ゼラドのお弁当


30代目スレ 投稿日:2009/09/15(火) 00:45:52

 お弁当を作りたいなあ。
 ゼラド・バランガがそんなことを考えたのは、いつもより早く起きた朝6時のことだった。
カーテンからは、すでに秋の兆しを見せ始めた明るい陽光が差し込んでいる。ベッドを降りて
窓を開けると、柔らかな風が頬のうぶ毛をくすぐった。

 ◆
「お母さん、わたし、お弁当作る!」

 朝から寸胴に入った豚骨スープを火にかけていたゼオラお母さんは、
ゼラドの発言に八の字眉毛を作った。

「お弁当だったらそこに置いてあるわよ」

 食卓の上に、お弁当箱が3つ並んでいる。一番大きな四段重ねがお父さん用で、残り2つ
の三段重ねがゼラドと弟用だ。一番下にはごま塩をたっぷりかけたご飯がぎゅうぎゅうに
詰められていて、真ん中の段には唐揚げとハンバーグとショウガ焼きを中心にしたおかず、
そして一番上の段にはぶつ切りにされたリンゴとパイナップルが入っている。いつ通り
のバランガ家式お弁当箱だった。

「こういうんじゃなくてぇ」
 ゼラドはお気に入りのもふもふしたスリッパで床を踏んで抗議した。

「なんていうかこう、ちっちゃいお弁当箱の中に赤とか黄色とか緑とか詰まってて、
 キラキラしてて宝箱みたいな、そんなお弁当なの!」

 ゼラドは、口が達者な方ではない。身振り手振りを交えて一生懸命説明した。
 お母さんが、柔らかく笑ったような気がした。スリッパをぱたぱたと鳴らして、
てきぱきと動き始める。卵焼き用のフライパンに塩コショウと生卵をひとつ、レタスに
プチトマト、ピーマンとバラ肉と小麦粉、醤油とソースとケチャップと海苔。それから、
バランガ家にこんなものがあったのかと驚くほど小さなランチボックス。そんなもの
が次々と調理台の上に並ぶ。

「さ、どうぞ」
「え、えぇと」

 思わず包丁を握ったものの、ゼラドはどうしたらいいのかわからない。そういえば、お弁当
を作るなんて生まれて初めてのことかもしれない。調理実習でだってゼラドは、いつも食べる
専門で、調理する側には混ぜてもらえなかった。混ぜてもらう以前に、まず食材を生かじりして
調理室の隅に隔離されるのがいつものことだった。

「もう、しょうがないわね、じゃあ」

 まず、プロセスチーズを小さく角切りする。卵をよく溶いてミックスベジタブルと砂糖、
塩コショウを加えてよく混ぜる。よく熱したフライパンに油を敷いて、卵を載せるや菜箸
で手早くかき混ぜる。ここでラップを広げてスクランブルエッグと角切りチーズを載せる。
ラップをしっかりと閉じて5分くらい待つ。お母さんの声に従って手を動かすと、まるで
魔法のように綺麗な卵焼きが出来上がった。
 やっぱりお母さんは凄いなあと、ゼラドは感心するしかなかった。

「どうしたの、急に」
「うぅんと、なにがどうってわけじゃないけど」
「でもあなた、今日はお弁当ふたつ食べるつもりなの?」

 ゼラドの胃袋だったら、バランガ家式お弁当箱を平らげて、ちっぽけなランチボックス
を三時のおやつ代わりに片付けるなんて簡単なことだ。でも、そんなことをするつもりはなかった。

「自分で食べる用じゃないの」

 なんとなく、お母さんの微笑みが深くなったような気がした。

「じゃあ、誰用なの?」
「う~ん」

 そう聞かれて、一番に思いつくのはクォヴレー・ゴードンお兄ちゃんだった。小さなこ
ろからゼラドの面倒を見てくれたお兄ちゃんになら、お弁当のひとつやふたつあげない理由はない。
 しかし、生憎とクォヴレーお兄ちゃんは3日くらい前からどこかに出かけたきりだった。

「お父さーん」

 いつの間にか食卓についていたアラドお父さんは、すでにドンブリ2杯を空にしていた。
さすがはお父さんだ。

「これ、いる?」

 ご飯粒の突いた低い鼻先にハンカチで包んだランチボックスを差し出すと、お父さんは
少し迷うような顔をした。そして3杯目のドンブリを空にした。

「お父さんはいいや。お母さんのお弁当があるし」
「え~」
「足りないようだったら、焼きそばパンでも買うし」
「あなた、いい歳をして買い食いはやめてください」
「え~、だってよぉ~」

 やんわりと夫婦ゲンカを始める両親を背に、ゼラドは冷蔵庫の方を見た。いつ起きて
きたのだろう。弟のアオラが冷凍室に顔を突っ込んで業務用アイスをスプーンで直に
すくって頬に詰め込んでいた。

「アオラ~、お弁当、いる?」

 アオラはスプーンを加えたまま、じぃとランチボックスを見つめた。そして、ぷいと
横を向いてしまう。

「いらね」
「なによ。お姉ちゃんが一生懸命作ったのに」
「高校生にもなって、姉ちゃんが作った弁当なんて持ってけないよ」
「お母さんの作ったお弁当は持ってくじゃない」
「むしろ、母さんの弁当じゃなきゃヤダ」
「なによ、アオラのマザコン」
「単純に量と質の話してるんだよ」
「アオラの欲張り!」
「行ってきまぁーす」

 アオラはすでに学生服に着替えていた。ドンブリ飯に豚骨スープをぶっかけてざぶざぶ
と口の中に流し込むと、肩に鞄を引っかけて玄関に行ってしまう。

「ゼラド、あんたもそろそろ着替えないと遅れるわよ」

 お母さんの声を背中に、ゼラドはランチボックスを見下ろしていた。
 このお弁当、本当にどうしよう。

 ◆
 黒板の上に貼り付けられた時計は、もう12時半をまわっていた。
 OG学園2年A組の昼休みも、もう半分以上が終わっている。

「う~ん」

 空になった三段重ねを鞄の中にしまいながら、ゼラドはハンカチに包まれたままの
ランチボックスを見つめていた。

「なにやってんの、あんた」

 机をくっつけてお弁当を食べていたレイナ・レシタールが不思議そうな顔をしている。

「あ、レイナ。これいる?」
「いらないわよ」

 カロリーゼロのゼリー食品のパックを握りつぶして、レイナが後じさる。どうやら、
レイナは何回目かのダイエットに挑戦中のようだ。幼馴染みのよしみで、結果予想なんか
しちゃいけないということをゼラドは知っていた。

「やめてよ、そそのかすの」
「そそのかすっていうんじゃないけど」
「どこで拾ってきたの、それ」
「失礼しちゃう! ちゃんと自分で作って来たもん!」
「ウソおっしゃい。あんたがそんな、お腹に溜まんないメニューチョイスするわけないじゃない」
「自分で食べる用じゃないもん」

 なぜか突然、レイナが警戒するように眉をひそめた。

「じゃ、誰用なの」
「決めてないけど」
「なによ、それは」

 レイナは頬杖を突いて、なぜか安心しているような顔をする。今日のレイナは百面相だ。

「あんたは、ほんと、もう、だいたい間が悪いのよ。
 珍しく難しい顔してお弁当食べてると思ったら、いったいなに言い出すのよ」
「う~ん」

 昼休みは半分以上終わっている。まわりを見ると、ほとんどのクラスメイトはお弁当
を食べ終わっていた。
 ふと思いついて、ヴィレアム・イェーガーの席を見る。ヴィレアムはゼラドの隣の家に
住んでいて、物心つく前からの幼馴染みだった。
 ヴィレアムは、机をはさんでキャクトラ・マクレディと向き合っていた。やけに真面目
くさった顔をしてなにか話し込んでいる。

 遠い惑星バルマーからやって来た、留学生兼お姫様のボディガードであるキャクトラ・
マクレディはヴィレアムととても仲がいい。よく「友よ」と呼び合っているし、親友同士
なんだろう。
 いったいなにを話しているんだろう。二人とも真面目な男の子だから、政権交代の話でも
しているのかもしれない。とてもじゃないけど、話しかけられる雰囲気じゃなかった。

「クリハー」

 視界の隅でヴィレアムが突然机に突っ伏す姿が見えたような気がした。

「なぁに?」
「これ、お弁当、よかったらなんだけど」

 クリハ・ミズハはゼラドを振り替わると、にわかに困ったような顔をした。

「ゴメンね、ゼラド。いまわたし、ペプチド強化習慣だから」

 クリハの机の上には、いつも通り緑のような青のような黒のような得体の知れない汁
を注がれたコップがある。
 クリハ・ミズハは実にオーガニックな食生活を送る女の子だ。ゼラドが聞いたこともな
いような薬草や食材をミックスして、様々な効能を産み出す汁を作っている。ただし動機は、
おなじく健康ドリンクの制作を趣味にしている母親、クスハ・ミズハとは少し異なる。豊満
な胸を持つ母親とは似ても似つかないバストサイズを改善するためのものだ。ただし、今の
ところ成功したためしはない。
 幼馴染みであるゼラドは、クリハの切実さを知っている。だから、栄養バランスよりも
彩りを優先させたようなお弁当を強要することは、とてもできない。

 一方、クリハのカレシであるところのトウキ・カノウが、これから磔刑に向かう聖者
のような顔をして椅子に座っていた。
 ゼラドは問題なく飲めるからよくわからないけれど、クリハ謹製の汁は大抵の人間にと
ってはまるで口に出来ない味なんだそうだ。それでも、「恋人同士はおなじものを食べる
べきだと思うの」というクリハの希望に応え続けているトウキのことを、正直にいって
ゼラドは少し尊敬していた。

「アイミちゃーん」

 残るいまひとりの幼馴染みであるところのアイミ・ダグラスは、やっぱりクリハとおなじ
ような表情を浮かべた。

「ゴメン、ゼラド。わたし、大会控えてて、いまちょっと食事コントロール中なの」

 宇宙飛行士になることを夢みるアイミは、いつもスポーツに打ち込んでいる。一日の大半
の時間をトレーニングと自己管理に費やしていた。
 ゼラドだって、運動は嫌いじゃない。でも、食べたいものを制限してまで打ち込むスポーツ
とは、完全に想像を絶した領域だった。
 それにしてもアイミは、タッパ入りのおじやや梅干し、バナナ、炭酸入りコーラなんて
お昼ご飯を食べて、いったいなんの大会に備えているんだろう。

「ねえ、ゼラド?」

 誰なら受け取ってもらえるかなあと考えていたゼラドの背中を、アイミの声が引き留めた。

「そのお弁当、誰かに受け取ってもらうために作ったんでしょう?」
「うん、まあ、誰かに」
「じゃあ、普段は渡さないようなひとに渡せばいいと思うよ!」

 アイミがにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「う~んと、じゃあ、ミナトくーん」

 アイミがかくんと天井を仰いでなにかブツブツ呟き始めた。
 トウキの双子の弟であるミナト・カノウは、耳にイヤホンを付けてスパゲティをすすっていた。
気配を感じたのか、イヤホンの片方だけを外してゼラドを見る。空手をやっているからなのか、
ミナトにはときどき妙に勘の鋭いところがある。

「ミナトくん、お弁当いる?」
「俺は今『乙女パスタに感動』中なんだ」

 モーニング娘。の派生ユニットのひとつである『たんぽぽ』のナンバーを口にしながら、
ミナトはまたイヤホンを耳にはめてしまう。

「ゼラド、よく考えてみて。
 こう、普段お世話になってる人とか、感謝してるひととか」

 急に元の状態に戻ったアイミがアドバイスをくれた。

「感謝、かあ」

 ゼラドは教室の中をきょろきょろと見まわした。
 弁当男子のタカヤ・ナンブ紫雲克夜は、きゃっきゃとさざめきながら互いのおかず
を取り換えっこしていた。なんだか入っていけない雰囲気だった。
 ガタンと音をさせて、席を立つ生徒がいた。男子だった。高過ぎる身長を猫背に曲げて、
やっぱり長過ぎる脚をがに股にして教室から出ようとしている。離れていく机の上には、
分厚い本が伏せられていた。
 キャクトラとおなじく惑星バルマーからの留学生であるハザリア・カイツだった。ただし
彼は、王位簒奪者の孫なので立場は微妙らしい。それはさておき、ハザリアは恐ろしく頭が
いい。なにか困ったことが起こったとき、ゼラドは何度も助けてもらった。感謝をする材料
はずいぶんある。

「ハザリアくん」

 ハザリアはアクビをしながら、のたりとゼラドを振り返る。

「ハザリアくん、お弁当食べる?」
「いらぬ」

 頭の回転が速い人間の常で、ハザリアは回答も早い。足を引きずるような歩き方で教室
から出て行こうとする。

「俺はいま、醤油ラーメンについてのレポートを作成中だ。
 なんだ、あの醤油ラーメンというのは。名前のわりに、それほど醤油の味がせぬではないか。
 にもかかわらず、醤油ラーメンは厳然として醤油ラーメンと呼ばれておる。
 これは地球式の命名法について興味深い関連があるやもしれぬ。
 ゆえに、俺は今日も醤油ラーメンを食しにいくのだ」

 それはもうレポートじゃなくて、ただのグルメエッセイなんじゃないかな。
 ゼラドがそんなことを考えている間に、ハザリアはもう教室から出ていた。
 凝り性のハザリアは、一度気に入った食べ物があったら3ヶ月くらいおなじものを食べ
続けるところがある。ゼラドがなにをいってもムダだった。

 ◆
 あちこち声をかけているうちに昼休みは終わり、午後の授業もすぐに終わり、もう放
課後になっていた。
 ゼラドは、ひとりでOG町内をとぼとぼと歩いていた。いつもはレイナあたりと一緒
なのだけれど、今日はなんとなく1人になってしまった。

「これ、どうしよう」

 手提げ鞄の中には、まだあのランチボックスが入っていた。包みに使ったハンカチは、
一度もほどいていない。

 ガチャガチャという金属的な音が聞こえた。少し前のT字路を、4つ脚ロボのマーズ
くんが歩いていた。十歳前後の男の子と変わらない上半身の下で、メカニカルな4本脚
がわさわさと動いている。

「しっあわっせはー、あるいてこねー、だーかっらあるいてゆくんだねー」

 ご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、マーズくんはどこで拾ってきたのか木の枝をクチャ
クチャと噛んでいた。
 宇宙船ヴァルストークの備品として作られたマーズくんは、その気になれば生ゴミでも
そのへんの石でも消化してしまえるらしい。その上、誰からもお行儀とか礼儀作法を教わ
らずに育ったせいか、たまにびっくりするようなものを口にしている。

「いーっちにっちいっぽ、みぃ~っかでさんぽっ」
「マーズくん、マーズくん」

 なぜか赤いフレームのメガネをかけたマーズくんがきょろりとゼラドを見上げる。

「そんな枝、かじっちゃダメだよ。これ、お弁当食べる?」

 マーズくんは少しの間きょとんとすると、突然その目を小鬼のように吊り上げた。

「あのね、ゼラドちゃん。おれぁーゼラドちゃんのこと、けっこースキよ。
 んでも、ハタラキもねーのにホドコシを受けるゆわれはねーよ!
 おれぁーモノゴイじゃねーんだっ!」

 いったいどこでどんな育ち方をしてきたのか、作られて3年も経っていないとは思えない
ほどマーズくんはシビアな考え方をする。どうやら怒らせてしまったらしい。小さな肩を
いからせて、ガチャガチャと歩いていってしまう。

 ◆
 しょうがないから、このお弁当はいつも学校帰りに買い食いしているアイスの代わりに
食べちゃおうか。ゼラドはしょんぼりとそんなことを考えた。

「無限ほっぺの乙女か」

 アサキム・ドゥーイン。『ビーター・サービス』という修理屋の敷地内でネットゲーム
をやり続けている住所不定無職の男性だ。漆黒のマントを羽織り、シルバーアクセサリを
じゃらつかせたその姿は、買い物袋を提げた主婦たちが歩く住宅街の真ん中では奇異と
いうか不審だった。
 年齢からいえばもう中年といっていいはずなのに、アサキムの姿はやけに若々しい。
下手をすると、そのへんにいる20代前後の若者よりも生活力とか責任感がないように見える。

「アサキムさん」

 ゼラドは、少し緊張していた。このアサキム・ドゥーインという人物は、どこかクォヴレー
お兄ちゃんと似ているような気がする。髪の色も、背丈も、容貌もまるで違うのに、どこか
似通った雰囲気を漂わせている。どこが似ているのか、ゼラドにもよくはわからなかった。
しばしば異世界に戦いに行くクォヴレーお兄ちゃんと、朝も夜もなくネットゲームの世界で
狩りをしているアサキムの、どこに共通点があるというのだろう。

「どうしたんですか? こんなところで」

 アサキムが居着いている『ビーター・サービス』は、ここからだいぶ遠い場所にあった。

「健康のために、いつも一駅分歩くことにしているんだ」
「ゲームしながら歩いたら危ないと思いますよ」
「常に危険と隣り合わせに生きる、
 それは、天国を求めて煉獄の炎に焼かれる恍惚にも似ている」
「収入のためにはなにかしないんですか」
「ツィーネを働かせているよ」

 ツィーネというのはアサキムの恋人で、アサキムのネットーゲーム生活を支えるた
めに勤めに出ているらしい。
 ひょっとして、このひとは人間の屑なのかもしれない。ゼラドの胸に不安が広がる。
そういえば一駅分歩くといっても、そもそも無職のアサキムがどこに出かけていたの
だろう。オフ会かなにかかもしれない。

「君は?」
「わたしは」

 指先でつまんだランチボックスが、やけに重い。
「なにやってるんでしょう」
 ため息をつく。

「朝、なんとなくテンション上がってお弁当作ったけど、
 誰に渡すかなんて全然考えてなくて、渡そうとする相手の都合も考えてなくて、
 そんなことしてるうちに結局こんな時間になっちゃって。
 ひょっとしたらわたしは、もの凄く身勝手な人間なのかもしれません」
「彷徨に他人の都合を考えるのは愚か者のすることだよ。
 愚者といったほうが格好がいい」

 ぼんやりとした明かりを浮かべる携帯ゲームの画面から目を話さず、アサキムが静かに言い切る。

「彷徨し、惑い、行きつ戻りつを繰り返す、そのことごとくは自分のためにこそ行うべき行為さ。
 煉獄の炎に身を焦がしながら無限回廊を歩くのは、一種の快楽なのだから。
 そして快楽は積み重ねている内にひとつの結実を迎える。
 救いであっても無限の罰であっても、それはきっと僕自身が望み求めた果実なんだ。
 そして彷徨と咆吼をかけてなにか格好いいことをいおうとしたけど思いつかない。
 僕の鬼神咆吼は、いつ参戦するんだろうね」

 ゼラドは、そっとあたりを見まわした。そのへんを歩いている買い物帰りのおばさんに
通報されたらどうしようかと心配になっていた。

「わたし、あんま頭よくないんです。
 アサキムさんがなにをいっているのか、よくわかんないです」

 黒髪を揺らして、アサキムは冷笑を浮かべる。

「無限獄に触れたことのないものにはわかるまい」
「ツィーネさんて、どこで働いてるんですか?」
「ブラック企業だよ」

 お弁当を受け取って喜んでくれる人は誰だろう。誰よりもお弁当を欲している人は誰
だろう。ゼラドにはぼんやりとわかったような気がした。

 ◆
 住宅街だったら晩ご飯の匂いがしなくなってずいぶん経つほどの時間だというのに、
その会社には当たり前のように明かりが点いていた。
 オフィスというわりには窓ひとつない、変わった部屋だった。薄っぺらい長机の上に
ノートパソコンがいくつも置かれ、ひとり半畳分もないスペースで青白い顔をした人々が
カタカタとキーボードを叩いている。

「あら、あなた、バランガさん? どうしたの?」

 薄手のランジェリーの上に適当に黒布を巻き付けたような格好をしたツィーネ・エスピオ
さんは、思いがけず愛想のいい顔でゼラドを迎えた。手元のノートパソコンの横には、栄養
ドリンクの容器が何本も並んでいる。分厚くファンデーションを塗られた顔は、安っぽい
蛍光灯に照らされて黄色く見えた。

「あのぅ、これ、お弁当」
「え?」

 優しさという言葉すらも忘れていたという顔で、ツィーネさんが目を見開く。

「その、アサキムさんから」

 長細い部屋の薄汚れた壁に、キーボードを叩くカタカタという音がしばし反射した。

「あの、エスピオさん。ここなんですけど」
 後輩社員らしい女性がツィーネさんに声をかける。返事はない。ツィーネさんは顔を
深くうつむけていた。赤毛を載せた肩が、ふるふると震えているように見える。

「エスピオさん? 泣いているんですか、エスピオさん?」
「そんな、そんなことないわよ。あるはずないじゃない」

 ウソをついてツィーネさんにお弁当を渡すこの行為が、正しいのかどうかゼラドにはわからない。
 ただ、ツィーネさんの声は湿っていたし、たしかに幸せそうだった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2009年10月17日 13:13
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。