25代目スレ 2008/09/19(金)
時刻は午前5時。東の空がうっすらと明るい。
俺は電信柱の影から顔を突き出して、首からぶら下げた双眼鏡を目元にあてた。
真っ白い瀟洒なマンションがそびえている。
玄関を出たところにあるゴミ捨て場に、半透明のビニール袋がひとつ転がっていた。
曲がり角からひとりの男が出てくるのが見えた。頭を低くして、小走りでゴミ捨て場に近づいていく。
俺は双眼鏡から手を離した。下腹にぐっと力を入れて、歩き出す。
あのマンションは、新進気鋭のグラビアアイドル、アイダグミスラちゃんの住まいだ。
彼女のブログを定期的にチェックしていれば、ある程度生活パターンを知ることが出来る。
グミスラちゃんは最近深夜枠のドラマに出演していて、その撮影のために朝が早い。必
然的に、ゴミを出すのがマンションのほかの住人よりも早くなる。あそこに転がっている
のは、十中八九グミスラちゃんのゴミだと見ていい。
グミスラちゃんは、昔陸上をやっていたっていう健康的なボディに、白い歯がよく映え
るフレッシュな笑顔が魅力的なグラビアアイドルだ。いまでこそ「知る人ぞ知る」レベル
だけど、今年か来年中にはきっとブレイクするって俺は確信している。
ところで、このグラミスちゃんについて最近ネット上で妙な噂がある。
それは、今どき珍しくクラシックな造りのファンサイトだった。グミスラちゃんの活動
について書いたり、グミスラちゃんに寄せる想いをポエムにしてみたりと、内容自体はよ
くあるものだった。
ところがこのサイトに、ある時期から妙な画像がアップされるようになった。グミスラ
ちゃんが食べたカップラーメンの容器だとか、グミスラちゃんの使用済み歯ブラシだとか、
グミラスちゃんの使用済み下着だとか、そういうものだ。思い出すのもおぞましい品物も
含まれてた。
妄想気質のファンがニセモノを披露しているんだろう。でなかったらネタだろう。
最初はそういわれてた。
でも、グミスラちゃんのブログをよく読んでみると、例のファンサイトで画像がアップ
される前後に「大ショック~(>o<)」とか「すごく落ち込むことがありました。゜゜(´□`。)°゜。」
みたいなネガティブな書き込みがされていることがわかった。
グミスラちゃんはストーカーに狙われてるんじゃないか。
いつからか、ファンの間でそういう噂が囁かれるようになった。
グミスラちゃんは、いま売り出し途中の大事な時期なんだ。変態野郎に傷付けられるよ
うなことがあっていいはずがない。
だから、俺は立ち上がることにしたんだ。
男はゴミ捨て場の前にしゃがんで、でかいケツをもぞもぞと動かしていた。
どくどくとやかましい心臓の音を聞きながら、俺は震える声を絞り出した。
「おい」
男が振り返る。
俺は思わず後じさった。
ぬっと立ち上がった男の身長は、俺よりも優に頭ひとつ分大きい。それだけじゃない。
腕も脚も、丸太のように太かった。砂漠の砂のような色の髪の毛を刈り込んでいる。岩の
ような顔の上には、分厚い唇とトロンと瞳の濁った目が載っていた。
直感でわかった。こいつは、たぶん軍人だ。近くにある基地の人間だろうか。
てっきり肥満体質のオタクの仕業だと思っていたから、ちょっと想定していない事態だ
った。最近はオタク趣味の軍人が多いって言うけど、グミスラちゃんのファン層が意外に
広いことを喜んでいいのか悪いのか複雑な気分だ。
逃げちゃおうか。一瞬そう思う。
いやいや待て、ここで俺が逃げたら、グミスラちゃんはどうなるんだ。この変態野郎が
いつまでもゴミあさりで満足しているとは限らないじゃないか。
「なにしてんだよ、それ」
ごうっ、と男は野獣じみた唸り声を上げた。
巨体がとんでもない速度で突進してくる。タックル。避けられない。ぐわん、と視界と
脳が揺れた。両足が宙に浮く。吹き飛ばされて、背中からブロック塀に激突した。
「Go away」
ぼそりと呟いて、男はまたゴミあさりに戻ろうとする。
「待てよ」
咳き込みながら、俺は体勢を直した。
膝がガクガクと震えていた。肉体的なダメージより、恐怖が大きい。相手は連日連夜ト
レーニングを重ねている軍人だ。しかも、こちらを攻撃することにためらいがない。まと
もにやって敵うはずない。
でも、逃げるわけにはいかないじゃないか。グミスラ者、通称『ぐ~みん』として。
シッ、と短く息を吐いて、男はまたのそりと振り返った。
来る。
俺は右足と左足を内側四十五度の角度に向けた。両腕を顔の前で十字に組んでから、拳
をそれぞれ左右の骨盤の前に持っていく。ヘソの下に力を入れて、再び顔の前で十字を切
って肘を直角に曲げ、両腕を胴体の前にそろえて構える。
三戦立ち。カラテの基本形のひとつだ。主に基本稽古のときに使われる構えで、実戦性
はほとんどないとされてる。でも、全身の筋肉を固く引き締めるという点で三戦立ちに勝
る構えはない。
「コォォォォォッ!」
カとキの間の音を吐き出す。息吹といって、カラテ独特の呼吸法だ。これをもってカラ
テ家は鋼の肉体を手に入れる。
強烈な衝撃が来る。俺は奥歯を噛み締めた。スニーカーの靴底がずるずるとアスファル
トに擦る。でも、吹き飛びはしない。俺は男のタックルを胸板で受け止めていた。
一拍の隙も作るわけにはいかない。
俺は靴底を地面から離さないまま、左脚を後ろにスライドさせた。左膝は直角に曲げて、
右膝をぴんと伸ばし、左のつま先は前方に右のつま先は外側四十五度に向ける。
前屈立ちの姿勢を取って、俺は小指にぎゅっと力を入れて右の拳を握り込んだ。弓矢を
引き絞るイメージで、拳をぎりぎりと脇の下に引く。
足親指に力を入れてアスファルトを踏みしめる。
腰の回転運動を漏れなく拳に伝達させる。
「せぁっ!」
正拳突き。それ以外に呼びようのない技だった。俺の体重、腰の回転運動、そして大地
の反動が全部足されて男の鳩尾に突き刺さる。
男は倒れない。苦痛に顔を歪めながらも、憎々しげな目で俺を睨みつけてくる。
「じゃ、ねえのかよ」
思わず、声がこぼれ出た。
「ファンじゃねえのかよっ!」
言葉が通じているのかどうかわからない。それでも俺は叫んだ。
「グミスラちゃんのファンじゃねえのかよっ!
グミスラちゃんの笑顔見たくねえのかよっ!
こんなことして、グミスラちゃんが笑うと思ってんのかよっ!
グミスラちゃんがお前のものになるとでも思ってんかよっ!」
すっと、男の身体が俺の拳から離れた。
分厚い手の平で鳩尾をさすって、お化けでも見たような顔をしている。
「Sorry」
ほとんど聞こえないような声だった。
「ゴメンナサイ、KARATE-KID」
熊のような動きで、男はのそのそと立ち去っていった。
何秒間そうしていただろうか。
がくっと、両膝から力が抜けた。
へたりこみそうになったところで、散らかされたままのゴミ袋が目に入った。
「片付けてけよ、あいつ」
俺はよろよろとゴミ袋に近づいていった。
「なにしてるんですか」
強張ったような女の声が後ろから聞こえた。
すっぴんだったけど、すぐにわかった。アイダグミスラちゃんだ。帽子をかぶっていて、
ティーシャツにジーンズ、サンダル履きという格好だった。眉毛はほとんどないけれど、
きらきらと輝く瞳はグラビアで見るよりずっと魅力的だった。
どうしよう。言葉が出ない。俺はマヌケな子猿みたいに硬直してた。
きっと、グミスラちゃんの目尻が吊り上がる。
「あなたでしょ! 最近あたしのゴミあさってたの!
今日こそはって見張ってたんだからっ!」
一瞬、なにをいわれたのかわからなかった。
誤解だ。違う、違うんだ。
弁解しようとしたけれど、声が出てくれない。俺はよろよろと立ち上がった。
「それ以上近づかないで!」
グミスラちゃんは両腕で自分の身体を抱きしめて、さっと後じさった。
「それ以上近づかないで! 行って、行ってよ!
今度見かけたら、ほんと、警察呼ぶからっ!」
グミスラちゃんの顔は蒼白で、本気で怯えているようだった。
俺は、こんなグミスラちゃんの顔をグラビアで見たことがないし、見たくない。
いいんだ。
俺はべつに、あの子の笑顔が欲しかったわけじゃない。
感謝の言葉が欲しかったわけじゃない。
あの子の安全を守ることが出来たから、それでいいんだ。
何度も何度も自分にそう言い聞かせて、俺はコンビニでエロ本買って帰った。
最終更新:2009年10月17日 14:06