31代目スレ 2010/3/13
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神経接続終了、人工筋肉通電完了、体液循環開始。
マーズはざぶりと調整槽の中で身体を起こした。前髪からぽたぽたと液体が落ちる。
眼球ユニットをきょろきょろ動かす。
ある。ヘソの下にあるのはもう、メカニカルな4本脚ではない。2本の逞しい脚が
しっかりと着いていた。
調整槽の縁に手をかけて起き上がる。片脚をバスルームの床に着けたところで、すてん
とひっくり返った。想定の範囲内だ。今まで4本だったものが2本に減ったのだ。そうそう
すぐに歩けるようになるはずがない。壁に立てかけてあった松葉杖に手を伸ばす。
2本の脚を引きずりながら、松葉杖を突いてバスルームを出る。クローゼットの中には、
この日のために買ってあったダメージジーンズが納まっている。
◆
松葉杖を突いてグレーデン家に向かうのはひと苦労だった。
しかし、マーズの中に不快感はない。それどころか爽快感でいっぱいだった。もう、
歩くたびにガチャガチャとうるさい4本脚はない。誰も好奇の目で見下ろしてきたりしな
いし、子供にヒソヒソと噂話されることもない。
マーズは意気揚々と2本の脚を引きずっていた。
「マーくん!」
「ミズッちゃーん!」
「マーくんマーくん、それどうしたの」
「えっへっへ、とーとー買っちゃったのよ」
マーズはえへんと2本の脚を張って見せる。
もはやマーズは4本脚のロボットではない。もう誰にもバケモノだなんて呼ばせはしな
い。どこからどう見てもティーンエイジャーの男の子だ。
◆
カラオケボックスの中で、エマーン人の女の子が二人並んで『Love Wars』を歌っている。
マーズは上機嫌でコーラを煽っていた。
「ひひひっ、飲めや、歌えや!
きょーの払いは、ぜーんぶおれが持ったらぁー!」
きゃーっ、と女の子たちが嬌声を上げる。全部で何人いるのか、マーズはもう数えてい
なかった。
「ふたり、なにしてるひとなのぉー?」
「べつに、ただの中学生だよ」
「ちげーよ、ミズッちゃんはガカだよ、ガカ。
シンシンキエーのアーティスト」
「そんなの、マーくんは実業家さんじゃん」
すごーい、と女の子たちが声をそろえる。マーズはますます小鼻を膨らませた。
「マーくんマーくん、マーくんが好きな『Soldier Dream』入れたよ」
「うーっし! そっらぁー、たかくぅー、かぁかげぇよぉー!
それはぁー、せーざのぉー、神話ぁさぁそるじゃーどりーむ!」
誰かが「追加注文してもいい?」と訊いた。マーズはケタケタと笑いながら頷いた。
◆
頭がずきずきと痛む。こういうとき、目の前に
ラーナ・モントーヤの不機嫌な顔がある
というのは、非常に愉快でない。
「それで、目が覚めたら二人して財布ごと持って行かれていたというんですか」
「おれでも酔っぱらうことがあるのだねー」
調子に乗って注文した飲み物の中にアルコールが混ぜられていたのだ。まさかロボット
の自分が酔っぱらうことがあるとは思わなかった。人間を凌駕する演算速度を誇る陽電子
頭脳と、人間とほぼ同等の代謝を行う生体ユニットが合わさるとこうなるのか。どうやら、
マーズは相当酒に弱いらしい。
聞くところによると、最近おなじ手口で小銭を盗まれるサラリーマンが多いらしい。
マーズはまんまと集団スリの被害にあってしまったわけだ。
「まーまー、授業料だと思えばいーやね」
財布の中には銀行カードなどが入っていたが、当然盗まれたことがわかってすぐにスト
ップさせている。被害額は現金にして100万にも満たない。マーズにとっては微々たる額
だし、今さらどうでもいいものでもあった。
「おカネにあかして飲み遊ぶなんて、やることが下品です」
「おれぁーもともと、おジョーヒンなタチじゃねーや」
「ロボくん」
ひたりと、ラーナがマーズのことを見つめる。
ロボくん。この女子中学生は、いつも自分のことをそう呼ぶ。それが、マーズには少し
気に食わなかった。自分の名前が好きなわけではないけれど、ロボット呼ばわりには
もううんざりだ。
「このままにしておくんですか」
「まーね。おれぁーオマワリってやつがキラいでよ。
被害届出す気にもなんねーな」
「2本脚になった途端、なんですかそれは」
「見りゃーワカんだろー? おれぁーホンカイをとげたんだ。
あとぁーもー、オモシロおかしく暮らすだけさ」
ばん、とラーナが床を叩いた。
「わたしはっ、子供の身で社会と戦っているあなたを凄いと思っていたんです。
あんまり失望させるようなことをしないでください」
「勝手なゲンソーを押し付けんじゃねーよ、べらぼーめ!」
マーズも負けじと床を蹴飛ばした。
「もう、いいです」
すっくと立ち上がって、そのままラーナは振り返りもせずに事務所を出て行く。
「なんだよ、ちくしょーめ」
マーズはむかむかした気分のまま『聖闘士星矢』のコミックス一気読みを始めた。
◆
だいたい、あのラーナ・モントーヤという少女はろくな選択をしないのだ。そのくせ、
いつもムチャをする。
マーズは悪態をつきながら松葉杖を突いて走った。埠頭に急ぐ。
暗がりの中に、ひとつの集団があった。中央で威張っている巨漢の腕の中に、ラーナ・
モントーヤの小柄な身体があった。その足元には、先日マーズがスリ取られた財布が転
がっていた。集団の中には、マーズと大騒ぎをしたエマーン人の少女たちも含まれている。
「来たぜ」
「出せよ」
随分単刀直入にものをいう男だ。こんな場所でなければ好感を持っていたかもしれない。
そんなことを考えながら、マーズは足元に札束を放り投げた。
「もっとあんだろ」
「ねーよ。最近散財しちまったばっかでよ」
「知ってんだぜ。お前ガキのくせに、ずいぶん持ってるらしいじゃねえか」
「カネ持ち狙ってんなら、ほかにもっといるだろーによ。
なんでおれに来んのかね」
「お前、親なしだろ?」
なるほど。家に守られている御曹司たちと、雑居ビルの一室で『聖闘士星矢』を読ん
でいるロボット1体とではセキュリティのレベルが違いすぎる。くみやすし、と判断され
たのだろう。なかなかの判断力の持ち主だ。
「まあ、親はいねーな。ライフデータ提供者は、あれ、どっちでもいーし」
「おう」
巨漢が凄む。その腕の中で、ラーナ・モントーヤがはっと身をすくめた。
「ロボくん、なんで来たんです!」
「ロボット三原則第1条、ロボットは人間に危害を加えてはなんねー。
またその危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはなんねー。
アシモフせんせーがそーゆーことゆーんだもん」
男たちが下卑た声を上げて笑う。
「なあ、知ってるか? ロボットは人間の命令に逆らえねえんだぜ?」
「ほんとかよ」
「てめぇでてめぇを解体しろっていわれても、ロボットは逆らえねえんだ」
「ウケる」
「おう、現金がねえってならしょうがねえ。
腕か脚、置いてけ。
そんだけ精巧な生体部品なら、カネになんだろ」
「お目がたけーね」
「やれよ」
「おーよ」
だいたい、予想通りの展開だった。マーズは足元に放り投げられたドライバーを拾うと、
自分の腰に突き立てた。
「ロボくん!」
ラーナが叫ぶ。
次の瞬間、ラーナを捕まえていたエマーン人の巨漢がうめき声を上げた。ラーナがその
腕に噛み付いたのだ。
ラーナの腰の、愛用の工具ベルトは巻かれていない。エマーン人たちに没収されたのだ
ろう。つまりラーナは、まったくの空手で男たちに挑んだことになる。
陽電子頭脳が判断する。そして、マーズはドライバーを振り上げて男たちに跳びかかった。
「てめぇっ!」
「命令に逆らうのかっ!」
「ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。
ただし、与えられた命令が第1条に反する場合はこの限りではねー!
ちゃんとお勉強しとくんだったなーっ!」
つまり、ラーナが無茶をすればするだけ、マーズにとっては動きやすくなるということだ。
妙なものだ。
ロボット三原則は、もともとアイザック・アシモフが小説のネタとして考案したもの
だった。なにしろアシモフ本人が作品の中でその矛盾性を指摘しているのだから、まとも
なものであるはずがない。そんなものが、なぜ最新の技術が詰め込まれた自分に搭載さ
れているのか、マーズはずっと疑問だった。
いま、わかったような気がする。
ロボットは、無茶をする人間を守るために命令に反する権限を与えられているのだ。
そういえば自分のライフデータ提供者も、よく無茶をする人間だった。
巨漢の拳がマーズの顔面に直撃する。マーズは松葉杖を突いたまま立ち続けた。
「ひひひっ、さー、撃ってきなよ。
おれぁー反撃することが出来ねー。
でもよ、そう簡単に壊すことも出来ねーぜ。
おれぁーガンジョーなんだ!」
「こいつ!」
「ロボくん!」
「下がってろってゆってんだよ!」
マーズはラーナの襟首をひっつかむと、後ろに放り投げた。
男たちが怒声を上げてマーズに殺到する。
マーズは笑みさえ浮かべて男たちを迎え撃った。なぜいま、喜びを感じるのか。マー
ズの陽電子頭脳でも判断することが出来なかった。
「ロボくん!」
「うるせーな、さっさと逃げろっつってんだよ」
「わたし、堪忍袋の緒がキレました」
「は?」
ラーナの手には、先ほどマーズが持っていたドライバーが握られていた。
セーラー服を着た小柄な身体がヒュンとマーズの横を通り過ぎる。
次の瞬間、男たちは立て続けに悲鳴を上げることになった。
「こいつっ!」
ドライバーを腕に突き立てられたまま、巨漢が吼える。
マーズはとっさにラーナを突き飛ばした。
巨漢の手の中で火花が散った。高電圧のスタンガンだった。
マーズは自分の腰のあたりで小さな爆発が起こったのを見た。
◆
事務所までは、ラーナが引っ張ってくれた。その間中、ラーナは謝罪の言葉を繰り返
した。そのたびマーズは「うるせーよ」と返した。
「もーいーよ、うぜーよ」
「だって!」
マーズの下半身は黒焦げになっていた。神経系もズタズタになっていて、もう使い物
にならない。
「また元の、4本脚に戻るだけさ」
「それじゃあ」
「また明日から、シノギに励まなきゃー」
ラーナはスンと鼻先を鳴らして、それから少し笑った。
「ロボくん」
「ロボくんて、それやめてくんねーかな。
そりゃーおれにゃーロボットとしての矜持があるけどよー」
「お仕事頑張ってください」
「いわれるまでもねーよ」
「でもロボくん」
「だからさー」
「ロボット三原則っていうのは、矛盾だらけの原則です。
それは、どうしても守らなくちゃいけないんですか?」
「知らねーよ。そんなのおれの陽電子頭脳に訊きな」
「ロボットは人間に危害を加えてはならない。
でも、幸せとともに傷付けられるなら、どうなんですか」
「なにをゆってんのかわかんねーよ」
ラーナが薄く笑う。
マーズはなぜだかギクリとした。いまの感触を色香と呼んでいいものかどうか。それ
を判断するのに、マーズの陽電子頭脳はまだまだデータ不足だった。
最終更新:2010年12月23日 13:47