初出:『敵 1』
正式名称
ジュール・エン・レスパン(Jules en Lesspin (*1))
家族構成
父:レスパン男爵
母:側妻(平民出身、故人)
異母兄:3人
母:側妻(平民出身、故人)
異母兄:3人
容姿
女性と見間違えるほどの美青年。薄く繊細な口元、官能的に通った鼻筋、細く長い手足を持つ。瞳の色は茶色。
地位
レスパン男爵家四男 → アキアヌ公領の軍人 → グロワス9世校学生 → シュトロワ選出議員 → サンテネリ共和国(第1共和国)行政委員会委員長
通称
「導き手(コントゥール)」、「大指導者(コントゥール・グロー)」、「共和国の父」、「人類の解放者」
作中での活躍
アキアヌ公領のレスパン男爵家の四男として生まれる。母は女児を産むことを期待されて側妻となった平民出身の女性であり、彼が8歳の時に亡くなった。母の死に際して父が漏らした「残念な女だった」という一言は、彼にこの社会が持つ「不正(アンジュ)」を強く意識させるきっかけとなった。
16歳で軍に入隊するも、孤立し、出自を嘲られたことから同輩を殴り、わずか1年で放逐される。その後シュトロワに移り、グロワス9世校で碩学エリクス・ポルタ教授に師事し、ユ二ウス思想に深く傾倒する。彼はシュトロワ旧市街の劣悪な環境で暮らしながら、貧民の現実を目の当たりにし、社会変革への思いを募らせていく。
グロワス13世とはアキアヌ公邸の夜会で出会う。後に王が民衆の前で行った演説を聴き、彼を「傑物」と認めつつも、民衆を扇動するその手法を「不正」と断じるなど、王に対して強い関心と反発を抱いている。
学位授与式典で献辞奉納者に選ばれ、王の前で自著『悪について』の要旨を演説する。その内容は、魔力の不在を前提として万人の平等を説き、王や貴族による支配の正当性を根本から否定する、極めて急進的で危険な思想であった。しかし、王は彼の思想を理解し、「思想の王」と評した。
大学卒業後、シュトロワの貴族会付帯法院に登録し、代訴人としての道を歩み始める。南部農村における平民自作農と領主貴族の地権を巡る裁判の控訴審では、平民側の代訴人として数百年にわたる地権書や覚書を精査。法廷で堂々と争い、地方付帯法院の判決を覆すことに成功した。証拠書類や各種法令を諳んじて繰り出すその苛烈な舌鋒は彼を一躍時の人とし、シュトロワの新聞は挿絵入りでその「絵になる男」の活躍を報じた。
しかし、被告貴族が上級判事の一人と縁戚関係にあったため、彼は地方都市リーユの付帯法院へと左遷されてしまう。10年の時を経て彼がシュトロワの付帯法院に戻ってきたとき、もはや彼のことを覚えている者はいなかった。
枢密院の戦費調達に伴う混乱を計り命を狙われたため、一時はアングランへ亡命。グロワス13世の死後すぐに帰国し、アキアヌ首相時代の潜伏を経て、王の事実上の親政が始まる1738年になると大っぴらに活動を開始。1741年、初の国民会議においてシュトロワ選出議員として公的な地位を手に入れた。
翌1742年、豪雨をきっかけに発生した民衆暴動を盟友ブルノー・ボスカルと共に組織化。暴動に「不正を糺す」という大義を与え、「大改革(レフォルマシオン・グロー)」を主導した(会堂広場の演説)。
この「大改革」(王党史観では「大騒乱」)の結果、王政は打倒され、サンテネリ共和国(第1共和国)が樹立されると、彼は行政委員会の委員長に就任し、事実上の国家指導者となる。しかし、祖国戦争終結から2年後の1750年、王党派の青年に暗殺され生涯を閉じた。最期の言葉は「私の罪は私が。誰の責とも為さぬ。——私はあなたに約束した。私は果たす」。彼の思想と行動は後世に絶大な影響を与え、「導き手(コントゥール)」、「大指導者(コントゥール・グロー)」として神話的な存在となった。
この「大改革」(王党史観では「大騒乱」)の結果、王政は打倒され、サンテネリ共和国(第1共和国)が樹立されると、彼は行政委員会の委員長に就任し、事実上の国家指導者となる。しかし、祖国戦争終結から2年後の1750年、王党派の青年に暗殺され生涯を閉じた。最期の言葉は「私の罪は私が。誰の責とも為さぬ。——私はあなたに約束した。私は果たす」。彼の思想と行動は後世に絶大な影響を与え、「導き手(コントゥール)」、「大指導者(コントゥール・グロー)」として神話的な存在となった。
略歴
- レスパン子爵家の四男として生まれる。
- 8歳で母と死別。
- 16歳で軍に入隊、1年後に放逐される。
- シュトロワのグロワス9世校に入学し、エリクス・ポルタ教授に師事する。
- アキアヌ公邸の夜会でグロワス13世と出会い、グロワス13世と出会い、強い関心と反発を抱く。
- 学位授与式典で、王の前で自らの思想『悪について』を演説する。
- 大学卒業後、代訴人となり、南部農村の地権裁判で平民側を勝利に導き、一躍時の人となる。
- しかし、これが原因で地方都市リーユへ左遷される。10年後にシュトロワに戻る。
- 枢密院の戦費調達に伴う混乱の中で命を狙われ、一時アングランへ亡命。
- グロワス13世の死後すぐに帰国し、潜伏期間を経て1738年から活動を本格化させる。
- 1741年、初の国民会議においてシュトロワ選出議員となり、公的な政治的地位を得る。
- 1742年、豪雨をきっかけとした民衆暴動を組織化し、「大改革」を主導する。
- 王政を打倒し、サンテネリ共和国(第1共和国)を樹立。行政委員会の委員長に就任し、事実上の国家指導者となる。
- 1750年、王党派の青年に暗殺される。
- 後世、サンテネリ共和国の歴史において重要な思想家となる。