契約が結ばれたわけではない。フリウ・ハリスコーの契約を相続したのだ」
「フリウの……?」
その言葉に、一抹の怖気を感じる。
「フリウ・ハリスコーは死んだ。姫と呼ばれる吸血鬼を破壊するために舞台に残り、結果として相打ちとなった」
嘘ではないと、火乃香は直感した。フリウが黙って別行動した理由は、きっとその類のものであると予想していたからだ。
(フリウ……)
パイフウの仇。多くの被害を出した殺人者。
あるいは、友人になれるかも知れなかった少女の名前。それを刻み込むように、胸中でそっと呟く。
「君と彼女の間に血縁はないが、彼女は君に、私を討伐することを望み、託した。君は自らの意思で扉を開き、私との邂逅を望んだ。故に、君はこの場に立つことを許されている。契約者として」
「心の実在を証明せよ、だっけ?」
「その通り。その疑問から我々は生じた――この辺りは、既にフリウ・ハリスコーに聞いているだろうが」
彼女の世界において、精霊が発生した理由。
精霊は物質の隙間にあるもの、あるいは隙間そのものだ。人々は地図の空白、怪物が住まうとされた領域を知識で征服した。空白に怪物はいなかった――だが、本当にそうなのだろうか? どれだけ空白を埋めたとしても、疑問が埋まることはない。隙間に怪物がいるかもしれないという疑問は。
どれだけ物質を積み上げても、その隙間はなくならない。だから御遣いは、その隙間を満たせるものを求めた。即ち、心の実在を問うたのだ。
心の実在を証明しない限り、隙間は消えない。そして隙間が埋まることなく増え続ければ、世界はやがて消えてしまう――そんな思考遊びが具現化したものが精霊だとも言える。
「君の回答がその隙間を埋めることが出来れば、私もまた消えるだろう」
「なるほどね……」
カタナを鞘に戻しながら、静かに呟く。
「戦う必要はないってわけだ」
「その通り。さあ、君が最も信頼に足るものを思い浮かべるが良い。それが解答に足るものであれば――」
「――斬!」
不意打ち気味に居合いを放つ。だが、やはりその刃が精霊を捉えることはない。
「戦う必要はないと、そう告げた」
再び刃を振るったのとは別の方向から、アマワの声が響いてくる。
「別にあんたの流儀に合わせる必要も無いでしょ」
納刀したカタナの柄に、再び手を這わせて、火乃香は獰猛に笑った。
「信頼に足るものか……見せてやるよ。いや、見ることは出来ないかもね。その時、あんたは真っ二つになってるだろうから」
「無駄だと――」
精霊の言葉を断ち切るように。
火乃香はカタナに気を込め、三度大地を蹴った。