殉教者の旅路の始まり
アレクサンドル・ラスコーリニコフという若者……。
彼は神の道を志し、自ら子を成すための機能を捨てたほか、その自己を滅却した振る舞いは他者を驚愕させ、
周囲からは、“神に滅私した狂信者”という理解がなされるほどであった。
そうして宗教に身を捧げてきた彼は、一つの大きな時代の変化にその身を以て直面することとなる。
二十世紀、二度の世界大戦を遥かに超える数の人間を巻き込み、その血肉を以て駆動し続けた姿無き歯車……共産主義思想。
その下で、国家的な宗教弾圧が開始されたのであった。
鋼鉄まがいに冷血な人工概念と、それを基幹とする国家権力が、
神の慈愛を否定し、粉砕していくという苛酷な現実を見せつけられながら、
しかし、アレクサンドルは、教会を破壊し聖職者を殺すばち当たりどもを呪い嘆くのでなく、
目の前で聴こえる嘆きを、流される弱者の涙を救えぬ宗教、その無力さをそこに見たのであった。
絶対の偶像として神を崇めるものでなく、現実の救いを求める人々を救える“力”、
その最短にして最良の手段として宗教に身を投じてきたアレクサンドル。
そんな“狂信者”ではなく“求道者”であった彼にとって、
“救い”を成せぬと判断した宗教にすでに用などなく、
弾圧の中で、彼は自己自身で判断し、人々に手を差し伸べようとした。
人の目を避け僧衣を脱ぎ、凍死せぬ為の焚きつけに聖書を燃やし、糧を得るべく数珠を売り払う。
信仰によっては得られない、現実にある確かな利潤を与えるべく、
アレクサンドルは、それまで自分が宗教者として抱えてきたあらゆるものを捨て去っていった。
他者の救済を。他者の救いを。いざやこの手で、全ての涙を止めるために。
鋼の兵士、その誕生
――その逃避行の果て、
アレクサンドル・ラスコーリニコフは宗教観なき後の自身の信念、それを決定づける出来事に遭遇する。
とある寒村の教会。そこで彼が目にしたものは、兵士によって、無辜の少女が今まさに殺害されんとしている現場であった。
見守る群衆も、年老いた神父も、ただ国家の兵士達の凶行に何もせずに、いずれ訪れる非情の結末を見守るだけ。
立ち上がり、異を唱えたのは、流れ着いてきたアレクサンドル一人。
目の前で他者が死ぬ。これは理不尽だ。故に助けなければ――彼を突き動かしたのはそんな単純な道理。
鋼のような合理性で編まれた男は、瞬く間に兵士達を拳で屈服させ、少女を救おうとしたが……
失血死寸前の少女の命は、助かる事はなかった。
……その少女は死の間際、アレクサンドルに感謝の言葉と共に微笑みかける。
たった一人でも、自分を救おうとしてくれた彼へ、ありがとうございますと。
それでも助けられなかった、そのことを悔い続ける男に、少女は最期まで微笑みを絶やすことなく、
優しいのですね……だから、どうか自分のことを責めないで。
私なんかのために、そんな涙を――
神父の心を気遣いながら、命を散らしたのだった。
その最期の言葉に、なおもアレクサンドルは首を振る。
優しい? 涙だと? この結末に美談と花が添えられる?───認めない。
この瞬間、アレクサンドルという男の中で、何かが滅び何かが生まれた。
神、英雄。そんなものは、ただの逃避。
都合のよい幻想、現実の無力さを糊塗するための欺瞞に過ぎない。
幼子一人さえ救えなかった目の前の惨状こそが何よりの証である。
アレクサンドルは覚醒の齎す衝動のままに、少女を殺めた兵士全員を教会の巨大な十字架で撲殺し、
その殺人の罪を責めた老神父に対しても、彼は表情一つ変えることなく叩き殺した。
片や権力を笠に着て、他者に暴力を振い優越感に浸っていたならず者。
片や自己保身の為に同胞の凶行は責められても、権力を恐れ少女の死は容認してしまえる宗教家。
いずれも、誰も恨まなかったあの少女よりも、重い価値をもつはずがない。
そして、彼は次に決意する。
愚想を撒き散らす者、人間を救わぬ神をこの手で滅ぼすことを。
……アレクサンドル・ラスコーリニコフは、現実での殺人という行為を極める職業、神を弾圧する側の“兵士”となってその身を捧げる。
彼が至った結論、それは、法や道徳――秩序を地上に齎すものは、鉄の暴力である、という真実であった。
神という甘やかな理想に縋るのではなく、国家や組織という現実の歯車に組み込まれる事が、
いかなる弱者をも救い導く最善手なのだと今度こそ信じて───
“機構”との遭遇
兵士という道においても、
アレクサンドルという男は、超人的な求道者としての資質を見せ付けた。
神への否定と、その対極に位置する圧倒的戦果。
秩序に基づく破壊と殺人の累積。
どこまでも無機質で、合理的、数学的な戦場哲学。
殺人者として極まった彼は、
独ソ戦の趨勢を変えたレニングラード防衛戦においても、戦局を覆す程の“英雄的な”戦果を挙げるまでに至った。
その超人的活躍の報は、傑出した人物を求める時計機構にも届き……
接触してきた機構との取引に応じて、
アレクサンドルは国家の枠さえも超えた、無謬なる時計の針を進める歯車として組み込まれる道を選んだ。
刻鋼式心装永久機関を移植され、仮死と蘇生措置を経て、刻鋼人機として新生する道を。
彼が機構の誘いに乗った理由は一つ。
神――神秘が死んだ時代、唯一絶対たる力を持つものとしての科学、機械。
その駆動を滞らせることなく守り続ける事は、
科学の恩恵を受ける多数の弱者の営みを救うことになると、客観的に判断したからであった。
「世界を動かすものは、常に確定した事象でなければならぬ。定まらぬ希望、絵に描いた餅になど思いを馳せては破綻しよう」
「機構を支えて潰れるだけの鉄から削った歯車か……結構だとも、十分だろう」
鋼の男――その陰我
そうしてアレクサンドルは、「誰よりも兵士らしい兵士」として戦っていく。
だが、その内面には、暗く熱い情念が渦巻く。
なぜなら、「信仰との決別。単純な力による前進」を選んだ求道者としての鋼の決意の一方で、彼は「他者、個人への救済」という願いを捨てきれてはいない。
その感情を深く深く無意識の内奥へ沈めているものの、アレクサンドル自身、その願いと真逆の殺戮に手を染め続ける現実の己の姿に矛盾・軋轢を感じているのである。
上記の真実を正確に理解した上で、それでも彼は、己を人間として欠片も信じることはない。
――ただ願うことがあるとすれば、
それは、己は裁かれるべきものによって裁かれねばならない……そんな、死に方の予約であった。
命とは何か? この世の不条理とは何か?
私にはついぞ分からなかった。今も何一つ見えていない。
だからどうか、真理に到達した覚者よ。いつか正しいその行いで、この愚かな男を断罪せよと――
かくしてアレクサンドル・ラスコーリニコフは、
命令を受けて駆動する、欠けることも、止まることもない歯車として自己を規定し……
訪れるかも判らぬ愚者に対する裁きの日を望みながら、今もまた戦いに身を投じていくのである。
……世の裏を知らず、分からず、日々を生きる罪なき命の安寧のため。
「――跨ぐな、この線を。これより先は戦場。生者と死者が、幽明境を異にする場所」
「そしてこの先に踏み入ってもいい生者は、生きながら死者と化せる者……兵士だけだ」
「武装を纏わぬ少女よ。ここは、おまえが立ち入るべき世界ではない」
「闘争を選ぶ存在は総じて塵だ、おまえはおまえの道を往け。生身のままに……胸を張って」
──ならあなたも、そんな姿で、いつまで哭いているんですか……?
──哭く? 私が?
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