31代目スレ 2010/2/5
「あら珍しい、何してるの?」
洗濯物を取り込んで二階から降りてきた
ゼオラ・バランガは、リビングでノート型端末を
何やら操作している夫の背中を見つけて愉快そうな声をかけた。
「んー、整理整頓」
アラドの指がタッチパネルを叩くと、画面上のアイコンがすいすいとフォルダに
吸い込まれていく。いくつも並んだフォルダにはそれぞれ日付が書かれており、肩越しに
覗き込んだゼオラはその日付を目で追って口元をほころばせた。
「やだ、旅行の写真じゃない。こんなに溜まってたのね。ていうか、全然整理してなかったの?」
「こんな多いと思わなくてさ。昨日久々に開いてみてびっくりした」
「普段からやっておくのよ、こういうのは。もう……」
言いながらもゼオラは手を伸ばし、フォルダを一つ二つ開いてみる。懐かしい風景が次々に
画面上に現れて、ゼオラは知らず目を細めていた。
十数年前、ゼオラは
アラド・バランガと結婚し、ゼラド、アオラという二人の子を授かった。
それは医師の予想を覆す出来事であり、二人の愛が起こした奇跡であるとゼオラは今でも
思っている。だがそれはそれとして、立て続けの出産は常人より生殖能力の低いゼオラの体に
たいへんな負担をかけた。アオラを産んだ後、一週間たってもゼオラは枕から頭を
上げることさえできなかったのだ。
このままでは命の危険もあると宣告され、若き夫アラドは一つの決断をする。ゼラド達を
クォヴレーに預け、二人で定期的な転地療養を始めたのである。
生まれたばかりの子供を置き去りにすることに、ゼオラは当然反対した。クォヴレー
(とディストラさん)という、技術と精神の両面において圧倒的に信頼できる託児者が
いなかったなら、決して賛成しなかっただろう。だが最後には周囲の説得を受け入れ、
アラドと共に秋田県は花巻温泉郷へと旅立ったのだった。
「一日に何度も何度もゼラド達の写真を送ってもらったのよね……」
「ほとんど生中継だったな。あんまり写真撮りすぎて、半年でカメラが壊れたって言ってたぞ、
クォヴレー」
「こっちは、スイス?」
「そう、バーデン。こっちがカルルスバート。土地別でも検索とかできるようにしといた
方がいいかなあ?」
「そうねえ、最近は人に紹介したりもするし……」
「ただいまー! お母さんお母さん、絵の具どこ? チタニウムホワイトがいるの」
「おかえりなさい。絵の具なら、階段の下の物入れにあったわよ」
「おかえり、ゼラド」
「わかったー! あとただいま、お父さん!」
息を弾ませて駆け込んできたゼラドが、またバタバタと駆け去っていく。夫婦は顔を
見合わせて笑みをこぼした。
今日は別府へ、明日は湯布院へ。夏はスイスへ、冬はリヴィエラへ。少しでも良い気候、
良い設備、良い土地柄を求めて、アラドとゼオラは文字通り世界中を飛び回った。おかげで
今では二人とも、そこらのガイドブックなど問題にならないほどの旅行通である。特段
写真好きというわけでもないアラドは、一度の旅行でほんの数枚の写真を記念に撮る
だけだが、それでも画面に示された画像ファイルの総数は四桁に届こうとしていた。
子供達には、ゼオラの体のことは話していない。事情を知る友人にもかたく口止め
してあるから、おそらく旅行マニアでラブラブすぎる困りものの親くらいにしか思われて
いないだろう。それで構わないと、二人とも思っている。親が子供のためにどんなに
苦しんだか、などという話は、ことさらに語って聞かせるようなものではない。自分を
産んだせいで母親の命が危なくなったなどと知れば、気の優しいあの子達はどれだけ
悲しむことか。
「お母さーん! 導電性ポリマーってうちにある?」
「お父さんの昔のパイロットスーツに使ってたと思うけど。物置にあるから、もってって
いいわよ」
「ありがとー!」
「今度は何やってんだ、あの子は」
「キャクトラくん達と、ソーラーカーを作るんですって。大会に出場するとか言ってたわ」
「母さん、俺今日ライブ行ってくるから。晩飯とっといて」
「はいはい。ピラフだから、おむすびにしとくわね。六つでいい?」
「八つ。行ってきまーす」
それに、「旅行マニアでラブラブすぎる」という評も、あながち間違っているわけでもない。
妊娠判明と同時に入籍した、いわゆる「デキ婚」だった二人にとって、旅先で過ごす日々は
初めての、子供抜きでの夫婦生活だった。恋人時代とはまた違う、しっとりと穏やかに
流れる時間が病みつきになり、医師から「もう大丈夫、完全な健康体」とお墨付きをもらって
からも結局変わらぬペースで旅行を続けているのはまぎれもない事実である。クォヴレーには
二人とも足を向けて寝られない。
「これ覚えてる、乳頭温泉ね。この時、雪が綺麗だったらしいわね。私まだ弱ってて、
どこも出歩けなかったのよ。残念だわ」
「ああ、それじゃ…」
「お母さんお母さーん! 六角レンチと万力と、あと電気ノコギリ借りるねー!」
アラドが言いさしたところで、三度ゼラドが廊下を走り抜けていく。二人は席を立って
廊下へ顔を出し、
「ゼラド、張り切るのはいいけど、少し落ち着きなさい。何と何が必要か、よく考えてから
持っていくの」
「ごめんなさーい」ゼラドも物置から首だけ出して謝る。すぐにぱっと顔を上げて、
「そうだ、ルテニウム錯体ってどこで買えるかな」
「そんなもの、近所じゃ買えないわよ。必要なの?」
「うん、太陽電池作るの」
「電池から作ってるの!? ……そうねえ、
マーズ君に頼んでみたら?」
「マーズ君はライバルチームだから、ダメ」
「有機太陽電池ならヤザンさんとこが詳しいぞ。あの人ジャンク屋に顔が利くし、いま地球に
来てるから父さん訊いてみようか?」
「ほんと? お願い!」
「へえ、ヤザンさんこの近くなの」
「うん、今度呑もうってメール来てた」
「ほどほどにしてよ? あなたお酒だけは人並なんだから」
「それじゃお父さん、来週までに結果わかる?」
「おう、訊いとく」
「ありがとー!」
工具類を山ほどかかえて駆け出ていく娘を玄関先まで見送り、アラドとゼオラは
顔を見合わせて苦笑する。
「それでさ、さっきのとこ、月末あたり行かないか? クォヴレーが久々に帰ってくるって
言ってたし」
「あら、そうなんだ!」
「うん。今度はしばらくいるってさ。一週間くらいなら、俺も休暇とれるよ」
「いいわねえ、楽しみ。そうだ、またおみやげリスト作らなきゃね」
語らいながら家の中へ戻っていく二人の手は、ごく自然につながれている。
軒先に巣を作るツバメが二羽、つっとすべり出て、冴えかえった冬空を渡っていった。
「なあ友よ」
「うん?」
「ゼラド殿がああまで天真爛漫な性格なのは、やはりご両親が超ラブラブなのが
原因なのであろうかな」
「だったら、お前も似たような性格になるはずじゃ?」
「うーむ」
End
最終更新:2010年12月23日 13:42