巻十二 志第二

唐書巻十二

志第二

吉礼二


  六を進熟(料理の献上)という。皇帝が昇殿すると、玉と幣を捧げた。太官令が進饌者を率いて奉饌し、それぞれ内壁の門外に並べた。謁者は司徒を引き連れて出て饌所にいたり、司徒は昊天上帝の俎に奉り、太官令は饌を撤饌して門に入り、それぞれその段に至った。祝史はともに進み出て、跪き、毛や血の入った豆(高坏形の青銅盛器)を撤饌し、降りて東の段から退出した。祝史たちは饌を壇上に迎え、司徒・太官令は共に東の段から降りて退出した。また進み出て外官・多くの星の饌を設けた。皇帝はやって来て樽を洗い、手洗いして爵を洗い、壇に南の段から登った。司徒は東の段から登り、尊所に立つ。斎郎は俎を持って司徒に従って登り、司徒の背後に立つ。皇帝は上帝の尊所にやって来て、尊を持つ者は冪(白布)をあげ、侍中は汎斉(薄い粕酒)を酌むのを助け、昊天上帝の前に進み出て、北に向って跪き、爵を捧げて立ち上がり、やや退いて立つ。太祝は版を持って神の右に進み出て、東に向って跪き、祝文を読む。「維れ某年歳次月朔日、嗣天子臣某、あえて昊天上帝に申し上げます」皇帝は再拝する。配侑の帝の酒尊の所にやって来て、尊を持つ者は冪(白布)をあげ、侍中は爵を持って盃台に置いて進り、皇帝は爵を受け取り、侍中は汎斉(薄い粕酒)を酌むのを助け、高祖神堯皇帝の前に進み出て、東に向って跪って捧げ、立ち上がってやや退き、立つ。太祝は版を持って左に進み、北に向かって跪き、祝文を読む。「維れ某年歳次月朔日、曾孫開元神武皇帝臣某、あえて高祖神堯皇帝に申し上げます」皇帝は再拝する。昊天上帝の前に進み出て、北に向って立つ。太祝たちはそれぞれ爵に酒を注ぎ、合せて一つの爵に収め、太祝は爵を持って侍中に授けて進み出て、皇帝は再拝し、爵を受け取り、跪き、酒を祭り、酒をついばみ、爵をまつり、平服し、立ち上がる。太祝はそれぞれ斎郎を率いて俎を進る。太祝は神前の供肉を減らし、共に一つの俎に置き、司徒に授けて進り、皇帝は受けとって左右に授ける。皇帝は跪き、爵を取って飲み干し、爵を飲み終わる。侍中は進み出て空になった爵を受け取り、盃台に戻す。皇帝は平服し、立ち上がって、再拝し、南の段から降り、もといた場所に戻る。文舞が出て、武舞が入る。それより以前、皇帝はもといた場所に戻ろうとし、謁者は太尉を引き連れてやって来て樽を洗い、手を洗ってから瓢・爵を洗い、東の段から壇に登り、昊天上帝の著尊の所に赴いて、尊を持つ者は冪(白布)をあげ、太尉は醴斉(あまざけ)を酌み、昊天上帝の前に進り、北に向って跪き、爵を捧げ、立ち上がって再拝した。配侑の帝の犧尊の所に赴いて、爵を盃台から取って、醴斉(あまざけ)を酌み、高祖神堯皇帝の前に進り、東に向って跪き、爵を捧げ、立ち上がって再拝する。昊天上帝の前に進み出て、北に向って立つ。太祝たちがそれぞれ爵に酒を酌んで、合せて一つの爵に置き、右に進み出て、西に向って立つ。太尉は再拝して、爵を受けて跪き、酒を捧げて飲み干し、爵を空にする。太祝は空になった爵を受け取り、盃台に戻す。太尉は再拝して、降り、もとの場所に戻る。それより以前、太尉の献が終わろうとすると、謁者は光禄卿を引き連れて樽を洗い、手を洗って瓢・爵を洗い、登って盎斉(白い濁酒)を酌む。終献は亜献と同様である。太尉は献に登ろうとすると、謁者七人は分かれて五方帝および大明・夜明等の献官を率いて、行って樽を洗い、手を洗って瓢・爵を洗い、それぞれ祭壇の階段を登り、汎斉(薄い粕酒)を酌み、進み出て、跪いて神前に捧げる。それより以前、第一等の献官は登ろうとすると、謁者五人は順番に献官を率いて、それぞれ行って樽を洗い、手を洗い、それぞれ祭壇の階段を登り、第二等の内官の酒尊の所に赴き、汎斉(薄い粕酒。『開元礼』『通典』『唐会要』では醍齊(赤い濁酒)とする)を酌んで献とする。賛者四人は順番に献官を引き連れて赴いて樽を洗い、手洗いし、外官の酒尊の所に行き、清酒を酌んで献とする。賛者四人は、順番に献官を引き連れて赴いて樽を洗い、手洗いして衆星の酒尊の所に行き、昔酒(熟成酒)を酌んで献とする。祝史・斎郎は酒を酌んで奠を助けることは、すべて内官と同様である。上下の祝たちはそれぞれ進み出て、跪いて豆(高坏形の青銅盛器)を撤饌し、尊所に戻る。奉礼郎が「供肉を賜う」と言うと、賛者は「衆官は再拝せよ」と言い、席にいる者は全員再拝する。太常卿は御前に奏上して「再拝してください」と言うと、皇帝は再拝する。奉礼郎が「衆官は再拝せよ」と言うと、席にいる者は全員再拝する。楽は一編成を演奏する。太常卿は御前に奏じて、「燎祭の所定の位置についてください」と言うと、皇帝は所定の位置につき、南に向って立つ。上下の祝たちはそれぞれ篚(竹籠)を持ち、玉・幣・祝版・礼物を取って上る。斎郎は俎に犠牲・稷・黍飯および爵の酒を載せ、それぞれ段から壇を降り、柴壇に赴き、南から段を登り、幣・祝版・饌物を柴の上に置く。戸内の祝たちは同じく内官以下の礼幣で全員燎祭に従う。奉礼郎が「火をつけよ」と言うと、東面・西面からそれぞれ六人が篝火で火をつける。柴が半分になると、太常卿が御前に「礼は終了する」と言うと、皇帝は大幄に戻り、中壁の門を出て、殿中監は御前から鎮珪を受け取り、尚衣奉御に授け、殿中監は同じく御前から大珪を受け取る。皇帝が幄に入ると、謁者・賛引がそれぞれ祀官を率いて、通事舎人が分かれて従祀の群官・諸方の客使を率いて順番に退出する。賛者は御史・太祝以下を率いて一緒に席に戻った。奉礼郎が「再拝せよ」と言うと、御史以下は全員再拝し、退出する。工人・二舞は順番に退出する。

  宗廟での場合は、饋食(お供え)と呼ばれる。皇帝が登座し、地に酒を注いで祀り、太官令が出ると、進饌する者を率いて饌を捧げ、東門の外に並べ、西向きで南を班位の上とする。謁者は司徒を引き連れて出て来て、饌所にやってきて、司徒は献祖の俎に捧げる。太官は饌を引き連れて正門より入り、大階段にやって来る。祝史が一緒に進み、毛・血の入った豆(高坏形の青銅盛器)を撤饌し、阼階(東向きの階段)から降りて出る。太祝たちは饌を階の上に迎えて設置し、そこでよもぎ・稷・黍を取って脂に浸し、炉で焼く。太常卿は皇帝を案内して樽を洗い、手を洗い、爵を洗い、阼階(東向きの階段)から登って、献祖の尊・彝の所にやってきて、尊を持って冪(白布)をあげ、侍中は汎斉(薄い粕酒)を酌むのを助け、献祖の前に進み、北向きに跪き、爵を捧げる。また尊の所にやって来て、侍中は爵を持って盃台に置いて進み出て、汎斉(薄い粕酒)を酌み、神前に進み出て、北向きで跪き、爵を捧げて、退立する。太祝は版を持って神位の右に進み出て、東に面して跪き、祝文を読む。「維れ某年歳次月朔日、孝曾孫開元神武皇帝某、あえて献祖宣皇帝・祖妣の宣荘皇后張氏に申し上げます」皇帝は再拝し、また再拝する。捧げて、懿祖の尊・彝のところにやって来て、汎斉(薄い粕酒)を酌み、神前に進み出て、南向きに跪き、爵を捧げて、やや西に位置して平服し、立ち上がる。また汎斉(薄い粕酒)を酌み、神前に進み出て、南向きに跪き、爵を捧げ、やや東に位置し、退いて立つ。祝史は西に面して跪き、祝文を読む。皇帝は再拝し、また再拝する。次に太祖代祖高祖太宗高宗中宗睿宗に捧げることは、すべて懿祖と同様である。それから東の列に行き、西に向って立つ。司徒は阼階(東向きの階段)から登り、前柱の間に立ち、北に面して東を班位の上とする。太祝たちはそれぞれ爵で尊に祭祀の酒を酌み、合せて一つの爵にし、太祝は爵を持って侍中に授けて進み出る。皇帝は再拝し、爵を受け取って、跪き、酒を祭り、酒を吸い、爵を捧げて平服し、立ち上がる。太祝たちはそれぞれ斎郎を引き連れて俎を進り、太祝は神前の三つの犠牲の供肉を減らし、共に一つの俎の上に置き、黍・稷の飯を共に一つの籩(高坏)に置き、司徒に授けて進み出る。太祝はまた供肉を司徒に授けて進み出る。皇帝は受けるたびに、左右の者に授け、そうして跪いて爵を取り、飲んで爵を空にする。侍中は進み出て空の爵を受け取り、太祝に授け、また盃台に置く。皇帝は阼階(東向きの階段)から降り、もといた場所に戻る。文舞が出て、武舞が入る。それより以前、皇帝はもといた場所に戻ろうとすると、太尉はやって来て樽を洗い、手を洗い、爵を洗い、阼階(東向きの階段)から登り、献祖の尊・彝の所に行き、醴斉(あまざけ)を酌んで神前に進り、北に向って跪き、爵を捧げ、やや東に行き、立ち上がり、再拝する。また爵を取って盃台に置き、醴斉(あまざけ)を酌んで神前に進り、北に向って跪き、爵を捧げ、やや西に行き、北に向って再拝する。次に懿祖太祖代祖高祖太宗高宗中宗睿宗に捧げることは献祖と同様である。そうして東の列に行き、西に向って立つ。太祝たちはそれぞれ爵をたてまつって祭祀の酒を酌み、合せて一つの爵に入れ、太祝は爵を持って左に進み、北に向って立つ。太尉は再拝して爵を受け、跪き、酒を祭って飲み干して爵を空にする。太祝は爵を受け取り、盃台に戻す。太尉は立ち上がり、再拝し、もといた場所に戻る。それより以前、太尉は献を終わらせようとする時、謁者は光禄卿を引き連れて樽を洗い、手を洗、登って盎斉(白い濁酒)を酌む。終献は亜献と同様である。太祝たちはそれぞれ進み出て、豆(高坏形の青銅盛器)を撤饌し、尊所に戻る。奉礼郎が「供肉を賜う」と言うと、賛者は「衆官は再拝せよ」と言い、席にいる者は全員再拝する。太常卿は御前に奏上して「再拝してください」と言うと、皇帝は再拝する。奉礼郎が「衆官は再拝せよ」と言うと、席にいる者は全員再拝する。音楽は一編成で演奏を止める。太常卿は御前に進み出て「礼は終了する」と言い、皇帝は門を出て、殿中監は御前で鎮珪を受け取る。通事舎人・謁者・賛引はそれぞれ祭祀の官・九廟(太祖以降)の子孫および祭祀に従事する群官・諸外国の客使を率いて順番に退出する。賛引は御史・太祝以下を率いて一緒に席に戻った。奉礼郎が「再拝せよ」と言うと、御史以下は全員再拝して退出する。工人・二舞は順番に退出する。太廟令は太祝・宮闈令とともに腰輿を引き連れて登り、神主を納める。この祝版は斎坊で焼却する。

  七祀は、それぞれその季節ごとにお祭りをした。司命・戸は春に、竈は夏に、中霤は季夏の土王の日に、門・厲は秋に、行は冬に実施した。季節ごとのお祭りの日、太廟令は神位の席を廟の庭の西門の内の道の南に設置し、東向きで北を班位の上とし、酒の尊を東南に設け、樽洗も同じく東南に設けた。太廟令・良醞令は実を尊・篚(竹籠)に入れ、太官丞は饌を引いて、光禄卿は登り、終献では、献官はただちに引き継ぎし、一献して終わる。

  配享の功臣は、それぞれの神位をその廟室の大階段の東に設置し、やや南西向きにし、北を班位の上とした。壺尊二つを座の左にし、洗を終献の洗の東南に設け、北向きにする。太官令は饌を奉り、廟で亜献が終わると、その後献官は引き継ぎをして、奠者が助けて奠を分け、一献して終わる。

  冬至に円丘で昊天上帝を、孟冬に太廟の礼を祫祭し、壇の壁・宗廟の間で執り行われるが、礼が盛んで物が備わることはこれに比類するものがない。壇堂の高さ、壁・門の内外、神位の尊卑の序列とその向きや立ち位置、出入・降登の様子は、大まかに推測でき、盛んで備っているのがこのようであれば、これが小規模で簡略化されてても推測できるのである。

  祭壇・神位・尊・爵・玉幣・籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)・牲牢(犠牲)・冊祝の数はすべて古代の方式に依拠した。

  四方からなり、高さ八尺一寸(約270cm)、下部は広さ二十丈(約60m)で、上部にいくごとに五丈(約15m)づつ、上部は五丈(約15m)となり、十二段の階段があるのは円丘である。八角形で三段からなり、高さ四尺(約1.2m)、上部は広さ十六歩(約25m)、八つの階段を設け、上の階段は広さ八尺(約2.4m)、中の階段は一丈(約3m)、下の階段は一丈二尺(約3.6m)あるのは方丘である。高さ、広さが四丈あるのは、神州の壇である。その広さがすべて四丈(約4m)で、高さ八尺(約2.4m)であるのは青帝、七尺(約2.1m)なのは赤帝、五尺(約1.5m)なんは黄帝、九尺(約2.7m)なのは白帝、六尺(約2.4m)なのは黒帝の壇である。広さ四丈(約2.4m)、高さ八尺(約2.4m)なのは、朝日の壇である。穴を掘って深さ三尺(約90cm)、縦・広さ四丈(約12m)で、その中に壇があり、高さ一尺(約30cm)、一方の広さ四丈(約12m)なのは、夕月の壇である。廣五丈、以五土為之者、社稷の壇である。高さ一尺(約30cm)、広さ一丈(約3m)なのは、蜡の壇である。高さ五尺(約1.5m)、一周四十歩(約62m)なのは、先農・先蠶の壇である。高さがすべて三尺(約90cm)、広さがすべて一丈(約3m)なのは、小祀の壇である。嶽鎮・海涜はその廟でお祭りし、廟がなければ壇に穴を掘り、広さ一丈(約3m)、四方に向かって階段があるのは、海涜の壇である。広さ二丈五尺(約7.5m)、高三尺(約90cm)で、四方に階段が出ているのは、古帝王の壇である。広さ一丈(約3m)、高さ一丈二尺(約3.6m)、構造物の一方が六尺(約1.8m)なのは、大祀の燎壇である。広さ八尺(約2.4m)、高さ一丈(約3m)、構造物の一方が三尺(約90cm)なのは、中祀の燎壇である。広さ五尺(約1.5m)、構造物の一方が二尺(約60cm)なのは、小祀の燎壇である。すべて上部は開いて南が出ている。埋葬穴はすべて内壁の外の南側の地にあり、南に階段が出ており、物を埋めるのに充分な深さがある。以上が祭壇の制度である。

  冬至に昊天上帝を円丘で祀り、高祖神堯皇帝を配侑とした。東方青帝霊威仰・南方赤帝赤熛怒・中央黄帝含枢紐・西方白帝白招拒・北方黒帝汁光紀および大明・夜明は壇の第一等におかれた。天皇大帝・北辰・北斗・天一・太一・紫微・五帝の座は、すべて行位の前に序列だてて置かれた。他の内官諸座および五星・十二辰・河漢の四十九座は、第二等十二陛の間に置かれた。中官・市垣・帝座・七公・日星・帝席・大角・摂提・太微・五帝・太子・明堂・軒轅・三台・五車・諸王・月星・織女・建星・天紀の十七座、二十八宿は、序列によって前列に置かれた。その他の中官百四十二座はすべて第三等十二陛の間に置かれた。外官の百五は内壁の内にあり、衆星の三百六十は内壁の外に置かれた。正月上辛の祈穀に昊天上帝を祀り、高祖神堯皇帝を配侑とし、五帝は四方の階段にあった。孟夏に昊天上帝を雩祀する際には、太宗文武聖皇帝を配侑とし、五方帝(五方上帝)を第一等とし、五帝は第二等におかれ、五官は壇の下の東南におかれた。季秋に昊天上帝を祀る際には、睿宗大聖真皇帝を配侑とし、五方帝(五方上帝)は五室におかれ、五帝はそれぞれその左におかれ、五官は庭におかれ、配置はそれぞれの方角に依拠した。立春に青帝を祀る際には、、太皥氏(伏羲)を配侑とし、歳星・三辰は壇の下の東北におかれ、七宿は西北に、句芒(少昊の子。伏羲を補佐していた東の神)は東南におかれた。立夏に赤帝を祀る際には、神農氏を配侑とし、熒惑・三辰・七宿・祝融の位座は青帝の時と同様である。季夏の土王の日に黄帝を祀る際には、軒轅氏(黄帝)を配侑とし、鎮星・后土氏の位座は赤帝の時と同様である。立秋に白帝を祀る際には、少昊氏を配侑とし、太白・三辰・七宿・蓐収の位座は赤帝の時と同様である。立冬に黒帝を祀る際には、顓頊氏を配侑とし、辰星・三辰・七宿・玄冥氏の位座は白帝と同様である。百神を蜡祭する際には、大明・夜明は壇の上におかれ、神農・伊耆(帝尭)はそれぞれその壇の上におかれ、后稷は壇の東におかれ、五官・田畯はそれぞれ方角に依拠し、五星・十二次・二十八宿・五方の岳鎮・海涜・山林・川沢・丘陵・墳衍・原隰・井泉はそれぞれ方角の壇におかれ、龍・麟・朱鳥・騶虞・玄武・鱗・羽・臝・毛・介・水墉・坊・郵表畷・於菟・貓はそれぞれ方角の壇の背後におかれた。夏至に皇地祇を祭る際には、高祖を配侑とし、五方の岳鎮・海涜・原隰・丘陵・墳衍は内壁の内におかれ、それぞれその方角におかれ、中岳以下は西南におかれた。孟冬に神州地祇を祭る際には、太宗を配侑とした。社では后土を、稷では后稷を配侑とした。吉亥に神農を祭る際には、后稷を配侑とし、朝日・夕月の時には配侑はおかれなかった。席は、尊い者は藁を、卑しき者はいぐさを用いた。以上が神の位の序列である。

  太尊を汎斉(薄い粕酒)で満たし、著尊を醴斉(あまざけ)で満たし、犧尊を盎斉(白い濁酒)で満たし、山罍を酒で満たし、すべて二つづつである。象尊を醍齊(赤い濁酒)で満たし、壺尊を沈斉(糟滓が下に沈んた清酒)で満たし、すべて二つづつである。山罍を酒で満たしたのを四つ、これによって昊天上帝・皇地祇・神州地祇を祀る。以著尊實汎斉(薄い粕酒)、犧尊を醴斉(あまざけ)で満たし、象尊を盎斉(白い濁酒)で満たし、山罍を酒で満たし、いずれも二つで、これによって配侑の帝を祀った。著尊二つに醴斉(あまざけ)を満たし、内官を祀る。犧尊二つに盎斉(白い濁酒)を満たし、中官を祀る。象尊二つに醍齊(赤い濁酒)を満たし、外官を祀る。壺尊二つに昔酒(熟成酒)を満たし、衆星・日・月を祀る。盃台があってその上に置かれた。気を迎えるのに、五方帝(五方上帝)・五人帝は六尊によって、山罍はすべて上帝の半分に減らす。五方帝を明堂に大享するのに、太尊著尊犧尊山罍はそれぞれ二つである。五方帝を円丘に従祀する場合は、太尊を汎斉(薄い粕酒)で満たし、いずれも二つづつである。五人帝を明堂に従享する場合は、著尊を醴斉(あまざけ)で満たし、いずれも二つづつである。日・月の場合は、太尊を醴斉(あまざけ)で満たし、著尊を盎斉(白い濁酒)で満たし、いずれも二つづつで、山罍を酒で一つ満たす。円丘で従祀する場合には、太尊二つを汎斉(薄い粕酒)で満たす。神州地祇を方丘で従祀する場合は、太尊二つを汎斉(薄い粕酒)で満たす。五官・五星・三辰・后稷の場合は、象尊を醍齊(赤い濁酒)で満たし、七宿の場合は、壺尊を沈斉(糟滓が下に沈んた清酒)で満たし、いずれも二つづつである。神農・伊耆氏(帝尭)を蜡祭する場合は、著尊をいずれも二つ盎斉(白い濁酒)で満たす。田畯・龍・麟・朱鳥・騶虞・玄武の場合は、壺尊を沈斉(糟滓が下に沈んた清酒)で満たす。麟・羽・臝・毛・介・丘陵・墳衍・原隰・井泉・水墉・坊・郵表畷・虎・貓・昆蟲の場合は、散尊を清酒で満たし、いずれも二つづつである。岳鎮・海涜の場合は、山尊を醍齊(赤い濁酒)で満たす。山・川・林・沢の場合は、蜃尊(蛤の殻で飾った尊)を沈斉(糟滓が下に沈んた清酒)で満たし、いずれも二つづつである。伊耆氏(帝尭)の場合はすべて盃台の上に置かれる。太社の場合は、大樽に醍齊(赤い濁酒)を満たし、著尊に盎斉(白い濁酒)を満たし、いずれも二つづつで、山罍は一つである。太稷の場合は、后稷氏と同様である。その他の中祀は、すべて犧尊に醍齊(赤い濁酒)を満たし、象尊に盎斉(白い濁酒)を満たし、山罍に酒を満たし、いずれも二つづつである。小祀の場合は、すべて象尊二つに醍齊(赤い濁酒)を満たす。宗廟での祫享では、部屋の斝彝を明水(祭祀に供える水)で満たし、黄彝を芳醇な酒で満たし、いずれも一つづつである。犧尊を汎斉(薄い粕酒)で満たし、象尊を醴斉(あまざけ)で満たし、著尊を盎斉(白い濁酒)で満たし、山罍を酒で満たし、いずれも二つづつである。堂の上に設置するのに、壺尊は醍齊(赤い濁酒)で満たし、大尊を沈斉(糟滓が下に沈んた清酒)で満たし、山罍を酒で満たし、いずれも二つづつである。堂の下に設置するのに、祫享では、鶏彝鳥彝が一つを、時享では、春・夏に室に鶏彝鳥彝一つを、秋・冬に斝彝黄彝一つを置き、いずれも盃台がある。七祀および功臣配享では、壺尊二つに醍齊(赤い濁酒)を満たす。別廟の享(まつり)では、春・夏に鶏彝に明水(祭祀に供える水)を満たし、鳥彝に芳醇な酒を満たし、いずれも一つづつである。犧尊に醴斉(あまざけ)を満たし、象尊に盎斉(白い濁酒)を満たし、山罍に酒を満たし、いずれも一つづつである。秋・冬では斝彝黄彝が、いずれも一つづつで、著尊壺尊山罍はいずれも二つづつである。太子の廟では、犧尊に醴斉(あまざけ)を満たし、象尊に盎斉(白い濁酒)を満たし、山罍に酒を満たし、いずれも二つづつである。基本的に祀、五斎の堂上に置かれた尊は、必ず明水(祭祀に供える水)を満たさなければならない。山罍の堂上に置かれた尊は、必ず明水を満たさなければならない。小祀の堂上に置かれた尊は、必ず明水を満たさなければならない。以上が尊・爵の次第である。

  冬至に、昊天上帝を祀る際には蒼璧を用いる。上辛には、明堂にて四つの圭が組み合わさっているのを、配侑の帝の幣とともにいずれも蒼を用い、内官以下の幣は方角の色の通りである。皇地祇は黄琮を用い、配侑の帝の幣とともにいずれも黄色を用いる。青帝は青圭を用い、赤帝は赤璋を用い、黄帝は黄琮を用い、白帝は白琥を用い、黒帝は黒璜を用いる。幣はその玉と同様である。日は圭・璧を用い、幣は青色を用いる。月は圭・璧を用い、幣は白色を用いる。神州・社・稷は二つの二つの圭が組み合わさっているのを用い、幣は黒色を用いる。岳鎮・海涜は二つの圭が組み合わさっているのを用い、幣はその方角の色の通りである。神農の幣は赤色を用い、伊耆(帝尭)は黒色を用い、五星は方角の色を用い、先農の幣は青色を用い、先蠶の幣は黒色を用い、配座はすべて同様である。他の祀幣はすべて白色を用い、その長さは一丈八尺(約5.24m)である。以上が玉・幣の制である。

  冬至のときに円丘で祀るのに、昊天上帝・配侑の帝は、籩(高坏)十二・豆(高坏形の青銅盛器)十二・簋(脚付きの青銅蓋物)一・簠(穀物を盛る方形の祭食器)一・㽅(食器を盛る古祭器)一・俎一である。五方上帝・大明・夜明は、籩八・豆八・簋一・簠一・㽅一・俎一である。五星・十二辰・河漢および内官・中官は、籩二・豆二・簋一・簠一・俎一である。外官・衆星は、籩・豆・簋・簠・俎がそれぞれ一である。正月上辛に円丘で祈穀するのに、昊天上帝・配侑の帝・五方上帝は冬至と同様である。孟夏に円丘で雩祀するのに、昊天上帝・配侑の帝・五方上帝は冬至と同様である。五人帝は、籩四・豆四・簋一・簠一・俎一である。五官は、籩二・豆二・簋一・簠一・俎一である。季秋に明堂で大享する場合は、雩祀と同様である。立春に青帝および太昊氏を祀るのに、籩・豆はいずれも十二・簋一・簠一・㽅一・俎一である。歳星・三辰・句芒・七宿は、籩二・豆二・簋一・簠一・俎一である。赤帝・黄帝・白帝・黒帝はいずれも同様である。百神を蜡祭するのに、大明・夜明は、籩十・豆十・簋一・簠一・㽅一・俎一である。神農・伊耆(帝尭)は、籩・豆がそれぞれ四、簋・簠・㽅・俎はそれぞれ一である。五星・十二辰・后稷・五方田畯・岳鎮・海涜・二十八宿・五方の山林・川沢は、籩・豆がそれぞれ二、簋・簠・俎はそれぞれ一である。丘陵・墳衍・原隰・龍・麟・朱鳥・白虎・玄武・鱗・羽・毛・介・於菟等は、籩・豆がそれぞれ一、簋・簠・俎はそれぞれ一である。また井泉は、籩・豆がそれぞれ一、簋・簠・俎はそれぞれ一である。春分の朝日、秋分の夕月は、籩十・豆十・簋一・簠一・㽅一・俎一である。四時に風師・雨師・霊星・司中・司命・司人・司禄を祭るのに、籩八・豆八・簋一・簠一・俎一である。夏至に方丘を祭るのに、皇地祇および配侑の帝は、籩・豆がいずれも十二で、簋一・簠一・㽅一・俎は一である。神州は、籩四・豆四・簋一・簠一・㽅一・俎一である。五岳・四鎮・四海・四涜および五方の山川・林沢は、籩二・豆二で、簋・簠・俎はそれぞれ一である。孟冬に神州および配侑の帝を祭るのに、籩・豆がいずれも十二で、簋一・簠一・㽅一・俎一である。春・秋に太社・太稷および配座を祭るのに、籩・豆はいずれも十で、簋二・簠二・鈃(酒の器皿)三・俎三である。四時に馬祖・馬社・先牧・馬歩を祭るのに、籩・豆はいずれも八で、簋一・簠一・俎一である。太廟に時享するのに、部屋ごとに籩・豆はいずれも十二で、簋二・簠二・㽅三・鈃三・俎三である。七祀は、籩二・豆二・簋二・簠二・俎一である。祫享・功臣配享は、七祀と同様である。孟春に帝社および配座を祭るのに、籩・豆はいずれも十で、簋二・簠二・㽅三・鈃三・俎三である。季春に先蠶を祭るのに、籩・豆はいずれも十で、簋二・簠二・㽅三・鈃三・俎三である。孟冬に司寒を祭るのに、籩・豆はいずれも八で、簋一・簠一・俎一である。春・秋に孔宣父(孔子)に釈奠するのに、先聖・先師は、籩十・豆十・簋二・簠二・㽅三・鈃三・俎三であり、従祀の場合は、籩・豆はいずれも二で、簋一・簠一・俎一である。春・秋に斉の太公(太公望)・留侯(張良)を釈奠するのに、籩・豆はいずれも十で、簋二・簠二・㽅三・鈃三・俎三である。仲春に五龍を祭るのに、籩・豆はいずれも八で、簋一・簠一・俎一である。四時に五岳・四鎮・四海・四涜を祭るのに、それぞれ籩・豆は十で、簋二・簠二・俎三である。先代帝王および配座の三年祭をするのに、籩・豆はいずれも十で、簋二・簠二・俎三である。州県で社・稷・先聖を祭るのに、先師を釈奠するのは、籩・豆はいずれも八で、簋二・簠二・俎三である。

  籩(高坏)に岩塩・干し魚・棗・栗・榛(はしばみ)・菱・鬼蓮の実、鹿の干し肉・白餅・黒餅・糗餌(せんべい)・粉餈(あわもち)を入れる。豆(高坏形の青銅盛器)には韮の酢味噌漬け・肉汁・蕪菜の漬物・鹿肉の漬物・芹の漬物・兎肉の塩辛・冬筍の漬物・魚の塩辛・牛の胃袋の塩辛・豚のウデ肉・𩛆食(胸脂に水と米粉をあわせて煮たもの)・糝食(牛・羊・豚肉を細切れにして米粉を合わせて煮たもの)を入れる。中祀の籩(高坏)には糗餌(せんべい)・粉餈(あわもち)を入れず、豆(高坏形の青銅盛器)には𩛆食(胸脂に水と米粉をあわせて煮たもの)・糝食(牛・羊・豚肉を細切れにして米粉を合わせて煮たもの)を入れない。小祀の籩(高坏)には白餅・黒餅を入れず、豆には牛の胃袋の塩辛・豚のウデ肉を入れない。おおむねすべての祭器を四つづつで用いる場合は、籩(高坏)では岩塩・棗の実・黄色の栗・鹿の干し肉・豆以芹の漬物・兎肉の塩辛・蕪菜の漬物・鹿肉の漬物である。すべて二つで用いる場合は、籩(高坏)では黄色の栗・牛の干し肉で、豆(高坏形の青銅盛器)には秋葵の漬物・鹿肉の漬物を用いる。すべて一つで用いる場合は、籩(高坏)では牛の干し肉を用い、豆(高坏形の青銅盛器)には鹿肉の漬物である。牛の干し肉を用いる場合は、羊で代用してもよい。おおよそ簠(穀物を盛る方形の祭食器)・簋(脚付きの青銅蓋物)が一つづつの場合は、簋(脚付きの青銅蓋物)には稷を用い、簠(穀物を盛る方形の祭食器)には黍を用いる。二つづつ用いる場合は、簋(脚付きの青銅蓋物)は黍・稷を用い、簠(穀物を盛る方形の祭食器)には稲・梁を用いる。㽅(食器を盛る古祭器)を満たすのには大羹(調味料を加えない肉汁)で、鈃(酒の器皿)には肉羹を用いる。以上が籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・㽅(食器を盛る古祭器)・鈃(酒の器皿)の制である。

  昊天上帝は蒼牛で、五方帝(五方上帝)は、それぞれの方角の色の牛で、大明は青牛、夜明は白牛、神州地祇は黒牛である。配侑の帝の牛は、天は蒼牛を、地は黄牛を、神州は黒牛を用い、それぞれ一つづつである。宗廟・太社・太稷・帝社・先蠶・古帝王・岳鎮・海涜は、すべて太牢を用いる。社・稷の犠牲は黒を用いる。五官・五星・三辰・七宿はすべて少牢である。蜡祭では、神農氏・伊耆氏(帝尭)は少牢で、后稷および五方・十二次・五官・五田畯・五岳・四鎮・海涜・日・月は、方角によって犠牲は二で、星辰は降(鳥)を用い、それぞれ方角ごとに少牢が五である。井泉は羊が一である。順序の方角が正しくなければ欠とする。風師・雨師・霊星・司中・司命・司人・司禄・馬祖・先牧・馬社・馬歩は、いずれも羊が一づつである。司寒は黒の犠牲が一である。だいたい犠牲は清潔な飼育舎で、大祀の場合は九旬(90日間)、中祀の場合は三旬(30日間)、小祀の場合は一旬(10日間)、養育されて占われずに供給される。方角や色の指定がなければ純粋なものを用い、必ず代用を用意しなければならない。省牲(犠牲の点検)の際に牛が鳴けば、ただちに犠牲を免じて代用を用いる。叩いたり檻に入れることを禁じ、死ねば埋められ、怪我や病気となった場合は代わりの牛を求め、祈祷された犠牲は供えない。おおむね祀は、すべてその日の未明十五刻(午前2時から午前4時20分前後)、太官令は宰人を率いて(刀に鈴をつけた礼式用の刀)で供物を切り分け、祝史は豆(高坏形の青銅盛器)で毛・血を納めて饌所に置き、祭になるとこれを捧げて入り、これを亨(まつ)る。肉を俎に載せ、それぞれ右半身の十一箇所を供えた。前節が三であり、それは肩・腕・前腕である。後節は二で、それは砂嚢・脇の下である。背骨が一、腹背骨が一、横背骨が一、長肋骨が一、短肋骨が一、中肋骨が一で、いずれも骨付きである。別祭では太牢を用いる場合は、酒二斗、干し肉が一枚、ひき肉が四合添えられる。少牢を用いる場合には、酒は半減する。以上が犠牲の制である。

  祝版は、長さ一尺一分(約33cm)、幅八寸(約24cm)、厚さ二分(約6mm)で、木は梓・楸(きささげ)である。おおむね大祀・中祀では、版に書いて必ず拝礼した。皇帝が親ら祠る際に、大幄にやって来ると、郊社令が祝版に皇帝の親署を奉り、受け取って退出し、台に捧げた。宗廟では太廟令が奉った。有司摂事の場合は、奉って御署をしてもらい、皇帝が北向きに再拝し、侍臣が版を奉り、郊社令が受け取って退出した。皇后の親祠では、郊社令があらかじめ内侍に送っておき、享(まつり)の一日前に署名を奉り、皇后は北向きに再拝し、近侍の者が奉って退出し、内侍に授けて享(まつり)の場所に送った。享(まつり)の日の夜明け、女祝が台に捧げた。以上が冊祝の制である。


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最終更新:2025年10月19日 22:42
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