22代目スレ 2008/02/02(土)
繁華街の明るさも賑やかさも、ここまでは届かない。
深夜本来の、ひんやりとした闇が降りている。
複雑な曲がり角をいくつも曲がった奥。
うち捨てられた家電製品が山と積み上げられているここが、ユウカのお気に入りだった。
横倒しになった冷蔵庫の上に腰掛けて、ふとももの上にギターを載せる。
人通りの雑音を向こうに聞きながら、チューニングに取りかかる。
作業の間にも心拍数が上がっていく。8ビートから16ビートへ。
儀式にも似た、その日の第1曲目。ユウカはティアドロップタイプのピックを弦に当てた。
耳をつんざくような、盛大な音。
発生源はギターではない。上からなにかが降ってきた。
衝撃。ユウカはひっくり返った。自転車に後頭部をぶつける。
「いたたた」
男、いや少年か。どこか幼さを残した声だった。
「君は、ユウキ・ジェグナン?」
「なら、その手でわしづかみにしてるものはなに」
「わっ!」
柔らかそうな赤い髪をした少年だった。
やや長い前髪の下からは、凛々しさと未熟さを半分ずつミックスしたような眉毛が覗いている。
「女の子?」
「なんか、昔男だったような気もするけど」
「え?」
「どいてくれる?」
ぱっと、少年は髪の毛とおなじくらい顔を赤くした。
跳ねるようにユウカから離れると、小声で「ゴメン」と呟く。
「ダディの知り合い?」
「話してる時間はない。逃げるんだ!」
なにごとかと、問う時間もない。
周囲に無数の気配。どこから現れたのだろうか。
野球ボール大の、どこか魚に似た物体だった。
いかなる作用か、空中をふよふよと浮いている。
表面は青紫色、中央には橙色をした目玉が鎮座している。
下部からは細かな牙が無数に伸び、キチキチと耳障りな音を出していた。
アインストかイェッツト、いやゲストが使っていたアーチンにも似ている。
「行くんだ! 早く! ひとがたくさんいるところなら、こいつらも追ってこない!」
「オーライ、ひとを集めればいいのね」
ユウカは残骸の中からギターを引っ張り出した。
いまの衝撃でチューニングはくるっているだろうが、かえって好都合だ。
ピックを振り上げる。弦に叩きつける。
シャウト、シャウト、シャウト。
「お、なんだ、この音」
「ギターだ。どこかで路上ライブやってんだ」
「こんな深夜にかぁ? どこだどこだ」
酔っぱらいたちが、わらわらと集まってくる気配がする。
『魚』たちの対応は早かった。
相談でもするかのように目をチカチカと瞬かせると、現れたときと同様忽然と消える。
「で、あらためて、あんた誰」
「とりあえず、
フィオル・グレーデン。それじゃ」
「ウェイト」
立ち去ろうとする背中を、ユウカはつかまえた。
深夜のファミリーレストランだ。客の数はまばらだった。
ユウカはコーヒーをブラックですすりながら、フィオル・グレーデンと名乗った少年を観察した。
カップの中に、ミルクと砂糖を次々と放り込んでいる。
震える指でカップを口に運ぶと、不味そうに顔をしかめた。
大の甘党、というわけではないらしい。ただ緊張しているだけだろう。
胴体は薄く、全体的に華奢な体格をしている。
にもかかわらず貧弱に見えないのは、目のためだろう。
大きめの瞳が、意志の強そうな光を発している。
苦手なタイプだ。ユウカは聞こえないように口笛を吹いた。
「グレーデン兄妹なら、あたしも知ってる。その子供たちとも会ったことある。
でも、あんたの顔は知らないし、フィオル・グレーデンなんて名前も知らない。
グレーデンの姓を騙るあんたは、何者」
「騙るなんて、そんな」
「グレーデンていう姓自体は、それほど珍しいもんじゃない。
でも、赤の他人にしちゃ、あんたの顔はラウルおじさんに似てるし、その赤毛はフィオナおばさんにそっくり。
こっち側の世界に、あの兄妹の親戚はひとりもいないはずなんだけど」
少年は顔をうつむけ、ポケットに手を突っ込んだ。
「これなんだけど」
一枚の写真だった。手で握りしめていたのか、しわくちゃになっている。
写っているのは、ふた組の男女だった。裏面に名前が書いてある。
ラウル・グレーデン、フィオナ・グレーデン、ミズホ・サイキ、ラージ・モントーヤ。
四人とも、ユウカが知っている顔よりもかなり若い。
「髪の色とか見ると、グレーデン兄妹のどっちかが俺の親だと思うんだけど」
「思うって、なに。はっきりいって」
「それが、わからないんだ。
取りあえずフィオナとラウルを混ぜてフィオルって名乗ってるけど、本当は自分の名前も思い出せない」
「記憶喪失ってワードは出さないで。嫌いな言葉よ。なんだか、陳腐で」
「君は、ジェグナンさんの?」
「ユウカ。ファミリーネームはノンよ」
ユウカは腕組みをした。
「記憶がないっていうなら、なんでダディの名前を知ってるの」
「あ、そういえば、なんでだろう」
フィオルは首をひねった。
「よくわからないんだけど、君の顔を見たとたん、フッと頭の中に浮いてきたんだ。
それまでは、まったく知らない名前だった」
「それを信じろって?」
「だって、本当なんだ。本当にわからないんだよ」
フィオルはテーブルに両手をつき、身を乗り出した。
大きな瞳が不安そうに揺れている。ユウカはとっさに目を逸らした。
「俺も知りたいんだ。なあ、君はどう思う。
グレーデン兄妹以外なら、俺、誰に似てるかな」
「整備帽かぶったらミズホさんに、メガネかけたらラージさんに似てると思う」
フィオルはがっくり肩を落とした。
「イージーに考えるなら、ラウルおじさんがヨソにこしらえた子供ってセンだけど」
「ラウル・グレーデンて、そういうひとなのか?」
「ノン。あたしが知ってるラウルおじさんは、ちょっとうさんくさく見えるほど善良なひとよ。
しかも、奥さんにくびったけ。浮気してるヴィジョンはちょっと見えてこない。
ファイオナさんのほうも、まあ似たり寄ったり」
「そうなんだ」
フィオルはわずかに安堵したような顔を見せた。
「だいたいあんた、どこから来たの」
「なんていったらいいのか、気が付いたら俺は、いろんな景色の中を走ってるんだ。
ここに来る前は、恐竜がのしのし歩いてる大平原にいた」
「とってもワンダフォーなお話。T-REXを捕食する原人はいた?」
「ああ、なんか、いた。なんだったんだろう、あれ」
「オーライ、わかった。あんた、LSD患者だ」
「そうなのかな」
フィオルは自信なさげな顔をする。
「そういえば、走ってたっていうのは?」
「ああ」
真横から異音。ファミリーレストランのガラスが砕け散った。
ウェイトレスが悲鳴をあげて盆をひっくり返す。
窓ガラスを突き破り、『魚』たちが次々と店内に飛び込んでくる。
「どこに行っても、あいつらが追いかけてくるんだ!」
「情熱的なアプローチ受けてるのね」
「そんなこといってる場合か!」
「オーライ、マジでヘヴィな状況ってわけね」
ユウカは立ち上がり、フィオルの手首を引っ張った。
割れた窓ガラスを蹴飛ばし、外に飛び出す。当然、会計は済ませていない。
夜の学校。下校時刻は6時間以上前に過ぎている。
誰もいないグラウンドの隅に、ぼんやりと明かりを灯しているプレハブ小屋があった。
「アクセル用務員!」
6畳ほどの和室だった。
コタツに入っていた
アクセル・アルマーは、ユウカたちを見るやすすっていたカップラーメンを吹き出した。
「ラウル・グレーデン? いや、でも」
「あんた、アクセル・アルマー?」
フィオルもまた、目を見開いている。
「知り合い?」
「いや、君のときとおなじだ。名前だけ頭に浮かんできた」
「その赤毛は、フィオナに似ているのか?
でも、あいつらからの年賀状でこんな顔は見たことがないし」
アクセルはしげしげとフィオルの顔を観察し、首をひねっている。
「年賀状のやり取りしてるのね」
「今年は切手シートが当たった、あれがな」
「コングラッチュレーション」
ユウカは土足のまま畳に上がると、コタツの上に放られていた鍵の束を拾い上げた。
「おい、それは」
「ウェポン、ガン、あるんでしょう、ここに」
「や、でも、あれは緊急用のもので」
空気を切り裂く音。貧弱なプレハブ小屋が、真横から真っ二つになる。
冷たい夜風が吹き付けた。
闇夜の中に、橙色にまたたくものが浮遊している。
『魚』たちだ。わらわらと増えつつある。
「まさにエマージェンシーってわけ。オーライ?」
畳部屋の隅に、明らかに不自然な鉄扉があった。あれか。ユウカはアクセルに構わず歩み出した。
扉を開け、地下に潜る。ハンドガン、サブマシンガン、ショットガン、ライフル。
常夜灯の薄い明かりに照らされて、無数の銃器がずらりと並んでいた。
「M.P.L.A.なのかい、U.D.A.なのかい、それともI.R.A.なのかい。
どうせ英国のことなんでしょ?」
ピストルズを口ずさみながら、拳銃をつかみ取る。
ヘンメリM280。競技用だが、ユウカにとっては扱い馴れた銃だ。
棚の下から引きずり出したパウチにマガジンをぶち込み、腰にまわす。
「君、銃なんて!」
「あら、ピストル競技じゃ、あたし、ちょっとしたもんよ。アソー閣下には負けるけど」
「そういうことじゃない!」
横から手首をつかまれた。
フィオルが、憤りもあらわにユウカを見下ろしている。
「君が、そんなものを手にする必要はない!」
「なに、あんた、ラヴ&ピースの信奉者?」
「そうじゃないけど」
「ジョン・レノンはグレイトなアーティストだったけれど、趣味じゃないの」
ユウカはフィオルを突き飛ばした。
武器庫の入り口に、『魚』が一匹。
流れる動作で安全装置を解除し、ウィーバー・スタンスに構える。
引き金に指をかける。絞り込む。
発砲。同時に、武器庫から飛び出した。周囲には無数の『魚』。
狙いが若干ズレる。引き金がやや重い。誤差修正しながら、2発目、3発目。
立て続けに3匹の『魚』を撃ち落とす。
空になったマガジンを足元に落とし、予備をぶち込む。スライドを引いて、初弾を装填。
「あたしはパンク、ゆえにヘイト&ウォー」
「憎悪と戦争なんて!」
「ノンノン、これはラヴ&ピースとか、ヌルいこといってる連中へのアンチテーゼ。
いうなれば戦争に対する嫌悪、憎悪に対する闘争」
「ごーごー、キャレットネット!」
金属質なほどに甲高い声が耳に飛び込んでくる。
上からなにかが覆い被さってきた。網だ。手足を絡め取られる。
「あー、なんだ。ニンゲン付きかよ。めんどっちーなー」
暗闇の中に、奇怪なシルエットが浮かび上がった。
四本の脚をガチャガチャと動かして、ガレキと化したプレハブ小屋の上を歩いている。
短い指が器用に動き、ユウカに絡みついた網を外した。
「さ、逃げなよ。ここはあぶねーよ」
「彼も」
「そりゃー、ダメだ」
「あんたは、人間に危害を加えられないって聞いてたけど」
ヴァルストーク・ファミリーの備品、
マーズ。
普段は商店街を駆けずりまわっているビジネスロボットだった。
「つまり、そーゆーこと。そこにいる赤毛、ニンゲンじゃねーよ。
もっといや、このウチューに存在してる物質でこーせーされてねー。
こーゆー邪気眼的なことはいーたくねーけど、異世界からの脅威ってやつ」
「そんな」
フィオルの顔がさっと青ざめる。
「ロボット三原則第0条、『ロボットは人類の危機を看破してはならない』
に従って、おれはこれをとっつかまえる」
「でぃぃぃぃやっ!」
真横からのかけ声だった。
マーズの小柄な身体が吹き飛んだ。
見た目よりもかなり重いらしい。落下と同時に、地面にめり込んでしまう。
「ぺっぺっぺっ! 誰だ誰だぁーっ!?
おれが珍しくセーギのロボやってるってときに!」
「お前の理屈でいけば、俺もまた人間ではないのだろう、これがな」
アクセル・アルマーだった。腰を低く落とし、中国拳法に似た構えを取る。
「行け。こいつの相手は俺がする」
「いやいやいや! 相手されても困るよ! おれは戦闘用じゃねーんだ!
チックショー、話がちげーよ! ニュータイプくずれなんか相手にできるわけねーだろ!」
「見るか、ニュータイプの修羅場ってやつを。プレリュードから」
「やべぇっ! それは見てーっ!」
「アクセル・アルマーが、なんで」
「目を見ればわかる。お前もグレーデンなんだろう、それがな」
アクセルはフィオルを見ると、ふっと笑った。
「駐輪場にバイクがある。使え」
闇夜にキーが舞う。
駐輪場にたどり着くまでに、10匹あまりの『魚』を撃ち落とした。
「あんた、運転は?」
「たぶん、できると思う」
「じゃ、任せた」
フィオルに向かってキーを投げる。
横から『魚』。動きが速い。撃ち落とす。ダメだ。間に合わない。
ユウカはヘンメリを振り上げた。銃把でもって打ち据える。
上空から、さらに2匹。迷わず発砲。4発で仕留める。
「ハイ、あんたたち、ビートにノレてないよ。まるでダックハントね」
挑発が通用するのだろうか。『魚』たちが一斉にユウカに殺到する。
振り落とすように空になったマガジンを放り捨てた。
右斜め後ろから『魚』が牙を剥く。脚を振り上げ、蹴り落とす。
体重を安定させると同時にマガジンを交換。間髪入れずに発砲。正面に2発、左に3発。
「オーライ、ビートにノッてきた」
心臓が急激に鼓動を早める。熱気でとろりと視界が溶けかける。
「No Place Like OG-City!
イカレた状況、イカレた人間、イカしたアクシデント!
この街にないものなんてない。平穏な日常については自信がない!
こんな街がほかにある!?」
硝煙、吐息、そして体熱。寒空の下で、ユウカは全身から白い湯気を立ち昇らせた。
「Right! Now!
ボニー&クライド? ブッチ&サンダス? パイク&エンジェル?
ノンノン、ラストは全員ハチの巣よ」
「乗れ!」
バイクのエンジンが唸り声を上げる。
空中に一発威嚇射撃を放ち、ユウカはフィオルのうしろに飛び乗った。
真冬の深夜だ。高速で走るバイクはかなり寒い。
しかも、ふたりともヘルメットをかぶっていない。
暴れまわる髪の毛を手で押さえ、ユウカはフィオルの耳に口を近づけた。
「運転、上手いのね」
「そうかな」
「前に運転したことが?」
「わからない」
「そこを右。国道に出るから、東へ」
「どこに?」
「グルーデンさんち。そんだけ似てるんだから、行けばなにかわかるでしょう」
と、銃声。2発だ。
ガクンとバイクが揺れた。一瞬で制御を失う。勢いよく横転した。
ユウカたちは空中に投げ出された。道路の上で二度バウンドする。
着地しても、すぐには止まらない。強烈な加速でずるずると引きずられる。
5メートルほど移動して、ようやく姿勢を取ることができるようになる。
少し離れたところに、バイクが横倒しになって転がっていた。
ユウカは、ぞっとした。
バイクの前輪と後輪が潰れていた。聞こえた銃声は2発きり。走っているバイクを、正確に撃ち抜いたというのか。
「こんばんは」
冬の空気に冴え渡る、冷え冷えとした声だった。
「久しぶり」
イングレッタといっただろうか。
以前、街で知り合った少女だ。そういえばフルネームすら知らない。
「今夜は、『t.a.t.u』ごっこはなし?」
「そうね」
イングレッタは巨大な拳銃を握っていた。細い腕には明らかに不釣り合いな巨大さだ。
デザートイーグル50AE。手持ちの大砲とでも呼ぶべき、バケモノ銃だ。
あんなもので精密射撃を行ったというのか。
ユウカの胸に、イヤな汗が伝った。
こちらの手にあるのは競技用の22口径。有利な要素がひとつもない。
「ニキータ気取り? 女がそんなもの撃ったら、肩が外れるよ」
「そちらは、劣化版ニキータ? アメリカ製の」
「ヴィジュアルはブリジット・フォンダの方が上でしょう」
「そこの赤毛、よこしなさい」
「あたしの獲物よ」
「わたしはね、お遊びで引き金を引く趣味はないの」
「気が合わないのね。あたしは、命がけで遊ぶ趣味があるの」
「そう」
威嚇も警告もない。一発の銃声が轟いた。
「ウッ!」
フィオルがつんのめって倒れた。そのまま、動かない。背中から細い硝煙が立ち昇っていた。
ユウカは声もなく吠えた。
両手でヘンメリをつかむ。立て続けに引き金を引いた。
当たらない。ユウカの頭からは照準という言葉が消え去っていた。
フッと、視界が暗くなった。月に雲でもかかったか。
違う。『魚』だ。大量の『魚』が、まさに雲霞のように空を覆っている。
「チィッ」
イングレッタが舌打ちをした。
デザートイーグルが空に向かって牙を剥く。立て続けに5発撃つや、イングレッタは身を翻した。
まるで手品だ。一瞬でブルバップ式のSMGに持ち替えている。
フルオート射撃。凶悪なトゥレモロに乗せて、大量の銃弾が吐き出される。
ユウカはその場に立ち尽くしていた。
どういうことだ。イングレッタは『魚』たちと敵対しているのか。
そういえば、マーズの投網も『魚』たちを捕らえていたような気がする。
「走るんだ!」
何者かがユウカの手首をつかんだ。強く引っ張られる。
裏路地に駆け込んで、ようやくひと息をつく。
ユウカはアスファルトの上にへたり込んだ。息が上がっている。こんなに走ったのは久しぶりだ。
右腕に鈍い痛みを覚えた。バイクで転倒したときに擦りむいたのか。ガーゼシャツに血が滲んでいる。
「貸して」
返事をする前に袖をまくり上げられた。
皮のバンドで上腕を締め付けられ、さらに上から包帯を巻き付けられる。
出血はあっさりと止まった。痛みも和らいでいる。
「鮮やかな手並みね」
「なんか、俺には応急処置の知識があるらしい」
「前世はレスキュー隊員だったんじゃないの」
「俺が知りたいのは、今生のことだ」
「あんた、撃たれたんじゃ」
「ああ」
フィオルがシャツの前をあけた。
50口径で撃たれたのだ。
肉がごっそりとえぐれ、骨が砕け、胴体に風穴があいていてもおかしくはない。
にもかかわらず、薄い胸板には傷ひとつついていなかった。
「俺は、いったい何者なんだ?」
「かなりの人気者なんじゃないの。いろんなのに追っかけられてる」
「うれしくない、そんなの」
「あたしは、ちょっと羨ましい。友達いないから」
「いないってことはないだろう」
「ついさっき、ひとりなくした」
フィオルが少しだけ黙り込む。
「グレーデンの家は、どっちだ?」
「ここから歩きだと、小一時間かかる」
「道順だけ教えてくれ。あとは俺ひとりで行く」
「ハイ、なにをいいだすの」
「だんだん、わかってきたんだよ」
がしと、両肩をつかまれた。思いがけず真剣な顔をしたフィオルが、間近に寄ってくる。
「あの、『魚』たちだ。
あいつらが俺を追いかけてたんじゃない。俺が、あいつらを呼んでたんだ。
俺は、本当に悪い者なのかもしれない!」
「ねえ、フィオル」
ユウカはそっとフィオルの手に触れた。
「あたしはアナーキストなの。正義とか悪とか、平等に興味ないの」
「俺は違うんだ! 自分が何者なのかわからない! 悪者なのかもしれない!
わかるか! 不安で不安で、仕方がないんだ!」
赤毛をかきむしるフィオルを前にして、ユウカはかすかな痛みを覚えていた。
「オーライ、グレーデンさんちに着いたら、キスしましょう」
「なにいってるんだ?」
キスは、ユウカにとって日常的な習慣だ。大した意味はない。そのはずだ。
にもかかわらず、ユウカの胸はいままで感じたことのない種類の鼓動を刻んでいた。
「人間、未練があれば未来がある。ダディがそんなこといってた」
チキチキと、耳障りな音。『魚』たちだ。もう追いついて来たのか。
ユウカはヘンメリを構えた。2発。それっきり、引き金は虚しい音を返す。弾切れか。
そこに、俊敏な動きで飛び込んできたものがあった。
イングレッタだった。幅広のナイフを振り上げるや、深々と『魚』に突き立てる。
一拍の予備動作もない。着地するや、両手にデザートイーグルを構えている。
射撃。違う。乱射だ。
いっそ小気味いいほど、『魚』たちが次々と砕け散る。
イングレッタがばさと髪の毛をかきあげた。
どこに隠し持っていたのだろうか。ゴロゴロと音をさせて落ちるものがあった。
パイナップルに似ている。手榴弾だ。しかも、大量にある。
「伏せろ!」
フィオルがユウカの頭を抱え込んだ。
爆発音。あやうく鼓膜が破れかける。爆風にあおられ、髪の毛が踊りくるった。
吹き飛ばされる形で、路地から出る。
起き上がるユウカの目に映ったのは、あまりにも圧倒的な光景だった。
赤々と燃え盛る炎を背に、静かな足取りで歩いてくる人影があった。
イングレッタだった。全身に火の粉をまとっている。
ボディスーツに覆われた肉体には、傷ひとつない。
「オーライオーライ、あんたの正体わかった。未来の重要人物なのよ。
で、あいつはあんたを暗殺するために未来からやって来た殺人マシーン。
映画と違うのは、中身がシュワちゃんじゃないってことだけ」
「しっかりしろ、錯乱するな!」
ぐいと、力強く手首を引っ張られた。
ユウカの父親が経営する喫茶店だった。
「ダディ、ソードを!」
「ダディとか呼ぶのをやめなさい」
カウンターの奥でカップを磨いていたユウキ・ジェグナンは、あわてもふためきもしない。
ユウカに向かって長細いものを放る。
喫茶店のドアが蹴破られた。イングレッタが踏み行ってくる。
ユウカは腰を沈め、床の上を滑るように移動した。
呼気とともに左手を握り込む。親指で鯉口を切る。両足をつま先立てる。
鞘走りの心地よい感覚。そして抜刀。
軽い音がした。
ポリマー製の銃身が、半ばからぱっきりと切断されている。
「パンク侍、斬られて候」
「斬られるのは、あなた?」
「ラストにね」
ユウカは日本刀を振り上げた。
イングレッタは半分になったデザートイーグルを投げ捨てた。腰からナイフを抜き出す。
1撃、2撃。刃物と刃物がぶつかり合い、火花を散らす。
左斜面斬り、すり落とされる。右腰車、弾かれる。虎走りからの斬り上げ、かすりもしない。
ナイフによる、強烈な突き込みがくる。ユウカの髪の毛が数本床に落ちた。
日本刀とナイフだ。リーチは圧倒的にこちらが有利なはずだ。
にもかかわらず、このザマだ。力量の差は圧倒的だった。
しかし、やりようはある。
ダンスも、歌も、格闘も、人間を相手にするものだ。心理戦に負うところは大きい。応用できるはずだ。
これ見よがしに日本刀を振り上げる。イングレッタのナイフを吸い寄せる。
すかさず、ユウカは脚を振り上げた。まわし蹴り。イングレッタの脇腹を深々とえぐり込んだ。
体格とウェイトはこちらが上。一気に蹴り抜ける。
手応えが軽い。軽すぎる。しまった。ユウカの全身から冷や汗が吹き出した。
三角飛びの要領で壁を蹴り、イングレッタが戻ってくる。
ナイフを投げ捨てたかと思うと、両の拳をコンパクトに構えた。
懐に飛び込まれる。ワン・ツー、ボディブロー、そしてフック。一瞬で四発叩き込まれた。
体勢を崩したところに、前蹴り。たまらず転倒した。カウンターに頭をぶつける。
手に衝撃。日本刀を弾き飛ばされる。
「素人が、調子に乗らないで」
イングレッタの声音には、若干の苛立ちが含まれていた。
「あなたは、世界を滅ぼす気?」
「世界じゃ不足よ」
「もう、よせっ!」
絶叫したのはフィオルだった。
わなわなと震える全身が、うっすらと発光している。
「まずい」
イングレッタがユウカの頭を押さえつける。
無音の衝撃だった。椅子が、テーブルが、粉々に砕けていく。
元から潰れかけていた喫茶店が、一瞬で廃墟になり果てる。
周囲には強烈なイオン臭が立ちこめていた。そこかしこで小規模な放電現象が起こっている。
異様な光景の中心にいたのは、フィオルだった。
顔や腕の皮膚がひび割れ、下から金属に似たものが露出している。
額が盛り上がり、ツノのようなものが突き出していた。
「あんた、いったい」
「時空を渡るとは、こういうことよ」
イングレッタの口調は痛いほどに冷えていた。
「時空ごとに、物理法則は微妙に異なっているの。
なにか特別な因子でも持っていない限り、形状を維持することすら難しい。
ここまでひとの姿でいられたこと自体、奇蹟に近いのよ」
「俺は」
フィオルの声は、ひどくしゃがれていた。
「なんなんだ」
「それは、わたしにもわからない。
変質したラウルもしくはフィオナ・グレーデンなのか、
どこかで生まれたグレーデンの子なのか、変質したエクサランスそのものか」
フィオルがうめき声をあげる。
なぜだか無性に悲しい気分になって、ユウカは床の上を這った。
「近づかないで。彼の肉体は反物質化の兆候を見せている。
数グラムでも惑星規模の破壊を起こすエネルギーよ。
人間サイズともなれば、この星系が危ない」
ユウカは構わず床を這った。
「ダメだ、近づいちゃ」
ユウカは構わず立ち上がった。震える両腕を持ち上げる。両手で、フィオルの頬を包み込んだ。
「聞いただろう。俺は、やっぱり悪いものだったんだ」
「いったはずよ。正義も悪も、平等に価値がないの。
あたしはあんたを肯定する」
全身に無数の痛み。
背中が、腕が、脚が、鋭利な刃物で切りつけられたかのように出血する。
「離れるんだ!」
「黙って」
熱に似た激痛がユウカの全身を切り刻む。
痛覚が遠のいていく。
夢見るような気分で、ユウカは血まみれの腕を伸ばした。
フィオルの背中にまわす。抱き締める。ぎゅうと力を入れる。
「肉体が実在を感じてる。
この痛みが、あんたって存在をあたしに刻み込んでくれる。
この痛みがある限り、あんたは確実に存在してる。
誰に否定させやしない。
たとえ世界があんたを拒絶しても、あたしはあんたを肯定する。
あたしだけは、あんたを肯定し続ける!」
「そこまでよ」
イングレッタが宣言する。
どこからか、『魚』たちが現れていた。
攻撃してくる気配はない。ふよふよと空中を漂う様は、穏やかですらあった。
「そうか。お前たち、俺を追いかけてたんじゃないんだな。
俺を迎えに来てくれたんだな、フェアリー」
「限界よ。彼を異世界に飛ばす。ナビは、その妖精たちがやってくれるでしょう」
フィオルが頷いた。その身体から放たれる光が、量を増す。
いやだ。ユウカはフィオルにしがみついた。顔を埋めた胸板は、たまらなく熱かった。
「キスして」
「いや」
ひび割れだらけの手が、そっとユウカの顔を押しとどめた。
「人間、未練があれば未来がある。そうなんだろう?」
「いじわる」
一瞬だった。フィオルは音もなく消えた。
消える寸前、ユウカはいたずらっぽく笑う少年の顔を見た。
急に静かになった店内で、ユウカは立ち尽くしていた。
「彼とは、また会える?」
「時の迷子というべき存在よ。彼は、崩壊と再構築を繰り返しながら時空をさまよい続ける。
もしまた会えたとしても、あなたは気付かないでしょう。
まったくの別人になっているかもしれないし、人間ですらないかもしれない」
「素敵。彼とは、いつでもファーストコンタクトなのね」
傷だらけの身体で、ユウカはすっくと立っち上がった。
「ダディ、ソードを」
ユウキは無言で日本刀を放る。
「ソードで戦ったことは?」
「一度だけ」
「それは重畳」
イングレッタに向けて日本刀を投げる。
「立ち会って」
「そうする意味は」
「意味って、あたしの中でそんなにウェイトを占めてないの」
「非論理的なのね」
「でないと、あたしのハートはときめかない」
「あなたがわたしに勝てる要素はないと思う」
「素敵」
「手加減はしない」
「サンクス」
イングレッタが抜刀する。
ユウカは日本刀を斜めに捧げ持った。
火花が散ったのは、一度きりだった。
病院で目を覚ますまで、丸一日かかったらしい。
ユウカは全身を包帯で巻かれてベッドに寝転がっていた。
「まったく、お前のケンカっ早さは誰に似たんだろうな」
枕元でリンゴを剥きながら、ユウキが愚痴をいう。
「ダディだと思うけど」
「ダディと呼ぶのをやめなさい」
「じゃあパパ」
「パパもやめなさい」
「あたしね、けっこう情熱的な人間だったみたい」
「いまごろ気付いたのか。お前は、あいつの娘なんだぞ」
「ねえダディ、キスしていい?」
「取っておきなさい」
「そうね」
節々が痛む身体を引きずり、ユウカはベッドから降りた。
「おい、どこに行くんだ」
「屋上よ。ラヴソングを歌いに」
父親の小言が始まる前に、ユウカは鼻歌を歌い始めた。
最終更新:2009年10月17日 13:34