本編
+ | エスキーの凱旋門賞〜菊花賞 |
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10月某日、日本では毎日王冠や京都大賞典が行われていた日の夜、本来ならばとっくに就寝を促されているこの時間、多くのウマ娘が寮の休憩室のテレビを静かに見守っていた。もちろん寮長からは許可が出ている。
『──多くの日本のウマ娘たちが追い求め、そして破れてきた夢、凱旋門賞制覇。果たして今日我々はその夢が叶う瞬間を目の当たりにすることができるのでしょうか』
テレビから聞こえてくる実況に体がウズウズするのを必死に抑える。ただそれは周りのみんなも同じみたいで、隣に座っているカジっちゃん先輩も自分が走るレースの前みたいに緊張するのが見て取れた。そんな先輩と何より自分自身の体の強張りを解すために小さな声でそっと話しかける。
「カジっちゃん先輩、怖い顔になってますよ。もっとリラックスしないと」
「だってエスキーちゃん向こうでも一番人気なンスよ? それで負けちゃったらって思うと……」 「だったらもっと応援してあげないと! 私たちの緊張があの子に伝わって本領発揮できなかったらそれこそ後悔してもしきれませんよ」
そう自分にも言い聞かせるように先輩相手に説くと、カジっちゃん先輩は確かにそうスねと大きく深呼吸をして、にっこりと微笑む。
「よし、精一杯応援するッスよー!」
「おー!」
お互いの表情が柔らかくなったところで大外枠のウマ娘がゲートに収まる。
『──さあ我々の夢、日本の夢を乗せて。今年の凱旋門賞、今ゲートが開きました!』
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『今年は合計4人もの日本のウマ娘が参戦している凱旋門賞。現地でも堂々の一番人気に支持されているメジロエスキーは現在前から4,5人目の位置でレースを進めています。凱旋門賞3連覇を目指しますアクティヴィを見るような格好。重たい馬場も慣れた様子でコーナーを回り、偽りの直線、フォルスストレートに各ウマ娘差し掛かってまいります!』
日本と異なるコースの形状と脚元の芝。並のウマ娘ならそれだけで体力を持っていかれて最後に伸びる脚を残すことができない。ただエスキーなら、長期遠征でヨーロッパのコースや道中の流れに体を慣らしたエスキーなら……!
「行け……行けっ!」
私の想い、みんなの想いを乗せ、足取り軽く、表情も明るく最後の直線へと好位置をキープしたまま飛び込んでくる。
『──さあフォルスストレートを抜け最後の直線! 内ラチ沿いにオープンストレッチが設けられたこの直線、ここで先頭に立とうとするのは外から伸びてきたアイルランドのドレフトゥール! しかし内から3連覇は私のものだと言わんばかりにイギリスのアクティヴィが前を捉える! しかしさらにその内から日本のメジロエスキーが一気に飲み込まんと前に迫ってくる!』
残り200m、先頭まではあと1バ身。これなら……!
「行け!」「差して!」「伸びてきて!」「もうひと踏ん張り! 頑張りな!」
見守るみんなから次々とエスキーに向けてエールが送られる。それに応えるようにあの子は前に迫り……
「お願い! 勝って!」
『残り100m、ここでメジロエスキーが先頭に替わる! 外からフランスのフォレストゴーストも迫ってくるが先頭は替わらない! 今メジロエスキー、今先頭でゴールイン!!! 今、歴史に新たな1ページが刻まれました! 日本のウマ娘が初めて凱旋門賞を制しました!』
「「「「「やったー!!!!!」」」」」
拍手、拍手、そして鳴り響く大歓声。ゴール直前に立ち上がったままみんながみんな大偉業に対し祝福の言葉を贈る。普段はあまり話さない、今回たまたま近くの席に座った子同士が凄かったねと言いあいながら抱き合っていたり、中には感動のあまり泣き出してしまう子もいた。そんな歓喜のムードの中私はテレビの画面を見つめながら静かに拍手を送っていた。
そんな私の態度を不思議に思ったのか、いつもと違って周りの子たちと一緒に盛り上がっていたカジっちゃん先輩が私の方に静かに寄ってきて軽く私の方を叩いた。
「どうしたンスか、エスキモーちゃん? あまり盛り上がってないような……」
何かあったんじゃないかと気を遣ってくれた先輩に大丈夫ですよと伝えたあとこう続ける。
「素直に嬉しいんです、嬉しいんですけど、それより遠いところまで行っちゃったなって。もう届かないかもしれないと思うと、少し寂しくなっちゃって」
日本だけでなく海外のレース、しかも世界一決定戦と名高い凱旋門賞まで制してしまうなんて。初めて一緒に走った時から強かったけど、その強さは変わらないどころか成長し続けているんだなと思うと、私と彼女の距離が果てしなく遠くに感じた。
「テンションのアップダウンが激しい子ッスねー あのねエスキモーちゃん。確かにエスキーちゃんはすっごく強いッス。私たちのチームの中でも一二を争うぐらいに。ただエスキーちゃんも完璧じゃない、レースについてはよく分かんないッスけど、精神的にはまだ幼い部分もあるはずだから、そういった所をエスキモーちゃんが支えてあげれば今までよりさらに距離が近づくんじゃないッスかね? もしかしたらそれが実際のレースにも役に立つかもしれないッスし」
「……先輩みたいなこと言うんですね」 「紛うことなき先輩ッスよ!? まあそんな冗談が言えるなら大丈夫ッスかね。私は先に部屋に戻るから、落ち着いたらエスキモーちゃんも戻ってくるッスよ」
それじゃと言って手をヒラヒラと振り、カジっちゃん先輩は私たちの部屋へと戻っていった。
(あの子と私じゃ実力にまだまだ差がある。だけどカジっちゃん先輩が言うとおり、あの子に寄り添って、あの子を理解すれば何か変わるかもしれない。そのためにもまずは……)
携帯の画面を開き、メッセージアプリを立ち上げる。そして「メジロエスキー」と書かれた部分をタッチし、文字を打ち込む。
「おめでとう! また話いっぱい聞かせてね、っと。よし、寝ますか」
そう1人呟いて自分の部屋へと戻る。明日も早く起きるために、トレーニングを頑張るためにも早く寝ないとね。
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歓喜の凱旋門賞から2週間。息つく間もなく迫るブリーダーズカップターフに向けて準備を進めている最中、今朝はエスキモーちゃんが出走する菊花賞を見るために朝の準備もそこそこに日本からのレース中継を静かに見守っていた。もちろん昨晩寝る前に彼女には「頑張ってくださいっ!」とメッセージは送ってある。
(エスキモーちゃんのレースっぷり、楽しみに見させてもらいますよ)
本バ場入場が始まる。レースが始まるまであともう少し。
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「はぁ〜〜〜ふぅ……よし! 準備完了!」 「すっかりG1の雰囲気にも慣れたみたいだな」 「だってもう4回目だよ? 流石に嫌でも慣れるよ」
時は少し遡ってレース前の控え室にて最終調整を行う2人。ただお互いにG1独特の空気感にも馴染んだみたいで、終始リラックスしてレースへ集中力を高めることができている。
「ただ唯一違うのは……」
「1番人気ってところでしょ? しかも抜けた」 「そう。そこだけ気がかりだったんだが……その様子だと大丈夫みたいだな。実力、遺憾なく発揮してこい!」 「うん、じゃあ行ってくる!」
そう言って控え室を飛び出し地下バ道へと駆け出していく。胸は弾み、足取りは軽い。視界には一点の曇りもない。
(皐月賞勝てなかったダービーウマ娘は菊花賞勝てない? そんなジンクス、私が吹き飛ばしてみせるんだから!)
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本バ場入場も無事終わり、3コーナー手前のゲートの後ろに18人が揃ってレース前最後の時を過ごしていた。忙しなく歩き回る者、全く動かず精神統一を行っている者、初めてのG1の舞台に浮かれているのか辺りをキョロキョロと見回している者、十人十色の時間の使い方をしている。私は軽くストレッチを行いながら静かにゲートインが始まるのを待っていた。
(スタートはキッチリ決める、ポジションはいつも通り、仕掛けるのは坂の少し手前から。坂で惰性をつけたまま最後の直線に向かう……よし、バッチリ覚えてる)
頭の中でレースプランの整理。トレーナーと練り上げた作戦と鍛え上げたこの脚があれば私は負けない。
「それじゃあゲート入り始めまーす」
「よしっ、頑張りますか!」
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『──さあ枠入りが順調に進んでまいります。1番人気のダービーウマ娘、メジロエスキモーは2枠3番、2番人気神戸新聞杯2着のラピートは7枠14番へと収まります』
逸る気持ちを少し抑えて一度二度と深呼吸。
『──そして最後に大外18番イチノイチが収まり態勢完了……スタートしました!』
ゲートが開き各ウマ娘が一斉に飛び出す。出遅れはなく、一団のまま最初の3コーナーへと向かっていく。私は問題なくゲートを決め、スッと前から5、6人目の位置につけた。
(最初の坂では脚を使わずにこの位置をキープ。ホームストレッチに坂はないから体力も使わずに済む)
順調に4コーナーを回って大観衆の前を18人が通り過ぎる。
『──さあ長距離戦ならではの少しゆったりとしたペースですが、最初の1000mは1分2秒台、まずまずといった流れでしょうか。隊列はそれほど変わらず、先頭には5枠10番のプレジデントが立っております』
長距離だからだろう、それほど飛ばして後ろを突き放す逃げウマ娘もおらず、淡々とレースが進んでいく。2コーナーも過ぎ、遠く彼方に2回目の淀の坂が待ち構えているのを視界に捉える。
(この長丁場、まだまだ脚は溜まってる。後ろからも……一気に捲ってきそうな気配もない。なら……!)
『──さていよいよ2度目の淀の坂に各ウマ娘突入していきます。ここで徐々にペースが上がってきたか? まもなく残り1000mの地点を通過します!』
右側に「10」と書かれたハロン棒が見えたのを確認すると少し深呼吸して数を数える。
(1……2……3……4……5。よし、今だ!)
『──さあまもなく坂の頂上を迎えますが、おっとここで動いたのはメジロエスキモーか!? 4、5番手から前に徐々に接近していきます!』
周りのウマ娘たちが静かに息を飲む声を耳でしっかりと捉える。もちろん彼女たちも驚くだけであとは手も足も出ないようなそんなウマ娘ではない。私に釣られて各ウマ娘たちが一斉にスパートをかけ始める。下り坂で勢いをつけた者たちが4コーナーから最後の直線へとなだれ込んでいく。
『──今年の菊花賞最後の直線を迎えます! 先頭はまだプレジデントですが、外からメジロエスキモーが捉える捉える! ここで先頭が替わりました! その内から迫ってくるのはプレミアムコスモ、ラピートですが……』
残り600mを切ってからは完全に私にとって未知の距離。だけど、残り300mを切っても脚は全然残っている。息は乱れているけど倒れ込みたいほどではない。
(最後の一冠も私がもらうんだから……!)
『──残り200mを切って抜け出しているのはメジロエスキモー! 外から各ウマ娘追ってきますが差が詰まらない! 今年もメジロだ! メジロエスキモー、今1着でゴールイン! 菊の勲章は譲らない! 去年に引き続き菊花賞はメジロのウマ娘が制しました!』
脚が重い、呼吸が苦しい、今すぐ芝生に横たわりたい。だけど、だけど、勝者は前を向かないと、大観衆のエールに応えないといけない義務があるんだから。
乱れた呼吸を整え、再び観客席の前へと戻ってくる。スタンドの前で少し立ち止まって、より一層大きくなった歓声に大手を振って深々と一礼。再び駆け出すと勝者の特権たる観客席のすぐ横を通って地下バ道へと抜けていく。もちろんファンのみんなが上げる歓喜の声には腕が千切れてしまうぐらい大きく手を振って感謝の想いを伝える。
観客席が見えなくなり、少し暗い地下バ道の中に入ると、目の前にはいつものようにトレーナーが待ってくれていた。それを見た私は勢いよくトレーナーの胸の中に飛び込み感謝を伝える。
「ありがとうトレーナー……私、勝ったよ!」
「おめでとう、エスキモー。最高だった」 「キラキラしてた?」 「ああ、とても眩しかった。本当におめでとう!」 「えへへ……もっと褒めてほしいな……」
そう言ってトレーナーの胸に顔を埋める。そんな私のお願いを聞いてくれたトレーナーは抱き締めながらいくつもの褒め言葉をかけてくれた。
「……っと、そろそろ戻らないと表彰式とかウイニングライブに間に合わなくなるな。急ぐぞ」
「あっ、もうそんな時間?」
ハッと顔を上げ、トレーナーから体を離し急いで控え室へと戻る。遅れちゃう遅れちゃうと焦りながら駆けるその姿はレース前と変わらない、颯爽とした足取りをしていた。
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レース中継が終わった。勝ったのは当然エスキモーちゃん。臨戦過程といい、これまで一緒に走っていた感じといい、そしてレース前に交わしたやりとりといい、懸念点は全くなかった。当然というより必然と述べた方が正しいだろうか。中継を見たのはその確認作業に過ぎなかった。
手に持った携帯で祝意のメッセージを送り、電源を押して画面を消す。そして椅子に座ったまま静かに一考。
(元々今年の有馬記念で競走生活に幕を下ろして元の姿に戻るつもりでしたが……今日のレースを見たらもう少し走りたくなっちゃいましたね。ドーベル姉さまにはまだ迷惑掛けちゃいますけど……)
そしてもう一度携帯のメッセージアプリを立ち上げ、今度はタキオンさんにメッセージを送る。
──来年も引き続きよろしくお願いします、と。
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ウイニングライブも終わり、新幹線に乗って帰宅の途についた私たち2人。すっかり外も暗くなり、学園近くに着くのは門限をとっくに過ぎた時間だった。もちろん関西圏でのレースに出る以上、ある程度遅くなるのは問題ないんだけど。
「学園に戻ってきたねー 今日1日長かったなあ」
「菊花賞を勝ってクラシック2冠ウマ娘になって、みんなから祝福されて……今のところ順調だな。もちろん皐月賞勝てたらよかったんだが、今更うじうじ言ってもしょうがないしな」 「そうだよ〜 反省はしてもくよくよしない!」
胸をバンと張って、もう悩んでないよアピールをトレーナーに見せつける。それを見たトレーナーはハハハと声を出して笑う。
「オレの心配しすぎだな、すまん……ああそれで今晩なんだが……泊まるか?」
「……あっ、G1勝ったからトレーナーの家泊まれるんだった」
トレーナーに言われて思い出した。そういえば約束してたんだったね。夏前の話だったし練習も忙しかったしですっかり頭から抜け落ちていた。
「私外泊届出してないんだけど……もしかしてトレーナー出してくれてた?」
「当然。菊花賞の出走が確定したタイミングで出しに行ったよ」 「ちょっと待ってね……つまりそれって……」 「菊花賞、君が絶対勝つと信じていたから」
暗くとも分かるその堂々とした表情と凛とした声。そんな勇ましい姿と声の情報が脳に届くやいなや、思わずトレーナーのことをギュッと抱き締めていた。
「トレーナー、大好き!」
「オレもだよ。さあ家に帰ろうか」 「うん!」
そう言って再び2人仲良く歩き出す。今度は学園ではなくトレーナーの家に向かって。
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「はぁ〜〜、こんな時間にトレーナーの家にいるのってすごく久しぶりかも」
途中のスーパーで買ったご飯を済ませてからお風呂に入り、リビングのソファでほっと一息をつく。ふと見上げると時計の針がもうすぐ21時を指そうとしていた。
「やっぱりトレーナーの家って落ち着くな……」
そう言いながらソファに横になる。トレーナーはまだお風呂から上がってきていないから今だけ私が独り占め。
クッションを1つ胸元に抱え込み、仰向けになって天井を見つめる。
「これでG1を2つ勝ったんだよね……しかも人生で一度しか走れないクラシックのレースを2つも……」
目を閉じると、今までの走ってきたレースが瞼に浮かんでくる。緊張しっぱなしのデビュー戦、初めて負けたホープフルS、そして日本ダービーで掴んだ栄光。本当に楽しかったな。
「……ってなに勝手に終わらせようとしてるのよ私ってば。まだ今年レース残ってるんだから」
そう言ってパッと立ち上がったタイミングでトレーナーが洗面所からリビングへと戻ってくる。最後の言葉だけ聞こえていたみたいで、ソファに2人して腰掛けると次のレース、今年最後のレースについて話し始めた。
「菊花賞も終わってクラシック級の子たちだけが出る大レースはもうない。これからはシニア級の先輩たちとぶつかることになる。そこはいいな?」
「うん、大丈夫」 「それで今年あと何出ようかって話だけど、候補としては一応4つある。国内ならジャパンカップ、有馬記念、海外なら香港カップか香港ヴァーズ。もちろん天皇賞も出られるんだが……」 「来週だもんね」
そう、シニア級と先輩たちと戦える機会自体はダービーの翌週から存在した。それこそ宝塚記念だってクラシック級の子は出走できるし、私の適性からは外れるんだけどスプリンターズSもクラシック級の子たちとシニア級の先輩たちがぶつかる大きなレース。それに秋の天皇賞は2000mという中距離レースだから、実力はあるけど長い距離に不安がある子たちはサートゥルヌスさんみたく菊花賞を避けてこのレースに挑むというローテーションを組むことも最近多いみたい。
「出られるなら出たいけど、G1を連闘、しかも3000mを走ってすぐにレースを使うのは狂気の沙汰だ。もしエスキモーが出たいって言ってきてもオレは絶対に止めていたよ」
「流石にそれは杞憂なんじゃないかな……」
ある程度体が丈夫な自信がある私でもそんな真似は流石にできない。オグリ先輩とかじゃないんだしさ。もちろん言ってこないだろうと分かった上でのさっきの4択だったんだろう。
「それでトレーナーはどれがいいと思ってるの?」
「少なくともいきなり海外でっていうのはリターンは大きいがリスクもそれ以上に高い。香港カップは2000m、香港ヴァーズは2400mと日本だけじゃなく現地や他の地域からの有力なウマ娘たちが揃うとあってレベルが高いからな。もちろん国内の方がレベルが低いと言うつもりは微塵もないが」 「ということは国内のどっちかってことね。まずジャパンカップは東京の2400m。ダービーで同じ距離を走ったし、経験値としてはこちらの方が明らかに上。ただ1ヶ月後なのがネック」 「そうだ。そしてもう1つが有馬記念。ジャパンカップとは真逆で舞台は中山2500mと全く未経験の距離だがあと2ヶ月もあるから、コースの勉強や今日のレースの回復、そしてシニア級と競っても負けないための強化トレーニングをする時間も十分にある。さあどうする?」
ここまで言っておいて最後は私に決めさせるのかと少し呆れつつも私なりに考えた結論をぶつける。
「それなら……有馬記念かな。ここで新しいコース形態を味わっておけば来年にその経験を活かせるだろうし」
得意なコースで絶対に負けないというのも1つの王者の形だろう。ただ私はあらゆるコースを経験し、制するのも王者の1つの形だとも思う。だから私は有馬記念に挑戦する。
その力強い言葉を聞いたトレーナーは少し頷き、早速スケジュールの中で有馬が目標レースだと書き加える。私の勇気の証をしっかりと記していた。
「……よし! じゃあ明日はトレーニング休みだから明後日から始めるメニューを2人で考えるとして、今日は疲れたから寝るか!」
欠伸をしながら背筋をぐーーーっと伸ばすトレーナー。私もそれに釣られてふわあと欠伸が口から漏れる。トレーナーはそんな私の手を取って寝室へと連れて行く。
「今日は頑張ったしぐっすり眠れそう」
1つのベッドに並んで向い合う形で横になり2人語らう。部屋の灯りは完全にではなくとも相手の顔が認識できる程度に暗く落とされていた。
「朝早かったしな。どうする? 明日休みでここでトレーニングの話してもいいけど」
「流石にレースの次の日毎回休むのはクラスの委員長としてどうかと思うし……気遣ってくれてありがと……んっ」 「んっ……分かった。だったら寝坊はするなよ? オレ起こさないからな?」 「起こさないじゃなくて起こせない、でしょ。いつも私の方が起きるの早いんだから」 「そうとも言う……じゃあそろそろ電気消すか?」 「うん、お願い」
手元のリモコンで部屋の照明を完全に落とし、室内は真っ暗になる。ただ手を伸ばせばすぐそこにトレーナーがいる。
そしてまるでお互いが示し合わせたかのように距離を縮め、互いの腕の中に体を収める。
「おやすみ、トレーナー」
「おやすみ、エスキモー」
──2人とも幸せそうな笑みを浮かべながら静かに眠りに落ちていく。今日という素晴らしい1日に幕を下ろし、また明日という未知の1日の幕を上げるために。
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+ | サートゥルヌスの天皇賞・秋〜有馬記念 |
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菊花賞の翌週、東京レース場にて行われたG1、天皇賞(秋)。ホープフルSや皐月賞、そして前走の神戸新聞杯で見せたパフォーマンスによりクラシック級ながら2番人気に支持されたものの──
『──人気のサートゥルヌスはここから……伸びない伸びない! 今1番人気の……が先頭でゴールイン! 2番人気のサートゥルヌスは6着に敗れました!』
2強対決とも呼ばれたこの一戦、サートゥルヌスさんはこれまでのパフォーマンスが嘘みたいに最後の直線で伸びあぐね、掲示板をも外す6着に敗退した。
レース後控え室を尋ねるとやはり肩をがっくりと落とし項垂れていた。自信があったのにという気持ちが言葉を交わさずとも伝わってくる。お疲れさまの気持ちと応援ありがとうの気持ちを互いに伝えあったあと、自然と2人の次走の話になった。
「エスキモーさんは次有馬記念だっけ?」
「そう。流石にジャパンカップはレース間隔狭いかなってトレーナーと相談して。距離は菊花賞勝ったから大丈夫だと思うし」 「そうか。僕もまだトレーナーと相談している段階だけど、次は有馬記念にしようかと思っているんだ」 「えっ、そうなの。距離は……」 「2400mは克服できたし、2500mも大丈夫だと思う。実際走ってみないと分からないけどね」
ダービーの敗戦により距離適性が疑問視されていたサートゥルヌスさんだったけど、神戸新聞杯の楽勝っぷりに再び適性が見直された今、100mの延長にはなるが有馬記念の距離もおそらく問題ないと思う。特に有馬のコース形態ってコーナー多くて息入れやすいって聞いたことあるし、もし距離に不安があっても大丈夫なんじゃないかな。
「そっか。だったら次で4回目だね」
「ああ、今はまだ僕の2勝1敗。突き放せるか追いつかれるか、とても楽しみだ」 「こちらこそ楽しみにしてる。お互い全力をぶつけよう」 「もちろん!」
そう言ってガッチリと握手を交わす。強いライバルとの再戦、これほど心が躍るものはなかなかない。来月のレースがとても楽しみになってきた。
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有馬記念に向けたトレーニングに明け暮れる日々。そんな中でまた海外から偉業達成の報告が舞い込んできた。
『──日本のメジロエスキー突き放す! 初のアメリカでのレース、初めてのブリーダーズカップの舞台も全く問題にしないまま今先頭でゴールイン! 見事日本のウマ娘で初めてブリーダーズカップターフを制しました!』
またもや彼女が新たなる記録と記憶を刻みつけた。まさに縦横無尽、天下無双。日本海外問わず常に先頭でゴールを駆け抜けるその姿はまさに世界最強。果たして次に駆けるのはどの舞台なのか、世界中がその一挙手一投足から目を離せないでいた。
テレビ中継を見て彼女に「おめでとう」とメッセージを送ると、数分後には既読の表示がつき、その直後に返事が返ってきた。
「『あとで電話してもいいですか?』って。時間もあるし……『少し寄るところあるからもうちょっとしてからでいい』っと」
そう返事をして寮の休憩室から自室へと戻る。もう9時だっていうのに部屋のカーテンは閉め切られ、カジっちゃん先輩はぐっすりと惰眠を貪っていた。そんな先輩のだらしない姿にハァ〜と1つ溜め息をつき、容赦なくカーテンを開け、部屋に眩しい光を取り込む。
「はいはい、とっくに朝ですよ、カジっちゃん先輩。早く起きてください」
「嫌ッス……まだ寝てたいッス……」 「布団に籠もろうとしない! 小さい子どもですか!」 「布団剥がさないでほしいッスぅ……」
どこかでやったような布団の引っ張り合いに難なく勝利し、ベッドから先輩を追い出す。不満げながら朝の支度を始めた先輩の姿を視界の端に捉えながら急いで着替えて出かける準備を進める。
「もう1人のねぼすけさんも起こしに行かないとだからね!」
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トレーナーの家に着くと、寝室へ直行しまだ暗い部屋で横になっているお寝坊さんをさっきのカジっちゃん先輩と同じ要領でたたき起こす。モゴモゴ何か言ってたような気がしたけど聞こえないふりをして、急いで2人分の朝食の準備を済ませる。
「おはよう……今何時だ……?」
「もう10時前! エスキーとここで電話するから先食べてるよ」 「おう、そうか……顔洗わないと……」
そう言ってスリッパを引っ掛け相変わらずのそのそと洗面所に向かうトレーナー。ただ洗ってスッキリした顔はシャンとしててかっこいいんだよね……なんか腹立つなあ……
「ごちそうさまでしたっと。あっ、トレーナーちょうどよかった」
「ん、どうした?」 「食器洗いだけお願いしてもいい? あの子にまだかってせっつかれてて」 「もちろん。任せとけ」
急いで歯を磨き、髪が跳ねてないか鏡で確認して準備万端。再びリビングに戻ってソファに座り、ひと息ついたところで電話をかける。
『あっ、もしもしエスキモーちゃん?』
「おはよう……じゃなくてそっちはもう夜なんだっけ」
フランスとアメリカ西海岸じゃまた大きな時差があるから、向こうが今何時なのか頭の中がこんがらがってしまう。
『はい、今夜の8時ぐらいですね。レースも終わってわたしも家でゆっくりしていたところです。姉さまは2人で話したらって気を遣ってくださって、今は寝室に引っ込んでますね』
「ってそうだ。エスキー、ブリーダーズカップターフ優勝おめでとう! 相変わらずかっこよかったよ」 『そこは可愛かったじゃないんですね……でもありがとうございますっ! やっぱりこうして顔を見て言ってもらえると嬉しさが倍増しますねっ』 「そう言ってもらえたら応援する方も嬉しくなるよ……それで話したいことってなに?」
そう、あくまでも優勝のお祝いは前座。エスキーが海外で勝つたびにこうやって通話してたからいつものことではあるんだけど、エスキーの方から「話したいことがあります」と言われて通話をするのは珍しい。
『そろそろわたし日本に帰ろうかと思いまして。明日にでもフランスに戻って部屋の片付けをするつもりなんです』
「そうなんだ。じゃあこれで海外遠征は一旦終了ってこと?」 『そうですね。これだけ多くのレースを勝たせてもらえましたし、日本に戻って半年ぐらい体を休めるつもりだったんですが……』 「……ですが?」
何か気が変わったのだろうか。少し深呼吸をしたあと意を決したように話を続ける。
『先月のエスキモーちゃんの菊花賞見ました。本当に凄かったです。去年最後に走った時よりまるで別人のように感じました』
「あ、ありがと……前も祝ってもらったけど、こうして改めて褒められると照れるね……」 『その後、というより今日わたしはまた大きなレースを勝ちました。今日本に戻っても十二分に力を発揮できると思います』 「そっか……えっとそれで結局何が言いたいの?」
話があまり掴めきれない中エスキーは再び話を切り、そしてこう言い放つ。
『来月の有馬記念、わたしも走ります』
目がおかしくなったのかと思い目を擦り、耳の不調かと思って少し耳をトントンと軽く叩いて音が聞こえるか確認する。全ての感覚が正常なことを確認したのち、もう一度彼女の真意を問う。
「さっき言ったことはほんと? 嘘じゃないよね?」
その問いに彼女はまっすぐ私を見つめ真剣な表情でこう答える。
『はい。来月末の有馬記念、わたしも出ます。一緒に走るのを楽しみにしてますね』
「そっ、か……うん分かった。教えてくれてありがとね。まだこれってトレーナー以外に言わない方がいい?」 『そうしてもらえると助かります。日本に戻ってから他の皆さんに報告するつもりなので』 「……うん、じゃあ日本に戻ってきたら今度は直接顔を見て話そうね。おやすみ、エスキー」 『エスキモーちゃんも体に気をつけてくださいね』
そう言って互いに通話終了のボタンを押すと、携帯がメッセージ表示の画面を映し出す。私は天井を見上げ、何秒間か静かに見つめる。そんな私の様子を気にして、手早く食事を済ませ食器を洗い終えたトレーナーが私の隣へと腰掛ける。
「最後の話は聞こえていた。エスキー、有馬に出てくるんだってな」
その台詞に天井を見つめていた視線をトレーナーの方に向ける。ただ見つめる先は彼の顔ではなく少し下、ちょうど胸の辺り。
「あの子ずっと海外にいるものだと思ってた。だから今度のレースもサートゥルヌスさんとの一騎打ちとばかり考えてたの……あっ、もちろんシニア級の先輩たちのことも頭に入れてたよ!?」
「オレも同じだ。仮に日本に一旦戻ってくるにしてもそれこそ香港に向かうものだと思っていたよ。それがまさか日本の、しかも君が走る有馬に矛先を向けてくるなんてどうして……いや、理由を考えてもしょうがない。どうやって彼女に勝つか、それだけを考えよう」 「そう、だね……」
真意を問うのはそれこそレースが終わってからでも遅くない。今は新たなる強敵をどう倒すか頭を捻りに捻って考えるだけ。それだけなんだから。
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通話を切った後ふうっと息を吐き出し、ピンと張っていた緊張の糸を切り落とす。
(やっぱり驚いてましたよね、エスキモーちゃん。あの様子だとレースで一緒に走るなんてないと思っていたはず)
そう、わたしもそう思っていた。ただあの走る姿を見てから脚のうずうずが止まらない。今日のレースが終わってもそれは変わらなかった。
(すなわちあなたと同じレースを、真剣勝負をやらないと解消されないということ。勝とうが負けようがどうでもいい。わたしはあなたと走りたいんです)
──そう、わたしのライバルであるあなたと。
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あの衝撃の知らせからもう1、2週間が経過した。言っていた通りパリでの居住地からさっさと撤収し日本へ帰国したエスキーは記者会見を開き、これからの競走生活についてこう語った。
『次走については有馬記念を予定しています。流石に疲れちゃったので香港には向かいません。来年ですか? 来年は長めに休養を挟んでから復帰しようと考えています』
まさにあの日私に伝えたことをそのまま口にしていた。その記者会見の様子は全国で放送され、世間では凱旋門賞ウマ娘が日本でまた走ると大騒ぎになっていた。私が2冠を獲ったことなど忘れてしまったように。
もちろん世間に振り回されてトレーニングが疎かになってはいなくて、今日も家でトレーナーとともに有馬の作戦会議を開いていた。
「知ってのとおり例年強豪が集まるこのレース、今年もクラシック級からだけでも皐月賞を勝ったサートゥルヌスさん、そしてダービーと菊花賞2冠のエスキモー、菊花賞2着のプレミアムコスモさん、クラシック3冠とも好走を続けたラピートさんらが出走する」
「それに加えてシニア級の先輩たちもたくさん出てくるんだよね」 「ああ。ただこの1年での成長っぷりを考えると十分に勝機はある……本来ならね」
そう言ってパソコンの画面を切り替え、彼女のデータを表示させる。そう、同じメジロの一員にしてここまで無敗の凱旋門賞ウマ娘、メジロエスキーのものを。
「エスキー、か……」
「約1年彼女は海外に拠点を移し、主に欧州のレースを走ってきた。当然ペースメイクや走り方についても欧州仕様になっているから日本の速い流れに対応できるのかという懸念はあった……この前のブリーダーズカップまでは」
コース全体のアップダウンだけでなくコースの形状までもが日本と大きく異なる欧州のレース場。元々は貴族たちの遊びから始まったことから、貴族たちの庭や広々とした草原の中にコースを設定したものが現代においてもそのまま使われている。もちろん自然をそのまま使っている影響で少し小高い丘も走る訳だから、高低差数十mのコースも普通に存在する。エスキーもそれに合うように走り方も現地のトレーニングで変えていき、あれほどまでの戦果を残してきた。裏を返せばトレーナーの言うとおり日本のような設計されたコースの適性が低くなっていると思われていたんだけど、この前のレースでその懸念は完全に払拭された。
「アメリカのコースは日本と同じで作られたコースなんだよ。それでいてアップダウンもないからペースが流れやすい。当然完全にヨーロッパナイズされていたらペースに置いていかれる可能性もあったんだけど……」
「むしろ完勝。コース形態の違いなんて意に介さなかった」 「そう。もちろん日本に戻ってきたら学園の施設で調整を行う訳だし、何せ元々は日本で走っていたんだから難なく対応するだろう」
そう言うと一度言葉を切り、画面から目を外し天井を見つめるトレーナー。そして再び話を続ける。
「彼女はストロングポイントといえばなんといってもあの終盤の加速力。道中他のウマ娘がどう動こうと冷静に好位でレースを進め、ラストスパートで瞬時に先頭を捉え後続を突き放す。仮に追いすがるウマ娘がいても二の脚を使って差を詰まらせない……」
「まさに鉄板ってことね……」
私の返しにトレーナーは少し唸り声を上げ、両手で顔を隠す。どう対策すればいいのか、これまでいろんなアドバイスを授けてくれたトレーナーも途方に暮れているようだ。
「揺さぶりをかけて掛からせようにも全く動じない。彼女の前に立って先にスパートして粘り込みを図ろうにもスラリと交わされる。後方待機で一気にぶち抜こうにも最後は同じ脚色になって届かない……」
「横でマークしようにも加速力の違いで相手にならない……」
2人して対処法がまるで思いつかないまま時間だけが過ぎていく。結局辿り着いた結論としては、なんとか本番までに彼女以上の加速力と最後までトップスピードを保つスタミナを強化するという、懸念が何も解消していない対策だった。
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そうやって先が見えずともトレーニング自体は止めることなく続けている。そのおかげかタイムも以前に比べて縮まっており、一歩一歩成長しているのは確かだ。ただ壁があまりにも高すぎるんだけどね。
そんなある日、トレーニングの合間にようやくマスコミ対応や復帰の手続きが一通り片付いたのかエスキーが声をかけてきた。こうやって顔を直接見て話すのは一体いつぶりだろうか。
「お久しぶりです、エスキモーちゃん。日本に帰ってきてからなかなか忙しくてごめんなさい」
「いいのいいの、エスキーが謝ることじゃないから。それでようやく落ち着いたって感じ?」 「ですです。ずっといつトレーニングに入れるか楽しみにしてましたっ。もしよかったら1本目付き合ってもらっていいですか?」
そう聞きながらも既にいちにっいちにっと準備運動を始めているエスキーを止めることができず、いいよと彼女に伝える。その返事を聞いたエスキーはキラッキラでニコニコな表情で
「ありがとうございますっ! 日本に帰ってきて最初に走るのはエスキモーちゃんって決めてましたからっ!」
と答えた。そんな彼女を見て今更断ることができようか、いやできない。私も彼女に合わせて軽くストレッチをし、併走のスタート位置へと向かう。
「距離はどうしよっか。とりあえず1周ぐるっと回るだけでいい?」
「大丈夫ですよっ! 最初だから軽めですけど、それでもエスキモーちゃんには負けませんからねっ!」 「おっけ。じゃあタイマーセットしてっと。それじゃ位置についてー」
外ラチの外側にタイマーをセットした携帯を置き、構えたエスキーの少し隣でスタートを待つ。
ピッ
ピッ
ピッーーー!!!
2人勢いよく飛び出す。互いに出遅れはない。最初は横並びだった隊列が1コーナーを左に回る頃には崩れ、エスキーが前、私がそのすぐ後ろに位置取る態勢になった。
(今日は今のエスキーの実力を確認させてもらうだけ。本気は出さない!)
トレーナーの分析力も若手トレーナーにしては見事なものだけど、エスキーの能力はウマ娘ながらその上を行くもの。容易にここで力を出してしまっては今度のレースでより勝ちにくくなってしまう。
そんな私の意図は気にしない様子で本番一歩手前ぐらいの速度感で引っ張っていくエスキー。後ろを振り返ることなく第2コーナーから向こう正面を通り過ぎていく。差は1バ身から2バ身ほどだろうか。当然だが追走に苦労することはない。
そのままのペースで迎えた第3コーナー。いつもならもう仕掛けてもいいんだけど、先に動いて情報を渡すのはどうかと躊躇し、エスキーが動くのをじっと待つ。それに感づいたのか彼女は後ろをちらりと振り返ると足を踏み込み一気に加速していく。
(これがあの子の加速力……! よしじゃあ私も!)
3、4コーナーの中間地点で差が一気に広がる。もちろんこのまま何もしなければ併走の意味がないから、私も負けじと前へと食らいついていき、差が3、2バ身ほどに縮まっていく。そしてそのまま4コーナーを回り最後の直線へと向かう。
(もしかしてこのまま……いやあの子には二の脚があるんだから……)
そう甘い考えを一瞬のうちに切り捨てた刹那、予想通り彼女は大きく足を踏み込み再び私との差を広げにかかる。私はそれを全力を出さない程度に追いかけていくも、前との距離は詰まることなく2バ身ほどの差を保ったままエスキーが先にゴール位置を駆け抜けた。
「ハァ……ふぅっ! よしっ、エスキモーちゃんありがとうございましたっ!」
「ハァハァ……私の方こそありがとね。久しぶりに一緒に走れて楽しかった!」 「わたしもすっごく楽しかったですっ! これで有馬記念に向けて本格始動、ですねっ!」 「そう、だね。本番楽しみにしてる」 「わたしもですっ! ではわたしはこの辺りで失礼しますねっ!」
コースを去っていく彼女の背中を静かに見つめながら、想う。
(来月あの子と再び走る。今度はレース場で、G1の舞台で、本気のあの子と)
最後に交わした笑顔は果たして心からのものだったのだろうか。真意を少し測りかねているけど、出てきた楽しみだという言葉は真実だと信じたい。
(トレーニング、頑張らなきゃな……)
そう心の中で呟き、再びコースを駆ける私の姿を夕焼けがコースの芝生に影として落とし込んでいた。
─────
迎えた有馬記念当日の朝。ちょうど冬至の日と重なり、1年で最も太陽の出る時間が短い日。なぜか思っていたより緊張はしておらず、昨日の夜もすぐに寝つくことができた。もしかしたら菊花賞までより重いトレーニングから来る疲れのせいかもしれないけれど。
外はまだ暗いものの、とりあえずいつものルーティーンとしてカジっちゃん先輩を起こし、朝の支度をしてからトレーナーの家へと向かう。校門を出る際に誰かとすれ違った気もするが、急いでいたので特に振り返ることもなくゆっくりと駆けていく。
「トレーナー! もう朝だよ!」
鍵を開けて夏の頃より布団への執着が強くなったトレーナーから布団をなんとか引き剥がしベッドから引っ張り上げる。今日はレースなんだから早く頭をシャキッとさせてもらわないとね。
トレーナーが朝の支度をしている間にささっと朝ごはんを作ってしまう。レース当日でも特にメニューを変えることなくトレーナーと一緒にご飯を食べ、普段通りに1日を始めることが私にとって1番大事なことかもしれない。
そんなことを考えながらリビングに戻ってきたトレーナーと一緒に配膳をしていただきますと手を合わせる。レースのことは話さず、昨日やってたテレビのことや今SNSで流行っていることなど、他愛もない話で2人盛り上がる。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした。片付けて歯を磨いたらレース場に向かいますか」 「よし、気合いも十分だな。目の下にクマでもできていたらどうしようかと思っていたよ」 「心配しすぎ。その心配の割にトレーナーはぐっすりだったみたいだけど?」 「いつもどおりってことにしてくれ」
2人で食器の後片付けと歯磨き(もちろん横に並んで磨く形ね)をして、出発の準備もささっと終わらせてレース場へと向かう。
──気力も体力も申し分ない。あとは彼女に勝てるかどうか、ただそれだけ。
─────
問題なくレース場に辿り着き、控え室へと入る。勝負服への着替えも済ませ、あとはレースまでの時間をゆっくりと過ごすのみになった。
「お互い頑張りましょうね、っか」
「エスキーからか?」 「うん。流石に会いに来ることはしなかったみたい」
メッセージアプリを立ち上げると1番上に表示されていたのは「メジロエスキー」の文字。それをタップしトークルームを開くと、これまでのやりとりがずらっと縦に並んでいる。
「レース前でも特に変わらずいつもどおり。当たり前だけど緊張してる様子はなかった」
「相手も十二分に力を発揮できる状況ってことか。天気がいいから当然バ場状態もいい。小細工無用の真っ向勝負になりそうだな……苦しい戦いになるぞ」 「……分かってる。この1ヶ月間そのつもりでトレーニングやってきたんだから」
軽いジャブにも動じない私の様子を見て安心したのか、フッと息を吐き出し座っていた椅子から立ち上がる。
「そろそろ時間か。いつものアレ、いるか?」
「もちろん。はい、トレーナー」
私も椅子から立ち上がり、両腕を横に広げる。そこにトレーナーが近づいてきてそっと私の体を抱き締めた。腕が背中に回るのを確認して私もトレーナーの背中に腕を回す。
「エスキモーなら大丈夫。オレは君をその実力を信じているから、安心して走ってこい」
「ありがと……頑張ってくるね」
しばらく黙ったまま抱き締め合う。お互いが満足したところで体を離し、私は1人ドアの外へと駆け出していく。
(負けない。エスキーにもサートゥルヌスさんにも。勝ちたい気持ちは絶対私の方が上なんだから!)
──まもなく華やかな舞台の幕が上がる。勝利の美酒を味わうのは一体どのウマ娘なのか。それは神のみぞ知る。
─────
『さあ今年も有馬記念がやってまいりました。毎年豪華なメンバーが出走いたしますこのレースですが、今年は例年を上回る豪勢なメンバー構成。なんとG1ウマ娘が10人も登場いたします!』
本バ場入場後皆がゲートの後方へと集まる。その顔ぶれは実況のとおり誰もが知っているウマ娘ばかり。G1勝ちではなくとも重賞を複数勝っていたり、G1で幾度となく好走をしたりと1年を締めくくるにふさわしいメンバー構成となっている。
『その中でも現在1番人気なのは、皆さんご存知日本で初めて凱旋門賞を制したウマ娘、メジロエスキー!』
発走地点からは画面の後ろを見る形となり直接見ることができないが、ターフビジョンにはエスキーの姿が映し出されたのであろう。大歓声がスタートの位置まではっきりと届いている。
『そして続く2番人気はこちらも皆さんご存知、今年のダービーと菊花賞の2冠を勝ち取ったメジロエスキモー! 初のシニア級との対戦、どのような走りを見せてくれるのか非常に楽しみです! 続く3番人気は──』
1人1人順番に実況に名前を呼ばれ紹介を受ける。もちろんこの私を入れた16人の精鋭たちはその歓声に動じることなく静かにレースの始まりを待っていた。
─────
『──さあ枠入りが進んでまいります。まずは奇数番号のウマ娘から次々とゲートに収まりまして、今5枠9番にメジロエスキモーが入りました』
今のところこれといった問題点はない。緊張もキツくもなく緩くもない、100%実力を発揮できるまさに完璧な状態。
(あとはスタートをミスらずに中団につける。スパートの場所さえ間違わなければたぶん、きっと……)
『──3枠6番にメジロエスキーが収まり……5枠10番には3番人気のサートゥルヌスが入ります』
「よろしくね、エスキモーさん」
「こちらこそ。楽しいレースにしようね」
隣の枠に入ったサートゥルヌスさんと一言言葉を交わし前を向く。
『──そして最後に大外8枠16番グランディカヴァリがゲートに収まりまして各ウマ娘態勢完了……スタートしました!』
ゲートが開きウマ娘たちが一斉に飛び出す。少し出遅れた子もいるが、それに気を取られることなく第3コーナーから第4コーナーに向けて駆け出していく。
『さてハナを切るのは15番のメテオリーテ。レース前の宣言通り先頭を奪ってリードを広げにかかります。注目の6番メジロエスキーは中団やや前の内側に、2番人気のメジロエスキモーは中団やや外目でレースを運ぼうとしています』
相変わらずのゲートの上手さ。ハナに立とうと思えば立てるほどのスタートダッシュを見せるも、前を譲りスッと内側の好位置につける。こういうところにも彼女のレースセンスの高さが垣間見える。
(あの子には負けるけど私だってレース勘は悪くないんだから……!)
やや右手前方にエスキーの姿を捉えながら前を塞がれないようにレースを運ぶ。少しペースが速い気がするから無理に前には行かない。
『──一団が今ゴール板を通過して第1コーナーから第2コーナーを目指します。そして今最初の1000mを通過して……58秒5! 今年は速い流れになりました有馬記念! 先頭のメテオリーテと2番手との差は5バ身から6バ身ほど開いています!』
スタートから直線途中までは下り坂が続く中山の外回りコース。しかしゴール前の急坂を越えると一旦平坦になるものの、第1コーナーにかけて再び上り坂が続く。だから本来ペースはそこまで速くはならないはずが先頭のウマ娘に引っ張られ全体の流れが速くなっている。
(おそらく先行集団は終盤で伸びないはず。だとしたら中団以降に控えている私たちが有利! ……ってあれ、エスキーは?)
視界の右側に映っていたはずのエスキーの姿がいつの間にか消えている。ここで垂れるなんてことはないし……もしかして前が詰まって位置を下げたのかもしれない。
『──さあ向こう正面を過ぎ、残り800mのハロン棒を迎えます! 先頭と後続との差が少しずつ縮まってきました第3コーナー! 先頭を捉えることはできるのか!?』
(脚は全然残ってる! 外からサートゥルヌスさんが上がってくるのを感じるけど、今の私なら交わされない! 交わされるものですか!)
目の前には誰もいない。脚を伸ばそうと思えばいくらでも伸びていける。ただ観客の姿だけが真正面から少しずつ左手側に移っていくのだけ見えていた。
『いよいよ第4コーナーを回り残り310mの直線に入ります! ここで先頭を奪ったのはメジロエスキモー! 菊花賞に続いて栄光を掴むのか!?』
(よし、このまま一気に突き抜け……!)
ゾワッ
背中にとんでもない圧を感じ、冷や汗が流れるのを感じる。間違いない、これは……
『いやメジロエスキーが外に持ち出すやいなや一気に前を捉える勢いだ! サートゥルヌスも迫っているがこれを一気に交わしてメジロ2人の一騎打ちに……』
残り200m。脚がいっぱいになった訳でも呼吸が苦しくなった訳でもない。それなのに……
『いやならないならない! 並ぶ間もなく交わした! あっという間にリードを2バ身、3バ身と広げていく!』
ただ必死に前に追いすがる。しかし突き抜ける相手を交わすまでの脚力までは持ち合わせておらず、最後は遠く離れていく背中をただ見つめるだけだった。
『──これが世界の実力だ! メジロエスキー圧勝で今ゴールイン! これは恐れ入りました! 最後の短い直線だけで他のウマ娘たちを蹴散らしました! そして2着はメジロエスキモー。直線入り口で先頭に立った時は決まったかと思いましたが、規格外の末脚に交わされ2着。ただ2冠の実力を十分に発揮したと言えるでしょう!』
2着敗退。ただ負けたことよりも彼女との実力差に涙が溢れそうになる。あまりにも高く、険しく、手が届かない壁。改めて私は彼女の才能に打ちひしがれることになった。
─────
そんな絶望している最中、ゴール板を走り抜け、息を整えるためのランニングの中でふと頭に思い浮かんだ。どうして彼女は道中後ろに位置を下げたのか。レース中はただ前が詰まっただけで外に持ち出しやすい位置に動いただけだと思っていたけど……
(もしかして私の動きを見るためにわざと位置をスピードを落として私の後ろについたの……?)
この前併走した時は私が後ろにつく形だったから、エスキーは後方をチラチラと見ていたもののはっきりと私の動きを見れた訳ではなかった。すなわち……
(私の現状の実力を見極めるためだけにそんなことをした……? 交わせることは分かりきっていたから……?)
辿り着いた真実に脚が震えその場で倒れ込みそうになる。あまりにも辛い現実。この事実に気づいた自分の頭を殴りつけてやりたくなる。
(そっ、か……初めて走った時より少しは差が縮まったのかと思ったけど、そんなことはなかったんだ……)
彼女と初めて走ったのは入学したての新入生が走る模擬レースでのこと。模擬レースといっても当然スカウト目的で多くのトレーナーが顔を出す。そんなレースでたまたま私は彼女と同じ組で走ることになったんだけど……
(今日と同じ、突き放されての2着。その後何度か走っても結果は変わらなかった)
その後溜まった気持ちを吐き出そうと中庭に向かい、ウロに向かって思いっきり叫んでいるところを今のトレーナーに見つかって関係が始まるんだけど、まあそれは一旦置いといて。
変わらぬ差。むしろ開いているとまで感じる大きな差。ただこれから先何度も戦うことになるだろう。負け続けていいのか。下を向いたままでいいのか。
(そんなことない! どれだけ差が大きくても、どんなに背中が遠くても、一歩一歩距離を縮めていくしか私にはできないんだから!)
涙が溢れそうになった目尻を人差し指でそっと撫でて前を向き直す。新たなライバルの登場。ここから逃げるはメジロの恥。
(今日は帰ったらトレーナーとみっちり反省会しなきゃだね)
──負けただけで心が折れるほど私はもうヤワじゃない。
─────
ゴール板を先頭で駆け抜け、走るペースを少しずつ落としつつ後ろを振り返る。すると5バ身ほど後方にエスキモーちゃんの姿を認めた。
(おそらくエスキモーちゃんは気づくでしょうね。道中のわたしの動きのことを。とても賢明な子ですから間違いなく)
ある程度の位置を確保できた段階で勝ちは見えていた。あとはラストスパートまでにどういう勝ち方にするかをただ考えるだけ。もちろん彼女がわたしをマークしてくるだろうことはこの前の併走の時から分かりきっていた。
(では逆にわたしがマークしようと、エスキモーちゃんの本気の末脚を見定めようと、彼女に気づかれないうちに静かに位置を下げた)
あとは前を塞がれないように徐々に外に持ち出して前を捉える。もっと突き放すことはできたけど日本の復帰初戦ということもあり無理はしなかった……いやもう1つ理由があった。
(本当であれば年が明ければこの体ともお別れ。それをおばあさまやドーベル姉さま、タキオンさんに無理を言って来年も『ウマ娘』であり続けるために再びクスリを飲んで現役を続行する)
言わば薬効が切れる直前の時期に体に負荷をそこまでかけられなかったという方が大きいだろう。そもそも2度も飲むものではないし、かつ体に多大な負担がかかる話。タキオンさんの話では反動で向こう半年はレースに出られないだろうという。そこまでしてやりたいことは何なのか。それは……
(エスキモーちゃんを見極めること。何か彼女とは同じメジロ家以上の不思議な縁がある気がしますから、それまでは『ウマ娘』を続けないといけない)
もちろん1人の親友としてもっと話したい、もっと仲良くなりたい気持ちも当然ある。元は違えど今は同じウマ娘なのだから。
「エスキモーちゃん、しばらくの間よろしくお願いしますね」
誰にも聞かれないように静かに呟き地下バ道へと抜けていく。観客の声援に手を振りながら。
─────
「それでさ、来年の話なんだけど」 「……意外と元気だな。というかもう夜遅いぞ」
ウイニングライブも無事終わり、トレーナーの家で来年の話を始める。反省会? もちろんバッチリやったよ?
「大丈夫大丈夫、明日は朝練休みだし。負けちゃったけど泊まってもいいんでしょ?」
「ああそれは問題ないんだけどな? もっと落ち込んでいるのかと思っていたよ」 「落ち込んでるよ? ただそれ以上に頑張らなきゃーって思ってるからそう見えないだけかも」 「そっか、それならよかった。それで来年の話だっけ? どのレース走りたい?」
来年前半の主要なレースをパソコンの画面に表示して私に見せてくれる。レース間隔を考慮したらたぶん……
「京都記念から大阪杯、天皇賞(春)、宝塚記念かな」
「全部遠征になるけど大丈夫か?」 「大丈夫。トレーナーの家泊めさせてもらえるんでしょ?」 「それはもちろん。エスキモーがリラックスしてレースに臨めるならいくらでも提供するよ。実家とは話ついているし」 「ありがと。だったらこのプランでいい?」 「分かった。そのローテでトレーニングプランも考えておくよ」 「ありがと。じゃあ話も一通り済んだことだしそろそろ寝よっか」 「そうだな」
そう言ってトレーナーはパソコンの電源を落とし、寝室へと向かう。私もその後ろについて大きなベッドへと倒れ込む。
「ふっかふか〜 あっ、もう眠れそう。トレーナー電気消してー」
「はいはい、お姫様の仰せのままに」
トレーナーも部屋の照明のスイッチを切るとベッドに潜り込み私の抱き枕になってくれる。
「それじゃあおやすみ、エスキモー」
「おやすみなさい、トレーナー」
レースが終わった日の夜はいつも不思議な夢を見る気がする。起きた時には内容は忘れちゃってるんだけど。
──今日は小さい私がママの膝の上に座って、家族3人でとあるウマ娘のレースを見る夢だった。そのウマ娘の名前は……えーっと……
そこで意識が途切れ、翌朝アラームが鳴るまでぐっすりと眠りにつく。当然起きた時には夢の内容を覚えてはいなかった。
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+ | URA賞受賞式〜京都記念 |
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今年初戦の京都記念の半月ほど前、とあるホテルにて昨年度のURA賞の受賞式が開催された。少しきらびやかなドレスを身に纏いトレーナーとともに会場に踏み入れると、あちらこちらにお偉いさんや去年活躍したウマ娘たちの姿が見える。
「受賞式というかパーティーじゃない?」
「まあこの後立食パーティーするらしいからそれも兼ねてのことだろう。そういえば表彰の時の台詞、ちゃんと考えてきてあるよな?」
そう、私は去年1年間の活躍が認められ、最優秀クラシック級ウマ娘に選出された。皐月賞は2着に敗れたものの残り2冠を制した上に有馬記念も2着に好走したことが認められての受賞とのこと。
「も、もちろん考えてきてる。本番で噛まないかどうかだけ心配だけど……」
「去年は獲れなかったもんな、最優秀ジュニア級ウマ娘」 「G1勝てなかったし、仮に勝ってたとしてもたぶん朝日杯勝ったあの子が獲ってたと思うし……」
今年は受賞を逃したから来ていないけど、クラシック級ながら海外のG1香港マイルを制したジュピターさん。朝日杯の走りは確かに凄かったからサートゥルヌスさんとの一騎打ちに勝ったのも納得。
「まあそれはいいんだけど……まだあの子は来てないの? 遅れるなんていつも時間守るあの子にしたら珍しいけど」
「そういえば姿が見えないな……まあもうすぐ来るだろ。来ないと主役が不在の式になっちゃうし」 「主役、ね……」
去年1年の日本ウマ娘界の主役と言っていい称号、年度代表ウマ娘。その座に今回輝いたのは……
「すいません、遅れちゃいましたっ! まだ始まってないですよね?」
「大丈夫、時間には間に合ってるよ」 「よかったです……ちょっとバタバタしちゃって、てっきり時間に間に合わなくなるかと思いました……」
メジロエスキー、会場に駆け込んできた去年の顔。約1年海外遠征を敢行し見事6勝。その中には日本のウマ娘で初めて頂点に立った凱旋門賞も含まれている。もちろん海外だけでは日本の賞の受賞は叶わなかったけど、年末最後に日本に帰国、有馬記念を勝利したことで無事に最優秀シニア級ウマ娘と年度代表ウマ娘の座を文句なしで勝ち取ったのだった。
「それにしても珍しいね、エスキーが時間ギリギリなんて」
「ちょっとおばあさま達とお屋敷でお話してたらつい……ってこれ言っちゃ駄目なんでしたっ!?」
ハッと口を押さえるエスキー。彼女は本来口が堅いはずだけど……わざと? いやいや疑ってどうするの私……
「ふーん、まあおばあさま相手なら多少長くなっても仕方ないよね……あっ、もう始まるみたい」
壇上に司会の人が登壇するのが見え、2人とも姿勢を正して背筋をピンと伸ばす。
『さあ今年も無事挙行することができました、昨年1年間各部門において最も活躍したウマ娘を称えるURA賞受賞式! まず始めにURA会長から挨拶を──』
次第に式典は進みいよいよ私が登壇する番が来た。
『──続きまして昨年度最優秀クラシック級ウマ娘に輝いたのは、数十年ぶりに日本ダービーと菊花賞の2冠を制し、その他の重賞2勝、G1も2着2回と堅実な成績を残したメジロのご令嬢、メジロエスキモーさんです!』
こういう大勢の人の前で祝われる経験はそれこそダービーとか菊花賞で勝った時に経験はしているけど、それとはまた違った緊張感に包まれ、初めてのレースの時みたいに体が強張っていた。しかし受賞者用の席で隣に座っていたエスキーから小声で「頑張ってくださいっ!」とエールをもらい、体の強張りは解けたように思う。
「昨年の活躍は目覚ましいものがありました。おめでとう!」
「ありがとうございます。今年も頑張ります!」
URAの会長からお褒めの言葉をいただき、そのまま壇の後ろの方に同じ受賞者とともに並んだ。そして私が並ぶのを確認した司会がいよいよ最後の受賞者の名前を読み上げる。
『さあ皆さまお待たせしました! いよいよ最後の受賞者の発表になります! 昨年長期の海外遠征に向かいヨーロッパを中心にあの凱旋門賞を含めたG1をなんと6勝! 年末には日本に帰国し有馬記念を制覇! 文句なしで最優秀シニア級ウマ娘と年度代表ウマ娘に選出されました、メジロエスキーさんです!』
大勢の人の拍手とともに堂々とした表情で壇の上に上がるエスキー。幼い顔をしていながらも貫禄はこの中でも1番と呼べるものを身に纏っていた。
「日本のウマ娘で初の凱旋門賞制覇、本当におめでとう! 今年も期待しています」
「ありがとうございますっ! 精一杯頑張りますっ!」
エスキーが私の隣に並んだところで一斉に報道陣のカメラのシャッターが切られる。その眩しさに少し目を細めながらもこんな賞を自分がもらえたことに少し誇らしさを感じた。
─────
式典のあとは立食パーティー、のはずが報道陣にエスキーやトレーナーととともに囲まれ昨年の結果についてや今後の予定について根掘り葉掘り聞かれることになった。エスキーは慣れた様子で答えていたけど、私は慣れていない分戸惑ってしまいトレーナーに横から度々フォローしてもらう羽目になった。
「はぁ……エスキー凄いね。ちゃんと真面目に答えてたし」
「慣れたら簡単ですよ? 聞かれることって大抵決まってますから。変なこと聞かれたら学園を通してくださいって言えば分かってくれますし。まずそもそもメジロのわたしたちに頭がおかし……んんっ、ふざけたこと聞いてくる記者なんていないですけどね。あっ、あの料理美味しそうですね」 「本音が漏れてる漏れてる」
レース後みたく少し疲弊した私と対照的に特に取材に堪えた様子もないエスキー。やっぱり慣れの問題なのかなあ……
「それでさ……前も言ってたしさっきも取材で答えてたけど、今年春全休ってほんと? 全然そんな風に思えないんだけど」
本人曰く長期に渡る遠征で体に大きな負荷がかかったためしばらく休養するとのことだけど、有馬記念のあとも軽めではあるけど併走に付き合ってもらってるし、私からしたらレースに出ても問題ないように思う。
「乙女にはいろいろあるんですよ、乙女には」
「自分のこと乙女って……なんかはぐらかされてる気がするけどいっか。秋に復帰して全然駄目になってますーとかやめてよ?」 「そこは心配ご無用ですっ! 一段と強くなったところをお見せしちゃいますからっ!」
エスキーはそう言って胸をドンと叩く。これ以上強く、ねぇ……いやいや弱気になっちゃ駄目。秋までにそれ以上に強くなればいいんだから。
「春の私の姿を見てやっぱり出るのやめますーとかなしだからね?」
「あっ、エスキモーちゃんも言うようになりましたね? むしろ帰ってこないでって言ってくるのかと思ってました」 「そんな生意気なことを言うのはこの口か〜このこの〜」 「いふぁいふぇすえすひふぉーしゃん〜」
お互いじゃれ合いながらその裏では腹の探り合い。怯えてないか、心が弱ってないか、本当は違っていてもその素振りを見せてはいけない。同じメジロでもやることは他の子に対してと変わらない。
「その辺にしとけ。美味しいご飯食べないと損だぞ?」
「そう言うトレーナーはいっぱい食べすぎ……もしかして普段の私の料理じゃ物足りないってこと?」
少し前のめりになり首を傾げる私を見てトレーナーは違う違うと首を横に振る。それを見たエスキーは面白いものを見たといった表情で私たちをからかう。
「夫婦漫才みたいですね?」
「ちがっ……って大きな声でそんなこと言わないで!」 「えー、トレーナーさんとウマ娘が仲良いってよくある話じゃないですかぁ。そんな隠すようなことじゃ……」 「それとこれとは話が別! 付き合ってるの絶対秘密だからね!」 「分かってますよぉ。わたしもあのことバラされたくないですし」 「ならよし。紳士協定で頼むからね」
あの日交わした互いの隠れた秘密の話。私はトレーナーと付き合ってること、エスキーは同人誌?とかそういう趣味のこと……エスキーのは別にバレても良くない?
とにかく今日ばかりはレースを忘れしばしの間閑談に興じる3人だった。
─────
表彰式から2週間後の日曜日、京都レース場で開かれる京都記念。雨が降りしきりバ場状態は重と発表されている。
「ふぅ……よし、大丈夫」
レース前の緊張にもすっかり慣れ、軽く深呼吸するだけで平時と同じ調子に戻すことができるようになった。そんな私を見てトレーナーがペットボトルのお茶で少し喉を潤わせたあと、レース前最後の軽いミーティングを始める。
「まず今年春の目標は?」
「エスキーのいない春シニア中長距離G1を3つ全部勝つ」 「そのためにはレース中何をしたらいい?」 「常にエスキーをいることを想定してレースを運ぶ」 「よし、問題ないな」
それを聞いてふんっと鼻を鳴らして少しそっぽを向く。
「当たり前。こんなとこで躓いてなんかいられないんだから」
「……うん、練習もエスキーに付き合ってもらっているし、負荷も十二分にかけてきた。まずは前哨戦、勝つぞ」 「もちろん!」
レース前のいつものルーティーンを済ませ、控え室からコースへと向かう。自分でも言ったとおり、エスキーに勝つつもりなんだからG2といえど負けてなんかいられない。
─────
『雨が降りしきる中各ウマ娘がコースに入り、ゲート裏へと向かいます。注目のメジロエスキモーはいつもどおりといったところでしょうか。他にはティアラ路線からジェネシーやプチブーケも参戦してきましたこの京都記念。果たしてどのような結果になるのか』
目線の先にいるのは去年の秋華賞を勝ったジェネシーさん。そのすぐ近くにいるのが重賞はまだ勝てていないけどG1でも好走を続けているプチブーケさん。いずれも強豪のウマ娘。簡単な相手ではない。けど……
(絶対負けない……!)
『さあ枠入りが始まりウマ娘たちが次々とゲートに収まります。3番人気のプチブーケは最内1枠1番、3枠3版に1番人気のメジロエスキモーが入ります。そして7枠7番には去年の秋華賞ウマ娘、2番人気ジェネシーが収まります』
「すぅ~はぁ〜……うん!」
『さあ最後に大外10番コンガが収まりまして態勢完了……スタートしました! 横一線のスタート。まずはホームストレッチを使った先行争いへと入ってまいります』
スタートはいつもどおり。スッと前に持ち出し4、5番手の位置につける。前にいるのは空想上のエスキー。それをピッタリとマークするようにレースを運んでいく。
『さあ1コーナーを過ぎる辺りで隊列は決まり、先頭はオーシャンレースが取りました。リードを3バ身、4バ身とぐんぐん広げていきます!』
逃げ宣言をしていたウマ娘があっさりとハナを切り悠々とした表情で後続との差を開いていく。
(……まああれが最後まで保てるとは思わないけど。こんな天気のこんなバ場だし)
昨日から降り続いた雨は今は小雨になっているもののバ場にはしっかりとした影響を残し、足を少し踏み込むと水が染み出すような重たい状態になっている。失礼だけどそんな中を2200mだとしても飛ばしていって残せるような実績は確かなかったはず。
(とにかく先頭は気にせずに架空のエスキーをマークすることに集中しないと!)
有馬記念のあと軽めではあるもののエスキーには併走トレーニングに付き合ってもらい、その走りを脳裏に焼きつけることに努めた。VRウマレーターも少し使わせてもらったりして、朧げではあるが一緒に走っていたらこの辺りにいるだろうというイメージは浮かぶようになった。
『──さあ向こう正面中頃を通過し最初の1000mは1分1秒。このバ場を考えると平均ペースか? それとも少し速いのか? 先頭のオーシャンレースと2番手との差は10バ身以上開いております! ここから先頭を捉える子はでてくるのか!?』
レースも中盤を過ぎ、いよいよ第3コーナーの「淀の坂」に突入する。前との差は開いているが、脚にはまだまだ余力がたっぷり残っている。交わせる自信しかない。
『──いよいよ第3コーナーを迎えて各ウマ娘のペースが上がり始めます。先頭と2番手の差もこの辺りで徐々に詰まってきました。10バ身以上あったリードが7バ身、6バ身と着実に縮まってきています』
「実際の」3番手にいるジェネシーさんが上がっていく構えを見せている。後ろをチラリと見やるとプチブーケさんも迫ってきているのがはっきりと分かる。そんな中私は「想像上の」エスキーと同時かやや早めに仕掛けて一気に先団へと取りついた。
『──坂を下って4コーナーを回り最後の直線に向かってまいります! 先頭はまだ粘っているオーシャンレース! ただ後続が一気に押し寄せてきてその差はもう1バ身……いやここでジェネシーが外から一気に交わした!』
先頭交代。ただ私が狙うのはその人じゃない。
(行くよ……! 今!)
『──しかしその外からメジロエスキモーが捉えて先頭に立つ! ジェネシーやプチブーケも懸命に追っているが届きそうにない!』
私の頭の中を見せたらみんな怒るだろうか。だって私が戦っている相手はあなたたちではないのだから。見据えているのはこのレースに出ていない1人、ただ1人だけ。
『──リードを2バ身、3バ身と開いて今ゴールイン! 1番人気メジロエスキモー、今年初戦を横綱相撲で楽々と制しました! 2着に2番人気ジェネシー、3着には3番人気プチブーケと、人気順での入線になっています』
(届かなかった……)
周囲からすれば余裕の勝利、見事な船出を飾ったように見えるのだろう。ただ私にとってはそうではない。だってこのレースでも彼女を捉えられなかったのだから。
(次は大阪杯で……!)
雨に濡れ泥にまみれた顔を体操服の襟で少し拭う。髪ににも泥はついているけど、どうせライブ前にシャワー浴びるもんねと思いそのままにしておく。
今までとは違うレース中の思考状態。傍から見たらより本格化したように見えるかもしれないけど、私からしたらまだまだ未熟なウマ娘。そんな自分を秋の大レースに向けてどう鍛えていくのか、春はただそのためにレースに臨む。
──まず1つ。次も必ず。
─────
レース後、シャワーを浴びてさっぱりしてから控え室へと戻る。いつものようにそこにはトレーナーがいて……いやエスキーもいた。
「エスキモーちゃんお疲れさまですっ! そして1着おめでとうございますっ!」
クラッカーでも鳴らしているのかと勘違いするぐらいの盛大な拍手。大丈夫かな、手痛くないかな。
「来てたんだ、ごめん気づかなくて」
「こうして会えたからいいんです……それにしてもエスキモーちゃん、なんだかお顔がすこーし怖い感じになってません? なんだか怒ってます?」
エスキーに言われてハッと鏡の方を見る。すると神経をピンと張った自分の顔がそこに写っていた。
「駄目駄目、こんな強張った顔してちゃ……ウイニングライブ出られないよ……」
「よく分からないですけどリラックス、ですよ? ほら、むにむに〜」 「ちょっと! 顔弄らなくても自分でできるから! もう……ふふっ!」 「あっ、やっと笑ってくれましたっ! いつものエスキモーちゃんが戻ってきてくれましたねっ! ねっ、トレーナーさんっ!」
エスキーが頬を両手でむにむにと揉んでくるのをなんとか最小限に抑えたところで思わず噴き出してしまう。まあそのおかげでピンピンに張りつめていた緊張が解れたんだけど。
「ああ、やっと普段の君が帰ってきてくれて嬉しいよ……ごめんな、レース前にオレが追い詰めたみたいで」
「いいの、気にしないで。重く受け取りすぎた私の責任だから。むしろ私の方こそごめん」
トレーナーの謝罪を断り、逆に私から頭を下げる。何かと気にしすぎる性格、直さないといけないって思ってるんだけどなかなか難しい……
そんな2人を見て何の話をしているんだろうと小首を傾げるエスキー。私とトレーナーどっちに声をかけようか何度か首を振った結果私に聞くことに決めたらしい。
「ねぇエスキモーちゃん。お2人は何の話をされてるんですか? 前哨戦なのにそんなにピリピリしてたら本番前に疲れちゃいますよ?」
「うーん……トレーナー、言っちゃっていい?」
本人にする話かどうか私1人では判断がつかず、トレーナーに判断を仰ぐ。トレーナーも数瞬どうするか迷った結果大丈夫だよと首を縦に振った。
「エスキー、あなたに勝つためなの」
「わたしに、ですか?」
少しは予想していたのだろう、全く頭になかったという驚き方ではなかった。一拍置いてから続きをどうぞと促され、軽く咳払いをしてから話を進める。
「去年の年末、有馬記念であなたに負けたでしょ? しかも完全とは言いがたい状態のあなたに。それが悔しくて悔しくて……ただ春は休んで秋から走るって言うから、それまでに勝てるようにトレーニングしてるところなの。今日のレースもその一環」
「なるほど、だから仕掛けるタイミングもわたしが仕掛けそうな所に合わせたってことなんですね」 「レース見ただけで分かるんだ……凄いね……」
相変わらずのトレーナー顔負けの鋭い観察眼。これで私とほぼ同じ年齢なのかと衝撃の色を隠せない。この分析能力があるからこれまで負け知らずでいられたんだろうな……
私が改めて彼女の頭の回転の速さについて目を見張り口を閉ざしていると、またもやエスキーから目を、いや耳を疑う提案がなされる。
「もし良かったらですけど……わたしも協力しましょうか?」
「……ごめん、もう1回言ってくれない?」 「わたしもそのトレーニング手伝いましょうかってことですっ! ちゃんと聞いてくださいっ!」
ぷんぷんと可愛らしげに怒りを表現するエスキー。いやでもそれって……
「……自分を倒すための練習に協力するってことだよね。いいの?」
「もちろんですっ! ライバルは強ければ強いほど倒し甲斐があるものですからっ! というよりわたしも復帰に向けた練習しないとですから、その延長での話ですけど」 「いやエスキーがそれならいいんだけどね? トレーナーもいい?」
少し、というより大分と半信半疑な私の問いかけにこれまた頭の中にはてなマークがたくさん浮かんでいそうなトレーナーがいいよと答える。
「いいよ、エスキーがそれでいいんだけど……なあ?」
「まあでもなんか楽しそうだしいいかな?」 「やったあっ! でしたらこれからエスキモーちゃんと一緒に練習ですねっ! 練習メニューは……どこで考えましょう? トレーナールーム?」 「ま、まあそこでいいんじゃないかな、うん……」
いくら付き合ってるのがバレててもいつもトレーナーの家で2人横に並んで決めてるとは言えないし、それ以上にこの子をトレーナーの家に上げたくないし……トレーナー取られたくないもん……
「決まりですねっ! 姉さまにはわたしから話しておきますから安心しててくださいっ! それではこの辺りでわたしは失礼しますね〜」
そう言って彼女は笑顔で手を振って部屋から飛び出していった。彼女の意図が読めない2人を残して。
「トレーナー、どう思う?」
「オレが聞きたいよ……こっちの情報欲しい、ってことなのかなあ?」 「だったら一緒にしなくてもコースで見てるだけである程度掴めそうなものだけど……うーん、何年か付き合ってるけど、あの子の考えてることよく分からないんだよね……」
2人して頭をうーんうーんといくら捻らせても答えは出ない。それはウイニングライブが始まってからも、家に帰ってからも。まるで解けない数学の問題みたいに。
─────
彼女には何かある。具体的にそれは何と聞かれたら答えに窮するけど、わたしの頭の中がそう叫んでいる。
「だとしても必ずしもわたしに勝ってもらう必要まではないんですよねえ……」
「どうしたの? もしかしてあの子のこと?」
その日の夜、寮の部屋で姉さまと2人ベッドに腰掛けておしゃべりをしている最中、ふと今日の彼女とのやりとりが脳裏によぎった。
「そうなんですよ、姉さま。エスキモーちゃんについて何かひっかかるような気がして……」
「うーん、アタシも何か引っ掛かるんだよね。同じメジロの一員は一員なんだけど……なんだろ、ライアンに感じることと似てるかも……いや違うかも」
わたしの預かり知らぬ所で向こうの2人が頭を悩ませている中、こちらもこちらでエスキモーちゃんのことについてうーんと唸っていました。
「とりあえずおばあさまにも声かけます?」
「そうするしかないかな……これ以上迷惑かけたくないけど仕方ないよね」 「分かりました。では2人で一緒にお屋敷に行きましょうねっ!」 「そんな急にウキウキにならなくても……元の姿知ってる分なんか調子狂うなあ……」
突然降って湧いた姉さまとのお屋敷デートに胸を躍らせつつ、これまた姉さまと同じベッドで眠るわたしなのでした、まるっ。
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+ | 大阪杯直前〜大阪杯 |
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夕方のトレーナールームに人影が3つ。1人はホワイトボードの前に立ち、あとの2人は横に並んでそのホワイトボードに書かれた文字と絵を見ていた。
「次のレースは大阪杯です。はい、トレーナーさん、大阪杯の開催条件は?」
「阪神芝内回りの2000m、でいいんだよな?」 「はい正解です。続けてエスキモーちゃんっ!」
エスキーって字は綺麗だけど絵って独特なんだよねと目の前の阪神レース場のイラストをボーッと見ていると、そんなぼんやりとしているのを見抜かれたのか、トレーナーに続いて指名されてしまう。
「え、えっと、何かな?」
「ではこの阪神内回り2000mの特徴はなんでしょうか? 分かる範囲で答えてくださいっ!」 「特徴、特徴……あっ急坂が最後の直線にあるから、坂を2回越えないといけない!」 「ピンポン、ピンポーンっ! 大正解ですっ!」
指示棒を持ちながら器用にパチパチと拍手をするエスキー。もちろんコースの特徴なんてまだまだたくさんある訳で、それについてホワイトボードに書き込みながら説明を始める。
「今エスキモーちゃんが言ったとおり、このコースは最初と最後に急坂を2回越えなきゃいけません。なので単なる2000mと思って臨んじゃ駄目です。スタミナは最後までちゃんと残しておきましょう」
「ふむふむ、皐月賞と似てるって思っておけばいいのかな」 「まあ形状やコーナーのキツさが違うので一概には言えませんけど、ざっくりとそんなイメージで捉えていれば大丈夫ですね。そんな急坂を2回も越えるこのコースですが、実は向こう正面中頃から直線の急坂までずっと下り坂なんです」 「へー、なんか意外」
最後にだけ坂があるものだと思っていたけど、よく考えれば上った分下らないと辻褄が合わなくなるもんね。それがその部分になる訳か。
そうふむふむと頷きながら話を聞いている私を見て、これまたうんうんと嬉しそうに首を縦に振るエスキー。そのままトレーナーの方をチラリと見るとホワイトボートに振り返り解説を続ける。
「この下り坂でスピード出しすぎるのは当然最後の4コーナーで外に膨れる原因になるので駄目なんですけど、かといって抑えていたら先行している子たちが下り坂を利用して脚を残したまま後続との距離を引き離す、もしくは保って最後まで粘りきるということが多々あるので要注意ですっ!」
「変に後ろから行くのは厳禁と……なら逆に前に構えればいいんじゃないか?」
トレーナーからの質問にまさしくそのとおりとエスキーは激しく同意する。もちろんハイペースに飲まれないように注意してくださいねと続けて、そのままレース展開の話に持っていった。
「今トレーナーさんが言われたとおりこのコースは比較的先行有利な形態をしています。ですからエスキモーちゃんのこれまでの脚質のままでわたしはいいと思います。あとはどこで仕掛けるか、またその仕掛けを実現するために必要なトレーニングとして──」
レースからそのままトレーニングの話に突入する。私も忘れないようにしっかりと説明を聞いているが、横を見るとトレーナーはパソコンでそれはもう必死にメモを取っていた。一言一句漏らすことがないように一心不乱にカタカタとキーボードを叩き続ける。
(とりあえず携帯のカメラを録画モードにセットしてっと……)
ホワイトボードが全て入るように画角を調整して携帯を机の上に置く。音はこの距離だから調節とか何もしなくても全部拾ってくれるだろう。
今日はそんなありがたーいエスキーの大阪杯講座でトレーニングの時間を費やした。まあ座学も大切だからね。知識がないのにひたすらトレーニングしても無駄になっちゃうし。
─────
「はい、トレーナーお疲れさま……なんでアンタがここにいるの。というかいつ入ってきたの」 「わあ、エスキモーちゃんのご飯美味しそうですっ! いつってさっきですけど?」
練習後いつものようにトレーナーの家に向かって夕食を作っているといつのまにかエスキーが家に上がってきて食卓の椅子に腰掛けていた。量はいつも私の体作りのために多めには作っているから3人でも十分な量はあるんだけど、それにしても彼女を呼んだ覚えは全くない。
「もしかして……トレーナー?」
懐疑的な目線をリビングでパソコンとにらめっこしているトレーナーに向けると、私の厳しい視線と声に瞬時に反応し必死な声で否定する。
「違う違う! ピンポンってチャイムが鳴ったからドアを開けたら彼女がお邪魔しまーすって上がってきたんだよ! 無理に帰すのも悪いからさ……」
キッチンで冷蔵庫の中身を整理している時に鳴ったあのチャイムはエスキーだったのね……宅配便か何かだと思ってたわ……
「食生活も無駄なものを食べてないかも確認しないといけませんからね……じゅるり……美味しそうです……」
「私の料理食べたいだけでしょ……はいはいそんな悲しそうな顔しない。今度から買い物の荷物一緒に持ってくれたらそれでいいって」 「えへへ……エスキモーちゃん優しいです……」 「はぁ……前途多難というかなんというか……」 「まあご飯の時だけって思えば……」
目の前に並んだ料理にグゥ~っとお腹を鳴らしてまで今か今かと待ち構えているエスキーをよそに、私とトレーナーの2人はこれからどうしようかとため息を1つ吐いて頭を押さえるのだった。
(エスキーにそのつもりはないと思うけど……うーん……)
(とにかくエスキモーに疑われないように彼女と接しないと……)
─────
そんな私、エスキー、トレーナーの3人でのトレーニングが始まってから数日経ったある日の夕方、練習前のミーティングのためにトレーナールームに立ち寄ると、ソファにトレーナーが膝を抱えて横になっているのを発見した。彼がそんな格好をするなんて家のベッド以外では見たことがない。目線を離さずにそのまま近寄り、トレーナーが丸まっている分空いたソファのスペースにそっと腰掛け話しかける。
「ねえどうしたの、そんな格好して」
「なあエスキモー、オレ、いる?」 「……は? 何言ってんの?」
これまた珍しく弱音を私に吐き出すトレーナー。一体何があったのか問いたださなきゃ。というか自分のトレーナーがこんな弱気になっているところ他の人に見られたくないし。
「いやさ? 最近エスキーが君の指導に回ってきてくれているでしょ? オレ自身勉強になること多くてありがたいんだけど、それ以上にオレがいなくても彼女が君に指導していればそれでいいんじゃないかって思えてきてさ……」
「なるほど、自分は私の助けになってないんじゃないかって落ち込んでるのね……もう、しっかりしなさい!」
そう言って開いた脇腹を思いっきり突く。うぐっと声を上げたトレーナーはその勢いでソファに座る体勢に戻った。
「ちょっ……いきなり何するんだ……地味に痛いんだけど」
「うじうじしてるトレーナーには抜群の効き目だったってことね、良かった」 「いや良くないけど!?」
そう言ってこっちの方を見て反論してくるトレーナーに対して私も顔を向き合わせて気持ちをはっきりと伝える。
「あなたがいなくちゃそもそも私走ってないし、今も走り続けられてない。あなたのトレーニングがあって、あなたの叱咤激励があって、それで私は今ここにいるの」
「お、おう……」 「それにあの子のトレーニング、わりとキツいの気づいてる? 今まで地道にやってきた基礎トレとか、有馬記念前にやってたエスキー対策のメニューとかやってなかったらついていけてないからね?」 「そ、そうか……オレの組んだメニューがあったから……」
私の溜まった想いをこれでもかとぶつけてあげたら少しずつではあるが再起し始めた。もちろんまだまだ足りないからもっと言ってあげる。
「そのキツいメニューをこなせるのはあなたが見てくれているから、あなたが側にいてくれているからなの。それぐらい自分の愛バなら気づいてよ、バカ。だから早くシャキッとして。これで私のやる気が出なくて大阪杯負けたらあなたの責任なんだからね」
「それは……まあメンタルケアもトレーナーの役目か……よし、分かった」
そう言って私から目線を逸らすと大きく深呼吸をする。そしてもう一度私と向き直した彼の顔はいつものやる気MAXの素敵な顔だった。
「オレはまだまだ未熟かもしれない。だけどこれからも君を支えたい! できればずっと!」
「……うん、その言葉が聞きたかった。ずっと、ずーっと私のことよろしくね」
──願わくば未来永劫、隣にずっと。
─────
そうして無事にやる気を取り戻したトレーナーとエスキーが来るまで他愛もない話をしていると、自然とあの子の話に収束した。
「そういえばさ、彼女のメニューとか指導方法とかどこかで見たことあるんだよな……どこだったっけ……」
「トレーナーも? 私もあの教え方とか褒め方、どこかで見た覚えあるんだよね……いつだったかな……」
お互いに彼女のことは引っかかっているらしく、2人頭を悩ませる。私はともかくトレーナーもとは思わなかったけど。
「うーん……分からん!」
「そうだね、考えすぎてトレーニングが疎かになっちゃったらいけないしあの子のことはここら辺で……いや待って、そういえばエスキーってトレーナーいるんだよね?」
新たなる疑問が浮かび上がってくる。エスキーのトレーナー問題。以前はほとんど気にならなかったけど、一緒に過ごす時間が増えてきたせいか途端に気になり始めた。そんな私の疑問にトレーナーもそういえばと話し始めた。
「オレも他の先輩とかに聞いたことあるんだけどさ。あの子のトレーナーってドーベルさんと一緒なんだけど、今海外留学中って話らしい。ただ誰も彼女以外誰も連絡取ってないみたいだ。もちろんうちって海外研修制度は適宜募集しているから他にも行っているトレーナーいるんだけど、彼とは一度も会えたことがないんだと」
ますます疑問が深まり、事態は混迷を極め始めた。海外に研修に行っているはずのトレーナーに誰も会ってない? というか……
「去年エスキー海外遠征行ってたでしょ? わりと頻繁にあの子と電話してたんだけど、トレーナーの影も話も全く出てこなかったんだよね。せっかく同じ海外なんだから会っててもよさそうなのに」
「……本当に存在するのか?」 「そこだよね……」
当然の帰結にたどり着く私たち2人。ただトレーナーがいなければレースには出られないし、ドーベルさんがそんなに慌てていないということは事態はそんなに深刻じゃない?
「あーもー分からん!」
「考えるのやめよっか……」
余計に頭がこんがらがってきて思考を放棄する。とりあえず2人してこれ以上他人のデリケートでセンシティブな話を下手に考えるのはよそうという結論に至ったところで当事者のエスキーが部屋に現れた。
「お待たせしましたっ! 少しクラスでいろいろありまして……」
「ううん、そんなに待ってないから大丈夫。すぐ始められそ?」 「もちろんですっ! 今日もよろしくお願いしますねっ!」
──こんな素直で明るい子に裏なんてない。私はそう思い込むことにした。
─────
「そういえば1つ気になってたんだけどさ」 「はい? どうかしましたか、エスキモーちゃん」
大阪杯2日前の夜、明日は前乗りしてトレーナーの実家に滞在するから、東京での最後のミーティングをトレーナーの家でご飯を食べながら行った寮への帰り道。そういえばと思いだしたことがあり、エスキーに問いかける。
「エスキーが初めてトレーナーの家来た時、なんで一緒じゃないのに家分かったのかなって思って」
思い返せばあの日トレーニングが終わったあと3人バラバラに分かれたはず。私は一旦寮に戻ってから買い物に寄ってトレーナーの家に向かったんだけど、後ろを誰かにつけられた気配もなかったしなぜかと疑問に思っていた。
「えーっとですね、エスキモーちゃんは有馬記念の日のこと覚えてます?」
「えーっと……いつもどおり朝トレーナーの家に行って、トレーナー起こしてご飯作って……あっ」
そういえば寮を出る時に誰かとすれ違った気がする。あの時はまだ日が昇るのが遅い時間で周りも暗く、特に気にしてはいなかったんだけどもしかして……
「朝、私たちすれ違ってたんだ……でもそれがなんで?」
すれ違っただけならトレーナーの家を特定することはできないはず。まさかGPSをこっそり服とかカバンにつけられてたってことでもないだろうし……
「……ごめんなさい、エスキモーちゃんの後ろつけちゃいました」
立ち止まってペコリと頭を下げるエスキー。まあ追いかけられていたならあの日1人でトレーナーの家まで来れた理由としては成り立つけど、そもそもなんでつけてきたんだろう?
「わたしはあの時朝のランニングに行くところだったんです。それで門の前で軽くストレッチをしていたら前からエスキモーちゃんらしきウマ娘が近づいてくるのが見えたので、顔を見られないようにちょっとだけ隠れて動向を見守ってました。もしエスキモーちゃんがわたしに気づいたら観念していたところなんですけど、エスキモーちゃん急いだ様子でスルーしていったのでちょっと気になってつい……ごめんなさい」
そう言って責任回避とも聞こえなくもない理由をつらつらと述べるも、悪いことをした自覚はあるのか何度も頭を下げる。私としては終わったことだしなとも思っているけど、彼女にしたらそういうことではないらしい。
「もういいから顔上げて。私もう気にしてないから。ほら早く帰ろ?」
そう言って彼女に向かって右手を差し出す。やっと頭を上げてくれたエスキーはその手を取ってゆっくりと寮への歩みを進める。
「エスキモーちゃんがそう言ってくれるなら嬉しいです。あっ、もちろんお二人の中を邪魔するつもりはないですから安心してくださいっ!」
「……大丈夫、アンタがそんなことしないって信じてるから」
図星を突かれ内心ドキッとさせられる。それをなんとか顔に出さないよう、万が一表情に出ていてもそれを見られないよう左の方を見ながら話を続ける。そうして2人仲良くトレーナーについて盛り上がっていたら、あっという間に寮へとたどり着いた。
「じゃあ私の部屋こっちだから。おやすみ」
「おやすみなさい、エスキモーちゃん」
手を振って互いの部屋と向かう。私は明日の準備のことで頭が一杯で、あの子が小声でポツリと零した一言を聞きそびれてしまった。
「あんなにラブラブなの羨ましいなあ……わたしもいつかは……」
─────
大阪杯前日。昼過ぎにトレーナーの実家に到着し、部屋へと上がらせてもらう。前に来た時に連絡先を交換し、度々連絡を取り合っているトレーナーのお母さんにとってはもう将来のお嫁さんと思われてるみたいで……
「部屋はあの子と一緒でいいよね?」
「はい、私は大丈夫です。トレーナーは?」 「……母さんまさかベッド……」 「流石。気づくの早いなあ。2人横で寝れるようなやつ買っといたから仲良く寝るんやで〜」 「はあ……こんな頻繁にベッド買うって大丈夫か……エスキモー、行くぞ」 「う、うん……」
積極的すぎる自分のお母さんに少し呆れたのかため息を吐きつつ、2階の自分の部屋に上がっていくトレーナー。私は彼を追いかけて階段を上ろうとすると、後ろからちょいちょいとトレーナーのお母さんに肩を叩かれた。
「どうしましたお母様。何か粗相でも……」
「そうじゃなくって……あの子とどこまで進んでるの?」 「え、えーっと……」
どんな関係性と聞かれたらそれはもちろん恋人なんだけど、じゃあどこまでやっているのか、ABCなら今どこなのかと聞かれると……
「キスまでしか……まだ私学生なので……」
「真面目ね〜 まあ明日はレースだし今日は駄目やろうけど、明日ぐらいは……ね?」 「いやいやいや、流石にそこまでは……そろそろ上上がりますね?」 「そっかー、しっかりしてるなあ」
何度か危ない場面があったことは伏せつつもやんわりと断る。興味ないかと言われると……もちろんあるんだけどさ、うん。
─────
それからトレーナーの部屋に上がり、少しの間2人の間にはゆったりとした時間が流れていた。もちろんレース前日、しかもG1ということもあって観光なんてできないから家で静かに過ごすしかなかったんだけど。
しばらくするとお風呂やご飯の時間になり一家団欒の輪の中に入らせてもらって楽しいひとときを過ごした。
「じゃあそろそろ電気消すぞー」
「はーい」
部屋の照明が消され真っ暗な世界に変わる。すぐ隣には見えにくいけどトレーナーがいて、ギュッとその体にしがみつく。トレーナーの方も私を優しく抱き締めてくれる。
「トレーナーあったかい……」
「エスキモーもな。明日、頑張ろうな」 「うん。おやすみトレーナー」 「おやすみ、エスキモー」
─────
翌朝おはようのキスでトレーナーを起こして一緒に朝の準備をする。今日ばかりはトレーナーのお母さんにご飯とかいろいろ準備をしてもらい、着替えも含めてすぐに出発の態勢が整った。そこから駅まで車で送ってもらい、2日間のお礼を伝える。
「昨日今日とありがとうございました。行ってきます!」
「また今度天皇賞の時に来るから。行ってきます」 「うん、2人とも頑張っといで。行ってらっしゃい」
─────
電車の中で2人仲良く話しているとあっという間にレース場に到着し、既に待っていたエスキーと合流を果たす。
「1人? ドーベルさんは一緒じゃないの?」
「わたしは一緒がいいですって言ったんですけど、姉さまにやることがあるからと断られまして……」
しょんぼりという文字が体から浮かび上がってきそうなぐらいエスキーはガックリと肩を落としていた。たぶん自分が教えた子が勝つところを生で見てほしかったんだろう。この子のためにも頑張らないと。
「まあレース自体は中継やってるしさ。それは見てもらえるんでしょ?」
「それはもちろんっ! エスキモーちゃん、勝ってくださいねっ!」 「う、うん、それは頑張るよ?」
彼女の勢いに少し気圧されつつも3人揃ったからそのまま控え室へと向かう。もちろんレースまでまだまだ時間はあるから、勝負服には着替えずに軽いストレッチとかを繰り返しつつ、当日のレースを見て芝の状態とかを最終確認していく。特にエスキーは観客席まで行って間近でバ場の具合をチェックしていた。
「バ場はそんなに荒れてないですね……どこからでも伸びてこれそうです」
「だけどハイペースじゃないと後ろからは届いてないよね。これだったら事前の作戦通りで大丈夫そう」 「そうだな。最内枠だから出遅れとバ群に包まれるのだけ避けられたらあとは伸びるだけだな」
3人でレース前最後のミーティング。時間もいよいよ迫ってきたことから私も勝負服に着替えての参加になる。
「注意すべきは人気にもなっていますけど5番のグリュックシンボルさん、8番のクイーンリーさん、そして12番のジェネシーさんの3人です。いずれも先行できるタイプだから、先に行かれて粘られないように注意してくださいね」
「おっけ、マークしとく」 「もちろん気にしすぎて仕掛けどころを誤るなよ……ってそんなこと分かっているか。よし、じゃあいつものアレ、やるか?」
そう言って椅子からパッと立ち上がり、両腕を広げるトレーナー。エスキーはなんのことやらと目をパチクリさせ、私はそれを見て顔を赤く染めていた。
「こ、この子の前だよ……? やるの……?」
「エスキモーがいいならやらなくていいけど……これで負けたら……」 「分かった、分かったから! エスキーは……そこで静かにしてて!」 「えっと何の話をされてるんです? 2人とも一体……」
エスキーが座りながらぐねっと上半身を横に倒し、全身ではてなマークを表現している。そんな中私たち2人はいつものように体を寄せ合い、そっとハグをする。
「もう……こんなときには大胆になるんだから……」
「いつものルーティーンだろ? ほら、視線は気にしない」 「分かった。じゃあ最後にいつものお願い」 「はいはい、いつものね……んっ……」 「んっ……ありがと、頑張ってくる」
そう言ってトレーナーから体を離しパッパッと勝負服を手で払い、鏡を見て髪を撫でつけ整える。見られていたせいかいつもより少し顔が赤い気がするけど、バレることはないだろう。うん? 見られて……?
「え、え、エスキモーちゃん……」
彼女にしては珍しく顔を林檎みたいに真っ赤にしてあわあわといった感じに私に声をかけてくる。
「どうしたの、もう行かないとなんだけど」
「いや、その……いつもレース前にあんなことしてるんですか?」 「あー……うん、そうだよ。ああしてもらうと落ち着いてレースできるから」 「そっか、そうですか……わたしも姉さまにしてもらおうかな……」
何やら真剣に考え始めたエスキーをそのままに部屋を飛び出しコースへと向かう。G1で1番人気なんてもう気にならない。
何番人気でもやることはただ1つ。
勝つ。
─────
バ場入場からゲートの裏へ駆けていき正真正銘最後のウォーミングアップを終える。芝の状態も確認できたし、脚も問題なし。これで負けるとすれば、それこそミーティングの時に注意を受けた前が壁になって抜け出せない場合ぐらいだろうか。
「すぅ~はぁ〜……よしっ!」
『さあ枠入りが始まります。最内1枠1番には1番人気メジロエスキモーが収まります。そして5枠5番には3番人気のグリュックシンボルとスムーズにゲートに入っていきます』
今回注意すべき1人、グリュックシンボルさん。去年のエリザベス女王杯を勝って久しぶりのG1勝利で波に乗っている。どんなレースをしてくるのか楽しみね。
『──そして最後に大外8枠12番ジェネシーが収まりまして態勢完了……スタートしました! 各ウマ娘横一線にゲートを出ました』
(出遅れ、なし。あとは少しずつ少しずつ外へと出していって……)
最内枠から一旦先頭まで出ていくも、外からクインシーさんとセカンドシスターさんが私を交わして前に立った。私はこれ幸いとそのまま3番手の位置を確保する。
『──1コーナー辺りで隊列が決まりまして、先頭は8番クイーンリーが取りきりました。半バ身後ろにセカンドシスター、そこから3バ身ほど離れて1番人気のメジロエスキモーが追う展開になっております。人気のウマ娘は中団よりやや前でレースを進めているようです』
向こう正面中間辺りを過ぎここから少しずつ下り坂が始まる。ここで勢いをつけすぎては駄目だけど、前を放っておいても駄目。ペースに気をつけないと。
『──そしてこの辺りで最初の1000mは……60秒4。平均ペースでしょうか。前の2人と後続との差は先ほどよりやや開き5バ身ほどのリードになっています。ここから伸びてくる子はいるのか、それともそのまま逃げ切ってしまうのか。レースは3コーナーを過ぎ、4コーナーへと向かうところです!』
全体の流れが速くなり、後続が押し寄せてくるのを背中で感じる。私も交わされないようにペースを徐々に上げ、少しずつ前との差を詰めていきラストスパートへの準備を整える。
『──さあ一団となって4コーナーのカーブへと各ウマ娘飛び込んでまいります! 先頭はまだクイーンリー! まだ2バ身ほど差があります。2番手にいたセカンドシスターは伸びがないか……そしてそれを交わすようにここで上がってきたのはメジロエスキモー! 一気に前を捉えて先頭に並びます!』
内にはクイーンリーさん……いや後ろから間を割ってグリュックシンボルさんが上がってくるのが見える。やっぱり注意すべきはこの人だったか。
『──最内を突いて上がってくるのはグリュックシンボル! 外からはジェネシーが迫ってきて200mを通過!』
後ろから鬼気迫る表情でみんなが襲いかかってくるのを感じる。私を食いちぎらんと、打ち破ろうと必死の顔をしていることが振り返らなくても手に取るように分かる。だけど……
(私だってこんなところで負けてられないんだから……!)
『──とメジロエスキモーがさらに伸びる! 後続との差がさらに広がって一気に突き抜けた! 2番手3番手争いが接戦になりそうだがこれは強い! メジロエスキモー、今先頭でゴールイン! 春のシニア中長距離3冠レースの第1戦は昨年のクラシック2冠ウマ娘、メジロエスキモーが勝利しました!』
タイムは1分58秒0。着差ははっきりとは分からないけど2バ身から3バ身ほどはあったと思う。圧勝ではないけど、楽勝と言っていい差を見せられたと思う。
(息の入りも早くなってる……やっぱり私成長してるんだ……)
もちろんトレーナーやエスキーのトレーニングがその成長に大きく寄与しているんだろうけど、それを差し引いても自分の中で活力が漲っているのがはっきりと分かる。
(まだ私は強くなれる……この勢いのままメジロ家が最も大切にしている天皇賞の盾を獲りに行かないとだね)
次の天皇賞春はG1最長距離の3200m。菊花賞を勝っているし、そこからさらにスタミナもついたはずだから問題なく走りきれると思う。あとはラストスパートの完成度をどれだけ上げられるかかな。
(大丈夫。自分を信じて頑張ろう)
─────
ウイニングランを終え地下バ道へと抜けていくと、これまでとは違い2人の影が私を待っていた。
「お疲れさま、エスキモー。強い走りだったよ、おめでとう」
「おめでとうございます、エスキモーちゃんっ! バッチリ作戦通りでしたねっ!」
2人の祝福を受け、レースの緊張感がどっと抜け落ち顔が崩れた。やっぱりこの2人の顔を見るとどんな時でも安心できる。あとは……ドーベルさんがいれば良かったんだけど、そこまで高望みはできないしね。
「2人ともありがと。しっかり練習の成果出し切れたと思う」
「相変わらず安定感ありますよね、エスキモーちゃんの走りって。スタート失敗することも全然ないですし、道中の位置取りも素晴らしいですし……誰かに似ているような……?」
とぼけているのか本当に分かっていないのか、頭の上にはてなマークを浮かべているエスキーにチョップでツッコミを入れる。
「アンタのに似てるの。わざと言ってない?」
「痛っ! そんな頭叩かなくてもいいじゃないですか〜」 「……どう考えてもアンタ以外にいないの。まだ完璧じゃないけどさ、私は少しずつ近づいてるなって感じてるけどどうなの?」
得意な脚質も似通っている上に、練習でほぼ常に一緒に走っているエスキーに走りが似てくるのはある意味必然と言っていい。彼女の走法は理想形のうちの1つだから、走りが洗練されていくにつれて道中の走り方やラストスパートのかけ方などが近づくのを偶然と片付けていい訳はない。
「……確かにわたしと似てきているなと最近思ってます。似るにせよエスキモーちゃんの走っている姿が自分自身に見える時があるのは想像以上ですけど」
「確かに身長とか違うとはいえ2人とも似てるよなあ。本当に姉妹とか、それこそ親子に見えるな」
まあ冗談だけどと笑い飛ばすトレーナーに釣られて私もクスクスと笑いを零す。そんな2人が笑う中エスキーはふと腕を組んで何か考え込み始めた。
「どうしたの、エスキー。何か変なことでもあった?」
「もしかして……いやでもそんなことはあり得ない……」
私の声を無視するほどに自分の思考に浸かっている彼女。もちろんこのままこの場所に留まる訳にはいかないから、現実世界に引き戻すために綺麗な額にデコピンを決める。
「ほら行くよ!」
「いったぁっ! 何するんですかエスキモーちゃんっ!?」 「アンタが私の声無視するからでしょ。とっとと戻るよ」 「分かりましたっ! 分かりましたからそんな腕引っ張らないでください〜っ!」
無事にこっちの世界にあの子を引きずり戻すことに成功し、3人揃って控え室へと戻る。
(それにしても……あり得ないってどういうことなのかな……)
彼女と手を繋ぎ歩いている途中、ふとさっきのこの子の一言に頭の中が占有された私がここにいた。ただそこからウイニングライブの準備や帰る支度のあれこれでバタバタしていると、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたのであった。
──それが重い意味を持つと気づいたのは1ヶ月少ししてからの話だった。
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+ | フラワリングタイムとの併走〜エスキーとのお出かけ |
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春の天皇賞まで4週間ほど。暦の上では1ヶ月もない中、中距離仕様の走法を長距離のものに戻すべく、毎日練習を積み重ねている。そんな中いつもは私とエスキー2人で併走するところを、今日は特別ゲストとして元々ティアラ路線を進みながらも春の盾を手にした同じチームのフラワリングタイム──みんなからはフラりんだったりフワりんって呼ばれている──を招いて特訓を始めた。
「それじゃ行きますよ。よーいドンっ!」
エスキーの合図で私とフラりんが一斉にスタートする。舞台設定は右回り3200m。実際のコースと違って3コーナーに当たる部分に坂はないけれど、それを想定したレース運びで併走を行う。
(……っ! 小さい見た目でも威圧感が凄い……! やっぱりG1ウマ娘は貫禄たっぷりだね……!)
2人の脚質上自然と私が前、フラりんが後ろの隊列となりレースが進む。2人の差は5バ身ほどだろうか、それほど大きく開いてはいない。ペースとしても2人という少なさからかスローで流れている。
(ここで2000mを通過……ここからまだ6ハロンも残ってるって、やっぱり長距離戦ってしんどいなあ…… だけどこれを制してこそ真の王者に君臨できるんだから!)
残り1000mの地点を過ぎる。京都だといよいよ2回目の淀の坂を越えている途中、もうすぐ3コーナーに差し掛かるところ。
(もう少し溜めて……もう少し我慢して……今!)
下り始める少し前からラストスパートを始め、ペースを一気に上げる。ただフラりんもスパートを始めたのか後ろとの距離が開いている感じがまるでせず、むしろ詰められているとまで感じる。
「エスキモーちゃんっ! 振り返るのは我慢ですっ! 前だけしっかり見てくださいっ!」
彼女の檄に気になる背後を見るのを耐え、ラストスパートにのみ意識を集中させる。残り600m、いよいよ4コーナーに入り、ラストの直線が見えてきた。
(ただのトレーニングなのに凄いプレッシャー……まるで本番みたいね……! それでも私はこのまま逃げ切る!)
ペースを落とさずにむしろさらに加速する。逃げる私、追うフラりん。残り200m、差が徐々に縮まるもまだ2バ身ほどリードがある。
「うおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
「あああああああああああああっ!!!!!」
差が詰まる、すぐそこにフラりんがいるのを肌で感じる。だけど先頭は……!
「……ゴールっ! 2人ともお疲れさまですっ! いきなり止まらずに軽く流してからこちらに戻ってきてくださいねっ!」
最後は頭1つ私が残していたように思う。だけど残り1ハロンで決してペースが落ちている訳でもない中2バ身近く詰められるなんて、やっぱりフラりんは凄いな……
「お疲れさまです、エスキモーさん。少しだけ負けちゃいましたね」
「フラりんこそお疲れさま。それでも最後のあの伸び凄かった。交わされるかと思っちゃった」 「いえいえ、エスキモーさんの方こそロングスパート気味に仕掛けて最後まで伸び続けるの凄いと思います。本番も楽しみですね」
お互いがお互いを褒め合いながらクールダウンのランニングを終えた。2人ともエスキーからドリンクとタオルを受け取りつつ彼女の講評を受ける。
「2人ともお疲れさまでした。フラりんは急に呼んだのに来てくれてありがとうございます」
「エスキーさんのお誘いなら喜んで。今度は一緒に走りましょうね」 「えへへ……」
フラりんにニッコリと微笑まれて、エスキーの顔が真面目な顔がふにゃりとした風に崩れる。デレデレじゃない。
「エスキー。続き」
「は、はいっ! んんっ……! それでエスキモーちゃん、今日ので大体レースの流れや感覚は掴んでもらいましたか?」 「うん、完璧じゃないけどなんとなくは。菊花賞前の練習を思い出したかも」
その回答に大きく頷いた彼女はこれからのメニューについていくつか説明したのちにトレーナーへと話を振る。
「トレーナーさん、わたしからの説明は以上ですけど何かありますか?」
「ほぼ全部言いたいこと言われたような気がするけど……とりあえずフラワリングタイムさん、エスキモーのトレーニングに付き合ってくれてありがとう。この距離の経験者、しかもトップクラスの実力の子と併走できるなんてそう多くはないから感謝している」
トレーナーが頭を下げるとフラりんもこちらこそと頭をペコリと下げる。
「本番まであと4週間、もし都合が合いそうなら、来週、再来週と1回ずつ併走をお願いしたい。1週前からは疲労を残さないために別のメニューを組むつもりだから。大丈夫かな?」
「トレーナーさんに聞いてみますけど、たぶん大丈夫だと思います。私の方こそチームメイトとこうして走ることができるの嬉しいですから、むしろこちらからお願いしたいぐらいです」 「そう言ってもらうと嬉しい。それじゃ軽くストレッチしてからシャワー浴びて、エスキーとエスキモーはトレーナールームに来ること! 以上!」
「「「お疲れさまでしたっ!」」」
そう言って今日のトレーニングが終わり、トレーナーはそのままトレーナールームに、私たち3人はシャワー室へと足を運ぶ。
「やっぱりフラりんの末脚は凄いですねっ! 長距離でこそ活きるあの脚、つきっきりで研究させてほしいぐらいです……」
「研究目的じゃなくて2人っきりになりたいだけでしょうが」
エスキーのにやけ顔にすぐさまツッコミを入れる私。それを見てフラりんがクスッと笑う。
「お2人って本当に姉妹みたいですね」
「それってわたしがお姉さんっ……!」 「いや今の流れでそれはないでしょ……」
もちろん私が姉でエスキーが妹とのことだった。身長とか普段の話の掛け合いを見ているとそう思うのは必然かもしれない。
ただ、とフラりんは話を続ける。
「なぜかたまにエスキーさんがお姉さん……というよりお母さん、いや、お父さん?に見えることがあるんですよね……何か変なこと言っているみたいでごめんなさい」
「それはなんで?」 「今日トレーニングを一緒に受けさせてもらっている時に2人の様子を見ていたんですけど、エスキーさんの教え方とか褒め方?といった所がそう見えて……ってありえないですよね。ごめんなさい、忘れてください」 「いいのいいの、謝らないで」
ペコペコと頭を下げるフラりんの顔を上げさせて再びシャワールームに向かう。
シャワーを浴び終わったあと、自分のトレーナーの元へ向かうフラりんを見送り、エスキーと2人になったところでポツリと独り言が溢れた。
「そっか、フラりんもそう言うんだね……」
「フラりんも、とは?」
私の言葉に反応してエスキーが私の顔を覗き込む。
「ううん、なんでもないの。前トレーナーと話してたら同じような話になってさ。なんだかおかしいなって思っただけ」
「ふーん、そうですか……」
エスキーはそう言って、歩きながらも腕を組んで何やら考え事を始める。前もこんなことあったような……
彼女が考え込むのを邪魔しないように話しかけずにそのまま静かにトレーナールームの前まで歩き続ける。そうして私がドアを開けようとしたその時、後ろから肩をガッと掴まれた。
「えっ、どうしたのエスキー。部屋入らないの?」
「ちょっと待ってください」
真剣な顔をした彼女の姿に少し目を開きつつ、ドアに掛けた手をそっと離す。ドアから体を見えないよう少し隠れた状態で彼女は話を切り出した。
「エスキモーちゃん、今度のお休み暇ですか?」
「う、うん……特に予定は入れてないけど」
トレーナーのご飯を作るという用事はあるけど、それは前の日に作り置きするとかやりようはいくらでもあるから大丈夫。それにしてもこの真面目な顔、一体どうしたんだろう……
「それではお屋敷まで一緒に行きませんか?」
「お屋敷? いいけどどうして?」
それぐらい当日に誘われても行くんだけど、わざわざ前もってって一体何なんだろう。何か大切な用事でも……
と私が少し観構えた瞬間彼女の口から出てきた言葉は全く予想だにしないものだった。
「髪、切りません?」
「……えっ?」
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次の休日、約束通り私とエスキーは2人でメジロのお屋敷を訪ねた。何やら一流の美容師さんを呼んでカットしてもらうから私もどうかということだったみたい。
「それにしてもカットぐらいならあんな顔で誘わなくてもよかったんじゃない?」
「ま、まあいいじゃないですか……ほら着きましたよ」
何やら歯切れが良くない彼女とともに自分の部屋に入ると、まるで美容室と見まがうほどの設備が整えられていた。
「うわー、凄い……ってここまでするものなの? ここまでするなら美容室1つ貸し切った方が良かったような……」
「こちらの方が気分よく切ってもらえるかと思ったのでおばあさまにお願いしちゃいました」
てへっと頭を自分で軽く小突く彼女。その愛嬌ある容姿が下手をするとぶりっ子に見えなくもないポーズをただただ可愛らしい姿へと変える。流石エスキーだなあ……
「エスキモーちゃん、早く座ってくださいっ!」
「はいはい、分かった分かった。それにしてもなんか周囲を囲まれながらヘアセットされるの変な感じするね」 「流石メジロ家ですよねー あっ、わたしも自分の部屋で切ってもらうので失礼しますねっ」
ぱたぱたーといった走りで颯爽と部屋を飛び出していく。それを見送った私は来てもらった美容師さんに髪のセットを全てお任せして、おしゃべりしながら用意されていた雑誌を手に取りパラパラと読む。
「へー、今こんなの流行ってるんだ。プラネタリウムでカップルシートなんて凄いな……」
「エスキモーさん、どなたか懇意にされている男性とかいらっしゃるんですか?」
美容師さんからの質問に少しビクッと心臓が跳ねる。決して勘付かれないように誤魔化しつつ話を逸らす。
「い、いないですよー。そういう美容師さんこそお綺麗ですし……」
「いやいや全然そんな浮ついた話ないですよー。あっ、それじゃ髪セットしていきますねー」 「お任せしちゃったんですけど、今日はどんな感じにしてもらえるんですか?」
今のところ前と後ろを少しカットしてもらっただけで全体のビジュアルとしては大きく変わったところはない。もちろんこのまま終わるはずはないし……
「ここから少しウェーブ作っていきますね。まっすぐな黒い髪も素敵ですけど、ちょっとウェーブさせてみるのも可愛らしくて素敵になりますよ!」
「そういえば私うねり作るのにアイロンとか使ったことなかったな……やり方とか教えてもらえません?」 「もちろん! ……やっぱり気になる男の人いるんじゃないですかー?」 「そ、そんなことないですって!!!」
それから先は必死に美容師さんからの質問を躱しつつ、ヘアアイロンの使い方も教わって有意義な時間を過ごすことができた。
「ほら、どうですか? とっても素敵になりましたよ!」
鏡を見るとそこには今までとは全然違う私の姿が写っていた。ちょっぴり感動していると、そういえばと美容師さんが声をかけてきた。
「髪セットさせてもらってて思ったんですけど、エスキモーさんってドーベルさんに似てませんか?」
「……よく言われるんですよ。私としてはあんな綺麗な人と似ているって言われて嬉しいんですけど、できたら私を私として見てほしいな、なーんて……あはは……」
ごまかしごまかし、のらりくらりと美容師さんから質問を再度回避しつつおしゃべりを続けていると、ちょうどエスキーの方も終わったのか、扉をノックして部屋に入ってきた。
「エスキモーちゃんも終わりました……ってえーっ!?」
「髪型一緒……なんで……?」
まるで鏡写しかのように2人そっくりなヘアスタイル。少しハーフアップ気味に持ち上げつつ、少し後ろをウェーブさせている全く同じ髪型に2人とも驚愕の色を隠せない。
「アンタはこの髪型にってお願いしたの?」
「いえいえ、そんなことないです。ぜーんぶ美容師さんにお任せしちゃいました」 「偶然にしては珍しいわね……まあ元々の髪型とか髪質が似てるしそんなこともあるか……」 「そうですね。そういうことにしておきましょう」
2人とも無理やり納得すると、それぞれ美容師さんへお礼を伝える。時計を見るとまだお昼前だったということもあり、せっかく可愛くしてもらったんだからと2人カフェ巡りに出発した。
「素敵な休日だな……朝からこんなに可愛くしてもらえて、しかもエスキーとお出かけなんて」
「わたしもエスキモーちゃんとお出かけできて嬉しいですっ! デート、デートっ♪」 「デートってそんなもんじゃ……というかドーベルさんはいいの?」 「もうっ、今は2人なんですから2人の話をしましょうよっ!」 「はいはい、分かったよ。わがままだなあ、ほんと……」
そうやって夕方まで2人仲良く過ごしたあと、トレーナーの家にご飯を作りに向かった。トレーナーは私たちの姿を見て、「ふ、双子……!?」とか言ってて面白かったなあ。
(それにしても……なんで髪切ろうって誘ってきたのかな……)
それだけが今日1日ずっとモヤモヤっと頭に残ったままだった。
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「毛髪回収できましたか……はい、分かりました。では前にお願いしたとおりに進めてくださいね。それでは失礼します」
電話を切り、携帯をベッドに投げ出してそのまま自分の体もベッドに放り投げる。それを見た姉さまはだらしないよと苦言を呈しつつも優しく声をかけてくれる。
「それで、本当にあの話進めるつもりなの? 流石に無理があるんじゃ……」
「わたしも信じがたいんですけど、やっぱり偶然にしてはおかしいなって思うんです。顔が似ているだけならまだしも走り方なり脚質まで似ていて……これで全く関係ないって話ならひと安心なんですけど」
彼女に抱いた疑念。それを払拭するためにわたしはおばあさまや姉さまたちにこっそりお願い事をした。もちろんこの仮説が的外れだったらそれに越したことはないんですが、念には念を入れたいタイプですから。
「血縁関係、ねえ……」
「ひとまず何もないことを祈りましょう」
そう言って再びベッドにひれ伏しわたし。姉さまはそんなわたしにそっと布団をかけおやすみと電気を消す。
(本当だったらありえないですけど……でも……)
疑惑は果たして晴れるのだろうか。結果が分かるのはエスキモーちゃんの春の天皇賞の数週間後とのことだった。
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+ | 天皇賞・春〜みんなで城崎温泉① |
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春の天皇賞に向けた練習の日々。そんなある日の夜、いつものようにトレーナーの家で晩ごはんを3人で食べているとふとあることを思いついた。
「そういえば天皇賞ってゴールデンウィークの真っ只中だよね」
「確かにそうだが……どこか行こうって話か?」 「旅行っ!? 旅行ですかっ!? わたしも行きたいですっ!」
軽く話を振ってみるとトレーナーの流石とも言える閃きで話が進むのが早い。
「そういうこと。せっかくだし行ったことない場所行きたいなーって……ってエスキー、もしかして一緒に来るつもり?」
「えーっ!? 駄目ですか……トレーナーさん……うるうる……」
2人で考えていたところをこの子に来られたらとは思うけど、そもそも2人っきりの時に話を切り出さなかった私のミスでもあるし……うーん……
「トレーナー……」
「うーん……せっかくだからドーベルさんも一緒に連れてきたらどうだ? 3人1部屋っていうのは駄目だし、かといってオレ1人、君たち2人の2部屋もオレ寂しいし……」
確かにトレーナーの言うとおり、ドーベルさんも一緒なら、私・トレーナー、エスキー・ドーベルさんの2部屋で綺麗に分かれることができる。問題はドーベルさんが来てくれるかどうかだけど……
「今姉さまにメッセージ送りました……って既読つくの早いですね」
「送るの早っ。まだ場所も決まってないのに」 「返ってきましたっ! 場所次第だけど、GWは特に予定入ってないから大丈夫、ですってっ!」
ひとまずメンバーはこれで確定。あとはどこに行くかだけど……
「せっかく関西行くんだったらその辺りがいいよね……トレーナー、なんかいい場所知らない?」
こういうときは地元の人に聞くのが1番手っ取り早い。やっぱりかとトレーナーは苦笑し、少し箸を止め考え込む。
「せっかくだから少しいいところ行きたいよな……淡路島は遊ぶだけになるからメンバー的にはちょっと……というかエスキモーが走った翌日からってことを考えるとそんなに体動かす所は止めておいた方がいいな…、だったら……あっ!」
「どこか思いついたの?」
私の質問に携帯をポケットから取り出し何やら検索し始めるトレーナー。文字を打ち込んだりスワイプしたりと数分間沈黙が続き、パッと顔が上がったと思ったら私たち2人に携帯の画面を見せてきた。
「城崎温泉だよ、城崎温泉! 体の療養もできるし外湯巡りっていって近くの温泉を歩いて回ることができるんだ! もちろん旅館もいろいろあるし、季節は少し外すけど料理も美味しい。それでいて有馬ほど高くないしこれぞ温泉街って雰囲気が街中から漂っている。大阪駅から特急で3時間。2泊3日ならちょうどいいんじゃないか?」
すらすらとオススメポイントを言い連ねるトレーナー。私とエスキーは携帯の画面に書かれた情報をスワイプして見ながら、トレーナーの言うこともしっかりと記憶に残す。
「トレーナーがそこまで言うならそこにしよっか。有馬温泉って所はいつかまたってことで」
「そうですね、わたしもここは行ったことないですし、姉さまもないはずです。それでは場所決まりましたってメッセージ送っておきますねっ」
程なくしてドーベルさんから了承の返事をもらい、行き先も無事に決定。場所を決めたのはトレーナーだけど、言い出しっぺは私だからおばあさまに相談して少しいい旅館を抑えてもらった。
「GWだから混んでそうなのと、3人が有名人だから周りにバレないようにしないといけないな……」
「そんなにトレーナーが気にしなくてもいいんじゃない? 私も少しは対処法とか分かるようになってきたし、あとの2人は慣れたものだろうし」 「ふふん、任せてくださいっ!」
得意げに鼻を鳴らすエスキー。日本だけじゃなく海外でも有名人な彼女がいるならまずファン対応とかいなし方とかは大丈夫だろう。
「あとは私が勝つだけか。これで負けちゃったら残念会になっちゃうしね」
「今のエスキモーちゃんなら大丈夫ですっ! 胸を張って送り出せますよっ!」 「ってアンタは私のトレーナーじゃないでしょ。それを言うのはトレーナーじゃない?」
えーっと文句を言うエスキーをはいはいとあしらいつつ再びご飯を食べ始めたトレーナーに話を振る。トレーナーは口に入れた物をしっかりと噛んで飲み込むと苦笑い気味に頭をかく。
「もちろんオレも一緒に練習メニュー組んでいるんだけど、エスキーから学ぶことは多いからね。勉強させてもらっているよ、ありがとう」
「いえいえこちらこそっ! ただ秋になったら覚悟しておいてくださいね? また強くなったわたしをお見せしますのでっ!」
へっへーんと腰に手を当ててまた威張るエスキー。内心怖いことは怖いんだけど、また対戦できる喜びの方が大きい。
「そっちこそ強くなった私に負けて泣いても知らないんだからね。よしよしって頭は撫でてあげるけど」
「ふーん、エスキモーちゃんも言うようになりましたね。今のトレーニングのデータばっちり取ってること忘れないでくださいね?」
一緒に走るのはまだまだ先ながら早くも火花を散らす2人。トレーナーはそんな私たちを仲裁するように早く食べるように促す。
「2人とも門限あるから早くしな? 明日も朝早いんだから」
「「はーい」」
仲良く返事をして目の前のご飯をパクパクと口に入れる。自分で作った料理だから自画自賛になるんだけどとても美味しくて手が止まらない。
「エスキモーちゃん大丈夫ですかぁ? 食べた分筋肉じゃなくて胸とかお尻に行ってるんじゃ……」
「こら、体突っつくのやめなさい。しょうもないこと言ってないで早く食べるよ」 「ふぁーい」
談笑しつつもモグモグと食べ進めているとあっという間にお皿からご飯が綺麗さっぱりなくなった。洗い物も3人で協力してやっているせいかあっという間に片付く。歯磨きも済ませそそくさとトレーナーの家からお暇する。
「よし、じゃあまた明日ね。おやすみなさい」
「おやすみなさい、トレーナーさんっ!」 「おやすみ。2人とも気をつけてな」
バイバイと手を振り寮への帰路を急ぐ。旅行楽しみだねと談笑しているとあっという間に寮の玄関へとたどり着いた。
「それじゃまた明日。おやすみ、エスキー」
「はい、おやすみなさい、エスキモーちゃん」
2人別れ自分の部屋へと足を向ける。たまにはこんなゆったりとした日常もあっていいよね。
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誇り高き春の盾。その栄誉は遥か彼方3200m先のゴールへ最初に飛び込んだ者のみに与えられる得難きもの。今私はその難題へと挑もうとしていた。
「天皇賞の盾はメジロの誇り。私も先輩たちに続いて必ず……!」
レース前の控え室、静かに集中力を高めていく。漂う緊張感は1番人気で迎えたことよりも盾の栄誉を得るために走ることへの重圧から来るものが大きい。こう言ったら怒られるかもしれないけど、G1の舞台で1番人気を背負うことにはもうすっかり慣れたから。
「はいはーい、エスキモーちゃん。リラックスリラックスー」
私の隣に座って背中を撫でるこの子はメジロエスキー、そして私とは少しスペースを空けてパソコンとにらめっこしているのは私のトレーナー。ドーベルさんは少し前に応援に来てくれたけど、観客席で見たいと部屋をすぐに出ていった。
「大丈夫ですよ。練習いっぱいやったじゃないですか。私だけじゃなくフラりんとともに」
「そうだね。あとはその成果を本番にぶつけるだけ。大丈夫、分かってる」
私たち2人の様子を見て手元のパソコンを閉じ、スッと立ち上がるトレーナー。
「今日は早めにやっておくか?」
「そうだね。いつものやつ、お願い」
私もそれに合わせて立ち上がり、トレーナーの方へと歩き出す。何やらエスキーははわわって言ってるけど無視無視。
「3200m、大変だと思うけど君なら大丈夫。オレは信じているよ」
「ありがと。あなたがそう言ってくれるから私は頑張れる……んっ……」
1秒、2秒、3秒……もう少し長かっただろうか、互いに満足したところで唇と体を離し元の場所へと座り直す。体の緊張もこれでばっちり取ることができた。
「これ絶対他の人の前でしちゃ駄目ですよ……ひゃ〜〜〜……」
「何そんな茹で上がった顔してんの。前にも見たでしょ」 「そういう問題じゃないですよぉ……わたしも同じこと姉さまにお願いしたら流石にマウストゥマウスは拒否されましたし……」
それはそうでしょとツッコミを入れているとレースの時間が近づいてきた。私は再び席を立ち、部屋の扉の前に立つ。
「それじゃ行ってきます!」
「ああ、頑張ってこい!」 「1番最初にゴールインするところ楽しみにしてますねっ!」
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3200mという長距離コース。前走の大阪杯で見かけたティアラ路線の子たちは姿を消し、クラシック路線を中心に歩んできたメンバーばかりが顔を揃える。もちろん3000mの菊花賞などの長距離重賞を制したステイヤーたちが集うハイレベルな一戦。そんなメンバーの中で私は去年の菊花賞や前走の大阪杯の勝ちっぷりを評価されたのか、堂々の1番人気でレースを迎えた。
「スゥ〜〜〜……ハァ〜〜〜……よし!」
いつものようにゲート裏で深呼吸をして体を落ち着かせる。この長丁場、始まる前から体に力が入っているとスタミナがどれほどあっても最後までしっかり走りきることができない。それを菊花賞やこれまでの練習で嫌というほど教え込まれた。
『さあ最長距離のG1天皇賞春。1番人気は去年の菊花賞の覇者、そして前走の大阪杯を制した13番メジロエスキモー! 2番人気は一昨年の菊花賞覇者、そして去年のこのレースを制した14番フィレラヴォア! 人気の2人が外枠に入るという枠順となりました今年の天皇賞春。果たしてどのような結末を迎えるのか! ファンファーレも鳴り、各ウマ娘ゲートへと入ってまいります』
(注意すべきは隣のフィレラヴォアさんと前でレースを運ぶ内枠のヴェルディさん……2人の位置は常に把握しておかないと!)
気合十分にゲートへと足を踏み入れる。そして静かにスタートを待ち……
『──そして最後に大外14番フィレラヴォアがゲートに収まりまして態勢完了……スタートしました!』
一斉にゲートを飛び出す。少し遅れた子もいるが私はいつもどおりにすんなりとゲートを出て好位につける。
『何人か出負けした子もいましたがすぐに前へと取りつきます。さあ最初の坂越え、ここで先頭を伺いますのは4番ルチルクォーツ。すぐ後ろに6番ヴェルディがつけて坂を下っていきます。1番人気のメジロエスキモーは3番手集団の少し外、2番人気のフィレラヴォアは中団やや後ろに位置取っているか……おっとここで3番手集団から8番ミラクルが前に一気に迫ってハナを奪いました!』
(長距離戦の入りにしては少しペースが速い気がする……無理に追いかけるのは危ない? いや2番手以降はそんなについて行ってないからここで楽に走らせるとマズいかも……)
確かに先頭はペースを上げて後続との差を広げにかかっているが、ヴェルディさん始め2番手から前に詰めていくような子はいない。みんなここで深追いすると最後息切れするのが分かっているみたい。
『──さあ1回目のホームストレッチに入りまして最初の1000mは……1分ちょうど……いややや切るペースか。この距離にしては速めに流れています。先頭と2番手の差は5バ身ほど、またそこから3番手集団との差も4バ身ほど開いています』
(やっぱり先頭が無理を承知で逃げているだけね……私はまだ待ちの時間。いつものように坂の頂上の少し手前から前を捉えに行けばいい)
レースも半分を過ぎようかというところ、マイル戦ならとっくに決着がついているような時間を使って私たちはようやく中盤戦へと足を運ぶ。
『──先頭は変わらずミラクル。2番手との差をキープしています。その2番手も変わらずルチルクォーツ、3番手以降の隊列にも大きな変化はありません。まもなく2000mを過ぎますが……こちらも平均より速め、2分を切るペースで前が飛ばします。人気のメジロエスキモーは4、5番手の位置から前を伺います』
(我慢……我慢……!)
ようやく後続が迫ってくる気配を感じる3コーナー手前、残り1000mほど。我慢に我慢を重ねた私の脚も今か今かと疼いている。
(1秒……2秒……3秒……今……!)
『──まもなく坂の頂上を迎える所ですが、おっと!? ここでメジロエスキモーが仕掛けた! 4番手、3番手と先頭との差を一気に詰めていく! これを見て他のウマ娘のペースも一気に上がります!』
(待ちじゃなくて攻めの姿勢。他の子の仕掛けなんて待たなくても自分のペースで走れさえすれば必ず……!)
『──さあ坂を下って最後の直線へと突入します! ここで先頭はミラクルからヴェルディへと替わりますが……やはり来ましたメジロエスキモーが前を捉えて先頭に立ちます! その後ろからはフィレラヴォアも追ってくる!』
(私についてこられるもんならついてきなさい!)
加速はまだ止まらない。振り返るとみんなが必死な顔をして私を追ってくるのが目に映るけど、そんな脚じゃ私にすら届かない。
(私が見ているのはさらに前! あの子の姿なんだから!)
『──メジロエスキモー突き放す! 残り200mでリード4バ身から5バ身! 2番手争いが激戦になりそうだがこれは文句なし! メジロエスキモー今堂々と1着でゴールイン!』
世界の制したメジロの新たなる至宝も桃色の閃光もいないこのレース、負ける道理がなかった。レコードという結果はペースが流れた結果だから気にもならない。
『タイムはレコード! 3分12秒3! 今年の春の天皇賞はレコード決着となりました!』
(やっぱり距離が長い分息の入りはゆっくりだけど……うん、もう大丈夫。私、強くなってる)
今年3度目のウイニングラン。自分で言うのはおかしいけれどもうこの中長距離のカテゴリーで国内に相手はいない……あの子を除いて。
(早く……早くあなたと走りたい……早く戻ってきてよ。ね、エスキー)
既に私の意識は夏を越えて秋の大舞台へと飛んでいた。
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「お疲れさまです、エスキモーちゃんっ! レコードですよ、レコードっ!」 「最初の入りから速い決着かなと思ったけど想像以上だったな、おめでとう!」 「ありがとう2人とも」
大阪杯と同じように出迎えを受ける。そしていつものようにトレーナーに抱きつこうと思って近づいたらその陰に……
「エスキモーおめでとう」
「マ……んんっ! ドーベルさん! ありがとうございます!」 「大変だったでしょ。アタシは走ったことないけど、ひとまずゆっくり休んでそれからライブ頑張ってきて」
ここまで来て祝ってくれるとは思ってなかったから嬉しさがいつも以上にこみ上げてくる。それと同時に少し甘えたい気持ちが湧き上がってきて、いつもならしないお願いをしてしまった。
「はい……えーっと……少しお願いしたいことがあるんですけど……いいですか?」
「え、なに? アタシにできることだったらいいけど」 「ギュッてしてもらえないかなーって……嫌なら全然いいんですけど!」
突然だし今までこんなワガママ言ったことなかったから断られるかと思ったんだけど、意外にもあっさり許可してくれた。
「それぐらいなら全然いいって。はい、ぎゅー」
「あ、ありがとうございます……あったかい……」
目がトロンとし、耳もペタリと横に垂れ、尻尾もだらりと完璧なリラックス状態。後ろでエスキーがギャーギャー言ってるような気がするけどそれも全然気にならない。
「よしよし、よく頑張ったね……はい、これでいい?」
「……はっ! は、はい! ありがとうございます!」 「今意識飛んでたでしょ」 「い、いえそんなことは……あるかも」
ドーベルさんの温かさにレース後の疲れも吹っ飛び元気が再充填される。これでライブも全力で臨むことができるかも。
「それじゃあ控え室に戻ろっか」
「……エスキモー、いつものは?」
控え室へと歩き出そうとした時、トレーナーが自分を指差し私に声をかけた。えーっといつものいつもの……あっ。
「もうトレーナーは欲しがりだなあ。はい、ぎゅー」
「そういう訳じゃないんだけど……まあいいか……」
そうして2人が抱き合っているところをまた別の2人が少し離れて見つめる。
「相変わらずラブラブですねえ、あの2人」
「えっ、あの2人付き合ってたの!?」 「姉さまは気づいてなかったんですね……」 「……あとで話聞いてこよっと」
少し呆れ気味の声と何やら少しやる気が入った感じの声が2つ聞こえてくる。そんな2人の声をBGMにして、しばしの間トレーナーと抱き締めあった。
──明日からの温泉旅行、本当に楽しみだなあ……
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朝の大阪駅。ゴールデンウィーク真っ只中ということもあり、駅の構内は人でごった返している。私たちはそんな駅の改札の中、眼下にホームが見える所で残る2人が来るのを待っていた。
「すごい人だね……エスキーたち分かるかな……」
「彼女たちこの近くのホテルって言っていたから改札さえ分かれば大丈夫だと思うんだけど……」
トレーナーが言うにはここ大阪駅はいろんな改札がある上に、他の路線もたくさんあるから本来集合場所には向いていないとか。ただ今回の行き先が行き先だから、特急が停車するこの駅にしたみたい。切符については万が一お互いが見つけられなかったときのために昨日のうちに渡してあるから、なんとかなるんだけど……
「電車の時間まであと20分……ってあの2人じゃない? おーい!」
「エスキモーちゃんっ! お待たせしましたっ! なんとか間に合ってよかったです!」 「ごめんね、待たせちゃって。駅にはもう少し前に着いてたんだけど、改札口どこかなって探しちゃってさ」
無事に2人と合流し、ホームへとエスカレーターで降りる。電車の中で食べるご飯はちょうどホームに駅弁屋さんがあったからそこで4人分まとめて購入した。
「お弁当買ったらいよいよ旅のスタートって感じがするね」
「そうですね、姉さまっ! しかも温泉なんて久しぶりですっ!」
電車の待機列で私とトレーナーが前、エスキーとドーベルさんが後ろに2列で並んでいると、ちょうど2人が前に旅行に行った時の話を始めた。
「えっ、2人で温泉行ったんですか!? いいなー」
「前の話だけどね。去年はずっと海外だったから……2年前とかだっけ?」
当時の記憶を思い出すためか目線を上に向けるドーベルさん。それにエスキーは目をキラキラさせながらドーベルさんの腕を両手で掴んで思い出を振り返る。
「あの時は姉さまから誘ってくださったんですよねっ! ちょっとわたしがいろいろあった時に連れて行ってもらって……本当に嬉しかったですっ!」
「そんなにはしゃぐことだったっけ……でもアタシもエスキーと行けてよかったって思ってるよ」 「ね、姉さま……!」 「はいはい、もう電車来るよー」
ドーベルさんの言葉に目をうるうるとさせ、今にも涙が溢れそうになるエスキーの意識を目の前の旅行に引っ張り戻し、到着した特急電車に乗り込む。私たちの座席は1番前の1番前の席。他の車両の席より少しばかりゆったりとしたものになっている、とトレーナーが言っていた。
「グリーン車、かあ。自分だけなら普通車だったけど、せっかくメジロ家から出してもらえるならって思って奮発しちゃったな」
「トレーナー、ちょっとテンション上がってない?」 「だってグリーン車なんて生まれてこれまで乗る機会全然なかったからな! 気分も上がるよ!」
何やら興奮気味なトレーナーにちょっと引きつつも手元の乗車券の座席番号と座席上部のものを見比べつつ自分たちの座席に座る。1席だけの列と2席横並びになっている列の2つあるうち、2席の方に縦に2列続けて席を取っているみたい。そうしてその前の2席に私とトレーナー、後ろの2席にエスキーとドーベルさんが座る形になった。
「おっと、まだ座るなよ。これをこうして……よし、向かい合わせになった」
「へー、座席回転させられるんだ……すごい……」
トレーナーが私たちの席の下のペダルを踏んで背中の部分を持ったかと思うと、グイッとそのまま180度回転させて、私たちとエスキーたちの席が向き合うようにしてくれた。元々私とエスキー、トレーナーとドーベルさんが縦の並びだったから、回転させたことで私とドーベルさん、エスキーとトレーナーがそれぞれ向かい合って席に座る形になる。
「よ、よろしくお願いします……」
「なんでそんな固くなってるの。せっかく旅行なんだからリラックスしないと」
ドーベルさんとこうして至近距離で長時間顔を見るなんてこと今までなかったから、ちょっぴり緊張してしまっている……うん、ちょっぴりね。
「姉さまとトレーナーさんが向かい合わないように座席振り分けてくれたんですねっ! 流石ですっ!」
「ネタばらししなくていいから!」
エスキーの実情を開けっ広げにする発言にトレーナーがツッコミを入れる。この2人が話すところももう見慣れたものだなとぼんやり見つめていると、前から肩をトントンと叩かれた。
「どうしたんですか、ドーベルさん?」
「ちょっと一緒にデッキに来てもらっていい?」 「いいですけど……ちょっとトレーナー、席外すね」 「おう、いってらっしゃい」
エスキーが何やら恨めしそうに私たち2人の背中を見つめる中、1両目と2両目の間のデッキと呼ばれる部分で立ち止まる。電車の壁に横並びで背中を預けると、ドーベルさんは携帯を取り出して質問を投げかけてきた。
「エスキモーってさ……トレーナーとどこまで行ってるの?」
「えっ、どこまでって……お、お付き合いさせてはもらってますけど……」 「そうじゃなくって、そ、その……キスとかしたの?」
何やら顔が赤くて押しが強い気がするけど気のせいだよねと思い込み、自然な雰囲気を装って質問に答える。
「ま、まあ一応そこまでは……」
「ふ、ふーん……そうなんだ……キスってどんな感じ?」
携帯に高速で何か打ち込んでいっている気がする……いや見ないふり見ないふり……
「柔らかくて……あったかいです」
「柔らかくてあったかい……な、なるほど……ほ、他には何かしたり……」
他になんて何かしたかな……え、えっちなことはまだできてない、というかトレーナーが絶対駄目って言うからしてないし……あっそういえば。
「いつも朝起きてからトレーナーの家に行って2人分の朝ご飯作ってお弁当もそこで渡して、夜もご飯作りに行ってますね。次の日休みだったら外泊届あらかじめ出しておいて、そのまま家に泊まることもあります」
「ふ、ふーん……そこまで……へー……」 「え、えーっとドーベルさん? 顔真っ赤ですけど大丈夫ですか?」
もはや無視することができない顔の茹で上がり具合についにツッコミを入れてしまう。ドーベルさんは私の介抱を手で制しつつ、席へ戻るように促す。
「だ、大丈夫だから……少しお手洗い行ってくるね……それとこの旅行中また話聞かせてね」
「私はいいですけど……む、無理はしないでくださいね?」
様子が少しおかしいドーベルさんを置いて1人座席へと戻る。何の話かとエスキーに必死の形相で問い詰められたけど、そこはのらりくらりとかわしてドーベルさんが帰ってくるのを談笑しながら待っていた。
「お、おまたせ」
「大丈夫ですか、姉さまっ!? もしかして酔ったとか……」 「本当に大丈夫だから、本当に」
エスキーの心配を宥めながら席へ腰掛けるドーベルさん。顔色はさっきと比べてすっかり元通りになっているから、本当に大丈夫みたい。
「よく分からないけど最初から飛ばしすぎるなよ? まだ温泉1つも入ってないんだから」
トレーナーが車窓を眺めつつ私たち3人に注意をする。その彼の発言に少し引っかかる所があったからトレーナーを問いただすことにした。
「そういえば何個か温泉があるって話だったけど、全部入って回るの?」
「もちろん。時間がなかったら仕方ないけど、せっかく2泊もするんだから全部回って体を休めてさ。そしてまた次のレースを頑張ってもらえたらって思ったんだ」 「そういうことだったのね……ありがと」
なるほどとこの場所を選んだ理由についてすっかり得心し、トレーナーの気遣いにも感謝する。やっぱり私のことを考えてくれていると思うと、心が温かい気持ちに包まれていく。
「トレーナーと一緒に温泉入れないのが残念だけど、まあそれはいっか」
「……貸切風呂あるけど」 「えっほんと!? やった……ってあれ? 2人ともどうしたの?」
盛り上がっている私たちを目を細めて見つめる目の前の2人。口からは「えぇ……」といった声も漏れている気がする。
「え、エスキモーちゃん……トレーナーとお風呂入るんですね……」
「止めた方がいいのかな……いやでも……」
私は慌てて2人の誤解を解こうと弁明を始める。
「いやいや流石に水着着るから! タオル1枚とかまだ早いから! トレーナーも言ってあげてよ!」
「そ、そうだぞ2人とも。流石にそこまではしないって!」 「「えぇ…… 」」
そのあとも疑いの目を向ける2人をどうにか説き伏せたところでお昼の時間が来て、各自選んだ駅弁を少し食べさせあいっこしつつ楽しく食べた……トレーナーとドーベルさんは流石にしなかったけど。
『まもなく城崎温泉、城崎温泉駅に到着いたします。出口は〜』
駅が近づいてきた旨の車内放送が流れたところで4人で座席を元に戻し、荷物を棚の上から下ろす。混雑に巻き込まれないよう先んじて降車口近くまで移動し、列車が駅に到着するのを待つ。
「なんかあっという間だったな」
「ちょっと疲れちゃったけどね……」
全ては私とポツリと零した一言から始まった2人の誤解。それを解こうと必死に釈明を繰り返し行っていると、自慢のスタミナもすっかり黄信号が点灯していた。
「もう分かりましたから旅行楽しみますよっ!」
「そうそう。せっかくここまで来たんだから。ほら、ドア開いたよ」
列車が止まり、開いたドアからホームへと降り立つ。その時からほんのりと温泉の匂いが漂ってきている気がした。
「よし、それじゃ旅館に荷物預けたら外湯巡り出発だ!」
「「「おーっ!」」」
目的地へとたどり着き、旅が本格的に始まる。はたしてどんな楽しみが待っているだろうと胸を弾ませて、一行は先へ進む。
─────
「「「わぁ……すごい……!」」」
駅舎を出るなり目の前に広がる景色にトレーナーを除く3人の口から揃えて同じ声が出た。これぞ和風といった街並みに駅を出る前から漂う温泉の香りにもうワクワクが止まらない。
「あっ! もしかしてあれって温泉じゃないですかっ!?」
「ほんとだ。駅のすぐ側に温泉あるんだね。流石温泉の街って感じだね」
エスキーとドーベルさんが2人感嘆の声を漏らす。寺院を思わす構えは「さとの湯」と呼ばれる外湯の1つらしい。
「ここにもうあるんだね……てことはこれから先にも……?」
「ああ、もちろん。というよりこれから先がメイン通りだ。まさにこれぞ温泉街、温泉好きにとっては理想の街と言っても過言じゃない風景になってるからな」
トレーナーの言葉に胸を躍らせつつ、横目にお土産屋さんやお食事処に目を次々と奪われながら歩くこと数分、目の前に広がったのはトレーナーが言ったとおりの素敵な街の姿だった。
「なんだかタイムスリップしたみたい。この橋の灯籠とか、川の流れとか全部……」
「名前では聞いたことありましたけど、こんな場所だったなんてっ……!」 「おいおい、一つ一つに感動してくれるのは連れてきた甲斐があるってものだけど、そんな調子じゃあっという間に日暮れちゃうぞ。もうすぐ旅館着くから荷物預けてから散策しよう」
キャリーバッグのゴロゴロといった音を4つ鳴らしながら一行は表通りから1つ裏に入った少し人通りが少ない道へと入る。そして突き当たりを左に曲がるとすぐそこに今回泊まる宿が見えた。
「お宿もこれぞ和の旅館って感じですね」
「ああ。ちなみにここは本館と別館2つあってオレたちが泊まるのは別館なんだけど、メジロのおばあさまが気気を利かせてくれて、別館貸し切りにしてくれたんだ」 「えっ、貸し切り!? 旅館を!?」
嬉しいけどそれはやりすぎじゃないと思っていたら、元々貸し切りのプランは存在していて、その上で特別に4人でそれをさせてくれたということらしい。
「料理も自分たちの部屋で食べられるみたいだから、これだったら他の人と会う機会も少なくて済むだろうし」
「流石トレーナー、やるじゃん」
うりうり〜と肘でトレーナーの脇腹をグリグリと突っつく。いててって言いながらも私が満足するまで止めようとしない所に彼の優しさを感じる。
「外湯巡りのチケットもらえるんだけどそれはチェックインしてからみたいだから、ひとまず荷物預けて少しぶらっと回ってみない?」
「「はーい!」」
ドーベルさんの言葉でぞろぞろと旅館の中へと入る4人。荷物をフロントに預け少し身軽になった私たちは早速表通りへと繰り出した。
「かりんとう? 名物なのかな」
「エスキモーちゃんっ! 向こうにプリン屋さんありますよっ!」 「これ太鼓橋って呼ぶのかな。街の風景ともバッチリ合ってるし、温泉だけじゃない魅力がここにもあるんだね」 「大人になってから来るのも街の見え方が変わって悪くないな」
各自が思うがままの街の楽しみ方をして歩みを進めていると、まさに街の中心地と言ってもいい建物が目の前に現れた。
「これって旅館?」
「いーや、これが外湯の1つ、『一の湯』だ。昔の偉い人が『これぞ天下一の温泉』って言ったからこの名前になったらしい」 「こんなに立派だもんね……大きいなあ……」 「あとで入れるからまた来よう」 「うん。とりあえずもうちょっと先も見てみたいな」
そこから先も土産物屋さんやごはん屋さん、まだ開いてなかったけど昔ながらのゲームセンターが通りの両隣に点在し目が飽きることがなかった。少し足を止めては店の中に入り、また歩き始めたと思えば違う店に入りの繰り返しで時間の割に奥まで進めないまま、チェックインのために宿に戻ることになったのは残念だったけど。また温泉巡る時に来ればいいかな。
そうして一旦宿に戻りチェックインを済ませ部屋に上がる。案内されたのは畳が敷かれ、窓際には机と椅子が並べられたスペースがある、これぞ温泉旅館といった部屋だった。一度ここで私とトレーナー、エスキーとドーベルさんの2人ずつに別れる。
「このスペース、『広縁』って呼ぶんだって」
「名前ついてたんだ。トレーナー詳しいね」 「いや、今調べた」 「さっきの感心返してよ……」
2人とも荷物を全て床に置き、しばしの間脚を休める。疲れている訳ではないけど少し一服したかった。机の上のお菓子にも手を伸ばしていると、暇になったのか別部屋の2人がこっちの部屋に入ってきた。
「もうお菓子食べてるんだ。もうお腹空いたの?」
「チッチッチッ、これはこれでいいんですよ姉さま」 「え、どういうこと?」
既にお菓子をいくつか食べていた私たちを咎めようとしたドーベルさんにエスキーが有識者風に解説を始める。
「お菓子って甘いですよね? 甘いということはすなわち糖が含まれているということ。その糖は体内に入ると血糖値を上げる役割を果たします。もちろん空腹状態を満たすことにも直結します」
「ふんふん、それが温泉とどう繋がってくるの?」
その問いかけにありがとうと言わんばかりに大きく頷くエスキー。
「温泉って入ったら意外とカロリー消費するんですよ。すなわち体から糖が失われるということ。ではもし体に糖が少ないまま温泉に入るとどうなりますか? はい、エスキモーちゃん」
お茶を飲んでいる中突然質問を振られ、少し気管に入ってむせる。トレーナーに背中を擦ってもらって回復してからエスキーが出した問題に答えた。
「体の中の糖がもっと少なくなるから……あっ血糖値がもっと下がっちゃう?」
エスキーが最初に言っていたことを思い出し、それの逆を回答するとエスキーからピンポンピンポーンとの声に合わせて拍手が送られる。
「大正解です、エスキモーちゃんっ! そう、エスキモーちゃんの言うとおり血糖値がぐっと下がっちゃいます。そうなっちゃうと貧血や立ちくらみ……倒れてしまうかもしれません。それ危ないですよね」
「怪我しちゃうかもしれないもんね。そっか、そういうことだったんだ」
なるほどと感心するドーベルさん……と私とトレーナー。エスキーはそんな私たちを見て、
「知らずにパクパク食べてたんですかっ!?」
とマジかと言わんばかりの大声を上げた。だって部屋に入って美味しそうなお菓子あったら食べちゃうよね……
「もう怒りましたっ! 姉さまも早くお部屋に戻ってお菓子食べますよっ!」
「えっ、ちょっと!? 腕引っ張らなくてもいいんじゃない!?」
バタバタと足音を立てて自分たちの部屋に戻っていく彼女たち。私たちはそれをお茶を啜りながら見送る。
「うーん……どうしよっか?」
「とりあえず浴衣に着替えて外行く準備するか」
そう言いつつもなかなか腰を上げようとしない2人。そんなゆったりとした時間は、また別部屋の2人が戻ってきて私を向こうの部屋で浴衣に着替えさせようと連れて行くまで続くのだった。
「トレーナーさんは1人で着替えてくださいねっ! それではっ!」
─────
「お、3人とも着替え終わったのか……お揃い?」 「たまたまだよ、たまたま被っちゃって」
この旅館は女性やウマ娘向けに柄物の浴衣を貸し出してくれるサービスがあるらしく、女将さんに勧められついつい大人っぽいシックなデザインのを選んだら、他の2人も図らずも同じ柄の浴衣を選んでいた、というわけ。
「トレーナーもなかなか似合ってるじゃん。かっこいいよ」
「そんなことないだろ。エスキモーこそ大人っぽくて素敵だよ」 「トレーナー……」 「はいはーい、惚気はそこまでにして早く行きますよー」
2人の会話をあっさりと引き裂き、私の腕を引いて部屋の外へと向かうエスキー。惚気って何よ、惚気ってさ。
一旦フロントに部屋の鍵を預け、携帯で外湯の場所を確認する。
「えーっと1番近いのが地蔵湯でその次が柳湯、一の湯の順番か……さとの湯は駅まで戻らないといけないからどうしよっか」
「だったら駅まで一旦戻ってまた北上する感じでいいんじゃない? お昼駅に着いた時から気になってたから行ってみたいし」 「そうですねっ! ではレッツゴーですっ!」
ドーベルさんの提案を受けて、駅までの道を戻ってさとの湯に入り、また北上して地蔵湯→柳湯……と西へ向かっていくことに決定した。歩くのは全然平気だけど効率的に回れるならそれに越したことはないからね。
「ほんと街並み素敵だよね……っと!?」
慣れない下駄で少しつんのめり、危うくこけそうになった所をトレーナーが私の腕を引いて助けてくれた。そういえばエスキーとドーベルさんの2人に見られるのはちょっとと思って、いつも握っているトレーナーの手を今日は握っていなかったことを思い出した。
「あの、さ……こけたら大変だから手、握ってくれない?」
「? いつものことだろ。ほら」
そう言って何の躊躇もなく右手を差し出してくれるトレーナー。私は後ろの2人をちらりと見やりながらその手を深い形でギュッと握ると、トレーナーに恥ずかしくないのかと問いかける。
「トレーナー? 見られてるけど平気なの?」
「いや? 他の人に見られるならまだしもこの2人なら別にいいだろ? エスキモーは嫌か?」 「そんなことはないけど……うーん……考えるのやーめたっ! 早く行こっ、トレーナー!」
旅の恥はかき捨て。他に知ってる人もいないし、この2人なら口が堅いから大丈夫だろうしまあいいっか! そう割り切って最初の外湯へと足を進める私たち一行だった。
「姉さま見ました? 手繋いだと思ったら自然と恋人繋ぎに握り替えましたよ?」
「あれは慣れてるね、うん……」 「実はレース前ルーティーンとかいってハグとキス要求してるんですよ、エスキモーちゃん」 「え、ほんと!? 進んでるなあ……」
……後ろで聞こえるこそこそ話は無視することにした。
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+ | みんなで城崎温泉②〜メジロのお屋敷にて |
─────
「ようやく1つ目の温泉ですね。えーっとなになに……1番新しくできた外湯でふれあいの湯、ですって」 「ふれあい?」
入口近くに書いてある説明書きを読み上げるエスキー。駅が近いから時折電車が発車したり停車したりする音が聞こえる。
「まあとりあえず入ろうか。温泉から出たらまたここ集合で」
「はーい。いってらっしゃーい」
男湯に1人入っていくトレーナーの背中を見送り、3人は女湯の方へと向かう。ゴールデンウィーク真っ只中だからか、そこそこ人が入っていた。脱衣所で浴衣や下着を脱ぎ浴場へと入る。
「露天風呂か、大きさ以上に広々と感じるね」
「そうですね、自然を感じるというかなんというか」 「早く体洗って入っちゃいましょうっ!」
3人並んで髪や体を洗い、湯船に髪が浸けないようにまとめ上げる。タオルもお湯に浸からないように気をつけてそっと浴槽に足を沈める。
「温かい……」
「これは最高ですねぇ……あぁ〜〜〜……」 「こら、エスキーはしたない。足伸ばさないの」
3人とも忙しい毎日を忘れ体の底からほんわかとのどかな気分になる。まるで全身から疲れがお湯に溶け出していくように、張っていた緊張の糸がプチンプチンと音を立てて切れていくように。
「温泉ってやっぱりいいなあ……エスキーが誘ってくれてよかった」
「とんでもないです、姉さまっ! わたしが姉さまと一緒に来たかっただけですからっ!」 「ほんとアンタってドーベルさんのこと大好きだよねぇ……付き合っちゃえばいいのに」
頭がお湯の温かさで蕩けていたせいか、ポロリととんでもないことを口走ってしまう私。とんでもないと気づいた時にはもう遅かったんだけど。
「い、いやいやいやっ! 何言ってるんですかエスキモーちゃんっ!? お付き合いってそんな恐れ多いっ! ねっ、姉さまっ!?」
エスキーの方は当然のアワアワした反応を見せる。ただドーベルさんの方が思いもよらぬ反応をして……
「あ、アンタにそうしたいって言うなら……もちろん全部片付いたら、だけど」
「えっ!? ドーベルさん!?」
ここはエスキーと同じように「そんなことありえないでしょ!?」ってお叱りを受けるのかなと身構えていたら、何やら湿っぽい雰囲気のセリフが返ってきた。
「ちょっ!? 姉さまっ!?」
「もしかしてアンタたち……」
ギロリとした目線をエスキーに向ける。エスキーは全力で首を左右に振って違うと否定した。
「……全部終わったらまたアンタの気持ち聞かせてね。それじゃアタシ先出てるから」
バシャッといった音を立てて湯船から立ち上がり、脱衣所へと向かうドーベルさん。その背中をぼんやりと見つめながら、しばしの間ボーッとしていた私たち2人。
「……また全部話聞くから」
「ごめんなさいそれは勘弁してください」
─────
ドーベルさんに遅れること数分、私たち2人も湯船から上がり、体を拭いて髪を乾かし再び浴衣を着る。着替えが済んで待ち合わせ場所に向かうと、既にトレーナーとドーベルさんの姿があった。
「ごめん、待った?」
「ううん、オレも今出たところだから」 「ありがと。それじゃ行こっか」
思っていたより1つ目のお風呂から長湯しすぎたせいか、2つ目の地蔵湯へ少し速歩きで向かう。歩くこと数分地蔵湯まで戻ってきた私たちはまた1人と3人に別れ温泉に入りまた出て歩き、体をぽかぽかさせながら次々に外湯を制覇していくのだった。
─────
「ここが最後の7つ目、鴻の湯ね」 「ええっとここは……夫婦円満、不老長寿、幸せを招くお湯、ですって。エスキモーちゃん、トレーナーさんと一緒に入ってきたらどうです?」
お昼の電車の「姉さまを独り占めしてっ……!」と復讐かと言わんばかりにエスキーがからかってくる。それに対してエスキーの思惑どおり顔を真っ赤にして返事をしてしまう。
「ま、まだ一緒に入ったらトレーナー捕まっちゃうから一緒に入れないし!」
「そうでしょうそうでしょう、まだ恥ずかしくて一緒になんか……ってえっ、そっちですかっ!?」 「えっ? 何か私変なこと言った?」
あれ? 違う? なんかエスキーとドーベルさんの反応がおかしいような……
「入るかどうかのボーダーそこなんだね……」
「もしかして周りにバレない状況なら一緒に入るのでは……?」 「こら! そこひそひそ話聞こえてるから! ほらトレーナー、さっさと入って部屋戻ろっ!」 「お、おう……」
まだこそこそと話し合っている2人を置き去りにして女湯へと入っていく私……もちろんトレーナーは男湯入ったからね!? 一緒に入ってないからね!?
「もうあの2人ったら……あっ入ってきた」
1人先に湯船に入ってだらーっとしていると、遅れて2人も私の横に並ぶようにお湯に体を沈めた。
「……念のため確認しますけど、一線は越えてませんよね?」
「当たり前でしょー……トレーナーはトレーナーだし、私中等部だよ? そんなことしたら2人とも学園にいられないって」 「……バレなかったら?」 「……黙秘権を行使します」
ブクブクと音を立てて顔を少しだけお湯に沈め、物理的に口を塞ぐ。沈黙は金、昔の人はよく言ったと思うよ、うん。
「エスキモー大丈夫。だってこの子は……もごもご……」
「わーっ!? 姉さま一体何を言い出すんですかっ!? 言っちゃ駄目に決まってるじゃないですかっ!?」
何やら興味深い話が聞けそうだと湯船に浸かっていた口を解放し、矢継ぎ早に言葉をぶつける。
「えっ、もしかしてエスキー誰かに手を出したの? いやでもエスキーはそんなことするタイプじゃないし、そもそも周りに男の人の影もないし……あっ、もしかして女の子に手を出したんじゃ……! 詳しく教えてよ!」
「ノーコメントっ! ノーコメントですっ! 姉さまも変なこと言い出さないでくださいっ!」
ぷんぷんと頬をぷっくり膨らませて怒ってしまったエスキーを見て、私とドーベルさんの口からクスクスっと笑いが溢れる。久しぶりにこんな慌てた彼女を見た気がする。
「もうっ! わたし先出ますからっ!」
「ごめんってエスキー。あーあ、怒っちゃいましたね」 「流石に悪かったかな……アタシも先出るね」
エスキーに少し遅れてドーベルさんも湯船から上がり浴場の外、脱衣所へと足を運ぶ。そんな中、私は今度はドーベルさんに向けてとんでもないことを口走ってしまった。
「はーいママ。またあとでねー」
「……ママ?」 「えっ……あっ……私今何を……」
ドーベルさんの足がピタリと止まったと思うと、くるりと体を反転させて私の方へペチャペチャと足音を立てて歩いてくる。
「今の……どういうこと?」
「いやちょっと小さい頃思い出してたらつい……あはは……」
自分でも苦しい言い訳だと思う返事でまた更問が来るのかと少し身構えていると、ドーベルさんはなぜかあっさり引き下がり、再び脱衣所へと歩いていった。
「あ、危なかった……これ以上変なこと言わないようにしないと……」
そうやってお風呂場で気を引き締め直していると、当然脱衣所の会話は聞こえないわけで……
─────
「ねえ、エスキー、ちょっといい?」 「なんですか姉さま。わたしはまだ許してませんよ」 「いやそうじゃなくて……あのね、エスキモーがさっきアタシのこと『ママ』って呼んだの。アタシは単なる言い間違いかもって思ったんだけど……」 「……怪しいですね。今はとりあえず今度の分析結果が出るのを待ちましょうか」 「そうだね。今は何も聞かないことにする」
─────
全ての外湯を体験した私たち4人は旅館へと戻り、夕食をいただくことにする。本当だったら各自の部屋に分かれて食事をしないといけないところだったけど、旅館側が気を遣ってくれたのか、エスキーたちの方の机を私たちの部屋に持ってきて4人で食べさせてくれることになった。行きの電車と同じように私とドーベルさん、トレーナーとエスキーが向かい合わせになって食卓を囲む形になる。
「こっちはお肉で、こっちは蟹……盛りだくさんでよだれが止まりません……じゅるり……」
「はいはい、先にお箸をご飯に伸ばそうとしないの……はい、それじゃ全員の飲み物も揃ったところでいただきます」 「「「いただきます」」」
ドーベルさんの合図で手を合わせてボリューム満点の料理に各自手を伸ばす。お肉も但馬牛?っていって有名なブランド牛みたいですっごい柔らかかったし、蟹も旬の季節じゃないけどたっぷり身が詰まっていてほっぺたが落ちそうな美味しさだった。
「天ぷらもサクサクしてますし、お刺身も新鮮……大満足でしたっ!」
普段は節約しながら作っているから、こんなに豪華な料理を食べる機会は久しぶりだった。たまにはこういうのも食べないと駄目なのかな……いやでもお財布事情が厳しいし……うーん……
全員が食べ終わったタイミングを見計らって女将さんが部屋に入ってきてお皿や飲み物を入れたグラスを下げていく。机も片付けて布団を敷いてくれるとのことだから、それに合わせて各自歯を磨いたり、本館まで少し足を運んでリラクゼーションチェアで体を解したりと思い思いの時間を過ごしていた。
「そろそろ布団も準備してくれたかなー」
「マッサージチェア気持ちよかったな。やっぱりああやって解されると体が軽くなった気がする」
横に並んでリラクゼーションチェアを利用し、時間中ひたすら「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と声に出して2人。トレーナーからはその年齢でまだ早いなんて言われちゃったけど、気持ちいいものは仕方ない。
「せっかくだし部屋に戻ったらマッサージしてあげよっか。見様見真似だけど」
「それを言うならオレの方が専門だからな? 痛くて泣いても知らないからなー」
そう言い合いながら部屋に戻り襖を開ける。するとそこには……
「あれ、布団1つ……?」
「トレーナー、なんか女将さんに言った……?」 「言ってない言ってない!」
2人してお互いの顔を見合わせる。まさかとは思うけど別部屋の2人の方はと思い、部屋に入らせてもらうと全くそんなことはなく、2つ並んで布団が敷いてあった。
「あれ? そっちは普通なんだね……」
「どうしたんですか、エスキモーちゃん? 部屋に入ってくるなり何やら不思議な顔して」
私を部屋に招き入れるや布団にダイブしたエスキーがこっちに怪しいものを見る目で視線を送ってくる。ドーベルさんはどこかと客室を見回すと、窓際の広縁で携帯に何やら打ち込んでいた。
「ううん、なんでもない。ごめんね、いきなり押しかけちゃって」
「いいんですよー……あっ、もし部屋から変な声が漏れてきても聞こえなかったことにしてあげますから安心して……」 「アホか! そんなことしないっての!」
とんでもないことを言い出すエスキーを放っておいて自分たちの部屋へと戻る。トレーナーはさっきのドーベルさん同様広縁で椅子に座りながらも何か落ち着きがない。私は彼と机を挟んだ反対側の椅子の背を引いて腰かけつつ、おそらく悩んでいるだろうことに1つ提案を持ちかける。
「どうしたの、トレーナー。布団1つなことそんなに気になるならもう1つ出してもらおっか?」
「流石に今から呼びつけるのは悪いし……別に嫌ということじゃないから」 「そ、そっか。まあ私も別に嫌って訳じゃ……」
そう言った途端、さっきのエスキーの言葉がフラッシュバックする。変な声って……そういうこと、だよね。
「そうだよな! 君がオレの家泊まりに来る時引っついて寝ているもんな! うんうん、今更別に変なことじゃない!」
「え、大丈夫なのトレーナー? お酒飲みすぎちゃった?」
食事の際せっかくだからと地酒を少し飲んでいたことを思い出し、お酒に酔ったことで変なテンションになっているんじゃないかと危惧する。ただトレーナーはスッと落ち着き、私の顔を真剣な目で見つめる。
「こういうことは大人が年頃の女の子に言うことじゃないし、むしろ言っていいのかって問題でもあるんだが……大丈夫、オレから手は出さないから安心してほしい」
トレーナーが心配していたのはエスキーが暗に伝えてきた行為についてだった。私が彼をというより彼が私をということを懸念していた。万が一があってはいけないと、彼はそう私に伝えた。そんな心配そうな彼を安心させるように私はニッコリと微笑む。
「大丈夫、私はトレーナーを信じてるから。だから1つの布団でも気にしてない。あっもちろん卒業したら……ね?」
「まあそこは……善処するよ」
あるか分からない「未来」のことを約束すると、ようやく強張っていたトレーナーの顔が崩れる。私もそれを見てホッとひと息をついた。
「もうトレーナーが変なこと言い出すから解れた体また固まっちゃった……ねえ、さっき部屋の外で話してたこと、やってくれない?」
「部屋の外……マッサージのことか? よし、任せろ。じゃあ布団で少し俯せになってもらってっと」
トレーナーの言うとおり布団で枕に頭を乗せ俯せ状態になる。その私の後ろ、足の方から私の体の上にトレーナーが乗っかり腰からマッサージを始めていく。
「脚を酷使する競技だからもちろん脚を中心にやるんだけど、走るって腰にも当然負担がかかるからここからやっていくぞ」
「うん、お願い……んっ、んっ……〜〜〜っ!」
声が外に聞こえないよう枕にくぐもった声を吐き出す。トレーナーは自分で言うだけあってとても上手にマッサージを進めていく。
「じゃあ脚触るからなー おっ、やっぱり張っているな。丁寧に解していかないと」
「はっ、はっ…………んっ……〜〜〜ぅっ!」
次第に体が火照ってきて段々と声が我慢できなくなってきた。揉まれて筋肉が解されていく気持ちよさに少し眠気も出てきてまぶたが重くなる。
「最後に足の裏を……」
そう言ってトレーナーが私の足を触ろうとしたその時、襖が勢いよく開けられエスキーとドーベルさんの2人が現れた。
「変な声が聞こえると思ったら、トレーナーさんついにエスキモーちゃんに手を……ってあれれ?」
「ほら、そんなことするはずないでしょ。早とちりしすぎ」
何を勘違いしていたのか、というかどこから聞いていたのかツッコミを入れたい所はいくつかあるんだけど、とにかく今は続けてほしかったからトレーナーに進めるよう促す。
「見られててもいいからお願い、トレーナー」
「……分かった、じゃあ触るぞ」
そういってまたグイグイっと指圧され、甘い声が漏れる。入ってきた2人はまた何やらこそこそ話をし始めたみたいだけど内容が耳に入ってこない。
「ごめんなさい、わたしの勘違いでした……」
「はいはい、分かったらとっとと部屋に戻る。行くよ!」
ドーベルさんに背中を押されて部屋を去るエスキーを横目で見送っていると、全て終わったのかトレーナーが私の体から手を離し、汗を拭ってふっとひと息をついた。
「思っていたより凝っていたよ。これからたまにはこうやってマッサージしていかないと……ってせっかく風呂入ったのに汗かいちゃったな」
「はぁ……はぁ……ありがとトレーナー。なんだか体軽くなった気がする……って私も汗かいちゃった」
どうするかとしばし逡巡していると、とあることを思い出す。
「ねぇトレーナー。今から貸し切りのお風呂、行ってみない?」
「いくらなんでも流石にそれは……」 「というかそのために水着持ってきたんだから入らないと損だよ!」
貸し切りのお風呂があると聞いた時からこっそり隠していたお風呂作戦。ただ普通に入るのは私はいいんだけど、トレーナーは絶対断るだろうから水着を荷物に忍ばせておいた。
「そう言われてもオレ持ってきてないし……」
「と言うと思って…、じゃーん! トレーナーの家からこっそり持ってきちゃった」
キャリーバッグの中からトレーナーの水着を取り出し、彼に手渡す。トレーナーは手元の自分の水着を見て少し表情が固まりつつもなんとか言葉を捻り出した。
「一緒に入るのはいいけどさ……これからは一声かけてからにしてくれな?」
「はーい、ごめんなさーい」
反省も程々にお風呂入る準備をしてからトレーナーの腕を取り、フロントに確認を取ってお風呂へと向かう。その間トレーナーは「マジで一緒に入ることになるとは……」みたいなことしきりに呟いていたけど、お風呂の脱衣所に足を踏み入れると覚悟を決め、浴衣を脱ぎ始める。
「ちょっ! 私まだいるから!」
「あっ、ごめん。つい普段通り……準備できたら呼んで先にお風呂場行くからもうちょっと待ってくれ」 「は、はーい……あー、焦った……」
危うくもう少しでトレーナーの一糸まとわぬ姿を目に焼きつける所だったよ……
しばらくするとトレーナーから呼ばれ今度は私が浴衣を脱いで水着を着る番になる。お風呂場をチラチラ見ながら着替えてたけど、トレーナーがこっちを見ている気配はまるでなかった。ちょっと不満を抱きつつもお風呂場へ繋がる扉を開けて、座ってシャワーを浴びているトレーナーの近くまで歩いていく。
「お待たせ。背中流してあげよっか?」
「お願いするよ」
トレーナーはくるりと私に背中を向け、私は手拭いにボディーソープを馴染ませる。泡立ったのを確認すると、優しくトレーナーの背中を擦ってあげた。
「……男なのに担当に背中洗ってもらうって、絶対ありえないって思ってたよ」
「一緒にお風呂入るってことだもんね。私だって男の人の背中洗ってあげるなんて考えたことなかったもん」 「それはそうだよな……」
静かにトレーナーの体を洗い、今度は私が髪や尻尾を洗ってもらう。背中は流石に水着外さないといけなくなるからお湯で洗い流すだけにした。
「本当に綺麗だよ、君の髪も尻尾も全部」
「よかった、毎日ケアしてる甲斐があったかな」 「こら、尻尾振らない」 「あっ、ごめん。トレーナーに褒められてつい」
耳や尻尾の付け根を触られた際に声が出ちゃった時以外は平穏な時間が続いた。私の方もひと通り洗ってもらい、2人立ち上がって湯船へと浸かる。
「あー、気持ちいい……温泉って何度入ってもいいよね……」
「分かってくれて嬉しいよ。君たちを連れてきて本当によかった」 「私の方こそありがと。また別の所も行きたいな」 「ああ、必ず、きっと」
どうなるのか分からない「未来」の約束を再び2人で交わす。私はそれが一体いつになるのか今は考えないでおくことにした。
─────
そうして談笑しながらゆっくり温かい湯船に浸かり、体も心もポカポカになった。貸し切りの制限時間が近づいた頃になって2人ともお風呂を出て脱衣所に向かおうとする。
「はー、気持ちよかったー ねっ、トレーナー」
「本当最高だったよ。背中も洗ってもらえたし」
そう互いにお風呂の感想を言い合いながらガラガラと引き戸を引き、脱衣所へと足を踏み入れた瞬間とある事実を思い出す。
「……ねぇ、トレーナー?」
「……ん、どうしたエスキモー?」 「着替え、どうしよっか……」 「あっ……」
ギリギリまで制限時間を気にしなかったせいで、とっとと体を拭き着替えて脱衣所を出ないと間に合わないぐらい時間が差し迫っていた。順番に体を拭いて着替えて……なんてできる余裕はなかった。
(どうにかしてここを乗り切るには……ええっと……あっ、そうだ!)
名案、かは分からないけど、というよりこれしかない方法をトレーナーに伝える。
「よし、分かった。お互いに後ろを向いて着替えよう。鏡はもちろん見ないように」
その声でとりあえず水着を着たまま拭ける範囲で髪や体の水分を拭き取り、水着やその中も拭く。全部拭けたら急いで水着を脱いですぐに下着、浴衣の順に着る。後ろで布が擦れる音が聞こえるけど聞こえないふりをする。
「トレーナー、着替え終わった?」
「なんとか。エスキモーの方は?」 「大丈夫……じゃあ急いでフロント寄って部屋帰ろっか」 「そうだな……」
なんだかせっかくお風呂に入ったのにまた汗をかいたような気がする。それは最後に動いた汗か、それとも着替える時に見られてないか、見てないか、ヒヤヒヤした時に流れた冷や汗か。
そうしてお風呂から出てきた旨をハァハァと息を整えながらフロントに報告すると、まさかの言葉が返ってきた。
「制限時間ですか? 確かに設けていますが、お客様はこの別館を貸し切られておりますので、ある程度であれば時間は融通利きましたよ?」
「「えっ……」」
慌てたのがまるで無駄になったことに気づき、お風呂に入る前よりどっと疲れた表情をした私とトレーナーの姿がそこにはあった。
「部屋、戻って早く寝よっか……」
「そうだな……」
その言葉どおり自分たちの部屋に戻ると、私は布団の手前側に位置取り、その間にトレーナーは電気を消し、空いたスペースに体を収める。
「1日楽しかったけどその分疲れちゃったな……」
「オレもだ。とりあえずもう寝よう。おやすみ、エスキモー」 「おやすみなさい、トレーナー」
お互いがお互いの背中に腕を回し、密着したまま目を閉じる。さっきまでお風呂に入っていたからか、いつもより温かい胸の中でゆっくりと眠りに落ちていった。
─────
次の日は朝風呂で何個かお風呂に入ってから、4人揃って水族館へと足を運んだ。縦に長い巨大な水槽があったり、イルカに触れたり、カフェで美味しい料理を食べたりと朝から夕方まで水族館やその近くで楽しい思い出を作ることができた。
そして3日目最終日、翌日から授業が始まる関係で、朝風呂を済ませ朝食を食べたあとはすぐにチェックアウトし宿を出る。ここからまた行きの電車と同じ特急に乗り込み、今度は新幹線に乗るために新大阪駅へと向かう。
「なんだかあっという間だったね」
車内で隣に座るトレーナーに声をかける。トレーナーもそうだなと穏やかな表情で小さく頷く。
「旅行って計画しているときは時間が長く感じるけど、いざ始まってしまえば本当に一瞬で過ぎ去っていくものだからな」
「そうだね……またみんなで行けたらいいな」 「ああ。行こう、一緒に」
私の誘いに向かいの席の2人も同意してくれる。
「いつにしましょうか? 夏は合宿ありますし……秋とか?」
「秋はレース真っ最中でしょ? 有馬記念のあととかは?」 「ナイスです姉さま。でしたらもう予定は早めに確保しないとですねっ」
早くも次の旅行の話へと話題は移っていく。楽しみはまだまだ残ってるぞと言わんばかりに。
─────
「んん〜〜〜っ! 着いたー!」 「お互いお疲れさま。とりあえず荷解きして洗濯物洗って干しちゃうか」 「そうだね。晩ごはんも今日はスーパーの惣菜にしちゃったし、食べてる間に洗濯機回しちゃおうよ」
その日の夕方には最寄り駅に着き、エスキーとドーベルさんとはそこで一旦分かれる。私たちはトレーナーの家に、エスキーたちは寮へとそれぞれ帰っていった。
「お土産もチームのみんなとクラスの分買ったし、問題なしっと。明日はもちろん練習あるんだよね?」
「疲れているなら休みにしてもいいけど」 「ううん、大丈夫! 全然へっちゃら!」
ゆっくり旅の思い出を話しながら、時にはお互いに撮った携帯の写真を見ながら荷物の整理をしているとあっという間に日が沈んで夜になった。慌てて洗濯物を洗濯機に入れて回し、夕飯の準備を済ませる。
「ふぅ……これで食べ終わったら干すだけ。トレーナー、干すの手伝ってね」
「もちろん……こうやって2人で家事するのすっかり慣れちゃったな」
食卓に広げた惣菜を突きながら何やらしんみりとした表情を浮かべるトレーナー。どうしたのと聞いてみると、何やら夢を見たらしい。
「ありえないことなんだけどさ、オレとエスキモーが離れ離れになって2度と会えなくなる夢を見たんだ。お互いに離れたくないのにお別れするそんな夢を」
「そっ、か……まあ本当にありえないって思うけどね! 私とトレーナーはずーっと一緒……でしょ?」
にっこり返した私の言葉に少し沈んでいたトレーナーの表情も明るさを取り戻す。
「そう、だな。ごめんな、変なこと言って。これからもよろしく」
「トレーナー変なの。うん、これからもよろしくね」
そこからはまた旅の話をしたり、これまでのレースを振り返ったり楽しく食卓を囲んだ夕飯時を過ごす私たち2人だった。
─────
「それで結果は……これですね……えっ……」 「アタシにも見せてよ……うそ、これって……」 「もう少し精査する必要はありますが、あなたたち2人の予想は当たってしまったようですね」 「エスキモーちゃん……あなたは一体……」
─────
それは宝塚記念を1ヶ月後に控えたある日の週末のことだった。トレーニングのあとご飯やお風呂が済み部屋に戻ったところで、何やら携帯の通知を示す光が点滅していた。
「えーっとだれだれ……ってエスキーじゃん。さっき直接言ってくれたらよかったのに」
そう愚痴を垂れつつもアプリを開きメッセージを読む。そこには今度の日曜日の13時にお屋敷まで来てくださいと書いてあった。
「ふーん? こんな時に何か用事あったかな?」
「どうしたンスか、エスキモーちゃん? お呼び出しッスか?」
私の独り言に反応して反対側のベッドに寝転がっていたカジっちゃん先輩が寝そべったまま顔をこっちに向けて聞いてくる。
「呼び出し、なんですかね? あっ、もしかしたら天皇賞おめでとう会だったり?」
「それはあるかもしれないッスね。メジロで天皇賞っていったらそれはもう褒められると思うッスよ」 「ですよねですよね! あー、楽しみだなー」
カジっちゃんと2人盛り上がり、なんだか逆に楽しみな気持ちになってきた。ベッドに俯せになって足も少しバタバタさせたりなんかして。ただその時ふと日曜日の天気が気になって携帯で調べる。すると、あいにくその日はお昼から雨が降る予報だった。
(エスキーが天気を全く調べないで外でパーティーするーなんて言わないだろうし……まあ室内でも関係ないか!)
そう合点しスケジュールアプリに予定を入力してから携帯の電源ボタンを押して、枕元へと落とすようにポイッと置く。気にしすぎて眠れなくなるのも嫌だし、考えるのを放棄して横になる。
「今日はトレーナーさんの所行かなくていいンスか?」
そういえばと思い出したように向こう側のベッドから体をこっちに向けてカジっちゃん先輩が聞いてくる。私もそれに合わせて先輩の方に体を回転させ、互いに向き合う形になって返事を返した。
「今日はチームのトレーナー同士で飲み会するんですって。カジっちゃん先輩のトレーナーも行くみたいなこと行ってましたけど、聞いてません?」
「そういえば今日は飲みに行くって言ってたような……でも私がそれ以上突っ込まなかったせいか、何のとは教えてくれなかったッスね」 「……もうちょっと自分のトレーナーとコミュニケーション取った方がいいんじゃないですか?」 「うっ……全くもってそのとおりッス……」
頭の枕を引っ張り出すとそれに顔を埋め「私は……私は……」みたいなことを言い出す先輩。やっぱりこの人コミュニケーション能力が、というか小動物ライクな心の持ち主だから周りへの警戒心が強くて外から踏み込みにくいというか、そんな所あるんだよね……
(初めて会った時が懐かしいなあ……)
私が来るまでは他の人と相部屋だったみたいなんだけど、その人が何かの事情で部屋を出て、そこに私が入る形で同室になった。最初はやっぱり他の人みたくなかなか仲良くなれなかったし、「先輩だからしっかりしないと!」といった気持ちがあったのか何かと率先して動こうとしていた。それがいつの間にか私が自然と先んじて動くようになって、立場が逆転。ただそのおかげで中等部と高等部、先輩と後輩といった上下関係が崩れて仲良くなれたのは、結果的に先輩のおかげかなって思ってる。
ついにはハムスターみたく丸まってしまったカジっちゃん先輩の体に布団をかけてあげて部屋の電気を消す。私も布団を体にかけて、先輩の方に体を向けながら静かに目を閉じる。
(次のレースまであと1ヶ月かあ……明日も頑張らないと!)
─────
迎えた週末の日曜日、曇天が覆う空の下、私はお屋敷の門の前に立っていた。
「やっぱり雨降りそう。大きめの傘持ってきておいてよかった」
空を見上げると今にも雨粒が落ちてきそうな天気模様。レースやトレーニングの時ならまだしも、お出かけの時に雨に濡れるのは避けたいから急いでお屋敷の中へと駆け込む。
「ふぅ、10分前に到着っと。あっ、爺や。ごきげんよう」
「お待ちしておりました、エスキモーお嬢様。おばあさまがお呼びですので部屋までご案内いたします」 「おばあさまが? ……うん、分かった」
メイドに荷物を預けると爺やの後ろをついておばあさまの部屋へと向かう。何の話なのかと尋ねても「直接お聞きください」としか言われず、頭にはてなマークが次々と浮かび始めた。
「奥様失礼します。エスキモーお嬢様を連れてまいりました」
「どうぞ、入ってきて」
重厚な扉をノックし到着した旨を伝える。すぐに中から返事があり、爺やが開けた扉に私1人で部屋の中へ足を踏み入れた。
「こんにちはエスキモー」
「こんにちはおばあさま。元気そうで何よりです」 「ありがとう。そこに用意した椅子に座ってちょうだいね」 「……失礼します」
何やらバイトの面接や進路相談と似たような感じでおばあさまと直接向かい合っている椅子に腰かける。ただ椅子は2つあり、自分からして左側の椅子が空いた状態のまま話が進められる。
「急に呼び立ててごめんなさいね。大事な話があったから。エスキーも話を仲介してくれてありがとう」
「いえ、おばあさまの命ですから」
彼女の声が部屋の中から聞こえてきて慌てて振り向くと部屋の隅にエスキーとドーベルさんが用意された椅子に座っていた。入ってきた時はちょうど扉に隠れていて見えなかったのだろう、部屋には私とおばあさま、エスキーとドーベルさんの4人が静かに椅子に腰かけていた……私の隣の空いた席に誰か来るのかは分からないけれど。
私が後ろを振り返り部屋の全容を確認し、再びおばあさまの方へ向き直った時、おばあさまが部屋を見渡すやいなやおもむろに口を開いた。
「まずエスキモー、天皇賞優勝おめでとう。メジロの悲願である盾を再びもたらしてくれたこと、深く感謝します」
「いえ、私は精一杯走ったまでです。それに結果が付随しただけのこと」
私の殊勝な態度に大きく頷きニコリと微笑む。ただ二言三言言葉を交わすとすぐにレースの話が終わり、次の話へと進む。ただおばあさまが再び口を開いて話を切り出そうとしたその時、扉が開き誰かが部屋に入ってきた。
「遅れてすいません。今到着しました!」
「トレーナー……?」
入ってきたのは私のトレーナーだった。
「なんでエスキモーがここに?」
「それは私の台詞だよ。トレーナーもなんで……?」
何が何だかよく分からないまま、トレーナーが私の隣の椅子へとおばあさまから勧められたとおり腰かける。いよいよここからが今日の本題らしい。
おばあさま越しに見る空の景色は重く、暗く、予報通り雨粒がポツリポツリと地面を叩き始めた。
─────
「それではこの資料を見てもらえますか」
差し出された2つの封筒を私が立ち上がって受け取り、1つをトレーナーに手渡す。どこかの研究所の名前が表に記された封筒は封をされておらず、クリアファイルに入った資料を簡単に取り出すことができた。
その資料の中身に書いてあったのは──
「『メジロエスキモーとメジロエスキーは親子の可能性があります』……これどういうことですか」
「『メジロエスキモーとメジロドーベルは親子の可能性があります』……おばあさま、これは一体……」
私とトレーナーは手元の資料に書かれた文字を理解することができず、資料を持った手とその声を震わせながら2人同時におばあさまへ質問を投げかけた。おばあさまは質問に直接答える形ではなく、自らの話を聞くようにと私たち2人に伝える。
「エスキモー、まず黙って遺伝子検査をしたこと謝罪します。前の美容師さんを呼んで髪を切ってもらったのもこのためでした」
あの時も少し不自然とは思っていたけどなるほど、そのつもりで私を呼んで髪を回収しようと……
「髪を切ってもらったこと自体には感謝しています。綺麗に仕上げてもらいましたから……でもそれっておばあさまが発案されたことですか?」
普段直接接することが少ないおばあさまが自ら動くとは少し考えにくい。となると、考えられるのは学園にいる誰か、私の近くにいた誰か。隣で私と同じく明かされた事実に動揺しているトレーナーは除外するとして……もしかして……
「わたしです。ごめんなさい、エスキモーちゃん」
そう言っておばあさまの横に立ち頭を下げるエスキー。可能性として最初に考えたのは彼女だから、その事実については驚きは少ない。ただ気になるのはなぜこのような検査をするのかということ、そしてなぜ彼女と血の繋がり、というより親子なのかといったところの2点だ。
「エスキー、頭を上げて」
「いえ、わたしがエスキモーちゃんの気持ちを全く考えずにおばあさまも利用してこんな真似をしたんですから……」
私のお願いに応えず頭を下げ続ける彼女。これ以上お願いを続けても話が進まないと思い、黙っておばあさまが話すのを待つ。
「あなたも聞きたいことがあるでしょう。まずその前にこちらからの質問に答えてもらいます」
「……はい」
息を少し吸い込むと再び言葉を切り出した。
「まずこの資料の結果、あなたとエスキー、あなたとドーベルとの間に親子関係があることが分かりました。こちらも何かの間違いかと思い複数の機関に調査を依頼しましたが全て同様の結果となりました。すなわちこれは間違いなく事実だということ。ただし、」
「……」 「今のドーベルに子どもはいません。もちろんその逆もない。彼女の父母は既にいるのですから」
もちろんそれは知っている。だって私も顔を見たことがあるのだから。
「それでエスキーの方ですが……これから言うことは絶対に他言無用です。メジロ家の最重要機密とまで言っていい話です。2人とも、いいですね?」
「「はい」」
絶対にとまで言われた機密情報。その秘密とは……
「彼女は元々ウマ娘ではありません。アグネスタキオンのクスリを飲んでウマ娘になりました。元々はドーベルのトレーナーです」
「「……え?」」
言葉が出なかった。あのエスキーが元々ウマ娘じゃない? クスリを飲んでウマ娘になった? それにドーベルさんのトレーナーって、それって……
「パ、パ……?」
喉から無理やり捻り出せたのはその2文字だけだった。エスキーもその言葉に反応して顔を上げ、静かに頷いた。
「極めて信じがたいことですが、こちらも間違いありません。すなわちあなたはドーベルとエスキー、いやドーベルのトレーナーとの間の子どもということで間違いないでしょう。間違ってたら否定してください」
「い、いえ……違いません……」
ついに暴かれた事実。今までひた隠しにしていた真実が白日の下に晒された。
「そう、私はママ、いやドーベルさんの娘であり、そのトレーナーの娘です」
声を震わしながら自ら言葉として吐き出す。背負ってきた重荷が1つ地面に落ちた、そう思った時、左の腕が引っ張られる。
「ちょっとエスキモー、どういうことなんだ……オレにはさっぱり……」
顔をトレーナーの方に向けると理解できないといった表情で私を見つめる。その見つめる目からは涙が零れそうになっていた。
「エスキモー、私、いやここにいる全員に説明してもらいましょうか、なぜあなたがここ、いや、この世界にいるのか。その答えを聞くために今日この場にお呼びしました」
「ここにいる理由……」
改めて聞かれると自分でも何故だろうといった気持ちになる。朝起きて鏡を見つめ、「なんで私は今ここにいるんだろう。私は一体誰なんだろう」と思うことが幾度、いやほぼ毎日と言っていい頻度であった。気がついた時には「入学式」と書かれた立て看板が設置された学園の門の前に立っていて、なぜかそのまま入学式に出ることになって、私のクラスも席も用意されていて……夢心地のままそれでもしっかりこの世界と向き合わないとと思って今日この日まで走り続けてきた。間違いないのはこれが私がいた「本当の世界」の話ではないということ、ただ夢みたいにこっちの世界で眠ると元の世界での意識が戻る訳ではないことの2つ。それ以上のことは何も分からない。
「私も知りたいんです。なんでここにいるんだろうって、パパとママと一緒に学園で過ごしてるんだろうって。ごめんなさい、答えになってなくて……」
目線を下に下げ、肩をすぼめ少し体を小さくする。そんな私のしゅんとした雰囲気に何か言いたげだったトレーナーも腕から手を離し、静かにこの事実に向き合おうとしていた。そしておばあさまもエスキーも、顔が見えないけどドーベルさんもそんな私を見て何も言えずにいた。
「……分かりました。あなたにも分からなければこれ以上問い詰めるつもりはありません。ただここにいる皆さん、この事実、決して誰にも話してはいけませんよ。エスキモー、いつかなぜか分かれば教えてください」
「……はい」
─────
「「失礼しました」」
私とトレーナー、2人しておばあさまへ一礼し部屋を後にする。椅子から立ち上がった時に見たエスキーの顔と部屋の出口へ歩いていく時に見たドーベルさんの顔は同じような表情をしていた。
互いにメイドさんから荷物を受け取り、お屋敷を出る。おばあさまの部屋に来た時はポツリと雨粒が落ちる程度だったのに、今や大粒の雨が地面に降り注いでいた。持っていた傘を開こうとした時、目の前に車が回され、爺やが後部座席に乗るよう私たち2人に促す。
「エスキモーお嬢様にトレーナー様。このままですと雨に濡れてしまいます。家までお送りいたします」
「ありがと。トレーナーも早く乗って」 「……ああ。爺やさんもありがとうございます」
車へ乗り込みドアが閉められる。ゆっくりと発進したメジロ家所有の高級車は門を抜け、トレーナーの家の方へと走り出した。
「……家着いたらちょっと早いけど晩ご飯の準備始めるね。その間テレビでも見ててゆっくりしてて」
「……分かった」
普段と異なり交わす言葉も少なく、会話がすぐに途切れる。おそらくトレーナーは今すぐにでも聞きたいことがたくさんあるんだろう。ただおばあさまの命令をしっかり守り、家に入るまでは何も口にはしなかった。
家に到着し、後ろの席のドアが開けられる。濡れないように差し出された傘の下で自分の傘を開き、送ってくれた者へお礼を伝え、家の玄関までトレーナーと相合い傘をして歩いていく。玄関に着くとトレーナーが鍵を取り出しドアを開ける。
「ただいま」
「おかえり」
保っていた沈黙が破られ、張っていた緊張の糸を1つ切ることができた。ただ全部が全部切れた訳じゃない。互いに手洗いうがいを済ませると、示し合わせたかのようにソファで横に座る。
「なあエスキモー。聞きたいことがあるんだ」
「……うん。なんでも聞いて」
──さあ、2回戦が幕を開ける。
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