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アイツラが先にやってきたからやり返しただけ、自業自得ってか。
ネトウヨや自民サイドがやってたその手法によって、反ネトウヨ・反自民の思想を得た者もいるだろうに、その逆は起こらないと思うのか。
過去においては被害者だろうと将来的に加害者に転ずる可能性は考慮すべきだ。
既にSNSにおける反自民側の言動には、「対立意見を敵勢力の刺客か工作員と認定する」、「自陣営の意見に賛同しない無党派層や普通の人を見下す」、「理由をつけて罵詈雑言を放つ」といった傾向が見られる。かつてのネトウヨとまんま同じである。自民を憎むあまり、自民サイドと同じ穴の貉になりつつあることを自覚すべきだ。 -
意味の無い罵倒ですら、容認されるべきか。
民主主義を守るためという大義名分があれば、罵詈雑言も、人の病気をなじるような発言も、正義にかなった訴えになるというわけか。
政治に熱心な人間ならそう思えるだろうが、それ以外の視点も考慮するべきだ。
大義名分のためなら権力者に浴びせる汚言も結構と考え、それを実行し続けた連中の主張を国や権力者はスルーするしかないだろう。
でも、それをSNSの中で目撃する第三者は違う。たとえその非難がある程度の理由や相当性をもって為されたものであっても、品性下劣な言葉での罵倒は心証が悪い。同調する者と同じくらい、それに反発する者を生む。
汚い言葉で誰かを罵れば、少なからず同情が生まれる。実際、自民や安倍を肯定する者の中には反自民サイドの言動の攻撃性の高さを理由に挙げるものも見たことがある。反自民の権力批判の名を借りた罵倒が、言わば敵に塩を送っていたのだろう。そのことも自民サイドは理解し、利用していた可能性もあると思う。
市民と権力者の非対称性など、君みたいに政治問題に熱烈な興味を持つ者にとっては当然の話だが、そうでない者あるいは政治議論における品行方正さを重んじる者たちからすれば、醜い罵詈雑言は利敵行為にしかならない。 -
聖帝語録という題名をストレートに安倍晋三語録に変えることを提案します
なぜ隠語にするのか。ストレートにして世に広めるべき -
https://news.yahoo.co.jp/articles/45f6b7e96c328e247b23dcd97480abb2a5bba243
「裏切り者は許さない」
ずいぶん辛口だ -
いわばまさに構ってちゃんなので、レスバしても無駄なのであります。
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何時の時代だろうと関係ない
これは一般人と権力者という非対称的な力関係や構造に問題がある
一般人に向ける罵倒や批判等の否定的な発言と、権力者に向ける否定的な発言には構造的に致命的な差がある
権力者はその気になれば一般人をその強権でもって排除や弾圧することが可能であり、これらはハッキリ分けて考えなければならない
そして我々の生活、言うなれば我々の命に大きな影響力を持つ政権与党・行政府の権力者、もっと言えば権力分立を蔑ろにせんとした聖帝のような、権力はガンガンガンガン使うものなんですよなどと言ってしまう人治政治権力者に向ける罵倒こそ保護されるべきと私は主張する
権力を持たない個人でしかない一般人の言論の自由を保障するならば、権力者に対して向ける場合に限っては罵倒と批判を区別せず罵倒まで含めて保障すべきだろう
罵倒と批判の線引きというものは曖昧なところがあり、線引きを決めるのは受け手側になるが、権力者がその線引きを決定するということがどれほど恐ろしいかわかるだろうか
権力者の受け取り方次第で一般人が攻撃される事態が起こりうるのである
もしそれが罪に問われるならば刑事罰で裁判になるかもしれないが、判検交流による癒着や国側に有利な判決を下す裁判官が出世するような司法の有様での裁判となるのだ
それに刑事罰に問わなくとも弾圧方法は他にあるだろう
翻って「権力者に向かって一般人が罵倒をしても咎められることがない構造には公益性がある」と考える
どのような公益性があるか。それは表現の自由・言論の自由が保障されるということである
例外として罵倒が完全なるデマであればそれは保障しなくて良いとは思うが、「公益性のあるデマ」などという奇怪な判例もあるためデマすら時と場合によっては保障されるのだろう
あなたは『政治家に対する中傷まがいの行為の容認』を問題として主張しているが、それを容認しない方が問題だろう
それは民主主義社会において避けなければならない検閲、言論弾圧への道だ
権力者が行わなくとも検閲や言論弾圧は問題だ(それは戦前戦中から得られた教訓である)
権力者に向けるものであるならば、意味の無い罵倒ですら「意味の無い罵倒だよ」程度の態度で"容認"することが言論の自由の保障された民主主義社会では肝要なのだ
故事の理屈を理解できていたのか非常に疑わしいと言わざるを得ない -
その故事の理屈は理解できるが、SNSどころかメディアが限られていた時代の話を、現代の政治批判の文脈で引用するのは無理がある。
戦場で部下として従え、生死を共にした間柄の兵士からイジられるなら効くだろうが、顔も名前も分からない誰かが罵詈雑言を浴びせてきたところで、それが反省のきっかけになるか?よくて「アンチが何か言ってるわ、ムカつく」としかならない。
そのくらい割り切れる精神構造でなければ、為政者などという職業は精神的にもたないだろうからな。
実際、反自民を貫いた者たちの中には、安倍の悪手や失敗をなじるどころか、病気を馬鹿にするというドン引き案件をやった連中までいたが、彼らの望む通りの政策が実現されることは無かった。罵倒に意味は無い。 -
通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、凱旋式があった。
(中略)
民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」
現代の独裁者たちに対しても同じように言うことができたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
────インドロ・モンタネッリ著『ローマの歴史』 -
確かに、普通の人はこういうウィキを見ないという意見は一理ある。だが今後もそう言えるかは疑問だ。
今後政治により関心を持つ者の割合が増えていけば、所謂普通の人がこの板のような劇物に接触する機会自体は増える。10万人や100万人がそうした劇物に触れて、その多数が無反応だとしても、触発される人間は少数だが必ず出る。短期的にではなく長期的にじっくりと染まっていく。
その結果として、罵詈雑言と極端な政治的対立を是とする過激派の総数が増えるのは危険だ。
たとえそいつらが少数派でも、ある程度の人数がいて声さえデカければ、一般社会に影響を与えるからだ。
俺達は個々人レベルで見ると参政権も言論の自由も平等だが、発言だけは第三者に見える形で永遠に残る。
SNSが大衆や政治と結びついた現代において、個人の発言やコミュニティ上の多数意見が持つ影響力は蓄積されていく。
だからこそ、自分の発言に責任を持ち、俗悪になった政治界隈の言論空間と向き合う必要性があるんだ。 -
じゃあ自分の言葉で話すけどさ、間違ってたら悪いけど114さんが当初から主張してるのってこういうwikiがあるから(正確にいうと安倍晋三の蔑称一覧みたいなページがあるから)日本人は政治に関心をなくしていく、だからこういうことはやめるべき!!!って意見だと思うんだけどさ
まず普通の人は聖帝語録@wikiや5chなんてみたいと思うんだよね、たぶん見てもなんとも思わないだろうし
114さんが思うほどネットの影響力ってそんなにないと思うよ
事実として前回の都知事選は投票率60%超えたし
このwikiが気に入らないってのはわかるけどだからって荒らしみたいなことをするのはよくないと思うよ
114.48.248.15