27代目スレ 2009/02/02(月)
●
作られてから半年足らずで、
マーズは父親のもとを飛び出した。
その後、インドのガンジス川流域に住んでいたシホミおばちゃんのところに転がり込んだ。
宇宙で生まれ、宇宙で生きることを誇りとするトレイラーであるところのシホミおば
ちゃんが、どうして悠久の時を生きるインドに住む気になったのか、詳しいことは分か
らない。
「究極まで行けば、宇宙も地球も原子でできているのよ。
どちらもおなじようなものでしょう」
と、シホミおばちゃんはそういっていた。
◆
悠久の時を生きるインドの朝は、なんというかスットロい。
ドライヤーの熱風のような風を、ハエの波がかきわけて、オート三輪がトロトロと走
る横で、牛と野良犬とオッサンが野グソをしている。悠久の時を生きるインド人は、便
器のあるなしを大して気にしない。
「なんでだよぉーっ!」
ぶっといモップの柄に突かれて、マーズはガラス扉から外に転がり出た。
頭の上では、赤と黄色の看板が輝いている。
アメリカ人が世界中にチェーン店を建てているファーストフード店だった。
「カネはあるってゆってんだろぉー!」
実際、カネはあった。
インドでは象がカネになる。象で町中を行進して、寄ってきた客にエサを売りつける。
売りつけたエサはその場で象の口に入る。自分のとこの家畜にエサを与えさせてカネを
取るというのもおかしな話だけれど、インドでは昔からある商売だ。
インドでは象は神さまの遣いなので、いるだけでカネになる。
たとえ、地方の象村で処分寸前だったのを引き取ってきた年寄り象でもだ。
「ハンバーガーをちょーだいっていってんだよぉーっ!」
黒々としたヒゲを持つインド人は、返事もしないままマーズを突いたモップで床を磨いている。
「聞こえてんのか、聞こえてねーのか!」
マーズは2本の腕と4本の脚をじたばたさせた。
「おめェのその脚はなんだ。おめェみてェのは、店に入れらんね」
ガラス製のドア一枚隔てた向こうでは、スーツ姿のインド人たちがモーニングセットを
食べている。携帯電話を開いている者もいる。
ふつう、インドの飲食店といえば羽虫がぶんぶん飛んでいて、皿の上には虫の1匹2匹
もモゾモゾしているものだ。
薄っぺらな窓ガラス一枚隔てた向こうは、先進国のようだった。
●
観光客も寄りつかない、荒れ果てた寺院に戻る。
「マーズちゃん、マーズちゃん」
どこからともなく、シホミおばちゃんの穏やかな声が響いてくる。
「まだ1歳にもならないあなたが、なにをそう嘆いているの?」
「イミがわかんねーんだ。カネはあるのに、売らねーってゆーんだ」
「なにを買いに行ったの?」
「おれぁー味覚がねーし、そんなにハンバーガーが食いたかったわけじゃねーんだ。
オマケのオモチャが欲しかっただけなんだよー」
シホミおばちゃんがため息をついた。
「この国にはね、ファーストフードのお店にも入れないひとたちがいるのよ」
カースト制度のことなら、マーズのデータベースにも入っていた。
インドで根付いている身分制度だ。家柄だとか信仰だとかで決まっているらしい。
カーストは親から子に受け継がれ、下のカーストから上のカーストに移ることはまずない。
カーストごとに就ける職業就けない職業就かざるを得ない職業というものが決まっている。
結婚も同カースト内でしか行えない。
「でもカースト制度ってなぁー、1950年に憲法でキンシされてるはずじゃんよー」
「それがね、いまでも残っているのよ」
だんだん、マーズにも事情が飲み込めてきた。
「おばちゃんおばちゃん、町を歩いてっと、腕のない子や脚のない子が落っこちてるよね」
「あれは落ちてるんじゃないのよ」
「ありゃー、センソーでなくしたわけじゃーねーんだよね」
「そうね」
カーストにも組み込まれない人間というものがいる。そういう人間は人間扱いされない
ので、人間に雇ってはもらえない。たぶん、先進国のテレビに出ているペットタレントの
ほうがまだ上等な扱いを受けているだろう。
仕事に就けない人間が食べていくには、お恵みをもらうしかない。可愛そうな見た目
のほうがお恵みをもらえる確率が高い。だから、彼らは子供が生まれるとすぐに腕や脚
を切り落としてしまう。
マーズには脚が四本ある。頭部が重い上に身長が低いため、2本の脚では支えきれないのだ。
手足が足りないのも多すぎるのも、似たようなものだ。
マーズは、カースト外の子供だと思われたに違いない。
「おれぁーずっとフシギだったんだ。
どーしてあのコたちのオヤは、コドモの手足ちょん切る前に、
こんな国から出ていかねーの」
「彼らはヒンドゥー教のシステムの中で、かろうじて生きていけるからよ。
よその国に行っても、生きていける保証はないわ」
「ギャー! ギャー! ギャー!」
マーズは奇声を上げながら石床の上を転がりまわった。
「ダメじゃん! ダメじゃんダメじゃん!
そんなルールがあっちゃーダメじゃん!
おれぁーどーせこのとーりのスガタカタチさ。
ハナからまっとーに扱ってもらおーなんざー思っちゃいねー!
でもよ、カネはちげー!
カネはビョードーだ、カネは差別をしねー!
カネがありゃー、でっけー象さんだって買えるんだ!
象さんが買えるのに、ハンバーガーが買えねーなんて、そんなことはあっちゃなんねー!」
「マーズちゃん、マーズちゃん」
シホミおばちゃんの声は、なんだか悲しそうだった。
「おカネもまた、たくさんあるルールのひとつに過ぎないのよ」
「でも、イチバンぶっといルールでしょーが!
資本主義っちゅーくれーなんだから!」
「あなたのお祖父さんは、タカの目と呼ばれるとても誇り高い男性だったわ。
その誇りを悟るとき、あなたは機械として生まれながら、
もっともとタカの目に近い少年になれるのよ」
「泣き寝入りすることがホコリだってーなら、おれぁーそんなモンはいらねーや!」
マーズは両手でもって石床を叩いた。
「銭ズラ!
銭がありゃー、こんな国はオン出て、外国でいくらでもオモシロおかしく過ごせるじゃねーの!
コドモの手足ちょん切ってんじゃねーよ!
銭ズラ! なにをしてでも、銭を作るべきなんだ!
負けだ! マケイヌだ!
レンチューは銭に負けたんだ!
おれぁーイヤだ! 負けんなぁーヤだ!
戦う! 戦って、勝ってやらぁー!」
マーズは4本の脚で立ち上がった。
「銭のためなら、なんでもするズラ」
その日を限りに、マーズはインドから出た。
●
年月が流れた。
マーズは、そろそろ3歳になる。
インドの首都、ニューデリーに建っている高層ホテルの一室だった。
ニューヨークやトーキョーとは比べものにならないけれど、ニューデリーにもそれなり
の摩天楼がある。
キラキラと瞬く輝きを眺めて、マーズはにぃと微笑んだ。
「おれぁーこのとーり醜ぃーからよ。
キラキラしたモンがスキなんだ。
だから、この国はキライだよ。
いつだって、ハエとバフンとションベンと牛と野良犬とオッサンとオカマとオシロイ
とカレーの匂いばっかしだ。
見るのもイヤだ。寒気がする。
でもよ、だからテーキテキに帰ってくるんだ。
この国に受けた仕打ち、この国で受けたクツジョク、そーゆーもんを忘れねーためによ」
ふかふかのカーペットを四本の脚で踏みしめて振り返る。
ひとりがけのソファの上に、ネクタイを締めたインド人が座っていた。緊張しているの
か、浅黒い肌は汗でてらてらと光っている。
インド人が座っているテーブルの上には、キラキラと光るオモチャがずらりと並んでいた。
マーズ自慢の、聖闘士聖衣大系シリーズだ。造形が優れている聖闘士聖衣神話シリーズより、
ずっしりと重みのある聖闘士大系シリーズのほうが、マーズの好みだった。
「青銅製闘士、白銀聖闘士、黄金聖闘士。
最底辺の青銅にもなれねー暗黒聖闘士。
でもよ、このヒエラルキーはゼッタイじゃねーんだ。
星矢はさ、ぜってーあきらめねーんだ、くじけねーんだ。
どんなにおっかねー相手でも、何度でも立ち上がってキセキを起こすんだ。
だから、スーパーヒーローなんだよ。
牡羊座アリエスのシオンさんと天秤座ライブラの童虎サンも青銅から黄金にショーカクしたんだしさ。
神話の時代から守護星座が決まってるっちゅーのにショーカクなんざーあっていーのかとも思うけど、
クルマダ御大ミズカらがゆってんだからしょーがねーよ。
なんにでもレーガイはあるモンさ。
風魔の小次郎だって、アキラめずにがんばったから、仮面ライダークウガになれたろ?
世の中、そーじゃねーといけねーよ。
がんばる前に踏み潰すよーなシャカイはあっちゃいけねーよ」
マーズの話を聞いているのかいないのか、インド人はハンカチでしきりに額の汗を拭う。
「なーに、ビビるこたぁーなんもねーさ。
グローバル的に見ても、あんたのやるこたぁー人道的なんだ。
なに恥じるこたぁーねー、胸張って行こーや」
浅く、おずおずとインド人が頷いた。
「ひひひひひひ!」
「では、こちらにサインを」
柔らかそうな金色の巻き毛を持つ青年が静かに歩いてきて、インド人の前に書類を置いた。
インド人は震える手でサインをすると、逃げるように部屋から出て行った。
●
金髪に緑がかった瞳、白い肌と、きれいな顔をしているくせに、青年の食べ方はやた
らに汚らしかった。
カレー色のなにかをわしづかみにして、グチャグチャと音を立てて噛む。マンゴージ
ュースをひっつかんで一気にあおる。桜色をした唇の端からジュースがダラダラとこぼれていた。
「そりゃまー、晩餐会に出すわけじゃねーけどさ」
無理もない。仕立てのいいスーツを着ていかにもビジネスマン然とさせているけれど、
もともとは街をウロウロしていただけの若者だ。
「あんた見た目はキレーなんだからさ、インタビューのときゃー気を付けてよね。
既得利権の上にアグラかいてるオイボレどもをチェンジするとかブレイクスルーするとか、
先進国のお茶の間にいるオクさんがたに気に入られるよーなのを頼むよ。
おれぁーコドモで、このとーりの見た目だからね。
外に出てくわけにゃーいかねーんだ」
青年は盛大なゲップをしながらコップを置くと、ネクタイを締めながら顔を引き締めた。
「僕の母親は、昔大災害に巻き込まれてこの国に流れ着いた。
悪いことに、僕の母親は同性愛者だった」
「ふーん、レズだったの」
「ホモだ」
インドでは、法律で同性愛が禁止されている。
しかしインドにも同性愛者はいる。しかも大量にいる。彼らヒジュラと呼ばれ、カー
ストから除外される。
ヒジュラは本来半陰陽でなければならないはずだけれど、単に去勢しただけだったり、
去勢もしていなかったり、女装すらしていなかったり、神さまのお遣いであったり、病気
をまき散らす畏怖の対象であったり、要約するとカレー臭いオカマだ。
「おかーさんがヒジュラだったってんなら、キミはどっから生まれて来たの」
「さあ」
たぶん、拾われてきたのだろう。
現在のテクノロジーなら、同性同士のカップルでも子供を作ることはできる。マーズが
普段根城にしている町にも、たしかいた。しかし、それなりの料金を支払うよりもそのへ
んの道に落ちているストリートチルドレンを拾ってきた方がはるかに手っ取り早い。イン
ドのストリートチルドレン問題は深刻だ。
「おれぁー、あっちこっちの国とかコロニーに行ってきたよ。
華僑はユダンならねー、ナニワのアキンドはタチがわりー。
ユダヤ人にゃーぜってーケンカを売っちゃなんねー。
でもよ、イチバン信用なんねーなぁーインド商人だよ。
あいつら、納期が遅れよーが発注数間違えよーが、
前世から決まってただの神さまの思し召しだのわけのわかんねーこといーやがって。
話しゃわかっけど、インド人てメチャクチャ頭いーのよ?
頭いーのに、そのザマだよ?
カーストに守られて悠久の時を生き続けた結果がこのアリサマだよ」
「母は、この国で正統な扱いを受けられなかった。
僕はこの国に怒っている」
青年の涼しげな目元が、わずかに吊り上がる。
「おれぁーべつに、セカイジンルイがビョードーでなくっちゃいけねーたぁー考えてねーよ。
格差はいつだってあらぁー、なかったことなんかねーよ。
勝ったニンゲンは笑やぁーいー。
負けたニンゲンは踏みにじられりゃーいー。
でもよ、土俵にも上がれねーなぁーダメだ。
そんなのぁー自由競争のゲンソクから外れてる。
あっちゃいけねー、許しちゃいけねー」
東の空が、うっすらと明るくなり始めていた。
「食べるかい?」
金髪の青年がカレー色のなにかを差し出してくる。
「うんにゃ。
今日は味覚をくっつけてるけど、まだ使うときじゃねー。
出来たてのよ、ふかふかのハンバーガーを食うんだよー」
さっきサインをさせたインド人は、大手ファーストフードチェーンのインド子会社の社
長だった。もっとも、あと少しで社長ではなくなる。
あのときに追い出されたファーストフード店の株を、マーズは買い集めていた。
いまは深夜だ。証券取引所はまだ開いていない。しかし、時間外取引というものがある。
「敵対的TOBっていやぁーイメージ悪ぃーけど、ルールにゃー外れちゃいねーよ。
ダレにもモンクはゆわせねー」
人間の作ったルールには必ず抜け道がある。ルールを作る側がいつでも有利にことを
運べるようにするためだ。とかく、人間の社会はカネを持っている側に都合がよくでき
ている。
目覚まし時計が鳴り響く。
証券取引所が開いた。
とたんに、株価ボードに表示されている数字が異常な数値で上がり始めた。
「さー、買収タイムだ!」
マーズはオーディオのスイッチを入れた。
スピーカーから大音響の『ペガサス幻想』が流れ出す。
「株価が上がり始めたもんだから、そこらの木っ端投資家が売りにまわってんだ。
ひと株も漏らさねー、ゼンブ買い占めたらぁー!
市場を燃やせ! キセキを起こせ!
そーさ夢だきゃー、ダレも奪えねーココロのツバサなんだ!」
オンラインの向こう側で、相手の経営陣が慌てふためている姿が見える。
必死で浮動株の回収にまわっているようだけれど、遅い。マーズの情報処理能力は
人間を凌駕している。
「リフジンだろー?
でも、このリフジンさがニンゲンシャカイってもんさ。
おもしれーだろぉー、ジユーってなぁーっ!」
株価はかつてないスピードで上がり続けている。ストップ高になるのも時間の問題だろう。
「銭の塊ズラ!」
現在の資産なら、マーズはいくらでも高級なボディを買うことができる。でも、どん
なに完璧なボディを手に入れても、生きるべき社会が半端では意味がない。資本主義の
原則が通じる社会でなければ、マーズはどんな外見をしていても潰される。
「いくらトップがアメリカ人でも、従業員がインド人だからカーストから逃れらんねーんだ。
悠久の時を生き過ぎてる従業員は、ゼンイン追い出しちゃる!
銭ズラ!
銭がありゃー、いー。
ウマレが卑しかろーが、腕がなかろーが脚が多かろーが、
銭さえ出しゃーハンバーガーが買えるよーにしちゃる!
カースト制度はカネで潰せるってことを、悠久の時を生きるインド人に教えちゃる!
コドモの手足ちょん切る前に、銭を作るべきだってことを!」
売りに出された株を、片っ端から買い占める。
マーズの持株は、すでに全体の3分の2を突破していた。株式会社とは株主の持ち物だ。
今この瞬間、あのファーストフード店はマーズの持ち物となった。
「傷付いたままじゃいねーって、ハルカな銀河に誓ったんだよぉーっ!」
象のオモチャがオマケに付いてくるバリューセットでも売らせようかと考える。もちろ
んタダでくばるような真似はしない。相手が何者であろうと平等にカネを取る。それがマ
ーズの考える平等だった。
「ふふふ」
金髪の青年が涼しげな微笑みを漏らした。
「笑うなぁーまだ早ぇーよ。手を動かしな!」
「お前は、落ちろぉぉぉーっ!」
青年が突如豹変した。真っ白な歯を剥き出しにした、獰猛な表情になっている。
突然、株の値動きが止まった。ストップ高か。違う。少しずつ、下がっている。
「なにをしやーがった!」
株が、新規に発行されている。母数が変わってしまった。もう、マーズの持株は3分の2
ではない。
「ポイズンビルだ!」
敵対的買収者が一定の株式を取得した場合、新株を毒薬として発行する策だ。敵対的
TOBの予防策としては一般的なものだ。もちろんマーズも予測した上で買収を仕掛け
ている。新株が発行されるのなら、全部買ってしまえばいい。もともとポイズンビルとは、
買収にかかる労力を突然増やすことによって買収者のテンションを下げさせるという、
非常に精神的なものだ。あきらめさえしなければ、決して怖い毒ではない。
今回は異常だ。新株が発行された途端に買い付けられてしまった。奇襲を受けて即座に
できるようなことではない。
「バカがっ!」
下腹を蹴られて、マーズはソファから転がり落ちた。転がり落ちたところに、胴体を
踏みつけられる。
「のぼせあがってんじゃねえよ」
金髪の青年が擦過音混じりの発音で笑う。
「てめー、裏切ったのかっ!」
「誰がおめぇみてえなキモい4本脚のガキのいいなりになるかよ」
「おかーさんの無念を晴らすんじゃなかったのかよぉーっ!」
「お母さんだって?」
青年は憎々しげに舌打ちをした。
「ああ、息子よ!
君はなんて利発なんだ! 彼にも劣らない!
そうだ、君は彼になるんだ!」
ドアから長髪の男が飛び込んできて、わけのわからないことを喚いた。
「あんなだぞ? 恥だとは思っても親だなんて思ったことはねえ」
「ああ、息子よ! 君はなんて素直じゃないんだ! さあお母さんの胸に飛び込んでおいで!」
「うるせえ、ホモ親父」
背中にひたとくっついてくる父親を、金髪の青年は邪魔そうに突き飛ばした。
「そのヘンなホモが、あんたの後ろにいたのかよ」
「は? インドで育ったってのは嘘だけど、
このホモのオッサンが災害に巻き込まれた流れ者なのは本当だ。
会社買えるようなカネを持ってるわけねえだろ」
「じゃー、誰が」
「僕だよ」
ひょろりと背の高い男が部屋に入ってくる。
アルマーニに対する冒涜のような趣味の悪い緑色のスーツを着ている。黒々とした髪
をのっぺりとオールバックに撫で付けて、額の真ん中には縦長のホクロがあった。
ミツハル・イスルギ。利益のためなら異星人とでも取り引きをするイスルギ重工の御
曹司だった。
「いつだったか、君にポイズンビルを仕掛けられたことがあったね。
今回は逆ってわけだ。
ま、君のあきらめの悪さは知ってるからね。
ほかにも手を打っておいたよ。
メインの事業部は、もうほかの子会社に移してある。
君が大得意で買い占めてたのは、単なる資料倉庫管理会社の株だったってわけだ」
「スコーチド・アースなんざーやってねーで、おとなしくギャルゲーやってろよ、あんたは!」
「君こそ、大人しく『聖闘士星矢』読んでりゃあよかったのに」
ミツハルはどっかりとソファに座ると、マーズを見下した。
「なにかイタズラしてると思ったら、とんでもないことをしてくれるじゃないか。
君は国を滅ぼすつもりかい?」
「滅ぼすんじゃねー。カースト制度をぶっ潰してーだけだ」
「カースト制度なら、とっくの昔に滅んでるじゃないか。
西暦の1950年に憲法で禁止されてるの、知らないのかい?
憲法だよ、憲法!
平和憲法のある国が、戦争したことがあるかい?」
「法律で禁止されてたって、あるモンはあるんだからしょーがねーじゃねーか!」
「ないよ。文書として存在していないんなら、そんなものはないんだ。
仮にあるとしたら、インド人のほうが勝手に思い込んでるだけさ。
なんのことはない。
負けるべき人間が負けてるだけだ。まったく普通なことじゃないか」
「ふざけたこといってんじゃねーぞ!」
「それはこちらの台詞だよ」
ミツハル・イスルギは、ゲームショップをぶらついているときには決して見せない顔になった。
「現地の従業員を追い出すとか口走ってたね。
君は、どれだけの失業者を出すつもりなんだい」
「失業したんなら、また再就職すりゃーいーだけのハナシじゃねーの。
メンバーのピンチにキックしねーし絶叫マシンにも乗らねー、でも女性警官はぶっ飛ばす
イナガキメンバーだって仮面ライダーになれるんだ!
就職ぐれー、できねーはずがねーだろーがよ!」
「誰もが君のように身軽な身分じゃないんだよ。
子供が産まれたばっかりの従業員もいれば、年老いた親御さんのいる従業員もいるんだ。
そして、経営者には従業員を守る義務がある」
「ミツハルさんにゃーカンケーねーだろーがよ!」
「どこの軍事施設にだって、ファーストフード店はあるだろう?
僕と関係ないなんて、なんで考えられるのさ」
「ジャマをするんじゃねー!
いつだって、銭だきゃービョードーでなくっちゃいけねー!
この世に公正なモンがあるとしたら、そいつぁ銭でなくっちゃなんねー!
銭と戦わなくちゃーならねーんだ!
銭に勝たねーといけねーんだ!」
「ヤキがまわったんじゃないのかい?」
ミツハルは失望したような顔をしていた。
「君は、そんな理念を振りまわすような子供じゃなかったはずだ」
おい君、とミツハルは金髪の青年に声をかける。
「どうして僕の側についたのか、聞かせてやりたまえ」
「そっちの方が、たくさんカネをもらえるからだ」
「というわけだ」
ミツハルはのそりと椅子から起き上がると、マーズの顔を覗き込んだ。
「足りないんだよ。
社会にケンカを売るのに、君のカネは少なすぎた。
いっぱしのことを吠えたいんなら、
もっとカネを増やして出直してきたまえ」
反論の余地がない。
反論をすれば、マーズは自分の哲学を否定することになる。
「あー」
全身から急激に力が抜けていく。
「おれぁー、おれのルールん中で負けたんだ。
そんなら、なんもゆーこたーねーや」
「素直で結構」
ドアが開いて、黒服の男たちがぞろぞろと入ってくる。全員、おそろしく体格がいい。
「でも、ケジメはつけてもらうよ」
「ひひひひ。
そーやっておれをまっとーに扱ってくれるから、ミツハルさんのことスキだよ」
「情けはかけないよ。僕たちの哲学に反しているからね」
マーズは左右から腕をつかまれた。
●
マーズは海水から顔を上げて、コンクリートの壁にしがみついた。
壁をよじ登って、地上に出る。
マーズの胴体はヘソから下がなくなっていた。下半身は、6時間かけて千切られた。
アスファルトの上にごろりと転がる。
空になった左の眼下から海水がどぼどぼとこぼれ落ちた。
「ムチャクチャしやがる」
痛覚は最初から切ってある。ただ動きにくいだけだ。
右腕がマーズの意志を離れてじたばたと暴れ始めた。油で揚げられたときに神経系統
がいかれてしまったのだろう。ここまで保っただけで十分だ。右腕をパージして、海の
中に蹴りこんだ。生体部品は高いけれど、役にも立たないものをぶら下げていても仕方
がない。魚のエサにでもなったほうが有意義だ。
「ミツハルさんも案外あめーな。
おれをヘコませてーなら、まずこの舌を引っこ抜かねーと」
マーズは左腕一本でアスファルトの上を這い始めた。
潮に乗って、なんとかこの国まで帰り着くことができた。あとは事務所にさえ行けば
スペアのパーツがある。
上空から水滴が落ちてくる。雨だ。冷たい水滴が、容赦なくマーズの体力を奪ってい
く。傷口から剥き出しになったコード類がバチバチと火花を上げた。
「あー」
左腕が動かない。
面倒くさくなって、マーズは寝返りを打った。
星ひとつ無い、真っ暗な空が広がっている。
地球の空は、どうしてあんなに広いんだろう。そんなことを考える。
「生まれてこねーほーが、よかったのかもね」
ミツハル・イスルギに対する恨みはない。
マーズはカネで勝負をしようとした。そしてミツハルはカネで対抗した。以前にも似た
ようなことでやりあった。そのときはマーズが勝って、今度はミツハルが勝ったというだけだ。
「ほんとにヤキがまわったのかもね。
おれ、けっこーマンゾクしてらぁー」
21世紀初頭のニホンにも、既得利権にケンカを売ろうとした男がいた。
彼は、結局ケンカを売りすぎて潰された。
マーズも、似たような扱いを受けるだろう。
拝金主義者のバカな子供がバカなことをした。新聞はそう書くだろう。
しかし、インドには10億人もの人間がいるのだ。
記事を読んだ中に、体制にケンカを売れることを理解できる子供が何人かは出るかも
しれない。そのうち何人かは実際にケンカを売るかもしれない。半分以上は負けるだろう。
でも半分以下は勝つかもしれない。
「そーだ、そーでなくちゃーいけねーよ。
勝つんだ。戦って勝たにゃーなんねーんだ。
いつか、きっと勝てるから」
視界がぐらぐらと揺れる。もう、頭が動かない。
そろそろか。マーズは片方だけになった瞼を閉じた。
「マーズくん!」
悲鳴に似た声が飛んだ。
誰だろう。もう目が見えない。ふわふわと温かいなにかがマーズを持ち上げた。
そんなことはしなくていい。放っておいてくれ。
そうは思うけれど、口を動かす体力もない。
人間はズルいな。どうしてこんなに柔らかくて温かいんだろう。そう考えられるだけだ。
●
目が覚めると、ぷくぷくしたほっぺを持つ顔がマーズを覗き込んでいた。
「ゼラドちゃん」
「よかったぁ、目が覚めて」
ゼラド・バランガは大げさにため息をついた。
「いったい、どうしたの? メチャクチャじゃない」
「メチャクチャじゃねーよ。
ものすげーシンプルな勝負をして、負けただけ」
蛍光灯が黄色い明かりを放っている。
マーズは、畳に敷かれたタオルケットの上に寝かされていた。
身体が重い。容積はだいぶ減ったのに、重いというのもおかしなものだ。
畳に指を引っかけて、タオルケットから這いずり出す。
ゼラド・バランガは日系人でもないのに、どうして畳部屋のある家に住んでいるんだろう。
「マーズくん、まだ動いちゃダメだよ!」
「あー、タタミが傷んじゃったんなら、あとで新しいの入れっから」
「そういうこといってるんじゃないよ!」
「おれぁー、そーゆーことゆってるんだよ」
「あ、そうだ! ハンバーガー、ハンバーガー食べない!?」
マーズはのたりと振り返った。
「マーズくん、寝言でハンバーガーがどうこうっていってたから、食べたいのかなって思って。
お兄ちゃんが手作りしてくれたんだよ?」
「いらねー」
マーズはまた匍匐前進に戻った。
「美味しいんだよ!」
「そーだね、美味しーんだろーね。
でもね、違うんだよ。
おれが食いてーなぁーそーゆー、カネで買えねーハンバーガーじゃねー。
カネで買えなきゃダメなんだよ、カネで買えねーと」
ミツハルに負けたことで、マーズの資産額はだいぶ目減りしていた。
また、明日から稼がないといけない。
今度はもっとたくさんの軍資金を持って、またケンカを仕掛けよう。
次は負けない。負けられない。
一文の得にもならないかもしれない。それでもケンカをやめるわけにはいかない。
シホミおばちゃんは、誇り高くなればタカの目に近くなれるといっていた。
マーズには、まだ誇りというものの意味がまだよくわかっていない。
ただ、次は負けるもんかと思うだけだ。
最終更新:2009年10月17日 12:46