唐書巻十一
志第一
吉礼一
三代(夏・殷・周)以前、統治は一つの原則からはじまり、礼楽は天下に広まった。三代(夏・殷・周)以降、統治は二つの原則からおこり、礼楽は名ばかりとなった。古代において、宮殿・車・輿は住居であり、衣裳・冕弁は装いであり、尊・爵・俎・豆は器であり、金・石・絲・竹は楽器であり、これによって郊廟につりあい、朝廷に臨み、神に仕えて民を治めたのである。年中行事では集まって朝覲・聘問をし、喜び楽しんで交わり合っては郷射・食饗(饗宴)をし、集団での行事は出征と狩猟、学校に用いられ、下は村里や田畑に及び、吉凶・哀楽で大体民に関する事で、一つとして礼から出ないものはないである。これらの原則を通じて、人々に親孝行・友愛・忠信・仁義を教え込み、それらは居住・動作・衣服・飲食といった普段からの動作に及んだのである。思うに朝夕といった日々の活動に従事する者で、これによらない者はいないのである。これは所謂一つの原則に基づく統治、礼楽が天下に広まり、天下の習慣として行わせたから、人々にはどのように善を育み、罪を遠ざけて慣習が成立したのかわからなかった。
三代(夏・殷・周)が滅んだ後、秦は古代の制度を覆した。後に天下を治めた者は、天子・百官の名号・位序・国家の制度・宮車・服器の一切に秦の制度を用い、その間、一部の君主は統治を志して、改革をしようと思ったが、遠い時代の三代の上を超然することができず、当時の習俗にひっぱられ、わずかに加筆や削除など部分のみ変更を加えるだけで、大抵が簡略化するのみで満足した。日常の業務は、帳簿・裁判・兵糧を急務とし、「政治というのは、民を治めるためだけのものである」というのは、三代の礼楽については、その名称の詳細は役人が収め、時折出してこれを郊廟・朝廷に用い、「礼というものは、民を教化するだけのものである」というのは、当時の二原則であり、礼楽は虚名なのである。そのため漢代以降、史官は記録した事物・名数・降りたり登ったり、頭を下げたり身をかがめたり、平伏したり立ち上がったりといった作法は、すべて役人の事だけであり、いわゆる礼の細部に及ぶものであった。しかしこれを郊廟・朝廷で用いると、紳士・大夫からその周辺に従事する者まで、誰もが使いこなすことができず、天下の人々は老いて死ぬまで誰も見たことがなく、ましてや礼楽の盛時を知り、明白にその意味を理解して、教化を受けて習俗を形成するのを知ろうと思っただろうか。ああ、道具を習っておきながら意味を理解せず、根本を忘れて末節だけが残り、また完備できなかったのだから、朝覲・聘問・郷射・食饗(饗宴)・出征と狩猟・学校・冠婚・喪葬の礼で残っているのはどれだけであろうか。梁代以降、はじめて当時の習慣や『周官(周礼)』の五礼の名称に基づいて、それぞれが一家の学を形成した。
唐の初め、隋の礼を用いたが、
太宗の時代になって、中書令の
房玄齢・秘書監の
魏徴が、礼官・学士らとともに隋の礼を典拠とし、天子上陵・朝廟・養老・大射・講武・読時令・納皇后・皇太子入学・太常行陵・合朔・陳兵太社等を増やし、吉礼六十一篇、賓礼四篇、軍礼二十篇、嘉礼四十二篇、凶礼十一篇とし、ここに『貞観礼』をつくった。
高宗もまた、太尉の
長孫无忌・中書令の
杜正倫・
李義府・中書侍郎の
李友益・黄門侍郎の
劉祥道・
許圉師・太子賓客の
許敬宗・太常卿の
韋琨らに詔して『貞観礼』を増補して百三十巻とし、ここに『顕慶礼』をつくった。文が雑なことは式・令といった法律の文章によったからであり、李義府・許敬宗は
武則天の寵遇を得ており、多くが迎合付会していた。施行されると、議する者は皆がよくないとし、上元三年(676)、詔して再び貞観礼を用いることになった。これによって高宗の時代が終わると、貞観礼・顕慶礼の二礼が兼行された。しかし役人は儀式に臨むたびに、遠くは古義を引用し、二礼を参考して修正するだけで、定制を復活することはなかった。武氏・
中宗の時は混乱が相継いで、言うべき者はおらず、博士が礼を司り、官を備えるのみであった。
玄宗の開元十年(722)、国子司業の
韋縚を礼儀使とし、五礼を司らせた。開元十四年(726)、通事舎人の
王喦が上疏して、『礼記』の旧文を削り去って今事によって編集し直す事を願い出て、詔して
集賢院に議論させた。学士の
張説が、『礼記』は歴代不刊の書であって、聖人の時代を遠く隔たっているから、改変することは不可能であるが、唐の『貞観礼』『顕慶礼』『五礼儀注』は前後に異同があり、折衷を加え、これを唐礼とすべきであると上奏した。そこで集賢院学士で右散騎常侍の
徐堅・左拾遺の
李鋭および太常博士の
施敬本に撰述させたが、何年たっても完成しないうちに李鋭が卒してしまったから、
蕭嵩が李鋭に代わって学士となり、奏じて起居舎人の
王仲丘に撰定させ、百五十巻となり、これが『大唐開元礼』となった。これによって唐の五礼の文は始めて備わり、後世の人々が時折加筆や削除をしたものの、内容は変わらず用いられた。
貞元年間(785-805)、太常礼院修撰の
王涇が歴代の郊廟の沿革・制度および祭祀の時の歌を調査し、その壇と建物、神霊が天に往来する序列を描き、『郊祀録』十巻をつくった。元和十一年(816)、秘書郎・修撰の
韋公粛もまた開元年間(713-741)以降の礼に関する文を記録し、加筆や削除して『礼閣新儀』三十巻をつくった。貞元十三年(797)、太常博士の
王彦威が『曲台新礼』三十巻をつくり、また元和年間(806-820)以降の王公士民の葬儀の礼を採集して『続曲台礼』三十巻をつくった。ああ、文献・記録を考察してみれば、完備したものであるといえる。これらが貞観・開元年間(623-741)にかけて用いられていれば、盛行したといえるだろう。しかし三代(夏・殷・周)の隆盛に至らなかったのは、文献が備わっていても意味がなかったからである。これが所謂「礼楽虚名となる」である。
五礼
一に吉礼という。
大祀は、天・地・宗廟・五帝および追尊の帝・后である。中祀は、社・稷・日・月・星・辰・岳・鎮・海・涜・帝社・先蠶・七祀・文宣王(孔子)・武成王(太公望)および古の帝王・贈太子である。小祀は、司中・司命・司人・司禄・風伯・雨師・霊星・山林・川沢・司寒・馬祖・先牧・馬社・馬歩、州県の社稷・釈奠である。しかし天子が親ら祠るのは二十四である。三年に一度を祫、五年に一度を禘といい、適切な年に挙行される。その他の二十二は、一年以内に挙行ができない場合、有司摂事(官吏による代行)とする。定期的な祀ではないものは、時宜があれば挙行される。皇后・皇太子は行事はそれぞれ年一回行ない、その他はすべて役人が挙行する。
おおよそ年間の常祀(例祭)は二十二ある。冬至・正月上辛日に祈穀(豊作を祈る)する。孟夏(四月)に円丘で昊天上帝に雩祀(雨乞い)する。季秋(九月)に
明堂で大享(大祭)を行なう。臘月(十二月)に百神を南郊で蜡(年末の祭祀)し、春分には、東郊で朝日をまつり、秋分には、夕方に西郊にて、方丘にて地祇をまつり、孟冬(十月)に北郊で神州・地祇を祭り、仲春・仲秋の上戊日に、太社を祭り、立春・立夏・季夏(六月)の土王・立秋・立冬に四郊で五帝を祀り、孟春(正月)・孟夏(四月)・孟秋(九月)・孟冬(十月)・臘(十二月)に太廟でまつった。孟春の吉亥日に先農をまつり、遂に耕籍とした。
おおむね祭祀には六つの祭儀がある。一を卜日(日の選定)といい、二を斎戒といい、三を陳設(供物を列べる)といい、四を省牲器(供物の確認)といい、五を奠玉帛(玉や絹を捧げる)といい、宗廟の晨祼(祭祀の一)である。六を進熟(料理の献上)・饋食(お供え)である。
一を卜日(日の選定)という。大祀・中祀といった日が決まっていない場合に卜占し、小祀では筮を用いる。いずれも太廟で行われる。
祭祀の四十五日前に、太廟の南門の外で卜占し、卜席を闑(門橛)の西側の敷居の外に敷く。太常卿は門の東に立ち、太卜正の卜占する者は門の西に立ち、太卜正は席の西端に亀を供え、亀を焼く道具は亀の北に置き、そこで亀を取って席の東に立ち、北を向く。太卜令は進み出て亀を受け取り、太常卿の所にやって来て高々と示し、太常卿は受け取って見終わると、太卜令は亀を受け取り、しばらくして退いて指示を待つ。太常卿は、「皇帝は何日に何処其処で儀式を執り行うよう定められた」と言うと、太卜令は「わかりました」と言い、ついに席に戻り、西に向って座る。亀に命じて「お前に太亀に任命する。これは慣例である」と言い、立ち上がると太卜正に亀を授ける。太卜正は東の扉に背を向けて座り、亀を用意し、立ち上がる。太卜令が進み出ると亀を受け取り、太常卿に示した。太常卿は受け取ってから返却する。太卜令は再び席に戻り、東に向って、占い、亀が吉兆でなかった場合、進み出て太常卿に報告して、「某日で確認してください」と言い、そこで亀を太卜正に返した。大体卜日は必ず月の初旬に行ない、吉兆でなかった場合、中旬から下旬まで実施するが、最初の儀式の通りである。
日の選定を占筮する場合は、太卜正が蓍筒を開いて筮竹を出し、一緒に持ち、命令を受けると席に戻り、蓍筒で筮竹を叩き、「お前を太筮に任命する。これは慣例である」と唱える。そこで蓍筒を手放して座って占筮し、出た卦を太卜令に示すことは卜占の儀式と同様である。小祀の日を占筮することは、太卜令が実施する。吉日のみを用い、当日が廃務に該当しても避けることはなかった。
二を斎戒という。斎戒には三つの区別があり、散斎・致斎・清斎である。大祀の場合、散斎は四日、致斎は三日である。中祀の場合、散斎は三日、致斎は二日である。小祀の場合、散斎は二日、致斎は一日である。
大祀の七日前、太尉は尚書省で官吏全員に誓いを立てて、「某日、某神祇を何処其処で祀る。各人は職務の義務を果たせ。義務を果たさない者は、国が刑罰を定めている」と言い、ここに斎する。皇帝は別殿で散斎する。致斎は二日を
太極殿で、一日を行宮で実施する。致斎の一日前、尚舎奉御が御幄(テント)を太極殿の西棟と室内に張り、すべて東向である。尚舎直長が帷(テント)を正面柱下に張る。致斎の日、夜明けになると、衛兵達は部下に門に陣取り武器を列べるよう命じる。昼漏の上水一刻(卯時で、日の出)に、侍中が版奏(額を掲げて君主に報告する儀礼行為)して「厳粛にしてください」と言った。衛兵達がそれぞれの部隊を率いて宮殿の庭に入って整列し、通事舎人が文武五品以上を率いて
袴褶を着用して席につかせ、衛兵達の官服は制服で、侍臣で斎する者は帯を結び、宮殿に詣でて出迎えた。二刻(卯時で朝)、侍中が版奏して「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と言った。三刻(辰時)、皇帝は袞冕を着用し、帯を結び、乗輿は西の部屋から出てきて、曲直華蓋(帝王歩行時の傘形の頂蓋)で、衛兵達が警蹕し、御座に東向きで座り、侍臣が両脇に侍った。一刻して、侍中が皇帝の前に跪いて奏じて、「侍中の臣某が申し上げます。斎室にお就きください」と述べ、皇帝は座から降りて入室し、文武侍臣がそれぞれの本職に戻り、席についていた者たちは席次ごとに退出した。
だいたい祭祀を担当する官吏は、散斎の事務を執行することは旧例の通りであり、ただ葬式の弔問や病気見舞いせず、音楽を奏でず、死刑の執行文書に署名せず、刑罰を実施せず、穢や罪深いことには関わらない。致斎は祭祀の事を行ない、祀官が斎した後に欠員が出た場合は代理が行なう。その他清斎は一日である。
三を陳設(供物を列べる)という。その種別は五つあり、物事を待つための幄、物事を行なうための幄、門外での幄、牲(いけにえ)と祭器の幄、祭る神の幄がある。
祭祀の三日前、尚舎直長は大幄を外壁の東門の内の道の北に張り、南向く。衛尉は文武侍臣の幄をその前に設置し、左右で互いに向かい合う。祀官は東壁の外の道の南に幄を張り、従祀の文官の九品はその東に、東方・南方の朝集使も同じくその東に、蕃客も同じくその東に、重行異位(儀式で位階の高い順に並び、同位の者は横に一列に並ぶ並び方)し、北を向いて西を班位の上とした。介国公(旧北周帝室の宇文氏)・酅国公(旧隋帝室の楊氏)を西壁の外の道の南に、武官九品をその西に、西方・北方の朝集使も同じくその西に、蕃客も同じくその西にし、東を班位の上とした。褒聖侯(孔子の直系)が朝廷にいる時は、文官の三品の下に位次した。内壁の東西の門の外の道の北に食べ物を幔に並べ、南向きで、北門の外の道の東では、西向きである。
翌日、奉礼郎は御座を壇の東南に設け、西向きとし、望燎の位は柴壇の北にあたり、南向きで、祀官・公卿は内壁の東門の内の道の南に位次し、分献の官は公卿の南に、執事する者も同じくその後ろに、異位重行(位階に従って、同位の者は横に一列になり、高位の者を前にして順次後ろに重ねる)し、西向きで北を班位の上とした。御史は壇の下に座り、一人は東南にいて、西向きで、一人は西南にいて、東向きである。奉礼郎は楽縣の東北に座り、賛者は南にいて、身分に即して退き、皆が西向きであった。また奉礼郎・賛者の席を燎壇の東北に設け、西向きとした。すべて北を班位の上とした。協律郎の席を壇の上の南の階段の西に設け、東向きであった。太楽令の席を北縣の間に設け、壇は北向きであった。従祀の文官の九品の者の席を執事の南に設け、東方・南方の朝集使も同じくその南に、蕃客も同じくその南に、西向きで北を班位の上とした。介国公(旧北周帝室の宇文氏)・酅国公(旧隋帝室の楊氏)を中壁の西門の内の道の南に、武官の九品を同じくその南にし、西方・北方の朝集使も同じくその南に、蕃客も同じくその南にし、東向きで北を班位の上とした。このようにして儀式は行われた。
また祀官および従祀の役人たちが東西の壁の門の外に席を設け、幄を設置するのと同様にし、これは牲(供物)および祭祀の日を確認し順序を定めるためである。
牲(供物)と立て札を東壁の外に設置し、門の前で西向きとする。蒼い牲一つは前にあり、また蒼い牲一つ、青い牲一つは北にあり、しばらくして南上に退ける。帳に赤い牲一つ、幄に黄色い牲一つ・白い牲一つ・玄い牲一つがあり、また赤い牲一つ、白い牲一つは南にあって、しばらくして北上に退ける。廩犧令は牲の西南におり、祝史はその後に付き従い、二人とも北向きである。太祝たちは牲の東におり、それぞれ牲の背後にいて、祝史はその後ろに付き従い、西向きである。太常卿は牲の前のやや北におり、御史はその西におり、二人とも南向きである。
また酒尊(酒器)の場所を設ける。上帝は、
太尊・
著尊・
犧尊・
山罍がそれぞれ二つ、祭壇上の東南の隅に北向きに置かれる。
象尊・
壺尊・
山罍がそれぞれ二つ、祭壇下の南段の東に北向きで置かれ、すべて西を班位の上とした。配帝は、
著尊・
犧尊・
象尊・
山罍がそれぞれ二つ、祭壇上にあり、上帝の酒尊の東に置かれ、北向きで西を班位の上とした。五帝は、日・月はそれぞれ
太尊が二つで、第一列にある。内官は段の間ごとにそれぞれ
象尊を二つ、第二列に置いた。中官は段の間ごとにそれぞれ
壺尊を二つ、第三列に置いた。外官は道の間ごとにそれぞれ概尊(漆で彩飾された酒器)を二つ、祭壇の下に下ろした。衆星は道の間ごとにそれぞれ散尊(五升入の尊)二つ、内壁の外に置いた。だいたい尊は、神座の左に右向きに設置された。
尊はすべて杓をつけて覆布を被せ、五帝・日・月以上は、すべて盃台があり、そこに爵が置かれた。御洗を午陛(皇帝用の中央階段)の東南に設置し、亜献・終献も同じく洗が卯陛(午陛の東の階段)の南に設置し、両方とも北向きであった。罍(樽)の水は洗の東にあり、篚(竹籠)は洗に西にあり、南に並べた。
篚は、実は爵を覆うためのものである。分献では、罍(樽)・洗・篚(竹籠)・冪(白布)はそれぞれの段の道の左に、内に向きに置かれた。尊(酒器)・罍(樽)・篚(竹籠)・冪(白布)を持つ者は、ぞれぞれその背後に立った。玉幣の篚(竹籠)を壇の上下、尊と盃台の所に置かれた。
祭祀の一日前の夕方、太史令・郊社令はそれぞれ普段の服で、部下を率いて登り、昊天上帝の神座を壇上の北方に南向きに設置し、席に藁を敷いた。
高祖神堯皇帝の神座を東方に西向きに設置し、席にいぐさを敷いた。五方帝・日・月は祭壇の第一段に置かれ、青帝を東の段の北、赤帝を南の段の東、黄帝を南の段の西、白帝を西の段の南、黒帝を北の段の西に、大明帝を東の段の南に、
夜明を西の段の北に、席はいずれも藁を敷いた。五星・十二辰・河漢(天の川)および内官五十五を第二段の十二段の間に置き、それぞれその方角に依拠し、席はいずれも内向きであった。内官には北辰座を東の段の北、曜魄宝(耀魄宝。北極五星の天帝星、つまり北極星)を北段の西に、北斗を南段の東に、天一・太一はいずれも北斗の東にあり、五帝の内座を曜魄宝の東に、いずれも序列によって正面に置かれた。二十八宿および中官百五十九を第三段に、その二十八宿および帝座・七公・日星・帝席・大角・摂提・太微・太子・明堂・軒轅・三台・五車・諸王・月星・織女・建星・天紀等十七はいずれも序列によって正面に置かれた。外官百五を内壁の内に、衆星三百六十を内壁の外に、それぞれ方角によって十二道の間に配置され、席はいずれもむしろを敷いた。
宗廟で行なう場合、祭祀の三日前に、尚舎直長は大幄を廟の東門の外の道の北に南向きで設置する。守宮署は文武侍臣の幄をその背後に設置し、文官は左、武官は右とし、いずれも南向きである。享官たち・九廟(太祖以降)の子孫を斎坊内の道の東あたりの南に設け、西向きで北を班位の上とした。文官九品も同じくその南に、東方・南方の蕃客も同じくその南におらせ、西向きで北を班位の上とした。介国公(旧北周帝室の宇文氏)・酅国公(旧隋帝室の楊氏)を廟の西門の外におらせ、南のあたりにした。武官九品をその南とし、西方・北方の蕃客も同じくその南に、東向きで北を班位の上とした。祭祀の一日前、奉礼郎が御位を廟の東南に西向きで設置した。享官・公卿の席を東門の内の道の南に設置し、執事する者はその背後を席とし、西向きで北を班位の上とした。御史は廟堂の下を席とし、あるいは東南にあって西向きであり、あるいは西南にあって東向きであった。令史はそれぞれその背後に付き従った。奉礼郎は楽縣の東北を席とし、賛者二人は、南にあって序列ごとに退き、いずれも西向きであった。協律郎は廟堂の上の前柱の間を席とし、西のあたりに東向きであった。太楽令は北縣の間に北向きで席とした。祭祀に従事する官は、九廟の子孫を享官・公卿の南に席を設け、昭・穆は序列によって席次とした。文官九品以上は、同じくその南に、東方・南方の蕃客も同じくその南にあり、西向きで北を班位の上とした。介国公(旧北周帝室の宇文氏)・酅国公(旧隋帝室の楊氏)の席を西門の内の道の南に、武官九品をその南におらせ、やや西とし、西方・北方の蕃客も同じくその南におらせ、東向きで北を班位の上とした。牲(供物)と立て札を東門の外に設け、南郊の設置と同じであった。尊と彝(酒祭器)を廟堂の上下に設置し、座ごとに
斝彝一つ、
黄彝一つ、
犧尊・
象尊・
著尊・
山罍はそれぞれ二つ、堂の上に置き、いずれも神座の左であった。
献祖・
太祖・
高祖・
高宗の尊と彝(酒祭器)は前柱の間にあり、北向きであった。
懿祖・
代祖・
太宗・
中宗・
睿宗の尊と彝(酒祭器)は戸外にあり、南向きであった。それぞれ杓があった。
壺尊二つ・
太尊二つ・
山罍四つで、いずれも堂の下の段の間にあり、北向きで西を班位の上とした。簋(脚付きの青銅蓋物)・鈃(酒の器皿)・籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)は堂上にあり、いずれも東側の段の北にある。座ごとに四つの簋が正面にあり、四つの簠(穀物を盛る方形の祭食器)はこれに続き、六つの豋(肉を盛る祭器)はこれに続き、六つの鈃(酒の器皿)はこれに続き、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)はその背後にし、いずれも南を班位の上とし、屈して並べてから撤饌した。御洗は東段の東南にあり、亜献も同じく東南にあり、いずれも北向きであった。樽の水は洗の東にあり、篚(竹籠)は洗の西にあり、南に並べた。祭祀の日、未明五刻に、太廟令はその服を着用し、昭・穆の座を戸外に敷き、西から序列ごとに東まで、
献祖・
太祖・
高祖・
高宗はいずれも北庇に南向きで、
懿祖・
代祖・
太宗・
中宗・
睿宗は南庇に北向きで置かれた。每座ごとに帝の御座屏風があり、いぐさで編まれた席に白い縫取りの縁があり、その上に雲気が描かれたものを縁どりにした五色の蒲席が用意され、また黒白の縫取りで縁を飾られた桃枝竹の席が敷かれ、左右に玉几が設けられる。
四を省牲器(供物の確認)という。省牲の日の午後十刻、祭壇から二百歩の所で、立ち入り禁止とする。夕刻後二刻、郊社令・郊社丞は府・史三人および斎郎を率いて、尊(酒祭器)・盃台・樽・洗・篚(竹籠)・冪(白布)を持って席を設ける。三刻して、謁者・賛引がそれぞれ祀官・公卿および供物を率いて席につかせる。謁者は司空を率い、賛引は御史を率いて、入って祭壇の東の階段に登り、上から掃除して、降りて、楽縣の下に行く。始めに司空が登ろうとする時、謁者は太常卿を率い、賛引は御史を率い、入って祭壇の東の階段を登り、祭器を洗浄するのを監視し、降りて、供物を確認する位置につき、南に向かって立つ。廩犧令がすこし前に出て、「供物を確認してください」と言うと、太常卿が供物を確認する。廩犧令が北面で手を挙げて、「腯(供物の豚がよく肥えています)」と言うと、太祝たちがそれぞれ供物の周囲を一周し、西に向って手を挙げて、「充(準備完了)」と言う。太祝たちは廩犧令と一緒に順番に供物を引いて厨房に行き、太官に授ける。謁者は光禄卿を率いて厨房に行き、鼎・鑊(脚のない大きな鼎。鍋)、濯ぎ洗うのを点検する。祀官・御史は神饌用の食器を点検し、祭場に戻る。祭祀の日、未明の十五刻、太官令は宰人を率いて鸞刀(刀に鈴をつけた礼式用の刀)で供物を切り分け、祝史は豆(高坏形の青銅盛器)で毛・血を取り、それぞれ饌所に置き、供物を茹でる。廟でも同様の手順が踏まれた。
五を奠玉帛(玉や絹を捧げる)という。祭祀当日の未明三刻、郊社令・良醞令がそれぞれ部下を率いて尊・樽に入れて満たし、太祝は玉や絹で篚(竹籠)に置き、太官令は進饌する者を率いて籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)に神饌を満たして垂れ幕に入れる。未明二刻、奉礼郎は賛者を率いて先に入って席につく。賛者は御史・博士・太祝たちおよび令史・祝史を率いて執事する者とともに、東門より祭壇の南に入り、北向きで西を班位の上とする。奉礼郎は「再拝せよ」と言い、賛者は引き継ぎ、御史以下は全員再拝する。尊・樽・篚(竹籠)・冪(白布)を持つ者はそれぞれ席につく。賛者は御史・太祝たちを率いて祭壇の東の段を登り、御史一人、太祝二人が行って上から掃除し、第一段は御史一人、太祝七人、掃除を下まで行なう。未明一刻、謁者・賛引がそれぞれ群臣を率いて門外の席につき、太楽令が工人・二人の舞人を率いて順番に入り、文舞は縣の内に並び、武舞は縣の南に並ぶ。謁者は司空を率いて入り、奉礼郎が「再拝せよ」と言うと、司空は再拝し、東の段から登り、行って上を掃除し、降りて楽縣の下に行く。謁者・賛引はそれぞれ群臣を率いて入って席につく。それより以前、未明三刻、衛兵たちが整列して大駕(天子の乗り物)の儀仗をした。侍中が版奏(額を掲げて君主に報告する儀礼行為)して「厳粛にしてください」と言った。乗黄令が玉輅(天子の乗り物)を行宮の南門の外に進め、南向きとした。未明一刻、侍中が版奏して「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と言った。皇帝は袞冕を着用し、乗輿で出発した。皇帝は輅に乗ることは、最初の通りである。黄門侍郎が「出発してください」と言う。大幄の門外に到着すると、南向きとする。侍中は輅から降りることをお願いする。皇帝は輅から降り、乗輿で大幄に行った。半刻頃、太常博士が太常卿を引き連れて大幄の外に立ち、門の北向きに位置した。侍中が版奏(額を掲げて君主に報告する儀礼行為)して「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」。夜明けになると、皇帝は大きな裘(皮衣)と冕冠を着けて、博士は太常卿を率い、太常卿は皇帝を率いて中壁の門の外にやって来る。殿中監は
大珪を進上し、尚衣奉御も同じく
鎮珪を殿中監に授けて進上する。皇帝は
大珪をさしはさみ、
鎮珪を取る。礼部尚書は近侍する者とともに従い、皇帝は版位(立つべき所に指し示された標)のところにやって来て、西に向って立つ。太常卿が進み出て奏上して「再拝してください」と言うと、皇帝は再拝する。奉礼郎が「衆官は再拝せよ」と言うと、席にいる者は全員再拝する。太常卿が進み出て「役人は準備を整えて、進み出てください」と言うと、協律郎は跪き、平伏し、旗を掲げ、楽舞は六成である。旗が降ろされ、
敔をかき鳴らして音楽を止める。太常卿は進み出て「再拝してください」と奏上すると、皇帝は再拝する。奉礼郎が、「衆官は再拝せよ」と言うと、席にいる者は全員再拝する。諸太祝たちが跪いて篚(竹籠)から玉や絹を取り、それぞれが尊の所に立つ。皇帝は壇を南の段から登り、北向きに立つ。太祝は玉や絹を侍中に授け、東向きで進み出る。皇帝は
鎮珪をさしはさんで受け取り、跪いて昊天上帝を奠(まつ)り、平服し、起き上がって少し退き、再拝し、西方に東向きで立つ。太祝は絹を侍中に授けて進み、皇帝は絹を受け取り、跪いて
高祖神堯皇帝を奠(まつ)り、平服し、起き上がって、拝礼し、南の段から降りて、もとの席に戻る。皇帝は配帝に幣を奠り、謁者七人、引献官を分けて玉幣を奉って一緒に進上し、跪いて諸神の位を奠った。祝史・斎郎が奠を助けた。それより以前、衆官は再拝すると、祝史はそれぞれ毛・血が豆(高坏形の青銅盛器)に入っているのを奉り、それぞれの段を登った。太祝たちは迎えて壇上で受け取って奠り、退いて尊の所に戻った。
宗廟で実施する場合は「晨祼」という。祭祀当日の未明四刻、太廟令・良醞令はそれぞれ部下を率いて尊・樽に満たし入れ、太官令は神饌を進る者を率いて、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)を満たす。未明三刻、奉礼郎は賛者を率いて先に入って席につく。賛者は御史・博士・宮闈令・太祝および令史・祝史を率いて執事する者とともに、東門から入り、段の間から、北向きで西を班位の上とする。奉礼郎は「再拝せよ」と言うと、御史以下は全員再拝する。尊・樽・篚(竹籠)・冪(白布)を取る者はそれぞれ席につく。賛者は御史・太祝たちを率いて東の段より登り、行って堂の上から掃除し、令史・祝史は行って下から掃除する。太廟令は部下を率いて瑞物を太階の西に並べ、上瑞は前列とし、次瑞はその次、下瑞は後列とし、また征伐した国の宝器を並べることは同様であり、すべて北向きで西を班位の上とし、筵を席とした。未明二刻、腰輿を東の段の東に並べ、部屋ごとに二つ、いずれも西向きで北を班位の上とした。賛者は太廟令・太祝を率い、宮闈令は内外の執事する者を率い、腰輿で東の段より登り、
献祖の部屋に入って、埳室を開く。太祝・宮闈令は神主(位牌)を奉ってそれぞれ輿に置き、出て、座に置く。次に
懿祖以下の神主を出すことは
献祖と同様である。鑾駕(天子の車駕)がやってくる時、謁者・賛者はそれぞれ祭祀の官吏を率いて、通事舎人は分けて祭祀に従事する群官・九廟の子孫・諸外国の客使を率い、全員が門外の席につく。鑾駕が大幄の門の外にやって来ると、鑾駕を回して南向きとする。将軍が降りてくると、鑾駕の右に立つ。侍中は鑾駕が降りるようお願いすると、皇帝は鑾駕を降り、天子は大幄に行く。通事舎人は文武五品以上・祭祀に従事する官を率い、全員が門外の席につく。太楽令が工人・二舞を率いて入る。謁者は司空を率いて入り、席につく。奉礼郎が「再拝せよ」と言うと、司空は再拝し、東の階から登り、行って堂の上を掃除し、降りて、楽縣の下に行く。それより以前、司空は楽縣に行き、謁者・賛引はそれぞれ祭祀官を率い、通事舎人は分かれて九廟の子孫・祭祀に従事する群官・諸外国の客使を率い、入って席につく。皇帝は大帷に留まること半刻頃、侍中が版奏(額を掲げて君主に報告する儀礼行為)して「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と言う。皇帝が出る。太常卿が皇帝を引き連れて廟の門外に到着し、殿中監が
鎮珪を進上し、皇帝は
鎮珪を手に取る。近侍する者が従い入り、皇帝は版位(立つべき所に指し示された標)にやって来て、西に向って立つ。太常卿が進み出て「再拝せよ」と言うと、皇帝は再拝する。奉礼郎が「衆官は再拝せよ」と言うと、席にある者は全員再拝する。太常卿が進み出て「役人は準備を整えて、進み出てください」と言うと、協律郎は旗を掲げて、
柷を叩き、楽舞は九編成で、旗を下げて、
敔をかき鳴らして音楽を止める。太常卿が「再拝せよ」と言うと、皇帝は再拝する。奉礼郎が「衆官は再拝せよ」と言うと、席にいる者は全員再拝する。皇帝は樽・洗のところに行き、侍中は跪いて匜(把手と注口のついた器)を取り、起き上がって水を注ぐ。また跪いて盤を取り、起き上がって水を受ける。皇帝は
鎮珪をさしはさみ、手を洗い。黄門侍郎は跪いて篚(竹籠)の布を取り、立ち上がって、手ぬぐいで布を受け、跪いて篚(竹籠)を奠る。また篚(竹籠)の瓚(玉の杓)を取り、起き上がって奉り、皇帝は瓚を受け取る。侍中は水を汲んで盤を奉り、皇帝は瓚を洗、黄門侍郎は布を授けることは最初の通りである。皇帝は瓚を拭いて、階段を登り、
献祖の尊・彝(酒祭器)の所に向かう。尊を持つ者は冪(白布)をあげ、侍中はお酌を助けて酒をいっぱいにし、
献祖の神座の前に進上し、北向きに跪き、芳醇な酒を地に注いで奠り、平服し、起き上がって、やや退き、北向きに再拝する。また
懿祖の尊・彝(酒祭器)の所に向かい、尊を持つ者は冪(白布)をあげ、侍中は(玉の杓)を盃台に置いて奉り、皇帝は瓚を受け取る。侍中はお酌を助けて酒をいっぱいにし、
懿祖の神座の前に進上し、南向きに跪き、芳醇な酒を地に注いで奠る。次に
太祖以下に地に酒を注いで祀ることは、すべて
懿祖と同様である。皇帝は階段から降り、版位(立つべき所に指し示された標)に戻る。それより以前、群官が再拝し終わると、祝史はそれぞれ毛・血および肝・脂を入れた豆(高坏形の青銅盛器)を奉って東門の外に立ち、斎郎は炉の炭・よもぎ・稷・黍を奉ってそれぞれその背後に立ち、順番に正門から入り、太階から登る。太祝たちはそれぞれ迎えて毛・血・肝・脂を階上に取り、神座の前に進奠する。祝史は退いて尊の所に立ち、斎郎は炉炭を奉って神座の左に置き、よもぎ・稷・黍はそれぞれ下に置き、階段から降りて退出する。太祝たちは肝・脂を取って炉で炙り、尊の所に戻る。
最終更新:2025年09月09日 00:40