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幻想郷の奇妙な物語 第八話

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shinatuki

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 アレッシーは紅魔館の騒動など知る由がなく、ただマヨヒガを彷徨っていた。それもその筈だ。マヨヒガというものは文字通り迷い人がその意に反して訪れるものだ。
 付け加えて何処からともなく現れ、消えていくと言われるこのマヨヒガを先導なくして脱するなど困難であるとしか言いようがない。
 彼がこの地で永遠亭を探してもこの地から出ることはないだろう。このまま歩き探していれば。

「クソッ! さっきもここ通ったじゃないかよぉ~。一体どうなってんだ?」

 かれこれ数時間アレッシーは歩きっぱなしであった。いい加減に一息つきたいところである。
 いかにも根性がなさそうなアレッシーが、休むことなく歩いていたのには理由がある。彼が紫の住居を後にしてからずっと誰かの視線を感じていたのだ。それなのに周りを見渡しても人影すらない。
 アレッシーは強い心など持ち合わせてはいない。その心理は一般の人間と大差なく、不気味なのでさっさとここから立ち去りたいと思ったのだ。故にこうして当てもなくこうして彷徨っている。
 しかしそれも限界に近づいていた。このマヨヒガから脱する当てが全くないのだ。紫と藍を倒しきることが出来ず、胸の内にイライラが達していたアレッシーにはもう耐えられない。

「誰だか知らねーが出てきやがれッ!」

 アレッシーは後ろを振り返ると大きな声で叫んだ。その声は虚しくマヨヒガに響き渡るだけであった。それでもその行為は無駄ではない。大きな声で叫び、どこかスッキリしたのか、怒りに歪んでいた顔が少し戻った。
 彼が振り返った体を元に戻した時にその視界に何かが映った。

「うん?」

 気のせいかと彼が感じたのは当然である。それは音もなく、いや音はした筈だった。それでも彼には聞こえなかった。狩りをする猫は細心の注意を払っていたのだ。その猫が発する音は自然に紛れ、判断することが難しい。それは怒りやストレスで心の平静を失っていれば尚更の事だ。
 アレッシーが瞬きをしたその瞬間を狙ったかのようにそれは動いた。
 彼の眼には迫り来る化け猫の爪が映っていた。

「あひぃッ!」

 情けない悲鳴を上げてその場に尻餅をついてしまう。その頬には数条の赤い線が奔っていた。もし彼が咄嗟に顔を動かしていなければ頬に傷を負う程度ではすまない。彼に迫った爪は間違いなくその眼球を狙っていた。
 アレッシーもただ尻餅をついて戸惑うだけではない。腐ってもスタンド使い。すぐに反撃に出たのだ。懐から取り出したのは彼のスタンド以外での最強の武器。自動拳銃だ。抜くや否や、碌に狙いもつけずに二、三度引き金を引いた。
 だが悲しいかな、その弾丸は当たることはない。所詮チンピラ程度の腕前の彼の射撃など高が知れる。動きが速い相手だというならそれはなおさらだ。
 放たれた銃弾は当たることはなかった。しかし相手の更なる追撃を防ぐ役割を果たした。彼は知っている。眼前に立つこの化け猫を知っている。毛を逆立て、唸り声を上げるこの化け猫を知っている。

「お、お前は……誰だっけ?」

 見覚えはあった。しかし名前は覚えていない。紫や藍に比べてインパクトが薄かったのか、彼の記憶には名前が残らなかったのだ。それでもあの不味い飯と姿は覚えている。

「そうやって油断させようとしても無駄だぞ! 私見ていたんだからねッ!」
「ふ~んそうかい。見ているだけって事はあいつらを見捨てたのだな。えらいねぇ~、仲間を見捨てるなんてオレにはできっこないね!」

 どの口がそれを言うか、アレッシーこそが即座に仲間を見捨てて保身に奔るだろうに。だが橙はアレッシーの性格など余りよく知らない。
 彼の言葉は彼女を激昂させるのには十分だった。顔を真っ赤に染めてアレッシーに一直線に襲い掛かった。そこには彼女の持ち味でもあるトリッキーな動きなど感じられない。
 故にかわされた。かわされたと言っても所詮はアレッシー。紙一重に華麗にかわす事などできず、無様に転倒し、結果としてかわすことが出来ただけである。
 いわば偶然。しかし橙にとってはそれを偶然と思うことなどできず、ただ馬鹿にされている様に見えたのだ。仮にも紫や藍を退けた男がこんな無様な姿をさらすはずがないと。
 思わず地団太を踏みそうになったが歯を食いしばって堪える。深呼吸をして心を落ち着かせる。平静を取り戻し、再びその凶爪をアレッシーに向けようとしたが、それよりも速く、彼の口が動いた。

「う、動くんじゃねぇッ! あの女共がどうなってもいいのかッ!」

 アレッシーは橙の動きが全く捉えられなかった。右に行ったと思ったら左から襲い掛かろうとしていたのだ。もし言葉で彼女の動きを封じなければどうなっていただろうか。想像に難くない。

「あんた……どういうことッ!」

 それは完全なブラフだった。アレッシーは全身に冷や汗を掻きながらその言葉を吐いたのだ。アレッシーに紫や藍をどうこうする能力など持ち合わせてはいない。寧ろ打ち倒せばその力から彼女達は解放されるのだ。
 彼は賭けに出てそれの勝機を掴んだ。後は畳み掛けるだけである。

「オ、オレがあいつらに真正面から戦って勝てるわけがなかろうに……何かしらの力を使った事に気付けないのかい? それはえらくないねぇ~」
「あ……うぅ~」

 橙は思わずアレッシーの言葉に頷いてしまった。確かに紫や藍が見るからに弱そうなこの男、アレッシーに負けるはずがない。スペルカードを使わず、何らかの力を使い、紫と藍を打ち倒すのを彼女は見てしまったのだ。
 アレッシーの嘘に、橙が真の証拠を付け加えていき、疑念を生み出す。
 このまま攻撃して、紫はともかく藍に危害が加えられる結果が彼女の脳裏に浮かんでは消える。ふわふわもふもふの尻尾が無残な姿に変わっていく。
 彼女は考えてみてもいい案が浮かばない。どうすれば良いのか分からない。アレッシーを放って置くべきなのか、それとも攻撃すべきなのか。
 式は主に命令されて初めてその本領が発揮される。命令を下す主、藍がおらず、一人涙目になって唸ることしか橙には出来なかった。それが致命的な隙になるという事に気付かずに。
 その隙こそがアレッシーの唯一にして無二の勝機なのだ。同じミスは二度も犯さない。その表情は醜い笑みではあるものの、笑い声やマヌケな掛け声を漏らすことなく影を、『セト神』をヌッと橙の影に交わらせる。

「にゃッ!」

 それは彼には予想できなかった。げに恐ろしきは獣の本能か、アレッシーがその影を交わらせた瞬間、橙はその場から飛び退いたのだ。この程度の交わりでは無力化するには不十分だ。
 彼は冷や汗を新たに流しながらも必死に表情を変えまいとしていた。純粋な力の差は歴然と開いていることぐらい彼も心得ていた。
 嘘。それだけがこの状況を乗り切る為の手段なのだ。

「い、今のを避けるなんてえらいねぇ~。紫とかよりすごいんじゃないか?」
「ふふん。何度も同じ手が通用するはずがないでしょ!」

 自信満々に胸を張って答える橙。アレッシーはその自身を砕きにかかる。

「だけどオレの言ったことを守らなかったのはえらくないね。オレは何て言ったかな? 動くなって言ったよなッ!」
「それがどうしたって言うのよ!」
「マヌケめ! 今頃あの女は……」
「え? まさか!?」

 顔面を青くしてその場に立ち尽くす橙。アレッシーはニヤリと口の端を吊り上げて止めを刺す。

「お前がいけないんだぜぇ? ここからじゃ殺すことは出来ないが、苦しめることぐらいは出来るんだからなッ!」
「う、嘘だッ!」
「嘘だと思うのなら試してみるか? えらいねぇ~。余程あの女に恨みがあるんだな」
「違うもん! 藍さまは頭を撫でてくれたり、もふもふの尻尾が気持ちよかったり、えっとそれから……」

 アレッシーの言葉についむきになって反論してしまう橙であった。それもそのはず、彼女は紫や藍を恨んでいるのではないかと言われたのだ。
 藍を虐待した疑惑のある紫は兎も角、主である藍を恨むだなんてとんでもない話だ。それが敵であろうともそう誤解されるのを橙には捨て置くことが出来なかった。

「マヌケ」

 アレッシーの呟きすら橙には聞こえない。必死に藍の良いところを挙げる彼女は忍び寄るセト神の影に気付けなかった。
 気付いた時にはもう遅い。飛び退こうにも彼女の四肢は上手く動いてくれない。
 戸惑う橙の姿はやがて彼女の着ていた服に隠れ、そこから二つの尾を持つ黒猫が飛び出てきた。それは彼女が未熟であればこその話だ。
 藍の場合には理性が獣としての本能を上回り、必死に自身に起きた現象を把握しようと努めた。彼女はそれが仇となり、セト神から逃れられる最期のチャンスを失ったのだ。
 だが橙は違う。未だ精神的に幼い彼女は姿が人から獣に近づくに連れて獣の本能が理性を失ったのだ。例え頭で彼に抵抗すれば紫や藍が苦しむと言われても体が言うことを利かない。いや考えるよりも先に体が動いてしまうのだ。
 思考は常に後悔。自らの行動が大切な『誰か』を苦しめる結果になる事を知っているが故の後悔。
 それは放たれた銃弾をかわしている最中もずっと橙の胸を苦しめる。『誰か』の為にこの銃弾は避けてはいけないはずなのに。

「悪い子だなー。きっとあの女は死ぬほどの苦しみを味わっているんだろうなー」

 そう言いながら拳銃の引き金を引くアレッシーは焦っていた。動いたら紫や藍が苦しむと嘘をついて脅したのに、目の前の人型から獣へと姿を変えた橙は縦横無尽に動きながら銃弾をかわしていく。
 もしかしたら嘘がばれたのかも知れない、その考えが彼の脳裏を過ぎる。
 一方の橙は敵を攻撃すべしという本能を理性で必死に抑えていた。もし彼に傷を負わせたら報復で藍に何をされるのか分からない。その恐怖心が攻撃的な本能を押さえ込んでいた。だが、生存本能は抑えられない。
 敵を排除できないと判断した獣の生存本能は逃げることを選択した。理性は逃げてはいけないと理解していてもその足を止めることは出来ない。気のせいかその眼には涙が浮かんでいる。
 逃げようとする橙を見す見す逃すほどアレッシーはマヌケではない。
 背を向けた黒猫にその標準を合わせ、引き金を引く。しかし銃口からは何も飛び出てはこない。よく見れば、いや良く見ずともそれは一目瞭然であった。
 自動拳銃を使っていたアレッシーはスライドが引かれたままになっているのに気付かず引き金を引いたのだ。スライドが引かれたまま、つまり弾切れである。それに気付かないアレッシーこそマヌケだ。
 慌てて懐に手を入れて予備のマガジンを取り出そうとするのだがその手に鋭い痛みが奔る。それは橙の爪で頬を引っ掻かれたような痛み、だが彼女はアレッシーに背を向けて攻撃など出来ない。

「な、なんだぁ!?」

 ふと周りを見渡せば何処からか遣って来たのか大量の猫が取り囲んでいる。毛は逆立ち、唸り声を上げて威嚇をする。

「あ、待てこの野郎ッ!」

 見失わぬように慌てて追いかけるも猫達がその行く手を遮った。だが所詮は猫である。余り大柄でないとは言えアレッシーの体格でも無理やり押し通ることは可能だ。しかしそれが出来ない。
 彼の死角という死角から猫が襲い掛かりその爪を突立ててくるのだ。その一撃一撃は軽く、傷も浅くとも塵も積もれば山となる。ただでは済まないのは明白だ。
 纏わりつく猫を蹴飛ばし、殴りつけその包囲網を無理やり突破する。そして突破する頃には服は無残に破れ、全身引っ掻き傷だらけになっていた。

「こんなはずじゃなかったのによぉ~……ってここ何処だ?」

 無我夢中に走り、どこまでも追いかけて来る猫達を振り払いながら橙を追いかけていた彼は、道中の景色など目に映らなかった。いや、そんな余裕がなかったのだ。ふと周りを見渡せば景色はマヨヒガとは打って変わっているではないか。

「アレ……もしかしてまた迷ったのか?」

 どうやらマヨヒガより脱することは出来たようだ。しかしかそこは見知らぬ場所なのだ。当然目指すべき永遠亭の場所など見当がつかない。
 困り果てるアレッシーだが、取り敢えず懐から拳銃を取り出すとマガジンを入れ替えて不意の遭遇に備えることにした。
 予備のマガジンはこれ一本だけ。打ち尽くせばそれで終わり。残る武器は斧だけだ。

「あなたは取って食べれる人類?」
「のわぁッ!」

 唐突に声を掛けられ思わず手に持った銃口を向けた。その先には夕闇を背に、頭に赤いリボン、黄色い髪に赤い眼をした女の子が立っていた。

「何だガキか。おい、お嬢ちゃんの名前は?」
「ルーミア」

 アレッシーは銃をしまうと女の子の名を尋ねた。尋ねられた彼女も素直に自身の名を名乗る。

「フーン、今一人? パパやママと一緒?」

 彼が何故ルーミアに一人かと尋ねるのか。アレッシーは幻想郷の妖怪のことなど知らない。目の前のルーミアが人喰い妖怪だとは知らない。ちょっと変わった子供程度としか認識していないのだ。
 常識的に考えて日が沈むような時刻に、人家が見当たらないような場所に子供が一人で出歩くはずはないのだ。

「おとーさんやおかーさんはいないよ?」
「子供が一人で歩き回るなんて偉くないねぇ~」
「一人じゃないよ、ミスティアと一緒だよ」
「みすちー? お姉さんか?」
「そーなのかー、ミスティアはおねーさん?」
「オレに聞かれても知らねぇよ」

 アレッシーは道行く人を見境なく攻撃するほど危険でも狂っているわけではない。マヨヒガで紫や藍、橙を攻撃したのはあくまでも自衛と報復の為だ。
 確かに子供嫌いで弱いものイジメが好きなアレッシーが見た目弱そうなルーミアに普通に対応するのは違和感がある。だがそこには彼の思惑が存在していた。
 彼がしきりにルーミアの保護者を気にするのは何も彼女が一人だったら危害を加えようと思っているのではない。ここがどこか分からないから道を尋ねたいのだ。子供よりも大人の方が、話が通じ易い。故にそれを聞いているのだ。
 無論彼女が一人ならば渋々道を尋ねていただろう。

「夜の鳥ぃ、夜の歌ぁ♪ あ、ルーミアこんな所にいたの?」
「あ、ミスティアだ」

 暗闇より歌を歌いながら現れた女性、いや少女が宙に浮かびながらやって来た。その特異な出で立ちさえ無視すれば彼女の容姿は美しく可憐で歌と共に人を惹きつける魅力を持っている。
 だがアレッシーはその出で立ちに目を奪われていた。その獣のような耳と鳥を彷彿させる大きな翼、彼女は一体何者なのか。いや、彼はそれよりも先に解決しなければならない問題があった。
 訳の分からぬ歌を口ずさみ、どこかポケポケとした雰囲気を感じさせるが、それでも目の前のルーミアよりはマシだろうと口を開く。

「あーちょっといいか?」
「人は暗闇にぃ♪って何? 歌の邪魔しないで」
「道をっていでぇッ!」

 永遠亭への尋ねようとしたがそれは適わない。彼は腕に激しい痛みを感じてしまい言葉を紡ぐことが出ないでいた。視線を移せば腕にはルーミアが噛み付いていた。

「このクソガキッ! 何しやがる。おい、お前はどういう教育していんだッ!」

 ミスティアをルーミアの姉的立場にあると誤認していた彼は思わず苦情を漏らしてしまう。彼女もそんなアレッシーの言葉を全く気にしていない。気にしていないというよりも相手にしていない。

「まずい……」
「だめよルーミア、いくらお腹が空いていてもこんなのを食べたらお腹壊しちゃうわ」
「そーなのかー」
「そうよ。今日は一緒に狩りをするって言ったでしょ? 勝手にどっか行っちゃうからもう狩っちゃたわよ」
「あ、ごめんね」
「ららら晩御飯♪」
「わはー♪」

 二人はアレッシーを無視して何処かへ行こうとする。目的地、いやどこか雨露を凌げるような場所を尋ねるまでは彼女達と別れる訳にはいかないと慌てて彼も彼女達を追いかけて行く。
 もし二人が人喰いであると知っていたならばその先に何があるか想像に容易い。しかしアレッシーは彼女達がそうだとは知らない。その先にある凄惨な光景など想像できなかった。

「ま、待て……よ?」

 木々が鬱蒼と茂る、そんな中に妙に開けた場所があった。星々と共に天空に鎮座する月は欠けているとは言え地上を優しく照らすには十分な光量であった。例えそれに照らされたのが見るも無残な人の屍であったとしても。
 辺り一面に鉄錆の匂いが充満していた。その匂いに釣られたのか何匹かの野犬がやって来た。ミスティアは暢気に謳いながらその爪を奮い、屍に群がる犬の肉を切り裂き食事の準備を整えた。
 邪魔者がいなくなるとミスティアは調理を始める。動きの固まってしまったアレッシーに背を向けたまま、年若い女の死体の横にちょこんと座り、その鋭利な爪で死体の胸を服ごと切り裂いた。
 その光景に奇声を上げて喜ぶルーミア。まるで赤子が母の母乳を飲むかのようにその乳房へと飛び付いた。ただ違うのは彼女が求めているのは肉である。力いっぱい歯を柔らかい肉に差し込むと獣のように食いちぎった。
 ミスティアはそんな彼女を鼻歌交じりに嗜めた。それは食事のマナーが悪い妹を嗜める姉のようだ。そこに死体さえなければ微笑ましい光景と言っても過言ではないだろう。
 細くしなやかな指で露になった胸を指でなぞる。その後には刃物でもなぞったかのように赤い線が奔るその線は深く奔り、肉の先に骨まで見える。早く早くとせかすルーミアを尻目にゆっくり肉を左右に開き、肋骨をその細く美しい指で優しく摘む。そしてポキリポキリと音を奏でながら小枝でも折るかのような気軽さで肋骨を折り始める。
 あらかた肋骨を折るとその手で開いた胸にぞぶりと爪を突き刺す。跳ねた血がミスティアの頬を赤く染める。死体の胸に両の手を突き刺しもぞもぞと手を動かした。そしてゆっくりと持ち上げるのだ。
 滴り落ちる赤い水滴が月明かりに反射し、彼女の両の手に鎮座したものをハッキリと彼に見せ付ける。かつて脈々と人を動かしていた生の象徴、心臓だ。
 楽しそうに、嬉しそうに、親しいものに花でも捧げるかのような笑顔でルーミアに心臓を差し出す。差し出されたルーミアはミスティアの手に乗った心臓に貪りついた。
 終始笑顔。優しい笑顔を浮かべるミスティア。ルーミアは心臓を食べ終わると何かに気付いたのか気まずそうにしていた。腹膨れて冷静になったのだろうか。自分だけ満足して申し訳ないとでも言いたそうだった。
 そんなルーミアに対してミスティアは優しく諭す。そう、死体の下腹部を指差したのだ。
 アレッシーから見ればそこには何もないように思えた。しかし、ルーミアがその腹の肉を乱暴に引きちぎり、引きずり出されたものを見て驚愕するしかない。
 今も尚母親とつながっている臍の緒、そう、ルーミアが取り出したのは人の胎児だったのだ。
 何故妊婦がこのような所で死んでいるのか。誰かと一緒ではないのか。共に行動を共にした者に見捨てられて彼女達に喰われているのか。それとも病で死に至ったのか。幾通りも妊婦が死んだ理由は考えられる。しかし、その事を彼女達に問うても無駄だろう。
 餌が如何なる理由で死んだのか彼女達は興味を持っていないのだから。
 現実として名も知れぬ妊婦は何処とも知れぬ地で、腹の中の子と共に死へと誘われ、彼女達の胃袋に収まらんとしているのだ。
 ルーミアは片手ほどの大きさの胎児をミスティアに差し出した。彼女はそれを受け取ると何の躊躇もなくその口に収めたのだ。顎を何度も動かし、味わうかのようにゆっくりと飲み込んだ。
 胎児を全て腹に収めるとその指についた血を舌で舐め取り始めた。
 舌先と指に絡みつく人間の紅い血が月の明かりに妖しく光、ミスティアの妖艶な美しさを引き立てる。
 その時、アレッシーが動けず、その光景をずっと黙って見ていることにようやく気付いたといわんばかりに首だけを彼の方へ傾けた。
 トロンとした恍惚の表情をその目に携え、未だに血がついた手を彼へと伸ばした。
 彼とミスティアの間には幾分かの距離がある。どう考えても彼女の手が届くことはないのだ。それにもかかわらず、彼の全身を心臓でも掴まれたかのような衝撃が全身を襲った。
 それだけではない。雲一つない素晴らしい星空が広がっているはずなのに、アレッシーは急激に月が雲に隠れたかのように目の前の光景が見えなくなってきたのだ。
 もはや彼にはミスティアの輪郭すらはっきり見えない。ただ、彼が見て取れたのは、彼女の艶やかな唇がゆっくりと紡がれ、クスクスと笑う姿だった。

「ひ、ヒィッ! く、くるなぁぁぁッ!」

 それはアレッシーが体験したこともない恐怖。人と人が殺しあう世界でも得られぬ感情。喰われる。ただその感情が彼の足を動かした。
 目の前の景色が見えなくとも関係ない。足の歩みを止めれば死ぬ、いや喰われる。後ろを振り返れば喰われる、すなわち死。
 足を何度も取られて転んだ。木々に何度もぶつかった。寝ている妖精を踏みつけた。それでも彼は走るのを止めない。
 この幻想の地で初めて感じた死の気配。紫や藍、橙と争った時には殺されるという感覚はなかった。だからこそ戦えた。
 元々アレッシーは小心者だ。明確な死を目の前にして正気でいられるほどの人間ではない。
 狂ったかのように走るアレッシー。彼の歩みが止まったのは朝陽が彼の眼光に突き刺さった時だった。



第八話

アレッシーの冒険
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