本編
+ | トレーナーとの秘密の話〜宝塚記念直前 |
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家の外では雨がどんどんと強くなり、雨の音が部屋の中へと伝わってくるほどザーザー降りになっていた。そんな雨に周囲を包まれた部屋の中では、トレーナーが私に質問していいかと聞いてきてから互いに口を噤んだ沈黙の状態が数分続いた。
「あのさ……」
「……うん、何?」
ついに来たと背を気持ちばかり伸ばし何を聞かれるか身構える。家に着くまでにある程度頭の中で想定問答は済ましていたから、幾分かは余裕がある。
「君は……夢を見ているのか? それとも超常現象的な何かで元の世界から飛ばされてきた、とか?」
「夢じゃない、と思う。こっちの世界で寝ても元の私に戻ることはこれまで一度もなかったし、当然その逆もなし。だけど体ごと元の世界から飛ばされてきたっていうのも違う気がする」 「夢じゃない……かといって体はおそらくそのまま……うーん……」
私の答えになっているか怪しい回答に低い声で呻き出すトレーナー。確かに私が言っていることは通常じゃ考えられないこと。ただ今こうして実際に起きている以上、変なことが起きていることは間違いない。
「他に、他に何か気づくことなかったか? 例えばこの世界で初めて目覚めた時のこととか」
「目覚めた、というより気がついた時にはトレセン学園の校門の前に立ってて、入学式にそのまま出席してた。あっ、そういえばパパとママに連絡しようとして携帯見たら連絡先に誰の名前もなかったかも」
「元の世界」で私はトレセン学園に合格して、次の春から入学する手筈となっていた。だから校門の前に立っていた時にはまだ異変を感じ取ってはいなかった。それこそ眠った時に見た夢じゃないかとか、忙しくて時間の進みが速くなり、いつの間にか入学式の日を迎えていたのかもみたいに思っていた。
「そこで初めておかしいなって思ったの。よく見たら入学式の年も全然違うし、試験の時に見た子が全くいない。極めつけは……」
「ドーベルさんがいた」 「うん。最初は同じ名前の別人かなって思ってた。だっておかしいでしょ? 私たち親子なのに同じ学生なんて」
文字通り親子の年齢差がある私とママ。そんなママに似た風貌をした、同名のウマ娘。ただ話しかけてみたら……
「あれはママだった。幼い頃にレースとかインタビューの映像で見たまんまのママの姿と声。その時にやっとここは私のいた世界じゃないって気づけたの」
「そうか……そう、だよな。自分の母親がいくつかしか年齢が離れていないなんてことはありえない」
そこで1つ結論づけた。私はこの世界にとって異物なんだって。本当はいちゃいけないウマ娘なんだって。だからいつかは放り出される、そう思っていた。ただその時はまだ来ない。しかしいつかは必ず……
「だからねトレーナー。この前未来の話したでしょ? 本当はあの時に伝えてしまいたかったの。こういうことだからいつか離れ離れになってしまう、別れのときが来たらもっと悲しくなっちゃうから、将来の話なんてできないって」
「そうだったのか……だったらどうして……」
どうしてだろう。そう聞かれると答えに少し困ってしまう。いつか、近い未来にお別れをするのが分かっているのになぜ将来の約束なんかしたのかって、わざわざ約束なんて言わないでくれよって怒りたくなる気持ちは今となってはすごく分かる。私だって逆の立場だったらそう思っていた気がするから。ただ、ただ……
「どうしようもないほどあなたのことが好きだから。もしかしたら、確率はもの凄く小さいかもしれないけど、これからもずっとずっと側にいられたら、2人で永遠の幸せを誓えるって思いたかったから。こんな答えじゃ駄目、かな?」
自分でもどうしようもないことを言っているのが分かる。むちゃくちゃにも程がある。口に出す前に頭の中で推敲せずに話してしまう癖はとっとと治さないといけない。
ただそんな答えにトレーナーは「そうか、そうか……」と呟いて、私をぎゅっと抱き締めた。
「えっ、トレーナー!? いきなりなんで!?」
「オレもお屋敷で話を聞いてからいろいろ考えていたんだ。それこそいつか、いつか、君が遠くに行ってしまうのかもしれないと、目の前から消えていってしまうんじゃないかと。だけどそれでも、いやだからこそたった1秒でも長く君の側にいたい、君と同じ時間を過ごしたい、そう強く思ったんだ」 「トレーナー……」
強く、強くその腕で体を抱き締められる。彼の想いの強さに比例するように強く。
「だから君が嫌じゃない限りずっとオレは君と一緒にいたい。駄目、かな……?」
いつもはかっこいいのにこういうときだけ弱気になって可愛さを見せてくるのは反則だ。私は彼の拘束から少し離れて彼の肩を手で握り、まっすぐ顔を見つめる。
「駄目じゃない、駄目じゃないから。ずっと側にいて。私が離れていっちゃわないように手を握っていて。お願い」
「……ああ、絶対に君の手を離さない。そう、絶対に」
2人は今度こそ破れない約束を交わし、優しく口づけを交わす。いつかそのときが来ても互いの手は離さないでと、そう強く。
──通り雨だったのか、気がつけば太陽の光が部屋に射し込み、窓の外には虹が架かっていた。
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そのあと2人でご飯を作ったり洗濯したりテレビを見ていたりしていると、あっという間に外が暗くなり門限の時間が迫ってきた。
「じゃあ今日はこの辺で失礼するね、ありがと」
「ああ、また明日な。おやすみ」
おやすみと彼女が手を振り玄関から外へと駆けていく。玄関の鍵をかけ、彼女の足音が聞こえなくなったのを確認すると、冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、プシュッとプルタブを開ける。そのまま口をつけ一気に半分ぐらい飲み干すと、静かに独りごちる。
「そうか……彼女も……」
誰にも聞こえない声は部屋の壁へと吸い込まれていった。
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また別の日、今度はドーベルさんに呼び出された。場所はエスキーとドーベルさんの寮の部屋だけど、エスキーの姿はなかった。
「安心して。あの子は今お屋敷に行っててしばらく帰ってこないから」
「し、失礼します……」
ドーベルさんが自身のベッドに腰かけ、私も勧められてその反対側──おそらくエスキーのベッドだろう──に浅く座る。私が座ったのを確認してドーベルさんが話を切り出した。
「聞きたいことはいくつもあるんだけど……元の世界って言ってたと思うんだけど、そこってどんな所だった?」
「こことほとんど変わりません。トレセン学園もあるし、ウマ娘ももちろんいますし……ただ年が違ってるので街の風景は少し違うかもです」
元の風景をバッチリ覚えている訳じゃないけど、駅前のお店もいくつか違っていたように思う。
「なるほど……それでその世界であなたはアタシの子どもだった、と……」
「そう、ですね……だから最初は話しかけるの躊躇したんですよ? ママにそっくりだし、名前も一緒で……記憶にあったママの成績とドーベルさんのを比較したら全く同じだったんで、これはこっちの世界でのママなんだなって」
ママが、学生時代のママがいる。元の世界でもママの現役時代のレースの映像を家族で何度も見たことがあるから、どういう風貌をしていたのかもしっかり頭に残っている。だから初めて見た時はなんでいるのって頭がフリーズして声掛けられなかったんだよね。
「ママ、か……そっちの世界でのアタシってどんなだった? あ、あと……あなたのパパは……」
「とっても優しいママですよ。もちろん宿題やってなかったりして怒られたときはちょーっと怖かったですけどね。そうそう、怒られたときはいつもパパの所に行ってました。トレーナーしてていつも忙しそうにしてるけど、晩ご飯は一緒に食べるんだって家に帰ってきてくれてて……パパも優しい、というよりあれは私に甘いのかも」
都度都度相槌を打ちながら携帯でメモを取るドーベルさん。私はそれを見つつも話をどんどん進める。
「あとパパとママはとっても仲良しです。3人一緒の時、パパは時々昔ママが現役だった頃の話をしてくれるんですけど、そのときもママは少し恥ずかしながらもパパのすぐ隣で相槌打ったり一緒に盛り上がったりしてますから。仲良しというか……ラブラブ?」
「ラブっ……!」
文字を打つ手が止まり、頭が瞬時に沸騰して顔を真っ赤にするドーベルさん。そんなに恥ずかしいことなのかな……ってあっ、そういえば。
「私にとってドーベルさんがママとしての繋がり、エスキーがパパとしての繋がり……つまり元の姿に戻ったエスキーはママとラブラ……むぐっ……」
「はぁはぁ……それ以上言っちゃ駄目だから……それ以上……」
再びラブラブだと言いかけた瞬間反対側のベッドからドーベルさんが飛んできて私の口を強く押さえる。やっぱり恥ずかしかったんだ……
「ぷはっ……! でもでもこっちの世界じゃどうなるか分かりませんし! ……というか元のところでもエスキーって名前のウマ娘いましたけど、シニア級1年目の年末でトゥインクルシリーズ引退してましたよ?」
そこがここと元の世界との整合性が取れない部分の1つ。あの子は今は休んでいるけどシニア級2年目になっても現役を続けている。
「……本当だったら去年の末に引退してそのまま人の姿に戻る予定だった。だけどあなたとまだ走りたいから、また走りたいからって無理にクスリを飲んでまでウマ娘のままでいて……今年前半休んでるのも本来2回飲むことを想定されてないクスリを再び飲んだから。体に問題がないか検査しないといけないからレースに出られないの」
「クスリ……」
ドーベルさんが言うには、ドーベルさんのトレーナーはある日タキオン先輩の作ったクスリを飲んでウマ娘になった。その効果が本当であれば去年の有馬記念の後に切れる予定だったのが、私の存在で今年も続いて……そういえばあることを思い出した。
「パパが言ってました、告白はママの卒業前にママの方からしてくれたんだって。自分からするつもりが先越されたーって……もしかしてパパが元の姿に戻った時に……」
そうかそうか、そういうことだったんだ。いつものパパとママを見ていたら絶対パパの方からしてそうだったのになんでなんだろーって思ってたんだよね。長年の疑問がようやく解けてスッキリしたよ。
そう私がうんうんと独り合点している横ではドーベルさんは「告白……アタシが……」なーんて言っていた。
「アタシからあの人に……? いやいやそんなこと……でもあの人は学生のアタシに告白なんてするタイプじゃないし……ってエスキーのアタシへのアタックってそういう……?」
ドーベルさんもドーベルさんで両手で自分の頬を挟みながらブツブツと独り言を呟いていた……もしかして私たちそっくり?
「あのー……ドーベルさん? 話の続きはー……」
「やっぱりこうなったらアタシからあの子に言うしか……いやでも今のあの子に言ったところで……結局元に戻った時に言うしか……はっ!?」 「あはは……」
肩を揺らしてドーベルさんはようやく私の存在に気がついてくれた。わりと思考の沼に嵌まりやすい人なのかも。とにかくドーベルさんが現実世界に意識を戻してくれたのを確認。その確認作業が終わると、再び元の世界での話、先日トレーナーに伝えていた話をドーベルさんにも伝える。
「うーん、やっぱり超常現象というか……昔のテレビアニメで世界線がどうこう言ってた作品があったんだけど、もしかしたらそれに近いのかもね。記憶とか知識はそのままだけど、元の世界線とは違う世界線、しかも別の年に意識が飛ばされるって」
「世界、線……」
携帯で世界線という言葉について調べてみると、この宇宙にはいくつもの可能性が重なり合っていて、それこそ今こうしてドーベルさんと横並びで話している私がいるけど、当然全く別の場所にいる、それこそグラウンドで走っていたり海外にいたりといった可能性も存在する。ただ今この現実で観測できるのはここにいる私だけ。ただそれ以外の可能性は消えずに残っている、そのそれぞれが世界線である、ということみたい。一般相対性理論がどうとか特殊相対性理論がどうとか出てきてあんまり意味分からなかったけど、すなわち元々私がいた世界線をAとすると、この世界はBの世界線、しかも私が本来いた年より前の時間軸に私が現れた、ということだと思う、たぶん。
「だから本当だったらこうして私とドーベルさん、ううん、ママが話してるなんてありえない。だけど何かの因果で私がこの世界線に来たから横に座って仲良くおしゃべりができてるってこと」
「その解釈でいいんじゃないかな……だけど今この時点であなたがいるのはやっぱりおかしい話。気圧が高い所から低い所へ風が吹いて気圧を一定にしようとするのと同じように、この世界があなたを元の世界線に吹き飛ばそうとするかもしれない。それはいつかは分からないけど」
ベッドから立ち上がり、「だから今この瞬間大事にしないとね」と私を優しく諭す。私はそれに深く頷きドーベルさんと同じようにベッドから腰を上げる。
「いつかは分からない、けど今はこうしてドーベルさん、いやママと一緒に過ごせることが何より幸せ。だから……あの……」
もじもじとする私を見てどうしたのとドーベルさんは小首を傾げる。私はえーっととかうーんっととか逡巡しつつもなんとか彼女にお願いを伝える。
「これから2人っきりのときは……ママって呼んでも、いいですか……?」
ドーベルさんは少し目を見開くもすぐに頷いてくれた。
「アタシでよかったら。だけどこのことはエスキーには秘密だからね? 絶対からかわれるんだから」
「あはは……それは間違いないですね……」
私がトレーナールームでトレーナーと仲良くしていた所をチームメイトに言いふらそうとしたあの子のことだ。絶対にバレちゃいけない。
「あっ、あと2人のときはタメ口でいいから。一応母と子なんだったら敬語使ってたらおかしいから」
「は、はい……じゃなくて、うん、分かった。ありがとね、ママ」
そうして2人は擬似的に母と子どもの関係になった。それがいつ終わるかは分からないけど。私がいなくなったら忘れられちゃうかもしれないけど、今だけはこうしてママと呼ばせてよ。ねっ、世界さん。
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また別の日、同じ部屋に今度はエスキーから呼び出しを受けた。ママ……ドーベルさんには席を外してもらっているとのこと。前の時とは逆にエスキーが彼女のベッドに、私がママのベッドに腰を落ち着かせて話を始める。
「エスキモーちゃん……わたしに聞きたいことありますか?」
「えっ? 私にじゃなくて私が?」
何を聞かれるのかばかり考えていたせいで、逆に何を聞けばいいのかしばし答えに窮する。少し立ち上がってクルクルとその場を歩き回ること数分、とにかく思いついたことをいくつかぶつけてみることにした。
「ドーベルさんから聞いたんだけど、元の姿に戻るの1年延期させたって。私と走るのがそんなに大事?」
一番疑問に思っていたのがこれだ。去年の有馬記念で一度勝っている、しかも辛勝ではなく楽勝で。そのはずなのに再戦を彼女の方から希望するなんて私にはよく分からなかった。
私のその質問にエスキーは「そうですね……」と一拍を置いてから答え始めた。
「一番最初に走ったのがデビュー前の模擬レースでしたね。その時はわたしが勝ちました。そのあとあなたに仮のトレーナーさん──今のトレーナーさんですね──がついて練習を重ねてからまた一緒に走って……それでも勝って。その時は同じメジロの少し名前が似通っている1人のウマ娘としか認識していませんでした」
そう、最初の模擬レースのあとにも彼女に挑んだけど、それでも敗北を喫した。差は少し、ほんの少し縮まっていただけで完敗ではあったけど、この子に一歩でも近づけた気がして嬉しかったな。もちろんそれ以上に悔しかったから次は絶対に勝つと練習を重ねていたら、私の本格化より先に彼女のデビューが決まり、トントン拍子でデビュー戦→初重賞→初G1と勝っていった。そして私のデビュー戦が決まる頃には無敗でダービーまで勝っちゃったりしてて、対戦するなんて遠い未来の話と思っていた。
「もちろんわたしと同じチームに入ったことやメジロの皆さんで集まった際に席が隣になったりしたことで話す機会が大幅に増え、徐々に気心の知れた友人となっていくのですが、それでもやはりライバルとは思えませんでした」
エスキーはそこで一旦話を止め、ベッドから腰を上げた。そのまま数歩歩いて自らの勉強机に置いてあった携帯を手にすると、私の隣へボフッと音を立ててベッドへ腰を落ち着かせる。そして携帯の画面を何度かタッチしたりスクロールし、とあるレースの写真を私の方に見せてきた。
「このレースは……去年の菊花賞?」
確かこれはトレーナーにゴールインの瞬間を撮ってもらい、それを私へ、そして私からエスキーへと送った写真だったはず。
「はい、そうです。もちろんその時わたしは生でレースを見ていた訳ではありません。中継で映像を見させてもらっていただけ。ただ……ただあなたの走りを見てワクワクしました。昔のあなたとは全然違う。今戦ったらどうなるんだろうって思っちゃったんです」
その時の興奮を思い出すかためなのか静かに目を閉じると、脳裏に当時の映像が流れてきたのかニコリと微笑む。そして私の方を見て軽く首を縦に振る。
「うん……思っちゃったんです。あなたと走りたいって、強く、強く」
ママと話をした時のことを思い出す。エスキーは元々年内で引退する予定だった。それを私と走りたいがために強引に変更し、今年の前半を棒に振ってまでさらなる対戦を強く望んだ。
「もしかして……私がいなかったら有馬も走るつもりなかったんじゃ……」
あくまでも私が想像しただけの一つの可能性。自惚れにも近い、本来なら考えられない選択肢。ただこれまでの彼女の発言を考慮するとそれしか思いつかなかった。
私の独り言のような声に彼女は再び頷く。
「もちろんです。凱旋門賞のあともアメリカから香港に渡ってほぼ全世界制覇!で幕を下ろそうとしていましたから」
「ほぼ……」
頬を人差し指で掻きながら、「全世界って言い切っちゃったらオセアニアの人に怒られますから」と苦笑いをする。確かにオーストラリアにもいくつも中長距離の大レースがある。それこそコーフィールドカップやメルボルンカップなど世界に誇るレースが存在する以上、全世界制覇などと言ってしまえば、「まだあるじゃないか」と批判する人がいたかもしれない。まあ凱旋門賞とブリーダーズカップを両方制したウマ娘にそんなこと言う人いるか怪しいけど、これは彼女が謙虚である証だろう。
「ただそれを捨ててまでもあなたと走りたかった。もしかしたらその時にあなたとの繋がりを感じ取っていたのかもしれません」
ウマ娘は血縁関係がない相手になぜか不思議な感覚を抱くことがある。古来から現代にかけてその感覚について様々な研究がされているものの、未だにはっきりとした理由は見つかってはいない。それを彼女は私に感じたという。
「……私はそんなに気にかけたことなかった。もちろんドーベルさんのことは元の世界のママとそっくりで名前も同じだったから意識するようになったけど、エスキー、あなたのことは一人の親友、ライバルとしてしか見ることが出来てなかった」
当然といえば当然かもしれない。人がウマ娘に、しかも男性がなんて誰が想像できるだろうか。ましてやそれが自分のパパかもなんて考えもできないだろうし、そんな荒唐無稽の話なんて思ったところで誰にも言えはしないだろう。
「わたしもあなたのこと言えたものじゃないですよ。遺伝子の分析結果が出るまでは血の繋がりを信じていませんでしたから」
ただ、と言葉を続ける。
「今は違います。この秋、あなたを一人の親友、ライバル、そして娘として勝負します。超えられるものなら超えてみてください」
堂々とした宣戦布告。私はそれを真正面から受け止める。
「私もあなたのことを大切な親友であり、強力なライバルであり、そして大事な肉親と思って走って……勝つ。絶対」
そう言って互いに差し出した手を握り、秋の好勝負を誓う。全てを知った今、貴方と走れる喜びを、貴方と過ごせるこの尊さをしっかりと記憶に焼きつけ、そして噛み締めながら、強く、強くその手を握った。
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「あっ、それでですね、エスキモーちゃん」 「ん、どうしたのエスキー」
そのあとドーベルさんと話した世界線の話とかいろいろ話し合い、いい時間になったところで自分の部屋に帰ろうと立ち上がって部屋を出ようとしたその時、後ろから何かを思い出したエスキーに話しかけられた。そのまま話を聞くのはどうかと思い、私は再びママのベッドに腰かける。
「元の世界じゃエスキモーちゃんは人に戻ったわたしと姉さまの子どもなんですよね?」
「うん、そうだけど改めてどうしたの?」 「いやー……そのー……」
何やら様子がおかしいエスキー。頬も少し紅く色づいている気がする。
「ということは……結婚、その前に付き合ったことですよね?」
「もちろんそうだよ……で、何が言いたいの?」
まさかママと同じでこの子も付き合った時のことを知りたいのだろうか。
「どっちから告白したとか……聞いてないですか?」
その予感は見事に的中した。似た者同士というかなんというか……まあその血を私は両方から受け継いだんだけどさ。
ただここでママの方からと言ってしまえばたぶんこの子はひたすら待ちの姿勢をとるだろう。世界線が違えど関係が変わっている訳ではないのだから。それは面白く……いや違う気がする。よく分かんないけど。
だから私は誤魔化すことにした。向こうから告白を受けるのか、それとも自分からやってしまうのか、それとも何か別の方法でなのか。彼女にも分からずにモヤモヤすることが1つぐらいあってもいいだろう。
「聞いてない、かな」
「そう、ですか……分かりました、ありがとうございます」
その言葉で私は再び立ち上がり今度こそ部屋を去る。自分の部屋へと戻る道中周りに誰もいないのを確認して、誰にも聞かれないようにポツリと呟く。
「命短し恋せよ乙女。2人とも幸せになってよね」
──そうしないとこっちの世界で私が生まれなくなっちゃうんだから。
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宝塚記念を今週末に控えたある日のこと。トレーニングはいつもどおりトレーナーとエスキー2人から指導を受けており、まさしく順調そのものだった。
「よし、今日はこれでおしまい。クールダウン終わったらシャワー浴びてトレーナールームでミーティングな」
ストップウォッチを片手に持ち私のタイムを計測してもらっていたトレーナーが練習終了の合図をかける。エスキーとの併走は相変わらず私の方が劣勢だけど、差が縮まっている手応えは感じている。
「ふぅ……お疲れエスキー。もうそろそろ完全復調って感じ?」
互いにペットボトルに残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干し、タオルで汗を拭う。そろそろ夏が近くなってきて気温も徐々に上昇を始めた。
「ですね。週末の宝塚記念は出れないですけど、秋からは問題なく走れそうです」
クスリが体に馴染んだのかその辺りの事情は分からないし、わざわざ聞くことではないと思っているから彼女には聞かない。そんなことより本領発揮できるかどうかの方が私にとっては大切だ。
「ほんとに楽しみ……あっもちろんこの週末のレースのこと忘れた訳じゃないからね」
「分かってますよ。ただ週末の関西の天気悪そうですけど大丈夫ですか? エスキモーちゃん重たいバ場のレースそんなに経験多くないんじゃ……」
今週末のレース場の天気は曇り時々雨。晴れ間は出そうになく、稍重から重ぐらいのコンディションでの開催が予想されていた。ただでさえ開催が続いて荒れ気味のバ場状態なのにさらに足元が重くなるのは条件としては厳しい。
「だけど今までそんな悪いバ場でも走れるようにトレーニング組んでくれてたでしょ? 雨の次の日にあえて併走トレーニング組んだりとか、ザーザー降りの時にもちょっとだけ走ってみたりとか」
宝塚記念の週のバ場が重たいのは例年のことだから、そのための練習は幾度か繰り返してきた。だから本番では初めてとはいえどそのことで特に不安に思っていることはない。
「土砂降りの時は全身濡れ鼠みたいになってトレーナーさんから怒られましたけどね。風邪引くぞって」
「そりゃそうだよ。他に走ってる人全然いなかったもん」
ある程度の雨であれば内容を多少変更しても外でトレーニングを行う場合が多い。ただ大雨のときは完全に室内での練習メニューに切り替えるのが普通だ。それを私たちは逆に好機と見て外に走りに行ったんだけど……
「『怪我したらどうするんだ!』とも言われちゃいましたもんね。その辺りは気をつけて全力で走らないようにしていたんですけど、そういう問題じゃないと」
「なんかあの時はテンションがおかしかった気がする……」
そんな話をしながらシャワールームへと向かい、全身の汗を洗い落とす。走っている時に髪に付着した芝も手で取り除き床に投げると、シャワーから出るお湯で排水口へと勢いよく流れていった。
「はー、さっぱりした。やっぱり最近ジメジメしてるから、こうやってシャワー浴びるだけでも爽快感凄いね」
シャワーを浴び終わり、体を拭いてドライヤーで髪を乾かしたり、スキンケアをエスキーと2人並んでしていると、なぜか彼女に体全体をジロジロと見られる。
「ねぇ、エスキモーちゃん?」
「ど、どうしたの……?」
私の問いかけを無視してそのまま体の上から下まで何度か見返し、ついには私の体に触れてきた。
「ちょっ!? 何触ってるの……って、ひゃっ!」
「やっぱりそうですよね……これは由々しき事態です……」 「んっ……そんなこと言ってないで……あっ……いつまで触ってんの……うんっ……いい加減にしてっ……!」
なんとか体からエスキーを引き離すと、肩で息をして荒れた呼吸を整える。ウマ娘同士でもセクハラじゃないのと強く抗議をすると、微塵も意に介していない様子で私に質問してきた。
「エスキモーちゃん、やっぱり体大きくなってますよね。身長はそこまでですけど、それこそお胸やお尻、もちろん脚も前より成長している気がします……今の勝負服入りますか?」
「勝負服は……天皇賞の時はなんとか入ったけど、エスキーがそう言うなら今じゃキツいかも」 「……分かりました。まあ成長に応じてある程度のサイズ違いは作っているでしょうからそれを少し手直しすれば週末には間に合いそうですね。もちろんトレーナーさんにもお話しないといけませんから、早くトレーナールームに行きますよ」
話が早い、早すぎる。まあ十分着れるだろうと思って衣装合わせを今日までしてなかった私の責任でもあるんだけど……
「分かったから腕引っ張らないで! というかさっきのセクハラのことまだ謝ってもらってないからね!?」
そうしてそのままトレーナーの元へ連れて行かれ、彼女から説明を受けたトレーナーはメジャーを持って私へじりじりと迫ってくるのだった。
「じゃあエスキモー、測るから腕を横に広げて……プギャっ!?」
「ちょっ!? トレーナーまでセクハラ!?」 「誤解だ、誤解! 測らなかったら手直ししてもらえないだろ!? そりゃ測る時に手が当たったりするかもだけど……」 「……だったら2人のときにしてほしいな。恥ずかしい所なんてトレーナーにしか見せられないよ……」 「はいはいイチャつかないでとっとやってくださーい」
2人の話に呆れたエスキーが早くしろと促す。というか誰がイチャイチャしてるって!?
そのあとなんとか計測し終え超特急で勝負服を手直しに出し、なんとか週末大阪へ出発する前にはサイズも余裕がある勝負服が手元に戻ってきたのだった。
……どことは言わないけど前測った時より2センチぐらい増えてた気がする。
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+ | 宝塚記念〜ある日の夢 |
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迎えた宝塚記念当日、雨はすっかり止んだものの頭を上げると鉛色の雲に覆われた空が広がっていて、頭を下に下げると荒れた芝が広がっていた。
「やあ、エスキモーさん」
レース直前のゲート裏、集中を高めている中、一緒に走るのが去年の有馬記念以来となるサートゥルヌスさんから声をかけられた。
「レースで会うのは久しぶりだね。大阪杯出てくるって思ってたのに」
彼女は今年初戦の金鯱賞を快勝したものの、次走を大阪杯ではなく金鯱賞から3ヶ月間隔を空けて今日のレースを狙いにきた。私はその間に大阪杯と春の天皇賞を制しており、この世代の2強と呼ばれているものの、彼女より一歩先んじている形になっている。もちろん勝利数と実力は必ずしも一致はしないから、決して下に見ている訳ではない。
「まあいろいろあってね。今日はともに全力を尽くそう」
「うん、見ててよ、私の走り」
互いに全力疾走を誓いあうと枠入りのためにゲートのすぐ近くまで歩みを進める。今日の私は17番、宝塚記念では好枠とされている8枠に配されたものの、右隣の同じ8枠の16番にはティアラ路線から進んできたにも関わらずそんなことは関係ないとばかりに好走を続けているジェネシーさんが入った。
『──さあ枠入りが順調に進みまして、最後に大外18番ツーピースガストが収まります……スタートしました!』
大きな出遅れはなく1コーナーへ向けて各ウマ娘が先頭争いや位置取り争いを繰り広げていく。そんな中私は中団よりやや前、前から5、6番手辺りで前の様子を伺う。
『1コーナーを過ぎた辺りで隊列が決まりました。先頭は3枠6番セントーインドラが行きます。リードが1バ身ほど。先行している集団の中には人気のグリュックシンボルや1番人気のメジロエスキモーがいます。中団内側には2番人気のサートゥルヌス、少し外目に3番人気のジェネシーがいるという態勢で2コーナーから向こう正面にレースが進んでまいります』
バ場がいつもより少し重たいことを鑑みるとちょっと速いペースでレースが流れていく。
(おそらく先頭の子は最後のコーナーでバテる。そこを外から一気に交わせば……!)
『向こう正面を過ぎまして最初の1000mは1分ちょうど。開催が進んだ稍重のバ場のことを考えるとやや速めでしょうか。まだ仕掛けるウマ娘はおらず、隊列をそのままにして3コーナーのカーブへ入ってまいります!』
残り1000mの標識を過ぎる。この辺りから最後の急な上り坂の前まで下り坂が続く。
(1回深呼吸してー……吐いてー……よし、ここ!)
今日はいつもよりも早く、残り800mのハロン棒の手前から仕掛け始めた。最近スタミナがついていたこともあって、徐々に仕掛けどころが前へ前へとズレていっている。
(少し脚が取られるけど、これぐらいならなんとかなる。最後まで頑張ってよ私の脚!)
『──さあ4コーナーを回り、最後の直線を迎えます! 先頭はここで替わり……おっと!? メジロエスキモーが早くも先頭に並ぶ勢いだ!』
先頭を射程に捉え、残り350mほどの最後の直線に突入する。やはり前でレースを引っ張っていた子は少しずつ後ろへ下がっていき、先行集団や中団に控えていた組が台頭を始める。
『──ここで早くもメジロエスキモーが先頭に替わって残り300mを切ります! さらに内からジェネシー、大外からミラクルが迫ってくる! 中団からサートゥルヌスも前に迫るが届くのか!』
残り200m地点、後続の争いを尻目に抜け出したのは私とジェネシーさん。3番手以降との距離はぐんぐん開いていく。
(ジェネシーさん重たいバ場得意だったね。でも私だって……!)
『──残り200mを切っても2人の競り合いが続く……いやここでメジロエスキモーが抜け出した! リードを1バ身、2バ身開く! 3番手以降は大きく離れた! サートゥルヌスは4番手辺りでもがいている!』
京都記念での重バ場の経験、そして最近続けてきた悪いバ場状態に対応するためのトレーニング、その2つが実を結び、花開いた。
(春のグランプリは私のものなんだから!)
『間違いない! 史上初めてここに春シニア3冠ウマ娘が誕生する! メジロエスキモー今ゴールイン!』
最後まで落ちることなくゴール板を駆け抜ける。ゴールを過ぎたあとも疲労が一気に押し寄せてくることはなく、息の入りや体の回復も天皇賞の時より早くなっていた。トレーニングでも日々成長していることは掴めているけど、やはり本番の舞台で走ることで心身ともに充実しているのを強く実感することができた。
(これで夏を無事に乗り越えられたら本当に……!)
既に観客席から控え室に向かっているだろうエスキーのことを頭に思い浮かび、レース後にも関わらず体に闘志が燃え上がってくる。いざ決戦の秋へ。春の頂点へ上り詰めた今、見据える先は秋の3つ。どういうレースになるのか今から楽しみだ。
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「エスキモーちゃん、いいものを見せてもらいましたよ」
ライバルが堂々と直線で抜け出したところで勝利を確信し、彼女を出迎えるために観客席を後にする。天皇賞後お屋敷で話をした時はメンタル面に影響が出ないか非常に心配だったが、まるで問題がなさそうだ。フィジカルについても今日の荒れたバ場で最後まで突き抜けられるスピード、それを実現するために鍛えたスタミナ、一気に加速するためのパワー、わたしのライバルとして全て申し分ない。
「ですがエスキモーちゃん、成長しているのはあなただけじゃないんですよ?」
休養期間においても練習は積み重ねてきた。去年の有馬記念より日本のバ場への適応力が戻ってきていることからも秋へ全力をぶつける準備が整ったのを頭と体で感じる。
「夏はすぐに終わります。決戦の舞台でお待ちしてますよ」
さあ勝負の秋、どんな結末が待ち受けるのだろうか。
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その夢を見始めたのは夏が明けてからのことだった。天井、床、壁全てが真っ白の部屋で立ち尽くす私。扉もなくてどこか別の場所に行けそうもない。広い、とっても広い部屋の中をボーッと見渡していると真っ白な床に何やら物がたくさん転がっているのが目に入った。
(これはトロフィーでこっちはオレンジ? 花束もあるし蹄鉄も落ちてる……)
辺り一面に広がるのは、ガラクタとは言えない物ばかり。その中で一際目立っていたのは大きな古い振り子時計だった。近づいて手に取ると、下の振り子が止まっていて針も動いていない。時計をひっくり返し本来電池が入っているはずの蓋を開けると、そこには何も入っていなかった。
(電池……電池……えーっとどこにあるのかな?)
キョロキョロと辺りを見渡すと離れた所に何やら小さい棒のような物を見つけた。
(あっ、あれだ!)
おもちゃを見つけた子どものように笑みを浮かべて電池の方へと走り出す。
──そこで意識が途切れ、気がつけば枕元で目覚ましが鳴っていた。
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+ | オールカマー〜ドーベルとのレース場デート |
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夏が出番はまだ残っていると言わんばかりの日差しとこの暑さ。すっかり9月も中頃を過ぎたというのに秋はどこで休んでいるのだろうか。
「暑い〜……トレーナー冷房つけてい〜い?」
「いいけど風邪引くなよ。再来週はレースなんだから」 「やった! えーっと、リモコンはリモコンはっと……」
練習のあとトレーナールームでミーティングを始める前、トレーナーに許可をもらい机の上に置いてあったリモコンで早く涼しくしてとエアコンに命令を送る。設定は25℃。温暖化? SDGs? 今はそんな高尚なことを考えている時ではない。
「それで再来週のレースだが……たぶん出走者は少ない。10人ぐらいじゃないかな」
「えー、G2なのにみんな出ないんだ。なんか残念」
中山レース場の芝2200mで争われるG2、オールカマー。1着には天皇賞(秋)への優先出走権が与えられる、秋を占う前哨戦として名高いこのレース、一体どれぐらい集まるのかなとワクワクしていたら私を含めてたったの9人。
「残念というか……たぶん君が出るからだと思うぞ」
「えっ、私のせい?」
確かに史上初めて春のシニア中長距離の3つのG1を全て勝ったことは勝ったけど、それはエスキーがいなかった影響が大きいと思っていた。あの子に勝てるとはそんなに思ってなかったから。だけど世間はそうは見てくれなかったらしい。
「シニア1年目の春で既にG1を5勝。しかも敗れたレースも2着と連対を外していない。しかも今年は未だ負けなし。オレが他の子のトレーナーしてたらまあ君とぶつけるのは躊躇うよ。そんな風に実力を警戒されているってことだ、実力に自信を持っていい」
「そっか……よし、この秋も全部勝つ勢いで頑張る!」
レースに出る人数が多くても少なくても、みんなの強さがどうであってもやることに変わりはない。ゴール板を一番最初に駆け抜ける、ただそれだけ。
そんな話をしているうちに冷房のおかげで部屋が涼しくなってきた。もうこれぐらいでいいよと今度は温度を1℃上げてねとリモコンで指令を出す。
「そういえばあの子ぶっつけで天皇賞出るんだってね」
「そうだな。半年もレース出てないのに大丈夫なのかとは思うんだが……まあそれだけで実力が発揮できない子でもないしな」
エスキーは今年の始動戦を前哨戦のオールカマーや毎日王冠、京都大賞典ではなくぶっつけ本番となる秋の天皇賞を選択した。ジュニア級の東スポ杯以降全てG1、菊花賞も前哨戦を挟まずに史上最速での6戦目での3冠達成……これらを考慮すると彼女がぶっつけ本番に弱いとは全く思えない。むしろ強いとまで言えるかもしれない。
「逆に考えたら春と夏でしっかり休んで蓄えた力を一気にここで放出するとも考えられるもんね。あー怖い怖い」
自分で自分を抱き締め震え上がる素振りを見せたのに、トレーナーにははいはいと完全にスルーされてちょっぴり残念。
「そんなことしてないで早く今回のレースプラン考えるぞー」
「……はーい」
そうやって2人肩を並べてパソコンの画面を覗き込みながらどう走ろうかの作戦を考える。
──さっきよりちょっとだけ体を寄せ合って。
─────
迎えたオールカマー当日。週末に降った雨の影響は天気が回復してもバ場にしっかりと影響を残しており、当日は重バ場スタートとなった。ここから太陽がコース全体に降り注げば良まで回復するかもしれないが、上を見上げると未だに厚い雲が空を覆っていた。これなら回復したところで稍重が精一杯だろう。
「先週の特別登録から変わらず9人でのレース。絶対に逃げたいという子もいない……スローペースになるぞ」
「大丈夫。ペース読みは得意なんだから」
これまでに鍛え上げられてきたペース感覚。もしかしたら親──この場合はエスキーの方──から受け継いだ天性のものかもしれないけど、その抜群の体内時計とトレーナーとの事前の展開予想が相まって、仕掛けどころを大きく間違えたことがない。これまで負けたレースは純粋な力不足な所が大きい。ただそれも充実期を迎えた今なら並の子たちなら軽く一蹴できるような力を身につけることができている。
「こんなことあまり言いたくないけどメンバーは小粒……負けるなよ」
「大丈夫、勝ってくるよ」
圧倒的な1番人気でも動じない胆力、そして黙っていても醸し出される強者の風格、今の私に敵うのはそれこそ彼女しかいない。
(見ててよ、エスキー。私がどれだけ成長してるのか)
─────
『──さあ今バ場に登場いたしましたのは断然の1番人気、6枠6番メジロエスキモーです! 場内からは大きな歓声が上がっています!』
直線奥の引き込み線、ゲートのすぐ後ろでレース前最後の最後のストレッチを行う。観客席はすっかり多くのお客さんで一杯になっていた。
(ペースはおそらく遅め……だからいつもより少し前の位置につけたい。少人数だからごちゃつかないだろうしバタバタすることはないかな?)
頭の中でレースの展開のシミュレーションを何度か行う。スッとゲートを出られた場合や少し出遅れてしまった場合、またペースが速くなるパターンも想定するけど……
(うん、どれだけ考えても負ける気がしない。いける……!)
スターターが台へと上がり赤い旗を振る。枠入りが進んでいくのと並行して場内にファンファーレが鳴り響く。
『さあ枠入りは順調に進みまして、最後は大外8枠9番カスティーリャサンがゲートに収まり態勢完了……スタートしました!』
1人が少し出遅れたもののあとは横一線のスタート。やはり前を主張するウマ娘は少なく、やや押し出される形で5枠5番の子が先頭に立ってレースを引っ張る。そんな中私は前から3番目の位置を確保し、3バ身ほど前に先頭の子を視界に収めながら前へと駆けていく。
『──さあ1コーナーから2コーナーへ坂を上っていきます9人のウマ娘たち。先頭は変わらずオンリーキャプテン、2番手に1バ身半から2バ身ほどのリードをつけて逃げています。そして2番手、3番手の所に断然人気の6番メジロエスキモーがつけています』
坂を上っているとしてもやはりスローペースで流れている。これは稍重だったとしても最初の1000mは……
『──2コーナーを過ぎて向こう正面に入ります。ここで最初の1000mは……1分4秒3! 少し重たいバ場のことを考えてもゆっくりな流れでレースが進みますが……おっと!? ここで中団で待機していたプチブーケが上がっていって先頭に並びかけます!』
(みんなもやっぱり遅いって思ってたのね。これから下り坂に入るからペースが一気に上がりそう……!)
4番手に後退した私だけど特に掛かることなく3コーナー手前、残り1000mの標識から少しずつ前に迫っていく。そのまま勢いを落とすことなく3コーナー、4コーナーへと流れ込むと、直線を向いた所でもう先頭に立っていた。
『──各ウマ娘たちが短い直線に入ってまいりますが……もうここでメジロエスキモーが先頭に立っている! 後続に1バ身、2バ身、3バ身……いやまだ伸びるのか!?』
(後ろからは誰も来てない。本当だったらちょっと最後まで流しちゃってもいいんだけど、あの子が見てるんだから手抜きはしたくない)
『プチブーケも伸びる! さらに外からエタンセルマンも追い込んでくるがむしろ差は広がるばかり! メジロエスキモー、余力を残してゴールイン!』
結果的には6バ身差の圧勝。しかもみんなが必死に追い込んでくる中次走以降への余力を残しつつの1着ゴールイン。前哨戦を最高の形で終えることができた。ただ……ただ……
(……なーんか物足りないんだよね。けどこれ言ったら絶対怒られるから言えない……)
強者ゆえの退屈。やはり最後まで競り合うことができるライバルがいないと張り合いがない。それこそサートゥルヌスさんだったりエスキーだったり。G1の舞台なら猛者たちが集うからワクワクできるんだけど……
(まあ次エスキーと走れるからいっか。とりあえず今日はトレーナーの家で反省会して、明日はママのとこ行って話聞いてもらって……エスキーは……まだ天皇賞は先だからジャブのつもりで声かけてみよっかな)
ママはエスキーと同じ部屋だけど、口が堅いから弱音を吐いても絶対漏らしたりなんかしない。とりあえずエスキーが出かけるのを見計らって部屋に行けば……
(いやちょっと待ってね……そもそも2人で話すのに部屋に行かなくても2人きりでお出かけすれば解決じゃない?)
根本的な所が頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。同じ寮で過ごしているからっていって寮の中で話す必要なんて全くなかったということを、外に出てしまえば何の問題もないということを。
そうと決まれば話が早い。私は控え室に戻るやいなや、ママへ来週の週末に2人で出かけないかとメッセージを送り、その返事を待つ。わりとすぐに既読の表示が現れ返事が返ってくる。
「『来週は駄目だけど、再来週なら大丈夫だと思う。どこ行きたい?』……やった!」
あっさりお出かけ、いやデートが決まって少し小躍り。たぶんレースに勝ったことより喜んじゃってる気がする。そのことを一緒にいたトレーナーに見抜かれ、呆れ気味に声をかけられる。
「……レース後ってこと忘れてないよな?」
「……だ、大丈夫だって! これからウイニングライブだよね、頑張らないと!」
若干図星を突かれて心臓が跳ね上がる。それをトレーナーに悟られないように振る舞いながら、ママへの返事を考える。
(どこがいいかな……どこなら楽しいかな……)
──意識はとっくに2週間後へ飛んでいってしまっていた。
─────
(髪跳ねてないよね……)
携帯の画面を手鏡代わりに髪がぴょこんと飛び出ていないかの最終チェックを行う。見た感じ大丈夫そうかな。
そうこうしていると、ママが私へ声をかけ、軽く小走りにこっちに向かってきた。
「遅くなってごめんね。結構待った?」
「全然! ママが来るちょっと前に着いたばっかりだよ」 「そっか、それならよかった……って外だから『ママ』は禁止だからね」 「はーい、『ドーベルさん』」
私たちが全く有名でなければそう呼んだところで仲がいい親子と周囲も見てくれるだろうけど、あいにくと2人ともG1を複数勝っているおかげでわりと有名人になってしまっている。だから不用意に『ママ』なんて呼んでしまったら、「あのG1ウマ娘のエスキモーって子、近い歳のドーベルって子を『ママ』って呼んでたぞ」みたいな噂が広まってしまう。それは避けなくちゃいけない。
もちろん呼び方以外はそのまま。いつもより近づいて手も繋いじゃったりして……エスキーが見たら嫉妬しちゃうかな?
「それにしても今日の格好可愛いね。似合ってるよ」
「ありがと。せっかくのデートだもん、ちょっと頑張っちゃった」
今日の私は長袖のブラウスに長めのプリーツスカート、それにレザーのラウンドトゥシューズを履いて、小さめのショルダーバッグを肩から掛けるスタイル。髪も前に習ったのを思い出して少しウェーブを作ってみた。
「でもマ……ドーベルさんの方が大人っぽくて素敵。私子どもっぽく見えるかも……」
「そんなことない。エスキモーも十分大人っぽく着こなせてるよ」 「えへへ……」
ママに頭を軽く撫でられ顔がパッと明るくなる。そんなママはジャケットに腕を通さずに肩へ軽く羽織り、下は長めのスカートだけど、くるぶし辺りまで丈がある私のとは違って、ショートブーツが隠れない膝と足首の中間ぐらいまで覆われた長さのものを履いていた。ハンドバッグもおしゃれだし、やっぱり大人の女性って雰囲気がばっちり出ていた。
「というかここで待ち合わせでよかったの? 学園から近いんだから寮の前でもよかったんじゃ……」
そう、ここは東京レース場、学園からはすぐそこの場所に位置している。確かにママの言うとおり十分歩いてこられる距離だから寮の前、それこそどっちかの部屋の前で待ち合わせでもよかったんだけど……
「こっちの方がデートっぽいかなって思ったの。せっかく2人きりでお出かけできるんだもん、ちょっとぐらいは雰囲気作ってもいいかなって」
「そっか。エスキモーがそれで満足っていうならアタシもそれでいいよ……ねぇ、トレーナーともいつもこんな風にデートしてるの?」
耳元で他の人に聞かれないようこっそりと耳打ちするママ。そういえば最近こんな待ち合わせするデートしたことないかも……
「付き合うまではどこかで待ち合わせしてお出かけするのが普通だったんだけど、最近はトレーナーの家から2人で行くことが多いかも……あっ、もしかしてこれってマンネリ……!?」
もちろんお出かけの時は手は繋ぐし食事の時はあーんってしてもらえるし、ハグとかキスとかもしてくれる。でも最近は付き合う前みたいなドキドキのデートをしてない……!
「あはは……マンネリってまだ付き合ってそんなに経ってないでしょ?」
「いやーそれが実は……」
デビュー前からだからかれこれ2年以上は付き合っていることを伝えると、ママは足を止めてまさにガーンっといった表情で目を見開いていた。
「そんなに……アタシがちょっとモヤモヤしてる間に……」
「モヤモヤ? あー、そういうことか。トレーナーのことが好きなのにああなっちゃったから気持ち伝えられず。そうこうしてるうちに私に先越され……あれ、もしかして怒った?」
無言。ということはちょっとからかいが過ぎたかもしれない。素直に謝ることにする。
「ごめんね、ちょっと言いすぎちゃった」
「ううん、いいの。あんなこと気にせず言っちゃえばよかったのにってちょっと反省しただけ」 「ありがと。ねえ、ドーベルさん。パ……トレーナーのことまた教えてほしいな……どんなところ好きになったとか」
親の恋バナを聞くなんてそうそうできることじゃない。元の世界でもパパがママのトレーナーをしていた頃の話をしようとすると、ママが恥ずかしがって止めて、どんなだったのか深くは教えてくれなかったから。
「……また今度ね。もうレースの時間迫ってきてるから早く行こっ」
「うん、話してくれるの期待してる!」
ようやく入場口へ、スタンドへ向けて2人歩みを進める。最初のレースはまもなく始まるところだ。
─────
「そういえばエスキモー、なんでレース場にしたの?」
2人分の席を確保し一息ついているとママから今日のお出かけスポットについて尋ねられる。デートって言ってるのに確かにレース場、しかも学園からすぐそこの場所っていうのはどうなのと言いたい気持ちは分かる。
「最初はいろいろ考えたんだよ? それこそショッピングしてお茶したりとか、映画観に行って2人カフェで感想言い合ったりとか。遊園地で2人で遊ぶのもいいかなーって思ってたの」
「でも結局レース場に……?」
ママとの初デート。それはもういろいろ悩んだ。新宿とか渋谷に出てウインドウショッピングしたり、カフェでタピってみたり。カフェと一体になったブックストアで2人静かに本を読みながらお茶するっていうのも考えた。だけど、私たちウマ娘として何が一番大切なのかなって思ったらレースなんじゃないかって思えてきたんだよね。
「もちろんマ……ドーベルさんがよかったらこれからいろんな所デートしたい。さっき言ったみたいにデパートとかモールに行ってショッピングもしたい。だけどまずはレースが一番大事だって、そこからなんじゃないかって思ったの」
「そっ、か……分かった。今日はいっぱいレースのこと話そ? アタシのレースのことも教えてあげる」 「やった! ありがとママ! 大好き!」
そういって横に座っていたママへしがみつく。ママは「呼び方が……」って私を注意しようとしたけど、1つため息をつくと、
「全く、しょうがないんだから……」
そう言って私の頭を数度撫でた。
─────
「──それでね、アタシがテレビ見て悔しがってたらさ、あの人も泣きそう、というか泣いててさ、アタシのこと誰になんと言われても一番強いウマ娘だって言ってくれて……あとあと……」 「えーっと……ドーベルさん? 酔ってないよね?」
おそるおそる自分のアイスティーにも口をつける。前にトレーナーの家で缶チューハイを少し飲んじゃった時みたいな感じはしない。私とママで同じ物を頼んだからママの方にだけアルコールが入ってるなんてことはないと思うけど……
─────
時は前半のレースが終わってお昼どきに入った頃まで遡る。私がスタンド内のカフェで2人分の軽食とアイスティーを買って席に戻り、仲良く並んで食事をしていた時、そういえばとママが自身のトゥインクルシリーズの頃の話を始めた。
「元々、というか今でも少しだけどアタシって男の人苦手でしょ? そんな苦手意識が強く残ってた頃に出会ったのがトレーナー。初めて会ったのはまだあの人がサブトレーナーしてた頃だけど」
「サブトレーナー……そういえばトレーナーも試験合格してすぐの頃はベテランの人のサポートやりながらいろいろ覚えたって言ってたかも」
具体的に誰のみたいなのは聞いてないけど、前にどこかで聞いた記憶がある。「その頃の経験があるから君を上手く導いていけているんだと思う」なーんて言われたっけ。
「それでチーフトレーナー──元々のね──が高齢で倒れちゃってさ。その時担当してたのがアタシだけだったからト……あの人がアタシの指導を引き継ぐことになったの」
「そうだったんだ。てっきり最初からスカウトされてそれでって思ってた」
実際にトレーナーを受け持つことになった経緯は今まで聞いたことがなかった。そんなことまで子どもに話す必要がなかっただけかもしれないけど初耳。
「……女の人、それこそチーフトレーナーみたいな女の人だったら、人によるけどスカウト受けてたと思う。だけど男の人だよ? その時はまだ直接話すなんて上手くできなかったし」
「そっか。今はそうは見えないけど」 「そう見えてるならよかった。ただそれもトレーナーのおかげ。あの人が男の記者たちを上手く御してくれたり、トレーナーと話すことで少しずつ慣れたって部分はあると思う」
手に持ったアイスティーを一口含むと、静かに飲み込み喉を潤す。そう一息つくと話を続ける。
「……つっけんどんに接することも多かったし、迷惑かけちゃったこともいっぱいあったと思う。だけどそれでもあの人はいつもアタシの側にいてくれて、アタシのことを『強いウマ娘だ』なんてことあるごとに言ってくれて……ほんと……」
言葉を切り、ふっと微笑む。その顔を見て私はあることに気づく。
「もしかしてトレーナー、パパのこと好きになったのって……」
「現役の頃からかな。自分で気持ちに気づいたのは終わりの方だけど、もしかしたらその前から……あっ、そういえばこんなことがあってさ──」
─────
そういえばそこからだった。怒涛の如く、そうまさにマシンガントークが始まったのは。練習の時の話とかレースの話とか、それこそ2人で出かけた時の話とか。最後のとか、「それってお出かけって名目のデートじゃない?」ってツッコミを入れそうになったけど、話を区切ろうにも全然間に入らせてくれなかった。
そして今に至るというわけ。
「あっ、そろそろメインレースの時間だよ? ちょっと前の方まで行かない?」
今日の目的は何なのか忘れかけていたところ、ターフビジョンの着順表示の部分が11Rという表記に替わったのを視界に捉えた。場内の熱気が少しずつ高まり、皆が今か今かとスタートの時を待ち構えている。
「──それで……あっ、そうだったそうだった。早く行かないとおしくら饅頭になっちゃうね」
2人して飲み干したアイスティーの紙コップを自らの席に置き、バッグを持ってコースの近くまで歩いていく。寄れる所まで近づいた場所で立ち止まると、ちょうど一番人気の子がゲート裏で待機している所がターフビジョンに映し出され、観客のボルテージが一段上がった。
「こうして純粋に応援するためにレースを見るって久しぶりかも……」
「どうしても自分のレースのこと考えちゃうからね。アタシも現役の時にブライトの応援まで京都に行って……あっ始まりそう」
スターターが旗を振りファンファーレが響き渡る。G1ほどではないけれどもファンのみんなからレースを駆けるウマ娘に対して盛大な拍手が送られた。
大外の子が枠に収まり、係員が走路から離れるとゲートが開きレースが始まる。
「このコースって最後の直線の坂のこと言われがちだけど、向こう正面もわりとアップダウンあるんだよね。単純なスピードコースじゃないというか」
「そうそう、まさに総合力を試されるコース。アタシもオークスの時しんどかったな。エスキモーはダービー以外でも何回か走ったことあるんだっけ?」
そうママに言われ、今まで走ったレースをコース別に指折り数える。確か中山が一番走った気がする。皐月賞とかホープフルSとか、それこそこの前のオールカマーとか。この東京レース場も何度か走ったことがあるけど確か……
「ジュニア級の時に東スポ杯ジュニアSでしょ、クラシック級の時は共同通信杯とダービーで、シニア級は……あれ? 1回も走ってない?」
改めて自分自身のレースを振り返ると、今年はほとんど関西でしか走っていなかったことを思い出した。というか春は全部阪神と京都でしか走っていない。
「分かる分かる。なんかこのコースいっぱい走ってるなとか、ここ走るの久しぶりだなとか。アタシはコースの勉強も兼ねて選んだのかなって思ったけど違ったみたいだね」
「あはは……」
てっきり走り慣れていたコースだと思っていたらそうではなかったことに衝撃を覚える。ママにそう言われたことで気持ちを入れ替えて、目の前のレースでちゃんと勉強しようとコースに視線を向けるともう先頭のウマ娘がゴールする寸前だった。
「あっ……終わっちゃった……」
「最終レースは……ダートか……ごめんね、昼からずっとアタシ喋っててレース見れなくて」
確かにそれは間違いないけれど、そもそも私が最初から勉強するつもりで来ていればそんな事態にならなかった訳だから、それは違うよときっぱりと否定する。
「ううん、ドーベルさんが謝ることじゃない。それに聞いてて楽しかったし」
そう、区切る所がとは言いつつもママの話を聞いて一緒に盛り上がっていたことは事実だ。メイクデビューの話とか初めてのG1の話とかいろいろ裏側を聞くことができたのだから。
「1人で勝手に盛り上がってた訳じゃなくてよかった……どうする? このままウイニングライブまで残って見る?」
「うん、そうする。せっかく来たんだから最後まで楽しみたいし」
そうはっきり頷くと2人はそこから動かずに最後のレースを観戦し、ウイニングライブで全力でみんなを応援した。こうやって大声を出して盛り上がれたのは久しぶりだったから、2人ともライブ後はスッキリした顔を互いに見せ合うことができた。
────
すっかり日が落ちた寮への帰り道。仲良く手を繋いで歩いていると、ママが何かを思い出したかのように左手の人差し指で顎を触り私に質問を投げかけた。
「そういえばお昼にアタシがいつあの人を……って話したでしょ? その時エスキモーはって聞くの忘れてたの思い出した」
「わ、私? えーっといつからだろ……?」
バレンタインでトレーナーの家に上がった時には既に自覚はあった。ただその気持ちがいつからだったのって聞かれると答えに戸惑ってしまう。
「えーっと……いつだったっけ」
歩きながらも頭の記憶を必死に辿る私にママは「今じゃなくてもいいから」と言ってくれる。
「思い出したらでいいからさ、また教えてよ」
「うん、絶対言うから待ってて」
そのあとは今日の楽しかった話とか明日の授業のこととかで2人笑いながら、仲良く寮の中まで談笑を続けた。
「じゃあアタシはこっちだから。また明日ね」
「うん、今日はありがと。楽しかった」
互いに軽く手を振ってそれぞれの部屋へと歩を進める。私は部屋に向かう途中にさっきママに言われた話を必死に思い出そうとしていた。
(えーっと確か、あの時だったかな。初めて異性として意識したのって……)
──それは入学後、担当してもらうことが決まってから半年ほど経った秋の頃だろうか。それまではただ優しいけど時には厳しくしてくれるいいトレーナーに見てもらえてるなぐらいしか思っていなかった。
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+ | トレーナーとの思い出〜バレンタインの裏話 |
─────
あれは秋も深まったあるトレーニングの最中のこと。世間ではエスキーが「新星誕生か!?」なんて騒がれていた頃、本格化がまだ来ていない私は来年以降のデビューに向けてトレーナーからの指導を受けていた。
「よし! 息を整えたらラスト1本!」
「はぁはぁはぁ……うん!」
肩で大きく息をしながらなんとか呼吸を整える。この頃はまだまだ息の入りや体力もまだまだで本番のレースなんて夢のまた夢、いつになったらデビューできるのかなと思うほどだった。
「位置について、よーい、ドン!」
トレーナーのかけ声とストップウォッチを押す音に合わせて足を蹴り上げコースを一周駆けていく。1コーナーから2コーナー、向こう正面を過ぎて3コーナー、そして迎えた4コーナーで事件が起きた。
「おーい! ペースを落とすな! キツいけどここで踏ん張れ!」
トレーナーからの檄が遠くから飛んでくる。ただそれに反応する余裕はなく、ただ足を踏み込んで前に進むしか私にできることはなかった。そんな時、数メートル先に少し大きめの穴ぼこができているのを見つけた。
(このまま突っ込んだら危ない……少し内に進路を切り替え……)
「うわぁ!?」
穴ぼこを避けようと、コーナーを曲がりながら内に切り込もうとしたその時、これまでの練習で溜まっていた疲労のせいか右足が滑りかける。それをなんとか立て直そうと今度は左足でバランスを取ろうと試みるが足が上手く芝に着地せず足首を捻って転んでしまう。蓄積した疲労によってスピードが落ちていたことが幸いしたのか、派手に転んだにも関わらず、大怪我になることはなかった。
「いたた……」
他の子の練習の邪魔にならないよう足を引きずりながらもなんとかコースの外に出る。そこにトレーナーが血相を変えて駆けつけてきた。
「おい、大丈夫か!? 靴と靴下脱いでジャージの裾捲って見せてみろ……腫れているのは足首だけ……それ以外は……こけた時にできたかすり傷程度か。よし、とりあえず保健室に向かうから、ほら、背中に乗って」
そうやってトレーナーは地面にしゃがみ込み私をおんぶする体勢をとる。流石に中等部にもなっておんぶなんてって思ってたけど足首は痛いしここは背に腹は代えられない。周りの目をチラチラと気にしながらそっとトレーナーの背中に掴まり、腕を首に回す。それを確認したトレーナーは私の足を前から抱え込むように持ち静かに立ち上がる。
「よいしょっと! 保健室まではちゃんと掴まっててくれよ」
「……分かってるって」
その時はまだ2人はただのトレーナーとその担当に過ぎなかったから、関係は良好といえどこうやって体を密着させるなんてことは今までになく、ただ恥ずかしさがこみ上げ、顔が徐々に赤くなっていくのを感じた。そんな照れている顔を隠したい私は、おでこをトレーナーの肩に乗せるような体勢で顔を意地でも見られないように悪あがきをする。ただトレーニングの真っ最中だったのが功を奏したのか、その日の私の星座占いが1位だったおかげなのか、知り合いや友人とは一切遭遇することなく保健室までたどり着くことができた。
(トレーナーの背中大きいな……)
落ちないよう全力でしがみつくその背中からほんのりとした温もりが体全体を包んでいく。果たしてそれは助けてくれたという安心感から来るものなのか、それともまた違う何かから来たものなのか、その時はまだまだ子どもだった私にはその理由がさっぱり分からなかった。
─────
「失礼します……ってあれ先生いないのか」 「ただいま所用のため席を外していますって机の上に置いてるプレートに書いてあるね」
部屋の隅に置いてあった丸椅子に私を座らせると、どこからかテーピングのテープやら氷と水を入れた氷嚢とかいろいろ出してきた。
「それどこから持ってきたの?」
「そこの棚と冷蔵庫からちょっとだけ。応急処置程度ならやっていいって言われているし、トレーナーとしても最低限の怪我の処置は叩き込まれているからそこは安心してほしい。さあもう1回足を見せてくれ」
そう言われ素直に裸足になった左足をトレーナーへ向けて差し出すと、トレーナーはテキパキとした動きであっという間に応急処置を終わらせてしまった。
「これ保健室から用具持ってくるだけでよかったんじゃ……」
「オレができるのはあくまでも場当たり的な応急処置。スポーツ医学も表面的には触れているけど、やっぱりより専門的な知識を持った先生に見てもらうのが一番だろ?」
それは確かにそうだ。捻挫だと思っていたら実は骨折だったり、ただの腹痛かと思っていたら病気だったりすることもたまに聞く。頭を打ってできたたんこぶが治ったと思ったら実は内部に腫瘍ができていたなんて恐ろしい話も小耳に挟んだことがある。だからトレーナーが言っていることは全くもってそのとおりだ。
「分かった。とりあえず今はじっとしといた方がいいんだよね?」
「ああ。捻挫の処置の基本は安静、冷却、圧迫、挙上の4つだからな……そうだベッドの方に移動して椅子に足を乗っけたら良さそうだな。肩持つからゆっくりベッドの方に歩こうか」
そうやってなんとか保健室のベッドまでたどり着き、そのまま腰かける。トレーナーはすぐさまさっきまで私が座っていた丸椅子を持ってきて、私の左足を静かに乗せた。
「これでよし、と。今日はトレーニングはできないし、ゆっくり休もう」
「ごめんね、トレーナー。私、転んじゃって……せっかく組んでくれたトレーニング、最後までできなかった」
トレーナーはそんな顔を俯かせる私を謝罪とともに元気な声で励ましてくれた。
「いやいやオレがこれまで無理させたのも悪い、ごめん。これからメニュー考え直すよ。あと怪我が捻挫で済んでまだよかったよ。だからほら、そんなに落ち込まない! 顔上げる!」
「トレーナー……ありがと」
トレーナーに感謝の気持ちを伝えた時、なぜかさっきおんぶしてもらっていた時のことと今朝教室でクラスメイトと話していた時のことが同時にフラッシュバックした。
『そうだ! ねえエスキモーちゃん知ってる?』
『え、なになに、いきなり何の話?』 『この前読んだ雑誌に書いてあったんだけどね──』
「トレーナー」
「ん、どうした?」
何を血迷ったのか、何に急かされたのか。
「トレーナーって身長、何センチ?」
口を衝いて出てきたのは今までの話と全く脈絡がない、傍から聞いたら意味不明な言葉。自分の口から漏れた言葉が信じられずつい手で口を覆う。
「オレの身長? 確か今年の健康診断で測った時は……」
「あっ、やっぱり言わなくて……」
なんとか紡ぎ出した小さな声はトレーナーに届くことはなく、
「173cmだったと思う」
なぜかこういうときには回転が速い私の頭。
(173cm−158cm……あっ……)
保健室に入るまでに元に戻ったと思った顔が再び燃えるような熱を発する。それを瞬時に感じ取った私は今度はトレーナーに見られないよう顔をぷいっと横に向ける。
「エスキモー? どうしたんだ?」
「な、なんでもないから……!」
この顔は見られちゃいけない。この人にまた心配をかけてしまうから。
ただそれ以上に気づかれてはいけない。かすかに速くなるこの鼓動を。原因不明の胸の高鳴りを。
『ハグとかキスがしやすい身長差って15cmなんだって!』
──あの人に恋をしたのはきっとこのとき。このことをはっきりと自覚したのはそれからまた数ヶ月経ったバレンタインの時だった。
─────
バレンタイン1週間前、自室で私はベッドに転がりながら何をあげようか悩んでいた。
「クッキーは……味気ないし、ケーキは……ちょっと大きいかな……うーん……」
「エスキモーちゃん、何携帯見ながら唸ってるンスか?」
そんな姿を見かねたカジっちゃん先輩が声をかけてくる。私はこれ幸いと先輩に助言を求めた。
「ねえカジっちゃん先輩。トレーナーにバレンタインのチョコあげようと思ってるんですけど、何がいいと思います?」
「バレンタインッスか……気持ちが籠もってる物ならなんでも嬉しいと思うンスけど……」
それは間違いなくそう。今の私の料理の腕前だったら不味くはならない、というか何度かお菓子作ってるから自分で言うのもなんだけど味は保証できる。ただ重要なのはそこじゃないんだよね……
「私のトレーナーってさ、他にもチョコいっぱいもらってそうじゃないですか? そんな相手にありきたりなの渡しても喜ばれるのかなって思っちゃって……」
「まあかっこいいかかっこよくないかって聞かれたらかっこいい部類に入るとは思うンスけど、流石に考えすぎじゃないッスか? もっと気楽に考えた方が……相手トレーナーさんッスよ?」
そこが頭を悩ませている大きな要因だ。彼の立場を考えると、担当しているウマ娘からチョコをもらうのは純粋に嬉しいと思うけど、仮にそれがほ、ほ、本命だったらどう思うだろうか……年の離れた学生からそんなチョコをもらったりしたら困惑するだけな気がする。だけどここで気持ちを伝えなきゃ他に言える機会なんて、それこそ来年のバレンタインぐらいまでない。だったら今行くしか……!
「そうなんですけどね? 日頃の感謝というか気持ちをちゃんと伝えたいなって思ってですね……」
本当の気持ちは伝えずにごまかす。だって言ったところで先輩は困るだけだろうから。
「だったら気合入れて作るしかないッスね! 私もそういうの慣れてる訳じゃないッスけど、もし手伝えることあったら教えてほしいッス!」
「……ありがとうございます。困ったら頼らせてもらいますね」
いつもは後輩の私が世話を見る方なんだけど、こういうところはしっかり先輩の立場として助けになってくれる。まあたぶんお願いするのは試食が中心になると思うけど。
気を取り直したところでさてそれじゃあ何を作ろうか? ミニケーキ? チョコレートボンボン? それとも……
再び携帯でバレンタインチョコのレシピをいろいろ調べてみる。そして様々なサイトを渡り歩いた先に見つけたのがトリュフだった。
(こういうのって大概花言葉みたいに何にどんな意味がついているのかっていうのがあるんだよね……えーっとトリュフは……)
「バレンタイン トリュフ 意味」と打ち込んで検索にかける。すると出てきたのは……
(「大きな意味はありません。気軽にあげられるチョコです」、か……)
意味がなければそれこそあげる意味がない。だけど重く受け取ってほしいかとなるとそうじゃない。だったら一体するべきなのか。もう一度トリュフのことを調べてみると、それの解決策になりそうなホームページを発見した。
(へー、トリュフもいろんな味にアレンジできるんだ。ミルクチョコ、抹茶、フルーツ……シャンパン入れたものまであるの!?)
その時名案が頭の中で閃いた。トリュフに意味がないというのならそこに味で想いを籠めてしまえばいいと、いろんな味のトリュフを食べてもらうことに意味を籠めればいいと。
(貴方に私の料理を食べてもらいたい。貴方を私で満たしたい……)
貴方の側にいたい、貴方と深い関係になりたい、貴方の隣で、貴方の近くで……
想いが止まらない、止められない、止めたくなんかない。
──だって私は貴方が好きなのだから。
─────
「まあ結局その時は駄目だったんだけどね」
少し古い記憶を呼び起こし、ふっとため息が零れる。そんな私を見て、あの時の繰り返しみたいに同室のカジっちゃん先輩が心配そうな声で私に話しかけてきた。
「どうしたンスか? 何が駄目って?」
「ううん、昔の話です。今はなんでもありません」
先輩はさっきの話なんて覚えていないだろう。去年のバレンタイン前の他愛もない話なんて。
「ふーん……まあなんでもいいッスけど。今度の天皇賞頑張ってくださいッス。レース場には行けないけど応援してるッスよ」
「ありがとうございます。先輩の応援があったら百人力ですね」 「いやいやいや、そんな訳ないじゃないッスか……違うッスよね……?」
これまた冗談で先輩をからかいながらも2人仲良く眠くなるまでおしゃべりを続けた。他愛もない話を、すぐに忘れてしまうかもしれない話をずっと。
─────
その夜再びあの白い部屋にいる夢を見た。この前は電池を探しに行く所でテレビの電源を落とすかのようにぷつりと途切れたあの夢の続きを。
(えーっと電池電池……あった! よし、じゃあこれを1つ嵌めてっと)
落ちていた電池を拾い上げ時計の裏に嵌め込む。ただもう1つの穴にはまだ何も入っていない。当然時計が動き出すこともない。
(もう1個探さないといけないのか。どこだろう……?)
再びキョロキョロと真っ白い部屋を見渡す。すると、今度はさっき電池を見つけた方向と逆の方角に小さいけど照明に照らされて光っている物を見つけた。
(あっ、あれだ! 拾いに行かないと!)
そうしてまた立ち上がりその物の方向へと駆け出していく。
──そこでまた映像が途切れた。
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+ | 天皇賞・秋直前〜天皇賞・秋 |
─────
天皇賞秋2週間前の日曜日、他のG2やG3とは違いG1だからこの日に特別登録のメンバーが発表される。果たしてそのメンバーは……
「少なっ……これG1だよね?」
なんと私とエスキーを含めて12人。フルメンバーの18人には到底満たない数。当然ここから追加登録することはできないからこれがMAXの人数となる。
「ああ間違いなくG1なんだが……おそらく君たち2人に恐れをなしたんだろう。2000mという距離はマイラー寄りの子でもなんとかこなせる距離だし、逆にガチガチのステイヤーでもない限り距離適性が多少長くても十分にカバーできるはず。それなのにこの少人数ということは間違いなく理由は君たちだ」
「まあ少ないなら少ないでありがたい所はあるんだけど……」
この東京2000mというコース設定はスタート直後に進路を左に取る関係でフルメンバーだと8枠がどうしても不利になってしまう。ただ12人だと大外でもフルメンバーでの6枠相当。イコール内に殺到する数も必然的に減るわけで、前が壁になったり他の子と接触して取りたいポジションが取れなかったりというアクシデントが目に見えて少なくなる。
「あとはやっぱりマークしやすいことが大きいな。常にターゲットを視界に入れてレース運びができるのは大きなメリットだ」
そう言ってトレーナーは机に置いてあるマグカップを手に取りお茶を一口飲んで喉を潤す。私もそれに釣られてトレーニングで余ったスポーツドリンクを口にする。
「そういえばなんだけど、これまでずっとエスキーを前に置いて後ろから捉えるレースプランだったじゃない? 私が前にっていうのは難しいの?」
残り少なかった中身を一気に飲み干すとトレーナーへ疑問をぶつける。去年の有馬記念然り彼女とのトレーニングでの併走然り、あの子が前、私が後ろの態勢でレースが進み、後半あの子が一気に仕掛けるのに合わせて私も仕掛けるけど追いつかないことが常だったように思える。
「もちろんそれは考えたよ。君もスタートが上手い。並の相手だったら、何も考えることなくスッと前を制することができるはずだ。ただし……相手が悪い」
そう言ってパソコンのキーボードをカタカタと叩き見せてきたのは、エスキーのこれまでのレースにおけるスタート時のパトロール映像だった。
「これが去年の有馬記念。海外、特にヨーロッパ勢はスタートがそこまで上手くないから自然と前に立ててしまうから割愛するとして、さらにもう1年前の有馬記念、菊、ダービー、皐月……どれもスタートが速い」
「ほんとだ……一緒に走っててもなんでこんなに前に行けるんだろうって思ってたけど、前から見たら分かりやすいね」
ともに走っている時は単にスタートが速いなとしか思っていなかったけど、こうして別の角度で見てみるとその異常さが分かる。
「ゲートの中で走ってるんじゃないかって思うぐらいだ。こっちはテレビ放送版なんだけど……」
そう言って映像を再び去年の有馬記念のものへと切り替える。今度は地上波で放送されたものを録画した映像だ。
「うわ……スタートの時点で1バ身ぐらい差がついてる……」
まさにロケットスタート。私もゲートを出るのが下手な訳ではなく、むしろ速い部類に入る。そんな私を彼女は1バ身も差をつけた状態でレースを始めていた。
「ただ無理には前に行かずスッと番手につけて道中は回り、終盤に一気に突き放してっていうのが彼女の王道パターン。有馬の時は少し違ったけど、ヨーロッパの感覚が抜けてなかったんだろう。今回はばっちり仕上げてくるぞ」
「うん、分かってる……」
果たしてどうしたものかと腕を組む。何も対策を打たないと去年の二の舞い、むしろ向こうが日本のレース仕様に仕上げてきている以上その上を行く惨状が広がるのを容易に想像できる。
「もちろんこれで白旗を揚げるほどオレも諦めがいい人間じゃない。まあこれまでの焼き直しに近くはあるんだけど……」
そう言って三度パソコンの画面を切り替える。今度は映像ではなく表計算シートを立ち上げファイルを開く。
「当然だけど君のこれまで走ったレースのデータは全部取ってある。それで今回見てほしいのは……ここだ」
「えーっと……ラップタイム?」
そこにはこれまで私が走った各レースの全体のラップタイムと、私個人のラップタイムが書かれていた。
「そう。もちろんあくまで君のラップはオレの手計算だから多少誤差はあるかもしれないけど、それでも傾向は見て取れる。これを見て何か分かるか?」
「傾向? そんなのいきなり言われても……あっ」
私のラップを抽出して見てみると一目瞭然だった。むしろこれに気づかない方がおかしいぐらいに。
「ずっと加速し続けてる? 後半の4ハロンずっと?」
「正解。もちろんレースやコースによって変わってはくるけど、ずっと伸び続けているというのは変わらない。それが君の武器だ」 「私の武器……?」
胸に手を当てこれまでのレースをいくつか振り返ってみる。淀の坂を下り始める手前で仕掛けてそのまま捲くっていった菊花賞と天皇賞春、3コーナーから4コーナーにかけて一気に踏み込み、前を飲み込んで突き放した日本ダービー、重たいバ場を苦にすることなく最後まで脚を伸ばせた宝塚記念……思い返すと最後に苦しくなってペースを落とすという記憶が全くなかった。その記憶とこの記録が見事に一致しているという事実。確かにこれは私の武器と呼べるもの、彼女を超える鍵になるものだろう。
「ただこの武器を最大限に活かすためには最後まで伸び続けるためのスタミナ、そしてトップスピードの上限を上げる瞬発力を鍛えないといけない。あと2週間、きっちり仕上げていくぞ」
「うん、お願い。あの子に勝ちたいから」
目に捉えられるか分からないほどのかすかな突破口。しかしそれに私たちは全てを賭ける。縋るのではなく信じる。己の脚と愛する者の頭脳を注ぎ込んで。
─────
「なるほど、エスキモーちゃん、ほんとレース運び上手ですね……特に最後の伸びなんて……」
─────
「はぁ……ふぅ……よし!」
迎えた天皇賞秋当日。トレーナーと打倒エスキーの作戦を考えたのがつい2週間ほど前。それからラストまで伸び続けることができるように体力と瞬発力を必死に鍛え今日に至る。
「緊張は……大丈夫か」
「もう慣れたしね。しかも今回は1番人気じゃないし」
今回の1番人気は当然とまで言っていいエスキー。それに続いて私が2番人気に支持されている。各種スポーツ新聞には「2強対決」や「メジロとメジロの一騎打ち」だったり「無敗VS春の覇者」なんて言葉がデカデカと一面に書かれていた。
「初対戦から約1年、君は数多くのレースを駆け、そして勝ってきた。そこで得た自信、そして今まで積み重ねてきたトレーニングを胸に今日精一杯走ってきてほしい」
私より硬くなっているトレーナーの姿を見て思わず噴き出してしまった。しかも台詞がなぜか重いし。
「トレーナー、ラストランとかで言う言葉だよそれ。今言ったら駄目でしょ、ふふっ」
「そ、そうか……なんか変に緊張しちゃって……」
頭をポリポリと書くトレーナーに近づき、腕を左右に広げる。
「はいトレーナー、こっちおいで?」
「なんか立場逆になってないか?」
そう言いながらも私の元へ歩いてきてギュッと抱きつくトレーナー。私はその彼の体に腕を巻きつけ胸に頭を埋める。
「よしよし。緊張しなくていいからねー」
「子ども扱いするなよ……でもありがとう、おかげですっきりしたよ」
そう言って軽く口づけを交わすと再び自席へ戻りペットボトルの水を飲む。彼の言うとおり体の強張りはなくなり、肩の力も抜けていた。
「そろそろ時間か……じゃあ私頑張ってくるね」
「ああ、行ってこい!」
そうして決戦の舞台へと歩を進める。果たしてどういう結末を迎えるのか。神のみぞ知る未来へ1秒1秒時計は針を刻んでいく。
─────
『──さあ入場してきました! 春の中長距離G1を3連勝! 今年まだ負けなしの2番人気、7枠10番メジロエスキモー!』
観客からの声援に応えつつ軽く走りながらスタート地点へと向かう。芝の具合は良好。みんなが存分に力を発揮できそうな理想のバ場状態だ。
『──そしていよいよこのウマ娘がターフに帰ってきました! 今年、ではなくこれまで無敗の凱旋門賞ウマ娘、1番人気メジロエスキー! 今日は7枠9番から出走いたします!』
私に向けられていた歓声より一段とボルテージが上がり、観客席は早くも熱狂のムードに包まれている。それもそのはず、彼女は半年ぶりにレースに復帰するのだから。
そんな声援に彼女は笑顔で手を振り丁寧に応える。あれもあの子の大きな魅力、ファンが魅了されるのも無理はない。私だって羨ましくなるぐらい。
「コースの上で会うのは久しぶりだね」
「約10ヶ月、随分とお待たせした気がします。ですけど安心して全力を出してください。それに応えられるだけの力を見せてあげますから」 「……楽しみにしてるね」
二言三言言葉を交わすと、お互い離れレースへ向けて孤独に集中力を高めていく。
(あっちは休み明けでも関係なく力を発揮できる。ただこっちもこっちで1回叩いた分全力でぶつかれるんだから……!)
静かにスタートの時を待つ。数刻ののち高らかにファンファーレが轟き、ゲートへと枠入りが始まる。
『──先に奇数番号のウマ娘が枠入りを始めます。1番人気のメジロエスキーは7枠9番に静かに歩を進めます』
奇数番号の枠のウマ娘が入り終わり、続いて偶数番号の枠のウマ娘がゲートへと収まっていく。私も8番のウマ娘に続いてゲートの中に入る。
(隣はエスキー。出方はしっかりと窺わないと……! できたら一瞬でも前に立てたら……!)
『──さて最後に大外12番セカンドシスターが収まり態勢完了! ゲートが──』
(よし……! あれ……? タイミングが……)
『開いて今スタートしました! 各ウマ娘横並びで……おっと!? 珍しくメジロエスキモーがゲートで後手を踏んで後方からのスタートとなりました!』
エスキーより先んじようと気がはやったせいかゲートが開くよりわずかに駆け出し、前のゲートにぶつかりそうになった。それをなんとか踏ん張ってこらえた所で不幸にもゲートが開きレースが始まってしまった。
(やっちゃった……でもまだレースは終わった訳じゃない! ここから冷静に運べば必ず勝機が生まれるはず!)
レースで大事なのは常に冷静でいること。どれだけ実力があっても道中我を忘れてペースを乱せば、それを抑えるのに力が殺がれ持ちたるポテンシャルを発揮できないままレースを終えてしまうことになる。
(トレーナーから散々言われたっけ。冷静でいるためにも多くのレース展開を頭に叩き込んどけって)
当たり前のことだけど人は自分が想定していなかったことが起きると少なからずパニック状態に陥る。それはレースの時も同じ。むしろコンマ1秒、もしくはそれ以下を争うレースにおいてはほんのわずかな恐慌状態でも勝ち負けがひっくり返ってしまう。だったらどうすればいいか。
(レースの展開を何パターン、何十パターンも考えて頭に叩き込む……!)
ありがたいことにパパとママから頭の回転の良さと高い記憶力も受け継ぐことができたから覚えることに苦労はしなかった。むしろ大変だったのは一つ一つ展開を考えるトレーナーの方だっただろう。私がご飯を作りに行ってなかったら倒れてたんじゃないだろうか。
(そんなトレーナーの努力を絶対無駄にはしない! 収まった位置からきっちり仕掛ければいい!)
『──向こう正面を過ぎて、現在チバディスカウントがレースを引っ張ります。2番手にジェームズヤマト、3番手にミラクルがつけて、そのすぐ隣にメジロエスキーが控える展開になっております。さあまもなく最初の1000mを迎えますが……60秒5! まずまずの流れでレースが進んでいます』
エスキーとの差は……約1秒ほど、距離としては5バ身ぐらいだろうか。さあ問題はどこから仕掛けるかだけど……
(事前の話だと800mからだけど、脚は残ってるし差も縮めていかないと絶対に届かない……だったらここで!)
残り800mの標識を待たずにスパートをかけていく。彼女との差がじわりじわりと縮まる。だけど……
『──残り800mの標識を通過して……ここで一気にメジロエスキーが仕掛けた! 前を一気に捉え、そして突き放す!』
彼女もここでスパートをかける。まるで精密機械かのように絶妙のタイミングでギアを上げ後続を千切り、少し詰めた差をあっという間に離されてしまった。
(それでも私は私の武器で勝負するだけ……!)
『──さあ直線に入ってまいりますが、先頭はメジロエスキー! 後続をグングンと引き離す! これはセーフティーリードか!?』
直線残り400m。あの子との差は5バ身、6バ身、いやもっと離れているだろうか。ただそれでも私の脚は止まらない。息は全然上がってない。
(あああああああああああああああっっっ!!!!!)
『──後続もジェネシーとフィレラヴォアが上がって……いやその外から一気にメジロエスキモーが飛んできた! 5番手、4番手……一気に2番手へと替わった! 残り200m! 猛烈な勢いで前に迫る!』
(届かない。けどそれは今この時だけの話。次は絶対……絶対……!)
『──ただリードは十分か! メジロエスキー今先頭でゴールイン! 2着は最後猛烈な脚で追い込んできたメジロエスキモー! 王者復活! 2番手に4バ身ほど差をつけて見事復帰戦を勝利で飾りました! タイムは1分56秒5!』
前走った時より差は開いてしまった。ただそれは出遅れてしまった分。次のジャパンカップでは必ず捕まえてみせる。
(悔しい……けど私たちは間違ってなかった。自分の脚とトレーナーを信じて次も……!)
─────
「エスキモーちゃん……やっぱり最後……」
危なげなく10ヶ月ぶりのレースを勝利で飾り、早々と控え室へと引き上げる。ただ勝ったはいいものの次のレースへかすかな不安材料を見つけてしまった。控え室に戻るやいなや、先ほどのレースの映像をパソコンで確認する。
「わたしはいつもどおり残り800mの所で仕掛けて一気に突き放して……確かにラスト2ハロン目は軽く息を入れるのでいつも差を縮められるんですけど、最後の1ハロンはわたしも伸びてるはずなのにさらに差を縮められた……」
春まで彼女の練習に付き合いデータをいろいろと集めさせてもらった。ただ今日の彼女はそれを上回ってきた……
「次のレース、気をつけないと飲まれるかもしれません……」
勝って兜の緒を締めよ。その言葉通りに気を引き締め直したところでウイニングライブの準備へと取りかかるわたしだった。
─────
「あーあ、負けちゃったー」 「あれ、案外平気そうだな……」
控え室に戻り、椅子に座ってぐでーっと伸びている所をトレーナーに見られる。まあトレーナーの言い分も分かる、というか逆になんで悔しがらないのと言われそう。
「初めて出遅れたのにーって言いたいんでしょ?」
「そりゃそうだろ……今までスタート抜群だった君がこの大一番でミスするなんて考えられなかったからな。それで何か理由はあったんだろ?」
そう言われると若干答えに苦しむ。答えがないという意味ではなく、この答えをしたら怒られるんじゃないかという意味で。だって……
(エスキーを制して一瞬でも前に出たかったーなんて言える訳ないじゃない?)
レースプランとしてもエスキーのすぐ後ろに構えて残り800m辺りから仕掛けていく形だった。確かにスタートを素早く決めるだけ決めてスッと控えれば、無理に位置を取りに行くよりも体力の消費が抑えられるメリットはあるけど、別に彼女より先に出てそれをやる必要はなかったんだから。
「えーっと、ゲート開くタイミングと足踏み出すタイミングが合わなくてね? それでワンテンポ遅れて出ちゃったっていうか……」
嘘ではない。前へと飛び出そうした時にまだゲートが開かず、おっとっととつんのめったタイミングでゲートが開いて後ろからのレースになったのは事実だ。うん、嘘は言ってない。
「……本当か?」
そう言って私のわざわざ立ち上がって私の顔を覗き込もうとするトレーナー。私は彼の顔を両手でホールドして別の方向へと向かせる。
「……おい、何か隠しているな?」
「な、なんのことやらさっぱり……」
相変わらず嘘が下手くそな私。尻尾もしきりに揺れているし鏡を見ても目が完全に泳いでいることがはっきりと分かる。そもそも何もなければトレーナーに顔を見られてもどうってことなかった訳だから、もうその時点で破綻していたということに今気づいた。
「嘘ついたら当分オレの家泊まるの禁止にするから」
「ごめんなさい話します」
それは禁止カード……そんなこと言われたら何も隠し事できなくなっちゃうじゃん……
そんな反則技を使われた私は洗いざらい全てを吐き出した。トレーナーはうんうんと頷きながらも少しずつ顔が険しくなっていく。
「──ということなの」
「……やっぱりお泊まり禁止にしようか?」 「いやいやいやいや! 本当のこと言わなかったらって話だったでしょ!?」
なんかもうレースの時より必死の表情でトレーナーにしがみつく。話が変わってきて……いや本当のこと言ったら禁止にしないってことは言ってない……
「あのな? オレは遅れたことに怒っているんじゃないの。そりゃゲートなんてミスすることはある。有名なウマ娘だって出遅れ何回もしているし、それでも勝ちきっている例もたくさんあるからな。それに出遅れたとき用のレースプランも組んでいたから、そこは問題じゃないんだ……なんでエスキーより前に出る必要があった?」
淡々と、それはもう淡々と理詰めで責められているのをひしひしと感じる。これで間違ったこと言ってたら反論できるんだけど、その余地はまるで残っていない。
「……そっちの方がレースしやすいかなって」
「……これを見てくれ」
そう言って差し出したのはこの前も見せてもらった私のこれまでのレースのラップタイム。早速さっきのレースのものも入力されている。
「最後まで加速ラップを刻んでいるのは見事だ。練習の成果が出ている。ただ見てほしいのはそこじゃない」
「えっと……どこを見ればいいの?」
そう尋ねるとトレーナーは2つのレースのラップについて指し示す。片方は今日のレース、もう片方はこの前のオールカマーのものだった。
「はっきり言おうか。君に一番合っている脚質は差し。先行じゃない」
「えっ……?」
今この段階で言う話なのだろうか? だって今までずっと前でレースをって……
「なんで今って顔だな。確かにもっと早く気づくべきだった。それは申し訳ない」
「頭下げなくていいよ……でもどうして? というかそれで怒ってるのはなんで……?」
いまいち全体の話が見えてこず、頭の中がはてなマークでいっぱいになる。今日のスタートの話と脚質の話がどう繋がってくるんだろうか?
そんな不思議そうな顔をしている私を一瞥すると、再びパソコンの画面を見ながらトレーナーは話を続ける。
「オールカマーの時は出遅れもなく前目でレースを運べた。その時のラップも当然最後まで加速ラップを刻んでいるんだが……少し加速が甘い。オールカマー後に成長した分を差し引いても今日の走りとは明らかに違う。ほら、2つ見比べてみて」
そう言われ画面を覗き込み、2つのレースのラップタイムを見比べる。
「あっ……そういうことか」
さっきの話を踏まえたら、トレーナーが何を言いたいのか、なんでスタートで無理に前に出ようとしたことで怒ったのかがはっきりと分かる。
「前回は前に行った分最後の伸びが甘くなってる。それが今回たまたま後ろになったけど、その分脚を溜められたから爆発力に違いが出た」
「正解。じゃあオレがなんで怒ったか分かるか?」 「……自然と出た結果じゃなくて無理に前に行こうとした分、余計な脚を使ったから」
そう、そこに繋がる。私の武器は最後まで伸びる末脚。その勢いを削ぐような真似を自分からやったんだから怒られるのも当然だ。
「はい、正解。じゃあ次のレースはどうしたらいいか分かるな?」
「中団より少し後ろでエスキーをマーク。あの子より早めに動いてその勢いで最後に差す」
一瞬の爆発力で後続を突き放し、少しだけ息を入れて最後にもう一度伸びるあの子とは違う。3コーナー辺りから仕掛けてその勢いのまま垂れてきた子を差しに行くママとも違う。
──早仕掛け気味に前を狙い、体力を使い切る勢いで最後まで伸び続けて一気に差し切る。それが私の武器。
あの子が剃刀なら私は鉈。ゴール板まで伸び続けるこの末脚。これがあれば、私はきっと……
「……よしじゃあ今日の反省会は夜にオレの家でやるとするか」
正解の代わりに放ったその言葉は「そういうこと」だろう。今度はしがみつくのではなく、正面から抱きついた。
「やっぱりトレーナーって優しい! 大好き!」
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+ | エスキーとお屋敷で〜ドーベルとショッピング |
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秋の天皇賞の次の週、私はあの話を聞いてからどうしても知りたかったことを聞き出そうとエスキーをお屋敷へと呼び出した。
「お屋敷まで呼び出してどうしたんですか? お話なら学園でもできるのに……」
「この際だからエスキーに聞いておきたいなーって思うことがあってさ。元の世界に戻ったら絶対教えてくれないと思うし」
お屋敷の私の部屋、2人ベッドに横並びに仲良く腰かける。私はそのままバタンとベッドに倒れ込み、エスキーもどうぞと手招きする。
「では失礼して……そんなに改まって言うということはわたしの出自の話ですか?」
私の誘いを受け入れ私と同じようにパタンとベッドに背中を預けるエスキー。私みたいに体重を後ろにかけて思いっきり倒れるのではなく、夜寝る時みたいに静かにそっと横になる彼女はやはり精神的に大人びているのだろうか。普段は子どもっぽい所もあるんだけど。
「流石エスキー、鋭い」
「そうじゃなかったらそれこそ寮の部屋でもできる話ですから。ねっ、わたしを追い出して姉さまと2人きりでお話した時みたいに」 「えっ、ウソ、バレてた……?」
まるで名探偵が如くあの時の真実を突き止めるエスキーを見て顔が引きつる。お互い口止めしていたから2人からバレた訳じゃないはず。ママも口が堅いし、私も誰にも漏らしていない。とすれば……どうして?
「落ちていた髪の毛……というのは流石に冗談です、引かないでください。匂いですよ、匂い。ウマ娘って人より鼻が利くんです。あの日部屋に戻って自分のベッドに寝転んだ時なんだかいつもと違う香りがしてですね。何の匂いかなと思ってその時はあまり気に留めなかったんですけど、別の日に会った時にエスキモーちゃんから漂う匂いがそれと全く同じでして。ああ、そういうことかと」
「す、すごーい……大正解だねー……」
見事な推理。おみそれしました。
「この際何を話したのかは聞きません。エスキモーちゃんはわたしとのレースのことでわざわざ姉さまを訪ねるような真似はしないでしょうし、仮にしたとしても姉さまは言わないでしょうから。逆にそれ以外のことであれば特に聞かれて困ることはないですからね。それで聞きたいのはわたしの出自、どうしてウマ娘になったか、でいいですか?」
「うん、それが聞きたかったの。ここだったら他の人に聞かれる心配はないから」
親友(パパ)の秘密をわざわざ誰かに聞かれかねない場所で聞くことはしない。そもそも聞いても答えてくれない可能性はあったけど、それはこの子自身の秘密だかは当然のこと。
「どこから、といってもそんなに複雑な話ではないんですけど……」
そう切り出して話し始めたのは私と同じで少し不思議なお話だった。
「あれは今から3年ほど前の話でしょうか。姉さまが出場した第1回URAファイナルの中距離部門の決勝が見事姉さまの優勝で幕を下ろしたあとの話です。あの時理事長から呼び出しを受けたあとのトレーナールームへの帰り道、タキオンさんにクスリを飲んでくれといきなり声をかけられてですね。断ろうとしたんですけど、どうしてもと彼女にしては珍しく頭を下げてお願いされたものですから、そこまで言われたら仕方ないと飲んであげたんです。えっ? 人が良すぎないかって? 確かに今思えば他の人に頼んでくれって言ってもよかったかもしれませんね」
一旦立ち上がるとベッドの頭の方に置いてあった枕を1つ手に取り戻ってくる。枕は2つあるから私も残りの1つをなんとか寝転がりながら腕を伸ばして掴み、胸元へと抱き抱えた。そう私が横着している間にエスキーは再び私の横に腰かけ、今度は枕を抱え込みながら私の方を向いてパタンと倒れ込んだ。私も彼女に合わせるように体勢を変えて彼女へと向き直す。
「それでですね、飲んだ当初は何も起きなかったんですけど、トレーナールームに戻ってしばらくすると急に眠気が襲いかかり、そのまま横になって眠ってしまいました。そして次に目を覚ました時には何やら体が縮んでいて、目の前にはドーベル……いや姉さまがわたしの方を指さして『あなたは誰……?』と、そうおっしゃいました。その時初めて自分がウマ娘になったことに気づいたんです」
ここまでの話を聞いて私は1つの結論を導き出す。
「……タキオン先輩が全部悪いんじゃない?」
「発端は間違いなくあの人です。もちろん流石に罪悪感があったのか、クスリを分解するためにいろいろ走り回ってくれましたから、わたしはそれで彼女を許しました。姉さまたちと同じ速度で走ることができる、それだけでわたしは嬉しかったのですから……あとはこうしてウマ娘としてエスキモーちゃんに会えたこともわたしは幸せに思ってますよ」
そう、元の世界に戻れば彼女と出会うことはない。彼女の姿を見ることができるのは全て媒体に保存された映像の中だけ。こうして手と手が触れ合う距離で直接話ができるなんてことは本来ありえない。
「私だってエスキーと会えて幸せだよ……ってなんだか湿っぽくなっちゃうね、やめやめ! 続き聞かせて?」
お涙頂戴の話をするのはずっと先でいい。まだ『夢』は終わりじゃないんだから。
「分かりました。といってもこれから先はエスキモーちゃんも知ってる話も入りますけど……それでそこからはお屋敷に行っておばあさまとお話をしたり、メジロ家の姉さまたちと模擬レースをしてそこそこ走れてしまったり……そのあとおばあさまの口利きでトレセン学園に入ってエスキモーちゃんを含めた皆さんと出会って今に至る……という訳です。こんな感じでいいですか?」
なんか一気に話が飛んだ気がするけど、聞きたい部分は聞くことができたからそれでよしとする……いや聞きたいことはまだあった。
「こんなこと娘の立場で聞くのもおかしな話なんだけどさ……」
「どうしたんです、エスキモーちゃん? ちょっとお顔が赤いですよ?」
本当に聞いていいものか、こんなこと聞いて怒らないのかなとは思うんだけど……ええい! どうせ『夢』なんだったら少しぐらい好きにしてもいいじゃない! ちょっと恥ずかしいけど聞いちゃえ!
「トレーナーになるまで女性経験は……?」
「……まあ一応は」 「トレーナーになってからは……?」 「ないですよ? エスキモーちゃんは何が聞きたいんです?」
その疑問はごもっともで、エスキーからしたらなんで親の恋愛事情を聞くのかということだろう。ただ本題はそれではなくて……
「何したらトレーナーから手、出してくれるかなーって……」
「あー、そっちでしたか……」
こんなこと聞ける子なんて他にいない。カジっちゃん先輩は薄々私たちの関係に気づいてそうだけど面と向かって聞ける訳ない。ママは……パパ──今はエスキーだけど──男性経験ありそうにないから、事情を全部知っていてその上元々男なエスキーに頼ることにしたってわけ。
エスキーは何と言えばいいのか言葉を選びながら私の質問に答えてくれた。
「2人がどこまで進んでいるかは置いといてですね、男というのは普通相手が魅力的かつTPOが許せば手を出します。外で言ったら怒られそうな気がしますけど、まあ大体合ってますからセーフでしょう。じゃあなぜ彼が魅力的なエスキモーちゃんに手を出さないかというと……」
「いうと……?」
「エスキモーちゃんが学生だからですっ! むしろそれ以外にありませんっ!」
至極真っ当、当然の帰結に体に溜まった空気を全て外へ押し出すように大きく息を吐く。
「そう、だよね……じゃあ卒業まで待つしか……」
「……絶対周りにバレないって互いに誓えるならいいんじゃないですか?」
確かにそれはそうだ。教師に近い立場のトレーナーと学生である私が付き合うことに関して一番恐れているのは周りへバレること。それさえクリアしてしまえば……!
「……そういう場をセッティングしてもらえるならあるいは……いやいやそんな無理やり連れ込むような真似できないし……」
枕を強く抱き締め考え込む私を見て、「いやー若いですねー」なんて目の前の少女が余裕そうに宣う……あれ、なんか引っかかるような……
「ねえ、エスキー?」
「どうしましたエスキモーちゃん?」 「バレなかったらって話……もしかして自分自身経験あるとかってことは……ないよね?」
私の何気ない一言にエスキーの表情が固まる。これはもしかして……
「そ、そんなことあるはずないじゃないですかっ!? 言いがかりは駄目ですからねっ!」
これは……クロだ。
「パパは最初の専属がママって言ってた……じゃあ今の時点でその経験があるってことは……?」
「あはは……少しわたしお手洗いに行ってきますねー」
枕を置いてそそくさとこの場を離れようとするエスキーの腕を引き、ベッドへ引っ張り込む。エスキーはなんとか逃げ出そうと抵抗するも体格差を活かして上から抑え込み、ベッドの上で彼女に覆い被さるように相対する体勢になった。
「ふぅ……ふぅ……ねぇ、エスキー? 洗いざらい話すかこのまま娘の私に襲われるかどっちがご所望?」
「えーっと、エスキモーちゃん? 冗談ですよね? だってわたしたち……」
有無を言わさずカウントダウンを始める。
「5秒待ってあげる。ごー」
「待ってください、そもそも証拠ないのに話すも何も……」
証拠なんて今から体に聞けば、ねぇ?
「よーん」
「あっ! 姉さまに言いつけますよっ! ですから、ねっ?」
それ怒られるのエスキーの方じゃない?
「さーん」
「えーっと……えーっと……ほら、また温泉行きません? おばあさまにまた話をつけて……」
温泉は魅力的だけどそういう問題じゃない。
「にー」
「え、エスキモーちゃん? 顔がなんだか近づいてきてません……?」
すんでのところで逃げ出されたら困るし、ねぇ?
「いーち」
「ち、近っ!? もう顔がくっつきっ……!?」
……あれ、このまま行っちゃう? ほんと?
「ぜー……」
「分かりました、分かりましたっ! 全部話しますからっ!」
ギリギリの所で娘が親(ウマ娘の姿)を襲うという未曾有の事態を避けることができた。仕掛けたのは私なんだけど……強情なこの子も悪いよね? ねっ?
「とりあえず元の所で座り直してっと……途中で止めてもいいですからね?」
「わ、分かった。早く聞かせて」
そう言って互いに顔を赤らめつつ、彼女は文字通り赤裸々な話を小さな声で語り始める。それはもう途中で耳を塞ぎたくなるような話まで……
─────
「はぁはぁ……こんな感じでいいですか……?」
本当に洗いざらい話してくれるとは思わなかった。流石にママの弱点を話し始めた時はこの子の口を塞ぎかけたけど、全部聞くと決めたんだから顔を真っ赤にしながらも相槌を打ちながら最後まで話を聞き続けた。
「ありがと……参考になった……かも」
今日分かったこと。互いに受け入れる環境が整っていて周りにバレなきゃ何の問題もなし!
……あれ? 元々この子に何聞きたかったんだっけ?
─────
『エスキモー……こっちにおいで……』 『もう我慢できない……』 『食べちゃいたいぐらい可愛いよ……』
「……はっ!? また夢……?」
エスキーからあんな話を聞いてからというもの、毎晩毎晩似たような夢ばかり見るようになった。これからという所で目が覚めるから、トレーナーの顔が近づいてくるだけなんだけど恥ずかしいにも程がある。目が覚める度にカジっちゃん先輩のだらしない寝顔を見て心臓のバクバクを落ち着かせるこっちの身にもなってほしい。
(最近トレーナーの顔もまともに見れなくなってきてるし……この前なんて……)
『なんか顔赤いけど大丈夫か? 熱あるんじゃ……?』
『そ、そんなことないよ!? 大丈夫大丈夫、心配しなくていいから……』 『いやいや、ここ最近ずっと真っ赤な顔しているんだから風邪引いているのかもしれない。ほら、おでここっちに寄せて』 『えっ!? そんなことしなくても……ひゃっ!?』 『やっぱり熱いな……ほら、保健室行くからオレの背中乗って』 『だ、だ、だ、大丈夫だからあああああ!!!!』 『お、おい! どこ行くんだ!?』
(なーんてこともあったし、そのせいでタイムも全然……どうしたらいいんだろ……)
頭がボーッとする中不意に枕元に置いてあった携帯の画面が光り、そちらに気を取られる。何やら通知が来たみたいだ。
(えーっと……ママからだ! なんだろ……)
ママからメッセージが届いたことを知らせるものだった。アプリを立ち上げメッセージをチェックするとそこに書いてあったのは……
(えーっと……『次の休み一緒に出かけない?』……やった!)
まさかの2回目のデートのお誘いだった。思わずその場で小躍りしそうになったのをなんとか堪えて、『行く行く! ママはどこ行きたい?』と返事を返す。
(どこがいいかな……映画? 今度こそショッピング? カフェ巡りも捨てがたいけど……あっ!)
そうだ。この悩みを唯一話せる相手がいたじゃない。私たち2人の関係性を知っていて、かつ相談に乗ってくれそうな人。
そうと決まれば話は早い。週末に向けて何を相談しようかと朝早くから頭が高速で回転し始めた。
─────
迎えた週末。今回のデート先は都内近郊の大型ショピングモールだった。待ち合わせ場所は学園の最寄り駅の改札前。私が早めに15分ほど前に到着すると、ママはその5分後に現れた。
「おまたせ。だいぶ待った?」
「ううん、私もさっき着いたところ」
11月も半ばを迎え、いよいよ肌寒くなってくる季節。街の木々の葉っぱもすっかり緑から黄、赤へと装いを新たにし、いつも歩く道も紅葉の絨毯に覆われてしまっていた。
「それじゃ行こっか。乗ろうとしてた電車の1本前のに乗れそうだし」
「うん! あー楽しみだなー、ママとのデート」 「外では駄目って言ったでしょ、もう……」
スキップしかねないほどルンルン気分で改札を通り駅のホームへと向かう私。それを捕まえにいくかのようにママは少し早足で私を後ろから追いかけてきた。
────
「あっという間に着いたね」 「エスキモーがいっぱいおしゃべりしてくれたからね」
最寄り駅に着き、数分歩いた先にモールはあった。都心にしては大きめなショッピングモール、今日の目的地だ。
「どこから回るの? ママは何か買いたい物あるの?」
「アタシはアロマとかかな……ってそんなにくっつかないでってば」 「えー、腕組むぐらいいいじゃない。ママのけちー」
家族なんだしそれぐらいはとゴネると「2人の時だけだからね」と渋々許可をくれた。
「で、そんな甘えん坊さんは何か欲しい物あるの?」
「うーん……下着とか服とかも欲しいんだけど、今日はそれが目的じゃないっていうか……」 「? まあそれはトレーナーと一緒に来て彼に好きそうなの選んでもらったらいいと思うんだけど……他に何かあるってこと?」
そう、主目的は買い物じゃない。欲しい物はあるけど、それは私が自分で買う物じゃないから。
「……ちょっとモールの中ぐるぐる回ってからでいい?」
もう少し時間が欲しい。もう一度頭の中を整理する時間を。
─────
「ここ初めて来たけどすっごい大きいね。1日で全部回れなさそう」
お昼時、お洒落なカフェを見つけ2人でお店の中に入る。ショッピングモールの店舗にしては少しアンティーク調な造りをしていて、昔ながらの喫茶店のように感じた。
「そうだね。ママは買いたい物見つかりそう?」
店の奥の方のテーブル席へ案内され向かい合って腰かける。店の手前はファミレスでよくある形式の席だったけど、店の奥側は周りからあまり見えないような半個室の席となっていた。近くには誰も座っておらず、秘密の話をするにはもってこいの場所だった。
「うーん、お目当ての物なかったから今日はウィンドウショッピングかな。エスキモーの方は?」
「私も……欲しい物はあるんだけどさ……」
私のそんな落ち込んだ声を聞いてママは少し訝しげな表情を浮かべる。近くには誰もいないのにも関わらず、周りをチラチラと見ながら少し小声で私へと囁く。
「ねぇ、何かあったの? もしかしてトレーナーと上手くいってないとか?」
「……正解。ママすごいね」
この前エスキーと話した時と似ている。私が言わなくても何が言いたいのかを突き止めた2人。互いに勘が鋭いだけなのか、ただ単に私が分かりやすい性格をしているのかのどっちなんだろう。
「最近トレーナーと上手く喋れなくってね。原因は私だから私が変わればいいだけの話なんだけど、なかなか上手くいかなくて……」
「ふぅん……原因って自分では分かってるの?」
もちろん明白だ。ただ夢の話を一から百まで詳らかにするのは気が引けたからところどころ端折りながら、その前段階のエスキーとの話も掻い摘みながらママに説明をする。互いに運ばれてきたランチセットを口にしながら、私がひたすら喋りママが聞き役に徹する形で話が進んでいった。
「──って感じなの……恥ずかしくてトレーナーの顔見れなくて……」
フォークとナイフを置き、深いため息をつく私。それに対してママも食べる手を止め私と同じように大きく息を吐いた。
「あの子は何を……! ええっと、いろいろ聞きたいことあるんだけど、それは全部エスキーに聞くことにするから一旦置いておいて……いっそのことトレーナーに自分のことどう思ってるのか改めて聞いてみるのはどう? 彼の本心を聞けばスッキリするんじゃない?」
「直接、トレーナーに……?」
直接本心を聞く、その発想はなかった。今この段階でトレーナーと話をするのは恥ずかしいから避けてたんだけど、ママがそうアドバイスしてくれるなら一度試してみよっかな……
「うん。もちろん恥ずかしいっていうのは分かるよ。アタシだったら聞けなくてモヤモヤして、そのモヤモヤがどんどん大きくなっていっちゃう、もちろんそうならないよう気をつけてるんだけど。ただあなたはアタシとは違う。ちゃんと自分の想いを相手に伝えられる子なんだから、正面からぶつかればトレーナーも応えてくれるよ」
「そっ、か……うん、頑張ってみる」
まるで自分自身に言い聞かせるようなママの台詞に勇気をもらった。今日家に帰ったらトレーナーとちゃんと話そうと心に決める。
「そういえば欲しい物って聞いてなかったね。アタシがプレゼントできる物だったらするけど」
欲しいもの、それは決まっている。ただそれはママには買えないもの。
「ううん、ママからは貰えないの。なんでかっていったら──」
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+ | トレーナーとの“初めて”〜ジャパンカップ直前 |
─────
「じゃあまた明日。お出かけできて楽しかった」 「私も。じゃあまた学校で」
朝の待ち合わせ場所と同じ場所でママと二手に分かれる。ママは寮へ、私はトレーナーの家へと足を運んだ。
(恥ずかしくてもちゃんと聞いて、その上で伝えよう)
そう胸に決めたところでトレーナーの家の玄関までたどり着き、鍵を開ける。ドアを開けて歩いていった先のリビングにはトレーナーがソファに腰かけパソコンの画面とにらめっこしていた。
「……トレーナー、ただいま」
「お、おかえりエスキモー。今日はドーベルさんと出かけていたんだっけ?」
そう言ってトレーナーはパソコンから顔を上げ、少し体を横にずらして私に座るよう促す。その言葉に甘えて私はバッグを膝に抱える格好でソファに腰かけた。
「うん、ちょっとお買い物しに。お互い買いたい物見つからなかったんだけどね。久しぶりに2人で出かけて楽しかったよ」
「そっかそっか。オレは一日中家に籠もっていたよ。今度のジャパンカップのこととか、それに向けたトレーニングのこととか朝から考えていたらもうこんな時間だよ」
「集中しすぎるのも考えものだな」と笑い飛ばすトレーナーの顔を見て、私は意を決したように言葉をぶつける。
「ねえトレーナー」
「ん、どうした?」
ママからもらった勇気、ここで使わずにどこで使おうか。
「私のことどう思ってるか教えて。担当じゃなく1人の女性として」
「エスキモー……」
あんな恥ずかしい夢を見ていたのは、元々私が心の奥底でかすかにトレーナーにしてほしいと願っていたから。それがエスキーの言葉で夢という形で顕現しただけ。だけどそれはあくまで自分の願望の話。トレーナーがどう思っているのかを彼の口から聞きたい。彼が何を望んでいるのかということを。
あまりにも唐突すぎたんだろう、トレーナーは言葉を必死に見つけようとして目線をあっちこっちに泳がせる。少し唸りつつも数分かかって紡いだその言葉は私が期待していたそのままの言葉だった。
「愛しているよ、1人の女性として」
嬉しい、ただ嬉しい。だけど私は自分が考えている以上に強欲で欲張りで欲深いウマ娘だった。
「……証拠、見せてよ」
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい! 形にして、今見せて、貴方の私への愛情を。
無意識ながらも気づいていたのかもしれない。もう長くはいられないと、もうすぐ離れ離れになってしまうと。だから、だからこんなに彼を求めてしまっている、『それ』を欲してしまっている。
私の目が、彼を貫かんとばかりにまっすぐな視線が彼が高く、そして堅く築きあげてきた心の壁を、絶対に崩さないと決めた堅牢な城壁を打ち砕こうとしていた。
「エスキモー……君はいいのか?」
もしかしたら焦っている心を見抜かれてしまっていたのかもしれない。だって彼はいつだって頑強に拒み続けてきたのだから。まだ早いと、卒業してからだと。
「……うん、いつでも覚悟はできてるから」
ただこの時私は気づかなかった。彼も焦っていたんだと。もうすぐ会えなくなるかもしれないことに彼もまた薄っすらと気づいていたんだということを。
「……みんなには絶対に秘密だからな」
「……うん」
彼が私の手を引いて2人暗い寝室へと向かう。ベッドの前で立ち止まると彼は私を押し倒し、その上に覆い被さって──
「……今まで我慢してきた分、全部ぶつけるからな」
長い夜が始まった。外が明るくなるまでずっと、ずっと。
─────
「ふわあぁぁぁ……っていたたた……」
迎えた翌朝、すっかり太陽が昇り、カーテンを閉じた部屋にもそのカーテンの隙間から光が溢れていた。
「結局トレーナーに好き勝手されちゃうだもんね……」
軽く1つため息をつく。自分から誘っておきながら最初から最後まで全部お任せしてしまったのは申し訳ないと思いつつも、途中からリードするなんて発想を頭から吹き飛ばしたトレーナーにも責任があると思う、たぶん。
「シーツもちょっと整えてあるけどグシャグシャだし、そもそも私服着てないし……」
腰に手を当てながら家に常備してあった自分の下着と寝間着を着てリビングへと向かう。ただそこにはトレーナーがおらず、食卓の方に目を向けると空のお茶碗やコップ、そして玉子焼きやウインナーが載っているプレートが置いてあった。その横にはメモが置いてあって、
「『学園には連絡入れてあるから早く来ること!』だって。早く来いって今何時だ……と……あれ?」
部屋に掛けられている時計を見ると、針はとっくに11と12の文字を指していた。
「えーっと、結局朝方までしてて、私はそこからぐっすり寝ちゃってたってこと……?」
顔から血の気が一気に引く。お互い溜まりに溜まっていたとはいえ、いくらなんでもハッスルしすぎた……おまけに腰はガクガクだしまだ感覚残ってるし、これは登校できてもトレーニングになりそうにない。
「とりあえずシーツと布団洗って干すか……」
この時間だと今から行っても午前中の授業には間に合わない。だったら洗濯と夕飯の軽い支度でもして午後の授業から顔出した方がまだマシかな。
そう自分の中で結論づけると寝室とシーツや掛け布団を引っ剥がして洗面所の洗濯機にまとめて放り込みスイッチを入れる。その間に用意してくれていた朝ご飯を食べて使った分の食器を洗う。キッチンでそうしている間にセットしておいた洗濯が終わり、ピーピーとアラームの音が聞こえてきた。
「テレビ見てたら今日は一日中晴れるって言ってたし、外干ししちゃって大丈夫かなー」
布団もシーツもパンパンと軽く皺を伸ばすと、物干し竿にそれぞれ重ならないように干していく。あとは洗濯バサミで飛ばないように挟んで完了! 時計を見るとまだ12時前だったからパパっと夜の支度だけして、これまたトレーナーの家に置いてあった制服に素早く着替えて午後の授業を受けに学園へと駆けていった。腰はまだ痛かったから少し控えめなスピードで。
─────
無事に午後の授業も終わり、トレーニングのためにトレーナールームへと足を運ぶ。ただ今のこの状態でトレーニングを行うのは若干、というかだいぶ厳しい。その旨をトレーナーに伝えようと腰をトントンと叩きながらゆっくりと部屋の扉を開けた。
「ねえトレーナー、朝食作ってくれてありがと。あとちょっと今日コースでのトレーニングはなしにしてもらえないかな……?」
「君のには及ばないけどな。トレーニングの件は……まあそうなると思っていたよ。だから今日はパソコンでジャパンカップの対戦相手の勉強だ。といってもオレがまとめたデータやレース映像を見てもらうだけなんだけど……ふわあぁぁ……」
お互い昨晩のことは言葉に出さず、スムーズにトレーニングへの話へと移行する。それにしてもトレーナーすっごく眠そう……
「……もしかしてほとんど寝てないんじゃない? 資料作ってくれてるなら私一人でも大丈夫だから、ちょっとだけでも寝たら?」
ポンポンとソファに腰かけた自分の膝を叩き、膝枕に使っていいよと提案する。それを聞いたトレーナーはもう襲いかかってくる眠気に耐えられないのか、自分のデスクからパソコンを持ってきてなんとか私の前に置いた。そこから倒れ込むようにソファに寝転がり、私の膝に頭を乗せ、スヤスヤと寝息を立てて眠りについた。
「お疲れさまトレーナー。私のためにありがとね」
左手でトレーナーの頭を静かに撫でながら右手でパソコンを操作し、トレーナーが作成した資料でジャパンカップで対戦するウマ娘たちへの対策を考える。
「……といっても基本はエスキーのマンマークでいい。最後スパートをかけるタイミングで他の子に邪魔されない位置を取っていれば」
『予想ペースはハイペース。ただ逃げ宣言しているウマ娘は出遅れ癖があり、もしその子が大きく逃げられなかったらミドルペースに落ちる』
特別登録の発表自体はまだ先だけど、G1、しかもジャパンカップのような大レースになればその前の段階で想定メンバーは各種新聞で発表される。もちろんそこから怪我や不調で回避するウマ娘もいるが、逆に想定時点で名前がなく、特別登録時点で名前が初めて出るような子が仮にいたとしても1人や2人程度。トレーナーに丸投げするのは申し訳ないけど、2人ぐらいであれば簡単に調べ上げられることができるから、全員の情報を頭に叩き込むのにそう苦労はしない。
「えーっと、それで今回一番注意すべきは……まあエスキーか。次に注意するのは……あー、この子か」
ありがたいことに資料は注意すべきウマ娘順に整理されていた。エスキーが当然一番最初で、その次に載っていた名前は今年トリプルティアラを達成したばかりのウマ娘のものだった。
「『ストラテジーバード。重バ場でも良バ場でも関係なく最後までしっかり伸びてくる末脚を持っている。未だ負けなしで今後マーク要』か。確かに桜花賞もオークスも、最後の秋華賞もキッチリ最後捉えて勝ちきったもんね……」
主役不在とされた重バ場の桜花賞を外から差し切り桜の栄冠を勝ち取ると、今度はパンパンの良バ場だったオークスを真ん中からつき抜けて樫の冠を掴み取る。そしてティアラ路線最終関門秋華賞では堂々とした横綱相撲を見せ見事にトリプルティアラを達成。史上最少キャリアでの栄光を掴み取ったウマ娘としてメディアでの取り上げられ方も凄いものになっている。
「あとのメンバーは……まだ対戦経験のない子たちもいっぱいいる。これはちゃんと勉強しておかないと……」
しっかり頭に焼き付けようと前屈みになりながらパソコンの画面をしっかり見つめ、脳に情報を注ぎ込む。前屈みになっていたせいで膝の上のトレーナーの頭を胸で押し潰していたことには、トレーナーが少し息苦しそうな声を漏らすまで気がつくことはなかった。
「これで全員分終わりっと……おーい、トレーナー? もう見終わったよー」
手で軽く体を揺らすも起きる気配がない。むしろ寝返りを打ち、見下ろす私の顔と直接相対するように上を仰向けに体勢を変えていた。
「もう外も夕焼けに染まってきたし、早くしないと真っ暗になっちゃうよーおーい」
自分の膝の上で安心して眠ってくれているのは嬉しいけど、早く帰らないとそもそもの門限を越えてしまう危険が出てくる。だからとっとと起きてほしいんだけど……あっ、そうだ。
「こうなったら……んっ……クチュ……ジュル……」
唇と唇を合わせるだけの優しいものではない。舌と舌を絡め合わせる深い形。もちろんトレーナーは眠りについているから私の舌がトレーナーの口の中を一方的にて蹂躙し、唾液と唾液が混じり合っていく。
トレーナーの顔を両手で押さえ貪るようにキスの雨を降らせる。流石にトレーナーも途中で目が覚めたのか途中から互いに舌を絡ませ合い、それにお互い息が続かなくなったところで唇を離すとお互いの舌と舌が透明な細い唾液の糸で繋がっていた。
「はぁ……はぁ……おい……もうちょっとまともな起こし方あっただろ……」
「はぁ……はぁ……いくら体揺らしても起きなかったトレーナーが悪くない……? というか途中からトレーナーも舌絡ませてきたじゃん」
お互いが肩で息を整えながらソファに横並びに座り直す。さっきまでの空気はどこへやら、すっかりいつもどおりの雰囲気に落ち着いていた。
「あれはだな……ってそんな話している場合じゃない。今何時だ?」
トレーナーは部屋をキョロキョロと見渡し時計を探す。私は目の前のパソコンのスクリーンセーバーを解き時間を確認する。
「18時前。早くしないとご飯一緒に食べられないよ?」
「早く片付けて家に戻るぞ……っていてて……」
勢いよく立ち上がったトレーナーが腰を手で押さえる。トレーナーもトレーナーで昨晩のアレで痛めてしまったらしい……あれ、これマズくない?
「……私思ったんだけどさ」
「どうしたエスキモー?」
事実を完全に隠し通せたとしても、当然その後の何が起きたかがバレてしまえば元も子もない。トレーナーとそのウマ娘とはいえ、男女が暗くなるまで密室で2人きり。部屋から出てきたと思ったら互いに腰を押さえて息も少し荒い。
「他の子にこの状況見られたら……終わるよね」
「……! じゃあ少しずらして出るか……数分遅れていくから先に家に入って夕飯の準備しておいてくれ」 「はーい……いてて……」
今日1つ勉強になったこと。ハッスルしすぎると体痛めていろいろ大変なことになる。
(とりあえずレース前は禁止かな……)
─────
その夜は久方ぶりにあの白い部屋の夢を見た。
(えーっと、電池、電池……確かこの辺りに……あった!)
おもちゃ箱をひっくり返したかのように辺り一面に散らばる物の山。前に見た夢の時より数が増えている気がする。
(こっちはレース年鑑? でこっちは……え、何このドロドロした液体……こっちはトレーニング教本で……)
地面をキョロキョロ見渡しながらもまっすぐに光が反射してキラキラ光る、まるで黒曜石のような色をした電池を拾い上げる。
(これで2つ目。あとはこれを嵌めてあげて……)
そう時計の元へと歩き出したその時、またもやプッツリと部屋が真っ暗になったかのように映像が途切れた。
─────
「よーし! ストライドしっかり伸ばして! 最後まで気持ち切らさない!」
ゴール板の前を力強く駆け抜けると、クールダウンのために少しずつペースを落とす。急にスピードを落とすと脚にも負担がかかる上に勢い余って倒れてしまう危険性があるから気をつけないといけない。
「ふぅ……タイムどう?」
「あぁ、文句なしだ。順調そのものだな」
ジャパンカップへの特別登録者が発表された翌日、私が腰痛でコースに現れなかったから、その次の日の朝の各スポーツ新聞は一面に『メジロエスキモー、体調不良か?』とか『2強対決に暗雲……?』なんて書き立てた。ただその新聞が発行されたその日には腰の痛みはさっぱり消え去っていたから、コースでのトレーニングにすぐ戻り、今日もまた順調に追い切りをこなすことができていた。
「今日はいっぱいいっぱいになるまで走ったから、来週は軽めでいいんだよね?」
「ああ。レースに疲れは残しておきたくないからな。レース直前は如何にして本番に100%の力を注ぎ込める体制を作れるかが肝だから」
トレーナーが10人いれば当然10パターンのトレーニングメニューがあるし、もちろんウマ娘もそれぞれ違う訳だから全く同じメニューになることはまずあり得ない。もちろん流行りの調整方法は当然あって、どうしても似通うことはあるけれど。
「ま、私はトレーナーの言うことを信じるだけだから」
「そう言ってもらえるとトレーナー冥利に尽きるよ。じゃあ汗流したらトレーナールームに集合な」
そう言って別々の方向へと歩いていく私たち2人。私はトレーナーの言うとおりにシャワー室に向かい、すっかり汗を洗い流すのと同時に、汗で冷えた体をシャワーで温める。
「あー、気持ちぃー……」
ちょうどみんながトレーニングを終える時間だったからそんなに長居することなくそそくさと立ち去り、トレーナールームへと向かう。シャワーを浴びた直後はホカホカだった体も、暖房が効いていない廊下を歩いただけで軽くヒンヤリと冷たくなっていた。そんな冷たい体を温めてくれる暖房が効いた空間を求めて、足早にトレーナールームへと駆け込んだ。
「やっぱり11月も真ん中過ぎたら寒くなってくるね……明日はお鍋にしよっかな」
「何鍋がいいかな……キムチ鍋もありだし、ちゃんこもありだな……」
2人暖房がかかった部屋でぴったりとくっつき明日の夕食のことを考える。ちなみに今日は茄子が安かったから麻婆茄子を中心にした中華料理の予定。もう作り置きしちゃっているから変更は利かない。ちょっと残念。
「……ってそうじゃなくてレースの話。このままお鍋の種類ひたすら挙げてくところだったよ……」
「危ない危ない……で、今度のレースの話だけど……昨日の資料はもう頭に入っているよな?」
昨日トレーナーが寝落ちしそうなところを耐えて作ってくれた出走予定者みんなの資料。エスキーを除いてもG1を複数勝ってる子、勝ってなくても繰り返して好走を続ける子ばっかり。どの子も一線級のウマ娘、ノーマークでいい訳はない。
「もちろん。見やすかったし分かりやすかったからスッと頭に入ってきたよ」
瞬発力勝負は苦手だけど、上がりがかかるレースなら上位に食い込んでくる古豪、逆に速いバ場こそポテンシャルを発揮できる子、直線一気を信条とする猛者。いろんなデータが頭の中を駆け巡っている。
「オッケー、分かった。もちろん誰がどんなウマ娘かなんてクイズするつもりはないから、隅から隅まで覚えておけとは言わない……ただ一番大事なのはどんなペースになるか。そこは逃げる子のことをしっかり頭に覚え込ませないと、まんまと逃げ切らせてしまうことになるからな。対戦相手はエスキーだけじゃない」
「分かってる。それで今回逃げそうなのは……この子でしょ」
まず私が手元の紙の資料をパラパラとめくり見つけたのが、前回の天皇賞ではハナには立てなかったが、常に前々でレースを運ぶベテランのウマ娘。出遅れ癖があるせいか逃げ宣言はしていないものの、スタートさえ上手く出られれば前でぐいぐいレースを引っ張りたいタイプだろう。
「正解。それと今回はもう1人。今までダートを使ってきた中唐突に芝のレース、しかもG1を選択したこのウマ娘だ」
さっきのウマ娘のページから再びペラペラと何枚か資料をめくり、トレーナーが指で指し示したのはまたしても古豪のウマ娘。
「しかもさっきの子と違って既に逃げ宣言をしている。もちろんいきなり芝のスピードについていけるのかの問題はあるが、仮に追走できた場合はかなりのハイペースになりそうだ」
「そうなってくれたら後ろが有利になる。それで今回は私は中団後ろでポジション取りするから、練習通り1000mから捲っていけば問題なく差せる……あの子がいなかったら」
そう、例えハイペースになろうとスローペースになろうと、残り800mぐらいから一気に前をぶち抜きちぎり捨てることができるウマ娘がいる。それはもちろん……
「……エスキーがいなかったら君はかの覇王のように年間無敗を達成できていただろうな」
手を組んで思い切り伸びをして、ハァとトレーナーは1つ大きなため息をつく。
「もう……無敗は確かに途切れちゃったけど終わった話でしょ。前回負けても今回勝てばいいんだから」
去年の有馬記念みたいに勝ち筋が全く見えない勝負じゃない。私のこの脚とトレーナーの頭脳さえバッチリ噛み合えば勝機は確実にある。
「……強くなったな」
トレーナーはそう言いながら、我が子を褒める親のように優しく私の頭を撫でてくる。なんだか子ども扱いされてるみたいで私はその手を優しく払い除けてこう宣言する。
「当たり前でしょ。貴方にとって一番強いウマ娘なんだから!」
だから負けない、負けられない。愛するこの人のためにも。勝利を必ずこの手に手繰り寄せてやる。
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