魔竜伝説 ◆LKgHrWJock
室内に陰影を添えるのは、ランタンの放つ淡い橙色の光のみ。
光が外に漏れぬよう、自分たちの存在を知らせぬよう、全ての雨戸は閉ざしたあとだ。
閉鎖的な闇を満たすのは、花と果実を凝縮した濃密な空気。
レンツェンハイマーはこの匂いを知っている。チキに支給された香水のものだ。
あの時は心安らぐ素晴らしい香りだと思ったが、密度が濃いと邪魔でしかない。
壁に背をもたせかけ、床に両足を投げ出したまま、レンツェンは軽く溜め息をつく。
部屋の隅に視線を転じると、無言で身体を拭く不機嫌そうなチキの姿があった。
この家屋に転がり込んだときは口を利くこともできないほど怯えていたチキだったが、
しばらくすると自分を取り戻し、レンツェンを避けるようにその手から逃れた。
今、チキの足元には、先程まで身につけていた衣類が無造作に散らばっている。
首輪以外の一切を脱ぎ捨てたチキの身体、その緩やかな曲線を、光と影が強調する。
性別などなきに等しいただの子供だと思っていたが、その認識はどうやら間違っていたようだ。
あと5年もすれば――そう思うと急に居心地が悪くなり、レンツェンは足を組み替えた。
――俺は保護者も同然だからな。こいつの体調を把握しておかねばならん。
やましい目的ではないのだ、裸を見たからといって責められる謂れはないだろう。
脳裏で言い訳を繰り返すが、それを受け止める者はいない。
チキはそんな彼の視線を別段意識する風もなく、素肌にこびりついた血を濡れタオルで拭き取っていた。
不思議なことに、その肌には傷はおろかアザのひとつも見当たらない。
血を落とし終えてもチキはレンツェンの顔など見ようともせず、そのままの格好で室内を歩き回る。
チキの足取りはしっかりしていた。不機嫌そうではあるものの、目には精彩が宿っている。
見知らぬ少年に乱暴され、命を奪われそうになったばかりだとは到底思えない。
先程の出来事は、夢だったのではないだろうか。そんな錯覚に囚われる。
殺し合いなど本当は行われておらず、チキの心身は誰にも傷つけられておらず、
しかしチキがこのレンツェンハイマーの心から積年の澱みを見事に取り除いてみせたことは本当で、
この地で英気を養い、ラゼリアに帰還した暁には、女らしく成長したチキを妻に迎える。
しかし、鋭利な刃物で切り裂かれ、血で赤黒く染まったピンクのチュニックが、
都合の良い空想に浸ろうとしたレンツェンを現実に連れ戻す。
無造作に脱ぎ捨てられ、あとは廃棄されるのみとなったチュニックは、間違いなくチキのものだ。
そこでまたレンツェンは現実を見失う。黒と橙色の世界では、色彩感覚がおかしくなる。
これは本当にピンクなのか? これは本当に血の色なのか?
これは本当にチキが着ていたあの服なのか? 自分の認識する現実に自信が持てない。
レンツェンは揺るぎのない現実を欲し、チキの姿を求めた。
チキはすぐに見つかった。
物珍しそうに室内を眺め回すその表情は、レンツェンの知っているチキのものだった。
しかし、陰影のみを素肌にまとったその姿は、昼間のチキとはまるで違って見えた。
何故、違うのか。何が彼女を変えたのか。彼女に何が起きたのか。
あの少年との間に一体何があったのか。或いは何もなかったのか。
何故、彼女は自分に何も話そうとしないのか。何故、自分は彼女に何も訊けないのか。
疑問は鈍い苛立ちとなり、レンツェンは思わず声を荒げた。
「貴様、そんな格好でうろつくな!」
チキは弾かれたようにこちらを見た。
慌てて両手で身体を覆うが、その動作はぎこちなく、恥ずかしいと感じること自体を恥じているようにも見える。
無垢な顔にさっと走った恐怖と拒絶を見て取ったレンツェンは、チキから微妙に視線を外し、声を落として言葉を続けた。
「……さっさと着替えを済ませろ。服ならそこに出しておいたぞ」
レンツェンは、居間に鎮座する簡素な長椅子を顎で示した。
その背には二枚の布地がかかっており、色彩を奪われた空間の中で一方は白に、もう一方は黒に見えた。
チキは怪訝そうな表情でそれらを手に取り、一枚ずつ両手で広げてゆく。
白は伸縮性のある上衣だった。胸元には「アリーゼ」と記された布地が縫いつけられている。
もう一方の黒は、ドロワーズよりもさらに小さく丈の短いショートパンツ。
この民家で見つけた書物によると、これらは女児用の運動着とのことだった。
しかしその事実を知らないチキは、不満げに唇を尖らせるのみ。
「これ、全然可愛くない」
「気に入らんなら自分で選べばいいだろう。服ならそこに入っている」
レンツェンは視線と顎で箪笥を示すと、チキの反応も確認せずに隣室へ向かった。
そこは変わった部屋だった。揺らめく炎に照らされたそこは非日常の極みだった。
狭い空間にテーブルと椅子、かまどを思わせる奇妙な設備がひしめいており、
片隅には観賞には堪えない植物の入った籠が幾つもある。
壁や戸棚には、木や鉄でできた大小様々なオブジェが幾つもぶら下がっている。
この部屋は一体何なのだろう。思案にふけるレンツェンの背後でチキの声が弾んだ。
「レンツェン見て! これ可愛いよ!」
レンツェンは振り向きもせず、「それどこではない」とにべもなく言った。
“レンツェンハイマー”よりも“レンツェン”の方が可愛いから愛称で呼ぶ、それがチキのセンスなのだ。
いちいち相手にしていては、どれほどの頭痛に見舞われるか分かったものではない。
そんなことより今はこの部屋だ。下々の連中の住処特有の施設といえば――
答えに辿り着こうとしているレンツェンの背に、暗く沈んだ声が触れた。
「チキ、せっかく可愛いのを見つけたのに……」
陰鬱なトーンに息を呑む。あれからまだ一時間も経っていないことを思い出す。
この家屋に転がり込んだときのチキの表情が脳裏に甦り、レンツェンの言葉から険が消えた。
「その服を着てこっちに来ればいくらでも見てやるぞ。俺はこの部屋を調べねばならんのでな」
言いながら、ランタンの光を戸棚に向ける。そこには食器が並んでいる。
もしやここは台所ではないか。下々の者が自らの手で食事を作り、それを食する場所。
知識としては知っているが、実際に足を踏み入れるのは初めてのことだった。
レンツェンは視覚と嗅覚を働かせ、空腹を満たしてくれるものを探した。
レンツェンにとって、食事とは常に“誰かが作ってくれているもの”だった。
しかし、ここには用意されていない。かといって先程の民家に戻るのは危険極まりない。
さて、どうするか――と思い始めたとき、袖を引っ張られる感覚があった。
「レンツェン、これどうやって着たらいいのか分からない……」
振り返ると、神妙な顔つきでこちらを見上げるチキがいた。
花びらを思わせるフリルが印象的な白っぽいブラウスを素肌に羽織り、
ブラウスとお揃いの生地で仕立てたドロワーズを穿いたチキは、
胸元で握り締めた小さな両手で黒みを帯びた大きなスカートを掴んでいた。
可愛い。レンツェンは思わず息を呑んだ。
フリルをまとったチキは、どこかの名門貴族の令嬢のように見えた。
よくよく観察してみるとチキの顔立ちは端正だし、
憂いをたたえた表情の中にも人間離れした独特の気品があるのが分かる。
死んだはずの
オイゲンが脳内でむくりと起き上がり、したり顔でレンツェンに言った。
――チキ殿は実にお美しい方ですな。
これほどの女性を見たのはこのオイゲン齢60にして初めてでございます。
レンツェンハイマー殿ももう少し女性を知る努力をせねばなりませぬな。わっはっは!
ドカッ! バキッ! オイゲンは死んだ。
リュナンの守り役(笑)
レンツェンはチキに向き合うと、片膝をついてブラウスのボタンを一つずつかけていった。
チキの全身から立ち昇る甘く濃密な香りに眩暈を起こしそうになる。
簡素なチュニックを着ているときには気付かなかったが、チキは間違いなく上玉の卵だ。
5年後、10年後には一体どれほどの美少女、或いは美女に成長しているのだろう。
この娘を自分のものにしたいと思った。今のうちから俺に対する好意を植え付けておけば――
しかしレンツェンの口から実際に漏れたのは刺のある言葉だった。
「まったく、貴様は服も一人で着れんのか」
「チキ、こんな丸いの見たことなかったんだもん……」
チキはボタンを指でいじりながら唇を尖らせる。
腹の奥底から笑いが込み上がってくるのを感じながらレンツェンは口を開いた。
「いちいち教わらなければ何もできんのか。ガキだな。
少し考えればこの穴に引っ掛ければ良いのだと気付くだろうに。
……ほら、後ろを向け」
チキは今にも泣き出しそうな顔でレンツェンを睨みつけ、頬を膨らませた。
「ガキじゃないから後ろなんて向かないもん!」
「ガキでなくともここには手が届かん。この俺様が手伝ってやろうというのだ、大人しく後ろを向け。
それとも貴様は俺の言っていることも理解できないようなガキなのか?」
チキは不服そうな顔をしていたが、やがて無言で視線を落とし、レンツェンの言葉に従った。
チキの選んだジャンパースカートは、丈の短いドレスのようにも見える。
その裾は白っぽいレースで縁取られ、その意匠はリーベリア大陸のどの国のものとも異なっていた。
後ろ身頃を留め終えたレンツェンはチキの体を反転させると、彼女の全身にさっと視線を走らせた。
うむ、よく似合っている。チキの魅力を引き出す喜びは、策を弄する楽しみに似ていた。
更なる完成度を目指すべく、チキの襟元のリボンを結び、四角いブローチで結び目を隠した。
チキはそんなレンツェンの手元を不思議そうな表情で眺めている。
レンツェンはチキの細い腕を一本ずつ取り、両手を使って白っぽい薄手の長手袋をはめさせた。
ガキの世話などこの世で二番目に嫌いだと思っていたはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。
チキを椅子に座らせて小さな足に靴下を履かせていると、倒錯的な安堵を覚える。
しかし、レンツェンにとって、奉仕行為に喜びを見出すなど家畜の所業に過ぎず、
自分がそのような手合いに成り果てるなど想像するだけでもおぞましいことだった。
レンツェンは“本来の自分”に戻るべく口を開いた。
「それにしても貴様、臭いな」
レンツェンの言葉にチキはまた口を尖らせる。
「レンツェンの意地悪! 朝はいい匂いって言ってたのに……」
「馬鹿者。一度も風呂に入らずに一生を終えるような不衛生極まりない時代ならばともかく、
今の時代に香水を一瓶丸ごと一気に使い切る奴がいるか。香害にしかならんわ」
チキは真顔に戻り、透明感のある大きな眼にレンツェンを映しながら小首をかしげた。
「香害ってなあに?」
「香水の匂いがキツすぎて不特定多数の人間が迷惑するという意味だ。
それだけ派手に浴びてしまっては、毎日身体を洗ったところで一週間は匂いが取れんぞ。
つまり貴様の香害は当分続くということだな」
チキの無垢な瞳が翳る。俯いた顔は影に溶け込み、その表情はレンツェンには窺えない。
「チキ、好きでこんなになったんじゃないもん……」
その声はか細く震え、小さな両手はスカートをぎゅっと握り締めている。
――マズい。ヤバい。嫌なことを思い出させてしまったか!?
レンツェンは焦った。
良心などとっくに捨て去った彼であっても、チキに泣かれるのは気分が悪い。
むしろ、良心などとっくに捨て去ったと自認しているからこそ、
“良心の呵責”というものが己の中に存在することを理解できずに混乱する。
――早く何とかせねば。しかしどうすればチキは喜んでくれる?
レンツェンは辺りを見回した。
チキを励ますものが自分自身の中にあるなどとは端から信じていなかった。
立ち上がり、首をめぐらせると、無造作に転がるチキのデイパックが目に留まった。
ああそうだ、アレがあった。何の役にも立ちそうにないゴミ同然の石ころだが、子供は喜ぶかもしれない。
レンツェンは件の少年から巻き上げた石をデイパックから取り出すと、チキに差し出した。
「おい、これを見ろ。どうだ、変わった石だろう。何かの宝石の原石やもしれん、これを貴様にやろう」
チキは弾かれたように顔を上げた。
しかしその表情は、レンツェンの期待していたものとはまるで違う。
チキは怯えていた。大きな目をさらに見開き、魅入られたように黒ずんだ石を見詰めながら。
「嫌……この石は嫌……レンツェン、この石を捨てて……早く捨てて……」
チキの尋常でない反応がレンツェンの混乱した思考回路を冷やした。
戦場を前にしたときのように感覚が研ぎ澄まされ、狡猾にしたたかに冷酷になる。
レンツェンはチキの顎に指を添え、強引に上を向かせた。
「チキ、俺を見ろ。さっきの男にこの石で何かされたのか?」
「ううん、あのお兄さんは関係ない……。チキはこの石を知ってるの。ずっと前から知ってるの。
この石は悪い人が使ってたの。悪い竜になる石なの。だから捨てて……これは悪い石なの」
「つまりこの石には竜を支配し、暴走させる力があるということか」
「ううん、そうじゃない。チキが悪い竜になるの。チキはその石で悪い竜になるの」
もしここがラゼリアだったなら、子供の虚言と一笑に付しただろう。
貴族の生まれに相応しい教育を受けたレンツェンは、常識として知っている。
竜に変化することのできる少女がこの世に存在することを。
しかしそれは女神ユトナの血を引く四王家に生まれた女性の中の、さらにごく一部のみ。
しかも竜化には特殊な腕輪が必要となり、その能力が開花する期間も15歳の誕生日より数年間のみ。
10歳そこらの少女が石を使って竜になった例など歴史上存在せず、
お姫様に憧れる子供の空想と判断するのが“常識ある大人”の対応と言えた。
しかし、この一日でレンツェンの常識は何度も打ち砕かれた。
憎きリュナンごときに敗北し、命を奪われたかと思えば、
見知らぬ男に拉致されて、首輪なんぞで命を握られた挙げ句、
本来ならば剣闘士奴隷に下すような命令を与えられ、
下々の者が生活するみすぼらしい小屋でこうして腹をすかせている。
どれもこれも有り得ない。未来のリーヴェ王レンツェンハイマー様の身に起きてはならないことばかりだ。
それらに比べれば、目の前の幼い少女が竜化能力を有しているなど常識の範疇に思えた。
むしろ、15歳に満たないにも拘わらず、竜に変化できるとは、女神ユトナの奇跡の体現。
そんな少女との出会いは、未来のリーヴェ王レンツェンハイマー様にこそ相応しい。
レンツェンは女神の祝福が己に注がれていることを確認すべくチキに問う。
「貴様は竜に変身できるのか?」
「うん。でもチキ、竜になるのは嫌。今度竜になったらもう二度と元に戻れない気がする」
「暴走して無差別に人を襲うようになることを恐れているのだな」
チキは浅い眠りから覚めたかのような顔でレンツェンを見、ぱっと表情を輝かせた。
「レンツェンすごい! どうしてチキのことが分かったの?」
すごいと言われて悪い気はしない。チキの笑顔を見ると気持ちが安らぐ。
しかし何故、当たり前のことを言っただけでこの娘はこんなに嬉しそうな顔をするのだろう。
チキの力になれたという実感を得られず、レンツェンは素直に喜べなかった。
「それぐらい知っていて当然だ。俺はリーヴェの王になるはずだったのだからな」
レンツェンは期待した。「わー、すごい!」と無邪気にはしゃぐチキの姿を。
結局のところ、自分には地位や肩書きくらいしか人を惹きつけるものがない。
チキと真面目に向き合おうとすると、自分がいかに中身のない人間なのかを思い知る。
しかしそれをひけらかすことでチキが笑ってくれるのなら、自分の存在にも意味が生まれるような気がしたのだ。
だが、チキは不思議そうな表情を返すのみ。首をかしげ、レンツェンの目を覗き込みながら口を開く。
「あのねレンツェン、リーヴェってなあに?」
「俺が王位に就くはずだった国の名だ。貴様はリーヴェも知らんのか」
「うん、チキ聞いたことないよ」
「聖竜の暴走は知っていても国の名を知らぬとは、随分と知識に偏りがあるな。
貴様は一体どんな環境で育った? どこかに幽閉でもされていたのか?」
「ゆうへい……?」
レンツェンは軽く苛立った。説明しなければならないことが多すぎる。
これだからガキは面倒だ。しかしその一方で憐れみを覚える。
もし自分の推測が正しければ(そして恐らくそれは正しいのだろうが)、
チキは自分が何をされたのか、その意味を理解することなく、
“当たり前のこと”として己の境遇を受け止めているのだ。
「幽閉というのは、人目につかない場所に閉じ込めることだ。
貴様はどこかに閉じ込められていたのかと聞いているのだ」
レンツェンの言葉にチキは無防備な笑顔を見せた。
夜の森を独り彷徨う子供が民家の明かりを見つけたときのように。
「レンツェンすごい! またチキのこと分かった!」
今度はレンツェンも自然に笑った。
自分の推測の正しさをチキが認めてくれたのだ、これは素直に喜べる。
「当然だ。竜に変身できるということはどこかの国の王女なのだろう?」
「あのねレンツェン、国じゃないの。チキは神竜族の王女なの」
「神竜族、だと?」
「うん――」
チキの表情が翳った。レンツェンから視線を外し、申し訳なさそうに言葉を続ける。
「――竜の一族の中でいちばんえらいの。だからどんな竜にもなれるの」
「つまりは聖竜の巫女よりもさらにユトナの女神に近い存在ということか。
なるほど、年齢に関してはそれで説明がつく。その石は腕輪の原石といったところか。
しかし、貴様は何故そんな寂しそうな顔をしている?
竜族の長であることを誇ろうとしないのは何故だ?」
「だって……」
チキは再び視線を上げた。
「チキはいつか人間を襲うようになるんだよ?
だから閉じ込められてたの。暗い部屋の中で、チキはずっと独りだったの。
でもね、バヌトゥおじいちゃまがチキを外の世界に連れ出してくれたの。
悪い人に捕まったりもしたけど、
マルスおにいちゃんが助けてくれた。
マルスおにいちゃんも
シーダおねえちゃんもみんなチキに優しくしてくれたよ。
なのに、チキはいつかみんなを襲うようになるなんて――」
チキは椅子から立ち上がり、レンツェンの服を両手で掴んだ。
その勢いに気圧されて、レンツェンの指がチキから落ちる。
「そんなこと、自慢できるわけないもん!
あのねレンツェン、お願いがあるの。チキをマルスお兄ちゃんのところに連れて行って!
マルスお兄ちゃんがチキを助けてくれるの!
いつまでもずっとみんなと一緒にいられるようにしてくれるの!」
この娘は狂っているのではないか――そんな疑惑が脳裏をかすめた。
あの石で竜に変身できるという話も、神竜族の王女だという話もすべて
大好きな“マルスおにいちゃん”の死を受け入れることができず
狂気の世界に逃げ込んだ彼女の妄想なのではないかと思った。
しかし、恐怖政治によって民衆に地獄を味合わせたレンツェンには分かる。
彼女の表情は狂人のものではない。その言葉についても同様だ。
彼女はただ、マルスの死を理解していないだけなのだ。
恐らく、彼女には
ヴォルマルフの言葉など理解できないのだろう。
幽閉生活とマルスによって人々の悪意から遠ざけられていた彼女は
それほどまでに無垢なのだろう。
胸の奥底からどす黒い衝動が込み上げる。
マルスの死とその意味をチキに教えてやりたい。
マルスという希望をチキから奪い取り、無垢な心を壊してやりたい。
そんな残虐性に心を委ね、口を開こうとしたが、レンツェンには何も言えなかった。
そんなことをしたところで、マルスへの思慕を見せ付けられるだけだ。
彼女がいかにマルスを愛し、どれほど必要としていたのかを見せ付けられ、
自分は決して“マルスおにいちゃん”にはなれないのだと思い知らされるだけだ。
リュナンのことが憎かった。自分は決してリュナンにはなれない。それが苦しくてならなかった。
しかしチキの発した何気ない一言がその苦痛を取り除いてくれた。
自分はチキの無垢な心に救われたのだ。それを壊すということは、元の地獄に戻るということ。
そんなことになるくらいなら、自分の意思でマルスの代わりを務める方がいい。
“マルスおにいちゃん”がするはずだったことをこのレンツェンハイマーが成し遂げれば
自分もきっとマルスのようなチキに慕われる人間になれるのだろう。
「マルスとやらは、どのような方法で貴様を救うつもりだったのだ?」
「マルスおにいちゃんは<封印の盾>を完成させてくれるの。
そしたらチキは人を襲わなくなるの。いつまでもみんなと一緒にいられるんだよ」
「その<封印の盾>とやらは、一体どこにあるのだ?」
「マルスおにいちゃんが持ってるの。マルスおにいちゃんが使ってる盾のことなの」
「話が見えんな。<封印の盾>はまだ完成していないのだろう?
にも拘わらず、マルスはそれを既に盾として使っている。一体どういうことだ?」
「あのね、<封印の盾>には穴がいっぱいあいてるの。
それでね、いろんな色のオーブをそこにはめ込んでいくの。
マルスおにいちゃんはオーブをいっぱい集めてくれたの。
あとは<
闇のオーブ>をはめ込むだけなの。そしたら完成するんだよ!」
「その<闇のオーブ>とやらがどこにあるのか、貴様は知っているのか?」
「うん、知ってるよ!
ハーディンおじちゃんが持ってるの!」
「……分かった。俺に任せるがいい」
レンツェンは
キュラーの言葉を脳裏で反芻する。
先程の
臨時放送で、キュラーと名乗る男はこう言っていた。
――これらの各城内、塔内の一室にある“武器庫”には、
この全参加者が当会場に召喚される前に持ち合わせていた
所持品の数々を分散して預からせて頂いております。
――武器庫から所持品をお持ちできる条件を、一つお付けいたました。
それは、その所持品の持ち主の首輪との交換というものです。
チキの話が正確なら、そしてキュラーの言葉が本当なら、
マルスの首輪と引き換えに<封印の盾>が手に入り、
ハーディンの首輪と引き換えに<闇のオーブ>が手に入る。
つまりマルスとハーディンの首輪があれば、チキの暴走は防げるのだ。
問題は、二人の顔を知らない自分にそれを成せるのかという点だが、
当初の計画どおり“
オグマおじちゃん”と合流すれば解決するだろう。
マルスの死体などチキには見せられないし、首を切り落とす現場などもってのほかだ。
しかし“おじちゃん”と呼ばれる年齢のオグマならば、空気を読んでくれるはず。
一方のハーディンに関してだが、今朝、仲間の名を尋ねたときにチキは彼の名を挙げなかった。
ただ不仲なだけなのか、それとも敵対しているのか、具体的な関係は不明だが、
チキが嫌悪する相手ならば、竜化した彼女自身に始末させるという手もある。
レンツェンは件の石を再びチキに差し出した。
「この石は貴様が持つがいい。
先程の男のような手合いがいつ現れるか分からん、貴様にも身を守るすべは必要だ」
「でも、これは悪い人が使ってたんだよ? こんな石を使ったら、わたし……」
「その“悪い人”とやらが悪事を働いたのは、この石が原因だったのか?」
「ううん、そうじゃない。メディウスは人間が嫌いだったの。だから悪い人になったの」
「ならば、以前の所有者など関係ない。いいか、チキ――」
レンツェンはうつむくチキの頭に手を添え、上を向かせた。
「貴様は神竜族の王女なのだろう? 竜族の中でもっとも偉いのだろう?
“えらい人には、その地位にともなう責任と、義務がある”と
俺に説教したのは誰だ、貴様ではなかったのか?
この俺にああ言った以上は、貴様もその“責任と義務”とやらを果たしてみせろ。
それができないのならば、二度と俺にあんな口を利くな。いいな?」
「レンツェン……」
目を大きく見開いてレンツェンを見つめるチキの表情を目の当たりにし、
レンツェンは自分がいささか感情的になっていたことに気付いた。
俺は一体何を言っているのだろう。伝えたいのはそんなことじゃないのに。
レンツェンは軽く息を吸い、努めて穏やかに話し掛けた。
「チキ、貴様は魔竜クラニオンを知っているか?」
「魔竜……クラニオン……?」
「レダという国を一夜にして滅ぼした竜の名だ。
レダが滅んで何十年も経つが、クラニオンは今も野獣のように人間を襲い続けている。
クラニオンの住処は廃墟となったレダの古城、つまり自分の滅ぼした国の王城なのだが、
元は人間、しかもその国の王女だったのだから当然と言えば当然だな。
クラニオンはどうやら不死身らしく、何度殺されても甦り――」
「やめてレンツェン!」
チキの悲鳴がレンツェンの言葉を遮った。
「そんな話は嫌……それ以上聞きたくない……」
チキの声は震えていた。目を硬く閉ざし、両手で耳を覆っている。
レンツェンは軽く溜め息をつき、チキの冷えた指に自らの手を重ねた。
これ以上怯えさせないよう、ゆっくりと慎重に、耳をふさいだ手をはがしていく。
そして、舞踏会で口説き落とした美女に接するように優しく囁いた。
「チキ、俺の話を最後まで聞け。大切なのはここからだ。
今でこそ魔竜と蔑まれているクラニオンだが、元々はレダ王国の守護聖竜だった。
守護聖竜というのは、国やそこに生きる人々を守る聖なる竜という意味だ。
しかし人間の身勝手な心が守護聖竜を恐ろしい魔竜に変えた。
……チキ、本当のことを話そう。俺は本当は“えらい人”なんかじゃない」
「えっ……、でもレンツェンは太守なんでしょ?」
チキは不思議そうな顔でレンツェンを見上げた。
嘘つき、などと怒り出したりはしない。レンツェンは思わず苦笑した。
もっとも言いたくなかったことを打ち明けようとしているはずなのに、不思議と心は平静だった。
「いや、太守だという話は本当だ。王になるはずだったという話も、な。
しかし俺は民衆に憎まれ、実の親からも見放されていた。
俺のことを“えらい人”だなどと本気で思っている奴は一人もいなかった。
俺が死んだところで誰も困らん、むしろ喜ぶ奴ばかりだというのが本当のところだ。
しかし貴様はこんな俺に“えらい人”とはどうあるべきかを語ってみせた。
あの時は気付かなかったが、今なら分かる。俺を見下している奴にあんなことは言えん。
俺のような人間でもリュナンのように生きられると信じてくれたのはチキ、貴様だけだ。
それで充分だった。貴様の純粋さに救われた。だからこそ俺は貴様を助けたのだ。
その石にどのようないわくがあっても、この俺を変えることのできた貴様ならば
正しく使いこなせるだろう。だからチキ、自信を持て」
「レンツェン……」
チキは生まれて初めて出会った相手を見るような顔でレンツェンを見た。
潤んだ瞳から涙が溢れ出す前に、チキは満面の笑顔でレンツェンに抱きつく。
「レンツェン、ありがとう!」
「チキ、もう大丈夫だな?」
「うん。大丈夫」
「いざというときは、その石の力で竜に変身して戦えるな?」
「うん。レンツェンが一緒にいてくれたらチキ大丈夫だよ」
今すぐにでもチキを抱きしめたいと思った。
チキは女神ユトナの奇跡。あらゆる世界を覆す力。
彼女がいれば、“リュナンになれないレンツェンハイマー”と決別できるだろう。
彼女さえいれば、自分はどんなものにでもなれるだろう。
だから決して離すまいと思った。しかし体が動かない。
チキはいつか気付くだろう。レンツェンがマルスの死を隠していたことに。
レンツェンがマルスの死体を冒涜し、彼に成り代わろうとしていたことに。
チキを励ました言葉の奥には、聖竜を戦争の道具として扱い破滅を招いた
レダ王の野心に通じる醜悪なものが潜んでいたことに。
――チキは決して俺を許さないだろう。そして俺はマルスにはなれない。
諦めと苛立ちが薄い雲のように胸を覆い、レンツェンは溜め息混じりに呟いた。
「臭いぞガキ。そろそろ離れろ」
【C-3/村:いずこかの民家/夜】
【レンツェンハイマー@ティアリングサーガ】
[状態]:疲労、空腹、やすらぐかほり、顔面に赤い腫れ
[装備]:ゴールドスタッフ@ディスガイア(破損、長さが3分の2程度)、エルメスの靴@FFT
[道具]:支給品一式
[思考]0:チキを連れてラゼリアに帰還する。手段は問わない
1:マルスの首輪、封印の盾、ハーディンの首輪、闇のオーブの入手
2:封印の盾完成まで、マルスの死は可能な限りチキには伏せる
3:武器がほしい
4:オグマなど、(都合のいい)仲間を集める
5:あの少年(
ヴァイス)は極刑
6:首輪回収のために包丁を拝借しておくか…
[備考]:ヴェガっぽいやつには絶対近寄らない(ヴェガっぽいのが既に死んでる事に気づいてません)。
【チキ@ファイアーエムブレム紋章の謎】
[状態]:失血による軽い貧血(シャンタージュの力により回復は早い)、空腹
[装備]:地竜石@紋章の謎、シャンタージュ@FFT(一瓶すべて使用済み。瓶は破損)
[道具]:支給品一式、肉切り用のナイフ(1本)
[思考]1:レンツェンといっしょ!!!
2:早くマルスおにいちゃんに会いたいな
3:あのお姉さん(
アティ)たちは大丈夫かな…
4:みんなのとこに帰りたい…
5:レンツェンがいじわるなことしたらやだな
[備考]:放送は聞いてはいましたが、その意味をよく理解していません。
よって、マルス達が既に死んでいる事に気付いておりません。
:体を拭いたため、シャンタージュの効果が少し落ちました。
具体的な効果は次の書き手の方にお任せいたします。
:服を着替えました。「サモンナイト3」アリーゼの私服です。
最終更新:2011年01月28日 15:27