Repetition does not transform a lie into a truth.
—Franklin Delano Roosevelt
—Franklin Delano Roosevelt
概要
カラレスミラージュの育成ストーリー関連を抜粋したページです。
内容の都合上、他の部員との交流よりはミラトレとの関係性が多くなります。
内容の都合上、他の部員との交流よりはミラトレとの関係性が多くなります。
登場人物
本SSの主人公。言わずと知れた内心ドロドロ系無表情ガール。詳細はリンク先へ。
- カラレスミラージュの担当トレーナー
眼鏡が似合う物腰柔らかな好青年……に見せかけて、担当も本心を掴みかねる新人トレーナー。
かつては医師であった時期もあり、それなりに知識は多い方。
カラレスミラージュと共にトゥインクルシリーズへ臨む、しかしてその真意は……?
かつては医師であった時期もあり、それなりに知識は多い方。
カラレスミラージュと共にトゥインクルシリーズへ臨む、しかしてその真意は……?
- ガーネットスクエア
- ミツバエリンジウム
カラレスミラージュの同期の1人、青髪黄眼の少女。
担当トレーナーを一途に思い続けており、その愛情ゆえ周囲が見えなくなることも。
ただ幼馴染2人のことも好いており、時には最年長のような振る舞いも見せる。
担当トレーナーを一途に思い続けており、その愛情ゆえ周囲が見えなくなることも。
ただ幼馴染2人のことも好いており、時には最年長のような振る舞いも見せる。
- ヘルツマタドール
+ | 4人の外見イメージ(変更の可能性あり) |
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作品一覧
第一章 雲散無笑編
第1話:黒に寄る、虚の夜(スカウト編)
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肩が凝る。息を吐く。……少しだけ、気が滅入る。
『1着はレッドレジスタンス!その後にはブランケットブルー、グリードグリーンが続きました!』 耳の奥で鳴り響いているのは、先ほどのレースの結果。学園内選抜レース、右回り芝2000m競走。全10人の走者の中、私は……4着だった。 決して喜ぶべきではない、さりとて悲嘆に沈み泣き喚くようなものでもない結果。だからこそ私は笑う。程々に眉を寄せて残念がりながら、しかし次は勝つと意気込んでみせる。 そうして1人、私はレース場から離れる。何せ今の私には、微妙な順位を慰め合う友人も居なければ、スカウトを考える酔狂なトレーナー候補も居ない。 選抜レースなどというスタートライン以前の場所で、3度に渡る挑戦の果てに……銅メダルの1枚も取れないウマ娘へ関心を持つ者は居ないだろうから。
カラレスミラージュ、無彩色の蜃気楼。名は体を表すとの言葉通り、私というウマ娘の素性というものは酷く可笑しなもので。無言無表情無感情無愛想、愛嬌あるウマ娘が持ち合わせるべき悉くを私は有していなかった。光の差さない濁り瞳を鏡越しに眺め、自分のことながら嘆息したのを覚えている。
その割に肉体は高身長で脚も長く、出る場所は女らしく出た図体のみ大きい小娘。そんな存在が小学校という場で異端とされぬ筈もなく、表立った被害こそ無いものの私に話し掛けてくる奇特な子供は1人として居ない6年間。……とても寂しかった。 こんな気性の私をも、両親は暖かく育ててくれていたが、流石に変わらねばならないと決心。2人の協力を得て笑顔の作り方や明るい話し方、他者との距離の取り方を特訓した。幸いに脚は早く、持久性以外の能力は身に付いていたため、募集の掛かっていた中央トレセンに無事合格。きゃぴきゃぴ明るく楽しげな少女を装い、新生活の幕開けと相成ったのだが──
──夕焼けを越え、日が沈んだ頃に屋外へ戻る。手続きの不備ということで私と同室の相手は決まっていない。とことん私は孤独だと恵まれぬ運を悔やんだものだが、今は却ってありがたい。
適度に身体を温め、コースを駆ける。始めの2周は軽く息を整えながら、コース中の荒れを確認するように。多くのウマ娘によって踏み荒らされた芝と土、その中でも目を引く……大きいながらも、踏み込みの甘い足跡を見咎めながら。
両の人差し指で唇を押し広げ、無理矢理に笑顔を作る。誰にも見られていないというのは気楽なものだが、こういった場面での綻びこそが後々に響くものだと、自らへ言い聞かせるように。
「位置について。よーい、どん!」 わざとらしい程に愉快な声を張って、1人きりのスタートを切る。私は逃げや先行策よりも、最後の追込が得意なウマ娘。序盤は適度に力を抜き、最後に後ろから仕留める戦法を好む。昼間、私が走ったコースをなぞるように、ゆったりとしたペースで後方に付けた。 第一コーナー、第二コーナー……淀みなくレースは進み、いよいよ最終盤面。大丈夫、笑顔は崩れていない。ちゃんと『私らしく』走れている。さあ最後の直線前、ここで一気に踏み込む……ッ!? 明らかに、踏み込みが浅い。足が滑る。なんとかバランスを取り、蹴り込んだ足からの僅かな力で加速する。加速、する、加速……し……て…… ゴール板を越えた瞬間、両足から力が抜けてへたり込む。情けなく空を見上げながら、にへらと弱々しい笑みが浮かぶ。昼よりは良かった、それでも酷い終わり方。嗚呼、早く立ち上がらなければ。此処で切り上げるにせよ続けるにせよ、只々みっともなく座り込んでいる暇なんてない、そう心中で唱え、震える両脚に力を込め── 「無理はいけませんよ、とりあえずこちらに」 「──えっ……」 何処からともなく現れた男性に腕を引かれ、私は近場のベンチに座らせられた。ご丁寧にドリンクのボトルまで持たせながら。 「んくっ、んくっ……ぷはぁ、ありがとうございます!」 「いい飲みっぷりですね、カラレスミラージュさん。相当根を詰められていたご様子で」 「え、私のこと知ってるんですか!?」 「今日の選抜レースも拝見させてもらっていたので。貴女を含め、出走者の名前は全員覚えていますよ」 男性……トレーナーさんはそう答える。短めの黒髪を綺麗に整えた、眼鏡の似合う好青年という風貌。 詳しく聞いてみれば、少し前まで医者をやっていたけど今はトレーナーに転身したとのこと。ドリンクの飲み方は少し注意された。それで、気になる娘が何人か居た中で、うち一人の私が夜になっても練習していたから眺めていたとのこと。そして…… 「カラレスミラージュさん、何か……悩みとかお持ちではありません?」 「悩み、ですか。やっぱりレースに勝てないのは堪えますね! 私も頑張っているんですが、皆さんすごいので!」 ふわりとした笑みに促され、『明るい私』の持つ悩みを暴露する。取り立てて隠すような秘密でもない内容、しかしそれを聞いたトレーナーさんは眉間に皺を寄せた。 「いえ、そうではなく……走ることを苦にされてはいないか、そう思いましたから」 トレーナーさんは至って優しく、心配そうに問い掛けているだけ。ウマ娘の不調を疑い、叶うならば吐露させて楽になって欲しい、そんな気持ちが伝わってくる。けれど。そんな言葉を聞く私の心中は、ぞわりと虫が這った様に震え上がっていた。 まさか、バレている? いや、昼のレース中も一貫してボロを出すような失態は犯していない、はず。ならばどちらにせよ、此処は心配を素直に受け取るべきなのに……「……どうして、そう思ったんですか?」 無意識のうちに溢れ出したのは、少し冷えた声音。ハッと目尻に力が籠る。大丈夫、危うく口を抑えそうになったのは抑え込んだ。あからさまに露呈するような真似は、まだ。 「……他のこと比べ、やけに震えの少ない脚でレース場を出て行ったこと。パドックにいた時から、少し上の空に見えたこと。色々ありますが、1番の決め手は、最後のスパートの時に──」 ──逡巡と躊躇。自問自答していたんじゃないのかい? 私は本当に走っていいのか、なんて。
両手に抱えていたボトルが滑り落ち、土の上に色濃い染みを広げる。心臓に氷を押し当てられたような錯覚。全身から血の気が引いていくのを実感する。思考は硬直して、肉体の統制権が放り出された状態。なんとか両手だけは動かし、必死に微笑みだけは絶やさないよう……「もういいぞ。大体キミの気性は把握したし、俺相手に取り繕わなくて構わない」
「ッ……」 駄目だ、完全に露見した。入学してから今日この日まで、必死に作り上げてきた『明るい私』が崩れ落ちる。このまま彼の口から、私の本性は知れ渡って……「ああ、別に言いふらしたりはしないから安心しろ。患者の……そうでなくても生徒の情報漏らすような真似は、な」 コンプラまみれの元医者を無礼るなよ、なんて呟いてから、私を見つめてくる双眸。
優しげな気配を捨て、射抜くように私を貫くその視界には、さぞ燻んだ『私』が映っているんだろう。
そのまま寸刻、互いに沈黙の時が過ぎる。彼から問い質すようなことはない、私から話せということか。何れにせよ……此処まで剥がれた化けの皮なら、もう価値はない。ならば、付き合ってくれた義理と、本心を暴いてみせた報酬はきっと必要なのだろう。 「……怖い、から」 「…………」 「怖がられる、離れられる……孤立する。もう慣れた、でも……嫌」 「…………」 ぽつり、ぽつり。あれほど軽快に話していた少女の姿は見る影もなく。それでも、私は『私』を晒していく。 「変わらなきゃ、抑えなきゃ……だから、私は……」 「仲良しごっこのために手を抜いたと」 「違っ──、ううん、……そう、なのかも」 思い出すのは、選抜レースの最終コーナー。前方には9人、私は最後尾。ヘロヘロに疲れ果てていた他の娘達に対して、私は上手く潜り込めていたから脚も残って少し余裕があった。あのままトップスパートで行けていれば……でも、それはつまり。 『明るく可愛い私』を諦めないと、勝てない。何も『無い』私じゃないと……なら、その後は? 一度取り繕うことを覚えた私が、それを捨ててしまったら? ほんの一瞬の思考、でもレース中の一瞬は、あまりに長い。意識しないでいようと集中しても、その時が来れば思考が向いてしまい……その結果が、3度の敗北。 ウマ娘である以上は勝つことに全力を注ぐべきなのに、何という有様か。こんな話を聞かされて、彼も心底失望しただろう。これ以上時間を使わせるのも申し訳ない、早く謝罪を告げて此処から……「……なんだ、そんな事かよ」 「……なんて、言ったの」 「そんな事かよ、と。生来の脚部不安で走るのが不安とか、そういう話だと思ったら『ぼっち嫌だから走らない』とか言われた日には力抜けるぞ」 「……ふざけないでっ!」 嗚呼、自分は何を言っているんだろう。この場を100人が見れば100人とも、ふざけているのは私だと言うだろう。いっそ自分自身自覚があるから101人か。理不尽極まりない罵倒にも言い返す事なく、トレーナーは肩を竦める。 「事実とはいえ、言い方ってモノがあったな。悪かった。だが俺もこのまま引き下がるのは癪なんで……1つ、勝負しないか?」 私に背を向け、コースを眺めるトレーナー。その表情は、愉快なものを見つめるような喜悦に満ちていた。 「右回り芝2000m、あの時と同じコースだ。さっきの走りの疲労も勘案して……2分8秒5。このタイムを切れればキミの勝ち。遅ければ俺の勝ち」 「は……!?」 2分8秒5、それは選抜レースの平均より1秒以上も早いペースだ。今日のレースで1着を取った娘も、絶好調の状態でギリギリ9秒台だったはず。それほど無茶な提案なんて。 「当然シビアな条件なのは承知済みさ。だから、もし勝てばキミにいいヒントを教えてあげよう」 「……私が、負けたら?」 「『八つ当たりしてごめんなさい』、13音で構わないぞ。何なら条件キツ過ぎたってことで言わなくても構わない。どうする?」 挙句の果てに、勝てば有益なヒントを、負けても何も無いと来た。その声を聞けば、顔を見ずとも、本能で分かる。……私は、彼に、バカにされていると。ならば、私の答えは。 「……勝つ、絶対」 「おう、精々足掻いてくれよ?」
2枠2番。何度も脳内で繰り返した、あの時の繰り返し。今までと少し違うのは、『私』の振る舞いに、意識を向ける必要がなくなったことだろうか。何せ、私の素は彼に露呈しきった後だから。自然体で程々に脱力した身体……少し、気分が楽だ。
「それじゃ始めるぞ。位置について、よーい……」 トレーナーからの声で意識を引き締める。これは雪辱戦なんて大層なレースじゃない。ただ、私をバカにした人間に報いるためだけの走り。並走者の1人も居ない夜のコースで── パァンッ……!! ──高らかに、銃声と似た電子音が響き渡る。 取り立ててコース取りの変わることがないレース冒頭。普段よりも気持ち前傾になりながら、前に出過ぎないよう状況を伺う。無人のレース場と、走者で沸き立つレース場が視界の中で混ざっていく。逃げを打ったのが2人、先行策に付けたのが5人。後は差しを狙う2人と、最後尾の私。 レースは淀みなく進み、中盤。まだデビュー前の娘に2000mは長いのか、既に疲れ始めている娘が数名。それを上手く風避けに使いながら、未だ最後尾で脚を溜めつつ外側を目指す。呼吸は乱れない。 ……最終コーナー。ヘロヘロにふらつきながら後ろへ流されていく前方のウマ娘。此処だ、と一気に力を込める。地面を踏み……蹴り抜くッ! さあ後ろから上がってくるのはカラレスミラージュ! 1人、また1人と千切って、前に見えるのはあと4人! 軽快に逃げてきたレッドレジスタンス、先行策からの猛追を狙うブランケットブルーとグリードグリーン。何バ身も差を付けられて負けた彼女達との距離は、200mを残した今なら3バ身程度!
……そして、もう1人。ロクに加速も出来ないまま、それでも必死に喰らい付こうとする無彩のウマ娘。嗚呼、『彼女』は傍から見ればこのように映っていたのか。自分の目的のため、過去の孤独を振り払うため懸命に藻搔いた少女。その姿は応援したいものだと思う。でも……「貴女(わたし)に、『それ』は、似合わないッ……!」
彼女の歩幅を越えるように脚を踏み出し、抜き去る。過去の自分を置いて行くように、振り払うように。少しずつ、視界の端から虚像が消えて行く。景色の流れが速くなっていく。残り100m、かつて捉えきれなかった影が目前に迫る。 ……皆、あの時に十分満足したでしょう? 勝った、或いは眼前まで勝ちに迫れた、強い強いウマ娘さん? 私はあの時、其処まで至れなかったんだ。だから、今くらいは……「私、に……ッ! 寄越せ……!」 幻影を切り裂き、捩じ伏せる。全員をまとめて置き去りにするように、一歩また一歩と加速する私の身体。眼前の光景が少しずつ色褪せ、肉体の悲鳴をも無視して── 「──ッ、ゴールイン! 終わりだ!」 フェンス越しに聞こえるトレーナーの声に、手を振って応えようとして……脚から力が抜ける。 「かはっ、コヒュ……ゲホゲホッ!」 肺が破れそうになり、呼吸が儘ならない。なんとか速度だけは抑えて小走りになりながら、芝に倒れ込む。必死に酸素を取り込もうと試みるけど、咳が止まらないせいで上手くいかない。 「流石に、煽り過ぎたか……!」 少しずつ、少しずつ頭の中に靄が掛かっていく。このまま死ぬと思考は理解しても、身体は必死に主人を苦しめながら生に抗う。……でも、もういいか。何も考えられなくなってきたし、ちょっとだけ楽にしても── 「──よし、メンタルは落ち着いてるな。そのままゆっくり……浅くでいい、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐くんだ」 「……? すぅ……ふぅ……っ」 いつの間に近付いて来たのか、トレーナーが私の身体を抱き上げて座らせていた。背中をトントンと叩かれると嘘のように咳が引っ込み、言われた通りに苦痛なく呼吸できる。何分くらい経っただろうか、安静に戻ったのを見たトレーナーが私から離れて立ち上がると、頭を下げて来た。
「本当にすまなかった……キミがここまで全力を費やしてくれたことは感謝するが、俺の指示で危険な走りをさせたのは事実だ」
……正直、謝罪されることではない。無茶をしたのは私で、体力が無いのも私の責任だ。それを伝えるのは私に出来る最低限の誠意だろう。 そのまま立って頭を上げろと言いたかったが、病人は安静にしていろと返されたので代わりに彼を座らせる。 「……それで、タイムは? そのために、走った……けほっ」 「無理して話すな、黙ってた方がいい。……安心しろ、2分8秒3。ざっくり0.2秒、キミの方が上だ」 「そう……よかった」 大体6バ身と付け加えたのは、きっと「そういう」ことなんだろう。ひとまず目の前の彼から誇りを勝ち取ったことに安堵する。まあその彼に看護されているわけだが。 「それで、約束だったが……今のキミに喋らせるのも問題だ。だから返事は肯定か否定、首を振るだけにしてくれ。いいか?」 コクリ、と首肯。考えてみれば彼の提案はそれだった。勝手に私が逆上しただけで。 「なら初めに、生徒会役員が3人いたろ、頭の中で名前言えるか?」 コクリ。シンボリルドルフ会長を筆頭に、残りの2人も行事などで見る顔だからよく覚えている。 「なら次だ。彼女らに話しかけてこいって言われて、行けるか?」 ……ふるり。首を横に振る。特段の事情がない限り、畏れ多くて話しかけるなんて考えられない。 「じゃあ次。もしこの3人とレース出来るって言われたら、走りたいか?」 一瞬の逡巡、返答はコクリと首肯。エアグルーヴ副会長とは距離適正の問題があるけど、他2人と中長距離で走りたい気持ちがないかって聞かれれば……間違いなく嘘になる。 「ならこれでラストだ。まあこれはYES/NOじゃないから胸の中で考えてくれ。『どうしてだ?』」 「……!」 質問の意図に気付いた瞬間、落雷が落ちたかのように全身が跳ねる。話し掛けるのが怖い相手と、しかしレースでは競いたい。それって……つまり。 「キミの過去に何があったかは知らない。普段の生活でイメチェンしたいっていうなら止めはしないさ。ただ重要なことが一点あるとすれば──」 ウマ娘としての理性と本能。最後に彼が言った言葉は、私にとってその方向性を決定付けるものだった……「──忘れるな、ここは『トレセン学園』……『中央』だ」
肩が凝る。息を吐く。……あぁもう、全く落ち着かない!
あの後、なんとか少し話せるようになって、トレーナーさんに謝罪したのはいい。勝敗云々関係なく、あの場で当たり散らしたのは間違いなく私の非だから。翌日の自主トレを休んだのも別にいい。明らかにオーバーワークだったし、体調崩さなかったのを喜ぶべきくらいだ。 そして今日の選抜レース、1着に輝いてみせたのは……うん、いいと言うより最高だった。後続に何バ身もの差を付けてのゴールイン。実際のレースで1着になるというのは、これほど心を躍らせるものかと感動した。……此処まではよかったのだ。此処までは。 誰とも一緒に歩くことなく、学園内を彷徨き回って30分。遂に下手人を見つけた私は、 「トォォォレェェェナァァァァァ!!」 怨嗟の声を撒き散らしながら目の前の男に突っ込んで行った。
「カラレスミラージュさん、お久しぶりですね。3日ぶりでしょうか。本日の選抜レースは素晴らしいものでしたよ」
「あ、ありがとうございます! お陰様で無事に勝てました! ……じゃなくてですねぇ!」 初めて会った時と同じく、礼儀正しい好青年を装って応対するトレーナーさん。その手に持つスマホが動いているのは気になるけど、今はそれどころじゃない。 「しかし、6バ身差を付けて圧倒的勝利を収めた貴女がこんなところを彷徨っているなんて……スカウトなどは受けなかったのですか?」 「私の着差まで知ってるなら、その後の顛末もご存知でしょうに……!」 どの面下げて、そんな罵倒が口を突きそうになるが抑え込む。落ち着け私、彼はただ私に唆しただけ……唆しただけ…… 私の圧勝で幕を下ろした選抜レース。別に、私が不正を犯したわけではない。正々堂々、全員を抜いて勝利した。面白みのないレースだったというわけでもない。先頭集団が懸命に勝利を目指す、その競り合いを後ろから撫で切った。何処ぞの令嬢が負けて空気が凍ったとか、そういう話でもない。 問題は、無かった。うん。「無かった」のが問題だった。結論から言おう。無表情でコースに現れた私は、無言でゲートに入り、無感情に相手を仕留め……ゴールの後、申し訳程度に笑顔を見せたくらいでは、刻み込まれた恐怖を拭い去ることなど叶わなかったらしい。
一緒に走った娘が怯えるのは分かる。観戦してた子が慄くのも分かる。……どうしてトレーナーの皆様も避けてるの!? 結構いいタイムだったよね!? 私から話し掛けようとしても逃げられるし……そんな行き場のない感情をぶつけるため、貴方を探していたという次第です。
「いやぁ、凄まじい走りでしたね。私も学園に来て間もないとは言え、あんな復讐鬼めいた生徒は初めて見ました」
ゴール後の笑顔も、獣の威嚇に見えたんじゃないです? なんて軽々しく宣うトレーナーさん。私がウマ娘のパワーを持っていなかったら、既に手が出ていたと思う。 「けどトレーナーさん、あの日言っていたじゃないですか! 普段は恐れるような相手でも、レースでは競い合いたくなる! それが、ウマ娘の本能……って……」 遂に限界が来て、トレーナーさんに本音をブチ撒ける……いや待って。彼は本当にそんなことを言っていたか? 確かあの日の質問って、生徒会のメンバーと、話しかけやすいか、レースで勝負したいか、そして……「あぁ、あの話でしたか。それなら……」 そんな私に、トドメを刺すように。 「よっぽどの上位層だけですよ」 言い訳のしようもない答えが、 「恐ろしいと言われる相手に、それでもなお普段通りに接し合える関係性なんて」 突き付けられた。
「終わった……私の学園デビュー、終わっちゃった……あはは……♪」
拝啓、お父さん、お母さん。貴方たちの愛する娘は、1歩目からひっくり返って地に沈みました。もうすぐお家に帰ります 「カラレスミラージュさん、帰る前にこれ見てくれません?」 そんな私を慮ることもなく、自身のスマホを差し出してくるトレーナーさん。画面に映ってるのは、ウマッター? その検索欄に入力されたワードは……「私の、名前?」 トレセン学園の中でもよく知られた有名人。生徒会関係者を筆頭に、入学前の私ですら見知ったユーザー名の彼女らが呟いている内容は……数十分前のレースについてだった。 「あんな走りを見せられて、興奮しないはずないんですよ……彼女らは」 たった1戦、取り繕うことなく夢中で走っただけ。それなのに、まさか、こんなことになるなんて。
「それにですね……『楽しかった』だろ? あのレース」
ゾクリ。あの一瞬。網膜に焼き付いた映像がフラッシュバックする。口の中がカラカラに渇いていくのに、言葉は止め処なく溢れてくる。 「……あの日。その場にいた全員が、今度こそ自分が勝つって信じていたんですよ」 「仲のいい娘たちも集まって、一生懸命応援して」 「もう勝ってる娘も、これからって娘も。先輩たちも後輩たちも集まって、それぞれ良く知った娘を応援してました」 自身の声を紡ぐほどに、全身が熱を持つ。あの一瞬が、脳内で何度もリフレインし続ける。 「そんな中、私は圧倒的に異物でした。パッとしない戦績で、誰からも応援されず、ヤケになったような振る舞いで」 「元々私、嫉妬がちなんですよ。あの子に出来ることが、何故私に出来ないのかと。だからずっと思ってました。勝てる娘が妬ましいって。惜しいところまでいける娘が羨ましいって」 「今日の本命はあの娘だ。見に来てる職員さん達もトレーナーさん達も、あの娘が華々しく勝ってスカウトを貰うのを期待してる。そんな前評判」 「誰も弱いウマ娘に興味なんてない。路傍の石を見るより、輝かしい原石の方が目を惹きますから」 ごくり。私が飲み下したのは、唾液か空気か、それとも。 「だから、ですね。あの時、観戦席に集まっていた娘たちの困惑した表情。トレーナーさん達の驚愕する顔。私に勝てなかった娘たちが浮かべた、絶望に満ちたあの姿を見て……」 晴れ渡る青空を仰ぎ、手を伸ばす。その視界の端には、巨大な暗雲が立ち込めていた。 『嗚呼! 全てを壊し、ひっくり返して得た勝利の、なんと素晴らしいことでしょうか!』 『私に及ばなかった、私を見ていなかった者たちの末路がこれか! それは……なんて愉快な様なのでしょう!』 「……ええ、楽しかったですよ。それこそ軽蔑されたって文句言えない楽しみ方でしたが」 ほぼ一息に語り切って酸素が尽きたのか、ふらりと後ろへ倒れ込みそうになる。眼前の彼は私の手首を取って、倒れないよう掬い上げてくれた。 「とんだ悪役だよ、キミ。絶対主人公にはなれない……なっちゃいけない存在だ」 「でも、その味を教えてくれたのは貴方でしょう?」 「俺はただ、素直に走れと言っただけだ。そんな倒錯趣味の元凶を擦り付けないで欲しい」 太陽が覆い尽くされ、どんよりと曇り切った空模様。その中で言葉を交わす私達は、どこか心が通じ合っているような気がしました。 「……責任、取って」 「……まずは、皮の被り方から教えてやるよ。大根ウマ娘」
~~~
「それでは、私と貴女で契約を結ぶということで……改めて、名前を教えていただけますか?」
「はい、カラレスミラージュです! トレーナーさんの下でも、精一杯頑張りますよ!」 「元気なことはいいですね、カラレスミラージュさん。私としても担当の甲斐がある。では、ひとまずの目標は何を考えていますか?」 「やっぱり中距離長距離が得意なので! クラシック三冠、挑戦したいです!」 「そうですか、ではみっちり特訓と行きましょう。あとは──」
「──カラレスミラージュ、キミの目指す果ては何だ? 俺をトレーナーにして、何を目指す?」
「……勝つ、全部」 「どんな風に?」 「誰かへの夢、誰かへの希望……台無しにして」 「とんだヒールの言動だが、覚悟はあるのか?」 「…………」(コクリ) 「そうか、なら……契約完了だ。明日から早速練習やるぞ、準備はいいか?」 「……もちろん」 |
第2話:Make a Doubt (メイクデビュー編)
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「おっはようございまーす!」
始業前の教室に響き渡る、元気溌剌な挨拶の声。ざわざわと浮かれ気分に揺らいでいた空気は、その一声によって瞬く間に静まり返る。 「あ、おはようミラージュちゃん……」 「エリーちゃん、おはよう! というかうるさかったかな? 一気に静かになっちゃったけど」 こてん、と不思議そうに首を傾げる挨拶の主。周囲の目に怯えが浮かんでいることを隙なく見抜きながら、それでも白々しく疑問を投げかけている。 「きっと昨日のレースが凄かったから、雰囲気の違いにビックリしたんじゃないかな……?」 「あー……あの時はちょっと集中し過ぎちゃって……」 そんな会話を交わしていると、始業のベルが鳴り響き生徒たちは席に着く。 挨拶の主、カラレスミラージュも学校のルールに従いつつ……内心、数週間前の学園デビューから築き上げたイメージが崩れ去ったことに、改めて頭を抱えていたのであった。
〜〜〜〜
「率直に言って、週末のレースは9割方心配していないんですよ」
「9割……?」 「レースに絶対はありませんからね」 トレーナーさんの元で指導を受けるようになって数週間、いよいよ今週末がメイクデビューの日。この時期のオーバーワークは身体に良くないということで、今日は賢さトレーニング……もとい、本番に備えて知識の共有会と相成った。 手元にメモ帳を広げながら、トレーナーさんの話を聞く。2日目くらいに「とりあえずメモは取っておけ。見返す見返さないじゃなくて書いて覚えろ」と言われて始めた習慣であったが、存外に効率がよく。とにかく書いて理解する、という行為のおかげで前の定期試験も好成績となった。 閑話休題。 「何人か、これはヤバいと思った娘もいたんですが。今回は別レース場の発走だったので、このメンバーならミラージュさんが不覚を取ることはないかと」 東京レース場は第█R、メイクデビューのフルゲートは9人で固定。他のクラスや学年で見かけた名前もチラホラ書かれているが、大多数は知らない相手ばかり。事前の提出資料から転記したのか、作戦には「逃げ」や「先行」の記載が多く見られた。 「この時期の生徒は身体が出来ていないことと、それ以上にバ群を抜けることに慣れていないこともあって……逃げを打つ方が有利と言われているのはご存知ですよね?」 「はい、教官の先生も言っていましたから」 後世のウマ娘には、差切脚質や追込脚質で成果を残したGⅠバも当然存在する。しかし、彼女達が最初から最適解を見つけていたかと言えば、そんなことはなく。 メイクデビューの映像を運良く発見出来た日には、先頭を目指すことしか考えていないような頭空っぽの走りを見ることが出来る。まあ例外も多いが。 「なのでミラージュさんは、彼女らを前に見ながら普段通り走ってください。貴女の脚なら、体力が切れて乱れてきた先頭集団を千切ることも容易い筈です」 フォームと末脚だけはいいですからね、なんて軽く呟くトレーナーさん。 実際、幼い頃から身に付いたフォーム……癖は、矯正対象になることが多い。ただ私は矯正不要だったということで、矯正期間をそのまま練習に回すことが可能だった。この辺りは両親に感謝かな。 「まあ、トチ狂って掛かりに掛かって無駄にスタミナ食って沈むかすっ転んで頭から芝に突っ込まない限り大丈夫でしょう!」 「私そんなにバカって思われてます???」
〜〜〜〜
「…………」
ゲートの中で目を閉じながら、トレーナーとの会話を思い出す。2枠2番、私の髪と同じ黒色のハーフパンツが、適度な締め付けと緊張感を私に伝えてくる。 ゲートというのは不思議な空間だ。一部のウマ娘はゲート難と呼ばれるほどゲートが嫌いらしいが、私はそうは思わない。 【各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました】 外界から切り離された、薄暗く狭苦しい空間。出走の瞬間まで開かない扉は、ともすれば私達を収める牢獄と呼んでさえ差し支えない。視界は大部分を封じられ、音も金属越しにくぐもった状態でしか聞こえない……そんな中で、来るべき一瞬に備えて意識を研ぎ澄ませていく。 ……閉じ込められるのは、嫌いじゃない。だって、解放されることが分かっているから。この牢獄から抜け出した瞬間── 【今、スタートしました!】 ──私の物語が始まるのだから。
レース自体は、心底ありふれた進行の果てに、心底無難な決着を迎えた。
逃げウマ娘が2人、先行ウマ娘が5人。後は差切狙いと……担当。とは言っても、まだ精神的に未熟なウマ娘はつい前に出ようとするものだ。一見すれば担当が置いてけぼりを食らったような状態で、淀みなく先頭集団の8人が進んでいった。 状況が動いたのは、第3コーナー。ハイペースに沈み始めた集団の何人かを抜き去るように、ギアを上げた担当。今まで歯牙にも掛けていなかった後ろも後ろの小娘が追い縋ってきて、連中は心底ゾッとしたことだろう。思わず振り返った連中が、担当の顔を見て引き攣った笑みを浮かべた様が中々に印象的だった。 最終直線に入った頃には、場は既に担当の独擅場。ガス欠を起こして必死に逃げようと藻掻く連中と、加速を続けトップスピードでゴール板を目指す担当。グレード戦のような舞台ならいざ知らず、メイクデビューくらいのプレッシャーに比べれば── 【カラレスミラージュ、今1着でゴールイン! 1番人気の重圧に折れることなく、華々しい初勝利を収めました!】 ──あのバカが自分で背負い込んでいた勘違いの方が、まだ重い。
〜〜〜〜
『響けファンファーレ、届け遠くまで──』
さっきまでのおどろおどろしい雰囲気を投げ捨てて、如何にも可憐な表情の……撤回、目はレース中と同じく濁ったまま戻っていない。顔だけ見れば眩しいくらいの笑顔なのに、目だけでこんな印象が変わるものなのかと担当ながら驚きを隠せない。ここは後ほど要指導か。 いずれにせよ、初のウイニングライブは取り立ててトラブルも発生せず、万事順調に終幕を迎えた。 「……お疲れ様、トレーナー」 「ああ。まずは初勝利見事だったな。3バ身差か……」 「……不満?」 「まさか、よく走り切った方だ。過剰な発熱も疲労も無く、両脚も至って健常。メンタルにも異常無し、ライブも完遂。これであれだけ着差が付いてるなら十分過ぎるくらいだ」 世の中にはメイクデビューでタイムオーバーを起こす化け物がいる、なんて逸話も聞くが……そんな突然変異を、まして初担当で相手するなんて、月が降ってくる程度にはあり得ない話だろう。 今はこうやって、成果を残した担当を労うのみ。成果には褒賞を、当然の話だ。何なら後で飯でも連れて行ってやるか、外食とか行く機会が少なかったと聞いているしな。 「…………」 無言で汗を拭い、控え室から更衣室へ向かう担当。側から見れば礼儀の欠片もない担当ウマ娘だが、まあこれがカラレスミラージュというウマ娘なのはよく知っている。何なら俺の方も担当に向ける態度じゃないからな、まあ。 制服に着替え終えた頃には、張り付けた笑顔で「お疲れ様でした、トレーナーさん!」などと宣うことが想像に難くない。その時は精々「丁寧に」相手してやるとしよう。 空白の時間を潰すように、他のレース場の結果を調べる。 「……まあ、そうなるか」
〜〜〜〜
週の頭、トレーナー室での会話を思い出す。
『何人か、これはヤバいと思った娘もいたんですが。今回は別レース場の発走だったので、このメンバーならミラージュさんが不覚を取ることはないかと』 『これはヤバいと思った娘』。選抜レースの頃から、現担当と並んで目を付けていたウマ娘。
【阪神レース場 第█R 1着:ガーネットスクエア】
【中京レース場 第█R 1着:ミツバエリンジウム】 【中山レース場 第█R 1着:ヘルツマタドール】 …………
「今年は、だいぶ荒れるだろうな……」
嘆息一つ吐きながら、スマホを仕舞い込む。 「お疲れ様でした、トレーナーさん!」 そんな俺……私に、仮面を被った少女が声を掛けてくる。 「ええ、お疲れ様です。では帰りましょうか」 「はい!」 屈託のないような笑顔に、こちらも笑みが溢れる。考え込むのは後でもいいでしょう。今はただ、担当の初勝利をのんびり祝ってもバチは当たらないでしょうからね…… 「せっかくですし、食事にでも行きましょうか。好きな場所を言って大丈夫ですよ」 「では回転寿司で! お寿司食べたいです! というかお魚食べたくなってきました!」 「回らないお寿司とは言わないんですね……? 安上がりで助かりますが……」
【東京レース場 第█R 1着:カラレスミラージュ】
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第2.5-1話:褻ト晴ニ服ス装ヒ
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「トレーナーさん。私です、ミラージュです。入っても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。どうぞ」 まだ太陽も天高い日曜日、休日ということであまり人は多くない廊下にて。ちょっと装いを新たにドアをノックする私。相変わらず人当たりの良い声で返事をもらったので、一声告げて部屋に入る。モニターからちらりと視線を移して戻された視線は……面白いように私の方を二度見して固まっていた。 「……迷子の方ですか? 1階に守衛さんが居るので声を掛けていただければ……」 「いや私ですって! さっきミラージュって名乗ったじゃないですか!」 「……その反応なら当人だな。あんまり見ない格好だったもんで分からなかった」 「喜ぶべきなのか怒るべきなのか分かりにくいリアクションですね……!」 ドアを閉め、再びトレーナーさんに向かい合う私。よほど珍しい格好だったのか、席を立った彼は顎に手を当てて、食い入るように私を観察している。 「それで、どうしたんだこの格好」
「この間、ライジョウドウさんのトレーナーさんからファッションについて教えてもらって。そのアドバイスをもとに、私なりに服屋さんで選んでみたんですけど……似合ってなかったですか?」
「ああ、あの人か……やっぱり凄いな、かなり似合ってる。というか見立てもそうだが、貧乏性のキミにこのセットを買わせた説得力が凄まじい」 得心したように頷くトレーナーさん。あそこまで色々教えてもらえて、感謝の気持ちも大きいっていうのはあったけど。それ以上に思い出すのが…… 「『今の服、わざと印象がぼやけるよう選んでないか』って言われた時、思わず唸っちゃいましたよ……髪も切り落として言動も変えたのに、服の意識は昔のままだったなって」 「トレーニングとかもそうだが、結局アドバイスって受け入れられて意味を為すモノだからな。そうでなきゃ壁打ちに過ぎない。その意味で、あの人に指南を受けられたっていうのは僥倖だったんだろう」 考えてみれば、トレーナーさん自身も新人ということで「先輩(の関係者)から助言を貰った」って構図は変わらないんだな……なんてことを思いつつ。 「それで、この格好ウマスタに上げて大丈夫ですか? 一応確認を受けておきたかったのと、あと姿見越しだと綺麗に撮れなくて……」 「ああ、問題ない。後で話が終わったら撮るか」 「やった! ありがとうございます!」 私のウマスタ、定例報告以外でほとんど稼働してなかったからな……ウマッターには某ゲームのリザルト上げたりしてるんだけど。
「ところで、俺も女のファッションには疎いんだが……ジャンルとかあるのか? ポップとかテクノとかロックとか、そんな感じの」
「音楽ジャンルか服装のジャンルか、絶妙に分からない候補ですね……確かグッドガールって言ってました。1960年代の流行のリバイバルらしいです」 「……優等生か。中々に皮肉なもんだな」 「努力の成果って言ってくれません……?」 ライジョウドウさんのトレーナーさんに、服装の癖は気付かれていたけど、内面の癖までは見抜かれてなくて安心した……いや、あの目敏い人のことだから、そこまで気付いた上で黙ってた可能性が全く否定できないんだけど……! 少なくとも、それを前面に押し出せと言われなかったのはセーフだよね……? 「他にも色々あったんですよね。裾を切り詰めた服とか、あとラピスラズリみたいに青系の小物を持っておきなさいとか」 「ラピスと言ったら9月の誕生石だったな。いや12月か? まあキミが赤か青かって言われたら青なのは大いに納得だが」 流行色として教えてもらった、『ベリーペリ』。青の中に僅かな赤色を湛えた、『最も幸せで暖かいブルー』。社会のトレンドということで、きっと誰が付けても似合うんだろうけど……生まれながら、色という概念に無頓着だった私に馴染むのだろうか。 小物の値段に尻込みしたのも買わなかった理由だけど。本当はきっとそれだけじゃなくて──
「──なあ。『真珠の耳飾りの少女』って言われて、ピンと来るか?」
「はい?」 思考の海に沈みかけていた私を引きずり出したのは、そんな突拍子もない質問。確か有名な絵のタイトルだったか、家にあった図書券に刷られていたのを思い出す。でも、どうして突然そんなことを……? 「いや、さっき誕生石のこと考えてたんでな。キミの6月は真珠だったんだが。何か思い出すと思ったら、あの絵にラピスラズリが使われていたって昔習ってな」 「え、そうなんです?」 「現物出した方が早いか……これだよ」 キーを軽快に叩いてモニターに映し出されたのは、記憶の中にあったのとそっくり同じ絵。暗い空間の中で、少女の肌と黄色い服、そして青い帽子が際立っている。 「ウルトラマリン、読んで字の如く『海を越えた』って意味だが……天然物なら金より高い顔料、そんなものが色付けの為だけに海を越えて運ばれ、買われていたって聞いて首を傾げたもんだ」 金より高い顔料。絵なんて滅多に描かない自分には到底考えられない世界の話だけど、きっとそれにこそ価値を見出す人々もいるんだろう。その事実を知る前と後とでは、絵から得られる印象も変わる気がした。 「さっきも言ったがファッションに疎い身だ。仮に何か渡すとして、安直に誕生日だからって真珠選ぶのと、詳しい人のお墨付きがあるラピス選ぶのじゃ後者の方がいいだろうからな」 ……? トレーナーさん、何か変なこと言ってない? それってまるで…… 「それで、要件は以上か? というか服の話ばっかりで本題を聞いていなかった気もするが」 「あ、いや違います違います! 本題ここからです!」 すっかり私服の話で盛り上がってしまったが、それ以上に大事な服の話があったことを思い出した。持ってきたバッグからクリアファイルを取り出し、トレーナーさんに差し出す。 「締切の近付いていた勝負服の希望案、ざっくりですけど描いてきたので見て欲しくて。ウマスタの話は平日に現物着て来れないので、こっちの件のついでにと」
そう言って取り出したデザインは、暗無彩色を基調にしたデザイン。身体に触れる衣類は黒で固め、ジャケットとか首元・手首は灰色のアクセで少し印象を変えてみた。まあ、率直に言っても──
「──驚くほど地味なデザインだな?」 例の人から本当に学んできたのか? とでも聞きたげな視線で私を見るトレーナーさん。その反応は正直予想通りだった。うん。本当に予想通り。 「はい、これが私からの希望案です。詳細は担当の人と詰めるとは思うんですが、構想自体はこれが良いです」 「分かった。ただ意図は聞かせてくれ。『灰色とか目立たない色は印象がぼやける』って聞いた後のこれは、やはり不可解でな」 「……はい、『ぼやけた存在になりたいから』こうしました」 声のトーンを落としながら、どろりと意思の抜けた視線でトレーナーを見据える。 「普段の私は、色々なことを楽しむ、ありふれた女の子」 「でも、レース中はただの略奪者」 「優美に着飾り、堂々と掲げるはずだった勝利を、ただ奪い取る背後からの愚者」 「誰の目にも止まらなかった存在が、全部を台無しにする……その一瞬のために走る」 「だから私は、目立ちたくない。最後の最後、その時まで」 「輝かしい虚飾より、静かな無を。私は……少なくとも、レースの中ではそうありたい」 淡々と思いを告げ、持参していたペットボトルを呷る。一息、トレーナーの返事を待つ。 「……『そっち』でも、まあまあ喋るようになったな」 それだけ言って、自分の机にファイルをしまうトレーナー。 「分かった、そこまで決まってるなら俺としても問題ない。先方からの差戻しが来ない限り希望で通そう」 「……ありがとう、ございます」 互いに要件は以上、ということで一礼を残し部屋を後にする。『普段の私』と『走者の私』、その区別を意識できるようになったのはきっと成長なのだろう。 心の中で名講師に今一度の例を告げながら、私は寮へと戻り。
「……あっ、写真撮ってもらってない!」
前言撤回、もう一度トレーナーさんの部屋まで急ダッシュで戻るのであった。 |
第2.5-2話:ハロー・マイ・アクセサリー
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「──と、今日の振り返りはこのくらいでしょうか。聞いておきたいことはありますか?」
「いえ、大丈夫です! 今日も一日ありがとうございました!」 例年にも増して凄まじい暑さが肌を焼く夏の日……あれ、もう夏だっけ、まだだっけ? まあいいや。そんな時期にうってつけのプールトレーニングを終え、適度に冷房の効いた部屋でミーティングを終えた私とトレーナーさん。 いつも通りなら、まだ暑さの残る屋外に出なきゃってことで、少しだけげんなりする時間。 「ああそうだ、ミラージュさん。もう少々お時間よろしいですか? 聞いて欲しい話がありまして」 「……? はい、大丈夫ですけど……」 ただ、今日は珍しくトレーナーさんが呼び止めてきた。特に用事も入ってなかったから、別に構わないけど…… 「そう大した話ではないですよ。リラックスして……『素が出るくらいのテンションで』聞いてくれればいい」 「…………『何?』」 挑発と作為が透けて見える声に、私の口も冷ややかな言葉を返す。2人で作り上げていた和やかな空気は霧散し、ただ緊張が部屋の中に張り詰めていた。 「6月28日。トレーナーが何も渡さないってのも薄情な話だからな。受け取ってくれ」 そう言いながら差し出されたのは、彼に到底似合わない煌びやかな包装付きの箱。群青のリボンに金粉のような輝きが浮かぶそれは、どう軽く見ても適当に渡すものじゃないという重みを伝えてくる。 無言で結び目を解き、中身を取り出す。じゃら、と小気味良い金属音を奏でるそれは、金の鎖に群青の雫を吊るしていたアクセサリーだった。 「ネックレス、誕生石付きのな。いつか話していただろう?」 「ラピスラズリ……」 『12月の』誕生石、瑠璃或いはラピスラズリ。「崇高」や「真実」を石言葉とするそれは、今年のラッキーカラーにも近いという話をいつか教わった。……薄暗く色ぼけた私に似合うかもしれない、とも。
「……馬鹿なの? こんな高級品……」
プレゼントを貰っておいて、とんだ暴言。でも……そこまで長い時間を過ごした訳でもない、恋仲でもない……ただの教え子に、こんな高価な物を渡す? これが『私』だったなら、たいそう大袈裟に驚きながら恐縮ばって感謝の言葉を伝えたんだろう。でも、私を呼んだのは他ならぬ彼自身。遠慮なんて知らない。 「安心しろ、数回外食行けば払える程度の代物だ。迂闊な物渡して調子崩されるより余程いい。このくらいの金比率ならアレルギーも起きにくいしな」 そういう問題じゃない、とは思いつつも、私を気遣ってくれたことに少しだけ落ち着く。外食数回分なんてデリカシーに欠けたような発言も、遠慮がちな私を慮っての言動だろうから。 「真珠も調べたんだが……『純粋』なんて俺にもキミにも真逆だろう? んで『長寿』だの『健康』だのはトレーナーの……俺の果たすべき役目だ。それを石に祈るというのは、どうも性に合わん」 ちゃらり、ちゃらり。トレーナーの声を聞いていると、視線で「付けろ」と促される。両手の指で鎖を掬い、そのまま首の後ろへ。小指の爪より小さい群青の雫は、しかし確かな重みを私に伝えてきた。 「……『崇高』なる『真実』を。キミの未来が虚飾に満ちた末路を迎えるか、正しくキミらしい実像を結ぶか。いずれにせよ……その姿を拝めるとすれば、このくらいは安いものだ」 「トレーナー……」 付けた時の弾みで揺れていた石も、有るべき場所へ着いたように動きを止めて。私の首元、心臓の少し上に留まっていた。 「似合ってるぞ、安心しろ。……誕生日おめでとう、カラレスミラージュ」 「……ありがとう、トレーナー。大切にする、このネックレス」
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いつか、誰かから聞いた話。贈答品としてのネックレスが持つ意味……束縛心。
かつて、彼は私に言っていた。私を担当すれば面白いものが見られるだろうと。……鎖で縛って、決して逃がさない。それが愛玩動物に向ける目か、玩具に向ける思考かは別として……きっと、手放したくないんだろう。私の事を。 でも、その手を離せないということは……貴方は、私に縛られているのと変わらない。雁字搦めになった手の先に、枷が付いているなんて気づかないまま。 ……そういえば、貴方はこうも言っていた。どうしてあの日、私を素にさせたのか…… 「誕生日くらい、重荷を下ろしてもバチは当たらないだろう」と。 「家族相手には気を張っていなかっただろ? 俺は家族じゃないが、弱みはとっくに握ってるからな」とも。 そう言った小賢しい気遣いが……私にとっては酷く心地良いわけで。 けれど、貴方に向ける感情は、家族に向ける物とは違う。安らぎと優しさを齎してくれた家族には、私も素直に……硬いながらも素直に接していた。でも貴方は違う。こんなドロドロと澱みのように沈む感情を、家族相手に向けていい筈がない。 貴方は、貴方の為に私を利用する。それは別に構わない。代わりに私は、私の為に貴方を利用する。ただそれだけ。その過程の中で、私の罪に、私の罰に、貴方を付き合わせるとしても。たとえ二人揃って、地獄に堕ちるような愚行を犯したとしても。 ……こういう関係のことをなんと言ったか。そうだ、確か──
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第3話:希望の星と新時代の信号機 (ホープフルS編)
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カラレスミラージュと担当トレーナーが次走に選んだのは、9月後半のOPは芝2000m、芙蓉ステークスだった。2000mを切ると途端にパフォーマンスが劣化する彼女に配慮しての選択だ。試しに学内で1900mを走らせた日には、100mも縮んだのにタイムが1秒「伸びた」のを見てトレーナーが乾いた笑みを浮かべていた。
ジュニア級は短距離戦やマイル戦に重きを置いている都合上、率直に言って彼女のようなウマ娘には辛い環境と言える。そんな中での出走であったが、結果は3着と惜敗。彼女の走り自体は悪くなかったのだが、先頭集団が横長のまま最終直線を迎えた都合、抜け出すことに失敗した末の着順となった。
「逃げウマ娘ならともかく、お前が最内枠を引くのも考え物だな……次があれば一回大外に出てみろ。トップスピードに乗れればロスは解消できる、というかお前の場合最高速を出せなきゃどっちみち負けるから一緒だ」
「わかった……」
迎えた3戦目、11月後半のGⅢは芝2000m、京都ジュニアステークス。再び内側から始まったレースだったが、前が伸び切らないうちに余裕を持って外側に周り、驚異的な末脚によって無事1着入線。着差自体は1/4馬身にも満たない僅差であったが、内ラチから20m以上離れてこの結果ならば十分だろう。
「お疲れさん、これでお前も重賞勝ちウマ娘か。気分はどうだ?」
「……まだ、これから」 「それを聞いて安心した。ここで満足されてちゃ担当の甲斐も薄れるからな」
喜びなど無いとばかりに淡々と述べるウマ娘、その姿に悪態を吐きながらも笑うトレーナー。彼女達が次走に選んだのは、年末のグランプリ、有馬記念の後に開かれる……もう一つのGⅠレースにして年内最後の舞台。
中山11R、芝2000m。その場には、誰をも魅了し、心を奪う希望の星が誕生すると謳われる。 少女は希望の星を喰らう暗雲として、ホープフルステークスに出走を決定した。
〜〜〜〜
私は、あまり身体に肉が付かない体質だ。多分代謝が良くない……むしろ良過ぎるのかな? それでいてトレーニングやレースは好きだから、つい動き過ぎて体重が落ちる。普通の女の子なら体重なんて軽ければ軽いほどいいんだろうけど、生憎と私は競技者なもので。
肉の付いていないアスリートは体力が付いていないアスリートと同じ、そうトレーナーさんに言われ、食べる量をたっぷり増やすことを心掛けている。トレーニングの開始までは時間もあるし、言いつけ通り余裕を持ってゆっくり食事を堪能する。 トレセン学園の食堂は貧乏生徒にも優しい、大した出自でもない一生徒にこれだけの量を提供してもらえるなんて。席も埋まり始めていた中で、4人掛けの机を独占するのも申し訳ないな、なんて思いながら。1人静かにご飯を食べる……はずだったんだけど。 「ふふふ......トレーナー様......ふふ......♪」 「いつも通りラブラブ! 後ろ姿だけでメロメロになってる!」(ぐぎゅるるるるる......!) 「ミツバはとりあえず戻ってきなさーい。ヘルツは仕方ないけどお腹うるさいよー。......ごめんね、騒がしくしちゃって。もし良かったら、私たちも相席させてもらって構わないかなー?」 「あ、は、はい……?」 とんでもなく個性たっぷりな3人の来襲で、私の平穏な昼食は終わりを迎えたのだった。
少し跳ねた赤い髪の少女。ボリューム豊かな青い髪が左右に広がっている少女。ウェーブ? パーマ? とにかくうねうねした黄色い髪の少女。……信号機か何か?
青髪の娘は食事に手を付ける様子もなく頬に手を当ててうっとり陶酔してるし、逆に黄髪の娘は私達3人に目もくれず大量の料理を貪り喰らっている。仕方なく赤髪の娘に視線を向けると、彼女も疲れ半分申し訳なさ半分くらいの感情を乗せてこちらの目を見つめていた。 「いや本当に騒がしくてごめんねー……あっ、私は1年のガーネットスクエアって言うんだ。せっかくだし名乗っておかないとね、スクエアとでも呼んで、カラレスミラージュちゃん」 「ご丁寧にどうも、スクエアちゃん……って私のこと知ってるの!?」 「もちろん。同じ日にメイクデビュー勝ったってことで名前覚えたんだー。確か東京だよね? 私が阪神走ってたの。この2人も……って、そういえば名前伝えてなかったね」 そこで一区切りを付けると、それぞれの少女を手で示しながら紹介してくれる。 「この青い子が、ミツバエリンジウム。私はミツバって呼んでるー。あの日は中京を走ってたよ。普段はいい子なんだけど、トレーナーにゾッコンすぎて……うん……」 「それでこっちの黄色い子が、ヘルツマタドール。ヘルツって呼んでるよー。メイクデビューは中山だったかな。食欲が旺盛なのはね、うん、いいことだと思うんだけどね……」 2人の情報を脳内でメモしながら、私は確信する。スクエアちゃんは絶対苦労人だ。初対面らしく彼女を慰めながら、私も自分の皿に手を伸ばす。話題がてらに3人の関係とかを聞きながら。
──とは言っても、3人のことはある程度知っていたんだけど。
ガーネットスクエア、ミツバエリンジウム、ヘルツマタドール。トレーナーさんがあの日から注目していた、そして今は危険視している、私の同期のウマ娘たち。
1600とか1800とか、距離やレース場が違うから厳密には比較できないけど。メイクデビューで全員が2番手に5バ身差以上を付けていたすっごく強いウマ娘。選抜レースの時点で類い稀な才能を見せつけながら、揃って今年着任の新人トレーナーをスカウトしたっていう変わり種なエピソードの持ち主。 確かスクエアちゃんだけ3戦3勝で、他2人は2戦2勝だったかな? 確か12月中に出走するって聞いた。今はマイルを主戦場にしてるけど、適性が広いからってことで中長距離の出走を目指しているのも読んだ覚えがある。まず間違いなく、今年の三冠路線を引っ張っていく逸材だろうと。 ここまでが公式で出ている情報、だからスクエアちゃんが私を知っていたように、私も3人を知っていたのは当然の摂理。それをわざわざ教える義理もないんだけどね。
「へえ、みんなは幼馴染だったんだ! それでそんなに距離感近いんだね」
「そうそう、あとトレーナーも3人とも同期でねー。小さい時はよく一緒に遊んでたよ。あの時からミツバはどっぷり恋に落ちていたなー」 どことなく間伸びした口調で話すスクエアちゃん。曰く、3人は「自分が三冠を取る!」って言って、トレーナー3人が「だったら俺/僕/私が担当して三冠にしてやる!」ってなったらしい。そして揃ってライセンスを取ったのが去年、今年に着任して入学してきたスクエアちゃん達を迎えたと。
……どこまで主人公みたいな出自が許されれば気が済むの?
「ということは、次の目標はやっぱり皐月賞?」
「(もぐもぐ……ごくん!) もちろん! そして私が勝つ!」 「その前に、トライアルを勝って優先出走権を手に入れないとね……?」 「ミツバお帰りー、ヘルツはちょいちょいトライアル忘れるの気を付けて。取材とかでそれやったら大変だよ?」 元気に叫ぶヘルツちゃんと、やんわり補足するミツバちゃんにのんびり嗜めるスクエアちゃん。なんとなく、さっきの話と目の前の会話で3人の力関係というか間柄が分かった気がする。 「ミラージュちゃんはホープフルSに出るって聞いた!」 「ということは、その流れで皐月賞に直行する予定かしら?」 「うん、そんな感じ。トレーナーさんから『使える距離が限られてるから出られるところを出よう』って言われて」 後半は嫌ってほど突きつけられた事実。どうも2000m未満になるとスイッチが切れたみたいに走れなくなる不思議、なんか気分が悪くなるというかギアが入らないというか。だからこれは本当。 けど『トレーナーさんから』って部分は嘘。実際にはみっちり相談したけど、切り出したのは私から。ただ「俺からってことにしておけ」って入れ知恵に従っている形だ。 「その日なら3人とも空いてるはず! トレーナーと相談してOKなら現地行く!」 「同学年の同期、それもライバルになりそうな相手のことはしっかり見ておかないとねー」 「そしてトレーナー様と……ふふふふふ……♪」 「相変わらずだけどミツバは自重しなさーい」 「あはは……」 やっぱり個性の濃い3人に押されながら、せっかくの機会ということで各自の出走予定についても聞いてみる。警戒という言葉を知らないのか、それとも知られたところで問題ないなんて自信の表れか、3人とも包み隠さず詳細に教えてくれた。 トレーニングの時間も近付いてきたので、程々のところで切り上げて席を立つ。ちゃんと笑顔でお礼も忘れずに。みんなも笑顔で手を振って、私を見送ってくれた。
……ああ、本当に███い。
〜〜〜〜
「それでお前、トレーニング中機嫌悪かったのな」
「分かってたの……?」 「目尻の皺と、あと口角の上がり具合。他にも色々あるが、前提を知っていればそこまで難しい話でもない」 「そう……」 本番が近いということで、体力が落ちないよう軽めの走り込みを済ませて。月末のレースについて相談する前に、少し時間を取ってもらって話し始めたのは昼の話。例の3人に関する情報共有だった。 「……連中、幼馴染だったのか。俺が見た時には全くそんな素振りを見せなかったが」 「『メイクデビュー勝って、華々しくトゥインクルシリーズに殴り込むまでは一回離れよう』。『トレーナー共々、中央で成長した姿で互いに再会しよう』って」 「童貞が書いたギャルゲのシナリオか何か?」 どーてー、とかぎゃるげ、とかは良く分からなかったけれど。反応からして私と同じような結論に行き着いたのは想像できる。はっきり言って「出来過ぎている」から。こんなドラマチックな相手が同期なんて、華々しさに目を潰してしまいたくなる。 「まあ、連中の動向が分かったのは素直によくやったと言おうか。全員3月のトライアル選ぶなら、そこを避ける意味でもホープフルの勝ちが重要になってくるな……」 「……? トライアルに出ろって言われても、勝つけど……?」 トレーナーの不可解な発言に疑問符が浮かぶ。まるで私と3人とを走らせたくないみたいな言い方。格付けが決定するのを恐れている? そんな視線に気付いたのか、手元のペンをくるりと回しながらトレーナーが言葉を繋いだ。 「いや、お前が負けるとは……思ってないと言えば嘘になるな、レースに絶対が無い以上は。ただそれ以上に、お前が連中と『一緒に走って』、手の内がバレるって状況を回避したい」 「手の内……?」
「お前の走りは独特だ。まだ完成までほど遠いが……デバフって分かるか? ゲーム用語、要するにステータスを下げる技なわけだが」
「尻尾を振ったり怖い顔になるアレ?」 「ああ。何度でも言うが、お前の身体性能はそこまで突出してるわけじゃない。末脚の最高速は目を見張るものがあるが、それを活かすにしても周りの環境が重要だろう? 必死に先頭へ食らい付こうとしてる連中にはギリギリで競り負ける可能性があるが……その戦意を削げるとしたらどうだ?」 「それが、デバフ?」 「ああ。気になるならメイクデビューの第4コーナー見てみろ。抜かれかけてる連中の速度が下がってるのが目に見えて分かるぞ。まあメイクデビューなんてメンタル出来上がってないウマ娘の集まりだから、これだけで適性を判断するには本来不足だが……お前の場合は、な」 ここまで言えば通じるだろ、とばかりに一度言葉を切り、飲み物を取りに向かうトレーナー。こういうところの配慮が、この男を信頼したくなる理由の一つなんだろう。……周囲を怯えさせて強張らせる、なんて過去に何度もやっていたんだから。 「戻った。それで続きだが……まあ皐月賞まで当たらないってのは安心した。それで、連中はどのレースに出るって言っていた?」 「ガーネットスクエアが弥生賞、ミツバエリンジウムがスプリングS、ヘルツマタドールが若葉S」 「なるほどな……」 ホワイトボードに私の発言を書き留めながら、顎に指を重ねて考え込むトレーナー。私には見えないくらい細かな文字を、書いては消し、書いては消しを繰り返していた。 「オーケー、大体は分かった。目下火急の話って訳でもない、この話題は年明け以降に回すが構わないか?」 「…………」 コクリ、と首肯の意思を示す。私はそこまでキャパが多い訳でもない、目の前のレースに集中しろと言うなら喜んで従おう。 「ならホープフルの話をするか。今回は大分骨が折れそうだが……」
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コンコンコン。木扉が立てる小気味よい音に、トレーナーさんが返事を返す。中に入ってきたのは、いつも通りニコニコ笑顔のヘルツちゃん、この世の全てに絶望したような顔のミツバちゃん、そしてそんなミツバちゃんを困り気味の顔で支えるスクエアちゃんの3人だった。
「ミラージュちゃんお疲れ! 勝負服も似合ってる!」 「トレーナー様……トレーナー様……私は……私は……」 「コレしばき倒して落とした方がいいかな……ミラージュちゃん、お疲れ様ー。いよいよGⅠに挑むって気迫が見えてくるような気がするよ」 「皆さん、ありがとうございます! 本当に応援に来てくれるなんて……!」 「トレーナーさん達は忙しくて連れて来れなかったけどね。そのせいでミツバがこのザマなんだけど」 「嗚呼……トレーナー様……嗚呼……」 「ミツバは放っておけば直る! それよりミラージュちゃん! 観客席で見守ってる!」 「許されるなら、ミラージュちゃんのトレーナーさんに同伴してもらえると嬉しいんだけどー、まあ無理は言えないからね」 「私でよければ構いませんよ? ゲートに入ってしまえば後は彼女の勝負。その間に出来ることはそう多くありませんから。ミラージュさんも構いませんか?」 あ、これ「あわよくば何か聞き出してやろう」って考えてるなトレーナーさん……? 一目見ただけで分かった、こういうところが悪どいんだよね本当に。けど止める理由もないし。 「はい! 皆さんのこと、よろしくお願いしますね!」 「というわけです。では最後の打ち合わせがあるので、フロント近辺で待機していてください。私から迎えに行きますので」 「「はい!」」 「おお……おお……」 「ほらミツバ、さっさと行くよー。あんまり酷いならトレーナーさんに報告するからねー?」 「…………」 両脇を抱えられ、連行される宇宙人みたいな格好で部屋を後にする3人。あの中だとミツバちゃんが一番高身長なはずなんだけどな…… 「面白い友達ですね、仲良しな相手が増えるのは何よりです」 「あの光景を見た後で、その言葉を素直に受け取ってもいいんでしょうか……?」 「中高生の友好関係なんてそんなものですよ。特に向こうから来てもらえるというだけで、今の貴方にはいいリハビリでしょうから。……さて、本題に入るぞ」 「……ええ」 その一言で、控室の空気が締まったのを感じる。私と彼以外、誰も存在しない空間。この場で行われる全ての会話は、誰にも……彼女達の耳にも入らないという、一種の安心感が存在した。 「勝負服、着心地はどうだ?」 「完璧。私にはこのくらいが丁度いい……緊張してるはずなのに、落ち着く」 私が希望した通り、肌によく馴染む黒のシャツとロングスカート。灰色のジャケットは厚すぎない生地のお陰で、上半身の可動域を損ねることなく適度な重みを伝えてくる。手首のリボンはアクセント程度、首のチョーカーも呼吸血流何もかもを妨げることなく、ただ吊り首の様相を呈していた。勝負服がウマ娘に力を与えるというのは単なるプラシーボかと思っていたが、思いの外バカにできない話らしい。 「よし。なら次、作戦については?」 「大体覚えてる。どこでスパート掛けるとかも」 「なら構わん。さっきも言ったが、実際に走るのはお前だからな。途中でプラン変更しても全く構わないし、むしろ状況に応じて上手く対処してくれ」 「…………」 首肯。 「じゃあ最後。……体調に問題は?」 「あると思う?」 「よし、なら言うことは無い。ジュニア級とはいえGⅠ、晴れ舞台だ。盛大に暴れてこい……カラレスミラージュ」 「ええ、勝利を」 地下バ道を歩き、コースへと向かう。凪いだ空間に少しだけはためいたジャケットの裾を眺めながら、少しずつ来たる瞬間へ思考を研ぎ澄ませていった。
【3番人気、マーメイドジュノン】
パドックへの入場が着々と完了し、アナウンスが響き渡るのを尻目に、待ち合わせ場所へと向かっていた。相手は当然、件の3人娘。担当も見抜いていたようだが、トレーナーがいない状態なら迂闊な対応をしない限り此方にとっても有用な情報源となる。 聞いた話、3人の担当は教育課程を終えて出たばかりの新人ってことらしいからな。元からの知人ということもあって、俺みたいに担当を信用せず、情報統制を掛けるなんて真似はしていないだろう。 【2番人気、エヴェレットアルカ】 「お待たせしました、皆さん」 「ミラージュちゃんのトレーナー!」 「お疲れ様です、無事合流できてよかったー」 「先ほどはお見苦しい姿を……」 「私も彼女も気にしていませんから。大丈夫ですよ」 【1番人気、コロンビアエルビラ】 「あれ? ミラージュちゃん、名前呼ばれてない! 不思議!」 「資料によると、ミラージュちゃんは4番人気……彼女ほどのウマ娘が……?」 素直に叫んだヘルツマタドールに出走表を見せながら、当人も首を傾げるミツバエリンジウム。というか彼女、冷静になるとこんなに物静かで落ち着いたウマ娘に変わるのか…… 「2番人気のエヴェレットアルカと3番人気のマーメイドジュノン、東京スポーツ杯のワンツーだったよねー。あっちはGⅡだし、格としてはGⅢの京都より上だから納得かなー」 「1番人気のコロンビアエルビラは京都で3着。1着は言うまでもなく彼女ですが、2着3着がハナ差だったこと、2着のマヤウェルローマが出走を回避しての参戦となれば……判官贔屓でしょうね、恐らく」 それに答える形となった、ガーネットスクエアと俺の発言。この少女、思った以上によく調べている。彼女から苦労人リーダーという話は聞いていたが、その真意を一部とはいえ理解した気がした。 「けど、ミラージュちゃんなら勝つ! よね!」 「その応援のために、私たちも来たわけだから」 「というか、次以降はきっと対戦相手だろうからねー。素直に応援できるのは多分今回だけ、なら楽しんでいかないとー」 ……いつかは打ち果たすべきライバル達。今回戦う相手とは比較にならないほど、この3人の才能というものが透けて見える。下手をすれば1人1人が時代を作ったであろう傑物、それが幼馴染として3人揃って殴り込んでくるという悪夢。
さあ、この悪夢を討ち滅ぼすほどの……『希望の星』は、誰に輝く?
【誰をも魅了し、心を奪う希望の星が誕生する! ホープフルステークス!】
【3番人気はこの娘です、マーメイドジュノン】 【2番人気を紹介しましょう、エヴェレットアルカ】 【スタンドに押しかけたファンの期待を一身に背負って、1番人気コロンビアエルビラ】 【火花散らすデッドヒートに期待しましょう】 【ゲートイン完了、出走の準備が整いました】
【今スタートが切られました!】
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今年の出走者は、フルゲート18人。エヴェレットアルカが逃げを打って先頭に躍り出るのを、先団でコロンビアエルビラとマーメイドジュノンが牽制する形になる。一方のカラレスミラージュは相変わらず最後方17番手。盛大に出遅れた18番手が本来は先行脚質だったことを考えると、担当までを見れば十分だろう。
先頭から後方までは25バ身縦長の隊列、まあ実質は20バ身程度だろうか。400mほどを経過して最初のコーナーに差し掛かる。GⅠという空間に呑まれ始めたのか、それとも別の要因か、この早い段階で先頭集団から振り落とされ始めるウマ娘が見られ始めた。 「中山2000m、ホープフルと皐月賞って全く同じコースを走るんだよねー」 「なのに、たった4ヶ月だけで結果が大きく変わってしまうというのが、トゥインクルシリーズの恐ろしい所」 「今強いウマ娘はこの後も強い!」 1人、的外れなことを言っている気もするが、別段放置していても問題はあるまい。800m地点、下り坂を経てコーナーから直線に差し掛かっていく。今まで悠々と先頭を進んでいたエヴェレットアルカも、この緊張状態でトップペースを保つのは難しいらしく。残り1000mに差し掛かった頃には、先頭後方間の距離は10バ身ほどまで縮まっていた。 「見てるだけで緊張感がビリビリ伝わってくるの、本人達はどんな心境なんだろうねー」 「固まって突っ張ってしんどい!」 「うん、だけどミラージュちゃんは……」 レース開始時点で後方に控えたカラレスミラージュ。彼女は走るペースを落とすことなく、コンスタントに上り下りの坂をいなしている。1200m地点を超え、残り800m。コーナーに差し掛かった所で……彼女が斜めを向き、両手を握り締めたのを見た。 「えっ!?」 「ま、まさか……」 「内ラチ突っ込んでブチ抜く気!?」 3人の予想通り、見る間に内側へ潜り込んで加速を始めていく。これが先団で行われれば斜行妨害に他ならないが、後ろに誰もいない空間で行われれば何ら問題なく。16番手、15番手、14番手……一人、また一人と相手を撫で切っていき、みるみる速度を増していく姿が見えた。
『……内側? それで前は負けたけど?』
『芙蓉Sの時はな。あの時は内側もしっかり隙間が埋まっていたから詰んだ訳だが、ホープフルなら3人分……狭くとも2人分は内ラチが空く』 『根拠は?』 『コロンビアエルビラ。さっきも言ったが、お前の走りは端的に言って相手をビビらせる戦法なんだよ。一度アレに当てられて、しかも大差が着いた訳でもなく惜敗だった以上、【あの一瞬さえなければ】と考えるはずだ。意識的か無意識的かは別にしてな。ここまでは分かるか?』 『……続けて』 『実際にはもう一つ、お前あのレースで大外ブン回して勝っただろ? アレを見た以上、インを突くって行為が思考から外れる。他の相手ならともかく、今回の相手はお前本人だから特に』 『…………』 『そんなわけで、3番人気以上……俺の予想では2番人気だが。そんな位置に食い込んでくるウマ娘が内を詰めるなんて考えず、なりふり構わない走りで先頭を目指してみろ。周りも余裕無くして、差を広げられないことで精一杯になるはずだ。後はほとんど踏まれてない経済コース突っ切って勝てばいい』 『最内枠引かれた時点で破綻しない?』 『初のGⅠでコーナー完璧に曲がれるウマ娘が出走してるなら諦めろ。今回の面子でそれが可能なのはお前含めて存在しないし、存在するならソイツを前提に作戦組み直しだから今までの話は意味がない』 『分かった』 『なら後はスパートだな。まあこれは単純だ。直線からコーナーに差し掛かる1200m地点、ここでもう一回振り回されるはずだからそれを見て加速を開始しろ。この辺りで7番手くらいまで上がれるはずだから、後は最終直線に掛けて──』 「「──何も考えず、ブチ抜いて差し切れ」」
「あああああああああッッ!!」
「────ッ!」 残り300mを切って、最終直線。先頭で競り合っていたエヴァレットアルカ、マーメイドジュノンの脚色は既に衰え、コロンビアエルビラが先頭を独走する……ように見えて、後ろから駆け上がってくるウマ娘が一人。彼女に抜かれる度、周りのウマ娘は萎縮し、速度が落ちていくのが誰の目にも伝わってくる。それは前方の2名すら例外でなく、200mを切った頃には5バ身差を追うコロンビアエルビラとカラレスミラージュ、彼女達による一騎討ちの様相を呈していた。 目を見開いて歯を剥き出しにするほど噛み締め、全力を振り絞って逃げようと試みるコロンビアエルビラ。何が何でも負けられない、負けたくない……悲壮なほどの覚悟が、観客の心に突き刺さる。 一方、無表情で淡々と追い上げるカラレスミラージュ。その目に光は一切無く、ただ濁り切った双眸がコロンビアエルビラを捉えて離さない。きっと内心では……肉体は、とうに脚も肺も悲鳴を上げていることだろう。それでも、彼女はそれを見せない。誰の目にも見えない。 無彩色の蜃気楼。そこに在るか無いかすら定かでないものを、平静ならざる少女達が理解できる筈もなく── 【──ここで先頭変わってカラレスミラージュ! なんということでしょう! とうとうコロンビアエルビラさえ抜き去って、なお脚色は衰えない!】 残り100m、勝負は決した。既に1/2バ身ほどの差が開き、その差は決して埋まることがない。50m、25m、10m……コロンビアエルビラも懸命に追従するが、一度開いた差を埋め直すというのはあまりに難しい行為であり。 【カラレスミラージュ、今1着でゴールイン! 実力を如何なく発揮し、レースを制した!】 ここに、ジュニア級中距離最強のウマ娘が誕生した。
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空を裂くような拍手と共に、私へ向けて祝福の言葉が投げられるのが聞こえる。4番人気での勝利、「勝つかどうか」は別として……「勝って欲しいか」って観点だと、そこまで上位というわけでも無かったはずだが。それでもこうして祝ってもらえるのは、素直に嬉しい。
流石に呼吸も荒く、今すぐ笑顔を演じろと言われても厳しいが。一歩、一歩と観客スタンドを見据えながらゆっくりと手を振る。ふと、視線が動いた。遠目から見てもわかる程度には、主張の激しい髪の少女が3人と、その横でゆっくり両手を重ねる眼鏡の男。しっかり見ていてくれたようで一安心。3人については私の素がいくらか見られた気もするが、メイクデビューを筆頭にレース結果を洗われていた時点で今更だろう。案内の人の指示に従って、もう一つの戦場……ライブ会場へと足を進めた。
『夢のゲートひらいて 輝き目指して 行こう! みんなで GO TO THE TOP!!』
ライブ中の笑顔もいくらか様になってきたようで、すっかり目にハイライトを取り戻した担当がステージで輝く姿が見える。観客席に響き渡る甲高い悲鳴、隣を見てみれば引率してきた生徒が髪色に合わせたサイリウムを振っている。というかヘルツマタドールはともかく、ガーネットスクエア、お前そんなに熱狂的なタイプだったのか? 観客席がなければライブステージまですっ飛んで行きそうなほどヤバい顔してるが。というか何ならライブが終わった後も狂い振っているが。
「ヒューーーーーーッ!!」 「イェーーーーーーィ!!」 「……もう少しだけ、待ってもらっていいですか? やっぱり友達が勝ったっていうのが嬉しいみたいで」 「ええ、構いませんよ。ミラージュさんが戻ってくるまでもう少し時間はありますから」 1人落ち着いて佇んでいるミツバエリンジウムに言われ、係員の許可を得て座席に座り直す。担当トレーナーが絡まなければ一番まともなのは彼女なのでは……いや、ライブが絡まない時にガーネットスクエアがまともだったことを思うと論ずるだけ無駄か。それにしても。 「ミラージュちゃん、レースだけじゃなくてライブも凄かったですね」 「ええ。担当トレーナーとして、どうしても贔屓目が入ってしまっているかもしれませんが」 「声の伸び方、指先から肩に掛けてしっかり張った姿勢。他の娘との連携もよく取れていました。周囲を見る目に長けているんでしょうね」 「ふむ……」 両手を組んで一人思案。視野の広さというのは、決定的で無いにせよ彼女の強みの一つではあるんだろう。素性を考えれば心底納得できる。今日のレースにしても、前もって伝えておいたとはいえラチが空いた瞬間に突っ込んでいけるのは「それが見えているから」に他ならないわけだからな。 「ただ……勝負服が、その……」 「地味?」 「随分バッサリ仰いますね……!? まあ、はい。きっとデザイナーさんも考えがあってのことだと思うのですが、まだ浮いてしまっているような感覚というか」 「ああ、あのデザイン希望を提出したのは彼女自身ですよ。恥ずかしがると思うので此処では伏せますが、しっかり考えあっての依頼でした」 地味過ぎて浮く、というのは想定外だった。まあ「ENDLESS DREAM!!」は明るいポップ調の曲だからな。クラシック路線の「winning the soul」とか、アイツには無理だろうがダート路線の「UNLIMITED IMPACT」のような曲なら映えるのだろうか。 「……流石に、待たせ過ぎてしまっていますね。2人は責任を持って持ち帰りますので、トレーナーさんはミラージュちゃんに合流してあげてください。どうぞよろしくとお伝えいただければ」 「ええ、確かに。本日は担当のために来てくださって、ありがとうございました」 礼儀正しく腰を折ってそう言い残すと、幼馴染2名を担いで会場を後にするミツバエリンジウム。……米俵? あれウマ娘か? 米俵か? …………合流するか。
コンコンコン。
「カラレスミラージュさん、私です。入ってもよろしいでしょうか?」 「……はい、大丈夫、です!」 途切れ途切れの返答を聞きながら扉を開く。そこには顔を伏せて俯くミラージュの姿。意図を察し、すぐに扉を閉める。金具の音につられて上体を起こす、その瞳から光は消え失せていた。 「冒頭のトークも含めれば大体5分、実際には客演者との交流もあるからもっと長いか。よく耐えたな」 「……あの後、ポップスは、キツい」 「OP戦やGⅢと比べても比較にならなかっただろうからな。疲れるのも無理はない。連中はもう帰ったから安心しろ、『どうぞよろしく』と言伝は預かっておいた」 「……ありがと」 ジャケットを肌蹴ながら腕で目を隠すような無防備な姿に、ひとまずタオルを掛けてやる。眩しい光を浴びながらの睡眠は質が落ちるし、シャツ越しとはいえ女なら男の前で胸を晒すな。そんな振る舞いが許されるのは医療現場くらいだ。……最悪、背負って車にブチ込むのも考えた方がいいだろうな。控室は暖房が効いているといっても、時間が来れば撤収しなければならない。だったら早めに行動を起こすことも必要だろう。 様子を見るために視線を向けてやれば、疲れ果てた呻き声ではなく、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。刺激を与えない程度に目元のタオルを外してみると。 「寝てるな、お前……」 軽く手を置いてやっても、眼球が動いている気配はない。ノンレム睡眠……ガッツリ眠っているのが分かった。ここまで明確に落ちているなら、運ぶのも躊躇する必要はなさそうだ。 横抱きは両手が塞がるが、寝ている相手の腕やらを動かして起こすのも忍びない。係員の助けを借りながら、何とか後部座席に運び込むことは成功した。これが交通機関を使っていたら相当に難儀したことだろう。冷えないように毛布も大量に掛けておく。元とはいえ俺が管理しておいて体調不良とか、笑い話にもならないからな。 「……お疲れ様、カラレスミラージュ。お前はよくやったよ」 クラシック級、シニア級……この後より過酷なレースが続き、仮に成果が残せなかったとしても。今日この瞬間掴み取った栄光は、決して翳ることはない。……今この瞬間だけは、ゆっくり休んでもバチは当たらないだろうから。
良い夢を、無彩色の蜃気楼。
【中山レース場 第 9R 芙蓉S (OP) 3着:カラレスミラージュ】
【京都レース場 第11R 京都JS (GⅢ) 1着:カラレスミラージュ】 【中山レース場 第11R ホープフルS (GⅠ) 1着:カラレスミラージュ】 |
第3.5話:Blank,Black,Bitter,Better
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2月も半ばの昼下がり。トレーニングを終えた担当が休んでいるのを尻目に、溜まってきた書類を捌いていると、彼女がいきなり俺を呼び付けてきた。
「トレーナーさん、トレーナーさん!」 「はい、なんでしょう?」 思えば、コイツが直接用件を伝えないまま呼ぶなんて珍しいな……なんて考えながら向かうと、彼女は手に持った銀色の包装を破り、中身を咥え始める。そして俺の前に立てば、そのままずいっと首ごと顔を突き出して来た。 「……何の冗談ですか、これは?」 国民の大半が知っているであろう、棒状の焼き菓子にカカオマスと砂糖の混合物をまぶした代物。顧客の指先にでも配慮したのか、持ち手さながらに何も塗られていない側を俺の方に向けて。唇の動きに追従してふるふる揺れる先端に、何とも言えない感情が浮かぶ。 「……さくさく……ごくっ。何ってポッ○ーゲームですよ? バレンタインの時期に友達と遊ぶ……もしかしてご存知ないです!?」 咥えていたポ○キーを齧れば、袋から新しい1本を取り出して「ビシッ!」と突き付けてくる。食べ物で遊ぶな食べ物で。 しかしコイツ、程々に潔癖というか清潔への意識はあるんだよな。直に持った2本目はそのまま食べて、ゲームのための3本目は袋越しに取り出す辺り。そんなことを考えるなら最初から遊ぶなという話なんだが。 「ん〜っ……♪」 キラキラした瞳で無駄に可愛らしく上目遣いになりながら、早く食べ始めろとばかりに○ッキーを揺らす。このまま乗ってやるのも一興ではあるのだが……正直癪だ。だったらまあ、大人を揶揄った罰でも与えてやるのが妥当だろう。 喉の動きを観察して、呼吸が緩むタイミングを見極める。一瞬。持ち手を摘み、口蓋を傷つけないように、ぬるりと一本抜き去って。 不意を打たれて阿保面を晒す少女の目の前で、少しばかりチョコの溶けた先端を、豪快にバリっと噛み砕いてやる。ともすれば唇同士がぶつかり合って、最悪の記憶が刻み込まれる可能性すらあったんだ。唾液で濡れた先端を食われて間接キスになるくらい、それに比べれば……安……い…… 「……苦っげぇ…………」 「はい、引っ掛かりましたね! ブラックチョコの苦味に悶えるが良いですよ!」 楽しそうにケラケラ笑いながら、今度は自分用にと1本新しく取り出してサクサク食べ始める。心底小憎たらしい笑顔を見せつけられて、沸々と怒りが湧いてくる。 「お、前なぁ──」 そして……
「──俺の前で取り繕う必要は無いと、いつも言っているだろうが」
ピタリ。菓子を齧る手を止め、そのまま静かに俯く。浮わついた空気も一気に冷え込むような錯覚、それでも止める気などなく言葉を続ける。 「さっきのを心底楽しめていたならそれでいいさ。だが……不安を無理矢理に押し殺して、抱え込むような真似は、まだお前に似合わん」 湧き上がっていたのは怒りと……それ以上の憐憫に、不甲斐無さ。人に甘える方法や弱みを晒す方法を知らない、或いは家族にすら隠していた思いがあるのだろうか。 張り詰めた感情を笑顔の仮面で覆い隠す……普段の偽装(ロールプレイ)とは違う、自傷にしか繋がらないそれを看過するのは、未熟な俺には不可能だった。 素肌へ纏うチョコよりも黒く、しかし光沢を失い濁った双眸を向けて。顔を上げた彼女に「何本か寄越せ」と伝えてみれば、袋の中身の半分ほどを渡された。相変わらず強烈な苦味に顔を顰めながら、改めて問いを放つ。 「そんなに怖いか? 皐月賞が」 「……かも、しれない」 対照的に、顔色ひとつ変えることなく無表情で菓子を齧る少女。その声が僅かに震えていたのは、間違いなく味の所為だけではないだろう。 「お前もGⅠを勝ったとはいえ……実力的には同格、なんなら向こうの方が格上でもおかしくない」 「ええ」 「今まで戦ってきた連中は、なんだかんだ言って他人だ。知人として、幾らか深く知っているからこそ、見えてくるものもあるだろう」 「……ええ」 「当初から一貫しているとはいえ、ホープフルから4ヶ月空けての直行は不安も残るか。こっちが休息期間の一方で、この時期に成長が目覚ましい連中も多いわけだからな」 「…………ええ」 「怖いか?」 「……怖い、かもしれない」 「毎日トレーニングを重ねていても?」 「……それでも」 滔々と語る男に、一言しか返さない女。楽しげな様子など一切ない、あまりにも冷え切った会話。だが、 「上等だ」 「……ええ、本当に」 別にそれでいい。存分に怯え、恐れ、震えればいい。大言壮語に油断晒して無様に負けるより、心底ビビり散らしていても勝った方が正義だ。その中で不安が抑えられないって言うなら、引き受けてやるのもトレーナーの役割。 「基礎能力強化に情報収集、あとメンタル面の対策か。やることは多いが……」 「……勝つためなら」 「よく言った、なら明日からも続けるぞ……勝つために」
2月14日。決戦の日は、未だ遠い。
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第二章 虚有縹緲編
第4話:羨望的嫉妬論存在定理 (皐月賞編)
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(5、4、3……ここ!)
トレーニング場に設置されたハロン棒を一瞥し、頭の中で音符を刻むイメージ。リズムが変わるのはお手の物、一瞬踏み込みを強めてトップギアへ。ゴール板を駆け抜ければ、そのまま急制動を掛けないよう意識しながらトレーナーさんの方へ歩いていく。 「はぁっ……どうでした? 結果の方……」 「10本走ってコンマ6秒の増加、回数を考えれば上々な範囲でしょう」 「ふぅ…………」 持ち前のトップスピードを活かすための、急加速+スタミナ維持。先月のチョコ騒動、少し前くらいから始めたトレーニングは、着実に私の持久力向上へ繋がっていた。 「とりあえず今日のトレーニングはここまで。シャワーと休憩を挟んで、皐月賞の対策としましょうか」 「……はい!」 柔和な笑みで指示を出しながら、彼は一足先にトレーナー室へ向かう。その姿を見届けつつ、張り付いた体操服を引っ張りながら、私もシャワールームへと向かっていった……
「さて」
私と彼以外、誰もいない2人きりの密室。机の上には乱雑に新聞や資料が広げられていて、中央に置いた電子端末は実況と観衆の熱狂的な絶叫を伝えていた。 「まあ、案の定だな……」 「ええ……」 人の目があるわけでもなし、緊張感を維持しつつも振る舞いはすっかり平常通り。ちらりと新聞の一枚を眺め、2人して眉間に皺を寄せる。 【ガーネットスクエア 3月7日 弥生賞(GⅡ) 1着 通算4戦4勝】 【ヘルツマタドール 3月20日 若葉S(L) 1着 通算4戦4勝】 【ミツバエリンジウム 3月21日 スプリングS(GⅡ) 1着 通算4戦4勝】 「一応聞くが、この結果は予想出来たか?」 「……1人でも1着を逃していたら、逆に頭を抱えていたんじゃない……?」 「だよなぁ……」 トゥインクルシリーズにおいて王道とされる、先行脚質。逃げほど距離を取らないにせよ適度な位置に付け、ベストなペース配分で他者を磨り潰す勝ち方。まだクラシック級も序盤とはいえ、3人の走りは今後を引っ張っていくであろう気迫に満ちている。 「身近に友好的な類似サンプルが各2例存在するんだからな……そりゃ伸びるか……」 トレーナーが言っているのは、時々行われている3人の共同トレーニングのことだろう。ウマ娘もトレーナーも元々交流がある同士、ジュニア級までは個々でやっていたらしいけど、クラシック入りに合わせて練習は時々一緒にしているらしい。前にそれを伝えた時には、 『世代最強候補がロハで手ェ組めるってなんなんだよ……』 って珍しく静かにキレていた。……閑話休題。 「まあトライアルからはこの3人と、あと少し注目でいいだろう。それでジュニア級からの筆頭はお前だが……焦ってないよな?」 「大丈夫……ちゃんと理解してる」
トレーナーが言っているのは、私がトライアルレースに一切出走せず……ぶっつけ本番、4ヶ月弱ぶりに出走する復帰レースを皐月賞に定めたこと。他3人と違い4戦3勝、既に無敗を逃していることもあって、ジュニア級GⅠウマ娘と言えど私への注目度は下がっていた。
淡々とトレーナーに返事しながら、手元のノートをパラパラと捲る。年末に書いたメモのページ。あのミーティングの後、もっと言えばホープフルSを制した後に少しだけ加筆したものだ。トレーナーさんからのアドバイスも幾らか付け加えてある。 【①デバフ対策…極力走りのタネを明かさないように】 【②とりあえず地力…周囲が未熟なうちに空気感を掴んだ上でトレーニング】 【③無理は禁物…休む時は休む、肉体のみならず精神不調にも留意】 ①は単純な話。私の走りには独特の「圧迫感」があるらしいが、それを見せ過ぎて対策を打たれるのを嫌ったもの。恐らく日本ダービー、遅くとも菊花賞トライアルの近辺でタネが割れるとは想定しているが、とにかく使える武器は使うのみ。 ②は雑に言ってしまえば、「相手が弱いうちに勝っておこう」というもの。「本番で強い相手に当たった時に負けるのでは?」と聞かれそうだが、それは相手がレースに出ている間に鍛えておけばいい。ぶっちゃけ「同じ場馴れのためなら、より勝てる方を選ぶのが道理」ってくらい。 そして③だけど……どうしても、私の走り方は脚に負担が掛かる。あとレース中は本性を晒すことになるけど、その様子が配信されるというのは“まだ”少しばかりストレスだったみたいで。②に合わせて走れる間に走り、心身の療養と話題性の低下を待って伏兵に務める。 あくまで通説に過ぎないけれど。「ホープフルSを勝ったウマ娘がトライアルレースに挑んだ場合、皐月賞に直行するケースより調整に難航して残念な結果に終わる」なんて主張を展開する有識者が存在する程度には、心身への負担というものは無視できないらしいから。 ……本心を言ってしまえば。仮にもGⅠウマ娘が注目の対象から外れるという状況に、思うところがないと言えば嘘になるけど……それで勝ちの目が一歩でも近付くならば。才能のない私にとって、手段を選ぶ贅沢など許容されるはずもないのだから。
「振り返りは済んだか?」
「……ごめん、お待たせ」 「どうせ時間は十分ある、だったら憂いがなくなるまで手を尽くしてくれた方が良い」 「ありがと……」 それだけ交わして、本番の戦術の話に移る。とは言っても、こちらは単純。結局のところ意識すべきは3人。脚質の違いこそあるが、重要なのは自分のレースを続けること。活かすべきはトップギア、その一点。 格上かもしれないからといって、相手に呑まれないように。ある意味で精神論に終始した指示だったが、私にとってはそれが最も有難いと実感していた──
「──珍しいな、こんなところで……」
0404、スマホの待ち受け画面に存在しないエラーメッセージを想起しながら学園を歩いていると、三女神様の噴水の前で足が止まる。 そこにいたのは、まだ新しさの窺える衣装に身を包み、恋人のように仲睦まじく指同士を絡ませ合った少女達と……その姿を、やたらゴツいカメラで激写している少女。一頻り撮影が終わったのか、向かって右側、青色基調なメイド服姿の少女がカメラマンの少女から機器を受け取ると、指を絡めて社交ダンスのように半回転。シャッター音が静寂を切り裂く様を、私はただ無言で眺め続けていた。 「……お疲れ様。これだけど……上手く撮れてるかしら?」 「問題なし! スクエアもミツバもナイス撮影!」 「ヘルツのトレーナーさんには感謝だねー。ヘルツに前もって教えておいてもらったからこそ、私もミツバも上手く撮れたわけだし」 「伝えておく!」 どうやら噴水前の撮影会は終幕を迎えたようだ。このまま解散するかと思ったがその気配もなし、私の行き先も3人の前を突っ切らないといけないし……少しくらい、挨拶しておこうかな。 「スクエアちゃん、ミツバちゃん、ヘルツちゃん! お疲れ様、何してたの? 豪華な格好だけど」 「ミラージュちゃん! お疲れ!」 「お疲れー。週末前に勝負服届いたんだけどね、すごく出来が良かったからさー」 「三女神様への必勝祈願も込めて、3人で写真を撮りましょうと。噂にあやかりたくて」 ……聞いたことがある、嘘か真かは知らないけれど。「レースで圧倒的な戦績を残したウマ娘は、勝負服を着込んだ何人かのウマ娘の姿を幻視したことがある」と。それも、ここ……三女神像の前で。与太話と切って捨てるには簡単だが、そういったエピソードに乗りたい気持ちは十分理解できる。 もし勝負服を持ってきていたなら、この主役3人のお溢れに預かりたかったなんて、一瞬でも考えてしまったくらいには。 ……それにしても。 「ヘルツちゃんの勝負服は、音符のアクセを細い雷が貫いて……もしかしてコレって心電図?」 「心臓のドキドキ音より! ずっと速く!」 「ミツバちゃんは……なんでメイド服に何本もハサミ吊り下げてるの……?」 「整えてみせましょう。私とトレーナー様の織り成す、栄光という庭園を……」 「あはは……スクエアちゃんは、その赤いの本物だったり?」 「流石にイミテーションだよー、本物のガーネット使うには高過ぎるからね。でもまあ……いつか本物にはしてみたいかな」 素材とか方向性は違うけど、三者三様。それぞれの思いが見て取れる、とても豪華な衣装群。「私こそがレースの主役である」、そんな決意。……今の私には、少しだけ足りない思い。 「ミラージュちゃん」 制服姿の私に呼び掛けるスクエアちゃん。その口元は微笑みが湛えられているけれど、私を射抜く視線は真剣そのもので。気付けばミツバちゃんもヘルツちゃんも揃い、3人と対峙する構図になっていた。 「2週間後の皐月賞。勝っても負けても、いい勝負にしようね」 「……うん、もちろん! いい勝負にしようね、3人とも!」 そう言い残し、駆け足で噴水前広場を去る。 ……「勝つのは私だ」と言い澱んだのは、何故だろうか。彼女の主題が「いい勝負に」の部分にあったから? そこに勝敗を返すのは野暮だと考えたから? それとも…… 終ぞ答えの見えぬまま、1人きりの部屋で口に含んだ飴の味は分からず。時計の針が5000度ほど回った末に、始まりの舞台は近付こうとしていた。
クラシック級限定レース・GⅠ第1戦、皐月賞。最も速いウマ娘が勝つと言われるレースは、中山レース場・芝2000mで興行される、全てのウマ娘にとって憧れの存在の一つ。
クラシック三冠……東京優駿・菊花賞と併せて語られるこのレースは、どんなウマ娘であろうと例外なく、ただ一度のチャンスしか与えられない至高の舞台。世代の中で、このレースに勝者の名を刻むことが許されるのは、たった1人だけ。 2回目ということもあって、幾らか着慣れた勝負服に腕を通せば。ちょうど身繕いが終わった頃合に、トレーナーも顔を見せる。 「お疲れさん……やっぱ静かだな、他に誰もいないと」 「ええ……」 去年のGⅠでは、わざわざ控室まで応援に来てくれる友人達がいた。他ならぬ彼女達は、それぞれの場で戦意を研ぎ澄ませていることだろう。当然、私も同じ。 「軽く見てきたが、前評判はまあ連中一色だ。いや三色か? ……どうでもいいな」 間の抜けた発言に、少しばかり眉が下がる。どうやら私の顔は相当に強張っていたらしい。一息吐きながら、卓上のボトルに手を伸ばす。 「前から2-6-8-2。予想通り相当ハイスピードな展開になると思うが、焦りさえしなけりゃ抜ける方法はある」 「……内枠2番を引いたのは、ツイてる」 「9-12-16に比べればな。まあ1-5で逃げられるのが厄介なんだが」 部分部分を削ぎ落とした、けれど私達にとっては必要十分な密度の会話。どちらともなく言葉を切った辺りで、場内にアナウンスが響き渡る。 「……行ってくる」 「健闘を、ジュニア級GⅠウマ娘様」 「…………」 そんな軽口も火に焚べながら、一歩一歩と地下バ道を進む。脳裏で微かに響く声は、あの日の笑顔のままに『勝っても負けても、いい勝負にしようね』などと私へ囁き掛けていた。 ……負けた果てに、いい勝負などあるものか。勝つのが至上、敗北は愚行。スポットライトは勝者にしか当たらない。それでもなお、私にそんな言葉を投げ掛けるなら…… 私の後ろで、███くれ。
【最も『速い』ウマ娘が勝つという皐月賞! 成長を見せつけるのは誰だ!】
【虎視眈々と上位を狙っています。3番人気はヘルツマタドール】
【この評価は少し不満か? 2番人気はこの娘、ミツバエリンジウム】
【スタンドに押しかけたファンの期待を一身に背負って、本日の1番人気ガーネットスクエア!】 【私が一番期待しているウマ娘、気合い入れてほしいですね!】 【ゲートイン完了、出走の準備が整いました】
【今スタートが切られました!】
最内枠のスティールドラムと、少し外からハオウコラールが先陣を切る形で、レースは始動。いつも通り最後方に付けながら、レースの展開を俯瞰する。冬の寒気が肌を刺した以前とは違う。少しは暖かくなったと思った空気も、今だけはビリビリと全身を痺れさせていく。これが……クラシック級。
逃げを打った2人のすぐ後ろには、今回の最有力候補が3人。意外にも前に付けたのがミツバエリンジウム、ヘルツマタドールとガーネットスクエアは気持ち後ろ目の位置取りとなっていた。この時点で伝わってくる何かがあるのか、前方から中団まで、多数のウマ娘が3人の動向を気にしていた。 斯く言う私もその1人だが、元々全員を視界に収めるくらいの心持ち。それを意図してやっているのが私だけれど……他の娘は、どうも“惹き付けられている”とでも言えばいいのか。端的に、“前が正しく見えていない”という印象を受ける。マークを意識し過ぎた結果、却って隙が生まれる。 【先頭から後方までの距離はおよそ20バ身。どうでしょうこの展開は】 【掛かり気味のウマ娘が多いですね、最後まで保つといいのですが】 その証拠に……400mを超えた最初のコーナー。今まで出走してきたレースと脳内で重ね合わせれば、あまりに外側に膨らむ面々が多い。私を除いて15バ身差程度だった詰まり気味の展開が、コーナーを抜け切る頃には20バ身以上に広がっていた。自分自身が多少上手く曲がれているのもあって、前方から脱落していく相手を躱すのに少しばかり難航した。 17、16、15……まだスパートを掛ける前も前なのに、気付けば10番手ほど。先団とは言い難いが、後方とも決して呼べない位置まで迫り上がっていた。残り800m。 「…………」 前は気を衒って強引にインを突いたが、この位置だと問答無用で斜行を取られる。どちらにせよ、今日は普通に……ただ最適なペースメイクで駆け抜けると決めていた。下り坂も問題なく超えて余力十分。ここから一気にペースを……上げろッ! 【さあ追い上げてきたのはカラレスミラージュ! 先頭ガーネットスクエアまでその差を9バ身、8バ身と詰めていく!】 気付けば逃げウマ娘を置いて、先頭に立っていた3人。その後塵を拝むだけで終われないと、息を入れて呵成に追い立てる。残り200mを切って、その差は実に2バ身弱! まだ加速は終わってない、このまま勢い任せに抜き去る──そう判断し、呼吸を整えようとした刹那。
【方舟に輝かしき未来載せて Lv.1】
【秘めたるは恋、信心の結び目 Lv.1】 【La promesa de Toreador Lv.1】
ゾワリと。汗で張り付いた背中に怖気立つ異形が這い回ったような。胃の腑から魂ごと呼気を引き摺り出そうとするような。そんな──悍ましい「何か」を見た。
「なッ──」
先行ウマ娘や逃げウマ娘は、基本的に自分のペースに相手を引き摺り込んでスタミナごと磨り潰すか、圧倒的なスピードで他の追随を許さないか。とにかく自分自身の強みを押し付けて勝つ、そんな相手だとは知っていた。 翻ってカラレスミラージュの場合、彼女はどちらかと言えば策を労し要するタイプの存在だ。あまり長時間は持続しないスタミナを根性だけで補い、最後のトップスピードで無理矢理に競り勝つ……そのために序盤の展開把握と中盤の位置取りが他の相手よりも重要になる。 その点で言えば、今日の走りは正直なところ見事なものだった。前から垂れ落ちてくる相手にもスピードを落とすことなく、最小限の体力消費でやり過ごしながら先団に喰らい付く。そして捉え切ったコースを駆け抜け、相手を抜き去る。その観点で言えば、むしろ理想的とすら呼べるレース運びだった。……“だった”。 「これが、中央の上澄みかよ……」 目の前に広がっていたのは。体力を粗方消耗し、ペースを落としたと思っていた相手が……獰猛な笑みを浮かべ、心底”仲良く”同時に加速した場面だった。
……嘘だ、そんなことがあってたまるか! 3人の身体能力はある程度把握していた、過去のレースから今日のペース配分に至るまで! 私1人なら間違いなく読み違えていたにせよ、トレーナーも同じ判断を下している!
だから起こり得るはずが無い、『この状況から』……否、そもそも場面を問わず、『あの3人が私の最高速度を上回る』なんてこと! だって私にはこれしかないんだ、それが破られるって分かっていたならもっと策が必要だった! そうではないことが分かっていたからこそのペースメイクだったのに! 何故それを上回って……! 残り150m、1バ身と少しまで詰めていた差は、2バ身に収まらないほど広がり始めていた。こうして一秒、また一秒と過ぎていく間にも、その差は広がっていくばかり。 息が詰まる。視界が霞む。こんな……終わり方を迎えていいのか。対策は打った、プレッシャーの中でもスタミナを削られぬよう気を持って、少しでも距離を稼がれぬよう周囲を縫って。相手の速度と自分の速度、そこから逆算できるスパート開始地点。トレーナーからの受け売りとはいえ、打てる限りの手は打った! だったら、これが……才能の、差……? 「ふざ、けるなッ……!」 勝手に諦めるなカラレスミラージュ! まだ100mは残っている、足にも余力は十分と言わずとも残っている! さあ歯を食い縛れ、両足を踏み込め! ここから一歩でも前へ、全力で飛ばせば、まだ……!
【████████────
ず ぷ っ 。
「────え?」
そして、次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは。
暗い 昏い 冥イ 虚を 覗ク 泥沼の 様ナ 泥濘ニ
踏ミ出しタ 右足ヲ 絡メ取ラレて 哀レニ 沈ミ落ちル
……視界を塗り潰す、一面の暗闇だった。
【──ミツバエリンジウム、今1着でゴールイン…………】
……7着、掲示板外。迫り切れなかった結果は、まあ仕方がない。トレーナー次第では「何故勝てなかった」なんて怒鳴り散らす奴もいるんだろうが、勝負は時の運とも言う以上、悪戯に担当のモチベーションを下げることも無い。1-3-1-1と来ての7着に残念がる連中が居たとして、アイツ本人の耳に入らない範囲なら勝手に言っておけばいいとも思っている。そもそも4番人気の時点でそこまで期待してなかっただろというのは抜きで。
そんなことよりも。普段に輪を掛けて澱んだ瞳と……蒼白な肌。頻りに右足を見つめているかと思えば、誰にも聞こえない程度の小声で何かを呟いているようで。バックダンサーこそ無事に務め切っていたが、誰の目に見ても異常なのは間違いない。幸いにもほとんどの連中は「大敗のショックが原因」だと思い込んでいるようだが…… 最後の一瞬。瞬く間に速度を上げて突き放したガーネットスクエアとヘルツマタドール、そのさらに2歩前をブチ抜いて行ったミツバエリンジウム。4番手に付けていたカラレスミラージュが、俺と同じタイミングで一瞬硬直したのは分かった。 問題はその直後。右足を勢い良く踏み込んで、一気に前へ出た彼女は……明らかに速かった、なんなら速過ぎた。その勢いを保ち切れぬままバランスを崩し失速、最後に追い縋っていた何人かに抜かれての決着。観客は先頭3人の攻防に夢中だったようで、中団の様子は話題に浮上していなかったが……幾らか自力で動けたのもあって、非対称な歩みでライブ会場に向かう彼女に、声を掛けることは叶わなかった。 「…………トレーナー」 「ミラージュ……」 そうして、今。控室の壁に左半身を預け、立ち尽くす彼女と対峙する。それとなく椅子を差し出して座らせるが、やはり机に体を寄せていた。……爪先立ちのような姿勢の右足、その付け根を見ながら。 「……負けたことへの失望。罵倒。嘲弄。いくらでも受ける」 「お前な、俺がお前相手にそんなことを言うと──」 「──だから、その前に一つだけ教えて」 首を垂れて俯き、普段の彼女と比べても弱々しい声。どう慰めたものかと考え込んでいた俺に投げ掛けられたのは……あまりにも、意味が分からない質問だった。
「──私の右足、ちゃんと地に着いてる……?」
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第4.5話:Breakdown, Breaktime
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「誰が見ても見事な骨折だねぇ、カラレスミラージュさん」
「やっぱりそうですよね〜〜〜〜」 「…………『骨折』……?」 びっくりするくらいアホ面晒して叫んだ私を、トレーナーさんは何度かシバいても許されると思いました。
ここまでの経緯を振り返る。日曜日、運命の皐月賞。私は完膚無きまでに敗北した。あの3人に負けただけじゃない。最後に呆れるような失速を見せて、後続からの追い上げに飲まれて……何とか掴み取ったのは、掲示板に映す価値すらない、7着という結果。
有りもしない幻覚を見た末に、体力も酸素も尽き果てて朦朧とした意識の中。どうやらウイニングライブを──単なるバックダンサーとしてだが──辛うじてこなしたらしい私は、トレーナーと出会って一言二言を交わした最中、控室で倒れたそうで。 目を覚ませば知らない天井、とまではいかないビジネスホテルの一室。曰く、トレーナー寮にウマ娘を連れ込むのは禁止されているからと。家賃をケチった代償か、なんてボヤいているのが耳に入ってきた。ちなみに救急車を呼ばなかった理由は、規則正しい呼吸が聞こえたからと。……さては私、存外余裕あったな? 長い間寝ていたからか、ふと生理現象が私の体を刺激して。少しお花を摘もうかと、ツインベッドの片割れから地面に足を下ろした瞬間……掛け巡った雷撃。うん、右足がめちゃくちゃ痛い痛い痛い痛いぃぃぃ!!! 絶叫を上げる余裕すらなく、ただ呼気だけが口の端から漏れる中。トレーナーさんは焦った様子の一つも見せず、タオル越しの保冷剤を足に押し付けて、気付けば痛みは多少マシになっていた。 「……病院行くぞ、学園には連絡入れておいたから安心しろ」 「…………」 ただただ首を赤べこのように揺らし、トレーナーさんの華奢ながら安心感のある背中におぶってもらって。ドライブすること十数分、整形外科の先生から言われた言葉がそれだった。
「第3中足骨、足の甲あたりにある中指の骨。ここがポッキリ折れちゃってる。よくまあ昨日のライブこなせたよね、アドレナリンドッパドパかな?」
「あはは……って、昨日のレースとか見て下さってたんですか?」 「かつての同期の担当となればねー。あの優男がどんな娘相手にしてるのかと思えば、めっちゃいい子じゃん」 「……俺のことはどうでもいいだろうが」 「はいはい、失敬失敬〜」 病院によくある、あの明るく光る壁──曰くシャウカステンと言うらしい──にペタペタとレントゲン写真を貼り、楽しそうに語る先生と仏頂面のトレーナーさん。ちょっと軽く聞いてみると、昔は同じ学部で一緒に勉強したくらいには仲良しだったらしい。トレーナーさんは嫌そうな顔してたけど。 私のことも京都ジュニアSあたりから追ってくれていたとのことで、今回は不甲斐ない姿を見せてしまったな……なんて猛省。失礼を承知で言うなら、少しチャラそうな人だけど……自分でカメラ回して動画撮り溜めてくれる程度にはファンだって話らしいし。 「ごめんねミラージュさん、というわけで本題に戻ろう」 少し真剣な顔になって、話題を私の症状に戻す先生。思わず少しだけ緊張すると、「そう固くならないで」ってリラックスするよう求められた。 「さっきも聞いたけど、足着いて痛みが走るならギプス付けた方が安心だよ。いざって時のダメージも抑えられるし、何より固定するのが重要。んで君の年齢と食べっぷりから考えれば……リハビリ開始は10日後くらい、一月と半分も経てば日常生活は問題なしだね。割と綺麗に折れてるから、適切に進めれば後遺症の心配も少ないし」 資料を捲りながら手早く、しかし聞きやすい声で話してくれる。順当に過ごせば予後は良好、リハビリは少し大変かもだけどそう気負わなくていいって。ただ…… 「一月半ということは、日本ダービーは……」 「残念ながらドクターストップ。そもそもミラージュさんの場合、トライアルレースがどう足掻いても間に合わない。まあ掲示板に入っていても止めたけどね」 クラシック三冠が一つ、皐月賞。その5着以内……つまるところ、掲示板に食い込んだウマ娘には、日本ダービーへの優先出走権が与えられる。よほどの事情がない限り、この権利を無碍に蹴る陣営はそう多くないだろう。私の手の中には、そもそも収まってくれなかったけれど。 「残念なのは分かるけど、医者としてここだけは譲れない」 医者として、という言葉にトレーナーさんの方を見る。彼も同じ思いだったようで、沈痛な表情を浮かべながら静かに首を振った。 「大丈夫! ちゃんと医者の指示を聞いてくれれば、元通り走れるようになるさ。そのために医療費搾り取ってるんだからね」 ……最後の一言は少しブラックジョーク入ってない? なんて思いながら。十数分くらい会話を重ねた後、然るべき処置を施してもらった上で私達は病院を後にした。
「……申し訳なかった、東京優駿の件は」
少し重くなった右足を垂らし、両手に松葉杖を突いて歩道側を歩く。その隣で、普段に増して眉間に皺を寄せ、絞り出すように呟くトレーナーさん。放っておいたら今すぐにでも自分を殴りかねない、今にも糸が切れてしまいそうな危うさを感じさせる。そんな彼を励ますため、努めて戯けてみせようとして……止めた。 「……気にしないで。トレーナーが悪いわけじゃない。……負けた私が、悪い」 「それはッ……、どちらにせよ、担当を怪我させている時点で俺は」 「しつこい。……だったら、無様に負けた私も、勝たせられなかった貴方も、等しく愚かだった。……それでどう?」 「…………そういうことにしてくれ」 程良い落とし所に到達し、ひとまずこの話は決着を迎える。どちらにせよ、私にも少し時間が欲しかった。 「……菊花賞、目指すか?」 「ええ、今度こそ……」 日本ダービーに出られないのは確定事項、そこに駄々を捏ねても仕様が無い。出走辞退を指示されるほど足を台無しにしたのは、他ならぬ私だ。頭で分かっていても、その事実を受け入れるには時間が掛かる。それに…… 「なら、目指すは神戸新聞杯か」 「……そうしましょう」 あの日見た、幻覚。黒々と濁り切った、寒気さえ覚えた空間。アレが果たして何だったのか……私は、知る必要がある。それが、叶わなかったとしても。
「珍しいね、お前が自分から奢ってくれるなんて。”トレーナーさん”?」
「五月蝿え。いくらでも飲ませてやる、だから俺に付き合え」 「へいへい、仰せのままに〜」 医者の定時というものは、存外に早い。大病院に勤める公僕ではなく、自分の城を持つ類の手合いならば。ちょいと値の張る個室部屋で釣ってやれば、とっくに働き終えた相手はあっさり引っ掛かって。男2人の密室で、めいめい好きな酒を交わし合った。 「それで〜? 俺に聞きたいことって何なのさ」 「……アイツの、カラレスミラージュの診断について」 「ん〜?」 どうしても、腑に落ちない点が一箇所あった。足の甲の骨を折る大怪我、中足骨と言えば人間のスポーツ選手もよくダメにする部位だ。バスケだのバレーだの……陸上選手もしばしば苦しめられる被害、当然症例も数多く列挙されている。だからこそ。 「何故、『疲労骨折』と言わなかった?」 「……なるほどねぇ」 先に述べたスポーツは、ランニングやジャンプといった……足全面に”繰り返し”力が掛かる類の運動だ。一度一度では到底足りぬ力であっても、何百回何千回と重なれば、いつかは破断する……針金で一度でも遊んだことがあれば、その意味はすぐに分かるだろう。 第2中足骨、第3中足骨……特に第5中足骨の疲労骨折は、例外的に別の呼び名があるほど、頻繁に症状が見られる部位だ。だからこそ、その点を正しく伝えなかった点が到底納得できなかった。 「そういえば、お前はどっちかって言うと内科とか寄りだったよね、懐かしいなぁ」 「……ふざけてんのか?」 「いやいや〜、流石にカワイコちゃんの怪我人相手にふざけたりしないって」 ヘラヘラと笑いながら酒を傾ける医者。その手がジョッキを置いた瞬間、瞬く間に真剣な顔を浮かべて。 「あれは骨折。断じて疲労骨折じゃない……一瞬で折れた跡だ」 「ッ……!」 自分のスマホを手早く操作し、空いたスペースに置いてくる。ストーカーでもしてるのかってくらいに担当をフォーカスした画面は、例の……右足を踏み込んだシーンを映していた。 「俺もウマ娘は専門外だけど……前もって聞いておいた情報が事実なら、あのトレーニングじゃ人間でも疲労骨折に至るとは考えにくい」 負荷の量と与え方もそうだし、兆候があったなら少しくらい不調や違和感を抱くはずだからね。などと言いながら、映像が数秒進められる。 「だからこそ、この一瞬でフォームが狂ったのはすぐに分かった。何かあったことも。実際、後続にあっさり前を譲っちゃうくらいには失速していたし。だからこそ、自分で診て不思議だったんだよ」 そこで言葉を切り、いっそう顔に影を浮かべ。少し未来を示す画面は、フラフラと力の抜けた体で地下バ道へと歩いていく担当。その姿は。 「──どうして彼女、『足首を』庇ってたのさ」
好き勝手に飲みまくり吐きまくり、とうとう酔い潰れて眠り始めた同席者をタクシーに放り込む。憎たらしいまでの笑みを浮かべてグースカ呻く男と、酒のペースを上げる直前にあんなことを言った男が脳内で結び付かない。ともすれば聞き漏らしそうなエンジン音だけを残し、車は立ち去って行った。
『……どっちにせよ、一歩で良かった』 『もう一歩踏み込んでいたら、何本が砕けていたか……考えたくもない』 1人残された春先の夜半、涼やかな風に吹かれながら思考を回す。とは言っても、脳裏に思い浮かぶ場面は3度のみ。今後の方針を誓い合った今日の帰路、自分で自分の足を潰すに至った最終直線の一瞬。そして。 『──私の右足、ちゃんと地に着いてる……?』 「……お前には一体、何が見えていたんだよ」 吐き出した問は、白い靄と共に夜空へと消えていくのみであった。 |
第5話:亀裂入りのプリズムと分光現象の一考察 (日本ダービー編)
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「──ああ、経過は良好。お前の見立てともズレてない」
「──当分は泳がせておくさ、そう焦る必要もないだろう……暫くは様子見で行く」 「──連休前に悪かったな、場合によっちゃ連絡入れるが基本無いと思ってくれ。じゃあな」 「……というわけで、当初の予定通り明日からはプールでリハビリしましょうか!」 「その流れで本当に私を『泳がせておく』相談だったってオチあります????」
皐月一日は土曜日、前日が平日であることに目を瞑れば7日連続休日の黄金週間。出走レースの決め方次第では時間がたっぷり生まれることもあって、チームでの旅行だったり実家への帰省だったりが多く見られる時期。
そんな昼下がり、私はトレーナーさんと2人で学園のプールを占拠していた。……実際には利用者申請が他に無かっただけなんだけど。まあリハビリ目的での利用、普通に泳ぐわけじゃないから人が少ないのはむしろ大助かり。 『繰り返しますが、無理だけは禁物です。少しでも不調が見られたらすぐ止まってください』 「はい! 報告と相談は基本中の基本ですからね!」 『では初めてください。腕を使うことを意識してくださいね』 耳に嵌めた防水型イヤホンから、トレーナーの声が響いてくる。内蔵のマイクは、誰もいない空間に放った私の声も問題なく拾ってくれていた。 両腕を揺すり、水の中で人混みを掻き分けるように。浮遊感につい跳ねながら前進したくなるけど、足への負担を考慮して一歩一歩進む。鼻を衝く塩素の香りと冷たい水滴に、少しばかり瞬きを重ねながら。今後の私達の行く末のように、一歩一歩。
『とりあえず、まずは歩行訓練からです。ついでに持久力も付けば御の字ということで』
トレーナーさんの発案で行われた、水中歩行トレーニング。浮力のお陰で体重の負担は減るし、前進方向には水の抵抗が掛かるお陰で普段より疲労が激しい。足だけでなく上半身も使うことで、負荷を偏らせることなく短時間で効力が得られるという話。なんだけど…… 「退屈だなぁ……」 そう、このトレーニング……というかリハビリ、滅茶苦茶退屈なのだ。これが普通にクロールとかバタフライとかを泳いでいるなら、呼吸のタイミングとかフォームとか意識すべき点は沢山ある。けど今は歩いているだけなので……うん……ね? 『こら、そんなことを言うものではありませんよ』 「すみませーん、けど本当に退屈なんですよ。考えることも少ないですし」 思わず漏れていた声を咎めるトレーナーさん。けどその声音に、怒っていたり呆れていたりといった気配は含まれていない。多分彼自身も自覚しているんだろう。だから。 『であれば、泳ぎながら相談でもしましょうか』 「いいですね! けど、一体何を相談するんです?」 少しでも気を紛らわそうとしてくれたんだろうか。けれど、話す内容が全然ピンと来ない。皐月賞の反省は前に少し行っているし、重要な点はリハビリ明けにもう一回伝えると聞いていた。それをこのタイミングっていうのは考えにくい、じゃあ何か聞くことあったっけ? 『「私の足は正しく付いているか」……貴方があの日見たものについて、聞いていませんでしたから』 「ッ……」 思い出した。問題の最終直線、あの瞬間に起こった出来事について。朦朧とした状況で譫言を呟いてはいたらしいが、素面の状態であの話を持ち出されることは今まで無かった。 『もし嫌であれば強要はしませんが、診察の第一歩は相談から。言葉で表現しにくい不定愁訴にも、疾病解消のヒントは含まれていますからね』 普段悪態を吐いてくる相手とは思えないくらい、優しく私に話しかけるトレーナーさん。もしかして患者さんの前ではこんな感じだったのかなと思いながら。 「……分からない」 『はい?』 「本当に自分でもよく分からないんですよ、あの時のこと。話すとなってもめっちゃ支離滅裂になるんじゃないかと」 『それで構いません。まずは聞かせてください』 私の心配もバッサリ切り捨てられ、先を促される。そこまで言うなら仕方ないと、ちゃぷちゃぷ水音を立てながら一つ一つ記憶を辿っていく。
最終直線、ラストスパートを掛けて前方の3人を追い抜こうとする。突如、3人から“とても気に障る”圧を感じ、次の瞬間には悠然と加速していた。思わず諦めそうになったが、こなくそーと内心で悪態を吐いて食い下がろうとした。そうして足を踏み込んだ瞬間……“右足が暗闇に沈んだ”。
急いで足を持ち上げようとしても、全く抜け出せる気配はなく。それどころか、下は地面のはずなのに、“ずぶずぶと全身が沈んでいく”。なんなら、泥沼に足を突っ込んだ時のような、耳に残る粘性音さえ記憶している。 最終的にレース場を割く歓声で意識は戻ってきたが、右足だけは依然沈んだまま。移動中もライブ中も例外ではなく、最後に眠りへ落ちたその瞬間まで……私の足は、其処に無かった。
『なるほど……』
「意味分からないですよね、私自身がそうなので……」 放った返答は、あまりにも投げやりに空気中へ溶けて行って。うん、我ながらやっぱり意味不明過ぎる。やっぱり思いっ切り足に力込めてバキ折ったせいで脳内麻薬にラリったんじゃないかなーなんて。 『気に障る重圧……もしかして……』 だというのに、トレーナーさんは私のこんな与太話を聞いてから、何かを考え込んでブツブツ言い続けている。私専属の“かかりつけ医さん”は、どうも患者の申告に思い当たる節があるみたいで。 突如、プールの静寂を切り裂く電子音。トレーナーの携帯から鳴っているそれは、貸出時間が残り僅かであることを示していた。 『……時間ですね、とりあえず上がって着替えてください』 「……はい!」 ひとまず片付けから、ここで時間超過して今後に差し障るとか色々と損だからね! パパッとシャワー浴びてパパッと着替えてササッと退出! どうせトレーナーさん以外に会わないだろうし、髪型とかも適当でいいでしょ! 「……もう少しどうにかならなかったんですか?」 前言撤回、ダメらしい。 「あはは……それで、何か心当たりでもあったんですか?」 とりあえず話題を逸らしがてら、さっきの違和感を尋ねてみると、ハッとした様子で手を叩いた。 「えぇ、とは言っても確信では無いですが……とりあえず、リハビリ時以外のトレーニングを変更しようと思いまして」 「ふむふむ」 「当初は歴代の追込ウマ娘を中心に、古今東西様々な戦術を勉強してもらおうと思っていたのですが……下手に座学を絡めるより、実際のレース映像を見る方がミラージュさんには勉強になるでしょう」 ……暗に“座学だけじゃ理解できないバカ”って言われてない? 否定しにくいけど! 「なので今晩にでも動画ファイルを送りますが……さっき話していた『とても気に障る圧』があったら教えて下さい。動画越しなので分かりにくいとは思いますが」 「……分かりました!」 ここでやっと言いたいことが分かった。再現性……あの幻覚の引き金が、何処にあるのかと言うこと。それを見るための手段なんだと。 「いい返事ですね。それでは一緒にもう一つ……」 そう言いながら、トレーナーさんが取り出したのは2枚のチケット。光沢のある紙の表面には、“東京レース場”と記載があって。 「5月末、ちょっとした『運』試しをしてみませんか?」
クラシック級限定レース・GⅠ第2戦、日本ダービー或いは東京優駿。東京レース場・芝2400mを舞台とするこのレースは、皐月賞、菊花賞と比べても頭一つ抜けた格を持つ。この一戦のために故障や引退の可能性すら見据えて仕上げてくる辺り、関係者の思い入れというものは凄まじい。『最も運のあるウマ娘が勝つ』と謳われる本レースは、欠けが発生した17人で実施される。
「というわけで、改めて今日の予想を振り返っておきましょうか」 「はい!」 『運良く』ゴール板の前の座席を取れた私達は、適度に水分を取りながら膝の上でノートを広げる。情報収集に来ていたことがバレないよう、変装もばっちりキメて。伊達メガネが思ったよりしっくり来たのが意外だったな。トレーナーのお下がりって聞いた時は色々と驚いたけど。 それで出走者の話だ。正直皐月賞の結果も今一度振り返っておきたかったしね。リハビリ中にも聞いたけど、あまりにも実感無かったし。 「1番人気、7枠13番ミツバエリンジウム。言うまでも無く無敗の皐月賞ウマ娘ですね。同じ先行スタイルを取りながら、他の2人に1/2バ身差を付けて押し切った姿に期待が集まっています」 「ミツバさんにとって2400は微妙に長いんじゃないかなって思うんですけど」 「それは今日次第でしょうね。それで2番人気は3枠6番ヘルツマタドール、前走3着。他2人と違ってリステッドからの参加でしたが、決して見劣りすることなく2着にクビ差まで迫った実績が考慮されたのでしょう」 「クラシック戦線の初重賞がGⅠでしたからね、すごく……すごかったです!」 「語彙力無くしていますよ。そして最後が3番人気、8枠17番ガーネットスクエアは前走2着。これに関しては……大外でなければ2番人気もあり得たと思うのですが」 「誰が指摘するまでもなく、外枠不利なレースですからねコレ……」 一つ一つの要素を拾い上げながら、準備を整えていく出走ウマ娘を脇に見る。今名前を上げた3人は、それこそ皐月賞で輝かしいデッドヒートを魅せてくれたということで、前評判も最高潮。さっきもチラッとインタビューを聞いたけど、 『前は惜しかったけど、今度こそ出来る限りの最善は尽くすよ。不甲斐ないところはもう、ね』 『以前と同様、全身全霊で勝ってみせます。トレーナー様のためにも、皆様のためにも』 『勝つ!』 3人が3人とも、しっかり自分の勝利に向けてコンディションを整えていた。……けど、何か違和感があったような…… 「っと、いけないいけない! それでトレーナーさん、実際今日のレースってどうなると思います?」 私の勘なんてそうそう当たりはしない、それよりデータと分析に裏打ちされた推量の方が重要だ。まあ自分が出走しないのもあって、リハビリに専念していたから丸投げになっちゃってるけど。 「脚質は前から数えて2-4-7-4。前走同様にスティールドラムとハオウコラールが牽引する形にはなるでしょうが……中山と違って、コーナーが上り坂にならない分抑えられる体力消費がどう響くか」 「ふむふむ」 「いずれにせよ、前走と違って周囲も先行集団、というか3人の中に入るのは嫌うでしょう。500mにも及ぶ最終直線で、後方からのもしやがあるかもしれない……すみません、中山はホープフルSと皐月賞でガッツリ見ていたんですが東京レース場はまた勉強しておきます」 あっ、これ「お前も一緒な?」のパターンだ。いや東京2400m、ダービーは無理だったけど将来的に走る機会あるかもだしね。理解できるかは別として、勉強することは嫌いじゃないし。 「あ、そろそろ出走ですよ!」 そんなことを話していたらちょうど良いタイミング。場内にはファンファーレが響き渡り、いよいよ栄光を懸けた一戦が始まる。
【すべてのウマ娘が目指す頂点、日本ダービー! 歴史に蹄跡を残すのは誰だ!】
……はっきり言って。「こうなってしまった」ことを悔やんだ日は、一度や二度ではない。けれど、その原因が全て私にあるのだとしたら。それは甘んじて受け入れる必要がある。
今の私が為すべきことは、ただ一つ。この勝敗の行く末を、目に焼き付けること、ただそれだけ。
【ゲートイン完了、出走の準備が整いました】
【今スタートが切られました!】
ゲートの音と共に、最高潮に達した会場の熱気が──
【各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを……おおっと!? これはなんということか!?】 「なっ……おかしいだろ!?」 「これ一体どういうこと……!?」 ──一瞬にして、驚愕の絶叫と悲鳴で塗り潰された。
【先頭を行くのは……ガーネットスクエア!? ガーネットスクエアです8枠17番! 逃げ表明の2人を置いて、4バ身5バ身とグングン差を広げていきます!】
過去5戦全てで模範的な先行押し切りを見せていた、ガーネットスクエアによる大逃げ。本人を除く誰にも予想できない状況から、レースの幕が切られた。 「いや、よりによって逃げ馬が勝ってないダービーのしかも大外枠から逃げ打たせるか普通!? ……スクエアのトレーナーの顔色は他2人と比べても変わってない、なら計画済みか!」 「というかトレーナーさん! 良く見たらヘルツちゃんの場所もおかしい! あれ明らかに後方集団!」 「はぁ!? ……本気(ガチ)か、いや違いない! 身内同士で心理戦おっ始めてんじゃねえよ!」 あまりの状況に素の顔が見えているトレーナーさんを宥める余裕もないまま、淀みなく……いや明らかに淀みまくってるレースを見る。全く余裕のない顔で逃げ続けるスクエアちゃん、前方を見据えて愕然としているミツバちゃんとヘルツちゃん…… 周囲のウマ娘にも困惑と動揺が広がり、およそまともな状況ではないまま序盤の直線とコーナーを抜け。1000m通過56秒9なんて正気とは思えないアナウンスが流れた。
さて。……こんな状況を仮面被ったまま理解するなんて不可能だ、一度落ち着こう。思考を整理する。
前走の皐月賞、例の3人は全員が先行脚質で勝負に出ていた。普段の練習風景から見ても、それが彼女達にとってのスタンダードだって周りから思われていたし、きっと互いにもそう思っていたはず。大体の位置取りは前からミツバ-ヘルツ-スクエアが相対的に最後方。 レース場への適性こそあれど、この前提は崩れないと思われていた。故にこその、先行4。この3人が固まった時に何が起こるかは、他ならぬ私が一番良く知っているし。 翻って今回は、ヘルツが差しに移行し、何を血迷ったかスクエアが大逃げに打って出た。この時点で0-2-4-7-4と想定されていた展開は1-2-2-8-4に大きくズレ込む。まして先頭は前走2着、掲示板から溢れた逃げ2人とは危険度が違い過ぎる。それを不意打ちで行ってしまえば、一体誰が止められるというのか。 本当にこれを狙ってのことなら……ん?
『前は惜しかったけど、今度こそ出来る限りの最善は尽くすよ。不甲斐ないところはもう、ね』
【ガーネットスクエア、差はここまでで8バ身! 彼女のスタミナが続くか、後方が意地を見せるか!?】
「分かった、違和感の正体……」 感情が篭り過ぎて聞き取りにくいとすら思える実況の裏で、私の記憶に一枚のピースが嵌まる。出来る限りの最善は尽くす、確かに誰が聞いても違和感のない抱負だ。けれど。 「その『最善』が『今まで通り』なんて、一言も言っていない……!」
〜〜
『メイクデビュー勝って、華々しくトゥインクルシリーズに殴り込むまでは一回離れよう。トレーナー共々、中央で成長した姿で互いに再会しようって』
ウマ娘もトレーナーも元々交流がある同士、ジュニア級までは個々でやっていたらしいけど、クラシック入りに合わせて練習は時々一緒にしているらしい。
〜〜
過去の記憶を掘り返す。この時はあくまで、強豪3人が容易く手を組める環境の方に意識が向いていたけれど、考えてみれば。互いのトレーニング状況を知る機会が、半年以上減っていたことも意味している。だったらこの間に、何があったとしても……「自分以外が知る由」は無い……!
【さあ最終直線も残り200m! 後ろから追い上げてくるのはやはりミツバエリンジウムとヘルツマタドール!】
【しかしガーネットスクエアも負けていない! ペースは落ちているが依然として3バ身を残している!】 【さあ逃げ切ってみせるのか差し切られるのか! 残り100m!】
あろうことか、大逃げウマ娘がこんな局面まで勝ちの目を見ているという異常事態。あわや世紀の一瞬を見られるか。熱狂するレース場の中で、多分私だけが……冷ややかにこの状況を見つめていた。だって。
「……勝った」 蓋を開けてみれば、このレースは緻密に綿密に組み上げられた独演劇だ。大外枠を引いたのは彼女にとって不幸だっただろうが、それすらもブラフに使って引っ掻き回した2分間。 16人いる他出走者の中で、この作戦が正しい意味で突き刺さったのは2人だけ。何せ下手すれば1年以上前からの準備だ。それがここまで露呈しなかったというなら。或いは、それを隠し切れたことが「幸運」だと言うのなら。
【ガーネットスクエア、今1着でゴールイン!】
【過去十数年以上に渡り現れなかった逃げ切りダービーウマ娘! 8枠17番、ガーネットスクエアが絢爛なる蹄跡を刻み付けていきました!】
……これで勝てずして、誰が勝つというのか。
『光の速さで駆け抜ける衝動は』
『何を犠牲にしても、叶えたい強さの覚悟!』
皐月賞に引き続いての1着から3着独占、無敗皐月賞ウマ娘の陥落に逃げ切りダービーウマ娘の誕生……記憶と記録に灼け付くほど刻み込まれた熱狂は、会場を歓喜の渦に包み込んでいた。水色と黄色の灯に支えられ、空間が赤い光に満ちる。散りばめられた仮初の模造石も、大量の光を浴びて本物さながらに輝いているように見える。
winning the soul、クラシックレースの勝者のみが歌唱を許されるライブ曲。レースの時から人々の目を捉えて離さなかった彼女は、今高らかに舞台の中心でその栄誉を歌い上げた。 観客席から見るライブというのは、ステージ側から見るそれと当然違った印象を与える。順当に行っていれば「観客として」見る機会の存在しなかったこのライブに対し……感慨よりも先に、無用な思考ばかりがぐるぐると脳内を占めていた。 「はぁ……」 仮に私が18人目として出走していたとして、あの爆逃げを止めることが出来た? 当然無理だ、何せ前方脚質の2人──ヘルツマタドールは差し切り体勢に移行していたけど──ですら最後の最後に食い下がるのが精一杯だったのだ。前もって把握しておけば対応できた面があったにせよ、私が冷静だったとしても周囲はそうじゃない。そもそも私の実力で、気付いていたところで役に立ったというのか? 「はぁっ……はぁっ……」 ぐちゃぐちゃに狂い狂った集団を躱しながら喰らい付けるか、かなり自信がない。勝負は始まる前から決まっていた? だとしてもヒントはあった、なら普段からもっと相手のことを観察しておけという話? そうだとして相手を外していたら? 観察するべき場所が違っていたとしたら? そもそも相手にこちらの作戦や秘密が抜かれるリスクは? それ以前に── 「はぁ、はぁっ……ひゅっ……こひゅッ……かっ……」 ──そんなことをする必要があるのは、私が弱い証左でしょう?
……頭と首の周りに、粘り張り付くような感触。目の前は真っ黒の筈なのに白く霞んで、少しずつ喉が締まっていく。顔が上を向く、手が首に伸びる。振り払えない、抜け出せない。
「はっ、うぐッ……げぇッ……」 水の中とは全然違う、苦しさしか感じない窒息感。口を開いても無意味、ただ思考と肉体が絡め取られ、底も知らぬままにずぶずぶと沈んでいくような──
「……大丈夫。大丈夫です。ここには私と貴方しかいない。だから大丈夫。大丈夫……」
──大きな手。少し硬く張った節々から、じんわりと広がる体温。払うように、均すように、拭うように。背中を撫でる手の動きと耳元に響く声に、少しずつ意識が浮上していく。 目の前に広がる景色は、すっかり照明の大多数が落とされて薄暗くなったライブ会場。言葉通り周囲に人の気配はなく、ただ痛いほどの静寂が周囲を支配していた。 「撤収が始まっても一向に動く素振りがありませんでしたからね。もしやと思って人払いを頼んでいましたが……何がありました?」 ライブの前くらいから平静さを取り戻していたトレーナーさん、さっきまでの姿を見ていたので少し違和感がある……なんて余計なことに気付ける程度には、自分も落ち着いていることに気付いて。 「また、幻覚を見ていました……真っ黒の」 「やはり……『右足』の時と、同じ?」 「はい……あれ、『やはり』って……?」 前と違って今度は2度目。トレーナーさんもすんなりと受け入れてくれて話が早い。それよりも気になったのが、今「私が幻覚を見ていたことを知っていた」ような反応が見えたんだけど…… 「……それは帰ってから落ち着いて話しますが。ミラージュさん、恐らく幻覚の正体が分かりました」 「えっ……!? 本当ですか!?」 あまりにも予想だにしなかった発言。先月からずっと頭を悩ませていた難題、思わず前のめりになる。けれどトレーナーさんは、お世辞にも嬉しそうな顔には見えず、それどころか苦悶とさえ言っていいような表情を浮かべているような。 「ミラージュさん……カラレスミラージュ。念のため、私の質問に『正直に』……『正直に』答えてください」 「……? はい……?」 何か、重大な余命宣告を下すかのような。物々しい雰囲気でトレーナーさんに念を押される。いつの間にか肩に乗せられていた手には、指の痕がくっきり残りそうなほど力が篭っていて。 2秒、3秒、4秒……ついに決心が付いたのか、彼は改めて口を開いた。その内容は──
「今日のレース観戦中と、皐月賞の日のレース走行中……██に██が████いた瞬間がありましたか?」
「────『はい、その通りです』」 |
第5.5話:英雄譚から身を置いて
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時は少し遡って1週間前。私ことカラレスミラージュは……盛大に暇を持て余していました。
「やることがない……」 基本的にリハビリ以外のトレーニングは禁止、学校の課題も終わっているどころか予習も進んでいるし、トレーナーさんから貰った動画も大体は網羅した上でメモ取ってる。この知識がすぐに活きるかと聞かれれば自信はないけど、テレビ越しに誰かのレースを見て「あぁ、こういう展開なんだな」っていうのは少しずつ分かるようになってきた。 出走前とか事前情報だけで推量を立てるのは難しいけど、少なくともゲートが降りてしまえば理解できる、そのくらいまでは習得したと自負している。つまるところ…… 「遊びに行こう……」 これ以上詰め込んでも、モチベが乗らない状況では溢れ返るだけ。だったら、一回気を取り直すために出掛けてしまうのもアリだろう。 薄茶色の帽子を目深に被り、いつか買い揃えたブラウスとロングスカートで身を包む。普段なら激しい運動になるので置いていくペンダントも、折角だから首に掛けて。あとついでに、連休中にもらった伊達メガネも。これ意外としっくりくるんだよね、ちょっと重い気がするのがネックだけど。 女の子らしいファッションに身を包んで、向かった先は……当然、轟音渦巻くゲームセンター。明るいような薄暗いような、喧々囂々としていながらどこか落ち着くこの空間が大好きだった。トレセン学園に入学する前から通っていたくらいだし。 普段遊んでいる筐体から、少し離れた場所へ。今の状態で両足と全身を酷使するゲームなんてやったら、今度こそ大変なことになりそうだしね。大人しく指だけで遊べるゲームを楽しむことにする。 鞄からイヤホンを取り出して、カードを翳しながら挿入。聞き馴染んだイントロを堪能しつつ、早々にクレジットを支払えば、ずらっと並ぶ楽曲一覧。そういえば、トゥインクルシリーズの中で顕著な実績を残した生徒には、ライブ活動の一環でソロ曲が提供されるのだったか。私には到底縁のない話だけど、もし叶うなら書き下ろしとか受けてみたいな、なんて。 スクラッチをキュルキュルと回し、鍵盤を叩きながらそんなことを考えた。まあ、とりあえずは肩慣らし、ということで……
【AAA!!! Yeah!!!】
とりあえず規定の3曲とおまけ1曲をこなして、イベントを処理しながら後ろをチラリと振り返る。別に自意識過剰とかそういう話じゃない。次の番を待ってる人がいるのに、気付かず遊ぶとかゲーマーの風上にも置けないから。 案の定、少し背の高いパーカー姿の男性がスマホ片手に立っているのが見えた。他には誰も並んでいなさそうだから、今日はこの人と私で筐体をぐるぐる回すことになるかな、なんて思ってたら。 「……カラレスミラージュさん、ですか?」 「へっ……? え!?」 丁度イヤホンを外したところで、ものすごく聞き馴染みのある声。相手の言葉にも若干の困惑が見える。だって、その声は私が毎日耳にしている…… 「トレーナーさん!?」 「マジか……いえ失礼、休日の過ごし方は自由ですから。普段から頑張っているのも知っていますし、咎めたりはしませんよ」 一瞬覗いただけだったから気付かなかったけど、確かにその顔立ちとかスマホカバーとかはトレーナーさんのそれで。考えてみたら、私この人のスーツ姿しか見たことが無かったから私服に面食らったんだ。 というか咄嗟にフォロー入ってたけど、もしかして私、“トレーナーさんが怒ると思った”って思われてました……? いや確かに若干後ろめたかったけど。 「他に待ちもいませんし……連奏していきますか? 私もそこまで遊びたいって日でもなかったので」 「え、いいんですか?」 「特にこれと決めた曲もありませんでしたから。だったら、折角だし担当の趣味を知るのも悪くはないかなと」 言葉こそ丁寧だが、表情が普段ほどコテコテの笑顔じゃないのを見るに、ほどほど気を抜いて遊びに来たのが伝わってくる。多分「曲決めてない」も本心だろう、私もそういう日があるし。 「だったら折角なので、ありがたくプレイ権頂戴しますね!」 本人がいいと言うなら断る理由もなし。がんばるぞー、なんて胸中で唱えながら、趣味に任せた選曲を繰り返すことにした。流石に成人男性の側で電波曲流すのだけは自重したけどね!
「本当に上手いな……一体どれだけ突っ込んだんですか」
「トータルで○万円くらい……って何言わせるんです!?」 「いや、まあ……レース中のリズムキープが上手いのも納得しましたね、はい」 野口さん一枚でギリギリ収まるくらいまで遊んで、次を最後にしようかなーなんて考えていた頃に投げ掛けられた質問。冷静に考えると、「いつから」じゃなくて「どれだけ」遊んでるかって質問な時点で中々アレだよね、私まだ中等部だよ? お金遣いそんなに荒くないよ? 日頃のお小遣いでちゃんと賄ってる……ってそんなことはいいんだって! 「まあ次ラストにするので。折角だしリクエストとかあります? 2曲くらい」 なんだかんだで1時間以上同席させた訳だし、少しくらいはリクエスト聞いてあげてもいいよね。私だって好きな曲が目の前で遊ばれていたらテンション上がるし、それなりに上手いから見るに堪えない姿も晒さないはずだし。 「そうですね……では、[2番難しい曲]と[1番難しい曲]でもお願いしましょうか」 「やりますけど他の人に頼んだらブン殴られますからね?????」 そしてこの畜生ぶり、やっぱり笑っていてもこの人は私のトレーナーさんだってよく分かった。
【AA!! Nice Play!!】
「指がぁぁぁぁぁぁ!!」 「いやぁお見事でした、本当に上手なことで」 「喧嘩売ってます??? 買いますよ???」 案の定、バチバチに鍵盤叩かされてガックガクに痙攣してる両手。まあ数十秒も置いておけば治るけど。というか私が店内4位くらいだったのに対して、3位の人のユーザー名とトレーナーさんの名字が似ていたような…… 「まあ今日の時点では私の勝ちということで」 「よし名前覚えましたからね覚えてて下さいなトレーナーさん???」 そんなじゃれ合いを続けていると選曲時間が終わりそうだったので、慌てて本命の曲を選ぶ。危ないこれでやり過ごしたらもう1クレ入れないといけないところだった。 「あぁ、蜃気楼の図書館ですか」 「私の名前が名前なのもあって、少し親近感というか特別感があるんですよ」 4バージョンくらい前のボス曲、タイトルは確かラテン語だったかな。英語で書いたら“Song”にしかならない言葉がこんなカッコいい単語になるなんて、そんなことを考えた記憶がある。作曲者さんの正体が分からなかったのも話題だったね。 シンフォニックのジャンル名に見合った荘厳さと重厚さ、ゲーム音楽に相応しいキックやシンセの強烈さ。静と動、穏と騒。対極の存在が見事に調和を果たし、全力でプレイヤーに殴り掛かってくる。 トレーナーさんに投げられたド畜生選曲ほどじゃないにせよ、心臓を揺さぶって離さないカリスマ性と純粋な難易度としての暴力的譜面は、絶対に乗り越えたい壁として私の前に立ちはだかる。 何処からかのタイミングで。譜面を注視する目元から、力が抜けていた。緊張に強張っていた指先が、少し滑らかに進む。脳内で運指をイメージするより先に、肉体のメモリが最適解を導出する。少しずつ少しずつ、思考が画面の中にのめり込んでいく。 ……後になって思えば。レース一本も、ゲーム一曲も、大体が2分前後。だったら、まあ、集中が続くのも当然の帰結なのかなと言う話なのか。まあ、それも……『後になるまで分からない』んだけど。 【AAA!!! Full Combo!!!】 最終的に、刻み付けられた記録は、店内1位。まだまだ上はいると思いつつも、大幅に伸びたベストスコアに安堵の息を漏らしたのであった。
「ふう、今日はめちゃくちゃ堪能しました……!」
「お疲れ様です、こちらもいいものが見れましたよ」 「言っておきますけど当分忘れませんからね???」 少し汗ばんだ額を拭い、自販機でスポドリを買ってゴクゴクと。別にジュースとかでもいいだろうに、しっかり身体のことを気遣ったチョイスが出来るのも一種の職業病なんだろうね。 というかさっきの最終曲、我ながらプレイが上手すぎて再現性がない気がする。更新された時に取り返せるかな……? 「そろそろ私は帰りますけど、トレーナーさんどうします?」 「私は別件があるのでもう少々。くれぐれも気を付けて帰宅してくださいね」 「はーい! 大丈夫です!」 思わぬアクシデントにも見舞われたけど、最終的には外出を丸々エンジョイ出来たということでヨシ! こうしてゆったり出来るのも今だけだろうから、休めるうちに英気を養っていかないとね! さあ来週は日本ダービー! 3人の走りがどれだけ見事に決まるか、しっかり見届けなくちゃ! |
第6話:フリーフォール・フロムナイトメア (日本ダービー編後日談)
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あの日本ダービー、ガーネットスクエアの逃げ勝ちを記憶に焼き付け、ライブ会場で思わぬ不調に苛まれた日曜日が明けて。6月も迫り期末考査も間近な正午過ぎ。
私自身はレースに出てないから、精神的疲労以外の負担は多くない。いずれにせよリハビリ中途のウマ娘がトレーニングをサボる理由もない。ただし睡眠不足。過呼吸症状と、トレーナーから言われた話が原因で夜も眠れなかった。 というわけで昼食も早々に済ませ、トレーナーの部屋に向かったけれど。 【会議→長引く 帰→15時くらい】 机の上のメモ用紙には、綺麗ながら崩れた筆跡でそう記されていて。メールじゃなくて書き置きなあたり、相当慌てていたのが伝わってくる。ちらりと時計を見れば、まだ13時。 まだ時間が掛かることを認識した瞬間、脳をぐらりと揺さぶる眠気。嗚呼、これは駄目だ。朝は「授業受けなきゃ」って理由があったから耐えられたけど、今はそんな大義名分もない。 崖が崩れて犯人が落ちて行くシーンを思い出す。きっと今の私もこんな感じなのか。辛うじてソファに上半身を預けながら、私の意識は闇に埋もれていく……
目が開く。まだ微睡み。周囲は只々黒々と。何度目? 制服は上に引っ張られ。浮遊感。墜落感。ベッドの上の背中が地面に激突するまでの数秒間。それが延々と続く十数秒間。終わりがないと気付いてから数分間。
景色は一瞬の変容も見せず。認識できる存在は自分だけ。相対座標が固定されたまま。絶対座標だけが歯車を巻いたように更新される。等加速度運動。慌ただしく目盛が回っていく。減衰。 摩擦も慣性も剪断も粘性も熱も電気も無い。埋没する何か。自然と伸びた右手は何も掴むことなく。ただ空を切る。 安心/不安。安寧/擾乱。愉快/不快。安穏/危急。歓喜/悲嘆。脳内に浮かぶ情動の文言。即座に切り捨てられる総意への相違。 目を開いている必要すらない。何も見えないなら。何を見る必要もない。伸ばしていた手を目の前へ。周囲の黒より淡い陰。 瞼を閉じる。陰は闇へ。脱力。身を委ねる。数分間。数十分間。数時間? 突然に増した浮遊感。引き上げられていく。空間に空いた白い穴。眩さに目が開く。全身が包まれる。そして。 「おはようございます、眠り姫。気分の程は?」 「……最悪、です」 「それは何より」 世界は世界を形成する。
「それで、何処から話をしたものか……」
「私の不調、幻覚の正体が分かったって話でしたよね?」 大きめのマグカップに、これまた大量の砂糖と牛乳。アクセントにコーヒー粉を塗したそれを口に含みながら、トレーナーさんに問い掛ける。 一方のあちらは顔が映り込むほどのブラックコーヒー。どうも気持ちが優れないということを見抜いたらしく、私の分はホットドリンク仕立てにしてくれたという話。 「そうでしたね。だったら定義が必要か……」 「定義、定義?」 「言葉の定義を最初に決めておかないと、議論が面倒になりますから」 同期が何度リジェクト食らったか、なんて言いつつ。整った文字で【ゾーン|領域】と記載した紙を私に見せてくる。 「聞いたことは?」 「えーっと、“ゾーン”がスポーツ選手の集中状態、“領域”が強いウマ娘の辿り着く何かしらってことくらいしか」 「それで十分です。厳密には色々と違うのですが、あくまで『私とミラージュさんの間では』こう定義することにしましょう」 【ゾーン:肉体的/精神的な超集中状態。ある一つの対象に没入すること。内的現象】 【領域:ゾーンの発展系。威圧感/圧迫感の増大が周囲に影響を及ぼす段階。外的干渉現象】 「かの『皇帝』や『白い稲妻』は、周囲の走者に雷霆を幻視させたといいます。これは極端な例ですが、他にも『水中や空中すら自在に支配するという自負』、『自身の得物を手に必ず勝つという決意』……その形態は様々ですね」 どこか現実味のないファンタジックな話、けれど私は納得せざるを得なかった。だって、他ならぬ私自身に心当たりがあったのだから。 「威圧感や圧迫感の増大……じゃあ、皐月賞の時の3人って」 「ええ、恐らくは“領域”の片鱗でしょう。ミラージュさん以外に気付いた走者が居なかったので、まだ成熟段階というところかと」 「流石、ですね……」 噂半分の知識だった頃ですら、「領域に入れるウマ娘は特別中の特別」なんて話は度々聞いていた。出逢った頃から強さと才能を見せていた3人だけど、まさかそこまでだったなんて。納得と嫉妬が心中で渦巻き始める。 「それで、ここからが酷な話なんですが……」 「酷?」 今までつらつらと話していたトレーナーさんが、急に表情を歪めて。何を言うのかと思えば……
「ミラージュさん。貴女は“領域”に入れません」
「え…………?」
全身から血の気が引いて、力が抜け落ちていくのを感じる。カップを置いていてよかった、そうじゃなきゃ絶対に落として割って中身をぶち撒けている。さっきまで潤っていた喉が瞬く間に渇いていく。 「とれ、と、トレーナーさん? それって……私に、さ、才能がないって……?」 「…………」 腕を組み、こちらを見据えるトレーナーを前にして。まともに声が出てこない。途切れ途切れに息がつかえる。治りかけの脚がガクガクと震えながら、なんとか倒れないようにトレーナーの肩を掴む。 「なん、何とか言って。ねえ。お願い……」 ダメだ。自分の思考を自分で制御できない。ぐるぐると渦巻き始める自己嫌悪、自己否定、他者否定。どうして私には。どうしてあの3人だけが。だってそれはつまり。私が無能なのは私の責任だけど。それで誰が割を食らうかって、つまり。 「お願いだから、何か言って……トレーナー……」 ああ、本格的にダメになってきた。この期に及んで、相手の方から言わせようとしている。お前は無能だと、お前なんて担当しなければ良かったと。当たり前だ、ジュニア級でこそ戦績を残せたとはいえ、一番大切なクラシック三冠を半分以上棒に振ったのだ。ましてやトレーナー人生で一番大切な、最初の担当という相手が。 さっき飲み下したホットミルクが、お腹の中で暴れ回っている。昨日の今日で、また症状が再発している。本当に碌でもないウマ娘だ、なんて自分を嘲り笑う余裕は残っているのに。ああ、でももう声も出せないか。夢の中とは違う気持ち悪い黒色が、私に取り憑いて離れないのだから。 いっそ身を委ねてしまおうか。今までのことを思えば、散々苦しみ抜くことになるとは思うけど、死にはしないと思うし。自分の無才が、無彩が招いた結果であれば。受け入れないと。受け入れないと──
「すまない、かなりタチの悪い嘘を吐いた」
耳元を中心に、髪を梳くよう撫でる少し硬い、それでも優しげな指。手のひらで頭を軽く叩かれれば、脳を物理的に揺すぶられて落ち着きが戻ってくる。私を椅子に戻し、差し出された水を飲めば心の水面が凪いでいく。吐き気と共に口元から溢れていた唾液を乱雑に拭い、改めて私たちは向かい合った。 「本当に申し訳ないことをした。今から理由は話す……ここからが今日の本題だが。必要なら後で何度か殴ってもらって構わない、相当メンタルに負荷掛けたのは間違いないだろうからな」 「……殴ったりなんて、しません。そんな資格があるものですか」 「あるさ、まあ話終わってから判断してくれ」 冷え切った空気。ぬるくなった牛乳を飲み干せば、柔らかな甘みに少しだけ心が落ち着いて。せめて不恰好な笑顔を作る。だって、貴方の悲痛な顔を見れば、私のために心を鬼にしてくれたのが分かるから。だから、お願い。 「私に、貴方の“答え”を教えてください。トレーナーさん」 「……はい、もちろん」
「先に言うと、ミラージュさんは時々“ゾーン”に入っています。それはレース中しかり、普段のプライベート然り」
「え、そうなんですか?」 会話が再開したかと思えば、すぐさま予想外の方向からフォローが飛び込んできて面食らう。てっきり“ゾーン”に入れないから“領域‘にも入れない、って振りだと思っていたから。 「タイムやレース展開……については当人だと分かりにくいんだよな。手や足が勝手に動いて普段以上の走りが出来た経験があるでしょう? アレですね、ゾーン状態」 「言われてみれば、どこか“ノってる”というか“めちゃくちゃいい調子”の時がありますね……しかもその時の動きは思い出せない、それは没入状態だったからってことですか?」 「ご名答です」 そこまで言ったところで、トレーナーさんは紙の下側に山を描く。偏差値……トレセン学園だとあんまり重要じゃないけど、あれの説明に使うような滑らかで裾広の曲線。山の頂点に“超集中状態”、左側の裾に“睡眠時”とメモを増やして。 「ここでクイズを一つ。“睡眠時”から最も遠い状態、どんな状況が思い浮かびますか?」 「えーっと、寝てる時は静かだから……興奮したり不安でいっぱいだったり、精神が不安定な状態?」 「はい、それが“答え”ですね」 右側の裾、メモの無かった部分に“過剰思考”と記載されたのを見て、何かがハマった感覚が脳内に走る。一瞬浮かべた阿呆面をトレーナーさんも見逃さなかったようで。 「ホープフルSまでは問題なかったのですが、皐月賞からは明確に格上と戦うことになりました。それも、貴女の対極のような存在が3人一群。その結果……レース中に生まれてしまった“嫉妬”の感情、それが全ての原因です」
『今日のレース観戦中と、皐月賞の日のレース走行中……過剰に嫉妬が渦巻いていた瞬間がありましたか?』
『────はい、その通りです』
リフレインしたのは、昨日の会話。そして、先ほど苛まれた激情の意識。なるほど、それを“認識させる”為に無理矢理再体感させたのか、心底から腑に落ちた。
「リハビリ中に渡した動画データ。あれの大部分は、領域が発現したと言われているレースでした。強者に充てられたのが原因か、それ以外だったのかを探るための」 「結果として、あくまでトリガーは“あの3人だった”ことが昨日に分かったと」 「昨日のレースでは3人とも、明らかに領域へ入っていませんでした。加えて症状発露のタイミングがライブ中だったのが合いません、根本的に何かが違うなと」 ……トレーナーさん、私以上に私のことを把握してない? いやお医者様ってそんなものか、だって自分の病状を把握できる患者なんてほとんどいないわけだから。 そこから先は専門的な話が続いたので、とりあえず要点だけをメモして抜き出してみる。
【①:ゾーン状態では血流増加や脳内物質分泌など、肉体的に多大な恩恵が発生する】
【②:過剰思考状態だと交感神経が優位化し、興奮や血流悪化などの症状が発生する】 【③:皐月賞時はゾーン状態手前から過剰思考状態に入り血行が破滅的に、骨折をトリガーに脳内物質が状況を誤認させて痛みを誤魔化した→幻覚の正体】 【④:日本ダービー時は単純に考え過ぎ、マイナス思考にマイナス思考が重なり続けて止まらなくなった結果→脳が③を部分的に再現】 【結局:3人に嫉妬し続ける限り、ゾーン/領域などのベストパフォーマンス発揮は望めない】
「いや、嫉妬するなって無理な話じゃないですか……?」
理由は分かった、答えも掴んだ。ただ、それを実践できるかというのはまた別の話で。あんな3人仲良しで才能に満ちていて、今まで辛い目にも遭ってなさそうな善人たちに嫉妬するなって? 逆恨みも甚だしいけど、考えただけで無理でしょうって結論が頭を埋め尽くす。 「正直キツいと思いますが……ここを何とかしないと、せっかくの努力も無駄になりかねないので」 「うーん…………」 頭を捻ってみても、解決策は思い浮かばない。滝にでも打たれて、この薄ら汚れた性根を綺麗に洗い流したほうがいいのかな、なんて与太を真剣に考え始めた頃。 「これは私からの提案なんですが。あの3人、夏合宿もトレーナー含め6人で過ごすつもりとのことで。やはりトレーナーとしてはあちらの方が知識も多い、我々も乗れないか聞いてもらえませんか?」 「へ? いいですけど……どうしてまた?」 夏といえば、“夏の上がりウマ娘”なんて言葉があるくらいには成長めざましい時期だ。この言葉は今までパッとしなかったウマ娘が花開くって意味だけど、別に今まで一線級だったウマ娘が成長しないかって言われれば当然否で。適切なトレーニングを積めば、より活躍できる存在になるのは自明……だけど、話しぶりに少し違和感があった。 「まあ隠しても仕方ないですね。はっきり言いますが免疫付けましょう、免疫。人付き合いの少ない相手を神聖視して嫉妬してしまうなら、その相手の汚い部分も見てしまえばいい。対人関係なんてそんなものです」 「そんなものなんですか」 「そんなものなんです」 今までの話に比べてだいぶ雑な結論だけど、まあ言いたいことは分からなくもない。例えるなら、トレーナーさんのことを学園で一番信頼して尊敬しているのは私だけど、一番尊敬してないのも私だと思うから。 方針が決まったところで、あとは肉体的に血流を改善するトレーニングの話をいくつか聞いて。中には上半身だけでこなせるトレーニングもあったから、自室とかで適宜やっていこうと思う。 ヘビーな話も多かっただろうということで、今日は終了。少し美味しい外食を奢ってもらって、その日は眠りに落ちた。 ……珍しく夢は見なかった。
そして、翌日。図書室で勉強していた3人を見つけたので、忘れないうちに提案してみることに。
「合宿ねー。ミラージュちゃんなら良いと思うんだけど、ちょっと条件を設けたいなーって」 「条件?」 いつも困った顔を浮かべてるなって印象のスクエアちゃんに、そう返される。まあ仲良しメンバーの楽しい楽しい夏合宿に割り込もうとしているのは私の方だ。むしろ交渉のテーブルに着いてくれるだけありがたいって思う。 くるりと回されたペン先で示されたのは、同じく教材に向かい合っている2人。なんだけど……
「何がWhoか、何がWhatか……! トレーナー様と添い遂げる中で英語なんてものがどれだけ必要なの……!」
ミツバちゃん、お怒りのところ悪いけどその文章Yes/Noで答える問題だよ? あとトレーナー業務って結構英語使うよ……? 「アジア、ヨーロッパ、オーストラリア! 試験範囲、完璧!」 ヘルツちゃん、アジアにヨーロッパで続くならオセアニア表記じゃない? というかアフリカと南北アメリカはどこへ行ったの……? 「まあ見ての通りなんだよねー、こっちも色々大変なの。特にこの2人」 「うん」 「というわけでさー、ミラージュちゃん?」 「うん」 「私の言いたいこと、大体分かってくれると思うんだけどね?」 「うん」
「助けて下さい………………お願いします………………」
「うん…………………………」 |
第7話:金剛砂の浜辺にて (夏合宿編)
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「海ーッ! イェーイ!」
「海! 夏! さあ逢瀬と参りましょう!」 「うん、海だね……寝かせて……」 「ふぁぁ……スクエアちゃんは私が連れて行くので、皆さんは2人と一緒に向かってあげて下さい……」
トレセン学園の夏休みは割と長い。大体7月の頭から8月の末まで、要するにGⅠの開催されていない夏レースの時期。その関係で、特にクラシック級の有力選手はこの時期を出走に充てず、学園が所有する夏合宿用の施設で強化特訓に励むのがセオリーになっている。
ただ幼馴染の皆……というかそのトレーナーさん達は、もう少し格安かつ設備もある程度整っている場所を知っていて。曰く研修をここで過ごしたんだとか。そこで6人して引き籠る予定だったけど、思わぬ第三者のエントリーで8人泊まりになったという経緯。 現時点でだいぶグロッキーなスクエアちゃんと、それをおぶって運ぶ私も欠伸が止まらなくて。部屋に入ったら一緒に寝てしまおうか、なんて降車前に話していた。
『あれだけ勉強見たのに赤点取るなんて嘘だよね』とはスクエアちゃんの談。英語と古文が壊滅的に苦手なミツバちゃん……いやその話ぶりで古文無理は読めないんだよ。一方、暗記系がダメなヘルツちゃんは理科と社会を筆頭にボロボロ取り零していた。思えば初対面の時から片鱗あったんだな……
そんなこんなで追試を、今度こそ赤点なくパスさせる為に必死で勉強を教えていた2週間。私は参加できる時だけだったけど、明けても暮れても2人の面倒を見る羽目になっていたスクエアちゃんは本当に大変だったと思う。 あの図書館での邂逅。学力面では学年トップクラスなはずのスクエアちゃんが、3人の中で一番酷い顔色してたっていうから恐ろしい話。私? まあギリギリ指で数えられるくらいの順位、要領悪いなりに数だけはこなしてフォローさせてもらってたよ。 そんなこんなで奇妙な友情を育みながら、無事に追試を乗り越えたのが昨日の午後のこと。ねえ何であの2人あんなに元気なの? その後お祝いに沢山ご飯食べたから? 2ヶ月間ほぼ休みなく担当トレーナーと一緒にいられるのが確定したから? そっかぁ…… 結局、そんな都合を斟酌してくれたトレーナーさん達によって、私達2人は部屋に着いて早々にお布団に沈目てもらった。その間、ミツバちゃんとヘルツちゃんはトレーナー勢4人からたっぷり絞られたらしいよ。うん、自業自得?
ホイッスルの音が空を裂き、一斉に4人がスタートする。砂浜1000m直線、瞬発力と持久力を磨くためのトレーニング。コーナーが存在しないから駆け引きの一切存在しない、身体能力とレーススキルだけが問われるメニュー、なんだけど……
「いや、何これ……!」 リハビリ明けで久々の全力疾走、それを差し引いても走りにくさが段違い過ぎる。ダートのバ場とはまた違った感触、力のほとんどが分散しているのが肌感覚で伝わってくる。そして苦戦しているのは私だけじゃなかったようで。 「いやー、ここまで力が出ないとはねー」 「普段の芝がどれだけ走りやすいか実感するわ」 「砂、嫌い! でも楽しい!」 先着していた3人が、汗だくになりながらこちらを振り返っている。こういうところで息を整えるのが早いあたり、スタミナの違いを実感させられる。 「でもミラージュちゃん、一歩大きい!」 「確かに。これだけ踏み込んでるなら相当ロスってそうだね」 「体格の差かしら……慣れないうちは不利なのかも」 言われて私も振り返ると、砂浜だけあって足跡が分かりやすい。ざっと目算して……あれ、私の歩幅、かなり広くない? 私の6歩がみんなの9歩、明らかに砂を撒き散らしている量も多い。 そっか、脚が長いからストライド走法の方が安定するって考えていたけど、砂の上だと踏み込みの強さを活かし切れないのか。だったらもう少し脚を回して…… 「……もう1回! もう1回お願い!」 「もちろん! 次も私が先頭!」 「それだけやる気なら、私たちも調子が上がるわね」 「じゃあ、やろっか。こっちもコツ掴んできたしね」 トレーナーさん達の指示を待たず勝手に決めてしまったけど、向こうも想定内だったようで。すぐに整列して、深呼吸を一つ。大丈夫、私はしっかり走れている。少し回復が遅いだけで……十分、着いて行けている。 2度目のホイッスルの音。脚を前へ、前へ、前へ前へ前へ! どうせ練習だ、10本負けたって11本目に勝てれば十分! それより今は、この経験と成長を実感するだけ! この2本目も私が4着だった、けど……半バ身くらいは迫れたはず。その後も、今日のトレーニングは砂浜に慣れるためのスプリント一種だけと決まっていたので。 最終的に私が3着へ食い込めたのは、17本目でスクエアちゃんを抜き去った瞬間だった。
かぽーん……
「ふぃー……」「はぁ……」「あ゛あ゛あ゛あ゛」 「へ、ヘルツちゃん……?」 砂まみれの全身を外のシャワーで流し、広々とした湯船で癒やす。聞いた話、20人くらい泊まれる旅館なのに最近客入りがボロボロで、8人で行きますって言った時には両手を挙げて喜ばれたんだとか。 というか特に私達2人、ほぼ一見さんってことで滅茶苦茶歓迎された。何なら夕食も私達の分だけ一品増やすって言い出してたし。最終的に8人分増えたけど。 あ、でも聞いた話トレーナーさんが4割出したんだっけ合宿費用。「恩売れる時に売っとけ」って言ってたのを思い出した。「新卒の新人トレーナーとか生活費カツカツだろ、元社会人の貯金を舐めるな」とも。 昨日のお説教で流れた分、今日は4人で飲むって言ってたけど、この調子だと主導権握ってそうだな……まあいっか。 「にしても」「ええ……」「浮いてる!」 「……?」 3人の視線が私に、というか私の胸部に寄せられているのに気付く。言われてみれば他の皆は水中に慎ましく浸かっていた。けど私お腹周りも太いから、胸もサイズが大きいだけでスタイルだと皆の方が立派だと思う。特にミツバちゃんとか腰回りエグかったし。 「やはりトレーナー様も殿方、ミラージュちゃんのような娘の方が好みなのでは……?」 すとんと落ちた胸を撫でながら不安がるミツバちゃん。発言とか体格、性格は大和撫子っぽい女の子だもんね、勝負服はメイド服だし何故かハサミ取り出すけど。 「いや、流石に心配いらないと思うよ? ミツバちゃんはもちろん、スクエアちゃんもヘルツちゃんもトレーナーさん方からの視線が全然違うし」 「そうかしら……?」 「うんうん」「ミツバは心配性!」「自分の話でもあるけど、ミラージュちゃんに同意かなー」 2人の同意にうんうんと頷く。何だろうね、つい6人組って言いたくなるけど、実際は名コンビ3組がたまたま互いに仲良しだけだったというか。このグループの関係性って、何があっても最終的には友人じゃなくて相棒を選びそうな距離感というか。もちろん、それを否定する気は全くないけど。 「というか! ミラージュちゃんも! トレーナーとの関係! 教えて!」 「えっ」 なんて外野からわちゃわちゃを見守っていたところ、急にカッ飛んでくる危険球。 「あ、それ私も気になるねー」「ええ、参考に教えてほしいわ」 あれおかしいな、逃げ道が見つからないな? 何てことだもう助からないぞ、そんな現実逃避は傍に置いておいて。 「うーん、私のことになると親身になってくれる人、ってくらいの印象しかないかな。もちろんすごく信頼と尊敬してるよ? ただ恋愛感情とかは持ってないというか。まだ1年と少しの付き合いだしね」 出会った時から今までを思い返す。選抜レースで一番の秘密を抉り出されて、メイクデビュー後に高そうな宝石のアクセサリーくれて、ホープフルSの時は途中で倒れたのを運んでくれて、皐月賞で脚折った時にはわざわざ信頼できる個人医まで連れて行ってもらって、日本ダービーの時とかもう一回トラウマ抉られた上で解決策を提示してくれて…… 「私、身体弱過ぎない……? というかもしかしてトレーナーさんって私のこと……」 後で聞いた話だけど、なんか知らない間に脳波とか脈拍数とか記録されていたらしいし。どうやってゲットしていたかの方法、心当たりがあるんだよね……よくよく考えると少しゴツいような伊達メガネ…… やっぱりあの人が私に向ける視線というか思考、実験動物とか観察対象に対するソレなんじゃ…… 「ミラージュちゃんも心配性なんじゃないかなー」「少なくとも嫌ってはないと思うわ、ここ数日の会話を見ても」「みんな仲良し!」 「あはははは……」 うん、多分これ漏れたの前半だけだな? 肝心の部分は聞こえていなかったようで一安心。適当に笑って誤魔化せそうな雰囲気だった。……というか。 「ミツバちゃんは聞くまでもないとして、スクエアちゃんとヘルツちゃんは考えてるの? トレーナーさんとの結婚とか」 ほんのちょっとした意地悪、女子なら恋愛トークは基本だし私からも。まあ普段の会話からして? ミツバちゃんほどラブラブな関係じゃ無さそうだし? あははって笑い飛ばしてくれるよね! 「……えっとー……」「…………」「……大胆……!」 あれ何か反応おかしくない? もう少し雑なリアクション期待していたのに、全員顔を真っ赤にして上向いて、というか頭もぐらぐら揺れて目の焦点が安定してないような…… 「「「…………」」」 「いや違うこれのぼせただけだ!? トレーナーさん!! トレーナーさん!!!!」 ……総評として。トレーナーさんには、お風呂でのぼせた時の応急処置方法も教えてくれていたことに、とても感謝するのでした。
その日の夜。3人のトレーナーから、担当を介抱していたことを感謝されて。一本奢ると言われて受け取った飲み物を片手に夕涼みへ出ていた。無意識に涼を求めるあたり、私もお湯にいくらか中っていたらしい。
環境問題を配慮してかガラス瓶に戻ったコーヒー牛乳を開け、喉奥に流し込む。舌先に触れる苦味と甘みがどこか心地よい、体温のせいで少しぬるくなっていたけれどそれは別に。 天気予報では満月と聞いていたが、曇天の半球は夜闇すら朧げに濁らせて。ほう、と吐いた息を聞く者は誰もいない。 「おっと、門限破りの悪いウマ娘ちゃんがいるなー?」 「……スクエアちゃん、もう具合は大丈夫なの? あと旅館に門限は無いよね」 「冗談冗談。体調も戻ったよ、迷惑掛けちゃったね」 「それなら何より! 迷惑とか気にしないで、トドメ刺しちゃったのは私な気もするし」 真っ暗な海を正面に、2人並んで取り留めのない会話。何処か探り探りになるような余所余所しさを感じながら、それでも奇妙な沈黙に意識を置いていると。 「……あーうん、やっぱりダメー! ミラージュ、何でも答えるから質問して! 一方的に恩を貰ってるのが我慢できないあと“ちゃん付け”辞めたいけど大丈夫ー!?」 「わわわ落ち着いて落ち着いて! ちゃん付けは別に自由でオッケーだよ!? それはそれとして質問!? 急にどうしたの!?」 「だってミラージュ、いつも私達の方見てたでしょ! 特にダービー終わってから私の方ばっかり見てたの気付かないと思った!? けどミラージュ身を引きがちだし! 私達に割り込んじゃダメって遠慮してるでしょ! あと追試の恩もあったし! だからせめてって話! もちろん嫌なら別の方法考えるから!」 「分かった分かった考えるから少しだけ待って! というかまたのぼせてない!?」 とりあえず彼女を宥めながら、何を聞こうか思考を巡らせる。そういえばホープフルSの日、スクエアちゃんがライブで熱狂してるって話をトレーナーさんから聞いていたな。“ここぞ”って時に思いを譲らないのが、ひょっとしたらスクエアちゃんの強さなのかもしれない。 ……“ここぞ”って時、か。 「スクエアちゃん、質問の内容決まったよ。……“日本ダービーの大逃げ戦法”。やっぱりこれ以外に無かった」 「……あれかー……うん大丈夫、ちゃんと答えるから安心して」 予想通りだったのか予想外だったのか、冷や水を被ったように平静さを取り戻したスクエアちゃんの姿に少し安堵。冷え切った砂浜に腰を下ろすのを見て、私も倣う。スカート越しに覗くふくらはぎを、労わるように撫で上げる姿は、どこか芸術作品のメイキングを見ているようで。
「一回くらいなら、走れるって言われてたんだ。誰にも追い付かれることなく逃げ切れるって」
「練習ならブレーキが効くけど、本番でやったら限界を越えようとするだろうから脚の筋肉が焼けるかもしれないって」 「実際には、1ヶ月くらい休養すれば元通りだったんだけど。二度とするなって病院の先生に言われちゃったよ」 「誰も知らなかったのは当然、だって一回見せた時点で全部台無しだから」 「ダービーの時だって、本当は2000超えた辺りで肺が破れそうだったし。勝てたのは執念の差じゃないかな、ってくらい」 「こんなところかな、知りたかった内容は聞けた?」
彼女はゆっくりと語っているだけなのに、口を挟もうと思える余地が一瞬もないまま。隠匿の動機、あの日の表情の理由、知りたかった内容は大方分かった。それでも知りたかった疑問が、もう一つだけ。
「そこまでして、日本ダービーを勝ちたかった理由。そこだけ、まだ聞けてない」 確かに日本ダービーは、国内全レースの中でも最高峰の一つ。その一勝を得るために、一生を捧げるウマ娘がいたとしても何ら不思議ではない、ないんだけど。 私の勘違いで無ければ、ガーネットスクエアというウマ娘はそこに当て嵌まらないように思った。だからこそ、その真意を問い質したいと。彼女自身の口から聴きたいと、思ってしまった。 「……昔の話になるんだけど、構わない?」 「もちろん、その話を聞きたいんだよ」 「敵わないなー」 両腕で脚を抱え込む姿勢から、腕だけを背後に着いて空を仰ぐ。向こう側から吹き抜ける潮風が、私達の短い髪を揺らした。
「私達3人が最初に見たレースが、日本ダービーだったんだ。録画映像、██年。たった3人のウマ娘が三冠を分け合ったっていう、伝説の一年の」
「昔から家ぐるみで仲良しだったから、毎日一緒に遊んでいたけれど。あの日にテレビ見てなかったら、揃ってトゥインクルシリーズに焦がれることは無かったと思ってる」 「私達もこんな風に走りたい! って。3人でレースを制覇する、それだけが当座の目標だったと思う」 「だから、こうして3人で走れている今は、夢の一部が叶った状態に他ならないんだけど……」 「日本ダービーだけは譲りたくなかった。それが私達の……私の原点に他ならないから」 「ミツバが4戦無敗、ヘルツも4戦無敗。GⅠウマ娘って思わぬライバルも現れて、初めてトゥインクルシリーズで一緒に走った皐月賞」 「ミツバが勝ったことを今では祝福しているけど、当時は少し気が気じゃなかったよ」 「『普通に走る分』には最高潮の走りができたのに、ヘルツには追い縋られるしミツバには抜かれるし」 「……あの日の思い出と、今の楽しみを天秤に掛けて、前者が勝って、そして勝った」 「以上。ご満足いただけたかな?」
「……そっか」
ここまで聞いて、心の奥に芽生えた感情。もちろん彼女は……彼女達は、努力も凄いし才能も凄いウマ娘だ。けれど、多分それ以上に。信念、決意……覚悟の差で、今まで負けていたんだろうなって。受け入れたくなかった答えが、今ではするりと妨げるものもなく入ってくる。 「今のところは皐月賞がミツバ、日本ダービーが私だけど。菊花賞も譲らないよ、ヘルツはもちろん、ミツバにも……ミラージュにも、ね」 「え、私?」 「そうそう。さっき話したでしょー? 普通に走る分には最高潮の走りだったって。何というかテンションが上がり切ってたんだ。これ以上ないってくらいの走りが出来て、後ろで皆が諦めたような気配が伝わってきて……けど、ミラージュは最後まで折れなかったよねー?」 「……脚は折れたけど」 「それはそれ……とは言えないか。とにかく、私達はミラージュのことをライバルだと思ってる。だからこそ、負けたくないなって。だから、最後に一つだけ教えて欲しい」 「何?」 そこまで言ったところで、一度口を閉じるスクエアちゃん。気が付けば、隠れていた月が雲間から顔を覗かせていて。逆光になりながらも、彼女の垂れた、けれど鋭い視線が私を射抜いているのが見えた。 「私達は互いに競い高め合い、自分こそが勝つためにレースに挑んでいるけど」 「ミラージュの、走る動機は?」
「私が走る動機は、皆ほど素晴らしいものじゃないよ」
「……そっかー。うん、ありがとね。それじゃ、菊花賞で待ってるから」
そろそろ戻る? と聞かれたので、もう少しだけ涼むと答えたら空き瓶だけ引き取ってくれて。素直に感謝を述べつつ手を振って見送った。月はもう既に雲の中に隠れていた。
「……さて、と」 走る動機、自分の原点に思いを馳せる。彼女達がそうやってここまで来た以上、私もいつかは果たさないといけない命題だったと思ったから。 疑問。カラレスミラージュとはどのようなウマ娘? 回答。才能なし、表情なし、愛想なしの面白みがない少女。トップスピードに全てを賭けて全員を抜き去る追込脚質の少女。嫉妬癖と自己否定癖が強い、本性を知れば指導に難が見えるクソガキ。 疑問。その性格の原点は? 回答。過去、とある環境での存在否定。才能も無ければ愛嬌もない、ただ背が高いだけの根暗少女が好かれる理由など何処にも無かったから。 疑問。初めて勝った時に抱いた想いは? ……回答。他者の希望を踏み躙ることへの悦び、自身を見ようとしなかった有象無象が驚愕する様を眺める甘美さ。
ここまで考えて、ようやく答えに辿り着いた。皐月賞の少し前から抱いていた思考。「才能を持つウマ娘には勝てない」という諦観、「どうして私には才能がないのか」という嫉妬。
当たり前だ。
私がもっと優れたウマ娘だったならば。私に才能や愛嬌が、もしくは他に秀でた何かがあったならば。
そもそも、『無様ったらしく取り繕って装って這い擦って走る現在』など訪れなかった!
「途中から、間違っていたんだ……全部」
私には才能がない。才能がないウマ娘に価値はない。だからこそ、【無価値な能無しが全てをひっくり返す瞬間】が愉しみだったはずなのだ。それを、今の今まで忘れていた。 「ありがとう、ガーネットスクエア。思い出した……」 そう決まれば、後は簡単だ。一度負けようが、十度負けようが、百度負けようが。たった一度の勝利のために立ち上がればいい。砂を噛もうと土を舐めようと泥を啜ろうと。勝てば全てが報われるのだから。
……本当に?
「……そうと決まれば、明日から頑張らないと! 今日は負けてばかりだったけど、少しでも勝てるように!」
普段通り、普段通り。笑顔の仮面で顔を覆って、日常を過ごす。たった一度、彼女達の寝首を掻くために。たった一度、私を世界に認めさせるために。
……その一度の勝利の果てに、何が待ち受けているかなんて知らないまま。
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第7.5話:硝煙残渣の成れ果てへ
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「トレーナーさん、私ですミラージュです。開けて大丈夫ですか?」
「ん……はい、大丈夫ですよ」 夏合宿も折り返しを迎え、すっかり客間で仕事を進めるのにも慣れた夕暮れ過ぎ。担当の声にラップトップを閉じて出迎えれば。そこに居たのは、灰色を基調にした和装に身を包む、黒髪の長身女子だった。 「どう、ですかね? これ似合ってます?」 「まぁ、はい。似合っていると思いますが」 「なら良かった、かな? 隣で失礼は出来ないですし」 大振りの袖口からは指先がちらりと覗くのみ、もう少し足りなければ手が完全に埋まってしまっていた未来が想像に難くない。オーバーサイズ気味の浴衣を帯で締めているせいか、腰付きが強調された上で上半身の脂肪分が窮屈そうに存在感を放っていた。 少しでも緩まってしまえば、たぷんと。ばるんと。どったぷんと。肉鞠が弾性を得て暴れ回る姿が容易に幻視出来る。勝負服の都合があるから定期的に測定は行っているが……やはり、こう見せつけられると思うところがない訳もなく。 「それでどうしたんです? 急に浴衣を着るなんて。そういう方面には関心が疎いと思っていましたが」 「うーん否定できないですね! ここから20分くらいの所でお祭りやってるらしくて、折角だから着て遊びに行くといいですよって中居さんが。皆はもう行ったので」 「それはまた親切に。ところで浴衣のレンタル料は」 「無料って言ってましたよ、こんなに良さそうな生地なのに」 いややっぱ此処の連中、商売下手なんじゃないか……という言葉を飲み込んで。着慣れないはずの和装で、折り目正しく佇んでいる担当を眺める。 最近分かってきたが、彼女は甘え下手だ。というより、自分から積極的に絡みに行くギャル仕草を見せているようで、その実は一歩か二歩か腰が引けている。浅い付き合いなら十分だろうが、一歩踏み込まれた時に逃げ出しそうになるのは……まあ、性分だろう。そうなれば、俺が大人としてやるべきことは単純。 「だったら、お祭り行きましょうか。これも経験ですし、ずっと同じ場所では息が詰まるでしょう、『色々と』」 「『そうですね』! トレーナーさんが乗り気で良かった! そうと決まれば屋台です、屋台食べ尽くしましょう!」 「費用対効果!!!!」 ……こうやって、調子に乗った姿を見せられるあたり。信用されていると思っていいんだろうか。それとも。
「もぐもぐもぐもぐ」
「…………」 「もぐもぐもぐもぐもぐもぐ……なんで屋台の出し物ってこんなに美味しいんでしょうね?」 「祭の空気に当てられているからでは? 夜勤明けの一杯が全身に染み渡るようなものかと」 「それ私が『分かる』って返したらコトもコトですけど大丈夫なんです?」 軽い冗句を交えながら、縁日の大路を回る。地元では有名な寺院らしく、担当の下駄が鳴らす参道の反射音が小気味良い。そんな彼女は、いつの間にか大量の食糧を手中に収めていた。 イカ焼き、リンゴ飴、焼き鳥。フランクフルトとアンズ飴にアメリカンドッグwith綿菓子……まともに動かせるのが右手の親指しか残ってないぞコイツ。というか見事に串モノばっかりだなコイツ。合計7本持ってるぞ。 まあウマ娘の彼女にとって、このくらいの量は些事なのか。満面の笑みを浮かべながら均等に得物を喰らい尽くしていく様子、実に見ていて飽きない。……均等に? 不味くないの? 「いやー美味しかった美味しかった! リンゴ飴だけはゆっくり食べないと溶けないのが難点ですが、それもまた風情ってことで!」 「そうですね。……そうですね?」 よし考えるだけ無駄だ。本人が満足しているなら十分だろう深く突っ込むな。というかコイツらの消化吸収能力どうなっているんだろうな本当に、いまいち解明されてないのが気になって仕方がない。とりあえず、仮面の屋台に視線が向いていたので適当に買ってやることにする。彼女には狐の面を、自分用には流行りの戦隊モノの面を。 「狐のお面見てると、天丼食べたくなってくるんですよね。なぜか」 「確かに」 雑なフリにも雑に返しつつ、モツ煮片手に屋台を回る。幼子を中心に、大なり小なり愉快な喧騒が響き渡る夜の境内。そういう場だから笑いが込み上げてくるのか、笑顔に包まれているからそういう場になるのか。卵鶏問題、昔ならば気にならなかった疑問が浮かんだのは年のせいか、他の要因か。 右耳に掛けられた狐の面と視線が交錯する。能面のような表情という言葉があるが、実際の能面は見せる角度によって感情表現を変えるという。だったら、この狐の面は? そして、それを身に付けた、彼女自身の面は? 「……トレーナーさん?」 「失礼……こういう場に慣れていないもので」 日頃担当に考え過ぎと言っておいて、自分がこの様では話になるまい。割高なのが分かっていても、水を一本買って飲み干す。その様子を気にしてか、指先だけをちょこんと出してシャツの袖を摘まれた。 「私も、ちょっと『人混みに疲れてしまった』かもしれないです。人気の少ない場所を教えてもらっていたので、トレーナーさんさえ良ければ一緒に向かいませんか?」 「……向かいましょうか」 食べかけのリンゴ飴を片手に、少し胸を寄せて近付けば膨らみが増して。その様子を眺める気も起きないまま、彼女に連れ立って歩いて行く。
そうして案内されたのは、そよ風で草先が揺らぐばかりの、静寂に満ちた平地だった。
「無理、してない……?」 「分からん。何故か知らんが人に酔った」 「ごめん」 「お前が謝ることかよ、悪いのはこっちだ」 子供ながらに騒いでいた無邪気さは鳴りを顰め、心底つまらなさそうな目で──実際はそうじゃないんだろうが──飴を舐める担当の少女。下ろした腰と背中に草の涼やかさを感じながら、2人して暗い空を見上げていた。 「……花火、見れるって。旅館の部屋は、音しか聞こえないから」 「そのついでに此処で休ませようってか、正直助かった」 「歩かせるには、辛そうだったから……」 お互い様、という言葉は。彼女の厚意に対して余りに不躾だっただろうから。人知れず口を噤んだ。視線が夜空を彷徨い始める。彼女が俺を心配したのと、花火を見せたかったという話は真実だろう。ただ、きっとそれだけではないはずで。
最近分かってきたが、コイツは甘え下手だ。自分の内側を曝け出すことへの警戒感が拭い去れていない……というより、むしろ当人が当人の状況を不調と気付いていない時がある。
肉体の疲労であれば、客観的にも気付きやすい部分が多いし、解消する手段も数多に上る。対して精神面は、ひとたびしまい込んでしまえば露呈に時間が掛かる上、ふとした拍子で絶好調にも絶不調にも陥りかねない水物だ。 ……夏合宿の2日目だったか3日目だったか。何かを決意したように、普段の瞳の光が増した彼女を見た。トレーニングに取り組む姿勢も、同行する連中に決して負けたくないという執念も。選手としては歓迎すべき成長、日頃の会話の頻度も増えて順風満帆に見えた。朝も昼も、何なら夜も。実際、順風満帆だったのは間違いないんだろう。……当の本人が気付けていなかったくらいには。
「……そろそろ、上がる」
「そうか、なら見て帰るか」 言葉を切ったのと同じ頃合に、轟音が空気を震わせ耳に突き刺さる。思わず目を閉じてしまったが、視界を開けば星も見え辛かった夜空に煌々と咲き渡る大輪の熱花。黒色火薬と炎色反応が緻密なバランスで混合された火球は、一瞬の爆発だけで見る者に鮮やかな記憶を焼き付けていく。後に残る硝煙の残渣が風に流されるより早く、次の花が咲き誇り。繰り返される記憶の焼き直し。爆発、開花、残煙。爆発、開花、残煙。爆発、開花、残煙。 この花火はどんな名前だったか、そんな思考に意識を巡らせる暇もなく。長かったのか短かったのか、そんな主観的認識さえ不明瞭な花火大会は幕を閉じていた。見る物も見たことだ、後ろ手に背を浮かし立ち上がろうとする。
……メンタル面の不調、至極単純な話。固い決心というものは、時に精神を圧迫してしまう。ましてやそれが、朝も昼も夜も例外なく……偽の仮面を被ることを強要される環境であれば。もちろん、それを強要しているのは他でもない彼女本人というのが救えない箇所なのだが。
例えるなら、鰓ではなく肺を持って生まれてしまった魚。水中では呼吸が出来ないために、普段は我慢を重ね、誰の視界にも入っていない最中に水面から空気を貪る。それが今では、他の誰もが視線を向けているせいで出ていけないという状況…… 俺からするに、あの3人なら大丈夫だとは思うのだが。こればかりは当人の心的外傷による面も強い、外野からとやかく言えることではないだろう。それも少しずつ改善を見せている、成長痛のようなもの。だから限界が来た時には助けてやるくらいでいい、そう考えていたのが夕方までの話だったのだが……
「トレーナーさん」
いつの間にか、口元に微笑みを浮かべた彼女と目が合う。起き上がろうとすれば、肩を軽く押され。草原に伸ばされた手で、身体を縫い止められる。覆い被さる様にしなだれ掛かる肢体。胸板の上で肉が歪む。
突っ張っていた腕のせいで押し潰されることはなかったが、肉体は却って密着を強め。すんすんと、鼻を軽く鳴らす音。ウマ娘に人間が勝てるわけがない、誰かが言っていた言葉を思い出した。 「私、花火が好きなんです。けど、眩く輝く花火そのものより。耳に飛び込んでくる派手な音より。もっと好きなものがあるんですけれど……何か分かりますか?」 「……匂い、臭い。火薬か?」 「はい、正解です。さすがトレーナーさん」 そう言って身体を離せば、帯へ差していたリンゴ飴を手に取る。糖衣の剥げ切ったそれは、ちょうど浴衣を汚さない場所にあったらしく。 シャリシャリと、歯型を刻みながら齧り取られていくそれを、呆けた目で眺める。少しずつ傷付けられ、抉り取られ。透明な橋が掛かるのが見えた。 「お線香を思い出して安心するんですよ。ああ、終わったんだなって。宴の主催は姿を消して、ただ余韻だけが残っている感じというか。その様子に、嬉しくなっちゃって」 少女が髪を撫でる。額を指が這う。微笑みが、三日月のように、深みを増す。 「……私も、咲き誇ってみせますから。誰を相手にしても。だから……」
花火は、人々の記憶に思い出を焼き付ける。五感の大半に作用し、神経を辿って、脳へ。視覚に灼け付く焔光、鼓膜を突き破る鳴動。爆轟は肌を震わせ、思わず息を呑み。切り取られた一瞬は、さぞ鮮烈な感光を示すことだろう。
けれど、それも日が経てば薄らいでいく。忘れられていく。そして、新たな花火を見たときに再び感動を齎す。人々の営みも類似性を持つモノであれば。彼女が望むのは、きっと──
「支えてくれると嬉しいです、トレーナーさん」
──それは、花火のような█。
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第8話:閑却 (神戸新聞杯編)
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「では、明後日のレースの話でも始めますか」
「はい! よろしくお願いします!」 残暑覚めやらぬ、それでいて涼やかな風を浴びる機会が増えてきた長月の後半。長袖の制服はどこか落ち着くなんて考えながら、ホワイトボードの前に立つトレーナーさんを眺める。 神戸新聞杯、阪神開催第11Rは芝2400m。中山開催のセントライト記念と並んで、クラシック三冠最終戦の下準備に相応しい威光を放つGⅡレースだ。今年はフルゲート18人、夏を超えて一回り以上強くなったウマ娘が犇き合っている。 「ではミラージュさん。我々が敢えて神戸新聞杯を選んだ理由、振り返っていきましょうか」 無駄に流暢な筆記体で書かれた“Why”の文字に苦笑しながら、手元のメモ帳を開く。どんな些細なことでも、書き留めておくだけで大分違うからね。 ……トレーナーさんが次走を決めたのは、皐月賞直後。例の骨折の直後、リハビリ計画を練り始める前のことだ。だから“その後に何かが決まったとして”、それを反映する余裕はこの人にない。ベテラントレーナーさんなら違うんだろうけどね。 「まず、2400mのレースを走らせておきたかった。東京と阪神でコースは違いますけど、距離感覚としては2000からの2200より色々見れるでしょうから。あと日本ダービーのリベンジ」 「OKです、まずそれが一つ」 “2000→2400→2200→3000”の三番目にバツを打つトレーナーさん。ジュニア級の時はホープフルSを筆頭に2000mのレースしか無かったからね。出るのを見送った皐月賞トライアルも含めて。なんか2000至上主義すぎない? 気のせい? その意味でも日本ダービーは出走しておきたかったんだけど……骨折がなくても7着だったからね。半月の間に青葉賞を走るのは厳しかったと思うし、けどリステッドの方は2000m! うーんままならない、なんて考えるのもほどほどに。 「次が遠征適性。一応京都ジュニア走ってますけどほぼ1年前ですし、どっちみち菊花賞は京都開催だから移動に慣れ直しておくのも悪くない」 「はい、これで遠征苦手とかシャレになりませんから」 トレセン学園、中山とか東京のアクセスはいいけど帰省したい時とか大変なんだよね。お父さんもお母さんもあっちの出身だから。 まあ当分戻らないって話はしてるし。危篤でもない限り連絡は取らないから、自分のことだけ考えて頑張って! なんて送り出してもらった以上はそれに応えるだけ。まあ悪いトレーナーに捕まっちゃったけど…… 「あとは、まあ微差ですけど。神戸新聞杯の方が1週間後開催。リハビリ計画に支障を来してもマージンが取れなくはない」 「夏合宿を見るに完全な杞憂でしたが。まあ無事に治っただけ何よりです。逆より余程いい」 考えてみれば、私5ヶ月近く出走してなかったからね。12月から4月の9月ってトゥインクルシリーズ無礼無礼してない? とか聞かれたら返す言葉もない。ともあれ、あの日話していた内容はこれで十分。 空いたスペースに18人分の名前を並べていくトレーナーさん。どうも運がないのか、相も変わらず8枠18番とかいう大外枠を掴まされたのが私ことカラレスミラージュ。外側走るのが十八番だよねハハハ何考えてるんだろう。 「何やら変なこと考えてません?」 「ソンナコトナイデスヨ」 ……トレーナーさん、夏祭り以来、私に向ける視線が若干変わってない? 少し警戒が混じっている感じというか。気のせいかな? 「……まあいいでしょう。では最後、もう面倒臭いのでズバリ聞きますね。『今年の神戸新聞杯の前評判は?』」 「『主役不在』。『どうせあの3人で決まり』……あはは、堪えますね」 今まで茶化し合っていた空気感は一転。頭と理屈では分かっていても、言葉には少しだけ棘が乗って。その反応を咎めることもなく、両腕を組んで静かに頷くトレーナーさんの姿。この反応も予想通りだったんだろうと思うと、癪に感じていたんだろうな。……少し前までは。
関東のセントライト記念、関西の神戸新聞杯。菊花賞トライアルとして知られる両レースは、共に上位3人へ優先出走権が与えられる。ではここで問題。誰でも分かる簡単なクエスチョン。
『「上位3人しか景品がもらえない大会に、国内最高クラスの選手が3人出る」と聞いて、「いや自分こそ」とモチベが上がる人はどれ程いるでしょうか?』 ……答えは、確か5人だったかな。 かたや皐月賞ウマ娘、かたやダービーウマ娘。かたや2人の後塵を拝んでいるとはいえ、4着以下にかなりの差を付けてのブロンズコレクター。今年のクラシック級における台風の目は、先週揃って中山レース場に足を踏み入れていた。そうなれば、他の娘たちが出走回避を選ぶのも仕方のないこと。 少しでも輸送の頻度を減らしたいって娘だったり、いや自分は夏で成長したんだって娘だったり、積極的消極的を問わず3人に立ち向かった挑戦者も居たけど……結果については、言う必要もないよね。 けれどまあ、“敗者”は立派だと思うよ? 仮に負けると分かっていても、勇気を振り絞って同じレース場に立っていたことは間違いないだろうから。……“敗者”にすらなれなかった、臆病者の誰かさんたちに比べれば、よほど。
「情報は集めてきましたが、正直なところ。よほど上手く隠しているわけでもない限り、あの3人に敵う出走者は見当たりません。……当然、貴女も含めて」
「分かってます分かってます、自分の立場とか力量は弁えているつもりですよ!」 トレーナーさんの調査だけじゃない。他の名門トレーナーの評価とか、スポーツ新聞とかレース雑誌とか、大手メディアSNSその辺の噂話。媒体形式相手信憑性の一切を問わず、彼らが下した結論は同一。故にこそ『主役不在』。貼り付けられたラベルは何重にも補強され、剥がそうにも爪の方が割れてしまいそうだ。 「というわけでトレーナーさん! 私は今回どう走ればいいですか!」 だからこそ、私は彼に問う。この見る価値も無いレースにおいて、貴方は私に何を望むのかを。 リハビリ明けだから、とにかく怪我しないよう無事に帰って来て欲しいですか? それとも全力を振り絞って、勝利を獲って来て欲しいですか? それとも…… 「好き勝手に走ってこい、復帰戦なんてそう味わえるモノじゃないからな。それに」 「それに?」 「……誰も見ちゃいないさ、お前らなんてな」 「……いやトレーナーさんは見ていてくださいよ!? 自分じゃ振り返りとか限界あるんですから!」 分かってる、分かってる。スポットライトの数は最初から決まっていて、その光を浴びられない存在が視線を集めることなんて出来っこないと。だったら、私がやるべき行動は、至極単純。
諦めてしまえ。
「っかし暇だな……」
ボトル片手にターフを眺めながら、一人呟く。担当から「レース終わりまで独りにして欲しい」と言われ、手持ち無沙汰なまま日曜昼のレースを眺めるオッサンが俺。 試しに第9Rのダート戦、誰が勝つか予想してみたが……なんも分からん。脚の調子見て5番人気あたりが勝つと思ったら8着くらいに沈んでいった。専門以外は手ェ付けるべきじゃない、よく分かった。 「そろそろ10月も近いってのに、30度間近とか勘弁してくれ……」 猛暑日の連打を思えば、真夏日くらいで呻くなって声も聞こえてきそうだが。それで自分含め誰かがぶっ倒れることの面倒さを思えばこのくらい愚痴らせてくれと。どうせ誰も聞いちゃいないだろこんなオッサンの戯言。 「いやー暑いですねー……ちょっとしんどくなる……」 「……自分のトレーナーと一緒に居なくていいんですか?」 「色々あって今日は来てませんー……今日のレースはむしろ貴方と見たかったー……」 燃えるような髪色に似合わず、空のような瞳に微かな揺れを湛えて。茹だるような熱気に溶けそうな額へ、ぺたぺたと冷感シートを貼ってやる。多少は頭の周りも良くなったようで、情けなくうにゃっていた表情にも締まりが戻ってきた。 「遅くなりましたが、改めて。セントライト記念優勝おめでとうございます。ダービーから2連勝ですか、ご活躍のようで何より」 「ありがとうございますー、けど担当じゃない子をベタベタ褒めるのもどうかと思いますよー」 「返す言葉もありません、まあ夏の縁もありますからミラージュさんも許してくれるでしょう」 「彼女、滅茶苦茶いい子ですからねー。だけどそこに甘えるのはダメですから、『トレーナーさん』?」 「はは、耳が痛い……」 考えてみれば、担当が席を外している状態で他のウマ娘と会話する機会はそう多くなかったと。普通のトレーナーならサブ時代などで経験を積んでいるんだろうが、この辺りは自分の浅さを痛感させられる。 彼女も担当の不在には気付いているだろうが、敢えてそれを切り出す様子は無さそうで。第10Rの発走を見届けた後、口火を切ったのは相手の方だった。 「出走者数は2倍近いのに、観客は先週より遥かに少ないの、なんだか悔しいんですよー」 「それだけ貴方達が期待されているということでしょう? どうせ見るなら、強い選手が心震えるレースを繰り広げてくれるのを期待するのは当然のことです」 こちらのレースは盛り上がらない、そんな考えは言葉の端に留めて。 自分達の実力に驕るでもなく、同じレースを走れた相手の少なさを嘆くでもなく。彼女が気にしているのは、俗に言う世論というもの。一介の選手が意識するには大それた相手であるが……他者と競い合い高め合い、或いはライブに熱狂し。その過程を含めて重視する彼女にとって、今の舞台は到底納得し得ない状況なんだろう。 「……私達、取材頼まれたことがあったんです。『明後日の神戸新聞杯、誰に注目してるか』って。『主役不在』なんて自分達が報じたレースに、『主役』からの意見を聞いて流すなんて、それがどれほど酷いことか」 「…………」 「私もミツバも、『それを知るために行く』って誤魔化しました。ヘルツは口走り掛けていたけど……まあ、公式戦でミツバに先着したのが初めてだったし、テンション上がってたと思うので大目に見てあげて欲しいです。私達で口は封じたし」 ……いつもは振り回されがちで困り面を浮かべる彼女が、珍しく怒りを滲ませているのを、少し意外に思いながら。 「他の子は知らないけど、私だったらそんな形で注目を……人気を集めたくなんてありません。それは実力と成果に裏打ちされるものであって、誰かの胸先三寸で決まるべき物じゃありませんから」 「……それを言えるだけ、貴方は強いウマ娘ですよ」 白鳥の水掻きという諺が存在する。優雅に浮いているように見える水鳥も、水面下で激しく水を掻いているという話から成立した言葉。……だったら、いくら水を掻いても浮かばれない水鳥は、果たしてどう振る舞えばいいんだろうな。 綺麗な白色とは掛け離れ、醜い鶩の子に似た少女の姿を思い返しながら、心中で一人呟いた。
「そろそろですねー」
「ええ」 第10Rを一番人気の勝利で結び、いよいよ本日のメインレース。本当に担当とは会わず終いで迎える羽目になったが……悔いたとしても今更の話か。 「……復帰レース、無事に走り切ってくれるといいけどー」 「こればかりは、祈るしかないでしょうね」 などと言っても、祈りなんて、実際のところは全く捧げちゃいない。彼女の脚は既に完治した、再び壊れるとしてもそれは単なる別の怪我に過ぎない。そこに天の思し召しなど関わるものか。 だからこそ、トレーナーとして俺が思うことは一つ。
お前は今、何を考えている?
「……そろそろ」
少し座り心地の悪いパイプ椅子。GⅠ以外だと勝負服を持ち出す機会がないから、体操服に皺が寄っても多少は問題ないだろうと。トモの上に乗せていた手を下ろし、天を見上げたまま数時間。誰と話すでもなく何かを為すでもない、唯々途方も無く無意味な時間。 トレーナーに「レースが終わるまで1人にして欲しい」と伝えたのは、他ならぬ私自身。あの人と同じ空間に居ることを、どこか本能が拒絶していたから。そうして控室に独り籠ってこのザマとなれば、まあ情けないことこの上ないけれど。 『……誰も見ちゃいないさ、お前らなんてな』 彼の言葉が脳内で反響する。それは侮蔑でも嘲弄でもない、ただ純然たる事実の提示。その言葉に一瞬激昂が溢れ掛けたものの。一方で、私は確かに安堵を感じていた。その安堵は如何にして表出するに至ったのか。自分の一貫性の無さに、ほとほとウンザリした嘆息が零れ落ちる。 行ってきますを誰に告げるでもなく、無言のまま控室を立ち去る。地下バ道を進む中で、耳に飛び込んでくるのは誰かの声。 「──、────、──!」 「──────、────」 「────────」 会話を言語として認識できないまま、私の脚は舞台へ向かっていく。半年近く離れていたレース場という舞台は、これほど広く大きく騒がしい場所だっただろうか。靴底に伝わる土と芝の感触は、学園のトレーニングコースと似ているはずなのに、どこか違和感。 上を見れば、雲混じりの空が目を焼いてくる。陽の光に焦らされて、額に滲む汗。手の甲で軽く拭いながら、ゲート入りの瞬間を待つ。8枠18番、ゲート入りから発走まで、それほど時間は長くない。 深呼吸。面倒ごとを考えるのは終わりにする。阪神レース場に集った18人。この場に人々の夢を託されるスターは……きっと存在しない。疎に散った観客席は、それだけで私達に現実を突き付けてくれる。1人また1人とゲート入りが進む中でも、聞こえてくる歓声は落ち着いたもので。 最後に私が脚を踏み入れ、出走の準備は整った。もう一度だけ、深呼吸。誰もが私を見ないなら、もうそれでいい。トレーナーすら見ているか怪しいけれど、構わない。私がその舞台に届くためには……いや、やっぱり違う──
【今スタートが切られました!】
──私はただ、この脚で走りたい。
阪神2400m。GⅠレース未開催が勿体無いと言われる程度に、魅力的なコースと評されることもある舞台は、まず8分の1ほどを占める急坂から始まる。逃げ表明のヘカトンケイルとサックスアリカベがペースを作る中、相変わらずの定位置18番手……ではなく、後ろにマリーノグリズリーとミリシアアメル、追込ウマ娘を2人抱えての16番手と相成った。流石に夏を超えてGⅡレースに出走する面々、このアップダウンに振られても疲弊した様子は見えない。
【さあここからは長いコーナーに入る! 先頭を進む2人のペースは続いていくのか!】 観客席の前を通過しても、聞こえてくる声は大変小さいまま。先頭の逃げウマ娘たちがコーナーへ差し掛かったのを見届けながら、少しペースを上げる。どっちみち後方からインを突くのは無理、多少のロスは後で追い上げればいい。とにかく流れを狂わせないように。 ぐるりとコーナーを抜ければ、500m近いロングストレート。大局には影響しないまま迎える第3コーナーと第4コーナー。ここを抜けた時点でおよそ2000m、今までの私にとっての主戦場。前半と比べて緩い円弧を描く中、持ち味のストライドを維持したまま最後の直線へ。 ……音が遠い。蹄鉄に足下の芝が削り抉られる音も、自分の口腔から溢れる吐息も、薄布を越したようにくぐもった物へ。汗が噴き出しているのに身体が寒い。瞼が垂れ下がりそうになる中、スタミナの尽き始めた脚で目指すはただ先頭。まだペースの上がっていない後方集団を置き去るように、1人また1人と。 【さあいよいよ最終直線だ! 仁川の直線で全てが決まる!】 ここまで走ってきて、観客席が視界に入った瞬間。ふと疑問が浮かんだ。先頭からの距離は残り8バ身ほど。見た感じ、先行策で突っ切っている面々はまだ余裕が見えて。
これ、届かなくない?
心臓が早鐘を打ち、肺腑が限界を訴え始める。気を抜けば倒れ込んでしまいそうな。ほぼ根性と執念だけで脚を回しているようなもの。届くか。届かないか。届かせるか。私は……
『好き勝手に走ってこい』 『……誰も見ちゃいないさ、お前らなんてな』
「……ッ!」
そうだ。どうせここで勝っても負けても、変わるのは私の成績と心中だけ。だったら私は、せめて悔いだけは残さないように、最後の一瞬まで。 あの日折れた右足を、全力でターフへ叩き付けた──
────前に踏み出した一歩を、何かが掴む。ピッチのリズムが停滞し、ストライドが崩壊するよりも早く。黒い手が、私を引き摺り込む。浮遊感すら感じないほどの一瞬で、私の姿は地上から消え失せる。
頭は下へ、足は上へ。いつか見た記憶を焼き直すように、黒一色の空間を墜ちる。爽快感も無ければ不快感も無く、ただ目を閉じて身を委ねる。片足を掴んでいただけの何かは数を増して、全身至る所に這い回っていた。
時が止まる。重力への叛逆、私の身体は一点に縫い止められ。目を開いた眼前には、あまりにも見慣れた嫌悪と憎悪の対象。知らぬ間に勝負服を纏っていた私と、そっくり同じ装束、全く同じ肉体で。逆しまに立つ少女が、ニコリと微笑みかける。……余りにも、空虚な笑みで。
『──、─────?』 少女が口を開く。音の届かない空間で、確かに聞こえた声。それが日頃聞き慣れたものであることに、違和感よりも奇妙な安堵を覚える。 「そう、貴方は……」
薄ら暈けて色を喪った世界。空の青も芝の緑も土の赤も見えない、誰かさんの装いの様な場所。風も音も気配すら見えないこの場所に、ただ一人/二人で佇む私。つい先刻まで走っていたことすら忘れるような、歪に蕩けた安心感。
『────、───────』 少女の言葉が、全身の力を奪っていく。再び襲い来る浮遊感と墜落感。自分が何に執着していたのかさえ朧げに霞む中、束縛の消え失せた身体を無為に委ねる。
「……貴方(ワタシ)が、それを望むなら」
そんな中、たった一つだけ。 「私を」 閉じた瞼の裏、世界が黒く染まり直し。 「静めて」 塞いだ耳に、自分の発する音すら届かなくなって。 「鎮めて」 全てが空虚に堕ちる中、私(わたし)が少女(ワタシ)に願ったことは。
「…………沈めて」
【Sink into the Mirage Lv.1】
「えっ?」
隣から、気の抜けた声が耳に届いた。いや、彼女の声だけじゃない。ほんの一瞬だが、スタンド全体が静まり返った気配を感じた。だってそうだろう、“ほんの数秒前まで疲労に喘ぎ果てていたウマ娘が、人の変わったように冷静さを取り戻し”──あまつさえ、“このレース場を駆ける誰より速い末脚で先頭を目指し始めた”のだから。……違うな、冷静という表現は正しくない。 憑き物が落ちた、何かを捨て置いた。或いは、錘を外したと呼べばいいのか。 「えっ何あのストライド……!? 速っ、それより低過ぎない!?」 「皆さんとの砂浜トレーニングの賜物ですね。ピッチを上げながらストライドを広げる、その為に必要なバランス感覚、前傾姿勢の維持。大変素晴らしい経験をさせていただきました」 そういうことではないだろと、自分で自分を嘲笑うが。そんなことよりも。 全身の脱力が、遠く離れた観客席からでも見える。肩の荷を下ろし、体幹を支えるためだけに必要な最低限の力。両脚もバネと跳躍を活かし、一切の力みを見せず最高速へ迫っていく。 そして何より、全てが剥がれ落ちた表情。歓喜も悲痛も絶望も苦痛も見えぬ、表情筋の死に果てた能面少女。思考と感情を内側に閉じ込め、希釈し、飲み干して。其処に在るか無いかさえ定かならぬ存在。今まで見ていた景色と似ているようで、何かが狂った光景。虚飾を振り捨てて唯一残った、彼女の本質。
……無彩の蜃気楼。
「至れたようで、何よりってところか」
もっとも、今回の結果は偶然の産物だろうが。極限まで疲労して限界を迎えてからの発露など、実戦級でどこまで活かせるかは分かったものじゃない。全身へのダメージも見ておく必要があるだろうし、彼女があの状況を許容するかも別の話だ。……しかし、まあ。
「……少しは趨勢も揺らぐか?」
【カラレスミラージュ、今1着でゴールイン! 後続に4バ身以上の差を着けて、ジュニア級王者、ここに復活です!】
【2着に入ったのは──】
ゴール板を踏み越えて、観客席に手を振って。控室で着替えてライブを踊り切って……朧げな思考の中、もう一度控室の扉を叩くと。中から聞こえてきたのは男性の声。許可を貰って入室する。
「お疲れ様です、ミラージュさん。復帰戦勝利、見事でしたよ」 「……見てたんだ」 「お前のトレーナーだからな、他の誰が見てなくても俺は見なきゃならんだろ」 「義務感?」 「さあな」 ぶっきらぼうに、一見すれば仲が悪いと思われそうな会話。けれど、やっぱり私にはこの距離感が落ち着く。壁に背を預けていると、彼の視線が私の両脚へと向いていることに気づいた。 「……違和感?」 「いや、今のところ問題は無さそうだ。帰ってからゆっくり診ておきたいところだが、それよりも……」 そこまで言うと、彼は一度言葉を切って。顔を上げ、私の瞳を見つめてくる。彼の中に、私の虚ろな目が浮かぶ。 「レース後に……地に足の着いたお前と会話するなんていつ以来だろうな」 「……分からない」 記憶している限り。ホープフルSでは机に突っ伏しているか眠っているか。皐月賞の後は脚を折って普通に立てていたわけじゃなかったし、日本ダービーに至っては言及不要。そう考えると……レース場という舞台で走る私が、地に足を着けていなかったというのは何という皮肉か。 「まあ、何にせよ。『お帰り』だな、カラレスミラージュ」 「……『ただいま』、トレーナー」 それでも、こうして再び戻って来られたのは事実。今までの結果は取り戻せないにしても、これから先は自分の足で歩いていけるだけの未来がある。だったら、私は。 「次、菊花賞。……勝つから」 「良い意気込みだ。だったら残り1ヶ月、詰めていくぞ。覚悟は出来ているか?」 「……当たり前」 決意表明。差し出された彼の右手に、同じく右手を激しく叩きつける。空気を裂くような破裂音。この感触が、私が此処にいることをありありと伝えてくれた。
トレーナーから、観戦中の話をいくつか聞きつつ、阪神レース場を後にする。私が再び関西の地に戻ってくるのは……1ヶ月後。
近くて遠い、大切な人達に内心で別れを告げながら。私達は学園へと戻っていった。 |
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第9話:何処に咲かん大輪の菊 (菊花賞編)
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「新幹線で食べる駅弁、最高! 何個でも!」
「家で食べるのとはやっぱり違うよね、それはそれとして10個は食べ過ぎじゃないかな!?」 「ふふふ……駅売弁当、とても美味しくて……パクパクですわ〜!!」 「ミツバちゃん絶対そんなキャラじゃないよね!? 明らかに悪ノリしてるよね!?」 「……パ、パクパク、だな〜…………」 「無理しなくていいんだよ!? 蛸めしより真っ赤になってまで乗る必要あった!? 赤いのは柘榴石だけで十分だからね!?」
菊花賞を前日に控えた土曜日。私達4人は何の因果か、同じ新幹線で京都まで向かっていた。いや因果も何もないな、スクエアちゃんのトレーナーさんから「どうせ同じ場所で競い合うなら、現地まで一緒に行くかい?」って聞かれて私とトレーナーさんが乗った形。
実際、こうやって交流の機会を持てることは、素直に感謝したいところだよね。そのトレーナーさん達は、私とスクエアちゃんの後ろで何やら話し合いを繰り広げていた。まあ聞こえにくいし気にしなくてもいいかな。 ……ところで、新幹線の団体割引って確か8人以上が条件だったような。いやいやまさか中央のトレーナーさんがそんな狡いこと考える訳ないよね!
「そういえば、皆は京都レース場初めてなんだっけ?」
なんとなく、頭に過ぎった疑問を吐き出してみる。頭の中で指折り数えてみた時に、そういえばクラシック路線のレースって関東ばっかりじゃない? って思ったから。 「ええ、私は関西の方へ行くことすら初めてなの」 「ミツバは中山ばっかりだったからねー、まあ私もメイクデビューで阪神行ったきりー」 「若葉S勝った!」 「ヘルツちゃん、それも阪神だよ?」 ちょっとした小ボケを挟まれながらの情報収集。とは言っても、私も走ったの1年近く前だから然程アドバンテージがあるって訳じゃないんだよね。3000mなんてそれこそ前人未到の領域だし。 「前に下見は行ったけど、坂がエグかったねー。外回り3000mってだけでバテそうなのに、あれを2回上って下れって考えると肺がおかしくなりそう」 「しかも外枠ほど不利……序盤の直線でどれだけ内に潜り込めるかが重要かしら」 「ミツバ大外枠大変そう!」 「まあ、そういうヘルツも結構外側だけどね」 「18番と15番だもんね、それでスクエアちゃん7番の私が2番。まさか内枠になるなんて」
やたら大外を引くジンクスがあった私が、唐突に最内枠からのスタートになると判明して。トレーナーさんとも少し策を揉む羽目になった。そういえば京都ジュニアの時も内枠だったっけ、あの時は芙蓉Sの反省を踏まえて外に出たけど、この3人はそんなロスを許容してくれないだろうから。
如何にしてこの有利を活かして、先行勢に追い付いていくか。一応プランは立っているけれど、成功するかは微妙に五分五分。ぶっつけ本番かな…… 「そうだ! 皆、評価! あれ見た!?」 「あー、いつもの投票ねー?」 ヘルツちゃんの問い掛けに返すスクエアちゃん。2人が言っているのは、勝ちウマ娘の予想投票の話。URAの公式サイトで開催されてるんだけど、「このレースで勝つのは誰か」「誰に勝って欲しいか」を各々が投票していくんだよね。別に当たったからってお金が貰えたりとかはしないけど、応援している娘が勝てば当然嬉しいし、ウマ娘の方もモチベに繋がる。17番人気とか18番人気とかの娘が勝った日には、お互い大騒ぎだろうし。 斯く言う私も3番人気以上にしてもらったことがないから、割と微妙に番狂わせ役。ホープフルSの時とか分かりやすかったな、だいぶ贔屓入ってたってトレーナーさんも言っていたしね。というか神戸新聞杯って何番人気だったっけ、後で見ておかないと。 ……いや、やっぱり「勝つだろう」と「勝って欲しい」を同じ枠で投票させるのはダメじゃないかなぁ……? 「1番人気がスクエア、日本ダービーを含め2連勝しているし妥当だと思うわ。2番人気のヘルツについても、前走2着が評価されているし、夏明けの成長度もピカイチだから」 「逆にミツバ3番人気はアレだよねー、大外引いたのもあるけど、若干のマイラー疑惑が見えてきてる話。よくダービー走り切ったって」 「不安が無いと言えば嘘になるわ、けれど疑惑は疑惑、私はトレーナー様のためにも……自分のためにも勝つの」 「熱血! それでこそ私のライバル!」 「これは負けてられないなぁ……」 三者三様、異なる色の炎が心中で燃え上がる。赤色、青色、黄色。その炎は互いを燃やし合って、他の一切を寄せ付けない、筈だった。あくまでも、今までは。
「それで4番人気が私な訳だけど、少し評価高くない?」
前走までは“3人”と“それ以外”だったところに、少々見劣りしながらも食い込んで来た4人目、それが他ならぬ私、カラレスミラージュだった。どうしても頭が傾く。首筋を左肩に乗っけていると、グイッと押されて元の場所に戻された。下手人はスクエアちゃんだった。 「『3強を崩すのは彼女か!?』『ジュニア級王者、堂々の凱旋なるか!』、期待大だー」 「スクエアが最初に貴方を買った気持ちがよく分かるわ。他の娘とは違う執念……気迫? あの日に見せてもらったから」 「けど、勝つのは私! 譲らない!」 「……いーや、今度こそ私だよ! これ以上いい思いをさせてなるものか、だからね! スクエアちゃんにもミツバちゃんにもヘルツちゃんにも!」 ビシッと指を突き立てながら、頭の中は静かに冴え渡っていて。思わず息が漏れる。 実際、本当に私へ期待している人が多いなら……私という“勇者”が、3人の牙城を崩すことを望まれているなら。もう少しばかり人気が集まっても良かったと思うのが道理。けど現実はそうじゃない、結局のところ私が勝つことは切望されている訳じゃないし、私が勝つと思っていない人の方が圧倒的に多数だろう。 けど、別にいい。少し前に、諦めるのは慣れた。どうせ私は期待されない存在、本当は誰の目にも入っていないんだと思う。より強い光が瞬き、強い炎が揺らめけば、視線は一瞬でそちらに奪われるだけ。一時の熱に浮かされた所で、本当の輝きの前には消え失せるのが定め。だったら、まあ。
「とても、とても楽しみね。明日……この4人でぶつかり合うのが!」
「皐月と菊花で2冠、ダービー菊花で2冠。最初のGⅠ制覇で4人分け合うか、ジュニア級からの刺客が掻っ攫っていくのか。誰が勝っても面白い……!」 「悔い無い戦い目指して頑張る! そして勝つのは私!」 「脚も体調も気持ちも万全、負けるつもりは毛頭なし! 何としても喰らい付いてみせるから、覚悟してよ!」
闇討ちくらい許されるでしょう? 目を離したのは貴方達なんだから。
「よく食べて、よく休めましたか?」
「いやー立派なホテルは違いますねぇ。旅館の温泉とはまた違った大浴場って感じで」 今日一日は移動と休息、あとはせいぜい作戦会議くらい。本番を明日に控えて、変に体を痛めたり疲れたりしたらコトだからね。だからと言って前日にあの量を平らげるヘルツちゃんは本当に何なのって言いたくなるけど。危うく夕食のビュッフェ追い出されそうになってたし。スクエアちゃんもミツバちゃんも全く止めないし。多分トレーナー4人より食べてない? とりあえず夕食は控えめに済ませて、風呂上がりのままトレーナーさんの部屋に転がり込む。滅多に着れないバスローブの感触が肌に心地よい。 「なら作戦会議ですが……正直なところ、言えることがほぼ無いんですよ」 「まあ、今日で全部詰め込まないといけないなら今まで何だったって話ですしね」 実際のところ、今日の話はあくまで振り返りに過ぎない。極端な話……今から逃げて勝てって言われて実行できるわけないし。今までやってきたことを今まで通りやるだけ、『最も強いウマ娘が勝つ』レースであれば尚のこと。そこを叩き込んでいれば、話す内容が減るのも仕方のないことで。 「なので懸念事項はたった一つだったんですが、大丈夫そうなので言ってしまいますね」 「はい」 「……明日のレース、決して『張り切らないでください』」 「はい!」 「たった今まさに気を張るなと言ったばかりなんだが?」 そんな茶々を挟みながら、やれ他のトレーナーは何を考えていただのと情報共有を重ねる。こればかりは本業の皆さんに敵わないからね。使える情報は吸収しておきましょうって話。今まで集めてきたデータに資料を足して、明日の展開予想を高精度に突き詰めていく。敵を知り己を知り、吾唯足るを知り。 クラっと眠気が訪れたあたりで、一声掛けて自室に戻る。カーテン越しに一瞬見えた月の欠け具合も分からないまま、ふかふかの寝具に瞼が落ちていく……
暗雲垂れ込めている京都レース場。降り注ぐ大雨が隙間なく全身を殴り付け、視界はただ悪くなるばかり。激しく早鐘を打つ心臓が、無理矢理に鎮められていく感触。
灰と黒の2色で構成された勝負服が、衣服の機能とばかりに水分を含み、彼我の境界を薄れさせていく。濁っていく。霞んでいく。普段は気にならない重みが、全身に張り付いて離れない。ただ、静かだった。芝を踏む音も、土を削る音も、全て全て全て雨音に掻き消され。泥濘んでいく地盤。足が滑る。
少女たちの視線は、ただ一点。その先を見ていないのは、私ただ一人。もしかしたら、私はもう見たのかもしれない。分からない。分かりたくない。分かろうとしたくない。
黄色い髪の少女は、ただ両手を握り締めていた。そこに浮かぶのは、憤怒? 青い髪の少女は、ただか細く何かを呟いていた。そこに浮かぶのは、悔恨? 赤い髪の少女は、ただ片手で顔を覆い隠していた。そこに浮かぶのは……絶望?
何故だか、耳を塞ぎたくなった気がした。けれど、手は動かず、腕は動かず、足は動かず。零れ落ちた吐息は、誰の下にも届かない。空から流れ落ちる透明に、洗い流されていくだけ。
体温という体温、熱という熱。全てを容赦なく剥ぎ取っていく大雨が、平等に降り注ぐ。少しずつ混ざり始める異音。誰かの声。長い間水気に晒された心は、既に腐り膿み始めていて。僅かでも力を込めれば、ぐじゅりと汚らしく潰れてしまいそう。その中で、頬を這っていた雨粒だけが、
とても、熱いと感じた。
差し込んでくる日差しに、自然と目が開く。カーテンを開いてみれば、澄み渡った秋空の青色が眩しく突き刺さる。少し肩を回してみて、肉体的に快調なのを認識。精神的にも特段気を揉む事象は無く、有り体に言えばベストコンディション。
身支度を整えて、トレーナーさんの部屋へ。第11Rの発走は15時40分、まだ早朝だから、しばらく余裕はあるけれど…… 「トレーナーさん、もう向かいます?」 「そうですね、朝のレースでも眺めながらバ場の様子を確認しておきましょう」 皆に何かを伝えるでもなく、余裕を持って京都レース場へ。少し汗ばむ程度に強烈な日差しは、夏の終わりがもう少しだけ先だと告げているようで。良バ場の発表が変更されることもないまま、決戦の時が近づいていった。
〜〜〜
「やっほ、昨日以来ー? いよいよだね、菊花賞」
「……そうだね」 模造石の散りばめられた、絢爛豪奢な勝負服を纏って。声を掛けて来たのはガーネットスクエア……私の友達で、ライバルで……ダービーウマ娘。黒灰たる衣装に身を包んだ私は、場の雰囲気に釣られて冷め切った返答を寄越しそうになって、少しだけ留まる。あくまで、彼女達にとっての“カラレスミラージュ”は、“そういう少女”であってはならないはずだから。 「勝負服を着るのも春以来、ミラージュは半年経ってたかな」 「うん、やっぱり久々だと印象が違うよ。本当にここへ居ていいのかなって、心配しちゃう」 ……嘘を吐いた。人気薄とは言っても、トライアルレースで確かに掴み取った権利。一体誰に遠慮することがあるだろうか。いつもの苦労感は見えず、確かな自信だけを湛えた笑みに、私も少しだけ微笑み掛けた。 「まあ、レースに出ることが目的じゃないからね」 「うん……記念出走なんて言わない。昨日も言ったけど、勝ってみせる」 「その意気。そういう真っ直ぐな思いに、私もつい逸っちゃう」 皐月賞の時とは違う。相手の強さを嫌と言うほど理解させられて、それでも挑戦したい、打ち破りたいという決意。昂っている訳ではない、熱くなっている訳でもない。 ゲート入りを果たしながら、目を閉じる。少しだけ息を呑んで、前を向く。鳴り響くファンファーレの音色。実況者の声を遠くに聴きながら、私は自分に一つだけ誓いを立てた。
私は、私らしく走ること。それさえ出来れば、私は──。
【──今スタートが切られました!】
逃げ3人、先行7人、差し6人の追込2人。私にとっては2回続けてのフルゲートになった京都3000mのレースは、まず坂を駆け上がる所から始まる。開催地の名前に合わせて付けられた“淀の坂”は、けれど3000mコースだと途中からのスタートになるから、まだ本番じゃない。序盤はペースを抑えつつ内側を維持。皐月賞や日本ダービーのペースメイクで走った日には、ガス欠が容易に見えているから。
【先頭から最後方まで25バ身ほど、縦長の展開で第3コーナーを抜けていきます!】
少し緩やかな、しかし高低差は凄まじいコーナーを下りつつ、先団を見てみれば。逃げの娘たちがぐんぐんと後続を引き剥がしていく姿が見えた。……もしかして、牽制食らって掛かり気味になっている? もしくは後ろから猛追してくる有力バ達に気圧されているか。どちらにせよ、ハイペースになったところでやることは変わらない。スタミナ切れだけは起こさないように、直線でコース取りを整える。
【さあ先頭を行くのは5番サックスアリカベ! 続けて10番グレイス……いえ、ガーネットスクエアです! 1番人気7番ガーネットスクエア! 先頭は早くも混戦状態か!】
直線に差し掛かる最中、先頭では逃げウマ娘と先行ウマ娘の熾烈な争いが巻き起こっていた。……これ、内側の芝が大変なことになりそうかな、少し外へ。
少しずつ距離が開いていく中で、しかし思考は澄み渡っていて。1000mの通過タイムが59.3、数字の羅列が耳に飛び込んでくる。それを戦術に活かせればより良かったんだろうけれど……無いものは無い、持っているカードで戦うだけ。 平坦な直線とコーナーを抜け、淀の坂が真の姿を見せる。ペースメーカーはとっくに機能を失って、先頭に立つのはいつもの3人組。それでも坂に苦しめられるのは全員共通のようで、少しずつペースを上げていた私との距離は10バ身弱。私も上りへと差し掛かりながら、必要なピッチを逆算する。1800近く走ってきたところに4.3mの上昇はキツいけれど、ここで無用にペース緩めて離される方がもっとキツい。落ち着いた頂上で呼吸を整えつつ、2度目の下り坂へ。
“ゆっくり上り、ゆっくり下れ”とは淀の坂に対する鉄則。勝負を決めるのは平坦なエリアに差し掛かってから。……頭の回らない私にとって、経験則に頼れるっていうのは有用な戦い方だったんだけど。
【方舟に輝かしき未来載せて Lv.1】
【秘めたるは恋、信心の結び目 Lv.1】 【La promesa de Toreador Lv.1】
あの3人に、そんな定石は通用しない。
【淀の坂を踏み越えて! 7番ガーネットスクエア、18番ミツバエリンジウム! 15番ヘルツマタドールも追走する、この3人で今回も決まってしまうのか!】
最終コーナーに差し掛かった瞬間、息を合わせたように加速を始める3人。足して11、12、13……誰がハナを取るかは瞬間瞬間で変わるけれど、そんなことは4番手以降に何の関係も無くて。
「…………」 すっかりペースの崩れ、見通しの良くなった中団からその景色を見据える。ぐちゃぐちゃに千切れたこの場から見た先頭は、皆が一様に可憐な笑顔を浮かべて。弱い相手なんて知ったことないとばかりに、益々高まっていく速度。 「……」 正直、思うところがない訳じゃない。怒りに身を任せて猛追したくなることもあった。けれど、今はまだその時じゃないと。一手間違えた瞬間に破綻する策を、自分で捨てることはないと。
【ここでヘルツマタドールが先頭に立った! ミツバエリンジウムは3着に甘んじるか!】
傾斜で前のめりになっていた身体が、直線で持ち上がる一刹那。既に潰れそうな肺に喝を入れ、敢えて前傾姿勢を深めながら、右脚を強く踏み込んで。
──さあ、ここからが逆襲の時。
【Sink into the Mirage Lv.1】
鎮静する思考、没入する意識。色付いた世界は沈み果て、色褪せた光景だけが視界に入る。脱力感と共に疲労が消え……目指すべきは、ただ先頭のみ。残り600m。
脚の負担は問題ないことが分かっている。弾丸のように飛び出す。残り500m。
【ここで飛び出してきたのがカラレスミラージュ! 後続を置き去りにして、一気呵成に畳み掛ける!】
最後方から、最高速へ。コーナーで膨らむのを抑える必要はない……とにかく速く、前へ、前へ前へ前へ。風よりも速く、色を置き去りにして。
早回しのように巡っていく視界が、ついに背中を見据えた。残り……50m。
「ッ!」
「なっ……!」
こちらを振り返ったのは、ガーネットスクエアとミツバエリンジウム。ヘルツマタドールはこちらに振り返ることもなく、ただ揚々と自分の世界へのめり込んでいた。残り、20m。
一歩、また一歩。足を進める毎に近付いてくるゴール板。ミツバと肩が並ぶ。スクエアの前まで躍り出る。高らかに笑いながら駆ける少女には、それでも少しだけ届かない。
「…………ッ!」 「抜かせない、ッから!」 その刹那を、赤き主役に差し返されて。強者を決める戦いは、終幕を迎えた。
【ヘルツマタドール、今1着でゴールイン! 皐月とダービーの雪辱を晴らし、堂々のGⅠウマ娘誕生を迎えました!】
【2着に入ったのはガーネットスクエア! 3着は……】
思わず倒れ込んでしまいたくなる欲求を抑えながら、掲示板を見据える。1着に入ったのは、実況の宣言通り15番ヘルツマタドール。そこからアタマ差開いて、7番ガーネットスクエアが2着。そして3着に入ったのは、案の定18番ミツバエリンジウム……ではなく。
「2番…………」 最後にクビ差を開けられた2番が3着。その番号を割り振られていたのは、他ならぬ私自身。それは、つまり……思わず崩れ落ちそうになった身体を、背後から支えられる。 「……ミツバちゃん、ありがとう」 「いいのよ。ミラージュちゃん。まさか、あの2人以外に、それも三冠路線で負けるなんて」 そう言葉を紡ぐ彼女は、綺麗な長髪が頬に張り付いて。残念って思いの中に幾許かの晴れやかさが見えた。 「悔しいけれど……それ以上に、おめでとう」 「……うん。代わりにライブ、頑張るから」 「ええ、2人のことをよろしくね?」 彼女の微笑みに、私も少しだけ笑みを返す。……本当に返せたかは分からないけれど、相手を讃える想いを、少しだけ受け止められた気がしたから。 3000mを走り抜いて疲労困憊であったはずなのに。赤髪の少女へ飛び付いて喜びを露わにする菊花賞ウマ娘と、その下敷きになった哀れなダービーウマ娘を見ながら、私達は2人で嘆息した。
……その日のウイニングライブは、前より少しだけ歓声が大きかったように聞こえた。
「お疲れさん」
「…………ありがと」 控室で、トレーナーと2人きり。前走と違って勝つことは出来なかった、少しばかり緊張感の漂う空間。どう口を開いたものか逡巡していると。 「1着に入れなかったのは、まあ反省すべき点だが。そこは明日以降に見直していけばいい。……お前が今日のレースで何を思ったか、それさえ聞かせてくれればいい」 最大限、言葉を選んで話しているのが伝わってくる。皐月賞、日本ダービー、GⅠレースの直後はいつも不安定になって、心を掻き乱しているところだったから。 「情けない事、言ってもいい?」 「ああ」 ……けれど、私は大丈夫。 「3着なんて結果で甘えたことを言うけど……手応えはあった。次こそ勝てる、勝つ」 今までは、影さえ踏めないような相手に見えていたけれど。クビ差と、アタマ差。決して届かない相手じゃない。私はまだ強くなれる、貴方が私を導いてさえくれれば。 眼前に立つ彼の顔を、ただじっと見つめる。微笑むことはしない。“私”を知っている彼はそんな事を望んでいないだろうし、私が笑うべき時は今じゃないから。 「……だったら、俺ももう少し頑張ろう。一つ、吹っ切れたみたいだしな」 「ええ」 「クラシック三冠は、終ぞ一冠にも手が届かないまま終わったが……レースはここからも続くからな、啖呵切った以上は覚悟しろ」 「……当然」 こうして、私達のGⅠ戦線はしばらく幕を閉じることになる。来るべき新たなレースへ向けて、今度こそ勝利を目指すために。決意を固く胸に秘め、互いの手を取り合って。私達は京都を後にした……
……それはそれとして。
「帰りの便も一緒に予約するのってどうなんです……?」 私達8人は、昨日に続いて同じ新幹線に揺られていた。いや団体予約の可能性がある時点で気付いておくべきだったけど……! 幸いなことに、1着のヘルツちゃんはもちろん、2着のスクエアちゃんや4着のミツバちゃんとも特に険悪な関係にはなってないから。いやこれ揉めてた日には大惨事だよお通夜みたいな雰囲気になってたよ……? 激戦の後で疲れ果てていたのか、くぅくぅ安らかな寝息を建てて眠る皆。その姿を見ていると、私にも睡魔が襲ってくるのは必然で。 「あ……バッテリー……充電……」 あまりの眠気に端末の電源オフさえ忘れて、私も眠りの底へ堕ちていった……
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ピロリロリン♪
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