The worst is not, So long as we can say, 'This is the worst.'
— William Shakespeare
— William Shakespeare
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第三章 虚無縹緲編
第9.5話:アンビバレンス・ナーシング
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クラシック三冠レース、終幕。いよいよ身の振り方を考えなくてはと思った神無月の末、やれ南瓜だ仮装だ横転だと世間が賑わい始めた頃、私の暮らす美浦寮で耳に入って来たのは。
「風邪……!?」 「えぇ、少し大変なことになってしまって」 そう言いつつ額に汗を浮かべるのは、先週の菊花賞でも色々な意味で世話になったミツバちゃん。普段の生活では滅多に見られないマスク姿、嫌が応にも心配が勝り始める。
「昨日のトレーニング中までは問題無かったのだけれど、今朝起きてみたら急に熱が上がっていたわ」
「だいぶ急な話だね……容体は?」 「幸い発熱と倦怠感だけ、一応病院でも感染症とかではないって。ただ……」 手提げ鞄からペットボトルを取り出して、一服。よく見ると、彼女の目元はグラウンドを何度か走り回った後のように緩んでいた。 「同室の先輩方が揃って遠征中、トレーナー様方も外せない業務があるってことだから……私が見る他ないという状況かしら」 「うーん……」
ミツバちゃんの話を聞きながら、思い出すのは美浦寮の構成。東西方向に長いだけでなく、縦も4階建てと物凄い建築費が掛かっていそうな寮。中央の財政状況とネームバリューを、しみじみ感じさせる設備なんだけど……
「2階と4階を往復するのは大変だよね……」 「ええ……」 確かヘルツちゃんが向かって東の方、4階の角部屋も角部屋。まあ彼女ならトレーニング代わりに爆走してそうな立地。翻ってスクエアちゃんは西側の玄関側2階と、まあ普段の生活では便利な場所。ただ、この2部屋を両方相手にしようとすれば……一往復だけでどれほど時間が掛かることか。
「せめて一部屋だったなら、移動の手間は減らせるのだけれど……同居人と接点を持っているのは互いだけだから。プライバシーの問題もあるし……」
相手からすれば、病人とはいえ見ず知らずの相手を連れ込ませてくれって話だからね。向こうも向こうで自分のレースに集中したいだろうし、逆の立場になってみれば躊躇する気持ちも分かる。 けれど、今の状況は病人2人にとっても、看護者のミツバちゃんにとっても余りに非効率的だ。無用に走り続けて彼女まで調子を崩しては、元も子もない。どこかに都合よく借りれる場所があれば解決なんだけど、だからって急にそんな場所があるわけ──
「あっ」
「……? どうしたの、ミラージュちゃん?」 いや一箇所あった、寮内でものすごく都合のいい場所。いや本当に都合がいいな? 間抜けな声を出しながら苦笑が漏れる。 「……いい場所思い出したの、寮長さんに話付けてくるね! 運が良ければOKもらえるかも!」 そう言い残し、迷惑にならない程度の小走りで階段を駆け降りる。思わず口元が緩んじゃった気もしたけど……別に見られてないよね!
予想通りと言うか有難いことにと言うか、自室で復習に励んでいた寮長からは快く許可を貰うことができた。後で差し入れも持ってきてくれるらしいとのこと。こちらとしても有難い話ではあったんだけど……ただでさえ彼女が必死に汗水垂らしている上、後ろで腕組みしながら勉強を教えている、もう一人の寮長に申し訳が立たなかったので……気持ちだけいただくことにした。
〜〜〜
「よいしょっと……ミツバちゃんは大丈夫?」
「ええ、お陰様で……ぐっすり寝てくれていて助かったわ」 私がヘルツちゃんを、ミツバちゃんがスクエアちゃんを背負って、訪れたのは件の場所。少しばかり生活感のあるベッドと、綺麗に整えられたベッドにそれそれを横たえて、掛け布団を首元まで。椅子も一応二脚あったから、座るかどうか薦めてみたけど……ちょっと腰を下ろしたい気分だったらしいから、そのまま床を促す。 時計を見れば正午も間近。方々駆け回って、疲れも見えるミツバちゃんの代わりに、昼食作りを申し出たら彼女も快く受け入れてくれた。 ……気のせいじゃなければ、「コンロの前に立つの初めてだわ……」って言っていた気もするし。今時ならレンジでチンするだけのお粥とかもあるんだけどね……? きっと買い出しの余裕が無かったんだろう、うん、そういうことにしておこう。
赤く染まった梅干を包丁で叩き、傍らで卵の黄身と白身をよくかき混ぜる。風邪の時に効果的な青ネギも、消化しやすいようしっかりたっぷり微塵切り。土鍋2つに水とご飯を入れて混ぜながら、ちらっと眺めたのは自室の方向。
……病人2人が別の部屋にいるなら、一箇所にまとめてしまえばいい。そのために必要な条件は、ベッドが最低2つあることと、同居人が存在するならば相手の同意を得ること。……だったら、答えは至極単純。『同居人の存在しない部屋』を宛てがえば解決する話。
『──手続きの不備ということで、私と同室の相手は決まっていない。とことん私は孤独だと恵まれぬ運を悔やんだものだが、今は却ってありがたい』
入学の日から1年半、今になっても同室の相手は決まっていなかった。ひょっとしたら、私なんかより遥かに凄まじい戦績を残すウマ娘と、同じ扉の内側になる可能性もあったんだろうけれど……今の私には関係ない話。
濁り白一色だった重湯と煮え米に、下拵えしておいた薬味と卵を注いでみると、漂う香りと鮮やかな見栄えが目にも楽しい。存在を主張する青ネギの屈強さに対し、赤い梅と黄色い卵が流動しながら混じり合っていく様は、つい調理の手を止めそうになるが……それで黒焦げになってしまえば元も子もない。彩り溢れる療養食に、黒色はお呼びでないのだから。
白だしを少しだけ混ぜ込んで、最後の一周。ミトンを両手に嵌め、給仕が銀盆を運ぶように両天秤。一瞬パイ投げの映像が頭を過ったが、流石にシャレにならないので振り払う。少し行儀が悪いのは承知しつつ、膝先で軽く扉をノックしてみると、出迎えてくれたのはミツバちゃんだった。
「ごめんね少し遅くなった……! 2人は大丈夫そう?」
「ええ、さっき目を覚ましたところ。ちょっとふわふわしてるけど、お腹も鳴っていたし嘔吐く様子もなさそうだわ」 「よし、なら大丈夫そうかな! おじや作ってきたから食べさせようね」 小鉢とスプーンを差し出しつつ、手元で土鍋の中身をかき混ぜ直す。冷めやすくするのも当然だけれど、基本的に私達ウマ娘は、よほど調子が悪くない限りお米と塩の香りに逆らえない。身体は熱を出して怠くなっていても、胃は正直なのだ。 「ふ〜っ、ふ〜……はい、ヘルツちゃん、食べる……?」 まさか、この年で同い年相手にふーふーするなんて思わなかったけれど。まあ歴とした看病だからね、彼氏彼女がやるような甘ったるいそれじゃないし。返事の代わりに口を小さく開けたヘルツちゃんを見て、スプーンを差し込む。 ほどほどに冷めた柔らかいご飯、白だしを含んだ卵はふんわりと柔らかく溶けて、繊維質ながら細かく刻まれた青ネギが食感にパンチを効かせる。舌の上で何度も転がせば、梅の果肉が解れてさっぱりとした後味を残し、次のおかわりを心待ちに口を開き直す……
そんな味覚が病人の彼女にあるのかは定かじゃないけれど、綻んだ顔を見るに悪くない味ではあったみたい。いつもバカみたいな量をペロっとドカ食いしてる彼女が、お箸で一口くらいのご飯を何度も何度も丁寧に噛み続けているのはギャップがすごいけれど。健康には良いはずだから、間違いなく。
「おいしい……ママ……」 「ッ……うん、ありがとう、ヘルツちゃん」 とろんとした表情、熱に浮かされて揺れ動く赤色の瞳。微かに生気を失った双眸が、私に誰かを見ているのが分かった。でも、私にその人の代わりは出来ないから、ただお礼を言うだけにした。
……土鍋の中身を、半分ほど残して。彼女は再び眠りに着いた。
〜〜〜
食堂で、唐揚げを何個かテイクアウトして。空きっ腹に肉汁の旨味が染み渡る中、ミツバちゃんに簡単な療養食の作り方を教えていた。とりあえず梅干しを叩くのとネギを切るのは難しいと思ったので、卵と調味料だけで作れる簡単なおじやを。……うん、彼女に包丁を持たせるのはまだ早いなって。
実際、飲み込みは早かったようで。米の溶け方に火の通り方、卵の具合まで丁度良かった。調味料とか、別に後からでも追加出来るからね。パパッと薬味を仕込み入れてあげれば、健康な彼女にとっても美味しい昼食に仕上がっていた。 「ミツバちゃんが料理苦手だったのは少し意外だったな……」 てっきりトレーナーさん相手に、お弁当とか用意してないのかな? って思ったんだけど。 「トレーナー様の方が、栄養バランスも見栄えも味も素晴らしいお弁当を用意してくれるの……淑女として立つ瀬が無いわ……」 ……そっか、考えてみればスポーツ選手の指導者なんだから当然だよね。やるやらないは別として、出来るだけの下地はあるってことだろうし。 「教わってみるのは? ミツバちゃんなら邪険にもされないと思うよ?」 多分あの人だったら、盛大に邪険にするかな……。やっぱり互いが互いの本性を知っていると色々軋轢も生まれるよね、私達にとってはそれが丁度いいんだけど。 「……! ええ、試してみるわ! ありがとうミラージュちゃん!」 「声……! 声落として……!」 少しヒートアップしそうになっていたミツバちゃんを押し留め、口の中にレンゲを突っ込む。ほどほど冷めていてよかった、これ熱々だったら危うく傷害罪だ。
「……ごくん。それにしても、ミラージュちゃんは本当にお料理上手ね」
「お父さん、お母さんに教えてもらったんだ。おじやについては……私自身、体調を崩しやすかったからね。良くも悪くも、思い出の味?」 図体の割によく熱を出して、その度に看病してくれたお母さんの顔を思い出す。私を心配させないように、いつも笑顔で、寄り添ってくれて、励ましてくれて。 すっかり今では、入学以来一度たりとも調子を崩したことはない。まさか友達の看病が先になるのは予想外だった。いや脚折ったりはしてるけど別の話だし。 「私達は、むしろ今まで風邪を引いたりしなかったわ。だから今日、ミラージュちゃんが居てくれて凄く助かったの」 器の中身を空にして、ほっと一息吐きながら話すミツバちゃん。その声音から伝わる、安堵と微かな不安感は、少しだけ納得のいくものだった。スクエアちゃんの方は診れていなかったけど、ヘルツちゃんの反応に落ち込んだ様子が無かったから。きっとミツバちゃんが献身的に動いてくれていたのを気付いていたんだろう。……あの、「たった1人の寝室」を味わわずに済んだならば、それはどれだけ幸せだったんだろうか。 「ううん、私はあくまで貴方のお手伝いをしただけ! あそこでしっかり2人のため行動していたのは、他ならぬミツバちゃん自身だからね!」 だから、ここだけは決して違えてはいけない。今回の一件、最も評価されるべきは、最初に幼馴染へ寄り添おうとしてあげた彼女自身。 間違っても、途中から闖入してきた第三者では、ないのだ。 「……ありがとう、ミラージュちゃん」 「いえいえ! お気になさらず、だよ!」
「…………」
「だいぶ、眠そうだね」 「えぇ……一息吐いてしまったかしら」 うつらうつらと舟を漕ぎ始めたミツバちゃん。見れば瞼も微妙に開き切っておらず、彼女の疲れが手に取るように分かる。クローゼットから毛布を取り出しつつ、一言。極力意識を揺らさないように。 「食器とかは片付けておくよ、一回寝ておく?」 「そうさせてもらうわね……」 声と同時にテーブルを除け、毛布の上に身体を横たえる。冬布団は切らしていたので、上は私のコートで勘弁ごめん。そう時間も経たぬ間に、聞こえ始めた寝息を聞き届け、部屋を後にする。 流石に季節を反映してか、シンクに流れる水道水も冷え始めて。指先が少しずつ赤らんでいくのが見える。先に土鍋を火に掛けて、汚れを浮かせるか悩んだけど、ガス代が勿体無いからやめておいた。……それにしても。 もう一度、自室の方に目を遣る。あの部屋にいるのは、病人が2人と疲れて寝ている看護者が1人。……断じて、物言わぬマネキンではない。 『せめて一部屋だったなら、移動の手間は減らせるのだけれど……同居人と接点を持っているのは互いだけだから。プライバシーの問題もあるし……』 ミツバエリンジウムの発言を思い出す。プライバシーの問題、あの部屋に住んでいるのは私以外誰もいないが、裏を返せばあの部屋は私のプライバシーの塊とも言える訳で。いくら『友達』の為とはいえ、私がそこまで身体を張る必要があったか? ……それに、もっと単純な話。今の様子を見ても、不適切な看病で2人の病状が長引いた方が、リハビリにも時間が掛かるしミツバへの負担も大きくなる。トータルで考えれば、あの場は彼女達のことを見過ごす方が、遥かに得だったはずだ。
だったら、どうして私はここまで親身に対応してしまったんだろう?
声を掛けられた以上、見捨てるのは友達失格だと思ったから? 一応は医者だったトレーナーの立場を守るための振る舞い? 単純に放置するのは寝覚めが悪かっただけ?
……考えても、納得の行くアンサーからは少しばかり離れているような気がして。食器を元の場所に戻して、かじかんだ両手を後ろ手に扉へ寄り掛かってみる。少し目を閉じると、浮かんでくるのは先刻までの看病の様子。それに……
「……私って、中途半端」
誰にも聞こえないくらいの声、一瞬で空気に溶けていくそれを目で追って。笑顔を作りながら部屋に戻る。万が一誰かが起きていたら、大変だし。
……浮かんできたのは、お母さんの顔。やっぱり、今の私がこうして暮らしているのは、お父さんとお母さんの影響が大きいんだろうな。病床に伏せった私を見下ろして、いつも一緒にいてくれた記憶は、きっと拭おうとして叶うものじゃないんだろう。 だから、まあ。今日のところは素直に、友達のため動き回るとしようか。因果応報、悪因悪果あるいは善因善果。今日のところは損したとしても、いつか回り回って影響するかもしれないわけだしね。そんなことを胸中で呟いて、扉を開く。看病人が顔を顰めていたら、患者は安心して寝てられないからね。
きっと「お医者様の先生」も、同じことを言うだろうし。
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第10話:束の間の少女 (クラシックJC編)
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そろそろ寒さも本格化を迎える霜月冒頭。すっかり衣替えした冬服も肌に馴染み始めた時節の中、私とトレーナーさんはいつも通り卓を挟んで話し合っていた。話題は単純、今後の身の振り方について。
「3人は有馬記念への出走を宣言。10月までの戦績を加味しても、ファン投票で順当に上位を勝ち取るのは間違いないでしょう」 「やっぱりスクエアちゃんが頭一つ抜けるでしょうか、2400と2500で距離感も近いですし安定性が高い」 ミツバちゃん、スクエアちゃん、ヘルツちゃんが有馬出走を希望したのが、菊花賞の直後くらいのこと。週末に秋天を控えた上でも、その表明が世間を賑わせたのは記憶に新しい。何せ、名実ともに三冠を3人で分け合った圧倒的強者の揃い踏みだ。シニア級で走る最前線の相手にどこまで比肩するか、それともクラシックからの挑戦者が残さず食い尽くしてしまうのか。市井の関心は大きく向いている。そんな中で…… 「ミラージュさんは良かったんですか? 有馬出走を選ばなくても」 「いや選ばれます? 菊花賞3着はともかく他2戦ズタボロですよ?」 トレーナーさんが言っているのは、同じ道を進まなくて良かったのかという話。実際のところ、神戸新聞杯の一件もあるし登録さえすればチャンスも無くはないんだよね。最悪ファン投票で上位に入れなくても、年末の中山で走る手段はないわけじゃないし。ただ…… 「なんか違うと言いますか、場違い感がすごいんですよ。3人には必ずリベンジしますけれど、今年の有馬はその舞台じゃないと言いますか……何故かモチベが上がらないといいますか」
『──3着なんて結果で甘えたことを言うけど……手応えはあった。次こそ勝てる、勝つ』
あの日の発言を忘れたことはない。だからと言って、2ヶ月足らずで彼女達の領域に迫れるほど強くなれるなんて思い上がるつもりもない。……これを「絶対に可能だ」ではなく「思い上がりだ」と考えてしまう辺りが、私の限界かもしれないんだけど。
「気持ちは分かりますよ、大一番だからこそ最高のコンディションで出走したい……それが、最も大事なライバル相手であれば尚のこと」 「トレーナーさん……」 手元の資料に赤くバツを打ちながら、穏やかに微笑み掛けるトレーナーさん。心の底から私のことを考えてくれているのは間違い無いんだよね。だからこそ安心できるというか。 「そうなると、私から一つ提案したいレースがあるのですが、よろしいですか?」 「トレーナーさんから? もちろん大丈夫ですけれど……?」 頭にクエスチョンマークを浮かべながら、微笑みを絶やさないトレーナーの持つ資料を受け取る。そこに記載されていたデータは、有馬記念に少しだけ似たレース情報。年末12月は中山開催、日本で最も激しく盛り上がる重賞が有馬記念なら、日本で最も長く盛り上がるのがこのレース。今となっては長距離走者を指す言葉になっているけれど、本来の単語は「耐える者」の意味。 12月初旬、GⅡレースは中山3600m……ステイヤーズステークス。それが、彼の提示する次走だった。
「ステイヤーズSですか、一応根拠をお伺いしても?」
「ええ。他ならぬミラージュさんに、納得してもらわないことには始まりませんからね」 そう言いながら取り出したのは、神戸新聞杯のタイムと菊花賞のタイム。ざっと眺めた感じ、どちらも序盤はまあまあ遅めで終盤に加速している様子が見て取れる。まあ追込脚質だからこれは当然、どちらも『領域』に入っていたはずだからタイムが近いのも当然。というかこう見ると…… 「この2つのレース、ラストのラップタイムほぼ同じなんですね……」 「……ええ、そこがおかしいんですよ」 「へ?」 思わず漏れていた声に、ツッコミ一つを突き付けられて。思わず顔を上げる。髪をくしゃりと掴んだトレーナーさんの顔は、若干呆れているようにも見えた。 「ホープフルSは時期が空き過ぎる、皐月賞は骨折の件でサンプルにならなかったので2レースしか用意できませんでしたが……もう一回良く見てください、少しだけおかしい点があります」 「へ……!?」 そう言われて、再び資料に目を通す。基本的に序盤はかなりのスローペース、逃げや先行の娘に比べれば最初の1000m通過も数秒遅れている。そこから最終盤はどっちも同じくらいのタイミング、残り700mあたりを見据えたタイミングで一気に加速を始めた。 阪神の時はそのまま千切り去って、京都では今一歩勝てなかったのは……タイムが同じだった以上は、ライバルの強さの差だったんだろう。 「……降参…………」 考えても考えても答えが出ない。さっきまで考えていたことを洗いざらい伝えた上で、情けなくもギブアップ宣言。一応頑張ったのを評価されたのか、呆れ顔も少しだけマシになっていた。 「では聞きますね。神戸新聞杯の距離はいくらですか?」 「2400mですね」 「次に、菊花賞の距離は?」 「3000mです」 「ミラージュさんが加速を始めるタイミングは?」 「大体残り700m付近でした」 「……2400-700と、3000-700」 「……あー…………」 ここまで言われて、ようやく腑に落ちた、なるほど…… 「神戸新聞杯とほぼ同じ距離を走った後で、何故ほとんど同じ上がりタイムを出せているのか、と」 私の言葉と共に差し出されたのは、歴代両レースの出走ウマ娘とタイム一覧。年によって結構ばらつきがあるのは当然だけど、見比べて分かったことは。私のリザルトが、少なくとも「スタミナが無い」って自称していた選手のタイムではないということ。 「今回のレースの敗因は大きく分けて2つ。まずは序盤でスローペースに向かい過ぎたこと、まあ飛ばし過ぎて末脚が尽きることを思えば結果論です。もう一点は、偏に相手が強過ぎた。4着のミツバエリンジウム、今回も5着相手に3バ身差空けてますからね。こればかりはどうしようもない」 「……あれ、ミツバちゃんが3バ身ってことは、当然私とも、ですよね?」 「はい」 「もしかして、私ってすごく……凄い?」 「そうだよボケが」 心無い罵倒が聞こえた気もするが、そんなことも気にならないくらい気分が上がる。こうして客観的に数字で見ると、自分の成長を実感できる気がしたから。まあライバルの壁の高さも改めて実感なんだけど。 「こほん……ミラージュさん、本質的にはステイヤー寄りの可能性があります。どうせ有馬を目指さないなら、適性を探り直すのも悪くはないかと」 「……なるほど、納得しました! ステイヤーズS、出走登録お願いします!」 一連のデータを見た上で、私の自信を付けるため、シニア級相手に結果を残させる。ひょっとしたら、有力走者は有馬に向かうからって打算もあるかもしれないけど、それを踏まえても勝てる勝負を狙うのは定石だし。 ……ここまでお膳立てしてもらったんだ、これで勝てずして彼の担当を名乗れようか。 「頑張ります、トレーナーさんの為にも、私の為にも!」 「良い心掛けです、こちらも指導に身が入る」 互いに笑みを向け合う私達。次の目標も決まり、さて! といったところで。不意にトレーナーさんが口にしたのは。 「そうだ、一つ伝えておかないといけないことが──」
「ふぅ……」
白い野球帽の鍔を指先で摘み、街行く人々を眺める。普段から賑やかな雰囲気漂う街に、今日は心なしか違う色も溶け込んでいる気配があった。11月下旬。府中市は東京レース場、12Rはジャパンカップの開催日。出走選手、応援団から単なる観光客まで。日本のレーススケジュール1年間の中で、もしかしたら海外との関わりが最も強くなるのが今日なのかもしれない。 本当ならトレーナーと一緒に来たかったけれど、医療系の国際会議が今日開催とのことで、已む無くそちらを選んだらしい。曰くスポーツ医学にも密接な関係がある内容、上手くいけば私の指導に転用できるかもしれないと。そんなわけで、私1人での観戦。 身体のラインが出ないゆったりパーカーに、普段選ばないようなジーパンを履いて。耳を隠す帽子と眼鏡も含めて、私をカラレスミラージュだと見抜ける通行人はいないだろう。……ミツバとかヘルツとかなら、髪色も独特だし気付かれやすいんだろう、そしてスクエアは気疲れやすいんだろう。 少し遅めに寮を出たので、府中に着いたのは11時少し過ぎ。少し割高だけど、レース場で昼食を買いながら遅めのメイクデビューでも眺めようかって考えていたら…… 「そこのお姉ちゃん留学生? 俺らと一緒に遊ばね?」 「メンコ似合ってるねぇ。その柄に合うイカすパブ知ってるよ?」 「モチ俺ら奢るからさ! いろいろ話聞かせてよ!」 『Ah……well……』 見慣れぬ制服姿の少女をナンパする、男どもの姿が目に付いた。少女と言っても、多分背は私より高い。ざっくり5cm差くらい? 年も向こうの方が上かな。 赤青白、ユニオンジャックだろうか。鮮やかなメンコを両耳に付けて、黒い長髪の中で右耳に結ばれた黄色いリボンが目を引く。 ……いくらウマ娘の中で背が高い方とは言っても、周りを取り囲む男たちは彼女よりなお大柄で。それが知らない言語と共に詰め寄ってくるとあれば、何も分からない彼女は恐怖するしかないだろう。ざっと周りを見渡す。ちらちら眺める通行人や見物人は居ても、助けに入ろうとする人物は1人もいなかった。 まあ当然だろう、誰も見知らぬ留学生のナンパに首突っ込んで面倒ごとなんて負いたくない。私だってそんなことは分かる。普通に考えれば、見て見ぬ振りをしながらレース場へ向かうのが、賢い選択だって。
『どうして──、ねぇ──』
──分かるからこそ、その姿が『誰か』と重なって。腹立たしく思わずには居られなかった。
『Hey sis, looking for you! (お姉ちゃん! 探したよ!)』
『……!?』 『David’s also waiting! Hurry, hurry! (デイビッドもすっかり待ちぼうけなんだよ! ほら早く!)』 精一杯、いかにも頭アッパラパーな小娘を装って集団に割り込む。通じているかは別として、少しだけ周りに牽制も忘れずに。 『Hey, who’s…… (えっと、貴女は……?)』 『……Sorry please play along with my story and I’ll pull you away from here. (すみません、少しだけ話を合わせてください。この男達から引き剥がすので)』 呆気に取られていた彼女に、少し声を低くして早口かつ率直に伝える。一瞬目元に力が入ってしまったが、彼女もそれを把握したようで。少しだけ微笑み掛けてくれた。 「お、お嬢ちゃんも遊びにくるかい?」 「ってか2人とも背ェ高くて可愛いね! きっと皆と仲良くなれる──」 彼女が動揺していたのにも気付かず、或いは都合よく解釈していたのか。この期に及んで私ごと連れ込もうとする不届き者相手に言うべき言葉なんて、一つしかない。 彼女の左手をしっかり握り込み、男達に向き直る。花開く様に可憐な笑みを浮かべ、一瞬でも鼻の下が伸びるくらい油断したのを見届けて。 ……というか。 『──I DON’T SPEAK JAPANESE!!!!』 私が日本人だって見抜けないポンコツ男、ナンパなんて成功するわけないでしょ? そのまま頷き一つを交わし、脱兎のようにその場を抜け出す。目の前の彼女は知らないけれど、少なくともGⅠウマ娘の私を無礼るな。トレーナーならまだしも、走るウマ娘に後ろから追いつくなんて出来るものか。 ……気付けばいつの間にか、手を掴んでいたはずの彼女が前に出ていたけれど。あれひょっとして滅茶苦茶速くないこの娘?
(以降英語表記省略 「」:日本語、『』:英語)
『……本当に失礼しましたっ! 急にあんな、お姉ちゃんなんて嘘を吐いて……』
『気にしないでください。私を思っての行動なのは、分かっていますから』 レース場の少し脇、入口から離れた日陰で謝罪の角度は90度。思いの外流暢な英語が飛び出す自分の頭と口に驚きつつ、顔を上げてみれば穏やかに微笑む女性の姿。同じ黒髪ウマ娘であっても、サファイアのような青い瞳は私の澱んだ瞳と比べて眩しいくらい鮮やかで。少しクラっとしながらも、しっかり対応はしないとね。 『あはは、ありがとうございます……あ、私はカラレスミラージュって言います! よろしくお願いします!』 『カラレスミラージュさん、よろしくお願いします。カラーさんでいいでしょうか?』 『…………いいですよ!』 意味が反転してる気もしなくはないが、別にツッコむ気はない。多分今日だけの関係性だろうしね、そう目鯨を立てる必要は無いと思ったから。 『そういえば私も名乗っていなかったですね。フルハウスペイドと言います、よろしくお願いします』 『はい、ハウスさんですね!』 フルハウスペイド、Full-House Paidかな? ……一家まるっと差し押さえ? フルさんフルハさんは語感が悪いし、ペイドさんは流石に気が引けたからハウスさん呼びに収まった。……勝手に決めちゃったけど、ハウスさん自身そこまで嫌がっている様子もないし大丈夫かな。 『それで今更ですけど、やっぱり今日はジャパンカップ観戦ですか?』 『はい、やっぱり学園の娘が何人か出走しますから。応援……して、あげないと……』 「……?」 口元を少し締め、片腕をぎゅっと握り締めるハウスさん。今まで見せていた優しげな顔とも、ナンパ被害中の困った顔とも違う……悲壮感。張り詰める空気に、少しだけ息が止まる。だって、私からすれば。その感情を初対面の相手に晒してしまうほど、心中は追い詰められているんじゃないかと思ったから。 『……あ、ごめんなさい。やっぱり故郷から離れるとナーバスになってしまいますね』 『いえいえそんなそんな! 気にしないでください! きっと旅の疲れとかもあるでしょうから!』 『ふふ、ありがとうカラーさん。そう言ってくれると助かります』 静かに微笑みを返すハウスさん。その姿に、どうしても胸を締め付けられる気がしたのは……私の考え過ぎだろうか。
『美味しいですね、日本の料理。レース場でも色々食べられるなんて』
『気に入ってもらえたなら良かったです!』 少し落ち込んだ様子に見えたハウスさんだったけど、とりあえずお昼を食べながらレースを眺めていたら調子を取り戻してくれたみたい。ある意味で本命の6Rにも間に合って結果オーライ。唐揚げとアメリカンドッグの串、たこ焼きのトレイを構えた彼女もご満悦の様子。 「……そういえばイギリスの料理って」 『あ、何か言いました?』 『いえいえ何も言ってないですよ!?!?』 『ふふ、そうですか……』 危ない危ない、口を滑らせたのが母国語で良かった。伝わろうものなら大変だったよ……反省反省。 ちなみに昼食代は私が無理矢理握らせた。『せっかくの日本食、お金に気兼ねなくエンジョイしてください!』って感じで。一緒に出掛ける友達なんてスクエアちゃん達しかいないしね。余りがちなお小遣いを励ましに使えるなら、彼女にとっても得だろうし。 『……みんな緊張してるけど、自信に満ち溢れてる。きっと、今日を楽しみにして来たんだろうな』 『そうですね……初々しいなぁ』 彼女が顔を綻ばせているのは、きっとご飯が美味しいからだけじゃないだろう。ターフに足を踏み入れた少女達は、少し落ち着きのない様子も見えるけれど。ここから自分達の3年間が始まるんだって夢と希望を全身で伝えてくる。私なら勝てるって娘、いや厳しいかなって娘……十人十色、様々な思いを滲ませる中で、共通していたのは「走りたい」って思い。 私も、少し前まで忘れちゃってたな。ジュニア級くらいまでは、ただ走って勝ってそれが楽しくて、シンプルに生きてきた面もあったんだろうけれど。鮮やかな景色に目を焼かれて、少しだけ自信を失っていたのが今となっては仄かに苦い。 まあ私のことだ。もう一回壁に当たったらもう一回折れるんだろう、なんて考える程度には、自分で自分を信用できていないのだけれど。少なくとも今は、気分が落ち着いているのを感じていた。 ……だからこそ、少しだけ私と似た気配を纏う彼女から、どうしても目が逸らせない。濁り濁った澱みとは少し違う。綺麗な器に湛えられた透明な水が、少しずつ溢れ始めているような、言葉にできない感覚。……ただの妄想、そんな風に笑い飛ばせたらよかったんだけど。
私の奇妙な予感は、割とよろしくない形で的中することになる。
場内に響き渡るは金管楽器のファンファーレ、東京レース場に姿を見せた18人の猛者を歓声が迎え入れる。有馬記念が国内の最高峰を決める戦いならば、ジャパンカップは一種の交流戦。
外国のウマ娘だろうと遠慮なく殴り込めるこの舞台は、ある意味で最強の中距離ウマ娘を決めるに相応しい舞台の一つと言えるだろう。
【世界のウマ娘が栄光を求め、ジャパンカップの府中に集う!】
【日本勢は対抗できるのか!】
アメリカ、フランス、イギリスにドイツ……今年は特に、欧州からの挑戦者が多いことで話題になっていた。勿論、隣に座る彼女も祖国を応援しに来た1人だろうから。
【ゲートイン完了、出走の準備が整いました】
今年の日本勢は、クラシック級のウマ娘が不在。シニア級のみの参戦となった。理由はまあ分かり切っているとして。その点で言うなら、私の心は来月の大舞台ほど強く惹かれているわけじゃなかった。
【今スタートが切られました!】
いつか同じレース場で競い合うだろう先達の面々。この機を逃せば生で見ることは叶わないだろう海外の精鋭。珍しく「自分」を切り離して観戦できる貴重なレースに、気付けば両手を握り締めて立ち上がっていた。
数週間前まで、名前さえ知らなかった選手への叫びが、肺腑の奥から溢れ出す。誰かが誰かを追い、追い縋られ。抜いては抜き返され。目まぐるしく状況が移り変わる143秒コンマゼロ。
【────、今1着でゴールイン!】
ついに先頭を保ち切ったのは、王国の旗と威信を背負って名乗りを挙げた、白銀の髪が似合う少女。クビ差まで迫り切った日本のウマ娘と肩を並べ、互いの健闘を讃え合っていた。
……重ねて言うと、私は本当の意味でこの舞台に惹かれて観戦に来たわけじゃない。だから、今日この場に引き寄せられた理由を振り返ってみると、多分その役割は別のところにあるはずで。
一頻り興奮して、年甲斐もなく叫んだ後。冷静になって隣を見た時。故郷のウマ娘が錦を飾ったのにも関わらず、呆然とした表情で、微笑みさえ忘れて涙を流し続ける姿に……
嵌ってはいけないピースが噛み合った音を聞いた。
『……あ…………』
『……ハウスさん、フルハウスペイドさん? 大丈夫ですか……?』 目頭から鼻筋を越え、少しの曲線を描きつつも真っ直ぐ滴り落ちる雫。一向に手や袖で拭い去られる様子のない清流は、彼女の衣服に似合わない水玉を作っていく。ひょっとしたら、彼女自身、落涙しているのに気付いていないのか。 密かに聞こえ始める声が耳に届く。何も知らず、ただ状況を眺めては面白がる声が少しだけ煩くて。……何も知らないのは、私も同じなのに。 「そっか、泣いちゃうくらい感動してくれたんだね! 本当に良かった!」 『……え?』 唐突に、よく分からない言語で叫んだ私に気圧されたのか。首をこちらに向け、怪訝な表情を浮かべるハウスさん。その首元に両腕を絡め、少しだけ背中を張ってみる。ぽんぽん、ぽんぽん。肩に掛かる少しだけ熱い水滴。そこでようやく、自分の現状を理解したようで。 取り乱して震えた身体を、ぎゅっと抱き締める。たった数秒だけど、今だけは決して逃さないように。 『無理にとは言えませんけど。ベガスの出来事はベガスの話、日本の話は日本の話です』 『……うん』 『故郷の友達に話せないことでも、片田舎のウマ娘相手なら大丈夫じゃないかなって』 『うん……』 『きっと、今日限りの関係。私で良ければお付き合いしますよ』 『うんっ……!』 少しずつぐずっていく声を聞きながら、少しでも胸の奥が軽くなるように。擦って、叩いて、撫でて。彼女の方が先輩なんだから、私の行動って間違いなく無礼千万なんだけれど。どうしてだか、彼女を単なる年長者だと思えなくて。 熱狂の余韻を残し、少しずつ客の捌けていくレース場。その傍らで、私達は2人、ただ抱き合い続けていた。
ガラガラと、重厚感のあるベルが来訪者の到着を伝える。自動ドアなんてハイカラなものはこの場になく、自分で引くか押して入れとばかりの取っ手扉。目論見通り客の少ない喫茶店で、入口から最も遠い席に陣取ったのは、黒い髪がよく似合う2人の少女だった。
『フィッシュアンドチップスとか食べます? ここのイギリス風料理、結構美味しいって評判で』 『……なら、いただいちゃいますね。注文はお願いしても大丈夫ですか?』 『もちろんですよ! 店長さんすみま……あっ、待って待って』 『くすっ……』 日本人の店長相手に英語で呼びかけるとか、ベタすぎるミスも交えつつ。まあ微笑んでくれたからヨシって感じで、運ばれてきた料理を楽しみつつ会話が広がる。 曰く優勝した娘は今まで接点が無かったけど、向こうでも人気な走者だったから自分も嬉しいとか。本国に戻ったらサイン貰っちゃおう、なんて冗談めかして言っていたけれど……やっぱり無理をしているのは、手を伸ばすペースを見ても明らかだった。 『……さて』 『はい』 食後の紅茶でのんびりティータイム……なんて洒落た雰囲気からは少し離れた時間。なんだかんだで言葉を止めなかった彼女の一区切りに、思わず身が締まる。 『私……向こう、イギリスで尊敬している先輩がいるんです』 『はい』 『ソードオブロイヤルって名前、聞いたことはありますか?』
【Sword of Royal, the Arc winner in last year, declares missing the Japan Cup.(昨年の凱旋門賞覇者・ソードオブロイヤル、ジャパンカップ回避を宣言。)】
『……はい、もちろん』
その名前を聞いた瞬間、いくつかの疑問が氷解した。……彼女が涙を流した理由の一端も。 ソードオブロイヤル、高貴なる王の剣。かの王家とも繋がりのある名門の少女、尾花栗毛の金髪が眩い「イギリスの至宝」と目されたウマ娘。デビューこそ2度の2着を重ねたが、クラシック級に入ってから覚醒。4ヶ月弱の間に4つのティアラGⅠを勝ち取るという、これだけでも気の触れたような戦績を刻みつけ、国内外を問わず注目を集めた。そして──
【──ソードオブロイヤル、今1着でゴールイン! 彼女の実力は英国に留まらない! 海を超えた大舞台、凱旋門賞のトロフィーさえも王家に捧げました!】
GⅠ5連勝目、強豪入り乱れる凱旋門賞さえ勝ち取って見せた、文句無しのイギリス最強ウマ娘。半月後にはオマケみたいなノリで英チャンピオンズF&MSさえ勝ってしまうんだから、本当にシャレにならない。クラシック級終了時点で9戦7勝、うち6勝がGⅠなんてバカみたいな強さを誇った、そりゃ「至宝」なんて仰々しい呼び名も似合うって話なんだけど。
『彼女のことを知っているなら、現在の顛末もご存知でしょうか』
『ええ……』 ……非常に簡単な話。貴族とか王室とか、そういう所と繋がりを持つアスリートが連戦連勝したとなれば、心無き人々が何を言い出すか。 『こんなに勝ち続けるなんて逆に怪しいぞ』 『もしや賄賂や権力に縋って得た、偽りの勝利なんじゃないのか』 『いや、きっとそうに違いない』 『お貴族様のボンボンお嬢様が、神聖なレースを汚すな』 嫌悪、厭忌、侮蔑、……切っ掛けは何でも構わないけれど、こういう場所に立つ醜聞ほど気持ち悪く、それでいて心地良い物もない。何時しか、彼女が不正に手を染めているという評価は、それこそ王室の力を使ったとしても覆せぬほどに膨れ上がり、市井の声として高まりを見せていた。尤も、こんなゴシップ相手に王室が声明を上げようものなら、なお業火に薪を焚べる結果にしか繋がらない以上……無意味な仮定でしかないんだけど。
『先輩は違うと仰っていましたが……』
『負けが込み始めたのが、ちょうどシニア級に入ってからでしたか』 何処ぞのウマ娘がリハビリに励んでいた頃、アイルランドで開催されたタタソールズGC。半年のブランクも気にならないだろうと言われていた彼女が、当然のように3カ国目のGⅠを取るだろうと言われていたけれど……結果が、まさかの2着。 次戦フランスはサンクルー大賞も3着、お膝元のイギリスで何とかGⅢ・セプテンバーSは勝ちを収めたけれど。彼女の肩書きが「昨年の」凱旋門賞ウマ娘という時点で、これ以上の説明は……野暮なのか、それとも。 『むしろ、セプテンバーSは負けた方が良かったのかな、なんて考えてしまって……』 『……』 ここまで持て囃された以上、ソードオブロイヤルの周りには「勝って当然」という認識が形成されていたことだろう。だから半年間の休養に苦言を呈する者も居なかったし、その後に今更GⅢを勝ったところで、むしろ凱旋門賞の敗退を印象付ける落差にしかならなかった。
……ハウスさんが語ったのは、きっとそういう話。彼女やソードオブロイヤル本人がそう思わなかったとしても、面白い話が大好きな一般市民どもはどう判断するか。
少なくとも私が向こうに暮らしていれば、間違いなく乗っていたと思うから。 『……先輩はそんなことしないって分かっているんですけれど。どうしたら、あの人は救われるのかって。見ていられなくて……』 そう言って目を伏せるハウスさん。その目には、零れ落ちこそしないけれど、潤む程度には雫が浮かんでいて。それほどまでに、彼女にとってソードオブロイヤルというウマ娘は尊敬できる相手なんだろう。一連の話を聞いて、流れ落ちた涙を見て、どれだけ慕っているかは嫌というほど伝わってくるから。 ……正直言って、私も彼女に負の感情を向けていなかったと言われれば大嘘になる。不正云々を抜きにしても、「こんなに恵まれた出生と実力を持っているウマ娘、どれほど妬ましいことか」と思ってしまった経験も一度や二度ではない。だから、そうやってゴシップ片手に騒ぎたがる人々の気持ちも分かってしまうわけで。それを踏まえれば、私が言えることは一つだけ。 『無理だと思います』 『……ッ!』 一瞬。本当に一瞬だけ、信じられないものを見るような目で。けれど諦念も混じった視線が、私の視線と交錯する。勢い良く跳ね上がった頭、その髪が少しだけ靡き、微かに黄金色へ光って見えた。 『話を聞く限り……ソードオブロイヤルさん……ロイヤルさん? きっと優し過ぎるんですよ』 『優し、過ぎる……?』 『はい』 コーヒーへ雑に砂糖をブチ込み、口に運ぶ。うん、めっちゃ甘い。甘くしたのは自分なのに腹が立つほど甘い。 『ハウスさんの話からして、彼女は不正を行っていないんでしょう。だったら、ただの疑惑だけで、希望していたジャパンカップ出走を取り止めたのが……ただ単純に勿体無い』 黙りこくるハウスさん、もしかしたら彼女も同じことを考えていたのだろうか。当然、私はハウスさんでも無いしソードオブロイヤルでもないから、現地の雰囲気とかしがらみを知ることは出来ない。従って、私の発言は外野からの戯言に過ぎないんだけど。 『1年間でGⅠ6勝、普通に考えてバケモノも良いところなんですよ。というかレース人生通して6勝出来るウマ娘ですら何人いることか』
しかもシニア級ですら大概なのに、クラシック級でそれでしょう? と付け足して。そんな偉業を残せるだけの才能と実力を持っているんだ、もっと手前勝手に振る舞ったとて構わないだろうに、彼女の立場がそれを許さない……本当にそれは正しいの?
『きっと、ロイヤルさんは国民皆さんの思いを背に走っていたんでしょうね。王族の出だから、人々に期待されてきたから。そうして余計な思いまで背負い込んでしまった』 『はい、きっと……』 『……それを捨てるか、自分らしさを捨てるか。2択しかないんだと思います』 ハウスさんの話を聞いて、ソードオブロイヤルへ抱いた最大の嫌悪感。こっちは才能が無いなりに自分らしさを取り繕って生きているのに、お前は私が焦がれても届かなかったそれを自分から捨てようとしているのか。確かにお前にも何かしらの苦労はあるんだろうけど、それさえ跳ね返せるほど強いウマ娘なんでしょうに。 ああ、考えるだけで腑が煮え繰り返る。私がどれだけ望んでも得られなかった「それ」に苦しんでいるお前が。だから。 『ハウスさんが慕っているように、彼女のために涙を流せるように。本当に大切な物が何か、それさえ気付ければ、きっと大丈夫だと思うんです』 『本当に大切な物……』 『はい。あとは文句の一つも言えなくなるくらい勝ち続ければ、それで』 真剣な顔で、何かを考え込むハウスさん。運ばれてきた紅茶のお替わりに手を付けることもなく……ちょっと待って、もしかして私、熱くなり過ぎてとんでもないこと口走ってない!? いや普通の女の子は王室の娘さんと繋がらないんだよ真剣になり過ぎた! 『ご、ごめんなさいごめんなさい! つい色々言っちゃって──』 『──いえ』 両手を顔の前で振って、あわあわと弁明を始めようとした、情けない姿の私を押し留めたのは。 『本当にありがとう、すっごく参考になりました。……先輩に、もう一回お話させてもらいますね』 さっきまでの悩みから解き放たれたようで、とてもすっきりした雰囲気の少女、その微笑み。 『……だったら良かったです、ハウスさん。ロイヤルさんも元気になるといいですね』 多分、外野に出来ることはここまで。後は彼女が、彼女にしか出来ないことをしてくれるはず。だから私は、彼女に送るせめてもの餞別に。喫茶店の会計を全部持とうとして……
流石に今度は引き止められた。
GⅠレースが終わるということは、翌日が月曜日ということを意味していて。寝惚け眼を擦りながら授業を受け、トレーナー不在の中で軽く自主トレを済ませ食堂に入る。脚質とか戦法とか色々勉強しておけって言われたしね。こういう座学は1人なら自室の方が捗るし、早々に食事だけ済ませて戻ろうと思ったんだけど……
「これ、なんの騒ぎ……?」 夕方5時くらい、少し早めに食堂入りしたはずが、どのテーブルも一箇所を見つめるようにごった返していた。視線を向けてみると、何かの特番? が始まる様子っぽいけど…… 「ねえねえ、どうしたのこの騒ぎ?」 「あ、ミラージュちゃん。あれあれ、イギリスのウマ娘が記者会見するんだって。ソード……えっと……?」 「……ソードオブロイヤル?」 「それそれ!」 適当に目に入ったクラスメイトに話を聞き得心した。まさか昨日の今日とは思わなかったけど、騒動が始まってから彼女は悪い意味で時の人になった。そんな彼女が記者会見とあれば、全世界の注目も向けられることだろう。というか私も興味あるし。 程なくして、テレビの向こうに映るは1人の少女。カメラのフラッシュを浴びてなお鮮やかに輝く金色の髪は、彼女の底知れない高貴さを表しているようで。サファイアのような青い瞳を瞬かせ、恭しく一礼してマイクを取る姿にすら、見惚れてしまいそうな気品を感じてしまった。 『ソードオブロイヤルです、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます』 『初めに、私の力不足で不甲斐ないレースをお見せしてしまい、ご迷惑をお掛けしてしまったことを謝罪申し上げます』 『昨年の戦績はあくまで昨年の戦績、私は一度たりとも勝利に酔うことも驕ることもなく、ただ勝利を目指しておりました』 『しかしながら、レースの世界は結果が全て。連敗を重ねてしまったのは紛れもなき事実であり、私の情けない姿に失望の意を向けられることも当然であると理解しております』 流石は名門の少女、一つ一つの発言に年季が入っているというか、台本渡されたとしても到底真似できる気がしない。食堂を見渡しても、うんうんと彼女の言葉に聞き入っている聴衆が大半だった。けれど、心無い人間はどんな世界にもいるもので。 『そんなことを言って、不正に得た勝利を誇るのは心地良いか?』
画面越しにも、会場の空気が凍りついたのは伝わってきた。ただの独り言にしては大き過ぎる声に、何人かのSPが覆い被さろうとした姿さえ見えた。それを押し留めたのは、他ならぬソードオブロイヤル本人で。
『……重ねて申し上げますが、私は不正など行っておりません』 『ですが、私の出自が、生まれが、環境が不信を生むというのは、大変悲しいことです』 『私だけでなく。他の……共に競い、高め合い、同じレース場で走る友に対しても。ですので──』 そうして言葉を切り、一度両腕を下ろす。そして、胸の前で剣を掲げるように。そうして彼女が口にした一言は。 『──今流れている憶測が事実であるならば、私は王室との縁を切ります』 現場を騒乱の渦に巻き込むには、十分過ぎるほどの爆弾だった。
はっきり言って、その後はもう色々と無茶苦茶過ぎて大変だった。何処かで拍手喝采が鳴ったかと思えば怒声や激昂も聞こえてくるし、警備員やSPと衝突する関係者も出てくる始末。ともすれば王室全体を巻き込んだ一大スキャンダルになりかねないくらいだ、仕方のないことだとは思うけれどいや仕方ないで済ませるな。この後、親族やら女王様やらにも取材が行ったらしいけど、『彼女の勝利を信じている』としか言わなかったし。信頼が厚いのか、それとも匙を投げただけなのか。
ただ、一つだけ印象に残っている話がある。日本から取材に行っていた……乙名史記者の質問。 『今回、この記者会見を開く契機となった出来事はあったのですか?』 確かに気になる事柄だろう。なにせ凱旋門賞で負けた時すら何も言わなかった少女が、今このタイミングというのは中々不自然だから。ただ醜聞を売りたい側からすればどうでもいい話、現地人じゃない彼女だからこそ出せたフラットな質問だったという話だ。 騒々しい空気に包まれていた会場で、その質問に為された回答は、やはり一言だけ。 『……恩人に報いるため、です』 それだけ言い残して、本当に会場を去ったソードオブロイヤル。こっち側でも首を傾げる人が多かった中で、多分私だけが……胸に暖かいものを感じられていたんだと思う。 腹八分目に留めて食器を下げ、一人自室へ戻る。少しずつ冷え始めた冬の寒気に、白い吐息へ一言だけを乗せて。
『先輩の力になれてよかったですね、フルハウスペイドさん』
『入るぞ……お疲れ、ロイヤル』
『トレーナー。お疲れ様、ごめんね色々と』 『気にしないでくれ、君の力になれるなら安いものだ』 学園ではなく、公邸の一角。担当トレーナーが入った部屋で、少女が触れていたのは……黒い髪を模したウィッグ。なんの変哲もないそれを、彼女は愛おしげに指で梳いていた。 『……恩返し、か。その子とはまた逢えそうか?』 『分からない、けど逢えると思う。私が頑張り続ければ』 そう言って、傍らに置かれた携帯端末へ目を遣る少女。その画面に映っていたのは、極東の島国で走る、1人のGⅠウマ娘。生気の抜けた表情を浮かべた黒髪の少女を、彼女はやはり愛おしげに眺めていて。 『きっと、来年はあの場所で走るはずだから』 『分かるのか?』 『なんとなく。だから、私も頑張らないとね』 『無理はしないでくれ』 『そこは大丈夫、だけどトレーナーも助けてね?』
こうして、12月を前に迎えた騒動は、一つの終幕を迎えることになる。日本の少女は英国の少女の素性を知らず、英国の少女は日本の少女の本意を知らず。ただ時は過ぎ去っていくのみ……けれど。
【ソードオブロイヤル! ソードオブロイヤル、ここに復活! ついに雪辱を晴らし、凱旋門の舞台に改めてその名を刻み付けました!】
二人が相対したことで、確かに変わった運命が存在する。その長い生涯と比べれば一瞬だけの交錯、しかし運命を歪めるには十分すぎた時間。
互いの未来に関わり合った少女達が、再び同じ場所で巡り合うまでは、もう1年の歳月を要することになるけれど……それは、もう少しだけ先の話。
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第10.5話:一羽の鴉は天に哭く
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「ハロウィン! ハロウィンやろっ!」
「……ハロウィン?」
──時間を少しだけ遡ろう。
10月初頭のスプリンターズSから、3ヶ月間に渡って繰り広げられる秋のGⅠ戦線。有馬記念など秋シニア三冠を筆頭に繰り広げられる激戦は、92日間つまり約13週間のうち、たった2週間しか休まる時期が無いほどだ。
10月第2週と、11月第1週。その後者、クラシック三冠の熱も引き始めた秋風の中。私は元気そうに跳ね回る黄色の髪を眺めつつ、ただ首を傾げていた。 「先週ダウンしちゃってたからねー……ミラージュにもミツバにも世話掛けちゃったな」 「気にしないの。伏せる病人を、まして幼馴染を放ってまで参加したいような行事でもないわ」 「そうだよ、あそこで治らなかったらそれこそ心配だからね! 健康第一!」 しょんぼり尻尾を垂らしたスクエアちゃんを励ますように、ぽんぽんと背中を叩くミツバちゃん。その横でピンボールみたいに跳ね回ってるヘルツちゃん共々、先週の風邪は尾を引いていないみたいでちょっと安心した。 閑話休題、それはそれとして。 「けど急にどうしたの? いや確かに先週はハロウィンの時期だったけども」 2人で病人の様子を看ながら、時々眺めていたSNSで“そういう”ニュースを見たのも1回や2回じゃない。楽しそうな街中の様子から、ノリに乗り過ぎて迷惑行為や逮捕沙汰まで発展した件も含めて。ただ平日を何度か繰り返し、非日常が日常に希釈されていって。すっかり“普段通り”を取り戻した生活に吹き込まれた暴風は、私の首をヘシ折るには十分過ぎた。 「寝込んでた私が言うのも変な話だけどねー。やっぱり楽しめるなら楽しみたいかなって」 「学園の中でも盛り上がっていたのを聞いて、じゃあ今年もやりたいって話ね」 「お祭り! みんなで楽しく!」 やれやれって首を振る赤色、ほぅと溜息を吐く青色。側から見れば幼い子供に手を焼く年長者みたいだけれど。流石に1年近く付き合ってみれば、これこそが3人の距離感なんだって伝わってくる。一生の大部分を共有してきたからこその、気安く確かな信頼。 そんな聖域に、私なんかが軽々しく踏み込むのは、物凄く気が引けたけれど。ほんの少しだけ図々しく振る舞ってみたくなって。 「……私も、一緒に参加していいかな?」 「「「もちろん!」」」 綺麗に重なった三重奏は、少しだけ私の顔も綻ばせてくれた。
“驚くほどに安い”、火の玉ストレートなキャッチコピーを前面に押し出した雑貨屋。割と余裕を持って下ろしてきた財布を手に、パリピな連中が好みそうなイケイケグッズを物色する地味な小娘が、他ならぬ私。
「……遅かった」 とうの昔にハロウィン商戦は撤退し、そろそろ年の瀬が近付いているようなラインナップに嘆息する。当然だろう、イベント本番が先週な以上、そこにピークを持ってくるのは商売屋なら当然の行動だ。熱を出して大きく出遅れたバカ共より、慌てん坊のサンタクロースを相手取った方がまだ儲かるのだから。 「そもそも、何がいいの……?」 ヴァンパイアにマミー、ジャックオランタンとキョンシー、その他諸々。……最後だけ何か違うくない? と思うけれど、学園の中で流行っていた仮装は大体そんな感じ。良く言えば王道、悪く言えばありきたりな候補が並ぶ。 まあ、日本のハロウィンなんてコスプレ着込んで“Trick or Treat”、皆で一緒に盛り上がる同調意識こそが重要なのだから、下手に気を衒う必要はない。変に力を入れて周りから浮いてしまうほど、悲しいやらかしは無いのだから。 けれど、こと今回に関しては。前の合宿でも思ったけれど、やっぱり完成された三角形に私が入り込む行為に違和感を拭い切れない。であれば、最初から浮いている存在が今更何をしたところでと思うことはある。というか3人とも何だかんだで個性豊かだし。 ……あの時と違う点を挙げるとすれば、菊花賞で3着に食い込んだ──彼女達に少しだけ並べたことと、先週の看病──彼女達の弱い部分を少しだけ垣間見れたこと。 憧憬と嫉妬だけじゃない、隣を生きる相手として熱を分け合えるような。一方的に思考と感情を向けるだけじゃない、相互に関わり合える間柄。人付き合いに苦い経験しかなかった私が、少しだけ身を委ねてもいいかなって思えるような。 ……まあ、それはあくまで“私が3人に並び得るほど強い”って前提あっての話なんだけど。強くも無ければ華も無い十把一絡げの小娘、そこに愛嬌も無いと来れば絶対に関わり合えない断絶は目に見えて明らか。そう考えれば、あの日“向こうから”声を掛けられたのは、私の学園生活に於いて決定的な分水嶺の一つだったのか、なんて。
「……あっ」
ふと目に付いたのは、艶やかな輝きを見せる濡羽と、鳥居のように朱く塗られた頭襟。流石に衣装までは見当たらなかったけれど、これだけ揃っているなら被る心配も無いだろう。変に派手派手しいのを選んで好みに合わないってことも。……どちらにせよ、学園内でささやかに楽しむくらいなら、制服姿の方が好都合かもしれないし。 「よし……」 店の雰囲気に合った蛍光色の袋、そこに見繕った小道具を放り込んで。そうだ、前のミツバの行動を見るに他2人も若干スキルが怪しい、南瓜と人参くらい持ち込んで簡単な食事でも振る舞ってみようか。少しは恩と好印象も売れるだろうし。 そんな下心を胸に抱えつつ、予想よりは軽くならなかった財布を片手に私は店を去った。そして迎えた週末──
「座敷童子だよー」
着物姿で愛らしく正座した、慎ましさの残る微笑みの少女と。 「雪女ね……」 頭まで覆う白無垢を身に纏い、儚げな雰囲気を漂わせる少女と。 「鬼!」 虎柄の肌着と棍棒片手に、耳の前で角を生やした快活な少女と。 「……いや本当に、私も全く他人のこと言えないんだけど、言えないんだけど」 それを見て、頭を痛めながら絞り出した声は。 「これハロウィンの仮装って言うより百鬼夜行じゃない……?」 制服姿に巨大な翼と頭襟だけを付けて、「鴉天狗」を名乗ろうとした不届き者にはお似合いの一言だった。いや思ったよりガチだね皆……? 出来の低さで浮くとは思わなかったよ……?
四つ切りに落とした果肉に、スプーンを突き立ててワタを抉り抜く。身を守る緑色の硬皮に刃を突き立てれば、曝け出された黄色を刻んで、刻んで刻んで刻んで……
「ミラージュちゃん! 手伝う!」 「あ、ヘルツちゃん! なら人参の皮剥きお願いしていいかな、これピーラーね」 「もちろん!」 そう言って、元気な声とは裏腹に危なげないくらいのペースで皮を剥いていくヘルツちゃん。思ったより几帳面なのか、少し多めに剥いちゃってる気もするけれど……まあ、最初から南瓜の皮と合わせてきんぴら仕立てにするつもりだったからね。多少分量が狂ったくらいじゃ問題ないし、何より楽しく料理するのが一番。だからと言って包丁を握らせるつもりは毛頭無いけど。 というか本音を言うと、スープより煮物の方がいいのかな……なんて思ったり。だって日本妖怪のオンパレードなら少しでも和風に寄せるべきかなって。まあ冬至も遠くないから控えることにしたけど。季節感は大切だからね。
彼女が隣に立ってなお、先端が背中からはみ出すくらいには巨大な翼を背負ったまま。ヘルツちゃんも肌着が濡れるのを厭わず、笑顔を浮かべて食材と向かい合う。
スクエアちゃんとミツバちゃんの衣装はお手製だったらしく、汚したら大変だってことで私の方から部屋の飾り付けをお願いしていた。食材の汚れって本当に落ちないから…… 鍋に南瓜のキューブを放り込み、少し水を注いで蓋をする。中火で10分ほど蒸してあげれば、残りは潰して濾して味付けするだけ。いや本当に硬いんだよね、ウマ娘の膂力でも限界はあるし変に力込めたら包丁の方が壊れそうだし。あと肩が凝る……とんとんと首を傾けながら拳をぶつけていたら、急に一言。 「ミラージュちゃん! 椅子座って!」 「ほえ? 別にいいけど……?」 どこから調達していたのか、休憩用の椅子を持ってくると私に着座を促してくる。断る理由もないので腰を下ろしながら彼女を眺めていると、背後を取った彼女は……私の肩を、それはそれは大層リズミカルに叩き始めた。 「すっごい力込めてたの、音だけで分かる! だから、今は休む!」 「気を使ってくれたんだね、ありがあ゛あ゛あ゛そこ効くッ……!」
お礼を言おうとしたタイミングでピンポイントにツボを突かれ、苦痛と快楽のマリアージュが神経を襲う。情けない声を上げる私の姿、それが気持ち良さそうだと感じたヘルツちゃんは甲斐甲斐しく、あるいは容赦なく刺激を重ねてくる。いや温泉とかのマッサージチェアでも味わえないくらい刺激が強いッ……! 疲れが解れて流れていくのを感じるけど実際はそれどころじゃない……!
汗だくになって項垂れる私の肩を、優しく擦ってくれるヘルツちゃん。その優しげな感触に、今度こそ肩周りが……ううん、全身が癒されていく。きっと単なる肉体刺激だけじゃなくて、彼女の思いも込められているからか。
「……前は、ごめんなさい」
「え、急にどうしたの?」 「おじや、すごく美味しかったのに。残しちゃった……」 手を止めることなく、しかし普段の彼女とは少しかけ離れた弱々しい声。考えてみれば、レースと同じくらい食べるのが好きな少女がいたとして。好きなご飯を満足行くまで食べられないのもそうだし……何より、“友達が自分の為に作ってくれた料理を残す”なんて行為が、彼女の心にどれだけの影を落としてしまうか。 「大丈夫だよ」 「ミラージュちゃん?」 だから、私はただ“大丈夫”と伝える。病人は寝て食べて治すのが仕事。私も幼い頃、何度も経験した話。 「ヘルツちゃんは、今日こうして手伝ってくれるくらい元気になったよね?」 「うん」 「ミツバちゃんも言っていたけど、2人がしんどくて苦しいままの方が、私達も辛かったよ」 「ミツバも……言ってた」 一緒に看病していたミツバちゃんが、私より先に寝入ってしまったのは。きっと心労も大きかったと思う。最初に病状に気付いて、その上に食事の一つ振る舞えないって罪悪感もあったかもしれない。後から関わった私より遥かに大変だっただろうに、彼女はまず2人の快復を喜んでいた。 「だから、残しちゃってもいいんだよ。少しでも食べてくれて、少しでもヘルツちゃんが元気になる助けになっていれば。それで十分なんだから」 「そっか……」 私の行動は、基本的に打算ありき。だからミツバちゃんほど2人を心配することもなかったし、冷静に自己満足を果たせたと思っている。その行動が快復に繋がったなら、これほど好都合なことも無い。
「だから、今度は私達が2人に振る舞ってあげよう! 美味しい美味しいハロウィン料理!」
「うん! ミツバにもスクエアにも、当然ミラージュちゃんにも! やる!」 「そうそう、その調子! ぶっちゃけこの後も力仕事続くから、頼りにするね!」 ……やっぱり3人の中でも、ヘルツマタドールに困った顔や悲しげな顔は似合わない。アホはアホらしく、正直に真っ直ぐに直情的に振る舞う方が。私はともかく、その笑顔に救われる人も大勢いるだろうからね。 食べて、鍛えて、走って、勝つ。それだけが求められるキャラクターの強さは、きっと他の誰にも真似できない個性。……それを打ち砕くのは、正々堂々競い合うレース場だけで、いい。
「〜〜♪」
「〜〜〜〜♪」 ヘルツちゃんに果肉潰しとミキサーを任せながら、フライパン片手に人参と南瓜の皮を炒める。思わず二人して鼻歌混じり、綺麗なリズムの中にミキサーの回転音と油が奏でる破裂音が心地良い。やってることだけ見たら本当に親子みたいだな、なんて。 そういえば、自分の鴉羽根が目に入って思い出した歌。イギリスの方だっけ、確か歌詞が…… 「One for sorrow, Two for joy……」 「……Three for a girl, Four for a boy!」 気付けば口ずさんでしまっていた小声の歌に、隣から勢いよく割り込んでくる活発な歌声。思わず手を止めて顔を向けてみれば、してやったりとばかりにヘルツちゃんが笑みを浮かべていた。 「ヘルツちゃん、この歌知ってたんだ?」 「よく家で流れてた! このフェアリーテイル、私も大好き!」 「難しい言葉も知ってるんだ……!」 にこにこ微笑む彼女の前に、思わず感嘆の声が漏れる。うん、そこでfairytale(童話)じゃなくてnursery rhyme(童謡)って言えたら完璧だったんだけどね! まあ仕方ないかな! 「元々はカササギを数える歌だったんだよ、アメリカではカラスに変わったらしいけど」 「知らなかった! ミラージュちゃん、博識!」 「少し前に調べたんだ。せっかく仮装するからには、って感じかな?」 衣装そのものは費用もあって妥協したけれど、知識はいまどき時間と端末さえあればそこそこ仕入れられる。そこでコス対象の鴉天狗だけじゃなくて、本物のカラスの方も調べるあたり的外れ感が否めないのは、まあ。
「……カラス」
やっぱり、どの国でもまあまあ嫌われ者。真っ黒で図体が大きくて知性も高くて、そんな圧倒感ある存在が腐肉を啄むの割と致命的だと思う。あとは光り物を狙う嗜好とかも。 食性から営巣、知能の使われ方のほぼ全てが人間社会に喧嘩売ってる鳥。せめて脚が3本あれば違ったんだろうけど、悪魔とか魔女の使い魔扱い、病気とかのキャリアになるって不浄極まりない存在が好かれる訳もないのは道理…… 「ミラージュちゃん、カラスにそっくり?」 「……え? へ、へへヘルツちゃん何言ってるの!?」 いや「カラスみたい」っておよそ他者に使う表現じゃないでしょう……!? とんでもない勢いで罵倒されてる……!? 目を白黒させながら混乱する私。そんな内心を当然知らず、彼女はマイペースに続ける。 「綺麗な黒い髪! テストも賢い! それに、キラキラを見つけるのが上手!」 「……キラキラ、かぁ」 物理的な宝石の話ではないだろう。他人の長所を見つけるのが得意、私の嫌いなちょっとした特技。他人の長所が分かるということは、つまり自分の足りない所を明確にする行為と等価だから。もちろん「そうなりたい」と努力はしても、「そうなれない」場面の方が圧倒的に多い。それこそ、私はヘルツマタドールみたいな親しまれる生き方は出来ないから。……けれど。 「ごめんね、取り乱しちゃって。カラスみたいなカラレスミラージュ、嬉しいな!」 「うん! 翼も似合ってる、カラスなミラージュちゃん!」 「……ふふ、あはは!」 物事は基本的に表裏一体、裏ばかりを気にし過ぎる私は、きっと表にも目を向けるべきなんだろう。だから今日だけは、彼女の素直な賞賛を喜んで受け入れることにした。
「One for sorrow, Two for joy (一羽は悲しみ、二羽は喜び)……♪」
「Three for a girl and four for a boy (三羽は少女で四羽が少年)♪」 私のよく通る声と、ヘルツちゃんのよく響く声が混ざり合って、新しい音を描き出す。 「Five for silver (五羽は銀で)♪」 「Six for gold (六羽は金)♪」 相談したわけでもないのにパートも分業され、ボールを投げ合うように互いの手番を回し合う。 「「Seven for a secret never to be told (七羽は語られ得ぬ秘密)♪」」 ……アイルランド発祥の祭事に、日本妖怪の格好でイギリス民謡を歌い上げるとか、本場の人からすれば怒られてもおかしくない行動のオンパレードではあるんだけれど。 たまたま上手くハモった歌声を聞き、自分のものとは思えない声に、2人して吹き出さずにはいられなかった。そして。 炒めていた皮が焦げかけていたので、慌てて火を止めてもう一度笑い合った。
『ロンドン塔のカラスがいなくなれば、イギリスは崩壊する』
かつて中世都市のほぼ全域を焼き払った大火、その後に告げられた予言。街中で大繁殖したカラスを駆除しようとした国王への諫言は、少しずつ姿を変え……数を減らさぬよう保護するという形で、今も残っている。その一端が、歌として残っていることも含めて。 伝説上の騎士王も、魔術によりカラスに変えられた逸話が語る通り。王国にとって、王室にとってカラスは切っても切り離せない存在であることは明快だろう。
……“One for Sorrow”、「一羽は悲しみ」。
そうであるならば。高貴なる王国の剣、彼女が出会う『鴉』は、少女に何を齎すのか。更なる悲劇か、或いは別の運命を告げるか。
ジャパン・オータムインターナショナル。かの国の偉大なる女王、日本の地でその名を継ぐ勝者を見届け。英国における戴冠者は、マイルという戦場で頂点の座を目指し駆ける。 そして、第3戦。クラシックディスタンス2400m、世界中の猛者が集う国際競争の場で……
王室の少女は、一羽の鴉と相見える。
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第11話:不屈の執着と未来照らす信号機 (クラシック有馬記念編)
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【さあ残り400m! 先頭を駆けるのはオオドウコロサイとツェペリリキュールの一騎打ち……いや違う! 上がってきた! ここで上がってきたカラレスミラージュ!】
【後方から内を突いて! ぐんぐんと差を詰める残り300m!】
中山3600m、ステイヤーズステークス。確かに前人未踏、今までのクラシック戦線とは比較にならない長距離レースだ。こうして走っている間も、肺が破れ落ちそうなほど鼓動が苦しい。
【なんという末脚! 先頭2人すら置き去りに駆け去って残り100m!】
けれど、何度も走っているうちに少しずつ分かってきた。コーナーの効率的な曲がり方、直線における脚の溜め方、そして……心の沈め方。精神の不調が肉体に影響を来すならば、逆もまた真なるは当然の摂理。
【届かない、後続は届かない! 1バ身2バ身と差が開いて……今ゴールイン!】
ゴール板という一線を超えて、張り詰めていた精神の糸を緩める。トレーナーの見立て以上に、長距離レースは「しっくり馴染んだ」。最後の瞬間に向けて、その勝利だけを見据えて直線を走り抜ける爽快感。汗で張り付いた体操服の感触も、幾らか心地が良い。それに……
【1着で駆け抜けたのはカラレスミラージュ! クラシックの同期に負けじと、シニア戦線一番乗りです!】
……今日のレースは、少し水面が凪いでいた。
「初対面の相手だから話しにくいコミュ障と、初対面の相手だから話しやすいコミュ障っているじゃないですか」
「トレーナーさん? 急にどうしたんですか? もしかして喧嘩売ってますか?」 見慣れないメンバー、まあ大半がシニア級の方々だから当然なんだけど……そんな皆さんと“Make debut!”で会場を沸かせてきた帰り道。一頻り今日の健闘を讃えてくれた後、あまりに素っ頓狂な質問をぶつけてきたのは私のトレーナーだった。 「喧嘩を売っているつもりはありませんが、貴女の話ならしていますねミラージュさん」 「オッケーです出るとこ出ましょう、絶対勝訴してやりますよ」 当然のようにしれっと宣うこの人へ、バチバチと目線で火花を送ってやる。いや時期的に静電気の方が効果的かな? 交通機関の中だから声を荒立てたりはしないが、しっかり不満ですよオーラを放つのは忘れない……けれど、それもすぐに霧消させる。 「話題の振り方が悪かったのは謝りましょう、すみませんね」 「いえ、気にしてませんよ? トレーナーさんが変なことを言う時って、大抵は重要な話ですから」 仮にもクラシック級のGⅡ2勝目を収めた直後。偉業と呼ぶには格落ちだろうけれど、他のウマ娘からすればそれなりの水準に達していると思っている。そんな担当を急にディスり始めるトレーナーが居たら、多分その人の性格を疑うよね。 この人の場合、強烈な言葉の後ろに真意が控えている。キャッチーな入りで注意を誘うのも、聞いて欲しいという思いの裏返しだと思うから。断じて私の反応を愉しみたいとか考えてないはず。だから…… 「まあミラージュさんは初対面の方がマシなコミュ障だって言いたいんですけれども」 「やっぱ出ます? 付き添いますよ??」 うん、もう少しマシな言い方無いかなぁ!? 正直チョップくらいなら一発打ち込んでも許される気がするよ!? これ同年代に言われても怒ると思うけど年上が言っていい発言じゃないよね!? 猫みたいに耳を突き立てた私を見て、トレーナーさんも溜息ひとつ。そろそろ十分だと思ったらしく、少し低くなったトーンで私に問い掛けを重ねてきた。 「どうでした? ガーネットスクエアもミツバエリンジウムも、ヘルツマタドールも出走していないレースを走り切るのは」 「……楽、でしたね。身体がと言うより、気持ちの面で」
菊花賞の前を思い出す。注目と期待が寄せられていたセントライト記念、そこまで見る価値は無いと謳われていた神戸新聞杯。後者は私がひっくり返したけれど、あの菊花賞も実際気が気じゃなかったのはあると思う。
だって皆と一緒に走ったの、当時は皐月賞が最後だったから。かたやライブ歌唱独占組、かたや骨折の所為とはいえ掲示板すら外した身。まあレベルが違うって焦っていた。 そして菊花賞で3着に入って、やっと並べたと思って……トレーナーの提案も含め、最終的には自分の意志で決めたステイヤーズS出走。道を別ったのはあの時と似ているけれど、今回はシンプルに走るのが楽しかった。誰に対して邪心を向けることもなく、ただ走り切った3600mが、爽快だった記憶は鮮明に焼き付いている。 「看病の件とハロウィンの件、あと応援留学生の話も含めますか。ミラージュさん、こと『自分が中立の視点、第三者的な立ち位置にいる時』の対応力は高いんですよ」 「え、そうですか──」
『ううん、私はあくまで貴方のお手伝いをしただけ!』
『だから、残しちゃってもいいんだよ』 『本当に大切な物が何か、それさえ気付ければ、きっと大丈夫だと思うんです』
「──あー、なるほど……?」
トレーナーの発言を受けて、以前の記憶を浚ってみる。言われてみれば、私って確かに対応力高い……? 大抵「優しい子なら、友達相手にはこういうこと言うよね」って感じの発言してるだけなんだけど、それが出来ること自体がってことなのかな。 「それを踏まえて重要な話が、『当事者だと途端にダメになりませんか』という件」 「うーん、ぐうの音も出ない気がする……」 それこそ皐月賞の時とか、3人相手にいらぬ敵愾心を燃やした結果があのザマだからね。……ああ、だから今日は気分が楽だったんだ。誰を相手に肩肘張る必要もなくて、割と自然体で居られたから。 「ライバル相手に闘志を燃やすのは必要です、大切なことです。しかし貴女の場合、それが少し空回りしやすい傾向が見える」 「今年いっぱいは機会なさそうですけど、春のGⅠ戦線見据えるなら考えないとですよね……」 シニア級にも当然、鎬を削り合うべき強者は大勢いると思う。それでも“身近なライバル”という観点で、あの3人を超えられるウマ娘は居ないはずだから、その意味では誰よりも警戒するべき相手。
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず、とはよく言ったもので。優劣があるのは当然至極、ならばその差をどう覆すか。ミラージュさんが先行策を打てないのと同様に、彼女達も後方策は打てませんし」
「出来ることを、出来る範囲で。それであと一歩まで迫れたのが菊の舞台でしたから」 「その通り」 ニヤリ、好青年にしては若干本音が透けて見える笑みを浮かべるトレーナーさん。そう言って見せてきた画面は、年末のグランプリに向けてトレーニングに励む3人へ密着した記事だった。 「有馬記念、今年は見送りましたが来年はきっと。予習兼、敵情視察とでも銘打って……観戦に行きましょう」 「はい!」 話を区切って少しの間、私の肩を枕に眠り始めたトレーナーさん。最近もあちこち飛び回ったり徹夜したり、疲労が溜まっていたらしいから、無理に起こそうとは思わない。身長差を考えると首痛くないかなって点だけ心配だけど、まあ正面向いて寝るのも同じだし気にしないことにする。 「…………」 手持ち無沙汰になった指で、端末の画面を叩く。なんとなく気になって、さっきの言葉を検索ボックスに打ち込んでみた。 「……なるほど」 近頃の情報化社会は本当に便利なものだ。たった一瞬浮かんだだけの疑問も、指を動かすだけで時間もコストも要せず解を導いてくれる。 『彼を知り己を知れば百戦殆からず』、相手と自分の両方を知ることが重要。 『彼を知らずして己を知れば一勝一負す』、自分のことばかりで相手を見落とせば半々くらい。 『彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆し』、自分も相手も理解できてないなら全敗間違いなし。 昔の人は含蓄に富む言葉を残すんだなと思った中で、もう一つだけ浮かんだ疑問。まあ私には関係ない話だけど、一つだけ欠けているのも気持ち悪くてインターネット相手に質問を重ねる。けれども、既に語られ尽くした言葉は出てくるのに、私の質問に対して答えてくれるページは見つからなかった。 潔く画面を消して、トレーナーの肩に身を寄せる。私より少し硬くて低めの体温は、しかし冬の空気を超えてじわりと温もりを与えてくる。日々の感謝を伝えるように、僅かに崩れた黒髪を梳いて。車内放送が流れるまでの数刻、ただ静かに佇み続けた。
もし『彼を知り己を知らざれば──』──その先は?
「うわぁすっごい大観衆……潰されそう……!」
「はぐれないよう気をつけてくださいね。この群衆で方向音痴を起こそうものなら、それこそ永遠の別れになりかねない」 「本当に不安なんで手を繋いでくれませんか……!?」 青空澄み渡る年末の中山、この舞台で開催される大一番、有馬記念。秋シニア三冠の終止符を飾るこの舞台は、春シニア三冠の宝塚記念と並んで“出走ウマ娘の人気投票”が行われる稀有なレース。あの3人でさえ、ヘルツちゃん4位スクエアちゃん5位のミツバちゃん8位というくらいだ、シニア級上位勢への期待と人気が見て取れる。その一方で…… 「ヘルツちゃんが2番人気まで上がっているんですよね。他2人も前評判より少し高くなってる」 “誰に出て欲しいか”と“誰が勝つと思うか”は別の話題。とはいえ投票期間に比べると、皆に期待する声が増えてきた気がして。 「ステイヤーズSの影響でしょうね。なんだかんだ言って、鎬を削った貴方がGⅡを勝ったのは3人にとって追い風に近い」 「なるほど……えっ私? けどそっか、世間の人々にとっても、私は皆のライバルなんですね……!」 私自身それなりに仲の良い友達とは思っているし、皆も私はライバルだって聞いていたけれど。世間からの風評というか、認識も合致していると聞いて少し嬉しくなった。憧れの人に近付いている感覚、とでも言えばいいのかな。 「決して、同じ場所で足踏みしているわけではありません。今日この日こそ同じ舞台には居ませんが、貴方も着実に成長を重ねている。そこは自信を持って良いと思いますよ」 「……そうですね。うん、そうですね!」 病は気からと言うように、気持ちや精神が心身に与える影響は前走でも体感したばかり。その助けになるならば、こういった評判も心に焚べて、やる気という熱量に変換するべきなんだろう。……他の人より低品質な心の炉は、些細なことで火力が落ちる残念な代物だけど。それでも、燃やし続けるための努力は重ねないといけないから。 「折角なので挨拶回りも出来れば良かったんですが」 「断言しますけど10割辿り着けず迷子になるオチが見えますね」 それはそれとして、絶対に不可能なことを強行して破滅に向かう必要は何処にもない。しっかり自分の限界と身の程を弁えて、2人肩を並べ応援に専念することに決めた。万が一にも私の不手際で皆を心配させたら大事だし、ね?
【1枠1番マジョラムから、ゲート入りが進められます】
ゲート入りを眺めながら、傍らのトレーナーさんに視線を向ける。広げたノートに何やらメモを重ねている様子、多分出走メンバーの確認とかを行っているのかな?
「秋天覇者のポーリーネセタールが1番人気。4番人気は宝塚記念のカーライナディネ、多分半年振るってないのが大きい。8番人気のパートエナルが個人的に気になりますね、マイルCS3着……」 「このメンバーにヘルツちゃん、スクエアちゃんが入るんですよね。ミツバちゃんは……勝ちが宝塚よりなお短い皐月2000mなら、一歩引いた5番人気も妥当?」 「誰が先着しても不思議じゃない混戦が見れそうですね……」 そんな感じで細々と会話を交わしていると、ゲート入りが完了したのが見えた。思わず姿勢を正してしまう。それだけレースに対して真剣に取り組んでいるってことにしておこう。
【年末の中山で争われる夢のグランプリ・有馬記念! あなたの夢、私の夢は叶うのか!】
……あなたの夢、私の夢。ふと思う、私がレースに掛ける夢は何だろうと。そしてその夢は、自分自身が出走していないこのレースで叶うものなのかと。
【人気と実力を兼ね備えた、ダービーウマ娘ガーネットスクエア。今日は3番人気です】
【2番人気を紹介しましょう、菊花賞ウマ娘ヘルツマタドール】
模造石を散りばめたドレス、音符と心電をイメージしたカラフルなシャツ。今回は名を呼ばれなかったけど、青いメイド服に身を包んだ彼女のことも視界に収めつつ。“友達”にして“ライバル”の彼女達が、珍しく1番人気を争っていない。
【さあ、今日の主役はこのウマ娘を置いて他にいない!】
【天皇賞・秋ウマ娘ポーリーネセタール、1番人気です】 【火花散らすデッドヒートに期待しましょう】
……途方も無く失礼なことを言うならば。同じレース場で競い合ったことのない、“あまり面識のない”ウマ娘の先輩が1番人気なことに、少しだけモヤっとした感情を抱いた。もちろん彼女も激戦を繰り広げてきた名アスリート、その評価は何もおかしくない、けれど。だから。
【各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました】
このレースに限って、私が叶えて欲しいと思った夢は──
【さあゲートが開いた! 各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました!】
──どうか、彼女達が最初にゴールを駆け抜ける姿を。
【さあハナを切ったのは4番カーライナディネ!】
【後ろに12番リスナー、1番マジョラム、15番ハムリーンオザワ! ここまでが先頭集団!】
「スタート数秒でエッグいペースなのが伝わってきますね……」
「逃げと先行で全体の7割以上、かなり暴力的なレース展開になりそうです」 カーライナディネが先陣を切る形で始まった中山2500m、たった半バ身くらいの間に逃げウマ娘が密集している。そこから少し距離を取った先行勢、相対的に差しウマ娘とかの位置に見える程度には凄まじい位置取り争いが繰り広げられていた。
【今回の台風の目、9番ヘルツマタドール、7番ミツバエリンジウムは先団で控えている!】
【3番ガーネットスクエアは少々出遅れたか!? 後方で息を整えています!】
スタートが何故かコーナーにあるという話、今だったら日本ダービー以上に枠順が重要なのは聞いてるけど。内を逃げ組に潰されたスクエアが少し下がったのは賢明かもしれない、というかここまでハイペースになると冗談抜きに誰か事故るんじゃって心配が……!
【さあ第4コーナーを抜けて最初のホームストレッチ!】
密集も紛れて少し息が吐ける直線エリア、にしても過去の事例含めてこんなに前へ前へってレース……いや、少しだけ既視感があった。菊花賞での掛かり方と少し似ているんだ。
ただ前と違うのは、有馬に出るだけあってハイスペックな先頭組がペースを作っちゃったせいで、後方組が今の時点で追い詰められているのを感じる。ちょうど半々くらいの位置で、表情に浮かぶ苦悶の色が違って見えた。
【第1コーナーを抜けて第2コーナー! 熾烈な先頭争いが続いています!】
2箇所の上り坂を超えて、1000m通過が……58.6秒!? 確か通過タイムのレコードが58.4秒だったはず、このペースで飛ばして競り合える辺りトップ層のスペック差が見える……ってそれどころではなくて。
下り坂も超えて2回目の直線、流石にそろそろ疲労が限界を迎えるウマ娘も現れる頃。4番手辺りで様子を見るミツバとヘルツに、気付けばスクエアも追走していた。その後ろから虎視眈々と機会を伺っている……1番人気、1枠2番はポーリーネセタール。私と似ている追込脚質ながら、冷静に狂乱極まった暴走ペースを俯瞰していた。
【さあバックストレッチを抜けて第3コーナーに入る……ここで後方からポーリーネセタール! 抜け出しました圧倒的ごぼう抜き! 凄まじい加速で先頭へと駆ける!】
今まではウォーミングアップとばかりに、溜めていた脚を解き放つ、秋戦線の覇者。疲労困憊の他勢がその覚醒に敵うはずもなく、前を開けるように距離が縮まっていく。
このペースを保てば、きっと残り50m程で今までの差はひっくり返る。自らの走りを極めた先に、勝利という栄冠を掴み取る。よく見れば、抜かれたウマ娘たちは虚を突かれたような、怯えの混じったような表情を浮かべているのが見えた。
【さあ止まらない止められない! どんどん速度を増して先頭へ迫る!】
7番手、6番手、5番手……みるみるうちに差を縮める彼女は、いよいよ先頭集団に手が届きかける。艶やかな栗毛を風圧に広げ、挑戦者を食い殺さんとする不屈の意志。顔色一つ変えず猛追する圧倒的存在。そんなターフの支配者に迫られて、なお──
──心底楽しそうに溢れ落ちる、3色の笑顔を見た。
歓声沸き立つ円形闘技場。周囲一帯を取り囲む観客の盛り上がりに、黄髪の少女が手を振って応える。その正面に立つは、白き角と黒き毛並みが美しくも荒々しい牡牛。頻りに砂を掻き上げる姿は、誰の目にも獰猛な気性を伝えてきた。
少女が左手のホワイトフラッグを投げ捨て、右手のレッドフラッグを両手に持ち替える。空中に靡く白布を視認した牡牛が飛び掛かる突進を、旗の一振りで容易にいなしていく。
生身の肉体を掠るような紙一重。少女は笑みを深め、観客の熱狂も最高潮。そんな命のやり取りが幾度か続き、牡牛が動きを止める。
止まる世界、交錯する視線。一直線に、身体の正中を射抜かんとする最高速の豪脚。左右に逃げる? 闘志に満ちた牡牛は一瞬で反応するだろう。後ろ? 余命が一瞬伸びるだけ。ならば。
少女は“跳び”、空中で突進を躱す。そうして着地した場所は……黒き背の上。
ここに、猛牛は闘牛士を認め一体となった。彼は止まることなく走り続ける。勢いのままに、周囲を覆い囲う壁へと駆け……天高く跳び上がり、この狭き牢獄から抜け出した。
『向かうよ! キミと一緒に飛び出して!』
【La promesa de Toreador Lv.1】
茶器の並べられたテーブル、二脚ある椅子の対面に待ち人は居らず。光の差し込まない暗がりに、少女が取り出したのは鈍い輝きを放つ一挺の鋏。祈りを捧げるように、その刃を構え……壁に向けて振り抜く。
零れ落ちる蔦の雨。白手袋に絡まる残滓も厭わず、ただ壁を斬り、断ち、刻む。眼前を遮る蔦と茨が径と硬度を増したとて、少女は決して止まらない。一閃、二閃。怜悧な意志と視線を体現するように、防壁は剪り落とされていく。
そうして見えた出口で──コツン、と。頭頂に軽く落ちた固い衝撃。足元に落ちたそれを掬い上げれば、乾いた葉は薄紫に輝き、毬のような花を引き立てる。冷え切っていた花弁に、少女の熱が少しずつ移る。
儚げな紫苞に比べ、生命力を感じさせる青々とした茎。運命を感じたのか、徐にその一輪を髪へ挿し結ぶ。手鏡を取り出し、青髪との調和に口元を綻ばせ、しかし凛とした表情で待ち人の下へ足を進める。
耳飾りの下で燦然と輝く蒼き花。決して外れ落ちる事なき結束、その意味こそ──
『貴方様の為ならば、この身この心を全て……』
【秘めたるは恋、信心の結び目 Lv.1】
目を覚ます。激流と暴風に流されて、残ったのは狭い木箱に閉じ込められた自分だけ。木目の揃った床を指先でなぞれば、少しだけ埃が絡む。静寂、沈黙。言葉の発し方さえ忘れた少女は、しかし左手に何かを握り締めていることに気付く。
柔らかな掌に跡を残すほど硬いそれは、僅かな透明感を残した群青色と淡黄色の鉱石。爪ほどの大きさもない二粒の結晶は、しかし暗がりの中で静かに輝いていた。
瞬間、右手に感じる微かな重み。掌を天に向ければ、確かに先刻までは無かった暗褐色の柘榴石。それが二粒、三粒と瞬く間に数を増し、少女の手から溢れ落ちる。追従するように、黒く燻んでいた宝石が彩度を増して。少女の髪に似た、鮮やかな紅色が空間を優しく照らす。
無機質だった木箱に光が戻り、周囲を認識できるようになって。その壁の一つに、扉が着いているのが見えた。少女一人では決して気付けなかった存在、赤色の空間に青光と黄光が微かに混じる。
左手を強く握り、その2色を強く心に留めて。一面に広がる宝石へ別れを告げる。きっと、その光は木箱の外をも照らしてくれるはずだから。少女は扉に手を掛け……
『それじゃ行こうか、あの広い世界へと』
【方舟に輝かしき未来載せて Lv.1】
「……すごい」
唐突に視界へ飛び込んできたビジョン。あの日見た、“底の見えない深淵に沈む自分”と類似の光景であることは直感で分かった。これこそが3人の“領域”、今年のクラシック級を蹂躙した才能の極致。 それを垣間見られた理由は解らないけれど……それぞれの本質、その一端が少しだけ心に響く。あまりに鮮烈なその景色は、呼吸すら忘れてしまうほど美しく、綺麗だった。
【なんと此処で更なる加速を見せる! ヘルツマタドール、ミツバエリンジウム、ガーネットスクエア! まさかポーリーネセタールすらこの3人には届かないのか!?】
グランプリも最終直線を迎え、実況の興奮した声が響き渡る。身体が前傾し、両手に力が籠る。いよいよ勝者が決まる、この長かったようで短かった勝負も決着を迎える。周りを気にする余裕も失せ、思わず唾を呑み、最後の瞬間までハナを争う3人の姿を見つめて……
「……頑、張れッ…………!」
私の喉の奥から、無意識にそんな声が絞り出されたのは。
【ガーネットスクエア、今1着でゴールイン!】
【2着にミツバエリンジウム、3着はヘルツマタドール!】 【ダービーウマ娘、堂々のグランプリ戴冠! 今年の主役は間違いなく彼女達3人でした!】
彼女がゴール板を駆け抜ける、1秒前の出来事だった。
〜〜〜
皐月賞、日本ダービー、セントライト記念に続く4度目の3人歌唱ライブ。あの時と違いを挙げるならば、歌唱曲が“Make debut!”でも“winning the soul”でもなく……“NEXT FRONTIER”であることくらい。
シニア級の相手と競い合う中でも、決して覆らない3人の関係性に、何度息を呑んだことか。思いっきり歓声を上げて、出走者でもないのに汗ばんでしまった程度には、素晴らしいライブだった。 「トレーナーさん!」 「はい、ミラージュさん。どうしましたか?」 そして、そんなレースとライブを見せられてしまったからには。 「私……もっと走りたいです! 今までよりも、もっと!」 「……そうですか。今年は何度も間が空いてしまいましたからね」 「今日のレースを見て確信しました! やっぱり私、『走るのは』大好きなんだって……!」
美味しそうな料理に食欲が刺激されるように。ふかふかの布団に睡眠欲が込み上げてくるように。ウマ娘としての本能が、私に「もっと走れ」と言ってくるのが伝わってくる。少し上擦った声を受けて、トレーナーさんも僅かに笑みを深めた。
「やる気があるなら大いに結構。年始……は早いですが、1月中には始動できるようプランを組みましょうか」 「はい、よろしくお願いします!」 半年前の、鬱屈した観戦後とは打って変わり、今の私は湧き上がるやる気を抑えられずにいる。今のテンションで練習を重ねれば、ひょっとしたら皆に勝つのも夢じゃないかもしれない、なんて。そうすれば、もし3人に勝つことが出来れば、きっと。 帰途もはぐれないよう、彼の大きな手に私の小さなそれを収める。このゴツゴツした手に支えられて、今の自分とこれからの自分があることを実感する。そうして、ふと見上げた視界の上。
夜が迫り薄暗くなった空は、星が見えないくらい薄く雲が掛かっていた。
主な勝鞍:ホープフルS(GⅠ)、神戸新聞杯(GⅡ)、ステイヤーズS(GⅡ)
主な勝鞍:日本ダービー(GⅠ)、有馬記念(GⅠ)、セントライト記念(GⅡ)
主な勝鞍:皐月賞(GⅠ)、スプリングS(GⅡ)
主な勝鞍:菊花賞(GⅠ)、若葉S(L)
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第11.5話:錆色の御籤
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年末年始の東京は、何処も彼処も人でごった返していて。普段はトレーニングで訪れている神社仏閣も、こればかりは参拝者で賑わっていた。ましてや本日は1月1日。初詣はいつ向かっても良いとは言え、どうせなら初日に済ませておきたいと思うのは遺伝子に刻み込まれた風習なんだろう。
「去年はお世話になりました、今年もよろしくお願いします!」 「ええ、今年もよろしくお願いします。いよいよシニア級、気を引き締めていきましょう」 「はい!」 寒風吹き荒ぶ石段を登りつつ、言葉を交わす。流石に着物は持っていなかったので、最も正装に近い制服の上へ黒いコートを着込んで。手袋を忘れたのは失敗だったけれど、ポケットに手を入れたまま歩く訳にはいかないからね。トレーナーさんはその辺しっかりしてる。 「……ミラージュさん、帰省しなかったんですね」 「あれ言ってませんでしたっけ? 最初の3年、よっぽどの事がない限り帰りませんよ?」 思い出すのは、人の少なくなった美浦寮で、電話を繋ぎながら迎えた年越し。元トレーナーのお父さんと重賞ウマ娘のお母さん、2人とも学園での生活はよく知っているから。下手に帰っちゃうとダラけて甘えちゃいそうな娘の性分をよく理解してくれていた。 思えば去年もホープフルSの勝利報告を兼ねた年越しだったし。というかあの時点でお母さんを超えていたんだよね、今年もGⅠこそ勝てなかったけどGⅡの勝ち数ならって感じで。直接会えないのはやっぱり寂しいけれど、頑張って欲しいと応援を貰った。 「っと、そろそろ番ですね」 手指と口を清め、ガラガラと鈴を鳴らす。二拝二拍手一拝。2年前は努力の年、去年は苦労の年だったけれど、今年もどうか良い年を過ごせるようにと。勝利は祈らない、それは自分の手で掴み取るべきものだから。 ちら、と視線を横に向ける。恭しく手を合わせ、目を閉じて祈りを捧げる姿。こうして見ると、やっぱり真摯な人っていうのが伝わってくる。私の為に精一杯頑張ってくれる人、だったら私もそれに報いないと。 「ちなみに、トレーナーさんは何を祈願したんですか?」 拝殿から少し離れた場所で、それとなく質問してみる。『健康祈願を何かに希うのは性に合わない』と言っていた彼が何を思ったのか、ちょっと気になったから。 「『枠順がもう少し内に寄りますように』」 「……そうですね…………」 割と切実な願いだった。
「おみくじ引いていきましょう、今年の運がどう巡るか気になってきました」
「神託のようなものなので、ガチャ感覚で引くのもどうかとは思いますが……まあいいか」 お守り等を売っている小屋──授与所、と呼ぶらしい──で硬貨を何枚か差し出し、小さく畳まれたおみくじを受け取る。お互いがお互いの結果を覗けないように、少し離れた場所でご開帳。自分の運勢を勝手に知られるのって恥ずかしいからね。 「……第、九十七。霧は重楼の屋を罩め、佳人水上に行く……」 若干の現実逃避を込め、記された漢文を読み下す。番号の隣に書かれた一文字からは目を逸らそうとして。うん、はい、凶だね。凶。新年から運悪くない……? 「願望:叶い難し、病気:危うし、失物:出難し、待ち人:来らず……何ならいいの?」 凄いことに、7項目全てがダメと言われている。一つくらい温情が欲しかったというか……もしかして、『叶わない』じゃなくて『叶いにくい』で止まってるからセーフって話? あと『良くない』は『悪い』よりマシとか……? 流石にこの結果は捨て置けないし、神社に結んで帰ろう。悪い運勢を閉じ込めるように、元通りの折り目に戻そうとして…… 「──痛っ……!?」 指先へ広がる熱さと、じんわり滲み出す疼痛感。おみくじの先が裏側が赤く染まっているのを見て、左手に目を向けると……ぱっくり皮膚が割れ、温かい血潮が少しずつ溢れ出す人差し指。噴き出す、と言う程には大袈裟じゃないけれど、あっさり止まることも無いだろうというのは直感的に分かった。 「……え、ティッシュも絆創膏も切らしてる……?」 なおツイていないことに、この状況を乗り切れそうなアイテムが軒並み見当たらなかった。ハンカチなら持っているけど、よりによって淡い雪白。誰か重傷者に使うとかならともかく、こんなことで血染めにするのはあまりに勿体無い。 「ミラージュさん、そろそろ動きますよー」 「あ……は、はい! すぐ行きますっ!」 ここで『少し待って』と言えたなら、もう少しマシだっただろうに。じくじく苦痛をもたらす創傷へ堪えかねて、おみくじを引っ掴んだままポケットへ捩じ込むことしか出来なかった。 大丈夫、ウマ娘の握力は人間よりずっと強いから。しっかり圧迫しておけば、末端の傷口なんてすぐ止血されるはず。そんな根拠もない言い訳に身を委ねて、トレーナーさんの方へと歩いていく……
「よりによって凶を引いてしまいまして、邪な女性には気を付けろと。女性の言葉に心を惑わされれば身を滅ぼすぞと」
「……トレセン学園、というかウマ娘って女性ばかりですし、当たり判定が大変そうですね……」 「学園に邪な人々はほぼ居ないでしょうけれども。ただ願望叶うまじは勘弁願いたい、待ち人来らずはともかくとして」 「……結婚とか、縁なさそうですし?」 屋台のホットドッグを齧りながら、軽口を叩きつつ横並びに歩く。先に買ったフランクフルトを右手に『一口食べますか?』って聞いてみたけれど、にべもなく断られた。まあ自分のお小遣いで買った分だったからね、貰うのは申し訳ないと思ったんだろう。 ……相変わらず、冬の寒さに反して左手は熱を抱えたまま。ポケットの中で握り込まれた拳は湿気を蓄えたのか、じんわり手汗まで滲み始めた。というか握り込んだ熱それ自体もあるのか。我慢出来なくはないラインだけど、内心メンタルはどんどん沈んでいくのを感じて…… 「ミラージュさん、ミラージュさん。少し移動させて下さい、メールが溜まってきたので少し目を通しておきたい」 「あ、はい。別にいいですけど……」 そう言って人のいない方へ歩き始めるトレーナーさん、逆らう理由もないので着いていく。いや本当は早く帰りたいところだけど……そうして辿り着いた広場には、偶に公園とかで見る“地面から突き立った蛇口”がポツンと鎮座していた。 「……ミラージュ、さっさと左手を出せ」 「へ……?」 「左手だよ左手、何かあったんだろう」 周りに誰もいないからか、それとも別の何かが彼の逆鱗に触れたのか。優しげな微笑みは鳴りを潜めて、不機嫌めいた切れ長の視線が私に向けられる。 「気付くのが遅れた俺もだいぶ悪いが。不自然に突っ込まれた片手、屋台への関心の薄さ……額に脂汗が浮かび始めた時点で自分の判断ミスを呪ったよ」 「……バレてたんですね」 観念してポケットの中身を取り出し、手を開いて見せる。思ったより傷口は深かったらしく、少し汚しただけだと思っていたおみくじはべっとりと、斑に赤黒く染まっていた。 「これだけ滲むなら相当痛かっただろうに、なんで我慢してたんだよ……」 「思いっきりグーしてたら少しマシでしたから……」 「それを痩せ我慢だって言ってるんだ、全く……」 手首のくびれた部分を掴まれて、冷たい流水に晒される。今までと違う鋭い痛みに顔を顰めたけれど、トレーナーさんはお構いなしに水を掛け続けた。幾らか熱も落ち着いたところで、掌の血を洗い流せと言われて右手も使う。温度差に血管も縮んだのか、滴り落ちる血雫は勢いをほとんど失っていた。 「……大体理由は分かるさ。俺だって自分だけ腹痛起こしたりしたら、笑顔のまま宿まで誤魔化すだろうからな。しかもキッカケが不注意なら尚のこと」 「ですよね……」 「だが怪我はダメだ、傷口は早め浅い間で塞ぐに限る。骨折の事例とか有名だろう、あの時お前も聞いていただろうよ」 「……」 直接患部へ触れないように、グレーのハンカチ一枚を隔ててぎゅっと握られながら。水気が無くなったのを確認して、黒色の絆創膏をぐるりと一周半。市販のよくあるタイプと違って、ガーゼ部もしっかり黒いから染まり直す心配もなさそうだった。 「家族に心配させたくないとか、友人との楽しい雰囲気を崩したくないって気持ちは分かるさ。だが俺に気を遣う必要なんて欠片もない、雑に『怪我したから手当してよトレーナー』でいいんだ」 「……そう、ですね」 空気や肌に触れることも無くなって、少し痛みが引いたような心地。自分の掌に指先を乗せて、ぎゅっぎゅと少しだけ握ってみた。うん、大丈夫。 「早く手を打てば早く治るんだから、次からはさっさと言え。……んで、どうする? もう少し屋台回るか?」 「……はい、ええ、もちろんですよ! 心配事なくなったらお腹空いてきたので!」 少し額を拭いながら、片付けを始めたトレーナーさんを眺める。そして、黒いテープが目を引く指先を、もう一度。そこに残っていたのは、冬の風に晒された冷たさでもなければ、疼痛特有の不快な熱さでもなく。ただ、静かで優しい温もりに包まれていた。 「……よし」 そういえば、おせち料理やお雑煮って栄養豊富だったと聞くし。だったら今はよく食べて栄養を摂って、この指を治すのが一番だよね。怪我したのは今更だけど、この後はいくらだってやりようはある訳だから。 結ぼうと思っていたおみくじを、もう一回取り出す。流石にここまで汚れた代物を置いて帰るのも申し訳ないので、丁寧に折り畳んで持ち帰ることにした。初っ端から凶を引くなんて幸先の悪い出走だけど、ここから差し返せるように。シニア級の1年間、しっかり頑張ろう! |
第12話:摂氏33.8度の低体温症 (バレンタイン編)
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シニア級・冬季ローテーション、開幕。
基本的に中長距離路線、2000mより短い距離を走れない私にとって、目下の目標とするべきGⅠレースは4月以降……大阪杯、天皇賞・春、宝塚記念に絞られる。そしてその初戦・大阪杯には、クラシックを互いに分かち合った友人達こと“信号機組”が出走を表明していた。
余談ではあるが、この呼称はファン達の間で一定の市民権を得たらしく。スポーツ新聞の見出しを、信号機の名の通り3色で彩っていた。……正確には、“組”の部分は黒色なので4色なのだが。 そして、奇しくも4色目と似た容姿で、彼女達に一歩先を譲りながら邁進する私であったのだけれど……
【さあ逃げ切ったサックスアリカベ、1着でゴールイン!】
【2着にはカラレスミラージュ! アタマ差まで追い縋ったが、僅かに届かなかった!】
「ッ……!」
……新年明けて初めのGⅡレースを、2着入線で終えるという、微妙に不吉なスタートを切ってから。
【カラレスミラージュ、今1着でゴールイン!】
【ステイヤーズSの勝者は伊達じゃない! 3400m、ダイヤモンドSを制しました!】
「よし……っ」
……得意分野、長距離のGⅢレースで勝利を収め、なんとか盛り返したのでした。
「改めて、勝利お疲れ様……やっぱりお前、長距離の方が向いてないか?」
「……体力が保つか、そこが明暗を分けていたと思う」 「前はスタミナ不足が顕著だったからな。そこさえ補えてしまえば……と」 「うん」 【2月下旬】、レース明けの月曜日。基本的には疲労回復を兼ねて、前走の振り返りを進めるため直接トレーニングを行うことはなく。直近2戦の結果を眺めながら、2人で意見を交わしていた。 菊花賞は3000m、ステイヤーズSは3600mを終えて臨んだ、1月中旬アメリカJCC。ペースを長めに取って走るスタイルに馴染んでいてしまったからか、一気に距離を縮めた2200mではスパートを伸ばし切れず負けてしまうという結果に終わった。 一方、昨日のダイヤモンドSについては……3400m、前走ともども非根幹距離だけあって呼吸合わせが少しキツかったけど、それでも走りやすいレース展開を進めることが出来たと思う。 考えてみれば、1400mなんて短距離レースとほぼ同等の距離だ。その差に一発で適合するなんて無法、まあ私程度の才能では難しい話だろう。 「さて、以上を踏まえての次走だが」 「……阪神大賞典。そして、天皇賞・春。そこで、今度こそ」 「了解、同意が取れるなら問題ない。出走登録を進めておこう」 春の三冠を狙うか、勝ちの目を一つでも増やすか。大阪杯から天皇賞・春の距離変動を考えた時に、アメリカJCCの2200mを走り切れるなら、三冠路線を狙うのも悪くないと互いに考えていた。 けれど私は予想以上に、短期間で距離を合わせるのが下手だったようで。その上で3000m超が安定しているなら、無理を押して敗色濃厚の大阪杯へ挑むよりも、一貫して長距離のレースを選んだ方がいい。 結果として、再戦の舞台は阪神レース場に非ず、京都レース場に持ち越された。奇しくも其処は菊花賞……最後に皆へ挑み、そして負けた場所と同じ。距離こそ違うけれど、なんと因果なものか。 ぶるり、と身体が震えたのは、来るべき戦いに向けた闘志の現れか。それとも、暖房が効いていてなお肌を刺す、冬の冷気によるものか。一瞬舟を漕いでしまった私を咎めることもなく、トレーナーは席を立って部屋の奥へ向かう。 その背中を追うことも出来ず、首筋に絡められた睡魔の腕が、ただ私を引き摺り込んで……
「……つめ、たい」
微かな電子音に、軽くなった瞼が持ち上げられる。ぼやけて白く濁った視界、机に胸を着いて頭部を投げ出し、その背中にはブランケット。毛先が頬をくすぐる感触に一瞬顔をしかめて……自分の手が、動かないことに気付いた。 だらりと、胴体へ沿うように垂らされた両腕。錘でも載せていたのか、力の伝達も叶わず、悴んだ指先が温とも冷ともつかぬ感覚を脳に送る。 「…………」 のそのそ、もぞもぞ。言葉を発するのも億劫で、無言のまま上半身を揺すぶって身体を起こす。まともに開かない両手を、それでも机に載せて。ぼんやりと、前だけを見ていた。 「起きたか。随分寝覚めが悪そうだな」 「……おはよう」 「ああ、おはよう」 そんな私の前に戻ってきたのは、湯気立つマグカップを2個持ったトレーナー。白い方は自分へと、黒い方は私へと。白い液体が甘い香りと共に、温かさを運んでくれる。カップ越しに伝わる熱が、少し冷たさに凍りかけていた気持ちごと、指の不自由さを取り去ってくれた。 「ちょうど今出来たばかりだ、タイミングが良かったな」 「……いただき、ます」 交感神経の抑制作用を持つ、ホットミルク。私が不調の時に、トレーナーが入れてくれる一杯が、気付けばありふれた日常になっていた。……本当は、日常じゃダメなんだろうけど。 くい、とカップを傾けて。いつも通り上顎を濡らしながら、舌と頬に絡まる微かな甘味が、心を癒し脳を悦ば……せ…………? 「…………?」 カップを置く。両手を握り、再び開く。物理的に首を傾げながら、熱を持ったままの唇に舌を這わせる。……砂糖じゃない、乳糖でもない、油脂のような滑らかさ。リップクリームを塗った後のような潤い。これ、って。まさか。 「反応を見るに、口へ合ったようで良かったよ。ホットチョコレートなんざ作ったこと無かったからな」 ドッキリ大成功、そう言ってくつくつ笑うトレーナー。その声を聞きながら、頭と首の後ろがスーッと冷えていく錯覚を、密かに感じていた。
2月14日、バレンタインデー。とうに過ぎ去ったこのイベントが、如何なる物かを説明する必要は最早あるまい。重要なのは、このイベントが女性同士の友愛か、女性から男性への好愛を伝える方面に重きを置いているという、ただ一点。
クラスの皆も、私が重賞挑戦直前だったのを知っていたので。30粒300円くらいの市販チョコを義理チョコと言えば、「GⅠウマ娘様からの施しじゃ~」なんて冗談混じりに受け取ってくれた。もらったお返しは、トレーニング終わりにちょくちょく摘んで。他の娘相手はそれで良かったけれど……この人相手に何やら渡すのを、完全に失念していた。 初めてと言う割には、矢鱈と素晴らしい味のそれを傾けつつ。私の反応に気付いたのか、普段通りの顔で語り掛けてくる。 「ああ、お前のチョコなら別に要らん。何としても渡したいとかなら別だが、そうじゃないなら強要するモンでも無い」 「けれど……」 「義理チョコの送り合いとか、友達同士でやってれば十分だ。俺も同僚とはやってるしな」 一瞬だけ驚いたけれど、考えてみれば外面は滅茶苦茶いいんだ、この人。それこそ私と同じで。だったら一方的に貰って貸しを作るでもなく、ある程度はその場で返して相殺するか…… 「それとも、お前の本命チョコは俺宛だったか?」 「自分で言ってて悲しくならない?」 「絶対にあり得ないと分かってるからな」 そこで言葉を切り、再びカップを持つトレーナー。私も合わせて傾けて、絡まる甘味に舌鼓。うん、やっぱり牛乳の微かな甘さと、チョコの殴り付けるような甘さが相まって凄く幸せ。 「お前の食事量は粗方把握してるが、もう少し肉付けた方がいいのは事実だからな。このくらい作るさ」 「……それ、私以外に言ったら、セクハラじゃない?」 「誰がお前以外に言うかよ、安心しろ」 「…………」 先に中身を飲み干して、再び奥に向かうトレーナー。曰くもう一杯とのことで。折角だから私もリクエストしておいた。ここまで言わせた以上、ちょっとくらい太らないと、ね。
「……はぁ」
温かいドリンクに一息つくのとは違う、明らかに憂いを含んだ嘆息。油脂を存分に含んで濁った水面は、そんな私の顔を映そうともせず。それが少しだけ、救いに感じた。 私のトレーナーは、或いはトレーナーさんは。とてもいい人だ。私と同じで腹に一物、いや一物どころでは無い気もするけれど。何かを企んでいるとして、それはそれとして私に寄り添ってくれる。私を助けて、励まして、支えて……導いてくれる。 一般論として、担当ウマ娘のメンタルを保つことがトレーナーの利益に繋がることは間違いない。何なら彼自身も同じことを言うだろう。いや、過去に述べている……「俺はお前を勝たせるために動いているだけだ」という旨の発言を。
「嫌だな……」
『それとも、お前の本命チョコは俺宛だったか?』
『自分で言ってて悲しくならない?』
トレーナーの冗談に、すぐさま口を衝いて溢れ出した否定の言葉。本命……この場合は、恋情を向ける最大最良候補の意味。それは間違いなく心の底から却下出来る。けれど。
気になったこと。私は貴方に、何を返せているだろうか。正月の一件から、微かに胸の奥でじりじりと熱を持ち始めた思い。
嗚呼、貴方はきっと、本当は良い人だ。聡明で才能豊かで、本当は他者の隣に居続けられる人だ。その貴重なリソースが、他ならぬ私だけの為に注がれているという事実が……嬉しくもあり、悲しくも感じる。
私は貴方に、何を返せているだろうか。レースでの勝利? 否、レースで勝つのはウマ娘なら誰でも目指すべき目標。それに、私はここぞという場面で勝ち切れていないし。GⅠウマ娘の担当トレーナーって栄誉も、あの1度以来渡せていない。 トレーナーとしての経験? 否、それだって私じゃなくても良かった筈だ。何なら私相手に特化したプラン……特にメンタルケアなんて、他のまともな娘相手じゃきっと役立たない。 ……ぐるぐると巡る思考。きっと彼ならば、こんな私の悩みだって冷ややかに笑い飛ばして、また先へ導いてくれるんだろう。今までだってそうして来たのだから。 だけど、何故かこの思いだけは、貴方に吐露することを躊躇ってしまって。
「……勝てばいい、それだけ」
だから、私は勝つ。勝たなきゃいけないし、何より、勝ちたい。あの3人に。とうとう届くかもしれない手応えは掴んでいる。準備も万端、次の阪神大賞典で全員ブチ抜いて、その後もう一度全員ブチ抜けばいい。それだけ。
そうすれば、私は同期の強敵達を見事に制してみせた強者として称えられるだろう。トレーナーも、今一度GⅠウマ娘の隣でその手腕を讃えられるだろう。そして、そのチャンスは今までで一番現実味を帯びている。……と言うのに。 僅かに残った中身を、ぐいっと傾けて呷る。髪のように黒いカップの底、溶け残った白いチョコがへばり付いているのが見えた。
……もし、私の願いが叶わなかったら。貴方の望みが叶わなかったら。私達の努力が、敵わなかったら。メンタルに余分な負荷を掛ける理由は無い。百害あって一理なし、理性では十分過ぎるほど理解していると言うのに。それでも……
カタカタと、カップが手の中で音を立てる。どうしてだろう、両手は既に温まっているはずなのに。こんな思いをしたことは、一度だってなかったのに。1人でいるこの空間が、今はただ──
──少し、█い。
【Sink into the MirageのLvが上がった】
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第12.5-1話:移ろいの空、感謝祭の一幕
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「したみー♪ したみー♪ しったっみー♪ したみーをーなめーるとー♪」
「ねえヘルツー。下見の大切さは分かるけど、その替え歌は全方位に喧嘩売ってるから止めよー?」 「えー、スクエアのケチ!」 相変わらず自由気ままな黄髪と、苦労していそうな赤髪の2人を眺める。3月下旬、阪神レース場。第11RはGⅡ・阪神大賞典、その観客席の出来事だった。 「トレーナーさん、ミラージュちゃんの調子はどうですか?」 「如何にも絶好調、彼女のストイックさと自己管理力が良く顕れています。大阪杯を皆さんと競い合えない、ならばせめて前哨戦は勝って面目を示さなければと語っていましたから」 「そうですか。ミラージュちゃんらしいですね……頑張って欲しいです」 俺の隣でターフに目を向けるのは、皐月賞ウマ娘・ミツバエリンジウム。去年の4月以降、長らく勝ちに恵まれていない戦績ではあるが……来月の大阪杯で、再び栄冠を勝ち取らんと日々練習しているのが見える。相変わらず自分のトレーナーにはゾッコンだが。 「あ、ミラージュちゃん出てきた!」 「今日も笑顔が眩しいねー。アレがレース中はスッとクールになるんだからギャップが凄いよ」 出走ウマ娘たちがゲートの前に集う、当然そこには体操服を着込んだ担当の姿も。AJCCこそ勝ちを逃したが、年末から連対は途切れていない程度に安定した状態。そして観客席からでも見える、あの研ぎ澄まされた集中力があれば……いや。 「集中、し過ぎている……いや、確かに大事なレースですが……」 ほんの些細な違和感。成長痛の前兆にも似た、ある種喜ぶべき状況のはずなのだが。 「……ミラージュちゃん?」 俺の声が届いていたのか、それとも彼女なりに琴線へ触れる何かがあったのか。楽しそうに発走開始を待つ2人に比べ、青髪の垂れた両目には、僅かな懸念が見て取れた。
【今、スタートが切られました!】
気付けばレースは始まり、相変わらず最後方に着けてレースを見守る。……だが。
「誰を見ている……?」 彼女の走法は、端的に言うならロングスパートと直線一気の併用。トレーニングと趣味で得たリズムキープの感覚を活かし、鍛えたスタミナによる安定した加減速と、最後の末脚を上手く組み合わせて最適解を探る方式。 そのためには広い視野が重要となる。だからこそ全体を俯瞰し道を探ること自体は何らおかしくない。だが。 「頑張れ! ミラージュちゃん!」 「いい調子だねー、あの好位置から狙われたら私も危ないかも」 「…………」 素直に応援する者。相対した時に備えて対策を練る者。そして……困惑する者。身体には何ら問題がない、技量面でも今までより遥かに改善している筈。レースにしっかり没入し、余計な意識を割くことなく最適な展開を続けている。なのに何だ、この騒めきは。 「……トレーナーさん、ミラージュちゃんと何かありました?」 「いえ。どうしてそんなことを?」 眼前のターフから目を逸らし、わざわざ俺の方を向いて問い掛けてくる少女。当然心当たりなど浮かばない、普段通りトレーニングして普段通りコミュニケーションを取っていた記憶しかない。 「恋は盲目、なんて冗談を言えれば良かったのですけれど。纏っている空気というか……私と、似ているような、違うような」 「……トレーナーに想いを寄せるミツバさんが、他ならぬミラージュさんに似た雰囲気を感じたと?」 「うまく言えないんですけれど……でも、心当たりが無いならきっと違うんでしょう」
【カラレスミラージュ、今一着でゴールイン! 他を寄せ付けぬ圧倒的な強さでレースを制した!】
視線を戻した先、最初にゴール板を駆け抜けたのは自らの担当ウマ娘。これで重賞5勝目、経過は十分良好と言って差し支えない。
だが、些細なきっかけで何が起こるか分からない、それがレースというもの。他にも違和感を持った相手がいる以上、注意は払った方がいいだろうな……
ちなみに、完全な余談ではあるが。翌々週の大阪杯はヘルツマタドールが制していた。どうやら下見の成果は万全だったらしい。なるほど?
ところ変わって、春のファン大感謝祭──秋の聖蹄祭と並び、ウマ娘を応援するファンの為に開催されるイベントの一つ。春の方はスポーツ系の催し物が多く、その身体能力をレース以外にも果敢に活かす生徒達が見られるというのは、学外の人間にとっても有名な話だ。
とはいえ、活力溢れる出し物だけではなく。ちょっとした出店や喫茶店など、食事や休息を求めるのも来訪者の性で。その声に応え、俺の担当もクラスの一員として接客業に臨むという話は聞いていたのだが…… 「申し訳ございませんご主人様! みららんは席を外しております……!」 「いえいえお気遣いなく、ありがとうございます。……みららん?」 クラシカルなロングスカートを脚に通し、恭しくも慌しく腰を折る栗毛の少女。担当のことを渾名で呼ぶあたり、そう悪い関係性では無いのだろう。あの素性を知っていると、“みららん”なる呼称が可愛らし過ぎる気もするが。閑話休題。 先に運ばれたアップルティーに舌鼓を打ちつつ、くるりと周囲を見回してみる。一口にメイド服と言ってもその容態は様々で、今時のミニスカタイプからホラー映画に出てきそうな明度の低い装束、チャイナスタイルやフレンチスタイルまで。一人一人が異なるバリエーションの衣装に身を包み、来客の目を楽しませていた。いやよく企画が通ったな、特に最後。 「お待たせ致しました! 当店特製のオムライスです!」 「ありがとうございます。おまじないは結構ですので」 ……誰がどう見ても、作りおきの既製品ではない卵の照り。付属のプラスプーンで軽く山を崩してみると、よくケチャップの絡んだチキンライスが顔を覗かせる。黄色のクッションに乗せつつ一口。少々塩辛めだが、生徒が自分達で作ったと考えれば十分に合格点だろう。 「……ええ、美味しいですね」 「良かったです。ここだけの話、ホントはみららんもホール担当だったんですけど、お呼び出しされちゃったので……」 大正モダンのクッキングメイドですよ、なんて声を聞き流しつつ。担当の料理上手はトレーナーとして把握している、昼に弁当を渡された経験もある程度には。だから今の話で気になった点があるとすれば、其処ではなく…… 「“お呼び出し”?」 「はい、生徒会経由で。保健委員の穴埋めをやって欲しいって」 ……なるほど、合点がいった。これだけ大規模な行事ともなれば、催しの出場が関係者で被ることも不思議ではない。或いはその場で対応できるように、本業の面々が出向いておくという線も合理的だ。 その上で「彼女になら保健室を任せても大丈夫だろう」という評価は、俺の存在に由来するものか、それとも。いずれにせよ、アレが依頼を受けて断れる姿が思い浮かばない。 「ありがとうございます、後で様子を見に行ってみますね」 「わぁ、助かります! ではこれ渡してもらっていいでしょうか! 差し入れってことで!」 そう言って渡されたスポドリを納め、オムライスを食べ切って席を立つ。先ほどまでは幾らか余裕が見えたが、噂でも流れたのか入口から廊下まで長蛇の列。目を回しながら対応に追われるメイド達の有様を楽しみながら、教えられたままに足を向ける──
「おねーちゃん、ありがとー!」
「次は怪我をしないように。元気にお祭りを楽しんできて」
──白銀が舞う。保健室の前。凛とした、それでいて少しか細い声が耳を打つ。膝を折り、眼前の少年に目を合わせているのか、芦毛の髪が廊下に擦れているのが見えた。
「……はい、こんにちは。怪我ですか? 擦過? 創傷? 熱傷?」 立ち上がり振り返った少女、呼び掛けられる言葉。学園の制服、青紫の襟元に掛かり、腰よりもなお伸びる真っ直ぐな長髪。少し視線を移せば、真っ先に意識が向けられる先は……両目を覆う、半透明な琥珀色のレンズ。 視線が交錯する。彼女が俺を見ているのは分かるが、その瞳の色までは見透かせない。透いてはいるが無色ではない、薄く色付いた世界を見ているのだろうか。緩く閉じられた口元から、僅かな警戒が垣間見えた。 「……患者さん?」 「ああ、失礼。すみません。穴埋めの娘へ差し入れを頼まれたのですが、不在でしょうか」 眼前の少女に意識を奪われた、その一瞬を見咎められる。特に嘘を吐く理由も無い、渡されたボトルを取り出せば、少女も納得の色を見せた。憮然とした口元は変わらないが。 「……もしかしてカラレスミラージュのトレーナー? なら彼女はついさっき出て行ったところ」 「そうですか、それは失礼しました。えっと……」 「ソラノウツロヒ、漢字で書くなら“空の移ろひ”。どうぞよしなに……とりあえず入ったら?」 芦毛の少女ことソラノウツロヒに礼を述べる。促されたままドアを抜け、腰を下ろして再び目線を合わせた。
「誰か来るまで退屈なんです、一人ぼっちは寂しいのです。けれど来訪者が来るのは嬉しくない、怪我人は出ないに越したことがない」
「ええ、それについては心底同意します」 「そんな中で貴方が来た、これは大変ありがたいこと。暇人の時間潰しに付き合って貰えるなら、それは大変嬉しいこと」 ……つまるところ、彼女は俺に“しばらく付き合え”と言いたいらしい。言葉遣いは少し横柄だが、耳と尻尾の動きは緩やかながら勢いを増しているのが見える。ちなみにサングラスを掛けている理由は「目が悪いから」という話だった。 まあ、こちらとしても取り立てて見たいモノは無い。付き合えと言うなら吝かでは無いが…… 「分かりました、ただミラージュさんに一報だけ入れさせてください」 「……構わないです、本当の病院じゃないから電波も気にしなくていいです」 ソラノから許可を取り、30秒ほどで適当に文面をしたためる。 『少し保健室で時間を潰しています、要件があればいつでも呼んでください』 ペポっ、気の抜けた送信音と共に入力欄の文字が反映され……同時に、ペポっと気の抜けた受信音が目の前から聞こえた。 「私です、友達からでした。返事だけしておきます」 少し辿々しい指遣いで画面を操作するソラノ。彼女の人差し指、その微かな跡……塞がった傷跡のような箇所が目を引いた。なんとなく自分の画面を覗いてみる、特に既読は付いていない。たっぷり3分掛けて返事を終え、ポケットにしまうまでの一連を眺めていた。 「お待たせしました終わりました、私から頼んでおいてコレとは申し訳ありませんでした」 「構いませんよ、友達との遣り取りも生徒の特権ですからね。それで何から話しましょうか」 そう言って、彼女に会話のボールを投げる。表情の変化に乏しいのは、何処かの誰かを彷彿とさせながら。しかし独特の話し方には面白みさえ感じた。 どうも彼女はデビュー前とのことで。やはりGⅠウマ娘のトレーナー相手となれば、聞きたいことも多いらしく。デビューについて、トレーナーの見つけ方は、効率的なトレーニング法と休養法、やる気の保ち方、トレーナーとウマ娘の恋愛……諸々を質問された。最後だけは聞く相手を間違えている気がしなくもないが。 彼女の反応も実に多種多様で。顔の動きこそ少ないが、負け続きの話をすれば耳が絞られ、再起の話では尻尾を立て。あわや激戦という段では両手を力強く握り締める、実に素直なリアクションを見せてくれていた。 彼女自身、この5月頭に重要なレースを控えているとのことで、一つたりとも情報を漏らさないという気概を感じさせる。……ただ、要所要所で眉を顰めてはいたのだが。 「……やっぱり」 そう言って、軽く斜めを見上げるソラノ。重力に従い、後頭部の方へと白い長髪が流れ落ちていく。ちょうど角度の問題で、サングラス越しの虹彩を捉えることは敵わなかった。 「一つ聞いていいですか」 「はい、どうぞ」 「……カラレスミラージュ、物凄く面倒な娘じゃない?」 ピクッ。彼女は単に率直な感想を述べただけなのだろう。しかし何故か、目尻が不随意な痙攣を示す。 「そう思った理由は?」 危うく声が冷えそうになるのを、理性で抑え込んだ。少なくともソラノには、ミラージュの本性のことは一切伝えていない。ただ客観的に見た彼女のこれまでを伝えていただけ、だからこそ真意が気になって止まないから。 「トレーナーとウマ娘って、互いに背中を預けて支え合っていくものだと思ってました」 「ええ」 「けどカラレスミラージュは、彼女は貴方に凭れ掛かっているようにしか聞こえません」 「……ええ」 「……レース中と、それ以外の普段もそうです。きっと彼女は、貴方に何かを隠しています」 ソラノは何時から、ミラージュのことを見てきたのだろうか。共にGⅠを走った面々すら……いや、共に走った仲だからこそ触れなかったのか、その一点にずけずけと踏み込んでくる。 きっと、ここは本来優しく諌めてあげる場面なのだろう。あまり他人の奥深くに踏み込んではいけないと。時には遠慮も大切だと。 「貴方はきっと優秀なトレーナーです。そんな貴方に、隠し事の多い、本心を明かせないような愚かしい彼女は見合うの?」 だというのに、俺の内心に込み上げてきた感情は、そんな分かり切った答えではなく…… 「少し黙れ、ソラノウツロヒ」 「……え」 ただ、隠し切れなかった、剥き出しの敵意。すぐさま笑顔を張り付けるが、一瞬垣間見えた怒りに彼女も面食らった様子を見せる。
「……失礼、言葉を荒げてしまいました」
掛けていた眼鏡を胸にしまい、目頭を抑えて深呼吸。一回、二回、三回……顔を上げる。琥珀色越しに合わせた視線の先、希薄だと思っていた存在感の瞳が、今は揺れているように見えた。 「ご意見ありがとうございます、確かに第三者の客観的な視点は貴重だ、私が見えていないものに気付いている可能性はある」 「……ええ」 「ただし」 ただし、そう言葉を区切って今一度間を置く。彼女も冷静さを取り戻しているのが見えた。 「その相手が私に相応しいかどうかは、私が決めることです。例えそれが他人だろうと、友人だろうと親族だろうと……本人から言われたとしても知ったことか」 結局のところ、腹が立った部分は此処だ。別に何を思おうが考えようが勝手だが、結局俺のことは俺が決める。そこにしゃしゃり出て首を突っ込むな。 「……強いんですね、トレーナーさん」 「頑固で独善的なだけでしょう」 そうでなくては“彼女”のトレーナーなど務まらない。この2年弱を経て、それは痛いほどに実感している。……尤も、今この瞬間トレーナーらしく振る舞えているかと聞かれれば疑問なのだが。 「ソラノウツロヒさん。ひょっとしたら貴女の考え通り、私と彼女の間で仲違いが発生するかもしれません」 「…………」 「だからまあ、“そうならないよう代わりに祈っておいて下さい”。実際に行動するのは私達ですが、せめて一人くらいは案じてくれても文句は無いですから」 そこで言葉を切り、しまっていた眼鏡を掛け直す。そして差し入れに貰っていたボトルを、彼女の……ソラノウツロヒの前へ。 「どうぞ。長々と話して喉も渇いたでしょう、受け取ってください」 「これ、カラレスミラージュ宛の差し入れじゃないのですか?」 「彼女の分は別で買っておきますよ、同じのを持って行けばバレないでしょうから」 ソラノに背を向け、出口のドアへと足を進める。振り返ることはない、きっと彼女と出会う機会は二度と訪れないだろうから。手だけを振って扉に手を掛け、ガラガラとレールが音を立てる。 「……ありがとう、トレーナー」 少女が発したその言葉が、俺の耳に入ることは叶わず。ただ一人、保健室を後にした。
ペポっ。相変わらず気の抜けた通知音が耳を打つ。画面を付けてみると、其処に映っていたのは担当からの連絡だった。
『すみません返事遅れました! 多分お昼には戻れると思います、今度こそメイド服着ていきます!』 如何にも慌てて打垂れたような文章に、口角が上がるのを感じる。『了解です』とだけ返して、そのまま電源を切った。いやちょっと待て、俺もしかして担当のメイド服で興奮すると思われているのか? まあ考え過ぎか。
……ソラノウツロヒ、“空の移ろひ”なんて名乗ってはいたが。実際のところ、彼女の本心としては“空の虚ろ日”の方がそれらしいのだろう。空虚だのなんだの、如何にも彼女が好む言葉だ。
発端としては容易に想像が付く、「保健室にいきなり謎のGⅠウマ娘がいたら驚かれます! 適当に変装してますね!」などと宣う彼女の顔を思い浮かべるのは容易い。所々、彼女と相反する要素が多く見られたのも意図したものだろうから。 ただし、彼女が吐露した感情そのものは、当人が感じていることなんだろう。ここのところ感じていた、他人からも感じられていた“違和感”。その発露を思わぬ形で見ることとなった。 “カラレスミラージュ”は“担当トレーナー”に伝えられないが、“謎のウマ娘”が勝手に伝える分には問題ないと言うことか。彼女からの信頼を勝ち取り切れていないのが歯痒くもあるが……力不足は、これから直していく他あるまい。
空の虚ろ日、一見明るいだけの空虚な太陽。嘘で塗り固められた笑顔、そんな由来が込められているのを感じる。だが所詮は中学生、持ち得る語彙も何もかもが足りていないことに、却って微笑ましさすら感じられる。
……今すぐには無理だとしても。お前の行く末が最終的に、虚実ならず虚日ならんことを。
【やる気が上がった】
【Sink into the MirageのLvが上がった】 |
第12.5-2話:May rain fall?
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『今日の授業はここまで。宿題は忘れずにお願いします』
ガラスを打ち付ける水音。どんよりと曇った暗がりの空。そんな中でも、煩わしい授業が終わったことに喜びを感じる生徒は多い。私はそこまでじゃないけれど、それでも今日は4月某日金曜日、ここさえ越えればトレーニングに休日にと楽しみが待ち受けているから。
色めき立つクラスメイトをぼんやり眺めながら、私は自らの過ちを悔いていた。その要因たるや余りに単純至極な行為で。
「傘、忘れた……」
小雨というには勢いが強く、しかし駆け抜けるほどの大雨かと聞かれれば微妙な塩梅の降水量。そんな中、朝方の雲間に油断して傘を置いてきたのは微妙に歯痒い。仕方ないから購買で買う……? でも……なんて、貧乏性に満ち満ちた思考を巡らせていると。
「……あ、通知来てる」 スマホの画面に浮かぶのは、授業終わり少し前のメッセージ受信を示す赤数字。たん、と指先で叩いてみれば、“彼らしい”丁寧な口調のメッセージが目に入った。 『今日の練習予定を変更して、15時前くらいに学園を出発しようと思います。問題はありませんか?』 そういえば、京都の方は明日の朝から土砂降りになるという話だったか。彼の意図を汲み……その上で、こちらからも少し“お願い”をしてみることに。 『了解です、問題ないです! ただ傘を忘れてしまったので、持ってきていただけると有難いです!』 『了解しました。昇降口でいいですね?』 『はい、お願いします!』 本当は、自分のミスのために駆り出させるのは申し訳ないけれど。まあトレーナーのことだ、ここでテンション下がって調子を狂わせる方が怒るだろう。だからこれは互いにとって最善手なのだ、きっと。 昇降口に向かい、2本の傘を持って佇む男性の姿を認める。白い一本は開き、黒い一本は閉じて。よく整った相貌でにこやかに微笑む様は、周囲の生徒の幾らかに黄色い悲鳴を上げさせていた。 「お待たせしました、では向かいましょうか」 「あ、荷物まとめてあるのですぐ済みます! トレーナー室で待っていてください!」 「ええ、お待ちしています。慌てないように、少しなら待てますので」 明日に出発する予定で荷物は揃えている、そんな私の性分を彼も把握している。大方の予定通り15時頃には駅へ辿り着き、そこから新幹線へ乗り換えるまでに1時間も掛からなかった。
「しかし雨強いですね……これからもっと強くなるんですよね?」
「下手をすれば運行が止まりかねないと。そうでなくとも土砂降りの中を歩きたくはないでしょう?」 「いやはや全くもってその通りで」 すっかり乗り慣れた関西地方への路線、今までと違うのは車窓からの景色が雨で白く濁っている程度。激しく窓を打ち付ける水滴は、学園にいた時よりも勢いが増していることを如実に示している。 「緊張していますか?」 「……はい。この機を逃してしまったら、二度と皆には敵わないんじゃないかって、そんなことを考えてしまう程度には」 いつもの私なら、「いいえとは言えないですね!」なんて周りくどい返答をするんだろうけれど。流石に、今はちょっとそんな気になれない。声の震えを聞き取ったのか、彼も持って回ったような返答は続けなかった。 「……天皇賞・春。4月下旬開催、春シニア路線2戦目。そして、日本における最長距離のGⅠレース」 「内的有利なこの舞台で、珍しく1枠2番を得られました」 復習、と呼ぶには余りに単純な情報を復唱する。それはきっと、互いが互いを落ち着かせるためか。それとも、その矛先は自分自身か。 「ミラージュさんはGⅡ、GⅢの最長レースを共に勝利して勢いも万全」 「最有力ライバルの3人は、大阪杯2000mからの出走」 「決して油断は出来ませんが、長距離は貴女の得意分野ですから」 「前走勝ってるのが菊も取ったヘルツちゃんなのが、少し怖いですけどね」 客観的な事実と、主観的な心情。溜め込み過ぎることは良くない、溜め込むのは末脚だけでいい。 「それでも距離変動を考慮すれば、分は私にあります」 「そして、この雨。良くて重バ場……まあ不良バ場でしょう」 「だったらパワー勝負に持ち込めば、勝算はなお上がるかな」 ……事実を並べれば並べるほどに、私にとって好都合な条件が揃っていることを実感する。それは喜ぶべきことなのだろう。故にこそ…… 「……怖いですか?」 「怖いです、本当に」 これだけ天運が巡ってなお、私が負けると言うのなら。それは言い訳のしようもない、単純な実力不足に他ならない。そして、私の弱い心はその可能性に目を奪われて、離れてくれない。
「大丈夫」
膝の上で握り締めた小さな手に、少し硬い掌が乗せられる。力を込めることはなく、ただ包み込むように。 「“お前”はここまでよくやってきている、トレーナーの“俺”が言うんだから間違いない」 「…………」 「まあ、お前が俺の言動を信じられないなら別だが……そんなことはないだろう?」 「……当然」 左手を彼の手から抜き、その甲に重ねる。気付けば互いの顔から笑顔は消えていたけれど、これが私達の平常心。 「今日は現地入りして寝る。明日はホテルから一歩も出ず、レースを眺めながらコンディションを整えて寝る。そうすれば……あとは明後日の話だ」 「……だから、今は。くよくよ悩んだりせず、リラックスするのが何よりのトレーニング“ですね”!」 「“ええ”、その意気“です”。とにかく今は、雨に気を取られないように。低気圧も不調の原因ですから」 そんなやり取りをしていると、無事定刻通りに到着した京都駅。そこからローカル線に乗り継いで、予約していた宿へと向かうことに。 「しかしこのタイミングでよく延長できましたね……普通ごった返してるものじゃないです? GⅠレースの直前ですよ?」 快速列車の中で、ぼんやり思っていたことを尋ねてみる。当初の予定であれば土曜に入って1泊2日、その予定を前倒ししたのにあっさりと宿が取れてしまったと言う話を聞いて驚いた覚えがある。 「幸運だと思いましょう、逆より余程マシです」 「まあそうですけどねー……」 いつも通り、トレーナーさんの部屋と私の部屋は隣り合わせ。とは言っても寝る時以外は彼の部屋でレースを眺めたり駄弁ったりするから、本当に寝るための場所。ツイン部屋に出来れば安上がりだし楽なんだけど……まあ、どこに誰の目があるとも知れないしね。一応は有名人な訳だし、それが男女でって状況の重みを考えればケチってられない。
そうして夜は更け。昇ったはずの太陽を見ることは叶わぬまま、時は無情にも過ぎ去っていく。テレビ越しに眺めた京都レース場は、予想以上に水気を吸って泥濘んでいるのが見て取れた。劣悪を極めた芝は経験の多寡を問わず、出走者を苦しませているように見える。
状況を見ながら作戦会議。この荒れ方ならどこを抜けるのがいいかとか、色々と意見を交わした。何気に前日入りでは過ごせない、充実した時間の使い方だったと思う。 そうして、最後は心と体を休めるために眠りへ就く。意識が沈んで再び浮かび上がれば、いよいよ後には引けぬ決戦の時。1年近くに渡る彼女達(ともだち)への憧れと劣等感に、果たして終止符を打つことは叶うのか。
──雨の音が、耳にへばりついたまま離れなかった。
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第13話:天皇賞・春、そして (天皇賞・春編)
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雨の音が、耳朶を打つ。前評判通りの集中豪雨、曰く数年に一度レベルの降水量。北緯34度54分、東経135度43分。子午線に幾許か近い京都レース場は、田圃という表現が凡そ過剰では無い程に濡れ、泥濘み、不良バ場の様相を呈していた。
灰色の上衣、黒色の下衣。久々に纏った装束は、やはり私の体躯と精神を適度な緊張感で締め上げてくれる。相も変わらず色彩という概念を忘れ果てた勝負服に、普段ならば自嘲めいた苦笑が溢れるところではあるが……今日は、そういう気分にならなかった。 「……勝ってこい、見守っておいてやる」 「……当然」 ホテルのエントランスホール、道路を走る車内、控え室に向かう道中。彼と……トレーナーとは何度も言葉を交わした。雨の音に何度か遮られた声は、しかし互いの心中に届いて。ならば、彼との対話は今更不要。ただ一言だけを置いて、地下バ道を一歩ずつ進んでいく。 「……わぁ! ミラージュちゃん! 久しぶり!」 「久しぶりだね、ヘルツちゃん。スクエアちゃんにミツバちゃんも、ちゃんと辿り着けたみたいで良かった」 絢爛なる紅い勝負服、静謐たる蒼い勝負服、喧騒たる黄の勝負服。今日のレースでも当然の如く1-2-3番人気に選ばれた、世代最強の3人の姿が見えた。 「先入りしたって聞いた時は頭いいなーって。こっちは6人ともべっしゃべしゃだったよー」 「雨に濡れたトレーナー様も魅力的だったけど、見惚れるのは後って決めたから」 「それは本当にお疲れ様、だからって調子落ちてるとか期待しちゃ……ダメだよね?」 「絶好調! 大阪杯も勝った! 今日も勝って宝塚記念も勝って、初の春三冠!」 三者三様の反応。力なく肩を竦める者、うっとりと宙を見つめる者、威勢よく声を張り上げる者。しかし何れも、今日この舞台で勝ちを捥ぎ取るという決意に揺らぎはない。 少しずつ、声から熱が引いていく。白く優しい私は既に姿を消し、黒く醜い私が少しずつ顔を覗かせる。そこに無理矢理ペンキをぶち撒けて、一時ばかりの灰色を保つ。能ある鷹は爪を隠せ、能なき鷹は爪の無きを隠せ。少しでも、勝ちの目を拾いたいと言うのなら。 「とんでもない悪天になっちゃったけど……一緒に頑張ろうね!」 ……先行の3人と、追込の私。決して『一緒に』並び走る事はない。最後に差し切れるか届かないか、私が考えたのは唯その一点のみであった。
【大雨に見舞われた京都レース場、バ場状態は不良の発表となりました】
テレビモニタ越し、或いは観客席越しに眺めて知ってはいたけれど。今日のターフは、想像を絶する程に緩み切った感触を伝えてくる。端的に言って、脚が沈む。蹄鉄で抉られた芝の跡には雨水が溜まり、とんだハザードエリアとなっていた。
チラリとゲート越しに眺めてみれば、外側よりも内側の方が被害は小さいか。序盤を緩やかに走れば、インに潜りながら最後方に付くのはそれほど難しくなさそうに見える。出走ウマ娘がコースに姿を見せても、湧き上がる歓声の一部は雨に吸われ籠もっていた。 「…………」 雨滴が瞳に落ちるを嫌ったか、猫背めいて顔を下に向けているウマ娘が見える。雨避けにさえならないゲートへ閉じ込められる気分は如何なものか。まあ、私は此処がそれほど嫌いじゃない。出走直前の静かな空間、私だけが存在を許される狭小な世界。1枠2番、正面から見てかなり右側に位置する空間に、少しばかり違和感を持たずには居られなかったけれど。
【唯一無二、一帖の盾を懸けた熱き戦い! 最長距離GⅠ・天皇賞(春)!】
……よく通る実況の声を聴きながら、瞼を閉じてこの1年間を思い返す。
【虎視眈々と上位を狙っています、3番人気は8番ミツバエリンジウム】
……中山の地では、彼女達の影すら踏めないままにレースを終えた。
【2番人気を紹介しましょう、14番ガーネットスクエア】
……府中の地では、同じコースに立つことさえ叶わず、伝説の誕生を眺めるだけとなった。
【威風堂々とスタートを待つのはこのウマ娘。13番ヘルツマタドール、1番人気です】
……淀の地では、終ぞ誰一人の手も届かぬと思われていた3人に、僅かな一矢を突き立てた。
【火花散らすデッドヒートに期待しましょう】
……有馬記念に大阪杯。華々しき舞台で戦う少女達の裏で、3度の重賞制覇を納め、再びこの地に戻ってきた。
【各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました】
目を開く。拳を軽く握り、前を向き。足元が悪かろうが関係ない、むしろ他の全員同条件なら好都合。勝てばいい、勝てば。それだけで、全てが決まるのなら。 ただ懸けて、掛けて架けて駆けろ──
【今スタートが切られました!】
──私が、認められる為に……
【大雨の中始まったレースですが、やはりスローペースでの進行となりました】
一歩踏み込みを誤れば、盛大に足を取られそうなほど硬さを失ったターフの感触。このコンディションで初っ端から全力を出そうものなら、ロスどころではなくスタミナを根こそぎ失うのは想像に難くない。
まして此処は京都レース場。3000m右回りより猶予があると言っても、第3コーナー淀の坂を2度越えないといけない前提は変わらず。
【先頭を進むのはサックスアリカベ、1バ身後ろにヘルツマタドール。この展開はどうでしょう】
【ややフォームが崩れ気味でしょうか、冷静さを取り戻せるといいのですが】
先頭から殿まで15バ身弱、1000m通過タイムは1分6秒。例年が1分前後であることを思えば、前に後ろに団子状態の混戦なのが誰の目にも分かる。顔を前へ。縦長の展開ならば隙間を縫って差し切るルートを検討するところだが、こうも詰まっていると道筋が見えて来ない。壁のように聳え立つ前方の圧迫感、僅かな油断も許さない脚元の不安感。
今は何より掛からないこと、その一点だけを意識する。踏み外すな、呼吸を違えるな、距離を測り損ねるな。土砂降りの水面を、それでも鏡に保つことを考えて。降り注ぐ雨が体温を奪うなら、それ以上に熱を持って走り続けろ。然も無くば……負けは必定。
【さあ1周目のホームストレッチ、先行集団に比べて後方は既に崩れているか!】
【ただでさえ不良なバ場を荒らされてしまっては、不利は避けられない状態でしょう】
泥濘に足を差し込めば型が残り、水溜りを踏み付ければ波と飛沫が立つ。当初から崩れ切っていたターフは、むしろ雨に降られて均一に緩んでいたけれど……先を行くウマ娘がインを突けば、その煽りを喰らうのは当然私達。感情の発露より、肉体の疲労反応によって表情筋が歪む。やや横に広がり始めた壁の向こう側、見慣れた3色が足を溜めているのが見える。
先頭を進むサックスアリカベには心底同情する、今日のレースで逃げを打ったのは彼女だけだから。自信があったのかそれしか出来ないのか、今更そこは如何でもいい。相対的に最も綺麗なルートを走れる優位性と、後ろから圧倒的なプレッシャーを叩き付けられる劣位性。風雨避けに使われていることを自覚した瞬間、彼女の心は折れるだろう。
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一層激しさを増す雨脚、ざあざあと鳴り響くのは周波数を忘れた白色雑音。目算12バ身ほどに縮んだバ群を眺めつつ、スタート地点まで一周を戻ってくる。ここからもう一度、今度はより荒らされ切った悪路を進みながら坂を登り……下って、決着。一瞬の間に、そのレース展開を脳内で組み上げて。
「……無理だ、勝てない」 思わず口から零れ落ちたのは、事実上の敗北宣言。これほど足の踏み場もない芝……むしろ土の上で、自慢の末脚が機能するとは到底思えない。そして武器が封じられた状態で勝てるほど、このレースも対戦相手も甘いはずがない。つまるところ、このまま走り続けても、1着に至ることは、絶対に不可能だった。 「……ふぅ」 首を振って一呼吸。思い返すのは、今までの戦績。中山2000mは負けたが、中山3600mは勝った。東京2400mは負けたが、東京3400mは勝った。私が圧倒的にステイヤー気質なのは、トレーナーの方針も相俟って誰の目に見ても明らかとなっていた。 ……だったら、私が取るべき方法はただ一つ。律儀に3200mを走って負けるくらいなら、より安直な解決策がある。淀の坂を今一度踏み越え、あの日のように決意を固めて脚を伸ばせ……!
【さあ第4コーナーに入った! 前を行くのは13番、14番そして8番! 先行集団は既に崩れた、ハナを争う3人の姿!】
【どれだけ天候が崩れようと、この3人を止めることは出来ないのか! この10バ身差は余りにも大きいぞ!】
教材のように綺麗なコーナリングで最内に寄った3人。前を行くヘルツマタドールに追従するガーネットスクエアと、ややバテ気味ながら喰らい付いていくミツバエリンジウム。スタミナを失った逃げも差し切りを狙う後方も、その加速には追いつけない。じわじわと差が開いていく。その様子を眺めながら私もコーナーに入り……
滝のように白く濁った視界の中を、「2歩だけ」余分に膨らんで、最終直線に入っていった。
【ここで上がってきたのはカラレスミラージュ! まさかその位置から間に合うというのか残り400m!】
簡単な話。内側が使い物にならないコースなら、多少ロスしてでも外側を走った方がいい。1周目でさほど踏まれることなく、一層激しくなった豪雨に打ち削られた泥は……幾らか原型を取り戻した! だったら、内側の不利を背負うことになるのはお前達だけ!
当然、あまりに膨らみ過ぎればその分の時間差で負ける以上、許容される追加距離はごく僅か。一瞬でも右脚が滑った瞬間、内ラチに突っ込んだ私の全身は、後方の面々に踏み壊されることだろう。けれど……どっちみちそれは負け、だったら死ぬ死なないの話でしかない! ミスったなら潔く壊れてしまえ! 外に出過ぎれば詰み、内で抜け切れなくても詰み! 3200mで勝つのを諦めて、3201mで勝つことを選んだ以上はそのリスクも織り込み済み! まだ足が馴染む泥に体重を乗せて、ただ前へ突き進め!
【残り100m、なんと3バ身差まで迫ってきた! ミツバエリンジウムは4番手に、ここで順位が入れ替わるとは!】
【前の粘り勝ちか、後ろの執念か! これはどうなることでしょうか!】
急げ、急げ! ずぶ濡れの視界は既にぼやけ切って何も見えない、体のバランスも把握出来ず倒れてないことを辛うじて認識できるだけ! 心臓は脈打って肺は破裂寸前……だけど!
【残り30、まさか本当に差し切るのかッ!】
……青を置き去りにして。黄色を切り捨てて。最後に映ったのは茫洋とした赤色。少しずつ少しずつ、靄の奥から手前に寄っていく。懸命に足掻く彼女、縋り付く私。ああ、どうか、どうか……「お願いします」と祈った声が天に通じたのか。
最後の一瞬、視界に入っていた赤色がふらりと蹌めき。色を喪った世界で、ただ脚を止めなかった私が……
【今ゴールイン! これはカラレスミラージュか! ついに同世代のライバル達を差し切り、栄光の春の盾を……えっ──!?】
ゴールの声と同時に力が抜ける。今すぐ倒れ伏したい気持ちを必死に堪え、速度を落としてゆったり走る。雨に濡れた視界の奥。私の番号が刻まれた掲示板に胸を綻ばせようと。乱雑に腕で目元を拭い、顔を上げた私の意識に飛び込んできたのは。
「────え?」 2番、14番、13番、8番、6番。着順を示す数字の右上に浮かび上がった、█色の背景に█で記された██の█文字で────
【今ゴールイン! これはカラレスミラージュか!】
正直、そこで差し切られるとは思ってなかった。一瞬だけ脚に違和感はあったけど、あの刹那だけならば堪え切れるって思ってたから。それが叶わなかったあたり、去年の夢……日本ダービーでの大逃げは、私の肉体に相応のダメージを残していたらしい。
それにしても。あのまま後方に着けられたなら逃げ切れていたと考えると、横から追い上げられたのは大分驚かされた。確かに合理的だ、私も真似していれば或いは勝てていたかも、なんて──レースにIFは存在しないけど、そんな「もしも」を連想してしまった。
【ついに同世代のライバル達を差し切り、栄光の春の盾を……えっ──!?】
響き渡る歓声と、親愛なる友を讃える実況に、負けておきながら少し暖かいものを感じていたところ──耳を貫いた不穏な声。気付けばすぐ隣まで駆け寄ってきたヘルツとミツバの姿を認め、見上げた先に映っていたのは。
「審議…………?」 上からミラージュ、私、ヘルツと続く掲示板の右上、青地に白文字で書かれた無慈悲な2文字。新たな勝者の誕生を祝う熱狂は一瞬で掻き消され、雨音に呑み込まれる程度の残響しか残っていなかった。
【お知らせします。只今のレース、2番カラレスミラージュによる、14番ガーネットスクエアへの妨害行為が発生した可能性があるため、状況を確認しております】
【繰り返します。只今のレース──】
──嘘、でしょ? 審議対象、私とミラージュ? ということは、もしかして、私がまだ1着に返り咲ける可能性があるということで……
「……ざッけんなバカ私ッ……!」 「スクエア!?」 「落ち着きなさいスクエア! 急に自分を叩いてどうしたのッ!」 醜い思考を咎めるが如く、全力で自分の額を殴ってしまった私。頭蓋骨の裏にジンジンとした痛みが響き渡り、それに併せて右脚が熱を持ち始めたのが分かる。左膝を軽く曲げて、少しでも負担が和らぐように。それでも自分の思考に嫌気が差した私は、頭部を握り締める手の力を緩めることが出来なかった。
……状況を思い出せ。基本的に私は前方を走っていた、対する彼女は最後方。私達が並んだタイミングと言ったら、最終直線もゴール直前、残り100m以内の区間に過ぎない。その間に彼女が妨害を仕掛けてきたなんて心当たりは一切ない。あったならば当然、私が気付く筈。
【ただいま検証を進めております、もう暫くお待ち下さい】
【繰り返します──】
「……雨が酷いわ。風邪を引かない内に移動しない?」
「もうこの雨に降られるの嫌! というか何なのさ、審議!」
状況を厭う2人の声、しかしその脚は一歩も動こうという意志を見せず。2人だけじゃない、この場の全員が分かっているんだろう。沙汰が降りない限り、この場から動くことは叶わないと。それは当然、本当なら今すぐ喝采の下で讃えられるべき彼女も……ちょっと待って。
【ただいま検証を進めております、もう暫くお待ち下さい】
【繰り返します──】
妨害をしたのは彼女で、されたのは私。けれど私目線では心当たりが無い。だったら。
──一瞬だけ脚に違和感はあったけど、あの刹那だけならば堪え切れるって思ってたから。
あの一瞬、私は脚の違和感に襲われた。その瞬間、何が起こった? 今痛んでいる脚は右側、彼女が走っていたのは私の左側。もし彼女を交わそうとすれば、必然的に身体は右側に逃げる……
「……まさか」
じくり、じくり。熱が激しく脈動し、私の心と身体を苛み始める。熱いはずなのに震えが止まらず、呼吸が浅くなり始める。思わず片目を抑える、涙が溢れることはなかったけれど。
「……私の故障が、彼女の行為に依るものだと判断された?」 「ッ……」 「そんな!」 最悪の可能性が口から溢れ出す。そうだとすれば。私は仕方がない。怪我の原因自体はハッキリしている。無茶をして勝とうとして、届かなかったというだけの単純な話。だけど。 あまりの雨に判断を誤ったのか。私が勝手に負った怪我の責任を被せられ、せっかくの勝利を貶められるなど。彼女については、あまりに酷すぎる帰結じゃないか……! 「……ッ! 帰るなー! まだ結果は未発表ー!」 ヘルツが発した声も、呆気なく雨音に掻き消されて届かない。
……思い返してみれば、今日は観客の入りも少なかった、泊まった宿も妙に閑散としていた。無理もない、これほど危険な豪雨の中、わざわざ脚を運ぶ観客なんて相当に気合の入った人間だけだ。それがこんな審議に巻き込まれて待たされて、熱が消えたとしても文句は言えない。
……何だって、今日はこんなに不幸が続くのか。怪我を負った私はともかく。神は彼女を嫌っているとでも言うのか?
【審議の結果をお知らせします】
雨音の中でもよく通る実況アナウンス。胸の前で両手を組む代わりに、自分の頭を抑え付ける。どうか、然るべき回答を。この件における加害者は、彼女ではないのだから。
【本審議は、ゴール手前において2番カラレスミラージュが14番ガーネットスクエアの進路妨害を引き起こした可能性に伴う一時措置となりました】
【残り5m地点において、14番が2番を回避するように内側へと移動したのが根拠となります】 【しかしながら、14番と2番の間には十分な距離が開いており、本件を2番による進路妨害と見做すことは不可能であると結論付けました】
……淡々と伝えられる判定結果。その内容はつまり。
【従って、当初の結果通り2番カラレスミラージュを1着、14番ガーネットスクエアを2着とします】
伝えられた言葉は、彼女にとって……何より私にとって期待通りの内容。しかし、彼女の勝利を祝う熱狂は、豪雨と時間の経過で既に消え失せて。
「どうしてこんなことに……」
ミツバはあまりにか細い声で悲嘆を呟く。半年ぶりに競い合える舞台、彼女と仲の良いミツバにとっても楽しみなレースだったはずなのに。 「声が小さーい! もっと祝えーっ!」 観客相手に怒りを曝け出すヘルツ。直近のレースを勝っていることもあって、祝福と喝采の喜びを知っているからこそ。それを甘受することの叶わない彼女の状況に怒っているのか。 「…………」 そして、私は。ただ自分勝手な自己嫌悪の下、胸中で謝罪を重ねていた。彼女に非は一切ない、私もレースの結果には悔いがなかった。しかし、この状況を生んだのが、他ならぬ私だとすれば。
──ゆらり、と身体が動く。目の前に立ち尽くしていた彼女が、フラフラとした足取りで地下バ道に向かうのが見える。思わず声を掛けようとして……言葉が詰まった。だって、今の彼女の姿は……
「嘘だ……嘘、嘘…………」
レース中の、無駄を切り離し研ぎ澄まされた少女とも違う。何か根本的な物を根こそぎ失ってしまったような、削げ落ちてしまったような……
今にも壊れそうなほど空虚な器が、辛うじて自我を繋ぎ止めているような。そんな危うさしか感じられなかったから。 目元に降り落ちて、そのまま頬を伝う雨粒に。異なる意味を見出さずにはいられなかったから。
今日この日のウイニングライブ、そのペンライトの海があまりに淡く暗い輝きだったのを、私達はきっと生涯忘れられないだろう。
夜のネットニュースに載せられた、私の負傷休養決定の記事を見ながら……ただ、悔やまずにはいられなかった。 ……そして、翌日。失意のままにトレセン学園に戻った私達が出会ったのは。
「おっはよー! 昨日はお疲れ様、というかスクエアちゃん脚大丈夫!? 無理はしちゃダメだからね!?」
素っ頓狂な表情で私を心配しながら、しかし綻ぶような笑顔を浮かべる……黒髪の少女の姿が其処にあった。
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第14話:少女の絶叫 (█████編███)
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──端的に言えば、彼女はよく笑うようになった。
「スクエアちゃんのことは残念というか、お大事にしてくださいって感じですけどね」
土砂降りの雨が地面を叩き付ける、不快なコーラスの中でウイニングライブを終えた担当ウマ娘。3200m、最長距離のGⅠレースを終えた直後は疲労困憊に見えたが、翌日トレーナー室で合流した彼女は普段通り……否、「普段よりも」よく笑うようになっていた。 「まあ勝ちは勝ち、ここで沈んでいたら他の皆にも申し訳ないですので! 堂々のシニア級GⅠウマ娘、カラレスミラージュの誕生を喜んでくださいな!」 「……ああ」 「いやトレーナーさんめっちゃノリ悪いですね!? 初担当がGⅠ2勝ですよ、いやダービー有馬のスクエアちゃんとかに比べたら見劣りしますけど!」 土日と連休の谷間、1日だけ授業を受けた彼女を出迎えて、その矢先のやり取り。からからと、ころころと。目まぐるしく声音や表情を変えながら大仰なリアクションを見せる。これが人前であるならば、あまりにもウザったい担当の振る舞いに辟易するだけで済んだだろうに。 「すみません、私も昨日の雨で疲れていたのかもしれませんね。改めて優勝おめでとうございます、紛れもなく貴女は現役最強のステイヤーだ」 「……ええ! もはや長距離レースでは負ける気がしませ──」 「まあステイヤーズSを除けば2500m超えの重賞レースが無いんですけれども」 「──おのれURA! よくもこんな長距離軽視を!」 ……2人しか居ないこの空間で、殊更に声を張り上げる少女の姿が、余りにも痛々しく見えた。
「……『無理はしなくて良いんだぞ? どうせ此処を訪れる奴なんていないんだから』」
「いやー無理なんてそんなそんな! 念願のGⅠ勝利、しかもジュニア級の時とは違って格上のライバルを破っての勝利なんですから! ちょっとくらいテンション狂うのは大目に見てください!」 「……そうか」 これ以上は藪蛇と判断し、目線をモニタに移す。荒天の京都レース場で勝利を収めた彼女の栄光は……しかし、他ならぬその荒天によって幾らか洗い流されてしまっていた。 序盤こそ鈍重なラップタイムを刻んでいたレース展開であるが、後半から前に出た先行集団と最後方から追い上げを図った後方集団が、この大一番で今更理性的なブレーキを掛けられる筈もなく。不良バ場で全力を尽くした結果、全出走者の4割近い7人が何らかの怪我を負った。 中でも前年のクラシック代表ウマ娘に至っては、最後の一瞬まで先頭争いを競り続けた果てに右脚を骨折。11戦7勝、脚を折ってなお連対を外さない圧倒的な実力に期待する民衆が多かっただけに、彼女の休養発表が大いに嘆かれたことは記憶に新しかった。 「やっぱり、スクエアちゃんは人気者ですから。皆が望む通り復帰してくれたら、私も嬉しいですよ」 それだけ言い放つと、椅子に掛けていた鞄を手に取る。元々明日からは連休だ、レースの疲れと時期を考慮して休養期間に充てるつもりではあったが…… 「折角の休日、エンジョイさせてもらいますね! しばらくは顔を出せませんが、どうぞお土産をご期待ください!」 ゆるゆると手を振って、トレーナー室から飛び出していく。あの畜生バ場で1着を取っておいて後を引くような疲労が見えないのも恐ろしい話だが、それ以上に。 「お土産をご期待ください、ね……」 手元の資料を片付けながら、1人呟く。その脳裏に過るのは、どうしても不可解だった彼女の振る舞いと、何よりも。
「お前が外泊届を出していないこと、担当トレーナーが知らないとでも思ったのか……?」
薄暗い夜道。人々の営みは鳴りを顰め、ただ纏わりつく静寂だけが一帯を支配する。着慣れた練習着の、荒れ果てた感触が肌を撫でた。
硬い山肌に荒々しく足裏を叩き付ければ、泥濘み切った土の不快な感触を忘れられる。汗が流れるほどに暑く肉体を火照らせれば、体温を奪っていく雨粒の冷たさを忘れられる。 張り裂けんばかりに脈を打つ心臓と、止まることなく駆け続けて呼吸の仕方を忘れた肺の痛みは、膿んでしまった心の痛みを忘れさせてくれる。甲高く鳴り響いた耳鳴りは、いつかの沈黙を忘れさせてくれる。そして──
──白く霞む視界と、靄が掛かったように朦朧とした意識だけが、あの日の記憶を忘れさせてくれる。
「……本当に来ねえな」
担当が休日を謳歌していようと、トレーナーの仕事は変わらない。脅威になりそうな相手の調査などはまだ楽しいが、煩雑なデスクワークに鬱陶しい会議にと雑務を投げられるのは面倒この上ない。しかし給料の一部はそれで貰っているわけだから、金銭相応くらいの働きはしてやるが…… ……コンコンっ。 「ん……? はいどうぞ、お入りください」 唐突に聞こえたノック音。一瞬だけ虚を突かれたが、すぐに気を取り直して入室を促す。このタイミングは駿川秘書かと思ったが、彼女ならば入室前に要件を告げるはずだ。なら一体誰が、その疑問はドアから覗いた顔によって霧散した。 「どうも、失礼しますー。突然すみませんー」 「ガーネットスクエアさんでしたか。少々お待ちください」 器用に松葉杖を突いて入室する赤髪の少女。脚を覆うギプスに目が行くが、彼女はそんな視線も意に介さずのんびりと椅子に座る。地面に脚が付かないよう、幾らか厚めのクッションを椅子に乗せておいて正解だったか。 「ここ3日くらい、ずっと取材が忙しくてですねー、やっと解放されまして」 「それはそれは、お疲れ様です。大変だったでしょう」 ……取材、か。そう言えば俺達はほとんど受けていなかったな。 「暇が出来たのでミラージュに会えるかなーって思ったんですけど、当てが外れてしまいましたねー。まあアポ取ってない私も私なんですけど」 「彼女に? どうしてまた……」 同世代のライバルにして友人関係。彼女と担当の関係がそれなりに親密であることは把握している。しかしこの休日に、いるかどうかも分からない相手へ会いに来るほどの間柄であったのか、その部分がとんと腑に落ちなかった。 「……何を言っているんだって笑ってくれて構いません。ただ、ミラージュがどうしても心配で。このまま行ったら、ポッキリ折れてしまうんじゃないかって」 「……詳しく、聞かせていただいても?」 笑ってくれて、とは言うが、その悲壮な面持ちにそんな気が起きるはずもなく。話しやすいようにホットミルクでも注ぎながら、話を聞いてみることにした。
そうして、彼女から語られたのは……ゴール直後の顛末。審議の表示を見ながら指一本動かすこともなく、ただ呆然と何かを呟き続けた少女の姿。レース中の怜悧な闘志とは違う、あまりにも小さく見えた後ろ姿。そして何より……
「彼女、ライブ中はしっかり笑顔でした。動きは精彩を欠いていましたが。原因は疲労と心労かな、でも」 「あまりにも立ち直りが早すぎる、と」 小さく頷きカップに口を付ける少女。ころ、と眼窩の中で揺れる瞳に、彼女なりの懸案と厚情が見て取れた。 あの日のウイニングライブについては、審議騒動のせいで相当時間が押していたため、着順確定からさほど間を置かず強行されることとなった。そのせいでライブ前には顔を合わせることが敵わなかったが…… 少なくとも、会場から戻って来た彼女は普段通りの仮面を着けているように見えて。その時は気持ちの整理に一区切り付けられたのかと思ったが、ライブ前からその状況だったとすれば流石に話が変わってくる。 「あの子が、ミラージュがいい子なのは友達として知っています。それと……自己評価がすごく低いことも」 空になったカップを握り締める、少女の表情に浮かぶのは無念の感情か。 「合宿で私達に競り合った時も、菊花賞で3着まで入った時も。私達のお見舞いの時だって、ミツバと一緒に手を尽くしてくれたのも知ってます。なのに、ミラージュは『みんなはもっと凄いから』『このくらい当然だよ』なんて」 「スクエアさん……」 ……両手に、なおも力が籠もる。 「そして、極め付けは今回。私の怪我なんかに話題を掻っ攫われて……せっかく手にした栄冠にも泥を掛けられて! その原因は私なのに、会ってすぐ言うことが怪我の心配!? ふざけないでよッ!」 今まで見たこともない、彼女の悲痛な絶叫。窓ガラスがビリビリと身を震わせる。……ガーネットスクエア自身、カラレスミラージュの身を案じているからこそ、ここまで感情的になってしまうというのが伝わってくる。肩で息をしながら「騒いじゃってごめんなさい」と呟いた少女に、ただ問題ないと返すしか出来なかった。 「……嫌いになったとかじゃありません、むしろ好きなんです。だからこそ、その思いやりが取り返しの付かないところに行ってしまわないか心配で。昼なら話せるかなって思ったんですけど、ダメでしたね」
出すものを出して幾らかすっきりした様子の少女。飲みやすいよう冷や水を入れたカップを渡せば、熱くなって少し汗を浮かべた彼女は実に素晴らしい飲みっぷりを披露してくれた。
「全部率直に、とは言えませんが。それとなく伝えてみます。自分の行動で友達に心労を掛けるのは、彼女の本意でも無いでしょう。善意で心配していたのであれば尚のこと」 「ありがとうございます。明日からしばらく家族と過ごす予定だったので、今日しかチャンスがなかったんですよ。聞いてもらえてよかった」 くすり、と。真剣な表情で話を切り出した彼女の浮かべる、穏やかな微笑。それを見て、少なくとも彼女の内面はある程度落ち着いたであろうことが伝わってきた。 「ところでスクエアさん」 話に区切りが付いたところで。先ほどの会話に、どうしても気になる部分が一箇所。一通り落ち着いた今の彼女なら、さほど苦もなく話してくれるだろうと判断し、言葉を紡ぐ。 「『昼なら話せるかな』というのは? 貴女も彼女も同じ美浦寮の生徒です、であれば寮の中で、昨夜でも今夜でも話をすることは出来たのでは?」 先ほど見舞いの話にもあった通り、2人はそう遠くない場所で生活しているはず。機械越しの電話やメールでは心中を図れないとしても、ここまで出向かなくたって会話を交わす機会はあった筈だが。 そんな単純明快だったはずの疑問は──
「あれ、トレーナーさんの指示じゃないんですかー? 最近夕方くらいから門限ギリッギリまで、ジャージ着込んで外出してるの、トレーニングの一環だと思っていたんですけど……」
──彼女の言葉で、簡単に困惑へと姿を変えた。
何もかもが混濁した夢を見るようになったのは、あの日からだろうか。██レース場で一緒に走る█人のウマ娘、響き渡る骨が砕け散った音。1人が苦悶を顔に浮かべて失速する。倒れ伏す。
視界の片隅に消えていく被害者を見ながら、いつも真っ先にゴール板を踏み抜くのは私。本能は正直だ、理性の制止を振り切って無駄に後ろを振り向く。そうして、地面に這いつくばった少女の無惨な姿を見る。 肌を刺す陽光が駿雨へと変転する。そうして歓声が沈黙に変わった瞬間、必ず目を覚ます。どうやら濡れていたのは身体の方だった。絞れそうなほど寝汗を吸ったパジャマを乱雑に脱ぎ捨て、正午を通り越した時計を眺める。最低限のカロリーだけを摂取して、鏡の前で笑顔を作り部屋を出る。 奥まった山道をひたすら駆けずり回る。持って来た水は高々ボトル一本、これで夜まで走れと言われても普通は無理だ。……気絶しそうになった瞬間の気付けになれば、それで十分。下手に思考のリソースを残していては、精神をすり減らすだけだから。 無駄に体温を放出する肉体は、周りの空気すら湿らせて。気分で掛けた伊達眼鏡も容易く曇る。酸欠が頭痛と立ち眩みを誘発し、その場に立っていられなくなるまで走って、腰を下ろす。症状が落ち着けば再開、その繰り返し。この間だけは何も考えなくて済むから。 こうして門限が近付けば寮に戻り、シャワーで軽く汗を流して泥のように眠りへ沈む。疲れ果てた肉体は休息を求めるが、疲労から解放された脳は悪夢を想起し、結果たっぷり半日以上の上映会を経て目を覚ます。その繰り返し。 皮肉なことに、朦朧となれる時間が短くなってきた。今更スタミナが付いてきたと言うのか。だったらと無理をしたのがいけなかった。脳の赤信号を無視し続けた結果、山道に倒れ伏して動けなくなった。白く霞むだけじゃない、青に黄色に黒にチカチカと明滅する視界。胃が痙攣しているのに、水分が足りないから吐くことも出来ない。苦しい。苦しい。苦しい──
──でも、もういいか。
あまりに苦し過ぎるからか、一周回って意識が澄んできた。頬に触れる土の冷たさが心地良い。このまま目を閉じれば、今日だけは悪夢を見ないで済む気がする。そうすれば、こんな自傷行為に時間を割く必要もなくなる。そうすれば、こんな私の、何もかもが──
「無理はいけませんよ、とりあえずこちらに」
「──えっ……」
ああ、とうとう走マ灯でも見始めたか。何時かの夜をなぞる様に、目の前の男性に腕を引かれ……そのまま担ぎ上げられる。横抱きの姿勢から道の外れに横たえられ、口に被せてきたのは湿ったハンカチ。塩味と甘味の混じった空気を吸っていると、少しずつ視界が落ち着いてきた。
「トレーナー……?」 「……こんなところで、何をしているんですか? カラレスミラージュさん」 担がれた拍子にずれた眼鏡を整えながら、眼前の彼へと向き直る。死に際の幻覚だと思っていた相手が、しかし確かに存在する。その事実に思い至った瞬間、一気に止まっていた汗が吹き出した。この状況が拙いことは、私にだって分かる。分かってしまう。 「……ちょ、ちょっと気分転換にですね! 軽く走ろうかなと思いまして!」 「こんな山奥で、空が青いうちから日が沈んでもなお走り続けることを軽くと言うのですね」 「…………」 穏やかな微笑みに反して、目が全く笑っていない。 「……いやーその場のテンションってヤバいですね! こんなに長いこと走れるなんて思いませんでした!」 「昨日も一昨日も、変わらず同じ時間に出発して帰ってきたと聞いていますが」 「…………」 ああ言えばこう言う、とは聞き分けのない相手に使う言葉だが。先に口火を切っていても、「こう言って」いるのは私の方だと気付かされる。 「……というかよくトレーナーさんも見つけられましたね! ここ走るって教えた覚え──」 「──カラレス、ミラージュ」 私の声を切り捨て、言葉を被せられる。……完全に、怒っている声。当然か。トレーニングと呼ぶことすら愚かしい無茶な負荷を課して、それで倒れて苦しんで。せっかく見つけた相手はなんの意味もない言い訳ばかり。ああ、これは愛想を尽かされた。良かった。そう思っていたのに。 「……俺が、悪かった。いつもそうだ、お前が苦しんでいる時に気付いてやれなかった。踏み込めなかった。その結果がこれだ。……すまなかった」 そう言いながら、汗と泥で汚れた私を……ぎゅっと。力強く、それでいて大切そうに抱き締める。彼の白く綺麗なシャツがどんどん薄汚れていく。土に塗れて、汗を吸って。 それより。どうして彼は謝っているの? 誰に、私に? どうして? 悪かった? 何が? だって。だってだってだって……
「違う」
「……ミラージュ?」 「違う、違う違う……! 悪いのは、悪いのは私……わた、私、なのにぃ……! なんで、なんでなんで貴方がなんでぇ……!」 ……『何故、貴方が謝るの』。その一言を告げようとしても、口から零れ落ちるのは汚らしい嗚咽だけ。今までずっと立て掛けてきた、ハリボテの虚像を突き破って、火照った肌にそれ以上の熱が流れる。涙で頬を濡らす資格なんて、私には無いはずなのに。彼の謝罪が、決壊寸前で耐えてきたダムに風穴を開けてしまって。 地べたに座りながら、みっともなく天を見上げて泣きじゃくる私を、彼はただ黙って抱き締めて。その背中を、ゆっくりと撫で続けていた。
「結局、最初から分不相応で中途半端だったんですよ」
泣き疲れて頭がくらくらするけど、その分だけ思考はクリアになった。ただ本心を……思いの丈を丸裸にするには、まだ少しだけ整理が追い付いていなくて。彼に対して無意味なのを承知で、それでも私は仮面を被る。 「無駄に高い背も、大きな胸も。これで活発なスポーツ少女なら良かったんでしょうけど、当の私は根暗でじめっとした陰気な小娘でした」 「トレーナーさんは知らないと思うんですけど、学園に来るまでは髪長かったんですよ? それこそ腰まで垂らして、両目が隠れてしまうくらい。猫背だったりもしましたかね」 「……いじめなんて、ありませんでした。腐ってもウマ娘、それも図体はそれなりにある。誰だって、怪我するのは嫌でしょうから。ただ、友達と言えるような相手はいませんでしたけど」 結局のところ、私が彼に続けてきた不誠実の一端は、私の素性を明かさなかった所だろう。初対面から互いに騙し合い化かし合いの私達だったけれど、それでも彼はまだ誠実だった。今の私は、いくら泣きじゃくるのを防ぐためとはいえ、結局本心で彼と向かい合えていないのだから。 「……居ても居なくても変わらない存在、それが私でした。だから、お父さんとお母さんに協力してもらって、ちょっとだけ『努力』しました──他者の輪に入るため、自分を偽る努力を」 ……社交辞令という言葉がある通り、皆が皆、本心を相手に向けているなんて思ってない。けれど、本当の自分を隠すために180度捻じ曲げた振る舞いをしている存在なんて……他にいるだろうか? そんなことをする必要、普通なら無いはずなのに。
「その意味で、スクエアちゃん達は本当に眩しかったんです。互いが互いを見て、互いに互いを信じて」
「何百人、何千人ものウマ娘がトゥインクルシリーズに挑む中、たった3人で頂点を目指そうなんて無茶な夢を掲げて……それを成し遂げてしまったのが」 「……そんな偉業を果たした彼女達に対して、私の存在はあまりにも不釣り合いだと。その思いが切り離せませんでした」 自分を隠してクラスメイトに溶け込むのは、それほど抵抗が無かったはずなのに。彼女達との交流は、どこか後ろめたいような、申し訳ないような気持ちが常に尾を引いていた。何度、胸の中で「私」と「彼女達」の間に線を引いていたか。 「皐月賞。日本ダービー。菊花賞。クラシック戦線では勝てなかったですけれど。彼女達と走るGⅠレースで勝利を掴み取れば、もしかしたら並び立てるかもしれない、なんて幻想を抱いて」 私ごとき、完成された幼馴染の硬い友情に潜り込むには場違いが過ぎる。それは私の内心だけじゃなくて、レースの度に掲示されてきた人気を見ても一目瞭然だった。 それでも、初めてこんなに仲良くなれて、一緒に競い合えた仲だったから。もっと近付きたいと、相応しい存在になりたいと思った。人々の目を引くような、真っ先に応援してもらえるようなウマ娘になりたいと思った。
……なれるかもしれないと、思い上がってしまった。
「その勘違いが、あの悲劇を生みました」
迫り来る後方集団の中で、1人だけ抜け出して先頭に至った少女。決して抜かれまいと、足元の悪いあの舞台で押し切ろうとした少女。そうしてぶつかり合った4人の勝負、勝ちを収めたのは私だった、けれど。
「……結局、誰も私のことなんて興味なかったんですよ」 負傷の報告に寄せられた心配の言葉、休養の発表に寄せられた安堵と失望の声。だって相手は前年の年度代表ウマ娘だ、皆の期待を背負って応援されていたのだから当然のこと。でも。 「私もGⅠウマ娘でしたけれど、あの時こんなに心配してもらえたでしょうか?」 ミツバちゃんが勝ちを収めた皐月賞、その7着でひっそり休養に入った私。 春天という舞台で勝ちをもぎ取った私と、その2着で休養を決めたスクエアちゃん。 前提が違い過ぎるから比較する意味もないけれど……話題に「ならなかった」のは、どちらも私の方だった。
「それで解ってしまいました、ほとんどの人は私なんかに興味が無いんだって。もっと燦然と輝いている、彼女達の栄光を眺めていられればそれでよかったんだって」
……私は、結局のところ脇役に過ぎないと。それを理解出来ただけならば、単に諦めも付いたかもしれないのに。 「でも。だったら……『彼女の脚を折らせてまで掴み取った、この勝利の意味は?』」 私が評価されないだけなら、私だけの責任と理解できる。なのに、実際は私の存在が、余分な被害者を出した。 「……ここ毎日、悪夢を見るたび思うんですよ」 だから。そんな私に這い寄る悔恨は。 「私がもっと弱かったなら、今頃彼女は『骨折と引き換えに勝利を勝ち取った覚悟のウマ娘』だなんて持て囃されてたんじゃないかって」 「私がもっと強かったなら、『私じゃ勝てない』なんてふうに気持ちが緩んで、脚を折るほどの抵抗を見せなかったんじゃないかって」 結局のところ、たった一つしかない。
「私が……私でさえ無ければ。全てがもっと善い方向に進んでいたんじゃないかって」
ぽつり、ぽつりと。山道にシミを作り始めた水滴は、そう時間を置くこともなく本降りに変わる。地面に座り込んだ私と、頭上から私を見下ろすトレーナー。2人の身体を、分け隔てなく大量の雨が叩き付けた。あの日を再現するように体温を奪っていく奔流、違うのはトレーナーも瞬く間に濡れていくことだけ。
「……意味なんて無いのは、分かってる。でも、走っている間だけは……苦しんでいる間だけは、全部忘れられたから」 「誰の目にも入らず、ただ一人で、自分を痛め付けていれば、それでいいって」 そこまで言って、顔を上げる。ずっと地面を見つめていた私が、初めて彼の顔を見る。互いに濡れたレンズを外し、交錯した視線は……怒り混じりの、無表情だった。 「……失望して、いい。貴方の担当は、こんなに情けなくてみっともない小娘だったのだと」 にへら、と微笑んだつもりだったけど、表情筋は予想以上に強張っていて。ダメだなぁと自嘲の吐息が溢れた頃、彼はズボンが汚れるのも厭わず腰を下ろし、私と視線の高さを揃えていた。 「失望なんて、するかよ」 「……どうして」 余りにも真っ直ぐな視線、感情。思わず目を逸らす。そんな意思を正面から受け止められるほど、私は真っ当な存在じゃない。
「どうして、失望してくれないの……! 呆れてよ、憎んでよ嘲ってよ否定してよ! お前なんか担当しなければ良かったって! なんでこんなウマ娘を持ってしまったんだって!」
カッとなった思考で叫び散らしながら、脳内の冷め切った部分が納得の意思を示していた。……どうして、トレーナーに見つかった時、最初に言い訳しようとしたのか。取り繕おうとしたのか、誤魔化そうとしたのか。 「貴方が否定してくれないと……また、期待、しちゃう……」 ……この人なら、私を受け入れてくれるかもしれないって。その先に待っているのが、どれほど碌でもない末路なのかを分かっている分際で、それでも、と。
「……知ったことじゃねえんだよ」
「え……」 もう一度、今度は私を雨粒から守るように、腕を回して全身を抱き締める。互いに冷え始めた体温が、けれどじっくり混じり合うのを感じた。 「この際だからハッキリ言ってやる。お前の性格は本当に面倒だよ。だが、その程度じゃ……お前を捨てる理由になんて到底足りない、どうでもいい」 「は……?」 それほど大きくない声なのに、何故かするりと耳に飛び込んでくる言葉。私を面倒だと分かっていて、なのに「どうでもいい」……? 「もっと言えばトレーナー職だって成り行きでなったようなモンだ、そこに未練もへったくれも無い。辞めろと言われればすぐに辞めてやるさ。けどな……」
「自分が、隣で支えると誓った相手を。看続けると決めた相手を。捨ててなんてやるもんかよ」
「……トレーナー」
私の腕に、力が籠もる。彼の身体を離さないように、私が離れないように。 「観客が、お偉方が、トゥインクルシリーズが。お前を傷付けると言うなら……全部ブッ壊れて滅んでしまおうがどうだっていい。年頃の小娘が、真っ当に成果を残したアスリートが苦しむようなシステム、さっさと潰れてしまえ」 その言葉は、今まで彼の口から聞いたことがないほどに、憎しみと怨嗟に満ちた声で。その矛先が向いている相手を考えると、つまり彼が身を挺して守ろうとしているのは、受け入れようとしてくれているのは。 「……お前が捨てろと言おうが、それを決めるのは俺なんだ。そして、『互いに』利用し合うと決めた以上、俺からお前を切ることはない。つまり──」
「──お前が俺を捨てない限り。俺はお前の担当トレーナーを続けるさ、共犯者らしく」
その言葉に、今度こそ、私は感情の発露を抑えることが出来なかった。
「雨、止みましたね」
「通り雨で良かった、事情を伝えた上で今日は私の家に放り込みます」 「まあ帰ってもお風呂とか閉まってますしね……」 あの後。トレーナーさんの言葉にもう一度泣いてしまった私が落ち着くまでに、だいぶ時間を要してしまって。気付けば門限をとっくにオーバーしてしまっていた。流石に今から戻るのも説明が面倒そうなので、彼の部屋へお邪魔することになった。 「そういえば、今後のレースの希望なんですけど」 「貴女から切り出すのは珍しいですね?」 「確かに……」 ……思えば、どのレースに出るとかどういった方針で臨むとか、大切なことは大体トレーナーさんに丸投げしてしまっていた。だから、私の希望を伝えるのはすごく珍しいことで。 「……話題を、少しでも掻っ攫ってしまいたいなって。どうせ普通に走っても目に止まらないなら、多少インチキしてしまってもいいでしょうと」 「直球のルール違反なら流石に止めますが」 「そんなことしませんって。ちょっとあちこち旅行しながら重賞レースに出たいだけですよ。北の方に旅行して、美味しいご飯を食べながら、ね?」 ……宝塚記念に出る気は、既に失われていた。真っ当な大レースはそれに相応しいキラキラした娘達で楽しめばいい。 私が欲しい物は、もっとギラついた視線。それが好奇だろうと応援だろうと、憎悪嫌悪怨恨憤慨なんだっていい。誰かが本来見られるはずだった景色を、グチャグチャにしてしまいたいだけ。その過程で私の脚が潰れようと……それはそれで、最悪の光景を刻み付けられるから、別に構わない。 「話題攫いが目的なら、もう一つおすすめのレースがありますよ。開催地は東京ですが」 「あれ、何がありましたっけ?」 ……ちゃんとした大人なら、こんな私の行動を止めるべきなんだろうけど。彼も彼なりに思う所や恨む所があるのか、私の目標を受け入れてしまっていた。割れ鍋に綴じ蓋というか、本当に救いようのない組み合わせだな、私達。 「東京10Rは日本ダービー、クラシック三冠の中で最も格が高いと呼ばれるレース。当然、その集客力たるや国内レースの中でも最高峰です」 「去年は私達も運良く潜り込めたってレベルですからね」
あの日の大逃げは、今も視界の奥に焼き付いている。最大級の歓声を以て讃えられたダービーウマ娘の誕生、あれも思えば祝福されるべくして祝福された存在だったんだろう。
「……その同日、東京12R。ダービーの熱気が冷めやらぬ中開催される、もう一つの重賞レース。ついでにと見物していく観客も多いことでしょう」 「ああ、あのレースですね……本当に、ピッタリな場所」 そこまで続けられて、ようやく該当するレースを思い出した。開催場所こそ違えど、有馬記念と同じ2500mを走らされる、シニア級限定レース。同じ場所で1日に2度開催される重賞、ある意味でかなり珍しい条件。かつての東京レース場の前身、その名前を背負った舞台こそ──
──GⅡ、目黒記念。
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