第592話:閉じられる盤面(前編) 作:◆5Mp/UnDTiI
「やあ、お目覚めかね?」
ブギーポップが次に浮かんだ時、耳に入ってきたのはそんな言葉だった。夜空を背景に、佐山・御言の顔が目の前にある。
どこかの建物の屋上らしい。地図にあったマンション棟のいずれかだろう。尻の下にざらざらとしたコンクリートの感触があった。
夜だというのに、周囲は妙に明るい。満月の光だけではないだろう。まるで炎のように揺らめく光が周囲を照らしている。さらには下の階層から妙な気配――世界に虚が開いているかのような感覚。
ブギーポップは素早く全身の調子を確認する。奇妙なことに、美姫との戦いで負った怪我はほぼ完治していた。超自然的な力での治癒であることは自明だ。怪我自体は治っているのに、痛みだけが綺麗に残っている。自動的な自分にとっては問題にならないが、宮下藤花には耐えられないだろう。
治療は十中八九、佐山の仲間が行ったと見るべきだ。佐山の後ろに数人の人影が見えるが、見覚えのないものがほとんど。
だが良いことばかりではない。自分はシーツを裂いて作られた即席の拘束帯で体を動かなくされていた。現在の体勢は胡坐に近いが、どうやら特殊な縛り方をされているらしく、どれだけ力を入れても僅かな緩みさえ生まれない。
そんなブギーポップの現状には全く触れず、佐山は挨拶をつづけた。
「おはよう、ブギーポップ君。無傷とはいかなかったようだが、それでも生きていて何よりだ」
「おはよう、佐山君。やあ、少し眠り過ぎていたようだ。今は何時かな?」
「安心したまえ、4:30というのは十分早起きに分類されるだろう――状況的には休憩や話し合いが終わって、今まさに敵を迎え撃つ準備を終えるというところか」
佐山の言葉に、ブギーポップは知覚を広げる――階下の"虚"よりさらに下。地上、マンションの周囲にも何人かが配置されているようだった。
なるほど、とブギーポップは頷く。佐山は戦力の形成に成功したらしい。
「おめでとう、景気が良くて何よりだ。素敵なプレゼントもくれたみたいだしね。他人から何かを貰うの初めてかもしれない」
「おや、図らずも君にとっての初めての人になってしまったか。では気合を入れておいて正解だったな。気に入ってくれれば幸いだ。ヒヒ爺直伝の拘束術でね。その状態からではゴリラでも動けない」
そう言ってふふふと笑う佐山に、ブギーポップもまた涼しげな笑みで応じた。伝える。
「しかし、ぼくの衣装には合わないようだ。これを解いてもらえるかな?」
「無理だね」
予想していた佐山の返答に、ブギーポップは器用に肩をすくめて見せた。
「まあ、それなら最初から縛らないだろうしね――理由は?」
「自明だろう?」
同じく佐山も肩をすくめて返す。
「君が、アマワや神野陰之の仲間だからだ」
紡がれたのは諜報を揶揄するような言葉。だが慌てもせずにブギーポップは首を――振ろうとしたが、側頭部にまでかかった拘束のせいで失敗する。仕方なく、皮肉気に唇を吊り上げるだけに留めた。
「神野陰之にはまだ会っていないがね。アマワは間違いなくぼくの敵だよ?」
「それを客観的に証明できるかね?」
「さて。そもそも完全に客観的な証明なんていうものが、この世界に存在すると思うかい?」
「なるほど、真理だ」
威嚇射撃でもするように屁理屈を交し合って、佐山は苦笑を浮かべた。
「もちろん、君の内通を疑っているわけではないとも。連中と同質の存在、という表現をしたかったわけだ」
それはつまり、
「彼らもぼくのように自動的であるということかい」
「違うかね? アマワも神野陰之もある意味で自動的存在ではあるだろう。問いかけるモノと叶えるモノ――さしずめ君は殺すモノというあたりか。そして、それぞれが己の特性に対し、決して妥協をしない」
アマワは問いかけることをやめないし、神野陰之は叶えることをやめない。同じく、ブギーポップは世界の敵を殺すことを諦めない。
「そしてそれこそが問題だ。君が浮かび上がっているということは、誰かに危害を加えるつもりなのだろうからね」
「この束縛は、十叶詠子を殺されたくないが故、か」
「その通り。加えて言うなら、おそらくカーラ女史も君に狙われる手合いだろう。だが、生憎と君が寝ている間に我々は仲間となった。ついでにいうと、当然の如く私は全会一致でチームを束ねる役割に選出されてね。彼女達を守る義務があるのだよ」
全会一致、の辺りで佐山の背後にいる数人が親指を地面に向けて突き立てたのを、ブギーポップは見逃さなかったが。
「なるほど。けれどその上でぼくを殺してはいない――ぼくに何を期待しているのかな?」
「察しが良くて助かるね」
頷いて、佐山。
「君と交渉する方法を考えていた。一番の問題点は、君に他者の思想を受け入れる余地がないことだ。"自動的な存在"。君は世界の敵を問答無用で抹殺してしまう」
現時点で、十叶詠子とカーラ。ブギーポップに狙われるであろう二人の世界の敵を佐山は抱え込んでいる。
ブギーポップは決して殺意を緩めない。零崎人識のような結末は有り得なかった。
数時間前、佐山とブギーポップが袂を別つ原因になった、どうしようもない平行線。
「だが、思えば実に簡単なことだった。君をどうにもできないのなら、相手へ対処するまでのことだ」
「それはつまり――」
世界の敵を殺すのではない。ただそのまま仲間に取り込むのでもない。では、どうするのか。
佐山の出したであろう答えを予想して、ブギーポップは感心したような、あるいは小馬鹿にしたような、そんな非対称の笑みを浮かべた。
「世界の敵を、世界の敵でなくしてしまおうというわけかい」
「その通り。的外れ、というわけでないだろう? 君は、例えば狂信者のような使命感で世界の敵を狩っているわけではない。敵が敵でなくなればそこまでの筈だ」
「確かにね」
<カウントダウン>の本木三平のように、世界の敵となる可能性を持っていても、それを失ったがゆえに見逃されたケースは存在する。
それを積極的に行おう、などと目論んだのは元の世界では"いつか"の九連内朱巳くらいのものだったし、彼女の計画は失敗に終わったといって良かったが。
「しかし、佐山君。君はあの吸血鬼を改心させることができるのかな?」
「おや、仕留め損なった自覚があったのかね?」
「恥ずかしながら、気付いたのは目が覚めてからだが」
世界の敵を感知する力は未だ制限を受けているが、その制限された現状でなお感じるほど、姫の危険性は高い。
姫。妖姫。美姫。いまや真なる不死者へと回帰した最悪の吸血鬼。
秋せつらの死を契機に、彼女は世界を滅ぼすと決めた。秘められた力が開花したのでも、誰かにそそのかされたのでもない。ただ彼女が"その気"になる。それだけで世界は崩壊するのだ。
ブギーポップがこれまでに出会った中でも、もっともシンプルで強大な世界の敵。
「それを君は御せるというのかい、佐山君」
その敵すら、佐山は取り込むというのか。ブギーポップの質問を受けて、悪役は常の如く自信満々に頷いた。
「うむ――ぶっちゃけ無理だろうね」
「……」
ブギーポップが沈黙する。ただし、その表情に驚愕や呆れ等の感情らしい感情は全く浮かばない。静かに次の言葉を待っている。
佐山は気まずさの欠片も出さずにそれを眺めていたが、やがて諦めたように首を振った。
「同じく自動と枕に付く存在でも、8号君達と比べると恐ろしく味気がないな……円滑なコミュニケーションの為に、誰かツッコミか驚き役を務めてくれても構わないよ?」
振り向いて背後の人影達に声を投げかける佐山。黙殺するように全員が顔を逸らしたが、佐山が微動だにしないのを見て取ると、諦めのような気配が漂う。
いくつかの溜息と小声が聞こえた後、しぶしぶと言った様子で大柄な人影が前に進み出た。
「佐山の馬鹿野郎ー」
「それはただの罵倒だ。人として最もやってはいけないものだぞ出雲くたばれ。――話を戻そう」
ブギーポップに向き直って、佐山が続ける。
「私の用いる方法についてだったか。まずこの島から殺意を奪うという、あの宣言は違えない。方法は少しバリエーションを持たせるがね。さしあたり、君の殺意は見ての通り緊縛で奪った」
指し示された自身の肉体の現状を見て、ブギーポップは唯一自由に動かせる首を傾げて見せた。
「美姫もロープで縛る気かい? それに、十叶詠子や灰色の魔女だって一筋縄じゃいかない世界の敵だぜ? 彼女達を改心させることはできるのかな?」
「ふむ。逆に聞くが」
佐山はさも不思議だという表情を浮かべた。
「どうして改心させなければいけないのかね?」
「彼女達を世界の敵でなくすのだろう?」
「その通りだ。しかし、それが何故彼女たちを改心させるという話に繋がる?」
言いながら、佐山は縛られたブギーポップを見下ろすように首を傾げて見せる。
ブギーポップは思考を巡らせる。世界の敵を、世界の敵でなくす方法。例えば魔法や異形を見る力を封じる、というのは根本的な解決にならない。世界の敵の問題は、その力ではなく方向性にある。大抵はそれを成せる力を一緒に持っている者が多いが、本質的には世界に仇成す"性根"が問題なのだ。
佐山・御言もそれは分かっている筈。死神は真っ直ぐに悪役を見つめ、次の台詞を聞いた。
「信条的に相いれないからと言って相手に改宗を迫るなど、江戸時代の隠れキリシタン狩りと大差ないだろう。いまは多様性を受け入れる時代だよ?」
「ぼくは例外のようだ。なにせ自動的だからね」
「その通り。君は多様性を受け入れられず、排除してしまう。ではどうするか? 実に簡単なことだ。排除できなくしてしまえばいい」
そこで一度言葉を切ると、佐山は胸を張ってこう宣った。
「"君の世界"の敵でなくしてしまえばいいと、そう言っているのだよ」
「それは――」
声を上げようとしたブギーポップを制するように、佐山は右手を挙げた。
「君は世界の敵の敵だ。だが、君の言う『世界』とは何か。私と君、それぞれ出身の世界は違うのだろう。そして私は君という存在をここに来るまで知らなかった――互いの世界(ギア)を滅ぼしあった、概念戦争を経た世界を出身とする私がね」
それが意味することは、ひとつ。
「私の"世界"と君の"世界"は違う。仮に私の世界に<世界の敵>が現れたとしても、異世界から君が助けに来てくれる、なんて御都合主義は起こらない。もしも今この瞬間、君が元の世界に送還されれば、君はわざわざこの世界に取って返してきてまで詠子くん達を殺そうとはしない。違うかね?」
「……さて、ぼくは自動的なのでね。しかし、確かにこれまで<異世界の敵>を殺すために浮かび上がったことはないと言っておこう」
「つまり君の殺意は、同じ世界にいる者相手限定というわけだ。詠子君が君に狙われる理由は、たまたまこの世界で君と出会ってしまったからというだけだとも言える」
ブギーポップの殺意を揶揄するような佐山の言に、死神は肩をすくめて見せた。拘束のせいで、あまり上手くはいかなかったが。
「君がやろうとしていることは分かった。君はぼくが彼女達を殺す前に、彼女たちかぼくを元の世界に送り返そうとしているわけだ」
状況のリセットを図るということだろう。ブギーポップはそう認識した。
この盤上に放り込まれでもしなければ、ブギーポップは十叶詠子と出会うことなど無かったのだから。
「けれど結局のところ、そのアイディアにもひとつ、欠点があるね」
「ほう? 言ってみたまえ」
「美姫の存在だ」
最悪の吸血鬼の名前を死神は口にする。彼が真正面から戦いを挑み、殺し損ねた存在。否、結果だけ見れば返り討ちにされたと言ってもいい。
「確かにぼくはわざわざ異世界の敵を殺しに行ったことはないがね――けれど、あの吸血鬼の方ははそんなルールお構いなしだろう。あれは世界を渡り、そしてその全てを滅茶苦茶にしてしまう。君たちがこの盤上から離脱しても、地獄の底まで追いかけてくるぜ」
何しろ――美姫自身がそうすると決めたのだから。
この盤面に関わったモノを、すべて抹殺すると。
「だろうね……直接戦った君がそう言い、片鱗を見ただけの私でさえそう思うのだから」
ブギーポップの指摘を佐山は受け入れる。ある意味、あの吸血鬼はアマワや神野陰之よりも厄介な存在だ。
不滅の破滅――己の世界を取り巻いた10の異世界の概念さえ叶わぬ領域。文字通りの最悪。
「――そうであるからこそ、対処の方法は真っ先に考えてあるとも」
その最悪を乗り越えると、佐山は宣言した。
「君にも働いて貰おう、ブギーポップ。世界の敵の敵よ。世界を救うための行いだ。まさか拒否はしないだろうね?」
「協力するに吝かではないがね」
死神は完膚なきまでに拘束された全身を示すように揺すってみせる。
その動きを見て、佐山は心得ているとばかりに頷いた。
「いや、その恰好のまま協力してくれれば結構。安心したまえ、ベッドの上から動く必要もない充実の介護サービスを行わせていただこう。今なら子守唄もサービスしようではないか」
「ぼくに働いて欲しいのか、それとも養ってくれるつもりなのか。いったいどっちなんだい?」
「言ったではないか。そのままの状態で働いてもらうと」
『ここまで理解が不足しているとは思わなかった』とでも言いたげに、佐山は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「拘束を解けば君は詠子君やカーラ女史を殺すだろう。だから君に関しては拘束して生けるレーダーとして運用することにした。美姫の位置を時報サービスのように逐次教えてくれたまえ」
「それで、ぼくが素直に教えると思うのかな?」
「教えてくれるだろう? ――なにせ、君は自動的なのだから」
佐山はブギーポップと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「自動的。実に結構ではないか。それは動ける状態ならパフォーマンスを発揮し続けてくれるということだ。どれほどの悪環境だろうが、文句を言わずに動き続ける。当然、『縛られているから協力するのは嫌だ』などとは言わないだろう。腕時計が足首に巻かれたからといって仕事をさぼるかね? NOだよ、ブギーポップ君。私が世界の敵と戦おうとしているのだから、世界の敵の敵たる君はできる範囲で協力するというのが道理というものだ」
「君はかつてぼくと交渉をする、と言っていたが」
ブギーポップは皮肉気に口の端を釣り上げて見せた。
「これが交渉かい? 一方的にそちらの要求だけを通そうとしているようにしかみえないが」
「交渉には様々なやり方がある。それを相手によって使い分けるのは基本だよ。生きる木や鉱物と交渉する時に、人間と同じ方法は使えまい。これは紛れもなく自動的な存在に対する交渉だとも。それに、一方的な要求? 交渉によってもたらされる公平さとは、互いの要求を擦り合わせた結果だよ。一方的と感じるならば、まずは己の不足を恥じたまえ」
それに、と佐山は続けた。
「対価は払うとも。君の――宮下君の肉体の安全は保障しよう。君の怪我を我々が治療したことには気付いているだろう?」
「不足か……なるほど、確かにぼくが美姫を殺せていれば、こんな無様は晒さなかったわけだからね」
ふむ、とブギーポップは呟き、
「分かった。君の交渉を受け入れよう。宮下藤花の肉体を保全する代わりに、ぼくを探知機代わりに使いたいと、そういうことだね?」
「うむ。我ながら実に明朗な取引だ」
「では早速、その契約を履行して貰いたい」
「? どういうことかね?」
ブギーポップの要求に、佐山が首を傾げる。
「この世界に囚われてから、参加者は常に命の危機に晒されているだろう? "君たちと同じように"、その危機を取り払った状態にしてもらいたい」
ブギーポップのそんなセリフに、僅かに佐山は目を見張った。それは、自身が握っている切り札の内の一枚であったからだ。
佐山は自身の左腕――そこに捺された刻印を、服の上から撫でつけた。
「……気付いていたのか。なんとも頼りになる超感覚だ。具体的にどうやって探知したのか教えて欲しいものだが」
「何度も言うが、ぼくは自動的なのでね。必要なことを知っているだけさ。今の状態では、その機能も怪しいものだが」
嘯くブギーポップに対し、佐山は足元に置いておいた"解除装置"を取り上げる。シーツでグルグル巻きにした、長さ20センチほどの棒状。非倫理的な、冒涜を布で包んだに等しい代物だが、生き残るためにはどうしても必要なものでもあった。
もったいぶる必要はない。どの道、宮下藤花の肉体に用いることは決定事項だった。厄介な二重人格に取りつかれているとはいえ、彼女に罪は無いのだから。
だが佐山がその封を解こうとする寸前、ブギーポップの表情が奇妙に歪んだ。左右非対称の表情。感心しているような、あるいは苦虫を噛み潰しているかのような。
「どうかしたかね?」
「……早速、仕事をする羽目になるとはね。新たな世界の敵が現れた。それも、複数同時にだ」
「美姫ではない?」
「ああ。彼女もその敵の近くにいるようだが」
ブギーポップからの報告に、佐山は眉をひそめる。
第四回放送の時点で残りの生存者は32名。
そこから知る限りの死者数を引いて、現在の生き残りは多くても20名強というところだろう。その内、14名が自身の属する陣営に組している。
(つまり残り数名の参加者の中から、新たな世界の敵が、それも複数現れたということになるが……)
世界の敵――ブギーポップが言うその存在の意味を、佐山は完全に理解してはいない。むしろ、ブギーポップ以外にそれを理解できる者などいないだろう。
だがそれが文字通りに世界の敵になり得る存在なのだ、ということは理解していた。
そんな物騒な存在が、残り少ない参加者の中から新たに複数誕生した?
その可能性が如何ほどかということについて思慮を巡らせる傍ら、ポケットから小刻みな振動が伝わった。折原臨也の持っていた携帯電話の片割れ。対になるもう片方は、現在十叶詠子が所持している。
だが着信は詠子からではなかった。ブルー・ブレイカー。片割れの携帯電話以外で、唯一、この携帯と通信できる機械歩兵。
現在、集積した情報から位置が判明した支給品の回収と、零崎の救出に向かっている筈の存在。取り出した携帯の液晶に表示されたその名前をちらと見やってから、佐山はブギーポップに視線を戻す。
嫌なタイミングだ。新たな脅威の出現と、斥候からの報告。良いニュースだとは思えない。
そんな佐山の胸中を見抜いてか、ブギーポップは束縛されたままの姿勢で、気軽ともいえる声音で尋ねてくる。
「出ないのかい?」
「もちろん、出るとも。しかし、その前に新たな世界の敵とやらについて聞いておきたいね。向こうにも伝えたい」
「残念だが、詳しいことは分からない。分かるのはその数くらいだ」
「数?」
思わず聞き返してしまう。残り人数からして、それはどんなに多くても5、6名以上にはならない筈だ。
だが、ブギーポップの強調するかのようなその言葉に、佐山は嫌な予感を覚えた。
ブギーポップが次に浮かんだ時、耳に入ってきたのはそんな言葉だった。夜空を背景に、佐山・御言の顔が目の前にある。
どこかの建物の屋上らしい。地図にあったマンション棟のいずれかだろう。尻の下にざらざらとしたコンクリートの感触があった。
夜だというのに、周囲は妙に明るい。満月の光だけではないだろう。まるで炎のように揺らめく光が周囲を照らしている。さらには下の階層から妙な気配――世界に虚が開いているかのような感覚。
ブギーポップは素早く全身の調子を確認する。奇妙なことに、美姫との戦いで負った怪我はほぼ完治していた。超自然的な力での治癒であることは自明だ。怪我自体は治っているのに、痛みだけが綺麗に残っている。自動的な自分にとっては問題にならないが、宮下藤花には耐えられないだろう。
治療は十中八九、佐山の仲間が行ったと見るべきだ。佐山の後ろに数人の人影が見えるが、見覚えのないものがほとんど。
だが良いことばかりではない。自分はシーツを裂いて作られた即席の拘束帯で体を動かなくされていた。現在の体勢は胡坐に近いが、どうやら特殊な縛り方をされているらしく、どれだけ力を入れても僅かな緩みさえ生まれない。
そんなブギーポップの現状には全く触れず、佐山は挨拶をつづけた。
「おはよう、ブギーポップ君。無傷とはいかなかったようだが、それでも生きていて何よりだ」
「おはよう、佐山君。やあ、少し眠り過ぎていたようだ。今は何時かな?」
「安心したまえ、4:30というのは十分早起きに分類されるだろう――状況的には休憩や話し合いが終わって、今まさに敵を迎え撃つ準備を終えるというところか」
佐山の言葉に、ブギーポップは知覚を広げる――階下の"虚"よりさらに下。地上、マンションの周囲にも何人かが配置されているようだった。
なるほど、とブギーポップは頷く。佐山は戦力の形成に成功したらしい。
「おめでとう、景気が良くて何よりだ。素敵なプレゼントもくれたみたいだしね。他人から何かを貰うの初めてかもしれない」
「おや、図らずも君にとっての初めての人になってしまったか。では気合を入れておいて正解だったな。気に入ってくれれば幸いだ。ヒヒ爺直伝の拘束術でね。その状態からではゴリラでも動けない」
そう言ってふふふと笑う佐山に、ブギーポップもまた涼しげな笑みで応じた。伝える。
「しかし、ぼくの衣装には合わないようだ。これを解いてもらえるかな?」
「無理だね」
予想していた佐山の返答に、ブギーポップは器用に肩をすくめて見せた。
「まあ、それなら最初から縛らないだろうしね――理由は?」
「自明だろう?」
同じく佐山も肩をすくめて返す。
「君が、アマワや神野陰之の仲間だからだ」
紡がれたのは諜報を揶揄するような言葉。だが慌てもせずにブギーポップは首を――振ろうとしたが、側頭部にまでかかった拘束のせいで失敗する。仕方なく、皮肉気に唇を吊り上げるだけに留めた。
「神野陰之にはまだ会っていないがね。アマワは間違いなくぼくの敵だよ?」
「それを客観的に証明できるかね?」
「さて。そもそも完全に客観的な証明なんていうものが、この世界に存在すると思うかい?」
「なるほど、真理だ」
威嚇射撃でもするように屁理屈を交し合って、佐山は苦笑を浮かべた。
「もちろん、君の内通を疑っているわけではないとも。連中と同質の存在、という表現をしたかったわけだ」
それはつまり、
「彼らもぼくのように自動的であるということかい」
「違うかね? アマワも神野陰之もある意味で自動的存在ではあるだろう。問いかけるモノと叶えるモノ――さしずめ君は殺すモノというあたりか。そして、それぞれが己の特性に対し、決して妥協をしない」
アマワは問いかけることをやめないし、神野陰之は叶えることをやめない。同じく、ブギーポップは世界の敵を殺すことを諦めない。
「そしてそれこそが問題だ。君が浮かび上がっているということは、誰かに危害を加えるつもりなのだろうからね」
「この束縛は、十叶詠子を殺されたくないが故、か」
「その通り。加えて言うなら、おそらくカーラ女史も君に狙われる手合いだろう。だが、生憎と君が寝ている間に我々は仲間となった。ついでにいうと、当然の如く私は全会一致でチームを束ねる役割に選出されてね。彼女達を守る義務があるのだよ」
全会一致、の辺りで佐山の背後にいる数人が親指を地面に向けて突き立てたのを、ブギーポップは見逃さなかったが。
「なるほど。けれどその上でぼくを殺してはいない――ぼくに何を期待しているのかな?」
「察しが良くて助かるね」
頷いて、佐山。
「君と交渉する方法を考えていた。一番の問題点は、君に他者の思想を受け入れる余地がないことだ。"自動的な存在"。君は世界の敵を問答無用で抹殺してしまう」
現時点で、十叶詠子とカーラ。ブギーポップに狙われるであろう二人の世界の敵を佐山は抱え込んでいる。
ブギーポップは決して殺意を緩めない。零崎人識のような結末は有り得なかった。
数時間前、佐山とブギーポップが袂を別つ原因になった、どうしようもない平行線。
「だが、思えば実に簡単なことだった。君をどうにもできないのなら、相手へ対処するまでのことだ」
「それはつまり――」
世界の敵を殺すのではない。ただそのまま仲間に取り込むのでもない。では、どうするのか。
佐山の出したであろう答えを予想して、ブギーポップは感心したような、あるいは小馬鹿にしたような、そんな非対称の笑みを浮かべた。
「世界の敵を、世界の敵でなくしてしまおうというわけかい」
「その通り。的外れ、というわけでないだろう? 君は、例えば狂信者のような使命感で世界の敵を狩っているわけではない。敵が敵でなくなればそこまでの筈だ」
「確かにね」
<カウントダウン>の本木三平のように、世界の敵となる可能性を持っていても、それを失ったがゆえに見逃されたケースは存在する。
それを積極的に行おう、などと目論んだのは元の世界では"いつか"の九連内朱巳くらいのものだったし、彼女の計画は失敗に終わったといって良かったが。
「しかし、佐山君。君はあの吸血鬼を改心させることができるのかな?」
「おや、仕留め損なった自覚があったのかね?」
「恥ずかしながら、気付いたのは目が覚めてからだが」
世界の敵を感知する力は未だ制限を受けているが、その制限された現状でなお感じるほど、姫の危険性は高い。
姫。妖姫。美姫。いまや真なる不死者へと回帰した最悪の吸血鬼。
秋せつらの死を契機に、彼女は世界を滅ぼすと決めた。秘められた力が開花したのでも、誰かにそそのかされたのでもない。ただ彼女が"その気"になる。それだけで世界は崩壊するのだ。
ブギーポップがこれまでに出会った中でも、もっともシンプルで強大な世界の敵。
「それを君は御せるというのかい、佐山君」
その敵すら、佐山は取り込むというのか。ブギーポップの質問を受けて、悪役は常の如く自信満々に頷いた。
「うむ――ぶっちゃけ無理だろうね」
「……」
ブギーポップが沈黙する。ただし、その表情に驚愕や呆れ等の感情らしい感情は全く浮かばない。静かに次の言葉を待っている。
佐山は気まずさの欠片も出さずにそれを眺めていたが、やがて諦めたように首を振った。
「同じく自動と枕に付く存在でも、8号君達と比べると恐ろしく味気がないな……円滑なコミュニケーションの為に、誰かツッコミか驚き役を務めてくれても構わないよ?」
振り向いて背後の人影達に声を投げかける佐山。黙殺するように全員が顔を逸らしたが、佐山が微動だにしないのを見て取ると、諦めのような気配が漂う。
いくつかの溜息と小声が聞こえた後、しぶしぶと言った様子で大柄な人影が前に進み出た。
「佐山の馬鹿野郎ー」
「それはただの罵倒だ。人として最もやってはいけないものだぞ出雲くたばれ。――話を戻そう」
ブギーポップに向き直って、佐山が続ける。
「私の用いる方法についてだったか。まずこの島から殺意を奪うという、あの宣言は違えない。方法は少しバリエーションを持たせるがね。さしあたり、君の殺意は見ての通り緊縛で奪った」
指し示された自身の肉体の現状を見て、ブギーポップは唯一自由に動かせる首を傾げて見せた。
「美姫もロープで縛る気かい? それに、十叶詠子や灰色の魔女だって一筋縄じゃいかない世界の敵だぜ? 彼女達を改心させることはできるのかな?」
「ふむ。逆に聞くが」
佐山はさも不思議だという表情を浮かべた。
「どうして改心させなければいけないのかね?」
「彼女達を世界の敵でなくすのだろう?」
「その通りだ。しかし、それが何故彼女たちを改心させるという話に繋がる?」
言いながら、佐山は縛られたブギーポップを見下ろすように首を傾げて見せる。
ブギーポップは思考を巡らせる。世界の敵を、世界の敵でなくす方法。例えば魔法や異形を見る力を封じる、というのは根本的な解決にならない。世界の敵の問題は、その力ではなく方向性にある。大抵はそれを成せる力を一緒に持っている者が多いが、本質的には世界に仇成す"性根"が問題なのだ。
佐山・御言もそれは分かっている筈。死神は真っ直ぐに悪役を見つめ、次の台詞を聞いた。
「信条的に相いれないからと言って相手に改宗を迫るなど、江戸時代の隠れキリシタン狩りと大差ないだろう。いまは多様性を受け入れる時代だよ?」
「ぼくは例外のようだ。なにせ自動的だからね」
「その通り。君は多様性を受け入れられず、排除してしまう。ではどうするか? 実に簡単なことだ。排除できなくしてしまえばいい」
そこで一度言葉を切ると、佐山は胸を張ってこう宣った。
「"君の世界"の敵でなくしてしまえばいいと、そう言っているのだよ」
「それは――」
声を上げようとしたブギーポップを制するように、佐山は右手を挙げた。
「君は世界の敵の敵だ。だが、君の言う『世界』とは何か。私と君、それぞれ出身の世界は違うのだろう。そして私は君という存在をここに来るまで知らなかった――互いの世界(ギア)を滅ぼしあった、概念戦争を経た世界を出身とする私がね」
それが意味することは、ひとつ。
「私の"世界"と君の"世界"は違う。仮に私の世界に<世界の敵>が現れたとしても、異世界から君が助けに来てくれる、なんて御都合主義は起こらない。もしも今この瞬間、君が元の世界に送還されれば、君はわざわざこの世界に取って返してきてまで詠子くん達を殺そうとはしない。違うかね?」
「……さて、ぼくは自動的なのでね。しかし、確かにこれまで<異世界の敵>を殺すために浮かび上がったことはないと言っておこう」
「つまり君の殺意は、同じ世界にいる者相手限定というわけだ。詠子君が君に狙われる理由は、たまたまこの世界で君と出会ってしまったからというだけだとも言える」
ブギーポップの殺意を揶揄するような佐山の言に、死神は肩をすくめて見せた。拘束のせいで、あまり上手くはいかなかったが。
「君がやろうとしていることは分かった。君はぼくが彼女達を殺す前に、彼女たちかぼくを元の世界に送り返そうとしているわけだ」
状況のリセットを図るということだろう。ブギーポップはそう認識した。
この盤上に放り込まれでもしなければ、ブギーポップは十叶詠子と出会うことなど無かったのだから。
「けれど結局のところ、そのアイディアにもひとつ、欠点があるね」
「ほう? 言ってみたまえ」
「美姫の存在だ」
最悪の吸血鬼の名前を死神は口にする。彼が真正面から戦いを挑み、殺し損ねた存在。否、結果だけ見れば返り討ちにされたと言ってもいい。
「確かにぼくはわざわざ異世界の敵を殺しに行ったことはないがね――けれど、あの吸血鬼の方ははそんなルールお構いなしだろう。あれは世界を渡り、そしてその全てを滅茶苦茶にしてしまう。君たちがこの盤上から離脱しても、地獄の底まで追いかけてくるぜ」
何しろ――美姫自身がそうすると決めたのだから。
この盤面に関わったモノを、すべて抹殺すると。
「だろうね……直接戦った君がそう言い、片鱗を見ただけの私でさえそう思うのだから」
ブギーポップの指摘を佐山は受け入れる。ある意味、あの吸血鬼はアマワや神野陰之よりも厄介な存在だ。
不滅の破滅――己の世界を取り巻いた10の異世界の概念さえ叶わぬ領域。文字通りの最悪。
「――そうであるからこそ、対処の方法は真っ先に考えてあるとも」
その最悪を乗り越えると、佐山は宣言した。
「君にも働いて貰おう、ブギーポップ。世界の敵の敵よ。世界を救うための行いだ。まさか拒否はしないだろうね?」
「協力するに吝かではないがね」
死神は完膚なきまでに拘束された全身を示すように揺すってみせる。
その動きを見て、佐山は心得ているとばかりに頷いた。
「いや、その恰好のまま協力してくれれば結構。安心したまえ、ベッドの上から動く必要もない充実の介護サービスを行わせていただこう。今なら子守唄もサービスしようではないか」
「ぼくに働いて欲しいのか、それとも養ってくれるつもりなのか。いったいどっちなんだい?」
「言ったではないか。そのままの状態で働いてもらうと」
『ここまで理解が不足しているとは思わなかった』とでも言いたげに、佐山は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「拘束を解けば君は詠子君やカーラ女史を殺すだろう。だから君に関しては拘束して生けるレーダーとして運用することにした。美姫の位置を時報サービスのように逐次教えてくれたまえ」
「それで、ぼくが素直に教えると思うのかな?」
「教えてくれるだろう? ――なにせ、君は自動的なのだから」
佐山はブギーポップと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「自動的。実に結構ではないか。それは動ける状態ならパフォーマンスを発揮し続けてくれるということだ。どれほどの悪環境だろうが、文句を言わずに動き続ける。当然、『縛られているから協力するのは嫌だ』などとは言わないだろう。腕時計が足首に巻かれたからといって仕事をさぼるかね? NOだよ、ブギーポップ君。私が世界の敵と戦おうとしているのだから、世界の敵の敵たる君はできる範囲で協力するというのが道理というものだ」
「君はかつてぼくと交渉をする、と言っていたが」
ブギーポップは皮肉気に口の端を釣り上げて見せた。
「これが交渉かい? 一方的にそちらの要求だけを通そうとしているようにしかみえないが」
「交渉には様々なやり方がある。それを相手によって使い分けるのは基本だよ。生きる木や鉱物と交渉する時に、人間と同じ方法は使えまい。これは紛れもなく自動的な存在に対する交渉だとも。それに、一方的な要求? 交渉によってもたらされる公平さとは、互いの要求を擦り合わせた結果だよ。一方的と感じるならば、まずは己の不足を恥じたまえ」
それに、と佐山は続けた。
「対価は払うとも。君の――宮下君の肉体の安全は保障しよう。君の怪我を我々が治療したことには気付いているだろう?」
「不足か……なるほど、確かにぼくが美姫を殺せていれば、こんな無様は晒さなかったわけだからね」
ふむ、とブギーポップは呟き、
「分かった。君の交渉を受け入れよう。宮下藤花の肉体を保全する代わりに、ぼくを探知機代わりに使いたいと、そういうことだね?」
「うむ。我ながら実に明朗な取引だ」
「では早速、その契約を履行して貰いたい」
「? どういうことかね?」
ブギーポップの要求に、佐山が首を傾げる。
「この世界に囚われてから、参加者は常に命の危機に晒されているだろう? "君たちと同じように"、その危機を取り払った状態にしてもらいたい」
ブギーポップのそんなセリフに、僅かに佐山は目を見張った。それは、自身が握っている切り札の内の一枚であったからだ。
佐山は自身の左腕――そこに捺された刻印を、服の上から撫でつけた。
「……気付いていたのか。なんとも頼りになる超感覚だ。具体的にどうやって探知したのか教えて欲しいものだが」
「何度も言うが、ぼくは自動的なのでね。必要なことを知っているだけさ。今の状態では、その機能も怪しいものだが」
嘯くブギーポップに対し、佐山は足元に置いておいた"解除装置"を取り上げる。シーツでグルグル巻きにした、長さ20センチほどの棒状。非倫理的な、冒涜を布で包んだに等しい代物だが、生き残るためにはどうしても必要なものでもあった。
もったいぶる必要はない。どの道、宮下藤花の肉体に用いることは決定事項だった。厄介な二重人格に取りつかれているとはいえ、彼女に罪は無いのだから。
だが佐山がその封を解こうとする寸前、ブギーポップの表情が奇妙に歪んだ。左右非対称の表情。感心しているような、あるいは苦虫を噛み潰しているかのような。
「どうかしたかね?」
「……早速、仕事をする羽目になるとはね。新たな世界の敵が現れた。それも、複数同時にだ」
「美姫ではない?」
「ああ。彼女もその敵の近くにいるようだが」
ブギーポップからの報告に、佐山は眉をひそめる。
第四回放送の時点で残りの生存者は32名。
そこから知る限りの死者数を引いて、現在の生き残りは多くても20名強というところだろう。その内、14名が自身の属する陣営に組している。
(つまり残り数名の参加者の中から、新たな世界の敵が、それも複数現れたということになるが……)
世界の敵――ブギーポップが言うその存在の意味を、佐山は完全に理解してはいない。むしろ、ブギーポップ以外にそれを理解できる者などいないだろう。
だがそれが文字通りに世界の敵になり得る存在なのだ、ということは理解していた。
そんな物騒な存在が、残り少ない参加者の中から新たに複数誕生した?
その可能性が如何ほどかということについて思慮を巡らせる傍ら、ポケットから小刻みな振動が伝わった。折原臨也の持っていた携帯電話の片割れ。対になるもう片方は、現在十叶詠子が所持している。
だが着信は詠子からではなかった。ブルー・ブレイカー。片割れの携帯電話以外で、唯一、この携帯と通信できる機械歩兵。
現在、集積した情報から位置が判明した支給品の回収と、零崎の救出に向かっている筈の存在。取り出した携帯の液晶に表示されたその名前をちらと見やってから、佐山はブギーポップに視線を戻す。
嫌なタイミングだ。新たな脅威の出現と、斥候からの報告。良いニュースだとは思えない。
そんな佐山の胸中を見抜いてか、ブギーポップは束縛されたままの姿勢で、気軽ともいえる声音で尋ねてくる。
「出ないのかい?」
「もちろん、出るとも。しかし、その前に新たな世界の敵とやらについて聞いておきたいね。向こうにも伝えたい」
「残念だが、詳しいことは分からない。分かるのはその数くらいだ」
「数?」
思わず聞き返してしまう。残り人数からして、それはどんなに多くても5、6名以上にはならない筈だ。
だが、ブギーポップの強調するかのようなその言葉に、佐山は嫌な予感を覚えた。
◇◇◇
零崎人識が自動歩兵に運搬されていたその時、クリーオウ・エバーラスティンはアラストールの篝火が燃え盛るマンションの1階ロビーで待機していた。
同盟は成立し、美姫に対する"策"も示された。全員が納得したうえで、いまはこうして吸血鬼の襲撃を待ち構えている。
(分かっては、いたけれど)
周囲を見やる。明かりはついておらず、非常灯の灯りだけが薄く建物内の光景を浮かび上がらせていた。
クリーオウにとって、この島で見かける電気仕掛けの灯りはほとんど馴染みのないものだ。いまでも明かりをつけようと思えば壁のどこかに埋まっているスイッチより、まずマッチを探してしまいそうになる。
もっとも、灯りを落としているように言われたので、スイッチの位置を覚えていても触れるわけにはいかなかったが。
(私は、役立たずだよね)
マンションの周囲、ならびに屋上には戦闘を得意とする面子が集められていた。この場にいるのは、それ以外。つまり、戦闘の為の技能を持たない者達だ。
そもそも戦闘になる可能性は低い、と佐山は言っていた。まともな戦闘になれば、地力で負けるこちらが敗北する為だ。それに、ここにクリーオウ達がいることも重要な意味を持つのだと。
サヤマ・ミコトと名乗った青年の提案した作戦はどこか魔術めいた要素や単語が多く、クリーオウにその是非は計りかねた。本当に自分がこの場にいることが必要なのか、それとも単に、危ない目に遭わせない為の方便か。
どちらでも、いい。クリーオウは思う。自分は下手に動かない方がいいのだ。クエロやイザヤのことを思えば、それはまさしく自明の理。自分で物事を考えず、他人に判断の全てを委ねるというのは実に甘美な誘いだ。なにしろ責任のことを考えなくても済むのだから。
「それで、決心はついたのかな?」
暗闇の中、いまのクリーオウにとっては甘い匂いを錯覚するほど蠱惑的な声が響く。
ここにいるのはクリーオウ"達"だ――ひとりではない。
その少女は、暗闇の中でも不思議と輪郭を見失わなかった。クリーオウと並んで、壁際のソファに腰掛けている。
十叶詠子とは、ここに来る前に少しだけ話をしていた。
自分を探していたという彼女は、オーフェンとあの白衣の魔術士――コミクロンのことについて知りたいのだといった。直接当人から聞かなかったのは、どうやら嫌われているというのが理由らしい。
いまのクリーオウに他人との会話に興じる余裕はない。それでも知る限りのことを伝えてしまったのは、この硝子細工のような少女の声に込められた力によるものだろうか。それとも彼女が空目の知り合いであったからだろうか。
あるいは単に、クリーオウがあのコミクロンなる人物について知っている情報が少なすぎたからかもしれない。オーフェンが<牙の塔>に所属していた頃の同級生。クリーオウが知っているのはその程度だ。あるいは遠い昔、どこかで出会っていたりするのかもしれないが、記憶になければ会ったことがないのと一緒だった。
だがその一言で、詠子は満足したらしい。しきりに頷いた後で、丁寧にお礼まで言ってくれた。
同時に、クリーオウの"悩み"に対して力になってくれるとも。
「もう一度、聞かせて」
クリーオウは慎重に言葉を胸中で練った上で、舌に乗せた。もう騙されるのも、利用されるのもまっぴらだ。自身に可能な、最大限の警戒を維持する。
対して、詠子はどうということでもない、という風に頷いて見せ、先ほどクリーオウに伝えた内容を繰り返して見せた。
「貴女が救済を願うのなら、それができる友達を紹介してあげる」
「その友達って言うのは――」
「うん、神野さんだよ。『ジグソーパズル』さんから名前は聞いてるんじゃないかな?」
サラ・バーリンが"夜会"から戻った後に書き起こした情報を、空目と共にクリーオウは見ている。
だから知っていた。神野陰之という存在が、この殺し合いを行わせている黒幕のひとりであるということを。
クリーオウの咎めるような視線に、詠子は困ったように微笑んで見せた。
「神野さんは、悪意があってやっているわけじゃないよ。私達が呼吸をするのと同じくらい当然の理屈で、神野さんは強い『願い』に惹かれるだけだから。いまはアマワさんの願いを最優先にしているけれど、私は『お願いの方法』を知ってるから、簡単な手助けくらいはしてくれるんじゃないかな」
詠子はそう言って、手の中の携帯電話を弄んだ。表示されている時刻は4:31。海野千絵が所有していたものを、何かあった時の緊急連絡手段として渡されたのだ。
すでに番号は打ち込まれていて、あとは通話ボタンを押すだけでいい。けれどその番号は、片割れとなる佐山が所持している携帯のものではなかった。詠子が元の世界でよくかけていた番号だ。電話というのは、怪異を招くのに都合がいい道具のひとつである。
だが詠子の言葉に、クリーオウの視線に込められた厳しさは緩まなかった。
「悪意が無くても、人が死んでるじゃない!」
「それは私も残念だと思うよ。私が会えなかった人の中にも『向こう』を受け入れられた人はいた筈だから」
それに、と詠子は続けた。
「その言葉は、貴女自身に向けられたものでもあるよね?」
「……っ!」
魔女の言葉に、吐き出そうとした息を呑む。
悪意無き過失。クリーオウを苛んでいるモノの名称。
「自分を責めることはやめた方がいいよ。貴女は何も悪くないんだから」
「……だから、ジンノって人のことも許すべきだってこと?」
「許す、っていうのとは少し違うかな……悪くないってことに気づいた方がいい、ってことだよ」
「……この島で、たくさんの人が死んじゃった。大切な人が、いなくなった。私も、この島で出会った多くの人に……小さいころから一緒だった、マジクって子を失ってる」
喪失。決して癒せない、永久の傷跡。
その痛みを知っている。だから、同じ痛みを想像も出来る。
「私はジンノって人を許せないし、きっと、私を許せないって人もいると思う。もしもこの島に"もう"いなくても、元の世界には私を――大切な人が失われることになった原因を恨む人が、きっといる」
「……ああ、そっか。それが、貴女を苦しめている裂け目なんだ」
ようやく理解した、という風に魔女は頷く。
そして、告げた。
「そのマジクっていう子は、死んでないよ」
「……え?」
あまりに唐突なその言葉に、怒りも恐怖も心から消え、虚無だけが残る。
その空隙を固定するように、魔女は言葉を挿入した。
「心の中で生きている、とか、そういう観念的な話じゃないよ? 慰めるための嘘でもない。単純に、そのマジクくんっていう子はまだ死んでない」
「で、でも! 放送で呼ばれたのを、私は聞いて――」
「それは私も聞いたし、『二つ目の刀子』さんに伝える為に『法典』君がメモを書いたのも覚えてる」
でもね、と否定を繋げる。
「でもね、死んでいないの。もしも貴女が元の世界に戻ることが出来たら、きっとその子と再会できるよ」
「……貴女は、何を知っているの?」
荒唐無稽な詠子の言葉。だが、ただの虚言というには、その言葉には力があった。
目の前の少女は何かを確信しており、その確信に沿って紡がれた真実なのだと――クリーオウにはそう感じられたのだ。
そして返ってきた魔女の言葉は、単純なものだった。
「心の実在を証明するための、式を」
「!?」
今度こそ、クリーオウの思考は完全に停止した。
心の実在を証明すること。それは黒幕であるアマワが参加者に求めた、全ての鍵となるものではなかったか。
口の中が急速に乾いていく。それまで握っていた物が火のついた爆薬であると唐突に気づいたような心地で、クリーオウはつっかえながらも疑問を発した。
「な、なんでそれ、もっと早く、皆に――」
「確信が持てたのはさっきなんだ。貴女から話を聞いて、それでようやく分かったの。神野さんが、どうしてこんな仕掛けを造ったのか」
「私の、話?」
動きの鈍った思考回路で、懸命にクリーオウは自問する。
彼女に話したのは、コミクロンという黒魔術士の来歴。オーフェンとの関係。その話題が、どう心の証明に繋がるというのか。
対して、詠子は自分の中にある式を意識する。
おそらく、これが正答であったのは間違いない。先ほどクリーオウに告げた、マジクという少年が死んでいないという言葉も、この"答え"によるものだ。
嘘ではなかった。詠子はほとんど確信している。このクリーオウ・エバーラスティンの弟分だったという、マジク・リンなる少年は死んでいない。
そう、死んでいない。その言葉に嘘はない。だけど。
(――きっとその生存を、ほとんどの人は喜べない)
だがそれを言っても仕方ないだろう。事実は事実。変えようがないのなら、あとは受け取り方次第だ。
「う、ううん! それなら、早く伝えないと!」
叫びながら立ち上がって、クリーオウが出口へ向かう。詠子は制止しようか迷った。手の中で携帯電話を弄ぶ。こちらで伝えた方が早い。クリーオウがそれに気づかなかったのは、慌てていたのと、もともと携帯型の通信装置に馴染みがなかったからだろうが。
(……まあ、いいかな)
詠子は伸ばしかけた手を戻した。確信できた今、この答えを佐山・御言に伝える心積もりはある。それがどういう結果をもたらすかは分からないが、彼ならば進むことを止めはしないだろう。吸血鬼への対処が終わった後にするつもりだったが――
そんな風に考えていた詠子の視界の中で、金髪の少女は死んだ。
断末魔も、遺言もない。何故ならクリーオウ・エバーラスティンの上半身は一瞬のうちに消えてしまっていたからだ。
喰い千切れた下半身が、冗談の様にその場に転がる。その動きをしばらく目で追ってから、詠子は入り口のガラス戸を突き破って入ってきた、下手人である黒鮫へ視線を移した。
ゆらりと宙を滑るように泳ぎながら、異形の黒鮫は銜えていたクリーオウの腰から上を大して苦労もせずに飲み込んだ。
生きていない肉には興味がないのか、残された下半身には見向きもしない。あるいは食事よりも殺戮を楽しんでいるのか。
どちらかは分からないが、どちらにしても同じことだった。黒鮫が立ち尽くす魔女へ標的を変える。回頭し、素早く暗闇を掻き分けて突進する。
止める方法はない――目前にまで迫った大顎と牙を見ながら、詠子は独りごちる。
腕力は言わずもがな。魔女の言葉も、あの悪魔には届かない。あれは人という"扉"を介してこちら側へ流れ込んできた力だ。そしてその"扉"の持ち主は、魔女の言葉に耳を傾けるタイプではない。カプセルの悪魔は、魔女すら躊躇わず殺すだろう。肩をすくめて、詠子はため息交じりに呟いた。
「あーあ。残念だった、なぁ――」
異臭が嗅覚を満たす。少女の身体に詰まっていた血液と魚類特有の生臭さ。そして熱――鮫牙の先端が腹腔を犯す感触を感じながら。
十叶詠子もまた、黒鮫の口腔に消えた。
肉を裂く音も、骨を砕く音も聞こえず。
最後には、携帯電話が床に落ちることん、という音だけが残った。
同盟は成立し、美姫に対する"策"も示された。全員が納得したうえで、いまはこうして吸血鬼の襲撃を待ち構えている。
(分かっては、いたけれど)
周囲を見やる。明かりはついておらず、非常灯の灯りだけが薄く建物内の光景を浮かび上がらせていた。
クリーオウにとって、この島で見かける電気仕掛けの灯りはほとんど馴染みのないものだ。いまでも明かりをつけようと思えば壁のどこかに埋まっているスイッチより、まずマッチを探してしまいそうになる。
もっとも、灯りを落としているように言われたので、スイッチの位置を覚えていても触れるわけにはいかなかったが。
(私は、役立たずだよね)
マンションの周囲、ならびに屋上には戦闘を得意とする面子が集められていた。この場にいるのは、それ以外。つまり、戦闘の為の技能を持たない者達だ。
そもそも戦闘になる可能性は低い、と佐山は言っていた。まともな戦闘になれば、地力で負けるこちらが敗北する為だ。それに、ここにクリーオウ達がいることも重要な意味を持つのだと。
サヤマ・ミコトと名乗った青年の提案した作戦はどこか魔術めいた要素や単語が多く、クリーオウにその是非は計りかねた。本当に自分がこの場にいることが必要なのか、それとも単に、危ない目に遭わせない為の方便か。
どちらでも、いい。クリーオウは思う。自分は下手に動かない方がいいのだ。クエロやイザヤのことを思えば、それはまさしく自明の理。自分で物事を考えず、他人に判断の全てを委ねるというのは実に甘美な誘いだ。なにしろ責任のことを考えなくても済むのだから。
「それで、決心はついたのかな?」
暗闇の中、いまのクリーオウにとっては甘い匂いを錯覚するほど蠱惑的な声が響く。
ここにいるのはクリーオウ"達"だ――ひとりではない。
その少女は、暗闇の中でも不思議と輪郭を見失わなかった。クリーオウと並んで、壁際のソファに腰掛けている。
十叶詠子とは、ここに来る前に少しだけ話をしていた。
自分を探していたという彼女は、オーフェンとあの白衣の魔術士――コミクロンのことについて知りたいのだといった。直接当人から聞かなかったのは、どうやら嫌われているというのが理由らしい。
いまのクリーオウに他人との会話に興じる余裕はない。それでも知る限りのことを伝えてしまったのは、この硝子細工のような少女の声に込められた力によるものだろうか。それとも彼女が空目の知り合いであったからだろうか。
あるいは単に、クリーオウがあのコミクロンなる人物について知っている情報が少なすぎたからかもしれない。オーフェンが<牙の塔>に所属していた頃の同級生。クリーオウが知っているのはその程度だ。あるいは遠い昔、どこかで出会っていたりするのかもしれないが、記憶になければ会ったことがないのと一緒だった。
だがその一言で、詠子は満足したらしい。しきりに頷いた後で、丁寧にお礼まで言ってくれた。
同時に、クリーオウの"悩み"に対して力になってくれるとも。
「もう一度、聞かせて」
クリーオウは慎重に言葉を胸中で練った上で、舌に乗せた。もう騙されるのも、利用されるのもまっぴらだ。自身に可能な、最大限の警戒を維持する。
対して、詠子はどうということでもない、という風に頷いて見せ、先ほどクリーオウに伝えた内容を繰り返して見せた。
「貴女が救済を願うのなら、それができる友達を紹介してあげる」
「その友達って言うのは――」
「うん、神野さんだよ。『ジグソーパズル』さんから名前は聞いてるんじゃないかな?」
サラ・バーリンが"夜会"から戻った後に書き起こした情報を、空目と共にクリーオウは見ている。
だから知っていた。神野陰之という存在が、この殺し合いを行わせている黒幕のひとりであるということを。
クリーオウの咎めるような視線に、詠子は困ったように微笑んで見せた。
「神野さんは、悪意があってやっているわけじゃないよ。私達が呼吸をするのと同じくらい当然の理屈で、神野さんは強い『願い』に惹かれるだけだから。いまはアマワさんの願いを最優先にしているけれど、私は『お願いの方法』を知ってるから、簡単な手助けくらいはしてくれるんじゃないかな」
詠子はそう言って、手の中の携帯電話を弄んだ。表示されている時刻は4:31。海野千絵が所有していたものを、何かあった時の緊急連絡手段として渡されたのだ。
すでに番号は打ち込まれていて、あとは通話ボタンを押すだけでいい。けれどその番号は、片割れとなる佐山が所持している携帯のものではなかった。詠子が元の世界でよくかけていた番号だ。電話というのは、怪異を招くのに都合がいい道具のひとつである。
だが詠子の言葉に、クリーオウの視線に込められた厳しさは緩まなかった。
「悪意が無くても、人が死んでるじゃない!」
「それは私も残念だと思うよ。私が会えなかった人の中にも『向こう』を受け入れられた人はいた筈だから」
それに、と詠子は続けた。
「その言葉は、貴女自身に向けられたものでもあるよね?」
「……っ!」
魔女の言葉に、吐き出そうとした息を呑む。
悪意無き過失。クリーオウを苛んでいるモノの名称。
「自分を責めることはやめた方がいいよ。貴女は何も悪くないんだから」
「……だから、ジンノって人のことも許すべきだってこと?」
「許す、っていうのとは少し違うかな……悪くないってことに気づいた方がいい、ってことだよ」
「……この島で、たくさんの人が死んじゃった。大切な人が、いなくなった。私も、この島で出会った多くの人に……小さいころから一緒だった、マジクって子を失ってる」
喪失。決して癒せない、永久の傷跡。
その痛みを知っている。だから、同じ痛みを想像も出来る。
「私はジンノって人を許せないし、きっと、私を許せないって人もいると思う。もしもこの島に"もう"いなくても、元の世界には私を――大切な人が失われることになった原因を恨む人が、きっといる」
「……ああ、そっか。それが、貴女を苦しめている裂け目なんだ」
ようやく理解した、という風に魔女は頷く。
そして、告げた。
「そのマジクっていう子は、死んでないよ」
「……え?」
あまりに唐突なその言葉に、怒りも恐怖も心から消え、虚無だけが残る。
その空隙を固定するように、魔女は言葉を挿入した。
「心の中で生きている、とか、そういう観念的な話じゃないよ? 慰めるための嘘でもない。単純に、そのマジクくんっていう子はまだ死んでない」
「で、でも! 放送で呼ばれたのを、私は聞いて――」
「それは私も聞いたし、『二つ目の刀子』さんに伝える為に『法典』君がメモを書いたのも覚えてる」
でもね、と否定を繋げる。
「でもね、死んでいないの。もしも貴女が元の世界に戻ることが出来たら、きっとその子と再会できるよ」
「……貴女は、何を知っているの?」
荒唐無稽な詠子の言葉。だが、ただの虚言というには、その言葉には力があった。
目の前の少女は何かを確信しており、その確信に沿って紡がれた真実なのだと――クリーオウにはそう感じられたのだ。
そして返ってきた魔女の言葉は、単純なものだった。
「心の実在を証明するための、式を」
「!?」
今度こそ、クリーオウの思考は完全に停止した。
心の実在を証明すること。それは黒幕であるアマワが参加者に求めた、全ての鍵となるものではなかったか。
口の中が急速に乾いていく。それまで握っていた物が火のついた爆薬であると唐突に気づいたような心地で、クリーオウはつっかえながらも疑問を発した。
「な、なんでそれ、もっと早く、皆に――」
「確信が持てたのはさっきなんだ。貴女から話を聞いて、それでようやく分かったの。神野さんが、どうしてこんな仕掛けを造ったのか」
「私の、話?」
動きの鈍った思考回路で、懸命にクリーオウは自問する。
彼女に話したのは、コミクロンという黒魔術士の来歴。オーフェンとの関係。その話題が、どう心の証明に繋がるというのか。
対して、詠子は自分の中にある式を意識する。
おそらく、これが正答であったのは間違いない。先ほどクリーオウに告げた、マジクという少年が死んでいないという言葉も、この"答え"によるものだ。
嘘ではなかった。詠子はほとんど確信している。このクリーオウ・エバーラスティンの弟分だったという、マジク・リンなる少年は死んでいない。
そう、死んでいない。その言葉に嘘はない。だけど。
(――きっとその生存を、ほとんどの人は喜べない)
だがそれを言っても仕方ないだろう。事実は事実。変えようがないのなら、あとは受け取り方次第だ。
「う、ううん! それなら、早く伝えないと!」
叫びながら立ち上がって、クリーオウが出口へ向かう。詠子は制止しようか迷った。手の中で携帯電話を弄ぶ。こちらで伝えた方が早い。クリーオウがそれに気づかなかったのは、慌てていたのと、もともと携帯型の通信装置に馴染みがなかったからだろうが。
(……まあ、いいかな)
詠子は伸ばしかけた手を戻した。確信できた今、この答えを佐山・御言に伝える心積もりはある。それがどういう結果をもたらすかは分からないが、彼ならば進むことを止めはしないだろう。吸血鬼への対処が終わった後にするつもりだったが――
そんな風に考えていた詠子の視界の中で、金髪の少女は死んだ。
断末魔も、遺言もない。何故ならクリーオウ・エバーラスティンの上半身は一瞬のうちに消えてしまっていたからだ。
喰い千切れた下半身が、冗談の様にその場に転がる。その動きをしばらく目で追ってから、詠子は入り口のガラス戸を突き破って入ってきた、下手人である黒鮫へ視線を移した。
ゆらりと宙を滑るように泳ぎながら、異形の黒鮫は銜えていたクリーオウの腰から上を大して苦労もせずに飲み込んだ。
生きていない肉には興味がないのか、残された下半身には見向きもしない。あるいは食事よりも殺戮を楽しんでいるのか。
どちらかは分からないが、どちらにしても同じことだった。黒鮫が立ち尽くす魔女へ標的を変える。回頭し、素早く暗闇を掻き分けて突進する。
止める方法はない――目前にまで迫った大顎と牙を見ながら、詠子は独りごちる。
腕力は言わずもがな。魔女の言葉も、あの悪魔には届かない。あれは人という"扉"を介してこちら側へ流れ込んできた力だ。そしてその"扉"の持ち主は、魔女の言葉に耳を傾けるタイプではない。カプセルの悪魔は、魔女すら躊躇わず殺すだろう。肩をすくめて、詠子はため息交じりに呟いた。
「あーあ。残念だった、なぁ――」
異臭が嗅覚を満たす。少女の身体に詰まっていた血液と魚類特有の生臭さ。そして熱――鮫牙の先端が腹腔を犯す感触を感じながら。
十叶詠子もまた、黒鮫の口腔に消えた。
肉を裂く音も、骨を砕く音も聞こえず。
最後には、携帯電話が床に落ちることん、という音だけが残った。
◇◇◇
森の中から飛び出してきた白鮫に、蒼い殺戮者は余裕で対応して見せた。
刻印が解除された為、各種センサ類も復帰している。異形が木立から顔を覗かせた瞬間、すでに回避行動に移っていた。木の海から飛び出し、急上昇してきた白鮫を危なげなく避ける。
「うおっ! こんな早くフラグ消化しなくてもいいだろうがよ!」
半メートル先を通過する生きた砲弾。それに対する零崎の罵倒を聞き流しながら、しかしBBの胸中に疑問が浮かんだ。
探知系が復帰したことで、相手のデータも数値化が容易になっている。数分前に遭遇した二匹の鮫に関しても、それは同じだったが。
(――速度が上がっている? 巨大化もしているようだ。この短時間で何があった?)
訝しむ蒼い殺戮者。だがいつまでもそうしてはいられない。
下から抜け、白鮫は上空へ昇った。宙を泳ぐという異能故か、どうやら重力の影響を受けないらしく、速度の低下は見られない。
これは空戦において恐るべきアドバンテージだった。自動歩兵も含めた航空機の機動は運動エネルギーと位置エネルギーの総和――エネルギー保存則に縛られる。要は高度と速度を稼いだ方が有利になるという程度の意味合いだが、相手はその法則に縛られずに宙を泳ぐというのだから。
本来の速力を発揮できるなら、それでも勝利できる目算があった。だが、零崎を抱えたこの状況では――
レッドアラート。
センサーが警告を発する。先ほどすれ違った白鮫が旋回し、背部上方から接近。こちらの主スラスターに噛みつこうとしていた。
こちらを押し潰すように降下してきた白鮫を避ける為、自動歩兵は急下降して速度を上げた。
こうして咄嗟に位置エネルギーを運動エネルギーに変換できるのが高度を取る強みだ。だが当然、エネルギーの総量は変わらない為、何度も使える手ではない。位置エネルギーを全て使い果たした時というのは墜落を意味するからだ。
白鮫は自動歩兵が通り過ぎた空間を素通りすると、再び上昇に転じた。速度を殺すことなくだ。その動きを感知しながら、蒼い殺戮者は呟く。
「不味いな」
「ああ、食えたもんじゃなさそうだよな、あの鮫」
「このままでは佐山たちの元まで辿り着けん。黒い方の鮫が来たらそれで詰みだ」
「他の殺気は感じねえぜ? 先行してたりするんじゃねえの」
「不確定要素は常に考慮すべきだ。とはいえ、対応は難しいが」
蒼い殺戮者は、手にしていたPSG-1を投げ捨てた。狙撃銃は地上へと落下。この速度と高度では無事ではないだろうが、どの道リロードも難しい上、あの鮫相手には碌に通用もしない。役立たずだ。
代わりにムキチが宿ったロッドを兵装スロットから展開する。ロッド自体はその辺の木をコミクロンとかいう魔術士が何やら狂喜乱舞しながら成形・圧縮加工しただけのものだが、ムキチが宿っている以上、概念核兵器と呼んで差し支えない性能を持っている。しかし、
「おい、それで勝てるのかよ?」
「分が悪い。敵の牙がこちらの装甲を貫けるかは未知数だが、体当たりされただけでも飛行ベクトルを制御しきれなくなる」
ロッドから水が吹き出し、水刃が形成される。これを突き刺せば相手の体温を奪い尽くして行動不能に出来るかもしれないが、空中で文字通りの格闘戦を行うというのはかなり無謀だ。ブルー・ブレイカーⅡとの交戦時に一度行ったが、あれは破損覚悟の大博打だった。この島で万全の整備と修理は期待できない。おまけに現在は想定外の荷重を積んでいる為、成功したところで姿勢回復する前に墜落する危険性が高かった。
ふうん、と零崎は呟くと、ちらり、と一緒に抱えられているバックパックへ視線を這わせ、
「ああ、これでいいか」
むんずと、バックパックから突き出ている長刀の柄を握った。
何となく目立っていて目についたから、という理由で選んだだけだったが、その武器は零崎とはある意味で因縁深いものだ。
贄殿遮那。コミクロンの空間爆砕により出来たクレーターの中心から、蒼い殺戮者が回収してきた一品。
零崎の救出、生存者への呼びかけの他に、この自動歩兵に任された仕事――出来る限り武器装備を回収すること。佐山や火乃香たちが持っていた情報を統合し、戦闘跡などの捜索を行った結果だった。
「なんか見覚えがある気がするが――まあいいや。正直言うとナイフの方が好みなんだが、相手があのデカブツじゃあな」
「何をする気だ?」
「このままじゃヤバいんだろ? ネズミよろしく、沈みゆく船から逃げ出そうと思って」
悪びれる様子もなく、逃亡宣言をする零崎。
自動歩兵が何かを言う前に、「おおっと」と制止するように手のひらを突きつける。
「そっちにとっても悪い話じゃない筈だ。俺を抱えてると上手く飛べねえんだろ? まあバックパックも邪魔なんだろうが、俺と違って息してない分マシと見たぜ」
「――否定はしないが」
「なら、なるべく高度と速度を落として森の上を飛んでくれ。20mくらいなら無傷で着地できる自信はあるからよ。運が良ければマンションで合流しようぜ」
零崎の言葉を、蒼い殺戮者は吟味する。
少年の見通しは概ね正しいものだ。このままではジリ貧。対して、零崎をこの場で投棄すれば鮫を振り切ってマンションまで飛べる。
井戸の中に長時間放置されていた零崎のコンディションは不安要素だったが、速度を調整して白鮫をこちらに引きつけておけば――
「……了解した。次の交差の直後に動く」
繰り返される白鮫の突進。それを蒼い殺戮者は再び下降に転じることでタイミングを外し回避する。
地上まで15m。零崎の自己申告を信じるなら、ここで降下させて大丈夫な筈だ。スラスタを逆噴射。急制動を掛け、速度を限界まで落とす。
「白鮫の再攻撃まで6秒。空気抵抗を考えなければ、自然落下で地上までは2秒弱だ」
「こううんを ぜろざき」
「ああ、お前らもな」
短い別れの言葉。長刀を手にした零崎は鋼鉄の腕から飛び出し、宙に身を躍らせた。
超人的なバランス感覚で体勢を維持しながら、眼下に迫る木々の群れを見やる。適当に飛び降りれば木はクッションになるどころか槍に変じるだろうが、零崎の名は伊達ではない。その空間把握能力は落下コースを完全に予測し、動体視力は枝の一本一本を認識していた。体を枝の間に滑り込ませ、受け身を取って衝撃を散らすことができればこの高度でも怪我ひとつ負わず着地できる。
だが零崎の感覚が、唐突に生まれた殺気を捉えた。
「――げ」
黒い森の海から飛び出し、姿を現したのは見覚えのある黒鮫である。零崎の落下コースの先、ほとんど足元から出現してきた。
飛び降りる前、確かにその殺気は存在しなかった筈だが。
(あいつが着いてきてんのか? いや、あのロボのスピードに人間が追いつけるとは思えねえから……なるほど、遠距離操作型か!?)
自分を井戸から引っ張り上げた甲斐氷太の姿を脳裏に描く。あのモノクロ二匹の鮫を操るチンピラは未だに自分を狙っているのだろうか。悪魔とやらはさっぱり呼び出せないのだが。
だが黒鮫はそんな事情には頓着せず、空中で身動きのできない零崎へ牙を突き立てようと、その大口をがばりと開く。
「くそっ、いまだに二段ジャンプは体得できてねえ――まあんなこと出来んのは人類最強くらいだろうが」
諦めたように首を振って、零崎は無駄な抵抗はせず、そのまま鮫の口腔に両足を滑り込ませた。ナイフの様に鋭くとがった歯に足の肉を裂かれないよう、膝を曲げて口の中央に体がくるよう調整する。
だが黒鮫は食事に時間をかけるつもりはないようだ。腿の辺りまで呑みこんだところで、獲物を食い千切るために顎を閉じようとしてくる。
その刹那、零崎は腕を一閃した。
贄殿遮那の恐るべき切れ味は、碌に抵抗も伝えてこない。鮫が閉じようとしていた咢が横一文字に断ち切られる。それだけでは終わらない。刃の長大さから、鮫の体長の3分の1ほどまでが切断された。
驚愕すべきことに、そんな状態になっても鮫はまだ生きていた。苦しむように尾鰭をばたつかせている。あるいは、身体をくねらせて零崎を飲み込もうとしているのか。だが閉口筋を全て断ち切られている以上、零崎の身体に牙を突き立てることはもはや叶わない。
「零崎クッキング、鮫の二枚おろしだ――いや、本当は横じゃなくて縦に捌くってのは知ってるぜ?」
呟いて、零崎は鮫の上顎を蹴りつけるように、体内に突っ込んでいた足を大きく開いた。加えられた負荷は、当然もっとも弱い部分――"切れ口"に集中する。みちみちと嫌な音が響き、刀傷が延長していくように肉が裂けた。
落下の風を頬と髪に感じながら、零崎はほとんど真っ二つになった黒鮫に"乗った"。それこそサーフボードで波乗りをするように、足の下に構えた死体で迫りくる枝の洗礼をやり過ごそうとする。当初は刀で刈るつもりだったのだが、狙撃銃の弾丸すら通さないこの鮫の外皮があれば十分だと判断した。
"盾"による空気抵抗で多少減速したのだろうが、それを実感するまでには至らない。木の幹に衝突することを避けようと、零崎はバランスを取るために両腕を左右に広げ、
「あ?」
その腕を捉えられ、空中に縫い付けられた。
自動歩兵が腕を掴んだ――のではない。鋼鉄の手よりもさらに剣呑なものが、零崎の右の二の腕を捉えている。
それは"二匹目の黒鮫"だった。
空間から染み出すように出現したそれが、零崎人識の肉に牙を突き立てる。足蹴にしていた1匹目の黒鮫の残骸だけが、零崎を置き去りに森へ落下していった。
「ぐ……!」
腕から伝わる激痛に苦鳴を漏らしながら、零崎は上空を見やる。最初に襲撃してきた白鮫は消えることもなく、未だ蒼い自動歩兵を追撃していた。
(三匹目……!? んな隠し玉を持ってやがったのか!)
牙がさらに食い込み、骨にまで達するのを感じる。鮮血が穴だらけになった腕から幾条も零れ出した。こちらの腕はもう使い物になるまい。
「がぁっ!」
激痛に顔を歪めながら零崎は左腕を伸ばし、刀を持ち替えた。無事な方の腕で振るい、自らに喰らいつく鮫を排除する。
その寸前に、振ろうとしていた贄殿遮那が、左手首ごと宙を舞った。
四匹目――あるいは二匹目の白鮫。水面から飛び出すように、空間から唐突に出現したそれが零崎の左手をすれ違いざま食い千切って行く。
鮫の軌跡を追うように虚空に流れる鮮血が、月明かりを受けて赤黒く揺らめいた。どこか幻想めいた光景。
その薄く透けた赤色の向こう側に、無数の鮫群が生まれようとしている地獄を、零崎の瞳は映した。
空間を――否、この世界全体を満たすような殺気が広がっていく。
殺意を可視とする零崎一賊だからこそ、その正確な数を無意識の内に捉えてしまう。
刻印が解除された為、各種センサ類も復帰している。異形が木立から顔を覗かせた瞬間、すでに回避行動に移っていた。木の海から飛び出し、急上昇してきた白鮫を危なげなく避ける。
「うおっ! こんな早くフラグ消化しなくてもいいだろうがよ!」
半メートル先を通過する生きた砲弾。それに対する零崎の罵倒を聞き流しながら、しかしBBの胸中に疑問が浮かんだ。
探知系が復帰したことで、相手のデータも数値化が容易になっている。数分前に遭遇した二匹の鮫に関しても、それは同じだったが。
(――速度が上がっている? 巨大化もしているようだ。この短時間で何があった?)
訝しむ蒼い殺戮者。だがいつまでもそうしてはいられない。
下から抜け、白鮫は上空へ昇った。宙を泳ぐという異能故か、どうやら重力の影響を受けないらしく、速度の低下は見られない。
これは空戦において恐るべきアドバンテージだった。自動歩兵も含めた航空機の機動は運動エネルギーと位置エネルギーの総和――エネルギー保存則に縛られる。要は高度と速度を稼いだ方が有利になるという程度の意味合いだが、相手はその法則に縛られずに宙を泳ぐというのだから。
本来の速力を発揮できるなら、それでも勝利できる目算があった。だが、零崎を抱えたこの状況では――
レッドアラート。
センサーが警告を発する。先ほどすれ違った白鮫が旋回し、背部上方から接近。こちらの主スラスターに噛みつこうとしていた。
こちらを押し潰すように降下してきた白鮫を避ける為、自動歩兵は急下降して速度を上げた。
こうして咄嗟に位置エネルギーを運動エネルギーに変換できるのが高度を取る強みだ。だが当然、エネルギーの総量は変わらない為、何度も使える手ではない。位置エネルギーを全て使い果たした時というのは墜落を意味するからだ。
白鮫は自動歩兵が通り過ぎた空間を素通りすると、再び上昇に転じた。速度を殺すことなくだ。その動きを感知しながら、蒼い殺戮者は呟く。
「不味いな」
「ああ、食えたもんじゃなさそうだよな、あの鮫」
「このままでは佐山たちの元まで辿り着けん。黒い方の鮫が来たらそれで詰みだ」
「他の殺気は感じねえぜ? 先行してたりするんじゃねえの」
「不確定要素は常に考慮すべきだ。とはいえ、対応は難しいが」
蒼い殺戮者は、手にしていたPSG-1を投げ捨てた。狙撃銃は地上へと落下。この速度と高度では無事ではないだろうが、どの道リロードも難しい上、あの鮫相手には碌に通用もしない。役立たずだ。
代わりにムキチが宿ったロッドを兵装スロットから展開する。ロッド自体はその辺の木をコミクロンとかいう魔術士が何やら狂喜乱舞しながら成形・圧縮加工しただけのものだが、ムキチが宿っている以上、概念核兵器と呼んで差し支えない性能を持っている。しかし、
「おい、それで勝てるのかよ?」
「分が悪い。敵の牙がこちらの装甲を貫けるかは未知数だが、体当たりされただけでも飛行ベクトルを制御しきれなくなる」
ロッドから水が吹き出し、水刃が形成される。これを突き刺せば相手の体温を奪い尽くして行動不能に出来るかもしれないが、空中で文字通りの格闘戦を行うというのはかなり無謀だ。ブルー・ブレイカーⅡとの交戦時に一度行ったが、あれは破損覚悟の大博打だった。この島で万全の整備と修理は期待できない。おまけに現在は想定外の荷重を積んでいる為、成功したところで姿勢回復する前に墜落する危険性が高かった。
ふうん、と零崎は呟くと、ちらり、と一緒に抱えられているバックパックへ視線を這わせ、
「ああ、これでいいか」
むんずと、バックパックから突き出ている長刀の柄を握った。
何となく目立っていて目についたから、という理由で選んだだけだったが、その武器は零崎とはある意味で因縁深いものだ。
贄殿遮那。コミクロンの空間爆砕により出来たクレーターの中心から、蒼い殺戮者が回収してきた一品。
零崎の救出、生存者への呼びかけの他に、この自動歩兵に任された仕事――出来る限り武器装備を回収すること。佐山や火乃香たちが持っていた情報を統合し、戦闘跡などの捜索を行った結果だった。
「なんか見覚えがある気がするが――まあいいや。正直言うとナイフの方が好みなんだが、相手があのデカブツじゃあな」
「何をする気だ?」
「このままじゃヤバいんだろ? ネズミよろしく、沈みゆく船から逃げ出そうと思って」
悪びれる様子もなく、逃亡宣言をする零崎。
自動歩兵が何かを言う前に、「おおっと」と制止するように手のひらを突きつける。
「そっちにとっても悪い話じゃない筈だ。俺を抱えてると上手く飛べねえんだろ? まあバックパックも邪魔なんだろうが、俺と違って息してない分マシと見たぜ」
「――否定はしないが」
「なら、なるべく高度と速度を落として森の上を飛んでくれ。20mくらいなら無傷で着地できる自信はあるからよ。運が良ければマンションで合流しようぜ」
零崎の言葉を、蒼い殺戮者は吟味する。
少年の見通しは概ね正しいものだ。このままではジリ貧。対して、零崎をこの場で投棄すれば鮫を振り切ってマンションまで飛べる。
井戸の中に長時間放置されていた零崎のコンディションは不安要素だったが、速度を調整して白鮫をこちらに引きつけておけば――
「……了解した。次の交差の直後に動く」
繰り返される白鮫の突進。それを蒼い殺戮者は再び下降に転じることでタイミングを外し回避する。
地上まで15m。零崎の自己申告を信じるなら、ここで降下させて大丈夫な筈だ。スラスタを逆噴射。急制動を掛け、速度を限界まで落とす。
「白鮫の再攻撃まで6秒。空気抵抗を考えなければ、自然落下で地上までは2秒弱だ」
「こううんを ぜろざき」
「ああ、お前らもな」
短い別れの言葉。長刀を手にした零崎は鋼鉄の腕から飛び出し、宙に身を躍らせた。
超人的なバランス感覚で体勢を維持しながら、眼下に迫る木々の群れを見やる。適当に飛び降りれば木はクッションになるどころか槍に変じるだろうが、零崎の名は伊達ではない。その空間把握能力は落下コースを完全に予測し、動体視力は枝の一本一本を認識していた。体を枝の間に滑り込ませ、受け身を取って衝撃を散らすことができればこの高度でも怪我ひとつ負わず着地できる。
だが零崎の感覚が、唐突に生まれた殺気を捉えた。
「――げ」
黒い森の海から飛び出し、姿を現したのは見覚えのある黒鮫である。零崎の落下コースの先、ほとんど足元から出現してきた。
飛び降りる前、確かにその殺気は存在しなかった筈だが。
(あいつが着いてきてんのか? いや、あのロボのスピードに人間が追いつけるとは思えねえから……なるほど、遠距離操作型か!?)
自分を井戸から引っ張り上げた甲斐氷太の姿を脳裏に描く。あのモノクロ二匹の鮫を操るチンピラは未だに自分を狙っているのだろうか。悪魔とやらはさっぱり呼び出せないのだが。
だが黒鮫はそんな事情には頓着せず、空中で身動きのできない零崎へ牙を突き立てようと、その大口をがばりと開く。
「くそっ、いまだに二段ジャンプは体得できてねえ――まあんなこと出来んのは人類最強くらいだろうが」
諦めたように首を振って、零崎は無駄な抵抗はせず、そのまま鮫の口腔に両足を滑り込ませた。ナイフの様に鋭くとがった歯に足の肉を裂かれないよう、膝を曲げて口の中央に体がくるよう調整する。
だが黒鮫は食事に時間をかけるつもりはないようだ。腿の辺りまで呑みこんだところで、獲物を食い千切るために顎を閉じようとしてくる。
その刹那、零崎は腕を一閃した。
贄殿遮那の恐るべき切れ味は、碌に抵抗も伝えてこない。鮫が閉じようとしていた咢が横一文字に断ち切られる。それだけでは終わらない。刃の長大さから、鮫の体長の3分の1ほどまでが切断された。
驚愕すべきことに、そんな状態になっても鮫はまだ生きていた。苦しむように尾鰭をばたつかせている。あるいは、身体をくねらせて零崎を飲み込もうとしているのか。だが閉口筋を全て断ち切られている以上、零崎の身体に牙を突き立てることはもはや叶わない。
「零崎クッキング、鮫の二枚おろしだ――いや、本当は横じゃなくて縦に捌くってのは知ってるぜ?」
呟いて、零崎は鮫の上顎を蹴りつけるように、体内に突っ込んでいた足を大きく開いた。加えられた負荷は、当然もっとも弱い部分――"切れ口"に集中する。みちみちと嫌な音が響き、刀傷が延長していくように肉が裂けた。
落下の風を頬と髪に感じながら、零崎はほとんど真っ二つになった黒鮫に"乗った"。それこそサーフボードで波乗りをするように、足の下に構えた死体で迫りくる枝の洗礼をやり過ごそうとする。当初は刀で刈るつもりだったのだが、狙撃銃の弾丸すら通さないこの鮫の外皮があれば十分だと判断した。
"盾"による空気抵抗で多少減速したのだろうが、それを実感するまでには至らない。木の幹に衝突することを避けようと、零崎はバランスを取るために両腕を左右に広げ、
「あ?」
その腕を捉えられ、空中に縫い付けられた。
自動歩兵が腕を掴んだ――のではない。鋼鉄の手よりもさらに剣呑なものが、零崎の右の二の腕を捉えている。
それは"二匹目の黒鮫"だった。
空間から染み出すように出現したそれが、零崎人識の肉に牙を突き立てる。足蹴にしていた1匹目の黒鮫の残骸だけが、零崎を置き去りに森へ落下していった。
「ぐ……!」
腕から伝わる激痛に苦鳴を漏らしながら、零崎は上空を見やる。最初に襲撃してきた白鮫は消えることもなく、未だ蒼い自動歩兵を追撃していた。
(三匹目……!? んな隠し玉を持ってやがったのか!)
牙がさらに食い込み、骨にまで達するのを感じる。鮮血が穴だらけになった腕から幾条も零れ出した。こちらの腕はもう使い物になるまい。
「がぁっ!」
激痛に顔を歪めながら零崎は左腕を伸ばし、刀を持ち替えた。無事な方の腕で振るい、自らに喰らいつく鮫を排除する。
その寸前に、振ろうとしていた贄殿遮那が、左手首ごと宙を舞った。
四匹目――あるいは二匹目の白鮫。水面から飛び出すように、空間から唐突に出現したそれが零崎の左手をすれ違いざま食い千切って行く。
鮫の軌跡を追うように虚空に流れる鮮血が、月明かりを受けて赤黒く揺らめいた。どこか幻想めいた光景。
その薄く透けた赤色の向こう側に、無数の鮫群が生まれようとしている地獄を、零崎の瞳は映した。
空間を――否、この世界全体を満たすような殺気が広がっていく。
殺意を可視とする零崎一賊だからこそ、その正確な数を無意識の内に捉えてしまう。
◇◇◇
「――128体。いや、いま256体に増えた」
死神は虚空を睨み、無限に増殖を繰り返す新たな世界の敵の出現を告げた。
死神は虚空を睨み、無限に増殖を繰り返す新たな世界の敵の出現を告げた。
◇◇◇
時は、少しだけ遡る。
ブルー・ブレイカーが零崎を連れて離脱してから数分後。F-2の森林地帯。その中にある僅かに開けた井戸の周囲で、悪魔持ちと殺し屋がしのぎを削り合っていた。
甲斐氷太とクレア・スタンフィールド。意志の手綱で二匹の悪魔を繰り、それをただの二刀を以て迎え撃つ超常と人間の戦い――
否。
常から外れているということであれば、殺し屋もまた間違いなく超常の側に属するものだった。
「だんだん分かってきたが」
殺し屋の唇から洩れる呟き。そこには焦りも恐怖もない。宙を自在に泳ぎ回る怪物を前にしても、その体の動きにはミリ単位の狂いも遅延も生まれなかった。
正面から突進してくる黒鮫をまるで人ごみでも縫うように回避しながら、クレアは笑う。
「空中を泳げるとは言え、鮫は鮫だな。動きは魚そのものだ。後退ができないから、回避されると次の攻撃に移るまでに時間がかかる。他に芸はないのか? 竜巻を起こすとか、タコ足が生えるとか」
「うるせえよ!」
敵の軽口に苛立ちを重ねながら、甲斐はさらに鋭く悪魔を指揮した。
黒鮫はフェイク。黒鮫の巨体を隠れ蓑にして突撃させた白鮫が本命。無音で泳ぐ異形の鮫が、気づいた時には牙の射程にまで近づいている。
相手から見れば、一撃を避けたところにいきなり追撃が来たようなものだ。
「遅い」
だがクレアはその場を一歩も動かなかった。僅かに身体を捻り、白鮫をすり抜ける。のみならず、すれ違いざまに肘打ちを鮫の側頭部に叩き込んできた。
「ぐっ……!」
甲斐の表情が歪む。人間の膂力とは思えないほどの一撃だったが、甲斐の悪魔とて尋常でない防御力を有している。フィードバックしてくる痛みは大したものではない。反撃された白鮫とてさしたる痛痒も見せず、次の攻撃態勢に移っている。
蓄積しているのはダメージではなく苛立ちだった。黒鮫と白鮫は絶え間なく波状攻撃を繰り返しているが、クレアには掠りもしない。それどころか、回避に要する動きがどんどん小さくなっている。
それは、敵が紛れもなく悪魔の攻撃を見切り出していることを意味していた。
「遅い……遅くなってるぜ。コンビネーションも最初から見ると単調だ。スタミナ切れか?」
「糞が……」
甲斐はずきずきと痛むこめかみに手を当てながら、苛立ちを言葉にして吐き出した。
目の前の殺し屋の動きは驚異的だ。数時間前に戦った魔界刑事に勝るとも劣らないだろう。筋力、バランス感覚、空間把握能力、動体視力――全てが超人的。
だが真に脅威的なのはその精神力だ。
初めて悪魔を見ただろうに、怯えも混乱も一切見せない。まるでポーカーで机上のカードと手札を検分するような落ち着きようで、向かい来る異形の力を観察している。
(長期戦は不利だな……くそっ、また頭痛がぶり返してきやがった)
ポケットからさらにカプセルを取り出しながら、脈打つような痛みに顔をしかめる。
魔界刑事と闘った際の疲労やダメージは、まだ抜けきっていない。カプセルの服用を重ねて誤魔化してはいるが、悪魔繰りに影響が出始めている。
対して甲斐は知る由もないが、クレアはここまでほぼダメージを負っていなかった。
そもジャンキーである甲斐と血の滲む努力の末にその身体能力を獲得したクレアでは、体力の上限値に大きな差がある。このまま続ければ、甲斐の敗北は明らかだった。
策が必要だ。凍らせ屋を倒した時のように。
悪魔を繰り出しながら、思考を巡らせる。周囲に利用できそうなものはない。木立の群れと、砕けた井戸。辺りを照らす光源は月明かりのみだが、闇に紛れるには相手の夜目が効きすぎる。
もともと甲斐の悪魔はウィザードの『影』のような、小細工を駆使して戦うようなタイプではない。シンプルで強大。それ故に、その力を受け流してしまえるクレア・スタンフィールドとは相性が悪かった。甲斐氷太が苦戦するような敵など、元の世界では――
そこで記憶を掠めたのは、炎を吐く異形の蛇との戦いだった。
"始末屋"ベリアル。甲斐が戦った中でも三指に入るであろう悪魔持ち。
あの時は、初めてツーパターン目を出すことで敵の不意を突いたのだ。
甲斐は目の前で2匹の鮫の猛攻を捌き続けている赤毛を観察する。
敵は完全に鮫の動きに対応していた。やろうと思えば、今にでも悪魔をすり抜けてこちらを殺すことも可能だろう。それをしないのは、こちらの底を探っているから。逆に言えば、甲斐の悪魔の攻撃は当たりさえすれば有効なはずだ。不意を衝く必要がある。相手の知らない手札を出すことができれば――
(……ひとつだけ、あるな)
思い浮かんだ切り札はその一枚だけ。加えて通用するのは初回限りだろう。殺し屋の底は未だ見えない。対応されれば、もはや甲斐に逆転の可能性はない。
総じて決して分が良いとは言えない、賭けのようなものだったが。
(いいねぇ。悪魔戦はそうでなきゃいけねえ)
自分好みだ。甲斐は壮絶な笑みを浮かべると、ポケットから新たなカプセルを一錠取り出し、奥歯に挟む。さらに続けて行動を起こした。
クレア・スタンフィールドのダンスが止まる。次々に突進を仕掛けていた鮫が退いたのだ。主の元へ戻った怪物は、回遊するように甲斐の頭上5メートルほどを泳ぎ出す。
息切れひとつ見せずに、クレアは相手の動きを見据えた。鮫を戻すのはまだいい。腑に落ちないのはその主の動きだった。僅かに眉間に皺を寄せ、疑問を呟く。
「なんだ、そりゃ?」
甲斐は地面に座り込んでいた。
リラックスするように胡坐をかいて、しかし好戦的な笑みは残したままクレアを見つめている。
「諦めたか? せめて苦しまないようにして欲しいとか?」
「いいや、罠だぜ」
言い切って、甲斐は笑みを浮かべたまま、挑発するように伸びをして見せた。そのまま重心を後ろに移動させ、仰向けに転げそうになったところで手をついて体を支える。まるで上等のソファにでも腰かけたかのような雰囲気。
「見ての通り、お前を油断させて殺すつもりさ。一撃で片を付けてやるよ」
おらこいや、と甲斐は犬猫でも招くようにばしばしと地面を手で叩いて見せた。
人を食うような甲斐の態度に、だがクレアは一瞬たりとも迷わなかった。
「へえ。ただのジャンキーかと思ったが、まるっきり無能ってわけじゃないらしい」
殺し屋は呟きながら、無造作に悪魔使いへ向けて足を進める。彼我の距離が、何の抵抗もなく縮まっていく。20m、15m、10――
(確かに、こいつは何かをやるつもりなんだろう……だが鮫の能力は把握できた)
甲斐の頭上をゆっくりと泳ぐモノクロの鮫を見やる。
クレアは頭の中で計算機を弾く。頭上の怪物がこちらに牙を届かせるのに必要な時間と、自身が地を蹴り、敵の急所に刃を埋め込むのに必要な時間を対比する。
結論――このまま甲斐に近づき、その距離が5m以内に縮まれば鮫は間に合わない。
目の前の少年は、完全に動くことを放棄した体勢になっている。フリではない。筋肉をリラックスさせ、重心を後ろに逸らした上半身の方に置いている。仮にクレアが間合いに入った後に逃げようとしても、それが叶わないことは明白だった。
敵は確かに罠を用意しているのだろう。だがクレアはそれを恐れず、侮らず――自然体のまま飛び込んだ。何が来ても自分ならば対応できる。血の滲むような鍛錬によって裏打ちされた、狂信的とも呼べるほどの自信。
クレア・スタンフィールドの強さの一因は迷わないというところにある。
本来、人間ならば誰しもが行動する前に"これでいいのだろうか?"と無意識のうちに思い悩み、ブレーキをかける。だがクレアにはそうした遅延が一切無い。それが常識外れの速度と精密さを生むのだ。
そして――二人の距離が、5mを切った。
クレアが地を蹴る。ギアは瞬時にローからトップへ。まるで時が飛んだような錯覚すら覚える速度。刹那で5mを0にし、甲斐の脾臓目掛けてナイフを突き出す。
その動きを、甲斐はほとんど見て取ることは出来なかった。遠目に見ていても赤毛の動きは人外染みていたが、ここまで接近されるといよいよ眼で追いきることはできない。
だから、甲斐はクレアの姿がぶれた瞬間に目を閉じた。
回遊する悪魔に攻撃を命じながら、自身の中に深く潜る。悪魔の力の源。そこへ通じる≪ドア≫を見つけ出す為に。
そして葡萄酒と狂犬の王――両者の思惑が交差し、結果を出した。
クレアの突き出したナイフが紅く濡れていた。色彩の正体は甲斐の血液だ。ワインのコルクを抜くように、殺し屋の刃は犠牲者の肉体に穴をあけた。
だが、コルクを抜き切れてはいない。
クレアの反射神経は、目の前で起きた異常を確かに捉えていた。
カプセルを噛み潰す小さな音が響く――クレアの頭上から。
一瞬前まで、確かに地べたに座り込んでいた甲斐氷太の体は、いまや地上2mほどの所に浮かび上がり、静止していた。
否。静止というのは正しい表現ではないだろう。まるで足元から風が吹きあがるかのように、甲斐の髪や服を揺らしている。高所から飛び降り、地面に叩きつけられるまでの一瞬を切り取ったかのよう。
『堕落(クラッシュ)』――それがその現象の名前だ。悪魔持ちが己の悪魔を制御しきれずに起こす暴走を指してそう呼ばれる。
だが甲斐は暴走などしてはいない。はっきりと自我を留めていた。
意図的に『堕落』を起こし、その副次的な効果である"浮遊"を利用するテクニック。かつて始末屋ベリアルが使っていたのを盗み取ったものだ。
クレアのナイフは甲斐の太腿を抉るに留まっていた。相手が急に浮き上がった為に狙いがずれたのだ。血がどくどくと流れ出しているが、致命傷と呼べるかは微妙だろう。放っておけば失血死するかもしれないし、適切に止血すれば生きながらえるかもしれない。
あと一歩踏み込めば心臓を、宙に跳ねれば頸動脈を掻き切ることもできたが、クレアはそれをしなかった。知らぬ現象を前にして、しかし葡萄酒は判断を迷わず――そして誤らなかったのだ。
舌打ちひとつを残して、殺し屋は横っ飛びに跳んだ。僅かに遅れて、上空から凄まじい勢いで降下してきた黒鮫が地面を穿つ。轟音と轟振が耳と足を打った。欲と首をかいていれば、よくて相打ちだっただろう。
「空中浮遊すると鮫の速度が上がる? どういう理屈だファンタジーめ」
轟音とともに地が抉れる様を横目で認めながら、クレアが苦々しく呟く。
『堕落』が引き起こすもの――悪魔へ供給される力の箍が外れること。
二匹の鮫が膨れ上がっていた。皮膚はより強固に、牙はより鋭く、そして宙を打つ尾鰭の力強さはより凶悪に。
当然、代償はある。本当の意味で『堕落』する、ぎりぎりのラインで踏みとどまるというのは決して容易いことではない。
カプセルを追加することで誤魔化してはいるが、傷の痛みは甲斐の集中の妨げになっていた。もとより体調は万全ではない。長くは続けられない。続けるつもりもない。
眼下で黒鮫の一撃を回避した敵の動きを、狂犬の爛れたような視線がしっかりと追っていた。
「貰ったぁ!」
待機させていた白鮫へ甲斐が吶喊を命じる。敵はこの速度を知らない。ましてやこの距離、この連携。回避できる筈はない。
クレアも同じ答えに到達していた。目前に迫る咢を観察しながら、静かに受け入れる。この一撃は回避できない。
(だが俺が負けるはずはない――)
殺し屋は胸中で呟き、ナイフを持った腕に力を込めた。
回避は出来ない――しかし、それは負けを意味しない。
(――こっちも全力は出してないからな)
次の瞬間、白鮫が真っ二つに千切れた。
分断された白い巨体が、甲斐の視界の中をゆっくりと流れていく。痛みの為か、理解を超える現象が起きたからか、時間は奇妙なまでに引き延ばされていた。甲斐の思考が確かに混乱する。殺し屋に、鮫を致命的なまでに害する膂力は無かった筈。ならば、何故――
そこで時間と痛みが意識に追い付いた。
「ギ――ッ!」
この島に来てから最大級のダメージが甲斐にフィードバックする。電流でも流されたかのように、甲斐の体が意に反して痙攣した。咄嗟に『堕落』状態から復帰し、その結果として2mを落下する。激痛と衝撃。背中から落ちた為、肺が強制的に絞られた。息をすべて吐き出し、反動で激しく咳き込む。
明滅する視界の隅で、千切れた鮫の半身が落下する。胴の辺りに強い力を加えられて、無理やり千切られたような傷跡。分かたれた遺骸は地面を一度打った後、霧のように消えた。
気絶しなかったのは、以前にも悪魔を両断された経験があったからか、あるいはあの時とは違い悪魔を2匹従えていたからか。
(何が――起こりやがった!?)
あの殺し屋に、悪魔を真正面から切り裂くような力は無かった筈だ。
何も分からぬまま、甲斐は無我夢中で地面を転がった。方向など定めている余裕はない。止まっていては不味いという思いだけがあった。
突き動かされるように数メートルを転がってから、立ち上がる――否、立ち上がろうとして、腿の激痛に崩れ落ちた。先ほどナイフで刺された傷だ。何か支えがなければ立てそうにない。
そこまで無様をさらして――未だに敵からの追撃がないことに、甲斐はようやく違和感を覚えた。
(……なんだ?)
ようやく状況を確認する余裕が生まれる。傷ついた足を庇うように立膝で体を起こし、周囲の様子を見回す。
殺し屋は10メートルも離れた場所に、こちらと似たような姿勢で片膝を地につけていた。
その左腕がだらりと垂れ下がっている。折れていることは外目から見て取れた。
限界を超える力で腕を振るい、白鮫を断ち切った代償――などという戯言が通るはずもない。それは明らかに外部からの攻撃によるものだった。
とん、と地を叩く音が響く。
宙に舞っていた下手人が着地したのだ。白鮫を両断し、殺し屋の腕を折った下手人が。甲斐の知る顔だった。もっとも数時間前に出会っただけで、名前は知らなかったが。
「よお……ずいぶん美人になったじゃねえか」
地面に転がる小早川奈津子の首を見て、そう呟く。
甲斐の悪魔とクレアのナイフが互いに牙を突き立てようとしたその瞬間、甲斐には気取ることすらできない速さで投げ込まれたこの首が悪魔を両断し、さらには殺し屋の腕をへし折ったということらしい。
否。本来ならば、それは悪魔の次にクレアの体を両断し、さらには甲斐までも穿っただろう。そんな未来が変わったのは、クレア・スタンフィールドという怪物が咄嗟に威力をいなそうとしたからだ。
それほどまでの勢いで投げつけられたというのに顔の判別がつくほど原型を留めているというのは、小早川奈津子という人物の頑健さがもたらしたものか、あるいは――投じた者の規格外さ故か。
空から舞い降りたとでもいうのか。いつの間にか、広場に女が佇んでいた。すらりとした長身を旗袍に包み、長い髪で美貌の半分を覆い隠している。月明かりを受け儚く輝くその姿から、如何なる美術品であっても再現できぬような感動を想起させる、そんな女であった。
姫。数多の名を持つ不死の鬼。多くの者がその隔絶した美しさの虜となり、自ら望んで血を捧げてきた。
(……悪魔か?)
思わずそんな馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。それほどまでに女は現実とは思えぬ美麗さを漂わせていた。汚泥を潜っても汚れることはないのではないか。そんな妄想を抱くほどに。
そんな幻想じみた女は、次の行動をとろうともせずに佇んだままだった。何かを考えているのか、それとも――
次の瞬間、甲斐の胸が弾ける。同時に響くのは、何かが引き千切れるような、どこか破滅を予期させる音。僅かな衝撃が胸を衝き、甲斐の息を荒くさせる。
「っ――……は……」
そのささやかな衝撃で、膝立ちを維持するのが精一杯な体が頼りなくふら付いた。
その体から、ざらざらと地面に零れていくものがある。
カプセルだ。それも、大量の。革ジャンの内ポケットが破れ、そこに仕込んでいたカプセルが零れ落ちていた。
だが――多すぎる。自分が入れていたのはほんの数錠の筈。だというのに、まるでどこか別の世界にでもつながっているかのように、ポケットに入り切る筈もない量のカプセルが足元を埋め尽くす勢いで放出されていた。
(……ああ、そうか)
何とはなしに、理解する。
(あれが終わりだって、そういうことかよ)
『カプセル』はただのドラッグではない。特定の条件下で増殖するという特性を持っている悪魔の一種だ。そういった意味では生きているとさえいえる。
だからカプセルという悪魔は、姫という破滅を前にしてポケットを破裂させるほど増えだしたのだ。己の消滅という未来を拒むために。ある種、種の保存本能にも似た何かに突き動かされるように。
それはかつて自分の黒鮫を両断した光の騎士よりも強靭で。
始まりの悪魔である無慈悲な女王よりも得体が知れない。
目の前にいるのは、そんな破滅の担い手だ。唐突に表れたそれは未だ一言も発してはいないが、垂れ流しの殺気から鏖殺を目的としていることは明白だった。
甲斐が瞬きをする度に、カプセルは倍々に増え続けていく。薬が蔓延っていたころ、葛根市のジャンキーたちが見れば、思わず涎を垂らしかねない光景だろう。
だがDDを束ねた狂犬の王には、それが寒々しく思えてならなかった。カプセルの悪魔による必死の抵抗。
「ざ……っけんな」
唸り声のような呟きを、喉の奥から漏らす。
甲斐氷太という男にとって、悪魔は己の半身と言っても過言ではない存在だった。
悪魔戦はこれ以上ないほどの愉悦を甲斐にもたらしてくれる。フィードバックする激痛すら悦楽の欠片だ。
だから、その悪魔がみじめな抵抗を試みているという目の前の事実に苛立つ。自身にとっての"最高"が貶められたように感じたのだ。
「おい、鮫野郎」
横合いから声が掛けられる。腕を折られた殺し屋が、しかしそれを感じさせない軽い動きで立ち上がった。
クレア・スタンフィールドもまた、目の前の怪物の力量を計り終えている。まさか、出会うことがあるなどとは思っていなかった――自分が敵わない相手になど。
「分かってるだろうが、あれはお前の手に負えるもんじゃない」
「ああ、テメエにもな」
殺し屋と狂犬の視線が交差する。敵意は消えていない。だが向ける方向が変わっていた。
「なら、互いに利用し合うのが得策ってもんだろう?」
「けっ、頭を下げてみやがれってんだ」
会話はそれで終わった。甲斐が自らの胸から零れ落ちるカプセルを一掴みも握りこんで、クレアへ向け投じる。
ろくに狙いもつけられていなかった為、カプセルは散弾の如くばらけたが、逆にそれが良かった。数粒はクレアの手が届く位置にまで到達したからだ。
地面に落ちる前に、クレアはカプセルを摘み取った。そしてその得体のしれない物体を迷うこともなく口に放り込み、噛み潰し、嚥下する。
感じたのはドロリとした内容物の苦みと――続けて臓腑の奥から湧き上がってくるかのような灼熱。
開かれる≪ドア≫の幻視が、クレアの脳裏で弾けた。
「は――」
月明かりに照らされる広場の中で、燃え上がる炎のような光点が新たに二つ灯る。クレア・スタンフィールドの双眸が、その二つ名の如き赤色に染まっていた。
横目でそれを確認した甲斐が、ひゅう、と短く口笛を吹く。
(呼び出しやがった――しかも、こりゃあ)
地面の上を、何かが滑るように移動する。
それは一見、赤い布のようにも見えた。だがよく見れば厚みが完全に存在しない。二次元の存在――薄暗闇の中で甲斐がそれに気付けたのは、よく似た悪魔を知っていたからだ。
自身の影を媒介にした、赤い影の悪魔。それが、クレア・スタンフィールドが呼び出した異形の正体だった。
「影をなぞる化け物か――なるほどな」
なにか納得するようにひとつ頷き、殺し屋は悪魔を繰った。
"赤影"は地面の上を滑るように移動していく。その速度は甲斐の悪魔にも劣っていまい。本家本元の影の悪魔にすら。瞬きをする間に女の足元に辿り着き――クレアは躊躇いなく、今日この時初めて呼び出した悪魔に攻撃を命じる。
悪魔は標的に触れようとはしなかった。ただ円を描くように、姫の周りをぐるりと一周する。
攻めあぐねたのでも、品定めをしたのでもない。それはまさしく、"赤影"の攻撃動作だったのだ。
「ほう――」
女が初めて声を発した。驚愕――というよりは感心だろうか。僅かに片目を見開いて、己の体を俯瞰している。
宙に跳ねた、女の首が。
一撃必殺。殺し屋は迷うことなく初手で斬首を選んだのだ。大概の生命にとって致命となる方法を。
だが一撃では終わらない。斬刑を成し遂げた後も、クレアは攻撃の停止命令を送らなかった。
赤影は女の肉体に触れることをしない。あくまで女の周囲を鋭く動き回るだけだった。だがそれだけで女の肉と骨が抵抗もなく解体されていく。
心臓が貫かれた。四肢は寸断された後にばらばらに刻まれ、胴体は10と2つに分割された。零れ落ちた内臓は全て地面に落ちる前に叩き潰される。肉と血液の混合が撒き散らされていく。
(影……か?)
文字通りの"解体"が続けられる中で、甲斐は赤い影の悪魔の動きを観察していた。無意識の内にその能力を暴こうとしていたのは、無数の悪魔戦をこなしてきたゆえだろう。
殺し屋の悪魔は女の体には触れていない。触れたのは月明かりと女の体が作り出す『影』だ。赤い影が女の影と交差すると、その個所に対応する肉体が切断・圧壊していく。
影を通じて二次元から三次元に干渉する悪魔――そういうことらしい。甲斐の知る悪魔の中にも、他人を操ったり精神を焼いたりする超自然的な能力を持つ個体はいたが、ここまで凶悪な力を持っているものはそういなかった。
やがて解体ショーが終わる。吸血鬼の死体は肉片と呼ぶのもおこがましいほど細かく刻まれ、ほとんど液状と化していた。それを見て甲斐が思い出したのは、いつだったかDDの溜まり場のひとつで誰かがふざけて安物のワインボトルを壁に叩きつけた時の光景だ。不良にありがちな他愛無い示威行為という奴だが、その時の甲斐はアルコールに飢えていたため、割った奴にヘッドロックをかけたことを覚えている。
――それが俗に走馬灯と呼ばれる類のものであると気づいたのは、クレア・スタンフィールドの乾いた声を耳にした時だった。
「死なない奴に会ったのは初めてじゃないが……」
眼前に広がる血溜まりの中から、女の肢体が浮上していた。
地面の上に薄く広がっているだけの赤い液体が、まるで地下にある死者の国にまで続いているような錯覚を覚える。
そこから浮き上がってきた妖姫の身体には汚れひとつなく、確かにばらばらにしたはずの衣装にもほつれどころか血の染みひとつ見られない。
そこにクレア・スタンフィールドの悪魔による渾身の攻撃の成果は、何一つ残っていなかった。
クレアにとって、不死と呼べる相手に遭遇するのはこれが初めてではない。その時は、拷問の末に深いトラウマを刻み込みさえした。
だが――この女怪は、単に死なないだけの人間とは格が違う。
弱点など何一つない、完璧な存在。クレア・スタンフィールドが世界の中心であるというのなら、この吸血鬼は世界そのものだ。
しかしその事実に臆することなく、クレアは再び己の悪魔に攻撃を命じた。
殺せない。痛みで発狂させることもできない。
だが身体を破壊することはできた。ばらばらにし続ければ、少なくともその間は行動不能にできる。
傍に控えていた"影をなぞる悪魔"が、再び凄まじい速度で吸血鬼に突進し――
次の瞬間、美姫の爪先が赤影を捕らえていた。
まるで階段を降りるかのように、姫は何の気取りもなく足を一歩踏み出し、悪魔を踏みつけ――そしてそれだけで全てを終わらせていた。
クレア・スタンフィールドの姿が消えるその瞬間を、甲斐の眼が捉える。
あまりにも静かだった。音も衝撃もない。瞬間移動したのだと言われれば、そう信じてしまったかもしれない――一瞬前まで殺し屋が存在した場所に広がっていく、血溜まりさえ見なければ。
「影を通じて二次元から三次元へ干渉する術など珍しくもない。そして当然、干渉とは完全な一方通行にはならぬもの」
不可視の何かによって、一瞬でスープ状になるまで押しつぶされた男の残骸を視界の端に捉えつつも、甲斐氷太は目の前の化け物を見やる。
殺し屋の悪魔は消えていた。宿主が死ねば、悪魔は消える。そこに疑問は無い。
だがいま女が踏みつけたのは、宿主ではなく悪魔の方だった。たとえ悪魔を踏みつぶしてしまえる膂力の持ち主だったとしても、悪魔の死は宿主の死と繋がらない。悪魔からフィードバックされるダメージは、宿主の精神にのみ反映されるものだ。悪魔が完全に消滅したとしても、それで引き起こされるのは昏睡や記憶喪失であって、宿主の肉体が傷つくということは甲斐の知る限りありえなかった。
勝てない。この怪物は、自分の知らない法則の中にいる――
「だからっ、どうしたってんだ!」
甲斐は未だに増殖を続けるカプセルを両手で掬うように握り込むと、それを圧壊させた。掌に広がるどろりとした内容物を、啜るように喉の奥に流し込む。
歴戦のオーナーならば決してやらない、完全なオーバードーズ。甲斐の頭の奥で幾度も稲妻がスパークする。
もはや頭の中だけではない。甲斐の目には、はっきりと≪ドア≫が見えていた。右手を伸ばす。足の激痛はもはや気にならない。ノブを捩じ切るが如き勢いで回し、開く。
瞬間、甲斐の意識が消し飛んだ。
「ぐ、ぎぃ……!」
ほんの一瞬の意識の空隙。ギリギリで手綱を取り戻したのはただの偶然だ。もはや小手先のテクニックなど通用しない次元に甲斐は踏み込んでいた。
甲斐の足元から風が吹く。上昇気流ではない。それは物体が落下する時に感じる風だ
『堕落』の前兆。のみならず、強大な力は放電現象を引き起こし、甲斐の周囲に球電を形成し始めていた。
≪ドア≫の向こうから引き出し、発現したのは『あの聖夜』を思わせる現象だった。それは他のユーザーから、強制的に悪魔を引きずり出す技法の発露。
だが、ここに甲斐以外の悪魔持ちは存在しない。球電は無駄に電光を散らすだけ――
「だから、だからよ――それが、どうしたぁ!」
『墜落』を制御する。それは無尽蔵に流れ込んでくる力を制御するのと同義だ。氾濫する大河のど真ん中で仁王立ちをし続けるのと等しい。
ベリアルにだって難しい。ウィザードにだって無理だろう。それを可能としたのは、悪魔戦に対して他人とは隔絶したほどの渇望を持つ甲斐氷太だったから。
電光がその色と形を変える。半数はそのまばゆさを漆黒の黒へと変え、もう半数は白金の如き鈍色に。
鮫の悪魔。葛根市の悪魔持ちならば誰もが知る最強の悪魔が、次々と生まれ始めていた。
「ハ、ハ――」
呼吸か、笑みか。どちらにせよ酷く荒いそれを零しながら、甲斐は牙を剥いた。
数メートルを浮き上がった視界に、敵の姿を捉える。女は自らの周囲を泳ぎ回る鮫に対して何か対処を講じるでもなく、ただ見ていた。それはまるで、水族館でガラス越しに熱帯魚を観察するような無警戒さ。甲斐氷太は、脅威になりえない。そう言外に告げているかのよう。
ぎり、と奥歯をかみしめて、甲斐は号令の為の右腕を振り上げた。筋繊維が撓り、弓の弦のように引き絞られる感触。それを解放するように、甲斐は腕を振り下ろした。
「くたばりやがれ」
号令一下。
無数の鮫が標的へと襲いかかる。質量と速度を考えれば、一匹一匹が乗用車の衝突に等しいエネルギーを持つ。牙など用いずとも、人一人ミンチにしてしまえる突撃。
それが全方位から迫る。回避の為の隙間はない。おそらく、終点に至れば鮫たちは自らの突撃で敵諸共に砕け散るだろう。
それすら知らぬ、と。悪魔は止まらない。速度を緩めもしない。もはや生物にある自己保全の原則すらかなぐり捨て、あるのは破壊衝動だけ。甲斐は『堕落』を制御しながら、鮫の殺到する女怪を視界に写し、
「底が見えぬのは面白い――が、私相手には悪手であったな」
そして、永遠に意識を失った。
ブルー・ブレイカーが零崎を連れて離脱してから数分後。F-2の森林地帯。その中にある僅かに開けた井戸の周囲で、悪魔持ちと殺し屋がしのぎを削り合っていた。
甲斐氷太とクレア・スタンフィールド。意志の手綱で二匹の悪魔を繰り、それをただの二刀を以て迎え撃つ超常と人間の戦い――
否。
常から外れているということであれば、殺し屋もまた間違いなく超常の側に属するものだった。
「だんだん分かってきたが」
殺し屋の唇から洩れる呟き。そこには焦りも恐怖もない。宙を自在に泳ぎ回る怪物を前にしても、その体の動きにはミリ単位の狂いも遅延も生まれなかった。
正面から突進してくる黒鮫をまるで人ごみでも縫うように回避しながら、クレアは笑う。
「空中を泳げるとは言え、鮫は鮫だな。動きは魚そのものだ。後退ができないから、回避されると次の攻撃に移るまでに時間がかかる。他に芸はないのか? 竜巻を起こすとか、タコ足が生えるとか」
「うるせえよ!」
敵の軽口に苛立ちを重ねながら、甲斐はさらに鋭く悪魔を指揮した。
黒鮫はフェイク。黒鮫の巨体を隠れ蓑にして突撃させた白鮫が本命。無音で泳ぐ異形の鮫が、気づいた時には牙の射程にまで近づいている。
相手から見れば、一撃を避けたところにいきなり追撃が来たようなものだ。
「遅い」
だがクレアはその場を一歩も動かなかった。僅かに身体を捻り、白鮫をすり抜ける。のみならず、すれ違いざまに肘打ちを鮫の側頭部に叩き込んできた。
「ぐっ……!」
甲斐の表情が歪む。人間の膂力とは思えないほどの一撃だったが、甲斐の悪魔とて尋常でない防御力を有している。フィードバックしてくる痛みは大したものではない。反撃された白鮫とてさしたる痛痒も見せず、次の攻撃態勢に移っている。
蓄積しているのはダメージではなく苛立ちだった。黒鮫と白鮫は絶え間なく波状攻撃を繰り返しているが、クレアには掠りもしない。それどころか、回避に要する動きがどんどん小さくなっている。
それは、敵が紛れもなく悪魔の攻撃を見切り出していることを意味していた。
「遅い……遅くなってるぜ。コンビネーションも最初から見ると単調だ。スタミナ切れか?」
「糞が……」
甲斐はずきずきと痛むこめかみに手を当てながら、苛立ちを言葉にして吐き出した。
目の前の殺し屋の動きは驚異的だ。数時間前に戦った魔界刑事に勝るとも劣らないだろう。筋力、バランス感覚、空間把握能力、動体視力――全てが超人的。
だが真に脅威的なのはその精神力だ。
初めて悪魔を見ただろうに、怯えも混乱も一切見せない。まるでポーカーで机上のカードと手札を検分するような落ち着きようで、向かい来る異形の力を観察している。
(長期戦は不利だな……くそっ、また頭痛がぶり返してきやがった)
ポケットからさらにカプセルを取り出しながら、脈打つような痛みに顔をしかめる。
魔界刑事と闘った際の疲労やダメージは、まだ抜けきっていない。カプセルの服用を重ねて誤魔化してはいるが、悪魔繰りに影響が出始めている。
対して甲斐は知る由もないが、クレアはここまでほぼダメージを負っていなかった。
そもジャンキーである甲斐と血の滲む努力の末にその身体能力を獲得したクレアでは、体力の上限値に大きな差がある。このまま続ければ、甲斐の敗北は明らかだった。
策が必要だ。凍らせ屋を倒した時のように。
悪魔を繰り出しながら、思考を巡らせる。周囲に利用できそうなものはない。木立の群れと、砕けた井戸。辺りを照らす光源は月明かりのみだが、闇に紛れるには相手の夜目が効きすぎる。
もともと甲斐の悪魔はウィザードの『影』のような、小細工を駆使して戦うようなタイプではない。シンプルで強大。それ故に、その力を受け流してしまえるクレア・スタンフィールドとは相性が悪かった。甲斐氷太が苦戦するような敵など、元の世界では――
そこで記憶を掠めたのは、炎を吐く異形の蛇との戦いだった。
"始末屋"ベリアル。甲斐が戦った中でも三指に入るであろう悪魔持ち。
あの時は、初めてツーパターン目を出すことで敵の不意を突いたのだ。
甲斐は目の前で2匹の鮫の猛攻を捌き続けている赤毛を観察する。
敵は完全に鮫の動きに対応していた。やろうと思えば、今にでも悪魔をすり抜けてこちらを殺すことも可能だろう。それをしないのは、こちらの底を探っているから。逆に言えば、甲斐の悪魔の攻撃は当たりさえすれば有効なはずだ。不意を衝く必要がある。相手の知らない手札を出すことができれば――
(……ひとつだけ、あるな)
思い浮かんだ切り札はその一枚だけ。加えて通用するのは初回限りだろう。殺し屋の底は未だ見えない。対応されれば、もはや甲斐に逆転の可能性はない。
総じて決して分が良いとは言えない、賭けのようなものだったが。
(いいねぇ。悪魔戦はそうでなきゃいけねえ)
自分好みだ。甲斐は壮絶な笑みを浮かべると、ポケットから新たなカプセルを一錠取り出し、奥歯に挟む。さらに続けて行動を起こした。
クレア・スタンフィールドのダンスが止まる。次々に突進を仕掛けていた鮫が退いたのだ。主の元へ戻った怪物は、回遊するように甲斐の頭上5メートルほどを泳ぎ出す。
息切れひとつ見せずに、クレアは相手の動きを見据えた。鮫を戻すのはまだいい。腑に落ちないのはその主の動きだった。僅かに眉間に皺を寄せ、疑問を呟く。
「なんだ、そりゃ?」
甲斐は地面に座り込んでいた。
リラックスするように胡坐をかいて、しかし好戦的な笑みは残したままクレアを見つめている。
「諦めたか? せめて苦しまないようにして欲しいとか?」
「いいや、罠だぜ」
言い切って、甲斐は笑みを浮かべたまま、挑発するように伸びをして見せた。そのまま重心を後ろに移動させ、仰向けに転げそうになったところで手をついて体を支える。まるで上等のソファにでも腰かけたかのような雰囲気。
「見ての通り、お前を油断させて殺すつもりさ。一撃で片を付けてやるよ」
おらこいや、と甲斐は犬猫でも招くようにばしばしと地面を手で叩いて見せた。
人を食うような甲斐の態度に、だがクレアは一瞬たりとも迷わなかった。
「へえ。ただのジャンキーかと思ったが、まるっきり無能ってわけじゃないらしい」
殺し屋は呟きながら、無造作に悪魔使いへ向けて足を進める。彼我の距離が、何の抵抗もなく縮まっていく。20m、15m、10――
(確かに、こいつは何かをやるつもりなんだろう……だが鮫の能力は把握できた)
甲斐の頭上をゆっくりと泳ぐモノクロの鮫を見やる。
クレアは頭の中で計算機を弾く。頭上の怪物がこちらに牙を届かせるのに必要な時間と、自身が地を蹴り、敵の急所に刃を埋め込むのに必要な時間を対比する。
結論――このまま甲斐に近づき、その距離が5m以内に縮まれば鮫は間に合わない。
目の前の少年は、完全に動くことを放棄した体勢になっている。フリではない。筋肉をリラックスさせ、重心を後ろに逸らした上半身の方に置いている。仮にクレアが間合いに入った後に逃げようとしても、それが叶わないことは明白だった。
敵は確かに罠を用意しているのだろう。だがクレアはそれを恐れず、侮らず――自然体のまま飛び込んだ。何が来ても自分ならば対応できる。血の滲むような鍛錬によって裏打ちされた、狂信的とも呼べるほどの自信。
クレア・スタンフィールドの強さの一因は迷わないというところにある。
本来、人間ならば誰しもが行動する前に"これでいいのだろうか?"と無意識のうちに思い悩み、ブレーキをかける。だがクレアにはそうした遅延が一切無い。それが常識外れの速度と精密さを生むのだ。
そして――二人の距離が、5mを切った。
クレアが地を蹴る。ギアは瞬時にローからトップへ。まるで時が飛んだような錯覚すら覚える速度。刹那で5mを0にし、甲斐の脾臓目掛けてナイフを突き出す。
その動きを、甲斐はほとんど見て取ることは出来なかった。遠目に見ていても赤毛の動きは人外染みていたが、ここまで接近されるといよいよ眼で追いきることはできない。
だから、甲斐はクレアの姿がぶれた瞬間に目を閉じた。
回遊する悪魔に攻撃を命じながら、自身の中に深く潜る。悪魔の力の源。そこへ通じる≪ドア≫を見つけ出す為に。
そして葡萄酒と狂犬の王――両者の思惑が交差し、結果を出した。
クレアの突き出したナイフが紅く濡れていた。色彩の正体は甲斐の血液だ。ワインのコルクを抜くように、殺し屋の刃は犠牲者の肉体に穴をあけた。
だが、コルクを抜き切れてはいない。
クレアの反射神経は、目の前で起きた異常を確かに捉えていた。
カプセルを噛み潰す小さな音が響く――クレアの頭上から。
一瞬前まで、確かに地べたに座り込んでいた甲斐氷太の体は、いまや地上2mほどの所に浮かび上がり、静止していた。
否。静止というのは正しい表現ではないだろう。まるで足元から風が吹きあがるかのように、甲斐の髪や服を揺らしている。高所から飛び降り、地面に叩きつけられるまでの一瞬を切り取ったかのよう。
『堕落(クラッシュ)』――それがその現象の名前だ。悪魔持ちが己の悪魔を制御しきれずに起こす暴走を指してそう呼ばれる。
だが甲斐は暴走などしてはいない。はっきりと自我を留めていた。
意図的に『堕落』を起こし、その副次的な効果である"浮遊"を利用するテクニック。かつて始末屋ベリアルが使っていたのを盗み取ったものだ。
クレアのナイフは甲斐の太腿を抉るに留まっていた。相手が急に浮き上がった為に狙いがずれたのだ。血がどくどくと流れ出しているが、致命傷と呼べるかは微妙だろう。放っておけば失血死するかもしれないし、適切に止血すれば生きながらえるかもしれない。
あと一歩踏み込めば心臓を、宙に跳ねれば頸動脈を掻き切ることもできたが、クレアはそれをしなかった。知らぬ現象を前にして、しかし葡萄酒は判断を迷わず――そして誤らなかったのだ。
舌打ちひとつを残して、殺し屋は横っ飛びに跳んだ。僅かに遅れて、上空から凄まじい勢いで降下してきた黒鮫が地面を穿つ。轟音と轟振が耳と足を打った。欲と首をかいていれば、よくて相打ちだっただろう。
「空中浮遊すると鮫の速度が上がる? どういう理屈だファンタジーめ」
轟音とともに地が抉れる様を横目で認めながら、クレアが苦々しく呟く。
『堕落』が引き起こすもの――悪魔へ供給される力の箍が外れること。
二匹の鮫が膨れ上がっていた。皮膚はより強固に、牙はより鋭く、そして宙を打つ尾鰭の力強さはより凶悪に。
当然、代償はある。本当の意味で『堕落』する、ぎりぎりのラインで踏みとどまるというのは決して容易いことではない。
カプセルを追加することで誤魔化してはいるが、傷の痛みは甲斐の集中の妨げになっていた。もとより体調は万全ではない。長くは続けられない。続けるつもりもない。
眼下で黒鮫の一撃を回避した敵の動きを、狂犬の爛れたような視線がしっかりと追っていた。
「貰ったぁ!」
待機させていた白鮫へ甲斐が吶喊を命じる。敵はこの速度を知らない。ましてやこの距離、この連携。回避できる筈はない。
クレアも同じ答えに到達していた。目前に迫る咢を観察しながら、静かに受け入れる。この一撃は回避できない。
(だが俺が負けるはずはない――)
殺し屋は胸中で呟き、ナイフを持った腕に力を込めた。
回避は出来ない――しかし、それは負けを意味しない。
(――こっちも全力は出してないからな)
次の瞬間、白鮫が真っ二つに千切れた。
分断された白い巨体が、甲斐の視界の中をゆっくりと流れていく。痛みの為か、理解を超える現象が起きたからか、時間は奇妙なまでに引き延ばされていた。甲斐の思考が確かに混乱する。殺し屋に、鮫を致命的なまでに害する膂力は無かった筈。ならば、何故――
そこで時間と痛みが意識に追い付いた。
「ギ――ッ!」
この島に来てから最大級のダメージが甲斐にフィードバックする。電流でも流されたかのように、甲斐の体が意に反して痙攣した。咄嗟に『堕落』状態から復帰し、その結果として2mを落下する。激痛と衝撃。背中から落ちた為、肺が強制的に絞られた。息をすべて吐き出し、反動で激しく咳き込む。
明滅する視界の隅で、千切れた鮫の半身が落下する。胴の辺りに強い力を加えられて、無理やり千切られたような傷跡。分かたれた遺骸は地面を一度打った後、霧のように消えた。
気絶しなかったのは、以前にも悪魔を両断された経験があったからか、あるいはあの時とは違い悪魔を2匹従えていたからか。
(何が――起こりやがった!?)
あの殺し屋に、悪魔を真正面から切り裂くような力は無かった筈だ。
何も分からぬまま、甲斐は無我夢中で地面を転がった。方向など定めている余裕はない。止まっていては不味いという思いだけがあった。
突き動かされるように数メートルを転がってから、立ち上がる――否、立ち上がろうとして、腿の激痛に崩れ落ちた。先ほどナイフで刺された傷だ。何か支えがなければ立てそうにない。
そこまで無様をさらして――未だに敵からの追撃がないことに、甲斐はようやく違和感を覚えた。
(……なんだ?)
ようやく状況を確認する余裕が生まれる。傷ついた足を庇うように立膝で体を起こし、周囲の様子を見回す。
殺し屋は10メートルも離れた場所に、こちらと似たような姿勢で片膝を地につけていた。
その左腕がだらりと垂れ下がっている。折れていることは外目から見て取れた。
限界を超える力で腕を振るい、白鮫を断ち切った代償――などという戯言が通るはずもない。それは明らかに外部からの攻撃によるものだった。
とん、と地を叩く音が響く。
宙に舞っていた下手人が着地したのだ。白鮫を両断し、殺し屋の腕を折った下手人が。甲斐の知る顔だった。もっとも数時間前に出会っただけで、名前は知らなかったが。
「よお……ずいぶん美人になったじゃねえか」
地面に転がる小早川奈津子の首を見て、そう呟く。
甲斐の悪魔とクレアのナイフが互いに牙を突き立てようとしたその瞬間、甲斐には気取ることすらできない速さで投げ込まれたこの首が悪魔を両断し、さらには殺し屋の腕をへし折ったということらしい。
否。本来ならば、それは悪魔の次にクレアの体を両断し、さらには甲斐までも穿っただろう。そんな未来が変わったのは、クレア・スタンフィールドという怪物が咄嗟に威力をいなそうとしたからだ。
それほどまでの勢いで投げつけられたというのに顔の判別がつくほど原型を留めているというのは、小早川奈津子という人物の頑健さがもたらしたものか、あるいは――投じた者の規格外さ故か。
空から舞い降りたとでもいうのか。いつの間にか、広場に女が佇んでいた。すらりとした長身を旗袍に包み、長い髪で美貌の半分を覆い隠している。月明かりを受け儚く輝くその姿から、如何なる美術品であっても再現できぬような感動を想起させる、そんな女であった。
姫。数多の名を持つ不死の鬼。多くの者がその隔絶した美しさの虜となり、自ら望んで血を捧げてきた。
(……悪魔か?)
思わずそんな馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。それほどまでに女は現実とは思えぬ美麗さを漂わせていた。汚泥を潜っても汚れることはないのではないか。そんな妄想を抱くほどに。
そんな幻想じみた女は、次の行動をとろうともせずに佇んだままだった。何かを考えているのか、それとも――
次の瞬間、甲斐の胸が弾ける。同時に響くのは、何かが引き千切れるような、どこか破滅を予期させる音。僅かな衝撃が胸を衝き、甲斐の息を荒くさせる。
「っ――……は……」
そのささやかな衝撃で、膝立ちを維持するのが精一杯な体が頼りなくふら付いた。
その体から、ざらざらと地面に零れていくものがある。
カプセルだ。それも、大量の。革ジャンの内ポケットが破れ、そこに仕込んでいたカプセルが零れ落ちていた。
だが――多すぎる。自分が入れていたのはほんの数錠の筈。だというのに、まるでどこか別の世界にでもつながっているかのように、ポケットに入り切る筈もない量のカプセルが足元を埋め尽くす勢いで放出されていた。
(……ああ、そうか)
何とはなしに、理解する。
(あれが終わりだって、そういうことかよ)
『カプセル』はただのドラッグではない。特定の条件下で増殖するという特性を持っている悪魔の一種だ。そういった意味では生きているとさえいえる。
だからカプセルという悪魔は、姫という破滅を前にしてポケットを破裂させるほど増えだしたのだ。己の消滅という未来を拒むために。ある種、種の保存本能にも似た何かに突き動かされるように。
それはかつて自分の黒鮫を両断した光の騎士よりも強靭で。
始まりの悪魔である無慈悲な女王よりも得体が知れない。
目の前にいるのは、そんな破滅の担い手だ。唐突に表れたそれは未だ一言も発してはいないが、垂れ流しの殺気から鏖殺を目的としていることは明白だった。
甲斐が瞬きをする度に、カプセルは倍々に増え続けていく。薬が蔓延っていたころ、葛根市のジャンキーたちが見れば、思わず涎を垂らしかねない光景だろう。
だがDDを束ねた狂犬の王には、それが寒々しく思えてならなかった。カプセルの悪魔による必死の抵抗。
「ざ……っけんな」
唸り声のような呟きを、喉の奥から漏らす。
甲斐氷太という男にとって、悪魔は己の半身と言っても過言ではない存在だった。
悪魔戦はこれ以上ないほどの愉悦を甲斐にもたらしてくれる。フィードバックする激痛すら悦楽の欠片だ。
だから、その悪魔がみじめな抵抗を試みているという目の前の事実に苛立つ。自身にとっての"最高"が貶められたように感じたのだ。
「おい、鮫野郎」
横合いから声が掛けられる。腕を折られた殺し屋が、しかしそれを感じさせない軽い動きで立ち上がった。
クレア・スタンフィールドもまた、目の前の怪物の力量を計り終えている。まさか、出会うことがあるなどとは思っていなかった――自分が敵わない相手になど。
「分かってるだろうが、あれはお前の手に負えるもんじゃない」
「ああ、テメエにもな」
殺し屋と狂犬の視線が交差する。敵意は消えていない。だが向ける方向が変わっていた。
「なら、互いに利用し合うのが得策ってもんだろう?」
「けっ、頭を下げてみやがれってんだ」
会話はそれで終わった。甲斐が自らの胸から零れ落ちるカプセルを一掴みも握りこんで、クレアへ向け投じる。
ろくに狙いもつけられていなかった為、カプセルは散弾の如くばらけたが、逆にそれが良かった。数粒はクレアの手が届く位置にまで到達したからだ。
地面に落ちる前に、クレアはカプセルを摘み取った。そしてその得体のしれない物体を迷うこともなく口に放り込み、噛み潰し、嚥下する。
感じたのはドロリとした内容物の苦みと――続けて臓腑の奥から湧き上がってくるかのような灼熱。
開かれる≪ドア≫の幻視が、クレアの脳裏で弾けた。
「は――」
月明かりに照らされる広場の中で、燃え上がる炎のような光点が新たに二つ灯る。クレア・スタンフィールドの双眸が、その二つ名の如き赤色に染まっていた。
横目でそれを確認した甲斐が、ひゅう、と短く口笛を吹く。
(呼び出しやがった――しかも、こりゃあ)
地面の上を、何かが滑るように移動する。
それは一見、赤い布のようにも見えた。だがよく見れば厚みが完全に存在しない。二次元の存在――薄暗闇の中で甲斐がそれに気付けたのは、よく似た悪魔を知っていたからだ。
自身の影を媒介にした、赤い影の悪魔。それが、クレア・スタンフィールドが呼び出した異形の正体だった。
「影をなぞる化け物か――なるほどな」
なにか納得するようにひとつ頷き、殺し屋は悪魔を繰った。
"赤影"は地面の上を滑るように移動していく。その速度は甲斐の悪魔にも劣っていまい。本家本元の影の悪魔にすら。瞬きをする間に女の足元に辿り着き――クレアは躊躇いなく、今日この時初めて呼び出した悪魔に攻撃を命じる。
悪魔は標的に触れようとはしなかった。ただ円を描くように、姫の周りをぐるりと一周する。
攻めあぐねたのでも、品定めをしたのでもない。それはまさしく、"赤影"の攻撃動作だったのだ。
「ほう――」
女が初めて声を発した。驚愕――というよりは感心だろうか。僅かに片目を見開いて、己の体を俯瞰している。
宙に跳ねた、女の首が。
一撃必殺。殺し屋は迷うことなく初手で斬首を選んだのだ。大概の生命にとって致命となる方法を。
だが一撃では終わらない。斬刑を成し遂げた後も、クレアは攻撃の停止命令を送らなかった。
赤影は女の肉体に触れることをしない。あくまで女の周囲を鋭く動き回るだけだった。だがそれだけで女の肉と骨が抵抗もなく解体されていく。
心臓が貫かれた。四肢は寸断された後にばらばらに刻まれ、胴体は10と2つに分割された。零れ落ちた内臓は全て地面に落ちる前に叩き潰される。肉と血液の混合が撒き散らされていく。
(影……か?)
文字通りの"解体"が続けられる中で、甲斐は赤い影の悪魔の動きを観察していた。無意識の内にその能力を暴こうとしていたのは、無数の悪魔戦をこなしてきたゆえだろう。
殺し屋の悪魔は女の体には触れていない。触れたのは月明かりと女の体が作り出す『影』だ。赤い影が女の影と交差すると、その個所に対応する肉体が切断・圧壊していく。
影を通じて二次元から三次元に干渉する悪魔――そういうことらしい。甲斐の知る悪魔の中にも、他人を操ったり精神を焼いたりする超自然的な能力を持つ個体はいたが、ここまで凶悪な力を持っているものはそういなかった。
やがて解体ショーが終わる。吸血鬼の死体は肉片と呼ぶのもおこがましいほど細かく刻まれ、ほとんど液状と化していた。それを見て甲斐が思い出したのは、いつだったかDDの溜まり場のひとつで誰かがふざけて安物のワインボトルを壁に叩きつけた時の光景だ。不良にありがちな他愛無い示威行為という奴だが、その時の甲斐はアルコールに飢えていたため、割った奴にヘッドロックをかけたことを覚えている。
――それが俗に走馬灯と呼ばれる類のものであると気づいたのは、クレア・スタンフィールドの乾いた声を耳にした時だった。
「死なない奴に会ったのは初めてじゃないが……」
眼前に広がる血溜まりの中から、女の肢体が浮上していた。
地面の上に薄く広がっているだけの赤い液体が、まるで地下にある死者の国にまで続いているような錯覚を覚える。
そこから浮き上がってきた妖姫の身体には汚れひとつなく、確かにばらばらにしたはずの衣装にもほつれどころか血の染みひとつ見られない。
そこにクレア・スタンフィールドの悪魔による渾身の攻撃の成果は、何一つ残っていなかった。
クレアにとって、不死と呼べる相手に遭遇するのはこれが初めてではない。その時は、拷問の末に深いトラウマを刻み込みさえした。
だが――この女怪は、単に死なないだけの人間とは格が違う。
弱点など何一つない、完璧な存在。クレア・スタンフィールドが世界の中心であるというのなら、この吸血鬼は世界そのものだ。
しかしその事実に臆することなく、クレアは再び己の悪魔に攻撃を命じた。
殺せない。痛みで発狂させることもできない。
だが身体を破壊することはできた。ばらばらにし続ければ、少なくともその間は行動不能にできる。
傍に控えていた"影をなぞる悪魔"が、再び凄まじい速度で吸血鬼に突進し――
次の瞬間、美姫の爪先が赤影を捕らえていた。
まるで階段を降りるかのように、姫は何の気取りもなく足を一歩踏み出し、悪魔を踏みつけ――そしてそれだけで全てを終わらせていた。
クレア・スタンフィールドの姿が消えるその瞬間を、甲斐の眼が捉える。
あまりにも静かだった。音も衝撃もない。瞬間移動したのだと言われれば、そう信じてしまったかもしれない――一瞬前まで殺し屋が存在した場所に広がっていく、血溜まりさえ見なければ。
「影を通じて二次元から三次元へ干渉する術など珍しくもない。そして当然、干渉とは完全な一方通行にはならぬもの」
不可視の何かによって、一瞬でスープ状になるまで押しつぶされた男の残骸を視界の端に捉えつつも、甲斐氷太は目の前の化け物を見やる。
殺し屋の悪魔は消えていた。宿主が死ねば、悪魔は消える。そこに疑問は無い。
だがいま女が踏みつけたのは、宿主ではなく悪魔の方だった。たとえ悪魔を踏みつぶしてしまえる膂力の持ち主だったとしても、悪魔の死は宿主の死と繋がらない。悪魔からフィードバックされるダメージは、宿主の精神にのみ反映されるものだ。悪魔が完全に消滅したとしても、それで引き起こされるのは昏睡や記憶喪失であって、宿主の肉体が傷つくということは甲斐の知る限りありえなかった。
勝てない。この怪物は、自分の知らない法則の中にいる――
「だからっ、どうしたってんだ!」
甲斐は未だに増殖を続けるカプセルを両手で掬うように握り込むと、それを圧壊させた。掌に広がるどろりとした内容物を、啜るように喉の奥に流し込む。
歴戦のオーナーならば決してやらない、完全なオーバードーズ。甲斐の頭の奥で幾度も稲妻がスパークする。
もはや頭の中だけではない。甲斐の目には、はっきりと≪ドア≫が見えていた。右手を伸ばす。足の激痛はもはや気にならない。ノブを捩じ切るが如き勢いで回し、開く。
瞬間、甲斐の意識が消し飛んだ。
「ぐ、ぎぃ……!」
ほんの一瞬の意識の空隙。ギリギリで手綱を取り戻したのはただの偶然だ。もはや小手先のテクニックなど通用しない次元に甲斐は踏み込んでいた。
甲斐の足元から風が吹く。上昇気流ではない。それは物体が落下する時に感じる風だ
『堕落』の前兆。のみならず、強大な力は放電現象を引き起こし、甲斐の周囲に球電を形成し始めていた。
≪ドア≫の向こうから引き出し、発現したのは『あの聖夜』を思わせる現象だった。それは他のユーザーから、強制的に悪魔を引きずり出す技法の発露。
だが、ここに甲斐以外の悪魔持ちは存在しない。球電は無駄に電光を散らすだけ――
「だから、だからよ――それが、どうしたぁ!」
『墜落』を制御する。それは無尽蔵に流れ込んでくる力を制御するのと同義だ。氾濫する大河のど真ん中で仁王立ちをし続けるのと等しい。
ベリアルにだって難しい。ウィザードにだって無理だろう。それを可能としたのは、悪魔戦に対して他人とは隔絶したほどの渇望を持つ甲斐氷太だったから。
電光がその色と形を変える。半数はそのまばゆさを漆黒の黒へと変え、もう半数は白金の如き鈍色に。
鮫の悪魔。葛根市の悪魔持ちならば誰もが知る最強の悪魔が、次々と生まれ始めていた。
「ハ、ハ――」
呼吸か、笑みか。どちらにせよ酷く荒いそれを零しながら、甲斐は牙を剥いた。
数メートルを浮き上がった視界に、敵の姿を捉える。女は自らの周囲を泳ぎ回る鮫に対して何か対処を講じるでもなく、ただ見ていた。それはまるで、水族館でガラス越しに熱帯魚を観察するような無警戒さ。甲斐氷太は、脅威になりえない。そう言外に告げているかのよう。
ぎり、と奥歯をかみしめて、甲斐は号令の為の右腕を振り上げた。筋繊維が撓り、弓の弦のように引き絞られる感触。それを解放するように、甲斐は腕を振り下ろした。
「くたばりやがれ」
号令一下。
無数の鮫が標的へと襲いかかる。質量と速度を考えれば、一匹一匹が乗用車の衝突に等しいエネルギーを持つ。牙など用いずとも、人一人ミンチにしてしまえる突撃。
それが全方位から迫る。回避の為の隙間はない。おそらく、終点に至れば鮫たちは自らの突撃で敵諸共に砕け散るだろう。
それすら知らぬ、と。悪魔は止まらない。速度を緩めもしない。もはや生物にある自己保全の原則すらかなぐり捨て、あるのは破壊衝動だけ。甲斐は『堕落』を制御しながら、鮫の殺到する女怪を視界に写し、
「底が見えぬのは面白い――が、私相手には悪手であったな」
そして、永遠に意識を失った。
◇◇◇
無数の鮫が、宙を泳いでいる。
その悪魔を直接見たものがいれば、それは驚くべき光景だっただろう。数に、ではない。その鮫が獰猛さを完全に秘していることに、だ。
姫はその中を歩いていた。まるで群衆の間を通り抜ける独裁者のように。鮫は彼女に触れもしない。だが離れることもない。まるで群れの一員だとでもいうように、その存在を自然なものと認めている。
歩みを進め、吸血鬼が群れの中心へとたどり着く。目の前には宙に浮いた、あるいは落下中に縫い止められたようにも見える男の姿。
彼らのオーナーである甲斐氷太は――端から見れば、完全に『堕落』しているように見えた。体は脱力し、表情からは理性が抜け落ちている。
だが、違う。甲斐氷太から理性を奪ったのは美姫の柔肌であった。
この殺戮遊戯を開催するに当たって、用意された刻印は2種。
その内のひとつ、世界に捺された刻印は、いくつかの特性や術そのものを制限している。
それは例えば御使いとの契約、フレイムヘイズの使う封絶、そして『美しさ』による万象への干渉。
姫を前にすれば、大抵の人間は精神に異常をきたす。精神攻撃への耐性をつけている魔界都市の警察官たちさえ抗えなかった魅了だ。彼女の微笑みを向けられれば自ら永遠の奴隷に志願するだろうし、吐息がかかれば精を吐き尽くして死ぬだろう。
それがこの世界においては、ただ美しいと思う程度に抑えられていた――ただし、それも美姫本人の刻印が解除される前、健常な精神を持つ者ならばの話だ。
佐藤聖やアシュラムが屈したように、心に隙のある者や、精神が弱っている者に対しては、彼女の美しさは毒のようにその効力を発揮する。
そしてそれは、綱渡りの如き『堕落』の制御をしていた甲斐氷太も同じだった。
かくして女怪は男の精神を支配下に置き、そしてその悪魔たちをも掌握したのだ。
ふむ、と姫は周囲の鮫たちを見やる。自分にとっては脅威にもならない。ただ鬱陶しいという理由で止めただけだったが、これは――
「意外な拾いものじゃな」
自身が吸血鬼化させた佐藤聖を優先して殺したのは、"あの終わり方"を避けるためだ。
限界まで増殖した下僕たちによる糾弾。それを受け止める余裕は、今の姫にはない。秋せつらを失った姫には。
だからこうして手ずからに一匹ずつ虫を潰してきたのだが――配下がいないというのは面倒なものだ。
蟻を叩くことなど造作もないが、それでも数が増えれば煙薬を使いたくもなる。
姫は緩やかに右腕をあげ、一方向を示した。夜の暗闇を撥ね除け、真昼の如き明るさを保つ一面。アラストールの残した篝火を抱く建造物が、盤上に残る生者たちの最後の安息の地が存在する方向を。
鮫の悪魔たちが、新たな主の示したものへ敵意をむき出しにする。甲斐の『堕落』は続いていた。もはや悪魔たちの力にリミッターは存在せず、白黒の魚影は放電現象と共に無限に数を増やしつつあった。
――こうして吸血鬼による襲撃が開始された。
その悪魔を直接見たものがいれば、それは驚くべき光景だっただろう。数に、ではない。その鮫が獰猛さを完全に秘していることに、だ。
姫はその中を歩いていた。まるで群衆の間を通り抜ける独裁者のように。鮫は彼女に触れもしない。だが離れることもない。まるで群れの一員だとでもいうように、その存在を自然なものと認めている。
歩みを進め、吸血鬼が群れの中心へとたどり着く。目の前には宙に浮いた、あるいは落下中に縫い止められたようにも見える男の姿。
彼らのオーナーである甲斐氷太は――端から見れば、完全に『堕落』しているように見えた。体は脱力し、表情からは理性が抜け落ちている。
だが、違う。甲斐氷太から理性を奪ったのは美姫の柔肌であった。
この殺戮遊戯を開催するに当たって、用意された刻印は2種。
その内のひとつ、世界に捺された刻印は、いくつかの特性や術そのものを制限している。
それは例えば御使いとの契約、フレイムヘイズの使う封絶、そして『美しさ』による万象への干渉。
姫を前にすれば、大抵の人間は精神に異常をきたす。精神攻撃への耐性をつけている魔界都市の警察官たちさえ抗えなかった魅了だ。彼女の微笑みを向けられれば自ら永遠の奴隷に志願するだろうし、吐息がかかれば精を吐き尽くして死ぬだろう。
それがこの世界においては、ただ美しいと思う程度に抑えられていた――ただし、それも美姫本人の刻印が解除される前、健常な精神を持つ者ならばの話だ。
佐藤聖やアシュラムが屈したように、心に隙のある者や、精神が弱っている者に対しては、彼女の美しさは毒のようにその効力を発揮する。
そしてそれは、綱渡りの如き『堕落』の制御をしていた甲斐氷太も同じだった。
かくして女怪は男の精神を支配下に置き、そしてその悪魔たちをも掌握したのだ。
ふむ、と姫は周囲の鮫たちを見やる。自分にとっては脅威にもならない。ただ鬱陶しいという理由で止めただけだったが、これは――
「意外な拾いものじゃな」
自身が吸血鬼化させた佐藤聖を優先して殺したのは、"あの終わり方"を避けるためだ。
限界まで増殖した下僕たちによる糾弾。それを受け止める余裕は、今の姫にはない。秋せつらを失った姫には。
だからこうして手ずからに一匹ずつ虫を潰してきたのだが――配下がいないというのは面倒なものだ。
蟻を叩くことなど造作もないが、それでも数が増えれば煙薬を使いたくもなる。
姫は緩やかに右腕をあげ、一方向を示した。夜の暗闇を撥ね除け、真昼の如き明るさを保つ一面。アラストールの残した篝火を抱く建造物が、盤上に残る生者たちの最後の安息の地が存在する方向を。
鮫の悪魔たちが、新たな主の示したものへ敵意をむき出しにする。甲斐の『堕落』は続いていた。もはや悪魔たちの力にリミッターは存在せず、白黒の魚影は放電現象と共に無限に数を増やしつつあった。
――こうして吸血鬼による襲撃が開始された。
◇◇◇
零崎がろくに抵抗も出来ずに少しずつ食い千切られていく様を、蒼い殺戮者はそのセンサーで確認した。
空中で小柄な身体がまるでピンボールのように跳ねている。十数匹もの白黒鮫が上下左右からかわるがわる零崎の肉を食もうとするが故の、残忍に過ぎる凌遅刑。
唯一の救いは、それが本来鮫が生息する水中ではなく、空中で行われたことだろう。重力に引かれた零崎の身体は、そのまま森の中へ落ちて行った――ある程度、"原型"を保ったまま。
『ぜろざき――』
「いまからではどうにもならん。こちらも包囲される前に撤退する」
ムキチの声を、蒼い殺戮者は一蹴する。
自動歩兵の知覚にも、空間から染み出すように増え続けている鮫の群れが捉えられていた。
数匹ならば問題はないが、大した武装もない状態でこの大群は捌けない。単純な強度なら鮫の牙よりも複合装甲の方が勝るだろうが、あの数に襲われればひとたまりもないだろう。復調したステルス・コートも、大量に荷物を持っているこの状況では意味を成さない。
バックパックを安定させるように抱え込み――零崎がいては不可能な体勢だった――スラスタの出力を上げた。正面に出現した鮫を最低限の機動で回避しながら、目的地を目指す。
マンションまでおよそ5km弱。最高巡航速度には程遠いとはいえ、到着まで数分とかからない。逆に言えば、この鮫の群れがマンションに到達するまでの猶予もあまりないということだった。
鮫の動きに、およそ戦術性というものは感じられない。とにかく手近な目標に突進してくるようだ。
何匹かが夜に輝くこちらの噴射炎を捉え追ってくる素振りを見せるが、ある程度距離を空けると諦めたように速度を落とす。しかし侵攻自体は止まらない。増え続ける鮫の群れは、確実にマンションへと近づいていた。
佐山が持っている携帯の帯域に出力する。
「こちらブルーブレイカー。状況は把握しているか」
空中で小柄な身体がまるでピンボールのように跳ねている。十数匹もの白黒鮫が上下左右からかわるがわる零崎の肉を食もうとするが故の、残忍に過ぎる凌遅刑。
唯一の救いは、それが本来鮫が生息する水中ではなく、空中で行われたことだろう。重力に引かれた零崎の身体は、そのまま森の中へ落ちて行った――ある程度、"原型"を保ったまま。
『ぜろざき――』
「いまからではどうにもならん。こちらも包囲される前に撤退する」
ムキチの声を、蒼い殺戮者は一蹴する。
自動歩兵の知覚にも、空間から染み出すように増え続けている鮫の群れが捉えられていた。
数匹ならば問題はないが、大した武装もない状態でこの大群は捌けない。単純な強度なら鮫の牙よりも複合装甲の方が勝るだろうが、あの数に襲われればひとたまりもないだろう。復調したステルス・コートも、大量に荷物を持っているこの状況では意味を成さない。
バックパックを安定させるように抱え込み――零崎がいては不可能な体勢だった――スラスタの出力を上げた。正面に出現した鮫を最低限の機動で回避しながら、目的地を目指す。
マンションまでおよそ5km弱。最高巡航速度には程遠いとはいえ、到着まで数分とかからない。逆に言えば、この鮫の群れがマンションに到達するまでの猶予もあまりないということだった。
鮫の動きに、およそ戦術性というものは感じられない。とにかく手近な目標に突進してくるようだ。
何匹かが夜に輝くこちらの噴射炎を捉え追ってくる素振りを見せるが、ある程度距離を空けると諦めたように速度を落とす。しかし侵攻自体は止まらない。増え続ける鮫の群れは、確実にマンションへと近づいていた。
佐山が持っている携帯の帯域に出力する。
「こちらブルーブレイカー。状況は把握しているか」
◇◇◇
「――了解だ。そちらは分配と遊撃に移ってくれたまえ」
携帯のボタンを押して通話を終了させると、佐山はしばらく考え込むように暗くなった画面を見つめた。
零崎人識は死んだ。この世界で自分が救えなかったもののリストに、またひとつ名前を加える。
だが、今はそれに囚われている時ではない。対応を行う必要があった。
「こっちでも見えてるぜ。確かにすげえ数だが……そっちのブギーなんちゃらが言ってるほどじゃねえぞ?」
「大部分は森の中を潜ってるんだろう。空間から出現する位置自体も、だんだんこっちに近づいてるみたいだな」
佐山と共に屋上に上がっていた者たちが、手すりから身を乗り出して南西の方角を睨んでいる。
予想外の事態だ。美姫以外の参加者による襲撃の可能性は考えていた。しかし、その中にこちらを圧倒するだけの単純な強さを備えた者がいる、というのは想定の埒外である。
驕りからくるものではない。残りの参加者に関する情報とて、その多くがこの集団には集積されているのだ。必然、残る危険人物についても把握出来ている。
念糸を使う隻腕の黒ずくめ。凄まじい近接戦闘能力を持つ赤毛の男。鮫の悪魔を操る甲斐氷太。小早川奈津子。
敵対する可能性が大きい者たちは、姫を除けばこの4名。全員がかなりの手練れだが、それぞれ協力し合うタイプではない。ひとりずつ相手にするのなら――いや、仮に"偶然"、4人が同時に攻めてきたとしても、戦力的にはこちらが勝る。
だが――単純にこちらの戦力を上回るほどの数とは。
「あれは甲斐氷太の操る悪魔だろう……情報を統合するに、同時に出せるのは最大で2体までという話だったが」
物部景や海野千絵という元の世界での知り合いだったという人物らから得た情報があった為、甲斐の能力についてはほぼ完全に把握できているつもりでいた。カプセルを服用することによって呼び出される白鮫と黒鮫。宙を自在に泳ぎ回り、人間程度なら噛みちぎる力を持つ。
鮫の機動力は厄介だが、それを操るのはただの人間に過ぎない。ならばやりようはいくらでもある――そんな予想は、しかし覆されてしまった。
「≪ドア≫が壊れたんだろう。あれはもはや扉ではなく穴だ。ラッチが馬鹿になっていて、二度と閉じることはない。向こう側から無制限に力が流れ込み続けている」
縛られたままのブギーポップが呟く。死神の感覚は、どうやら甲斐氷太の身に起こった事態をこの場にいる誰よりも把握しているらしい。佐山は尋ねた。
「分かりやすく言うと?」
「甲斐氷太は世界の敵になった。あの悪魔は召喚者が死ぬまで増え続けていく」
「なるほど、明快だね――諸君、敵襲だ! 襲撃してきたのは甲斐氷太の悪魔だが、ブリーフィングで共有した情報と異なりその数は無数となっている! 警戒したまえ!」
後半は足下に用意しておいた拡声器を用い、マンションの周囲に展開している仲間たちに通達する、と――
その放送からわずかに遅れ、眼下から爆音が響いた。
見ると、西側――鮫が向かってくる方の森の一部がごっそり吹き飛んでいる。続いて閃光と振動、強い意志を伴った叫び声が断続的に発生する。どうやら鮫の一部が到達し、マンション周囲で防衛線を張っていた者たちが戦闘を始めたらしかった。
「西側に配置したのはオーフェン君だったな。彼の魔術なら悪魔の群れも押し留められるだろうが……」
長くは持つまい、と佐山・御言は判断する。
このマンションを囲む禁止エリアの配置から、敵が攻め込んでくるなら西側からの可能性が高かった。故に、対応力の高いキエサルヒマの黒魔術師たちを配置したのだが、どうやら功を奏したらしい。
問題はこれほどまでの物量が攻めてくるのは想定していなかったということだ。
アラストールの炎が宿るマンションの一棟。その屋上と1階。そして棟の周囲に人員を配置してあるが、これはどちらかといえば対美姫用の布陣である。
他の敵対する可能性がある者たちの容姿・能力はすべて共有しており、仮に姫の襲来と同時に彼ら全員が攻めてきたとしても凌げる程度には準備をしていた。
だがそこら中から無限に出現する悪魔への対策までは考えてない。ブギーポップの言うとおり本当に無限湧きなら、多少耐えたとしても、先にこちらのリソースが尽きて負けるのは明らかだ。
BBを甲斐の元へ再び向かわせるか――? 回収してきた武器などをパージし、本来の機動性を取り戻した彼なら鮫の群れを躱して、甲斐氷太を無力化できるかもしれない。
だがBBに限らず、こちらから戦力を向かわせるには、ひとつ懸念がある。鮫の悪魔は甲斐氷太のものだろう。だが、そのリミッターを外したのは一体誰なのか。
「ブギーポップ君」
「君の想像通りさ。甲斐氷太の近くにはあの吸血鬼がいるとも」
「……これは甲斐氷太が吸血鬼になった結果だと?」
「さてね。だが美姫の介入があったことは間違いないだろうさ。例のロボット君を差し向けても返り討ちに遭うだけだぜ」
ブギーポップのその台詞が終わる前に、甲高い排気音が空を切り裂いた。
蒼い殺戮者がマンションの上空を通過。それとわずかに遅れて、透明な膜のようなものに包まれたバックパックが落ちてくる。
機械歩兵によって投下されたその物資を包んでいた水は、屋上に落下する際の衝撃を殺すクッションの役割を果たした後、意思持つ水の大蛇と化し、ぐるりと佐山の周囲を取り巻いた。
「お帰り、ムキチくん。息災で何より」
「ぜろざきは うしなわれました」
「そうだね」
呟く。それは、事実だ。自分はまたひとつを取りこぼした。救えなかった。奪われた。
だからといって――もはや止まっていられない。
「本当に、そうだね――女史の出方を待つつもりだったが、その余裕もないようだ」
佐山は拡声器を片手に持ったまま、さらに床に置いてあった木刀を取り上げた。梳牙。ムキチが流れ込み、それは木刀から水の刃へと変じる。
同時、頭上から黒い影が恐るべき早さで落下してくる。白と黒の鮫がおよそ10匹。それは音声魔術の届かぬ高空から、屋上にいる佐山たちを狙った一群であった。
「さあ栄えある佐山・御言の護衛を任された果報者達よ、役目を果たしたまえ。腕の一本くらいなら犠牲にしてもかまわんよ?」
「てめえの為に犠牲になるなんざまっぴらごめんだが」
呆れたような声と共に、落下する鮫の群れを無数の光弾が迎撃する。
声の主は出雲・覚。蒼い殺戮者が落としていったバックパックから必要とする武装を抜き出し、変形させていた。かつて風見・千里が振るっていた概念核兵器・G-Sp2。その砲撃形態。
概念核は己の主人となる者を自ら選別するが、振るうのに何ら支障はない。
それも当然。G-Sp2に内蔵されているのは10th-Gの概念核であり、出雲はその世界の血を引いている。
何より、元の担い手である風見は出雲の半身だった。概念核から自身の主として認められるに、何ら不足はない。
「やるぜ、G-Sp2。千里を守れなかった負け犬同士だ。八つ当たりといこうぜ」
破損したG-Sp2のコンソールが激しく明滅する。肯定か、否定か。だがどちらにせよ、砲口から生み出される破壊の力はその威を増した。光条が直撃した鮫はその身を粉々に崩壊させる。
世界そのものに干渉する力の類いは制限されているとはいえ、そもそも概念核兵器はそうした制限下――母体概念の違うGでさえ力を発揮できるよう設計された兵器だ。万全ではなくとも、十全に近い働きは出来る。
そうして無数に吐き出された光の弾幕は――鮫を2体ほど砕いてその成果とした。
「……あぁ?」
「手加減とは余裕かね出雲」
「うるせえ! もともと砲撃は千里や新庄の役目だったろうが!」
もっとも、砲撃に関して出雲が不得手だったというだけがこの結果を招いたのではない。
鮫たちには原始的ながらも知恵があった。決して馬鹿正直に突撃するだけではない。目に見える脅威に対しては、当然のように回避行動を行う。
「――なら、見えない攻撃に対してはどうだ?」
乾いた音が幾重にも響く。それは指を弾き、踵で屋上のコンクリートを叩き、そして撃鉄が落ちる三種の音による重奏だった。
音が響いた回数だけ、鮫の動きが停止する。そして次の瞬間には原子レベルで分解され、でたらめに再結合し、最後は溶けるように消えていった。
「情報強度は人形使いのゴーストハックよりましってくらいだな。この世に存在しないものを、魔法だの超能力だので無理やり成り立たせてるとか、原理的にはそんなとこか」
手を前に突き出す独特の構えを取ったまま、ヴァーミリオン・CD・ヘイズが呟く。
制限から解き放たれた彼の演算速度は、破砕の領域の威力をも取り戻させていた。情報的に最も強固な魔法士の肉体さえ破壊するヘイズの『情報解体』を防ぐには、I-ブレインのリソースを割いて防壁を展開するか、龍使いによる『絶対情報防御』が必要だ。加えてこの島で出会った者の中では魔法士と似た特性を持つ咒式士、特に生体操作を専門で行うギギナの肉体が情報的には頑丈だろうか。
(まあI-ブレインや論理回路に干渉する術や能力を使う奴もいるし、この鮫だって物量で攻め込まれたらそう保たねえが――それはいつものことだしな)
つまりはいつも通り、ギリギリの戦いをするしかないということだ。
ヘイズのI-ブレインが警告を発する。空間から無秩序に出現する鮫の密度が上昇し続けていた。もしもこの鮫の在庫に限りがないとすれば、およそ3分12秒後に予測演算が間に合わなくなり、自分は晴れて鮫の胃袋に収まることになる。
「そういうわけで、ある程度はそっちに任せるからな」
「軟弱者め」
飛来する鮫の悪魔を鋼が両断した。
侮蔑の台詞と共に大剣を繰り出すのはギギナである。剣舞士はその名を体現するがごとく踊るように他の屋上組の間を駆け抜け、悪魔を次々と切り伏せていく。
宙を泳ぎ、単車と同等の速度で襲いかかってくる人食い鮫――それは超音速で複雑軌道を描く不可視の獣を同時複数体切り伏せ、ビルと同等のサイズを誇る巨人を転がすギギナにとって危うさを感じさせるものではない。
オーナーの制御から外れた悪魔は、咒式士より強大な力を持ちながら、戦術によって人類に敗北した異貌のものどもと変わらない。動きに理性が伴わなければ、ツーパターンどころかただのワンパターンの繰り返しだ。
「私がこの鮫の出所を斬り殺してやってきても良いが?」
「君の足でも先ほど甲斐氷太が確認された場所まで8分弱はかかるだろう。姫や鮫との会敵、目標の移動を想定せずにそのタイムではこちらがやられる方が早い」
佐山の言葉に、ギギナは不満げに鼻を鳴らすだけに留めた。G-Sp2の砲撃と『破砕の領域』を超えて到達する鮫の群れを駆除する作業に戻っていく。
出雲、ヘイズ、ギギナ。この三名が屋上に配置された戦力だ。本来なら戦力としては申し分ない筈だったのだが――
「この状況では足りないね。そうだろう?」
「足りない、とはどういう意味かね」
縄で縛られ、コンクリートに転がったままのブギーポップを食いちぎろうと向かってきた白鮫を、ムキチによる水の刃で切り裂きながら佐山は問う。かつて零崎によってつけられた掌の貫通創は、コミクロンの魔術によって治癒されていた。
「縄で縛られた役立たずを守りながら戦うには足りないと、そういうことさ。約束は守って欲しいな。宮下藤花の肉体の安全は保証してくれるんだろう?」
「……」
死神の言葉に、佐山は黙考する。
ブギーポップの指摘は正しい。この怪人を守りながらではジリ貧だ。屋上から階下へ通じる扉を開け、そこに蹴り込んだとしても安心は出来ない――下の階の窓を破った鮫がブギーポップを食わないとも限らないからだ。
その点で言えば、もっとも安全であろうマンション内部に待機させていた詠子とクリーオウの安否も気遣わねばならないが――
(さきほどから携帯にかけても応答がない。携帯を落としでもしたのか、もしくは――)
最悪のパターンはいくらでも想像できる。だが全てに対応は出来ない。
佐山の表情から何かを読み取ったのか、ブギーポップは囁くように条件を追加した。
「この戒めを解いてくれるのなら、僕は君の仲間に手を出さないと誓おうじゃないか」
「ほう? しかし君は自動的な世界の敵の敵ではなかったのかね?」
「もちろん、ずっとではないよ。しばらくの間だけさ」
「具体的には?」
ブギーポップは僅かに沈黙を挟んでから、
「事前に君の許可を取り付けてから、というのはどうだろうね?」
「これはずいぶんと譲歩したものだ。どういう心変わりだろうか」
「君が世界の敵を制御するというのなら制御してくれればいい。失敗すれば君も考えを改めるかもしれないし、そもそも君が死ねば約束はご破算だからね」
だんだんと増していく鮫の降魚量を横目で確認しながら、佐山は小さくため息をついた。
「条件としては破格だろうが――そちらが嘘をつかないという保証は?」
「おいおい、僕は自動的な存在だぜ? 生まれてこの方、嘘なんてついたことは一度たりともないと断言しよう」
「つまり、保証はないというわけか」
佐山はブギーポップに向けて水刃を振るった。
戒めが切り裂かれ、自由を取り戻したブギーポップが立ち上がり、筒のようなシルエットを取り戻す。
ブギーポップは小首を傾げながら佐山をみつめた。
「交渉成立かい?」
「宮下君の肉体を守るという取引を履行したまでだよ。交渉に一番必要なものは誠実さだからね」
「やあ、僕より嘘つきな奴を見つけたぞ」
嘯きながら、ブギーポップは足下から何かを拾い上げた。
布に包まれた棒状の物体。先ほど、佐山が宮下藤花の肉体に使用しかけた"刻印の解除機"。 ブギーポップが視線で問うと、佐山はどうぞとジェスチャーを返す。
そうしたやりとりと共に布が解かれたそれは、およそ冒涜的な存在であった。
切断された、人間の腕。
呪いの刻印が捺されていることからも、この舞台に集められた参加者の腕とみて間違いはあるまい。
そんな悍ましい物体の一部を手にしながらも、ブギーポップは特に驚いた様子もなく、そのまま自身の左腕に――そこに刻まれた呪いの刻印に死体の腕を触れさせた。
目に見える変化は何もなかった。光も音もない。ただ肉体と魂に刻まれていた何かが変質する感触があった。それまで自身を縛り付けていたものが、周囲を揺蕩うだけの何かに変化したように。
「……偶発的な故障か、あるいは誰かの仕込みか。ある参加者の刻印が機能不全に陥っているのが発見されたらしい。その模造品ということだが」
それは天使長バベルによって機能を狂わされた三塚井ドクロの刻印である。禁止エリアに入っても、制限されていた本来の力を取り戻しても、彼女の刻印は死をもたらさなかった。
それは逆説的に、魂を破壊する機能を迂回して、刻印を無効化する方法があることを意味する。
カーラはその方法をなぞっただけ。切り落としたドクロの腕の刻印を参考にし、同じく切断して保管していた他の参加者の刻印を同様のものに書き換え、さらに転写する機能を加えた。もとより彼女は付与魔術師の出であり、それ自体はさほど苦労することでもなかった。
そうして作成されたのがこの"解除装置"だ。刻印に接触させると、三塚井ドクロの刻印が自壊したプロセスが再現される。つまりは刻印の呪殺機能を発動させず、他言語理解などの有益な機能はそのままに、刻印のもたらす負の影響を全て破壊する。
故に――死神はここに、その機能を全て取り戻した。
「感謝するよ、佐山君。ようやく僕の仕事に取りかかれそうだ」
「感謝の気持ちは行動で示していただこう、約束は守ってくれるのだろうね? 私の陣営にいる二人には、いまのところ手を出さないと」
「もちろんだとも。だがひとつ訂正しておこう――」
鷹揚に頷きながらも、死神は佐山の誤りを正す。
「――君の仲間に、世界の敵はひとりしかいないよ」
「なに?」
死神の言葉に佐山は疑問符を浮かべる。十叶詠子とカーラ。二人の魔女は、それぞれ方向性は違うにしても、世界の敵に足る人物だと思っていたが――
「さて、時間はかなり押しているようだ。悪いが僕はこれで失礼するとしよう。また会えることを祈っているよ、佐山君」
そんな言葉を残して、ブギーポップは屋上から飛び降りた。
鮫は死神に見向きもしない。ベランダの手すりを楔に最低限の減速を繰り返しながら、あっという間に地表に到達し、闇に紛れてしまう。
「せっかちなことだね――だが、時間がないというのは確かにその通りだ」
迷っている暇はない。この悪魔は無限に増え続けるのだろう。オーナーである甲斐氷太を殺害すれば止まるのかもしれないが、近くには姫がいる。ギギナや蒼い殺戮者などの鮫の群れをくぐり抜けて接敵出来る実力者を送り出したところで、あの吸血鬼によって返り討ちに合う可能性がある以上、悪魔に対処してから吸血鬼に挑むという真っ当な対処法はとれない。
「ならば対処法はひとつ――両方、同時に進めるだけだとも」
そうして佐山は、拡声器のスイッチに指をかけた。
携帯のボタンを押して通話を終了させると、佐山はしばらく考え込むように暗くなった画面を見つめた。
零崎人識は死んだ。この世界で自分が救えなかったもののリストに、またひとつ名前を加える。
だが、今はそれに囚われている時ではない。対応を行う必要があった。
「こっちでも見えてるぜ。確かにすげえ数だが……そっちのブギーなんちゃらが言ってるほどじゃねえぞ?」
「大部分は森の中を潜ってるんだろう。空間から出現する位置自体も、だんだんこっちに近づいてるみたいだな」
佐山と共に屋上に上がっていた者たちが、手すりから身を乗り出して南西の方角を睨んでいる。
予想外の事態だ。美姫以外の参加者による襲撃の可能性は考えていた。しかし、その中にこちらを圧倒するだけの単純な強さを備えた者がいる、というのは想定の埒外である。
驕りからくるものではない。残りの参加者に関する情報とて、その多くがこの集団には集積されているのだ。必然、残る危険人物についても把握出来ている。
念糸を使う隻腕の黒ずくめ。凄まじい近接戦闘能力を持つ赤毛の男。鮫の悪魔を操る甲斐氷太。小早川奈津子。
敵対する可能性が大きい者たちは、姫を除けばこの4名。全員がかなりの手練れだが、それぞれ協力し合うタイプではない。ひとりずつ相手にするのなら――いや、仮に"偶然"、4人が同時に攻めてきたとしても、戦力的にはこちらが勝る。
だが――単純にこちらの戦力を上回るほどの数とは。
「あれは甲斐氷太の操る悪魔だろう……情報を統合するに、同時に出せるのは最大で2体までという話だったが」
物部景や海野千絵という元の世界での知り合いだったという人物らから得た情報があった為、甲斐の能力についてはほぼ完全に把握できているつもりでいた。カプセルを服用することによって呼び出される白鮫と黒鮫。宙を自在に泳ぎ回り、人間程度なら噛みちぎる力を持つ。
鮫の機動力は厄介だが、それを操るのはただの人間に過ぎない。ならばやりようはいくらでもある――そんな予想は、しかし覆されてしまった。
「≪ドア≫が壊れたんだろう。あれはもはや扉ではなく穴だ。ラッチが馬鹿になっていて、二度と閉じることはない。向こう側から無制限に力が流れ込み続けている」
縛られたままのブギーポップが呟く。死神の感覚は、どうやら甲斐氷太の身に起こった事態をこの場にいる誰よりも把握しているらしい。佐山は尋ねた。
「分かりやすく言うと?」
「甲斐氷太は世界の敵になった。あの悪魔は召喚者が死ぬまで増え続けていく」
「なるほど、明快だね――諸君、敵襲だ! 襲撃してきたのは甲斐氷太の悪魔だが、ブリーフィングで共有した情報と異なりその数は無数となっている! 警戒したまえ!」
後半は足下に用意しておいた拡声器を用い、マンションの周囲に展開している仲間たちに通達する、と――
その放送からわずかに遅れ、眼下から爆音が響いた。
見ると、西側――鮫が向かってくる方の森の一部がごっそり吹き飛んでいる。続いて閃光と振動、強い意志を伴った叫び声が断続的に発生する。どうやら鮫の一部が到達し、マンション周囲で防衛線を張っていた者たちが戦闘を始めたらしかった。
「西側に配置したのはオーフェン君だったな。彼の魔術なら悪魔の群れも押し留められるだろうが……」
長くは持つまい、と佐山・御言は判断する。
このマンションを囲む禁止エリアの配置から、敵が攻め込んでくるなら西側からの可能性が高かった。故に、対応力の高いキエサルヒマの黒魔術師たちを配置したのだが、どうやら功を奏したらしい。
問題はこれほどまでの物量が攻めてくるのは想定していなかったということだ。
アラストールの炎が宿るマンションの一棟。その屋上と1階。そして棟の周囲に人員を配置してあるが、これはどちらかといえば対美姫用の布陣である。
他の敵対する可能性がある者たちの容姿・能力はすべて共有しており、仮に姫の襲来と同時に彼ら全員が攻めてきたとしても凌げる程度には準備をしていた。
だがそこら中から無限に出現する悪魔への対策までは考えてない。ブギーポップの言うとおり本当に無限湧きなら、多少耐えたとしても、先にこちらのリソースが尽きて負けるのは明らかだ。
BBを甲斐の元へ再び向かわせるか――? 回収してきた武器などをパージし、本来の機動性を取り戻した彼なら鮫の群れを躱して、甲斐氷太を無力化できるかもしれない。
だがBBに限らず、こちらから戦力を向かわせるには、ひとつ懸念がある。鮫の悪魔は甲斐氷太のものだろう。だが、そのリミッターを外したのは一体誰なのか。
「ブギーポップ君」
「君の想像通りさ。甲斐氷太の近くにはあの吸血鬼がいるとも」
「……これは甲斐氷太が吸血鬼になった結果だと?」
「さてね。だが美姫の介入があったことは間違いないだろうさ。例のロボット君を差し向けても返り討ちに遭うだけだぜ」
ブギーポップのその台詞が終わる前に、甲高い排気音が空を切り裂いた。
蒼い殺戮者がマンションの上空を通過。それとわずかに遅れて、透明な膜のようなものに包まれたバックパックが落ちてくる。
機械歩兵によって投下されたその物資を包んでいた水は、屋上に落下する際の衝撃を殺すクッションの役割を果たした後、意思持つ水の大蛇と化し、ぐるりと佐山の周囲を取り巻いた。
「お帰り、ムキチくん。息災で何より」
「ぜろざきは うしなわれました」
「そうだね」
呟く。それは、事実だ。自分はまたひとつを取りこぼした。救えなかった。奪われた。
だからといって――もはや止まっていられない。
「本当に、そうだね――女史の出方を待つつもりだったが、その余裕もないようだ」
佐山は拡声器を片手に持ったまま、さらに床に置いてあった木刀を取り上げた。梳牙。ムキチが流れ込み、それは木刀から水の刃へと変じる。
同時、頭上から黒い影が恐るべき早さで落下してくる。白と黒の鮫がおよそ10匹。それは音声魔術の届かぬ高空から、屋上にいる佐山たちを狙った一群であった。
「さあ栄えある佐山・御言の護衛を任された果報者達よ、役目を果たしたまえ。腕の一本くらいなら犠牲にしてもかまわんよ?」
「てめえの為に犠牲になるなんざまっぴらごめんだが」
呆れたような声と共に、落下する鮫の群れを無数の光弾が迎撃する。
声の主は出雲・覚。蒼い殺戮者が落としていったバックパックから必要とする武装を抜き出し、変形させていた。かつて風見・千里が振るっていた概念核兵器・G-Sp2。その砲撃形態。
概念核は己の主人となる者を自ら選別するが、振るうのに何ら支障はない。
それも当然。G-Sp2に内蔵されているのは10th-Gの概念核であり、出雲はその世界の血を引いている。
何より、元の担い手である風見は出雲の半身だった。概念核から自身の主として認められるに、何ら不足はない。
「やるぜ、G-Sp2。千里を守れなかった負け犬同士だ。八つ当たりといこうぜ」
破損したG-Sp2のコンソールが激しく明滅する。肯定か、否定か。だがどちらにせよ、砲口から生み出される破壊の力はその威を増した。光条が直撃した鮫はその身を粉々に崩壊させる。
世界そのものに干渉する力の類いは制限されているとはいえ、そもそも概念核兵器はそうした制限下――母体概念の違うGでさえ力を発揮できるよう設計された兵器だ。万全ではなくとも、十全に近い働きは出来る。
そうして無数に吐き出された光の弾幕は――鮫を2体ほど砕いてその成果とした。
「……あぁ?」
「手加減とは余裕かね出雲」
「うるせえ! もともと砲撃は千里や新庄の役目だったろうが!」
もっとも、砲撃に関して出雲が不得手だったというだけがこの結果を招いたのではない。
鮫たちには原始的ながらも知恵があった。決して馬鹿正直に突撃するだけではない。目に見える脅威に対しては、当然のように回避行動を行う。
「――なら、見えない攻撃に対してはどうだ?」
乾いた音が幾重にも響く。それは指を弾き、踵で屋上のコンクリートを叩き、そして撃鉄が落ちる三種の音による重奏だった。
音が響いた回数だけ、鮫の動きが停止する。そして次の瞬間には原子レベルで分解され、でたらめに再結合し、最後は溶けるように消えていった。
「情報強度は人形使いのゴーストハックよりましってくらいだな。この世に存在しないものを、魔法だの超能力だので無理やり成り立たせてるとか、原理的にはそんなとこか」
手を前に突き出す独特の構えを取ったまま、ヴァーミリオン・CD・ヘイズが呟く。
制限から解き放たれた彼の演算速度は、破砕の領域の威力をも取り戻させていた。情報的に最も強固な魔法士の肉体さえ破壊するヘイズの『情報解体』を防ぐには、I-ブレインのリソースを割いて防壁を展開するか、龍使いによる『絶対情報防御』が必要だ。加えてこの島で出会った者の中では魔法士と似た特性を持つ咒式士、特に生体操作を専門で行うギギナの肉体が情報的には頑丈だろうか。
(まあI-ブレインや論理回路に干渉する術や能力を使う奴もいるし、この鮫だって物量で攻め込まれたらそう保たねえが――それはいつものことだしな)
つまりはいつも通り、ギリギリの戦いをするしかないということだ。
ヘイズのI-ブレインが警告を発する。空間から無秩序に出現する鮫の密度が上昇し続けていた。もしもこの鮫の在庫に限りがないとすれば、およそ3分12秒後に予測演算が間に合わなくなり、自分は晴れて鮫の胃袋に収まることになる。
「そういうわけで、ある程度はそっちに任せるからな」
「軟弱者め」
飛来する鮫の悪魔を鋼が両断した。
侮蔑の台詞と共に大剣を繰り出すのはギギナである。剣舞士はその名を体現するがごとく踊るように他の屋上組の間を駆け抜け、悪魔を次々と切り伏せていく。
宙を泳ぎ、単車と同等の速度で襲いかかってくる人食い鮫――それは超音速で複雑軌道を描く不可視の獣を同時複数体切り伏せ、ビルと同等のサイズを誇る巨人を転がすギギナにとって危うさを感じさせるものではない。
オーナーの制御から外れた悪魔は、咒式士より強大な力を持ちながら、戦術によって人類に敗北した異貌のものどもと変わらない。動きに理性が伴わなければ、ツーパターンどころかただのワンパターンの繰り返しだ。
「私がこの鮫の出所を斬り殺してやってきても良いが?」
「君の足でも先ほど甲斐氷太が確認された場所まで8分弱はかかるだろう。姫や鮫との会敵、目標の移動を想定せずにそのタイムではこちらがやられる方が早い」
佐山の言葉に、ギギナは不満げに鼻を鳴らすだけに留めた。G-Sp2の砲撃と『破砕の領域』を超えて到達する鮫の群れを駆除する作業に戻っていく。
出雲、ヘイズ、ギギナ。この三名が屋上に配置された戦力だ。本来なら戦力としては申し分ない筈だったのだが――
「この状況では足りないね。そうだろう?」
「足りない、とはどういう意味かね」
縄で縛られ、コンクリートに転がったままのブギーポップを食いちぎろうと向かってきた白鮫を、ムキチによる水の刃で切り裂きながら佐山は問う。かつて零崎によってつけられた掌の貫通創は、コミクロンの魔術によって治癒されていた。
「縄で縛られた役立たずを守りながら戦うには足りないと、そういうことさ。約束は守って欲しいな。宮下藤花の肉体の安全は保証してくれるんだろう?」
「……」
死神の言葉に、佐山は黙考する。
ブギーポップの指摘は正しい。この怪人を守りながらではジリ貧だ。屋上から階下へ通じる扉を開け、そこに蹴り込んだとしても安心は出来ない――下の階の窓を破った鮫がブギーポップを食わないとも限らないからだ。
その点で言えば、もっとも安全であろうマンション内部に待機させていた詠子とクリーオウの安否も気遣わねばならないが――
(さきほどから携帯にかけても応答がない。携帯を落としでもしたのか、もしくは――)
最悪のパターンはいくらでも想像できる。だが全てに対応は出来ない。
佐山の表情から何かを読み取ったのか、ブギーポップは囁くように条件を追加した。
「この戒めを解いてくれるのなら、僕は君の仲間に手を出さないと誓おうじゃないか」
「ほう? しかし君は自動的な世界の敵の敵ではなかったのかね?」
「もちろん、ずっとではないよ。しばらくの間だけさ」
「具体的には?」
ブギーポップは僅かに沈黙を挟んでから、
「事前に君の許可を取り付けてから、というのはどうだろうね?」
「これはずいぶんと譲歩したものだ。どういう心変わりだろうか」
「君が世界の敵を制御するというのなら制御してくれればいい。失敗すれば君も考えを改めるかもしれないし、そもそも君が死ねば約束はご破算だからね」
だんだんと増していく鮫の降魚量を横目で確認しながら、佐山は小さくため息をついた。
「条件としては破格だろうが――そちらが嘘をつかないという保証は?」
「おいおい、僕は自動的な存在だぜ? 生まれてこの方、嘘なんてついたことは一度たりともないと断言しよう」
「つまり、保証はないというわけか」
佐山はブギーポップに向けて水刃を振るった。
戒めが切り裂かれ、自由を取り戻したブギーポップが立ち上がり、筒のようなシルエットを取り戻す。
ブギーポップは小首を傾げながら佐山をみつめた。
「交渉成立かい?」
「宮下君の肉体を守るという取引を履行したまでだよ。交渉に一番必要なものは誠実さだからね」
「やあ、僕より嘘つきな奴を見つけたぞ」
嘯きながら、ブギーポップは足下から何かを拾い上げた。
布に包まれた棒状の物体。先ほど、佐山が宮下藤花の肉体に使用しかけた"刻印の解除機"。 ブギーポップが視線で問うと、佐山はどうぞとジェスチャーを返す。
そうしたやりとりと共に布が解かれたそれは、およそ冒涜的な存在であった。
切断された、人間の腕。
呪いの刻印が捺されていることからも、この舞台に集められた参加者の腕とみて間違いはあるまい。
そんな悍ましい物体の一部を手にしながらも、ブギーポップは特に驚いた様子もなく、そのまま自身の左腕に――そこに刻まれた呪いの刻印に死体の腕を触れさせた。
目に見える変化は何もなかった。光も音もない。ただ肉体と魂に刻まれていた何かが変質する感触があった。それまで自身を縛り付けていたものが、周囲を揺蕩うだけの何かに変化したように。
「……偶発的な故障か、あるいは誰かの仕込みか。ある参加者の刻印が機能不全に陥っているのが発見されたらしい。その模造品ということだが」
それは天使長バベルによって機能を狂わされた三塚井ドクロの刻印である。禁止エリアに入っても、制限されていた本来の力を取り戻しても、彼女の刻印は死をもたらさなかった。
それは逆説的に、魂を破壊する機能を迂回して、刻印を無効化する方法があることを意味する。
カーラはその方法をなぞっただけ。切り落としたドクロの腕の刻印を参考にし、同じく切断して保管していた他の参加者の刻印を同様のものに書き換え、さらに転写する機能を加えた。もとより彼女は付与魔術師の出であり、それ自体はさほど苦労することでもなかった。
そうして作成されたのがこの"解除装置"だ。刻印に接触させると、三塚井ドクロの刻印が自壊したプロセスが再現される。つまりは刻印の呪殺機能を発動させず、他言語理解などの有益な機能はそのままに、刻印のもたらす負の影響を全て破壊する。
故に――死神はここに、その機能を全て取り戻した。
「感謝するよ、佐山君。ようやく僕の仕事に取りかかれそうだ」
「感謝の気持ちは行動で示していただこう、約束は守ってくれるのだろうね? 私の陣営にいる二人には、いまのところ手を出さないと」
「もちろんだとも。だがひとつ訂正しておこう――」
鷹揚に頷きながらも、死神は佐山の誤りを正す。
「――君の仲間に、世界の敵はひとりしかいないよ」
「なに?」
死神の言葉に佐山は疑問符を浮かべる。十叶詠子とカーラ。二人の魔女は、それぞれ方向性は違うにしても、世界の敵に足る人物だと思っていたが――
「さて、時間はかなり押しているようだ。悪いが僕はこれで失礼するとしよう。また会えることを祈っているよ、佐山君」
そんな言葉を残して、ブギーポップは屋上から飛び降りた。
鮫は死神に見向きもしない。ベランダの手すりを楔に最低限の減速を繰り返しながら、あっという間に地表に到達し、闇に紛れてしまう。
「せっかちなことだね――だが、時間がないというのは確かにその通りだ」
迷っている暇はない。この悪魔は無限に増え続けるのだろう。オーナーである甲斐氷太を殺害すれば止まるのかもしれないが、近くには姫がいる。ギギナや蒼い殺戮者などの鮫の群れをくぐり抜けて接敵出来る実力者を送り出したところで、あの吸血鬼によって返り討ちに合う可能性がある以上、悪魔に対処してから吸血鬼に挑むという真っ当な対処法はとれない。
「ならば対処法はひとつ――両方、同時に進めるだけだとも」
そうして佐山は、拡声器のスイッチに指をかけた。
◇◇◇
屋上から飛び降りたブギーポップは、怪我ひとつなく地上に着地していた。
浄罪の炎に燃える棟を背後に進むと、進行方向に落ちる筒のような影が際立って見える。
その影の道を進みながら、ブギーポップは世界の敵を想う。
もとより世界の敵などいつだって、どこにだっている。ブギーポップは自動的にそれらを殺していくだけだが、刻印を解除したいまになっても、ひとつだけ確かめねばならないことがあった。
そうして死神は炎で照らし出された中を進んでいく。存在感のない影法師のようなそいつは滑るように、物音ひとつ立てずに移動して――
カチャリ、とあり得ざる音が響いた。
それは金属を蹴りつけた甲高い音。ブギーポップは不思議そうに自らの足下を見る。
「これはこれは、エンブリオ君じゃないか」
『……ああ?』
エジプト十字を模したペンダント。その中に封じ込められたとあるMPLSの精神波のコピー。
それはBBが自殺を試みた際に落とし、そしてそのまま忘れ去られていたエンブリオだった。
高空からの落下により、あちこちに傷がついているが、その程度では精神波を留められなくなるほどの損傷には至らなかったらしい。
ブギーポップとこのペンダントは、故郷となる世界を同じとする。さらに言えば、ちょっとした因縁もあった。元々、携帯ゲーム機に封じ込められていた精神波をこの十字架に移し替えたのがブギーポップなのだ。
久しぶりにあった知人に挨拶するような気軽さで声をかけたブギーポップに、だがエンブリオはため息をついて。
『死に損ねたと思ったら、今度はまた変な奴が来たな――』
そして次に口にしたのは実に奇妙な言葉。
『――誰だよ、お前?』
「……ふむ」
ブギーポップはエンブリオを拾い上げると、何かを確かめるようにじっと見つめた。
しばらくそうした後、納得するようにひとつ頷いて独りごちる。
「なるほど、心の証明というのはそういう意味か。付き合うつもりもなかったが、もともと僕には解答権がなかったようだ」
『お前、何を言ってるんだ?』
「独り言だよ。ところでエンブリオ君、君はいまここで死にたいかい? 何なら僕がここでそのペンダントから解き放ってあげてもいいんだが」
『……』
死神のそんな問いかけに、エンブリオは数瞬黙考したが、すぐに答えを返した。
『……いや、なんとなくお前には殺されたくない気がする』
「うん、君がエンブリオ君ならそう答えるだろうね」
『どういう意味だ?』
「この舞台は意地が悪い造りになっているということさ――さて、君はあるべきところに帰った方がいいだろう」
ペンダントをマントの内側にしまい込むと、ブギーポップは歩みを再開する。
『帰るだって? おいおい、このくそったれた島から出られたとしても、また統和機構の研究所に戻されるってんなら――』
「さて、未来なんて誰にも分からないものさ。君が望むなら、そうならない結末にたどり着ける可能性だってきっとあるだろうとも」
『ワケわかんねえな……』
そうして肉声でない言葉を交わしながら、彼らは闇に紛れて消えた。
浄罪の炎に燃える棟を背後に進むと、進行方向に落ちる筒のような影が際立って見える。
その影の道を進みながら、ブギーポップは世界の敵を想う。
もとより世界の敵などいつだって、どこにだっている。ブギーポップは自動的にそれらを殺していくだけだが、刻印を解除したいまになっても、ひとつだけ確かめねばならないことがあった。
そうして死神は炎で照らし出された中を進んでいく。存在感のない影法師のようなそいつは滑るように、物音ひとつ立てずに移動して――
カチャリ、とあり得ざる音が響いた。
それは金属を蹴りつけた甲高い音。ブギーポップは不思議そうに自らの足下を見る。
「これはこれは、エンブリオ君じゃないか」
『……ああ?』
エジプト十字を模したペンダント。その中に封じ込められたとあるMPLSの精神波のコピー。
それはBBが自殺を試みた際に落とし、そしてそのまま忘れ去られていたエンブリオだった。
高空からの落下により、あちこちに傷がついているが、その程度では精神波を留められなくなるほどの損傷には至らなかったらしい。
ブギーポップとこのペンダントは、故郷となる世界を同じとする。さらに言えば、ちょっとした因縁もあった。元々、携帯ゲーム機に封じ込められていた精神波をこの十字架に移し替えたのがブギーポップなのだ。
久しぶりにあった知人に挨拶するような気軽さで声をかけたブギーポップに、だがエンブリオはため息をついて。
『死に損ねたと思ったら、今度はまた変な奴が来たな――』
そして次に口にしたのは実に奇妙な言葉。
『――誰だよ、お前?』
「……ふむ」
ブギーポップはエンブリオを拾い上げると、何かを確かめるようにじっと見つめた。
しばらくそうした後、納得するようにひとつ頷いて独りごちる。
「なるほど、心の証明というのはそういう意味か。付き合うつもりもなかったが、もともと僕には解答権がなかったようだ」
『お前、何を言ってるんだ?』
「独り言だよ。ところでエンブリオ君、君はいまここで死にたいかい? 何なら僕がここでそのペンダントから解き放ってあげてもいいんだが」
『……』
死神のそんな問いかけに、エンブリオは数瞬黙考したが、すぐに答えを返した。
『……いや、なんとなくお前には殺されたくない気がする』
「うん、君がエンブリオ君ならそう答えるだろうね」
『どういう意味だ?』
「この舞台は意地が悪い造りになっているということさ――さて、君はあるべきところに帰った方がいいだろう」
ペンダントをマントの内側にしまい込むと、ブギーポップは歩みを再開する。
『帰るだって? おいおい、このくそったれた島から出られたとしても、また統和機構の研究所に戻されるってんなら――』
「さて、未来なんて誰にも分からないものさ。君が望むなら、そうならない結末にたどり着ける可能性だってきっとあるだろうとも」
『ワケわかんねえな……』
そうして肉声でない言葉を交わしながら、彼らは闇に紛れて消えた。
◇◇◇
「我は砕く原始の静寂!」
呪文に乗せられた魔力が、展開した構成に従って世界を書き換える。
目前で発動した空間破砕の魔術は、迫りくる鮫の悪魔の群れを粉々に打ち砕いた。
一匹、二匹、三匹、四匹――空間のねじれに巻き込まれて引きちぎれる巨体をそこまで数えたところで、視界を確保するため魔術で吹き飛ばし、その境界を後退させた森の向こうから新たな群れが迫ってくる。
甲斐氷太の悪魔と接敵してから数十秒というところだろうが、すでに大規模な魔術を何度も使っている。僅かに乱れる息を整えながら、しかしオーフェンは思わず悪罵を吐いた。
「くそったれ、マジできりがねえぞ。数が多すぎる。戦線もくそもねえ」
その言葉を証明するように、頭上から音もなく黒鮫が落下する。
鋭い牙の並んだ大顎は、オーフェンの頭を茎から果実を外すように容易くもぎ取っただろう――ただし、その間に不可視の障壁が存在しなければだが。
「おい、キリランシェロ! もう障壁が持たんぞ!」
防御術を維持しているコミクロンの悲鳴が背後から飛ぶ。最初にオーフェンが放った魔術の爆音を聞きつけ、すぐさま駆けつけたのだ。
黒魔術士が二人いれば、攻撃と防御の術を同時に使える。それを理由に隣り合った配置にされたのだが、さっそく効果はあった。さもなければこれほどの大魔術を連発できるほどの余裕は生まれなかっただろう。
「我は歌う破壊の聖音!」
呪文が響くのを追うように、破壊の波動が広がっていく。
連鎖自壊が障壁ごと周囲の鮫を残らず自壊させる。自壊の波動はさらに前方へ伸び、森の中から出てこようとする鮫の群れの頭を潰した。
その間にコミクロンが再び魔術による障壁を展開し、さらにオーフェンが二発、三発と魔術を連打して鮫の群れを森の向こうへと押し返す。
「そんなに連発して大丈夫か?」
「大丈夫なわけあるか……いつもだったらもう息切れが始まってるだろうよ」
二人の黒魔術士は、横目で自分たちの近くに鎮座する、子供が葉っぱを材料にして作った犬のような生き物を見やる。
『たべほうだい』
ぷしゅー、と新鮮な空気を吐き出しながら、コミクロンのもとに預けられていた草の獣が満足そうな声を上げる。
事前のブリーフィングで互いの得意分野や異能などを開示した際、草の獣の疲労回復効果と相性がいいのは誰か、という話になった。
最終的に衛生兵のような扱いとしてコミクロンと組まされたのだが、現在のように固定砲台のような運用をするならキエサルヒマの黒魔術士との相性は決して悪くない。魔術を使った端から疲労を吸収しているのだろう。常と比べると気味が悪いほど疲れを感じない。
だが、とオーフェンは額の汗を拭いながら続けた。
「カロリーを補ってくれる訳じゃないからな……回復自体も疲労を全て相殺するほどじゃない。このまま敵の攻勢が続くなら3分と持たず鮫の餌だ」
「どうするんだ?」
「どうするもこうするも、親玉が近くにいるんならともかく、そんな雰囲気でもねえしな。現状維持しつつ、根本的な対応は佐山の奴に任せるしかない」
一応、指揮系統のトップと認めたわけだしな、と背後の建物の屋上辺りへ視線をやる。
組織が組織である為に重要なのは命令系統をはっきりさせることだ。各自がそれぞれ勝手にやり始めれば組織ではなくただの個人の集まりへと成り下がる。
姫と呼ばれる吸血鬼への対策に必要なのは頭数だった。
最低でも10人――10カ所に人員を配置しなければいけないということらしい。幸い集まったメンバーの数的には余裕があったし、戦闘力のないクリーオウは10カ所のなかでもっとも安全な位置につけられた。
(とはいえ――ここまでの大攻勢は想定されてなかった)
既にオーフェンたちのいる位置は最前線ではなくなっていた。辺りから戦闘音が聞こえ始めている。異形の鮫たちは、すでにマンションを包囲しつつあった。
今すぐ彼女を助けに行きたい気持ちはある。だが、それこそ勝手をすれば組織の崩壊を招き、助かるものも助からなくなってしまう。
苛立ちを魔術に乗せて、オーフェンはさらに魔術の構成を拡大する。音声魔術は呪文が届く場所までしか効果を及ぼせない。相応の声量を発するため、肺を大きく膨らませ――
しかし響き渡ったのは、オーフェンの声ではなかった。
『――世界の中心より、佐山・御言が諸君らに告げよう』
島中に平等に高鳴る、しかしそれでいて発信源も特定できるという不思議な響き。
オーフェンは頭上を見上げた。アラストールの炎に包まれる一棟の屋上。これはそこにいる筈の男の声だ。
「佐山の奴、始めやがったな。ヴァンパイアへの対処を優先するってことか」
「どうする? 俺も定位置についてた方がいいか?」
障壁を張り直しながら、コミクロンが尋ねてくるが、
「……いや、ぎりぎりまでここを手伝ってくれ。正直、連携しなけりゃこの数は相手にできん」
「分かった。それは良いが――他の連中は大丈夫だと思うか? 理屈はよく分からんかったが、全員が定位置にいないと不味いのだろう?」
「……祈るしかねえな」
呪文に乗せられた魔力が、展開した構成に従って世界を書き換える。
目前で発動した空間破砕の魔術は、迫りくる鮫の悪魔の群れを粉々に打ち砕いた。
一匹、二匹、三匹、四匹――空間のねじれに巻き込まれて引きちぎれる巨体をそこまで数えたところで、視界を確保するため魔術で吹き飛ばし、その境界を後退させた森の向こうから新たな群れが迫ってくる。
甲斐氷太の悪魔と接敵してから数十秒というところだろうが、すでに大規模な魔術を何度も使っている。僅かに乱れる息を整えながら、しかしオーフェンは思わず悪罵を吐いた。
「くそったれ、マジできりがねえぞ。数が多すぎる。戦線もくそもねえ」
その言葉を証明するように、頭上から音もなく黒鮫が落下する。
鋭い牙の並んだ大顎は、オーフェンの頭を茎から果実を外すように容易くもぎ取っただろう――ただし、その間に不可視の障壁が存在しなければだが。
「おい、キリランシェロ! もう障壁が持たんぞ!」
防御術を維持しているコミクロンの悲鳴が背後から飛ぶ。最初にオーフェンが放った魔術の爆音を聞きつけ、すぐさま駆けつけたのだ。
黒魔術士が二人いれば、攻撃と防御の術を同時に使える。それを理由に隣り合った配置にされたのだが、さっそく効果はあった。さもなければこれほどの大魔術を連発できるほどの余裕は生まれなかっただろう。
「我は歌う破壊の聖音!」
呪文が響くのを追うように、破壊の波動が広がっていく。
連鎖自壊が障壁ごと周囲の鮫を残らず自壊させる。自壊の波動はさらに前方へ伸び、森の中から出てこようとする鮫の群れの頭を潰した。
その間にコミクロンが再び魔術による障壁を展開し、さらにオーフェンが二発、三発と魔術を連打して鮫の群れを森の向こうへと押し返す。
「そんなに連発して大丈夫か?」
「大丈夫なわけあるか……いつもだったらもう息切れが始まってるだろうよ」
二人の黒魔術士は、横目で自分たちの近くに鎮座する、子供が葉っぱを材料にして作った犬のような生き物を見やる。
『たべほうだい』
ぷしゅー、と新鮮な空気を吐き出しながら、コミクロンのもとに預けられていた草の獣が満足そうな声を上げる。
事前のブリーフィングで互いの得意分野や異能などを開示した際、草の獣の疲労回復効果と相性がいいのは誰か、という話になった。
最終的に衛生兵のような扱いとしてコミクロンと組まされたのだが、現在のように固定砲台のような運用をするならキエサルヒマの黒魔術士との相性は決して悪くない。魔術を使った端から疲労を吸収しているのだろう。常と比べると気味が悪いほど疲れを感じない。
だが、とオーフェンは額の汗を拭いながら続けた。
「カロリーを補ってくれる訳じゃないからな……回復自体も疲労を全て相殺するほどじゃない。このまま敵の攻勢が続くなら3分と持たず鮫の餌だ」
「どうするんだ?」
「どうするもこうするも、親玉が近くにいるんならともかく、そんな雰囲気でもねえしな。現状維持しつつ、根本的な対応は佐山の奴に任せるしかない」
一応、指揮系統のトップと認めたわけだしな、と背後の建物の屋上辺りへ視線をやる。
組織が組織である為に重要なのは命令系統をはっきりさせることだ。各自がそれぞれ勝手にやり始めれば組織ではなくただの個人の集まりへと成り下がる。
姫と呼ばれる吸血鬼への対策に必要なのは頭数だった。
最低でも10人――10カ所に人員を配置しなければいけないということらしい。幸い集まったメンバーの数的には余裕があったし、戦闘力のないクリーオウは10カ所のなかでもっとも安全な位置につけられた。
(とはいえ――ここまでの大攻勢は想定されてなかった)
既にオーフェンたちのいる位置は最前線ではなくなっていた。辺りから戦闘音が聞こえ始めている。異形の鮫たちは、すでにマンションを包囲しつつあった。
今すぐ彼女を助けに行きたい気持ちはある。だが、それこそ勝手をすれば組織の崩壊を招き、助かるものも助からなくなってしまう。
苛立ちを魔術に乗せて、オーフェンはさらに魔術の構成を拡大する。音声魔術は呪文が届く場所までしか効果を及ぼせない。相応の声量を発するため、肺を大きく膨らませ――
しかし響き渡ったのは、オーフェンの声ではなかった。
『――世界の中心より、佐山・御言が諸君らに告げよう』
島中に平等に高鳴る、しかしそれでいて発信源も特定できるという不思議な響き。
オーフェンは頭上を見上げた。アラストールの炎に包まれる一棟の屋上。これはそこにいる筈の男の声だ。
「佐山の奴、始めやがったな。ヴァンパイアへの対処を優先するってことか」
「どうする? 俺も定位置についてた方がいいか?」
障壁を張り直しながら、コミクロンが尋ねてくるが、
「……いや、ぎりぎりまでここを手伝ってくれ。正直、連携しなけりゃこの数は相手にできん」
「分かった。それは良いが――他の連中は大丈夫だと思うか? 理屈はよく分からんかったが、全員が定位置にいないと不味いのだろう?」
「……祈るしかねえな」
◇◇◇
『――界の中心より、佐山・御言が諸君らに――』
島中に響き始めたその声を聞く余裕は、残念ながら無かったが。
マンションの北東に配置されたフリウ・ハリスコーは短く息を切らしながら、黒鮫の襲撃を必死に凌いでいた。
数十秒前、西から立て続けに爆音が響いた後、この見たこともない凶悪な形状の魚類は音もなく空中から襲いかかってきた。佐山の警告と、突然の轟音に警戒していなければ、そのまま死んでいたかもしれない。
地面から3メートルほどの高さを泳ぐそれが回頭し、何度目かしれない突撃体勢を取る。
「この……っ」
対抗するように放った念糸は、凄まじい速度で突進してくる鮫に一瞬だけ触れ、その効力を発揮した。突撃の軌道を捻じ曲げられた鮫が、勢いそのままに地面へと激突する。
巨体はさほど跳ねもせず、そのままアスファルトを削るように数メートルを転がっていったが、尾びれで宙をひとつ叩くと、すぐにまた空中へ舞い戻った。大したダメージもないらしく、悠然と泳ぎながら、その魚類特有の感情のない瞳をこちらに向けてくる。
(堅い……やっぱり念糸で傷つけるのは無理だ)
鮫そのものを捻じ切るのは最初の接触で諦めた。精霊そのものよりはマシだが、念糸越しに反動も感じる。似たような存在なのだろう。ならば念糸のサークルで捕らえることも出来そうだったが、どのみち長くはできないので意味はない。
(接触を最小限にして、軌道を変える……体力と集中が続く内は避け続けられるかな)
休憩を挟み、腕の鈍痛はかなり引いている。周囲を飛び回っていた人精霊はいつものように鮫に食われた。念糸の集中を妨げるものはない。
顎下まで流れ落ちる汗を拭う。自然と顔が天を仰いだ。視線は夜空を泳ぐ黒鮫へと注がれ、
(――相手が一匹だけだったら)
そして、その向こうから無音で近づいてくる白鮫の姿を捉えた。
黒鮫が呼び寄せたというわけではないだろう。すでに屋上にはかなりの数が殺到している。その内の一頭が狩り場にあぶれ、こちらを見つけたらしい。
フリウはどっと背筋に冷や汗が吹き出すのを自覚した。二匹同時に念糸を結ぶことは出来る。だが集中に要する労力は2倍どころではない。
そして白鮫と黒鮫はフリウにとって最悪の選択をしてくれた。二匹は空中で交差すると、左右に分かれ、挟み撃ちにするように襲ってくる。
「ああ、もう!」
フリウは念糸を紡ぎながら苛立ちの声をあげた。視界外の物体に対しても念糸は使えるが、それに要する集中力は当然跳ね上がる。
この手法は長くは持たない。だが対応をしないわけにも行かない。二匹の鮫に繋いだ念糸の威力を発揮させようとする。
その寸前、少女の声が響いた。
「――そいつら、地面に叩き付けて!」
「!」
声に従い、フリウは先ほどと同じように鮫の軌道を地面に直撃するよう捻った。加えて念糸のサークルで捉える。反動は精霊ほどではないが、完全に動きを封じることも出来ない。しかし、鮫の動きは見るからに遅くなった。それまで自在に泳いでいた空間に、大量の水飴でも注ぎ込まれたかのように。
そしてその動きの鈍った悪魔に飛びかかる人影があった。
「――斬!」
火乃香は騎士剣を振るい、それぞれの鮫の頭部を唐竹割りに切り開いた。脳が破壊されたからか、果てまたそれ以外の急所でもあるのか、二匹の鮫が溶けるように消えていく。
血や脂が付着しているわけでもないが、癖なのだろう。血払いのような動作をしてから、火乃香がこちらに慮るような視線を向けてくる。
「怪我は?」
「へ、平気…・・・あの、ありがとう。助かった」
乱れる息を整えながらフリウが感謝を伝える。しかし、火乃香は気まずい笑みを浮かべて首を振った。
「どっちかっていうと、こっちが助けて貰いに来たんだけど・・・・・・」
「・・・・・・へ?」
間抜けな子を漏らすフリウに、火乃香が自身のやってきた方向(彼女の配置はマンションの北側だった)を顎の動きで示す。
見ればそちらの方から、6匹の鮫がゆらりと姿を現すところだった。どうやら火乃香を追ってきたらしい。
「な……なんで!?」
「この得物じゃリーチが足りないんだよ。一匹だけならともかく、あんなにこられちゃ……ヒレを切り落としたくらいじゃ死なないみたいだし」
見れば鮫の身体のあちこちに刀傷の痕跡のようなものが見えた。痕跡というのは、今まさに肉が盛り上がって再生していくところだったからだ。どうやら多少の傷はすぐに治ってしまうらしい。
これでは確かに短剣サイズの騎士剣・陰では、四方八方から凄まじい勢いで突撃してくる巨大な鮫の群れを相手に致命傷を与えるのは難しい。
それでもやり合おうとした代償か、火乃香も無傷ではないようだった。いてて、と顔をしかめながら脇腹を押さえている。突進を避け損なったのか、尾びれで叩かれでもしたのか。怪我の程度は分からないが、その動きは普段の精彩を欠いている。
フリウの視線に気づいたらしい、火乃香は苦笑しながら肩を竦めて見せた。
「心配するほどじゃないよ。あとでコミクロンに治して貰うから。けれど今は頼りにさせて貰うよ。さっきみたいに動きを止めてくれればいい」
と、短剣を構えて迎撃の姿勢をとる火乃香に、
「無理だよ。さすがにあの数は……」
「へ?」
弱気に返すフリウ。火乃香は慌てて隻眼の少女を振り返る。
そもそも極度の集中を要する念糸能力で、複数の対象に同時に効果を及ぼすという時点で無茶なのだ。フリウはその常識を知らないが故に複数の念糸を操れるが、離れ業なのは変わらない。対象が増えるごとに、難易度は跳ね上がっていく。6体というのは、念糸の作用を及ぼすだけなら不可能ではないが、反動に耐えながらということであれば話は別だ。
「じゃあどうすんの! もう鮫くるよ!?」
「あ、あたしに言われたって困るよ!」
「あの巨人は!?」
「まだ使えない! 砕かれてから力が回復しきってないの!」
「……そういえばつり目の魔術で吹っ飛ばしたんだっけ。あれで死んでないのも驚きだけど」
「じゃ、じゃあこうしよう。3匹を念糸で止めるから、そっちも3匹食い止めて――」
「だからこの得物じゃ無理だってば! あんたが半分縛ったとして、残りがあたしだけを狙うって保証も――」
「やっと脱出できた。聞きたいか、俺のスペクタクル――」
「うるっさい!」
ふらふらと視界に入ってきた人精霊を、火乃香がむんずと掴んで鮫の群れに向かって投擲する。フリウはなんとなく右目でその軌道を追ったが、
「あ、食べられた。満足したのかな、一匹どっか行ったね……スィリー、増殖してないかな。あと五匹分……」
「あの人虫も増えるの? ある意味鮫よりも厄介だね……って、言ってる場合じゃない!」
言っている場合ではなかった。五匹の魚群はその速度を増し、二人の少女を食い千切らんとする明確な意思を発している。
半々に分かれてくれればしばらく凌げるかもしれないが、五匹全てが一斉にフリウを狙えばその時点で終わりだ。念糸で三匹を止めたとしても、残り二匹を火乃香は抑えきれない。
だがそれでも対応はしなければならない。火乃香が破れかぶれに前にでた。フリウも先行する三匹に当たりを付けて集中する。
だが、更なる高速を以て、その魚群を背後から追い越す影が現れた。
(新手!?)
フリウは咄嗟に念糸の対象を切り替えた。突然のことでその他の念糸は霧散してしまったが、仕方ない。まずは突出するこの一匹を防がなければ。高速で迫る霞む影へと思念を注ぐ。
だが念糸の効果は発揮されなかった。水に落とした砂糖菓子の如く霧散していくそれを、フリウは視界の端に認める。
(念糸が……切断された!?)
物理的な存在でない念糸に干渉できる術は限られている。ましてや一方的に切断するともなれば脅威以外の何物でも無い。
だがその"脅威"は、振り抜いた騎士剣の腹でフリウを制した。
「落ち着きなって。あれは――」
念糸を断ち切った火乃香が言葉を紡ぐよりも速く、それがフリウ達の頭上を通過する。
蒼い装甲の自動歩兵。ブルー・ブレイカーが急上昇し、その姿を小さくしていく。
そして対照的に、仰ぎ見る視界の中にだんだんと大きくなってくるものがあった。落下物。やや反りのある直線的な形状。フリウはそれに見覚えがあった。
(あれって、アイザックが持ってた……)
すぐに思い出せたのは、少し前に全員で行った"話し合い"のお陰だ。
その話し合いの中で、支給品を始めとした物資についての話題が出た。蒼い殺戮者による回収を前提としたその話し合いの中で、各自が求める品をリストアップしたのだ。
そして、アイザックが持っていたような形状の剣を望んだのは――
「いいね、最高のプレゼントだ!」
空から自動歩兵が投下したそれを、火乃香が掴み取る。次いで前方から迫る鮫の群れを額の瞳に映し、少女は駆けた。
刹那の内に銀光が閃く。抜き打ちの一刀が先頭の鮫の頭部を切り落とし、翻る二ノ太刀が続く二匹目を唐竹割りに。刃の背に手を添えて三匹目を開きにする。
火乃香一人ではそこまでが限界だった。間隙無く続く四、五匹目に刃を振るう余裕はない。二対の顎が少女の肉を切り裂こうと迫る。
それを防いだのはフリウの念糸だった。念糸で紡いだ二つのサークルが鮫の悪魔をそれぞれ捕らえ、その動きを緩慢にさせていく。
そうなれば後は火乃香の敵ではなかった。残りの悪魔を片付けると、刀使いは自らの手に戻ってきた愛剣を手慣れた様子で黒鞘に納める。
「……凄いね。あんな化け物を剣一本で」
念糸の反動に痺れた体を震わせながら、フリウが呟く。自身のハンター仲間にも剣を使う者はいるが、精霊に近しい存在を斬り裂くなど試そうとも思わないだろう。
「あたしが元々持ってた得物だ。これさえあれば誰にも負けない――って言いたいところだけど、あんたの援護がなければ厳しかったかな」
闇夜の中に遠ざかっていく蒼い機体へ視線を送りながら火乃香。
支給品および零崎の回収がブルーブレイカーに与えられた役割だった。高速で飛行でき、さらに完調した各種センサ類でおおよそのあたりが付いていれば物資を見つけ出せるという最適な人選だ。
物資を回収・分配してから吸血鬼に挑むというのが本来の予定だった。
だが、あまりにも唐突過ぎるこの襲撃を前にしては、それぞれが臨機応変に対応しなければならない。
宙を飛ぶ白黒の鮫。指揮されていない今の状態なら、危うげ無く処理できる者も多いだろう。
だがそれも一対一ならの話だ。多いということはそれだけで脅威になる――体力は有限だからだ。どれくらい持つかは群れの配分によるだろうが、このままの状態が続けば遠からず敗北することに変わりは無い。
そんな現状を前にして、フリウはうんざりするように首を振った。
「念糸は集中力を使うから……反動もあるし、長くは続けられないよ」
「問題はそこだよねぇ……敵の数が多すぎるってだけじゃない。凄い勢いで増え続けてる。これじゃあいくら斬ってもきりが無い」
周囲を睨むようにしながら、火乃香が呟く。周囲の気の数が爆発的に増大している。刻印を解除した後、気を感知する精度は上昇したが、本来のモノにはまだ遠い。
響き渡る佐山の演説を耳にしながら、火乃香は小さく嘆息した。
「それでも佐山は吸血鬼対策を優先させた……いや、せざるを得なかったのかな」
佐山・御言という存在について、火乃香はこの短い時間で多少は掴んでいた。言動は尊大そのもので、下手すれば気狂いの領域に大股一歩分ほど入り込んでいるが、決して無能ではない。
その佐山がリスクの大きい方策をとったということは、それだけ状況が逼迫しているということだ。
「作戦通り吸血鬼を無力化できても、一息つけるのはまだ先か」
ため息と共に、火乃香は鞘に納めたカタナで自身の肩を叩く。と――
「……無力化なんて、できるのかな」
聞かせるつもりはなかったのだろう。そんなフリウの小さな呟きに、だが何かを感じ取って、火乃香は訝しむように隻眼の少女へ視線を注いだ。
「何かあるの? 例の吸血鬼について何か知ってるとか」
「そういうわけじゃないけど……」
それっきり、フリウは口を閉ざしてしまう。
実際のところ、明確な何かがあったわけでもないのだろう。それを言語化する手伝いは自分には向いていない――火乃香はそう判断した。どのみち、そんな時間も余裕も無い。鮫の悪魔による襲撃も続いている。
(聞くとしても、全部終わった後だね)
密やかにそう決めて、火乃香は再び襲い来る巨大な魚影へ集中した。
島中に響き始めたその声を聞く余裕は、残念ながら無かったが。
マンションの北東に配置されたフリウ・ハリスコーは短く息を切らしながら、黒鮫の襲撃を必死に凌いでいた。
数十秒前、西から立て続けに爆音が響いた後、この見たこともない凶悪な形状の魚類は音もなく空中から襲いかかってきた。佐山の警告と、突然の轟音に警戒していなければ、そのまま死んでいたかもしれない。
地面から3メートルほどの高さを泳ぐそれが回頭し、何度目かしれない突撃体勢を取る。
「この……っ」
対抗するように放った念糸は、凄まじい速度で突進してくる鮫に一瞬だけ触れ、その効力を発揮した。突撃の軌道を捻じ曲げられた鮫が、勢いそのままに地面へと激突する。
巨体はさほど跳ねもせず、そのままアスファルトを削るように数メートルを転がっていったが、尾びれで宙をひとつ叩くと、すぐにまた空中へ舞い戻った。大したダメージもないらしく、悠然と泳ぎながら、その魚類特有の感情のない瞳をこちらに向けてくる。
(堅い……やっぱり念糸で傷つけるのは無理だ)
鮫そのものを捻じ切るのは最初の接触で諦めた。精霊そのものよりはマシだが、念糸越しに反動も感じる。似たような存在なのだろう。ならば念糸のサークルで捕らえることも出来そうだったが、どのみち長くはできないので意味はない。
(接触を最小限にして、軌道を変える……体力と集中が続く内は避け続けられるかな)
休憩を挟み、腕の鈍痛はかなり引いている。周囲を飛び回っていた人精霊はいつものように鮫に食われた。念糸の集中を妨げるものはない。
顎下まで流れ落ちる汗を拭う。自然と顔が天を仰いだ。視線は夜空を泳ぐ黒鮫へと注がれ、
(――相手が一匹だけだったら)
そして、その向こうから無音で近づいてくる白鮫の姿を捉えた。
黒鮫が呼び寄せたというわけではないだろう。すでに屋上にはかなりの数が殺到している。その内の一頭が狩り場にあぶれ、こちらを見つけたらしい。
フリウはどっと背筋に冷や汗が吹き出すのを自覚した。二匹同時に念糸を結ぶことは出来る。だが集中に要する労力は2倍どころではない。
そして白鮫と黒鮫はフリウにとって最悪の選択をしてくれた。二匹は空中で交差すると、左右に分かれ、挟み撃ちにするように襲ってくる。
「ああ、もう!」
フリウは念糸を紡ぎながら苛立ちの声をあげた。視界外の物体に対しても念糸は使えるが、それに要する集中力は当然跳ね上がる。
この手法は長くは持たない。だが対応をしないわけにも行かない。二匹の鮫に繋いだ念糸の威力を発揮させようとする。
その寸前、少女の声が響いた。
「――そいつら、地面に叩き付けて!」
「!」
声に従い、フリウは先ほどと同じように鮫の軌道を地面に直撃するよう捻った。加えて念糸のサークルで捉える。反動は精霊ほどではないが、完全に動きを封じることも出来ない。しかし、鮫の動きは見るからに遅くなった。それまで自在に泳いでいた空間に、大量の水飴でも注ぎ込まれたかのように。
そしてその動きの鈍った悪魔に飛びかかる人影があった。
「――斬!」
火乃香は騎士剣を振るい、それぞれの鮫の頭部を唐竹割りに切り開いた。脳が破壊されたからか、果てまたそれ以外の急所でもあるのか、二匹の鮫が溶けるように消えていく。
血や脂が付着しているわけでもないが、癖なのだろう。血払いのような動作をしてから、火乃香がこちらに慮るような視線を向けてくる。
「怪我は?」
「へ、平気…・・・あの、ありがとう。助かった」
乱れる息を整えながらフリウが感謝を伝える。しかし、火乃香は気まずい笑みを浮かべて首を振った。
「どっちかっていうと、こっちが助けて貰いに来たんだけど・・・・・・」
「・・・・・・へ?」
間抜けな子を漏らすフリウに、火乃香が自身のやってきた方向(彼女の配置はマンションの北側だった)を顎の動きで示す。
見ればそちらの方から、6匹の鮫がゆらりと姿を現すところだった。どうやら火乃香を追ってきたらしい。
「な……なんで!?」
「この得物じゃリーチが足りないんだよ。一匹だけならともかく、あんなにこられちゃ……ヒレを切り落としたくらいじゃ死なないみたいだし」
見れば鮫の身体のあちこちに刀傷の痕跡のようなものが見えた。痕跡というのは、今まさに肉が盛り上がって再生していくところだったからだ。どうやら多少の傷はすぐに治ってしまうらしい。
これでは確かに短剣サイズの騎士剣・陰では、四方八方から凄まじい勢いで突撃してくる巨大な鮫の群れを相手に致命傷を与えるのは難しい。
それでもやり合おうとした代償か、火乃香も無傷ではないようだった。いてて、と顔をしかめながら脇腹を押さえている。突進を避け損なったのか、尾びれで叩かれでもしたのか。怪我の程度は分からないが、その動きは普段の精彩を欠いている。
フリウの視線に気づいたらしい、火乃香は苦笑しながら肩を竦めて見せた。
「心配するほどじゃないよ。あとでコミクロンに治して貰うから。けれど今は頼りにさせて貰うよ。さっきみたいに動きを止めてくれればいい」
と、短剣を構えて迎撃の姿勢をとる火乃香に、
「無理だよ。さすがにあの数は……」
「へ?」
弱気に返すフリウ。火乃香は慌てて隻眼の少女を振り返る。
そもそも極度の集中を要する念糸能力で、複数の対象に同時に効果を及ぼすという時点で無茶なのだ。フリウはその常識を知らないが故に複数の念糸を操れるが、離れ業なのは変わらない。対象が増えるごとに、難易度は跳ね上がっていく。6体というのは、念糸の作用を及ぼすだけなら不可能ではないが、反動に耐えながらということであれば話は別だ。
「じゃあどうすんの! もう鮫くるよ!?」
「あ、あたしに言われたって困るよ!」
「あの巨人は!?」
「まだ使えない! 砕かれてから力が回復しきってないの!」
「……そういえばつり目の魔術で吹っ飛ばしたんだっけ。あれで死んでないのも驚きだけど」
「じゃ、じゃあこうしよう。3匹を念糸で止めるから、そっちも3匹食い止めて――」
「だからこの得物じゃ無理だってば! あんたが半分縛ったとして、残りがあたしだけを狙うって保証も――」
「やっと脱出できた。聞きたいか、俺のスペクタクル――」
「うるっさい!」
ふらふらと視界に入ってきた人精霊を、火乃香がむんずと掴んで鮫の群れに向かって投擲する。フリウはなんとなく右目でその軌道を追ったが、
「あ、食べられた。満足したのかな、一匹どっか行ったね……スィリー、増殖してないかな。あと五匹分……」
「あの人虫も増えるの? ある意味鮫よりも厄介だね……って、言ってる場合じゃない!」
言っている場合ではなかった。五匹の魚群はその速度を増し、二人の少女を食い千切らんとする明確な意思を発している。
半々に分かれてくれればしばらく凌げるかもしれないが、五匹全てが一斉にフリウを狙えばその時点で終わりだ。念糸で三匹を止めたとしても、残り二匹を火乃香は抑えきれない。
だがそれでも対応はしなければならない。火乃香が破れかぶれに前にでた。フリウも先行する三匹に当たりを付けて集中する。
だが、更なる高速を以て、その魚群を背後から追い越す影が現れた。
(新手!?)
フリウは咄嗟に念糸の対象を切り替えた。突然のことでその他の念糸は霧散してしまったが、仕方ない。まずは突出するこの一匹を防がなければ。高速で迫る霞む影へと思念を注ぐ。
だが念糸の効果は発揮されなかった。水に落とした砂糖菓子の如く霧散していくそれを、フリウは視界の端に認める。
(念糸が……切断された!?)
物理的な存在でない念糸に干渉できる術は限られている。ましてや一方的に切断するともなれば脅威以外の何物でも無い。
だがその"脅威"は、振り抜いた騎士剣の腹でフリウを制した。
「落ち着きなって。あれは――」
念糸を断ち切った火乃香が言葉を紡ぐよりも速く、それがフリウ達の頭上を通過する。
蒼い装甲の自動歩兵。ブルー・ブレイカーが急上昇し、その姿を小さくしていく。
そして対照的に、仰ぎ見る視界の中にだんだんと大きくなってくるものがあった。落下物。やや反りのある直線的な形状。フリウはそれに見覚えがあった。
(あれって、アイザックが持ってた……)
すぐに思い出せたのは、少し前に全員で行った"話し合い"のお陰だ。
その話し合いの中で、支給品を始めとした物資についての話題が出た。蒼い殺戮者による回収を前提としたその話し合いの中で、各自が求める品をリストアップしたのだ。
そして、アイザックが持っていたような形状の剣を望んだのは――
「いいね、最高のプレゼントだ!」
空から自動歩兵が投下したそれを、火乃香が掴み取る。次いで前方から迫る鮫の群れを額の瞳に映し、少女は駆けた。
刹那の内に銀光が閃く。抜き打ちの一刀が先頭の鮫の頭部を切り落とし、翻る二ノ太刀が続く二匹目を唐竹割りに。刃の背に手を添えて三匹目を開きにする。
火乃香一人ではそこまでが限界だった。間隙無く続く四、五匹目に刃を振るう余裕はない。二対の顎が少女の肉を切り裂こうと迫る。
それを防いだのはフリウの念糸だった。念糸で紡いだ二つのサークルが鮫の悪魔をそれぞれ捕らえ、その動きを緩慢にさせていく。
そうなれば後は火乃香の敵ではなかった。残りの悪魔を片付けると、刀使いは自らの手に戻ってきた愛剣を手慣れた様子で黒鞘に納める。
「……凄いね。あんな化け物を剣一本で」
念糸の反動に痺れた体を震わせながら、フリウが呟く。自身のハンター仲間にも剣を使う者はいるが、精霊に近しい存在を斬り裂くなど試そうとも思わないだろう。
「あたしが元々持ってた得物だ。これさえあれば誰にも負けない――って言いたいところだけど、あんたの援護がなければ厳しかったかな」
闇夜の中に遠ざかっていく蒼い機体へ視線を送りながら火乃香。
支給品および零崎の回収がブルーブレイカーに与えられた役割だった。高速で飛行でき、さらに完調した各種センサ類でおおよそのあたりが付いていれば物資を見つけ出せるという最適な人選だ。
物資を回収・分配してから吸血鬼に挑むというのが本来の予定だった。
だが、あまりにも唐突過ぎるこの襲撃を前にしては、それぞれが臨機応変に対応しなければならない。
宙を飛ぶ白黒の鮫。指揮されていない今の状態なら、危うげ無く処理できる者も多いだろう。
だがそれも一対一ならの話だ。多いということはそれだけで脅威になる――体力は有限だからだ。どれくらい持つかは群れの配分によるだろうが、このままの状態が続けば遠からず敗北することに変わりは無い。
そんな現状を前にして、フリウはうんざりするように首を振った。
「念糸は集中力を使うから……反動もあるし、長くは続けられないよ」
「問題はそこだよねぇ……敵の数が多すぎるってだけじゃない。凄い勢いで増え続けてる。これじゃあいくら斬ってもきりが無い」
周囲を睨むようにしながら、火乃香が呟く。周囲の気の数が爆発的に増大している。刻印を解除した後、気を感知する精度は上昇したが、本来のモノにはまだ遠い。
響き渡る佐山の演説を耳にしながら、火乃香は小さく嘆息した。
「それでも佐山は吸血鬼対策を優先させた……いや、せざるを得なかったのかな」
佐山・御言という存在について、火乃香はこの短い時間で多少は掴んでいた。言動は尊大そのもので、下手すれば気狂いの領域に大股一歩分ほど入り込んでいるが、決して無能ではない。
その佐山がリスクの大きい方策をとったということは、それだけ状況が逼迫しているということだ。
「作戦通り吸血鬼を無力化できても、一息つけるのはまだ先か」
ため息と共に、火乃香は鞘に納めたカタナで自身の肩を叩く。と――
「……無力化なんて、できるのかな」
聞かせるつもりはなかったのだろう。そんなフリウの小さな呟きに、だが何かを感じ取って、火乃香は訝しむように隻眼の少女へ視線を注いだ。
「何かあるの? 例の吸血鬼について何か知ってるとか」
「そういうわけじゃないけど……」
それっきり、フリウは口を閉ざしてしまう。
実際のところ、明確な何かがあったわけでもないのだろう。それを言語化する手伝いは自分には向いていない――火乃香はそう判断した。どのみち、そんな時間も余裕も無い。鮫の悪魔による襲撃も続いている。
(聞くとしても、全部終わった後だね)
密やかにそう決めて、火乃香は再び襲い来る巨大な魚影へ集中した。
◇◇◇
マンションの南東部。
そのアラストールの炎が照らし出す空間の中で、なお強い輝きを放つものがあった。
束ねられた光は刃となり、襲い来る甲斐氷太の悪魔を斬り裂く端から消滅させている。
「……電池切れもないみたいだし、良い武器だな、全く」
ダウゲ・ベルガーは海野千絵から引き継いだ光の剣を振るっていた。
持ち主の精神力を光の刃に転化するという伝説の剣。物理攻撃にほぼ完璧な耐性を持つ純魔族に対しても有効な攻撃手段になりえるそれは、精神の具現であるカプセルの悪魔にも通用する武器である。
ロングソードほどの長さまで伸張した光の刃を、ベルガーは危うげなところもなく操っている。もともと得物にしていた強臓式武剣も、連結させた精燃槽によって刀身が伸展していたので、扱いに困るということもない。
(このままならしばらくは凌げるが――主戦場は西だろ。さっき佐山が拡声器で喚いてた通りの数なら、連中が突破されれば終わりだ)
現状維持ではジリ貧だが、それ以上のことは出来ない。その事実に歯がみする。
だがすぐにそんな心配をしている余裕はなくなった。
「おい、おいおい、マジか」
空を見る。空気を振動させる轟音がベルガーの耳に届き始めていた。
マンションの最上階くらいの高さを飛行する、蒼い装甲を纏った自動歩兵がこちらへ降下する進路を取っている。それだけなら驚くべきことは何もないが、その後ろに鮫を十匹以上も連れてきたというのなら話は別だ。
仕方なくベルガーは前に――青い殺戮者の進路と正対するように進み出た。が。
「っおう!?」
空中のブルーブレイカーが何かを投下した。マンションの炎に照らし出されるそれは、武器の満載されたバックパックだ。その落下軌道がベルガーと交差した。
あわや衝突か串刺しかというところで、かろうじてベルガーはそれを回避する。口から様々な刃物やら何やら突き出している、ハリネズミの如きそれが、体のすぐ真横を通り過ぎていく。
その中で、見覚えのある一本をベルガーは自然と掴み取っていた。
この島において、ベルガーとは何かと縁がある一品だった。この島で二番目に出会った白短衣の巨漢が振り下ろしてきた凶器。それは平和島静雄へ渡り、さらには彼を殺してしまった"痛み"の少女――シャナの手へ。
金属製の大槍。自在に形状と大きさを変える紅世の宝具。
神鉄如意。それがいま、巡り巡ってベルガーの手に握られていた。
コミクロンの空間爆砕にも耐えきったそれは、ところどころ汚れてはいるが、本来の強度も機能も何一つ損なわれぬままここにある。
視線を一瞬だけ背後に向ければ、自動歩兵は速度を殺して着陸態勢を取るところだった。バックパックの投棄もその機動の為だったのだろう。飛行という優位な状態を自ら捨てるのは、おそらく飛行しながら行える有効な攻撃手段を持っていないからか。そういえば出立前に装備していたはずのPSG-1は影も形も見えなかった。
舌打ちして、ベルガーは光の剣の切っ先を迫り来る鮫の群れ、その先頭の一頭に向けた。念じる。
次の瞬間、光で出来た刀身は矢の如く射出された。光の速さで飛ぶわけではないが、それでもかなりの速度で発射されたそれが、先頭の悪魔を貫通し、さらに後ろにいる何匹かに手傷を負わせる。
光の剣の機能のひとつ。刀身の射出――遠距離攻撃を可能にするが、射出した後は刀身が再生成されるまでに僅かな隙が生まれる。
ベルガーは柄だけになったそれを背後に放った。鋼鉄の二足で地面を削っている蒼い殺戮者のもとへと。
「せめて半分はお前がやれよ」
そんな言葉を残し、ベルガーは神鉄如意と共に迫り来る敵へと向かう。
着陸したブルー・ブレイカーは投じられた剣の柄を危うげ無くキャッチした。数時間前、ブルーブレイカーの自壊を止めてみせた海野千絵。その命を奪った武器。彼女がその身諸共に敵を貫いた光景を覚えている。だから、使い方は知っていた。
「光よ」
スピーカーから発せられた合成音声に、マニュピレーターで握りしめた光の剣は問題なく反応した。自動歩兵は戦術判断の為に培養脳を搭載している。起動のための精神力は備えているのだ。
声紋確認もせず音声だけで起動してしまう点については兵器としてセーフティが甘いと言わざるを得ないが、今は好都合だ。
発生した刀身の長さは短剣並みだが、飛び道具として使うなら支障は無い。今まさにベルガーが見せた射出の速度と敵の機動を演算し、即席の射撃ルーチンを組み上げる。複合センサがこちらを追尾してきた群れの動きに変化が起きたことを告げていた。すでに先頭集団はダウゲ・ベルガーと交戦に入っているが、後続の十数頭もそれに続こうとしている。指揮者がおらず、とにかく手近な標的を狙うという生態。結果として、蒼い殺戮者はフリーになっていた。
ブルー・ブレイカーは再度、轟音と共に空へと舞い上がった。音に反応した数匹に向けて、新たな武装を照準し――
「――で。なんで降りてきたよ」
数十秒後、消滅していく鮫の死体を尻目に、ベルガーは胡乱な目つきで再び降りてきたBBを睨んでいた。
「あれ以上増えては対応できかねると判断した。佐山が放送を始めた以上、すぐ所定位置に付く必要がある」
「俺が聞きたいのは、なんでわざわざ俺に群れを押しつけたのかってことなんだが」
「盾にするなら回復能力がある者が適任だろう。この武器も、代わりとなるものを持ってくれば俺が譲り受けるということで話がついていた筈だ」
「あの剣山みたいなリュックを投げてよこしたのはそういう理由か……」
悪びれもしない自動歩兵に、野犬は苦痛の混じった吐息を漏らした。
槍一本で十数匹の鮫の群れに挑んだ代償は大きく、体の所々に深い牙の痕が残っている。右腕は文字通り食い千切られ掛けた。遠からず失血死する、致命傷だ――本来ならば。
「……確かにまあ俺が適任だったかもな。偶然の産物だが」
呟きながら、ベルガーは己の体を見下ろすように眺めた。
目に見えるほどの速度で、全身の傷が逆回しするように消えていく。零れた血液さえ、腕を這い上って傷口から体内へ戻っていくのには閉口したが。
(刻印を解除した影響か。あの酒を飲んだ奴に備わる本来の回復力に……近づいている?)
どこまで大丈夫なのかという点については試す気にもならなかったが、血が溢れないなら出血多量で死ぬことはないだろう。つまりは脳か、そこへ血液を送るための心臓を破壊されない限りはそうそう死なないと言うことだ。
「分かった。それについては不問にしてやる。で、そいつの使い心地は?」
「携行性と弾切れがない点は知性ライフルよりも優れている。威力も十分だが、連射性には難があるな」
「……そりゃそいつは銃火器の類いじゃないだろうしな」
手にした光の剣に、どこか的外れな性能評価を下す蒼い殺戮者。だが実際、この自動人形と重騎の間の子のような奴に必要だったのは遠距離武器だろう――ベルガーは思った。弾薬の補給が難しいこの環境では、むしろ光の剣は最上の武器かも知れない。
ふと思い出して、ベルガーは尋ねた。
「貸してた狙撃銃は?」
「やむを得ず放棄した」
「そうか。後で弁償しろよ」
「中枢統合府を通せ。元の世界に戻れたらになるが」
「……戻れりゃあいいけどなぁ。戦況はどんな感じだ。上から見てたんだろ」
「懸念点がひとつ」
蒼い殺戮者は即座に答えた。戦況の分析をするにあたって、この最強の自動歩兵は迷うこともない。
「東を担当する人員が定位置に存在しない。他の連中は精々が隣り合う者同士で協力している程度だったが――」
そのアラストールの炎が照らし出す空間の中で、なお強い輝きを放つものがあった。
束ねられた光は刃となり、襲い来る甲斐氷太の悪魔を斬り裂く端から消滅させている。
「……電池切れもないみたいだし、良い武器だな、全く」
ダウゲ・ベルガーは海野千絵から引き継いだ光の剣を振るっていた。
持ち主の精神力を光の刃に転化するという伝説の剣。物理攻撃にほぼ完璧な耐性を持つ純魔族に対しても有効な攻撃手段になりえるそれは、精神の具現であるカプセルの悪魔にも通用する武器である。
ロングソードほどの長さまで伸張した光の刃を、ベルガーは危うげなところもなく操っている。もともと得物にしていた強臓式武剣も、連結させた精燃槽によって刀身が伸展していたので、扱いに困るということもない。
(このままならしばらくは凌げるが――主戦場は西だろ。さっき佐山が拡声器で喚いてた通りの数なら、連中が突破されれば終わりだ)
現状維持ではジリ貧だが、それ以上のことは出来ない。その事実に歯がみする。
だがすぐにそんな心配をしている余裕はなくなった。
「おい、おいおい、マジか」
空を見る。空気を振動させる轟音がベルガーの耳に届き始めていた。
マンションの最上階くらいの高さを飛行する、蒼い装甲を纏った自動歩兵がこちらへ降下する進路を取っている。それだけなら驚くべきことは何もないが、その後ろに鮫を十匹以上も連れてきたというのなら話は別だ。
仕方なくベルガーは前に――青い殺戮者の進路と正対するように進み出た。が。
「っおう!?」
空中のブルーブレイカーが何かを投下した。マンションの炎に照らし出されるそれは、武器の満載されたバックパックだ。その落下軌道がベルガーと交差した。
あわや衝突か串刺しかというところで、かろうじてベルガーはそれを回避する。口から様々な刃物やら何やら突き出している、ハリネズミの如きそれが、体のすぐ真横を通り過ぎていく。
その中で、見覚えのある一本をベルガーは自然と掴み取っていた。
この島において、ベルガーとは何かと縁がある一品だった。この島で二番目に出会った白短衣の巨漢が振り下ろしてきた凶器。それは平和島静雄へ渡り、さらには彼を殺してしまった"痛み"の少女――シャナの手へ。
金属製の大槍。自在に形状と大きさを変える紅世の宝具。
神鉄如意。それがいま、巡り巡ってベルガーの手に握られていた。
コミクロンの空間爆砕にも耐えきったそれは、ところどころ汚れてはいるが、本来の強度も機能も何一つ損なわれぬままここにある。
視線を一瞬だけ背後に向ければ、自動歩兵は速度を殺して着陸態勢を取るところだった。バックパックの投棄もその機動の為だったのだろう。飛行という優位な状態を自ら捨てるのは、おそらく飛行しながら行える有効な攻撃手段を持っていないからか。そういえば出立前に装備していたはずのPSG-1は影も形も見えなかった。
舌打ちして、ベルガーは光の剣の切っ先を迫り来る鮫の群れ、その先頭の一頭に向けた。念じる。
次の瞬間、光で出来た刀身は矢の如く射出された。光の速さで飛ぶわけではないが、それでもかなりの速度で発射されたそれが、先頭の悪魔を貫通し、さらに後ろにいる何匹かに手傷を負わせる。
光の剣の機能のひとつ。刀身の射出――遠距離攻撃を可能にするが、射出した後は刀身が再生成されるまでに僅かな隙が生まれる。
ベルガーは柄だけになったそれを背後に放った。鋼鉄の二足で地面を削っている蒼い殺戮者のもとへと。
「せめて半分はお前がやれよ」
そんな言葉を残し、ベルガーは神鉄如意と共に迫り来る敵へと向かう。
着陸したブルー・ブレイカーは投じられた剣の柄を危うげ無くキャッチした。数時間前、ブルーブレイカーの自壊を止めてみせた海野千絵。その命を奪った武器。彼女がその身諸共に敵を貫いた光景を覚えている。だから、使い方は知っていた。
「光よ」
スピーカーから発せられた合成音声に、マニュピレーターで握りしめた光の剣は問題なく反応した。自動歩兵は戦術判断の為に培養脳を搭載している。起動のための精神力は備えているのだ。
声紋確認もせず音声だけで起動してしまう点については兵器としてセーフティが甘いと言わざるを得ないが、今は好都合だ。
発生した刀身の長さは短剣並みだが、飛び道具として使うなら支障は無い。今まさにベルガーが見せた射出の速度と敵の機動を演算し、即席の射撃ルーチンを組み上げる。複合センサがこちらを追尾してきた群れの動きに変化が起きたことを告げていた。すでに先頭集団はダウゲ・ベルガーと交戦に入っているが、後続の十数頭もそれに続こうとしている。指揮者がおらず、とにかく手近な標的を狙うという生態。結果として、蒼い殺戮者はフリーになっていた。
ブルー・ブレイカーは再度、轟音と共に空へと舞い上がった。音に反応した数匹に向けて、新たな武装を照準し――
「――で。なんで降りてきたよ」
数十秒後、消滅していく鮫の死体を尻目に、ベルガーは胡乱な目つきで再び降りてきたBBを睨んでいた。
「あれ以上増えては対応できかねると判断した。佐山が放送を始めた以上、すぐ所定位置に付く必要がある」
「俺が聞きたいのは、なんでわざわざ俺に群れを押しつけたのかってことなんだが」
「盾にするなら回復能力がある者が適任だろう。この武器も、代わりとなるものを持ってくれば俺が譲り受けるということで話がついていた筈だ」
「あの剣山みたいなリュックを投げてよこしたのはそういう理由か……」
悪びれもしない自動歩兵に、野犬は苦痛の混じった吐息を漏らした。
槍一本で十数匹の鮫の群れに挑んだ代償は大きく、体の所々に深い牙の痕が残っている。右腕は文字通り食い千切られ掛けた。遠からず失血死する、致命傷だ――本来ならば。
「……確かにまあ俺が適任だったかもな。偶然の産物だが」
呟きながら、ベルガーは己の体を見下ろすように眺めた。
目に見えるほどの速度で、全身の傷が逆回しするように消えていく。零れた血液さえ、腕を這い上って傷口から体内へ戻っていくのには閉口したが。
(刻印を解除した影響か。あの酒を飲んだ奴に備わる本来の回復力に……近づいている?)
どこまで大丈夫なのかという点については試す気にもならなかったが、血が溢れないなら出血多量で死ぬことはないだろう。つまりは脳か、そこへ血液を送るための心臓を破壊されない限りはそうそう死なないと言うことだ。
「分かった。それについては不問にしてやる。で、そいつの使い心地は?」
「携行性と弾切れがない点は知性ライフルよりも優れている。威力も十分だが、連射性には難があるな」
「……そりゃそいつは銃火器の類いじゃないだろうしな」
手にした光の剣に、どこか的外れな性能評価を下す蒼い殺戮者。だが実際、この自動人形と重騎の間の子のような奴に必要だったのは遠距離武器だろう――ベルガーは思った。弾薬の補給が難しいこの環境では、むしろ光の剣は最上の武器かも知れない。
ふと思い出して、ベルガーは尋ねた。
「貸してた狙撃銃は?」
「やむを得ず放棄した」
「そうか。後で弁償しろよ」
「中枢統合府を通せ。元の世界に戻れたらになるが」
「……戻れりゃあいいけどなぁ。戦況はどんな感じだ。上から見てたんだろ」
「懸念点がひとつ」
蒼い殺戮者は即座に答えた。戦況の分析をするにあたって、この最強の自動歩兵は迷うこともない。
「東を担当する人員が定位置に存在しない。他の連中は精々が隣り合う者同士で協力している程度だったが――」
◇◇◇
「さて、逃げようか」
エルメスのエンジンを掛けながら、キノが呟く。
マンションの東側。非戦闘員が配置されたマンション内を除けば、もっとも安全な場所だ。 自分がそこに配置された理由は、単純な戦力の問題ではないだろう――キノに返却された武器は結局『カノン』だけだったが、誰かが持っていたとかという弾薬セットから弾の提供はされていた。一対一で、真正面からの抜き打ちという条件なら、襲いかかってくる可能性がある者のほとんどをキノは殺傷できる可能性がある。
つまるところ、マンション内部に次いで戦場になりにくい場所へ配置されたのは、キノが信用されていないというのが一番の理由だった。信用できない者を肉壁や捨て駒にするよりも、戦闘自体に介入させないことがベターだとあの佐山という男は判断したらしい。
実際、多種多様な戦闘音は聞こえるものの、事前のブリーフィングで知識を共有されていた甲斐氷太の悪魔は、未だキノの元へは到達していない。空を仰げばマンションの屋上にそれらしい魚影が群がっているので、襲撃されていることは確かなのだろうが。
「戦わないの?」
エルメスの問いに、キノは肩を竦めて答えた。
「悪魔の……オーナーだっけ? それが狙えるならともかく、悪魔単体はどうにもならないよ」
「まああの巨体相手じゃ象撃ち用のパースエイダーくらいないとね――でも、逃げるってどこにさ?」
キノがシートに跨がることで軽く上下にタイヤを弾ませながら、エルメスがさらに問いを重ねる。
「この鮫、いまはこの周りだけかも知れないけど、島中に広がっていくんじゃない?」
「だろうね」
「じゃあ、どこに――」
キノはアクセルを回してエルメスを急発進させた。直後、その場に鮫が降ってくる。
乱暴にクラッチを操作してギアを可能な限り素早く上げながら、キノはエルメスに尋ね返した。地面に直撃しても、さほど遅れずこちらに追走する黒鮫をミラーで確認しながら、
「あの鮫の速度はどのくらいか分かる?」
「だいたい時速80kmくらいかな」
「じゃあ、それ以上で走ってれば追いつかれることはないね」
「そりゃそうだけどさ――って、まさかキノ」
キノがハンドルで導く進行方向に感じるものがあったのか、エルメスが声を上擦らせる。
「別棟の周りを周回しよう。道も整備されてるし、近くにこんな大きな光源があるんだ。無理ってほどじゃない」
「無茶ではあるけどね。リアタイヤを囓られたらどうするのさ。ここじゃパンク修理も難しいのに」
「どのみち、帰れなかったらそのうち走れなくなるでしょ」
現在、キノの望みである"脱出"にもっとも近いのは佐山のグループだ。脱退するには惜しい。多少の危険があろうとも、やれることをやらなければならない。
不可能ではない。事前に周辺の地理は調べておいた。あとは自分の集中力がどこまで続くか――
「キノ、キノ!」
さっそく集中を乱されて、キノは小さくため息をついた。
「なんだい、エルメス」
「とりあえずさ、まずは深呼吸して、落ち着いて後ろを見てね」
「うん?」
再びミラーを見やるキノ。
そこに映る鮫がいきなり十匹以上になっているのを見て、キノは憮然とした表情を浮かべながら視線を前へと戻した。手がじっとりと汗で湿っているのを自覚して、ハンドルの持ち手をかるく緩めて風を通す。
「――なんで急にあんな数が」
「モトラドになんか恨みでもあるんじゃないの? さっきもエンジン掛けた途端に襲ってきたし」
「恨みって?」
「例えば以前、モトラドに乗った人に真っ二つにされたことがあるとか」
「ならその時に死んでて欲しかったな」
キノはアクセルを深く捻った。エンジンの回転数が高まり、ぐんと加速する感覚が全身を包む。事故の確率は上がるが、仕方ない。追いつかれれば確実に鮫の餌だ。
「……まあ、これはこれで。大勢を引きつけられてるんだから、役には立ってるってことさ」
「負っけ惜っしみー!」
ガン、とエルメスのタンクを叩いて、キノはさらに速度を上げた。
エルメスのエンジンを掛けながら、キノが呟く。
マンションの東側。非戦闘員が配置されたマンション内を除けば、もっとも安全な場所だ。 自分がそこに配置された理由は、単純な戦力の問題ではないだろう――キノに返却された武器は結局『カノン』だけだったが、誰かが持っていたとかという弾薬セットから弾の提供はされていた。一対一で、真正面からの抜き打ちという条件なら、襲いかかってくる可能性がある者のほとんどをキノは殺傷できる可能性がある。
つまるところ、マンション内部に次いで戦場になりにくい場所へ配置されたのは、キノが信用されていないというのが一番の理由だった。信用できない者を肉壁や捨て駒にするよりも、戦闘自体に介入させないことがベターだとあの佐山という男は判断したらしい。
実際、多種多様な戦闘音は聞こえるものの、事前のブリーフィングで知識を共有されていた甲斐氷太の悪魔は、未だキノの元へは到達していない。空を仰げばマンションの屋上にそれらしい魚影が群がっているので、襲撃されていることは確かなのだろうが。
「戦わないの?」
エルメスの問いに、キノは肩を竦めて答えた。
「悪魔の……オーナーだっけ? それが狙えるならともかく、悪魔単体はどうにもならないよ」
「まああの巨体相手じゃ象撃ち用のパースエイダーくらいないとね――でも、逃げるってどこにさ?」
キノがシートに跨がることで軽く上下にタイヤを弾ませながら、エルメスがさらに問いを重ねる。
「この鮫、いまはこの周りだけかも知れないけど、島中に広がっていくんじゃない?」
「だろうね」
「じゃあ、どこに――」
キノはアクセルを回してエルメスを急発進させた。直後、その場に鮫が降ってくる。
乱暴にクラッチを操作してギアを可能な限り素早く上げながら、キノはエルメスに尋ね返した。地面に直撃しても、さほど遅れずこちらに追走する黒鮫をミラーで確認しながら、
「あの鮫の速度はどのくらいか分かる?」
「だいたい時速80kmくらいかな」
「じゃあ、それ以上で走ってれば追いつかれることはないね」
「そりゃそうだけどさ――って、まさかキノ」
キノがハンドルで導く進行方向に感じるものがあったのか、エルメスが声を上擦らせる。
「別棟の周りを周回しよう。道も整備されてるし、近くにこんな大きな光源があるんだ。無理ってほどじゃない」
「無茶ではあるけどね。リアタイヤを囓られたらどうするのさ。ここじゃパンク修理も難しいのに」
「どのみち、帰れなかったらそのうち走れなくなるでしょ」
現在、キノの望みである"脱出"にもっとも近いのは佐山のグループだ。脱退するには惜しい。多少の危険があろうとも、やれることをやらなければならない。
不可能ではない。事前に周辺の地理は調べておいた。あとは自分の集中力がどこまで続くか――
「キノ、キノ!」
さっそく集中を乱されて、キノは小さくため息をついた。
「なんだい、エルメス」
「とりあえずさ、まずは深呼吸して、落ち着いて後ろを見てね」
「うん?」
再びミラーを見やるキノ。
そこに映る鮫がいきなり十匹以上になっているのを見て、キノは憮然とした表情を浮かべながら視線を前へと戻した。手がじっとりと汗で湿っているのを自覚して、ハンドルの持ち手をかるく緩めて風を通す。
「――なんで急にあんな数が」
「モトラドになんか恨みでもあるんじゃないの? さっきもエンジン掛けた途端に襲ってきたし」
「恨みって?」
「例えば以前、モトラドに乗った人に真っ二つにされたことがあるとか」
「ならその時に死んでて欲しかったな」
キノはアクセルを深く捻った。エンジンの回転数が高まり、ぐんと加速する感覚が全身を包む。事故の確率は上がるが、仕方ない。追いつかれれば確実に鮫の餌だ。
「……まあ、これはこれで。大勢を引きつけられてるんだから、役には立ってるってことさ」
「負っけ惜っしみー!」
ガン、とエルメスのタンクを叩いて、キノはさらに速度を上げた。
◇◇◇
カーラは散発的に襲いかかってくる黒鮫と白鮫を危なげなく撃退し続けていた。
彼女は優れた魔法使いである。現在支配しているその肉体は人外の膂力と回復力を宿しており、加えてのその手に握るは魔神王すら葬るとされる魂砕きの剣。肉体だけではなく精神すら蝕むその刃は、オーナーの心の一部であるカプセルの悪魔にとっては天敵そのものだ。
配置されたのも南側。南西からくる悪魔の群れは、本来ならここにもかなりの数が来る筈だが――さほどでもないのは、西側が激戦区になっており、そちらに多くが引き寄せられているためだろう。この程度であれば魔法を使わずとも、食鬼人の身体能力と武器の性能だけで切り抜けられる。
(この場は問題ないでしょうけど……この状況で吸血鬼への対処を優先したと言うことは、この悪魔の群れも一朝一夕には解決できない問題なのでしょうね)
想定外の事態だが、仕方あるまい。まずは姫への対処を完了させなければ。
と――
そんな思考の流れを断ち切るように、カーラの視界に空白が差し込まれた。
燃えさかるマンションから溢れる明かりの中、黒い筒のようなシルエットがカーラの視界の中に出現している。影法師のような、何の気配もない奇妙な存在。
カーラはそいつの名前を知っていた。佐山・御言から『君にとっては危険な存在になり得る』と忠告されていたのだ。
世界の敵を殺すという死神。ブギーポップは何をするでもなく、灰色の魔女の眼前に佇んでいる。
「佐山は……あなたを取り込むことに失敗したということかしら?」
世界の敵の敵としての役割を果たしに来たのか、とカーラは身構える。
佐山から聞いたブギーポップの"自動的"という在り方は、ともすればカーラのサークレットの支配力に抗し得るものだ。
それはつまり、ブギーポップに殺された場合、カーラは"それまで"になってしまうかもしれないということ。紛れもない天敵のひとり。
だがそのブギーポップは、緊張感の欠片もないような様子で頭を振った。
「いやいや、きっちり契約は交わしたとも。君たちの想定とはやや外れるかも知れないが、甲斐氷太の悪魔の増殖とその原因について教えたのだから、フェアな取引と言って良いだろうね」
周囲に悪魔の気配はない。カーラはブギーポップを睨みながら、油断なく右手に握る魂砕きの感触を確かめた。
「だからそう緊張しないでくれたまえ。仮に君が世界の敵だとしても、いまはまだ殺さないと佐山君に約束したからね」
「そう。なら、どうして――」
と、そこまで口にしたところで。
カーラはブギーポップの台詞に違和感を覚えた。仮に、世界の敵だとしても?
「貴方から見て、私は世界の敵ではないと?」
「そういうことになるね」
ブギーポップは何でも無いという風に頷いて見せた。
カーラはその真意を探る。
仮にロードスに住む民から『お前は世界の敵だ』と糾弾されれば、自分はそれを一笑に付しただろう。カーラの目的は世界の均衡を保つこと。世界の敵ではない、むしろ世界の維持に尽力している存在だ。
だがこの島においては、確かにカーラは世界の敵である筈だった。ロードスに干渉する可能性のある者たちを排除するという新たな目的が芽生えたからだ。それはつまり、自身の世界を守るためなら、他の世界を害することに何ら躊躇いはないということ。
それが世界の敵でないというのなら……
「君の在り方は、確かに世界の敵によく見られるものだ。自覚無き破滅の導き手。破滅を回避するために、より多くの破滅を生み出す。凍てついた君の心は、その矛盾に気づけない」
「それでも私は世界の敵ではないと? ……まさか、私が佐山と交わした盟約が理由かしら?」
それまで交わしていたものを破棄し、佐山と新たに結び直した契約。それは確かに、カーラが他の世界へ破壊的な干渉をせずともロードスを守ることが可能になるものだった。
だが、カーラ自身、その約束は薄氷の上になりたっているものだと認識していた。佐山は薄氷の上を渡りきる自信があるのだろうが、カーラは機があればいつでもその約定を反故にできる。あの契約は、自分を抑える戒めにはなり得ない。
そしてその考えを肯定するように、ブギーポップは首を横に振った。
「そんな口約束で世界の敵という性質は覆らないさ。しかし今の君は、確かに世界の敵ではないようだ。実のところ、これはぼくとしても初めてのケースでね」
「……私自身の"世界の敵"という性質は変わっていないのに、世界の敵ではなくなった?」
「そうだね。君はこの島に来て、確かに世界の敵ではなくなったんだ」
哀れむような、あるいは祝福するような。死神はそんな左右非対称の表情を浮かべて見せた。
その表情の意味するものをカーラは読み取ろうとしたが、それよりも早く死神は踵を返した。無防備に背中を見せたまま歩み去って行く。
「僕はもう行くとしよう。確認は出来た。君が再び世界の敵に戻ることはない。会うのもこれで最後だろう」
「……そう。貴方のその直感が思い違いでなければいいのだけど」
闇に溶ける影法師の背に、灰色の魔女は小さく呟く。
怪人が何故来訪したのか。それは結局分からなかったが。
カーラはすぐに思考を切り替えた。自身が何者であるかなど、他人に定められたところで意味は無い。己は悲劇を防ぐために"灰色"を維持する。それだけだ。
彼女は優れた魔法使いである。現在支配しているその肉体は人外の膂力と回復力を宿しており、加えてのその手に握るは魔神王すら葬るとされる魂砕きの剣。肉体だけではなく精神すら蝕むその刃は、オーナーの心の一部であるカプセルの悪魔にとっては天敵そのものだ。
配置されたのも南側。南西からくる悪魔の群れは、本来ならここにもかなりの数が来る筈だが――さほどでもないのは、西側が激戦区になっており、そちらに多くが引き寄せられているためだろう。この程度であれば魔法を使わずとも、食鬼人の身体能力と武器の性能だけで切り抜けられる。
(この場は問題ないでしょうけど……この状況で吸血鬼への対処を優先したと言うことは、この悪魔の群れも一朝一夕には解決できない問題なのでしょうね)
想定外の事態だが、仕方あるまい。まずは姫への対処を完了させなければ。
と――
そんな思考の流れを断ち切るように、カーラの視界に空白が差し込まれた。
燃えさかるマンションから溢れる明かりの中、黒い筒のようなシルエットがカーラの視界の中に出現している。影法師のような、何の気配もない奇妙な存在。
カーラはそいつの名前を知っていた。佐山・御言から『君にとっては危険な存在になり得る』と忠告されていたのだ。
世界の敵を殺すという死神。ブギーポップは何をするでもなく、灰色の魔女の眼前に佇んでいる。
「佐山は……あなたを取り込むことに失敗したということかしら?」
世界の敵の敵としての役割を果たしに来たのか、とカーラは身構える。
佐山から聞いたブギーポップの"自動的"という在り方は、ともすればカーラのサークレットの支配力に抗し得るものだ。
それはつまり、ブギーポップに殺された場合、カーラは"それまで"になってしまうかもしれないということ。紛れもない天敵のひとり。
だがそのブギーポップは、緊張感の欠片もないような様子で頭を振った。
「いやいや、きっちり契約は交わしたとも。君たちの想定とはやや外れるかも知れないが、甲斐氷太の悪魔の増殖とその原因について教えたのだから、フェアな取引と言って良いだろうね」
周囲に悪魔の気配はない。カーラはブギーポップを睨みながら、油断なく右手に握る魂砕きの感触を確かめた。
「だからそう緊張しないでくれたまえ。仮に君が世界の敵だとしても、いまはまだ殺さないと佐山君に約束したからね」
「そう。なら、どうして――」
と、そこまで口にしたところで。
カーラはブギーポップの台詞に違和感を覚えた。仮に、世界の敵だとしても?
「貴方から見て、私は世界の敵ではないと?」
「そういうことになるね」
ブギーポップは何でも無いという風に頷いて見せた。
カーラはその真意を探る。
仮にロードスに住む民から『お前は世界の敵だ』と糾弾されれば、自分はそれを一笑に付しただろう。カーラの目的は世界の均衡を保つこと。世界の敵ではない、むしろ世界の維持に尽力している存在だ。
だがこの島においては、確かにカーラは世界の敵である筈だった。ロードスに干渉する可能性のある者たちを排除するという新たな目的が芽生えたからだ。それはつまり、自身の世界を守るためなら、他の世界を害することに何ら躊躇いはないということ。
それが世界の敵でないというのなら……
「君の在り方は、確かに世界の敵によく見られるものだ。自覚無き破滅の導き手。破滅を回避するために、より多くの破滅を生み出す。凍てついた君の心は、その矛盾に気づけない」
「それでも私は世界の敵ではないと? ……まさか、私が佐山と交わした盟約が理由かしら?」
それまで交わしていたものを破棄し、佐山と新たに結び直した契約。それは確かに、カーラが他の世界へ破壊的な干渉をせずともロードスを守ることが可能になるものだった。
だが、カーラ自身、その約束は薄氷の上になりたっているものだと認識していた。佐山は薄氷の上を渡りきる自信があるのだろうが、カーラは機があればいつでもその約定を反故にできる。あの契約は、自分を抑える戒めにはなり得ない。
そしてその考えを肯定するように、ブギーポップは首を横に振った。
「そんな口約束で世界の敵という性質は覆らないさ。しかし今の君は、確かに世界の敵ではないようだ。実のところ、これはぼくとしても初めてのケースでね」
「……私自身の"世界の敵"という性質は変わっていないのに、世界の敵ではなくなった?」
「そうだね。君はこの島に来て、確かに世界の敵ではなくなったんだ」
哀れむような、あるいは祝福するような。死神はそんな左右非対称の表情を浮かべて見せた。
その表情の意味するものをカーラは読み取ろうとしたが、それよりも早く死神は踵を返した。無防備に背中を見せたまま歩み去って行く。
「僕はもう行くとしよう。確認は出来た。君が再び世界の敵に戻ることはない。会うのもこれで最後だろう」
「……そう。貴方のその直感が思い違いでなければいいのだけど」
闇に溶ける影法師の背に、灰色の魔女は小さく呟く。
怪人が何故来訪したのか。それは結局分からなかったが。
カーラはすぐに思考を切り替えた。自身が何者であるかなど、他人に定められたところで意味は無い。己は悲劇を防ぐために"灰色"を維持する。それだけだ。