人間 / 人間社会 / 哲学 / 孤独
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道徳 / 善悪






00:00 オープニング~本日のお品書き
01:44 正論だけど違和感
06:28 『極上の孤独』
13:30 友達は何のために不要なのか
14:46 『幸福の「資本」論』
23:05 人間関係の主観と客観
39:03 まとめ
44:00 オモテ放送エンディング

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■ 本当はトモダチなんて1人もいなくていい 「東洋経済(2015.1.16)」より
平川克美×小田嶋隆「復路の哲学」対談(3)
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 大人の消滅により、日本では親子関係、友人関係が変容してきた。「絆」という言葉に象徴される現代の「仲間意識」は、大人不在の社会の「仲間依存」の構図ともとらえられるのではないか――。
 「いま日本人が考えるべきことは、経済成長ではなく、日本人全体の<幼児化>がもたらしている問題についてではないか」。新刊『復路の哲学 されど、語るに足る人生』が話題の経営者・文筆家の平川克美さんが、コラムニスト、小田嶋隆さんと語り合う。
※ 第1回「そして日本からオトナがいなくなった」
※ 第2回「競争が「ガキとジジイしかいない国」を作った」
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小田嶋:封建制や旧来の家制度みたいなものにはたくさんの問題がありました。そして、それらを壊して人々が実現しようとしてきた、上下や差別のないフラットな社会というのは、基本的にはすばらしい理想だと思うんです。

ただ、家制度みたいなものがなくなって、すべての人がフラットにつきあうような社会が実際に立ち現れてくると、「大人がいない」という問題が表面化し始めた。そのことにたじろいでいるのが、今という時代なのかもしれません。
+ 続き
100%正しいからこそ、厄介な問題

小田嶋:「人権」のように、否定しようのない正論って、突き詰めて行くと非常に厄介な問題をはらみ始めますよね。たとえば「ハラスメント」っていう概念は、今やセクハラとか、パワハラとかという形で、かなり社会に定着しています。これは、それまでの刑法で裁かれてきた罪や犯罪とはちょっと異質なものだと私は思うんです。

それまでの刑法で裁かれるような犯罪っていうのは、被害を与えた人間の側に悪意があったか、あるいは動機があったか、ということが量刑においてかなり重要な要素として問われました。たとえば人の足を踏んじゃったときに、踏もうと思わなかったのに踏んでしまったのか、怪我をさせてやろうとして踏んだのかではまったく違うわけです。故意じゃなければ過失傷害であって、傷害罪とは違う、というように。

ところが、ハラスメントという概念は、加害者側がどういうつもりだったかということにかかわらず、被害者が「被害を受けたと感じた」という事実が重視される。人種差別や女性差別もこういう考え方に基づいていると思いますが、これって、100%正しい考えなのにもかかわらず、すごく厄介な問題をはらんでいる。

平川:わかる。すごく厄介だよね。でも、正しいんだよ(笑)。

小田嶋:そうなんです、完全に正しいんです。この考え方を受け入れないかぎり、性差別とか民族差別のいちばん深刻なところが解決しませんから。ただ、このハラスメントの概念を拡大していくと、とても厄介なことが起きる。

わかりやすい例は、言葉狩りですよね。別に差別の意図はなくても、「言われたほうが嫌な思いをする言葉は使ってはいけない」という論理自体は正しい。でもその結果、たとえば「バカチョンカメラ」なんていう言葉を使ってはいけないことになってしまう。「チョン」は朝鮮人のことじゃないんだけど、誰かが「朝鮮人を馬鹿にしている」「差別語だ」と言い出すと、途端に使えなくなってしまう。

平川:言葉狩りというのは、かえって差別を増長するようなところがあるよね。

責任を取れる大人がいないと、正義は横行する

小田嶋:「もともとは違うんだ」と言っていても、聞く側に「君たちがそのつもりじゃなくても僕たちにはそう聞こえて不愉快だ」という人が現れた瞬間、「じゃあこの言葉はお蔵入りにしよう」ってことになっちゃうんです。

平川:新聞なんかだと「障害者」も「障碍者」と書けって言われたりするよね。

小田嶋:ああいうのも大っ嫌いですね。おためごかしですよ。だって、それを言うなら日本経済新聞の「經」の字って、漢和辞典で見たら「首をくくる」という意味だって書いてありましたから。ひらがなで書かないと「日本首くくり済み新聞」という意味になってしまうとも考えられる。

平川:わはは! 言葉狩りについては、実際には出版社にしても新聞社にしても、真剣に「これは差別にあたるだろうか」と考えて言葉を選んでいるわけじゃなくて、「あそこもやっているからうちも」ということでやっちゃう、ということだと思うんです。

そこで「大人」が必要なんだと思うんですね。「いや、責任は俺がとるから『障害者』で行こうよ」というふうに引き受ける大人がいないと、どこまでも「正義の横行」に対する歯止めがかからなくなってしまいます。

小田嶋:実際「障碍者」とか「障がい者」なんて書くほうが、「障害者に気を遣ってますよ」というのが行間に書いてあるようで気味が悪いですよね。おばあさんに話しかけるときに、わざと小腰をかがめてしゃべる女子アナみたいで。「そんなに小さくならなくていいじゃないの」と思うのだけど。「障害者」を「障がい者」と書くのって、そういう気持ち悪さがあるんですよね。

平川:小田嶋さんはそういうことに敏感だよね。でも、実際には、あらゆる言葉には侮蔑が入っているんだから、そんなこと言い始めたらしゃべれなくなるよね。

小田嶋:そうですよ。「八百屋」と口にしたとき、侮蔑のニュアンスがあるとしたら、それは言葉に宿っているんじゃなくて、それを口にしているわれわれの中に、八百屋という職業を軽んじている気持ちがどこかにあるのです。「八百屋」を「青果販売業」と言ったところで侮蔑がなくなるかというと、そんなことはない。

平川:むしろ、二重に侮蔑がこめられることになります。

小田嶋:だいたい、自分の中に相手を侮蔑する気持ちがあるときほど、それを隠すときに過剰な敬語を使いますよね。「障がい者の方がいらっしゃいました」というふうに。「医者の方がいらっしゃいました」と言わないのは「医者が来た」が侮蔑にならないと思っているからです。

平川:言葉って常に両義的で、その都度、その言葉に込められたニュアンスとか、文脈をつかまなければ真意はつかめませんからね。

小田嶋:言葉狩りをする人って、その手間を省きたいんですよ。「ヘアヌード」なんかもそうですが、「毛が見えていたらダメだ」みたいな基準を作ったほうが、取り締まるのが楽ですからね。本当は毛が見えていても健全なものもあれば、毛が見えていなくてもまずいものもある。それは文脈からしか判断できませんが、手間がかかるし、文化的蓄積がなければ文脈を読むということができない。

平川:剃ってりゃいいのかって話だよね(笑)。

小田嶋:そうですよ(笑)。

「息子の合格発表を見に行く親」、どう思う?

小田嶋:平川さんが、ご自分のお父さんを介護された体験を書かれた『俺と似た人』の中で、若い頃、お父さんにとにかく反発していた、ということを書かれていました。平川さんの世代までは、父親との対決というのは明確な主題だったと思います。親父っていうのは息子に対してすごく封建的で、強圧的で、押さえつけようとする。息子のほうも、そういう親父が嫌で嫌でしょうがないから、打ち倒そうとして反発する。

そういう父と子の葛藤がある中で、大人って嫌なものだ、不愉快なものだって思うわけです。で、自分が大人の番になると今度は子どもを抑圧したりするわけですが、とにかくそういう親子の葛藤みたいなものが、原体験としてあった。ところが今は、そういう「父子の対決」みたいなものがほとんど消え去りつつあるのだと思います。たとえば、今の高校生は、大学受験でどこを受けるかを親父に相談するそうですよ。

平川:そうなんだよ。あれ、気持ち悪いんだよね。

小田嶋:「どうしようかな」「○○大はこうだから、こっちにしたらどうだい」っていう会話を親子でするというのは、本当に最近のことですからね。これは実は、『困ってる人』の著者の大野更紗さんから聞いた話です。彼女は東京に来たときに、同世代の人がみんないろんなことを親に相談しているのを知って驚いたらしいんですね。

もちろん彼女は若いから、私たちに比べれば親子の関係はずっとフラットだと思います。ただ、彼女は福島の山奥の生まれで、「親は田舎者で何にも知らないから全部自分でやらなきゃいけない」という意識が強かった。「親とは話が通じないものだ」と思っていたから、都会の大学生が、みんな親といろんなことを話しているのに驚いた、というわけです。

私たちとしては、大野さんの感覚のほうが当たり前のように思ってしまうけれど、そこはかなり変化があるのだと思います。

平川:僕の世代だと、大学の合格発表に親が見に来るなんてありえないことでしたからね。ただ、ずいぶん後になってから、実は僕の父親は、僕の合格発表をこっそり見に来ていた、という話を聞いてね。驚きました。

小田嶋:その「こっそり」というのがおもしろいところだと思うんです。親子の間に上下関係があって、超えがたい距離があったということは、別に子どものことに無関心であることを意味しない。むしろ今よりも強い関心を持っていた可能性すらあると思います。

たとえば私の父親は高等小学校卒ですから「子どもを大学に入れる」ということには、執念に近いような感情を持っていたんだと思います。そのことを決して口には出さなかったけれど、子ども心に親父の「無言の執念」みたいなものを肌で感じて嫌だなあ、と思っていたくらいです。

ただ、それだけ強い思い入れがあっても、私の親の世代だと「子どもの大学受験ごときでいそいそと発表を見に行く」というのは大人として、照れくさかった。そういうことをするのは「大人ではない」と思っていたわけです。

なぜ若者は「仲間」を重んじるのか

小田嶋:私の世代は、平川さんに比べると親子関係はフラットになりつつあったので、合格発表を見に行くときに父親の車で送ってもらいました。でも、決して積極的ではないんですね。「合格発表? しょうがねえな。連れてってやるよ」みたいな雰囲気を出すわけです。今思うと、本当は親父のほうがワクワクしていたんですが。

そして、私自身が親になったときには、自分の子どもの大学受験の合格発表を当たり前のように見に行くようになりました。もう大学に入ることは珍しくもないし、私の父親のように「なんとしても子どもを大学に入れる」という執念を燃やしている人もそれほどいない。ところが、合格発表を見に行くか見に行かないかということでいうと、確実に私たちの世代のほうが見に行くようになった。

平川:それはとってもおもしろい話だよね。

小田嶋:そうですね。つまり、親子関係がフラットになって、抑圧的なものじゃなくなってくるにしたがって、子どもは親に進路相談するようになってきたし、親は子どもの合格発表に足を運ぶようになってきた。でもそれは別に、親子の愛情みたいなこととは、関係ないっていうことなんですよね。

いろんな権威が壊され、さまざまな人間関係がフラット化していく中で、大人がいなくなっていった。そういう社会の中で若い人がどうやってサバイブしているかということで最近感じるのは、若い人が「仲間や友達を非常に大切にする」ということなんです。

たとえば、東日本大震災の後に「絆」という言葉がはやりましたけれど、とにかく仲間、絆、友達、集団というのを大切にする。それを大切にしないやつは人でなしだ、という空気がある。でもそんな価値観が定着したのって、せいぜい80年代以降で、それ以前はほとんど見られないものだった気がします。

平川:確かに、若い人の話を聞いていると、仲間とか友人を非常に大切にする傾向がありますよね。エンターテイメントでも、秋元康さんが仕掛けているAKBに象徴されるように、とにかく大人数で群れる、集団化するというところがスタートラインになっているように感じる。でも、大人になることのスタートラインって「一人立ちする」ということですからね。それは確かに、「大人がいなくなった」こととの符丁がありますね。

小田嶋:実は僕は、よく言われる「草食系」の話と、今日の「大人がいなくなった」話って、同じ文脈なんじゃないかという気がします。草食系って、「今どきの若い男は性欲が弱くて、女の子とのセックスに興味を持たない」という文脈で語られるけど、僕はたぶんその説明は嘘だと思うんです。今の若い男だって、女の子とのセックスには十分興味がある。でも、優先順位が変わった。

つまり今の若い人にとって、「彼女を作る」「モテる」「セックスする」ということは優先順位の1位じゃなくなっているのだと思うんです。彼らがいちばん大切にしているのは、「仲間がいる」ということになった。その結果、彼女を作ったり、セックスをしたりすることの順位が下がっちゃったんじゃないかと。

平川:なるほど。確かに「仲間」「友達」というものの価値は、僕らが若い頃よりもずいぶん高まっているように感じますね。

友達なんて、1人もいなくても大丈夫

小田嶋:たぶん、週刊少年ジャンプが「友情・努力・勝利」という3つの掛け声でマンガを作り、それが子どもたちに支持されてきたこととも無関係ではないと思うんですが、彼らは仲間を失うことを過剰に恐れているのです。そしてその傾向というのは、スマートフォンや、LINEなどのSNSが広まったことでさらに加速されているように思います。

携帯とかスマホが普及したことで何が変わったかというと、友人関係、仲間関係がやたらと継続されるようになったということです。それまでは、学校を卒業するとか、職場を変わるというだけで、それまでの友人関係や仲間関係というのは、案外ブツッと切れてしまうものだったんです。

たとえば中学校に入ると、相当仲が良かった相手でも、小学校時代の同級生とは遊ばなくなる。中学を卒業して高校の友達と遊び始めると、中学校のときの友人とはそれっきり40年会ってない、というのもざらにあった。それは薄情だとか、いい悪いの問題じゃなくて、そもそも友達って、そういうものですよ。どれほど仲のいい親友だろうと仲間だろうと、数年ごとに関係性がリセットされるのが普通なんです。

ところがSNSや携帯が普及してしまうと、そういうわけにはいかなくなる。いったんつながると切れない。別にそこまで仲がいいわけでもないのに、友達や仲間のリストがどんどん長大になっていく。でもね、本当は友人なんて1人もいなくても大丈夫なんですよ。

平川:そうですよ。小田嶋さん、いないもんね(笑)。

小田嶋:いないですね(笑)。まあ、まったくいないのもどうかと思うけれど、「友達をあてにしない」って、人が生きていくうえですごく大事なことだと思う。今はけっこう、当たり前のように友達や、仲間をあてにして生きている人が増えている気がします。

平川:いや、今のお話は非常におもしろいと思う。仲間がほしいというのは、裏を返せば「自分1人で責任を負いたくない」ということだよね。大人じゃないからこそ、仲間や友達が必要なんですよ。「最後の責任は私がとる」「一同を代表して私が謝る」っていうのが大人ですからね。

もちろん、仲間や友情というのは大切ですよ。でもそれは、友情を確認しあったり、責任を押し付け合ったりすることじゃないはずです。『昭和残侠伝』での高倉健と池部良なんて、「この人のために一緒に死ぬ」というぐらいの友情を結んだ2人なのに、2人で一緒に酒を飲むことすらしないぐらいですからね。

(写真:安部俊太郎)


■ 彼らは仲間を失うことを過剰に恐れているのです。SNSが広まったことでさらに加速されている 「株式日記と経済展望(2015.1.18)」より
(※mono.--前略)
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前田武彦がテレビで夜のヒットスタジオの司会をやっていた時は、いろんな歌手が前武さんを慕ってきましたが、失言事件で降ろされると誰からも相手にされなくなった経験があります。浮き沈みの激しい業界だから友情だとか仲間意識で付き合ってはいられないからだ。

小田嶋氏が、『いろんな権威が壊され、さまざまな人間関係がフラット化していく中で、大人がいなくなっていった。そういう社会の中で若い人がどうやってサバイブしているかということで最近感じるのは、若い人が「仲間や友達を非常に大切にする」ということなんです。』と述べていますが、友達に対する依存が強すぎる。

それに対して平川氏は、『とにかく大人数で群れる、集団化するというところがスタートラインになっているように感じる。でも、大人になることのスタートラインって「一人立ちする」ということですからね。それは確かに、「大人がいなくなった」こととの符丁がありますね。』とうように独り立ちできて始めて大人になれる。

それはともかく、お金があれば遊び友達はいくらでも出来るだろう。お金が無ければ私のように家でネットをしているしかありません。女友達や恋人だってお金があればいろんなところに遊びに行って楽しめるのでしょうが、お金が無くなればクモの子散らすようにいなくなってしまう。その事に早く気がつけばいいのでしょうが、早く大人になる事が大切だ。


(※mono.--レビューから)
18 人中、15人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
孤独観という洗脳からの脱却指南書
投稿者 ジュゼッペ 投稿日 2014/12/10
形式: 新書
「孤独」という単語をイメージしてみてください。
もし、あなたがこれをネガティブに捉えてしまった人であればこそ、一読の価値ありです。

人間を人間足らしめるものは、「考える」ことである。
なぜ、「考える」ことが人間足らしめるのかというと、創作活動、つまり、新しいものを生み出すことが、
歴史的に見ても、常に、人間社会を発展せしめてきたことから理解される。

一方、この創作活動は、静けさという「孤独」と対峙して初めて可能になる。
多くの芸術家が多くの佳作を残したことから上記の主張は補強されるが、視点を変えると、
彼らは「孤独」と対峙する術を心得ていたと言える。

では、なぜ現代人がこれほどまでに「孤独」に対して、まるで恐ろしいものでもあるかのように捉えてしまうのであろうか。

それは、メディアや学校教育における”繋がることの素晴らしさ”という幻想・洗脳が往々にしてあったのではないか、と氏は指摘する。
つまり、「孤独=寂しい」ものだとするレッテルを貼るのである。
また、村八分という言葉があるように、日本社会の閉鎖性、同調圧力の強さが、「一人行動をする者」=「孤独者」への
恐怖観念を植え付けてきたとも言える。

何よりも重要なのが、「孤独者」は社会や人との繋がりを嫌悪して、その道を行くのではない故に、「群れ」への理解も示せることである。
他方、「群れ」を外れた者を、「寂しい奴だ!」という主観でしか語れない者は、「孤独」という人間の見つけうる最善美を知らないに過ぎないのである。















最終更新:2018年11月23日 20:03