18代目スレ 2007/08/03(金)
アストラナガンの制止の声は聞こえていた。イングレッタは構わずコックピットから飛
び出した。
敵の周囲ではすでに時空の乱れが起こりかけていた。下手にアストラナガンを近づけれ
ば、なにが起こるかわかったものではない。
着地と同時にホルスターからCz75を抜き出す。マガジンをぶち込み、安全装置を解
除する。最後にピストル・バイヨネットを装備させた。拳銃にナイフなど付けて役に立つ
ものではないが、ナイフを手にしているという心理的効果は案外大きい。
物理法則が歪み始めている戦場で、ハイテクノロジーはほとんど役に立たない。火薬で
鉛玉を撃ち出す。刃物で突く。それだけできれば上等だ。
Cz75にキスをして、イングレッタは地面を蹴った。アソセレス・スタンスに構え、
引き金を引く。1発、2発、3発。
時流嵐の向こうで、敵がこちらを向いた。その顔面に銃弾が命中する。銃弾は頭蓋骨を
砕き、強烈な運動エネルギーが脳髄を瞬間的に膨張させる。弾丸の射入口を破断点となり、
頭蓋骨が炸裂する。白い骨とピンク色の脳細胞が、破片となってびちゃびちゃと地面に飛
び散った。
「はははははは!」
下アゴだけになった頭部で、敵は高らかに笑い声を上げた。
砕けたばかりの顔面が再生していく。卵形の輪郭の上に赤毛が乗った。ちょこんと小さ
な鼻に、若干吊り上がった目。女の顔だった。
ついさっきまで戦っていた敵は男だった。いまは女になっている。混乱させるのも戦略
のうちということか。
イングレッタは構わず引き金を引こうとした。寸前、拳銃がバラバラに分解する。
「なぜ邪魔をするの。わたしはあなたとおなじことをしているだけなのに」
敵がケラケラと笑う。耳を貸すな。イングレッタは自分に言い聞かせた。
「だってそうでしょう。
あなただって、あの世界のエネルギーを欲しているのでしょう。
無数にある並行世界のひとつに過ぎないはずの、あの世界に!
ずるいじゃない。わたしがおなじことを考えたらいけないの?」
認めたくはないが、わずかな動揺が生まれたらしい。イングレッタの動きが一瞬止まる。
そこを突かれた。
遠くからアストラナガンの声が聞こえたような気がした。頭上から圧迫感。無数のガレ
キが落ちてくる。間に合わない。最初に聴力が、そして視覚と触覚が麻痺した。
気絶したのは1秒ほど。それだけの間に、状況は最悪なものになっていた。右脚の感覚
がない。ガレキにはさまれ、まったく動かなくなっていた。
「そこで見ていればいいわ。じき、道が開く。
ついでにあなたを連れていってあげてもいいのよ」
敵の勝ち誇った口調に、イングレッタは嘲笑を浴びせかけた。
「三下ね」
Cz75の残弾は充分。イングレッタは迷うことなく銃口を自分の右脚に向けた。引き
金を引く。射撃の衝撃、そして着弾の衝撃に全身がガクガクと揺れた。筋肉繊維が千切れ、
骨が粉々に砕け散る。自分自身の硝煙と血の滴と肉片を顔面いっぱいに浴びながら、イン
グレッタは右脚を引きちぎった。
「頭がおかしいの!?」
弾切れになったCz75を捨てる。1本の脚と2本の腕でもって、イングレッタは地面を
駆けた。呆然と立ち尽くしている敵目がけて、文字通り牙を剥く。
のど笛に食らいついた。動脈を噛みちぎる。噴き上がる鮮血を浴びながら、イングレッ
タはなおも二度、三度、歯を肉に食い込ませた。
「あなた、人間じゃ・・・」
荒い息を吐きながら、イングレッタは敵の最後の言葉を聞いた。
気が付くとイングレッタはアストラナガンのコックピットの中で再生処置を受けていた。
千切れた右脚はすでに傷がふさがり、新しい肉と骨が生えかけていた。
もうろうとした意識のままコンソールをいじった。外の景色が見えるようになる。見知
った風景だった。
公園がある。家がある。夕方だった。どこかで夕食の準備でもしているのだろうか。
「ここは」
『嬢の深層心理が、ここに来るように命令した』
アストラナガンの声が響く。
道路の上を、2人の少女が歩いているのが見えた。イングレッタが好きな銀髪の少女と、
イングレッタが嫌いな銀髪の少女だった。2人とも笑顔を浮かべて、なにか喋っている。
『嬢、つらいなら別の場所に』
「いいわ」
遠慮がちなアストラナガンの言葉を、イングレッタはきっぱりと断った。
「この世界に来ると、わたしが人間だったことを思い出すわ。
この安らぎと、この妬みは、人間でなければ持てないものだもの」
笑いながら生きる道もあったのかもしれない。しかしイングレッタは、戦わずにはいら
れない自分自身を知っていた。
最終更新:2009年11月14日 10:48