■ バシー海峡の日本人②アウシュヴィッツを越える太平洋戦争の悲劇 「ゆかしき世界(2016.11.26)」より
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太平洋戦争中、日本軍の兵士だった小松真一さんが、自身の戦争体験を書いた「慮人日記」という本で、日本がアメリカに負けた原因を21あげている。

前の記事で、その中の1つ「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」について紹介した。
バシー海峡とはフィリピンと台湾の間にある約100kmの海峡のこと。

このバシー海峡では戦争中、10万人から26万人もの日本人が命を失ったと言われている。
これは、東京大空襲や広島・長崎の原爆投下と同じぐらいの犠牲者数だ。

当時、多くの日本兵を乗せた輸送船がフィリピンに向かっていた。

でもこの時、日本軍は制海権を確保していなかった。
だから、アメリカ軍の潜水艦の魚雷によって、日本兵を満載した輸送船は簡単に沈められていった。

魚雷が命中してから輸送船が沈没するまでにかかる時間は約15秒。

この輸送船には、およそ3000人の日本兵が乗っていたという。
15秒の間に、3000人の命がなくなったことになる。

これは、殺人工場といわれたナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所での「殺人能率」をも上回る。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


■ 日本はなぜ負けるのか バシー海峡の悲劇 「3.11後・空気の正体(2016-07-03)」より
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故山本七平氏は1921年(大正10年)生まれで、対米戦争が始まった翌年の1942年21歳の若さで徴兵され、フィリピンの戦争で砲兵隊将校として戦闘に参加、終戦後は現地で米軍の捕虜となり、収容所の中で持ち前の語学力を見出されて通訳などをしていたが、現地で重い病を患い、昭和22年に復員後も長い間闘病生活を続けていた。その後、30代中頃になって自宅で出版社山本書店を立ち上げ、当初は主に聖書関係の翻訳を中心に本を出していたが、その合間に「日本人とユダヤ人」というエッセイ書を書き著し、これが一世を風靡することになった。この本は1970年の出版であるから、山本七平49歳のときである。

(※mono....中ほど略)

いうまでもなく山本七平は在野の人物であり、どこかの大学の教員をやっていたわけではないので、系統的な専門知識があったわけではない。彼が学んだのは主に小さいころから馴染んでいた聖書と、そして復員後に闘病生活を続けながら読んだ多くの江戸期の文献であった。当時は江戸期の文献が神田の古書店などでただ同然のような価格で売られていたので、山本はいつしか文語調や漢文の古文書を難なく読みこなせるほどのレベルに達していた。

なぜ一素人がそんな難解な本にのめりこんでいったのかというと、前にも紹介した通り、山本七平が終生追い求め続けた「現人神」の由来を知るためであった。但し、山本七平が現代人にとって極めてユニークである点は、彼自身が意図したものよりもおそらくはるかに重要な「或る仕事」をなそうとしたことにあると思えてならない。その「或る仕事」とは戦前と戦後を通観して日本人の思想や行動パターンを明らかにしようとしたことだ。

(※mono....全文を転載したいほどだが、それはしない。是非読まれんことを。)

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ミッドウェーの敗北で一挙に形勢の悪くなった日本はガダルカナル島、ソロモン島、ニューギニア、サイパンなどを失い、米軍の攻撃は徐々に本土に向けて北上していた。その途上で大激戦を繰り広げるのがフィリピン諸島であった。バシー海峡というのは台湾とフィリピンの間にある役150キロの海峡であるが、この海峡を航海する日本の輸送船がアメリカ潜水艦にことごとく沈められたという悲劇である。沈没した船は200隻以上、その為になくなった日本人は10万人以上と見積もられている。

小松真一氏はこのバシー海峡の悲劇を日本の敗因の一つとみなしているわけだが、それはミッドウェーの敗北が敗因であったという分析とは意味の違う分析である。このバシー海峡の悲劇が意味しているのは、作戦がそもそもなく、潜水艦に狙われているということが明白であるにもかかわらず、明けても暮れても作戦の変更もできない大本営とその部下たちの無策、無能、無謀さにある。この戦いが象徴しているのは、まさに戦争に突っ込んだ日本人の無謀さであり、無計画さである。

山本七平は次のように書く。

ドイツ人は明確な意図をもち、その意図を達成するための方法論を探求し、その方法論を現実に移して実行する組織を作り上げた。たとえ、その意図が狂気に等しく、方法論は人間ではなく悪魔が発案した思われるもので、その組織は冷酷、無情な機械に等しかったとはいえ、その意図と方法論とそれに基づく組織があったことは否定できない。

一方日本はどうであったか。当時日本を指導していた軍部が本当は何を意図していたのか。その意図はいったい何だったのか。おそらく誰にも分るまい。というのは日華事変の当初から、明確な意図などはどこにも存在していなかった。ただ常に相手に触発されてヒステリックに反応するという「出たとこ勝負」をくりかえしているにすぎなかった

(※mono....以下略)











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最終更新:2021年12月02日 20:53