【Fate】SS速報・鯖鱒wiki

曹操ちゃんの来歴

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【来歴】
1.幼少期
武芸、兵法などに抜群の才能を見せる。学問では並ぶものがいなかった。
しかしチビだの宦官の孫だのバカにされる。
こういった幼少期の体験が儒教的な観念に囚われない、合理主義者的思考や後の唯才是挙、求賢令などに繋がっていく。

「なぜ私が宦官の孫だというだけの理由で、あんなバカどもに蔑まれなければいけないんだ!
 犯罪者であろうが、底辺の出自であろうが、人格破綻者であろうが
 才能や能力があるなら認められるべきだ!出世して見返してやる!」

※当時、宦官というのは「親からもらった身体を傷つけ、子孫を残して祖先の祭祀を続けることを拒む、人間以下の存在」 として非常に卑しめられた存在だった。
曹操の祖父・曹騰は出世しても身を慎み、多くの人材を公平に推挙することで反感を和らげようとしたが、それにもやはり限界はあった。

2.成人後
洛陽北部尉(北門の警備隊長)として着任。
身分を問わず法を犯した人物には刑を執行する。
曹操が管轄する地区は法を犯すものが現れなくなり、治安も保たれ民からの評判を得る。
しかし宦官たちに煙たがられ、地方に飛ばされてしまう。

「流石に十条寺の親戚をしばくのはやり過ぎたかー。
しかし法は法だし、私があんな道理も分からんバカに媚びることなど我慢ならん。
……あー、でもこれで出世コースから脱落かー。お爺ちゃんがどうにかしてくれたりしないかな?」

しかしその後恩赦や組閣改造などもあり曹操は呼び戻され議郎に任じられる。
位は低いものの政策立案などに関わる仕事だった。やったね。

3.黄巾の乱勃発
騎都尉(高級将校)に任じられ、軍人デビュー。
黄巾族討伐で活躍した曹操は褒美として済南の相に任命され
赴任後は汚職をしている役人をクビにしたり、邪教を弾圧することで平和な街づくりを実現した。
それらの功績もあり東郡太守に任命される。

「やったー!これで出世コースに返り咲きだ!」と喜ぶものの
善政を敷き賄賂が送られなくなったことで十常侍がますます曹操を敵視し始める。
一族に危険が及ぶと考えた曹操は仮病を使い辞職。無職期間に突入する。(以降4年くらいニート)

「安全な太守生活ができると思ったらこれだよ!最悪極まる!」

4.188年、ニート卒業
黄巾の乱平定に功のある者として、霊帝直属のエリート部隊、西園八校尉に任命される。
恐らく霊帝に仕えていた曹操の祖父が、ニートの曹操を見かねて頼み込んだものと思われる。
出世コースに戻ってこれたと思ったものの、霊帝廃位のクーデター計画などやべーことに誘われたりする。

「私はここで出世したいんだよ!それで安全な後方でのエリート勤務がしたいんだ!
 そんなヤバイことに私を巻き込むな頼むから!」

5.189年、十常侍抹殺。
大将軍何進は十常侍ら宦官勢力に圧力をかけるため、各地にいる諸侯に向けて上洛を促した。
「やめろー!そんなの各地で眠っている竜を起こすようなものだ!大乱世になるぞ!」と曹操は反対するも聞き入られることはなかった。

何進の強硬姿勢に危機感を抱いた十常寺は何進を暗殺。
これをきっかけに何進の部下であった袁紹が宮殿に突入。宦官を皆殺しにする。
(同時に大宦官・曹騰の孫である曹操にとっては、安定して出世できる未来が失われた瞬間であった)

「だからやめろって言ったんだ私はーっ!」

そして宮殿から逃げ出した劉協と劉弁(霊帝の子ら)は西涼から来たやべーやつ、董卓が確保。
呂布を味方につけるわ、劉弁と何皇后を殺害するわ、洛陽の民の財産を奪うわ殺害するわと好き放題する。
董卓に勧誘されたりするが、曹操は仮病を使って故郷へトンズラを決め込んだ。

6.190年、反董卓連合
この暴挙に対し、袁紹を盟主とした反董卓連合が結成される。
「この乱世で勝つ(出世する)のは袁紹だな」と判断した曹操は元々袁紹の友達だったこともあり、義兵を集め反董卓連合に参加。
しかし袁紹をはじめとする諸侯たちは自身の戦力を使うことを惜しみ、戦を仕掛けようとはしなかった。
結局反董卓連合は董卓の首も挙げずに解散。
董卓は長安に遷都し、洛陽は焼き払われ、朝廷は長安に移ってしまった。

7.191年以降、魏武のはじまり
この頃曹操は袁紹によって東郡太守に任命されたり、兗州の刺史になるよう頼まれ引き受けたりしていた。
(なお朝廷が正式に兗州刺史に任命した官吏は追い返した)
この頃になると群雄たちは董卓や帝を放置し袁紹派、袁術派に分かれ戦っていた。
(もちろん曹操は袁紹派)

この頃に徐州に侵攻し虐殺行為を行なっている。
なお兗州に置いていた友人・張邈が裏切り、董卓を裏切った呂布まで介入してきたので徐州攻めを諦め撤退。

「あれは降伏させた青州兵30万と、その家族100万を養うためだ。
 我らには耕す土地が必要だったのだ。
 わざと派手に虐殺したのも、諸勢力に我が軍の力と恐ろしさを見せつけておく必要があったからだ。
 父の復讐など口実に過ぎん。
 陳宮と張邈が反逆し呂布を招き入れたことで、結局徐州は諦めることになったが……。
 え、養えもしないのに敵兵を降伏させるな?
 仕方ないだろー!あいつら降伏させなかったら私が殺されてたんだから!」

8.195年
ようやく呂布を兗州から追い出し、張邈の三族を皆殺しにする。
この頃になると曹操もかなり力を付けてくる。

9.196年、天子奉戴
長安から脱出して来た献帝を荀彧が勝手に連れてくる。
もはやオワコンだと見られていた漢帝国の皇帝を奉戴するということは、新王朝を開く気満々であった袁紹への明確な背信行為だった。
さらに曹操の勢力がかなり拡大していることに加え、荀彧や郭嘉など袁紹を見限って曹操に仕えた者たちがいることも影響した。
即座に開戦とはいかないものの、これで袁紹と曹操の対立は不可避となった。
以後、袁紹は曹操との戦いに備えるため公孫瓚との決着を
曹操は袁術、呂布、張繍との決着を急ぐことになる。
なおこの時期に一時的にだが劉備が仲間になる。

10.200年、官渡の戦い
かなり弱音を吐きながらも官渡の戦いで辛勝。
袁紹を一時的に引かせるものの、大勢力の一部を削ったに過ぎなかった。

「もぅマヂ無理。どぉせゥチゎ天下の器じゃなかったってコト。今烏巣焼いた。」

11.202年、河北統一
袁紹が病死。
袁氏は後継者争いを始め、曹操はその後継者争いに巧みに入り込み、207年に袁氏一族を滅ぼし、袁紹の領土を全て獲得する。
ここに至り曹操は群雄たちの中で最大版図を達成。
帝をも擁する一強勢力となり、覇者としての地位を確立する。

「袁紹がいないとこんな楽なのか……」

12.208年、赤壁の戦い
曹操、丞相になる。ついにエリート勤務のトップに。
あとは劉表や孫権、流浪の劉備ら群小豪族を倒すだけとなる。
「あとはもうイージーモードだな。大勢が決した以上、圧力をかけ降伏させるだけで終わる」

実際、劉表は同年にすぐ降伏してきた。
劉備も捕まえるつもりだったが、大量の民を連れて逃亡したこと、張飛らに阻まれたことで取り逃がす。

「まっ、まぁいいさ。あいつの生存能力は天下一だ。最初から簡単に捕らえられるとは思っていない。
 夏口に逃げたようだし、ついでに孫家の三代目を降伏させて……」

しかし孫権、降伏するどころか劉備と結び曹操の船団に襲いかかる。(赤壁の戦い)
「理解不能!理解不能!合理的に考えたら降伏一択だろ!国力差あり過ぎるのが理解できないのかあいつら!?」

この敗戦で荊州のほとんどを奪われ、曹操の思い描いていた中華統一、平和な後方エリート勤務の夢は頓挫する。

13.216年、魏王就任
曹操、魏王に封じられる。
この時には献帝には全く実権がなく、曹操はいつでも後漢を滅ぼすことができる状態だった。
しかし曹操は220年に没するまで帝位にはつかず、後漢の丞相の肩書きで通した。

「小心で繊細、ただただ結果ばかりを急ぎ、悪名を悪名のままに受け入れる。
 屈折したコンプレックスの塊で人格も歪みまくっている。
 それが曹操孟徳という人間だ。
 そんな人間が社稷を祀る皇帝になるなど噴飯ものだろう」

【関連人物】
・荀彧
曹操を「自分の考えた理想の王」に仕立てあげた張本人。
呂布にエン州とられた辺りの頃、心が折れて「私なんて天下を争う器じゃない!」と泣き言言ってる曹操に
「そんなの『私の』曹公ではありません」とケツを叩きまくり、勝手に天子を迎え入れて覇道に導いたりしていた。

「荀彧?あいつ酷いぞ。袁紹と戦ってる時『もう食糧ないし本拠地に戻ろう!お家帰ろう!』って私が言ってるのに
『楚漢戦争に比べたら全然マシですよ。半年もがんばっているんだからチャンス逃さないようにしてください』
(意訳:今さら泣き言言ってんじゃねぇ。袁紹に勝つまで帰ってくるな)とかのたまったんだぞ?
そりゃあいつは最後まで頑張れば忠義の士として評価されて再就職できたり、歴史書に載ったりするかもだけどさぁ
私ミスったら死ぬよ?斬首だよ?おかしくないか?」

「荀彧が漢王朝に殉じて死んだ悲劇の英雄? ウッソだー、あいつ私と一緒に天下取る気満々だったぞ」
「荀彧がなんで死んだって?赤壁で失敗した後、喧嘩してな……。
ずっと一緒にやってきたあいつのことを、もっと信じてやればよかった」

・劉備
「劉備なー、あいつが私の部下のままでいてくれてたらなー。もっと楽に乱世平定ができたんだけどなー。
えっ、そんな未来は間違ってもない? うん、分かってた」

「私は理で全てが割り切れると思っていた。けど、そうじゃなかった。
どんなに優れた治世でも、どんなに優れた君主であろうと、私を主と仰ぐなど死んでも嫌だ。
そんな理の外にいる者たちがいた。
その最たる例が劉備だ。奴は理で割り切れぬものをかき集め、最後まで私の前に立ちふさがった。
私が名を挙げれば挙げるほど、劉備を求める天下の声が大きくなるんだ。」

「あいつが呂布に負けた後、私のとこに下って来たときは『やったー!』と思ったんだけどなぁ。
本当は中央で、私の右腕として働いてほしかった。
でもあいつが私から離れた理由も分かるんだよ。
郭嘉とか荀彧は劉備をかなり危険視してて、殺す気満々だったし。
……あいつとはそれからずっと戦うことになったけど、一緒に天下取りたかったな」

・孫権
「なんでさっさと降伏しないんだよあのガキ。普通ならすぐ降伏だろあんな戦力差じゃ。
呉の連中は魯粛といい甘寧といい基地外ばっかりだ」
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