26代目スレ 2008/11/28(金)
◆◆
それは、大量の書類を書き上げて48時間ぶりの仮眠に入った夜のことだった。
突然ドシンと枕元が揺れて、俺はベッド代わりにしていたソファから転がり落ちた。
事務室の端っこだった。
タイトスカートにダークスーツ姿のレラ・ブルーがいつも通り冷めた目で俺のこと
を見下ろしている。
「・・・・・・」
起きろ、仕事だ。レラが簡潔に告げる。
相変わらず、レラは極端な小声で喋る。
学生時代からの知り合いでもなかったら聞き分けられないだろう。
俺はソファに手を着いてよろよろと起き上がった。腕時計を見ると、深夜3時だ。
「カンベンしてくれよ、俺、2日寝てないんだよ」
「・・・・・・」
顔洗って歯ぁ磨いてヒゲを剃ってこい。レラにはとりつく島もない。
「お前と組むってことは、現場はあそこか」
「・・・・・・」
レラが首肯する。
学校の卒業式でちょっぴりショックなことがあって以来、職にも就かずに一年近
くブラブラしていた俺が、けっこうな難関であるはずの公安警察に拾ってもらえた
のはレラの口利きのおかげだ。
ただし、俺は常にレラとコンビを組んでいるわけじゃない。いつもの相棒は、な
にかというと『バーベム財団の仕業だ!』と叫ぶムーリアンの男だ。
レラの相棒は、ちょっと見たことがない。
この小声で捜査官が務まるのかと思うけれど、これでけっこうなやり手らしい。
なんでなのかわからないけど、俺を引っこ抜く程度の権限は持ってるみたいだし。
俺とレラが組む任務といえば、現場は決まっている。俺たちの地元、つまり
OG町だ。
「気がすすまないな。正直、あんまり帰りたくないんだよ、あそこ」
「・・・・・・」
いいから地下の浴室使ってこい、少し臭うぞ。レラは低い鼻をつまむ。
「世話焼くなよ」
「・・・・・・」
だったらさっさと世話焼いてくれる嫁さんでももらえ。レラの舌鋒は容赦がない。
「うるさいな、お前はどうなんだよ。そろそろ、嫁き遅れっていわれるトシだぞ?」
タオルとセッケンを投げつけられた。
俺は
ヴィレアム・イェーガー。中途採用の下っ端公安捜査官だ。
◆◆
深夜の宇宙港、一般人は存在すら知らない発着場の片隅だ。
真っ黒に塗装された宇宙船の腹から階段が降りてきて、青い頭をした一団が現れる。
バルマーのバルシェムたちだった。お祭りの御神輿を担ぐような格好で、なんだか複雑
な装飾がされた板を運んでいる。板の上には、いかにも頑丈そうな鉄製の箱がうやうや
しく置かれていた。
ダイヤは、あれか。
俺たちの親の世代には戦争をしていたバルマーと地球だけど、現在では友好的な関係
を築いている。お互いの有効の証として、バルマー側からはズフィルード・クリスタル
の破片から削りだした地球のオブジェ、地球側からは500カラットの巨大ダイヤを送りあ
ったのが1年ほど前のことだ。
そして来週、地球とバルマーの友好何周年記念式典が催される場で例のクリスタルと
ダイヤが一般公開される予定になっている。
VIPたちに先駆けて運ばれてきたダイヤを護衛することが、俺たちの仕事だった。
「ようするにさ、いればいいだけの仕事だろ?」
ダイヤになにかあれば、地球政府のメンツに関わる。当然、警備は厳重を極めていた。
宇宙港のそこかしこで警官隊やら機動隊やら軍の特殊部隊やらが目を光らせている。公
安である俺たちが来ているのは、役人同士のパワーゲームというか体面というか義理と
いうか、そういうつまらない理由からだ。
「誰でもいいじゃないか。わざわざ俺を起こさなくったってさ」
「ヴィレアムではないか!」
聞き覚えのある声だった。
バルシェムたちの一団から離れて、小走りでこちらにやってくる男がいる。
制服の上からでも引き締まった体つきがよくわかる。長く伸ばした髪を、うしろで
一本にまとめていた。
「よう、久しぶり」
俺の横で、レラも軽く片手を上げて挨拶する。
「や、これはこれはレラ殿も」
キャクトラ・マクレディは膝を折り、小柄なレラと握手を交わした。この二人は、昔
から妙に仲がいい。兄妹のような感覚なんだと思う。
「ご苦労様だ、友よ」
キャクトラはニヤリと笑って俺の腕を小突く。
「よせよ、恥ずかしい」
友よ、か。
学生時代、俺たちは互いをそう呼び合っていた。いまとなっては気恥ずかしい限りだ。
「でも、意外だな。お前はてっきりルナと一緒に来るもんだと思ってたよ」
「ああ」
キャクトラの顔に、さっと薄いかげりがよぎる。
悪いことを訊いてしまったな、とそれでわかった。
「これでよいのだ。こうして、影ながら姫さまのために働くことができるのだからな」
キャクトラと、キャクトラが『姫さま』と呼ぶ相手の間になにが起こったのか。訊かな
い程度の分別は俺にもあった。歳を取ったっていうことだ。
「あっちのトラックに運び込めば終わりだろ?」
「ああ、トロニウム・バスター・キャノンの直撃にもびくともしない装甲だ」
「じゃあさ、終わったら飲み行かないか」
「ああ、いいな。やはりビールは地球産が一番美味い」
「・・・・・・」
「『ザギンでシースーでも行っとくか』ですか。
ははは、レラ殿もすっかり業界人でいらっしゃる」
「業界人じゃないぞ、俺たち」
こんな時間に開いている店があったっけ。俺が考え始めたときだった。
さっ、と視界に影が横切っていく。
こんな深夜に、鳥だろうか。それともコウモリかなにかか。頭上を見上げる。
夜空を煌々と照らす月に、一点の染みがあった。見る見るうちに大きくなって、三角
形の形状が明らかになる。なにか動力でも積んでるんだろうか。恐ろしいスピードで急
降下してくる。
「警戒っ!」
キャクトラが叫ぶ。
どこからか銃声が2、3発鳴り響いた。屋上あたりで待機していたスナイパーだろう。
ハングライダーは一分の揺れもなく落ちてくる。
あっという間にバルシェムたちが担ぐ神輿に覆いかぶさった。
真っ黒に塗られた羽根の影から、細い腕がにゅっと現れた。宝箱を取ろうとしている。
させるかっ!
俺はスーツの懐に手を突っ込んだ。小型の銃把をつかみ、引き抜くと同時に安全装置
を解除する。ワルサーPPK。型は古いが、中身は最新式に改造されたレプリカだ。
引き金を引き絞る。2発。
銃声と同時にハングライダーの羽根に穴があいた。
ハングライダーが姿勢を崩し、アスファルトの上に転がり落ちた。
「確保ーっ!」
俺は叫びながらハングライダーに突進した。
と、突然つんのめる。足になにかが絡みついたのだ。
転倒した俺は、なにか柔らかなものに顔から突っ込んだ。
レザー素材がぴったりと貼り付いた半球型がふたつ、重力にもくずれることなく目の
前にそびえ立っている。ハート型にくりぬかれた穴からは真っ白な肌が作る深い深い陰
影が覗いていた。
女だった。きゅっと絞まったウェストと瑞々しいバストが俺の下にある。ロンググロ
ーブにニーハイソックス、それにワンピースタイプのボディスーツと、全身をレザーで
締め付けている。
股下が何センチあるのか考えるのもバカバカしくなるほどのミニスカートからは、
目に痛いような白い布地が覗いていた。
コウモリのような形をした仮面は、顔の下半分が露出するデザインだった。
首筋にこぼれている銀色の髪を見て、俺は電撃に打たれたように凍り付いた。
「きゃあっ!」
突き飛ばされる。
「逃がすなッ!」
キャクトラの指示に無数の銃口が持ち上げられる。
女はしなやかな動きで立ち上がった。羽根に穴のあいたハングライダーをアスファル
トの上に置くと、上に飛び乗る。短すぎるスカートの裾が持ち上がり、真っ白な素肌と
ブラックのレザーとわずかな色合いを帯びた布地が眩いばかりのコントラストを作り上
げている。
あの組み合わせは卑怯だ。眼がチカチカする。
その卑怯な姿が、帯を引きながら消え去った。ハングライダーが火を吹き、高速で走
り出したのだ。わらわらと集まってくるバルシェムや機動隊を、あっという間に蹴散らしていく。
俺は、声も出すこともできない。
「・・・・・・」
怪盗シャドウゼラド。レラの呟きは聞かなかったことにした。
◆◆
見間違えるはずがない。あれはゼラドだった。
ゼラド・バランガ。ずっと俺の家の隣に住んでいた幼なじみで、俺の初恋だった女の子だ。
だった、ていうところでなんとなく察して欲しい。
たしか、ゼラドはいま私立探偵のようなことをしていたはずだ。場合によっては法に
触れることもある職業だ。でも、だからって、バルマーと地球の友好関係に関わるダイ
ヤを盗みだすなんてことがあるはずがない。俺の知っているゼラドが、そんなことをす
るはずがない。
あれが、ゼラドであってたまるか。
「・・・・・・」
マヌケ、とレラは容赦ない。
「・・・・・・」
いい歳して乳のひとつやふたつでうろたえるな恥ずかしい、だそうだ。
「そういうことは、乳のひとつやふたつ装備してからいえよ」
セクハラだぞ、とレラが睨む。
「・・・・・・」
だいたいダサいんだよ、いまどきPPKなんて。
呟きながらレラはごつごつしたデザインの銃を懐に収める。
「俺にいわせれば、お前のP99の方がはるかにあり得ないぞ」
「・・・・・・」
「P99だって、もうけっこう古いよ」
使ってるわたしが新品だ。レラはなだらかな胸を反らした。
「その歳で新品て言い張るのは問題あると思うよ」
セクハラだ、と尻を蹴られる。
「・・・・・・」
お前ゼラドの連絡先知ってるだろ、とレラは仕事中の顔になった。
「お前だって知ってるだろ」
レラはポケットからちらりと携帯電話を覗かせた。
以前聞いた番号は不通。近場の警官をアパートにまわしたけど、すでにもぬけの殻。
一応実家にも行かせるけど、たぶんいないだろう。
だそうだ。いつの間に連絡したんだろう。レラの仕事の速さは不気味だ。
「なあ、俺、降りちゃダメかなあ」
お前、まだ引きずってるんじゃないだろうな。レラは呆れ果てた顔をする。
「だってさあ」
失恋が怖いなら恋なんてするな。レラはしたり顔をする。
「大失恋でもしたことあるふうな物言いじゃないか」
「・・・・・・」
いいから、お前はさっさと嫁さんをもらえ。
今度は脳天にチョップを食らった。
◆◆
早朝だっていうのに、財務省には当然のようにひとがいた。
「で、なんだって?」
タカヤ・ナンブは目の下に浮かび上がった隈を隠そうともしない。
「だから、ダイヤ盗まれちゃったから、代わりの買ってくんないかな、なんて」
「何カラットだっけ?」
「500カラット」
「あはははは」
何日も寝ていないんだろう。タカヤの笑い声は少しキーが外れていた。
「地球にあといくつあるかわかんない宝物じゃないか」
「うん、そうなんだよ」
「あのさ、俺、公安に予算まわして使途不明金にされるくらいなら、
都内の幼稚園の設備を充実させてあげたいんだよ。
その方が国のためになるだろ?」
「うん、正しい。お前のいっていることはもの凄く正しい。でもさ、こっちも仕事だから」
保父になりたいとか農家になりたいとか地方公務員になりたいといっていたタカヤだっ
たけれど、記念受験のつもりで受けた国家公務員Ⅰ種試験に、なぜか合格してしまった。
官僚の方が給料がいい、なんて考えてしまったのが運の尽きだ。晴れて、いまのタカヤの
身分はザ・官僚、財務官僚というわけだ。
財務省の殺人的な忙しさは有名だ。毎年鬱病患者や自殺者が何人も出ている。
ある意味、タカヤは並の軍人よりも命を張っているといえる。
「なあ、レラも、なんかこう、カワイイ感じでおねだりしてみてくれよ」
レラの『返事』は簡潔だった。
テーブルの脚をガンと蹴飛ばして、たったひと言、『出せ』だ。
もちろん通訳なんてできるはずがない。
「公安だって、警察の端くれだろ。
犯人捕まえて、ダイヤ取り戻せばいいじゃないか」
「ま、そうなんだけどさ、カネ出して解決するならカネ使っておこうって、ウエがな」
「そんなこといってるから、国の借金がいつまで経ってもなくならないんだよ」
「ナンブくぅ~ん」
ドアが少し開いて、禿げ上がった頭がぴょこんと現れた。
「来客中だったかい?」
「ああ、いえ、学生時代の友人です」
つまり、財務官僚として俺たちの話を聞く気はないってことか。
「悪いんだけどさぁ、今夜、また付き合ってくれんかね」
「カンベンしてくださいよ、三日寝てないんですよ」
「じゃあさ、近くにホテル取ってあげるから、仮眠取ってそれから、ねえ?」
「申し訳ありませんけれど、今日は家に帰らないと。
作り置きしといた料理がなくなって、そろそろ姉さんたちがぶーたれてるころだし」
「ナンブくんさあ、いい加減家を出なよ。
よくないよ、いい歳した姉弟がいつまでも同居してるなんて。
甘やかしてると、お姉さんたちのためにもならないよ」
さすが、ハゲオヤジとはいえ財務官僚だ。
ハゲオヤジのくせに非の打ち所のない正論だった。
レラも大いに頷いている。
「タカヤさ、俺も思うんだけど、放っといたら放っといたでなんとでもなるよ、
あのお姉さんたちは」
「いや、でも」
「頼むよナンブくぅ~ん。君、先日の代打ちも見事だったじゃないか」
「あれは、仕方なくですね。俺はもともと賭け事っていうものが」
「最近見つけたカジノに面白いディーラーがいてね。
歳は、君とおなじくらいかな。
まだ若いんだけど、グンバツのパツキン美女でさ」
「なんですって」
ハゲオヤジの死語に、タカヤは苦虫を噛み潰したような顔をした。
◆◆
早朝の繁華街だ。ゲロとカラスが散らばる路地の奥に、その店はあった。
タカヤはずかずかと店の中に入っていくと、バンとテーブルを叩いた。
「君は、まだこんなことをしているのか!」
「あら、いらっしゃいまし」
レタス・シングウジは悪びれもしない。
シルクのシャツが光沢を放ち、ブラックのスリムパンツが小振りな尻を押し上げてい
た。赤い蝶ネクタイがモノトーンの装いに色彩を加えている。手の中で、トランプが
まるで生き物のようにうねうねと動いている。
「もう賭け事はやめるっていったじゃないか」
「普段は通訳をしておりますのよ。ここには、頼まれたときだけ」
「全然辞めてないじゃないか、あのときの約束はなんだったんだよ」
「あら」
レタスは真っ赤なルージュを塗った唇で微笑んだ。
「あの晩あったことに、なんの意味があったというのでして?」
「あ、いや、それは」
タカヤが突然しどろもどろになる。『あの晩』とやらに、いったいなにがあったんだ。
俺の横をすっと通り抜けて、レラがレタスに近づいていった。シルクに包まれた胸を
人差し指でつつくと、がっくりとうなだれる。
「は、なんだって? ドライマティーニ? やめろよ仕事中に」
「あらレラさん、ずいぶんお久しぶりですこと」
軽く会釈をするレタスの鼻先に、レラはついと警察手帳を突き出した。
俺たち公安警察は一般の警官のフリをすることがある。そういうときのために渡され
ている手帳だ。階級は巡査部長ってことになっている。
「あの、うちは非合法のことなどなにもしていなくてよ? あくまでも健全な」
「ああ、いいんだ。そういうんじゃない」
俺もちらりと警察手帳を出す。
レタスの顔色が少しだけ変わったのは、気付かなかったフリをした。
「最近、ゼラドを見なかったか?」
「ああ、はい、たしか、先週」
「本当か!」
あまり答えを期待していなかっただけに、俺は思わず身を乗り出した。
「ええ、会ったというか、見かけただけなんですけれども。
何人かの殿方と一緒にいらして、すぐにそちらの別室に」
「どういう男たちだった」
「特に怪しいふうではありませんでしたけれども。
どの方もずいぶん深刻そうな顔をなすっていて、
なにか重要な仕事の話ではないかと思いましたけれども」
「それから」
「店が混み始めましたので」
「そうか、ありがとう」
「あ、お待ちになって」
振り返ると、レタスは顔の前に一枚のカードをかざしていた。
「ハートのジャック、独り者に恋の予感と出ておりましてよ」
「なんだよ、俺を口説いてるんじゃないだろうな」
トランプを投げつけられた。
◆◆
昼下がりのビジネス街だ。俺たちが入った喫茶店はランチ中のOLで満員だった。
「ゴメンねえ、待たせちゃって」
五分遅れで到着した
レイナ・レシタールは俺の正面に座ると、空いた隣の席に重そう
なショルダーバッグをどすんと置いた。キャリアスーツをさっそうと着こなしていると
ころを見ると、仕事は順調なようだ。
「いや、悪かったな。急に呼び出して」
「なにかあったの?」
レラがひょいとテーブルの上に身を乗り出して、レイナの胸を指で突いた。すぐにど
っかりとソファに座り直すと、俺の皿からプチトマトを二つかっさらっていく。
「なんなの?」
「ああ、気にしないでくれ。再会の挨拶なんだと思う、たぶん」
「レラといるってことは、仕事なのよね?」
「ああ」
俺たちのことは、普通に刑事をやってるって話してある。
「与党の下っ端議員がセクキャバにはまってるっていう記事なら書いていいそうだ」
「書いちゃいけないことが起こったのね」
「お前、いつから事件記者になったんだよ」
レイナは早くもペンと手帳を構えていた。
女性誌の編集者だって聞いてるけど、やっぱり事件記者の方が向いてるんじゃないだろうか。
「最近、大規模な窃盗団とかテログループが動いてるって話はないか」
「さあ、あたし、事件記者じゃないしねえ」
「じゃ、ゼラドのことなんだけど」
レイナの、よく手入れされた眉がぴくりと動いた。どうしたんだろう。
「最近、ゼラドになにかなかったか?」
「さあねえ、そういえば、しばらく会ってないわね」
「カネに困ってるとか」
「そりゃあ困ってるでしょう。あの子、大食らいだし」
なんとなく横にいるレラを見た。極端な小食であるこいつは、さっき俺から持ってい
ったプチトマト二つで満腹になるらしい。
「最近引っ越したなんて話は」
「あら、そうだったの?」
どうやらなにも知らないらしい。
「済まなかったな、仕事中に」
俺は伝票を手に席を立とうとした。
「あ、ちょっと待って、ねえ、ヴィレアム、あんた」
心なしか、レイナは少しかしこまっているようだった。
「あんたってさ、いま、ひとりなの?」
「え、レラがいるけど、そこに」
そういうことじゃないだろう、とレラが太腿をつねってくる。
レイナは、呆れたような顔をしていた。
なんだっていうんだ。
◆◆
そろそろ日が傾きかけている。
電子音が漏れ聞こえるゲームセンターの外壁に寄りかかって、
マーズは「ひゃひゃひ
ゃ」とモノノケじみた笑い声をあげた。
かつて四本脚の子供型ロボットだったマーズは、オレンジ色のジャケットを羽織り、
二本の脚をダメージジーンズで包んでいた。二本脚にはなったものの自由に歩き回ること
はできないらしく、片手に太い金属製の杖を握っている。背丈はもう俺とほとんど変わら
ない。薄茶色い髪の毛を長く伸ばし、胸元では何重ものシルバーアクセサリをじゃらじゃ
らさせていた。
元々チンピラじみたやつだったけど、こうなるともう完全なチンピラだ。
「何カラットだって?」
「500カラットだ」
「あー、見っかんない見っかんない。
そんなアシが付きそーなもん、闇ルートにだってホイホイ流れるもんか。
ヨソの星に持ってっちまうか、何年間か寝かされんよ」
マーズは興味がなさそうにダイヤの写真を俺に返した。
商売ロボのマーズはアンダーグラウンド事情に詳しい。
そのマーズでも知らないとなると、捜査は完全に行き詰まったことになる。
「あ、ロボくん、こんなところに」
作業着姿の女の子がぱたぱたと駆け寄ってくる。
一瞬、誰なのかわからなかった。
ラーナ・モントーヤだ。チビでやせっぽちだった女子中学生が、すらりと背丈を伸ば
している。短く切った髪の毛と凛々しさすら感じさせる目元は、女らしいっていうより
タカラヅカの男役みたいだった。
「ダメじゃないですか、また二本脚で歩きまわって」
「いいじゃねーの。おれの脚だよ」
「二本脚になったり三本脚になったり四本脚になったり八本脚になったりしてると、
システムが混乱しちゃいますよ」
「おてんとさまが出てるうちから、三本脚とかゆーのはよそーよ」
「人前で、無理して二本脚になることないじゃないですか」
マーズはぷいとそっぽを向く。
「だーって、二本脚のほーが女の子ウケいーんだもん」
「そんなこという悪い子はこうです」
「ひゃうんっ」
ラーナに腰のあたりをいじられるや、マーズはたちまち情けない声をあげてへたりこんだ。
「ずりーよずりーよ、快楽中枢いじんのは反則だよ」
「そこはお互い様ということでいいじゃないですか」
「そーゆーことをゆってるとホントにだねー!」
レラがてぽてぽと歩み出して、自分よりわずかに背が高くなったラーナを見上げた。
手を伸ばしてぽんぽんと胸元を叩くと、ガッと力強くガッツポーズを取る。
作業着から覗くタンクトップの胸元は、相変わらずのぺったんこだった。
「ロボくんロボくん、なんとかいってあげてくださいよ」
「えーと、ぺちゃぱい」
ガンッとスパナで殴られてマーズの頭から火花が散った。
「あ、ええと?」
俺を見て、ラーナは小さく首を傾げた。
「ああ、わからないか?」
俺は手の平で顔の半分を隠した。いまでこそ髪を短くしいる俺だけど、学生時代は顔
が半分隠れるほど前髪を伸ばしていた。
「ああ、誰かと思いました」
「君もずいぶん大きくなったな、一瞬わからなかった」
「なんかおじさんぽいです、その発言」
ちょっとだけ傷付いた。
「なにか御用ですか?」
「ああ、大したことじゃないんだけど、こういうの見かけなかったかな」
ダイヤの写真を渡しても、ラーナはなんの反応も見せなかった。
「さあ、知らないです」
「見かけたら連絡くれ、それじゃ」
「あ、でも、こういうのに詳しいひとだったら知っていますけれども」
◆◆
一週間後に開催を控えるバルマー地球有効記念式典の会場だった。
ダイヤが盗まれたことは報道されていないから、一般の作業員たちはなんの疑問もな
く作業を進行させている。
式典本番にはVIPたちが立つことになる雛段は、いまは分厚い幌で囲まれていた。
幌をめくって中にはいると、ペンキの臭いが鼻を突いた。
件の人物は、脚立の上で巨大なハケを一心不乱に振りまわしていた。
「おーい」
声をかけても反応がない。
レラがとことこと歩いていって、脚立をガンと蹴りつけた。
「ん? ああ」
ようやくこちらに気付いたらしい。
ミズル・グレーデンは脚立の上で大きくのけ反っ
た。頭に巻いていたタオルが外れて、赤茶けた色の髪の毛がばさと広がる。
「ええと、どちらさま?」
「覚えてないのか? ほら、ヴィレアム・イェーガーだよ」
ミズルは白昼夢を見ているような目をトロリと動かした。
「ああ、前髪さん」
「ちょっと降りてきてくれないか、訊きたいことがあるんだ」
俺はよく知らないけれど、ミズル・グレーデンは年若ながら割と有名なウォールアー
ティストであるらしい。今日も、記念式典を飾る壁画を描いている作業の途中だ。俺に
はペンキをヤケクソに叩きつけたようにしか見えないけれど、本人にいわせれば一筆一
筆に平和だとか安全だとか友好なんかのメッセージが込められているんだろう。
アーティストという人種の常か、ミズルはどこかつかみどころがない。ペンキだらけ
の作業着を気にする素振りも見せずにひょこひょこと歩いてくる。
「なに、いまちょっと、ぎゅんぎゅんしてるところだったんだけど」
「見て欲しいものがあるんだけど」
俺はダイヤの写真をミズルに渡した。
「へえ、あはは、凄いね。最近は縁日の屋台でこういうの売ってるんだ」
「いや、それ、オモチャじゃなくてな」
「ニセモノでしょ?」
「そりゃ、500カラットのダイヤなんて信じられないかもしれないけど」
「あははは」
ミズルはあっけらかんと笑う。
「前髪さん冗談ヘタなんだから、つまんないこといわないほうがいいよ」
「いやいや、冗談事じゃなくて」
「だってこれ、職人のソウルが感じられないよ」
「ソウルとかそういう」
「そりゃ、ぱっと見はダイヤだけど、カットがほにゃ~っとしてるし、
ピカピカも色がキツすぎて目に痛いよ。
台なんかもう、ガッタガタだもん」
擬音だらけの説明に、俺は呆然とした。
「え、じゃあこれ」
「うん、バレバレの人造ダイヤ」
つまらないものを見た、というようにミズルが写真を突っ返してくる。
◆◆
いつの間にか夜になっていた。
俺とレラはマンションのドアの前に立っていた。
インターフォンを鳴らす寸前、とっさに身体が動いた。
気配がある。
「誰だ、出てこい」
曲がり角の奥から、のそりと人影が現れた。
「がっかりだぜ、まさかお前が、こんなことするなんて」
「ミナト、お前、ミナトなのか?」
ミナト・カノウは、なぜか敵意のこもった目で俺を睨みつけた。
「ヴィレアム! いくら友達だったっつっても、
ストーカーまで墜ちたってんなら容赦しねえぜ!」
「待てよ、俺たち、友達だったか!?」
「もうぜってぇ許さねえっ!」
ミナトが身構える。まずい。あいつはキモいぐらい強烈なアイドルオタクだけど、な
ぜかキモいぐらいのカラテの猛者でもあるんだ。
「ああ、やかましいな、なにごとだ」
がちゃりとドアが開く。現れたのは長身で猫背の男だった。くすんだ銀髪の下に
は無精ヒゲが散らばっている。
「あぁぁぁっ、おまえぇぇっ!」
「なんだ、カノウ兄弟の、進研ゼミの勧誘マンガをすべて保管してるほうではないか」
「いいだろ、面白いんだから!」
ミナトに胸ぐらをつかまれてガクガク揺らされているのは、間違いなく
ハザリア・カイツだった。
「最近スラグダ・ミーアちゃんにつきまとってるストーカーってのはお前かぁっ!」
「アホなことをいうな。どこの世界に部屋に招き入れられるストーカーがおるか」
「なに招き入れられてんだよっ!?」
「新人が演技指導をして欲しいというので、ノコノコ来た」
「ノコノコ来てんじゃねえよ、演技指導だけで終わるわけねえだろ!」
「案ずることはなにもない。俺はモリモトレオより無害だ」
「安心できる材料がひとつもねえっ!」
「ミナト?」
言い争う二人の奥から、女の声が聞こえた。
一瞬、金縛りにあったようになった。ものすごい美人だ。昔スポーツでもやっていた
のか引き締まった体つきに、健康的な色の肌をしている。ミナトが騒ぐのも無理はない。
さらさらとした黒髪は、いかにも清純派アイドルといった趣だった。
「なんだ貴様、こやつと知り合いなのか?
いかんぞ、これから売り出そうという人間が」
「え、ちょっと待ってハザリア、まさか気付いてないの?
あたしよ、あたし」
自分の鼻先を指差す美人を前に、ハザリアは眉をひそめた。
しばらくそうやってから、突然びたんとドアに貼り付く。
「貴様、ダグラスかっ!?」
「同級生でもなかったら部屋に上げたりなんかしないよ」
「同級生でも上げちゃダメだろッ!」
ミナトが騒ぐ。
「なんか懐かしくて、つい」
「なんだかタメ口で無礼な新人だと思っておったら!」
「ちょっと待てちょっと待て、なにかおかしい。根本的なところがおかしい」
俺は騒ぎの中に割って入った。
「ここ、ミツハルさんのマンションだろ?」
チーンと音がした。
エレベータの自動扉から、スーパーの袋を抱えた
ミツハル・イスルギさんが現れた。
◆◆
まだ入居して間もないのだろうか、白いカーペットとベッド以外はなにもない部屋だった。
「うん、まあ、名義は僕だよ。
女の子の名前だと、なにかと物騒だからね。ストーカーが来たり」
カーペットの上に缶ビールを直置きして、ミツハルさんはじろとミナトを見た。
「違ぇよ、ストーカーじゃねえよ、
ミーアちゃんにストーカーがつきまとってるって噂聞いて!」
「ここの住所、なんで知ってるの」
「それは、まあ、ブン屋の情報網っていうか」
「なにいってるんだい、風俗ライターのくせに」
「誰が風俗ライターだよ! たしかに風俗レポも依頼されるけど、そっち本業じゃねえよ!」
「『全国ハコヘル紀行』、楽しく読ませてもらってるよ」
「読んでてくれてたのかよ、ありがとうございますだよ!」
ミナトはいま、サブカル誌を中心に活躍するフリーライターなんだそうだ。
仕事の内容は多岐にわたっているらしい。
「でも、アイミがアイドルなあ」
俺は一度口を着けただけの缶ビールを置いて呟いた。
横ではレラがちびちびとブランデーを舐めている。こいつは食事量が少ないくせに酒
は妙に強いから、まあ酔っぱらうことはないだろう。
「だいたいさ、気付こうよ。
アイミ・ダグラスちゃんひっくり返してスラグダ・ミーアちゃんくらいさ」
「スラグダ・ミイアなら、気付いておったのだろうが」
「負け惜しみいうんじゃないよ」
「髪の色が違うではないか!」
「だって、黒髪のほうがバカなオタク釣れるんだもん」
「プロフィールには19歳とあったぞ!」
「そのぐらいのサバ読みで騒いで欲しくないね」
ミツハルさんはクスクス笑う。
このひとは、まあ簡単にいえばカネ持ちのボンボンだ。飲食業だの芸能事業だの、い
ろんなことをしている。
「陸上辞めて、どうしようかなって思ってたところにミツハルさんに声かけられて」
ハザリアたちがわからなかったのも無理はない。
かつてのスポーツ少女がこうなるなんて、誰にも想像つかないだろう。
「うわぁ、でも、俺、どうしよう。
身内だってわかったら、なんかアイドルとして見れねえよ」
こいつバカなんじゃね、とレラがコメントする。
「そんな、身内だなんて」
アイミはなぜか赤面してモジモジし始める。
こいつらバカなんじゃね。まったくもってレラのいうとおりだった。
「てっきり枕営業をかまされると思ってノコノコ来てしまった俺の立場はどうなるのだ!」
「風俗にでも行ったらいいんじゃないかい?」
「あ、俺クーポン持ってるぞ」
「ほう、どこのだ」
こいつら最低だな。レラが吐き捨てる。
「雇われ監督のくせに商品に手ぇ着けようとするんじゃないよ」
「しかし、俺はグラマーインパクトのところを追い出されて、帰るところがないのだ」
「あ、それは大変ね」
「仏心出しちゃダメだよアイミちゃん!
君、ずっとスポーツの世界にいて、少し世間知らずなんだから!」
「こいつは容赦なくひとんちに居座るヤツだぞ!」
「お前、寮はどうしたんだよ」
「あんなところ、とっくの昔に後輩たちでいっぱいだ」
「マリに頭下げて来ればいいじゃないか」
「なぜ俺が折れねばならんのだ! 向こうが許しを請うのが筋だろう!」
どうやら、なにかこじれているらしい。
「それで、君らはどうしたんだい」
ミツハルさんがサキイカを加えながら俺に缶ビールを向けてくる。
「ああ、これなんですけど」
ダイヤの写真を見せたとたん、ミツハルさんの様子が変わった。口を尖らせてフーフ
ーと息をし始める。
「それ、口笛吹いてるつもりじゃないでしょうね。吹けてませんよ」
「それが、どうしたっていうんだい?」
「一年前にこれを地球政府に下ろしたのは、御社ですよね」
「ん~、どうだったかなあ」
「御社ですよね」
「うん」
「これがですね、ニセモノなんじゃないかっていう鑑定が出てるんですけど」
「ん~、ちょっと、僕は末端のことまで把握しているわけじゃ」
「ニセモノですよね」
「ああそうだよニセモノだよ!」
「なに逆ギレしてるんですか」
「元はといえば政府が急な話でキッツい納期突き付けてくるからじゃないか!
こっちだってね、頑張ったんだよ、でも完成まで、
ちょっとだけ間に合わなかったんだよ!」
「それで、間に合わせにニセモノですか。
なに考えてるんですか、国際問題になりますよ」
「べつにいいじゃないか、一年間も誰も気付かなかったんだからさ。
どうせ、蔵の中にでもしまいこんでたんだろ?
宝石っていうものは、ひとの目に触れて初めて輝くものじゃないか、ねえアイミちゃん」
「ええと、その」
「誤魔化さないでください」
「ああ、はいはい、悪うございました。
こっちだってね、後ろめたさはあったんだよ。
だから記念式典の前に、ちょちょいって取り替えてもらおうと」
「ゼラドを雇ったのもあなたですか!」
「責められる筋合いはないよ。あの子、おカネなくてお腹空かしてたから、
仕事をまわしてあげたんだよ」
「ゼラドにアホなコスプレさせたのもあなたですか!」
「え、それは知らないよ。彼女が勝手にやったんじゃないかい?」
ああいうコスプレできるのも、そろそろ限界だからな。レラがしみじみと呟く。
「こっちだって困ってるんだよ。
ぴゃっと行ってぴゃっと取り替えてくるだけだったのに、
いきなり銃ぶっぱなす危ないおまわりさんがいたっていうから」
「あの場合しょうがないじゃないですか!」
「おや、撃ったのって、君かい。へえ、彼女をねえ」
「責任転嫁をしないでください!」
「君ら、いま公安だろう? 本物渡すから、ちょいちょいっと返してきてよ」
「そんな簡単にいきませんよ。
強奪事件のせいで、いま会場の警備は厳重を極めてるんですよ」
ちょいちょいと、レラが俺の袖を引っ張った。
それなら、こっちで警備の隙を作ってやればいいんじゃないのか? という提案だった。
◆◆
まさか、またこのメイクをする羽目になるとは思わなかった。
俺は緑色のカツラを頭に載せた。
「いまでも、折を見て弾いているのだ」
キャクトラはベースを抱えてニコニコしている。
「そちらの腕は錆び付いていないだろうな」
「錆び付いてるに決まってるだろ。もう、指動くかどうかわかんないよ」
「・・・・・・」
ダダダッとレラがドラムスティックでコンクリートを叩く。
「わかってる。復活ライブと行こうか」
「・・・・・・」
「『いつ解散してたんだよ』とレラ殿が指摘なすっている」
「それもそうか、じゃ、単なる久しぶりのライブだな」
「ゲリラなのは、いつものことだったな」
学生時代、俺はこいつらとバンドを組んでいた。
俺がギターとボーカルで、キャクトラがベースで、レラがドラムだった。
あのころ、楽器とマイクさえあれば俺たちは無敵だった。
SOUSHITSUせよ! SOUSHITSUせよ! SOUSHITSUせよ!
シャウトしながら飛び出す。
本来ならダイヤが飾られているはずの式典会場だ。
大量に詰めていた警官や軍人たちがいっせいにこちらを向く。
首筋がチリチリする。360度あらゆる方向から拳銃やライフルで狙われていることがわかる。
いまこの瞬間にも射殺されるかもしれない。
いまさらやめるわけにもいかない。
俺はギターにピックを叩きつけた。
――ワカメの前にひれ伏せゲーマルクども
――お前のファンネルを突き出しな
周囲がざわめいている。あのころよりもリアクションが薄い。
昔の自分への敵愾心が芽生えてくる。負けるもんか。
――指輪も見切りも収束攻撃もいらねえ!
――天才も底力もSP回復もいらねえ!
あれ、
ODEじゃないか。
ヴィレカイザーさんだ!
解散したんじゃなかったのか?
バカヤロー、誰が解散宣言なんか聞いてたんだよ。
キャク様もレミュさんもいてるやないのぉーっ!
あれは帰ってきたヴィレカイザーさんだぁーっ!
いいえ、あえて、ご降臨なされたというべきですわぁーっ!
――切り払い技能さえあればいい! 切り払い技能さえあればいい!
――切り払い技能さえあればいい! 切り払い技能さえあればいい!
銃器がばたばたと床に落ちていく。
会場にいる誰もがワカメロイックサインをして激しいヘッドバンギングを始めている。
まだだ、俺たちのワカメタルは、こんなものじゃない!
――雌株はミドリだーっ!
ワカメロリックサインの波をかきわけて、真っ黒に塗装されたバイクが現れる。
巨大な車体にもかかわらず、大理石の床の上を恐るべきスピードで突進してくる。
乗っているのはレザーで全身を締め付けたゼラドだった。
俺はピックを投げ捨てて素手でギターをかき鳴らす。
ゼラドが来る。
俺は頭を激しく振りまわした。
すれ違う瞬間、ふっと柔らかな吐息が頬にかかった。
――ありがと。
かするようなささやきは、すぐに遠ざかっていってしまう。
なんだ、俺たち、まだ無敵なんじゃないか。
◆◆
無人のサウナ室で、俺はタオルを顔にかぶせて寝転がっていた。
72時間ぶりの安息だ。
まだ、指がびりびりと痺れている。しかし心地いい疲れだ。
ガチャリと音がしてドアが開く。入ってきたのは
カル・ノールバックだった。
「悪かったな、閉店時間過ぎてるのに」
「構いませんよ。掃除するついでですから」
お菓子作りが得意だったカルは、いまなぜかサウナ店の雇われ店長をしている。
なんでも、バイトしてたら社長に気に入られたらしい。
「そういえば、聞きましたか」
「なんかあったのか」
「バルマー地球友好記念式典が予定されている会場にヴィレカイザーが現れて、
それまでなにもなかったショーケースに500カラットのダイヤが出現していたそうです」
「へえ、あのダイヤ、盗まれでもしてたのかな」
「バルマー側の演出なんじゃないかと、女子アナがいっていましたが」
「女子アナがいうなら、そうなんじゃないのか」
「案外、ヴィレカイザーの正体はバルマーの人間なのかもしれませんね」
3分の1は当たってるよ、俺は心の中で答えた。
胸の中には、奇妙な敗北感があった。
ヴィレカイザーは、学生時代の俺が作ったものだ。
俺は、あのころより弱くなっているのかも知れない。
「レラさんから伝言です。交通費申請などの書類を明日までに仕上げておけと」
「なんだよ、あいつ帰っちゃったのかよ。俺に仕事押しつけて」
「ええ、先ほど旦那さんがクルマで迎えに来られて」
「えっ、ちょっと待て、あいつ、結婚してたのか?」
「あれ、知らなかったんですか?」
「なんなんだよ、あいつはほんとに」
「それで、そちらは?」
「え、なにが」
「結婚の予定など」
俺は顔にかけたタオルの位置を直した。
「ま、いいや。俺、いまでもけっこう幸せだから」
俺は脚を組み直した。
そういえば俺、いま全裸だけど、まあいいか。
最終更新:2009年10月17日 13:02