ハッピーバースディ


26代目スレ 2008/11/12(水)

 そのときも、フィオル・グレーデンの肉体はフィボナッチ宇宙のただ中で粉々に崩れ
つつあった。
 ――ああ、またか。
 フィオルの胸に、一種諦観にも似た想いが訪れる。

 フィオル・グレーデン。エクサランスチームと関連する何者か。
 わかっているのはそれだけだ。
 まだ少年の面影を残した顔立ちと真っ赤な髪の毛がラウル・グレーデンとフィオナ・
グレーデンに似ているからなんとなくフィオル・グレーデンと名乗ってはいるが、本当
は誰が父親で誰が母親なのかもわからない。
 昔々、グレーデン兄妹、ミズホ・サイキ、ラージ・モントーヤの4人は時間の流れる力
を動力源とした時流エンジンを内蔵するエクサランスという機動兵器を開発した。この開
発は、どうやら失敗したらしい。
 時流エンジンは暴走すると時空跳躍すら引き起こす。無限に存在する可能性の中には、
五体満足で別世界に渡った者たちもいたかもしれない。しかし、それは天文学的な確率
だ。大部分は時空のねじれに押しつぶされてしまうか、まったく別の何者かに変質して
しまう。
 宇宙は、そう簡単に異物を受け入れられるようにはできていない。並行世界が存在す
れば、その数だけ物理法則も構成元素も異なる。運良く別世界に出ても、存在すること
自体が難しい。タイムダイバーと呼ばれる人種はほぼ本能的にそうした問題をクリアし
てしまうらしいが、フィオルは違う。
 不完全な時空跳躍をしたフィオルの肉体は非常に不安定で、常に変質し続けている。
動物や細菌になってしまうくらいならまだましだ。悪くすれば通常物質と反応し、対消
滅にも匹敵する破壊を巻き起こす。それでなくとも変質の末肉体は崩壊し、時間がくれ
ばほかの宇宙に弾き飛ばされてしまう。
 時の迷子。かつて遭遇したタイムダイバーはフィオルをそう称した。
 いったい、何百億何千億の崩壊と再構成を繰り返してきたのだろうか。
 フィオルには、自分が何者なのかわからない。
 どこかの並行世界で産まれたエクサランスチームの子供なのか、変質してしまったエ
クサランスチームの誰かなのか、それとも変質したエクサランスそのものなのか。

 ↓
 ぼんやりと見える景色は、暗い。どうやら夜のようだ。
 コンクリート製の道路とブロック塀、それに2階建てのこぢんまりとした住宅が並んで
いる。人間の住んでいる世界らしい。街並みを見る限り、二十一世紀初頭にプラスアル
ファした程度の文明レベルのようだ。
 視界に映った自分の手は、昆虫の足のように節くれ立っていた。

 ――この世界でも俺は、人間の姿ではいられないのか。

 変質を繰り返すフィオルは、いままでにもあらゆる形態を取ってきた。泥人形になっ
たこともあれば、ウィルスになったこともある。人間でいたことの方が少ない。

 ――どうせこの世界からも、すぐに弾き飛ばされる。

 街灯の薄い明かりの下に、ひとりの少女が立っているのを見つけた。
 いや、あれは少女といってよいのだろうか。
 本来乳房があるべき位置には、底知れない虚無が渦を巻いているだけだった。フィオ
ルが知る限り、女性はあんな体型をしていない。脳裏をグラマラスな肢体が横切っていく。
 少女が口を開いた。

「ゲット・セット・シル・コ・オーッ!」
 甲高い声とともに、濃緑色をした大量の汁がどこからともなく津波のように押し寄せ
て、少女の上にかぶさった。ゲル状になると、ぶよぶよと顫動しながら急速に膨張し始める。
 あっというまに見上げるほどの大きさになったそれは、人間のような手足を備えてい
た。ただし、腕や脚には虎のような縞模様が走り、顔などは虎そのものだ。胸の上には
龍に似たオブジェがある。全身、濃緑色をしていた。

 ――またか。

 どうせ、あれはこの世界の守護者かなにかだろう。
 いままでにも似たようなことが何度もあった。フィオルを外敵とみなし、一方的に追
い立てようとするのだ。

 ――俺は、
 申し開きをしようにも、現在のフィオルには声を出す器官が備わっていなかった。

 ――いつまで、こんなことを続けるんだろう。
 自分が何者なのかわからない。目的もない。世界を守るなどという使命などもちろん
帯びていない。時空の狭間をさまよい歩き、辿り着いた先では追い立てられ、自分に恋
をしてくれている少女にキスひとつしてあげられない。

 ――せめて、放っておいてくれ。
 少年の胸に、ふつふつと苛立ちが湧く。
 どうせ時間が経てば崩れ去っていく肉体だ。
 害意などない。せめて少しの時間休ませて欲しいだけだ。
 それなのに、敵意を向け憎悪を向け武器を向け、自分を排除しにかかる。

 ――どうして俺がこんな目に。

 虎の巨人は動かず、じっとフィオルを見下ろしている。
 目の前には、鋭い爪を備えた巨大な足があった。
 この足のひと踏みで、自分の身体は簡単に潰れてしまうだろう。

 ――俺がなにをした。

 なのに敵意を向けられる。

 ――殺されるのは、何度目だ。

 全身を流れるエネルギーが、熱を帯びて循環し始める。

 ――なんだ、じゃあこれは、正当防衛じゃないか。

 フィオルは虎の巨人に向かって一歩踏み出した。

 ――やられっぱなしでいられるほど、俺はお人好しじゃない。

 目の前の虎は強大だ。この肉体では太刀打ちできない。

 ――もっと大きく! もっと硬く!

 こんなときだけ、この肉体はフィオルの想いに答えてくれる。
 全身の骨がミシミシと音を立てながら巨大化していく。アスファルトに亀裂が走る。
あっという間に視線の位置が虎の巨人とおなじになった。皮膚は硬質化し、オレンジ色
をした外骨格に変わっていく。右腕には巨大なカギヅメを備えた武器が現れていた。
 エクサランス・ストライカー。ただしフィオルの記憶にあるデータよりもひとまわり
大きく、あちこちが鋭く尖っていた。頭には8本ものツノを頂いている。
 この姿になったからには、長時間この世界に留まることはできない。構うものか。ど
うせ長居はできない身だ。

 ――少しくらい憂さ晴らしをしても、バチは当たらないだろう!

 アスファルトを蹴り砕きながら突進する。虎の手前で高々と跳躍した。つま先に鋭い刃
物が現れる。スマッシング・キック。虎の胸板に斜めの傷を刻んでやった。返す刀でカギ
ヅメの一撃、カギヅメを展開させビームを浴びせる。ブーストをかけ、再度突撃をかける。
ギガント・スマッシャー。閉じたカギヅメを虎の胴体に突き立て、何度も何度も抉り込
んでやる。

 虎の巨人が、よろめきながらも右の拳を振り上げた。どのような仕組みなのだろうか。
拳は一瞬濃緑色のゲル状になると、円錐型に変形した。あれは、ドリルか。
「ヴァリア汁・ドリル!」
 高速で回転するドリルからは、濃緑色の汁が飛び散っていた。

 ――あの汁に触れたらダメよ。
 耳元でフェアリーに囁く。いわれるまでもない。

 ――もっと速く! もっと高く!

 フィオルは天を仰いだ。全身の体色がさっと青色に変わり、背中には巨大な羽根が生
える。右のカギヅメは長大なライフルに成り代わっていた。
 エクサランス・フライヤー、汁の飛沫などとどかないほどの高度に、一瞬で駆け上が
った。身体を撫でていく風圧が心地よい。
 成層圏に達しようというところで、急降下。虎の巨人がこちらを見上げている。なに
もさせるものか。ディストラクション・ライフルを撃ち散らした。
 虎は棒立ちのまま。そのまま動くな。フィオルは巨人の肩に降り立った。ふたたびス
トライカーの姿を取ると、カギヅメの先端を閉じた。虎の肩へ、深々と突き立てる。
 縞模様を浮き上がらせた腕が宙を泳ぐ。その腕を、両腕で抱えた。足を首筋にかけて
力を入れる。
 みちみちと音をたてて、虎の右腕をもぎ取った。
 傷口から大量の汁が噴き出した。この汁を浴びるとまずいのか。ディストラクション
ライフルの銃口を押し当て、発射する。高エネルギーの光芒がフィオルの頬を照らし出
した。大量の湯気を上げながら汁が蒸発していく。黒焦げになった傷口からは、呪符の
束のようなものが覗いていた。呪術的なエネルギーで動いている機体なのだろうか。

「やめてーっ!」
 虎の足元に誰かいる。人間の少女だ。パジャマの上にカーディガンを羽織り、銀色の
髪を夜風になびかせている。
「やめてクリハ! これ以上汁機人を動かしたら、雑学クイズ番組ブームが終わっちゃう!
 また、健康バラエティ番組ブームが来ちゃうんだよぉーっ!」

 健康バラエティブーム、そういったか。
 あの、欺瞞に満ちた俗悪なブームをもたらそうという機体なのか、この虎は。

 ――なあんだ、じゃあこの虎は、悪者じゃないか。
  悪者をやっつける俺は、正義の味方じゃないか。

 フィオルの胸の中に、初めて感じる類の喜びが芽生えた。

 ――俺のようなバケモノが世界を守るのか!

 血が沸き肉が踊る。
 もだえる虎の首を左腕で絞め、カギヅメを高らかに振り上げた。
 一条の光線がフィオルの肩をかすったのはそのときだった。
 どこだ、上か。
 一体の人型機動兵器が月を背に浮かんでいた。全身が漆黒で、背中からは禍々しい形
をした羽根が生えている。頭部は特徴的な三角形をしていた。周囲には拳銃に似た形を
した小型の機械がいくつか浮遊している。
 あの機体は、知っている。

 ――ひっこんでいろアストラナガン

 フィオルは思念の限りに叫んだ。

 ――この虎は俺の獲物だ!
  文句はないだろう、通りすがりに世界を救ってやるのだから!

「いいえ」
 凍えるような声がアストラナガンから流れる。
 イングレッタ・パディム、タイムダイバーのひとり、初対面でフィオルの土手っ腹に
穴を開けた、恐ろしい女だ。
 アストラナガンがZ.O.ソードを持ち上げる。その剣先が向かう先は、フィオルだった。

 ――なぜ。
「前にいったでしょう。
 あなたの不安定な肉体は、ただ存在するだけで世界に破壊をもたらすのよ。
 また現れたのなら、容赦しない」
 ――自分の限界くらいわきまえている! 変質が始まれば、勝手に退散する!
「不要な闘争は悪よ」
 ――この虎は、健康バラエティブームを引き起こす悪党なのだろう!
「あなたは八つ当たりしているだけよ」
 ――黙れっ!

 フィオルは怒鳴った。

 ――正義の味方面するな! 俺が存在することも許さないくせに!
  たまに楽しむことすら許さないというのか!

 苛立ちは容易に怒りに置換された。
 いまや、フィオルの敵意は虎の巨人ではなく漆黒の天使に向かっていた。

 ――フェアリー!

 フィオルの声に応えて、破壊の妖精たちが雲霞のように現れて天を覆い尽くす。

 ――蹂躙してやれ!

 フェアリーたちがアストラナガンに殺到する。ガンファミリアどもが応戦に向かうが、
数が違う。しかも全方向からだ。いかにアストラナガンといえど、避けられるはずがない。
 距離が近すぎる。こちらも巻き添えを食うのは確実だろう。構うものか。どうせ放っ
ておけば崩れる身体だ。

 ――わからないくせに!
  なんの目的もなく時空をさまよい続ける孤独が!
  百億の崩壊と千億の再構成に揉まれて、
  自分をバケモノだと知る嫌悪が!
  タイムダイバーのお前には、わからないだろう!
  お前も味わえばいい! 生きながら身体が崩れていく恐ろしさを!

 フェアリーたちが一斉攻撃にかかる、その寸前だった。
 突如ゲル状の巨大なものが空中に現れ、アストラナガンをすっぽりと覆ってしまった。
フェアリーたちの光線を浴びても、わずかに顫動するだけだ。効いていないのか。
 あれはなんだ、どこから現れた。
 疑問を差し挟む余地もない。
 ゲルが空中に向かって長く伸びた。長く、長く、どこまでも長くなり、やがて一匹の
動物の姿を取った。蛇、違う。頭に2本のツノを頂き、長いヒゲを空中にくねらせてい
る。よく見れば胴体からは小さな羽根が生えていた。
 龍、ドラゴンだ。
「百汁調合! 万精駆吸! 汁々如律令!」
 どこからともなく、少女の甲高い声が響く。
 龍の口から一枚の呪符のようなものが吐き出される。信じられない速度で空中を突き
進むと、フィオルの額に貼り付いた。

 ――ぎゃああああっ!
 フィオルは悲鳴を上げた。
 呪符が、まるで爆雷のように破裂しフィオルの額を焼いたのだ。

 ↓↑
 気が付くと、フィオルは上も下もない真っ暗な空間を漂っていた。

 ――また、ここか。

 フィオルは身体を縮めた。何度か流れ着いたことがある。熱という概念すらない超空
間だった。あの呪符がなんらかの効果を発揮し、フィオルを弾き飛ばしたのだろうか。
 この空間にはまってしまうと、すぐには抜け出せない。
 長い長い孤独を耐えなければならない。

 ――寂しい、冷たい。

 今度はどのくらいかかるだろうか。千か万か億か兆か、それ以上か。

 ――いっそ消滅できたら楽なのに。

 存在の定義が連続性にあるというのなら、複数の時空に点在しているフィオルは存在
しているかどうかも怪しい。
 当然、存在していないものは消滅することもできない。

 ふと、コメカミに違和感を覚えた。
 この虚無の空間で、かすかなエネルギーの乱れが起こっているのだ。
 誰かいるのか、いったい誰だ、自分のように跳ばされた者だろうか、
それとも想像もつかない怪物だろうか。
 構わない。誰でもいい。話し相手になって欲しい。手に触れさせて欲しい。
 前も後ろもない超空間で、フィオルは這うようにエネルギーの乱れを探し求めた。

 と、鋭い痛みがフィオルの頭を貫く。

 ――助けて!

 人間の思念波だった。しかも、痛みと錯覚するほどに強烈なものだ。

 ――どこだ、どこにいる! 助けてやる! 助けてやるから!
  ひとりはいやなんだ! もう、ひとりではいたくないから!

 いた。いや、「いた」といっていいのだろうか。
 フィオルの手の平に収まるサイズの、小さな時粒嵐だ。見ているそばから収縮してい
る。すでに消滅する寸前のようだった。
 思念波は、その時粒嵐の中から放たれていた。

 ――助けて!

 オレンジ色のなにかがふたつ、がっちりとお互いの手を握り合っている様が見える。

 ――助けてくれ!
  俺はどうなっても構わない! フィオナを! ミズホを! ラージを!

 ――助けて!
  あたしはどうなっても構わない! ラウルを! ラージを! ミズホを!

 ――助けて!
  わたしはどうなっても構わない! ラウルさんを! フィオナさんを! ラージさんを!

 ――助けてください!
  僕はどうなっても構わない! フィオナを! ラウルを! ミズホを!

 四つの声が、自分以外の誰かを助けてくれと叫んでいた。

 ――あぁっ!

 フィオルは声もなく呻いた。
 感覚の糸を研ぎ澄ます。
 時空嵐の中に囚われているのは、2体のエクサランス・ストライカーだった。
 中にいる人間の名前を間違えるはずがない。
 ラウル・グレーデン、フィオナ・グレーデン、ミズホ・サイキ、ラージ・モントーヤ。
 時空のねじれに押しつぶされ、消滅の間際にあって、4人は我が身も省みず仲間たちの
名を呼んでいた。

 ――あっ、あぁっ!

 フィオルは両手を伸ばした。時粒嵐をつかもうとする。
 しかし、手は虚しくすりぬけた。
 フィオルの目の前で時粒嵐は米粒大になり、分子レベルになり、原子レベルになり、
素粒子レベルに縮んでいく。
 そして、消えた。
 いや、フィオルの感覚は不思議なぬくもりを察知していた。
 限りなく無に近い、ただひとつの点だった。
 その点が、動いている。熱を持ち、分裂し、膨張し始めている。

 ――あぁっ、あぁっ!

 フィオル・グレーデンは時流嵐のただ中で立ち上がった。
 産まれたばかりの新鮮な肉体が強烈な熱を放っている。
 自分は、いままさに誕生したのだ。
 わなわなと震える手で、我が身を抱きしめる。
 この逞しい腕は、戦士であった父のものだ。
 目にかかる赤い髪は、勇敢であった母のものだ。
 長く繊細なこの指は、技術者であった母のものだ。
 光を映すこの目は、研究者であった父のものだ。
 全身の細胞と融合しているこれは、ふたりの父とふたりの母が手に手を取り合って作
り上げた機体のものだ。

 ――あぁーっ!

 目から、はらはらと熱い涙がこぼれていた。

 ――お父さん! お母さん!
 エクサランスチームの4人が互いをかばい合う魂と肉体と、2体分のエクサランスが圧
縮され融合した存在が、この肉体だった。

 ――ああ、僕はバケモノじゃなかった!
  お父さんがいた、ふたりも! お母さんがいた、ふたりも!
  僕は、愛から生まれていた!

 穏やかな波動がフィオルを包んでいた。
 果てしない超空間の中で、巨大な龍が横たわっている。
 その鼻先で、胸に虚無を抱く少女が立っていた。
 慈しみに溢れた目でフィオルを見つめている。

 ――君は、どうして。
「だってわたしは、ゼラドの一番古い友達だもの」

 そのひと言で彼女の望みがわかった。
 手段は、すでにこの手の中にある。
 行き先は、彼女が示してくれる。

 虚無の中で巨体をくねらせ、龍は人型を取った。
 足元に湖面に似た青を現し、両の手から火の粉をまき散らしながら回転し始める。
 その動きは、雄壮な舞いに似ていた。
 ただひたすらに黒いだけだった超空間に、眩いばかりの光の柱が立つ。
「召喚! 兜汁八卦炉!」
 どこからともなく浮かび上がった八角形の中に、長方形の板が次々と降り注いだ。
 闇の中で胸に虚無を抱く少女の姿が浮かび上がる。
「汁々如律令!」

 フィオルの胸の中で時流エンジンが力強い鼓動を打つ。
 さあ、彼女の望みをかなえよう。
 それだけの力は、ふたりの父とふたりの母が与えてくれた。
 少年が発生した時点では、まだ存在していなかった力だ。
 しかし、それにどれほどの意味があるというのだろう。
 時間とは想いの蓄積だ。だから、刹那の想いが永続性を持つのだ。
 できないはずがない。

 フィオルの全身が変わっていく。
 胸に手を当てると、光り輝く剣が現れた。
 胸に虚無を抱く少女が描いた八角形に飛び込んでいく。
「スラッシャー、セパレーション!」
 斬りかかる。一度ではダメだ。なら、繰り返すだけだ。
 二度、三度、時空に亀裂が走っていくのがわかる。
「ディメンション・スラッシャー!」
 時空の壁が音を立てて崩れた。

 ↑↓→
 コンクリート製の道路とブロック塀、それに2階建てのこぢんまりとした住宅が並んで
いる。
 フィオルは穏やかな気持ちでいた。
 もう寂しくはない。この肉体が父母の想いから産まれたことがわかったから。
 小麦色の肌を持つ少女の姿を思い浮かべた。

 ――会いに行けなかったね、ユウカ。

 膨大なエネルギーを消費したことにより、フィオルの肉体はすでに半ばまで崩壊していた。

 ――許してくれるね?
  だって僕は、とても喜ばしいことをしたんだ。

 フィオルは、4人分の愛情のもとに誕生した。
 誕生とは神聖なものだ。
 誕生とは喜ばしいことだ。
 誕生とは祝福されるべきものだ。
 だからこそ、胸に虚無を抱くあの少女は、フィオルの力を借りてこの時間にやってきたのだ。
 ほかでもない、9月5日に。

 道路の向こうで、クリハ・ミズハゼラド・バランガの手を取っていた。
「お誕生日おめでとう、ゼラド!」

 彼女の誕生は神聖なものだ。
 彼女の誕生は喜ばしいことだ。
 彼女の誕生は祝福されるべきものだ。
 さあ、彼女の誕生を祝福しよう。

 ――ハッピーバースディ、ゼラド・バランガ。

 呟きが終わる前に、フィオル・グレーデンの肉体は跡形もなく崩れ去った。
 しかしもう、絶望も恐怖もなかった。
 百億の崩壊と千億の再構成の果てに、いつか望ましい肉体で誕生できる希望があるからだ。

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最終更新:2009年10月17日 13:53
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