26代目スレ 2008/11/08(土)
ボクシングをやる。
ラミア先生がどうして突然そんなことを言い出したのかはわからない。
体育の授業の一環ということだった。
競技が競技なだけに、強制じゃない。辞退者はアクア先生が悶々としながら作った保
健体育のペーパーテストを受ければいい。たぶん、ラミア先生的にはこっちがメインデ
ィッシュなんだと思う。
あたしは、どうしてボクシングなんかやる気になっちゃんだろう。
自分でもよくわからない。
あたし、
レイナ・レシタール。
◆
カノウ家の敷地には道場がある。
夕方になれば、いい歳をして定職についていないおじさんが近所の子供相手にカラテ
を教える声が聞こえてくる。ここの家は奥さんが特許とか取って稼いでるから、ほとんど
ボランティアみたいなもんなんだと思う。
「右利きだっけ左利きだっけ」
「右利きよ」
「じゃ、左足を肩幅くらいまっすぐ前に出して、
右のつま先は斜め45度に向ける。体重を両足の親指あたりにかけて、膝は軽く曲げる。
胴体は正面に対して斜め45度、肘は直角に拳は目の高さに、
目は正面を見据えて、アゴは鎖骨につけるくらいの感じで引く」
初めて構えるボクシングのファインティグポーズは、ひどく窮屈だった。
「好きなように構えればいいんじゃないの?」
「後ろ足に力入れてみ」
いわれたとおりにすると、腰がぐるんとまわってシュッと腕が前に出た。
腕のことなんか、まったく意識してなかったのに。
「あら」
「それが、全身使ってパンチ打つってこと」
カノウ兄弟の彼女いない方は少し得意げに笑った。
「でもさ、なんでうちに来たんだよ」
「ボクシングなんて、カラテからキック取っ払ったようなもんでしょ?」
「や、だいぶ違うぞ」
「ボクシングの構え、教えられてるじゃない」
ミナトはニヤリと不審人物そのものって笑い方をすると、親指をぐいと突き立てた。
「だってさ、キタノキイちゃんが俺に
『ボクシング教えてください』ってお願いにくる可能性もなきにしもあらずだろ?」
「ないから。絶対ないから、そんなミラクル」
このミナトっていう男は、カラテの実力はそれなりにあるのに、どこでなにをどう間
違えたのか、気が付くとかなりキモいレベルのアイドルオタクになっていた。
「ま、それナシにしたって打撃格闘技やってりゃ1回くらいボクシングの研究するよ。
手技に関しちゃ地上で一番洗練されてる競技なんだしさ。
俺、元々フィリオ先生に憧れてカラテ始めたから、
ボクシングとかキックボクシングとの戦い方とか、ひと頃よく研究してたんだよ」
格闘技に関しちゃヘンにマジメなところがある男だから、扱いに困る。
「ね、フィリオ先生ってそれ、フランシスコよね。
上にフランシスコが付くフィリオ先生のことよね」
フィリオ・プレスティさんは、地球圏の人型機動兵器開発史においてけっこう重要な位
置を占めるロボット工学者さんだ。不治の病に冒されていて年がら年中死ぬ死ぬいってる
くせに、一向に死ぬ気配がない。それどころか、年々健康になっている始末だ。実はもう
一回死んでいて、人間とは違うなにかべつのものとして蘇ったんじゃないか、なんていう
噂が出るほどに死にそうもない。
見た目は線の細い、いかにも物静かな科学者然とした男の人だ。ところがこれが、アー
マードモジュールにゴスロリ衣装着せて古いアイドルの振り付けを交えたモーションパタ
ーンを考案して実装するような変態だから困る。たぶん、元恋人さんにも普通に逃げられ
ちゃったんでしょう。
「どっちのフィリオ先生も、俺の大事な人生の師だぜ」
なんか照れたような顔をしているのが、キモい上にちょっとムカつく。
フィリオさんとの出会いは、
ミナト・カノウっていう少年にとって致命的なターニン
グポイントだった。トレーナーとして不必要に優秀なフィリオさんによって、ミナトは
カラテの実力をめきめきと上げていく一方、これ以上なく急な坂を転がり落ちるように
ディープなアイドルオタクの道をひた走りに走っていった。
結果、現在のミナトは強いくせにキモい、キモいくせに強いっていう、非常に意味の
分からない存在に成り果てていた。
「じゃ、適当にシャドーやってみろよ」
元々あたしは格闘技なんか好きじゃないし興味もない。せいぜい年末のテレビ特番で
芸能人に片足つっこんだファイターたちの試合を観る程度だ。
見様見真似で、軽くステップを踏みながらパンチを2、3発出す。
お、あたしってけっこうサマになってるんじゃないの?
「おいおい、なにムダにぴょんぴょん飛び回ってるんだよ」
水を差されて、あたしは少しムッとした。
「だって、ボクシングってこういうもんでしょ?」
「お前さ、あんま格闘技舐めんなよ?
ボクシングのフットワークっていうのは、すげえスピードがあること前提のもんなんだよ。
お前、ムリじゃん。重いもん」
「コノヤロウ」
「素人考えでカッコだけ真似たって、
タイミング合わせられりゃワンパンチで吹っ飛ぶのがオチだよ。
ボクシング大会、一週間後だろ?
ちょっとロードワークしたくれえじゃ本格的なボクシングなんかムリだよ。
いまのお前のウェイトと運動能力でできること考えるしかねえ」
「どうしたらいいのよ」
「最初いったように、足の親指あたりに重心かけて、
足の裏、床から離れないように移動してみ」
「それって、ベタ足っていうんじゃないの?」
「ベタ足のなにがいけねえんだよ」
「いや、それは知らないけど、なんか悪いんじゃないの?」
「ベタ足にも、いいベタ足と悪いベタ足があるんだよ。
マイク・タイソンなんか、ベタ足もいいとこだったけど超強かったぞ。
あれ、ボクシングっていうより日本武道のすり足に近いんだってさ。
タイソンて路上でかなり鳴らしたそうだから、
知らないうちに実戦的な足運びが身に付いちゃったんだろ」
いわれたとおりにしてサンドバッグを叩くと、たしかに手応えが違う。ムカつくけど。
「でもさ、なんでボクシングなんかやる気になっちゃったんだよ。
ペーパーテスト受けときゃいいじゃねえか」
そんなもの、あたしにだってわからない。
「あんたは、なんでカラテやってるの?」
「俺?」
「そ、単純にいって、カラテなんかできたっておカネにならないじゃない」
「年末の格闘技番組に出りゃ、ビッグマネーをつかめるぜ!」
「年末の格闘技番組に出るつもりなの?」
う~んと、ミナトは腕組みをし始めた。
まずい。これは本気で考え始めてる。
アイドルソングを入場曲にリングの上でオタ芸を披露するミナトの姿を想像した。大
晦日のお茶の間には絶対に流したくない映像だ。
「やっぱり、ガキのころから親父に仕込まれてたからかなあ」
「なによ、主体性ないのね」
「だって稽古サボると、すげえ叱られるし」
「情けないの」
「でも俺、カラテ自体は嫌いじゃないんだよなあ」
あんたからカラテ取ったら純然たるキモオタだからね。
「あ、そっか」
唐突に、ミナトはポンと手を叩いた。
「原点なんだよ」
「は?」
「俺って人間を作ってる原点がカラテなんだよ。
だから、カラテを離れるってことは考えられねえんだ」
意外にまともな答えに、わたしは少し面食らっていた。
「例えるなら、『いしよし』だな。
『いちごま』と並ぶ、娘。の超定番カップリングだよ。
ウザキャラリカちゃんに対して、『うざっ!』って顔を隠そうともしねえよっすぃ!
この構図、萌えずにはいられねえだろ?
俺たちは、ずっとずっといしよしでなんかユニット組んでくれって思ってたんだ。
そして、卒業、美勇伝、解雇の報を乗り越えて、満を持しての『HANGRY & ANGRY』!
うへへへへ、俺、一生つんく♂兄さんに着いてくよ!」
「ゴメン、あんたがなにいってるのか、
あんたになんていったらいいのか、あたし全然わからない」
どうしよう。ミナトは、見直すスキすら与えてくれない。
◆
ボクシング大会当日を迎えた。
ルールは2分3ラウンド制、10オンスのグローブをはめて行う。
会場は学校の体育館2面にしつらえられた特設リングの上。念動力やなんかの特殊能
力が使えないように、特殊なフィールドが張り巡らされてるっていう話だった。
初戦の相手は
マキネ・アンドーだった。
スパッツをはいて、チェストガードの上からティーシャツを着ているあたしに対し、
マキネは短パンにノースリーブのみという軽装だった。
「まずはあんたのテンプルにストレートとフックを叩き込む!
アハハハハ! そう、これだよ! まさに至福の顔面ラッシュだよ!」
マウスピースをはめているはずのなのに、マキネはよく喋る。
マキネのパンチは重く、身体は恐ろしく頑丈だった。パンチを当てても、まったく効
いている気がしない。パンパンに空気を入れたタイヤを殴ったような感触だった。
ノースリーブから日焼けの抜けかけた脇乳を惜しげもなく晒して、マキネは果敢に攻
めてくる。左手一本を使ってのボディに二発、さらに左が続く。ボディアッパー。こち
らが突き出したストレートを、するりとかわしてしまう。たしかヘッドスリップとかい
ったか。間髪入れずに右のフックが飛んでくる。衝撃でヘッドギアがズレる。
マキネの動きは、やけに手慣れていた。そういえば、あんまり話題にはならないけど
この子のお父さんはボクシングの高校大会で優勝していた。素人じゃないってことか。
「止まってんじゃねえ、攻め、攻め! ワンツー!」
セコンドからミナトの声が飛んでくる。
あたしは顔の前に両の拳をそろえて、すり足で前に出た。一瞬息を止めて、腰を回転
させる。ワンツー。
マキネは避けない。ガードを固めようとすらしない。あたしの動きに合わせてパンチ
を出してくる。グローブが2回、空中でぶつかった。マキネの方が力が強い。グローブが
弾かれる。ガードが解けた。懐ががら空きになる。
マキネはさらに踏み込んでくる。右ストレートが唸りを上げて、あたしの顔面に迫ってくる。
とっさにスウェイバッグで避けた。
「バカッ!」
ミナトの叫び声が聞こえる。
「闇かなんか抱きながら光を砕きなッ!」
マキネの両足が複雑なフットワークを刻む。あっという間に体勢を立て直してしまっ
た。あたしの方は、バカみたいに棒立ちしたままだ。
ジャブと呼ぶには強烈すぎる二発をテンプルに食らう。知らないうちにガードが下が
っている。マキネの後ろ足がバネのように弾むのが見えた。ストレート。避けられない。
負ける。確信した。
カーン、とゴングが鳴る。
間一髪のところでマキネのグローブが止まっていた。
「次ね」
グローブをひらひらと振りながら、マキネはすたすたとコーナーへ下がっていった。
その足取りに疲労の色はいっさいない。
あたしはもう、身体じゅうが痛い。足をひきずりながらよろよろとコーナーに戻る。
「飲めよ」
ミナトが差し出してきたものを口に含んで、すぐにマウスピースごと吐き出した。
「なによこれ!」
「アッキーナはコーラ飲まねえと現場でむくれるっていうから」
「それがなんだっていうのよ!」
「ちぇっ、もういいよ、お前は水でも飲んでろよ」
「水を寄こしなさいよ!」
ミナトの手からミネラルウォーターのペットボトルをひったくってラッパ飲みした。
「マキネのいうことに耳貸すな。
ありゃあ、カシアス・クレイとおなじだ。
ボクシングの前に口喧嘩で負けてどうすんだよ」
「カシアス?」
「モハメド・アリだよ」
「ああ、パンチドランカーのひと」
「メチャクチャ強かったんだぞ」
「知らないし、そんな旧世紀のひと」
「知らなくていいよ、お前タイソンなんだから。
ベタ足で近づいてってぶっ飛ばせ。
使えもしねえテクニックなんか使おうとすんな」
インターバルが終了する。
マキネはもうニュートラルコーナーでスタンバイしていた。
近づいていってぶっ飛ばす。近づいていってぶっ飛ばす。
マウスピースを噛んだ口でぶつぶつと呟きながら、あたしはリング中央に進み出た。
第2ラウンド開始直後から、マキネは猛然と攻めてきた。
ボディに2発、ガードが下がったところで顔面に1発もらう。綺麗なボクシングだ。付け
入る隙がない。
足が勝手に後退しようとする。
ダメだ。前に。
ぐっと足に力を入れる。踏みとどまる。後足にかかった反動が腰を自動的に回転させ
る。意識もしないでストレートが出た。
右腕のずっと先で、不思議な手応えがあった。
「へへ」
マキネがニヤリと笑う。その顔がずるりと落ちた。
「墜ちてみると、心地いいもんさ」
ゴングが鳴った。レフェリー役のヒューゴ先生があたしの腕を取って上げる。
「勝っちゃったの、あたし」
クロスカウンターパンチってやつだった。
◆
2戦目の相手は
クリハ・ミズハだった。
「ぴゃほほほほっ!」
わけのわからない奇声を上げながらクリハは恐ろしいスピードでジャブを繰り出して
くる。一発一発は軽い。しかし、速い。速過ぎる。しかも一瞬の隙間もない。基本はジ
ャブの連発、こちらが反撃に出ようとすると牽制程度に右が飛んでくる。まったく攻勢
にまわれない。
しばらく失踪してる間に、クリハはなんとなく感じが変わっていた。なんていうか、
虚無的ななにかと戦う使命を帯びてるっていうか、たまに目がグルグル模様になるっていうか。
ゴングが鳴る。第2ラウンド終了。ここまで、あたしは一発のパンチも入れていない。
あれだけの攻勢を続けながら、クリハは息ひとつ乱していなかった。セコンドに戻る
と、彼氏のトウキから受け取ったペットボトルをあおる。ぺっと吐き出された液体は、
異様な濃緑色をしていた。クリハ特性の健康ドリンクだ。異常なまでのスタミナの源は、
あれか。
「ねえ、あれ、ドーピングになんないの?」
「ならねえんじゃねえの。成分的には単なる健康ドリンクだし」
向こうのコーナーでは、クリハが不敵に笑っていた。
「このままじゃ判定で負けるな」
ミナトはアクビなんかしている。
こいつ、もう試合が終わったつもりでいるんじゃないでしょうね。
「お前さ、勝つつもりあんの?」
わからない。あたしは無言でかぶりを振った。
「じゃ、負けてえのか?」
「ヤダ、負けるのは」
「だったらパンチ出してけよ。
お前、知ってたか? ボクシングってパンチ出し合う競技なんだよ」
「知ってるわよ、そのくらい」
第2ラウンド開始のゴングが鳴っても、あたしはニュートラルコーナーから動かなかった。
動かない。そう決めていた。
クリハは速い。あたしのフットワークじゃ捕まえられない。動いても消耗するだけ。
だから、動くのはやめだ。攻撃に専念する。
「ゲット・セット・ランダムスパイク!」
また、ジャブの嵐。ガードで視界が遮られる。クリハが息を吸い込むのがわかった。
強烈な右アッパーが来る。さらに、左フック。
「そこっ!」
ミナトの声と同時に、右が出た。膝は柔らかく、肘は直角に。グローブが吸い込まれ
るようにクリハの脇腹に入る。
レバーブロー。振り抜く。
にわかにジャブが止まった。
「きっと、すごいものを発見するの」
クリハががっくりと膝をついた。
◆
3戦目まで、しばらく時間が空いた。
身体を止めると、全身から信じられない量の汗が噴き出した。
ああ、これは痩せるわね。そんなことを考える。
グローブを外してバンテージをほどくと指が10本とも真っ赤に腫れ上がっていた。殴
るだけでこんなになるということを、生まれて初めて知る。
「ねえ、あたし、ひょっとしてけっこう強いんじゃないの?」
「え、そんなことねえよ」
音楽プレーヤーのイヤホンを片方だけ外して、ミナトはあっさり否定してくれる。
「たぶん人数の都合だろうけど、階級分けされてねえもん。
お前ガタイはいいしウェイトもあるんだから、普通にやってりゃ、そりゃ勝つよ。
なんだかんだいって、格闘技なんかガタイがモノいうんだからさ」
「ガタイいいとかじゃなくて、スタイルがいいっていってくんない?」
「いや、スタイルは悪いよ。なんだよその二の腕。
シャア専用ズゴック呼ばわりされてたあいぼん並みじゃねえか」
「誰がシャア専用ズゴックよ!」
「ああ、『晴れ 雨 のち スキ』のときのあいぼんは通常の三倍太ってて、
しかも衣装がピンク色だったからシャア専用ズゴックって」
「あんたそのアイドルうんちく、自分で思ってるよりはるかにウザいしキモいからね!」
どうっ、とひとのどよめく声がした。
体育館の片側に設置されていたリングからだ。
リングの上では、修羅兵の子(♀)がボディブローを腹に埋め込まれたまま白目を剥
いていた。エジュニアことエリート兵の子(♂)が悲痛な叫びを上げている。
どうと倒れた相手を、
ユウカ・ジェグナンは一瞥もしない。誰もいないコーナーに戻っていく。
「うわあ、えげつねえ。あのひと、ここまでずっとボディで決めてるぜ。
顔面KOは天国、ボディKOは地獄っていうのによ」
あたしは慌てて対戦表を見直した。
「ね、あたし、次あの子とやるみたいなんだけど」
「あ、ダメだ、ありゃ勝てねえ」
ミナトはイヤホンを耳に入れ直そうとする。
「あんた、もうちょっと鼓舞するとか激励するとか」
「だって向こうの方が手足長えし、身体できてるし、なんかわかんねえけどモチベーシ
ョンも高えみてえだし」
たぶん、単位のためなんでしょう。ボクシングなんかやるより普通に登校した方がは
るかに簡単だと思うけど、あのユウカって子はなぜか異様なほど教室に入ることをいやがる。
「あんた、それでもセコンドなの?」
「あれ、俺、お前のセコンドなの?」
「違うなら、なんであたしのセコンドにいるのよ」
「あれ、なんでだろ」
「考え込まないでよ!」
「うわ、ビックリした。すげえメリットねえじゃん」
「ね、あんた昔あたしのこと好きだったんじゃないの?」
「やめてくれよ、俺、あのときどうかしてたんだよ」
「ああ、どうかしてたわね! カタナが恋人とか口走ってたし」
「もうカンベンしてくれよ、カタナが恋人発言は」
あらら、ミナトは両手で顔を覆ってしまう。
「フロイト的な意味でカタナが恋人なんでしょ!」
「やめてくれよ、フロイト的な意味じゃねえことだけはたしかだよ。
ちょっとカッコつけてみてえ年頃だったんだよ」
「痛かったからね、あの発言!」
「あ、そうだ、いいこと考えた。
お前、一勝するたびに『大声ダイアモンド』1枚買ってくれよ。
あれ、定価1600円なのに劇場版特典の生写真は全90種だし、
1回の入場で5枚しか買えねえし、いくらかけたらフルコンプできるのか想像もつかねえんだよ」
「ねえ、ちょっと待って。複数買い前提なの?
あんたはどうしてそんな嬉々として搾取されてるの?」
「中のCDはお前にやるからさ」
「CDをビックリマンチョコのチョコみたいに扱うの、よしなさいよ!」
「自分で聴かねえなら、布教用に配ればいいしさ」
「ひょっとしてだけど、それってマルチっていわない?」
次の試合が始まると、ヒューゴ先生があたしを呼びに来た。
◆
小さいころからダンスをやっていたっていうユウカ・ジェグナンは全身がきゅっと引
き締まっていた。さらにその上にうっすらと脂肪が載って、ボリュームのある肢体を作
っている。緩くうねる腹筋の中央では、縦長のヘソが誇らしげに横たわっていた。褐
色の肌の上にうっすらと汗の膜が張って、ライトを鈍く反射させている。
緩くウェーブのかかった焦茶色のロングヘアを後ろで縛り、ブラックのヘッドギアを
はめている。身体にぴったりと貼り付くスパッツとチェストガード、それから裾が破れ
たノースリーブという格好だった。ノースリーブには、たぶんなにかのスラングなん
でしょう、わけのわかんない英文が刺繍されてる。
あの子はよく改造した制服を着てくるけど、あの刺繍もひょっとして夜中ひとりでぷ
ちぷちと作業したのかしら。その姿を想像すると、ちょっと笑えた。
ゴングが鳴るなり、ユウカは突進してきた。
あたしが慌ててストレートで迎撃しようとすると、褐色の肉体は残像さえ作って左右
に揺れた。ウィービングだ。身体の真横で、キュッとボクシングシューズの鳴る音がした。
斜め後ろからの衝撃。がくんと前につんのめる。
とっさにレフェリーを見る。後頭部への攻撃は反則のはずだ。
ヒューゴ先生はニュートラルコーナーに戻れと指示するだけだった。後頭部ぎりぎり
のテンプル打ちと判断したらしい。
やってくれるじゃない。この大会が始まってから、あたしは初めて闘争心ていうもの
を燃やしてた。
そういえば、ユウカにはロンドンの裏通りでケンカに明け暮れていた時期があるって
聞いたことがある。貧民街のブース・ボクシングの技巧っていうやつかしら。かなりの
場数を踏んでるのがわかる。
ユウカはニュートラルコーナーに立って、10オンスのグローブをパンパンと打ち鳴ら
している。挑発してるつもりなのかしら。
行ってやろうじゃない。
ヒューゴ先生の声と同時に踏み込む。ワンツーからストレートのコンビネーション。
あれ、おかしい。パンチが当たらない。ユウカは半歩後退しただけ。たったそれだけ
であたしのグローブは届かない。
ユウカからジャブが来る。とっさに横に避けた。肩口にかする。
向こうの方が手足が長い。ミナトはそういっていた。こういう意味か。数字にすれば
3、4センチにも満たない差のはず。それでも、こっちからの攻撃は当たらない、向こう
からの攻撃は当たる。
アウトレンジからの連打が来る。顔面にガードを固めればボディに来る。あたしは、
どうしたらいいのかわからない。
「もらうんなら顔でもらえよー、気持ちよくイカセてもらえー」
セコンドではミナトがやる気なさげに声を出している。あの役立たず。
もう、自分でやるしかない。腹を決める。
ガード一方にまわるわけにはいかない。判定に持ち込まれれば負ける。当たらないま
でも、とにかくパンチを出す。ジャブ、ジャブ、ストレート。ワンツーからのフック、
アッパー。ボディブロー、そして顔面へのストレート。教わった限りのコンビネーショ
ンをひとつ残らず出していく。
パンチ3発に対して1発の割合でカウンターをもらう。ボディばっかり、ポンポンと軽
く叩く程度のパンチだ。ダメージはほとんどない。でも、ポイントにはなる。判定勝ち
を狙っているのか。
イライラした。ぎっと、ユウカを睨みつける。
なんの反応もない。ユウカは冷徹にアウトレンジからのボディブローを繰り返してくるだけだ。
ああ、そうか。
なんだか、わかっちゃった。
ガードを上げる。なかなか取れない脂肪を巻き付けたあたしのボディががら空きになる。
ボディを狙い澄ましたストレートが飛んでくる。
あたしはさらに前に飛び込んだ。それこそもう、グローブを頭に叩きつけるように。
ユウカの目に初めて感情が宿った。ためらいだ。
殴られれば痛い。でも、殴る方だって痛い。
人間の身体って硬いんだっていうことを、あたしはこれまでの試合で知っていた。特
に、頭はびっくりするほど硬い。グローブを着けていても指が真っ赤になる。
ユウカはギタリストだ。指をかばうのは当然だった。だからボディブローに固執して
いた。彼女が指よりも優先させるのは、たったひとりの少年のためだけだ。そしてあた
しは、その少年じゃない。
ユウカのストレートが鈍る。
あたしは極端に前倒しになった姿勢から右腕を振り上げた。ボクシング的には望まし
くないとされるパンチだ。でも、スウィングっていう名前が付いてる。遠い距離からス
トレートを打つと身体が流れて威力が十分に乗らないけれど、このスウィングなら強烈
なパンチになると説明を受けたことがある。
当たった。そして、打ち抜いた。
顔面KOは天国、ボディKOは地獄。
「ンッ」
妙に色っぽい声を漏らしながら、ユウカは大の字に倒れた。
◆
最終戦を前にして、会場はざわめいていた。
試合が終わっちゃったひとたちがリングまわりに集まってることもあるんだろう。で
も、誰よりもうるさいのはあたしの相手コーナーまわりにいる一名だ。
「ゼラド、もうよせよ。ここまで、よくやったよ」
ヴィレアム・イェーガーはあわてふためいた顔でおなじ文句を繰り返している。きょ
うずっと顔を見なかったけど、たぶんあの子に付きっきりだったんだろう。
「『いしよし』と双璧をなす『いちごま』っていうのはさ、
孤独な天才少女ごっちんを温かく包んでくれるいちーちゃんて構図に萌えるわけよ。
ほんとあのころのごっちんと来たら」
「ミナト、うるさい」
こっちはといえば、ミナトがわけのわからないオタトークを展開してる始末だ。ウザ
い上に、なんだか惨めな気分になってきた。
「イチイサヤカって、結婚してなかったっけ?」
「俺、現実見るのって嫌いなんだ」
「あんたほんと、しょうもない男ね」
「ま、勝てんじゃねえの?」
ミナトは相変わらずどうでもいい感じで相手側のコーナーを見やる。
「お前もたいがいラッキーパンチばっかりだけど、
向こうはもっとラッキーだもん」
ゼラド・バランガがここまで勝ち上がってきたのは、完全に予想外だった。
なにしろ、穏和な子だ。ボクシング大会にエントリーしたこと自体驚きだ。運動神経
が悪いわけじゃないけれど、人並み外れてるわけじゃない。それに、ちょっとトロいと
ころがある子だ。
でも、違和感はすぐに消えた。
「わかんない。勝てるかどうか」
「おいおい、弱気になんなよ」
ゼラドが、決して楽に勝ち進んできたわけじゃないことは、顔を見ればすぐにわかっ
た。真っ白だった肌が真っ赤に腫れ上がっている。ただでさえ大きなほっぺが、ひとま
わり大きく腫れ上がっていた。あれじゃ、過保護なヴィレアムが騒ぐのもムリない。
「でもね、したい」
たぶん、ゼラドはそれほど強くない。体格はあたしが上、腕力もあたしが上、ウェイ
トもあたしの方がかなり上。テクニックについてはよくわからないけど、あたしの方が
上なんじゃないかなって思う。ゼラドがあたしより勝っているのは、すばしこさくらい
でしょう。
単純にゼラドとあたしのパラメータをぶつけるだけのゲームなら、あたしが勝つ。
それでも、実際にゼラドとやって勝てるかどうかわからない。
体格も腕力も、ボクシングじゃ重要だ。でも、それ以上にものをいうのは気力だって
いうことを、あたしはすでに学んでた。
この気力という点では、ゼラドはまさに底なしだった。
顔を腫らしながら、ゼラドの目は活き活きと輝いている。あの子はたぶん、これまで
の試合で一回も勝負を諦めていない。ガッツっていうのかしら。あの目を前にすれば、
誰もが気圧されずにはいられない。そして攻め込むことができない。
ヘンな子。長い付き合いだけど、改めてそう思う。
でも、そういうヘンな子だから付き合いが続いてきたんだと思う。
あ、そっか。あたしはひとり頷いた。
「あたしね、したいの」
「は?」
「ゼラドと殴り合いたい」
「穏やかじゃねえなあ」
「ケンカじゃなくて、グローブで」
どうしてボクシングをやろうと思ったんだろう。いまになって、ようやくわかった。
対戦表をよく確認したわけじゃない。ゼラドが勝ち上がってくるって確信してたわけ
じゃない。でも、あたしはどこかでこうなることを望んでた。ゼラドと、思いっきり殴
り合ってみたかった。
「ミナト、水」
ほらよ、とミナトがペットボトルを差し出してくる。
「コーラじゃないのね」
うがいをして、ぺっと吐き捨てる。
「だってお前、アッキーナじゃねえもん」
「マウスピース」
「口あけろよ」
「ねえ、あたしとキスしたい?」
「え、ヤダよ」
「あっさりいうのねえ」
「ほんと、俺、どうかしてたんだよ」
「あたしはいまどうかしてんのよ」
「おい、頭、そんなに打たれてたっけ」
「ゼラドとしてくる」
「おいおいおい」
「グローブとグローブで」
身体が重い。もう、疲れ果ててる。指は一本残らず腫れ上がっていて、グローブの中
でじんじんと痛んでいる。顔も熱いし、お腹の肌も真っ赤に腫れ上がっている。
いつもなら、すぐに家に帰ってシャワーを浴びてアイスでも食べて泥のように眠って
しまいたいと思ってるだろう。
でも、いまは、なによりもニュートラルコーナーに立ちたかった。
あたしはゆっくりと立ち上がって、リングの中央に進んでいった。
「レイナ! お前からもなんとかいってやってくれ」
ヴィレアムが必死の形相で懇願してくる。
「ヴィレアムくん、黙ってて」
ゼラドの声は静かだった。
「そういうの、レイナに失礼だよ」
ヴィレアムが青ざめる。
「お兄ちゃんがヴィレアムくんと格闘技みたいなことしてるとき、お兄ちゃんは手加減
してる? してないよ。
ヴィレアムくんが勝てるわけないのに、、お兄ちゃんはいつも本気でやってるよ」
相変わらず、無意識にヒドいことをいう子だ。
「誠実って、そういうことなんだと思う」
泣きそうな顔をしているヴィレアムをよそに、ゼラドがリングに上がってくる。
あたしは、たぶんいま笑ってる。
「あたしね、ゼラドのこと好きよ」
「わたしもレイナのこと、大好きだよ」
「だからね、殴り合いましょう」
「うん、一生懸命」
パァンと、お互いのグラブを打ち鳴らして、ニュートラルコーナーに立つ。
ヒューゴ先生がなにか声を出している。
ゴングが鳴り響く。
あたしたちはほぼ同時に飛び出していた。
あたしのボディにゼラドの右ストレートが飛んでくる。あたしはゼラドの眉間目がけ
てストレートを放つ。
後退なんかしない。考えられない。
左右のフックを連打する。ゼラドはコンパクトに構えてあたしの懐に飛び込んでくる。
あたしはさらに踏み込む。ゼラドのパンチに威力が乗りきる前にボディで受ける。十分
に距離を詰めたところで、ボディアッパー。入った。と同時にアゴが吹き飛ぶ。アッパ
ーカットをもらった。どうしてだろう、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
ボクシングは野蛮な競技だ。憎いわけでもない相手と、必死になって殴り合う。殴ら
れれば痛いし、殴るのも痛い。ものすごく体力を使う。全身の筋肉がいまにもねじ切れ
てしまいそう。たぶん、2、3日の間満足に動けないだろう。
でも、やる。殴り合う。
グローブを当てるたび、グローブを当てられるたび、相手の魂に触れたような気がす
る。何千何万の言葉を重ねるよりも、深く濃厚なふれあいだ。
汗が飛び散る。血が飛び散る。どちらがゼラドのものでどちらがあたしのものかわからない。
頭上からライトの明かりが降り注いでいる。
強烈な歓声があたしたちを包む。
リングの上にいるのは、あたしとゼラドだけ。
あたしは孤独じゃない。ゼラドがいるから。ゼラドを殴れるから。ゼラドが殴ってく
れるから。
いつインターバルを終えたのかわからない。いまが2ラウンド目なのか3ラウンド目な
のか、まったくわからない。
ジャブを出す、ストレートを放つ、ボディジャブを打つ、フックを繰り出す、アッパ
ーカットを突き上げる。ただもう、ひたすらにパンチを出す。
膝ががくがくと笑っている。ちょっと背中を押されただけで崩れ落ちてしまいそう。
ヒューゴ先生がブレイクに入り、あたしたちをニュートラルコーナーまで戻した。
「ラストいっぷーん!」
誰かが叫ぶ。
あとちょっとで終わっちゃうんだ。
妙に残念だった。永久にこの時間が続けばいいのに。
「ね」
マウスピースをはめた口で、あたしはもごもごと喋った。
ゼラドは肩で息をしながら目玉だけ動かしてあたしを見る。
「ありがとね」
「うん」
「あたしね、すっごくうれしい」
「わたしも」
「あと、ちょっとね」
「惜しいね」
「勝つからね、あたし」
「負けないもん」
「そうね」
ヒューゴ先生が手を振る。
グローブが血と汗の飛沫をまき散らしながら唸りを上げる。
勢いのいい音がした。
ゴングが高らかに試合終了を告げる。
ヒューゴ先生がどちらかの名前を呼ぶ。
どちらの名前なのか、そんなことはどうでもよくなっていた。
ゼラドが眼をキラキラさせながらこっちに来る。
あたしも足を引きずりながらゼラドに歩み寄った。
重たい両腕を上げて、パァンとお互いのグラブを打ち鳴らす。
それから、あたしたちはお互い抱き合うようにして崩れ落ちた。
最終更新:2009年10月17日 12:33