24代目スレ 2008/07/12(土)
なにがきっかけになったのかわからない。本当に唐突なことだった。
アーク・アルトリートは、自分の視界に
赤月咲美が映っていないことに気が付いた。
「あれ? 咲美は? 咲美はどこにいるんだ」
「アー・・・・・・見えな・・・・・・なっ・・・・・・のね・・・・・・」
レラ・ブルーが妙に嬉しそうな顔をして、小さな手をアークの頭の上に載せた。
「いや、ナデナデじゃなくてさ。咲美は?
あいつどこ行ったんだ? トイレかな。大便かな」
「いな・・・・・・のよ・・・・・・。咲・・・・・・」
いないのよ。レラ・ブルーがそういったように聞こえた。
聞き間違いに決まっている。アークはあっさりとそう判断した。
「なにいってるんだ? お前」
「だから、いないんですよ。赤月咲美は」
シュウヤ・シラカワがどこか安堵したような顔で言い切る。
「お前までなにいってるんだよ。おい、冗談にしてもタチが悪」
がしと、両の肩をつかまれた。思いのほか強くにだ。シュウヤの指がアークの肩にぎりぎり
と食い込む。「痛いじゃねえか」。抗議しようとする寸前、妙に真剣な表情を浮かべたシュウ
ヤの顔が眼前に近づいた。
「いいですか、気をしっかり持ってください。
二度と戻ってはいけません。しっかりと認識してください」
すぅと、シュウヤが息を吸い込むのがわかった。
「いないんです。赤月咲美は」
「お前、なにいってんだよ!」
「あのころあなたは、町の鼻つまみ者でした。誰ひとりとしてあなたに近づこうとはしなかっ
た。それで、寂しかったのでしょう。あなたは赤月咲美という架空の存在を作り上げた。いい
え、あなたは決してくるっていたわけではありません。完全な狂気に陥る一歩手前で踏みとど
まるため、赤月咲美を創造したのです。ときには母として、ときには姉として、ときには妹と
して、ときには恋人として、彼女はあなたを破滅から引き留めました」
「おい、いい加減に」
「なら、思い出してみてください。赤月咲美なる人物は、いつもどんな服を着ていましたか?
どんなものを食べていましたか? どんな口調で喋りましたか? どんな体型でしたか?
どんな顔でしたか?」
「そんなの」
簡単じゃねえか。当たり前にいえるはずの言葉が、口から出てこなかった。
赤月咲美は、アーク・アルトリートの従姉妹だった。本当の兄妹のように育った。留守がち
な両親に代わって、いつもアークの面倒を見てくれた。朝起きると、キッチンにはいつも咲美
がいて、みそ汁を作っていた。いや、違う。咲美は料理などできない。しかし、アークの記憶
にはたしかに咲美の作ったみそ汁をすすっている光景があった。いや、違う。あのみそ汁の味
は、ニボシからダシを取るやり方は、アーク本人のものだ。バカな。別のことを思い出そう。
アークがシャツに破れ目を作ったとき、咲美は「しょうがないわね」と苦笑しながら繕ってく
れた。いや、違う。咲美は裁縫などできなかった。それに、少し糸を余らせた繕い方は間違い
なくアーク本人のクセだ。咲美の胸は小ぶりだった。いや、違う。咲美はふくよかな体型だっ
た。咲美は穏やかな性格をしていた。いや、違う。咲美はなにかというとプロレス技を仕掛け
てくる乱暴者だった。名前は赤月咲美だ。いや、違う。秋月咲実だ。
矛盾と矛盾がぶつかり、アークの中でなにかがガラガラと崩れていく。そして、薄ぼんやり
としたモヤの向こうに、ありえるはずのない光景を見た。
誰もいない、放課後の教室だ。自分はなぜあんなところにいたのだろう。誰と話していたの
だろう。決まっている。咲美だ。「おい、咲美」。いつもそうやって話しかけていた。違う。
話しかけたその先には、ガランとした机と椅子があるだけだった。
「あ、ああ・・・・・・」
膝がガクガクと震えた。
「あなたをそうまで追い込んでしまったのは私たちでした。
だから、みんなで力を合わせました。
あなたは少しずつ快方に向かっていき、そしてようやく立ち戻ったのです」
シュウヤが穏やかな口調で告げる。
「アー・・・・・・」
そろそろと、レラ・ブルーがふたたびアークの頭に手を伸ばす。
「嘘だッ!」
びくと、レラが硬直する。
「嘘だッ! 嘘だッ! 嘘だぁッ!
俺は信じねえ、俺は認めねえ!
咲美がいないなんて、認められるかよッ! 耐えられるかよッ!」
アークは踵を返した。シュウヤたちに背中を向けた。
「咲美はいるんだ。いるんだよ。いないってんなら、いるようにしてやるッ!」
† † †
少し、長めの年月が経過した。
すでに地球人類の数は10兆を越え、宇宙のいたる所に移住していた。たくさんの戦争が起こ
り、たくさんの人間が死に、たくさんの恋が実り、たくさんの人間が生まれた。
人類の新たなる発展の一端を担った男は、人里離れた研究所の中にいた。
人工臓器の開発だとか、遺伝子操作技術の新理論構築だとか、生体細胞の培養技術の確立だ
とか、男にとってそんなことはどうでもよかった。少年の頃に見た、幻の少女を復活させる。
頭の中にあるのはそれだけだった。
そしていま、男の眼前にはひとりの少女が横たわっていた。その姿は、記憶の中にしか存在
しなかった赤月咲美と寸分変わらないものだった。
子供を作って、咲美と名付ければいいじゃない。そういってくれる女性もいた。男は耳を貸
さなかった。そんなニセモノに価値はない。
アーク・アルトリートにとって、記憶の中にいる赤月咲美以外に意味はなかった。
最後の調整液を少女に注射する。
これで、あと数十秒だ。男はときめきを抱えながら座した。
彼女が目覚めたら、なにをしよう。あの学校に行ってみようか。誰もいない教室で机の上に
座り、バカな話をしよう。彼女の関節技をひと通り食らったら、家に帰って、夕食にしよう。
そして、彼女の寝顔を眺めながら、「お帰り」といってあげよう。
「ん・・・・・・」
少女の顔に赤みが差し、長い眉毛がふるりと揺れた。
「あれ、ここ」
「お・・・・・・」
まともな言葉が出てこない。男はよろよろと立ち上がった。
「さ・・・・・・き・・・・・・」
「イヤッ!」
なにが起こったのかわからなかった。彼女はなぜ悲鳴を上げるのだろう。なぜ自分のことを
突き飛ばすのだろう。
「あなた誰っ!? 兄さんは? 兄さんはどこ!?」
ああ、そうか。男はようやく理解した。
あれから、もう1世紀近くが経っている。度重なる延命治療により、男の肉体は半ばサイボー
グ化していた。彼女の目に映っているのは高校生の少年などではない。老いさらばえ、鉛色の
目玉を持ち、脇腹に接続したチューブから栄養を補給している老人だ。
「イヤッ! こっちに来ないで! 家に戻して! 兄さんのところに、帰してよぉっ!」
不安と恐怖に顔を歪めて、少女は男に向かってぶんぶんと腕を振るう。それは完全な拒絶だった。
少女がベッドの上から降りた。脚の筋肉はまだ発達しきっていないはずだ。二、三歩も勧め
ずに、ばたんと倒れる。
「イヤッ! わたし、どうしちゃったの!?
兄さん! 兄さん! 兄さん!」
「落ち着くんじゃ、君」
男は少女の手首をつかんだ。
ヒッという小さな悲鳴が聞こえた。少女の目に、大粒の涙が浮かび上がる。
「外に出てはいかん。放射能にやられてしまうぞ」
「なにいってるの、あなた誰なのッ!?」
「数年前、大規模な戦争が起こった。核ミサイルがいくつも飛び、地球は死の惑星になった。
地球人類は死に絶え、生き残っているのはシェルターにもなっているこの研究所にいた、儂だ
けじゃ。シェルターの前に倒れていて、儂が治療した君を覗いてはな」
すべて嘘だった。エコロジー計画の成功により地球は自然破壊から立ち直りつつあるし、広
い宇宙に散らばった地球人類立ちは今日も億単位で増え続けている。
しかし、男には嘘をつく以外の選択肢がなかった。
「じゃ、兄さんは」
「残念ながら」
少女の目から涙がこぼれた。男は胸に痛みを覚えた。
「そして、儂ももうすぐ死ぬ。
悔いはない。やりたいことは、もうすべてやってしまった。
ただひとつ不安があるとしたら、ひとりで死ぬのは寂しいのではないかということじゃ」
男は立ち上がった。少女を不安がらせないように、ゆっくりと距離を取る。
「儂を、看取ってはくれないだろうか」
ためらいはなかった。男は深々と頭を下げた。
† † †
その三週間後、ひとりの老人が息を引き取った。老衰だった。
とても安らかなお顔でした。老人の最期を看取った少女はそう記録している。
老人がかつてなんという名前で呼ばれていたのか、知っている人間はどこにもいない。
最終更新:2009年10月17日 13:01