自習室にはいつもと違う空気が満ちていた。皆がどこかしら浮ついていて、表を取り繕ってはいるけれど何かを期待しているようでもあるし、そうでありながら後ろめたげでもある。
あちこちでひそひそと話し合う様子のいずれもから、ノイナは遠ざかっていようとしていた。
千年の歴史を誇る帝國に、遺恨は数えきれないほどある。それが噴き出してきたら、どうなることか。それを裁くなり、抑えるなりするものには、力がいる。同じ学生の身でそんなことができるなら、誰も苦労はしない。
ノイナといえば、皇帝陛下に忠義を誓うものとしての、家の意識がある。それは皇帝陛下の旗本としての自負と意識であって、それが示されるべきは、それなりに然るべきところであるという意識もまたある。この学園の学生同士の関わりが、その然るべきところであるとは、ノイナには思えない。
だが構わず堂々と、ノイナの耳元に囁きかけるものがいる。
「クラウディア様と無名様も、お許しを受けられたそうですわ」
当たり前のようにノイナと同じ机について、ドロテアは言う。お許し、というのは反省房のことだ。反省房なるところがあることにノイナは少し驚いていたのだけれど、この学院は修道院の中に作られてもいる。
そんなことより、何度か席を替わったにもかかわらず、ドロテアは平気な顔をして、失礼、と言いつつ同じ席につく。その厚顔さにサーリアも驚いているらしい。というか、席を移るノイナに続いて、サーリアも移るべきかどうか迷っている風があった。離れた席から困ったようにノイナ達の方を見ている。
「私はそんなことに興味はありません。それにあなたに同席してよいとも言っていないはずです」
「あら、ノイナ様は同席される方をお選びになるのですか」
ころころとドロテアは笑う。
「わたくしは席に着くときに、失礼、と申し上げたつもりでしたが」
つまりマナーにはもとっていないと言いたいらしい。そしてノイナには同席する相手を選ぶのかと言う。
「話題は選びます。誰が反省房に入ったとか出たとかは私の興味ではない」
「好き嫌いで退けられるお話だと、ノイナ様はお考えなのですか」
「その通り」
「それでよろしいと思われまして?」
「興味は無いと言っている」
「わたくしはよろしいとは思いませんわ」
答えないでおけば、ドロテアは勝手に自分で話題を選び、勝手に話をする。それではまるでノイナがその話を好んでいるようではないか。だがノイナが表立って退ければ、ノイナもまた一期生の内紛を是認しているかのように見られる。
その関わりに放り込まれたところで、ノイナにできることは原理原則に従うことだけだ。知己の体面が失われることを座視する貴族はいない。あの騒ぎに関わるかどうかはともかく、もし関わりになっていたら、それほど変わったことが出来たとも思えない。そういう意味で、あの騒ぎは、ノイナにとって遠いものではなかった。
腹立たしいのは、ドロテアはノイナに守ってほしいなどと、少しも思っていないらしいことだ。ドロテアはドロテアの思惑があって、ノイナの立ち居振る舞いを使うつもりがあるだけだ。
「罪を見過ごすはこれまた罪だとわたくしは思いますもの」
「罪たりえるのは、主の神愛にもとるか否かでしょう」
応じるノイナに、ドロテアは笑みを浮かべる。
「そしてここは神の家ですわ。神の家で人の諍いがあるのが正しきことと思えまして?」
「神意は人の思惟を越えます。一つ一つの諍いについて、私の言うべきことはない」
ドロテアが何か言おうとしたとき、自習室の扉が開かれる音がした。振り向くと黒髪の子が半ば駆けるように入ってくる。
あの姿を見忘れるはずがない。あの時、クラウディアと「戦って」いた二期生だ。無名という名は、その絡みで覚えた。無名はクラウディアとともに反省房に入れられていたはずだ。皆が同じことを思ったのだろう。自習室が静まり返る。無名は自習室を駆けるように横切り、一人の生徒へ近づいてゆく。アルブロシアへだ。
静まり返った自習室の中に、二人の声ばかりが響く。クラウディアはアルブロシアの侮辱を許せずにいるらしい。アルブロシアと次に顔を合わせたときには、復仇を果たす、そのように聞こえていた。
クラウディアにとってはそれが彼女の義が正しく通せたことになるだろう。そもそもアルブロシアの行いが勇み足ではあったのだ。ことをそこに絞れば、アルブロシアに非がある。
だがアルブロシアの行いには、アルブロシアならではのものがあったのだろうとノイナは思う。
侮蔑に値することを見過ごしたと、その相手に侮蔑を投げつけ、ゆえに両者とも退きえない。
静けさの中の二人に、セレニアが歩み寄る。けれど彼女の言葉もまた、アルブロシアの受け入れるところではなかったようだ。アルブロシアは、深く腰を折り、礼をして自習室から歩み去ってゆく。
部屋を出て行ったのは、アルブロシアだけではなかった。彼女と親しい二期生筆頭のダリアや、その友人も、あるいは何人かの1期生もだ。最後にアリアが、ケイロニウス・ケルトリウス姫にして皇女が、ひとりの手を引いて自習室から踏み出してゆく。手を引かれていなければむしろ倒れそうなその生徒が、話のはじめのエレナだった。
「君は行かないのか、ドロテア」
「わたくしは流血を喜ぶ趣味はありませんことよ?」
だがまんざらでもない風にドロテアは言う。セルウィトゥス・セルトリウス候姫の復仇は、西方らしいものになるだろう。帝國に名の知れた武門のものが、決して下らない相手に対して義を正すには、その相手を打ち倒すしかない。ドロテアもそれは判っているはずだし、これまでの成り行きから避けえぬと見ているのだろう。
「それで終わりになると?」
「まさか」
ドロテアは楽しげに言う。
「
西方辺境候姫が御望みの復仇を果たされたとして、そのままで済むとは思えませんもの。それでは力あるものが力なきものを虐げるようになるだけ。誰もがエレナ様のようになるか、それともエレナ様を虐げる側に回るか、二つに一つになってしまいましょう?」
ドロテアはノイナを見る。
「上げるべき時に声を上げねば、いやおうなしにそうなってしまいますもの」
それが東方式の秩序なのかしら。そうドロテアは言う。
「あたしも、止めに行く」
自習室に声がした。良く知っている声。それはウェーラの声だった。彼女は立ち上がり、それから自習室を出ようと歩きはじめる。
「待ってください」
ノイナも席を立った。
「あなたが行かれるなら、私も行きます。勇気だけで止められる人じゃない」
それは、先日の無名とクラウディアとの戦いと言っていいやり取りでも明らかだ。
「待って」
新たな声が押しとどめる。振り向くと一期生の一人が立ち上がっていた。
「皆で行っても、騒ぎが大きくなるだけ。そうでしょう?」
「でもアウレリア様、今までわたしたちだって見て見ぬふりをしていたでしょう。今もまた、同じことをするの?」
アウレリアと呼ばれた一期生は唇を噛み、うつむく。それでも顔を上げた。
「出来ないことをしようとして焦るより、できることとやるべきことをしなければならないと思うの」
「どうやって過ちを正すおつもりかしら」
小さくけれどはっきりとドロテアは言う。ノイナは問うた。
「では君はどうすればいいと思う」
「主の御心のままに。諍いと争いが止められないのであれば、その中で皆、苦しみながら滅びてゆけばよろしいでしょう」
「そんなひどいこと、あたしは嫌です」
ウェーラは言い、再び自習室の扉へ向けて歩きはじめる。ノイナは追いかけた。
「待ってください、行くしかないのなら、私も一緒に行きます」
「行くしかって、今、ここで行かなかったら、あたしたちクラウディアさんの友達でもないし、アルブロシアさんの友達にもなれない。エレナさんの友達でもいられなかった」
「よろしくて?」
落ち着いた声がする。振り向くと一人の一期生が立ち上がっていた。
「止めることと正すことは違います。目算無くここを出ても成すことはありません。アリア様には何か考えがあったご様子。短慮でその妨げとなるより、今は皆を信じましょう。クラウディア様のことも、アルブロシアさんや、ダリアさんのことも」
「では、どうするのヒルダレイアさん」
「皆を信じるなら、かならず皆は帰ってくるはずです。ならば私たちは、皆が返ってくるに足るところにすべきではないでしょうか。正すということは、そういう事だと思います。そうですよね、セレニア様」
今まで打ちひしがれたようにうつむいていたセレニアが顔を上げる。
「どうしろというの」
「今まで良くやってくださっていたことは、みんなが知っています。これ以上何かをしろとは、もう言えません」
「……」
「今のままではいけないと、皆が思ってなお、いさかいを止められないのならば、あの方のおっしゃるように、わたしたちは滅びてゆけば良いのです」
「あたしは嫌です」
ウェーラが言う。
「みなさんはどう思われますか」
自習室の中の空気が、少しずつ変わってゆく。重苦しく沈むだけだったそれが、その重さを引き受けても、なおささやかに風吹くかのように動く。
「たいへん!皆さま!」
息せき切って、誰かが自習室へ駆け込んでくる。息整えるのももどかしく、その子は入り口の外を指さして、ぱくぱくと口を開く。
「だれかお水を」
「お茶ならあります」
温いお茶をカップ一杯飲みほして、報せの生徒は言う。
それは自習室の誰の予想とも違うことだった。
聞かされた、あまりに凄惨なことに、倒れる生徒もいるなかで、ドロテアは狼狽したように立ち上がり、立ち尽くす。
「アムリウス司祭が、双方を諌めるために、腕を切り落とされた」と。
それまで成り行きを楽しむ風であったはずのドロテアの面から血の気が失せている。ノイナには、ドロテアの驚きがわからなくはなかった。
出家したとはいえ、アドルファス・グスタファス宗家嫡子がそれを行ったから、というよりも、学生同士の遺恨に相対して、そのように振る舞ったことについてだと、ノイナは思っていた。
そして、これまでドロテアにしつこくつきまとわれても、怒りとともに追い払えずにいた、自分の気持ちにも気づいていた。認めたくないことではあるけれど、ノイナとドロテアはどこか似ている。顔かたちでも性格でも振る舞いでもない。
それは、何者かの流した血ゆえに、ここに至るまで生きてこられたことだ。それが失われようとしたとき、それを阻む力を、ノイナもドロテアも持っていなかった。
だから、ドロテアはこの成り行きに、冷笑的にふるまっていた。ノイナはそう思う。皆からも、大事なものが失われればいいのだと。
「……人の念を断ち切り、もって禍根を討つ」
ノイナの言葉に、ドロテアは顔を上げた。その目は暗い情念を帯びてノイナを見る。
「君の気持は、私も判る」
ノイナは言った。
「私の失われたもののために、腕を斬る人はいなかった。きっと、君の大事なものが失われ行こうとした時にも」
ドロテアは目を背ける。そんなことは聞きたくないというように。けれどノイナは続けた。
「違う。アムリウス司祭はクラウディアやアルブロシアのためだけに腕を切ったんじゃない」
「そうかしら」
精一杯去勢を張った声にノイナは思った。彼女も判っているのだと。自分たちは、まだ何者かに守られてここにある。それは自分たちが、望まれてここにあることの証だ。