29代目 2009/07/03(金)
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フィオルは、蕎麦を打っていた。
木鉢の中で蕎麦粉とツナギをよく混ぜる。素早く水を加える。回数は3回。水分が均一
になるように、指先で素早く混ぜる。
手の平で粉のダマをほぐし始める。皮膚の下で、粉が繋がり合っていくのがわかる。
さらに握力を強めて練り込んでいく。生地を木鉢に擦りつけるように。耳たぶの硬さ
になったところで丸めて空気を絞り出す。
のし台の上に打ち粉を振って、生地を叩きつける。手の平で丸く延ばす。めん棒を握り
均等に伸ばしていく。体重は均等に。両手を外から内へと移動させ生地を滑らかに
広げていく。
擦り切れた暖簾をくぐって、ひと組の老夫婦が店の中に入ってきた。ゆっくりとした
足取りで黒光りするテーブルに着くと、なにやら話しながら壁の品書きを見上げ始める。
女房が伝票を持ってテーブルに歩いていく。
注文を聞くとき、女房は少し大きめなお尻をついと突き出す癖がある。フィオルは、その
後ろ姿を眺めるのが好きだった。
「オーダー、かけ蕎麦二つだって」
「ああ」
切り板にたっぷり打ち粉を振り、薄くのばした生地を八つ折りにする。あの客の年齢
なら、麺は極細がよい。
包丁を握りしめる。呼吸を整えながら、刃先を生地に当てた。
はたと、気付く。
自分は、どうしてこんなところで蕎麦を打っているのだろう。
自分の名前は
フィオル・グレーデン。この山奥で蕎麦屋をやっている。近くにはロー
プウェイがあって、行楽客などがぽつりぽつりと訪れる。
東京で2年間修行をして、3年前にいまの女房と結婚したのを機に独立した。この店は、
もう老齢に差し掛かっていた前の店主から安く譲ってもらった。
思い出してみれば、たしかに記憶はある。しかし、なにかが妙だった。まるで、大昔に
観た映画の映像を自分の記憶と混同してしまっているような違和感があった。
「ン、どうしたの?」
女房が自分の顔を覗き込んでいる。
「いや、少しボーッとして」
「夏風邪? マヌケね」
「君を見てたらさ」
「バーカ」
そうだ、なにを考えることがある。自分はいま、幸せではないか。
突然、ビー、ビーと耳障りなサイレンが響いて天井を震動させた。
数秒遅れて、店の隅に置いてあった黒塗り電話がジリリと鳴り始めた。
女房が素早い身のこなしで受話器を取り上げる。
「あんた」
額に前髪を貼り付かせて振り返る女房の顔が綺麗だと、フィオルは思った。
「レスキュー要請。川に子供が落ちたんだって」
「わかった」
前掛けを外して、店の外に飛び出した。
川が流れているのは、山をひとつ越えた向こうだ。この季節になると突然増水して、
川遊びに来ていた子供を流したりなどする。川下は岩場になっていて、年に何回か痛ま
しい事故を起こしていた。
ここに自分がいる限り、痛ましい結果にはさせない。
フィオルは天を仰ぎ見た。
雲ひとつ無い、真っ青な空が広がっている。その青さを映し出すように、フィオルの
体色が青く変わっていった。衣服が弾け飛び、全身が25メートル近くまで巨大化する。
胸部が大きくせり出し、両脚は流線型をした装甲に覆われる。揚力を得やすい形状に変
わったところで、背中に2枚の巨大なウィングが広がった。
エクサランス・フライヤー。空中での活動に特化した姿で、背部の可動式ブースター
はヘリコプターなど問題にならないフレキシブルな飛行を可能にする。
自分の名前はフィオル・グレーデン。この肉体にはレスキューにかける熱い想いが込
められている。なら、人命救助は自分の使命だ。
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山を越えるのに、10秒もかからない。
要救助者はどこだ。ホバリング状態のまま、視覚をズームアップさせる。
川岸にはいない。もう少し川下か。岩場に入っていなければいいが。
いた。白い波をかき分けて、小さな手がばたばたと動いていた。
「いま行くぞ!」
ひと声上げて、フィオルは急降下した。
ウィングはすでに消えていた。両肩は巨大なスクリューを備えている。頭部からは高
性能センサーの働きを果たす2本のアンテナが生えていた。
エクサランス・ダイバー。水中での活動には適しているが、20メートルを越える
全長はこの川のサイズには大きすぎた。
身長を2メートル前後にまで縮める。これで大丈夫。水面に飛び込んだ。
波にもまれながら、視覚をサーモグラフィに切り替える。要救助者の体温はすでに下
がり始めていた。急がなければ。スクリューをフル回転させる。
あと2メートル。1メートル。届く。手を伸ばす。
がしりと手首をつかまれた。要救助者がしがみついてくる。もの凄い力だ。
恐慌に陥った要救助者に動きを奪われ、二次災害を起こす話はよくある。フィオルは
スクリューを回転させて水面から顔を上げた。
「もう大丈夫だ!」
声をかけながら、要救助者を抱きしめて背中を叩いた。
「なにが?」
ぞっとするような声音がフィオルの耳を撫でる。
要救助者の姿が、いつの間にか子供ではなくなっていた。華奢だが、長い手足を備え
ている。目の前にある黒髪は、一滴も濡れてない。
「救いなんて、どこにもないのに」
黒い前髪を透かして、赤みがかった瞳が嘲笑の形に歪んだ。
●
「ルナってさあ、別荘とか持ってないの?」
そんなことを言い出したのは
マキネ・アンドーだった。
OG学園の、元はなんに使われていたのかよくわからない教室の中だった。
ユウカ・ジェグナンは壁にもたれかかってベースをいじりながら、「ああまたマキネが
妙なことを言い出した」と考えていた。
「留学中の身で、別荘など持っているはずがなかろう」
惑星
バルマーのお姫様という出自の割には、あまり裕福な臭いがしないルナ・ティク
ヴァーがため息をつく。
「だって、キーボードの仕事っていったら別荘用意することじゃん」
「どう考えても、キーボードの仕事は鍵盤を叩くことだと思うが」
「マキネちゃん、別荘なんかどうするの?」
祖母か誰かから譲り受けたというリッケンバッカーを傍らに置いて、スナック菓子を
食べていた
ゼラド・バランガが口を開く。
「そりゃあもちろん、我が部の合宿よ」
マキネは誇らしげに胸を反らした。
「え、これ、部活だったの?」
「なんの申請もしておらぬから、同好会ですらないただの集まりだぞ」
生徒会長を務めるルナが困り顔をする。
元はといえば、ギターを習いたいといってユウカの元にやって来たゼラドに、どういう
わけかマキネが絡んできていつの間にかルナを引っ張り込んでいた集団だった。ユウカも、
持ち慣れたギターをベースに持ち替えてゼラドのサポートに徹している。
「部にしたいというなら、きちんと申請書を」
「いや、そこまでのテンションはないよ。
来週からは野球やんなくちゃだし」
「野球?」
「なぜ来週からだ」
相変わらず、マキネのいうことはよくわからない。
「参ったなあ、ルナが別荘持ってないとなると」
「どうも、マッキーがこの活動にどういうパッションを持ってるのかわかんない」
「しゃあない、じゃ、うちの別荘使うかあ」
あるのか、とユウカは胸の中で呟いた。
●
電車をいくつ乗り継いだだろう。無人駅を降りて30分ほど歩いたところに、半分潰れて
土に還りかけたような民家が建っていた。
昔は登山コースでもあったのかもしれない。青々とした木々の向こうに、錆びたロープウェイが見えた。
「お嬢さん、ここは別荘じゃありません」
薄めたココアのような色の髪をした青年は、マキネの顔を見るとがっくりと肩を落とした。
ユウカに向かって、恨みがましい表情を寄こしてくる。
「ジェグナンさんのお嬢さん、いらしてたんなら止めてくださいよ」
「会ったこと、あったっけ?」
「覚えてませんか? 何度かお店にうかがってますよ」
言われてみれば、父親が経営する喫茶店にこんな男が何度か訪れていた。たしか、バ
チュンと呼ばれていた。立ち居振る舞い、それに父親の彼に対する態度から考えると、
どうやらDCの関係者のようだった。
「マキネちゃんのお友達?」
「友達というか、腹心というか」
「あたし、あんたを部下にした覚えなんかないよ?」
「あれ? あなた、バランガさんのお嬢さん?」
「わたしのことも知ってるの?」
「うわぁっ!
ルナ・ティクヴァー!?」
「なんだ? お主と面識はないと思うが」
「これはまずいですよ、お嬢さん。
見ようによっては、
DC残党がバルマーのお姫様をアジトに拉致したみたいになってるじゃないですか!」
言われてみれば、ゼラドの父親は昔DCに在籍していたことがあった。ユウカの父親は
いまでもこの男と親交があるようだし、マキネに至ってはDC創始者の孫だ。
「あっはっは、いいじゃん、ルナ姫誘拐事件だ」
「身代金はお菓子だあ!」
「ゼラドも、ノるでない!」
「いいじゃん、いまさらノイエDCにガチンコの戦争する体力なんかないって、みんな知ってるよ」
「そうですけれども!」
「ルナぁ、バルマーってさ、まだ地球に戦争仕掛ける気とか、あんの?」
「バルマーは復興中だ。戦争をするような国力など、どこをひっくり返してもありはせぬ」
「だってさ、よかったじゃん。情報仕入れられて」
「そんな情報、地球圏中のひとが知ってますよ!
でもですね、国交正常化以降、バルマー技術者による技術侵略という問題が」
「なにそれ。単なる労働問題じゃん。
ゲリラ組織なんかが口はさむ話じゃないよ」
「我々にも、出資者への体面というものがあってですね」
「ああ、いいよそういうのは、めんどくさい」
なおも泣き言を続ける
バチュンを背に、ユウカは民家の中を見てまわっていた。
デコボコとしたセメントが剥き出しになった床だった。昔は飲食店かなにかだったの
だろうか。古ぼけたテーブルと椅子が隅に片付けられていた。奥の厨房は長い間使われて
いないらしく、ガスコンロや鍋が埃を被っていた。
厨房の奥には、やけに新しい扉があった。少し開くと、掠れた臭いが鼻孔を刺激した。
硝煙の臭いだ。
なるほど。どうやらここは、ノイエDCの射撃練習場かなにからしい。
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なんだ。いったい、なにが起こった。
水が消えていた。いつの間にか、フィオルがいる場所は川の中ではなくなっていた。
真っ暗だ。上も下もない。重力すらも感じられない。宇宙空間、ではない。一種の
超空間のようだった。
黒髪の青年が黒衣を揺らしながらフィオルを見下ろしていた。
「胡蝶の夢は、楽しかったかい?」
「なんの話だ」
「兄弟へのプレゼントさ、あの幻は」
そうだ。自分が、蕎麦屋の亭主などやっているはずがない。
自分はフィオル・グレーデン。時粒子の嵐に巻き込まれて潰れていったエクサランスチ
ームの4人、それに2体のエクサランスの肉体と精神が融合して生まれた子供だ。不完全
な時空転移を何度となく繰り返し、そのたびに肉体の破壊と再構成という苦痛を味わっ
てきた。
「なぜ、そんなことを」
「好きなんだ」
傷口のような唇が微笑みを浮かべる。
「幸せに浸った人間が、絶望に落ちていくときの、その表情が」
黒髪の青年の背後に、ぬっと巨大な影が現れた。
全長は30メートルを超える。全身が漆黒で、肩やつま先からは金色の突起が突き出し
ていた。背中には尖った形状のウィングが2枚生えている。威嚇的なラインをした頭部
の奥では、2つのカメラアイが青年の瞳とおなじ赤い光を灯していた。
「シュロウガ」
声と共に、青年の姿が黒い機体の中に飲み込まれていく。
あの機体は、シュロウガというのだろうか。どこか
アストラナガンに似ている。機体色
だけではない。全体から立ち昇る雰囲気が、どことなくタイムダイバーの機体と共通して
いた。
「さあ、来たまえ」
シュロウガが節くれ立った手の平を差し出してくる。
「永遠の旅路は、一人では寂しすぎる。
僕たちに必要なのは、お互いを慰める伴侶さ」
「嫌だ」
「どうして」
「男を伴侶に迎えるつもりはない」
「悲しいな」
「それに、俺は慰めてもらう必要なんてない」
「そうか」
シュロウガが頭上に手を掲げる。
「どうやらまだ、絶望が足りないと見える」
赤い稲妻が迸り、どこからともなく鞘に収まった剣が現れる。
剣を抜き払い、鞘を投げ捨てると同時に、シュロウガの両肩が白い光を吐いた。
恐るべき加速で迫ってくる。
回避が間に合わない。それに、水中用のダイバーでは相手にもならない。ほぼ反射的に、
フィオルの全身がオレンジ色に染まる。向かってくる刃に対して、右腕のカギヅメを展開させる。
エクサランス・ストライカーのクラッシャーアームが、ごきりと嫌な音をさせた。
シュロウガが振るう剣はカギヅメを易々と切断し、フィオルの装甲板まで深々と切り裂
いていた。
間近で、シュロウガの両眼が赤く瞬く。
ストライカーの全長は20.4メートル。シュロウガの方が10メートルほど大きい。接近
戦は不利だ。フィオルは逆噴射をかけ、大きく後ずさった。
同時に、またしても姿を切り替える。全身が浅い紫色に染まり、背部には大型のブー
スターが現れる。エクサランス・コスモドライバー。上も下もわからないこの超空間では、
宙間戦闘用のこの姿の方が適している。
「フェアリー!」
数十機もの小型戦闘機を放ち、一斉にシュロウガに向かわせる。
片手に剣をぶら下げたまま、シュロウガは微動だにしない。
今まさに光線を吐き出そうとしたフェアリーが、突如として爆発した。一機だけでは
ない。一瞬で少なくとも4機、次の瞬間には6機が落とされた。
底知れない暗闇をした空間を、真っ赤な軌跡が切り裂いていた。
カラスに似た、小型の戦闘機だった。シュロウガから放たれたものだろうか。4機いる。
4機だ。たった4機で、数十機ものフェアリーが次々と堕とされていく。まるで、羽虫の群れ
に猛禽が突っ込んでいく光景を見ているようだった。
「その魂魄を、削り裂いてあげよう」
すべてのフェアリーを駆逐し終え、黒鳥がフィオルに殺到してくる。
赤い光に包まれた黒鳥の中に、鋭い牙が見えた。突撃してくる。体当たりか。回避。
視界の隅に、いま一羽の黒鳥を捉える。交わしきれない。全方位からの攻撃だった。
激痛に肩を抉られた。コスモドライバーの分厚い装甲がごっそりと削り取られている。
物理的なダメージだけではない。まるで毒を浴びたように、脳が痺れる。
「フィオル・グレーデン! 時の迷子よ!」
黒鳥たちが嵐のように舞い狂う中で、黒衣の青年の声が響いた。
「君はわかっているはずだよ。自分の旅路に終わりなどないこと。
自分の人生に救いなどないこと」
「君は、何者なんだ」
「僕は時と因果律の幽囚さ」
黒鳥たちが描く赤い軌跡をかき分けて、真っ黒な手の平が再びフィオルに差し出される。
「さあ握手をしよう、僕たちは兄弟なのだから」
黒鳥たちは休むことなくフィオルを啄み続ける。すでに装甲板はほとんど崩れ落ち、
目玉も片方潰されていた。
青年が口にしたとおり、まるで精神を削り取られているような感覚だった。思考が上手く
働かない。凍り付きひび割れていく脳髄に、青年の声だけがこだましている。
「刹那の夢なら僕が与えてあげられる。
そして君は僕の心を慰めてくれ。
永劫に続く地獄行も、2人でなら心休むだろう」
なにか、いわなければならないと思う。ダメだ。頭が働かない。
「あの光景を君に与えてあげられるのは、僕だけだよ。
それがどんなに虚しいことであってもだ。
だってそうだろう? 君は、自力では絶対にあの光景に辿り着けない」
そうなのかもしれない。
もう、どれだけの時空を旅してきただろう。どこでも、起こることはおなじだ。なん
の足跡を残すこともなく、わけのわからないものと戦って、そして最後は必ず自身の肉
体の破壊という結末に襲われる。
あの少女と出会って恋をしたのが、ずいぶん昔のことのような気がする。最後に会った
のはいつだっただろう。次に会えるのはいつのことだろう。いや、もう会えないかもしれ
ない。会えるとう保証が、どこにもない。どうすれば会えるのかもわからない。
「さあ、これ以上僕に君を傷付けさせないでおくれ。
君の過去、君の罰、君の宿命、すべて受け入れてあげられるのは、僕だけなんだ」
痺れ、暗闇に落ちていく精神の中で、黒髪の青年の声音はどこか心地よくフィオルの耳を撫でた。
●
「さ、練習しようよ。防音設備ならばっちりなんだしさ」
「困りますよ! 部外者を中に入れちゃあ!」
「いいじゃん、見られて困るもんが置いてあるわけじゃない」
「見られると困るものが置いてあるんですよ!」
「見られたら口封じしなくちゃいけないわけじゃし」
「口封じしなくちゃいけなくなるんですよ!」
「うっさいなあ、もう、わかったよ。
みんなぁ、いったんDCに入会しちゃおうか」
「スイミングクラブじゃないんですから!」
「私が、DCに入れるものなのか?」
「やる気があれば大丈夫!」
「なんのやる気だ」
「なにバルマーのお姫様に国家反逆そそのかしてるんですか!」
「なに、対異星人組織のくせに異星人に気ぃ遣っちゃってんの」
「ですから、うちはガス抜きのために存在許されてるようなところで、そうガチンコのことは」
マキネたちが騒ぐのをよそに、ユウカは厨房の隅に紙袋がいくつかまとめて置かれて
いるのを見つけていた。蕎麦粉に、中力粉、それから打ち粉と書いてある。
「あれ、ジェグナンさん、そんなもの持ってきたんですか?」
バチュンが意外そうな顔をした。
「あたし、知らない」
「あんたたちのなんじゃないの?」
「まさか、ここは合宿所みたいなもので、食べ物は基本缶詰ですから」
「やっぱり合宿所なんじゃん!」
「お嬢さんがおっしゃる合宿所とはだいぶ意味合いが違います!」
「あれじゃん? ゼラドが持ってきて、たらふく食おうとしただけなんじゃない?」
「わたし、お弁当とおやつしか持ってきてないよぉ!」
「じゃ、ルナ?」
「いや、そもそもその紙袋は、なんだ」
「蕎麦粉」
「ソバとは、なんだ」
「日本のトラディショナル・フードですよ。
ようするにネズミ色したヌードルです」
「不味そうだな」
「美味しいんですよ? こう、ちょいと日本酒と絡めてツルッとやると」
「バチュンてさあ、何人?」
「そういえばこの家、昔はお蕎麦屋さんだったそうですよ」
マキネたちの会話が耳をすり抜けていく。
なにかに引っ張られるようにして、ユウカは戸棚を開けた。そば切り包丁に木鉢、小
間板、めん棒、のし板、生船、切り板などがきっちりと整理されて置かれていた。包丁
は、昨日まで使われていたようによく研がれている。
ユウカは蛇口をひねった。ガスコンロの上に放置されていた大鍋を取って水を溜めると、
厨房じゅうにぶちまけた。
「わっ!」
「ユウカリン、なにやってんの!?」
本当に、なにをやっているのだろう。なぜか身体が勝手に動く。
手と道具を丹念に洗い清め、調理台の上に並べる。
蕎麦粉と中力粉をふるいにかけて、木鉢の中で混ぜ合わせる。右手と左手を交互に
使って、円を描くように丹念に粉を混ぜる。計量カップを取って水を入れると、とた
んに蕎麦粉の香りが鼻孔をくすぐった。
「ユウカさん、お蕎麦打てるの?」
ロンドン暮らしのユウカは、蕎麦など食べたことがあるかどうかも怪しい。作り方
など、知っているはずがない。しかし、不思議と身体が勝手に動いた。
ヒップのあたりに、ふっと温かい感触があった。誰かが背後を通り抜けていったよう
に感じる。男性の体温のようだった。しかし、バチュンはカウンターの向こうにいる。
ほかの3人も、ユウカの突然の奇行を呆然と眺めていた。
いったい、なんだというのだろう。ここで蕎麦を打たなければならない。使命感と
呼んでいいような不思議な衝動に突き動かされて、ユウカは打ち粉を振ったのし板の上に
練り上げた生地を叩きつけた。
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フィオルは瞼を開いた。
不思議なエネルギーが全身に満ちていた。
背中に、なにか温かな感触がある。体温の高い女性が、背中に抱きついているようだった。
「永遠なのよ」
幻聴だったのかもしれない。女の声が耳元を撫でた。フィオナ・グレーデンにも、
ミズホ・サイキにも、そしてあの少女のようにも聞こえた。
突然、フィオルの背中からなにかが飛び出した。
フェアリー、違う、もっと大きい。パールに似た白い輝きが、フィオルの頭上でぐね
ぐねと動いていた。粘土を練り上げるようにして、なにかの形を作っていく。人型だった。
全長25メートル近く。流麗なラインは女性を連想させる。
目の前では、相変わらずシュロウガがこちらに向けて手の平を突き出していた。
そのシュロウガに、白い人型が躍りかかる。古代インドで使われたカタールに似た輝き
を両手に構え、漆黒の装甲に斬りつけた。
「なにをした!」
黒衣の青年が、始めて狼狽した声を上げる。
パール色の人型は、すでに跡形もなく消えていた。
ありがとう。心の中で礼を言って、フィオルはシュロウガを正面から見据えた。
「君が何者なのかはわからない。
たぶん、俺とおなじような出自なんだろう。
だから、かつての俺が抱えていた絶望に瀕しているのはわかる」
「かつて、だって」
シュロウガから含み笑いがこぼれ落ちた。
「かつてという言葉を使う権利があるのは、むしろ僕の方だ。
君は、かつて僕が一瞬持っていた希望に酔っている。
でもね、そんな希望は虚仮なんだよ。
僕たちには、刹那の夢を見る以外の救いはない」
「あれは、夢なんかじゃない」
超空間の中に、黒衣の青年の高笑いがこだました。
「幻を見せた僕本人がいっているのに!」
「見せてくれたことについては感謝しよう。
あれは、いつか俺が至るべき目標だ」
「嘘で自分を慰めるのはよそうよ!
慰めは、僕が与えてあげる!」
「断る。俺には、心に決めたひとがいる」
声ですらない、物理的な圧力すら伴う唸り声が超空間を揺るがした。
「よせ! 君の希望は僕だけだ!
僕以外の希望を持つことなんてことは許さない!」
「馬脚を現したな。君は自分の絶望に道連れが欲しいだけだ!」
「君だっておなじはずだ!」
「俺は絶望していない」
「虚しい嘘だよ」
「刹那の希望を虚しいと考えてしまうから、君は行き詰まったんだ。
刹那の積み重ねが永遠の時間を作ると考えないから!」
フィオルは両手両脚を伸ばした。削り堕とされた装甲が、新たな息吹を上げながら再
生する。フィオルの精神状態が、黒地に赤の力強いフォルムに反映された。胸板には
黄金の勲章が輝き、額は稲妻に似た装飾に縁取られた。
「刹那の夢でも、俺は積み重ねていく!」
フィオルの全身から緑色のエネルギーが迸った。加速をかける。一直線にシュロウガ
に向かっていった。殴りつける。当たった。漆黒の巨体がぐらついた。フィオルは急上
昇した。今度は上から、拳を叩きつける。一瞬たりとも動きを止めない。左右の拳。
それから蹴りを繰り出す。
吹き飛ぶシュロウガに、胸の勲章を向ける。緑色の光弾を放つ。放つと同時に加速
をかける。光弾に追いつく。そして、光の中に飛び込んだ。
膨張し、空間すら歪ませ始めるエネルギーの中で拳を突き上げる。緑色の光弾が巨
大な二等辺三角形を形成する。先端の延長線上にはシュロウガの姿があった。さらに
加速を重ねる。半ばエネルギー化した拳でもって、漆黒の装甲板を殴りつけた。
加速はなおも衰えない。視界にノイズのようなブラックアウトが挟み込む。いまにも
精神を沸騰させてしまいそうなエネルギーに包まれながら、フィオルは頭上に手の平を掲げた。
緑色の竜巻が発生し、一本の剣を形成する。
「俺は、想いから生まれた!」
フィオルは剣を両手で握りしめ、大きく振り上げた。
「だから、俺の希望は決して折れない!
俺が折れないと決めた以上、折るわけにはいかない!」
時粒子の嵐に押しつぶされながらも希望を失わなかった4人の精神がフィオルを作り
出した。そんな希望が込められている以上、フィオルが絶望することは、あの4人への
侮辱であり、フィオル本人の存在すら揺るがす行為にほかならなかった。
「そして彼女の元に辿り着くんだ!」
真っ向から斬りつける。
いまにも暴走しそうなエネルギーを抑え込み、収束させて、振り下ろした。
時空すら揺るがす大爆発が起こった。超空間が数ヶ所、まとめて異次元の果てに吹き飛ぶ。
エネルギーの余波を背中に浴びながら振り返る。
まさに全身全霊を賭けた一撃だった。緑色に発光する刃はすでに消えている。もう一度
形成しろといわれても、そんな余力は残っていない。
やったか。やったはずだ。それだけの手応えはあった。
薄らいでいく時空震を見て、フィオルは目を疑った。
いる。真っ黒な影が、ぬぅと立っていた。さすがに無傷ではない。腕は片方もげ、
頭部も半分以上潰れている。片方だけ残った目が、爛々と赤く燃え上がっていた。
「手放すものか!」
全身から火花を上げながら、シュロウガの片腕が持ち上がった。
「僕の道連れ! 僕の慰め! 僕の兄弟!」
エネルギーはほとんど尽きかけている。しかし、相手もおなじはずだ。どこまでやれ
るか。フィオルは拳を握り固めた。
と、そのときだった。
超空間の中に、紫色に光る円形が浮かび上がった。細かな紋様でびっしりと彩られて
いる。まるで魔法陣だ。
魔法陣の中心を突き破るようにして、なにかが猛烈な勢いで飛び出した。
黒い猛禽類に見えた。あの、カラスに似た小型機など問題にならない。大きさはもち
ろん、纏っているエネルギーの量が段違いだった。まさに王者、いや魔王と呼ぶにふさ
わしい風格と禍々しさを放っている。
白い光をまき散らしながら、猛禽がシュロウガに襲いかかる。
音もさせず、シュロウガの胴体がふたつに割れた。
フィオルは動くことも忘れて立ち尽くしていた。
ビクビクと痙攣するシュロウガの上を舞いながら、猛禽が形を変える。人型になった。
全身は漆黒の装甲に覆われ、肩とつま先に金色の突起がある。頭部は威嚇的なラインで
構成されていた。
シュロウガだった。傷ひとつ無い。
「何度目になるのだろうね、並行世界の自分自身を殺すのは」
機体から響くその声まで、あの黒衣の青年とまったくおなじだった。
新たに現れたシュロウガは、赤い剣を持つと半壊したシュロウガを踏みつけた。躊躇も
なく胸を刺し貫く。
「君は、シュロウガ、なのか?」
「そうだよ」
赤い剣を納め、シュロウガが空中に佇んだ。攻撃の意志は見られない。
「彼より少し、進歩したね」
「君も」
「そんなつもりはない」
吐き捨てるような口ぶりで、シュロウガはあたりに漂う残骸を見下ろした。
「僕は彼とは違う。絶望なんかしていない。
君とおなじさ。僕もまた、希望を求めている」
なにをいっているのかわからないという点では、前のシュロウガとおなじか。
「なにをしてでも、大極への希望に辿り着いてみせると誓おう」
「俺と君は、おなじ言葉を使っているけれど、想いは違うと思う」
「ふうん」
「君は、自分の目的のために誰かを犠牲にしようとしている」
「それで?」
「俺の前では、やらせない」
「おかしな男だね、フィオル・グレーデン。
君にとっては、どんな世界の住人も余所者に過ぎないというのに」
「余所者だろうとなんだろうと、そこに人の命があるというなら、俺は救う。
俺は、そういう想いから生まれた存在だから」
「素敵だね、兄弟」
「俺は、君の兄弟にはなれない」
「じゃあ、兄弟と呼べる相手を探しに行くとしようか」
ふたたび黒い猛禽の姿になると、シュロウガは暗闇の中に消えていった。
超空間が歪んでいく。また、別の時空に行くのか。
どこであっても構わない。自分がすることはおなじだ。そして、辿り着くべき先も
決まっている。
「きっと、行くからね」
肉体が崩壊していく中、フィオルは愛しい少女の名を呼んだ。
●
薬味とネギを入れたツユの中に麺をさっとくぐらせ、ゼラド・バランガは勢いよく蕎麦をすすった。
「美味しい!」
満面の笑みを向けられれば、悪い気はしない。小動物に餌付けする気分は、こんな感じだろうか。
「音させてヌードルすするなんて、マナーが悪いんじゃない?」
「ジェグナンさん、蕎麦打てるのになんでそんなこと知らないんですか。
ニホンのお蕎麦は、音たててすするのがマナーなんですよ?」
「知らないし、そんなの」
「どっちかっていうと、なんでバチュンそんなこと知ってんの?」
「しかし、お主にこんな特技があったとはな」
「ねえユウカリン、今度うちでも打ってよ。
じいちゃんが蕎麦好きなんだ」
「ノン、なんかもう、わかんなくなった」
「はあ? なんで」
「わかんない」
「結局、あの蕎麦粉というものは誰が持ち込んだのだ?」
「さあ」
「あれ、ねえ、あのおっきなお椀は?」
洗い場に置いたはずの木鉢やめん棒が、跡形もなく消え失せていた。
店内が、一瞬シンと静まりかえる。
「このへん、タヌキやキツネが出るんじゃないよね?」
「そんな希少動物、いまどきウロウロしてるわけありませんよ」
「このお蕎麦、葉っぱかなんかには思えないけどなあ」
「ハイ、この店、元々どういう蕎麦屋だったの?」
「なんだかえらく人のいいお蕎麦屋さんだったみたいで、
近くで水難事故や遭難が起こったら救助に行ってたそうです」
「こんな山奥じゃ、レスキュー隊の出動も間に合わないだろうからねえ」
「それ、どのくらい前の話?」
「昔も昔、旧世紀ですよ。
なんていいましたっけ? ニホンの、へーセーの前の」
「ショーワ?」
「そうそう、それです」
「オーライ、だいたいわかった」
ユウカは、じっと自分の手の平を見下ろしていた。
蕎麦を打っていた時の感覚は、手を洗うと同時にどこかへ消えていってしまった。
「そうね」
しかし、不思議と悪い気はしない。ひょっとしたら、自分はいつかどこかの時点で蕎麦
を打つことになるのかもしれない。
「でも、覚えといて」
小声で語りかけた。
「あたし、蕎麦アレルギーみたい」
くちゅんとクシャミをしながら、ユウカは胸の中で赤毛の少年の名を呼んだ。
最終更新:2009年10月17日 13:54