一つの鍵は死への鍵 (3)
三つの鍵は姫君らの手に、 一つの鍵は死への鍵、最後の鍵は死出の道。
一つの鍵は死への鍵 3
「はい」
ノイナはこたえた。茶碗の取っ手をもつ指に、知らず力がこもる。これからが本当の話だと思った。
祖父は執務机の椅子に深く腰掛け、背をあずけ、おなかの上で手指を組み合わせている。
黒の瞳で祖父はノイナを見やり、それから執務机に置いた指輪を見た。それは精霊銀の不思議な色合いに光る、指を二巻きするかたちの指輪だ。先代のレオニダス公爵、すなわち祖父の父、マヨール=マルクスが作らせたもので、三つあることはわかっている。
ノイナのもの、ナディアのもの、さらに最後の一つ、侯爵家の古人のマルクスの指輪と合わせて、機神に施された封が解けるはずだった。
あの一件の後、取り上げられた指輪をいま机に置き、祖父は、公爵ミノール=マルクスはノイナへと言った。
「お前には、公爵家の役を果たしてもらわねばならぬ」と。
「はい」
ノイナは応じ、うなずく。祖父は静かにノイナを見つめて言う。
「お前の弟はまだ幼い。家督を継がせるための諸々を教えてやることができぬかも知れぬ」
手が震えそうだ。膝の上の茶皿と茶碗が揺れる。思っていたことと違う言葉が祖父の口から放たれている。ノイナは、己の伴侶をどこからか選ぶという話がされるのだと思っていた。けれど違っていた。
家督と弟という言葉とが祖父の口から並べ放たれていた。
「弟をいかがされるのですか」
「あれを公爵にすることはしきたりに叶っている」
祖父は言う。
「だがあれは幼すぎる。いまより十年の後、あれが十五となったとき、いまのお前にしているように、ものごとを教え、引き継いでゆけるかどうかは、わからぬ」
胸が強く打っている。十年は、あまりに遠い先だ。
弟の幼い顔が浮かぶ。黒い瞳で、じっとノイナを見上げる姿だ。膝をかがめて、そっと前髪を掻き撫でてやると、ふいに抱きついてきたりもする。あの子は父を知らない。
「・・・・・・みんなが、悲しく辛い思いをするのは、嫌です」
「それは皆がそのように思っておる」
祖父はノイナを見つめている。
「ぼくは、どうすればいいのですか、お爺様」
ノイナは顔を上げる。
「何でも言ってください、お爺様。僕に出来ることならなんでもする」
「当たり前だ。お前は公爵の直系の孫なのだ」
「はい」
「そのお前に公爵家のために役を果さねばならぬと特に命じるということは、お前の意にそぐわぬ生きようでも公爵家のためにさせるということだ」
「構いません」
「軽々しく言いおる」
祖父は鼻を鳴らしてノイナを見る。
「それがどのようなことかわかっておるのか。お前の意にそぐわぬ男を娶らせるくらい、おとなしいものなのだぞ」
「はい」
ノイナの応えに、祖父は唸り、言葉を続ける。
「愛する先も、愛してくるものも無いやもしれぬということだ。一つの憎しみが、多くのわだかまりを引き寄せ、互いの間を二度と繋がりあえぬほど深く引き裂いてしまうやもしれぬ」
どう応えればいいのかノイナはわからなかった。黙り込むノイナに、祖父は続ける。
「たとえ、公爵家のものとでもだ」
「・・・・・・はい」
「たとえば、お前の弟でもだ」
顔を上げてノイナは祖父を見返した。祖父は言う。
「弟であったとしても、お前は自ら弟を廃し退け、時には押し込めてでも公爵家を守らねばならぬ」
「・・・・・・そんな」
「わしは覚悟を求めておる」
答えられなかった。それどころか考えたことも無かった。公爵家のために働くことは考えていたし、忘れたことも無かった。けれど今、祖父が言うようなことは思ったことも無い。
「いや・・・・・・すまぬ事を言った」
だが祖父はかぶりを振る。
「わしの目の黒いうちは、一人とて刃向かわせはせぬ。わしは公爵家はあるべく保つ。わしの跡目を継ぐ公爵も、わしと同じく意を払われて遇されるよう、あらゆる手はずをもってしかるべく備える」
すまぬ事を言った、と祖父はもう一度言う。祖父の詫び言を聞くのはあまり無い事を、ふと思い出した。
「あと十年は何とか生き延びたとしても、お前はまだ若造に過ぎず、弟はやっと十五だ。そののち何年延びるとも知れぬ。あるいはそれほど生きていられぬかも知れぬ。その時、お前は一人で事を成さねばならぬ。わしのやり方すら廃してでもだ」
叱責ではない何かなのだとノイナは思った。
「脅し文句を連ねたいわけではない。だが、わしとていつまでも生きていられるわけではない」
「はい」
急に何かがこみ上げてくる。大きくて熱くて、胸に詰まって言葉にもならない。それは息をすることすら妨げる。こらえきれずにノイナはしゃくりあげた。
そうしたらもう駄目だった。あたりがにじんで見える。顔を上げても天井もにじんで見えて、うつむけば涙がこぼれ落ちる。膝や膝の上の茶皿にも。
「泣くな。泣かずとも良い」
祖父の声には、すこしのあわてた響きもある。
「わしの言い様が悪かったな。今は、それほど気楽に構えてはおられぬ時だとだけ言いたかったのだ」
「・・・・・・はい」
ノイナは大きく気を吸い込んで、吐き出した。
「・・・・・・やります」
指で涙をぬぐい、祖父を見つめてノイナはもう一度言った。
「やります」
「よいのだな」
ノイナはうなずく。
「うん」
「泣くな。ひき受けたなら、その先に泣き言は無い。もしわしがいなくなったら、誰もそれを聞けぬ」
「はい」
もういちど指で涙をぬぐって、ノイナは顔を上げる。祖父は言った。
「その指輪は、お前の力だ。お前が公爵家のものである事を示し、公爵家の中でかけがえの無いものであると示し、そして、先代は機神へと近づく許しとした。」
「はい」
「これはお前の曽祖父がお前のために残したものだ。つけるが良い。わしが許す」
よいか、と祖父は続ける。
「これをお前に渡すからこそ、厳しい事を言ったのだ。機神は公爵家の力の源だ。その力は公爵のものでなければならぬ。その一部たりとも、本来は公爵ではないものの手に渡せぬ」
「・・・・・・はい」
「力を手に入れるには、力の主とならねばならない。たとえ、己では機神に乗れずともだ。それは公爵ならぬものの手に触れさせてはならぬ。ゆえに、機神を封じられた」
うなずいて応えながら、けれどノイナの胸には問いが残る。わからないことはいくつもあった。たとえば鍵の指輪だ。指輪を作ったのは先代公爵たるマヨール=マルクスだ。誰よりも機神をもつ事の意味を知っていたはずだ。その先代公爵がなぜ、公爵ではないものに機神に関わる力を与えたのだろう。
「封じることが、もっともよいことであったのだ。異界にあれば、何者も機神に手出しはできぬ。
祖父はゆっくりと椅子に背をあずける。そのおなかの上で手指を組み合わせ、そこへと目を落とす。
「その鍵は今、わしの手にある。公爵たるわしでなければ開けぬ。先代の公爵とわしの他には、知らぬはずのことだった。今、お前が知ることで三人目となった」
いや、と祖父は打ち消す。
「わしとお前、ナディア、そして侯爵家の二人。すなわち五人が知っている」
ここでも、候家の古人のマルクスの名が上がる。
レオニダス家の機神は、よみがえれば彼を乗り手として受け入れるだろう。
そう。あのときにも彼は言った。機神の鍵を開きに来たに決まっている、と。その横顔にかすかな笑みを浮かべて、すこし照れくさげに。
あの時、彼に願ったノイナは間違っていたのだろうか。彼を、機神に近づけてはいけなかったのだろうか。
けれども思う。それならば、なぜ彼に指輪が渡されたのだろう。
鍵の一つの一つと、ナディアへの手紙には書いてあった。三つの鍵の一つの一つ。鍵の二つは公爵家の二人に渡され、鍵の一つは候家の古人へと渡された。
「なぜですか、なぜ、三つの指輪が作られたのですか」
公爵の他には触れてはならぬものであるはずならば、そもそも三つの鍵の一つの一つは候家の古人のマルクスの手に渡るはずがない。
それなのになぜか、指輪をもってしても、鍵は開かなかった。ノイナとナディア、そして候家の古人のマルクスの持っていた指輪が、鍵の指輪が機神に関わるものであることは間違いない。機神の神具を収めた封印の箱には、指輪のための錠が設えられていた。なぜそんなものが作られたのだろう。
「ありうべからざることが起きたときのためであったのだろう」
「ありうべからざること?」
祖父のおなかの上で組まれたその手で、親指が拍子をとるように互いを打つ。それが祖父の考え事のときのくせであり、苛立ちのくせなのも知っていた。その眉間に深く皺が寄っていた。
「何かのゆえで、わしが機神の封印を解く暇も無く死ぬことはあり得た。それに備えたのであろうな」
「でも・・・・・・」
口ごもりノイナ、それでも祖父を見つめた。
「前から気になっていました。あの時のお爺様は、命を吸われて死にたいのかって仰いました」
祖父の指の動きが止まる。じろりと黒の瞳をノイナへむけた。眉間の皺がさらに深くなる。
「そのようなことは申していないはずだ」
「でも・・・・・・」
「くどい」
「・・・・・・」
ノイナは口をつぐむ。それでも思った。祖父はあの時、確かにそういった。はじめの時もそうだ。あの時の祖父は、いちばん最初の時にも、命を吸い取られるとノイナを叱ったはずだ。そう言って打たれた事を、忘れられない。
それに機神への封は、候家の古人のマルクスからも、機神を遠ざけようとはしていないように思える。候家の古人のマルクスを機神から遠ざけるなら、応じるための鍵など与えはしないはず。
「ノイナ」
呼びかけられて、ノイナは顔を上げた。祖父は一つ息をついて言う。
「お前を問い詰めるつもりは無かった。だが、指輪がこういったものであると判った以上、持ち主にはそれなりの心構えをもってもらわねばならぬ」
「はい」
「指輪をしなさい。それに合う服もあわせてだ」
「・・・・・・はい」
ノイナは瞬いて祖父を見た。祖父はおなかの上で指を叩き合わせる。
「候家の祝宴で、花嫁に負けぬようにな」
祖父は妙にもじもじとそう言った。
最終更新:2011年04月17日 23:08