第593話:ラスト・ソード(決着)(後編) 作:◆5Mp/UnDTiI
◇◇◇
「……なんのつもりかね?」
下手に動かず、佐山はそう尋ねるに留めた。それは、自分に概念核兵器を突きつける男の目が、確かに本気であったからだ。
G-Sp2はまだ第一形態だが、訓練時にはカウリングを施されている槍としての刃は、今は剥き出しに、危うい鈍い輝きを湛えている。
いつもの冗談ではない。出雲・覚は、本気で佐山を殺そうとしている。
投げかけられた質問に、出雲は僅かにため息を漏らしてから答えてくる。
「あれが本物の新庄だっていうんなら、俺はお前を殺さなきゃならねえ」
「いまさら新庄君の魅力に気づいたのか。だが、貴様では振られるだけだぞ」
「そうじゃねえよ。俺は千里一筋だ――分かってんだろ?」
「分からんね。馬鹿の考えることなど」
そうかよ、と疲れたように呟いてから、出雲は言葉を続けた。
「死人が生き返ったんなら、千里が生き返る可能性もあるってことだ。お前を殺して、千里を蘇らせる」
「話が飛躍しているように思えるが――」
「例えばよ」
佐山の言葉を遮るようにして、出雲。
「もしもお前の目論見が上手くいって、あの神野って奴の力を借りられるとしても、だ。そいつは俺たちみんなの願いを無制限に叶えてくれるのか?」
神野陰之は万能の願望機でもなければ、親切な足長おじさんでもない。
「そんなわきゃねえよな。そこまで都合のいい存在じゃねえってことは一目見りゃ分かる。そもそもあれが叶えてくれる願いって言うのは、その場で一番強い願いだけって話だったが」
それだってどこまで本当か分かりゃしねえけどな、と出雲は肩を竦めて呟く。
「千里を愛する気持ちなら誰にも負けないつもりだけどよ。アマワって奴は俺より強い願いを持ってるんだろ? 俺の愛より強い想いってのは、確かに存在するってわけだ」
少なくとも神野陰之の基準では、そうだ。
あの島に集められた思想的強者たちすら、願いの強さという点では、精霊アマワに敵う者はいなかった。
強い想いは、より強き想いに敗北する。その縮図を、今の出雲は理解していた。
「そんな中で、確実に千里を生き返らせるには――分かるだろ?」
出雲・覚の願いが、唯一の願いになれば良い。つまりは、他の全員を殺害してしまえば。
「馬鹿なことを」
「そうだよ、お前もよく知ってんだろ?」
力なく笑って、出雲は首を振る。
「なあ、佐山。お前、マンションの屋上で俺に聞いたよな。千里を殺されて平気なのかって」
美姫との決戦の前、佐山が正しく間違っていくことを諦め、それでもなお悪役として本気を振るうと決断した、あの時。
佐山・御言が新庄・運切を一時的に忘れることを選び、そして出雲はどうなのかと尋ねた。
出雲の回答は"復讐も自殺も考えていない"というものだったが――
「平気なはずねえよな。俺にとって千里は"全部"だ。あいつのいない世界なんて考えられねぇ。それが殺されたっていうんなら、怒り狂って復讐するなり、絶望して自殺するなりすると思うんだよ」
出雲・覚と風見・千里の出会いは、互いに影響を与え合った。とても強い影響を。その邂逅がなければ、いまの出雲はなかっただろう。
風見を奪われたというのなら、当然、それは強い感情を喚起する筈だった。
「だけどよ、なんでか分からねえけど、そういう気分にゃならねえんだ」
クレア・スタンフィールドに、目の前で風見を殺されたあの時。
確かに、出雲の心は怒りと絶望で染まった――ただし、それはほんの一時だけのこと。その激情は、予想外に早く引いていった。消えてしまった。
「ショックだったぜ。色々考えもした。自分で思ってるほど俺は千里のことが好きじゃなかったのかとか、薄情者だったんじゃないかとか――」
マジで色々考えたんだぜ、と出雲は嘆息を繰り返した。
「ただまあ、どうにもならんことだったからなぁ……ぐだぐだ考えるのもやめにしたわけよ」
死とは"そういうもの"だ。
本来、それは覆せないもの。出雲が知る概念の力を結集したところで、死者の蘇生は叶わないとされている。いくら望んでも手に入らないのなら、手に入れる手段すらないのなら、諦めることこそが賢明。
「だけどよ、どうにかしちまえることだってんなら――何をしてでも、どうにかするべきだろうよ」
出雲・覚ならば、風見・千里の死にはそう向かい合うべきなのだと。
全てを敵に回してでも、例え彼女自身に糾弾されるような行いに手を染めてでも、女を取り戻すべきなのだと。
既に十全の決意をして、出雲・覚は刃を向けたのだ。
佐山もまた、それを察した。言葉で説得できるものではない。
(……不味いな)
佐山は平静を装いながらも、現状を分析する。
概念核兵器を頭に突きつけられたこの状況。対して、自分の得物である槍は穂先を地面に向けている。
どう考えても出雲の方が早い。最初の一撃を凌ぐには、腕を犠牲にする必要がある。おまけに自分の得物は長槍だ。片手で扱うには持て余す。
「意外と、神野氏は複数の願いを叶えてくれるかもしれんぞ。キャンペーン期間中である可能性は考えたかね?」
隙を探るための会話に、だが出雲はにべもなかった。
「だとしても、お前は死人を蘇らせることに反対するだろ?」
「貴様と同じように、私が新庄君を蘇生させようとするとは思わないのか」
「思わねえ。そいつは分かりやすく理屈に反した行いだからな。骨の髄まで悪役なお前にはできねえよ」
だから、と言葉を継ぎながら、出雲はG-Sp2を持つ手に力を込めた
「悪いな。俺と千里の愛のために、ここで死んでくれ」
だん! と訓練室の床を踏みしめる音が響く。
ただし、それは出雲が発したものではない。発生源は、佐山にG-Sp2を突きつけた彼の、その背後。
「この、馬鹿――!」
出雲の言葉を遮るように響いたその声は、佐山のものではなかった。
放置されていた新庄のものですらない。
聞き覚えのある声だ。佐山にとっても、出雲にとっても。そして、もう二度と聞くことはないだろうと思っていた声でもあった。
「千里――!?」
出雲の反応は素早かった。驚愕と共に振り返れば、UCATの戦闘服を身に纏った風見・千里が、いつの間にか手を伸ばせば届くほどの位置に走り込んできていた。拳にした右手を、思い切り振りかぶって。
「歯ぁ食いしばりなさい!」
渾身の右ストレート。G-Sp2によって付与される超人的な腕力。いつものように、出雲の加護を貫いて、その巨体に土を嘗めさせる。
幾重もの衝撃に、出雲はG-Sp2を手放していた。宙に放り出されたそれが、本来の持ち主の手に収まる。歓喜するように、ひび割れたコンソールが点滅し、
そして、風見・千里は、その刃を出雲・覚の心臓に突き刺した。
G-Sp2は10th-Gの概念核を収めている。そして出雲が持つ加護もまた、10thに由来するものだ。当然、母体概念を収めるG-Sp2の前には役に立たない。
つまるところ――風見・千里が出雲・覚を殺した。そういうことになる。
「ちさ――……」
その数秒で、出雲・覚の表情は絵の具を複数混ぜたような、混沌たる様相を見せた。恋人に再会できた歓喜、その恋人に殺された驚愕、傷の苦痛――だがそれらが渾然一体となって、なにか定まったものを示すよりも早く、意識を失う。
あるいはそれは幸福だったのかも知れない。少なくとも、その直後に風見・千里が見せた変化を思えば。
「は――え、覚?」
数秒前に自分が行った殺人が、まるで信じられないとでもいうように。
彼女は倒れ伏した男の巨体を呆然と眺め――そして、その表情が絶望にひび割れる。
(何が――起きている?)
死の衝撃に囚われないように自制しながら、佐山は正しい状況の認識に努めた。
出雲は死んだ。その下手人たる風見は、唐突に自分の行いの意味を理解したかの如く、狼狽えている。G-Sp2を突き刺すまでは、まるでいつものど付き合いでもするかのように自然体であったというのに。だからこそ、佐山も出雲の殺害を止めることができなかったのだから。
そして状況の変化と言えば、もうひとつ。いつの間にか、新庄の姿が消えていた。
(新庄君は――?)
周囲を見回す。
次の瞬間、さらに変化が起きた。
G-Sp2を残し、絶望に動きを止めていた風見・千里の姿が消える。支え手を失い、柄の重さに耐えかねた長槍がゆっくりと倒れ、出雲の死体から刃が抜け落ちた。
そして入れ替わるように、消えていた新庄・運切がその場に現れたのだ。
「うわああああ!」
半狂乱に叫びながら突進してくる新庄に、佐山は思わず両手を広げて受け入れ態勢を示してしまう。が、ほんの少し視線を下げれば、新庄の手の中に鈍色の輝き。
出刃包丁だった。
「はっ」
「痛っ」
ほとんど反射的に繰り出した手刀は、新庄の手から容易く凶器を叩き落とした。ついでに足を払い、新庄を地面に転がす。
突進の勢いのまま、悲鳴を上げて転がっていく新庄の後ろ姿を見送りながら、佐山は一連の現象について考える。
(風見の消失と同時に、新庄君が出現した……見逃したが、風見が出現した時も最初にいた新庄君が消えたのでは?)
この現象は何なのか――神野陰之の仕込みであることは間違いないだろう。であればその目的は例の証明と言うことになる。
(新庄君と私、風見と出雲……近しい相手が出現する?)
では、その出現した相手をどうすれば心の実在を証明することになるのか。
新庄も風見も、こちらに対して明確な殺意を抱いていた。最初に現れた新庄が即座に砲撃してこなかったのは、新庄が"殺意"という感情そのものに慣れていなかったからだろう。
洗脳か、あるいは幻覚でも見ているのか。いずれにせよ、正常な状態でないことは確かだ。
(どのみち付き合ってやる道理もない。とにかく、まずは現実的な対処が先だ)
佐山は足下に落ちた出刃包丁を遠くに蹴り飛ばしながら、起き上がろうとしている新庄を背後から組み敷いた。片手で新庄の右手を、片膝で新庄の左手首を押さえつけ、完全に拘束する。
「落ち着きたまえ、新庄君。私は味方だ」
「ぎゃー!」
悲鳴を上げて拘束を解こうと暴れる新庄。だが佐山の捕縛術から抜け出せるような能力は無い。新庄が完全に体力を失うまで、この状態を維持できる自信が佐山にはあった。
片手間に拘束を続けながら、佐山はここからどうするべきか考える。怪しいのは最初に新庄が現れた地点の近くに存在するドアだが、この状態の新庄を置いたまま出て行ってしまっていいものか――
そんなことを考えていた次の瞬間、佐山の身体に痛みと衝撃が走った。
「――っ!」
確かに組み敷いていたはずの新庄が、佐山の下から消えていた。人体の厚み分を落下し、手と膝を床に打ち付ける。
だが、その程度の痛みは問題にならない。問題は、佐山の腰に深々と突き刺さったナイフの方だ。
「あ……佐山、くん……?」
そしてその下手人であるらしい、再出現した新庄が、両手を血に染めて立ち尽くしていた。佐山は半ば床に転がった態勢から、その顔が先の風見と同じ絶望に歪みそうになるのを見て、
「……ふっ!」
激痛に痙攣する肉体を無理矢理に制動し、新庄の喉に足刀を打ち込む。低い体勢からの無茶な一撃は、しかし奇跡的に決まった。瞬間的に頸動脈の流れを断たれた新庄が、気を失って倒れ込んでいく。
頭を打つかも知れないが、それを抱き留める余裕は佐山になかった。上方に蹴りを繰り出した後、彼の下半身も床に投げ出される。無理矢理捻った腰の傷からの激痛に、受け身すら取れない。
(……無力化しても再出現するわけか)
訓練室の床に力なく横たわりながら、苦く呟く。
絶望する表情を見たくない一心で気絶させたが、気づけば新庄の姿はまたも消えていた。再出現する気配はない――おそらく、それは佐山が致命傷を負ったからだろう。突き刺さったナイフの切っ先は、脾腹にまで達していた。
床には血だまりが出来はじめている――だが、即死するような傷ではない。まだたっぷりと数分間、この痛みと喪失感は続くだろう。
だから佐山・御言は、最後まで諦めることなく、その残り時間を思考に費やした。
疑問はひとつ。この奇妙な空間と、近しい人が何度でも出現し、殺しに来るというルール。それをもってして、精霊と魔人は如何に心の実在を証明させるつもりだったのか。
説得は無駄だった。無力化しても次が出現する。無視してあのドアの先に進めば良かったのか。だが、佐山に余裕があったのは相手が新庄だったからだ。仮に出雲の場合、戦巧者である風見が相手になる。それを無視してあのドアを潜るのは難しいだろうし、そもそもそれがどう証明に繋がるというのか。
『なあ、佐山。お前、マンションの屋上で俺に聞いたよな。千里を殺されて平気なのかって』
頭の中で、つい先ほど死んだ男の声が響いた。
(……まさか)
唐突に、気づく。証明の解法。精霊と魔人が、如何にして心の証明を成させるつもりだったのか。
それはかつて、自分が十叶詠子に向けた言葉。この島のルールに対する"何故"への答えでもあった。考えてみれば、単純な答えだ。
(何故、こんなものを今の今まで思いつくことすらできなかった……?)
佐山は歯噛みする。それは悔恨ではなく、単純な疑問だった。
「――それは、君の心に新庄・運切が纏わり付いていたからだよ」
嘲笑う闇が、その答えを示す。
いつの間にか、倒れる佐山を見下ろすように、神野陰之がそこに佇んでいた。
佐山は俯せの状態から、どうにか首を捻って神野の顔を睨み付ける。
「新庄君が……何だと?」
「本来であれば、君はもっと早く"解法"に気づくことが出来ただろう。それが出来なかったのは、新庄・運切という存在が、死してなお、君に対して多大な影響を及ぼしていたからだ」
言外に佐山の至った"答え"が正しかったことを示しながら、神野は新庄が佐山に与えた影響を指摘する。
悪役としての方向性のブレや、狭心症の原因となったこと。新庄の死は、確かに佐山・命という人間に負の影響を与えていた。だが、
「それは私の弱さが故だ。新庄君を貶めるような発言は慎んで貰おうか」
佐山は断固として、神野陰之の言葉を否定する。
指針無くしては悪役として本気を振るえぬ弱さ。新庄を亡くした後、再びその状態に陥ってしまった弱さ。全ては己の不徳であり、断じて新庄・運切に責はない。
「いいや。新庄・運切は、確かに君を妨害していたとも」
佐山の言葉を、さらに神野が切り返す。
「何故なら、新庄・運切はその死に際、君に呪いを掛けたからだ――運切の加護という呪いをね」
運切の加護。
それは新庄が死ぬ間際に佐山を想い、その無事を願ったことによって生まれた2nd-G系列の加護だ。名には力が宿るという2ndの概念は、新庄・運切の『運切』という名前による加護を生みだした。
本来であればそれは、命(みこと)を縛る運(さだめ)を切り、解放するという能を持っていたが――
「あの盤上において、運切の加護は確かに存在したが、それは何の力も持ってはいなかった。だが、無力と無害は違う。動かぬ死体であっても、背負えば動きは鈍り、腐臭は鼻をつき、そして埋葬できなければ永遠に心に残り続けるだろう」
何の力も持たなかったその加護は、だが確かに存在はしていたのだ。
そして存在するのなら、人はそこに意味を見出してしまう。
「君は、無意識の内にその存在を感じ取っていたのだよ。そして無力であったはずの加護は、存在するだけで君の意識を偏らせた」
新庄の名前が放送で呼ばれる前に、佐山は新庄を想起し、胸に軋みを覚えた。それは紛れもなく、呪いの始まりだったのだ。
「そして、それが齎した結果は語るまでもないだろう」
新庄という荷を背負った佐山の歩み遅れ続け、多くを取りこぼし、そしてこうして道半ばで命を終えようとしている。
正しくして、佐山・御言は、新庄・運切に殺された。
運切の加護は反転し、命(みこと)を断ち切る呪いとなったのだ。
そうして嗤う闇を睨み付けながら、佐山は食いしばった歯の隙間から絞り出すように声をあげた。
「……わざわざそんなことを伝えにきたわけではあるまい。さっさと本題に入ったらどうだ」
「君がそう望むのなら」
神野は地に伏す佐山の瞳を、その丸眼鏡越しにのぞき込むようにしながら囁いてくる。
「やり直しの機会が欲しくは無いかね?」
「……なんだと?」
「この証明遊戯にもう一度、正しく参加し直す気はないか、と尋ねたのだよ」
太陽が傾き、その領域を広げる影が如く、神野陰之は倒れ伏す佐山に手を差し伸べてきた。
「ぎりぎりではあったが、君は死ぬ前に解法にたどり着いた。解にこそ至れなかったが、次の機会があればどうだろう。我が盟友の問いかけに応えられる可能性が最も高いひとりであると――」
「――お断りだ、馬鹿め」
神野の言葉を遮るように、佐山は短く拒絶を吐き出した。
「上手くやる自信がないと?」
「そもそも付き合ってやる気すらないとも。失せたまえ、神野陰之――私は貴様も必要としない」
かつて未来精霊と決別した際の言葉を繰り返す。
それを受けた神野は僅かに肩を竦めて見せた。その顔に不快も徒労も滲ませることなく、ただ嗤いながら頷いてみせる。
「それが君の願いなら、私は立ち去るだけだ――だが、君が悪役としての務めを放棄するとは思わなかったな」
「……なんだと?」
それは、佐山の根幹を揺るがす言葉だった。
佐山の姓は悪役を任ずる。骨の髄にまで染みついたその在り方を、佐山自身が否定したと神野は言っている。
「そうだろう? 悪役とは、悪を討つために悪を成す者のことだ。我が盟友は、確かに悪なる者だろう。だというのに、君は"解法"を知りながら、その実行を拒むという。これが役目の放棄でなくてなんなのかね?」
「違う。それは――」
「違うというのなら、示してみせれば良い……」
そして。
佐山・御言は、いつの間にか立った状態で、再び訓練室に佇んでいた。
傷はない。まるで刺されたことが嘘だったかのように、服には破れた形跡どころか血の滲みさえ存在しなかった。
神野陰之の姿はない。だが代わりに、再び現れた新庄・運切がナイフを構え、泣きそうな顔で佐山のことを睨んでいる。
(新庄、君――)
手を差し伸べようとして、佐山は気づく。いつの間にか、佐山はカウリング・ソードを手にしていた。何度も使ったことのある、UCATの制式装備。刃をカウリングしていない、実戦仕様のモデル。
装甲服を着ていない人間など、骨ごと両断できるだろう。そこに、奮う意思と力が伴えば。
ナイフを腰だめに構えた新庄が、佐山目がけて駆け出す。
遅いな、と佐山は思う。躊躇いから足の運びは均一でなく、身体はふらついている。あれでは致命傷を与えることは難しい。逆にこちらは避けることは当然、カウンターを合わせることすら容易だろう。
"解法"――神野陰之が匂わせた、この証明遊戯に決着をつけるための道筋。たどり着いたそれを、改めて意識する。自分がその方法に沿った時、具体的に何をしなくてはならないのか。
迷いはなかった。佐山・御言は、己に必要な動きをする
「え――?」
そして、新庄・運切はぽかんと口を開け、視線を僅かに下げた。
ナイフは佐山の心臓に、深々と突き刺さっていた。新庄が疑念を抱いたのは、己がナイフを握るその両手に、佐山の右手が添えられていたからだ。
防御しようとして失敗したのか? いいや、そうではなく――
「わるい、ね、新庄、くん」
「さ――」
同時、佐山のもう片方の手が動き、新庄の首に触れた。その指先が正確に頸動脈を捉え、圧迫し、少女の意識を飛ばす。
――神野陰之の言葉は正しかった。
佐山・御言は、悪役を放棄した。そうする以外の選択肢は選べなかった。
――悪役を成すためには、新庄を殺す他ないというのなら。
(全く、私もつくづく未熟だね――)
そうして悪役を放棄したその男は、自ら望んでその意識を手放した。
下手に動かず、佐山はそう尋ねるに留めた。それは、自分に概念核兵器を突きつける男の目が、確かに本気であったからだ。
G-Sp2はまだ第一形態だが、訓練時にはカウリングを施されている槍としての刃は、今は剥き出しに、危うい鈍い輝きを湛えている。
いつもの冗談ではない。出雲・覚は、本気で佐山を殺そうとしている。
投げかけられた質問に、出雲は僅かにため息を漏らしてから答えてくる。
「あれが本物の新庄だっていうんなら、俺はお前を殺さなきゃならねえ」
「いまさら新庄君の魅力に気づいたのか。だが、貴様では振られるだけだぞ」
「そうじゃねえよ。俺は千里一筋だ――分かってんだろ?」
「分からんね。馬鹿の考えることなど」
そうかよ、と疲れたように呟いてから、出雲は言葉を続けた。
「死人が生き返ったんなら、千里が生き返る可能性もあるってことだ。お前を殺して、千里を蘇らせる」
「話が飛躍しているように思えるが――」
「例えばよ」
佐山の言葉を遮るようにして、出雲。
「もしもお前の目論見が上手くいって、あの神野って奴の力を借りられるとしても、だ。そいつは俺たちみんなの願いを無制限に叶えてくれるのか?」
神野陰之は万能の願望機でもなければ、親切な足長おじさんでもない。
「そんなわきゃねえよな。そこまで都合のいい存在じゃねえってことは一目見りゃ分かる。そもそもあれが叶えてくれる願いって言うのは、その場で一番強い願いだけって話だったが」
それだってどこまで本当か分かりゃしねえけどな、と出雲は肩を竦めて呟く。
「千里を愛する気持ちなら誰にも負けないつもりだけどよ。アマワって奴は俺より強い願いを持ってるんだろ? 俺の愛より強い想いってのは、確かに存在するってわけだ」
少なくとも神野陰之の基準では、そうだ。
あの島に集められた思想的強者たちすら、願いの強さという点では、精霊アマワに敵う者はいなかった。
強い想いは、より強き想いに敗北する。その縮図を、今の出雲は理解していた。
「そんな中で、確実に千里を生き返らせるには――分かるだろ?」
出雲・覚の願いが、唯一の願いになれば良い。つまりは、他の全員を殺害してしまえば。
「馬鹿なことを」
「そうだよ、お前もよく知ってんだろ?」
力なく笑って、出雲は首を振る。
「なあ、佐山。お前、マンションの屋上で俺に聞いたよな。千里を殺されて平気なのかって」
美姫との決戦の前、佐山が正しく間違っていくことを諦め、それでもなお悪役として本気を振るうと決断した、あの時。
佐山・御言が新庄・運切を一時的に忘れることを選び、そして出雲はどうなのかと尋ねた。
出雲の回答は"復讐も自殺も考えていない"というものだったが――
「平気なはずねえよな。俺にとって千里は"全部"だ。あいつのいない世界なんて考えられねぇ。それが殺されたっていうんなら、怒り狂って復讐するなり、絶望して自殺するなりすると思うんだよ」
出雲・覚と風見・千里の出会いは、互いに影響を与え合った。とても強い影響を。その邂逅がなければ、いまの出雲はなかっただろう。
風見を奪われたというのなら、当然、それは強い感情を喚起する筈だった。
「だけどよ、なんでか分からねえけど、そういう気分にゃならねえんだ」
クレア・スタンフィールドに、目の前で風見を殺されたあの時。
確かに、出雲の心は怒りと絶望で染まった――ただし、それはほんの一時だけのこと。その激情は、予想外に早く引いていった。消えてしまった。
「ショックだったぜ。色々考えもした。自分で思ってるほど俺は千里のことが好きじゃなかったのかとか、薄情者だったんじゃないかとか――」
マジで色々考えたんだぜ、と出雲は嘆息を繰り返した。
「ただまあ、どうにもならんことだったからなぁ……ぐだぐだ考えるのもやめにしたわけよ」
死とは"そういうもの"だ。
本来、それは覆せないもの。出雲が知る概念の力を結集したところで、死者の蘇生は叶わないとされている。いくら望んでも手に入らないのなら、手に入れる手段すらないのなら、諦めることこそが賢明。
「だけどよ、どうにかしちまえることだってんなら――何をしてでも、どうにかするべきだろうよ」
出雲・覚ならば、風見・千里の死にはそう向かい合うべきなのだと。
全てを敵に回してでも、例え彼女自身に糾弾されるような行いに手を染めてでも、女を取り戻すべきなのだと。
既に十全の決意をして、出雲・覚は刃を向けたのだ。
佐山もまた、それを察した。言葉で説得できるものではない。
(……不味いな)
佐山は平静を装いながらも、現状を分析する。
概念核兵器を頭に突きつけられたこの状況。対して、自分の得物である槍は穂先を地面に向けている。
どう考えても出雲の方が早い。最初の一撃を凌ぐには、腕を犠牲にする必要がある。おまけに自分の得物は長槍だ。片手で扱うには持て余す。
「意外と、神野氏は複数の願いを叶えてくれるかもしれんぞ。キャンペーン期間中である可能性は考えたかね?」
隙を探るための会話に、だが出雲はにべもなかった。
「だとしても、お前は死人を蘇らせることに反対するだろ?」
「貴様と同じように、私が新庄君を蘇生させようとするとは思わないのか」
「思わねえ。そいつは分かりやすく理屈に反した行いだからな。骨の髄まで悪役なお前にはできねえよ」
だから、と言葉を継ぎながら、出雲はG-Sp2を持つ手に力を込めた
「悪いな。俺と千里の愛のために、ここで死んでくれ」
だん! と訓練室の床を踏みしめる音が響く。
ただし、それは出雲が発したものではない。発生源は、佐山にG-Sp2を突きつけた彼の、その背後。
「この、馬鹿――!」
出雲の言葉を遮るように響いたその声は、佐山のものではなかった。
放置されていた新庄のものですらない。
聞き覚えのある声だ。佐山にとっても、出雲にとっても。そして、もう二度と聞くことはないだろうと思っていた声でもあった。
「千里――!?」
出雲の反応は素早かった。驚愕と共に振り返れば、UCATの戦闘服を身に纏った風見・千里が、いつの間にか手を伸ばせば届くほどの位置に走り込んできていた。拳にした右手を、思い切り振りかぶって。
「歯ぁ食いしばりなさい!」
渾身の右ストレート。G-Sp2によって付与される超人的な腕力。いつものように、出雲の加護を貫いて、その巨体に土を嘗めさせる。
幾重もの衝撃に、出雲はG-Sp2を手放していた。宙に放り出されたそれが、本来の持ち主の手に収まる。歓喜するように、ひび割れたコンソールが点滅し、
そして、風見・千里は、その刃を出雲・覚の心臓に突き刺した。
G-Sp2は10th-Gの概念核を収めている。そして出雲が持つ加護もまた、10thに由来するものだ。当然、母体概念を収めるG-Sp2の前には役に立たない。
つまるところ――風見・千里が出雲・覚を殺した。そういうことになる。
「ちさ――……」
その数秒で、出雲・覚の表情は絵の具を複数混ぜたような、混沌たる様相を見せた。恋人に再会できた歓喜、その恋人に殺された驚愕、傷の苦痛――だがそれらが渾然一体となって、なにか定まったものを示すよりも早く、意識を失う。
あるいはそれは幸福だったのかも知れない。少なくとも、その直後に風見・千里が見せた変化を思えば。
「は――え、覚?」
数秒前に自分が行った殺人が、まるで信じられないとでもいうように。
彼女は倒れ伏した男の巨体を呆然と眺め――そして、その表情が絶望にひび割れる。
(何が――起きている?)
死の衝撃に囚われないように自制しながら、佐山は正しい状況の認識に努めた。
出雲は死んだ。その下手人たる風見は、唐突に自分の行いの意味を理解したかの如く、狼狽えている。G-Sp2を突き刺すまでは、まるでいつものど付き合いでもするかのように自然体であったというのに。だからこそ、佐山も出雲の殺害を止めることができなかったのだから。
そして状況の変化と言えば、もうひとつ。いつの間にか、新庄の姿が消えていた。
(新庄君は――?)
周囲を見回す。
次の瞬間、さらに変化が起きた。
G-Sp2を残し、絶望に動きを止めていた風見・千里の姿が消える。支え手を失い、柄の重さに耐えかねた長槍がゆっくりと倒れ、出雲の死体から刃が抜け落ちた。
そして入れ替わるように、消えていた新庄・運切がその場に現れたのだ。
「うわああああ!」
半狂乱に叫びながら突進してくる新庄に、佐山は思わず両手を広げて受け入れ態勢を示してしまう。が、ほんの少し視線を下げれば、新庄の手の中に鈍色の輝き。
出刃包丁だった。
「はっ」
「痛っ」
ほとんど反射的に繰り出した手刀は、新庄の手から容易く凶器を叩き落とした。ついでに足を払い、新庄を地面に転がす。
突進の勢いのまま、悲鳴を上げて転がっていく新庄の後ろ姿を見送りながら、佐山は一連の現象について考える。
(風見の消失と同時に、新庄君が出現した……見逃したが、風見が出現した時も最初にいた新庄君が消えたのでは?)
この現象は何なのか――神野陰之の仕込みであることは間違いないだろう。であればその目的は例の証明と言うことになる。
(新庄君と私、風見と出雲……近しい相手が出現する?)
では、その出現した相手をどうすれば心の実在を証明することになるのか。
新庄も風見も、こちらに対して明確な殺意を抱いていた。最初に現れた新庄が即座に砲撃してこなかったのは、新庄が"殺意"という感情そのものに慣れていなかったからだろう。
洗脳か、あるいは幻覚でも見ているのか。いずれにせよ、正常な状態でないことは確かだ。
(どのみち付き合ってやる道理もない。とにかく、まずは現実的な対処が先だ)
佐山は足下に落ちた出刃包丁を遠くに蹴り飛ばしながら、起き上がろうとしている新庄を背後から組み敷いた。片手で新庄の右手を、片膝で新庄の左手首を押さえつけ、完全に拘束する。
「落ち着きたまえ、新庄君。私は味方だ」
「ぎゃー!」
悲鳴を上げて拘束を解こうと暴れる新庄。だが佐山の捕縛術から抜け出せるような能力は無い。新庄が完全に体力を失うまで、この状態を維持できる自信が佐山にはあった。
片手間に拘束を続けながら、佐山はここからどうするべきか考える。怪しいのは最初に新庄が現れた地点の近くに存在するドアだが、この状態の新庄を置いたまま出て行ってしまっていいものか――
そんなことを考えていた次の瞬間、佐山の身体に痛みと衝撃が走った。
「――っ!」
確かに組み敷いていたはずの新庄が、佐山の下から消えていた。人体の厚み分を落下し、手と膝を床に打ち付ける。
だが、その程度の痛みは問題にならない。問題は、佐山の腰に深々と突き刺さったナイフの方だ。
「あ……佐山、くん……?」
そしてその下手人であるらしい、再出現した新庄が、両手を血に染めて立ち尽くしていた。佐山は半ば床に転がった態勢から、その顔が先の風見と同じ絶望に歪みそうになるのを見て、
「……ふっ!」
激痛に痙攣する肉体を無理矢理に制動し、新庄の喉に足刀を打ち込む。低い体勢からの無茶な一撃は、しかし奇跡的に決まった。瞬間的に頸動脈の流れを断たれた新庄が、気を失って倒れ込んでいく。
頭を打つかも知れないが、それを抱き留める余裕は佐山になかった。上方に蹴りを繰り出した後、彼の下半身も床に投げ出される。無理矢理捻った腰の傷からの激痛に、受け身すら取れない。
(……無力化しても再出現するわけか)
訓練室の床に力なく横たわりながら、苦く呟く。
絶望する表情を見たくない一心で気絶させたが、気づけば新庄の姿はまたも消えていた。再出現する気配はない――おそらく、それは佐山が致命傷を負ったからだろう。突き刺さったナイフの切っ先は、脾腹にまで達していた。
床には血だまりが出来はじめている――だが、即死するような傷ではない。まだたっぷりと数分間、この痛みと喪失感は続くだろう。
だから佐山・御言は、最後まで諦めることなく、その残り時間を思考に費やした。
疑問はひとつ。この奇妙な空間と、近しい人が何度でも出現し、殺しに来るというルール。それをもってして、精霊と魔人は如何に心の実在を証明させるつもりだったのか。
説得は無駄だった。無力化しても次が出現する。無視してあのドアの先に進めば良かったのか。だが、佐山に余裕があったのは相手が新庄だったからだ。仮に出雲の場合、戦巧者である風見が相手になる。それを無視してあのドアを潜るのは難しいだろうし、そもそもそれがどう証明に繋がるというのか。
『なあ、佐山。お前、マンションの屋上で俺に聞いたよな。千里を殺されて平気なのかって』
頭の中で、つい先ほど死んだ男の声が響いた。
(……まさか)
唐突に、気づく。証明の解法。精霊と魔人が、如何にして心の証明を成させるつもりだったのか。
それはかつて、自分が十叶詠子に向けた言葉。この島のルールに対する"何故"への答えでもあった。考えてみれば、単純な答えだ。
(何故、こんなものを今の今まで思いつくことすらできなかった……?)
佐山は歯噛みする。それは悔恨ではなく、単純な疑問だった。
「――それは、君の心に新庄・運切が纏わり付いていたからだよ」
嘲笑う闇が、その答えを示す。
いつの間にか、倒れる佐山を見下ろすように、神野陰之がそこに佇んでいた。
佐山は俯せの状態から、どうにか首を捻って神野の顔を睨み付ける。
「新庄君が……何だと?」
「本来であれば、君はもっと早く"解法"に気づくことが出来ただろう。それが出来なかったのは、新庄・運切という存在が、死してなお、君に対して多大な影響を及ぼしていたからだ」
言外に佐山の至った"答え"が正しかったことを示しながら、神野は新庄が佐山に与えた影響を指摘する。
悪役としての方向性のブレや、狭心症の原因となったこと。新庄の死は、確かに佐山・命という人間に負の影響を与えていた。だが、
「それは私の弱さが故だ。新庄君を貶めるような発言は慎んで貰おうか」
佐山は断固として、神野陰之の言葉を否定する。
指針無くしては悪役として本気を振るえぬ弱さ。新庄を亡くした後、再びその状態に陥ってしまった弱さ。全ては己の不徳であり、断じて新庄・運切に責はない。
「いいや。新庄・運切は、確かに君を妨害していたとも」
佐山の言葉を、さらに神野が切り返す。
「何故なら、新庄・運切はその死に際、君に呪いを掛けたからだ――運切の加護という呪いをね」
運切の加護。
それは新庄が死ぬ間際に佐山を想い、その無事を願ったことによって生まれた2nd-G系列の加護だ。名には力が宿るという2ndの概念は、新庄・運切の『運切』という名前による加護を生みだした。
本来であればそれは、命(みこと)を縛る運(さだめ)を切り、解放するという能を持っていたが――
「あの盤上において、運切の加護は確かに存在したが、それは何の力も持ってはいなかった。だが、無力と無害は違う。動かぬ死体であっても、背負えば動きは鈍り、腐臭は鼻をつき、そして埋葬できなければ永遠に心に残り続けるだろう」
何の力も持たなかったその加護は、だが確かに存在はしていたのだ。
そして存在するのなら、人はそこに意味を見出してしまう。
「君は、無意識の内にその存在を感じ取っていたのだよ。そして無力であったはずの加護は、存在するだけで君の意識を偏らせた」
新庄の名前が放送で呼ばれる前に、佐山は新庄を想起し、胸に軋みを覚えた。それは紛れもなく、呪いの始まりだったのだ。
「そして、それが齎した結果は語るまでもないだろう」
新庄という荷を背負った佐山の歩み遅れ続け、多くを取りこぼし、そしてこうして道半ばで命を終えようとしている。
正しくして、佐山・御言は、新庄・運切に殺された。
運切の加護は反転し、命(みこと)を断ち切る呪いとなったのだ。
そうして嗤う闇を睨み付けながら、佐山は食いしばった歯の隙間から絞り出すように声をあげた。
「……わざわざそんなことを伝えにきたわけではあるまい。さっさと本題に入ったらどうだ」
「君がそう望むのなら」
神野は地に伏す佐山の瞳を、その丸眼鏡越しにのぞき込むようにしながら囁いてくる。
「やり直しの機会が欲しくは無いかね?」
「……なんだと?」
「この証明遊戯にもう一度、正しく参加し直す気はないか、と尋ねたのだよ」
太陽が傾き、その領域を広げる影が如く、神野陰之は倒れ伏す佐山に手を差し伸べてきた。
「ぎりぎりではあったが、君は死ぬ前に解法にたどり着いた。解にこそ至れなかったが、次の機会があればどうだろう。我が盟友の問いかけに応えられる可能性が最も高いひとりであると――」
「――お断りだ、馬鹿め」
神野の言葉を遮るように、佐山は短く拒絶を吐き出した。
「上手くやる自信がないと?」
「そもそも付き合ってやる気すらないとも。失せたまえ、神野陰之――私は貴様も必要としない」
かつて未来精霊と決別した際の言葉を繰り返す。
それを受けた神野は僅かに肩を竦めて見せた。その顔に不快も徒労も滲ませることなく、ただ嗤いながら頷いてみせる。
「それが君の願いなら、私は立ち去るだけだ――だが、君が悪役としての務めを放棄するとは思わなかったな」
「……なんだと?」
それは、佐山の根幹を揺るがす言葉だった。
佐山の姓は悪役を任ずる。骨の髄にまで染みついたその在り方を、佐山自身が否定したと神野は言っている。
「そうだろう? 悪役とは、悪を討つために悪を成す者のことだ。我が盟友は、確かに悪なる者だろう。だというのに、君は"解法"を知りながら、その実行を拒むという。これが役目の放棄でなくてなんなのかね?」
「違う。それは――」
「違うというのなら、示してみせれば良い……」
そして。
佐山・御言は、いつの間にか立った状態で、再び訓練室に佇んでいた。
傷はない。まるで刺されたことが嘘だったかのように、服には破れた形跡どころか血の滲みさえ存在しなかった。
神野陰之の姿はない。だが代わりに、再び現れた新庄・運切がナイフを構え、泣きそうな顔で佐山のことを睨んでいる。
(新庄、君――)
手を差し伸べようとして、佐山は気づく。いつの間にか、佐山はカウリング・ソードを手にしていた。何度も使ったことのある、UCATの制式装備。刃をカウリングしていない、実戦仕様のモデル。
装甲服を着ていない人間など、骨ごと両断できるだろう。そこに、奮う意思と力が伴えば。
ナイフを腰だめに構えた新庄が、佐山目がけて駆け出す。
遅いな、と佐山は思う。躊躇いから足の運びは均一でなく、身体はふらついている。あれでは致命傷を与えることは難しい。逆にこちらは避けることは当然、カウンターを合わせることすら容易だろう。
"解法"――神野陰之が匂わせた、この証明遊戯に決着をつけるための道筋。たどり着いたそれを、改めて意識する。自分がその方法に沿った時、具体的に何をしなくてはならないのか。
迷いはなかった。佐山・御言は、己に必要な動きをする
「え――?」
そして、新庄・運切はぽかんと口を開け、視線を僅かに下げた。
ナイフは佐山の心臓に、深々と突き刺さっていた。新庄が疑念を抱いたのは、己がナイフを握るその両手に、佐山の右手が添えられていたからだ。
防御しようとして失敗したのか? いいや、そうではなく――
「わるい、ね、新庄、くん」
「さ――」
同時、佐山のもう片方の手が動き、新庄の首に触れた。その指先が正確に頸動脈を捉え、圧迫し、少女の意識を飛ばす。
――神野陰之の言葉は正しかった。
佐山・御言は、悪役を放棄した。そうする以外の選択肢は選べなかった。
――悪役を成すためには、新庄を殺す他ないというのなら。
(全く、私もつくづく未熟だね――)
そうして悪役を放棄したその男は、自ら望んでその意識を手放した。
◇◇◇
SHIZUKUと蒼い殺戮者の性能を比較した場合、飛行性能という分野では明らかに前者が勝る。
これは覆しようのない事実だった。この場合の覆しようがないというのは、そもそも開発コンセプトの時点でそうなっているという意味だ。
人型というのは、空を飛ぶようには出来ていない。原型たる人間が空を飛ぶ生き物ではないのだから当然だろう。自動歩兵の場合はある程度、装甲を変形させることで対応もできるが、それでも根本的に空を飛ぶには無駄が多いのだ。
その点、桁外れの技術力を持つザ・サードによって設計された偵察機であるSHIZUKUは、飛行するにあたって完璧な形状をしている。搭載されている機械知性体――しずくの特異性を抜きにしても、"飛行"という分野では、自動歩兵は一歩も二歩も劣るのだ。
故にこうして、蒼い殺戮者は背後を取られていた。亜音速で飛行する自動歩兵の後ろに、電子偵察機がぴたりとつけている。
発砲。SHIZUKUの20ミリ機関砲が再び火を噴く。
それと完全にタイミングを合わせて、蒼い殺戮者は大きく旋回し、迫り来る火線を避けるコースを取っていた。SHIZUKUもそのコースを追尾し、再照準しながら散発的に発砲を繰り返す。
だが――当たらない。
蒼い殺戮者は、敵が機関砲を撃つタイミングとその弾道を完全に読み切っていた。それは、彼が最高の戦闘センスを持つ突然変異の培養脳であるということだけが理由ではない。蒼い殺戮者には、しずくとバディを組み、何百時間と飛行シミュレーションを繰り返したという莫大な経験値がある。相手の手の内を知り尽くしている以上、そうそう不覚は取らない。空対空ミサイルが装備されていたらどうにもならなかったが、どうやら現在行使できるのは機関砲だけのようだ。
戦闘センスも実戦経験も、圧倒的に蒼い殺戮者が格上。このまま行けば――
(――こちらが負けるな)
空色の自動歩兵は、その結末を静かに予想する。
起動している光の剣を、後方を飛ぶ敵機影に向けた。先の戦闘で組み上げた射撃ルーチンを用いて、正確な狙いで刀身を射出する。
今度はSHIZUKUが回避行動を取った。ほんの僅かに機体を傾けるだけで、迫り来る光の刃を回避。そのまま蒼い殺戮者の背後を取り続ける。
蒼い殺戮者の機動性では、SHIZUKUを振り切れない。
さらに連射力に欠ける光の剣しか武器がない現状、牽制射撃もままならなかった。
自動歩兵の標準装備であるスマートライフルが大量の弾丸を散蒔ける仕様になっているのは、飛行中という不安定な状態から攻撃するにはその方が効率的だからだ。
互いに高度な三次元機動を行う空対空戦闘ともなれば、単射ではまず命中は期待できない。
可能性があるとすれば超至近距離からの接射だが、距離の主導権は向こうにある。小回りを活かして回り込もうとしても、SHIZUKUがバーナーを噴けば容易く蒼い殺戮者は引き離されてしまうだろう。
機動性と武装の差は如何ともしがたい。双方相手を落とす手段がないという点では千日手にも見えるが、航続可能距離を考えれば最終的に自動歩兵が不利になるのは明白だ。では、どうするか。
一瞬の思考。戦闘に特化した変異培養脳が、勝利の為の手順を導き出す。
SHIZUKUの前を飛ぶ蒼い殺戮者は急旋回を行った。体感的にはほとんどその場で回転するような無茶な機動。急激に変化するベクトルと慣性の板挟みにされたフレームが悲鳴を上げる。
その機動の意図は明白だ。ドッグファイトにおける定石、即ち回り込んで相手の背後を取る戦術。速度に劣るとも、小回りの利く自動歩兵ならではの空戦機動。
だがSHIZUKUもさるものだった。もとより、この最新型の電子偵察機はザ・サードが持つ最新技術をふんだんに盛り込んだもの。そこらの攻撃機(ファイター)などよりも機動性は上だ。
機体各所のエアブレーキを展開。空気抵抗を増加させて機体を急減速させる。小回りが利く自動歩兵ほどではないが、それでも蒼い殺戮者が目論んだ交差に至る前に、ほんの僅かな空白を生む。
機体を減速させると言うことは、その分、被弾する確率が上がると言うことだ。
SHIZUKUは敵自動歩兵の予想進路上に重なるよう照準し、大量の弾丸を散蒔いた。狙いはドンピシャ。貫通力を重視したフレシェット弾の雨の中に、蒼い機影が飛び込む。
だが次の瞬間、蒼い殺戮者がその姿を消した。
SHIZUKUに僅かな動揺が生まれる。自動歩兵の姿が見えなくなったことにではない。相手が使った手段そのものにだ。
蒼い殺戮者が、その機体に搭載された遮蔽装置(ステルス・コート)を起動していた。各種観測手段を欺瞞する査察軍の基本装備。姿が消えたのは、ほぼ完全な光学的透明化を実現するその装置によるものだ。
だがSHIZUKUの動揺は、してやられたというような、判断の妙に舌を巻くといった類いのものではない。それはただ単に、純粋な疑問から来るものだった。
遮蔽装置は査察軍の標準装備だ。それ故に、その対抗手段もほぼ全ての兵器に搭載されている。
光学的に透明になったとて、SHIZUKUに積まれた光学カメラ以外の各種センサは、蒼い自動歩兵の存在をしっかりと捉えていた。
吐き出されたフレシェット弾の群れが、自動歩兵の進路と交差する。SHIZUKUの予想通りに、先頭の二十発余りがすり抜けた後、装甲が裂ける破滅的な悲鳴と火花が宙に舞った。空色の破片がその色を取り戻し、散らばるように落下していく。
それは間違いなく、蒼い殺戮者にSHIZUKUの攻撃が命中したことを意味していた。さらに命中弾が続く。電子偵察機たるSHIZUKUに搭載されている索敵装置は、自動歩兵のものとは比べものにならない。例え敵が透明であろうとも、どこに命中したかまで、彼女ははっきりと読み取っていた。自動歩兵の背部飛行ユニット、鋼鉄の翼がへし折れ、左腕が吹き飛び、そして培養脳が収められている胸部に砲弾が直撃していった。
ジェネレーターには直撃しなかったようで爆散などはしなかったようだが、培養脳は自動歩兵の中枢である。十分な致命傷だ。火花と煙を噴きながら、奇跡的に未だ光学的透明を保ったままのそれが砂漠に落下していく。
無敵を誇った蒼い自動歩兵が、墜落した瞬間だった。
これは覆しようのない事実だった。この場合の覆しようがないというのは、そもそも開発コンセプトの時点でそうなっているという意味だ。
人型というのは、空を飛ぶようには出来ていない。原型たる人間が空を飛ぶ生き物ではないのだから当然だろう。自動歩兵の場合はある程度、装甲を変形させることで対応もできるが、それでも根本的に空を飛ぶには無駄が多いのだ。
その点、桁外れの技術力を持つザ・サードによって設計された偵察機であるSHIZUKUは、飛行するにあたって完璧な形状をしている。搭載されている機械知性体――しずくの特異性を抜きにしても、"飛行"という分野では、自動歩兵は一歩も二歩も劣るのだ。
故にこうして、蒼い殺戮者は背後を取られていた。亜音速で飛行する自動歩兵の後ろに、電子偵察機がぴたりとつけている。
発砲。SHIZUKUの20ミリ機関砲が再び火を噴く。
それと完全にタイミングを合わせて、蒼い殺戮者は大きく旋回し、迫り来る火線を避けるコースを取っていた。SHIZUKUもそのコースを追尾し、再照準しながら散発的に発砲を繰り返す。
だが――当たらない。
蒼い殺戮者は、敵が機関砲を撃つタイミングとその弾道を完全に読み切っていた。それは、彼が最高の戦闘センスを持つ突然変異の培養脳であるということだけが理由ではない。蒼い殺戮者には、しずくとバディを組み、何百時間と飛行シミュレーションを繰り返したという莫大な経験値がある。相手の手の内を知り尽くしている以上、そうそう不覚は取らない。空対空ミサイルが装備されていたらどうにもならなかったが、どうやら現在行使できるのは機関砲だけのようだ。
戦闘センスも実戦経験も、圧倒的に蒼い殺戮者が格上。このまま行けば――
(――こちらが負けるな)
空色の自動歩兵は、その結末を静かに予想する。
起動している光の剣を、後方を飛ぶ敵機影に向けた。先の戦闘で組み上げた射撃ルーチンを用いて、正確な狙いで刀身を射出する。
今度はSHIZUKUが回避行動を取った。ほんの僅かに機体を傾けるだけで、迫り来る光の刃を回避。そのまま蒼い殺戮者の背後を取り続ける。
蒼い殺戮者の機動性では、SHIZUKUを振り切れない。
さらに連射力に欠ける光の剣しか武器がない現状、牽制射撃もままならなかった。
自動歩兵の標準装備であるスマートライフルが大量の弾丸を散蒔ける仕様になっているのは、飛行中という不安定な状態から攻撃するにはその方が効率的だからだ。
互いに高度な三次元機動を行う空対空戦闘ともなれば、単射ではまず命中は期待できない。
可能性があるとすれば超至近距離からの接射だが、距離の主導権は向こうにある。小回りを活かして回り込もうとしても、SHIZUKUがバーナーを噴けば容易く蒼い殺戮者は引き離されてしまうだろう。
機動性と武装の差は如何ともしがたい。双方相手を落とす手段がないという点では千日手にも見えるが、航続可能距離を考えれば最終的に自動歩兵が不利になるのは明白だ。では、どうするか。
一瞬の思考。戦闘に特化した変異培養脳が、勝利の為の手順を導き出す。
SHIZUKUの前を飛ぶ蒼い殺戮者は急旋回を行った。体感的にはほとんどその場で回転するような無茶な機動。急激に変化するベクトルと慣性の板挟みにされたフレームが悲鳴を上げる。
その機動の意図は明白だ。ドッグファイトにおける定石、即ち回り込んで相手の背後を取る戦術。速度に劣るとも、小回りの利く自動歩兵ならではの空戦機動。
だがSHIZUKUもさるものだった。もとより、この最新型の電子偵察機はザ・サードが持つ最新技術をふんだんに盛り込んだもの。そこらの攻撃機(ファイター)などよりも機動性は上だ。
機体各所のエアブレーキを展開。空気抵抗を増加させて機体を急減速させる。小回りが利く自動歩兵ほどではないが、それでも蒼い殺戮者が目論んだ交差に至る前に、ほんの僅かな空白を生む。
機体を減速させると言うことは、その分、被弾する確率が上がると言うことだ。
SHIZUKUは敵自動歩兵の予想進路上に重なるよう照準し、大量の弾丸を散蒔いた。狙いはドンピシャ。貫通力を重視したフレシェット弾の雨の中に、蒼い機影が飛び込む。
だが次の瞬間、蒼い殺戮者がその姿を消した。
SHIZUKUに僅かな動揺が生まれる。自動歩兵の姿が見えなくなったことにではない。相手が使った手段そのものにだ。
蒼い殺戮者が、その機体に搭載された遮蔽装置(ステルス・コート)を起動していた。各種観測手段を欺瞞する査察軍の基本装備。姿が消えたのは、ほぼ完全な光学的透明化を実現するその装置によるものだ。
だがSHIZUKUの動揺は、してやられたというような、判断の妙に舌を巻くといった類いのものではない。それはただ単に、純粋な疑問から来るものだった。
遮蔽装置は査察軍の標準装備だ。それ故に、その対抗手段もほぼ全ての兵器に搭載されている。
光学的に透明になったとて、SHIZUKUに積まれた光学カメラ以外の各種センサは、蒼い自動歩兵の存在をしっかりと捉えていた。
吐き出されたフレシェット弾の群れが、自動歩兵の進路と交差する。SHIZUKUの予想通りに、先頭の二十発余りがすり抜けた後、装甲が裂ける破滅的な悲鳴と火花が宙に舞った。空色の破片がその色を取り戻し、散らばるように落下していく。
それは間違いなく、蒼い殺戮者にSHIZUKUの攻撃が命中したことを意味していた。さらに命中弾が続く。電子偵察機たるSHIZUKUに搭載されている索敵装置は、自動歩兵のものとは比べものにならない。例え敵が透明であろうとも、どこに命中したかまで、彼女ははっきりと読み取っていた。自動歩兵の背部飛行ユニット、鋼鉄の翼がへし折れ、左腕が吹き飛び、そして培養脳が収められている胸部に砲弾が直撃していった。
ジェネレーターには直撃しなかったようで爆散などはしなかったようだが、培養脳は自動歩兵の中枢である。十分な致命傷だ。火花と煙を噴きながら、奇跡的に未だ光学的透明を保ったままのそれが砂漠に落下していく。
無敵を誇った蒼い自動歩兵が、墜落した瞬間だった。
◇◇◇
訓練場の扉を突き破り、ファンメイは見慣れた生活区域に踏み込んだ。
「あいつはどこ!?」
左右に広がる通路を見回す。
ここはファンメイにとって家も同然の場所だ。侵入者が勝手にうろつくというのは我慢がならなかった。おまけにあれは自分の"敵"だ。必ず殺さなければならない。
だが生活区域は広い。敵が逃げに徹したら、自分一人で見つけるのはそれなりに重労働だろう。隔壁を降ろして区画を分けてから捜索していくか――
そんな風にこれからの計画を立てていたファンメイを嘲笑うかのように、あの侵入者が再び姿を現した。十数メートル離れた通路の先の曲がり角から、こちらの様子を伺うかのように半身を晒している。
「見つけた!」
派手な赤髪の青年。ファンメイのように運動能力を強化しているわけでもないのに、こちらからの攻撃は一切当たらず、不思議な情報解体まで使ってくる。
ファンメイの知るどのタイプの魔法士とも違うが――問題は無い。情報解体では『龍使い』を傷つけることは出来ない。さらに敵が生活区に逃げ込んだのも、ファンメイの有利に繋がる。広大な空間を有する訓練場とは違い、生活区域は通路も部屋もその広さはたかが知れている。翼を全て攻撃に回せば"論理的に回避不可能な攻撃"を繰り出すことも容易い。
警戒しなければならないのは、敵が先にこの区域に入り込んだこと――罠を仕掛けられていないかということだ。ここに武器爆薬の類いは置いていないはずだが、敵が隠し持っていた可能性はゼロではない。
落ち着け、とファンメイは心の中で唱えた。冷静でさえいれば、こちらが絶対に有利なのだから、と。
だが敵が繰り出した次の一撃で、そんなファンメイの余裕は吹っ飛んでしまうことになる。
「水玉、好きなのか?」
「……?」
奇妙な問いかけ。思わずきょとんとしてしまう。
敵はどうしてそれを知っているのだろう。確かにファンメイは水玉模様が好きだ。ここの自室にも、可能な限り水玉模様を取り入れて――
「! あ、あんた、もしかして、私の部屋っ」
ファンメイの弾劾に、敵は苦笑を浮かべて(ファンメイには下卑た笑みに見えていたが)通路の奥に後退していく。
「信じらんない、このヘンタイ!」
脚力を強化し、ファンメイはその後を追いかけた。『龍使い』渾身の踏み出しに、足下のタイルに罅が入る。
どうしてくれようか、とファンメイは憤怒に染まる頭で考える。部屋には乙女の秘密がいっぱいだ。それを暴かれたとなれば、処刑は確定。問題はどうやって後悔させるべきかということだ。
敵が首を突き出していた角を曲がると、翻る赤いジャケットの裾が、とある部屋の中に消えるのが見えた。
「やった、袋の鼠!」
その部屋のことをファンメイは知っていた。管理室だ。中には壁のようにそびえたつ大型のコンピューターがいくつかあるだけで、その配置もファンメイは完全に覚えている。
「いっけぇ!」
ひとつしかない部屋の扉の前に陣取って、背中の翼をばらし、左右8対16本の触手へ変じさせた。
打ち出す。触手は素早く室内を駆け巡った。配置されたコンピューターの間を縫うように飛び回り、人体が収まりそうなスペースを寸断していく。先ほどの戦闘中にI-ブレインで計測しておいた敵の体格を考えれば、絶対に回避できる隙間は無い。論理的に回避できない攻撃だ。
そのはずなのだが――
(手応えが無い?)
敵を貫いた感触のデータが、I-ブレインに伝わってこない。
ファンメイは触手を天井に突き刺して、身体を持ち上げた。高所から部屋の中を一望する。
敵の姿は無い。だが、どこに行ったのかは分かった。部屋の床が外され、底も見えない虚ろを晒している。
「これって……」
ファンメイはこの穴を知っていた。しばらく前、ファンメイが見つけたメンテナンス用のハッチか何かだ。いつか驚かせようと思って、シャオロンにも秘密にしている。だからこそ、敵がここを知っているというのは予測できなかったし、不気味だった。
ハッチをのぞき込めば、昇降用の梯子が取り付けられているのが見える。敵がここを下っていったのは間違いないだろう。
この先は、ファンメイにとっても未知の領域だ。むやみに追撃するのは危険だが、ここで見失ってしまえば二度と追いつくことも出来ないのでは無いか、という危機感が湧いてくる。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、だよね」
追撃を決めさせた決定的な要因は、I-ブレインの相性だった。敵の能力が情報解体に偏っている以上、『龍使い』が負ける要素は無い。
己を奮い立たせるように、故郷の諺を呟いて、ファンメイは暗い穴へ飛び込んだ。
「――で、一丁上がりって訳だ」
ヘイズは足下に倒れ伏すファンメイの側に屈み込んでいた。
少女は意識を朦朧とさせている。気は引けたが、ヘイズが顎に掌底を入れて脳震盪を起こさせたのだ。生体変化に特化した『龍使い』にとっては、本来、屁でも無い攻撃だったろうが――I-ブレインが停止していれば話は別だ。
『龍使い』の実験場。その第二階層以下において、『龍使い』は力を発揮できない。そういうプロテクトが、彼女たちのI-ブレインに刻み込まれているためだ。
ヘイズと出会う前のファンメイなら、そのプロテクトは解除されていない筈。その可能性に賭けて、彼女をこの場に誘い込んだ。
そしてヘイズは賭けに勝ち、I-ブレインが停止した隙を突いてファンメイを強襲したというわけだ。
「俺にしては運が良かったな……心配してた掃除ロボットも来ねえし」
呟きながら簡易型のノイズメーカーを取り出し、ファンメイの首筋に装着する。彼女が訓練場の扉を破るまでの間に、上の備品室から取ってきたものだ。かつて自分が装着させられていたものを外して貰った際、その場所を覚えていたのである。
これでファンメイはただの女の子だ。例え目を覚ましても、ノイズメーカーを外すことは出来ない。
(しっかし、これは一体どういうことなんだろうな)
危機が去ったことに安堵して、ヘイズは改めてこの状況について思考を巡らせた。
知り合いを呼び出して襲わせる。この行為に何の意味があるのか。
ヘイズの殺傷が目的では無いだろう。単純な戦闘能力なら、ファンメイより優れた者はそこそこいる。
(多分、心の実在を証明せよって奴の関連なんだろうが……説得でもしてみろってのか?)
しかし、プロテクトが有効だったということは、このファンメイはヘイズと出会う前のファンメイなのだ。
言ってしまえば、元の世界でヘイズと行動を共にしているファンメイとは別人と言ってもいいくらいで――
「……」
ふと、脳裏に閃くものがあった。それをどうにか言語化しようとした、刹那。
眼下のファンメイが消え、入れ替えに、背後に別の何者かが現れたことをI-ブレインが告げた。
「あいつはどこ!?」
左右に広がる通路を見回す。
ここはファンメイにとって家も同然の場所だ。侵入者が勝手にうろつくというのは我慢がならなかった。おまけにあれは自分の"敵"だ。必ず殺さなければならない。
だが生活区域は広い。敵が逃げに徹したら、自分一人で見つけるのはそれなりに重労働だろう。隔壁を降ろして区画を分けてから捜索していくか――
そんな風にこれからの計画を立てていたファンメイを嘲笑うかのように、あの侵入者が再び姿を現した。十数メートル離れた通路の先の曲がり角から、こちらの様子を伺うかのように半身を晒している。
「見つけた!」
派手な赤髪の青年。ファンメイのように運動能力を強化しているわけでもないのに、こちらからの攻撃は一切当たらず、不思議な情報解体まで使ってくる。
ファンメイの知るどのタイプの魔法士とも違うが――問題は無い。情報解体では『龍使い』を傷つけることは出来ない。さらに敵が生活区に逃げ込んだのも、ファンメイの有利に繋がる。広大な空間を有する訓練場とは違い、生活区域は通路も部屋もその広さはたかが知れている。翼を全て攻撃に回せば"論理的に回避不可能な攻撃"を繰り出すことも容易い。
警戒しなければならないのは、敵が先にこの区域に入り込んだこと――罠を仕掛けられていないかということだ。ここに武器爆薬の類いは置いていないはずだが、敵が隠し持っていた可能性はゼロではない。
落ち着け、とファンメイは心の中で唱えた。冷静でさえいれば、こちらが絶対に有利なのだから、と。
だが敵が繰り出した次の一撃で、そんなファンメイの余裕は吹っ飛んでしまうことになる。
「水玉、好きなのか?」
「……?」
奇妙な問いかけ。思わずきょとんとしてしまう。
敵はどうしてそれを知っているのだろう。確かにファンメイは水玉模様が好きだ。ここの自室にも、可能な限り水玉模様を取り入れて――
「! あ、あんた、もしかして、私の部屋っ」
ファンメイの弾劾に、敵は苦笑を浮かべて(ファンメイには下卑た笑みに見えていたが)通路の奥に後退していく。
「信じらんない、このヘンタイ!」
脚力を強化し、ファンメイはその後を追いかけた。『龍使い』渾身の踏み出しに、足下のタイルに罅が入る。
どうしてくれようか、とファンメイは憤怒に染まる頭で考える。部屋には乙女の秘密がいっぱいだ。それを暴かれたとなれば、処刑は確定。問題はどうやって後悔させるべきかということだ。
敵が首を突き出していた角を曲がると、翻る赤いジャケットの裾が、とある部屋の中に消えるのが見えた。
「やった、袋の鼠!」
その部屋のことをファンメイは知っていた。管理室だ。中には壁のようにそびえたつ大型のコンピューターがいくつかあるだけで、その配置もファンメイは完全に覚えている。
「いっけぇ!」
ひとつしかない部屋の扉の前に陣取って、背中の翼をばらし、左右8対16本の触手へ変じさせた。
打ち出す。触手は素早く室内を駆け巡った。配置されたコンピューターの間を縫うように飛び回り、人体が収まりそうなスペースを寸断していく。先ほどの戦闘中にI-ブレインで計測しておいた敵の体格を考えれば、絶対に回避できる隙間は無い。論理的に回避できない攻撃だ。
そのはずなのだが――
(手応えが無い?)
敵を貫いた感触のデータが、I-ブレインに伝わってこない。
ファンメイは触手を天井に突き刺して、身体を持ち上げた。高所から部屋の中を一望する。
敵の姿は無い。だが、どこに行ったのかは分かった。部屋の床が外され、底も見えない虚ろを晒している。
「これって……」
ファンメイはこの穴を知っていた。しばらく前、ファンメイが見つけたメンテナンス用のハッチか何かだ。いつか驚かせようと思って、シャオロンにも秘密にしている。だからこそ、敵がここを知っているというのは予測できなかったし、不気味だった。
ハッチをのぞき込めば、昇降用の梯子が取り付けられているのが見える。敵がここを下っていったのは間違いないだろう。
この先は、ファンメイにとっても未知の領域だ。むやみに追撃するのは危険だが、ここで見失ってしまえば二度と追いつくことも出来ないのでは無いか、という危機感が湧いてくる。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、だよね」
追撃を決めさせた決定的な要因は、I-ブレインの相性だった。敵の能力が情報解体に偏っている以上、『龍使い』が負ける要素は無い。
己を奮い立たせるように、故郷の諺を呟いて、ファンメイは暗い穴へ飛び込んだ。
「――で、一丁上がりって訳だ」
ヘイズは足下に倒れ伏すファンメイの側に屈み込んでいた。
少女は意識を朦朧とさせている。気は引けたが、ヘイズが顎に掌底を入れて脳震盪を起こさせたのだ。生体変化に特化した『龍使い』にとっては、本来、屁でも無い攻撃だったろうが――I-ブレインが停止していれば話は別だ。
『龍使い』の実験場。その第二階層以下において、『龍使い』は力を発揮できない。そういうプロテクトが、彼女たちのI-ブレインに刻み込まれているためだ。
ヘイズと出会う前のファンメイなら、そのプロテクトは解除されていない筈。その可能性に賭けて、彼女をこの場に誘い込んだ。
そしてヘイズは賭けに勝ち、I-ブレインが停止した隙を突いてファンメイを強襲したというわけだ。
「俺にしては運が良かったな……心配してた掃除ロボットも来ねえし」
呟きながら簡易型のノイズメーカーを取り出し、ファンメイの首筋に装着する。彼女が訓練場の扉を破るまでの間に、上の備品室から取ってきたものだ。かつて自分が装着させられていたものを外して貰った際、その場所を覚えていたのである。
これでファンメイはただの女の子だ。例え目を覚ましても、ノイズメーカーを外すことは出来ない。
(しっかし、これは一体どういうことなんだろうな)
危機が去ったことに安堵して、ヘイズは改めてこの状況について思考を巡らせた。
知り合いを呼び出して襲わせる。この行為に何の意味があるのか。
ヘイズの殺傷が目的では無いだろう。単純な戦闘能力なら、ファンメイより優れた者はそこそこいる。
(多分、心の実在を証明せよって奴の関連なんだろうが……説得でもしてみろってのか?)
しかし、プロテクトが有効だったということは、このファンメイはヘイズと出会う前のファンメイなのだ。
言ってしまえば、元の世界でヘイズと行動を共にしているファンメイとは別人と言ってもいいくらいで――
「……」
ふと、脳裏に閃くものがあった。それをどうにか言語化しようとした、刹那。
眼下のファンメイが消え、入れ替えに、背後に別の何者かが現れたことをI-ブレインが告げた。
◇◇◇
ガユスの突き出す魔杖剣<断罪者ヨルガ>の切っ先に組成式の燐光が灯る。
化学錬成系第三階位<緋竜七咆(ハボリュム)>によって生み出されたナパーム火炎は、まるで赤い絨毯のように広がりながら宙を走った。
薄く、だが広く伸ばされた火炎の形状は小賢しい眼鏡の策略だろう。完全に回避不能な範囲に発動させる咒力はいまのガユスに無い。だからあえて上下には火炎を広げず、左右にのみ大きく展開したのだ。
このまま行けば紅蓮はギギナの腹部へと直撃し、致命的な深度の火傷を引き起こすだろう。
だがこの程度の工夫で討ち取られるようなら、そもそもギギナは十三階梯になる前に死んでいる。
炎の中に、ギギナの姿が消えた。少なくともガユスの位置からはそう見えた。炎に飲み込まれたようにしか見えなかった。
だが違う。炎が空気を掻き回す音に紛れていたが、確かに疾走する足音が響いていた。
炎は左右に伸ばされていた――故に、地面との間に十分なスペースがある。
赤い海に潜るように、ギギナは獣のような低姿勢を維持したまま突進していた。化け物じみた体幹と足首の強さ。背中を輻射熱が焦がすが、生体系の極致たる剣舞士にとって軽度の火傷など考慮する対象にもならない。
時にして半秒。体術の未熟なガユスにしてみれば僅か一瞬。神速をもって振られた屠竜刀ネレトーの間合いにガユスは捕まり、
「そうだろうな。眼鏡の御守りは貴様の役目だった――クエロ・ラディーン」
長大な竜殺しの刃を食い止めたのは魔杖短槍<雷哭のイルディラ>。繰り手は『正義の咒式士』クエロ・ラディーン。
女の細身で巨大な金属塊を受け止めるのはどこか幻想めいた光景だった。だが無論、咒式士同士の戦闘なればそこにあるのは魔法ではなく単なる物理に過ぎない。攻性咒式士達の中でも、咒式や刃が飛び交う中に切り込んでいく前衛は神経系や筋肉を高効率の物に置換している場合がほとんどだ。クエロもその例に漏れず、成人男性を軽く凌駕する腕力を誇る。
だが、
「いまの貴様では不足だ」
片手で振るわれるネレトーの前に、クエロが両手で掲げた魔杖短槍が押し込まれていく。咒式戦闘とは、魔法ではなく単なる物理現象の応酬にすぎない――ならば当然、勝つのは守るべきものを背後に抱えるものでも、貴い志を持つのでもない。単に力の強い方だ。
"いまのクエロ"に到達者級剣舞士の膂力を受け切ることは不可能。覆せぬ理がそこにはあった。
(あと一秒も押し込めば殺せるな)
ギギナの読みは外れない。エリダナ最強の剣舞士の予測は。
だからその予測に従い、ギギナは刃を引いた。背後に跳躍。コンマ一秒後、ギギナのいた空間を第四階位の化学錬成系咒式<銀嶺氷凍息(クローセル)>による液体窒素の槍が貫く。
冷気の軌跡を遡れば、そこには追撃の組成式を次々に紡ぐガユスの姿。
放たれる音速の鉄槍を更に後退して回避し、電撃の鞭をネレトーで散らし無効化する。その間に、クエロは体勢を取り戻し、さらに咒式掃射の流れに加わろうと魔杖短槍の切っ先をこちらに向けていた。
咒式戦闘の鉄則――前衛と後衛の組み合わせ。前衛が時間を稼ぎ、後衛が強力な咒式を紡ぐ。あるいは今の様に、前衛を後衛が援護する。
黄金のコンビネーションだ。息の合った前衛と後衛が揃えば、戦力は数倍に膨れ上がる。
到達者級のギギナの力は、在りし日の、いまだ12階梯以下である筈の二人のどちらと比べても上回っているだろう。だがギギナ単体と、クエロとガユスのコンビで比較してみればどうか。
(取ることのできる戦術数、不確定要素からのカバー――こちらがやや不利というところか)
互いの戦力差をギギナは冷静に分析し、そして獰猛な笑みを浮かべる。
そうでなければ面白くない。
ギギナは後退を続けた。左右へのステップとフェイントを織り交ぜ、放たれる咒式の雨を回避していく。
相手が凡百の咒式士であれば何とでもなるが、あの二人はこちらの回避パターンを知り尽くしてる。流石にこの弾幕を掻い潜って接近するのは難しい。遠距離戦闘ではこちらが不利だ。常ならば牽制用に装備している封咒弾筒も今はない。
背後に山と積み重なったゴミの中から、ボディだけになった廃車を掴み、投げ付ける。剛腕から投擲された重さ数百キロの鉄塊を、左右に分かれて回避する二人。
投擲に向かない形状故、大した速度は出ない。精々が時速150kmというところだろう。だが車体の質量と合金の強度は、咄嗟に咒式で迎撃することを難しくさせている。
(分断されて弾幕が薄くなったな)
好機とみて、ギギナは後退をやめた。百キロ超の身体が、完璧な体重移動によって滑ることもなく停止する。
多少の被弾は覚悟の上だ。生体強化系第三階位<衂蟹殻鎧(ドラメルク)>で生体甲冑を展開。左右に分かれたことで密度を減らした弾幕の中に駆け込む。前方からガユスが、左手からはクエロが連射可能な低位咒式による掃射を行ってくるが、致命的なものだけネレトーで撃ち落とし、残りは装甲で受け流す。
刃の間合いにガユスを入れるまであと一歩。今度はクエロによる援護も間に合わない。
だが刃を振り上げるその一瞬、ガユスの口元が陰険に釣り上がるのをギギナは見逃さなかった。
「くたばれ腐れドラッケン」
次の瞬間、足下で炸裂したのは化学鋼成系<佝黎威猛雨(クレイ・モウ)>によって生み出された指向性散弾地雷の群れ。ギギナの突進を読んだガユスが、予め自分の足下に展開していたのだ。
数百にも及ぶ散弾の群れが直撃すれば、さしものギギナと言えど多大な痛手を被る。
それでも即座に絶命はしない。このまま攻撃を喰らいつつガユスを叩き切っても、治癒咒式を発動させるくらいは可能だろう――ただし、クエロによる追撃がなければだ。
舌打ちをひとつ残し、ギギナは屠竜刀のトリガーを引いた。<空輪龜(ゲメイラ)>を足裏で発動させ、圧縮空気の噴出を利用し一気に10メルトルを飛び上がる。
そのすぐ下を散弾と、クエロが紡いだ必殺の<電乖閻葬雷珠(マーコキアズ)>が通り抜けていった。咒式を伴わない跳躍であったのなら、あのプラズマ火球に膝下を持って行かれていた。
ギギナは続けて<黒翼翅(アルファス)>による翼を展開し、空中で制動を掛ける。
だがそこへさらにガユスが咒式を紡いだ。ギギナとガユスのちょうど中間地点にTNT爆薬が錬成され、即時起爆する。秒速8000mを超える衝撃波とそれに乗って撒き散らされる金属片は、この距離では回避のしようもない。だが。
「貴様のそれは見飽きている」
ガユスの得手だった<爆炸吼(アイニ)>の組成式を見切ったギギナは、同時に生体強化系第二階位<骨硬楯(ボート)>を展開していた。生成された骨の盾が爆風を受け止め――
(軽い?)
盾越しに受ける衝撃に、違和感を覚える。
殺傷力を高めるための金属片が生成されていない。爆発の威力そのものも、かなり控えめになっていた。
衝撃が通り過ぎた後、崩壊する盾を振り捨てて新たに得た視界に、同じく爆発の衝撃を利用して、無様に転がりつつも距離を取ったガユスの姿を俯瞰する。
(お得意のブラフか)
その看破と同時、敵が選択した戦術の正体にもギギナは気づいた。
攻性咒式士の前衛職と後衛職が戦った場合、開始距離にもよるが前衛が有利となることが多い。後衛とは段違いの頑強さや反応速度で咒式を耐え、致命の一撃を見舞えるからだ。後衛単体で勝つには、不意打ちや超遠距離から、前衛が回避・防御できない規模の高位咒式を放つしかない。
この法則をガユスとクエロも理解している。ギギナに真っ向から勝利するためには、第五から七階位の高位咒式を放つしかない。だが"この"ガユスにはまだそこまでの咒力は無く、相方であるクエロに高位咒式を紡がせる為の時間を稼ぐことも出来ない。
クエロは前衛も出来るが、純粋な前衛職であるギギナには劣る。さらに捨て身で時間を稼いだところで、ガユスの咒式ではギギナを確殺できる可能性は高くない。
純粋な地力ではギギナが勝るため、戦闘が長引けばそれだけギギナの方が有利になる。
だが唯一、ガユスとクエロのコンビがギギナに対し、明確に勝っているものがある。
(狙いはこちらの再装填だな)
ネレトーに装填できる弾数は六発。咒式を六度使えば、その度に排莢とリロードを行わなければならない。
咒弾切れを狙う――効果的なようで、実戦でそれが行われることは少ない。
弾倉の交換を許さないほど相手を防戦一方にできるような実力差があるのなら、そもそもそんな作戦は必要なくなる。実力が伯仲している場合では、無理に攻め続ければ手痛いカウンターを貰うことになりかねない。
そも、相手が用いる魔杖剣の形式が分かったとしても、弾倉を延長するなどの改造を行っている可能性もある。戦闘中に相手の残り咒弾数を正確に把握するというのはそれなりに負担であり、そして負担に見合うほどのリターンはない。
つまり、これは――
(私を知っているこの二人だからこそ取れる戦術、か)
通常、ほとんどの攻性咒式士は、メインの他にサブの魔杖剣を備えている。
だが誇り高きドラッケン族の戦士としての理想を過剰に追い求めているギギナはそうではない。屠竜刀ネレトー以外の魔杖剣を振るうことなど有り得ないことを、ダラハイド事務所の面々はいやというほど知っている。
ネレトーの弾倉に残る弾丸は、残り二発。
咒弾を使い切った状態で、あの二人の掃射を防ぐことが出来るか――さらに二人が用意しているであろう、必殺の策を回避することが出来るか。
(無理だな)
ギギナは即座に判断して、生成した骨の盾を身体から切り離し、クエロに向かって投擲した。次の咒式を紡いでいたクエロが回避を選択し、組成式を崩しながら地面を転がる。
黒翼を畳んで着地すると、躊躇わずネレトーの引き金を二度、引いた。弾倉内の残弾を全て消費して<鋼剛鬼力膂法(バー・エルク)>を多重発動。強化された筋力で地を蹴りつけ、ガユスへ追撃する。先ほどの自爆戦法めいた<爆炸吼(アイニ)>によって作られた距離は一瞬で潰れ、ようやく起き上がろうとしていたガユスが、迫り来る颶風に表情を引きつらせた。
苦し紛れに突き出されたガユスの魔杖剣、断罪者ヨルガを、ギギナは一刀のもとに弾き飛ばす。この距離ではガユスが新たに咒式を紡ぐよりも、ギギナが返す刃で首を刎ねる方が早い。
「終わりだ、陰険眼鏡――……っ!?」
掲げられたネレトーが、振り下ろされることなく空中で静止。力無く落下し、その切っ先が地面に突き刺さった。
最強の剣舞士が胸元に手を当て、膝をついた。それを見て凄絶な笑みを浮かべるガユスの口元からは、中毒反応を示す血の泡が零れている。
ギギナが骨の盾を展開し、一瞬だけ視線が切れたその瞬間に、ガユスは自分を中心に予め咒式を展開していた。化学錬成系第四階位<(バル・バス)>。限定空間内に無色透明のサリンを生成する、必殺の毒ガス咒式である。
当然、ガユスもまたその効果範囲にいた。だがおそらくは錬成系咒式でプラリドキシムやアトロピンなどの拮抗薬を事前に体内生成していたのだろう。完全な無効化までは無理だが、症状の軽減程度なら十分に可能だ。
二から四階位までの中低位咒式では、ギギナ相手には牽制にしかならない。だからこその自爆戦法。足りない性能を奇策で補おうとするのはガユスの十八番だ。
だがギギナもまた、生体系咒式士の到達者たる十三階梯。毒物に対する抵抗力は、全咒式職の中でもトップクラスである。
体内の恒常咒式が全力で代謝機能を活性化させ、毒ガスの影響を排除しようと動きだす。完全な解毒は叶わずとも、二秒もあれば回避行動くらいは取れるようになるだろう。
だが咒式戦闘において、二秒というのは永遠にも等しい時間だ。
ギギナの背後で、クエロが<電乖閻葬雷珠(マーコキアズ)>を三重発動。さしもの彼女にとってもかなりの負荷だ。無茶な演算に脳が焼き付きかけ鼻血を垂らしている。ここで確実に仕留める気なのだろう。
――ギギナの誘導の通りに。
放たれたプラズマ球が、地に伏すギギナを薙ぎ払った。ガユスが勝利の笑みを浮かべ――クエロが警告を発する。
「上!」
その意味をガユスが理解するよりも早く、空中から投擲された短剣が彼の心臓を貫いた。
ガユスの目が見開かれる。二重の驚愕。為す術もなくプラズマを喰らうはずだったギギナが、再び空中に跳び上がっていること。そしてもうひとつは、自身の胸に突き刺さっている短剣に見覚えがあったこと。
贖罪者マグナス。
それはガユスのコートの内側に今も吊られている筈の魔杖短剣だった。
「返すぞ、眼鏡」
あの島で得たマグナスを投じたギギナが小さく呟く。
ガユスが毒ガスの罠を張っていることを、ギギナは読んでいた。あの時期のガユスが使えるものの中で、ギギナに有効打を与えられる咒式は限られている。決着を早めるために、あえてそこに飛び込んだのだ。
ガユスが予め自身の体内で拮抗薬を生成していたように、ギギナもまた懐のマグナスを使い、各種対抗咒式を発動させていた。サリンは神経伝達物質であるアセチルコリンを分解するAChEを不可逆的に阻害し、過剰に蓄積させることで筋肉の痙攣などを引き起こし、最終的には絶息に至らせる。ギギナは人間が持つ対抗酵素であるPON1やBChEを咒式で増加・超活性化させ、血中のサリンの大部分を分解・無毒化し、症状を緩和させたのだ。
「ガユス――!」
クエロの絶叫。憤怒と絶望を纏う其れを受けながら、着地したギギナは地面に突き刺さったネレトーを掴み、颶風と化した。
剣の間合いに捉えるまでに1秒足らず。筋力強化の咒式はまだ続いている。咒式の多重発動で脳にダメージを負ったクエロでは、迎撃の為の咒式を展開することは間に合わない。結果として彼女が紡げたのは、怨嗟の篭もった呪いの言葉だけだった。
「殺してやる……!」
「今の貴様には無理だ」
彼女が魔法使いであったのなら、その呪文で魔法を紡げたのかも知れないが。
彼らは咒式士。体系化された技術に則って戦う、論理の徒だ。如何に感情を込めようが、咒式は応えない。そこには冷たい方程式しか存在しないのである。
そしてその理に従い、ギギナの振るった刃が、クエロの首を切断した。
裂かれた頸動脈から瀑布の如く血液が噴き出し、怒りに満たされていた彼女の身体から力が抜けていく。彼女の手から魔杖短槍が零れ、地面に転がった。数秒遅れて、その主も同じ道を辿る。
全てが終わり、ギギナはネレトーの弾倉を引き出すと、排莢と装填を行った。なんと言うこともない。いつ戦闘が始まっても良いように弾倉を咒弾で満たしておくという、習慣化したほとんど無意識での動作。
弾丸を取り落とすということもなく、それを終えたギギナは空を見上げた。見慣れたエリダナの夜空。そこへ体内に満ちていた死闘の熱が上っていく。無意識に"クドゥー"の詩を口ずさみながら、ギギナはそれを眺めていた。
化学錬成系第三階位<緋竜七咆(ハボリュム)>によって生み出されたナパーム火炎は、まるで赤い絨毯のように広がりながら宙を走った。
薄く、だが広く伸ばされた火炎の形状は小賢しい眼鏡の策略だろう。完全に回避不能な範囲に発動させる咒力はいまのガユスに無い。だからあえて上下には火炎を広げず、左右にのみ大きく展開したのだ。
このまま行けば紅蓮はギギナの腹部へと直撃し、致命的な深度の火傷を引き起こすだろう。
だがこの程度の工夫で討ち取られるようなら、そもそもギギナは十三階梯になる前に死んでいる。
炎の中に、ギギナの姿が消えた。少なくともガユスの位置からはそう見えた。炎に飲み込まれたようにしか見えなかった。
だが違う。炎が空気を掻き回す音に紛れていたが、確かに疾走する足音が響いていた。
炎は左右に伸ばされていた――故に、地面との間に十分なスペースがある。
赤い海に潜るように、ギギナは獣のような低姿勢を維持したまま突進していた。化け物じみた体幹と足首の強さ。背中を輻射熱が焦がすが、生体系の極致たる剣舞士にとって軽度の火傷など考慮する対象にもならない。
時にして半秒。体術の未熟なガユスにしてみれば僅か一瞬。神速をもって振られた屠竜刀ネレトーの間合いにガユスは捕まり、
「そうだろうな。眼鏡の御守りは貴様の役目だった――クエロ・ラディーン」
長大な竜殺しの刃を食い止めたのは魔杖短槍<雷哭のイルディラ>。繰り手は『正義の咒式士』クエロ・ラディーン。
女の細身で巨大な金属塊を受け止めるのはどこか幻想めいた光景だった。だが無論、咒式士同士の戦闘なればそこにあるのは魔法ではなく単なる物理に過ぎない。攻性咒式士達の中でも、咒式や刃が飛び交う中に切り込んでいく前衛は神経系や筋肉を高効率の物に置換している場合がほとんどだ。クエロもその例に漏れず、成人男性を軽く凌駕する腕力を誇る。
だが、
「いまの貴様では不足だ」
片手で振るわれるネレトーの前に、クエロが両手で掲げた魔杖短槍が押し込まれていく。咒式戦闘とは、魔法ではなく単なる物理現象の応酬にすぎない――ならば当然、勝つのは守るべきものを背後に抱えるものでも、貴い志を持つのでもない。単に力の強い方だ。
"いまのクエロ"に到達者級剣舞士の膂力を受け切ることは不可能。覆せぬ理がそこにはあった。
(あと一秒も押し込めば殺せるな)
ギギナの読みは外れない。エリダナ最強の剣舞士の予測は。
だからその予測に従い、ギギナは刃を引いた。背後に跳躍。コンマ一秒後、ギギナのいた空間を第四階位の化学錬成系咒式<銀嶺氷凍息(クローセル)>による液体窒素の槍が貫く。
冷気の軌跡を遡れば、そこには追撃の組成式を次々に紡ぐガユスの姿。
放たれる音速の鉄槍を更に後退して回避し、電撃の鞭をネレトーで散らし無効化する。その間に、クエロは体勢を取り戻し、さらに咒式掃射の流れに加わろうと魔杖短槍の切っ先をこちらに向けていた。
咒式戦闘の鉄則――前衛と後衛の組み合わせ。前衛が時間を稼ぎ、後衛が強力な咒式を紡ぐ。あるいは今の様に、前衛を後衛が援護する。
黄金のコンビネーションだ。息の合った前衛と後衛が揃えば、戦力は数倍に膨れ上がる。
到達者級のギギナの力は、在りし日の、いまだ12階梯以下である筈の二人のどちらと比べても上回っているだろう。だがギギナ単体と、クエロとガユスのコンビで比較してみればどうか。
(取ることのできる戦術数、不確定要素からのカバー――こちらがやや不利というところか)
互いの戦力差をギギナは冷静に分析し、そして獰猛な笑みを浮かべる。
そうでなければ面白くない。
ギギナは後退を続けた。左右へのステップとフェイントを織り交ぜ、放たれる咒式の雨を回避していく。
相手が凡百の咒式士であれば何とでもなるが、あの二人はこちらの回避パターンを知り尽くしてる。流石にこの弾幕を掻い潜って接近するのは難しい。遠距離戦闘ではこちらが不利だ。常ならば牽制用に装備している封咒弾筒も今はない。
背後に山と積み重なったゴミの中から、ボディだけになった廃車を掴み、投げ付ける。剛腕から投擲された重さ数百キロの鉄塊を、左右に分かれて回避する二人。
投擲に向かない形状故、大した速度は出ない。精々が時速150kmというところだろう。だが車体の質量と合金の強度は、咄嗟に咒式で迎撃することを難しくさせている。
(分断されて弾幕が薄くなったな)
好機とみて、ギギナは後退をやめた。百キロ超の身体が、完璧な体重移動によって滑ることもなく停止する。
多少の被弾は覚悟の上だ。生体強化系第三階位<衂蟹殻鎧(ドラメルク)>で生体甲冑を展開。左右に分かれたことで密度を減らした弾幕の中に駆け込む。前方からガユスが、左手からはクエロが連射可能な低位咒式による掃射を行ってくるが、致命的なものだけネレトーで撃ち落とし、残りは装甲で受け流す。
刃の間合いにガユスを入れるまであと一歩。今度はクエロによる援護も間に合わない。
だが刃を振り上げるその一瞬、ガユスの口元が陰険に釣り上がるのをギギナは見逃さなかった。
「くたばれ腐れドラッケン」
次の瞬間、足下で炸裂したのは化学鋼成系<佝黎威猛雨(クレイ・モウ)>によって生み出された指向性散弾地雷の群れ。ギギナの突進を読んだガユスが、予め自分の足下に展開していたのだ。
数百にも及ぶ散弾の群れが直撃すれば、さしものギギナと言えど多大な痛手を被る。
それでも即座に絶命はしない。このまま攻撃を喰らいつつガユスを叩き切っても、治癒咒式を発動させるくらいは可能だろう――ただし、クエロによる追撃がなければだ。
舌打ちをひとつ残し、ギギナは屠竜刀のトリガーを引いた。<空輪龜(ゲメイラ)>を足裏で発動させ、圧縮空気の噴出を利用し一気に10メルトルを飛び上がる。
そのすぐ下を散弾と、クエロが紡いだ必殺の<電乖閻葬雷珠(マーコキアズ)>が通り抜けていった。咒式を伴わない跳躍であったのなら、あのプラズマ火球に膝下を持って行かれていた。
ギギナは続けて<黒翼翅(アルファス)>による翼を展開し、空中で制動を掛ける。
だがそこへさらにガユスが咒式を紡いだ。ギギナとガユスのちょうど中間地点にTNT爆薬が錬成され、即時起爆する。秒速8000mを超える衝撃波とそれに乗って撒き散らされる金属片は、この距離では回避のしようもない。だが。
「貴様のそれは見飽きている」
ガユスの得手だった<爆炸吼(アイニ)>の組成式を見切ったギギナは、同時に生体強化系第二階位<骨硬楯(ボート)>を展開していた。生成された骨の盾が爆風を受け止め――
(軽い?)
盾越しに受ける衝撃に、違和感を覚える。
殺傷力を高めるための金属片が生成されていない。爆発の威力そのものも、かなり控えめになっていた。
衝撃が通り過ぎた後、崩壊する盾を振り捨てて新たに得た視界に、同じく爆発の衝撃を利用して、無様に転がりつつも距離を取ったガユスの姿を俯瞰する。
(お得意のブラフか)
その看破と同時、敵が選択した戦術の正体にもギギナは気づいた。
攻性咒式士の前衛職と後衛職が戦った場合、開始距離にもよるが前衛が有利となることが多い。後衛とは段違いの頑強さや反応速度で咒式を耐え、致命の一撃を見舞えるからだ。後衛単体で勝つには、不意打ちや超遠距離から、前衛が回避・防御できない規模の高位咒式を放つしかない。
この法則をガユスとクエロも理解している。ギギナに真っ向から勝利するためには、第五から七階位の高位咒式を放つしかない。だが"この"ガユスにはまだそこまでの咒力は無く、相方であるクエロに高位咒式を紡がせる為の時間を稼ぐことも出来ない。
クエロは前衛も出来るが、純粋な前衛職であるギギナには劣る。さらに捨て身で時間を稼いだところで、ガユスの咒式ではギギナを確殺できる可能性は高くない。
純粋な地力ではギギナが勝るため、戦闘が長引けばそれだけギギナの方が有利になる。
だが唯一、ガユスとクエロのコンビがギギナに対し、明確に勝っているものがある。
(狙いはこちらの再装填だな)
ネレトーに装填できる弾数は六発。咒式を六度使えば、その度に排莢とリロードを行わなければならない。
咒弾切れを狙う――効果的なようで、実戦でそれが行われることは少ない。
弾倉の交換を許さないほど相手を防戦一方にできるような実力差があるのなら、そもそもそんな作戦は必要なくなる。実力が伯仲している場合では、無理に攻め続ければ手痛いカウンターを貰うことになりかねない。
そも、相手が用いる魔杖剣の形式が分かったとしても、弾倉を延長するなどの改造を行っている可能性もある。戦闘中に相手の残り咒弾数を正確に把握するというのはそれなりに負担であり、そして負担に見合うほどのリターンはない。
つまり、これは――
(私を知っているこの二人だからこそ取れる戦術、か)
通常、ほとんどの攻性咒式士は、メインの他にサブの魔杖剣を備えている。
だが誇り高きドラッケン族の戦士としての理想を過剰に追い求めているギギナはそうではない。屠竜刀ネレトー以外の魔杖剣を振るうことなど有り得ないことを、ダラハイド事務所の面々はいやというほど知っている。
ネレトーの弾倉に残る弾丸は、残り二発。
咒弾を使い切った状態で、あの二人の掃射を防ぐことが出来るか――さらに二人が用意しているであろう、必殺の策を回避することが出来るか。
(無理だな)
ギギナは即座に判断して、生成した骨の盾を身体から切り離し、クエロに向かって投擲した。次の咒式を紡いでいたクエロが回避を選択し、組成式を崩しながら地面を転がる。
黒翼を畳んで着地すると、躊躇わずネレトーの引き金を二度、引いた。弾倉内の残弾を全て消費して<鋼剛鬼力膂法(バー・エルク)>を多重発動。強化された筋力で地を蹴りつけ、ガユスへ追撃する。先ほどの自爆戦法めいた<爆炸吼(アイニ)>によって作られた距離は一瞬で潰れ、ようやく起き上がろうとしていたガユスが、迫り来る颶風に表情を引きつらせた。
苦し紛れに突き出されたガユスの魔杖剣、断罪者ヨルガを、ギギナは一刀のもとに弾き飛ばす。この距離ではガユスが新たに咒式を紡ぐよりも、ギギナが返す刃で首を刎ねる方が早い。
「終わりだ、陰険眼鏡――……っ!?」
掲げられたネレトーが、振り下ろされることなく空中で静止。力無く落下し、その切っ先が地面に突き刺さった。
最強の剣舞士が胸元に手を当て、膝をついた。それを見て凄絶な笑みを浮かべるガユスの口元からは、中毒反応を示す血の泡が零れている。
ギギナが骨の盾を展開し、一瞬だけ視線が切れたその瞬間に、ガユスは自分を中心に予め咒式を展開していた。化学錬成系第四階位<(バル・バス)>。限定空間内に無色透明のサリンを生成する、必殺の毒ガス咒式である。
当然、ガユスもまたその効果範囲にいた。だがおそらくは錬成系咒式でプラリドキシムやアトロピンなどの拮抗薬を事前に体内生成していたのだろう。完全な無効化までは無理だが、症状の軽減程度なら十分に可能だ。
二から四階位までの中低位咒式では、ギギナ相手には牽制にしかならない。だからこその自爆戦法。足りない性能を奇策で補おうとするのはガユスの十八番だ。
だがギギナもまた、生体系咒式士の到達者たる十三階梯。毒物に対する抵抗力は、全咒式職の中でもトップクラスである。
体内の恒常咒式が全力で代謝機能を活性化させ、毒ガスの影響を排除しようと動きだす。完全な解毒は叶わずとも、二秒もあれば回避行動くらいは取れるようになるだろう。
だが咒式戦闘において、二秒というのは永遠にも等しい時間だ。
ギギナの背後で、クエロが<電乖閻葬雷珠(マーコキアズ)>を三重発動。さしもの彼女にとってもかなりの負荷だ。無茶な演算に脳が焼き付きかけ鼻血を垂らしている。ここで確実に仕留める気なのだろう。
――ギギナの誘導の通りに。
放たれたプラズマ球が、地に伏すギギナを薙ぎ払った。ガユスが勝利の笑みを浮かべ――クエロが警告を発する。
「上!」
その意味をガユスが理解するよりも早く、空中から投擲された短剣が彼の心臓を貫いた。
ガユスの目が見開かれる。二重の驚愕。為す術もなくプラズマを喰らうはずだったギギナが、再び空中に跳び上がっていること。そしてもうひとつは、自身の胸に突き刺さっている短剣に見覚えがあったこと。
贖罪者マグナス。
それはガユスのコートの内側に今も吊られている筈の魔杖短剣だった。
「返すぞ、眼鏡」
あの島で得たマグナスを投じたギギナが小さく呟く。
ガユスが毒ガスの罠を張っていることを、ギギナは読んでいた。あの時期のガユスが使えるものの中で、ギギナに有効打を与えられる咒式は限られている。決着を早めるために、あえてそこに飛び込んだのだ。
ガユスが予め自身の体内で拮抗薬を生成していたように、ギギナもまた懐のマグナスを使い、各種対抗咒式を発動させていた。サリンは神経伝達物質であるアセチルコリンを分解するAChEを不可逆的に阻害し、過剰に蓄積させることで筋肉の痙攣などを引き起こし、最終的には絶息に至らせる。ギギナは人間が持つ対抗酵素であるPON1やBChEを咒式で増加・超活性化させ、血中のサリンの大部分を分解・無毒化し、症状を緩和させたのだ。
「ガユス――!」
クエロの絶叫。憤怒と絶望を纏う其れを受けながら、着地したギギナは地面に突き刺さったネレトーを掴み、颶風と化した。
剣の間合いに捉えるまでに1秒足らず。筋力強化の咒式はまだ続いている。咒式の多重発動で脳にダメージを負ったクエロでは、迎撃の為の咒式を展開することは間に合わない。結果として彼女が紡げたのは、怨嗟の篭もった呪いの言葉だけだった。
「殺してやる……!」
「今の貴様には無理だ」
彼女が魔法使いであったのなら、その呪文で魔法を紡げたのかも知れないが。
彼らは咒式士。体系化された技術に則って戦う、論理の徒だ。如何に感情を込めようが、咒式は応えない。そこには冷たい方程式しか存在しないのである。
そしてその理に従い、ギギナの振るった刃が、クエロの首を切断した。
裂かれた頸動脈から瀑布の如く血液が噴き出し、怒りに満たされていた彼女の身体から力が抜けていく。彼女の手から魔杖短槍が零れ、地面に転がった。数秒遅れて、その主も同じ道を辿る。
全てが終わり、ギギナはネレトーの弾倉を引き出すと、排莢と装填を行った。なんと言うこともない。いつ戦闘が始まっても良いように弾倉を咒弾で満たしておくという、習慣化したほとんど無意識での動作。
弾丸を取り落とすということもなく、それを終えたギギナは空を見上げた。見慣れたエリダナの夜空。そこへ体内に満ちていた死闘の熱が上っていく。無意識に"クドゥー"の詩を口ずさみながら、ギギナはそれを眺めていた。
◇◇◇
「さて、こいつはどうしたもんだろうな」
オーフェンは足下に転がるレティシャを見つめながら、そう独りごちた。
レティシャは腹部を押さえながら、小刻みに痙攣を繰り返している。交差の瞬間、鳩尾に拳を埋め込まれた結果だった。
自分が負けることなど、想像もしていなかったのだろう――レティシャ・マクレディではない、"この"レティシャは。
(こいつもコミクロンと同じ。五年前のレティシャ……だな)
五年後の彼女と肉体的にそう劇的な違いがあるわけでもないが、纏う雰囲気は学生の頃の彼女のものだ。チャイルドマン教室という揺り籠の中で、自身の才覚を自由に伸ばしていた頃の――アザリーが失踪する前の。
「偽物って訳じゃなさそうだが、なんでわざわざ五年前から連れてくるかね」
顎を揉みながら、オーフェンが誰ともなしに呟く。
そこには必ず必然性があるはずだ。あの神野陰之という怪物の性質からして、まさか気まぐれということはあるまい。
「まあ心の証明ってやつの関連なんだろうが、それで俺の知り合いが出てくるのはいいとして、なんでティッシが――」
と、そこまで独りごちて、
「……いや、そうか。俺"たち"の知り合いか」
このティッシが現れた時、まだコミクロンが隣にいたことを思い出す。
「なんでハーティアの奴とかじゃなくてティッシだったのか、っていうのも見えてきたな。俺とコミクロン共通の知り合いで、なおかつその中で一番関係性が深かった相手ってことか」
自身の姉であり、おそらくコミクロンが懸想していた相手。そして五年後の彼女を知るのはオーフェンだけだが、五年前の姿ならばコミクロンも知っている。
「選定の基準としては、ゴースト現象の副作用に近いんだろうな」
ゴーストとは、オーフェンの世界における無形情報網、"ネットワーク"の暴走によって局所的に生まれる過去の再現だ。巻き込まれた人間の過去から、無制限に関連した人物が召喚され――
そこまで記憶を引っ張り出したところで、足下に転がっていたレティシャの姿が消えた。
体技室の中、新たに現れた気配に、オーフェンは視線を向ける。
やはり見覚えのある相手だ。考え得る限り、最悪の相手でもある。
恐ろしいほど素早く、静謐に魔術の構成を展開する巌のような鉄面皮を見ながら、オーフェンはうめき声をあげた。
チャイルドマン・パウダーフィールド。
オーフェンの知る限り、最も完璧に近かった黒魔術士。
彼は完璧だった。あらゆる分野のスキルを最高のレベルで習得し、そしてそれを使いこなす度量があった。魔術士とは理想の体現者。ならば彼こそがまさに真の魔術士ともいえる。
それが、こうして出現した理由をオーフェンは何となく察していた。
(あんたなら――取りこぼさなかったか?)
マジク・リン。クリーオウ・エバーラスティン。共に、オーフェンがあの島で失った知己の名前。
マジクには出会うことすら出来なかった。クリーオウは庇護下に置きながらむざむざ死なせてしまった。
助けられた可能性について、考えなかったと言えば嘘になる。過去の選択にミスがなかったか、どうすればあの二人を死なせなかったのか。
ここにいたのが自分でなければ救えたのではないか。それこそ、チャイルドマンであったなら。
益体もない考えを、オーフェンは吐き出した呪文と共に振り払う。
(チャイルドマンは死んだ――殺された。先生を戦闘者の理想系に仕立て上げていたのは俺たちだ。彼にも限界はあった!)
オーフェンは叫ぶ。彼は結局、自分と何ら変わることのない人間だった。
――それでもなお、チャイルドマンが真に強力な黒魔術士であることに変わりは無い。
「光よ」
「我は放つ光の白刃!」
熱衝撃波。文字通り高熱を伴った衝撃波を叩きつけ、焼き、砕く――そんな単純にして強力な構成。
術の発動は同時。オーフェンとチャイルドマンは真正面から制御できる最大威力をぶつけ合った。
二条の光芒が衝突し、轟音と共に高熱を撒き散らす。
「……っ!」
空気が膨張し、行き場を求めて荒れ狂う中で、オーフェンは歯を食いしばった。
(発動は――同時だった! 構成も制御も完璧な、会心の魔術だった!)
だが、オーフェンの強く噛みあわされた歯列からは息吹が漏れていた――苦痛に彩られた鋭く細い、針のような息が。
二の腕に一条の火傷を負っている。制御をしくじったのではない。単純な威力負けの結果がそれだった。
オーフェン――キリランシェロの魔力をチャイルドマン教室という括りの中で見たとき、彼のそれは決して優位を示すものではない。
(アザリーやティッシが化け物過ぎるってのもあるんだろうがな)
――だがそれならば、彼女たちを御していたこの男は如何なる怪物か。
魔術の激突による閃光は一瞬だった。目を眩ませ、そしてすぐに消えうせる。
その光の向こうで、チャイルドマンは右腕を高く掲げていた。右手の頂点から、決壊した堰より水が溢れる如く、巨大な構成が展開されていく。
先の熱衝撃は小手調べ。制御できる範囲の全力をお互いに探り、そしてその軍配はチャイルドマンに上がった。
ならばあの男は、次手で必殺を繰り出してくる――
(――やべえ!)
展開されていく構成の内容を読み取って、オーフェンの全身から冷や汗が吹き出した。
魔術の中には、俗に"防御できない魔術"とされるものがいくつか存在する。
たとえば擬似球電は術者が指示するコースを亜光速で飛び交うし、擬似空間転移によって射出された物質はあらゆる力場と質量を貫いて対象に影響を与える。
今チャイルドマンが展開したのもその類の魔術だった。その大魔術の為の構成を、チャイルドマンは瞬時に編み上げ展開する!
「連鎖よ!」
呪文に呼応し、チャイルドマンを中心に圧倒的な暴力の波が広がり始める。水面に生じた波紋が広がっていくように、板張りの床が自ら砕けて行く。
連鎖する自壊。物質や力場の強度に関わらず巻き込んで自壊させるため、黒魔術での防御はほぼ意味を成さない。
オーフェンがこれから逃れようと思えば、術の効果範囲外まで逃げるしかない。だがチャイルドマンはそれを見越して、自分を中心にして半球状に魔術を放っていた――つまり。
(こうも狭い室内じゃ避けようがない!)
瞬時に判断する。いや、判断はすでにしていたのだろう。自分の抱える脳髄の、自分にも制御できない自動的な部分。そこは既に事態を分析し終え、対応するための構成を編み上げていた。
生き残れるかは賭けになる。だがそもそも賭けなければ結果は変わらない。躊躇わずに呪文を叫んだ。
「我は歌う破壊の聖音――!」
放つのは同じく連鎖自壊の魔術。だが違うのはチャイルドマンが全方位に放ったのに対し、オーフェンはチャイルドマンに向けて自壊の波動を収束させた。
波は同種の波によって打ち消される。かつて自分に化けた殺人人形との戦いで決め手になった戦法。
広範囲に術を展開したチャイルドマンに比べ、範囲を絞った自分はその分の制御力を威力を高めることに使える。
二つの波紋がぶつかり合う。連鎖自壊の現象に轟音は伴わない――あくまで静謐に、だが凶悪な力が互いを喰らい合った。オーフェンの連鎖自壊はチャイルドマンの魔術と相殺し合い、何とか生存を許される空間を生み出すことに成功する。
(とはいえ、何度も使える手じゃない――チャイルドマンが今の俺と同じことをすれば、結局は魔力で劣る俺が不利になる)
魔術の撃ち合いでは不利――ならば挑むのは格闘戦。
自分の放った連鎖自壊の波動を追うような心地でオーフェンは駆け出していた。もともと体技室の中でそれほど離れられるわけもない。チャイルドマンとの距離は見る見るうちに縮まっていく。
近づくにつれ、チャイルドマンの姿がより明確になっていく。巌から削り出した彫刻のような立派な体躯。鋼鉄の強靭さと、刃の鋭さが両立した一級のバトル・アスリート。
オーフェンが接近戦を挑んだのを見て、チャイルドマンもすでに対応し始めていた。オーフェンが拳打の間合いに入る為の最後の踏み込みに合わせて、チャイルドマンも大きく一歩を踏み出してくる。
両者がそれぞれ間合いを詰めた為、距離はほとんど零に近くなっていた。拳を振るうことすら難しい密着状態。この状況から狙えるのは関節技くらいのものだが――
オーフェンは知っていた。チャイルドマンと自分には、それより速く、強力な技がある。
互いに関節を取ろうとするような動きは微塵も見せなかった。二人とも、まるで鏡合わせのように、威力の無い拳を相手の急所に密着させようと繰り出している。
寸打。
零距離からのカウンター。最大威力を回避しようの無い距離から急所に打ち込むという、ある意味打撃の極致ともいえる。
遅れは無かったと断言できる。オーフェンは自分の右拳が相手の心臓に触れる感触と、相手の右手が脇腹に添えられる冷たい感触を同時に知覚していた。その瞬間、相手の身体をぶち抜くつもりでさらに一歩を踏み込む。
炸薬が破裂したような音が、体技室に響く。
オーフェンは足下に転がるレティシャを見つめながら、そう独りごちた。
レティシャは腹部を押さえながら、小刻みに痙攣を繰り返している。交差の瞬間、鳩尾に拳を埋め込まれた結果だった。
自分が負けることなど、想像もしていなかったのだろう――レティシャ・マクレディではない、"この"レティシャは。
(こいつもコミクロンと同じ。五年前のレティシャ……だな)
五年後の彼女と肉体的にそう劇的な違いがあるわけでもないが、纏う雰囲気は学生の頃の彼女のものだ。チャイルドマン教室という揺り籠の中で、自身の才覚を自由に伸ばしていた頃の――アザリーが失踪する前の。
「偽物って訳じゃなさそうだが、なんでわざわざ五年前から連れてくるかね」
顎を揉みながら、オーフェンが誰ともなしに呟く。
そこには必ず必然性があるはずだ。あの神野陰之という怪物の性質からして、まさか気まぐれということはあるまい。
「まあ心の証明ってやつの関連なんだろうが、それで俺の知り合いが出てくるのはいいとして、なんでティッシが――」
と、そこまで独りごちて、
「……いや、そうか。俺"たち"の知り合いか」
このティッシが現れた時、まだコミクロンが隣にいたことを思い出す。
「なんでハーティアの奴とかじゃなくてティッシだったのか、っていうのも見えてきたな。俺とコミクロン共通の知り合いで、なおかつその中で一番関係性が深かった相手ってことか」
自身の姉であり、おそらくコミクロンが懸想していた相手。そして五年後の彼女を知るのはオーフェンだけだが、五年前の姿ならばコミクロンも知っている。
「選定の基準としては、ゴースト現象の副作用に近いんだろうな」
ゴーストとは、オーフェンの世界における無形情報網、"ネットワーク"の暴走によって局所的に生まれる過去の再現だ。巻き込まれた人間の過去から、無制限に関連した人物が召喚され――
そこまで記憶を引っ張り出したところで、足下に転がっていたレティシャの姿が消えた。
体技室の中、新たに現れた気配に、オーフェンは視線を向ける。
やはり見覚えのある相手だ。考え得る限り、最悪の相手でもある。
恐ろしいほど素早く、静謐に魔術の構成を展開する巌のような鉄面皮を見ながら、オーフェンはうめき声をあげた。
チャイルドマン・パウダーフィールド。
オーフェンの知る限り、最も完璧に近かった黒魔術士。
彼は完璧だった。あらゆる分野のスキルを最高のレベルで習得し、そしてそれを使いこなす度量があった。魔術士とは理想の体現者。ならば彼こそがまさに真の魔術士ともいえる。
それが、こうして出現した理由をオーフェンは何となく察していた。
(あんたなら――取りこぼさなかったか?)
マジク・リン。クリーオウ・エバーラスティン。共に、オーフェンがあの島で失った知己の名前。
マジクには出会うことすら出来なかった。クリーオウは庇護下に置きながらむざむざ死なせてしまった。
助けられた可能性について、考えなかったと言えば嘘になる。過去の選択にミスがなかったか、どうすればあの二人を死なせなかったのか。
ここにいたのが自分でなければ救えたのではないか。それこそ、チャイルドマンであったなら。
益体もない考えを、オーフェンは吐き出した呪文と共に振り払う。
(チャイルドマンは死んだ――殺された。先生を戦闘者の理想系に仕立て上げていたのは俺たちだ。彼にも限界はあった!)
オーフェンは叫ぶ。彼は結局、自分と何ら変わることのない人間だった。
――それでもなお、チャイルドマンが真に強力な黒魔術士であることに変わりは無い。
「光よ」
「我は放つ光の白刃!」
熱衝撃波。文字通り高熱を伴った衝撃波を叩きつけ、焼き、砕く――そんな単純にして強力な構成。
術の発動は同時。オーフェンとチャイルドマンは真正面から制御できる最大威力をぶつけ合った。
二条の光芒が衝突し、轟音と共に高熱を撒き散らす。
「……っ!」
空気が膨張し、行き場を求めて荒れ狂う中で、オーフェンは歯を食いしばった。
(発動は――同時だった! 構成も制御も完璧な、会心の魔術だった!)
だが、オーフェンの強く噛みあわされた歯列からは息吹が漏れていた――苦痛に彩られた鋭く細い、針のような息が。
二の腕に一条の火傷を負っている。制御をしくじったのではない。単純な威力負けの結果がそれだった。
オーフェン――キリランシェロの魔力をチャイルドマン教室という括りの中で見たとき、彼のそれは決して優位を示すものではない。
(アザリーやティッシが化け物過ぎるってのもあるんだろうがな)
――だがそれならば、彼女たちを御していたこの男は如何なる怪物か。
魔術の激突による閃光は一瞬だった。目を眩ませ、そしてすぐに消えうせる。
その光の向こうで、チャイルドマンは右腕を高く掲げていた。右手の頂点から、決壊した堰より水が溢れる如く、巨大な構成が展開されていく。
先の熱衝撃は小手調べ。制御できる範囲の全力をお互いに探り、そしてその軍配はチャイルドマンに上がった。
ならばあの男は、次手で必殺を繰り出してくる――
(――やべえ!)
展開されていく構成の内容を読み取って、オーフェンの全身から冷や汗が吹き出した。
魔術の中には、俗に"防御できない魔術"とされるものがいくつか存在する。
たとえば擬似球電は術者が指示するコースを亜光速で飛び交うし、擬似空間転移によって射出された物質はあらゆる力場と質量を貫いて対象に影響を与える。
今チャイルドマンが展開したのもその類の魔術だった。その大魔術の為の構成を、チャイルドマンは瞬時に編み上げ展開する!
「連鎖よ!」
呪文に呼応し、チャイルドマンを中心に圧倒的な暴力の波が広がり始める。水面に生じた波紋が広がっていくように、板張りの床が自ら砕けて行く。
連鎖する自壊。物質や力場の強度に関わらず巻き込んで自壊させるため、黒魔術での防御はほぼ意味を成さない。
オーフェンがこれから逃れようと思えば、術の効果範囲外まで逃げるしかない。だがチャイルドマンはそれを見越して、自分を中心にして半球状に魔術を放っていた――つまり。
(こうも狭い室内じゃ避けようがない!)
瞬時に判断する。いや、判断はすでにしていたのだろう。自分の抱える脳髄の、自分にも制御できない自動的な部分。そこは既に事態を分析し終え、対応するための構成を編み上げていた。
生き残れるかは賭けになる。だがそもそも賭けなければ結果は変わらない。躊躇わずに呪文を叫んだ。
「我は歌う破壊の聖音――!」
放つのは同じく連鎖自壊の魔術。だが違うのはチャイルドマンが全方位に放ったのに対し、オーフェンはチャイルドマンに向けて自壊の波動を収束させた。
波は同種の波によって打ち消される。かつて自分に化けた殺人人形との戦いで決め手になった戦法。
広範囲に術を展開したチャイルドマンに比べ、範囲を絞った自分はその分の制御力を威力を高めることに使える。
二つの波紋がぶつかり合う。連鎖自壊の現象に轟音は伴わない――あくまで静謐に、だが凶悪な力が互いを喰らい合った。オーフェンの連鎖自壊はチャイルドマンの魔術と相殺し合い、何とか生存を許される空間を生み出すことに成功する。
(とはいえ、何度も使える手じゃない――チャイルドマンが今の俺と同じことをすれば、結局は魔力で劣る俺が不利になる)
魔術の撃ち合いでは不利――ならば挑むのは格闘戦。
自分の放った連鎖自壊の波動を追うような心地でオーフェンは駆け出していた。もともと体技室の中でそれほど離れられるわけもない。チャイルドマンとの距離は見る見るうちに縮まっていく。
近づくにつれ、チャイルドマンの姿がより明確になっていく。巌から削り出した彫刻のような立派な体躯。鋼鉄の強靭さと、刃の鋭さが両立した一級のバトル・アスリート。
オーフェンが接近戦を挑んだのを見て、チャイルドマンもすでに対応し始めていた。オーフェンが拳打の間合いに入る為の最後の踏み込みに合わせて、チャイルドマンも大きく一歩を踏み出してくる。
両者がそれぞれ間合いを詰めた為、距離はほとんど零に近くなっていた。拳を振るうことすら難しい密着状態。この状況から狙えるのは関節技くらいのものだが――
オーフェンは知っていた。チャイルドマンと自分には、それより速く、強力な技がある。
互いに関節を取ろうとするような動きは微塵も見せなかった。二人とも、まるで鏡合わせのように、威力の無い拳を相手の急所に密着させようと繰り出している。
寸打。
零距離からのカウンター。最大威力を回避しようの無い距離から急所に打ち込むという、ある意味打撃の極致ともいえる。
遅れは無かったと断言できる。オーフェンは自分の右拳が相手の心臓に触れる感触と、相手の右手が脇腹に添えられる冷たい感触を同時に知覚していた。その瞬間、相手の身体をぶち抜くつもりでさらに一歩を踏み込む。
炸薬が破裂したような音が、体技室に響く。
◇◇◇
アルフレート・マルドリック。
竜殺しの五行師。"純皇"を振るう者。旧友。そして、自分の前に立ちはだかる敵。
それとの戦闘は、説得を差し挟む間もなく開始された。
もとより、言葉で止まるような相手ではない。決して折れることのないその意志。極限まで練り上げられた剣技と五行師の技。ベルガーの知る最強の敵。
そしてその最強を、明らかにベルガーは押していた。
「――四年。少しは成長したようだな、神の名を持つ負け犬が」
「相変わらず上から目線にものを言う奴だな!」
振り下ろされる"純皇"を、"運命"の黒刃で防御しながらベルガーが呟く。
アルフレートの物言いに、ほんの僅か、懐かしさのようなものを感じる。
それは感傷ではない。単純に、このアルフレートが過去の人物であるということをベルガーは察していた。
(4年――ってことは、1939年のアルフレートか。そういや、ここってあの時の第八基地だな)
足元には"祖国"の暴走によって急激に熱を帯びる隔壁がある。隔壁の向こうは煮えたぎる精燃料で満たされており、月光を浴びればたちどころに暴走するだろう。
何にせよ、このアルフレートは自分よりも若い。
戦闘能力において、およそアルフレート・マルドリックという男は、ベルガーよりも格上だった。まともにやって勝利したことなど一度もない。
だが、単純に生きた年数分、努力と経験に差がある今の状態ならどうだろうか。
アルフレートが何度目かの後退を喫する。そこへ体勢を立て直す暇を与えまいと、すかさず"運命"を振り上げたベルガーが飛び込んだ。
白刃と黒刃が噛み合い、鍔迫り合いの体勢になる。だが、アルフレートは不完全な姿勢で受けた為、ほとんどベルガーにのし掛かられるような形になってしまった。
(貰った!)
ベルガーは勝負を決めようと全力で押し込んだ。体勢の有利が、アルフレートに離脱を許さない。じわじわと"運命"の刃が首元に迫る。
ここからアルフレートが出来るのは、自爆覚悟で五行を繰り出すことくらいだろう。だがそれを選べば、ベルガーもまた"運命"の仮発動で対抗する。
「詰みだな。大人しく降参しろよ」
ベルガーの降伏勧告に、鍔迫り合いを維持しながらも、アルフレートは短く目を瞑って黙考した。
「……確かに、貴様は強くなった」
だが再び見開いた瞳には、諦念の欠片もなく。
「故に、ここからは全力で"挑ませて"貰おう」
その言葉を、ベルガーは鼻で笑った。これまでの戦い、この男が手を抜いていたとは思えない。さらに武器を抑え込み、五行も封じた。完全に手詰まりなのだ。
「やせ我慢はやめておけよ。この体勢からどうやって逆転するってんだ?」
「こうしてだ」
アルフレートがかすかに息を吸い込む。発声の為の呼吸。
(破れかぶれの五行か?)
訝しみながら、ベルガーもまた"運命"の発動に備える。
だが、アルフレートが紡いだのは五行の為の一音ではなく、紛れもなくこの状況を――世界を変える為の一言だった。
≪皇帝とは覇者たるもの――≫
アルフレートの現実詞が、世界を書き換える。
ベルガー達が足場にしている隔壁から、数百ヤードも離れた場所にあった重騎格納庫が、内側から爆砕した。僅かな星の輝きを受けて姿を露わにしたのは、一片の曇りもない白い装甲を纏う巨大な人型だ。
右肩に赤い竜の紋章。腰に一刀のみを佩いたその重騎を、ベルガーはよく知っていた。
「……ここにありやがったのか!」
アルフレートの強臓式重騎、"皇帝"の威容だった。
≪皇帝とは戦場に在るもの≫
続くテクストが空間に走る。巨大な人型が、崩れた格納庫の残骸を振り払いながら立ち上がり、背負う3対6枚の翼を広げた。
飛ぶ。
スラスターを吹かして重力を振り切り、"皇帝"が空を駆けた。ベルガーとアルフレートの元までたどり着くのに数秒と掛からない。
押しきれないことを悟り、ベルガーは舌打ち一つを残して飛び退った。僅かに遅れて、"皇帝"がアルフレートに並び立つように着地する。
見せつけるように、ゆっくりと態勢を立て直したアルフレートが、"純皇"の刃先をベルガーに向けた。
「これでお互い、強臓式(アインゲヴァイデ)を用いた公平な勝負というわけだ――まさか卑怯とは言うまいな?」
「恥ずかしくねえのかこの卑怯者」
「恥というならば戦果を以て禊ぐとしよう!」
アルフレートが駆け出す。新たな現実詞を紡ぎながら。
≪皇帝は剣を執る≫
純白の重騎が巨大な一歩を踏み込み、剣を振り上げる。容易く間合いに捉えられたベルガーは、咄嗟に"運命"を掲げ――
「あ」
前方から迫り来る破壊のトーンに飲み込まれた。
五行師による破壊の光は、抗えぬ崩壊をもたらす。
だがそのような理を覆すのが強臓式による言実化の力だ。連鎖崩壊する遺伝詞の波を、現実を塗り替える詞と共に黒刃が斬り裂いていく。
≪運命は未だ潰えず――≫
ベルガーは破壊の力を"運命"によって防ぎながら、アルフレートに突貫した。挑むは短期決戦だ。そうしなければならない理由があった。
≪――皇帝は運命に屈さず!≫
だがそれを察したように、アルフレートが後退する。入れ替わってして前進するは"皇帝"。アルフレートの現実詞によって遠隔操作されるそれが、巨大な刃をベルガーの頭上に落としてくる。
≪運命とは何人にも抗えぬものなり≫
対抗するベルガーの現実詞。重騎用の巨大な刃を、それに比べれば小枝のようなサイズの"運命"が弾き返す。
(――アルフレートが記乗してる状態だったら押し負けてたな)
ベルガーが短期決戦を挑まねばならない理由のひとつは、万が一にも相手に時間を与えて"皇帝"に乗り込まれないようにするためだ。
現在でも2対1のような形で有利とはいえないが、アルフレートと合一し、真の力を発揮するようになった"皇帝"の力はさらに強大だ。生身のベルガーなど一息で蹴散らされてしまうだろう。
「どうした? 急に攻めが雑になったぞ。勝負を急がねばならない理由でもあるのか?」
嬲るように降り注ぐアルフレートの声。皇帝剣の視線は、ベルガーの"運命"に注がれていた。
刃を失った柄だけの強臓式武剣に。
いまの一撃を防いだ代償として、動力であるフロギストンを消費し尽くしたのだ。ベルガーはポケットから新しい精燃槽を取り出す――自身の持つ最後の精燃槽を。
短期決戦を挑まねばならないもうひとつの理由。"運命"による仮発動はほとんどの攻撃を無力化できるが、無力化した攻撃の強度に応じて動力であるフロギストンを消費する。
アルフレートの攻撃も、"皇帝"による言実詞を伴った攻撃も、防ぐには相応の消費が伴った。
単二式ひとつでそう何度も防げるものではない。さらにアルフレートを退けるとなれば足りないことは明白だ。
ベルガーの世界において、精燃槽はありふれたものだ。この基地の建物を探せばいくらでも見つかるだろう。だが、アルフレートを前にそんな余裕はない。
「詰みだな」
先ほどの意趣返しのように、アルフレートがそう呟いた。
竜殺しの五行師。"純皇"を振るう者。旧友。そして、自分の前に立ちはだかる敵。
それとの戦闘は、説得を差し挟む間もなく開始された。
もとより、言葉で止まるような相手ではない。決して折れることのないその意志。極限まで練り上げられた剣技と五行師の技。ベルガーの知る最強の敵。
そしてその最強を、明らかにベルガーは押していた。
「――四年。少しは成長したようだな、神の名を持つ負け犬が」
「相変わらず上から目線にものを言う奴だな!」
振り下ろされる"純皇"を、"運命"の黒刃で防御しながらベルガーが呟く。
アルフレートの物言いに、ほんの僅か、懐かしさのようなものを感じる。
それは感傷ではない。単純に、このアルフレートが過去の人物であるということをベルガーは察していた。
(4年――ってことは、1939年のアルフレートか。そういや、ここってあの時の第八基地だな)
足元には"祖国"の暴走によって急激に熱を帯びる隔壁がある。隔壁の向こうは煮えたぎる精燃料で満たされており、月光を浴びればたちどころに暴走するだろう。
何にせよ、このアルフレートは自分よりも若い。
戦闘能力において、およそアルフレート・マルドリックという男は、ベルガーよりも格上だった。まともにやって勝利したことなど一度もない。
だが、単純に生きた年数分、努力と経験に差がある今の状態ならどうだろうか。
アルフレートが何度目かの後退を喫する。そこへ体勢を立て直す暇を与えまいと、すかさず"運命"を振り上げたベルガーが飛び込んだ。
白刃と黒刃が噛み合い、鍔迫り合いの体勢になる。だが、アルフレートは不完全な姿勢で受けた為、ほとんどベルガーにのし掛かられるような形になってしまった。
(貰った!)
ベルガーは勝負を決めようと全力で押し込んだ。体勢の有利が、アルフレートに離脱を許さない。じわじわと"運命"の刃が首元に迫る。
ここからアルフレートが出来るのは、自爆覚悟で五行を繰り出すことくらいだろう。だがそれを選べば、ベルガーもまた"運命"の仮発動で対抗する。
「詰みだな。大人しく降参しろよ」
ベルガーの降伏勧告に、鍔迫り合いを維持しながらも、アルフレートは短く目を瞑って黙考した。
「……確かに、貴様は強くなった」
だが再び見開いた瞳には、諦念の欠片もなく。
「故に、ここからは全力で"挑ませて"貰おう」
その言葉を、ベルガーは鼻で笑った。これまでの戦い、この男が手を抜いていたとは思えない。さらに武器を抑え込み、五行も封じた。完全に手詰まりなのだ。
「やせ我慢はやめておけよ。この体勢からどうやって逆転するってんだ?」
「こうしてだ」
アルフレートがかすかに息を吸い込む。発声の為の呼吸。
(破れかぶれの五行か?)
訝しみながら、ベルガーもまた"運命"の発動に備える。
だが、アルフレートが紡いだのは五行の為の一音ではなく、紛れもなくこの状況を――世界を変える為の一言だった。
≪皇帝とは覇者たるもの――≫
アルフレートの現実詞が、世界を書き換える。
ベルガー達が足場にしている隔壁から、数百ヤードも離れた場所にあった重騎格納庫が、内側から爆砕した。僅かな星の輝きを受けて姿を露わにしたのは、一片の曇りもない白い装甲を纏う巨大な人型だ。
右肩に赤い竜の紋章。腰に一刀のみを佩いたその重騎を、ベルガーはよく知っていた。
「……ここにありやがったのか!」
アルフレートの強臓式重騎、"皇帝"の威容だった。
≪皇帝とは戦場に在るもの≫
続くテクストが空間に走る。巨大な人型が、崩れた格納庫の残骸を振り払いながら立ち上がり、背負う3対6枚の翼を広げた。
飛ぶ。
スラスターを吹かして重力を振り切り、"皇帝"が空を駆けた。ベルガーとアルフレートの元までたどり着くのに数秒と掛からない。
押しきれないことを悟り、ベルガーは舌打ち一つを残して飛び退った。僅かに遅れて、"皇帝"がアルフレートに並び立つように着地する。
見せつけるように、ゆっくりと態勢を立て直したアルフレートが、"純皇"の刃先をベルガーに向けた。
「これでお互い、強臓式(アインゲヴァイデ)を用いた公平な勝負というわけだ――まさか卑怯とは言うまいな?」
「恥ずかしくねえのかこの卑怯者」
「恥というならば戦果を以て禊ぐとしよう!」
アルフレートが駆け出す。新たな現実詞を紡ぎながら。
≪皇帝は剣を執る≫
純白の重騎が巨大な一歩を踏み込み、剣を振り上げる。容易く間合いに捉えられたベルガーは、咄嗟に"運命"を掲げ――
「あ」
前方から迫り来る破壊のトーンに飲み込まれた。
五行師による破壊の光は、抗えぬ崩壊をもたらす。
だがそのような理を覆すのが強臓式による言実化の力だ。連鎖崩壊する遺伝詞の波を、現実を塗り替える詞と共に黒刃が斬り裂いていく。
≪運命は未だ潰えず――≫
ベルガーは破壊の力を"運命"によって防ぎながら、アルフレートに突貫した。挑むは短期決戦だ。そうしなければならない理由があった。
≪――皇帝は運命に屈さず!≫
だがそれを察したように、アルフレートが後退する。入れ替わってして前進するは"皇帝"。アルフレートの現実詞によって遠隔操作されるそれが、巨大な刃をベルガーの頭上に落としてくる。
≪運命とは何人にも抗えぬものなり≫
対抗するベルガーの現実詞。重騎用の巨大な刃を、それに比べれば小枝のようなサイズの"運命"が弾き返す。
(――アルフレートが記乗してる状態だったら押し負けてたな)
ベルガーが短期決戦を挑まねばならない理由のひとつは、万が一にも相手に時間を与えて"皇帝"に乗り込まれないようにするためだ。
現在でも2対1のような形で有利とはいえないが、アルフレートと合一し、真の力を発揮するようになった"皇帝"の力はさらに強大だ。生身のベルガーなど一息で蹴散らされてしまうだろう。
「どうした? 急に攻めが雑になったぞ。勝負を急がねばならない理由でもあるのか?」
嬲るように降り注ぐアルフレートの声。皇帝剣の視線は、ベルガーの"運命"に注がれていた。
刃を失った柄だけの強臓式武剣に。
いまの一撃を防いだ代償として、動力であるフロギストンを消費し尽くしたのだ。ベルガーはポケットから新しい精燃槽を取り出す――自身の持つ最後の精燃槽を。
短期決戦を挑まねばならないもうひとつの理由。"運命"による仮発動はほとんどの攻撃を無力化できるが、無力化した攻撃の強度に応じて動力であるフロギストンを消費する。
アルフレートの攻撃も、"皇帝"による言実詞を伴った攻撃も、防ぐには相応の消費が伴った。
単二式ひとつでそう何度も防げるものではない。さらにアルフレートを退けるとなれば足りないことは明白だ。
ベルガーの世界において、精燃槽はありふれたものだ。この基地の建物を探せばいくらでも見つかるだろう。だが、アルフレートを前にそんな余裕はない。
「詰みだな」
先ほどの意趣返しのように、アルフレートがそう呟いた。
◇◇◇
SHIZUKUは砂漠に降り立つと、Fモードを起動させた。彼女の触覚でもある人型のアンドロイドが船外に降り立ち、熱された砂にその足を乗せる。目指す先は、先ほど撃墜した"敵"だ。
倒さねばならぬ敵だった。それはしずくにとって、疑いようのない"当たり前"だ。しかし、
(……お墓くらいは、作ってもいいよね)
殺さなければいけなかったが、殺したかったわけではない。自分に大義名分があったかといえば、それも怪しい。無論、自己の保身というのは大抵の場合、最も優先すべきことではあるが。
ともあれ、自分が殺してしまった敵を一目見て心に留めておこうと、少女の姿をしたそれが、落下した空色の機体に近づいていく。
培養脳を正確に撃ち抜かれた自動歩兵は、完全にその機能を停止させていた。まだ人型と分かる程度にその外形を保っているのは、下が柔らかい砂地であったことと、被弾の前に無茶な旋回を行おうとして速度が下がっていたからだろう。相対速度によっては、例え貫通力重視のフレシェット弾であっても、掠っただけで機体がバラバラになりかねない。
そういう意味では、この蒼い機体は幸運ではあったのだろう。
――それが幸運などではなく、完全な計算によるものであったことを、放たれた光弾が証明した。
蒼い自動歩兵の右腕が跳ね上がり、光の刀身を射出する。光条は自動歩兵の前に立ち尽くすしずくの脇をすり抜け、本体である電子偵察機に直撃した。破損したのは2門ある機関砲の内の片方だ。根元から切断され、大した音も立てずに熱砂へ突き刺さる。
「そんな、どうして――」
しずくが驚愕に目を見開く。
自分の攻撃は、完全に培養脳を撃ち抜いた筈だ。自動歩兵の装甲で、20ミリの威力に耐えられる筈はない。
混乱しながらも、しずくは残る一門を使って反撃を行おうとした。Fモードはあくまで外部端末だ。別に外に降りたからと言って、機体の操縦が出来なくなるわけではない。
だが機関砲がうなりをあげるよりも早く、蒼い殺戮者が飛び出していた。ほんの一瞬、半壊した飛行ユニットを無理矢理起動させる。
翼は折れ、スラスターの噴出口も歪んでいた。正常な飛行など望むべくもないが、跳躍するように蒼い機体が落下地点から飛び出す。通常の自動歩兵ならば錐揉み回転しながら砂漠に突っ込むのがオチだったろうが、突然変異の培養脳は自身に掛かるモーメントの向きを即座に理解した。まだ動く四肢を複雑に稼働させて姿勢を制御し、
「光よ」
再び発生させた光の刀身を射出する。
SHIZUKUが照準を追随させようとした瞬間、機関砲の最後の一門が先ほどと同じように切断された。もはや、自動歩兵を撃破できるような武装は残っていない。
有り得ざる結末に、しずくは思わず目を見開いた。自分の攻撃は、確かに敵の培養脳を撃ち抜いた筈。いや、それよりもどうして敵は――
「お前なら――俺の中のしずくなら、自分が撃墜した相手を確認しようとすると、そう思った」
そんなしずくの疑念に答えるように、蒼い殺戮者の声が響く。着地を気にするような余裕はなく、半ば砂中に埋もれるような状態だったが。
撃墜するだけならまだしも、現在の武装では、高速で飛び回る電子偵察機を無傷で制圧することは難しかった。故に、撃墜されたと偽装し、SHIZUKUを着陸させたのだ。
ステルス・コートを使ったのもその一環だ。ジェネレーターや培養脳など、本当に致命傷となる部位への攻撃は防がなくてはならない。だが同時に、致命となる部位への攻撃を回避すれば、SHIZUKUは警戒して降りてこなかっただろう。
故に、透明にした光の刃を盾代わりにして砲弾を受け止めたのだ。ブレイカーⅡとの戦いで行った戦法の二番煎じ。あの時はリーチを誤魔化すために用いたが、今回は位置と用途を誤魔化すために使った。
それはSHIZUKUの攻撃パターンを完全に読み切れる、ブルー・ブレイカーにだけ可能な戦術だった。それも、かつての彼であれば発想すらできなかっただろう。火乃香やしずくと出会い、そのレゾンデートルを変化させたからこそ、この結末を掴むことが出来た。
光の剣をその場に落とし、蒼い殺戮者は残ったマニピュレータをしずくに向けた。
「――話をしよう、しずく」
倒さねばならぬ敵だった。それはしずくにとって、疑いようのない"当たり前"だ。しかし、
(……お墓くらいは、作ってもいいよね)
殺さなければいけなかったが、殺したかったわけではない。自分に大義名分があったかといえば、それも怪しい。無論、自己の保身というのは大抵の場合、最も優先すべきことではあるが。
ともあれ、自分が殺してしまった敵を一目見て心に留めておこうと、少女の姿をしたそれが、落下した空色の機体に近づいていく。
培養脳を正確に撃ち抜かれた自動歩兵は、完全にその機能を停止させていた。まだ人型と分かる程度にその外形を保っているのは、下が柔らかい砂地であったことと、被弾の前に無茶な旋回を行おうとして速度が下がっていたからだろう。相対速度によっては、例え貫通力重視のフレシェット弾であっても、掠っただけで機体がバラバラになりかねない。
そういう意味では、この蒼い機体は幸運ではあったのだろう。
――それが幸運などではなく、完全な計算によるものであったことを、放たれた光弾が証明した。
蒼い自動歩兵の右腕が跳ね上がり、光の刀身を射出する。光条は自動歩兵の前に立ち尽くすしずくの脇をすり抜け、本体である電子偵察機に直撃した。破損したのは2門ある機関砲の内の片方だ。根元から切断され、大した音も立てずに熱砂へ突き刺さる。
「そんな、どうして――」
しずくが驚愕に目を見開く。
自分の攻撃は、完全に培養脳を撃ち抜いた筈だ。自動歩兵の装甲で、20ミリの威力に耐えられる筈はない。
混乱しながらも、しずくは残る一門を使って反撃を行おうとした。Fモードはあくまで外部端末だ。別に外に降りたからと言って、機体の操縦が出来なくなるわけではない。
だが機関砲がうなりをあげるよりも早く、蒼い殺戮者が飛び出していた。ほんの一瞬、半壊した飛行ユニットを無理矢理起動させる。
翼は折れ、スラスターの噴出口も歪んでいた。正常な飛行など望むべくもないが、跳躍するように蒼い機体が落下地点から飛び出す。通常の自動歩兵ならば錐揉み回転しながら砂漠に突っ込むのがオチだったろうが、突然変異の培養脳は自身に掛かるモーメントの向きを即座に理解した。まだ動く四肢を複雑に稼働させて姿勢を制御し、
「光よ」
再び発生させた光の刀身を射出する。
SHIZUKUが照準を追随させようとした瞬間、機関砲の最後の一門が先ほどと同じように切断された。もはや、自動歩兵を撃破できるような武装は残っていない。
有り得ざる結末に、しずくは思わず目を見開いた。自分の攻撃は、確かに敵の培養脳を撃ち抜いた筈。いや、それよりもどうして敵は――
「お前なら――俺の中のしずくなら、自分が撃墜した相手を確認しようとすると、そう思った」
そんなしずくの疑念に答えるように、蒼い殺戮者の声が響く。着地を気にするような余裕はなく、半ば砂中に埋もれるような状態だったが。
撃墜するだけならまだしも、現在の武装では、高速で飛び回る電子偵察機を無傷で制圧することは難しかった。故に、撃墜されたと偽装し、SHIZUKUを着陸させたのだ。
ステルス・コートを使ったのもその一環だ。ジェネレーターや培養脳など、本当に致命傷となる部位への攻撃は防がなくてはならない。だが同時に、致命となる部位への攻撃を回避すれば、SHIZUKUは警戒して降りてこなかっただろう。
故に、透明にした光の刃を盾代わりにして砲弾を受け止めたのだ。ブレイカーⅡとの戦いで行った戦法の二番煎じ。あの時はリーチを誤魔化すために用いたが、今回は位置と用途を誤魔化すために使った。
それはSHIZUKUの攻撃パターンを完全に読み切れる、ブルー・ブレイカーにだけ可能な戦術だった。それも、かつての彼であれば発想すらできなかっただろう。火乃香やしずくと出会い、そのレゾンデートルを変化させたからこそ、この結末を掴むことが出来た。
光の剣をその場に落とし、蒼い殺戮者は残ったマニピュレータをしずくに向けた。
「――話をしよう、しずく」
◇◇◇
オーフェンは自分の身体が凄まじい勢いで床に叩きつけられるのを知覚していた。チャイルドマンの放った寸打の威力は、余すことなく自分のわき腹を打ち抜いたと。
予想される激痛は、まだ来ない。それが遠くない未来だとしても、いまは思考する余裕がある。
寸打の打ち合いに、自分は勝つことができなかった。
(だが――)
明滅する視界の端に、自分と同じように倒れ行く男の影を捉える。
オーフェンの右手にも同等以上の打撃を相手の身体にぶち込んでやった感触があった。勝ちはしなかったが、負けもしなかった。全くの同時。それがこの勝負の結果――
――では、なく。
チャイルドマンが即座に立ちあがった。背中が床に触れたと思った瞬間、まるで時を反転させたかのようにその体躯が起き上がり、元の体勢に復帰する。
(な、あ――?)
視界の隅で何らかの魔術構成が閃いていた。回復か、あるいは単に力場で体を起こしたのか。それを読み解く余裕はなかったが。
分かることはひとつだけ。立ち上がったチャイルドマンがこちらへ駆け出している――とどめの一撃を繰り出すために。
魔術を併用した寸打への対抗策。チャイルドマンはそれを隠していたのか、あるいはこの瞬間に編み出したのか。どちらにせよ、オーフェンにその用意は無かった。仮に同じことが出来たとして、今からでは遅い。
チャイルドマンの歩みは決して速いものではなかったが、こちらの回復や離脱を許すほど遅くもなかった。この数秒で対抗策を打ち出さなければこちらの負けだ。
仰臥した不利な体勢で格闘戦は不可能。となれば必然的に、こちらの攻撃手段は魔術のみとなる。
意味消滅、物質崩壊、自壊連鎖――防御不能の大魔術を編むような余裕はない。刹那の内に脳裏に広がった無数から、適切な魔術の構成を絞っていく。
(こっちに利があるとすれば、チャイルドマンが回復のために魔術を使ったことだ……)
規模や要する構成の複雑さにもよるが、通常、魔術の行使には数秒のインターバルが発生する。本当に隙無く連射するというのも不可能ではないが、構成の難易度は格段に跳ね上がるのだ。
チャイルドマンは最小の構成とはないえ、魔術を使用した。このタイミングでこちらが最大級の破壊術を使えば、チャイルドマンといえども完全な防御術を展開するのは難しいだろう。
だが同時に、チャイルドマンなら必要最小限の適切な防御を行うであろうことも予想できた。必要な出力を必要なときに必要な分だけ用意できる。それがチャイルドマン・パウダーフィールドという最高のソーサラス・スタッバーの強さだ。
(だったら――)
オーフェンが選択した構成は、師にすら秘匿していた接近戦用のもの。
腹部を文字通りえぐり取られたような激痛を精神制御で無理矢理押さえ込み、構成の展開と同時に縮みかけている肺から呪文を絞り出す。
「我、掲げるは――」
右腕に重さがかかる。生み出されたのは力場による不可視の剣。オーフェンはどうにか上半身だけを僅かに起こし、それを間合いに入っていたチャイルドマンに叩き付けた。
構成を読み解く時間は与えなかった。完全に初見の術だ。いかにチャイルドマンとて、どういう効果なのか読み解くのは不可能――
その常理を、しかしチャイルドマンは越えていく。
不可視の剣はチャイルドマンの差し出した掌に受け止められていた。正確には、そこに展開された障壁によって。まったく無駄のない出力の防御術だ。数秒後に障壁は破壊されるだろうが、その数秒以内にチャイルドマンのつま先は、首か、心臓か――いずれにせよこちらの致命的な急所を破壊している。
それはチャイルドマンが真に完成された魔術士であることの証明だった。一切の無駄なく、必要な出力を見極め、展開する。
だから――鋼の後継は胸中で苦笑した。
(あんたなら、そうすると思ったぜ)
次の瞬間、オーフェンは普段ならば決してしないことをした。展開した構成の制御を緩めたのだ。
「――降魔の剣!」
不可視の剣が、瞬時に光の剣へと生まれ変わる。発生した強大な力場故に剣の重さは消え、光り輝く刀身からは放電現象が発生する。
魔術として不要なものを削ぎ落とし、完成した不可視の剣の魔術。これはその前身。過剰な威力を持つが故、未完成としていた頃の構成に劣化させたのだ。
剣が持つ力場自体に体が引きずられる。右腕の筋が無理な姿勢に悲鳴を上げた。だがオーフェンはそれに逆らわずに刃を押し進めた。
チャイルドマンが展開していた洗練された最小限の防御術を、不要なまでに強大な余力を垂れ流す光の剣が叩き割る。
果てにあるのは当然の結末――両断された肉がごとりと音を立てて体技室の床に転がり、そして消える。ゴーストの消滅にも似たその末路を、オーフェンは視界の端に収めた。
同時に、光の剣も消失する。戻ってきた痛みに、オーフェンは一通り悶絶した後、息も絶え絶えになんとか立ち上がった。壁際までほとんど転ぶように移動し、壁に背を預けてぜいぜいと喘ぐ。
「チャイルドマン……」
おそらくだが、チャイルドマンから見ても不可視の剣の魔術というのは完成された術だったのだろう。それを扱うオーフェンという魔術士も。自身と同じレベルの、完成された魔術士であると感じていたはずだ。
だからこそ、こんな未完成な魔術に切り替えてくるとは思わなかったのだろう。逆にオーフェンは、チャイルドマンが必要最小限の構成を展開するであろうことを読んでいた。
それが、この戦いの決着を左右した理由だ。だが相手に対する理解の差が勝敗を分けたというのなら。オーフェンは顔をしかめて呟いた。
「……あんた、もしかして俺がキリランシェロだって分からなかったのか?」
この島で再会したコミクロンにも言われたが、そこまで変わっただろうか? そしてチャイルドマンもそれを見抜けないとは。
(まああの先生も、たまにボケたことやってたしな……)
意外とそんなものなのかも知れない。結局のところ、完璧な存在など有りはしないのだ。
予想される激痛は、まだ来ない。それが遠くない未来だとしても、いまは思考する余裕がある。
寸打の打ち合いに、自分は勝つことができなかった。
(だが――)
明滅する視界の端に、自分と同じように倒れ行く男の影を捉える。
オーフェンの右手にも同等以上の打撃を相手の身体にぶち込んでやった感触があった。勝ちはしなかったが、負けもしなかった。全くの同時。それがこの勝負の結果――
――では、なく。
チャイルドマンが即座に立ちあがった。背中が床に触れたと思った瞬間、まるで時を反転させたかのようにその体躯が起き上がり、元の体勢に復帰する。
(な、あ――?)
視界の隅で何らかの魔術構成が閃いていた。回復か、あるいは単に力場で体を起こしたのか。それを読み解く余裕はなかったが。
分かることはひとつだけ。立ち上がったチャイルドマンがこちらへ駆け出している――とどめの一撃を繰り出すために。
魔術を併用した寸打への対抗策。チャイルドマンはそれを隠していたのか、あるいはこの瞬間に編み出したのか。どちらにせよ、オーフェンにその用意は無かった。仮に同じことが出来たとして、今からでは遅い。
チャイルドマンの歩みは決して速いものではなかったが、こちらの回復や離脱を許すほど遅くもなかった。この数秒で対抗策を打ち出さなければこちらの負けだ。
仰臥した不利な体勢で格闘戦は不可能。となれば必然的に、こちらの攻撃手段は魔術のみとなる。
意味消滅、物質崩壊、自壊連鎖――防御不能の大魔術を編むような余裕はない。刹那の内に脳裏に広がった無数から、適切な魔術の構成を絞っていく。
(こっちに利があるとすれば、チャイルドマンが回復のために魔術を使ったことだ……)
規模や要する構成の複雑さにもよるが、通常、魔術の行使には数秒のインターバルが発生する。本当に隙無く連射するというのも不可能ではないが、構成の難易度は格段に跳ね上がるのだ。
チャイルドマンは最小の構成とはないえ、魔術を使用した。このタイミングでこちらが最大級の破壊術を使えば、チャイルドマンといえども完全な防御術を展開するのは難しいだろう。
だが同時に、チャイルドマンなら必要最小限の適切な防御を行うであろうことも予想できた。必要な出力を必要なときに必要な分だけ用意できる。それがチャイルドマン・パウダーフィールドという最高のソーサラス・スタッバーの強さだ。
(だったら――)
オーフェンが選択した構成は、師にすら秘匿していた接近戦用のもの。
腹部を文字通りえぐり取られたような激痛を精神制御で無理矢理押さえ込み、構成の展開と同時に縮みかけている肺から呪文を絞り出す。
「我、掲げるは――」
右腕に重さがかかる。生み出されたのは力場による不可視の剣。オーフェンはどうにか上半身だけを僅かに起こし、それを間合いに入っていたチャイルドマンに叩き付けた。
構成を読み解く時間は与えなかった。完全に初見の術だ。いかにチャイルドマンとて、どういう効果なのか読み解くのは不可能――
その常理を、しかしチャイルドマンは越えていく。
不可視の剣はチャイルドマンの差し出した掌に受け止められていた。正確には、そこに展開された障壁によって。まったく無駄のない出力の防御術だ。数秒後に障壁は破壊されるだろうが、その数秒以内にチャイルドマンのつま先は、首か、心臓か――いずれにせよこちらの致命的な急所を破壊している。
それはチャイルドマンが真に完成された魔術士であることの証明だった。一切の無駄なく、必要な出力を見極め、展開する。
だから――鋼の後継は胸中で苦笑した。
(あんたなら、そうすると思ったぜ)
次の瞬間、オーフェンは普段ならば決してしないことをした。展開した構成の制御を緩めたのだ。
「――降魔の剣!」
不可視の剣が、瞬時に光の剣へと生まれ変わる。発生した強大な力場故に剣の重さは消え、光り輝く刀身からは放電現象が発生する。
魔術として不要なものを削ぎ落とし、完成した不可視の剣の魔術。これはその前身。過剰な威力を持つが故、未完成としていた頃の構成に劣化させたのだ。
剣が持つ力場自体に体が引きずられる。右腕の筋が無理な姿勢に悲鳴を上げた。だがオーフェンはそれに逆らわずに刃を押し進めた。
チャイルドマンが展開していた洗練された最小限の防御術を、不要なまでに強大な余力を垂れ流す光の剣が叩き割る。
果てにあるのは当然の結末――両断された肉がごとりと音を立てて体技室の床に転がり、そして消える。ゴーストの消滅にも似たその末路を、オーフェンは視界の端に収めた。
同時に、光の剣も消失する。戻ってきた痛みに、オーフェンは一通り悶絶した後、息も絶え絶えになんとか立ち上がった。壁際までほとんど転ぶように移動し、壁に背を預けてぜいぜいと喘ぐ。
「チャイルドマン……」
おそらくだが、チャイルドマンから見ても不可視の剣の魔術というのは完成された術だったのだろう。それを扱うオーフェンという魔術士も。自身と同じレベルの、完成された魔術士であると感じていたはずだ。
だからこそ、こんな未完成な魔術に切り替えてくるとは思わなかったのだろう。逆にオーフェンは、チャイルドマンが必要最小限の構成を展開するであろうことを読んでいた。
それが、この戦いの決着を左右した理由だ。だが相手に対する理解の差が勝敗を分けたというのなら。オーフェンは顔をしかめて呟いた。
「……あんた、もしかして俺がキリランシェロだって分からなかったのか?」
この島で再会したコミクロンにも言われたが、そこまで変わっただろうか? そしてチャイルドマンもそれを見抜けないとは。
(まああの先生も、たまにボケたことやってたしな……)
意外とそんなものなのかも知れない。結局のところ、完璧な存在など有りはしないのだ。
◇◇◇
"皇帝"を従えるアルフレートを前に、最後の精燃槽を接続した"運命"を構えたベルガーは、必死に思考を巡らしていた。
先手を取らねばならない。防御に"運命"を使ってしまえば、それだけ不利になる。だが残りひとつの精燃槽で、"皇帝"の援護を受けるアルフレートを倒せる自信は無い。
"運命"の仮発動は森羅万象を切断できるが、同じ強臓式である"皇帝"は言実化による相殺が可能だ。
("皇帝"を何とかするしかないが……それこそ電池ひとつじゃ無理だ。どうする――)
ベルガーの頬を汗が伝わり、顎から滴った。足下の隔壁から立ち上がる熱気が、ただでさえ打ち合いで消耗している体力をさらに削っていた。
そして、
(……待て。確か、この熱は)
「考え事をする余裕があるか」
呼吸を整えたアルフレートが飛び出してくる。勝負を決めるつもりなのがありありと察せられた。
「あ」
≪皇帝は敵を圧倒する≫
五行による光爆と、言実詞によって遠隔操作される"皇帝"の一刀が同時にベルガーへ殺到する。
(……賭けるか!)
決断。
ベルガーは"運命"を振り上げた。だがその切っ先を向けるのは、アルフレートでも"皇帝"でもない。
≪運命とは、風穴を開けるものなり!≫
足下の隔壁へ、"運命"の黒刃が深々と突き立つ。
「何を――?」
アルフレートが漏らす疑念の声。
ベルガーたちが足場にしている鋼鉄製の閉じた隔壁は、地下造船所のものだ。本来は艦艇の出入りに使われる。
隔壁の下にあるのはその為の設備と、建造中の戦艦だけの筈だった――平時ならば。
再現されたこの時間軸においては、反独隊の破壊工作によって、隔壁の下には高濃度の精燃料がなみなみと満たされている。
高濃度の精燃料は、気化したガソリンと同程度には危険だ。
そして"運命"によって開かれた貫通穴から、その精燃料が凄まじい勢いで吹き出した。
「なっ!?」
精燃を吹きかけられ、突進の勢いを止められたアルフレートの顔が、はっきりと驚愕で歪んだ。
致命的な失態。アルフレートが放った五行による破壊は、破壊の遺伝詞を対象の遺伝詞にぶつけることで、連鎖的な崩壊を促す技である。大雑把に言えば、火種を使って大火事を起こすというようなものだ。
それを精燃料のプールにぶつければどうなるか。
足下の造船所が、巨大な爆発を起こして吹き飛んだ。
走って逃げるとか、身を躱すとか、そういったことが可能な規模では無い。格納庫は巨大なクレーターへと変じた。周囲数百ヤードが衝撃波でズタズタになり、基地中の窓ガラスが余すこと無く割れて飛散する。
その爆心地にいた人間など、生きていられる筈も無い――
≪皇帝は不滅である≫
――ただし、それは常人であればの話。
アルフレートはその類い希なる反射神経で防御の言実詞を紡ぎ、爆発の影響を最小限に抑えた。
"皇帝"がアルフレートを庇うように、その白い巨体を盾とする。アルフレートを巨大な掌で包み込むと、推進装置を全力で噴射し、少しでも爆圧から逃れようと試みた。
だが、足場そのものが巨大な爆弾に変わったのだ。無傷とは行かない。衝撃に飲み込まれた"皇帝"の巨体は制御を失い、まるで砲弾か何かのように放物線を描いて飛んだ。
着地――というよりも墜落して、それでもさらに数度、地面の上を跳ね回る。白い装甲服が傷だらけになったところでようやく止まり、掌に包まれていたアルフレートもまた開放された。
「かはっ……」
その鍛え抜かれた肉体もまた、"皇帝"と同じく満身創痍となっていた。鋼鉄の掌に何度も叩き付けられたのだ。
左腕は完全に骨折しており、その他にも罅が入った骨の数は数えるのが馬鹿らしくなるほど。裂傷、火傷の類も無数。衝撃は脳を含めた各臓器に染みこみ、正常な働きを阻害していた。
動けない。立ち上がることさえ覚束ない。
だが、それは敵も同じことだろうと、アルフレートは考えた。ベルガーも同じく"運命"による言実化で破滅の運命を斬り裂いただろうが、無傷で切り抜けられる規模では無い。おそらく精燃槽もあれが最後。あの爆発から完全に逃れるには足りないだろう。
とどめを刺す必要がある。
数分ほどを回復にあててから、アルフレートは無理矢理に起き上がった。"純皇"を杖にするような不敬は犯せない。全身の激痛を超人的な精神力で押さえ込んで、どこかに吹き飛んだ筈の敵を探そうと辺りを見回す。
だが、その必要は無かった。
「よう、捜し物か?」
ダウゲ・ベルガーが、地面に突き立てた"運命"に体重を預ける姿勢で、そこに立っていた。
アルフレートと同じようなダメージを負ったのだろう。身に纏う黒衣はあちこちが裂け、焦げている。トレードマークのサングラスもどこかに吹き飛んでいた。
だが、おかしい。アルフレートは目を見開いた。
「貴様……何故、既に怪我が治っている?」
「馬鹿言え。こんな短時間で完治するかよ。きっちり治りかけだ」
そう嘯いて、ベルガーは"運命"の切っ先を地面から引き抜いた。ここに来るまでに適当な建物から最低限の精燃槽を回収できたのだ。少なくとも、この決着には十分な量を。
「それでもまあ、今の俺は、即死しなけりゃ何とかなるからな」
あの島で口にした不死の酒の効果は、未だ続いている。即座に完治というわけにはいかないが、それでも骨折や裂傷はかなりの速度で修復されていった。
「決着を付けよう、アルフレート・マルドリック――片手で"純皇"を振るえるか?」
「嘗めるな、犬が」
黒刃を向けるベルガーに応じ、右手で白銀に光る刃を構えるアルフレート。
動いたのは両者同時だった。刃を振り上げて駆け出すベルガーを、この状態での近接戦闘は不利と見たアルフレートが迎え撃つ。
「あ」
振るわれる"純皇"。崩壊の光が、津波のようにベルガーへ向かう。
単音を結び、そこに込めた遺伝詞を火種に連鎖的な破壊を齎す五行の技。重傷を負っているアルフレートだが、その威力にいささかの曇りも無い。光の渦は、ベルガーを的確に捉えていた。回避は不能――言実化を使わなければ。
(奴が五行を防御するのに、"皇帝"の一撃を合わせる)
アルフレートの目論見。近接戦闘が難しい現状での、唯一の勝ち筋。
だが、
「――何故、"運命"を使わない――?」
それを読んでいたように、ベルガーは"運命"を振るわなかった。
だがそれでは当然、五行による破壊に飲み込まれる。
破滅の光が、ベルガーの身体を、それを構成するための設計図である遺伝詞を崩壊させた。
ただし――全身では無い。
「……っ、一度失った腕だ。くれてやるよ!」
ベルガーの左腕が光の中に消える。完全な回避は不可能だったが、致命傷が致命傷で無くなるのなら避けようはある。斜め前に全力で跳んで、破壊の波には片腕と胴の一部を呑ませるだけに留めた。
敵は言実詞を使わぬまま五行をやり過ごしたのだ。ならば当然、攻撃の為にそれを使ってくる。
「ちぃ! ――迎撃せよ、"皇帝"!」
アルフレートの強い意志が表出し、"皇帝"がそれに答え、世界を書き換える言実詞となる。
だが――その動きが、どうしようもなく鈍い。
≪皇帝は――……≫
紡がれる詞の速度が、常よりもほんの僅か、遅い。
その様子をアルフレートは愕然と見送り、そして瞬時に原因にたどり着いた。
「……そうか、精燃料による遺伝詞乱散――!」
強臓式は、製造時に組み込まれた遺伝詞の持ち主しか扱えない。もしも仮に、強臓式を造り上げた後、その持ち主の遺伝詞が変異すればどうなるか?
その答えがこれだ。高純度精燃料を浴びたアルフレートと"皇帝"の繋がりに罅が入った。これを修復するには、風水師によるチューニングが必要になるだろう。
(だが、それは奴も同じ筈――)
「言ったろ? 今の俺は即死しなけりゃ何とかなるってよ!」
≪運命はここに決着を告げる≫
ベルガーの言実詞は、アルフレートのものとは違い、一片の遅延も無く紡がれ、言実化を引き起こした。
役割を果たした黒刃が消え、同時にアルフレートの横を駆け抜けたベルガーは、痛みに耐えられなくなって地面に倒れ込んだ。その背後で、同じくアルフレートが倒れる音を耳にする。
「俺の初勝利だな……まあ、誇れたもんじゃないが」
不死の酒と、この場所についての知識。二つのアドバンテージを持っていながらこの有様だ。
抉れた胴の再生が始まっていた。あと数センチずれていれば、心臓を消し飛ばされて死んでいただろう。
激痛に顔をしかめながら、ベルガーは再生を待つ。
先手を取らねばならない。防御に"運命"を使ってしまえば、それだけ不利になる。だが残りひとつの精燃槽で、"皇帝"の援護を受けるアルフレートを倒せる自信は無い。
"運命"の仮発動は森羅万象を切断できるが、同じ強臓式である"皇帝"は言実化による相殺が可能だ。
("皇帝"を何とかするしかないが……それこそ電池ひとつじゃ無理だ。どうする――)
ベルガーの頬を汗が伝わり、顎から滴った。足下の隔壁から立ち上がる熱気が、ただでさえ打ち合いで消耗している体力をさらに削っていた。
そして、
(……待て。確か、この熱は)
「考え事をする余裕があるか」
呼吸を整えたアルフレートが飛び出してくる。勝負を決めるつもりなのがありありと察せられた。
「あ」
≪皇帝は敵を圧倒する≫
五行による光爆と、言実詞によって遠隔操作される"皇帝"の一刀が同時にベルガーへ殺到する。
(……賭けるか!)
決断。
ベルガーは"運命"を振り上げた。だがその切っ先を向けるのは、アルフレートでも"皇帝"でもない。
≪運命とは、風穴を開けるものなり!≫
足下の隔壁へ、"運命"の黒刃が深々と突き立つ。
「何を――?」
アルフレートが漏らす疑念の声。
ベルガーたちが足場にしている鋼鉄製の閉じた隔壁は、地下造船所のものだ。本来は艦艇の出入りに使われる。
隔壁の下にあるのはその為の設備と、建造中の戦艦だけの筈だった――平時ならば。
再現されたこの時間軸においては、反独隊の破壊工作によって、隔壁の下には高濃度の精燃料がなみなみと満たされている。
高濃度の精燃料は、気化したガソリンと同程度には危険だ。
そして"運命"によって開かれた貫通穴から、その精燃料が凄まじい勢いで吹き出した。
「なっ!?」
精燃を吹きかけられ、突進の勢いを止められたアルフレートの顔が、はっきりと驚愕で歪んだ。
致命的な失態。アルフレートが放った五行による破壊は、破壊の遺伝詞を対象の遺伝詞にぶつけることで、連鎖的な崩壊を促す技である。大雑把に言えば、火種を使って大火事を起こすというようなものだ。
それを精燃料のプールにぶつければどうなるか。
足下の造船所が、巨大な爆発を起こして吹き飛んだ。
走って逃げるとか、身を躱すとか、そういったことが可能な規模では無い。格納庫は巨大なクレーターへと変じた。周囲数百ヤードが衝撃波でズタズタになり、基地中の窓ガラスが余すこと無く割れて飛散する。
その爆心地にいた人間など、生きていられる筈も無い――
≪皇帝は不滅である≫
――ただし、それは常人であればの話。
アルフレートはその類い希なる反射神経で防御の言実詞を紡ぎ、爆発の影響を最小限に抑えた。
"皇帝"がアルフレートを庇うように、その白い巨体を盾とする。アルフレートを巨大な掌で包み込むと、推進装置を全力で噴射し、少しでも爆圧から逃れようと試みた。
だが、足場そのものが巨大な爆弾に変わったのだ。無傷とは行かない。衝撃に飲み込まれた"皇帝"の巨体は制御を失い、まるで砲弾か何かのように放物線を描いて飛んだ。
着地――というよりも墜落して、それでもさらに数度、地面の上を跳ね回る。白い装甲服が傷だらけになったところでようやく止まり、掌に包まれていたアルフレートもまた開放された。
「かはっ……」
その鍛え抜かれた肉体もまた、"皇帝"と同じく満身創痍となっていた。鋼鉄の掌に何度も叩き付けられたのだ。
左腕は完全に骨折しており、その他にも罅が入った骨の数は数えるのが馬鹿らしくなるほど。裂傷、火傷の類も無数。衝撃は脳を含めた各臓器に染みこみ、正常な働きを阻害していた。
動けない。立ち上がることさえ覚束ない。
だが、それは敵も同じことだろうと、アルフレートは考えた。ベルガーも同じく"運命"による言実化で破滅の運命を斬り裂いただろうが、無傷で切り抜けられる規模では無い。おそらく精燃槽もあれが最後。あの爆発から完全に逃れるには足りないだろう。
とどめを刺す必要がある。
数分ほどを回復にあててから、アルフレートは無理矢理に起き上がった。"純皇"を杖にするような不敬は犯せない。全身の激痛を超人的な精神力で押さえ込んで、どこかに吹き飛んだ筈の敵を探そうと辺りを見回す。
だが、その必要は無かった。
「よう、捜し物か?」
ダウゲ・ベルガーが、地面に突き立てた"運命"に体重を預ける姿勢で、そこに立っていた。
アルフレートと同じようなダメージを負ったのだろう。身に纏う黒衣はあちこちが裂け、焦げている。トレードマークのサングラスもどこかに吹き飛んでいた。
だが、おかしい。アルフレートは目を見開いた。
「貴様……何故、既に怪我が治っている?」
「馬鹿言え。こんな短時間で完治するかよ。きっちり治りかけだ」
そう嘯いて、ベルガーは"運命"の切っ先を地面から引き抜いた。ここに来るまでに適当な建物から最低限の精燃槽を回収できたのだ。少なくとも、この決着には十分な量を。
「それでもまあ、今の俺は、即死しなけりゃ何とかなるからな」
あの島で口にした不死の酒の効果は、未だ続いている。即座に完治というわけにはいかないが、それでも骨折や裂傷はかなりの速度で修復されていった。
「決着を付けよう、アルフレート・マルドリック――片手で"純皇"を振るえるか?」
「嘗めるな、犬が」
黒刃を向けるベルガーに応じ、右手で白銀に光る刃を構えるアルフレート。
動いたのは両者同時だった。刃を振り上げて駆け出すベルガーを、この状態での近接戦闘は不利と見たアルフレートが迎え撃つ。
「あ」
振るわれる"純皇"。崩壊の光が、津波のようにベルガーへ向かう。
単音を結び、そこに込めた遺伝詞を火種に連鎖的な破壊を齎す五行の技。重傷を負っているアルフレートだが、その威力にいささかの曇りも無い。光の渦は、ベルガーを的確に捉えていた。回避は不能――言実化を使わなければ。
(奴が五行を防御するのに、"皇帝"の一撃を合わせる)
アルフレートの目論見。近接戦闘が難しい現状での、唯一の勝ち筋。
だが、
「――何故、"運命"を使わない――?」
それを読んでいたように、ベルガーは"運命"を振るわなかった。
だがそれでは当然、五行による破壊に飲み込まれる。
破滅の光が、ベルガーの身体を、それを構成するための設計図である遺伝詞を崩壊させた。
ただし――全身では無い。
「……っ、一度失った腕だ。くれてやるよ!」
ベルガーの左腕が光の中に消える。完全な回避は不可能だったが、致命傷が致命傷で無くなるのなら避けようはある。斜め前に全力で跳んで、破壊の波には片腕と胴の一部を呑ませるだけに留めた。
敵は言実詞を使わぬまま五行をやり過ごしたのだ。ならば当然、攻撃の為にそれを使ってくる。
「ちぃ! ――迎撃せよ、"皇帝"!」
アルフレートの強い意志が表出し、"皇帝"がそれに答え、世界を書き換える言実詞となる。
だが――その動きが、どうしようもなく鈍い。
≪皇帝は――……≫
紡がれる詞の速度が、常よりもほんの僅か、遅い。
その様子をアルフレートは愕然と見送り、そして瞬時に原因にたどり着いた。
「……そうか、精燃料による遺伝詞乱散――!」
強臓式は、製造時に組み込まれた遺伝詞の持ち主しか扱えない。もしも仮に、強臓式を造り上げた後、その持ち主の遺伝詞が変異すればどうなるか?
その答えがこれだ。高純度精燃料を浴びたアルフレートと"皇帝"の繋がりに罅が入った。これを修復するには、風水師によるチューニングが必要になるだろう。
(だが、それは奴も同じ筈――)
「言ったろ? 今の俺は即死しなけりゃ何とかなるってよ!」
≪運命はここに決着を告げる≫
ベルガーの言実詞は、アルフレートのものとは違い、一片の遅延も無く紡がれ、言実化を引き起こした。
役割を果たした黒刃が消え、同時にアルフレートの横を駆け抜けたベルガーは、痛みに耐えられなくなって地面に倒れ込んだ。その背後で、同じくアルフレートが倒れる音を耳にする。
「俺の初勝利だな……まあ、誇れたもんじゃないが」
不死の酒と、この場所についての知識。二つのアドバンテージを持っていながらこの有様だ。
抉れた胴の再生が始まっていた。あと数センチずれていれば、心臓を消し飛ばされて死んでいただろう。
激痛に顔をしかめながら、ベルガーは再生を待つ。
◇◇◇
そしてキノは、思い出にある森の中の小さな家の前で、決闘の構えをとった。
互いに腰のホルスターに収めるのは44口径、先込め式リヴォルバータイプのハンド・パースエイダー。
似ている――と形容するのは正しくない。それは、正真正銘同じ銃だった。キノが持ち出した"カノン"の他に数丁存在した予備ではない。
「師匠」
口にする。死人の名前ではない。目の前にいる、老いた女性の名前だった。
「キノ」
優しい微笑みを老婆は浮かべていた。やわらかい春の日差しのような笑み。
キノも笑い返す。だが、神経は緩めない。あの笑みに騙されて、何度ゴム製の模擬弾を撃ちこまれたか分からない。そして今回撃ちこまれるのは鉛製の実弾だろう。
暗転した視界に光が戻ってくれば、そこに映し出されたのは、かつて自分が師匠と暮らしていた、あの森の中。
見知らぬ扉も、まるで後から思い出に増設されたかのような不自然な位置に浮いていたが、キノはそちらに僅かにも意識を割かなかった。
理解していた。目の前に現れた老婆は、自分の師は、二度と会えないと思っていたあの人は、もう一度会いたかったあの人は、
「キノ。私の為に、死んでください」
自分を殺そうとしている。
キノは師匠の言葉を聞いて、瞬時にカノンを引き抜いた。その動作は何よりも滑らかだ。およそ、これまでに行った中でもっともスムーズなクイック・ドロウ。
老婆の言葉に、胸の内がかき乱されなかったと言えば嘘になる。
師匠は幼い自分を育ててくれた。訓練は尋常でないほど厳しかったが、それでもそれは、彼女の優しさに裏打ちされた厳しさだった。
師匠の言葉を覚えている。師匠の笑顔を覚えている。料理の味も、触れる手の暖かさも。師匠と共有した、幸せな思い出はこの身に余すことなく刻まれている。
その師匠が、自分に死んで欲しいと言った。自分に生きる意味と手段を教えてくれた、彼女が。
ああ、ならば――自分は、死ぬべきではないのか。
かつて、二度も殺されるのはごめんだと思った。本物のキノ。自分の前のキノ。×××を助けるために殺されたキノ。彼の死を意味のないものにしたくなかった。
だけど、師匠だって自分のことを救うために殺されてくれたではないか。
(あれ?)
ふと――疑問に思う。
師匠の前で、こんなにも思考を続けられるものだろうか、と。
視界が傾いていく。仰向けに。師匠の手。握られたカノン。すでに薄く硝煙を。自分の手は力が入らず。
(ぬ?)
まとまらずに方々に散った思考は、実を結ぶこともなく。
心臓を撃ち抜かれたキノという少女は、ゆっくりと意識を手放した。
師匠の姿が消える。同時に、緑に溢れていた景色も荒野へと変じた。残るのは物言わぬ少女の亡骸と、
「あー、キノ、死んじゃった?」
そして、一台のモトラドだけだった。
「師匠が出てきた時点で逃げるべきだったよね。そんな気はしていたけど、やっぱり冷静じゃなかったな」
他人事のようにそう呟いてから、エルメスは少しだけ声を張り上げた。
「ねー、神野陰之さんだっけ? ちょっとお話ししようよ。時空に縛られてないってことは、並列化して存在できるんでしょ?」
「――心に"影"を持たぬ君に、『私』を正しく認識できるとも思えないが」
そんな台詞と共に、エルメスの知覚に、その男は唐突に出現した。
神野陰之。人であれば畏れずにはいられない、夜闇の魔人。
だがモトラドのエルメスにとっては、神野の言葉の通り、闇も影も恐るべきものではない。いや、乗り手が事故を起こしやすくなるので、夜間の運転は控えて貰いたいが。
「別にお友達になろうって言ってるんじゃないんだ。それより、ボクを元の世界に返して欲しいんだけど」
「ほう? 君の乗り手は死んでしまったというのに?」
「キノが初めての乗り手だったわけでもないし、死んじゃったら次の乗り手に巡り会うだけだよ」
それに、とエルメスは続ける。
「遊び終わったらオモチャは片付けるものじゃない?」
「ふむ。だが、その観点で言うのなら、まだこの証明遊戯は終わっていないのだがね」
「そうなの? だって、心の実在を証明するっていうのは――」
暗黒の荒野に、子供のような高い声が、何でも無いという風に響き渡って。
「――ってことでしょ?」
「まさか最初に解にたどり着くのが、人ではなく二輪車だとは」
それだけに惜しい、と神野陰之はいつもの引き攣った笑みを浮かべた。
「君は回答する権利を持たない。故に証明遊戯は終わらず、君はここでやがて朽ち果てる。かつてのように、ただのスクラップに戻るというわけだ」
初めてキノと出会った時のことを揶揄するような言葉に、しかしエルメスは何の情動も見せず、軽い調子で答える。
「うーん。スクラップは困るな――せめてストラップがいい」
「残念だが、『私』は人の願いしか叶えぬのでね」
「ここでもモトラド差別? お兄さん、神様なのにケチ臭いなぁ」
文句をいうエルメスに、しかし神野陰之は顔色を変えもしない。
しばらくエルメスは黙考していたが、やがて確認でもするかのように神野へ問いかけた。
「人間の願い事なら叶えてくれるんだよね?」
「ああ。それが真に強い願いで、なおかつ我が盟友の望みと競合していなければ」
「で、この人殺しゲームの参加者を集めたのもお兄さん」
「選定には薔薇十字騎士団なども関わったがね。そう、実行役という意味でなら『私』ということになるだろう」
「じゃあさ、こんなのはどうだろう――」
エルメスが要望を伝える。
それを聞いて、世界の半身。名付けられた暗黒。人の願いのみしか叶えぬはずの魔法は、真に感心したという風に頷いて見せた。
「ああ――君は真に賢者だな」
そして受肉した神の片鱗は、その望みを叶えた。
互いに腰のホルスターに収めるのは44口径、先込め式リヴォルバータイプのハンド・パースエイダー。
似ている――と形容するのは正しくない。それは、正真正銘同じ銃だった。キノが持ち出した"カノン"の他に数丁存在した予備ではない。
「師匠」
口にする。死人の名前ではない。目の前にいる、老いた女性の名前だった。
「キノ」
優しい微笑みを老婆は浮かべていた。やわらかい春の日差しのような笑み。
キノも笑い返す。だが、神経は緩めない。あの笑みに騙されて、何度ゴム製の模擬弾を撃ちこまれたか分からない。そして今回撃ちこまれるのは鉛製の実弾だろう。
暗転した視界に光が戻ってくれば、そこに映し出されたのは、かつて自分が師匠と暮らしていた、あの森の中。
見知らぬ扉も、まるで後から思い出に増設されたかのような不自然な位置に浮いていたが、キノはそちらに僅かにも意識を割かなかった。
理解していた。目の前に現れた老婆は、自分の師は、二度と会えないと思っていたあの人は、もう一度会いたかったあの人は、
「キノ。私の為に、死んでください」
自分を殺そうとしている。
キノは師匠の言葉を聞いて、瞬時にカノンを引き抜いた。その動作は何よりも滑らかだ。およそ、これまでに行った中でもっともスムーズなクイック・ドロウ。
老婆の言葉に、胸の内がかき乱されなかったと言えば嘘になる。
師匠は幼い自分を育ててくれた。訓練は尋常でないほど厳しかったが、それでもそれは、彼女の優しさに裏打ちされた厳しさだった。
師匠の言葉を覚えている。師匠の笑顔を覚えている。料理の味も、触れる手の暖かさも。師匠と共有した、幸せな思い出はこの身に余すことなく刻まれている。
その師匠が、自分に死んで欲しいと言った。自分に生きる意味と手段を教えてくれた、彼女が。
ああ、ならば――自分は、死ぬべきではないのか。
かつて、二度も殺されるのはごめんだと思った。本物のキノ。自分の前のキノ。×××を助けるために殺されたキノ。彼の死を意味のないものにしたくなかった。
だけど、師匠だって自分のことを救うために殺されてくれたではないか。
(あれ?)
ふと――疑問に思う。
師匠の前で、こんなにも思考を続けられるものだろうか、と。
視界が傾いていく。仰向けに。師匠の手。握られたカノン。すでに薄く硝煙を。自分の手は力が入らず。
(ぬ?)
まとまらずに方々に散った思考は、実を結ぶこともなく。
心臓を撃ち抜かれたキノという少女は、ゆっくりと意識を手放した。
師匠の姿が消える。同時に、緑に溢れていた景色も荒野へと変じた。残るのは物言わぬ少女の亡骸と、
「あー、キノ、死んじゃった?」
そして、一台のモトラドだけだった。
「師匠が出てきた時点で逃げるべきだったよね。そんな気はしていたけど、やっぱり冷静じゃなかったな」
他人事のようにそう呟いてから、エルメスは少しだけ声を張り上げた。
「ねー、神野陰之さんだっけ? ちょっとお話ししようよ。時空に縛られてないってことは、並列化して存在できるんでしょ?」
「――心に"影"を持たぬ君に、『私』を正しく認識できるとも思えないが」
そんな台詞と共に、エルメスの知覚に、その男は唐突に出現した。
神野陰之。人であれば畏れずにはいられない、夜闇の魔人。
だがモトラドのエルメスにとっては、神野の言葉の通り、闇も影も恐るべきものではない。いや、乗り手が事故を起こしやすくなるので、夜間の運転は控えて貰いたいが。
「別にお友達になろうって言ってるんじゃないんだ。それより、ボクを元の世界に返して欲しいんだけど」
「ほう? 君の乗り手は死んでしまったというのに?」
「キノが初めての乗り手だったわけでもないし、死んじゃったら次の乗り手に巡り会うだけだよ」
それに、とエルメスは続ける。
「遊び終わったらオモチャは片付けるものじゃない?」
「ふむ。だが、その観点で言うのなら、まだこの証明遊戯は終わっていないのだがね」
「そうなの? だって、心の実在を証明するっていうのは――」
暗黒の荒野に、子供のような高い声が、何でも無いという風に響き渡って。
「――ってことでしょ?」
「まさか最初に解にたどり着くのが、人ではなく二輪車だとは」
それだけに惜しい、と神野陰之はいつもの引き攣った笑みを浮かべた。
「君は回答する権利を持たない。故に証明遊戯は終わらず、君はここでやがて朽ち果てる。かつてのように、ただのスクラップに戻るというわけだ」
初めてキノと出会った時のことを揶揄するような言葉に、しかしエルメスは何の情動も見せず、軽い調子で答える。
「うーん。スクラップは困るな――せめてストラップがいい」
「残念だが、『私』は人の願いしか叶えぬのでね」
「ここでもモトラド差別? お兄さん、神様なのにケチ臭いなぁ」
文句をいうエルメスに、しかし神野陰之は顔色を変えもしない。
しばらくエルメスは黙考していたが、やがて確認でもするかのように神野へ問いかけた。
「人間の願い事なら叶えてくれるんだよね?」
「ああ。それが真に強い願いで、なおかつ我が盟友の望みと競合していなければ」
「で、この人殺しゲームの参加者を集めたのもお兄さん」
「選定には薔薇十字騎士団なども関わったがね。そう、実行役という意味でなら『私』ということになるだろう」
「じゃあさ、こんなのはどうだろう――」
エルメスが要望を伝える。
それを聞いて、世界の半身。名付けられた暗黒。人の願いのみしか叶えぬはずの魔法は、真に感心したという風に頷いて見せた。
「ああ――君は真に賢者だな」
そして受肉した神の片鱗は、その望みを叶えた。
◇◇◇
繰り出した居合いの数を意識することは、とうの昔に諦めていた。
疲労はさらに積み重なり、吹き出した汗が全身を湿らせている。視界が揺れているのは肩で息をしているからだが、このままではいずれ、体幹を定めることすら難しくなるだろう。
幾重にも積み重ねた斬撃は、全く当たる気配を見せない。圧倒的な実力差から回避されるのではない。刃を振り切るその瞬間までは、なんの苦労も無く必殺した光景を脳裏に描ける。
だが刃の軌道に意識が追いついた瞬間、失敗を悟ることになるのだ。その繰り返しは、三桁に届こうとしているだろうか。
「もう一度言おう」
対照的に、アマワは疲労どころか何の消耗も見せず、ただそこにいた。
「力で隙間は埋まらない。君の鍛えたその技は答えにならない」
刃を向けられようが、精霊は微動だにしない。だというのに、火乃香の居合いは悉く敵をその間合いから外していた。
方向を見誤った。踏み込みが足りなかった。そもそも本当に剣を抜いていたのか。
本来なら在り得ぬ筈の偶然。それが精霊を守護する盾となる。
「そろそろ理解できたのではないか。証明のためには、別の手法が必要なのだと」
「うる……さいっ!」
熱を帯びた吐息と共に繰り出した刃も、同じように当たらない。
火乃香はこれまでに様々な敵と戦ってきた。単純に高い技量を持つ敵から、オカルト染みた超存在まで。
精霊アマワは、そのどれとも性質を異にするように感じられる。強大なわけではない。ただ、どうしようもなく隔絶している。
(確かに、こいつは未知の敵だ――)
無論、敵はいつだって未知だ。だがこいつは今まで戦ったどの相手とも違う不明瞭さを持っている。
ではどうする? その未知に自分はどう対抗する?
手は鞘に収めた刀の柄に置いたまま、僅かに逡巡する。
「君の取れる手段は二つだ――契約者、火乃香」
その逡巡を見透かすように。
意志を愚弄するかのように、精霊が囁く。
「契約者の責務を受け入れ、証明に挑むか――ここで、その時間を尽きさせるか」
無視するように、再度の斬撃。頭頂から股下までを両断する唐竹割りに、カタナを振り下ろす。
「さあ、どちらかを選びたまえ」
それでもなお、精霊は傷ひとつ負うことなく問いかけてくる。
は、と熱い息を吐き出して、火乃香は居合いの態勢を解いた。
全身全霊の気を込めた居合いによる疲弊は、既に後戻りできないところまで来ている。
その疲労が、思考を喚起させた――本当に、これで良いのかという迷いを。
(証明――証明か)
心の実在を証明すること。そのためだけに、自分たちは異なる世界から集められた。
それに答えることが出来れば、あらゆる願いを叶える。あの人の姿を模った闇はそう言っていた。
(しずくに先生、シャーネ――みんなを蘇らせることもできる?)
出来るのかも知れない。少なくとも、神野陰之からはかつて対峙したプロメテウス以上の力を感じた。
見通すことすら出来ぬ、闇――しかしその闇に全能が潜むなら、暗闇とて希望になるだろう。
(答えられれば――答えを得ることが出来れば)
否。
剣閃が空を断絶した。
迷いを断つが如き、どこまでも真っ直ぐで、そして速い刃の運び。だが、
「答える気はないということか」
それでもやはり、アマワには当たらない。
響く未知の声に、火乃香はカタナを振り切った体勢のまま力なく、されど明確に笑った。
「フリウにあんたのことを聞いてから、ずっと考えてたんだ。あたしが信じられるものは、なんなのかってさ」
「それがこれか。私に傷ひとつ付けることもできず、剣を振り回すだけか」
アマワの問いには答えず、火乃香は息吹を行い、呼吸を整えた。
やれることはやった。後は信じるだけだ。フリウが言っていたように。
納刀したカタナを腰だめに構え、最後の一撃を用意する。
その構えを見ても、アマワは避ける姿勢すら見せず、間合いの中でどこまでも無防備に佇んでいた。
「私を失望させるな、火乃香……」
「答えを見せてやるって言ってるだろ」
「君のそれは、答えになり得ない。これも既に伝えているが」
火乃香の集中を邪魔する意図があるわけでもないだろうが、アマワは周囲の硝化した景色を示すように腕らしき部分を掲げた。
「契約者には思索の為の時間が与えられている。この硝化の森の中で君が生存できているのもその為だ。私が失望すれば、君は死ぬ」
「脅しのつもり?」
「効率の話をしている」
かぶりを振るような動きを見せるアマワ。
「君が死ねば、我々は次の舞台を準備せねばならない。もはやこの舞台は、君の為にしか存在していないのだから」
「? どういう――」
集中が途切れる。火乃香は眉根を寄せて、アマワのセリフの意味を考えようとした。
だが、アマワが答えを示す方が早い。
「既に、君が最後のひとりなのだと、私はそう言ったのだ」
疲労はさらに積み重なり、吹き出した汗が全身を湿らせている。視界が揺れているのは肩で息をしているからだが、このままではいずれ、体幹を定めることすら難しくなるだろう。
幾重にも積み重ねた斬撃は、全く当たる気配を見せない。圧倒的な実力差から回避されるのではない。刃を振り切るその瞬間までは、なんの苦労も無く必殺した光景を脳裏に描ける。
だが刃の軌道に意識が追いついた瞬間、失敗を悟ることになるのだ。その繰り返しは、三桁に届こうとしているだろうか。
「もう一度言おう」
対照的に、アマワは疲労どころか何の消耗も見せず、ただそこにいた。
「力で隙間は埋まらない。君の鍛えたその技は答えにならない」
刃を向けられようが、精霊は微動だにしない。だというのに、火乃香の居合いは悉く敵をその間合いから外していた。
方向を見誤った。踏み込みが足りなかった。そもそも本当に剣を抜いていたのか。
本来なら在り得ぬ筈の偶然。それが精霊を守護する盾となる。
「そろそろ理解できたのではないか。証明のためには、別の手法が必要なのだと」
「うる……さいっ!」
熱を帯びた吐息と共に繰り出した刃も、同じように当たらない。
火乃香はこれまでに様々な敵と戦ってきた。単純に高い技量を持つ敵から、オカルト染みた超存在まで。
精霊アマワは、そのどれとも性質を異にするように感じられる。強大なわけではない。ただ、どうしようもなく隔絶している。
(確かに、こいつは未知の敵だ――)
無論、敵はいつだって未知だ。だがこいつは今まで戦ったどの相手とも違う不明瞭さを持っている。
ではどうする? その未知に自分はどう対抗する?
手は鞘に収めた刀の柄に置いたまま、僅かに逡巡する。
「君の取れる手段は二つだ――契約者、火乃香」
その逡巡を見透かすように。
意志を愚弄するかのように、精霊が囁く。
「契約者の責務を受け入れ、証明に挑むか――ここで、その時間を尽きさせるか」
無視するように、再度の斬撃。頭頂から股下までを両断する唐竹割りに、カタナを振り下ろす。
「さあ、どちらかを選びたまえ」
それでもなお、精霊は傷ひとつ負うことなく問いかけてくる。
は、と熱い息を吐き出して、火乃香は居合いの態勢を解いた。
全身全霊の気を込めた居合いによる疲弊は、既に後戻りできないところまで来ている。
その疲労が、思考を喚起させた――本当に、これで良いのかという迷いを。
(証明――証明か)
心の実在を証明すること。そのためだけに、自分たちは異なる世界から集められた。
それに答えることが出来れば、あらゆる願いを叶える。あの人の姿を模った闇はそう言っていた。
(しずくに先生、シャーネ――みんなを蘇らせることもできる?)
出来るのかも知れない。少なくとも、神野陰之からはかつて対峙したプロメテウス以上の力を感じた。
見通すことすら出来ぬ、闇――しかしその闇に全能が潜むなら、暗闇とて希望になるだろう。
(答えられれば――答えを得ることが出来れば)
否。
剣閃が空を断絶した。
迷いを断つが如き、どこまでも真っ直ぐで、そして速い刃の運び。だが、
「答える気はないということか」
それでもやはり、アマワには当たらない。
響く未知の声に、火乃香はカタナを振り切った体勢のまま力なく、されど明確に笑った。
「フリウにあんたのことを聞いてから、ずっと考えてたんだ。あたしが信じられるものは、なんなのかってさ」
「それがこれか。私に傷ひとつ付けることもできず、剣を振り回すだけか」
アマワの問いには答えず、火乃香は息吹を行い、呼吸を整えた。
やれることはやった。後は信じるだけだ。フリウが言っていたように。
納刀したカタナを腰だめに構え、最後の一撃を用意する。
その構えを見ても、アマワは避ける姿勢すら見せず、間合いの中でどこまでも無防備に佇んでいた。
「私を失望させるな、火乃香……」
「答えを見せてやるって言ってるだろ」
「君のそれは、答えになり得ない。これも既に伝えているが」
火乃香の集中を邪魔する意図があるわけでもないだろうが、アマワは周囲の硝化した景色を示すように腕らしき部分を掲げた。
「契約者には思索の為の時間が与えられている。この硝化の森の中で君が生存できているのもその為だ。私が失望すれば、君は死ぬ」
「脅しのつもり?」
「効率の話をしている」
かぶりを振るような動きを見せるアマワ。
「君が死ねば、我々は次の舞台を準備せねばならない。もはやこの舞台は、君の為にしか存在していないのだから」
「? どういう――」
集中が途切れる。火乃香は眉根を寄せて、アマワのセリフの意味を考えようとした。
だが、アマワが答えを示す方が早い。
「既に、君が最後のひとりなのだと、私はそう言ったのだ」
◇◇◇
壁際で休むオーフェンの前に、再び人影が出現した。
金髪の少年。見覚えのあるその顔には深い焦燥が浮かび、攻撃的な魔術の構成を展開している。
「わ、我は放つ――」
マジク・リンの魔術士としての素養は、オーフェンを上回る。
あの魔術は防げない。殺されないためには、相手が魔術を完成させるよりも早く、相手を行動不能にしなければならない。
だが――チャイルドマンの寸打によって腹部を打ち抜かれたオーフェンに、相手の元まで届くほどの声量を絞り出すことは難しかった。
「我は紡ぐ光輪の鎧……!」
「――光の白刃!」
放たれた極大の熱衝撃波は、苦し紛れに展開したオーフェンの障壁を薄紙のように突き破り――
金髪の少年。見覚えのあるその顔には深い焦燥が浮かび、攻撃的な魔術の構成を展開している。
「わ、我は放つ――」
マジク・リンの魔術士としての素養は、オーフェンを上回る。
あの魔術は防げない。殺されないためには、相手が魔術を完成させるよりも早く、相手を行動不能にしなければならない。
だが――チャイルドマンの寸打によって腹部を打ち抜かれたオーフェンに、相手の元まで届くほどの声量を絞り出すことは難しかった。
「我は紡ぐ光輪の鎧……!」
「――光の白刃!」
放たれた極大の熱衝撃波は、苦し紛れに展開したオーフェンの障壁を薄紙のように突き破り――
◇◇◇
大の字で寝転がるダウゲ・ベルガーの胸を、杖が打った。正確には、胸の前の空間を。空間を打撃する音が響く。
目でたどれば、打ち出された杖は、巨大な義腕の射出機に接続されている。
強臓式義腕"英雄"の威容。さらに義腕を辿り、視線は肩から頭部へ。そこにあったのは、記憶と相違ない旧友のしかめ面。
「ヘラード――」
≪英雄は敵を討つ≫
遅い。不意打ち気味に放たれた"英雄"の仮発動を前に、言実詞を紡ぐ余裕どころか相手に呼びかける時間すらない。
"音速裁断師"の名に恥じぬ速度で空間が断たれ、ベルガーの首を――
目でたどれば、打ち出された杖は、巨大な義腕の射出機に接続されている。
強臓式義腕"英雄"の威容。さらに義腕を辿り、視線は肩から頭部へ。そこにあったのは、記憶と相違ない旧友のしかめ面。
「ヘラード――」
≪英雄は敵を討つ≫
遅い。不意打ち気味に放たれた"英雄"の仮発動を前に、言実詞を紡ぐ余裕どころか相手に呼びかける時間すらない。
"音速裁断師"の名に恥じぬ速度で空間が断たれ、ベルガーの首を――
◇◇◇
ヘイズが振り返ると、そこにいたのは一人の中年男性だった。
見覚えのある顔。記憶の底から、思い出が想起される。
「親父……」
ヴァーミリオン・CD・ヘイズという名前をくれた、両親の片割れ。
それが、ヘイズに対して銃を構えていた。
おそらくはファンメイと同じ。こちらに対して攻撃するように仕向けられている。
(予測演算成功。『破砕の領域』展開準備完了。)
説得は無駄だろう。ヘイズは指を鳴らし、『破砕の領域』で銃を情報解体する。
「死んでくれ、ヘイズ」
(――エラー。『破砕の領域』展開に失敗)
弾こうとした指が、掠れた音を立てて滑った。
「は――なんだよ、それ……」
虚勢のつもりで絞り出したその声は、だがはっきり分かるほど震えてしまっていた。
『生きて、突っ走って、這いつくばって、そして笑え』
今際の際、父から託された遺言。ヴァーミリオン・CD・ヘイズの根幹。それを形作った、もっとも大切な言葉。
それが、本人によって愚弄され、砕かれた。
「畜生……」
あれは偽物だ。いくらそう自分に言い聞かせても、心は騙せない。指が、全身が震える。目を逸らすことすらできない。予測演算を終えたI-ブレインが回避運動の必要を告げていることさえ、どこか他人事のよう。
銃声。
それが耳に入ってから回避できるような運動性能を、ヘイズは持たない。
I-ブレインが回避不能を告げる。放たれた銃弾の軌道は、正確にヘイズの心臓を撃ち抜くコースを取り――
見覚えのある顔。記憶の底から、思い出が想起される。
「親父……」
ヴァーミリオン・CD・ヘイズという名前をくれた、両親の片割れ。
それが、ヘイズに対して銃を構えていた。
おそらくはファンメイと同じ。こちらに対して攻撃するように仕向けられている。
(予測演算成功。『破砕の領域』展開準備完了。)
説得は無駄だろう。ヘイズは指を鳴らし、『破砕の領域』で銃を情報解体する。
「死んでくれ、ヘイズ」
(――エラー。『破砕の領域』展開に失敗)
弾こうとした指が、掠れた音を立てて滑った。
「は――なんだよ、それ……」
虚勢のつもりで絞り出したその声は、だがはっきり分かるほど震えてしまっていた。
『生きて、突っ走って、這いつくばって、そして笑え』
今際の際、父から託された遺言。ヴァーミリオン・CD・ヘイズの根幹。それを形作った、もっとも大切な言葉。
それが、本人によって愚弄され、砕かれた。
「畜生……」
あれは偽物だ。いくらそう自分に言い聞かせても、心は騙せない。指が、全身が震える。目を逸らすことすらできない。予測演算を終えたI-ブレインが回避運動の必要を告げていることさえ、どこか他人事のよう。
銃声。
それが耳に入ってから回避できるような運動性能を、ヘイズは持たない。
I-ブレインが回避不能を告げる。放たれた銃弾の軌道は、正確にヘイズの心臓を撃ち抜くコースを取り――
◇◇◇
寒気を感じて、ギギナは振り返った。
エリダナの空に浮かぶのは、ビルの如き巨影。鋼竜ムブロフスカ。そして、その頭上に座り込む少女、
「アナピヤ……」
隔てる距離の前に、その名を呼ぶギギナの呟きは、少女の耳には届かなかっただろう。
あるいは、目の前にいても気付かなかったかもしれない。アナピヤは半狂乱になっていた。その理由も理解できる。ガユスの死体を見たからだろう。
発狂した少女の願いを、竜は汲み取った。膨大な咒力が放たれ、その口腔に組成式が展開される。
化学鋼成系第五階位<煌皇釛沸灼鏖瞋息(アー・モーン)>。沸騰した数千度のタングステンを大瀑布として放つ戦略級攻性咒式。
回避は不能。かつて戦った時、もっとも恐れた上空からの拡散放出だ。
数秒後に迫る死に、だがギギナは怯えを見せなかった。獰猛な笑みを浮かべて、黒翼を展開。多重発動した<空輪龜(ゲメイラ)>を始めとする各種補助咒式を展開し、地を蹴る。
だが竜に比して余りにちっぽけな剣舞士が、煮えたぎった重金属の奔流に呑まれるまで、あと――
エリダナの空に浮かぶのは、ビルの如き巨影。鋼竜ムブロフスカ。そして、その頭上に座り込む少女、
「アナピヤ……」
隔てる距離の前に、その名を呼ぶギギナの呟きは、少女の耳には届かなかっただろう。
あるいは、目の前にいても気付かなかったかもしれない。アナピヤは半狂乱になっていた。その理由も理解できる。ガユスの死体を見たからだろう。
発狂した少女の願いを、竜は汲み取った。膨大な咒力が放たれ、その口腔に組成式が展開される。
化学鋼成系第五階位<煌皇釛沸灼鏖瞋息(アー・モーン)>。沸騰した数千度のタングステンを大瀑布として放つ戦略級攻性咒式。
回避は不能。かつて戦った時、もっとも恐れた上空からの拡散放出だ。
数秒後に迫る死に、だがギギナは怯えを見せなかった。獰猛な笑みを浮かべて、黒翼を展開。多重発動した<空輪龜(ゲメイラ)>を始めとする各種補助咒式を展開し、地を蹴る。
だが竜に比して余りにちっぽけな剣舞士が、煮えたぎった重金属の奔流に呑まれるまで、あと――
◇◇◇
しずくへと手を伸ばす蒼い殺戮者に、新たに銃口を向ける者がいた。
「お前は……!」
細部こそ異なるが、それでも鏡写しのような印象を覚える蒼い装甲の自動歩兵。
ブレイカーⅡ。かつて死んだはずのそれが、Fモードのしずくを庇うような位置に佇んでいる。
「そこは、俺の――!」
声にならぬ、蒼い殺戮者の叫び。
ブレイカーⅡはそれに構わず、構えた武装の引き金を引いた。
P兵装。プラズマ・ライフル。SHIZUKUによる補助がなければ使えない武装。
それは、紛れもなく彼女が蒼い殺戮者の死を望んでいるということに他ならない。
そして解放された数万度の高熱が、蒼い殺戮者の装甲を沸騰させ――
「お前は……!」
細部こそ異なるが、それでも鏡写しのような印象を覚える蒼い装甲の自動歩兵。
ブレイカーⅡ。かつて死んだはずのそれが、Fモードのしずくを庇うような位置に佇んでいる。
「そこは、俺の――!」
声にならぬ、蒼い殺戮者の叫び。
ブレイカーⅡはそれに構わず、構えた武装の引き金を引いた。
P兵装。プラズマ・ライフル。SHIZUKUによる補助がなければ使えない武装。
それは、紛れもなく彼女が蒼い殺戮者の死を望んでいるということに他ならない。
そして解放された数万度の高熱が、蒼い殺戮者の装甲を沸騰させ――
◇◇◇
魂のカタチ。
魔女が見る人の本質。その方向。
「魂のカタチは、持って生まれたその人自身の資質にもよるけれど、周囲からも影響を受ける。だから結びつきの強い人同士なら、魂のカタチも結びつく」
例えばそれは"シェーファーフント"が"影"の番犬たらんとしたように。
魂のカタチからは他人との関わり方すら見て取ることができる時もある。
その結びつきに、詠子は奇妙な違和感を発見した。
「最初に違和感を覚えたのは『凪の人』を見たとき」
凪の人――出雲・覚。その魂のカタチ。
「あの人の魂のカタチは『鬼嫁』さんと最も深く結びついているはずだったのに――少しだけ形が違っていた」
鬼嫁――風見・千里。詠子自身をして、彼らはつがいの翼と形容された。
だが、と詠子は思いなおす。
本当に『彼ら』は対の存在であったのだろうか。
それぞれにつがいの翼があることは確かだろう。
『出雲・覚』と『風見・千里』のペアが両翼を形作っていた。それも確か。
だが、果たして『あの二人』は結びつくべきつがいだったのだろうか。
「その時はまだ半信半疑だった。同時に見たわけじゃないし、魂のカタチの違いも、とても小さいものだったから。向こうじゃ見え辛かったしね――確信したのは、『二つ目の刀子』さんとそのお友達を並べて見たとき」
オーフェンとコミクロン。同郷である、二人の黒魔術士。共に、チャイルドマン教室という物語の渦中にあった存在。
「あの二人の魂のカタチには共通するものがある筈だった。なくてはならなかった。完璧じゃなくても、その痕跡くらいはある筈だったのに――その共通点は、河の上流と下流にある石ころの様に、全く違ってしまっていた」
それは至極当然のこと。彼らは、すでに生きる時間が違うのだから。
「そう、二人はそれぞれ同じ世界の――"同じような世界"の、だけど違う時代から呼び出された。私が確信を得たのは、それを聞けた時」
魂のカタチ――外部からの影響を受け、形を変える。
結びつきの強い者どうしならばお互いに影響を与え合う。故に形は結びつく。
ならば、結びついて然るべき魂のカタチが結びつかないという事態。それが意味することは――酷く残酷な現実。
「――私達は幾つかの世界から数人ずつ呼び出されたと思っていたけど、それは間違いだった」
何もかもが茶番だった。それを証明してしまう手立て。
「ねえ神野さん――『本当に同じ世界』から呼び出された人なんて、私達の中にひとりも居ないんじゃないかな?」
魔女が見る人の本質。その方向。
「魂のカタチは、持って生まれたその人自身の資質にもよるけれど、周囲からも影響を受ける。だから結びつきの強い人同士なら、魂のカタチも結びつく」
例えばそれは"シェーファーフント"が"影"の番犬たらんとしたように。
魂のカタチからは他人との関わり方すら見て取ることができる時もある。
その結びつきに、詠子は奇妙な違和感を発見した。
「最初に違和感を覚えたのは『凪の人』を見たとき」
凪の人――出雲・覚。その魂のカタチ。
「あの人の魂のカタチは『鬼嫁』さんと最も深く結びついているはずだったのに――少しだけ形が違っていた」
鬼嫁――風見・千里。詠子自身をして、彼らはつがいの翼と形容された。
だが、と詠子は思いなおす。
本当に『彼ら』は対の存在であったのだろうか。
それぞれにつがいの翼があることは確かだろう。
『出雲・覚』と『風見・千里』のペアが両翼を形作っていた。それも確か。
だが、果たして『あの二人』は結びつくべきつがいだったのだろうか。
「その時はまだ半信半疑だった。同時に見たわけじゃないし、魂のカタチの違いも、とても小さいものだったから。向こうじゃ見え辛かったしね――確信したのは、『二つ目の刀子』さんとそのお友達を並べて見たとき」
オーフェンとコミクロン。同郷である、二人の黒魔術士。共に、チャイルドマン教室という物語の渦中にあった存在。
「あの二人の魂のカタチには共通するものがある筈だった。なくてはならなかった。完璧じゃなくても、その痕跡くらいはある筈だったのに――その共通点は、河の上流と下流にある石ころの様に、全く違ってしまっていた」
それは至極当然のこと。彼らは、すでに生きる時間が違うのだから。
「そう、二人はそれぞれ同じ世界の――"同じような世界"の、だけど違う時代から呼び出された。私が確信を得たのは、それを聞けた時」
魂のカタチ――外部からの影響を受け、形を変える。
結びつきの強い者どうしならばお互いに影響を与え合う。故に形は結びつく。
ならば、結びついて然るべき魂のカタチが結びつかないという事態。それが意味することは――酷く残酷な現実。
「――私達は幾つかの世界から数人ずつ呼び出されたと思っていたけど、それは間違いだった」
何もかもが茶番だった。それを証明してしまう手立て。
「ねえ神野さん――『本当に同じ世界』から呼び出された人なんて、私達の中にひとりも居ないんじゃないかな?」
◇
平行世界、という概念がある。
それはIFから派生する世界。Aとは違う選択肢を掴み取ったBの世界。
だがその派生とはどの程度の差異から生まれるのか?
国家間戦争の勝敗か? 死ぬべき個人が変わったときか?
それとも朝食に出されたのがグレープジュースかオレンジジュースか程度の違いでさえ派生は起こりうるのか。
そう――もしも、どんな僅かなズレでさえ、派生の起点に成り得るとしたら、
「もしそうだとしたら、ここに集められた知り合いが同じ世界の出身だなんて保障はないよね。ううん、同じ世界って可能性の方がずっと低い。
一日一時間一分一秒――どんな僅かなズレでさえ派生の可能性になるんなら、それを確認することすら難しいもの」
「だが仮にそうだとしても、彼らはお互いを知り合いとして認知し、それに則して行動できている。ならばそれは同じ世界から呼び出されたものとの間に、どれほどの違いがあるものだろうね?」
「違いはないよ」
微笑んで、魔女は言った。
「違いはない。だって朝食のメニューが違うだけで急に別の人になるなんてこと有り得ないもの。私だって、きっと魂のカタチに影響が出ないほど小さな差異なら違和感を覚えないと思う。
だけどそれでも、お互いに『異なる世界』から来訪した事には変わらない。
彼らの間に共有される世界は存在しない。誰かが誰かに向ける感情は、本来は別の人に向けるべきだったもの。
同じ世界での知り合い同士で呼ばれた人が多いのも多分そのためなんじゃないかな。
感じられない物を見つける方法――未来精霊さんが知りたがっていたのは"そういうこと"でしょ?」
魔女が核心をつく。それに対し、神野は丸眼鏡の向こうの双眸を細めた。
そして、魔人は最後を問う。
「では何故『私』は"そんなこと"をしたのか?」
魔女が、真実を暴く。
「"法典"君が言っていたの。この"ゲーム"のルールは殺し合いが前提になっている。だけど、なんでそんなルールになっているんだろうかって」
「我が盟友は全てを滅ぼした後に残るものこそが心だと言っていた――」
「それはもしかしたら真実かもしれない。だけど、その"全て"っていうのは、」
世界を指し示すように、両手を広げて詠子。
「こんな小さな箱庭と、私たちたかだか百人ちょっとを指すものなのかな?」
自分で言っていて馬鹿馬鹿しいとでもいう風に、魔女は肩を竦めた。
「そう、そんな筈はない――だってそれなら、それがアマワさんの願いで手段なら、神野さんは私たちを躊躇無く皆殺しにできるし、するものね。だからこのルールは私たちの全滅を目的にしたものじゃないんだ。
私はアマワさんの目的を聞いてその理由がようやくわかった。
私は神野さんの性格を知っているからその理由を察することが出来た」
一瞬の、間。
それは魔女ですらもその事実が忌むべきものだと感じられたからか。愚弄されたと感じたのだろうか。
だが結局、それは一瞬のことにすぎない。魔女は笑顔を欠片も歪ませることもなく、証明の解を口にした。
「迷わずに"優勝"を目指すことこそが、心の証明となりえるんだね」
躊躇いのない、殺戮――それはゲームに乗らなかった者達が、もっとも忌避した行為だった。
だが、それこそが正答。
最初から答えは明示されていた。
「そう――本当に人が心で繋がっているのなら、その相手を姿形に惑わされず見分けることが出来る筈。
迷わずに、親しい相手と似たカタチのモノを切り捨てることができる筈。
だから、生きる世界が違うことに気づくこと。目の前にいる愛しい人が実は他人であると気づくこと。
もっとも親しいと思っている人を躊躇無く見捨てて、もっとも憎いと思っている人と友誼を結ぶこと――それを成し遂げることこそが、心の実在を証明する方法だったんでしょう?」
救いなど、存在しなかった。
最初から参加者達が選べるような道は無かった。絆も、心も、すべて未知と闇に弄ばれていた。
そんな忌むべき事実が詠唱される。
魔女の言葉とは、正しくて呪言であった。
その呪文は魔女の思惑通りに作用し、彼女の周りに広がっていた神野の呪圏を溶かすように消し去ってしまう。
――歯車は正常に回りきった。
「正解だ、魔女・十叶詠子」
現在、ゲーム開始から二日目。午前五時三十二分。
それが、神野陰之が『設定』していた解答が述べられた瞬間だった。
それはIFから派生する世界。Aとは違う選択肢を掴み取ったBの世界。
だがその派生とはどの程度の差異から生まれるのか?
国家間戦争の勝敗か? 死ぬべき個人が変わったときか?
それとも朝食に出されたのがグレープジュースかオレンジジュースか程度の違いでさえ派生は起こりうるのか。
そう――もしも、どんな僅かなズレでさえ、派生の起点に成り得るとしたら、
「もしそうだとしたら、ここに集められた知り合いが同じ世界の出身だなんて保障はないよね。ううん、同じ世界って可能性の方がずっと低い。
一日一時間一分一秒――どんな僅かなズレでさえ派生の可能性になるんなら、それを確認することすら難しいもの」
「だが仮にそうだとしても、彼らはお互いを知り合いとして認知し、それに則して行動できている。ならばそれは同じ世界から呼び出されたものとの間に、どれほどの違いがあるものだろうね?」
「違いはないよ」
微笑んで、魔女は言った。
「違いはない。だって朝食のメニューが違うだけで急に別の人になるなんてこと有り得ないもの。私だって、きっと魂のカタチに影響が出ないほど小さな差異なら違和感を覚えないと思う。
だけどそれでも、お互いに『異なる世界』から来訪した事には変わらない。
彼らの間に共有される世界は存在しない。誰かが誰かに向ける感情は、本来は別の人に向けるべきだったもの。
同じ世界での知り合い同士で呼ばれた人が多いのも多分そのためなんじゃないかな。
感じられない物を見つける方法――未来精霊さんが知りたがっていたのは"そういうこと"でしょ?」
魔女が核心をつく。それに対し、神野は丸眼鏡の向こうの双眸を細めた。
そして、魔人は最後を問う。
「では何故『私』は"そんなこと"をしたのか?」
魔女が、真実を暴く。
「"法典"君が言っていたの。この"ゲーム"のルールは殺し合いが前提になっている。だけど、なんでそんなルールになっているんだろうかって」
「我が盟友は全てを滅ぼした後に残るものこそが心だと言っていた――」
「それはもしかしたら真実かもしれない。だけど、その"全て"っていうのは、」
世界を指し示すように、両手を広げて詠子。
「こんな小さな箱庭と、私たちたかだか百人ちょっとを指すものなのかな?」
自分で言っていて馬鹿馬鹿しいとでもいう風に、魔女は肩を竦めた。
「そう、そんな筈はない――だってそれなら、それがアマワさんの願いで手段なら、神野さんは私たちを躊躇無く皆殺しにできるし、するものね。だからこのルールは私たちの全滅を目的にしたものじゃないんだ。
私はアマワさんの目的を聞いてその理由がようやくわかった。
私は神野さんの性格を知っているからその理由を察することが出来た」
一瞬の、間。
それは魔女ですらもその事実が忌むべきものだと感じられたからか。愚弄されたと感じたのだろうか。
だが結局、それは一瞬のことにすぎない。魔女は笑顔を欠片も歪ませることもなく、証明の解を口にした。
「迷わずに"優勝"を目指すことこそが、心の証明となりえるんだね」
躊躇いのない、殺戮――それはゲームに乗らなかった者達が、もっとも忌避した行為だった。
だが、それこそが正答。
最初から答えは明示されていた。
「そう――本当に人が心で繋がっているのなら、その相手を姿形に惑わされず見分けることが出来る筈。
迷わずに、親しい相手と似たカタチのモノを切り捨てることができる筈。
だから、生きる世界が違うことに気づくこと。目の前にいる愛しい人が実は他人であると気づくこと。
もっとも親しいと思っている人を躊躇無く見捨てて、もっとも憎いと思っている人と友誼を結ぶこと――それを成し遂げることこそが、心の実在を証明する方法だったんでしょう?」
救いなど、存在しなかった。
最初から参加者達が選べるような道は無かった。絆も、心も、すべて未知と闇に弄ばれていた。
そんな忌むべき事実が詠唱される。
魔女の言葉とは、正しくて呪言であった。
その呪文は魔女の思惑通りに作用し、彼女の周りに広がっていた神野の呪圏を溶かすように消し去ってしまう。
――歯車は正常に回りきった。
「正解だ、魔女・十叶詠子」
現在、ゲーム開始から二日目。午前五時三十二分。
それが、神野陰之が『設定』していた解答が述べられた瞬間だった。
◇
「かけたまえ。君にはその権利がある」
神野のその言葉に、詠子は辺りをゆっくりと見渡した。
いつの間にか、辺りは暗い荒野ではなくなっている――壁があり、床があり、窓があり、そしてなにより光がある。
そこはコーヒーの臭いが染み付いた喫茶店だった。古めかしいレコードから、スクラッチ音塗れの音楽が放射されている。
『無名庵』――それがその店の名前だった。十叶詠子の世界にあった喫茶店である。
促されるままに、詠子はぽすんと軽い音を立てて椅子に座った。ブラウスは相変わらず血まみれだが、出血自体はいつの間にか止まっていた。神野陰之の力だろう。解にたどり着いたのなら、その参加者は死ぬ必要がなくなる――そんなところだろうか。
四人掛けの、通りに面した窓際の席。無名庵はビル街の路地裏に位置する店なので、さほど陽光が取り込めるわけでもない。だがそれでも、まだ日は落ちていないであろうということは伺うことが出来る。
斜め向かい、店内の通路側に神野が腰掛けた。それを待って、詠子はテーブル端のスタンドに立ててあるメニューの角を指で撫でながら微笑んだ。
「ねえ神野さん。飲み物を頼んでもいいかな? 長く話したから喉が渇いちゃった」
「構わない――と、言いたいところだが、この店は形だけなのでね。従業員は存在しないのだよ」
言われて、詠子は目玉だけを動かして視界をずらした。カウンターを確認すると、確かに店のマスターの姿がない。
「もっとも、君が望むなら『私』が手ずから淹れてもいいのだがね」
「うーん……じゃあ我慢するよ。勝手にお店のものを使うのは悪いしね。じゃ、お話の続きをしようか?」
「ああ――といっても、君の推理は完璧だった。お陰で『私』はそれに一点付け足しをすればいいだけだ」
嗤いながら、神野は先ほど魔女が述べた考察を、改めて肯定する。
「そう、先ほど君の言った通りだ、魔女よ。いくつかの例外を除けば、この舞台に集められた者の中に、真に同じ世界の出身と呼べる者は皆無。見せしめにされた者を除く参加者117名は、それぞれ117の異世界から集められた他人同士だったというわけだ」
それが<インターセプタ>の介入を放置していた理由のひとつだ。
そもそもが平行世界からの寄せ集め。彼女が無数に分岐点を造り、やり直しを試みても、本質的にその行為に意味は生まれない。そして無意味であるからこそ"罰則"の対象とは成り得なかった。
魔女が頷く。
「神野さん達は、心の繋がりを試そうとしていたんだね――繋がっていないということに私たちが気づけるかどうか、試していたんだ」
「その通り。それが『私』が提案し、盟友アマワが納得した証明のための方程式だ。
知っての通り、『私』に"望み"は存在しない。それは心が存在しないということ。神野陰之という器が人間であったのは遠い昔だ。
だから証明に際しても、『私』が答えを示すのではなく、あくまで"人間"に答えを見つけてもらう必要があった」
「うん。人類が抱いた疑問の隙間から生まれたアマワさんは、人以外からの解答は拒んでしまう。
だから究極の魔法に至った神野さんでも、究極の魔法に至った神野さんだからこそ、アマワさんの願望を独力で満たすことは叶わなかった。でも、分からなかったのは――」
詠子は小首を傾げた。
「例えば私は、"影"の人が私と同じ世界から呼び出されたって勘違いしていたわけだけど――そういう勘違いができない人もいたよね?」
それは三塚井ドクロやヴィルヘルム・シュルツといった、知己の名がリストに載っていなかった者たち。
「神野さんがお膳立てした証明には、その"勘違い"が必要な筈でしょ? 知り合いだと思っていた存在が、赤の他人だったって見抜くことで心の実在を証明するんだから。じゃあ勘違いができない人には――」
「そう、繋がりの否を示す権利は無かった」
あっさりと、神野は頷いた。
「何故、その解答権が無い人物を参加者にしたか。これには各々様々な理由がある。
例えば三塚井ドクロ――ドクロリル・ジャスティリアの参加は協力者であるルルティエ創始者、"神"からの要望だった。117の平行世界の中には、他次元へ干渉する術が確立している世界もある。それらから干渉されることを防ぐ手伝いとの引き換えとして。彼にしてみれば暇つぶしの一環だったのだろう。
トレイトン・サブラァニア・ファンデュや高里要は管理者として参加させた薔薇十字騎士団が盤上へ上げることを望んだ。彼らの主であるクルースニク。吸血鬼の血を吸う吸血鬼。その復活の為に、竜や麒麟の『血』に秘められた力に興味を持って。
ベトレイヤー・ジェイスや御剣涼子は"殺し合い"を助長させる者として。『殺し合いの舞台』という前提が無ければ、誰も式を解こうとはしなかっただろう。
瞬間記憶能力を持つヴィルヘルム・シュルツや死した者の声を聞ける慶滋保胤はその逆だ。その能力を以ってして、他者が式を解くのを手助けできる人物だった。
そして、彼らの参加を盟友と『私』は全て承認した。何故か?
元より、回答の機会や権利を平等にする必要などなかったからだよ。どのような形であれ、証明さえされればよかったのだからね。もっとも――」
そこまで言って、神野は少しだけ表情を変化させた。
僅かに哀れむような色が混ざり、その視線が詠子を見据える。
「……? どうしたのかな、神野さん」
「――いいや。とにかく、君の疑問に対する答えは"そういうわけ"だったのだよ」
「うーん。それは分かったけど、じゃあもうひとついいかな。確かに神野さんの用意した方程式は有効だけど、ベストではないよね?
例えば人数。117人は多すぎると思う。知り合いと出会う前に死んじゃう人がいそうだし、実際にそういう人は多かった。
最小の単位でなら、"影"の人と"シェーファーフント"君を密室に閉じ込めて『相手を殺したら外に出られる』っていうこともできたでしょ?」
「ああ、それは我が盟友の要望だ――いや、それは正確ではないか。君の言う通り、彼は問いかけることしかしない。だが人に一度退けられた未来精霊が、この条件を指定したのだ」
あるいは復讐かも知れないが、と神野は哂った。
「"より多くの人間が、同時に、より多く奪い合うように"。それが我が盟友が、今回の証明遊戯に望んだ条件だ。その理由は過去にある。かつて、アマワは契約者であったフリウ・ハリスコーに退けられた。その時の問答にね」
神野が手を伸ばし、各テーブルに備え付けてあるコーヒー用のクリーム入れを取り上げた。
それを躊躇なく傾ける。どこか粘り気のある白い液体が、つぅ、と細く細く零れ落ちていく。
無論、テーブルの上に受けるためのカップはない。クリームはそのままテーブルの上に広がり――そして瞬時に染み込んだ。
奇妙な光景だった。まるでテーブルの表面が液体になってしまったかのように波打ち、揺らめいている。合板の茶色にクリームが混ざりこんだそれは、ちょうどミルクを足したカフェオレのようにも見えた。だが、テーブルとしての強度が失われているでもない。詠子は水面のように揺らめくテーブルの表面を、面白そうにこつこつと指で叩いた。
クリームの容器を戻した神野が、テーブルの表面を撫でる。
先ほど零したクリームが白い渦を巻き、混ざり、そしてまったく別の色に変化する。それは映像だった。多様な色に変化したクリームが複雑に蠢き、まるでテレビようにいつかどこかの光景を映し出している。詠子は身を乗り出して、机の表面で展開されるその"物語"を見つめた。
映し出されているのはどうやら森であるらしい。まるで硝子で出来たような、奇妙に透き通った樹木が乱立している。
それが硝化の森と呼ばれる精霊の故郷であることを魔女の瞳は読み取った。全てを奪われた土地。世界の空隙は誰にも優しくない。そこでは動物も植物も生存することは許されない。
だというのに、その結晶樹の合間には少女が立っている。白髪、隻眼の異貌。詠子も会ったことがある。その少女の名前はフリウ・ハリスコーといった。
少女は無機の世界で声を張り上げている。悪に弄ばれた彼女は、その悪に対して戦いを挑んでいた。
『生命は終わった。それはもうどこにも残っていない……でもあたしが言葉を聞いたから、それはなかったことになんかならない』
『取り返すことはできない』
少女の宣言に反駁するように、別の声。男か女かも分からない不定で、未知の声。悪。未来精霊アマワ。
『取り返すことはできない。私が奪ったものは、絶対に取り返せない――』
『あなたはなにも持ってない』
少女は続ける。悪と戦うと決めた少女は、もはや未知に弄ばれることをやめていた。
『人は弱いから、たったひとりで全部を信じることなんてできない。でも人は、たったひとりではないもの。ふたりいれば、きっと信じられる。ひとは、ふたりいなければ生まれないもの。お前は卑怯者だ、アマワ――必ず一人にしか問いかけない』
そこで、映像は終わった。
再び机の表面はカフェオレ模様に戻り、ゆらゆらと揺れ始める。
もう少し見ていたそうだった詠子に、神野はくつくつと喉を震わせた。
「クライマックスで止めてしまい申し訳ないが、今はこれで十分だろう。魔女よ、君は理解できたかね? アマワの抱えていた矛盾は――」
「――心の存在を信じるためには、他者が必要。そうだね。独りきりなら、心なんていらないもの。心は他者に通ずる為のモノ。なのにアマワさんは常に一人にしか問いかけてこなかった」
その通り、と神野は笑みを深める。
「フリウ・ハリスコーは彼の不備を突いた。そして、彼はその不備すら埋める解答を望み――」
「――神野さんに繋がった。そして、この舞台が出来た」
その通りだ、と神野が頷いて見せる。
「そもそも心とは何か? 語源を辿れば『臓腑』を表す単語に端を発し、それが『ヒトに見え得ぬモノ』として定義されていったのだろう。それは多くの"物語"のように、ヒトによって体系立てられた概念でもある。
だが一方で心とは何か、と聞かれて即答し、一言で返せる賢者などそうはいない。体内イオンの電位差によって生まれる神経系への作用か? それとも言語に変換できぬ胸の奥からの情動をそう呼ぶのか? 否。明確な定義など存在せず、それは只管に茫洋としたものだ」
心とは何か。万人を納得させ得る、客観的な証明は可能なのか。
人類が求め、そしてあらゆる形で答え続けられたその問いかけ。だが、未だ万人を納得させるような答えは出ていない。
「そう、心とは人類がその手で定義した、あるいはでっちあげた認識だ。だというのに、肝心のそれが具体的に何であるかということについては、誰もが納得できる解答というものが用意されていない――あるいは、定義が複雑化するにつれて失われてしまったのかもしれないが」
神野陰之が嗤う。
「さて、そのあやふやな存在を君たちが認識するためにはどうしたらいいのかな?」
以前、詠子が"裏返しの法典"へ投げかけた質問。その類型。
遊ぶような神野の言葉に、詠子も楽しげな表情で応えた。
「仮定する、ということだよね」
「その通り。『私』に展開可能で、盟友が納得した方程式はこれだけだった。証明の解を、暫定的に定義すること。それがこの殺し合いの意味。不安を煽る舞台に放り込まれ、そこで出会えた親しい、あるいは憎悪する知己の異世界同位体を、異世界同位体と見破ることが出来るか」
先にアマワの満足する答えを仮定した上で、その答えに至る式を紡げるかを試す。それがこの証明遊戯をクリアするための王道。用意されていた答えというわけだ。
そして、その王道を踏破したものが現れた。
「魔女よ。君の推理は完璧だった。惜しいことに、たどり着いた順位としては2番手であったが」
――ふと、違和感を覚えた。
「……あれ。じゃあ、その1番の人がアマワさんを満足させたことになるのかな。"法典"君?」
「いいや、佐山・御言は3番目になる。そして1番手は人間では無かったので、人間としては確かに君が最初に辿り着いた者だとも」
「……」
神野陰之の言葉を聞いて――
詠子は僅かに黙考した。今の台詞には、確かに奇妙なところがあった。その理由を考える。
("裏返しの法典"君は、これから答えに辿り着く……?)
佐山・御言なら、確かに答えに辿り着くだろう。能力に不足は無い。
だが同時に、佐山が答えに辿りつくのはどうしようもなくおかしいのだ。何故なら、
「答えを示したのに、アマワさんは満足しない?」
答えを開示されるでも無く、これから独力で答えに辿り着くというのならば。
それは、魔女の答えを無視して、この証明遊戯がこれからも続くということを意味している。
「君の"推理"は正解だったのだよ。そう――かつてそれは正解だった」
神野陰之が、その引きつるような笑みを深くした。
「だがあくまでもかつて、だ。あの天使による妨害が、『設定』を狂わせた」
天使長バベルが犯したゲームへの介入。
それは刻印の機能を狂わせ、いくつかのイレギュラーを生み出した。
「そうして削り取られた刻印の機能の一つ――この舞台に対して違和を感じさせなくさせる機能。心の実在を証明するに際して、この機能は必要不可欠なものだった。
何故なら、その証明はいま君が行ったような論理で弾き出されるものではなく、感性や直感といったロジカルでないもので示さねばならないものであったからだ」
だからこそ、刻印が不完全なものとなった今となっては――
「既にそれは正答としての価値を失っている――よって、この遊戯は止まらない」
この不毛な戦いを止める為の鍵が、失われていることを示していた。
神野のその言葉に、詠子は辺りをゆっくりと見渡した。
いつの間にか、辺りは暗い荒野ではなくなっている――壁があり、床があり、窓があり、そしてなにより光がある。
そこはコーヒーの臭いが染み付いた喫茶店だった。古めかしいレコードから、スクラッチ音塗れの音楽が放射されている。
『無名庵』――それがその店の名前だった。十叶詠子の世界にあった喫茶店である。
促されるままに、詠子はぽすんと軽い音を立てて椅子に座った。ブラウスは相変わらず血まみれだが、出血自体はいつの間にか止まっていた。神野陰之の力だろう。解にたどり着いたのなら、その参加者は死ぬ必要がなくなる――そんなところだろうか。
四人掛けの、通りに面した窓際の席。無名庵はビル街の路地裏に位置する店なので、さほど陽光が取り込めるわけでもない。だがそれでも、まだ日は落ちていないであろうということは伺うことが出来る。
斜め向かい、店内の通路側に神野が腰掛けた。それを待って、詠子はテーブル端のスタンドに立ててあるメニューの角を指で撫でながら微笑んだ。
「ねえ神野さん。飲み物を頼んでもいいかな? 長く話したから喉が渇いちゃった」
「構わない――と、言いたいところだが、この店は形だけなのでね。従業員は存在しないのだよ」
言われて、詠子は目玉だけを動かして視界をずらした。カウンターを確認すると、確かに店のマスターの姿がない。
「もっとも、君が望むなら『私』が手ずから淹れてもいいのだがね」
「うーん……じゃあ我慢するよ。勝手にお店のものを使うのは悪いしね。じゃ、お話の続きをしようか?」
「ああ――といっても、君の推理は完璧だった。お陰で『私』はそれに一点付け足しをすればいいだけだ」
嗤いながら、神野は先ほど魔女が述べた考察を、改めて肯定する。
「そう、先ほど君の言った通りだ、魔女よ。いくつかの例外を除けば、この舞台に集められた者の中に、真に同じ世界の出身と呼べる者は皆無。見せしめにされた者を除く参加者117名は、それぞれ117の異世界から集められた他人同士だったというわけだ」
それが<インターセプタ>の介入を放置していた理由のひとつだ。
そもそもが平行世界からの寄せ集め。彼女が無数に分岐点を造り、やり直しを試みても、本質的にその行為に意味は生まれない。そして無意味であるからこそ"罰則"の対象とは成り得なかった。
魔女が頷く。
「神野さん達は、心の繋がりを試そうとしていたんだね――繋がっていないということに私たちが気づけるかどうか、試していたんだ」
「その通り。それが『私』が提案し、盟友アマワが納得した証明のための方程式だ。
知っての通り、『私』に"望み"は存在しない。それは心が存在しないということ。神野陰之という器が人間であったのは遠い昔だ。
だから証明に際しても、『私』が答えを示すのではなく、あくまで"人間"に答えを見つけてもらう必要があった」
「うん。人類が抱いた疑問の隙間から生まれたアマワさんは、人以外からの解答は拒んでしまう。
だから究極の魔法に至った神野さんでも、究極の魔法に至った神野さんだからこそ、アマワさんの願望を独力で満たすことは叶わなかった。でも、分からなかったのは――」
詠子は小首を傾げた。
「例えば私は、"影"の人が私と同じ世界から呼び出されたって勘違いしていたわけだけど――そういう勘違いができない人もいたよね?」
それは三塚井ドクロやヴィルヘルム・シュルツといった、知己の名がリストに載っていなかった者たち。
「神野さんがお膳立てした証明には、その"勘違い"が必要な筈でしょ? 知り合いだと思っていた存在が、赤の他人だったって見抜くことで心の実在を証明するんだから。じゃあ勘違いができない人には――」
「そう、繋がりの否を示す権利は無かった」
あっさりと、神野は頷いた。
「何故、その解答権が無い人物を参加者にしたか。これには各々様々な理由がある。
例えば三塚井ドクロ――ドクロリル・ジャスティリアの参加は協力者であるルルティエ創始者、"神"からの要望だった。117の平行世界の中には、他次元へ干渉する術が確立している世界もある。それらから干渉されることを防ぐ手伝いとの引き換えとして。彼にしてみれば暇つぶしの一環だったのだろう。
トレイトン・サブラァニア・ファンデュや高里要は管理者として参加させた薔薇十字騎士団が盤上へ上げることを望んだ。彼らの主であるクルースニク。吸血鬼の血を吸う吸血鬼。その復活の為に、竜や麒麟の『血』に秘められた力に興味を持って。
ベトレイヤー・ジェイスや御剣涼子は"殺し合い"を助長させる者として。『殺し合いの舞台』という前提が無ければ、誰も式を解こうとはしなかっただろう。
瞬間記憶能力を持つヴィルヘルム・シュルツや死した者の声を聞ける慶滋保胤はその逆だ。その能力を以ってして、他者が式を解くのを手助けできる人物だった。
そして、彼らの参加を盟友と『私』は全て承認した。何故か?
元より、回答の機会や権利を平等にする必要などなかったからだよ。どのような形であれ、証明さえされればよかったのだからね。もっとも――」
そこまで言って、神野は少しだけ表情を変化させた。
僅かに哀れむような色が混ざり、その視線が詠子を見据える。
「……? どうしたのかな、神野さん」
「――いいや。とにかく、君の疑問に対する答えは"そういうわけ"だったのだよ」
「うーん。それは分かったけど、じゃあもうひとついいかな。確かに神野さんの用意した方程式は有効だけど、ベストではないよね?
例えば人数。117人は多すぎると思う。知り合いと出会う前に死んじゃう人がいそうだし、実際にそういう人は多かった。
最小の単位でなら、"影"の人と"シェーファーフント"君を密室に閉じ込めて『相手を殺したら外に出られる』っていうこともできたでしょ?」
「ああ、それは我が盟友の要望だ――いや、それは正確ではないか。君の言う通り、彼は問いかけることしかしない。だが人に一度退けられた未来精霊が、この条件を指定したのだ」
あるいは復讐かも知れないが、と神野は哂った。
「"より多くの人間が、同時に、より多く奪い合うように"。それが我が盟友が、今回の証明遊戯に望んだ条件だ。その理由は過去にある。かつて、アマワは契約者であったフリウ・ハリスコーに退けられた。その時の問答にね」
神野が手を伸ばし、各テーブルに備え付けてあるコーヒー用のクリーム入れを取り上げた。
それを躊躇なく傾ける。どこか粘り気のある白い液体が、つぅ、と細く細く零れ落ちていく。
無論、テーブルの上に受けるためのカップはない。クリームはそのままテーブルの上に広がり――そして瞬時に染み込んだ。
奇妙な光景だった。まるでテーブルの表面が液体になってしまったかのように波打ち、揺らめいている。合板の茶色にクリームが混ざりこんだそれは、ちょうどミルクを足したカフェオレのようにも見えた。だが、テーブルとしての強度が失われているでもない。詠子は水面のように揺らめくテーブルの表面を、面白そうにこつこつと指で叩いた。
クリームの容器を戻した神野が、テーブルの表面を撫でる。
先ほど零したクリームが白い渦を巻き、混ざり、そしてまったく別の色に変化する。それは映像だった。多様な色に変化したクリームが複雑に蠢き、まるでテレビようにいつかどこかの光景を映し出している。詠子は身を乗り出して、机の表面で展開されるその"物語"を見つめた。
映し出されているのはどうやら森であるらしい。まるで硝子で出来たような、奇妙に透き通った樹木が乱立している。
それが硝化の森と呼ばれる精霊の故郷であることを魔女の瞳は読み取った。全てを奪われた土地。世界の空隙は誰にも優しくない。そこでは動物も植物も生存することは許されない。
だというのに、その結晶樹の合間には少女が立っている。白髪、隻眼の異貌。詠子も会ったことがある。その少女の名前はフリウ・ハリスコーといった。
少女は無機の世界で声を張り上げている。悪に弄ばれた彼女は、その悪に対して戦いを挑んでいた。
『生命は終わった。それはもうどこにも残っていない……でもあたしが言葉を聞いたから、それはなかったことになんかならない』
『取り返すことはできない』
少女の宣言に反駁するように、別の声。男か女かも分からない不定で、未知の声。悪。未来精霊アマワ。
『取り返すことはできない。私が奪ったものは、絶対に取り返せない――』
『あなたはなにも持ってない』
少女は続ける。悪と戦うと決めた少女は、もはや未知に弄ばれることをやめていた。
『人は弱いから、たったひとりで全部を信じることなんてできない。でも人は、たったひとりではないもの。ふたりいれば、きっと信じられる。ひとは、ふたりいなければ生まれないもの。お前は卑怯者だ、アマワ――必ず一人にしか問いかけない』
そこで、映像は終わった。
再び机の表面はカフェオレ模様に戻り、ゆらゆらと揺れ始める。
もう少し見ていたそうだった詠子に、神野はくつくつと喉を震わせた。
「クライマックスで止めてしまい申し訳ないが、今はこれで十分だろう。魔女よ、君は理解できたかね? アマワの抱えていた矛盾は――」
「――心の存在を信じるためには、他者が必要。そうだね。独りきりなら、心なんていらないもの。心は他者に通ずる為のモノ。なのにアマワさんは常に一人にしか問いかけてこなかった」
その通り、と神野は笑みを深める。
「フリウ・ハリスコーは彼の不備を突いた。そして、彼はその不備すら埋める解答を望み――」
「――神野さんに繋がった。そして、この舞台が出来た」
その通りだ、と神野が頷いて見せる。
「そもそも心とは何か? 語源を辿れば『臓腑』を表す単語に端を発し、それが『ヒトに見え得ぬモノ』として定義されていったのだろう。それは多くの"物語"のように、ヒトによって体系立てられた概念でもある。
だが一方で心とは何か、と聞かれて即答し、一言で返せる賢者などそうはいない。体内イオンの電位差によって生まれる神経系への作用か? それとも言語に変換できぬ胸の奥からの情動をそう呼ぶのか? 否。明確な定義など存在せず、それは只管に茫洋としたものだ」
心とは何か。万人を納得させ得る、客観的な証明は可能なのか。
人類が求め、そしてあらゆる形で答え続けられたその問いかけ。だが、未だ万人を納得させるような答えは出ていない。
「そう、心とは人類がその手で定義した、あるいはでっちあげた認識だ。だというのに、肝心のそれが具体的に何であるかということについては、誰もが納得できる解答というものが用意されていない――あるいは、定義が複雑化するにつれて失われてしまったのかもしれないが」
神野陰之が嗤う。
「さて、そのあやふやな存在を君たちが認識するためにはどうしたらいいのかな?」
以前、詠子が"裏返しの法典"へ投げかけた質問。その類型。
遊ぶような神野の言葉に、詠子も楽しげな表情で応えた。
「仮定する、ということだよね」
「その通り。『私』に展開可能で、盟友が納得した方程式はこれだけだった。証明の解を、暫定的に定義すること。それがこの殺し合いの意味。不安を煽る舞台に放り込まれ、そこで出会えた親しい、あるいは憎悪する知己の異世界同位体を、異世界同位体と見破ることが出来るか」
先にアマワの満足する答えを仮定した上で、その答えに至る式を紡げるかを試す。それがこの証明遊戯をクリアするための王道。用意されていた答えというわけだ。
そして、その王道を踏破したものが現れた。
「魔女よ。君の推理は完璧だった。惜しいことに、たどり着いた順位としては2番手であったが」
――ふと、違和感を覚えた。
「……あれ。じゃあ、その1番の人がアマワさんを満足させたことになるのかな。"法典"君?」
「いいや、佐山・御言は3番目になる。そして1番手は人間では無かったので、人間としては確かに君が最初に辿り着いた者だとも」
「……」
神野陰之の言葉を聞いて――
詠子は僅かに黙考した。今の台詞には、確かに奇妙なところがあった。その理由を考える。
("裏返しの法典"君は、これから答えに辿り着く……?)
佐山・御言なら、確かに答えに辿り着くだろう。能力に不足は無い。
だが同時に、佐山が答えに辿りつくのはどうしようもなくおかしいのだ。何故なら、
「答えを示したのに、アマワさんは満足しない?」
答えを開示されるでも無く、これから独力で答えに辿り着くというのならば。
それは、魔女の答えを無視して、この証明遊戯がこれからも続くということを意味している。
「君の"推理"は正解だったのだよ。そう――かつてそれは正解だった」
神野陰之が、その引きつるような笑みを深くした。
「だがあくまでもかつて、だ。あの天使による妨害が、『設定』を狂わせた」
天使長バベルが犯したゲームへの介入。
それは刻印の機能を狂わせ、いくつかのイレギュラーを生み出した。
「そうして削り取られた刻印の機能の一つ――この舞台に対して違和を感じさせなくさせる機能。心の実在を証明するに際して、この機能は必要不可欠なものだった。
何故なら、その証明はいま君が行ったような論理で弾き出されるものではなく、感性や直感といったロジカルでないもので示さねばならないものであったからだ」
だからこそ、刻印が不完全なものとなった今となっては――
「既にそれは正答としての価値を失っている――よって、この遊戯は止まらない」
この不毛な戦いを止める為の鍵が、失われていることを示していた。
◇◇◇
火乃香はそれを見る。空間に映し出されたその冒涜を、見せ付けられる。
概念核兵器による一撃が、
自ら胸に導いた出刃包丁が、
紅薔薇の隠し持つ棘が、
44口径弾が、
白衣に突き刺さる刃が、
熱衝撃波が、
強臓式義腕"英雄"の仮発動が、
論理回路の刻まれた高速弾が、
沸騰したタングステンの奔流が、
超高強度プラズマライフルから放たれた光が――
それぞれの威力をよく知る者たちに襲い掛かり、そして一切の抵抗無く役目を果たす光景を。
◇◇◇
木々の間にいくつも瞬いていた映像が消えて。
その残滓を呆然と見やる少女に、アマワは冷淡に告げた。
「理解したか。もはや、残っているのは君だけだと」
「あ――」
全身が引きつった。
カタナを握る右手が限界以上に絞られ、踏み込みの足は必要以上に地を打ち鳴らした。横隔膜が肺を拷問するように縮め、頭蓋骨が脳を締め上げるような幻覚を味わう。
理解した。仲間はみんな死んでしまったのだと、理解した。
ブルーブレイカーとは最悪の出会い方をしたが、それでも命を救われたことがある。しずくと出会ってからのあいつは、そこまで嫌いでは無かった。死んだからといって涙を流すような関係ではないが、その喪失を残念に思う。
ヘイズは子分扱いとして同行を認めたが、いつの間にか頼れる仲間になっていた。自分とシャーネを返り討ちにした空間操作の使い手から、身を挺して自分達を助けようとしてくれた。どうやら見た目通りの年齢では無かったらしいが、いつかきっと話してくれるだろうと楽しみにしていた。
コミクロンもまた命の恩人だ。彼がいなければ自分は死んでいた。外見・言動は奇妙奇天烈そのものだが、その内面はそうでもないことを火乃香は知っている。シャーネを助けられなかったことが、その心に傷を残していることも。
コミクロンの知り合いであるオーフェンは、チンピラのような見た目に反した思慮深さを備えていた。フリウを仲間にすることを決めた時、彼のように冷静な人物がいることがありがたかった。
ギギナの剣術には舌を巻いた。佐山の大勢を率いて流れを作り出す力は自分にはないものだ。シャーネと一緒に、海岸を歩く出雲の姿を見ていたことを思い出す。ベルガーはあのマンションにいた集団の生き残りらしいから、もしかしたらパイフウの行いを知っていたかも知れないと思っていた。キノとは機械知性体を相棒にしている者同士、話が合ったかも知れない。カーラに肉体を乗っ取られていた福沢祐巳という少女は、いったいどんな子だったのだろう――
――そんな彼らとの未来が、すべて奪われた。
「あああああ!」
激情に任せてカタナを振るった。突沸した殺意に任せて暴力を放った。
カタナの軌道は滅茶苦茶。火乃香自身ですら予想も付かない剣筋を辿り――
あっけなく、砕けた。
そこにあったのは白い木だった。ホワイトアッシュのような自然の白ではない。それはまるで凍ったガラスのような無機の色。そんな奇妙な結晶樹が、いつのまにか火乃香の周りを取り囲んでいた。
この世でもっとも鋭い刃である、硝化した樹木。
砕けた鋼が雪のように舞い散る中で、アマワが告げる。
「終わりだ。答えを聞こうか」
唯一の武器を失った彼女に対するその言葉は、おそらく最終通告だろう。
(あと一回――)
火乃香は精霊の言葉を聞いていなかった。ただ胸中で確認する。
あと一度だ。記憶と額の天宙眼がそれを告げている。
だが自分にはもはや剣がない。手段が無い。否、自分の未熟さがそれを失わせた。
焦燥と後悔に、唇を噛む。荒い息が行き場をなくして肺の中で激しく渦巻いた。
「答える気はない、ということか」
繰り返される精霊の言葉に、剣呑さが混じる。
(終わり……か)
その事実を退けるものが、自分にはもうない――
――そう、"自分には"最早なく、
「――アマワぁぁぁああああああアアアアアアアアアアアアアアっ!」
第三者の声が闖入する。
響く絶叫。ギザギザの硝子が擦り合わされるような、耳障りな叫び。
どこから現れたのか、黒衣の男が走りこんでくる。
男の名はウルペン。
いや――かつてそう呼ばれていたもの。
男は念糸を解き放ち、アマワに対して幾重にもそれを巻きつけた。だが――
「無駄だ、元契約者ウルペン。精霊に其れが通じないことは――」
念糸は精霊にも有効な武器である。
だが大抵の場合、精霊から送られてくる反動に念糸能力者の多くが耐え切れず、逆に体を破壊されてしまう。
ウルペンは卓越した念糸使いではあるが、それは同じだ。同じはずだった。
未知の精霊の声に驚愕が混じる。
「――どうやってここまで辿り着いたかと思えば、そうか。それがお前の解答か」
念糸を逆行してくる反動に、だがウルペンは拮抗していた。
如何に想いを込めようと、狂気を募らせようと、精霊と人の格差は変わらない。
では、何故?
その解答は、思いもよらないところからわき出てきた。
「ずっと観察してきたんだ」
火乃香が振り返ると、いつの間にかそこに男がひとり現われている。その身に纏うのは赤色のローブ。火乃香は知る由も無いが、それは神秘調査会という組織の制服であった。
その制服を纏った優男は、まるでそれが自分にとっての呼吸だとでもいうように言葉を紡ぎ続ける。
「僕はずっと彼女を観察してきた。僕は生来の観察者だ。こうして僕の世界から外れた場所の事柄ですら見続けてきた。彼女は途中で死んでしまったけれど、それでも彼女の残した結果を観察するために僕はこの世界に留まり続けた」
誰に語りかけるでもない。火乃香がそれを聞いているというだけで、男のそれは独白だった。
男は自身の吐く言葉通り、ただその場で起こる事象を観察して、その結果を誰にともなく垂れ流している。
「あれは、精霊だ」
未知の精霊――ではなく、それを縛っている黒衣の男を見て、吊られ男と呼ばれた観察者は断言した。
「狂精霊、とでも名づければいいのかな。ある意味で、あれはアマワが求めた証明の答えだ。人は心の不在を証明した瞬間に精霊となる。心の実在の『反証』。アマワが心の実在を問うものであるのなら、なるほど、"そんなものなど存在しない"という答えだって有り得るわけだ」
だけど、と吊られ男は続ける。
「それじゃあ、駄目だ」
ガラスが砕けるような透き通った音が響き、黒衣の男の身体に罅が入る。
同じ精霊同士でも、その力は個体によって差異がある。
その力量差がもたらした結果が、これ。狂精霊は、未来精霊よりも弱い。
「精霊は意味不明でとてもあやふやな存在だ。だけどいくつか法則がないわけじゃない。例えばそれは変質しないという点だ。硝化した物質が元に戻らないように、精霊が別のものに変質することはない。アマワは未来精霊。未だ来ぬ、未来にあるからこそ確かな約束ができる存在だ」
だからこそ、アマワは己の言葉に絶対の自信を持つ。
御遣いの約束は、いずれ果たされる至上のものであると。
「――でも、それは矛盾を孕んでいるんじゃないかな」
そう呟くマグスの表情は、未知を哀れむようにすら見えた。
「未来精霊である時点で、アマワはそこに『存在しない存在』だ。そういう風に硝化し、そういう風に確定した。常に未来にあらねばならないアマワは、永遠に現在にやってこれない。じゃあアマワの言う約束はいつ果たされるんだ? 永遠にやってこない未来のどこにその結末がある?」
精霊は変質しない。
その身が未来にあるが故に確かな約束ができて、
その身が未来にあるが故にその約束は果たされない。
そんな精霊に弄ばれた男――いや、狂精霊の身体に刻まれた罅は、まるで見えない力が掛かり続けているかのようにその隙間を大きくしていく。
「つまるところあれは答えなんか望んでいないのさ。いや、そういうと語弊があるかな。正答は望んでいるんだろうけど、どんな答えだって撥ね退けるのだろうね。だってあれはそういう存在なんだから。あれが満足するとしたら、人間すべてが反証を呈する時――精霊になってしまった時くらいのものなんじゃないかな」
疑問を抱く対象が居なくなれば、その疑問は解決される。
人が居なくなれば、もとより心という概念は無くなる。
吊られ男はそう言ってやれやれと肩を竦めた。
(そうか)
火乃香は気づいた。
心のどこかでは火乃香も悩んでいたのだ。アマワの問いかけを胸の底で反芻していた。
心とは、何か。何をもって、証明すればいいのか。
だがアマワの疑問を解消する答えなど存在しない。
何故ならば、アマワの抱く疑問とはそういうものであるからだ。人が人でいる限り、尽きも解決もされることのない問題。
それは単に解決すればいいというものではない。答えが手に入るかどうかなど二の次なのだ。
欲っし、それを追い続けること。
それは人が栄えた原動力だ。望んだ光景を見たいと思うから、人は歩くことができる。その光景に出会えると、不確かでも信じることができるから進んで行ける。
アマワがやっているのは、歩こうとする人へ答えのない問題を問いかけ、迷わせ、その歩みを停止させる行為。
故に――死神をして言わしめて、世界の敵。
「まあ、言葉遊びだけどね。さっきも言ったとおり、精霊は意味不明であやふやな存在。言葉で説明しようとすればどういう風にだって言えるけど、そのどれもが真実からは離れたものになる」
だが、ただひとつ言えることがあるとしたら。
マグスは躊躇もせずにその言葉を口にした。
「結局、この証明遊戯に意味なんてなかったのさ。あの精霊に突きつけてやるべきものは、本来の役者が本来の舞台でもう示したのだから」
真面目に証明に取り組むことに意味は無い。アマワにくれてやるものなどもう何一つ無いのだから。
ならば、やるべきことはあと一つだけだろう。
息を大きく吸い込み、火乃香は立ち上がった。
武器はない。体力は限界。仲間は皆死んでしまった。
だけど立った。男の言葉に励まされたのではない。もとよりマグスの言葉に意味はない。
やるべきことは、最初から変わっていない。
「さあ、僕はその無意味な結末を見届けよう――最後の少女は、果たして未来精霊を斬ることができるのか?」
最後にそう呟いて、アイネスト・マッジオの亡霊は、いつもと同じようにその姿を景色に溶かした。
火乃香は前を見据える。黒衣の男は相変わらず狂った笑いを響かせながら思念の糸でアマワを縛っていた。
その身体はすでに罅で埋め尽くされ、出鱈目に絵具を塗りたくった油絵のような質感を浮かべている。
(あんたが誰だったかは知らないけれど、一つだけ分かるよ。その精霊に、あんたはずっと翻弄され続けてたんだろうね)
天宙眼を解さずとも分かる。
あの男が、その身が砕けようとしていてもアマワになお喰らいついている様を見れば。
その恨みを晴らしてやる義理は火乃香にはないし、いまや精霊となってしまったその男も、それは望んでいないだろう。
これは、図らずして協力する構図になっただけ。
あの男にはあの男の、そして自分には自分のやるべきことがある。
しかし、その為の武器が自分には無
その残滓を呆然と見やる少女に、アマワは冷淡に告げた。
「理解したか。もはや、残っているのは君だけだと」
「あ――」
全身が引きつった。
カタナを握る右手が限界以上に絞られ、踏み込みの足は必要以上に地を打ち鳴らした。横隔膜が肺を拷問するように縮め、頭蓋骨が脳を締め上げるような幻覚を味わう。
理解した。仲間はみんな死んでしまったのだと、理解した。
ブルーブレイカーとは最悪の出会い方をしたが、それでも命を救われたことがある。しずくと出会ってからのあいつは、そこまで嫌いでは無かった。死んだからといって涙を流すような関係ではないが、その喪失を残念に思う。
ヘイズは子分扱いとして同行を認めたが、いつの間にか頼れる仲間になっていた。自分とシャーネを返り討ちにした空間操作の使い手から、身を挺して自分達を助けようとしてくれた。どうやら見た目通りの年齢では無かったらしいが、いつかきっと話してくれるだろうと楽しみにしていた。
コミクロンもまた命の恩人だ。彼がいなければ自分は死んでいた。外見・言動は奇妙奇天烈そのものだが、その内面はそうでもないことを火乃香は知っている。シャーネを助けられなかったことが、その心に傷を残していることも。
コミクロンの知り合いであるオーフェンは、チンピラのような見た目に反した思慮深さを備えていた。フリウを仲間にすることを決めた時、彼のように冷静な人物がいることがありがたかった。
ギギナの剣術には舌を巻いた。佐山の大勢を率いて流れを作り出す力は自分にはないものだ。シャーネと一緒に、海岸を歩く出雲の姿を見ていたことを思い出す。ベルガーはあのマンションにいた集団の生き残りらしいから、もしかしたらパイフウの行いを知っていたかも知れないと思っていた。キノとは機械知性体を相棒にしている者同士、話が合ったかも知れない。カーラに肉体を乗っ取られていた福沢祐巳という少女は、いったいどんな子だったのだろう――
――そんな彼らとの未来が、すべて奪われた。
「あああああ!」
激情に任せてカタナを振るった。突沸した殺意に任せて暴力を放った。
カタナの軌道は滅茶苦茶。火乃香自身ですら予想も付かない剣筋を辿り――
あっけなく、砕けた。
そこにあったのは白い木だった。ホワイトアッシュのような自然の白ではない。それはまるで凍ったガラスのような無機の色。そんな奇妙な結晶樹が、いつのまにか火乃香の周りを取り囲んでいた。
この世でもっとも鋭い刃である、硝化した樹木。
砕けた鋼が雪のように舞い散る中で、アマワが告げる。
「終わりだ。答えを聞こうか」
唯一の武器を失った彼女に対するその言葉は、おそらく最終通告だろう。
(あと一回――)
火乃香は精霊の言葉を聞いていなかった。ただ胸中で確認する。
あと一度だ。記憶と額の天宙眼がそれを告げている。
だが自分にはもはや剣がない。手段が無い。否、自分の未熟さがそれを失わせた。
焦燥と後悔に、唇を噛む。荒い息が行き場をなくして肺の中で激しく渦巻いた。
「答える気はない、ということか」
繰り返される精霊の言葉に、剣呑さが混じる。
(終わり……か)
その事実を退けるものが、自分にはもうない――
――そう、"自分には"最早なく、
「――アマワぁぁぁああああああアアアアアアアアアアアアアアっ!」
第三者の声が闖入する。
響く絶叫。ギザギザの硝子が擦り合わされるような、耳障りな叫び。
どこから現れたのか、黒衣の男が走りこんでくる。
男の名はウルペン。
いや――かつてそう呼ばれていたもの。
男は念糸を解き放ち、アマワに対して幾重にもそれを巻きつけた。だが――
「無駄だ、元契約者ウルペン。精霊に其れが通じないことは――」
念糸は精霊にも有効な武器である。
だが大抵の場合、精霊から送られてくる反動に念糸能力者の多くが耐え切れず、逆に体を破壊されてしまう。
ウルペンは卓越した念糸使いではあるが、それは同じだ。同じはずだった。
未知の精霊の声に驚愕が混じる。
「――どうやってここまで辿り着いたかと思えば、そうか。それがお前の解答か」
念糸を逆行してくる反動に、だがウルペンは拮抗していた。
如何に想いを込めようと、狂気を募らせようと、精霊と人の格差は変わらない。
では、何故?
その解答は、思いもよらないところからわき出てきた。
「ずっと観察してきたんだ」
火乃香が振り返ると、いつの間にかそこに男がひとり現われている。その身に纏うのは赤色のローブ。火乃香は知る由も無いが、それは神秘調査会という組織の制服であった。
その制服を纏った優男は、まるでそれが自分にとっての呼吸だとでもいうように言葉を紡ぎ続ける。
「僕はずっと彼女を観察してきた。僕は生来の観察者だ。こうして僕の世界から外れた場所の事柄ですら見続けてきた。彼女は途中で死んでしまったけれど、それでも彼女の残した結果を観察するために僕はこの世界に留まり続けた」
誰に語りかけるでもない。火乃香がそれを聞いているというだけで、男のそれは独白だった。
男は自身の吐く言葉通り、ただその場で起こる事象を観察して、その結果を誰にともなく垂れ流している。
「あれは、精霊だ」
未知の精霊――ではなく、それを縛っている黒衣の男を見て、吊られ男と呼ばれた観察者は断言した。
「狂精霊、とでも名づければいいのかな。ある意味で、あれはアマワが求めた証明の答えだ。人は心の不在を証明した瞬間に精霊となる。心の実在の『反証』。アマワが心の実在を問うものであるのなら、なるほど、"そんなものなど存在しない"という答えだって有り得るわけだ」
だけど、と吊られ男は続ける。
「それじゃあ、駄目だ」
ガラスが砕けるような透き通った音が響き、黒衣の男の身体に罅が入る。
同じ精霊同士でも、その力は個体によって差異がある。
その力量差がもたらした結果が、これ。狂精霊は、未来精霊よりも弱い。
「精霊は意味不明でとてもあやふやな存在だ。だけどいくつか法則がないわけじゃない。例えばそれは変質しないという点だ。硝化した物質が元に戻らないように、精霊が別のものに変質することはない。アマワは未来精霊。未だ来ぬ、未来にあるからこそ確かな約束ができる存在だ」
だからこそ、アマワは己の言葉に絶対の自信を持つ。
御遣いの約束は、いずれ果たされる至上のものであると。
「――でも、それは矛盾を孕んでいるんじゃないかな」
そう呟くマグスの表情は、未知を哀れむようにすら見えた。
「未来精霊である時点で、アマワはそこに『存在しない存在』だ。そういう風に硝化し、そういう風に確定した。常に未来にあらねばならないアマワは、永遠に現在にやってこれない。じゃあアマワの言う約束はいつ果たされるんだ? 永遠にやってこない未来のどこにその結末がある?」
精霊は変質しない。
その身が未来にあるが故に確かな約束ができて、
その身が未来にあるが故にその約束は果たされない。
そんな精霊に弄ばれた男――いや、狂精霊の身体に刻まれた罅は、まるで見えない力が掛かり続けているかのようにその隙間を大きくしていく。
「つまるところあれは答えなんか望んでいないのさ。いや、そういうと語弊があるかな。正答は望んでいるんだろうけど、どんな答えだって撥ね退けるのだろうね。だってあれはそういう存在なんだから。あれが満足するとしたら、人間すべてが反証を呈する時――精霊になってしまった時くらいのものなんじゃないかな」
疑問を抱く対象が居なくなれば、その疑問は解決される。
人が居なくなれば、もとより心という概念は無くなる。
吊られ男はそう言ってやれやれと肩を竦めた。
(そうか)
火乃香は気づいた。
心のどこかでは火乃香も悩んでいたのだ。アマワの問いかけを胸の底で反芻していた。
心とは、何か。何をもって、証明すればいいのか。
だがアマワの疑問を解消する答えなど存在しない。
何故ならば、アマワの抱く疑問とはそういうものであるからだ。人が人でいる限り、尽きも解決もされることのない問題。
それは単に解決すればいいというものではない。答えが手に入るかどうかなど二の次なのだ。
欲っし、それを追い続けること。
それは人が栄えた原動力だ。望んだ光景を見たいと思うから、人は歩くことができる。その光景に出会えると、不確かでも信じることができるから進んで行ける。
アマワがやっているのは、歩こうとする人へ答えのない問題を問いかけ、迷わせ、その歩みを停止させる行為。
故に――死神をして言わしめて、世界の敵。
「まあ、言葉遊びだけどね。さっきも言ったとおり、精霊は意味不明であやふやな存在。言葉で説明しようとすればどういう風にだって言えるけど、そのどれもが真実からは離れたものになる」
だが、ただひとつ言えることがあるとしたら。
マグスは躊躇もせずにその言葉を口にした。
「結局、この証明遊戯に意味なんてなかったのさ。あの精霊に突きつけてやるべきものは、本来の役者が本来の舞台でもう示したのだから」
真面目に証明に取り組むことに意味は無い。アマワにくれてやるものなどもう何一つ無いのだから。
ならば、やるべきことはあと一つだけだろう。
息を大きく吸い込み、火乃香は立ち上がった。
武器はない。体力は限界。仲間は皆死んでしまった。
だけど立った。男の言葉に励まされたのではない。もとよりマグスの言葉に意味はない。
やるべきことは、最初から変わっていない。
「さあ、僕はその無意味な結末を見届けよう――最後の少女は、果たして未来精霊を斬ることができるのか?」
最後にそう呟いて、アイネスト・マッジオの亡霊は、いつもと同じようにその姿を景色に溶かした。
火乃香は前を見据える。黒衣の男は相変わらず狂った笑いを響かせながら思念の糸でアマワを縛っていた。
その身体はすでに罅で埋め尽くされ、出鱈目に絵具を塗りたくった油絵のような質感を浮かべている。
(あんたが誰だったかは知らないけれど、一つだけ分かるよ。その精霊に、あんたはずっと翻弄され続けてたんだろうね)
天宙眼を解さずとも分かる。
あの男が、その身が砕けようとしていてもアマワになお喰らいついている様を見れば。
その恨みを晴らしてやる義理は火乃香にはないし、いまや精霊となってしまったその男も、それは望んでいないだろう。
これは、図らずして協力する構図になっただけ。
あの男にはあの男の、そして自分には自分のやるべきことがある。
しかし、その為の武器が自分には無
○<インターセプタ>・Last.
これが最後の介入になる。
これが最後の介入になる。
アスタリスク、承認を。
○<インスペクタ>
抗議する。
インターセプタの行動は明らかに我々の領分を超えている。
アスタリスク、再考を。
抗議する。
インターセプタの行動は明らかに我々の領分を超えている。
アスタリスク、再考を。
○<アスタリスク>
インターセプタの行動を承認。
介入する。
実行。
終了。
インターセプタの行動を承認。
介入する。
実行。
終了。
(あんたが誰だったかは知らないけれど、一つだけ分かるよ。その精霊に、あんたはずっと翻弄され続けてたんだろうね)
天宙眼を解さずとも分かる。
あの男が、その身が砕けようとしていてもアマワになお喰らいついている様を見れば。
その恨みを晴らしてやる義理は火乃香にはないし、いまや精霊となったその男もそれは望んでいないだろう。
これは、図らずして協力する構図になっただけ。
あの男にはあの男の、そして自分には自分のやるべきことがある。
「あたしは」
空を切るように指先まで伸ばした腕を振るった。武器が無い? だからどうした。体はまだ動く。舌もまだ回る突きつけてやれる。
さあ啖呵を切ろうか。いつものように。
「――あたしは、アマワを倒す!」
改めて、決意を口にする。
その言葉が具現化したように。
振るった腕に重量感。いつのまにか、一振りの剣を握っていた。
それは彼女が便利屋稼業で用いていた飾り気の無いカタナとは真逆の存在。
両刃の、虹色に輝く水晶で出来たツルギである。
「貴女に、託します」
見れば、そこには一人の少女。
先ほどまで無意味な男が佇んでいたその場所に、まるで入れ替わるようにして立ち尽くしている。
彼女には意味があった。少なくとも、先ほどのマグスよりは。
ツルギの運び手。坂井悠二と結んだ契約の履行者としての意味。この遊戯に反逆する者。
「正しいのかは分からない。これはわたしがこれ以上震えたくないが故の、単なる諦めかもしれないのです。だけど、わたしは"彼"の約束と剣を貴女に託します」
そして意味があるからこそ、それは明確な違反として世界に認められる。
少女の足元から『影』が沸いた。べりべりと生々しい音を立てながら、呪圏が少女を喰らっていく。時空に縛られない神野に対し、時を越える少女の能力は意味を成さない。
そこに介入しようのない死の恐怖を見つけて表情を強張らせながらも、かつて音透湖という名前だった彼女は強く懇願した。
「――どうか。どうか、勝ってください」
闇が少女を飲み込み、鮮血が散った。
天宙眼を解さずとも分かる。
あの男が、その身が砕けようとしていてもアマワになお喰らいついている様を見れば。
その恨みを晴らしてやる義理は火乃香にはないし、いまや精霊となったその男もそれは望んでいないだろう。
これは、図らずして協力する構図になっただけ。
あの男にはあの男の、そして自分には自分のやるべきことがある。
「あたしは」
空を切るように指先まで伸ばした腕を振るった。武器が無い? だからどうした。体はまだ動く。舌もまだ回る突きつけてやれる。
さあ啖呵を切ろうか。いつものように。
「――あたしは、アマワを倒す!」
改めて、決意を口にする。
その言葉が具現化したように。
振るった腕に重量感。いつのまにか、一振りの剣を握っていた。
それは彼女が便利屋稼業で用いていた飾り気の無いカタナとは真逆の存在。
両刃の、虹色に輝く水晶で出来たツルギである。
「貴女に、託します」
見れば、そこには一人の少女。
先ほどまで無意味な男が佇んでいたその場所に、まるで入れ替わるようにして立ち尽くしている。
彼女には意味があった。少なくとも、先ほどのマグスよりは。
ツルギの運び手。坂井悠二と結んだ契約の履行者としての意味。この遊戯に反逆する者。
「正しいのかは分からない。これはわたしがこれ以上震えたくないが故の、単なる諦めかもしれないのです。だけど、わたしは"彼"の約束と剣を貴女に託します」
そして意味があるからこそ、それは明確な違反として世界に認められる。
少女の足元から『影』が沸いた。べりべりと生々しい音を立てながら、呪圏が少女を喰らっていく。時空に縛られない神野に対し、時を越える少女の能力は意味を成さない。
そこに介入しようのない死の恐怖を見つけて表情を強張らせながらも、かつて音透湖という名前だった彼女は強く懇願した。
「――どうか。どうか、勝ってください」
闇が少女を飲み込み、鮮血が散った。
【非参加者 インターセプタ 死亡】
◇
「ああ――分かってるさ。分かってる」
そう呟いて、火乃香は託されたツルギを構える。
水晶の剣は重かった。それは刀身の重さだけではない。
この剣にはさまざまな人の想いが乗せられている。その全てを自分は託されている。
上等。上等じゃないか。その重量に物怖じもせず、火乃香は犬歯を見せて笑った。
「終わりだ」
「御遣いは――滅びない」
アマワが吼えた。その轟きでか、狂精霊が粉々に打ち砕かれる。
されど――アマワを縛る念糸は解けない。
銀の糸の主は確かに滅びたが、それでも狂精霊の狂笑はその場にこびり付いている。
「そうか。念糸は、思念さえあれば死後ですら発動する――」
そしてアマワが精霊であるのなら、法則上、念糸によって形成されたサークルからは逃れられない。
ここに、未知は捕らえられた。
その未知を目指して、未知を既知にするために、怪物領域を征服するために、少女が進む。
火乃香が歩むその後を、ツルギから発せられる七色の軌跡が彩っていく。
蒼き天宙眼がその輝きを増して、その彩りにもう一色を加えた。
混ぜ合わされ、巨大になった輝きが硝化した周囲を眩しいほどに染め上げる。
火乃香の、気――時間や空間さえも超越した干渉が可能になる要素。
未だここに存在しない精霊ですら、切り裂く。
「……それが君の『答え』か、火乃香。だがその一撃は信頼に足るものか?」
「これが信頼できないっていうんなら」
切っ先を相手へ向け、顔の横で構える。突き八双。あらゆるものを突き貫く鋭いフォーム。
一欠片の迷いすらなく、ツルギを握る手に力を込めた。
「あたしは、何も信じられないさ」
「提供できる。御遣いならば、絶対の約束を――」
「黙りなよ」
三つの瞳が精霊を睨む。
蒼い気で充満した大気は、響くように蠢きながら二者を包んでいた。
問答をする気は無い。ただ、言葉を突き出した。
「お前にはいろんなものを奪われた。先生、しずくとBB、シャーネ、ヘイズ、コミクロン――本当にたくさんのものを」
名前を継ぎ足すごとにツルギの輝きが増していく。
もはや視界は無いも同然。額の天宙眼だけが真実を見抜く。
「もう終わりだよ、アマワ。お前にこれ以上は奪わせない!」
未知の精霊は何かを言い返したようだった。
だが聞こえない。
アマワの弄するあらゆる言葉が、追いつけない。
ソードダンサー渾身の踏み込みと突きの速度は、言葉よりもなお速い!
「斬――――――――――!」
硝化の森を、未来精霊を、少女を、世界を。
鮮烈な蒼が、隅々まで染めていく。
そう呟いて、火乃香は託されたツルギを構える。
水晶の剣は重かった。それは刀身の重さだけではない。
この剣にはさまざまな人の想いが乗せられている。その全てを自分は託されている。
上等。上等じゃないか。その重量に物怖じもせず、火乃香は犬歯を見せて笑った。
「終わりだ」
「御遣いは――滅びない」
アマワが吼えた。その轟きでか、狂精霊が粉々に打ち砕かれる。
されど――アマワを縛る念糸は解けない。
銀の糸の主は確かに滅びたが、それでも狂精霊の狂笑はその場にこびり付いている。
「そうか。念糸は、思念さえあれば死後ですら発動する――」
そしてアマワが精霊であるのなら、法則上、念糸によって形成されたサークルからは逃れられない。
ここに、未知は捕らえられた。
その未知を目指して、未知を既知にするために、怪物領域を征服するために、少女が進む。
火乃香が歩むその後を、ツルギから発せられる七色の軌跡が彩っていく。
蒼き天宙眼がその輝きを増して、その彩りにもう一色を加えた。
混ぜ合わされ、巨大になった輝きが硝化した周囲を眩しいほどに染め上げる。
火乃香の、気――時間や空間さえも超越した干渉が可能になる要素。
未だここに存在しない精霊ですら、切り裂く。
「……それが君の『答え』か、火乃香。だがその一撃は信頼に足るものか?」
「これが信頼できないっていうんなら」
切っ先を相手へ向け、顔の横で構える。突き八双。あらゆるものを突き貫く鋭いフォーム。
一欠片の迷いすらなく、ツルギを握る手に力を込めた。
「あたしは、何も信じられないさ」
「提供できる。御遣いならば、絶対の約束を――」
「黙りなよ」
三つの瞳が精霊を睨む。
蒼い気で充満した大気は、響くように蠢きながら二者を包んでいた。
問答をする気は無い。ただ、言葉を突き出した。
「お前にはいろんなものを奪われた。先生、しずくとBB、シャーネ、ヘイズ、コミクロン――本当にたくさんのものを」
名前を継ぎ足すごとにツルギの輝きが増していく。
もはや視界は無いも同然。額の天宙眼だけが真実を見抜く。
「もう終わりだよ、アマワ。お前にこれ以上は奪わせない!」
未知の精霊は何かを言い返したようだった。
だが聞こえない。
アマワの弄するあらゆる言葉が、追いつけない。
ソードダンサー渾身の踏み込みと突きの速度は、言葉よりもなお速い!
「斬――――――――――!」
硝化の森を、未来精霊を、少女を、世界を。
鮮烈な蒼が、隅々まで染めていく。
◇◇◇
ミリィは廊下の窓から外の景色を眺めていた。
学校の休み時間。最上階からは、機械の街エンポリウムの街並みと、さらにその向こうに地平線まで広がる砂の海を眺めることが出来る。
エンポリウムの様子は今日も変わらない。多くの人々が行き交い、雑多ながらも活気がある。だがミリィは、一抹の寂しさを感じていた。
(ほのちゃん、今度はいつ帰ってくるかなぁ)
思い浮かべるのは、数日前、依頼を受けてデューン・ランに出て行った何でも屋の少女。今日の授業で描いた絵を早く見て貰いたかったのだ。なかなかの傑作と自負しているし、モデルにしたのは火乃香の砂上戦車だったので、細部を照らし合わせてもみたかった。
火乃香の仕事は、いつ終わるか分からない。砂漠は危険な土地だ。厳しい気候だけではない。危険な生物に査察軍。日常的に死人が出ているという現実を、ミリィは身を以て知っていた。
(でも、ほのちゃんは――きっと、大丈夫だよね)
そう思って僅かに視線を下げると、学校の出入り口前で大泣きしている子供を見つけた。どうやら転ぶか何かしたらしい。周囲には同じくらいの歳の子供達が集まっているが、おろおろしているばかりで動こうとしない。
大変、と呟いてミリィは保健室へ向かう。
今日は偶然、パイ先生の出勤日だ。ついでに火乃香の帰りの予定を知らないか聞いてみよう。
学校の休み時間。最上階からは、機械の街エンポリウムの街並みと、さらにその向こうに地平線まで広がる砂の海を眺めることが出来る。
エンポリウムの様子は今日も変わらない。多くの人々が行き交い、雑多ながらも活気がある。だがミリィは、一抹の寂しさを感じていた。
(ほのちゃん、今度はいつ帰ってくるかなぁ)
思い浮かべるのは、数日前、依頼を受けてデューン・ランに出て行った何でも屋の少女。今日の授業で描いた絵を早く見て貰いたかったのだ。なかなかの傑作と自負しているし、モデルにしたのは火乃香の砂上戦車だったので、細部を照らし合わせてもみたかった。
火乃香の仕事は、いつ終わるか分からない。砂漠は危険な土地だ。厳しい気候だけではない。危険な生物に査察軍。日常的に死人が出ているという現実を、ミリィは身を以て知っていた。
(でも、ほのちゃんは――きっと、大丈夫だよね)
そう思って僅かに視線を下げると、学校の出入り口前で大泣きしている子供を見つけた。どうやら転ぶか何かしたらしい。周囲には同じくらいの歳の子供達が集まっているが、おろおろしているばかりで動こうとしない。
大変、と呟いてミリィは保健室へ向かう。
今日は偶然、パイ先生の出勤日だ。ついでに火乃香の帰りの予定を知らないか聞いてみよう。
◇◇◇
「偶然というものを定義してみよう」
神野陰之が言った。
「例えば木から林檎が落ちたとする。そのタイミングは偶然だろうか? 外的な刺激がなければ、あるいは人の目にはそう写るのかもしれない。棒で突付いて落とせば、人はそれを必然というだろう」
「そうだねえ」
目をしばたたかせながら、詠子が応じる。
神野と詠子が挟んでいるテーブルの表面に出された映像。
その映像越しですら放たれた蒼い光はなお鮮烈過ぎた。
「だが仮に人の目から見れば偶然という現象でも、さらに高位の観察者から見れば必然であるのかもしれない。
林檎の成長する速度と、その果実を枝と結ぶ茎の耐久。空気の流動。地殻の振動。
そういった要素を知ることができ、そして計算できれば、林檎の落ちるタイミングは全て必然となるのではないか?
同じように、物事に影響を与える要素を全て知ることができれば偶然は駆逐されるのではないか?」
例えば、ヴァーミリオン・CD・ヘイズのI-ブレイン。
演算による未来予知。彼は彼の知りうる要素の中でなら全てを見通せる。
「全てが定まってるっていうのは宿命論だね。反論のしようがない、それだけで完結してしまった決定論。だけど、実際にアマワさんは偶然に守られていたよ?」
「そうだ。我が盟友も含め、御遣いと契約した者は偶然によって守護される。『私』が言いたいのは、偶然というのはその者の既知外にある要素によって定義されているということなのだよ」
そう言って、神野は笑った。
「つまり人間にとっての偶然とは人間が定義するものだ――そう、決して全知たり得ない人間が、ね」
闇が、哂う。
テーブルに映し出された映像が一面の蒼から回復。
そこにはツルギを突き出す少女と――
『契約者火乃香。君は何を聞いていたのか……隙間は、暴力では埋まらない』
――そのツルギの切っ先の数センチ先に、埋まることの無い空隙が。
「彼女の蒼き瞳はモノクロの双眸よりも多くを見通す――だが、それでも全知には程遠い」
少女の持っていた剣が手から離れ、白い床に落ちた。
甲高い今際の際の絶叫のような音とともに、水晶の剣が砕け散る。
「邪悪を滅ぼすために鍛えられた聖剣。託された想い。強い意志。結構。実に素晴らしいものだ」
同時に、アマワを縛っていた念糸も解けた。未来精霊が開放される。
「だがそんなものをいくら束ねたところで御遣いの契約者は殺せない。あれを殺せるのは、それこそ殺意すら介入しない『現象』くらいのものだ。だからこそ、彼女の剣はこれまで一度も盟友アマワを傷つけることは出来なかった」
殺人精霊。獣の瞬間。絶対殺人武器。
人の意志とは対極にあるものだけが、未来精霊を滅ぼせる。
「負けちゃった――ううん」
詠子は残念そうな顔でテーブルを見つめた。
「死んじゃった、ねえ」
映像の中で少女が倒れ、鮮血が飛び散る。
勝敗は、決した。
神野陰之が言った。
「例えば木から林檎が落ちたとする。そのタイミングは偶然だろうか? 外的な刺激がなければ、あるいは人の目にはそう写るのかもしれない。棒で突付いて落とせば、人はそれを必然というだろう」
「そうだねえ」
目をしばたたかせながら、詠子が応じる。
神野と詠子が挟んでいるテーブルの表面に出された映像。
その映像越しですら放たれた蒼い光はなお鮮烈過ぎた。
「だが仮に人の目から見れば偶然という現象でも、さらに高位の観察者から見れば必然であるのかもしれない。
林檎の成長する速度と、その果実を枝と結ぶ茎の耐久。空気の流動。地殻の振動。
そういった要素を知ることができ、そして計算できれば、林檎の落ちるタイミングは全て必然となるのではないか?
同じように、物事に影響を与える要素を全て知ることができれば偶然は駆逐されるのではないか?」
例えば、ヴァーミリオン・CD・ヘイズのI-ブレイン。
演算による未来予知。彼は彼の知りうる要素の中でなら全てを見通せる。
「全てが定まってるっていうのは宿命論だね。反論のしようがない、それだけで完結してしまった決定論。だけど、実際にアマワさんは偶然に守られていたよ?」
「そうだ。我が盟友も含め、御遣いと契約した者は偶然によって守護される。『私』が言いたいのは、偶然というのはその者の既知外にある要素によって定義されているということなのだよ」
そう言って、神野は笑った。
「つまり人間にとっての偶然とは人間が定義するものだ――そう、決して全知たり得ない人間が、ね」
闇が、哂う。
テーブルに映し出された映像が一面の蒼から回復。
そこにはツルギを突き出す少女と――
『契約者火乃香。君は何を聞いていたのか……隙間は、暴力では埋まらない』
――そのツルギの切っ先の数センチ先に、埋まることの無い空隙が。
「彼女の蒼き瞳はモノクロの双眸よりも多くを見通す――だが、それでも全知には程遠い」
少女の持っていた剣が手から離れ、白い床に落ちた。
甲高い今際の際の絶叫のような音とともに、水晶の剣が砕け散る。
「邪悪を滅ぼすために鍛えられた聖剣。託された想い。強い意志。結構。実に素晴らしいものだ」
同時に、アマワを縛っていた念糸も解けた。未来精霊が開放される。
「だがそんなものをいくら束ねたところで御遣いの契約者は殺せない。あれを殺せるのは、それこそ殺意すら介入しない『現象』くらいのものだ。だからこそ、彼女の剣はこれまで一度も盟友アマワを傷つけることは出来なかった」
殺人精霊。獣の瞬間。絶対殺人武器。
人の意志とは対極にあるものだけが、未来精霊を滅ぼせる。
「負けちゃった――ううん」
詠子は残念そうな顔でテーブルを見つめた。
「死んじゃった、ねえ」
映像の中で少女が倒れ、鮮血が飛び散る。
勝敗は、決した。
◇◇◇
「底抜けの愚か者か、火乃香」
その声に侮蔑の感情は乗らない。
ただ事実を述べるように、アマワは倒れ伏した少女を見つめて囁いた。
もっとも、それが当人への非難だったとしても意味は無かっただろう。
火乃香は意識を失っていた。気を大量に操作した反動による衰弱と、硝化した地面に倒れ込んだことによる全身の裂傷――剣を振るうどころか、遠からず死ぬだろう。
ぴくりとも動かない死にかけの少女から完全に興味を失い、アマワは周囲を睥睨した。
「もはや、この盤上に意味は無いな」
回答者たり得る者はもういない。
魔女は答えを生み出さないだろう。
死神はもとより自動的。アマワの前では宮下藤花の人格になることも有り得まい。
勝敗は、決した。
この盤上にもはや意味は無い。
「だが、いずれ御遣いの約束は果たされる。果たされるまで、私は次の盤面に挑み続けよう――」
精霊が全てに対して背を向け、その後ろには血だまりが広がっていく。
その声に侮蔑の感情は乗らない。
ただ事実を述べるように、アマワは倒れ伏した少女を見つめて囁いた。
もっとも、それが当人への非難だったとしても意味は無かっただろう。
火乃香は意識を失っていた。気を大量に操作した反動による衰弱と、硝化した地面に倒れ込んだことによる全身の裂傷――剣を振るうどころか、遠からず死ぬだろう。
ぴくりとも動かない死にかけの少女から完全に興味を失い、アマワは周囲を睥睨した。
「もはや、この盤上に意味は無いな」
回答者たり得る者はもういない。
魔女は答えを生み出さないだろう。
死神はもとより自動的。アマワの前では宮下藤花の人格になることも有り得まい。
勝敗は、決した。
この盤上にもはや意味は無い。
「だが、いずれ御遣いの約束は果たされる。果たされるまで、私は次の盤面に挑み続けよう――」
精霊が全てに対して背を向け、その後ろには血だまりが広がっていく。
◇◇◇
その死を以て、舞台の幕は降りた。
幾人もの血を吸ったその緞帳は、きっと赤黒く染め上げられていることだろう。
かくして、精霊と魔人による証明遊戯はここに終わりを告げる。
幾人もの血を吸ったその緞帳は、きっと赤黒く染め上げられていることだろう。
かくして、精霊と魔人による証明遊戯はここに終わりを告げる。
◇◇◇
背を向ける未来精霊の姿。それをテーブルに投影された映像越しに眺めながら、魔女は溜息をついた。
勝敗は、決した。
「残念だなぁ」
魔女が、哀悼の言葉を捧げた。
敗者に向かって。
「直接お話してみたかったんだけどね」
魔女が、別離の言葉を口にした。
「バイバイ、アマワさん」
――未来精霊に対して。
勝敗は、決した。
「残念だなぁ」
魔女が、哀悼の言葉を捧げた。
敗者に向かって。
「直接お話してみたかったんだけどね」
魔女が、別離の言葉を口にした。
「バイバイ、アマワさん」
――未来精霊に対して。
◇◇◇
エンジェルハウリング。
未知の囁き。
存在しないものの咆哮。
御遣いの、呻き声。
「な……に?」
自らの身に起こったことが理解できないという風に、アマワが愕然とした声を上げる。
実在を愚弄する不定形の姿。何を象るでもない、アマワ本来の姿。
その歪な像が、誰が見ても分かるほど致命的なまでに引き裂かれている。
そう、致命的――それは単に姿形が傷ついたということではなく、
「馬鹿な。未来にある私が滅びる――?」
有り得ぬ筈の事象に、驚愕を口にする。
否、可能性ならばあった。裂かれた体で強引に顔らしき部位を動かし、目のような窪みを倒れ伏した少女に向ける。
火乃香の"気"ならば、それは可能だ。この場でそれができるのは彼女の一撃以外にはありえない。
「だが彼女の刃は私に届いていない――何故私が滅びねばならない?」
「――それを知るのが君の最期の望みかね? 全知たり得ない、我が盟友」
アマワでも火乃香でもない、闇の囁き声が響いた。
「神野、陰之――」
混乱するアマワの眼前に、いつの間にか夜闇の魔王が佇んでいる。
丸眼鏡の向こうにある微笑に喰らい付くように、アマワが叫んだ。
「お前の差し金か? 誰かが抱いた私を滅ぼそうという願いを叶えたのか?」
確かにあらゆる時間と空間に偏在する神野ならば、アマワを滅ぼせるのかもしれない。
だが暗黒は隙間に対し、首を横に振った。
「いやいや。確かに、ある願いを叶えはした。その願いが君を滅ぼしたのも確かだ。だが君は全ての人間が抱く疑問の集約。そんな君以上の『願い』を抱ける人間など、論理的に存在しないよ」
それが意味するところは、つまり――
「私の願いが、私を滅ぼした?」
「その通り。『私』が叶えたのは君の願いだ。君の願いは叶い、『経過』から『結果』へと移行したのだよ」
「叶っていない」
アマワが食い下がる。
「御遣いの約束は、果たされていない」
「そう思えるのは当然だろうね」
神野は嗤いながら頷いた。
「何故なら、君はその約束が何によって果たされるものなのか知らないのだから」
「知っている。全てを奪った後に残ったものが――」
「全てとは何を指すのだろうね」
神野の指摘。
「そして、そこには果たして本当に心"だけ"が残るのだろうか。君が奪えないのは心だけだと断言できるのかね? その心の有無さえ知らない、全知たり得ない君が?」
全てを硝化させた後に残るものが心。
だがその『心』が一体如何なるものであるのか、アマワは知らない。
それが残るものであるのかすら、知らない。
「……だが不可解だ。神野陰之。何故、お前が私を滅ぼすことが心の実在を証明する?」
「無論、直接的に『私』が滅ぼした訳ではないよ。君が願ったのは自殺ではなく役目を果たすことなのだから。『私』は君の願いを叶える舞台を用意しただけに過ぎない」
舞台。この証明遊戯を行うための人材や装置。
ならば、アマワを滅ぼしたのは。
「さあ、君が滅びきる前に願いを叶えよう。まずは君を切り裂いたモノの正体からだ」
ぱちん、と神野が指を鳴らす。
瞬間、アマワの視界に『それ』が映った。
存在しないものの、咆哮。
アマワの身体を食い破った、巨大な顎門。
暴力的なまでに高まった気の流れが生み出す実体の無い龍。
龍気槍。かつてパイフウが得手とした必殺手。だが、
「馬鹿な」
アマワが呆然と呟く。
「これは、ただの暴力ではないか。隙間はそんなものでは埋まらない――」
「そう、ただ乱雑に振るわれるだけの力では君を滅ぼしえない。ならばこれは暴力ではないということだ」
「暴力ではない?」
龍の気圏は凶暴な唸りをあげ部屋中を蹂躙している。鋼鉄さえ砕く硝化した物質が、まるで飴細工のように粉砕されていく。
これが暴力でないのなら、およそ世界に危険な場所など存在しないだろう。
その暴風の中で、神野はこともなげに佇んでいる。
「そうだ。殺そうという意志があれば、君を害することはできない。"彼女"が龍の気圏を練り上げたのは殺意によるものではないのだよ。故にこれを暴力と呼ぶことは出来ない」
闇は倒れ伏した少女を――火乃香を見やる。
パイフウに代わって、龍の気圏を造り上げた少女。
その少女が行った"それ"は、かつて獣の片割れが契約者ウルペンとの戦いの中で見出した術と同じもの。
殺そうと思えば殺せない。害そうと思えば害せない。
「何故なら、彼女はその技を知らないからだ」
「知らぬのならば使えまい」
「使い方だけは、知っていた――ただ一度、彼女はその絶技を見ている。不発だったがね。彼女はその技が何をもたらすのか知らず、だがそれを放ったのだよ」
パイフウは一度たりとて火乃香の前で龍気槍を使ったことは無い。
だが、試みたことはあった。一度、出会った頃に行った模擬戦で使おうとして、気圏が成る前に潰されたのだ。
故に、三桁。
見よう見まねの龍気圏を創り上げるのに要した斬撃の数。素手よりも、武器に気を流すことを得手とする彼女ならではの手法。
火乃香はそもそも、この技がいかなる結果をもたらすものか知らなかった。
「人の無知から君を守護する偶然が生み出されるように、彼女の無知は、その偶然をすり抜ける龍を生んだのだ」
「だが、それならば何故だ。何故、彼女はそれを放った。結果を知らぬのなら、それが私の打倒に繋がると知らぬなら、何故そんなものに賭けようと思える!?」
「先生を……信じてたんだ」
未知の絶叫に、少女の声が割り入って。
アマワが振り返れば、そこには未だ倒れ臥したままの火乃香の姿。
立ち上がる体力は、ない――気力すら尽き果て、喋れるだけでも奇跡だ。
だが、それでも。火乃香は言葉を口にした。言ってやらねばならないと思った。
「あたしは、先生を信じてた――ううん、今だって、信じてる。だから」
「馬鹿な。それは惰弱な思い込みだ。思考の放棄だ。そんなものが心か?」
「ああ……あの子の言う通りだね。何を言ったところで、あんたは認めようとしないって……」
「あの子……?」
「フリウさ。あの子があんたと戦う方法を教えてくれたから、あたしは先生を信じられた」
――覚えておいて。
かつて隻眼の少女に託されたその言葉を、火乃香はきちんと胸に刻んでいた。
「あんたはあの子に負けた――ずっと前に負けていたんだ、精霊アマワ」
「フリウ・ハリスコーは死んだ。確かにかつて私を退けたはしたが、それだけだ。そも、彼女は君にとって信頼に足る存在では無いはずだ。パイフウを殺したのは――」
「それでも、あたしはあの子の言葉を覚えてる」
アマワの言葉を、斬って捨てる。
許してはいない。許せるとも、今はまだ思えない。
だが、それでも信じられる。
「それを思い込みだと罵ることは出来るんだろう――だけど、あんたはそれに倒されたんだ」
「馬鹿な――」
「失せな。お前が欲しがってたものを突き付けてやったんだ。それが道理ってもんだろう?」
「馬鹿な――!」
その叫びを最後にして、致命的に裂かれた精霊の姿が、そのまま溶けるように消えていく。
アマワが滅びる。それは完全な消滅だった。未来に生まれるはずだった確かな約束は、確かにこの時、破却された。
だが、その末期に。
倒れ伏す火乃香の側にあった硝化の木が、ゆっくりと傾ぎ出す。
それは、火乃香が先ほど、怒りにまかせて場当たりな一撃をぶつけた一本だった。
契約者を守護する、偶然――それが最後に、契約者であるアマワを害したひとりに向けて発動したのだ。
もはや、彼女にそれをかわす力は存在しない。指一本すら、動かす気力はない。
(……上出来じゃんか。やってやったよ)
目を瞑って、火乃香はその死を受け入れる。最後に、自分は先生との繋がりを証明できた。みんなの仇を取ってやれた。
それで、十分。
(……ごめん、嘘ついた。やっぱり、帰りたいよ……)
ミリィはきっと泣くだろう。ボギーは皮肉のひとつでも言うだろうか。ジョーイは、ケヴィンは、ドクター・ノルは、メイリンは。
そしてイクスは、自分の死を悲しんでくれるだろうか。
(ああ――死にたく、ないなぁ……せっかく、かえれるのに……)
心の底から、そう思う。
けれどこの場所には、願いを叶えてくれるような精霊も神様もいないのだ。
スローモーションになる視界の中で、何よりも強靱で鋭い、天然の刃が火乃香の胴体を両断した。
未知の囁き。
存在しないものの咆哮。
御遣いの、呻き声。
「な……に?」
自らの身に起こったことが理解できないという風に、アマワが愕然とした声を上げる。
実在を愚弄する不定形の姿。何を象るでもない、アマワ本来の姿。
その歪な像が、誰が見ても分かるほど致命的なまでに引き裂かれている。
そう、致命的――それは単に姿形が傷ついたということではなく、
「馬鹿な。未来にある私が滅びる――?」
有り得ぬ筈の事象に、驚愕を口にする。
否、可能性ならばあった。裂かれた体で強引に顔らしき部位を動かし、目のような窪みを倒れ伏した少女に向ける。
火乃香の"気"ならば、それは可能だ。この場でそれができるのは彼女の一撃以外にはありえない。
「だが彼女の刃は私に届いていない――何故私が滅びねばならない?」
「――それを知るのが君の最期の望みかね? 全知たり得ない、我が盟友」
アマワでも火乃香でもない、闇の囁き声が響いた。
「神野、陰之――」
混乱するアマワの眼前に、いつの間にか夜闇の魔王が佇んでいる。
丸眼鏡の向こうにある微笑に喰らい付くように、アマワが叫んだ。
「お前の差し金か? 誰かが抱いた私を滅ぼそうという願いを叶えたのか?」
確かにあらゆる時間と空間に偏在する神野ならば、アマワを滅ぼせるのかもしれない。
だが暗黒は隙間に対し、首を横に振った。
「いやいや。確かに、ある願いを叶えはした。その願いが君を滅ぼしたのも確かだ。だが君は全ての人間が抱く疑問の集約。そんな君以上の『願い』を抱ける人間など、論理的に存在しないよ」
それが意味するところは、つまり――
「私の願いが、私を滅ぼした?」
「その通り。『私』が叶えたのは君の願いだ。君の願いは叶い、『経過』から『結果』へと移行したのだよ」
「叶っていない」
アマワが食い下がる。
「御遣いの約束は、果たされていない」
「そう思えるのは当然だろうね」
神野は嗤いながら頷いた。
「何故なら、君はその約束が何によって果たされるものなのか知らないのだから」
「知っている。全てを奪った後に残ったものが――」
「全てとは何を指すのだろうね」
神野の指摘。
「そして、そこには果たして本当に心"だけ"が残るのだろうか。君が奪えないのは心だけだと断言できるのかね? その心の有無さえ知らない、全知たり得ない君が?」
全てを硝化させた後に残るものが心。
だがその『心』が一体如何なるものであるのか、アマワは知らない。
それが残るものであるのかすら、知らない。
「……だが不可解だ。神野陰之。何故、お前が私を滅ぼすことが心の実在を証明する?」
「無論、直接的に『私』が滅ぼした訳ではないよ。君が願ったのは自殺ではなく役目を果たすことなのだから。『私』は君の願いを叶える舞台を用意しただけに過ぎない」
舞台。この証明遊戯を行うための人材や装置。
ならば、アマワを滅ぼしたのは。
「さあ、君が滅びきる前に願いを叶えよう。まずは君を切り裂いたモノの正体からだ」
ぱちん、と神野が指を鳴らす。
瞬間、アマワの視界に『それ』が映った。
存在しないものの、咆哮。
アマワの身体を食い破った、巨大な顎門。
暴力的なまでに高まった気の流れが生み出す実体の無い龍。
龍気槍。かつてパイフウが得手とした必殺手。だが、
「馬鹿な」
アマワが呆然と呟く。
「これは、ただの暴力ではないか。隙間はそんなものでは埋まらない――」
「そう、ただ乱雑に振るわれるだけの力では君を滅ぼしえない。ならばこれは暴力ではないということだ」
「暴力ではない?」
龍の気圏は凶暴な唸りをあげ部屋中を蹂躙している。鋼鉄さえ砕く硝化した物質が、まるで飴細工のように粉砕されていく。
これが暴力でないのなら、およそ世界に危険な場所など存在しないだろう。
その暴風の中で、神野はこともなげに佇んでいる。
「そうだ。殺そうという意志があれば、君を害することはできない。"彼女"が龍の気圏を練り上げたのは殺意によるものではないのだよ。故にこれを暴力と呼ぶことは出来ない」
闇は倒れ伏した少女を――火乃香を見やる。
パイフウに代わって、龍の気圏を造り上げた少女。
その少女が行った"それ"は、かつて獣の片割れが契約者ウルペンとの戦いの中で見出した術と同じもの。
殺そうと思えば殺せない。害そうと思えば害せない。
「何故なら、彼女はその技を知らないからだ」
「知らぬのならば使えまい」
「使い方だけは、知っていた――ただ一度、彼女はその絶技を見ている。不発だったがね。彼女はその技が何をもたらすのか知らず、だがそれを放ったのだよ」
パイフウは一度たりとて火乃香の前で龍気槍を使ったことは無い。
だが、試みたことはあった。一度、出会った頃に行った模擬戦で使おうとして、気圏が成る前に潰されたのだ。
故に、三桁。
見よう見まねの龍気圏を創り上げるのに要した斬撃の数。素手よりも、武器に気を流すことを得手とする彼女ならではの手法。
火乃香はそもそも、この技がいかなる結果をもたらすものか知らなかった。
「人の無知から君を守護する偶然が生み出されるように、彼女の無知は、その偶然をすり抜ける龍を生んだのだ」
「だが、それならば何故だ。何故、彼女はそれを放った。結果を知らぬのなら、それが私の打倒に繋がると知らぬなら、何故そんなものに賭けようと思える!?」
「先生を……信じてたんだ」
未知の絶叫に、少女の声が割り入って。
アマワが振り返れば、そこには未だ倒れ臥したままの火乃香の姿。
立ち上がる体力は、ない――気力すら尽き果て、喋れるだけでも奇跡だ。
だが、それでも。火乃香は言葉を口にした。言ってやらねばならないと思った。
「あたしは、先生を信じてた――ううん、今だって、信じてる。だから」
「馬鹿な。それは惰弱な思い込みだ。思考の放棄だ。そんなものが心か?」
「ああ……あの子の言う通りだね。何を言ったところで、あんたは認めようとしないって……」
「あの子……?」
「フリウさ。あの子があんたと戦う方法を教えてくれたから、あたしは先生を信じられた」
――覚えておいて。
かつて隻眼の少女に託されたその言葉を、火乃香はきちんと胸に刻んでいた。
「あんたはあの子に負けた――ずっと前に負けていたんだ、精霊アマワ」
「フリウ・ハリスコーは死んだ。確かにかつて私を退けたはしたが、それだけだ。そも、彼女は君にとって信頼に足る存在では無いはずだ。パイフウを殺したのは――」
「それでも、あたしはあの子の言葉を覚えてる」
アマワの言葉を、斬って捨てる。
許してはいない。許せるとも、今はまだ思えない。
だが、それでも信じられる。
「それを思い込みだと罵ることは出来るんだろう――だけど、あんたはそれに倒されたんだ」
「馬鹿な――」
「失せな。お前が欲しがってたものを突き付けてやったんだ。それが道理ってもんだろう?」
「馬鹿な――!」
その叫びを最後にして、致命的に裂かれた精霊の姿が、そのまま溶けるように消えていく。
アマワが滅びる。それは完全な消滅だった。未来に生まれるはずだった確かな約束は、確かにこの時、破却された。
だが、その末期に。
倒れ伏す火乃香の側にあった硝化の木が、ゆっくりと傾ぎ出す。
それは、火乃香が先ほど、怒りにまかせて場当たりな一撃をぶつけた一本だった。
契約者を守護する、偶然――それが最後に、契約者であるアマワを害したひとりに向けて発動したのだ。
もはや、彼女にそれをかわす力は存在しない。指一本すら、動かす気力はない。
(……上出来じゃんか。やってやったよ)
目を瞑って、火乃香はその死を受け入れる。最後に、自分は先生との繋がりを証明できた。みんなの仇を取ってやれた。
それで、十分。
(……ごめん、嘘ついた。やっぱり、帰りたいよ……)
ミリィはきっと泣くだろう。ボギーは皮肉のひとつでも言うだろうか。ジョーイは、ケヴィンは、ドクター・ノルは、メイリンは。
そしてイクスは、自分の死を悲しんでくれるだろうか。
(ああ――死にたく、ないなぁ……せっかく、かえれるのに……)
心の底から、そう思う。
けれどこの場所には、願いを叶えてくれるような精霊も神様もいないのだ。
スローモーションになる視界の中で、何よりも強靱で鋭い、天然の刃が火乃香の胴体を両断した。
≪――は両断する≫
だが、その時。
声を聞いた。
強い意志が表出し、そのまま世界の中に具現化したような声。
≪運命は両断する≫
硝化の森に、有り得ざる足音が響き、黒刃が振るわれる。
≪運命は心無きものを両断する!≫
確かに両断されるはずだった火乃香の胴体は、無事だった。その身代わりになったように、硝化の木が両断され、彼女の肉体を避けるように両側へと倒れ込んでいく。
走り込んできたダウゲ・ベルガーが"運命"を振るい、紡ぎ上げた渾身の言実詞が、火乃香に齎される筈だった死の運命を切断した。
闇色の刃が消滅し、柄だけになった剣を肩に担ぎながら、ベルガーが火乃香に駆け寄る。
「よう、元気――じゃないな」
「ベルガー? 死んだはずじゃ……」
「ああ、旧友に首を刎ねられた――死んだと思った、というか、多分一度は完全に死んだんだろう」
うんざりとした顔で、黒衣の男は自らの首を撫でた。よく見れば、トレードマークの黒衣もほとんどボロ屑のような有様になっている。
「多分だが、例の酒の効果だな。君がアマワを殺してゲームを終了させたから、制限が完全に解除されたんだろう」
ベルガーが口にした不死の酒は、不老を齎さない不完全な模造品だが、それでも本来は、如何なる致命傷を負っても、肉体を元の状態に復元するという効果を誇っていた。
ゲームが続いている間はその効果も制限され、精々が重傷を癒やす程度だったが、アマワの死と共に本来の力を取り戻したのだろう。
「で、こうして急いで駆けつけたってわけだ。というか、例の扉を通ったらここに出たんだが」
「じゃあ……生き残ったのは、あんただけか」
「傷つくな、そう残念そうな顔するなよ」
「そういうわけじゃ……」
「まあ、そんな顔にもなるか……俺じゃあ、その傷は治せないからな」
ベルガーが表情を曇らせ、倒れ伏す火乃香の身体から広がる流血を見つめる。
血だまりはゆっくりと、だが確実に広がっていた。出血が緩やかなのは、倒れ伏すと同時についた傷だからだろう。地面と身体の間で圧迫されているのだ。
だが同時に、傷の数自体は多い。応急処置の知識くらいならベルガーも持っているが、だからこそ止血が間に合わないと分かる。身体を起こした時点で派手に出血が始まり、そのままショック死するだろう。
可能性があるとすれば"運命"の駕発動を使うことだが、先の一撃で精燃槽を使い切っていた。偶然を操る精霊がもたらした運命を斬るには、ありったけの精燃槽が必要だったのだ。
「……悪いな」
「いいよ、謝らないで。それより、最後に頼みがあるんだけど――」
「うむ。謝る必要は無いな」
新たな第三者の声。
アマワの消滅と同時、薄れていく硝化した森の中で、白衣が翻った。
「言ったはずだぞ、死んでなければこの天才が何とかしてやるとな」
「……コミクロン?」
「よう、元気――じゃないな」
「ベルガー? 死んだはずじゃ……」
「ああ、旧友に首を刎ねられた――死んだと思った、というか、多分一度は完全に死んだんだろう」
うんざりとした顔で、黒衣の男は自らの首を撫でた。よく見れば、トレードマークの黒衣もほとんどボロ屑のような有様になっている。
「多分だが、例の酒の効果だな。君がアマワを殺してゲームを終了させたから、制限が完全に解除されたんだろう」
ベルガーが口にした不死の酒は、不老を齎さない不完全な模造品だが、それでも本来は、如何なる致命傷を負っても、肉体を元の状態に復元するという効果を誇っていた。
ゲームが続いている間はその効果も制限され、精々が重傷を癒やす程度だったが、アマワの死と共に本来の力を取り戻したのだろう。
「で、こうして急いで駆けつけたってわけだ。というか、例の扉を通ったらここに出たんだが」
「じゃあ……生き残ったのは、あんただけか」
「傷つくな、そう残念そうな顔するなよ」
「そういうわけじゃ……」
「まあ、そんな顔にもなるか……俺じゃあ、その傷は治せないからな」
ベルガーが表情を曇らせ、倒れ伏す火乃香の身体から広がる流血を見つめる。
血だまりはゆっくりと、だが確実に広がっていた。出血が緩やかなのは、倒れ伏すと同時についた傷だからだろう。地面と身体の間で圧迫されているのだ。
だが同時に、傷の数自体は多い。応急処置の知識くらいならベルガーも持っているが、だからこそ止血が間に合わないと分かる。身体を起こした時点で派手に出血が始まり、そのままショック死するだろう。
可能性があるとすれば"運命"の駕発動を使うことだが、先の一撃で精燃槽を使い切っていた。偶然を操る精霊がもたらした運命を斬るには、ありったけの精燃槽が必要だったのだ。
「……悪いな」
「いいよ、謝らないで。それより、最後に頼みがあるんだけど――」
「うむ。謝る必要は無いな」
新たな第三者の声。
アマワの消滅と同時、薄れていく硝化した森の中で、白衣が翻った。
「言ったはずだぞ、死んでなければこの天才が何とかしてやるとな」
「……コミクロン?」
◇◇◇
揺らぐテーブルの表面に映ったアマワの死と、それを成し遂げた少女の治療を始めた者たちを横目に。
再現された喫茶店の中で、十叶詠子が神野陰之に問うた。
「ねえ、神野さん。さっき、ひとりだけの参加者には、それ以外の意味もあるって言ってたよね」
「ああ、確かにそう言ったとも」
「考えてたんだけど、それはつまり、こういうことなんじゃないのかな。神野さんが想定していたのは、繋がっていないことに私たちが気づけるかどうかだったよね。天使様が干渉したことで、そっちは駄目になっちゃったけど。
けれど、神野さんはこうも言っていた。心の実在が証明がされるのなら、それはどんな形でもいいって」
魔女の言葉に、神野がその嗤いながら頷く。確信を深めて、魔女は隠されていたもうひとつの答えを闇から引きずり出した。
「だから彼らにも、逆のアプローチは可能だった――繋げるかどうかを、試したんでしょう? 死とその齎し手が闊歩するこの島で、人は心から相手のことを想うことができるのか」
元の世界の知己よりも、どんな人物なのかも知れない、新たな知り合いを想うことは成立するのか。
テーブルの上で揺蕩っていた白濁の渦が、再び像を結ぼうとしていた。
再現された喫茶店の中で、十叶詠子が神野陰之に問うた。
「ねえ、神野さん。さっき、ひとりだけの参加者には、それ以外の意味もあるって言ってたよね」
「ああ、確かにそう言ったとも」
「考えてたんだけど、それはつまり、こういうことなんじゃないのかな。神野さんが想定していたのは、繋がっていないことに私たちが気づけるかどうかだったよね。天使様が干渉したことで、そっちは駄目になっちゃったけど。
けれど、神野さんはこうも言っていた。心の実在が証明がされるのなら、それはどんな形でもいいって」
魔女の言葉に、神野がその嗤いながら頷く。確信を深めて、魔女は隠されていたもうひとつの答えを闇から引きずり出した。
「だから彼らにも、逆のアプローチは可能だった――繋げるかどうかを、試したんでしょう? 死とその齎し手が闊歩するこの島で、人は心から相手のことを想うことができるのか」
元の世界の知己よりも、どんな人物なのかも知れない、新たな知り合いを想うことは成立するのか。
テーブルの上で揺蕩っていた白濁の渦が、再び像を結ぼうとしていた。
◇◇◇
時は遡る。
コミクロンが、扉の先へと進む火乃香を見送ったその直後。
自身の胸に突き刺されたナイフを、コミクロンはじっと見つめていた。
この小ぶりな武装を好む者は、≪塔≫にも多い。単純に威力を求めるなら魔術があるので、携行性を重視する者が多かったという程度の理由だろうが。
彼の師は剣などの大仰な兵器よりもこちらを好んで用いたし、よくつるんでいた赤毛の友人もマチェットを愛用していた。
だが、このナイフはそのどれもと違う。異世界の技術で造られた未知の刃。だがその振るい手には見覚えがあった。
「よう……シャーネ」
目の前で、己の心臓の刃を突き立てた少女。かつて救えなかったその名前を、コミクロンは鮮血と共に吐き出した。
「死ぬかも知れないって時に思い浮かぶ顔は、まあ色々とあるんだが――そうだな、今はお前に一番会いたかったんだろうな」
無愛想な相棒よりも、先ほど殺しに掛かってきた想い人よりも、その弟よりも。
この島で知り合い、そして死んでいった彼女に。
「何しろ……人を殺したのは初めてでな。ああ、助けられなかったのは、と言うつもりはない。<塔>の外に出なかった俺は、そもそも野蛮な戦場になんてろくに出なかったからな」
自分の師がそれを望まなかったということもあるだろう。
コミクロンはなんとなく察していた。チャイルドマンが自分をどう評していたのか。治癒の魔術に特化した者を前線に送るのは確かに愚者の行いだろうが、そもそもチャイルドマンは自分を前線に立たせないために治癒の魔術に特化させたのだと。
(ああ、そうだ。先生だって完璧じゃなかったんだろうさ)
失敗は成功の母だ。科学を信奉するコミクロンには分かる。成功とは失敗の中から生まれるもの。そして失敗は挑戦から――前に進むことでしか得られないものだ。
そしてこの島でまたひとつ理解した。元の世界において、自分は前に進んでなどいなかったのだと。
コミクロンはこの島に来るまでに、重篤な、それこそ命に関わるような怪我の治療はしたことがなかった。
だから自分の判断ミスで死人を出したのはこれが初めてだったし、それが自分の内面にどのようなものを残すのかも初めて知った。
胸中に深く突き刺さり、自分を苛む棘。その棘の名前を再び口にする。
「シャーネ……あんたに謝りたかった。そのチャンスがあるのなら」
その機会を与えられる時が来ることなど、無いと思っていた。
だが先ほど火乃香と話した時、ふと思ったのだ。これは、その機会なのかも知れないと。
同室の友人から、ゴースト現象の選定基準について聞いたことがあった。もしもこの一連の現象がそれに類するものなら、強く望めば願いが叶うかも知れない。
そしてその結果――有り得ざる再会が成立した。
望むのは、自分の無力さ故に救えなかったという謝罪を行うこと。
そして、もうひとつ。
「――あと、礼も言いたかったんだ」
その言葉に、シャーネが首を傾げる。言葉を発することの出来ない彼女だが、その表情にはありありと疑念が浮かんでいた。
「そろそろおかしいと思っているんじゃないか? ナイフで心臓を一突きされた奴が、どうしてこんな悠長に喋りながら、まだ立っていられるのか」
コミクロンは自分の胸に突き刺さったナイフを、激痛に顔をしかめながら引き抜いた。シャーネが警戒して後ろに跳びすさるが、気にもしていないように手にしたナイフを地面に捨てる。
「礼っていうのはな、あんたを救えなかったことで、俺はひとつ前に進めたからだ。あれから、色々と考えた。単純に魔術の精度を上げる以外で、いまの俺が二人を救うにはどうすれば良かったのか」
フォルテッシモの能力によって全身に裂傷を受けた二人。火乃香とシャーネ。どちらも出血が酷く、同時に治療しては二人とも死なせていただろう。
片方だけを優先したコミクロンの判断は、医療者として正しいものだった。
だが、それ以上を望むなら?
初めての実践に伴う、初めての失敗。それだけで人は成長しないが、成長しようとすることはできる。
「魔術で血流を維持している。破れた血管から外に流れ出さないように制御してな。いまのところ持続時間は30秒と持たないだろうが、その間は別の奴を治療できる」
血流の操作――いつか、未来においてコミクロンが編み出す構成の一つ。その先取り。
発動させたのはシャーネが出現した直後。再会の挨拶を呪文にして、展開していた構成に魔力を流したのだ。
「つまるところ、複数人を治療するための構成だよ。まだ大動脈の位置を感覚的に把握できる俺自身にしか使えんから、完成にはほど遠いが」
その間にも、少しずつ紡いだ構成が破れた心臓を縫い合わせていた。
試行錯誤して造り上げた新たな魔術構成は、どうにか発動に足るものだったらしい。治療用の魔術に、そんな不確かな構成を使うのは正気の沙汰では無かったが。
「心臓を再起動させるような構成はまだ出来ていないし、そもそも血流の速度だって調整不足なんだが――まあ、今回に限って、その辺は例の酒がどうにかしてくれるだろうと。その判断は誤らなかったというわけだ」
コミクロンの視線が、床に転がる酒瓶を一瞬だけ撫でる。
魔術で癒やしきれない傷を治すためにということで持たされていた、残り僅かな不死の酒。
制限下、この量では大した効果はない。精々、傷の治りを早める程度。致命傷を負えば、治しきる前に死んでしまうだろう。
だが魔術で延命が可能なら、話は変わる。
強すぎる血流に全身の毛細血管が破裂し、再生する。全身を襲う小さな痛痒。積み重なれば、やがて脳を始めとした臓器に致命的な損傷を与えるその傷を、不死の酒が癒やしていく。停止した心臓も、血流を維持していればやがて再稼働するだろう。
「きっとお前は、俺が救えなかったシャーネとは別人なんだろうが――それでも、すまなかった。そして、ありがとう」
謝罪と謝礼。同時に行われたそれは、どこか滑稽さを感じさせるものだった。
そのせいかは分からないが、僅かにシャーネ・ラフォレットの表情が綻び――そして、消える。
消えたのは、シャーネの姿そのものだった。まるで最初から実在しなかったかのように、地面に落ちたナイフまで消えている。胸の傷も、白衣に染みこんだ血液さえも。
それは火乃香がちょうどアマワを倒したタイミングで、傷や血液も、制限が解除された不死の酒の効果で復元されただけだったのだが――コミクロンには、シャーネが自分に許しを与えてくれたかのように感じられた。
ただの思い込みかも知れない。だが。コミクロンはそれを信じることにした。軽くなった心を携えて歩き出す。いつの間にか、火乃香が潜って消えた筈の扉が再出現している。
(駆け足で行こう)
もう足踏みはやめよう。挑戦を躊躇わず、前へ進んでいくのだ。
コミクロンは走り出した。自分に出来ることをする為に。
コミクロンが、扉の先へと進む火乃香を見送ったその直後。
自身の胸に突き刺されたナイフを、コミクロンはじっと見つめていた。
この小ぶりな武装を好む者は、≪塔≫にも多い。単純に威力を求めるなら魔術があるので、携行性を重視する者が多かったという程度の理由だろうが。
彼の師は剣などの大仰な兵器よりもこちらを好んで用いたし、よくつるんでいた赤毛の友人もマチェットを愛用していた。
だが、このナイフはそのどれもと違う。異世界の技術で造られた未知の刃。だがその振るい手には見覚えがあった。
「よう……シャーネ」
目の前で、己の心臓の刃を突き立てた少女。かつて救えなかったその名前を、コミクロンは鮮血と共に吐き出した。
「死ぬかも知れないって時に思い浮かぶ顔は、まあ色々とあるんだが――そうだな、今はお前に一番会いたかったんだろうな」
無愛想な相棒よりも、先ほど殺しに掛かってきた想い人よりも、その弟よりも。
この島で知り合い、そして死んでいった彼女に。
「何しろ……人を殺したのは初めてでな。ああ、助けられなかったのは、と言うつもりはない。<塔>の外に出なかった俺は、そもそも野蛮な戦場になんてろくに出なかったからな」
自分の師がそれを望まなかったということもあるだろう。
コミクロンはなんとなく察していた。チャイルドマンが自分をどう評していたのか。治癒の魔術に特化した者を前線に送るのは確かに愚者の行いだろうが、そもそもチャイルドマンは自分を前線に立たせないために治癒の魔術に特化させたのだと。
(ああ、そうだ。先生だって完璧じゃなかったんだろうさ)
失敗は成功の母だ。科学を信奉するコミクロンには分かる。成功とは失敗の中から生まれるもの。そして失敗は挑戦から――前に進むことでしか得られないものだ。
そしてこの島でまたひとつ理解した。元の世界において、自分は前に進んでなどいなかったのだと。
コミクロンはこの島に来るまでに、重篤な、それこそ命に関わるような怪我の治療はしたことがなかった。
だから自分の判断ミスで死人を出したのはこれが初めてだったし、それが自分の内面にどのようなものを残すのかも初めて知った。
胸中に深く突き刺さり、自分を苛む棘。その棘の名前を再び口にする。
「シャーネ……あんたに謝りたかった。そのチャンスがあるのなら」
その機会を与えられる時が来ることなど、無いと思っていた。
だが先ほど火乃香と話した時、ふと思ったのだ。これは、その機会なのかも知れないと。
同室の友人から、ゴースト現象の選定基準について聞いたことがあった。もしもこの一連の現象がそれに類するものなら、強く望めば願いが叶うかも知れない。
そしてその結果――有り得ざる再会が成立した。
望むのは、自分の無力さ故に救えなかったという謝罪を行うこと。
そして、もうひとつ。
「――あと、礼も言いたかったんだ」
その言葉に、シャーネが首を傾げる。言葉を発することの出来ない彼女だが、その表情にはありありと疑念が浮かんでいた。
「そろそろおかしいと思っているんじゃないか? ナイフで心臓を一突きされた奴が、どうしてこんな悠長に喋りながら、まだ立っていられるのか」
コミクロンは自分の胸に突き刺さったナイフを、激痛に顔をしかめながら引き抜いた。シャーネが警戒して後ろに跳びすさるが、気にもしていないように手にしたナイフを地面に捨てる。
「礼っていうのはな、あんたを救えなかったことで、俺はひとつ前に進めたからだ。あれから、色々と考えた。単純に魔術の精度を上げる以外で、いまの俺が二人を救うにはどうすれば良かったのか」
フォルテッシモの能力によって全身に裂傷を受けた二人。火乃香とシャーネ。どちらも出血が酷く、同時に治療しては二人とも死なせていただろう。
片方だけを優先したコミクロンの判断は、医療者として正しいものだった。
だが、それ以上を望むなら?
初めての実践に伴う、初めての失敗。それだけで人は成長しないが、成長しようとすることはできる。
「魔術で血流を維持している。破れた血管から外に流れ出さないように制御してな。いまのところ持続時間は30秒と持たないだろうが、その間は別の奴を治療できる」
血流の操作――いつか、未来においてコミクロンが編み出す構成の一つ。その先取り。
発動させたのはシャーネが出現した直後。再会の挨拶を呪文にして、展開していた構成に魔力を流したのだ。
「つまるところ、複数人を治療するための構成だよ。まだ大動脈の位置を感覚的に把握できる俺自身にしか使えんから、完成にはほど遠いが」
その間にも、少しずつ紡いだ構成が破れた心臓を縫い合わせていた。
試行錯誤して造り上げた新たな魔術構成は、どうにか発動に足るものだったらしい。治療用の魔術に、そんな不確かな構成を使うのは正気の沙汰では無かったが。
「心臓を再起動させるような構成はまだ出来ていないし、そもそも血流の速度だって調整不足なんだが――まあ、今回に限って、その辺は例の酒がどうにかしてくれるだろうと。その判断は誤らなかったというわけだ」
コミクロンの視線が、床に転がる酒瓶を一瞬だけ撫でる。
魔術で癒やしきれない傷を治すためにということで持たされていた、残り僅かな不死の酒。
制限下、この量では大した効果はない。精々、傷の治りを早める程度。致命傷を負えば、治しきる前に死んでしまうだろう。
だが魔術で延命が可能なら、話は変わる。
強すぎる血流に全身の毛細血管が破裂し、再生する。全身を襲う小さな痛痒。積み重なれば、やがて脳を始めとした臓器に致命的な損傷を与えるその傷を、不死の酒が癒やしていく。停止した心臓も、血流を維持していればやがて再稼働するだろう。
「きっとお前は、俺が救えなかったシャーネとは別人なんだろうが――それでも、すまなかった。そして、ありがとう」
謝罪と謝礼。同時に行われたそれは、どこか滑稽さを感じさせるものだった。
そのせいかは分からないが、僅かにシャーネ・ラフォレットの表情が綻び――そして、消える。
消えたのは、シャーネの姿そのものだった。まるで最初から実在しなかったかのように、地面に落ちたナイフまで消えている。胸の傷も、白衣に染みこんだ血液さえも。
それは火乃香がちょうどアマワを倒したタイミングで、傷や血液も、制限が解除された不死の酒の効果で復元されただけだったのだが――コミクロンには、シャーネが自分に許しを与えてくれたかのように感じられた。
ただの思い込みかも知れない。だが。コミクロンはそれを信じることにした。軽くなった心を携えて歩き出す。いつの間にか、火乃香が潜って消えた筈の扉が再出現している。
(駆け足で行こう)
もう足踏みはやめよう。挑戦を躊躇わず、前へ進んでいくのだ。
コミクロンは走り出した。自分に出来ることをする為に。
◇◇◇
倒れ伏す火乃香の傍に屈み込んだコミクロンが、魔術で即座に傷を塞いでいく。
その様子をテーブル越しに見て、十叶詠子はにこやかに笑った。斜向かいに座る神野に尋ねる。
「神野さんは"どっち"だと思う?」
「さて、判定役の盟友は消えてしまったことだしね」
神野は答えず、肩を竦めるだけに留めた。詠子もしつこく尋ねたりはしない。本当に疑問に思っているわけでは無いのだ。
精霊アマワは消滅した。それは隙間が埋まったということではないが、もはや賢しげに語りかけてくることはないだろう。
そしてアマワが消滅したと言うことは、あるひとつの事柄を意味する。
「さて、魔女・十叶詠子。我が盟友は消えた。『私』を縛る願いもまた。いま現在、『私』と相対している者は君だけだ」
火乃香も、ベルガーも、コミクロンも、いまは目の前の状況に対処しており、神野陰之に願うという選択肢を意識できない。
ただひとり、こうしてテーブルを差し挟んで向かい合っている魔女以外は。
「うーん。漁夫の利みたいで悪いけど」
「だが急いだ方がいいだろう。アマワが消えた以上、『私』もこの舞台を保護する必要は無くなった。異世界から集められた君たちがどうなるのか、保証は出来ないな」
「……それじゃ、仕方ないねぇ」
花のような笑みを咲かせて、魔女がその願いを口にする。
その様子をテーブル越しに見て、十叶詠子はにこやかに笑った。斜向かいに座る神野に尋ねる。
「神野さんは"どっち"だと思う?」
「さて、判定役の盟友は消えてしまったことだしね」
神野は答えず、肩を竦めるだけに留めた。詠子もしつこく尋ねたりはしない。本当に疑問に思っているわけでは無いのだ。
精霊アマワは消滅した。それは隙間が埋まったということではないが、もはや賢しげに語りかけてくることはないだろう。
そしてアマワが消滅したと言うことは、あるひとつの事柄を意味する。
「さて、魔女・十叶詠子。我が盟友は消えた。『私』を縛る願いもまた。いま現在、『私』と相対している者は君だけだ」
火乃香も、ベルガーも、コミクロンも、いまは目の前の状況に対処しており、神野陰之に願うという選択肢を意識できない。
ただひとり、こうしてテーブルを差し挟んで向かい合っている魔女以外は。
「うーん。漁夫の利みたいで悪いけど」
「だが急いだ方がいいだろう。アマワが消えた以上、『私』もこの舞台を保護する必要は無くなった。異世界から集められた君たちがどうなるのか、保証は出来ないな」
「……それじゃ、仕方ないねぇ」
花のような笑みを咲かせて、魔女がその願いを口にする。
「私は皆を蘇らせて欲しい」
このゲームにはとても尊い人たちが集められた。
『裏返しの法典』を始めとする数々の魂のカタチ――それは黄金のように貴重で、虹の様に眩い。
「それが君の願いか、魔女よ」
「うん。私は人が好きだよ。特に、ここに集められた人たちは。多くが"向こう側"を受け入れられる強さを持っていた。きっと、私が会えなかった人の中にも、そんな人が大勢いたんでしょう?
だから、私は彼らを失いたくないよ。叶うなら、お話もしてみたい。
――だけど」
十叶詠子は困ったような笑みを浮かべた。
ノイズ塗れのレコードが、一際大きなスクラッチ音を出す。
そして、それを境に曲目が変わった。針が大きく飛んだのか、あるいは――
「それを望んでいない人もいるんだよね……」
そう言って、路地に面した窓の外を見る。
目が合った。
そこには黒い影法師が立っていた。窓硝子越しに、ワーグナーが鳴り響く店内にいる詠子を睨んでいる。
筒のようなシルエットをしたそいつの名前は、ブギーポップという――
「皆を蘇らせたい、っていうのは、そんなにいけない願いかな? あなたも"法典"君には色々とお世話になったと思うけど」
「死人は蘇らない。それは世界の理に反している」
窓硝子越しだというのに、死神の声はぼやけもせず魔女に届く。
詠子は悲しそうに、ゆっくりと首を振った。
「そんな月並みの倫理で、100以上もの命を見捨てるの?」
死神の無情を嘆くような言葉。だが、死神は当然とばかりに首肯する。
「ああ――"それを願うのが君ならば"」
「……やっぱり、誤魔化しきれなかったみたいだねぇ」
悲しみを引っ込めた魔女が、入れ替わりに苦笑を浮かべる。
対して死神は険しい表情を浮かべ、右手をだらりと垂らした。その指先から垂らされた妖糸が、路地に入ってくる夕日の赤を反射してきらきらと光っている。
「君のいう"皆"には、精霊アマワが含まれている。その願いは、再びこの舞台を整えるということに他ならない。神野陰之と同じく、未来精霊アマワは平行世界の枠に囚われていない、単一の存在だ」
殺し合いは魔女の望みでは無い。だが彼女の歪んだ優しさは、結果として同じことを招く。蘇った精霊アマワは、再び神野陰之をその願いで縛り、証明の為に多大な犠牲を出すだろう。
「……アマワさんとお話しするのは無理そうだね」
残念、と呟いて、魔女は思考を切り替えた。席を立ち、窓硝子越しに死神と相対する。
「不気味な泡さんは私を殺したいんだろうけど、いまは殺せない――『願い』を持たないあなたは、神野さんの守りを突破できない。
そして私も、あなたを殺してしまうような手段も『願い』も持ってはいない。
だからあなたが狙っているのは、私が願い事をするその一瞬。神野さんが私の『願い』を叶えようとして、そしてそれが叶うまでの一瞬の隙間をついて私を殺そうとしているんでしょう?」
どんなものでも、動き出したその一瞬こそが最も無防備になる。それは万能に近い神野陰之ですら変わらない。
死神は殺意を隠すことも無く、その一瞬を待ち続けている。
しかし、魔女はその殺意に臆すこともなく、散歩に行くような気軽さで口を開いた。
「それじゃあ、こう願うしかないね――いま生き残っている人を、無事な状態で元の世界に返してください」
願う言葉と同時に、神野陰之が闇に溶けた。あるいは、本来の姿を取り戻したのか。
光の断絶が世界を一瞬で覆う。床が、壁が、天井が。店のあらゆる内装が上書きされるように闇色に変じた。
「――」
全ての境界が消えゆく中、ブギーポップが動いた。振るわれる妖糸は魔女の首を撥ね飛ばさんと、闇に上書きされる空間に直線を引くかの如く飛び出していく。
死神の引く糸は余さず効力を発揮した。少女の首が宙を舞い――そこに笑みを浮かべた。
「君を仕留め損なったのは、これで二度目か」
憮然とした死神の声。それを宥めるように、魔女の言葉が響く。
「さようなら、不気味な泡さん――また、会えるといいね」
広がる黒が、魔女の首と死神を飲み込む。
その現象は遥か遠く、あるいは極至近の硝化の森でも起こっていた。倒れ伏した火乃香が、治療を施すコミクロンが、周囲を警戒していたベルガーが――
――すべては闇の中に消えた。
『裏返しの法典』を始めとする数々の魂のカタチ――それは黄金のように貴重で、虹の様に眩い。
「それが君の願いか、魔女よ」
「うん。私は人が好きだよ。特に、ここに集められた人たちは。多くが"向こう側"を受け入れられる強さを持っていた。きっと、私が会えなかった人の中にも、そんな人が大勢いたんでしょう?
だから、私は彼らを失いたくないよ。叶うなら、お話もしてみたい。
――だけど」
十叶詠子は困ったような笑みを浮かべた。
ノイズ塗れのレコードが、一際大きなスクラッチ音を出す。
そして、それを境に曲目が変わった。針が大きく飛んだのか、あるいは――
「それを望んでいない人もいるんだよね……」
そう言って、路地に面した窓の外を見る。
目が合った。
そこには黒い影法師が立っていた。窓硝子越しに、ワーグナーが鳴り響く店内にいる詠子を睨んでいる。
筒のようなシルエットをしたそいつの名前は、ブギーポップという――
「皆を蘇らせたい、っていうのは、そんなにいけない願いかな? あなたも"法典"君には色々とお世話になったと思うけど」
「死人は蘇らない。それは世界の理に反している」
窓硝子越しだというのに、死神の声はぼやけもせず魔女に届く。
詠子は悲しそうに、ゆっくりと首を振った。
「そんな月並みの倫理で、100以上もの命を見捨てるの?」
死神の無情を嘆くような言葉。だが、死神は当然とばかりに首肯する。
「ああ――"それを願うのが君ならば"」
「……やっぱり、誤魔化しきれなかったみたいだねぇ」
悲しみを引っ込めた魔女が、入れ替わりに苦笑を浮かべる。
対して死神は険しい表情を浮かべ、右手をだらりと垂らした。その指先から垂らされた妖糸が、路地に入ってくる夕日の赤を反射してきらきらと光っている。
「君のいう"皆"には、精霊アマワが含まれている。その願いは、再びこの舞台を整えるということに他ならない。神野陰之と同じく、未来精霊アマワは平行世界の枠に囚われていない、単一の存在だ」
殺し合いは魔女の望みでは無い。だが彼女の歪んだ優しさは、結果として同じことを招く。蘇った精霊アマワは、再び神野陰之をその願いで縛り、証明の為に多大な犠牲を出すだろう。
「……アマワさんとお話しするのは無理そうだね」
残念、と呟いて、魔女は思考を切り替えた。席を立ち、窓硝子越しに死神と相対する。
「不気味な泡さんは私を殺したいんだろうけど、いまは殺せない――『願い』を持たないあなたは、神野さんの守りを突破できない。
そして私も、あなたを殺してしまうような手段も『願い』も持ってはいない。
だからあなたが狙っているのは、私が願い事をするその一瞬。神野さんが私の『願い』を叶えようとして、そしてそれが叶うまでの一瞬の隙間をついて私を殺そうとしているんでしょう?」
どんなものでも、動き出したその一瞬こそが最も無防備になる。それは万能に近い神野陰之ですら変わらない。
死神は殺意を隠すことも無く、その一瞬を待ち続けている。
しかし、魔女はその殺意に臆すこともなく、散歩に行くような気軽さで口を開いた。
「それじゃあ、こう願うしかないね――いま生き残っている人を、無事な状態で元の世界に返してください」
願う言葉と同時に、神野陰之が闇に溶けた。あるいは、本来の姿を取り戻したのか。
光の断絶が世界を一瞬で覆う。床が、壁が、天井が。店のあらゆる内装が上書きされるように闇色に変じた。
「――」
全ての境界が消えゆく中、ブギーポップが動いた。振るわれる妖糸は魔女の首を撥ね飛ばさんと、闇に上書きされる空間に直線を引くかの如く飛び出していく。
死神の引く糸は余さず効力を発揮した。少女の首が宙を舞い――そこに笑みを浮かべた。
「君を仕留め損なったのは、これで二度目か」
憮然とした死神の声。それを宥めるように、魔女の言葉が響く。
「さようなら、不気味な泡さん――また、会えるといいね」
広がる黒が、魔女の首と死神を飲み込む。
その現象は遥か遠く、あるいは極至近の硝化の森でも起こっていた。倒れ伏した火乃香が、治療を施すコミクロンが、周囲を警戒していたベルガーが――
――すべては闇の中に消えた。