枢密院(コンシー・エン・サンテネリ)とはサンテネリ王国末期から共和国初期にかけて存在した、同国史上初の公的な最高意思決定機関(105)。グロワス13世の治世下で国王顧問会(コンシー・エン・ルロワ)に代わり設置された(36)。
概要
枢密院(コンシー・エン・サンテネリ)は、「サンテネリの会議」を意味する。1716年2月10日に成立した枢密院設置勅令(通称「大回廊の勅令」)に基づき創設された(61)。→弱者の演説
この制度は、ルロワ王家の私的な会議(国王顧問会)という建前を完全に消し去り、政府が王ではなく国家のものであることを明文化した点で、サンテネリという国家の性質が変化した象徴的存在と理解されている。現在のサンテネリ共和国における内閣(カビヌ)および国会(オネ・コンシー)を構成する機構の直系の祖先にあたる(105)。
設立の背景と経緯
枢密院創設は、グロワス13世の治世末期に行われた重大な政治的措置である。王権の失墜が顕著になったこの時期、枢密院は、心身に不調を来した王の元で、家宰フロイスブル侯爵マルセルと、血統上玉座に近いアキアヌ大公ピエル、ガイユール大公ザヴィエの間に成立した妥協の産物である、というのが通説であった(105)。
しかし、グロワス13世が共和制を視野に入れるほど開明的な思想を持っていたという新説に基づけば、枢密院創設は王が主体的にルロワ家領から「国家」への脱皮を企図したものであったと解釈することも可能である。王は「ルロワ家族会議からサンテネリ会議へと名実ともに変わる」ことを目指していた(36)。
組織構成と機能
枢密院は国王を「枢密院主催者」(コントゥール)として頂点とする集団指導体制をとった(105,75)。
権限と国王大権の委任
国王は形式上、国家の政策全てを決定する国王大権(軍権を含む)を保持したが、実際には枢密院にその権限を委任した(64)。国王に実権として残されたのは、枢密院各卿の指名任命罷免権と枢密院主催者の権利程度であった(36)。
枢密院が発する法令は枢密院令と呼ばれ、貴族会による承認(副署)を必要とせず、そのまま国法として効力を発することが定められた(64)。これにより、形骸化していた貴族会を事実上無力化する装置となった。
閣僚構成
設立時
設立時の閣僚は、旧来の国王顧問会の構成を概ね踏襲しつつ、いくつかの新設ポストと再編が行われた(36)。
| 役職名 | 概要 |
| 枢密院主催者 | 国王(グロワス13世)が務め、会議を主催した。 |
| 首相 | 旧来の家宰に近いが権限が強化され、閣僚会議で意見不一致の場合の最終決定権を持った。 初代はピエル・エネ・エン・アキアヌ大公。 |
| 財務卿 | 初代はザヴィエ・エネ・エン・ガイユール公爵。 |
| 外務卿 | 初代はベルノー・エネ・エン・トゥルーム侯爵。 |
| 内務卿 | 初代はクレメンス・エネ・エン・プルヴィユ伯爵。 |
| 軍務卿 | 旧来の陸軍卿と海軍卿のポストが統合された。 初代はジャン・エネ・エン・デルロワズ公爵・サンテネリ王国元帥。 |
| 宮廷大臣 | 王家のお世話係であり、枢密院主催者(王)に助言と補佐を行う役職。 初代は旧家宰マルセル・エネ・エン・フロイスブル侯爵。 |
| 参与 | 平民階級のために新設されたポスト。 参与は閣僚会議での投票権を持たない傍観者に過ぎなかったが、 この地位を得た者は自動的に貴族籍が付与され、貴族会に議席を保持することが可能となった。 後に大指導者レスパンは、平民が貴族の世界へ向けて開いた「穴」であると評している。 |
また、枢密院創設の最大の形式的変化は、これまで国政の中枢から排除されてきた二大公領(アキアヌ大公領、ガイユール大公領)の主が、主要な閣僚(首相、財務卿)として国政に本格的に参加した点にある(36)。
体制初期の動向
枢密院発足直後の1716年2月には、北部中央から北西部にかけて未曽有の大規模な降雪「雪の王」が発生し、政府は対応を迫られた。
この災害への対処を機に、首相アキアヌ大公ピエルと財務卿ガイユール大公サヴィエは、地方諸侯の徴税権を妨げる国内関税の撤廃と、地方長官職の設置を推進した(105)。これは中小貴族領(ルロワ譜代諸侯の多く)の権限を削り、中央政府の統制を強化する改革であった。この改革の範囲と速度を巡って、王(現状維持を志向)と両大公(改革推進派)の間では激しい討議が繰り返され、この対立構造は「18期の内戦」と呼ばれる政治闘争の輪郭を現すこととなった(105,71)。
枢密院の終焉と遺産
新たなサンテネリ共和国は、枢密院の行政機構をそのまま引き継ぎ、同時にルロワ家の直系当主に対しては、名誉称号として「枢密院主催者」の称号を独占的に使用する権利を付与した。この称号は現在に至るまでルロワ家当主に受け継がれている(109)。