ミリオン・ダラー・ランディ


30代目スレ 2009/09/21(月)

 ここ最近、ランディ・ゼノサキスの胸にはひとつの疑念がある。

「あのさあ、ちょっと思うんだけど」
 うっそうと生い茂る熱帯林の中だった。足元がぬかるんでいて、ひどく歩きにくい。
そして暑い。さっきから、汗がとめどなく頬を滴り落ちている。

「お前ら、ひょっとして俺にウソついてないか?」

 ――なにいってるの?
 ――そんなことないわよ。
 ――あるはずないじゃない。
 誰もいない空中に、鈴の音に似たクスクス笑いが広がる。

「なに笑ってんだよ!
 考えてもみりゃあ、ガキのころからずっとお前らの言うとおりに歩いてきたのに、
 なんでいつもいつもわけのわかんないとこに出ちまうんだよ!」

 ランディは、ちょっと近所のコンビニにシャーペンの芯を買いに来ただけだった。
それが、気が付くとどこともわからない熱帯林の中にいた。

「お前ら、束になって俺のことからかってんじゃないのか?」
 小石の陰から、「プッ」と噴き出す声が聞こえた。
「いま噴き出したやつ誰だ!? 出てこい!
 とっちめて精霊王かなんかのところに突き出してやる!」

 ――いや、精霊王とかないから。
 ――精霊って、基本勝手気ままな生き物ですから。
 ――王様とか、そういうのないから。
 ――たまに王様とか魔王名乗ってるイタいのがいるけど、うちらみんなスルーしてるし。

「うるせえよ! なんで精霊にまでそんなダメ出しされなきゃならねえんだ!」
 精霊達がキャッキャとはしゃぎながら空中を飛び回る。

 普通の人間に精霊を見ることは出来ない。はた目からは、ランディは誰もいない空中
に向かって喚いているひとでしかない。そんなことだから、ランディは普段学校で妄想
癖がある人間扱いされる羽目になる。
 しかしランディの目には、紙人形のようなものがひらひらと空中を飛ぶ姿が、はっきり
と見えるのだ。

 精霊たちに愛された子供。地底世界ラ・ギアスの神聖ラングラン王国でランディが生
まれたとき、お城の魔法使いだか錬金学士だかがそんなことをいったらしい。
 ランディには、物心ついたときから精霊の姿が見える。正確には眼球で見ているわけで
はなく、プラーナでその存在を感じ取っているらしい。元々物質世界の住人でない精霊には
定まった姿などない。見る者によっては、羽の生えた少女にもなるし、とんがり帽子を
かぶったお爺さんにもなる。
 しかし、考えてみると精霊が見えて得した経験という経験が、まったくない。精霊の力
を借りて魔法のようなものが使えることは使えるが、「だからなんだよ」といわれると、
「別に」と俯くしかない。火を起こしたいなら火の精霊よりもチャッカマンの方が簡単だし、
風が欲しければ風の精霊よりも扇風機の方が風量の調節も出来て便利だ。まったくもって、
機械文明万々歳だ。

 唯一助けになるとすれば、道に迷ったときに案内をしてくれることだが、それもどうも
怪しい。精霊たちときたら、いつもクスクス笑うばかりでちっとも目的地に近づけてくれ
ないのだ。

「よぅし、ちょっと待て。話し合おう。腹割って話あおう」

 ランディは湿った落ち葉が積もる地面の上にどっかりと座り込んだ。

「いつからだ。いつから俺のことからかってた」

 ――いまさら。
「いまさらってなんだよ!
 はは~ん、さては相当昔からからかってたな!?」

 ――あまり声を張り上げないで。
 ――わたしたちはみんなあなたのことが好きなのよ。
 ――生まれたばかりのあなたを見て、なんてイジりがいのありそうな子なんだろうって話してたのよ。

「赤ンボの頃からか!?」

 精霊ってね、とってもイタズラ好きなの。幼いころ、錬金学士の母親がそんなことを
いっていたのを思い出す。

「なにがイタズラ好きだ! タチ悪ィよ! 十何年もなにしてくれてんだ!」

 ――1秒たりとも飽きなかったわ。
 ――逆に、よく今日まで気付かずに。

「いまいったのはお前かニレの樹の妖精! ちょっとそこ動くな!」

 ランディは立ち上がり茂みの中に踏み入ろうとした。
 それを迎えるように、ガサガサッと枝をかき分ける音がした。

「バシレウスキック!」

 一瞬、火の粉か山猫の精霊が出たのかと思った。
 直後、強烈な衝撃にアゴを突き上げられる。一瞬視界がブラックアウトし、脚から力が
抜けていく。

「ちょっと、やだ、大丈夫!?」
「うぅ、くそ、ニレの樹の精霊が、ニレの樹の精霊が」
「なにいってるかわかんないけど、あれ、マングローブだよ。
 正確にはヤエヤマヒルギだけど」

 空中で、樹の精霊がキャッキャと手を叩いて喜んでいるのが聞こえた。
 今度こそ、ランディはがくりと意識を失った。

 ◆
 目を覚ますと、ランディは潰れかけたアバラ小屋の中にいた。ベッドもなにもない。
あちこちからスポンジの飛び出したマットの上に寝かされていた。

「うぅん」

 額を抑えながら上半身を起こす。窓ガラスもはまっていない窓枠から、マングローブ
の枝が見えた。樹の精霊に対するムカつきが蘇る。

「くそぅ」
「あ、よかった。目、覚めたんだ」

 ドアが開いて、誰か入ってきた。女の子だった。全身健康的に日焼けしていて、手には
水の入った桶をぶら下げている。汗の染みこんだティーシャツとスパッツという、
運動選手のような格好だった。肘と膝にはボロボロになったパッドを当てている。

「ゴメンね、精霊とかなんとかいって近づいてきたから、思わず」

 ぱたぱたと近づいてきて、女の子は桶からタオルを拾い上げてぎゅうと絞り始める。
 年齢は、ランディとおなじくらいだろうか。ちょこんと鼻が低く、笑顔が貼り付いて
いるようなカマボコ形の唇からは小さな八重歯が覗いている。あまり髪型に興味がない
のだろうか。赤茶けた髪の毛にはあまり櫛を入れていないようで、ボサボサと背中に
かかっていた。
 可愛らしい少女だとは思う。髪の毛をもっとしっかりセットしていたら、相当な美少女
になるだろう。しかし、なぜだろう。もちろん少女の顔に見覚えはない。それなのに、
その顔を見ていると妙な胸騒ぎを覚えるのだ。精霊たちの裏切りが発覚して、自分が一時
的な人間不信に陥っているのかもしれない。

「あそこまでクリーンヒットするとは思わなくて」
「いや、なんていうか、肉体的なダメージより精神的ショックが」
「女の子に蹴り倒されたのが、そんなにショック?」

 少女が少し悲しそうな顔をする。

「いや、ニレの樹の精霊が実はマングローブの精霊で」
「ねっ、あなた、ひょっとしてランちゃんじゃない?」
「は?」
「えっと、ほかには、Pちゃん、チーズ、ゾロリ先生、デューク・フリードの代役、
 『トイ・ストーリー』の吹き替え下ろされたひと」
「誰がヤマちゃんだ!?」

 声が似ているからなのか、方向音痴だからなのか、ランディはなぜか声優のヤマデラコ
ウイチ氏呼ばわりされることが多い。

「ああ、やっぱランちゃんだ」

 少女はニコニコ笑いながら、ランディの額に濡れたタオルを載せる。
 ようやく、わかった。顔の造りそのものはまったく似ていない。ただ、にっこり笑い
ながらランディをからかう月面出身の同級生に、この少女はそっくりだった。たしか、
妹がふたりいると聞いたことがある。

「どっちだ」
「え?」

「ええと、芽夜か、統亜か」
「統亜だよ。紫雲家長女!」

 紫雲統亜は、両手を腰に当てて得意そうに名乗る。

「お兄ちゃんからのよく聞いてたんだよ。手紙とか電話で。
 ちょっぴり離婚歴があるけど、
 『7色の声を持つ男』っていうあだ名があって役の幅がすごく広いって。
 『キングダムハーツ』にいたってはスーパーヤマちゃん大戦っていっても過言じゃなくて、
 特にドナルドダックの演技は世界のディズニーからも認められてるって」
「俺じゃないから。それ、ヤマデラさんの経歴だから」
「ね、ランちゃんさ。B型じゃない?」
「いきなりなんだよ」
「だって、シャクユミコとかもちっちゃいオッサン見たとかよく言うし」
「シャクユミコ扱いかよ!
 シャクユミコなんてなぁ、そんなもん、大好きだよ!
 ドクターコトーと結婚する直前のウチダユキを彷彿とさせる美人さんっぷりがたまんねえ!」
「へえ、シャクユミコ、好きなんだ」
 統亜がしょぼんと顔を落とす。その視線の先には、ずいぶん控えめなサイズの胸があった。

「月にいるって聞いてたけど?」
「うん、お兄ちゃんはそう思ってるかもね。
 でも、半年くらい前からここにいるよ」
「どこだよ、ここ」
「タイ王国」

 なんで町内のコンビニに行こうとしてタイ王国にたどり着くんだろう。ランディは
つくづく、精霊達のタチの悪さを思い知った。

「ランちゃんこそ、なんでこんなとこいるの?」
「いや、シャーペンの芯が」
「う~ん、シャー芯かあ。難しいかも。ここ、バンコクから遠いし」
「お前は? こんなとこでなにしてんだよ」
「ムエタイ!」

 バンテージを巻いた小さな拳を頭上に挙げて、紫雲統亜は嬉しそうに答える。
 ランディは小屋の中を見まわした。天井からは古ぼけたサンドバッグが吊られ、
ベニヤ板が剥き出しの床の上には古ぼけたダンベルやゴムチューブが転がっている。
住まいというより、トレーニングルームのようだった。

「ええと、ムエタイ?」

 タイの国技で、キックボクシングの元祖とも呼ばれている格闘技だ。キックやパンチ
に加えて肘や膝なども使う過激さが一部で人気だ。立ち技最強の呼び声も高く、そのた
め格闘マンガなどでは、ナントカ流古武術とか怪しげな技を使う主人公の強さを引き立
たせるための踏み台として使われることが多い。

「なんでまたムエタイなんて」

 日本の相撲とおなじように、ムエタイでも女性がリングに上がることは近代まで許さ
れなかった。現在でも、女子ムエタイは決してメジャーな競技ではない。

「うちのお母さん、膝蹴りが強烈なことで有名で」
「だからってムエタイチョイスするのがわかんねえよ。
 なんかテキトーな中国拳法じゃダメだったのかよ」
「あと、サタケマサアキさんが声当ててたころのジョー・ヒガシが好きで」
「なんでよりにもよってそこを突いて来るんだよ!
 サタケなんて、総合格闘ブーム初期に試行錯誤した挙げ句に失敗した選手じゃねえか!
 レスラーと戦おうとして筋肉付けたら動きがトロくなって、
 せっかくの打撃も台無しで、だいぶグダグダな感じで去っていったじゃねえか!
 べつにヒヤマ声のジョーでいいだろ!
 それ以前に、なんでジョーに行ったんだ! キングさんでいいじゃねえか!」
「でもあたし、フランス人じゃないし」
「ジョー・ヒガシだって月世界人じゃねえよ!」
「わっ、やっぱりランちゃんはポンポン突っ込むんだね」
「人の話を聞け!」
「やっぱ、『ミリオンダラー・ベイビー』観て、超感動したし!」
「じゃ、ボクシングやれよ!」
「あたしも、ヒラリー・スワンクさんみたくなる!」
「待て! お前、『ミリオンダラー・ベイビー』最後まで観てねぇだろ!」

 アカデミー賞受賞作品である『ミリオンダラー・ベイビー』は、その鬱にならざるを
得ないラストが評判だった。

「統亜」

 ドアが開いて、男がひとり小屋の中に入ってきた。
 ランディはマットの上にごろりと寝転がり、男から顔を背けた。長身で、藍色のような
髪をした男性だった。フューリー独特の入れ墨が施された顔にはなぜか眼帯を着けてい
るが、突っ込んだら負けのような気がした。

「準備は出来ているか」
「うん、アル=ヴァン下段平トレーナー!」
「なんだそりゃあっ!」

 うっかり、ついうっかり、ランディは起き上がってしまった。

「アル=ヴァン! あんたこんなとこでなにやってんだよ!」

 アル=ヴァンは元フューリー聖騎士団の幹部で、現在は家庭に寄りつかず紫雲家の子供
にちょっかいを出してはあしらわれているダメなオッサンだ。

「違うよ、トレーナーはアル=ヴァンじゃないよ。
 アル=ヴァン下段平だよ!」
「わかった、お前はバカなんだろう!」

 統亜の兄克夜も、わりとひとの話を聞かない男だった。しかしこの少女は、さらに輪を
かけて人の話を聞かない。そのくせ、ひとの言うことは素直に信じ込んでしまうらしい。
いつか悪い男に騙されそうというか、今まさに悪いオッサンに騙されている真っ最中の
ようだった。

 ◆
 公式戦でないことは明らかだった。マングローブの森の中に無理矢理割り込ませるようにして、
粗末なリングが設置されている。観客席なんていう上等なものもない。50人くらいのオッサンが
地面の上に布を敷き、ディグリーというタイの安酒を飲んだりタバコを吸ったりしている。
 聞いているだけで腸が捻れてくるような音楽に合わせて、統亜がリングの上でワイクルー
と呼ばれる試合前の舞踏を披露していた。赤茶けた頭にモンコンと呼ばれるリングをはめ、
伝統的なムエタイ衣装を着ている。踊りのテーマは、「グランディードのピンチにフューリー
創世の伝説に登場する龍神が駆けつけてきた情景を表現してる」らしい。コメントに困るの
で黙って観ていることにした。
 黙っていられなくなったのは、入場してきた対戦相手を見たときだった。

「なんなんだよ、ありゃあ!?」

 身長は180センチ近い。タンクトップの胸元を押し上げている長方形は、明らかに女性
の丸みを持っていなかった。肌は真っ黒で、腹筋はくっきりと8つに割れている。むっつり
と閉じられた唇のまわりには、うっすらとヒゲまで生えている。

「男じゃねえか!」
「違う。デイジー選手はれっきとした女性だ。ちょっぴりボーイッシュなだけだ」
「ヒゲ生えててなにがボーイッシュだよ!」
「文句があるなら確かめに行ったらどうだ」
「性別はともかく、あれ、ウェイト差があまりにも大きいだろ!」

 統亜は小柄な少女だった。どう高く見ても、身長160センチは越えないだろう。デイジー
選手と向き合うと、まるっきり大人と子供だった。

「無差別級こそ本当の柔道だと、猪熊滋悟郎氏が仰っていた」
「柔道の話じゃねえか!」
「甘ったれるな。戦場において、敵が大きかっただの小さかっただの言う気か!」
「偉そうなこと言いたいなら、札束数えるのをやめろ!」

 アル=ヴァンの手元には大量のバーツ紙幣があった。
 この試合は、明らかに非公式なものだ。ルールそのものがあるかどうかも怪しい。賭け
が行われているのは、むしろ当然だ。アル=ヴァンは、全額統亜に賭けているに違いない。
 格闘技において、体格差を克服するのは並大抵のことではない。ほぼ全員がデイジー選手
に賭けたに違いない。そしてアル=ヴァンは、自分で大穴を送り込んでおいて、全額統亜
に突っ込んでいるのだろう。

「あんたは紫雲家に恨みでもあんのか?」
「恨みはないが、統夜ばっかりズルいとは思う」

 紫雲統夜には妻が3人もいる。統亜と克夜も、母親は違う。母親どうしの仲はいいらし
いが、だからといって月面世界で一夫多妻が一般的なわけではないらしい。

「統夜には性格のいい嫁が3人もいるのに」
「それはしょうがないだろ!」

 アル=ヴァンは家庭でイヤなことがあったオッサンのような顔でカネを数え続けている。
このオッサンはもうダメだ。

「おい、おい!」

 ランディはリングに駆け寄り、ロープ越しに統亜を呼んだ。

「あ、ランちゃん、観に来てくれたんだ」
「お前、なに考えてるんだよ」
「見ててね、あたし、必殺のバシレウスキックで勝っちゃうから!」
「ひとの話を聞け!」
「なんか話があるの?」
「棄権しろ。お前の勝てる相手じゃねえ!」

 それまで満面の笑顔だった統亜が、突然唇をとがらせてぷいと横を向く。

「ヤダ」
「ヤダじゃないだろ!」
「勝つもん」
「ありゃ男だぞ!」
「そうかなあ」

 デイジー選手はスパッツ姿だった。男性独特の「もっこり」はない。しかし、そんなも
のは切り取ってしまえばいいだけだ。
 旧世紀、ふたつの大国が冷戦を繰り広げていた時代のことだ。陸上競技の記録などを
見ると、信じられないほどの好成績が出ていることがある。しかしこの記録は、スポーツ
マンシップに則って正々堂々と出されたものではない。当時の世界大会は、現代以上に
国同士のケンカという側面が強かった。薬物検査の手法が確立していなかったことも
相まって、筋肉増強剤や向精神剤の使用が横行した。性転換手術を受けた男が女性の
大会に出たことまであったという。
 現在、選手がノイローゼになるほど厳密な検査が行われているのは、不正の過去が大量
にあるからにほかならない。

「骨盤の形見ろ。赤ん坊入れとくスペースなんてないだろ。あれは間違いなく男だ!」
「それでも、勝つもん」
「話を聞けっていってるだろ!」
「お兄ちゃんだったら、あれにも勝つもん」
「そりゃ、お前の兄貴だったら」
「あのさ」

 いつになく深刻な顔をして、統亜がぐいと近づいてくる。

「うちのお兄ちゃん、まあ、言動はあんなだけど、けっこうなんでも出来るんだよね」
「まあ、そうだな。言動はあんなだけど」

 統亜の兄紫雲克夜は、ハーレムを作るために地球に来たなどと公言している。ハーレム
を維持するためには生活力が必要不可欠だという理由で、電卓検定だの野菜ソムリエだの、
わけのわからない資格ばかり取得している。最終的には司法試験にもパスするつもりらしいが、
それを教師に笑い飛ばされない程度の成績を取っている。加えて、幼いころから鍛錬を
続けてきた剣術も相当の腕だ。顔もそれなりに整っているし、ふた言目にはハーレム
ハーレムと言い出す悪癖さえ直せば、案外本当にハーレムを作れるかもしれない。

「お母さんが3人もいるお父さんもなんだけど、あんまり優秀なひとって嫉妬されやすいでしょ?
 だからわざとバカっぽいこというひとがいってるんじゃないかなって、あたしは思ってるんだけど」
「いやぁ、そりゃ肉親の欲目ってやつだと思うぞ」

「でもあたし、お兄ちゃんがなにか出来なかったとこって、見たことないもん」
「俺は年がら年中見てるけどな。ハーレム作れてないとことか」
「でもさ、あたしは違う。中途半端だもん」

 統亜が目線を落とす。

「あたしは頭悪いし、運動だってズバ抜けてるわけじゃないし、魔法みたいのが使えるわけじゃないし」
「いや、魔法は使えても、あれあんまり役に立たないぞ」
「貧乳のくせに、なぜか胸が揺れるっていうのもわけわかんないし」

 たしかに、統亜の胸は小ぶりだ。揺れるほどのボリュームはない。にもかかわらず、
統亜が少し身を屈めるだけで、その胸はぷるんとひとくちサイズのゼリーのように揺れる
のだ。なんというか、性欲とは別に、不思議な生物に遭遇したような気持ちになる胸だった。

「ほんとだ。お前の胸、それなんで揺れるんだ」
「たぶん、紫雲家式乳揺れ法のおかげ」
「ろくでもねえ教育してるな、紫雲家は」
「こういう中途半端なのは、もうヤダ。
 あたしは、お兄ちゃんみたいになんでもできなくていい。
 ひとつ、たったひとつ出来ればいい」
「それがムエタイか?」

 統亜はまた笑顔に戻って元気よく頷く。

「『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクさんみたいになるの!」
「そんなに『ミリオンダラー・ベイビー』が好きなら、最後まで観ろ!」

「グワーグワー」とアヒルのような泣き声を出していたデイジー選手のワイクルーがいつ
の間にか終わっていた。明らかにカタギではないレフェリーが、「こちらへ」と統亜を招いている。

「じゃ、行ってくるね」
「おい」
「跳ねても揺れても紫雲家長女! あたしの胸が揺れてる限り、絶対勝つもん!」

 なおも言葉をかけようとしたランディの肩を、ぐっとつかむ手があった。
 アル=ヴァンだった。唇をまっすぐに引き結び、リングを見つめている。

「俺も、一度は引き留めたんだ。しかし彼女の意志は固かった。
 そこで俺も仕方なく、彼女を大穴馬に仕立て上げざるを得なかった」
「『ミリオンダラー・ベイビー』みたいになってからじゃ遅いんだぞ!」

 アル=ヴァンは無言のままだった。
 ゴングが鳴る。
 最初に動いたのは統亜だった。小刻みなフットワークでデイジー選手の死角にまわろう
としている。正面から打ち合っても勝ち目はない。身軽さを活かして、小刻みに攻撃を
入れていく作戦か。
 作戦としては悪くない、オーソドックスなものだ。しかし、30センチ近い身長差はいか
んともし難かった。
 デイジー選手が無造作なバックブロウを振るう。それだけで、せいぜいミニ・フライ級、
下手をすればアトム級の統亜は紙人形のように吹っ飛んだ。
 わっ、と観客達が湧いた。ボロボロのシャツを着て安酒をあおっている男たちが幼児の
ように手を叩く。

 統亜は果敢だった。ダメージを見せない足運びでなおもデイジー選手との間合いを詰め
ようとする。しかし、デイジー選手が左腕を伸ばす、たったそれだけのガードでパンチが
届かなくなる。腕の長さが違いすぎるのだ。パンチを流すと同時に、デイジー選手の
巨体が弓なりに反る。至近距離から突き上げるような膝蹴りだった。統亜のささやかなバスト
のすぐ下、ミゾオチにめり込む音がリングサイドにまで聞こえた。

 統亜の身体が一瞬宙に浮く。その動きに合わせて、デイジー選手が短くジャンプした。
真っ黒な肘が振り上げられる。そして、勢いよく落とされた。鈍い音がする。統亜の身
体がリングに落ちて、丸太のように転がった。

 普通なら、ここでレフェリーが止めに入る。しかし、人相の悪いレフェリーは退屈そうな
顔をしてリングの隅に突っ立っているだけだ。

 観客達の熱狂が湿度の高い空気を揺らす。
 デイジー選手が統亜の上にのしかかる。そして、拳をメチャクチャに振り下ろし始めた。
 とても見ていられない。最初から、まともな試合ではなかったのだ。肘サポーターや
膝サポーターはおろか、ボクシンググローブすらはめていない。軍手を少し厚くしたような
わけのわからないものを手に巻いているだけだ。

 ボクシンググローブはダメージを内部に浸透させ、出血よりも先に脳震盪が起きやす
いように出来ている。KOがぽんぽん出た方が、観客は喜ぶからだ。しかし、この試合は
違う。あんな薄手の手袋で殴り合えば大量の出血が起こる。ここの観客は、流血を望んで
いるのだ。ヘッドギアすら着けていないのは、そのほうが苦痛に歪む顔を楽しめるからだろう。

「目を開けろ」

 耳のすぐ側でアル=ヴァンが低い声で呟く。

「統亜は自らの意志でリングに立った。
 私たちに出来るのは、最後まで見届けてやることだけだ」
「最後って、いつまでだよ。『ミリオンダラー・ベイビー』のラストみたいになるまでか!」

 リングの上で統亜が動く。完全なマウントポジションになっていなかったことが幸いした。
デイジー選手の拳を払いのけて上体を起こす。両腕をがっちりとデイジー選手の胴体に巻き付けた。
クリンチ。違う。統亜とデイジー選手は、互いの額を擦るように頭をぶつけ合っていた。
ムエタイの特色でもある首相撲だ。統亜は、まだ攻撃の意志を失っていない。
 デイジー選手がウェイトに任せて統亜を押し潰そうとする。統亜が一歩後退する。デイジー
選手が前のめりのような姿勢になった。両者の身体の間に空間ができる。

「バシレウスキック!」

 まさに全身を使った膝蹴りだった。デイジー選手のレバーにクリーンヒットしている。
おなじ階級同士なら、文句なくKOが取れただろう。
 しかし、それで終わりだった。デイジー選手の身体にすがりつくようにして、統亜の
身体がくずれおちる。デイジー選手は平然と立ったままだ。ハエがぶつかった程度の顔
でグローブを脇腹に当てている。
 ゴングがまだ鳴らないことに、ランディは総毛立った。まさか、まだなのか。この上
まだ統亜を痛めつけようというのか、このリングは。

「やめろ、やめーッ!」

 ランディはロープを飛び越えてリングの中に入っていった。統亜に駆け寄る。無表情
に突っ立っているデイジー選手に向けて手を振るい、追っ払う。

「行け、あっち行け! 離れろ!」

 統亜を助け起こす。思わず、顔を背けそうになった。あの低い鼻が、どこにあるのか
わからないほど顔じゅうが腫れ上がっている。

「クソッ、てめぇら、コノヤロウ!」
「・・・・・・ラン・・・・・・ちゃん」

 ランディの腕の中で、統亜がうっすらと目を開けていた。左瞼は腫れ上がっていて、
右目しか動いていない。

「喋んな! 口ン中切れてるだろ」
「負けちゃった・・・・・・? あたし」
「うるせえ、立派だったぞ。お前は、立派なムエタイファイターだった!」
「くやしい・・・・・・な。『ミリオンダラー・ベイビー』みたいになれなくて」
「演技でもないこというんじゃねえ! 『ミリオンダラー・ベイビー』みたいになられてたまるか!」
「お兄ちゃんだったら・・・・・・、ふざけたこと・・・・・・いいながら勝っちゃうんだろうけど・・・・・・」
「あんなふざけたバカヤロウのことは考えるな!」
「なりたかったな・・・・・・。ヒラリー・スワンクみたいに・・・・・・、カッコよく」
「心配すんな」

 ランディは、そっと統亜の身体をリングの上に横たえた。

「途中までしか観てなくても、『ミリオンダラー・ベイビー』、好きなんだろ。
 だったら、ヒラリー・スワンクの後ろにクリント・イーストウッドがいたことくらいわかるだろ。
 俺はあのイーストウッドほど歳とってないけど。
 もうちょっと若い頃のイーストウッドのマネゴトくらいは出来るから」

 のしのしとリング上を歩き、相変わらず無表情のレフェリーに詰め寄る。

「おい、飛び入りだ。俺が出るぞ。あいつとやらせろ」

 レフェリーが困惑顔で顔を横に振る。

「なんか資格がいるのか? じゃ、日本のデータ調べてみろよ。
 ランディ・ゼノサキス。小学校のころ、ジュニアボクシング大会で優勝してるから。
 中学のときはちょっと、会場にたどり着かなかったけど。
 ムエタイなんてどうせ、ボクシングに蹴りと肘と膝がくっついただけだろ?」

 足元のロープ越しに、なにかぎゃんぎゃんと喚いている老人がいた。訛りの強いタイ語
でよくわからないが、「お前は男じゃないか」といっているらしい。どうやらコミッショ
ナーかなにからしい。

「うるせぇな、あれが女だってなら、俺だって女だよ。
 なんだ? なにがいる?
 リボンでも着けるか、スカートでも穿くか? なんならメイド服着て戦ってやろうか!」

 老人がまた喚くが、訛りが強すぎてよくわからない。

「べつに、オラはええだよ」

 後ろから低くしゃがれた声がする。デイジー選手だった。やはり、声も男そのものだ。

「さっきから耳障りだっただよ。
 リングサイドでグワグワ、ヘタクソなドナルドダックみてえな声出しやがって」
「なにがヘタクソだよ!」
「うんにゃ、ヘタクソだ。おめぇ、オラを知らねえだか。
 もう5年、このタイでドナルドダックの声当ててるだ」
「知るかそんなもん! なんでムエタイやってんだ!」

「オラは家が貧乏だ。声優のギャラだけじゃ、とても食ってけねえ。

 この国じゃ、貧乏なガキはムエタイやるか身体売るしか生きてく道はねえ。
 男子ムエタイで結果出せないなら、タマとサオ切るくれえなんでもねえ。
 オラは諦めねえ。絶対夢を叶えてみせる。
 カネを作って、本家ディズニーで本物のドナルドダックの声をあてるだ」
「ドナルドダックへの情熱なんか語られたって俺が知るか!」
「ドナルドダック役は、世界中でオラひとりでいい。
 ほかにドナルドダック役狙ってるヤツは、容赦なく潰すだ」
「べつにドナルドダック役は狙ってねえけど、俺にムカついてくれてるってなら好都合だ。
 俺もな、てめェにムカついてるんだよ」

 コミッショナー側がなにかコショコショと話し合い、やがて頷き合った。どうやら決まった
らしい。ランディは上着を脱ぎ、ジーンズを穿いただけの格好になった。

「おい」

 リングサイドでアル=ヴァンがグローブをぶら下げていた。ランディはバンテージだけ受け
取った。どうせ、ルールなんてあってないような試合だ。

「統亜は?」
「問題ない。こういう試合だからな。脳や内臓に浸透するようなダメージは受けていない。
 血が多めに出ただけだ」

 統亜は、アル=ヴァンの後ろのベンチに横たわっていた。意識がないのか、ピクリとも動かない。

「じゃ、あいつには女の顔傷付けた罪だけ数えさせてやる」

 リング中央に立つ。デイジー選手と向き合う。男のランディと比べても、デイジー選手は
ひとまわり大きかった。ウェイト差は考えたくもない。
 統亜は、いったいどれだけの威圧を突き抜けてデイジー選手に向かっていったのだろう。
そう考えると、ランディはぎゅっと拳を握った。
 レフェリーの説明もそこそこにゴングが鳴る。

 試合開始早々、デイジー選手が突っ込んでくる。統亜戦とは打って変わったアグレッシブ
さだった。
 ランディは顔面のガードを上げた。そのガードを下から割り込むように、衝撃が来る。
タッマラーと呼ばれるムエタイの縦肘攻撃だった。さらに、ティップという前蹴りが来る。
 バックステップでダメージを散らしながら、ランディはフットワークを使ってデイジー
選手の横に回り込んだ。ジャブ、そして右のストレート。ガチンと硬い感触がバンテージ
を巻いただけの拳を迎え撃つ。
 デイジー選手は片膝を上げてランディの拳を受け止めていた。ヨッパンというムエタイの
防御法だった。その堅牢な防御力は、鋼鉄の盾とも呼ばれている。つま先を一瞬リングに着けた
かと思うと、テッサイという左ミドルに変わって戻ってくる。
 ランディの動きが止まる。そこに、テッカークワァー、テッカンコーサイ、テッカンコ
ークワァー。強力極まりないムエタイの打撃技がランディの全身に降り注ぐ。

「コンチクショウ」

 ランディはマウスピースを噛み締めた。全身を打つ打撃の痛みを無視して、ずるりずるり
と前進する。

 デイジー選手がニヤッと笑ったような気がした。
 長い両腕がランディの胴体にまわる。がっちりとつかまれた。しまった。クリンチだ。
ボクシングでは、この姿勢からの攻撃法がほとんど開発されていない。対してムエタイ
は売りのひとつが首相撲の攻防だ。身体を左右に揺さぶられ、腹に、アバラに膝を入れられる。
 秒刻みでダメージが蓄積される。吐き気がマウスピースを押し上げる。いますぐ膝を
着きたいという欲求が頭蓋骨の中でぱんぱんに膨れ上がる。

 ――ランディ、ランディ!

 耳元で囁く声があった。
 幼いころから慣れ親しんできた小さな存在がランディのまわりに集まっていく。全身の
肌がほうと温かくなり、傷口の痛みが薄らいでいく。

 ――諦めないで。
 ――負けないで。
 ――さあ、目を開けて。
 ――私たちが力を貸してあげる。
 ――私たちはみんなあなたの味方よ。
 ――ランディ・ゼノサキスよ、いまこそ汝に風の魔装・・・・・・。

「うるせぇ、黙ってろクソ精霊どもーっ!」

 マウスピースを吐き出して、ランディは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

「なにが精霊だ、なにが魔装機神だ、
 風の魔装機神とかいって、全然風系の技持ってねえし!
 イメージほど高機動じゃねえし!
 お前ら、統亜のこと抱き上げたのか。
 あいつな、軽いんだよ。細いんだよ。小さいんだよ。
 それでも、一歩も退かずにこのカマ野郎に立ち向かっていったんだよ。
 なのに、俺は精霊におんぶに抱っこで反撃しろってのか。
 冗談じゃねえ。そんなの、全然カッコよくねえ。
 俺はなぁ、現代版兜甲児って呼ばれた男の息子なんだよ!
 ダーティーハリーやってたころのイーストウッドくらいのことしねえと、示しつかねえよ!」

 デイジー選手の脇腹に一発フックを入れて拘束から逃れる。一瞬バックステップして、
すぐにリングを蹴った。全身でデイジー選手に飛びかかる。
 デイジー選手は余裕の表情だった。フライボールを取る野手のような落ち着きで片脚を上げる。
 ランディは再度リングを蹴った。さらに加速する。顔の皮膚が風圧に押されて後ろに流れる。
 デイジー選手がテックワァーを放つ。まだ十分にモーメントが乗り切っていない右ミドル
を、ランディは片手ではたき落とした。デイジー選手の姿勢が崩れる。がら空きの背中が
ランディの目の前に広がる。

 ランディはさらに加速を重ねた。全身の毛細血管がいまにも弾けてしまいそうに血がた
ぎっている。まるで、自分の身体が一陣の熱風になったような感覚だった。

 ギョッと目を見開くデイジー選手と、瞬きひとつしないランディの目とが一瞬合う。
 まるで魔法のようだった。バンテージを巻いたランディの拳がデイジー選手の右脇腹、
つまり肝臓の真上を捉える。そこから先は簡単だった。両足でリングを踏みしめ、重ねに
重ねた運動エネルギーを破壊力に換えて全身から押し出す。

「絶対運命破壊パーンチ!」

「グワッ」とアヒルのような声を出して、デイジー選手がリングの外まで吹っ飛んでいった。

 ◆
 ランディの勝利が告げられても、レフェリーはランディの手を掲げようとはしなかった。
 観客席からはブーイングが飛んでいる。

「ランちゃん、ランちゃん、ランちゃぁ~ん!」

 いつの間に回復したのだろう。統亜がリングに飛び込んできて、ランディ飛び付いてきた。
その勢いと体重に押されて、ランディはその場にひっくり返る。両脚にまったく力が入らない。
当分、歩きたくもなかった。

「スゴいよ、カッコよかった! 大張作画のジョー・ヒガシみたいだった!」
「イーストウッドじゃないのかよ」

 瞼が重い。ランディは猛烈な眠気に襲われていた。統亜がなにをいっているのか、
半分も理解できない。
 と、ぷるんと柔らかくて、温かいような冷たいような、ただひたすらにいい香りのする
感触がランディの頬をちょんと突いた。

「ん?」
「あっ、ゴメン、つい!
 でも、ノーカンだよね! だって、ほっぺだったもん!」
「うんまあ、ほっぺだったなら、ノーカンなんじゃないの」
「え~」

 空中で安酒の精霊が季節外れの春の歌を歌っているのを聴きながら、ランディは眠りに落ちた。

「でもね、『絶対運命破壊パンチ』っていうネーミングセンスはどうかと思うよ」

 ランディはすでに眠りの中にいた。

 ◆
 マングローブの森を出ると、ティーシャツにジーンズ姿のデイジー選手が待ちかまえていた。
「次に会うのは、オーディション会場だべな」
「は?」
「今日は勝ちを譲ったけども、オラ、ドナルドダック役は誰にも譲らねえだ」
「いや、いいよ。そんな宣言してくれなくても。いいからドナルドダック役に打ち込めよ」
 デイジー選手が白い歯を見せてにっこりと笑う。そういう顔をすると、好青年にしか
見えなかった。こんな男が去勢しなければならないなんて、この国はやっぱりどこか歪んでいる。
「お前は、ここに残るのか?」
 丈の短いワイシャツにジーンズスカートという格好の紫雲統亜は、相変わらずアル=ヴァン
と並んでいた。
「うん。ちゃんと、バンコクのリングに上がっても恥ずかしくないくらい強くなる」
「そりゃいいけど、お前、横のオッサンとは縁切れよな」
「アル=ヴァン下段平トレーナーは、立派なトレーナーだよ!」
「気付け、そいつは人間のクズだ」
「あのさ」
「なんだよ」

「やっぱりあれ、カウントに入れていいかな」

 統亜のいうカウントが、なにを差しているのかランディにはわからない。デイジー選手
に負けたときのカウントのことだろうか。あの始終棒立ちしていただけのレフェリーが
カウントを取っていた記憶はまったくないが。

「いいんじゃないの。負けを真摯に認めるって、けっこう重要だと思うよ」
「うん、ありがとう!」

 統亜が白い八重歯を見せて笑う。
 この少女は、ひょっとして可愛いのかもしれない。そんなことを考えながら、
ランディはタイ国際空港への道を踏み出した。

 ◆
 もう二度と精霊のいうことなんか信じるもんかと決めていたから、あえて精霊の教える
道の反対方向を歩いていった。
 そうすうと、なぜか紫雲克夜が済んでいるアパートの前に来た。

「さすが長い付き合いだなコノヤロー」

 毒づきながら克夜の部屋のドアを叩く。チャイムを鳴らす気にはならなかったから、
ドアを足で蹴飛ばした。

「うん? Pちゃんどうしたの」

 部屋着姿の克夜が顔を出す。

「あのさあカッちゃん、お前の、上の妹だっけ。
 統亜の連絡先教えてくれないか」
「え、イヤだよ。なにいってるんだPちゃん。僕の可愛い妹たちにPちゃんのごとき子豚
 を近づけさせるわけないじゃないか近づかせてたまるもんか僕が認めた相手じゃなけりゃ
 妹たちには指一本触らせない。僕の愛らしくも何度いっても八重歯を治さない妹になにか
 用があるっていうの? どんな用があるとしても僕は認めないけどね。なんなら勝負するかい
 勝負。うんそうだ勝負しよう表に出なよ表に」

 今まで見たことがないような無表情でまくしたてる克夜を前に、ランディはため息をついた。

「安心しろ、違うから。そういうんじゃないから」
「じゃ、なんだっていうんだい」
「これ、妹さんに送ってくれ」

 ランディはDVDショップで買ってきたばかりの包みを克夜に手渡した。

「なんだい?」
「『ミリオンダラー・ベイビー』、最後まで観とけって伝えといてくれ」

 空中では、相変わらず精霊たちがクスクスと笑っている。
 しかし、もう構わない。精霊たちは友人ではあっても、頼るべき相手ではない。なにより
もまず、自分の意志で動かなくてはならないと、ランディは今回の迷子で学んだのであった。

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最終更新:2009年10月17日 14:58
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