野良タイムダイバーを拾った


29代目スレ 2009/08/18(火)

 1
 フラッシュの光がいくつも飛び、レフ板に反射する。
 こういう眩しさに目をつむらなくなったのは、いつからだろうか。

「はい、おつかれちゃーん!」

 現場監督だかプロデューサーだか、よくわからない肩書きの男が無闇矢鱈に明るい声を
出す。ユウカは「ども」と小さく挨拶をしてステージを降りた。
 ユウカは、褐色の肌によく映える白のビキニ姿だった。胸元や腰にあしらわれたゴールド
のチェーンが、肌と筋肉と脂肪が作る陰影をより強調している。ロンドン時代に入れた上腕の
タトゥーは、いまの事務所と契約したときに除去手術を施されて跡形もない。
 ユウカの記憶が確かなら、スカウトをされたのはライブハウスだったはずだ。契約書にも
ミュージシャン云々と書かれていた。ところが、入ってくる仕事といえばグラビアの撮影ばかりだ。

「ついに表紙デビューだねえ。いや、君は伸びるよ」

 いったい、伸びた先になにがあるというのだろう。ステージの上には、ぐっしょりと
濡れてやけに肌に貼り付くティーシャツが、撮影中に脱ぎ捨てたときのまま転がっている。
 更衣室とも呼べない衝立の中で着替えを済ます。「お疲れです」と申し訳程度の挨拶を
して、スタジオを出て行こうとした。

「あれ、ユウカちゃん、そういうコスプレの趣味、あったっけ?」

 目を丸くするプロデューサーに、ユウカはこっそり顔をしかめた。あの顔は、またなにか
ろくでもない企画を考えているに違いない。

「今日は、ガッコから直だったんで」
「ああ」とプロデューサーが呟く。

 ユウカ・ジェグナン。19歳。女子高生。すでに卒業してしまった元同級生からは、
「あんたの制服姿はもはや商売の匂いしかしない」といわれている。そして、このまま
では遠からず履歴書の職業欄に「グラビアアイドル」と書く羽目になりそうだ。

 2
 もともと、学校という空間が苦手だった。出席日数が足りなくて留年が確定したときは、
退学という選択をするのになんの抵抗もなかった。実際に退学しなかったのは、単に申請
するのが面倒だったからだ。
 不思議なもので、いざ留年してみると、あれほど根深かった欠席癖がぴたりと止まった。
ここ最近、ユウカは仕事に支障が出ない限り休むことなく登校していた。
 明日は朝イチで物理の小テストがある。眠る前に軽く教科書でも眺めておこうか。そんな
ことを考えながら、ユウカはこの春からひとり暮らしを始めたマンションの階段を上がって行った。
 自分の部屋に近づいたところで、ぴたと足を止める。
 ドアの前で、うずくまっている人影が見える。
 息を潜ませて、身構える。グラビアの仕事を始めたばかりのころ、わけのわからない
ストーカーモドキが待ち伏せしていてわけのわからないことをまくし立てられたことがあった。
 ブーツの靴底で足音を立てないように、慎重に近づいていく。
「あれ」
 わずかに首をもたげた相手の顔を見て、ユウカは肩の力を抜いた。
「なにやってんの、あんた」
 イングレッタ・バディムはなにも応えず、ドアにもたれかかっていた。

 3
「入れば」と声をかけても、イングレッタは指一本動かそうとしなかった。このままでは
ドアを開くことも出来ない。仕方なく、イングレッタの脇の下に腕を差し込んで無理矢理
立たせた。
 イングレッタは抵抗もしない。細く引き締まった腕が、だらりと垂れ下がる。
 怪我でもしているのかと思ったが、見たところ着衣に乱れはない。青みがかった髪の下で、
やはり青色をした瞳がとろんと無気力に濁っていた。
 バスルームに引きずっていって、バスタブの中に放り込む。バルブをひねって温度調節も
していない湯を頭の上からかけても、イングレッタはぴくりとも動かない。
 ユウカは手早く服を脱ぐと、自分もバスタブの中に入った。イングレッタからジャケット
とブーツを剥ぎ取って、ユニットバスの便器の横に投げ捨てる。あとは、身体にぴったりと
貼り付くレオタードのようなアンダーウェアだけだ。
「これ、どうやって脱がすの」
 イングレッタは言葉を発さず、かくんと頭を前に倒した。背中にジッパーが見える。
脱がせ、とでもいうのか。
 ユウカは嘆息しながらアンダーウェアを剥ぎ取った。小振りだが弾力のある乳房が
ぷるんと揺れる。
 全裸にされても、イングレッタは相変わらず全身を虚脱させていた。ユウカの乳房や
腹を背もたれかなにかとでも勘違いしているのか、遠慮なくもたれかかってくる。
 ダウナー系のドラッグでも決めているのかと思ったが、腕を見る限り注射跡はない。
湯温を調整しながら腹や腿も確認するが、細かい古傷が無数にあるだけだった。
「例のダークスーツ着たジェントルマンは?」
 イングレッタの瞳が、とろりとわずかに動く。

「もう、いない」
「殺されたの?」
「いなくなっただけ」
「じゃあ、あんた、タイムダイバーの仕事はどうするの」
「もう、おしまい」

 発言の意味がわからず、ユウカはイングレッタの顔を覗き込んだ。
「もう、タイムダイバーじゃないの」

 湯は、もうふたりの肩を覆うほどに溜まっていた。
 ユウカはシャンプーのボトルをつかんで、青い髪に向けて傾けた。

 4
 実際のところイングレッタが何者なのか、ユウカはほとんど知らない。年齢も、どこに
住んでいるのかも知らない。ふらりと現れて、ふらりと消えていく。旅する野良猫のよう
なものだと認識している。
 本人によると、イングレッタはタイムダイバーというもので、真っ黒な機動兵器に乗って
並行世界を脅かす敵と戦うことが使命だったらしい。
 タイムダイバーというものが具体的にどんな雇用形態で、どんな業務をこなすのかユウカ
は知らない。今さら、知ったとしても意味のないことだ。タイムダイバーの仕事は終わったと、
イングレッタはそういっていた。
 シャワーを終えて身体を拭き、カーペットの上に転がしておいてもイングレッタは指一本
動かそうとしなかった。仕方なしにユウカが寝間着代わりに使っている男性用サイズのティ
ーシャツをかぶせて、ドロドロに濃くて熱いコーヒーを煎れてやる。
 真っ黒なコーヒーをすすりながら、イングレッタはようやくぽつりぽつりと話し始めた。

「高次宇宙で、高次意識体が高次なやり取りを交わした。
 結果、この世界は安定した。
 あと20周期、少なくともわたしのこの肉体が維持できている間は、もうなにも起こらない」
「よくわかんないけど、ダブルコージとコージートミタがなんかした結果、
 世界は平和になったって、そういう認識でオーライ?」
「問題ないわ」
「最近『やりすぎコージー』見てなかったけど、そんなことしてたとはサプライズね」
「あなたの想い人も、いずれ戻ってくるわ」
「あら、うれし」

 ここ数年、なんの音沙汰もない男の顔を思い出す。不思議と、嬉しくはなかった。現
実味がないというべきか。

「ようするにあんた、失業したってこと?」
「そうね」
「離職票はもらった?」
「もらってない」
「じゃあ、あんた、失業保険もらえないじゃない。
 タイムダイバーってのが月給いくらだったのか知らないけど」

「カネなら、あるわ」

 ゆらりと、イングレッタはカーペットの上に放り出してあるジャケットを尖った顎で
示した。つまみ上げてみると、バラバラと細かいものが落ちる。宝石だった。台座のデザ
インは野暮ったいくせに、どれもこれも石ばかりは妙に大きい。換金目的で作られた
もののようだった。

「欲しければ上げる」
「いらないし、こんなに」

 ユウカは小さめのオパールをひとつつまみ、残りはジャケットに突っ込んでまたカー
ペットの上に放り捨てた。

「で、どうすんのこれから」
「わからない」

 イングレッタは膝を抱えて項垂れる。

「わたしは、生まれたときからタイムダイバーだった。
 しかし、タイムダイバーではなくなった。
 自分がなにをしたらいいのかわからないの」
「カネはあるみたいだし、学校にでも行ったらいいんじゃない?
 あんた、学歴とかないでしょう」
「あなたが、そんなこというとはね」
「そういえば、一年ばかり会ってなかったわね」
「なにをしたらいいのか、わたしにはわからない」
「勝手にすればオーライなんじゃないの」

 ユウカはアクビをした。もう、深夜2時をまわっている。ごろりと、壁際に置いたベッド
にの転がる。

「勝手に、ベッド半分使っていいし」

 結局物理の教科書は読めなかったなと、そんなことを考えながら電灯のスイッチを切る。
 数十秒してから、もぞもぞと隣りに潜り込んでくる体温があった。

 5
 一週間が経った。
 イングレッタは、無為な日々を過ごし続けている。放っておくと、朝から晩まで指一
本動かさない。ユウカが学校なり仕事なりに行くときにも、帰ってくるときにも、
まったくおなじ姿勢で壁にもたれかかっている。放っておくと、食事もしなければ
風呂にも入らない。一日の何分の一かは、呼吸すらしていないのかもしれない。
 息を止めていようが食事をしていなかろうが、ユウカの知ったことではなかった。
しかし、おなじベッドを使っている以上風呂に入らないことは我慢できなかった。
 ユウカは帰宅すると、イングレッタからティーシャツをひっぺがしてバスタブに放り
込むようになっていた。
 相変わらず動かないイングレッタは、頭から湯にぶち込まれても眉ひとつ動かない。
仕方なしに、ユウカがボディソープでもって洗ってやる。

 柔らかくなったな、と気付く。
 硬く引き締まったワイヤーのようだったイングレッタの筋肉が、ゆるみ始めている。
全身に皮下脂肪が乗り、乳房も若干重みが増している。全身にあった古傷も消えつつある。
 タイムダイバーではなくなった。イングレッタの発言に現実味が出る。もう、彼女は
戦士ではないのだ。

「べつに、どうだっていいんだけど」
 イングレッタをバスタオルでくるんで床に転がし、ユウカはいつも通り熱いコーヒーを淹れた。

 6
 今日の撮影は、レザー素材のトップスとショートパンツを着けてテーブルの上に立っ
たり座ったりすることだった。

「ユウカちゃん、ユウカちゃん」
 プロデューサーが太った腹をゆさゆさと揺らしながら声をひそめる。
「あれ、ユウカちゃんの妹かなんか?」

 スタジオの隅にイングレッタがいる。パイプ椅子にもたれかかり、手も足もダラリと
ぶら下げていた。一日中部屋の中で転がしておくのはあまりにも非生産的なような気が
したので、なんとなく連れてきたのだ。

「なんていうか、ルームメイト」
「あの子、コレ、じゃないよねえ」
 誰でも考えることはおなじらしい。プロデューサーは腕に注射を打つ仕草をした。
「ああ、そういうんじゃないから。
 なんか、失業したショックで茫然自失としてるだけだから」
「イヤだねえ、不況は」

 何年か前までは毎週のようにバリ島やアイドネウス島へ撮影に行ったものだとかなんとか、
プロデューサーが自慢話を始めたので、ユウカは意識的に聴覚にフタをした。

 撮影に使う資材や、誰が何のために使ったのかわからないローションの空き瓶が転がっ
ている中で、イングレッタはなにを見るわけでもなく顔を天井に向けている。
 そのイングレッタに、駆け寄っていく者があった。二十歳前後の青年だった。撮影の現場
で何度か見たことがある。たしか、バイトでカメラマンアシスタントをやっている専門学校生
だ。いつもパーカーを着ているので、ユウカは勝手に『パーカー』と呼んでいる。
 パーカーは、どうやらイングレッタのことを新人モデルかなにかと勘違いしているらしい。
ペコペコと頭を下げながら、缶コーヒーを勧めていた。
 案の定というかなんというか、イングレッタは髪の毛の先ひとつ動かさない。
 自分がどうして少しホッとしているのか、ユウカは分析できなかった。

 7
 日ごとに、バスタブの中で支えるイングレッタの身体が重く柔らかくなっていく。
「いい加減、いつまでもゴロゴロしてるとファットになるよ、あんた」
「明日も」

 ユウカの乳房に後頭部を埋めたまま、イングレッタが珍しく口を開いた。湯が立てる
音に紛れて聞こえなくなるような、か細い声だった。

「明日も、行くの?」
「ン? アー、明日は。明後日はガッコ行くけど、基本しばらくあのスタジオに通う」
「そう」

 ちゃぷんと、イングレッタは泡の浮かぶ湯の中に鼻まで浸かった。

「なに、行きたいの?」
「寝転がってるのも、飽きてきた」
「いいんじゃない? あそこ、下の階にフィットネスセンターもあるし」

 ユウカは湯の中で手を泳がせ、イングレッタの肌を撫でた。

 8
 その日は、学校に行ってから撮影所に向かった。

「ン?」
 やけに光沢の強い赤いビキニに着替えたユウカは、ふとした違和感に眉を動かした。
 イングレッタがいる。今日は学校に行くと伝えてあったから、マンションにいるはず
だ。ひとりでここまで来たのだろうか。進歩といえば進歩だが、なにか妙な気がした。

「あ、ユウカちゃん、おはよー」
 顔見知りのカメラマンが手を振りながら近づいてくる。

「ねえ、彼女」
「あ、妹さん?」

 どうやら、いつの間にかイングレッタはユウカの妹ということになっているらしい。
肌の色も髪の色も違うというのに、ずいぶんと無茶なプロフィールを名乗ってくれたものだ。

「うんっと、昼ちょっと過ぎくらいから来てたよ。
 夕方になったらユウカちゃんが来るからって伝えたら、待ってるって」

 イングレッタはひとりではなかった。例のパーカー姿の青年が、なにか熱心に話しか
けている。なにを話しているのだろう。ユウカの耳には届かない。

 あれは、誰だ。
 活発に会話をしているふうには見えない。普通に考えれば、パーカーが一方的に喋り
続けて、イングレッタが適当にあしらっている図になっている。
 しかし、いまのイングレッタの状態では、適当にあしらうということすら破格なのだ。
なにしろ、ユウカの部屋でのイングレッタは相変わらずカーペットの上で転がる以上のこと
をしない。食事もしたがらず、無理矢理口をこじ開けてトーストを突っ込むというのが
毎朝の習慣になっていた。
 それが、いまのイングレッタは曲がりなりにもパーカーとコミュニケーションを成立
させている。たまに浅く頷いているだけでも、あれが本当にイングレッタなのだろうか
と疑わしくなってくる。

「ユウカちゃん、ユウカちゃん」
 カメラマンがへらへらと笑いながらユウカの肩を叩く。
「そのメイク、ちょっとキツいんじゃない? 目が吊り上がって見えるよ」

 ユウカは、まだメイクをする前だった。

 9
 シャワーを浴びせている間も、イングレッタは相変わらずひと言も発さなかった。

「今日」
 青い髪をバスタオルで拭ってやりながら、ユウカはようやく口を開いた。

「あのパーカーと、なに話してたの」
「別に」
「別にってことはないでしょう」
「出身地がどこかとか、訊かれた」
「どこって答えたの」
「アオヤマ」
「なんか、コメントに困る出身地ね」
「ロンドン出身のあなたの妹にしてはおかしいんじゃないかって訊かれたわ」
「適当な受け答えしてるからよ。で、なんてカバーしたの」
「面倒だから黙ってた」
「そのわりに、会話は続いてたみたいだけど?」
「自分はナゴヤの出身だとか、赤福が美味かっただとか、
 味噌煮込みうどんはあんまり好きじゃないとか、そんなことを勝手に喋り始めたから、放っておいた」
「なんか、ヘンなの」

 毎日トリートメントをさせているからだろうか。イングレッタの髪は、この部屋に転
がり込んできたばかりのころに比べるとずいぶん艶を増していた。

「あんたは、そういうどうでもいい会話とか、
 相手にもしないでプイッとどっか行くタイプだと思ってた」
「いるじゃない、ここに」
「あたしの話をしてるんじゃないでしょ」
「移動するのが面倒だっただけよ」
「あんたさ」

 ユウカはバスタオルを洗濯籠の中に放り込み、イングレッタの髪に櫛を通し始めた。
「好きなんじゃないの?」
「誰が」
「あんたが」
「誰を」
「パーカー」
「なにをいってるのかわからないわ」

 なんだか無性に腹が立って、ユウカはイングレッタの尖った肩に歯を立てた。

 10
 それから3日が経ち、ユウカが目を覚ますとイングレッタの姿は消えていた。
 カーペットの上に、イングレッタが使っていたティーシャツがくしゃくしゃに丸めら
れて転がっていた。
 撮影スタジオに行ってみると、例のカメラマンが見覚えのない若者に向かって怒声を上げていた。

「参ったよ」

 ユウカを見つけると、苦々しげな顔をして片手を上げる。

「あいつ、急に辞めるって電話でいったっきり、消えちまったんだよ。
 事務所の人間がアパートに行ってみたら、モヌケの空だったっていうし」

 飛んだかな、とカメラマンは呟いた。カメラマンアシスタントの給料は、はっきりいって
コンビニのバイトよりも安い。生活が立ちゆかず、夜逃げすることなど珍しくもない。

「そういえばユウカちゃん、今日はあの妹さんは?」
「さあ」
「さあってことはないだろ」
「正直いって、あれ、妹でもなんでもないの。
 転がり込んできただけの野良。
 今朝起きたら、なんかいなくなってた」
「ふうん」

 カメラマンはアゴに生えたヒゲをわざとらしい仕草で撫でた。
「駆け落ちでもしちゃったのかな」

 あのパーカーの青年は、どんな顔をしていただろうか。思い出せたのは、パーカーだけ
だった。どんな顔をしていて、どんな声をしていたのか、まったく記憶にない。

「カレ、どういうひとだったの」
「え、べつに、フツーのやつだよ。
 田舎から出てきて、専門学校行きながらうちでバイトしてて。
 あ、そうだ。ちょっとパチスロやるとか話してたな。
 それで借金作っちゃったのかなあ」

 今日からはひとりでバスタブに浸かるのか。ユウカはそんなことを考えていた。

 11
 いずれ、ユウカの思い人も戻ってくる。
 イングレッタの予言は成就しなかった。
 三日が過ぎ、一週間が経っても、ユウカの想い人が帰ってくる気配はなかった。
 イングレッタは相変わらずどこにいったのかわからないし、パーカーも行方不明なままだ。
 ひょっとしたら、世界はまだ平和ではなかったのかもしれない。
 考えてもみれば、あの虚脱したイングレッタが、どこをどう見ても平凡以外の何物でも
ないあのパーカーのことを気にかけていた理由がわからない。あのパーカーが実は世界を
どうこうしている何者かの変装で、イングレッタはそれを見破って追及を始めたのかもし
れない。

「そう思いたいだけなのかもね」
 ユウカは、イングレッタが脱ぎ捨てていったティーシャツを片付けられないままでいた。
 イングレッタが、あのパーカーに一目惚れかなにかをして逃避行を始めたと、考えては
いけない理由はひとつもない。

「いや、いや、残念だったねえ」
 事務所に給与明細を受け取りに行くと、プロデューサーの笑い声に出迎えられた。

「最初はてっきりヤク中かなにかだと思ってたけど、
 だんだんイイ表情浮かべるようになってきたじゃないか?
 君のファースト写真集に一枚だけ紛れ込ませて『あのコは誰?』みたいな企画やろうと思ってたんだけど」
「写真集って、誰の」
「なにいってるんだい。君のに決まってるじゃないか」
「あたしの記憶が確かなら、あたしはミュージシャンとして契約してたはずなんだけど」
「コテコテのパンクスはねえ、まず知名度でもないと売れないよ」

 やっぱり世界は平和じゃなかったよ、とユウカは胸の中でイングレッタに告げる。
 どこかで、こうなるんじゃないかとは思っていた。それでもユウカは、甘んじてグラビ
アの仕事を受けていた。下積みのためだとは考えていなかった。肩書きは女子高生でも、
もう高校生という年齢ではない。収入が途絶えることを恐れていた。

 世界は、少なくともユウカの世界は、相変わらず歪で欺瞞に満ちあふれていた。真ん中
にいるユウカが自分を偽っているのだから、ムリもない。
 あまねく並行世界の危機を救うというのがタイムダイバーの仕事だとしたら、イングレ
ッタは間違いなく職務をこなしていたのだ。

「さ、来週から忙しくなるよ。握手会の準備ももう整ってるから」

 なにやら上機嫌で書類を引っかきまわし始めたプロデューサーの目の前で、ユウカはゆ
っくりとギターケースのジッパーを下ろした。

「どうしたの、ユウカちゃん?」
「べつに」

 ゆっくりとギターを振り上げる。
「ちょっと、世界を救うだけよ。あたしの世界をね」
 ユウカは、プロデューサーの眉間目がけて、力一杯ギターを振り抜いた。

 脱ぎ捨てられたティーシャツは、そのままにしておこうと思った。
 あの野良タイムダイバーは、またいつやって来るかもわからない。

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最終更新:2009年10月17日 13:04
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