李峴 りけん
709-766
中唐の宗室・宰相(在任759、764)。信安郡王
李禕の三男。その世系は
太宗→呉王
李恪→
李琨→李禕→李峴である。
李峘・
李嶧の弟。京兆尹となり、
楊国忠が
安禄山を陥れる陰謀に加担し、乱をおそれた
玄宗によって零陵太守に左遷された。永王
李璘が江陵大都督となると、長史となった。至徳年間(756-758)初頭、
粛宗によって扶風太守、兼御史大夫となり、さらに京兆尹に復帰し、梁国公に封ぜられた。乾元二年(759)中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。最も古株であったから、政務の多くを一人で決済し、同職位の宰相
呂諲らの不満をかった。宦官で権臣
李輔国が、法を曲げて
崔伯陽らを左遷させると、粛宗に暴言をはいて罷免された。
代宗が即位すると、荊南節度使、知江淮選補使となり、礼部尚書兼宗正卿、さらに広徳二年(764)再び門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)となったが、同年中に宦官の讒のため罷免された。吏部尚書、知江淮選使、検校兵部尚書兼衢州刺史となった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年10月02日 01:48