- 年月日は正教新暦です。
- 【タイトル】列において★マークがついているものは、『地に落ちて死なずば』に記載があるものです。
- ?は不確定度合いが高い箇所です。
年月日 | 内容 | タイトル |
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第5期~第8期 | 諸民族のうねり | 内戦 3 |
第9期半ば | サンテネリ統一戦争初期。女王マルグリテ、ルロワ王権によるサンテネリ統一の礎を築く | 暗君とメアリ |
第9期 | 思想家ユニウス・エン・デルロワズ(デルロワズ公子・王国大元帥)『随想』によるユニウス思想の発生 | 敵 1, 枢密院体制中期(1722〜1728) |
第9期 | 初代バロワ当主が軍伯としてバロワの地に封じられる。 | 無能な王の夜会 |
第9期 | ガイユール家とルロワ朝の間に争いが起こる。 幾度かの合戦に敗れて弱ったガイユール家はルロワ朝の婚姻政策に絡め取られ、最終的には独立を喪失。 ルロワ朝サンテネリ王国の「正式な」一部となる。 |
暗君とゾフィ |
1453年 | エストビルグ国王オテル1世、 ”正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地”の皇帝に選出される(エストビルグ朝帝国の始まり) |
王妃の証 3 |
第17期 | ルロワのお姫様がガイユール公爵家に嫁いだ際、宮殿の一つが持参金の一部として贈られる。 | 無能な王の夜会 |
第17期 | 排外主義の空気から、聖句派(時計職人が多い)の追放勅命が下される。 | 暗君とブラウネ |
1688年頃 | バロワ伯爵家の長女としてメアリ・エン・バロワ生誕 | 暗君とメアリ |
1690年頃 | フロイスブル侯爵家の長女としてブラウネ・エン・フロイスブル生誕 | 暗君とブラウネ |
1692年1月7日 | サンテネリ国王グロワス12世と正妃マリエンヌの長男としてグロワス王太子(後のグロワス13世)生誕 | 幼年時代(1692〜1712) |
1694年頃 | 正妃の子としてフライシュ=ヴォーダン・ヴォー・プロザン(後のフライシュ=ヴォーダン2世)生誕 | 邂逅 4 -大サンテネリ-, 暗君とプロザン |
1696年頃 | 帝国エストビルグ家の長女としてアナリース・ヴォー・エストビルグ生誕 | 無能な王としんどい会議 |
1697年頃 | シュトゥビルグ王国の王子生誕 | 妃たち 2 |
1698年頃 | ガイユール公爵家の長女としてゾフィ・エン・ガイユール生誕 | 暗君とゾフィ |
1705年~1709年頃 | エリクス・ポルタ(当時45歳)、『人文学の基礎としての理性の探究』発表 | 敵 1 |
1708年頃 | グロワス王太子(当時16歳)、ゾフィ(当時10歳)と初邂逅 | 暗君とゾフィ |
1708年頃 | グロワス王太子(当時16歳)、メアリ(当時20歳)と初邂逅 | 暗君とメアリ |
1710年 | グロワス王太子(当時18歳)、ブラウネ(当時20歳)と初邂逅 | 幼年時代(1692〜1712) |
1712年1月18日 | グロワス12世の死去に伴い、新王グロワス13世がサンテネリ国王に即位 | 幼年時代(1692〜1712) |
1712年3月2日 | グロワス13世、御前会議終了後、執務室で昏倒(回心)。七日目の朝に目覚める | 親政前期(1712〜1713) |
1712年秋 | グロワス13世、宮殿の庭で刺されそうになり手を負傷 | 無能な王の身体,弾劾演説,敵 1 |
1712年秋 | ブラウネ、メアリの側妃内定 | 無能な王の身体,弾劾演説,敵 1 |
1712年秋以降 | グロワス13世、ゾフィのルロワ領滞在時における後見を引き受ける(側妃の内定) | 無能な王の節目 |
1714年 | エリクス・ポルタ、グロワス13世(当時22歳)から茶会への招待を受ける | 敵 1 |
1714年 | グロワス13世、ガイユール館の門前にてアングランの介入を主張する演説をぶつ(弾劾演説) | 弾劾演説 |
1715年 | 帝国第一皇女アナリース、2年の婚約期間を経てサンテネリへ輿入れ | 親政後期(1713〜1716) |
1715年7月3日 | グロワス13世、帝国第一皇女にしてエストビルグ王国第一王女アナリース・ヴォー・エストビルグと成婚 | 王と正妃 |
1715年11月20日 | ジュール・レスパン、アキアヌ大公家で催された夜会に師ポルタ教授と出席した折、グロワス13世と初邂逅 | 敵 3, 対話、最後の |
1716年1月 | グロワス13世、プロザン王フライシュ3世と会談 | 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1716年2月 | グロワス13世側妃ブラウネ・エン・ルロワに懐妊の兆し | 悪について 5 ーサンテネリの女ー, 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1716年2月10日 | 枢密院設置勅令(通称大回廊の勅令)が貴族会の承認を経て成立。 |
貴族会 2 -最終演説-, 正教新暦1716年2月15日, 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1716年2月15日 | 深夜、サンテネリ北部中央から北西部にかけて近年例を見ない規模の降雪が観測(「 |
王たちの夜 1 |
1716年4月10日 | グロワス13世側妃メアリ・エン・ルロワの懐妊が官報で布告 | 内戦 2 |
1716年7月 | エストビルグ行のためフロイスブル侯爵一行が首都ヴェノンのサンテネリ大使館入り | 王妃の証 3 |
1716年9月10日 | グロワス13世、グロワス9世校の学位授与式典出席。ジュール・レスパン、グロワス13世へ献辞披露(『悪について』の発表) | 悪について 3 |
1716年10月2日 | 側妃メアリ、グロワス13世の第一子メアリ・アンヌ出産 | 王女の肖像 |
1717年 | グロワス13世、エストビルグ皇帝ゲルギュ5世と会談 | 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1717年 | サンテネリ・プロザン・エストビルグの同盟(三王和約) | 対話 1,対話 3 |
1717年 | 側妃ブラウネ、ロベル(のちのロベル3世)を出産 | 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1718年 | 正妃アナリゼ、グロワス(後のグロワス14世)を出産 | 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1718年 | 側妃メアリ、リシャルを出産 | 別れの儀式 |
1719年 | リシャル夭折 | 別れの儀式 |
1720年 | 側妃ゾフィ、マルグリテ(後のプロザン王正妃)を出産 | 枢密院体制初期(1716〜1722) |
1722年 | 側妃ブラウネ、グロワス13世最後の子フローリア(後のアングラン王正妃)を出産 | 枢密院体制中期(1722〜1728) |
1724年5月 | 三王会談開催(第二週から二週間) | 枢密院体制中期(1722〜1728) |
1726年 | プロザン国王フライシュ3世薨去 | 終わりの始まり |
1727年頃 | 側妃ゾフィの息子が5歳の誕生日を待たずに夭折 | 対話 2 |
1728年 | フライシュ=ヴォーダン2世、シュトゥビルグ王国への侵攻と同時にアングランとの協商条約締結を発表。 サンテネリは新大陸における軍の衝突をきっかけに、中央大陸においてもアングランとの戦争に突入(二重戦争勃発) |
枢密院体制中期(1722〜1728) |
1729年 | 旧家宰マルセルの長男ロジェ、流行病により没 | 枢密院体制後期(1728〜1735) |
1730年 | 旧家宰マルセル・エネ・エン・フロイスブル侯爵没 | 枢密院体制後期(1728〜1735) |
1731年8月 | グロワス13世、王宮にてジュール・レスパンと会談。ジュール・レスパン、アングランへ亡命 | 対話、最後の |
1731年9月 | 貴族会付帯法院が二重戦争戦費として貴族への臨時課税を定めた枢密院令、通称”戦費令”の審査を終了し、、可決される。 | 始まりの終わり |
1733年 | 低地諸国中核都市ブルシールの失陥を受けて、 枢密院はアングランと講和(シュトロワ会議でのシュトロワ条約締結。二重戦争終結) |
枢密院体制後期(1728〜1735) |
1733年 | シュトロワ条約締結後、アキアヌ大公ピエルが首相を、デルロワズ公ジャンが軍務卿職を辞任。 軍務卿は空位のまま、副卿バロワ侯爵アンリ(メアリ妃同母兄)が実権を握る。アキアヌ公子エラン(ピエル長子)が内務卿に就任 |
枢密院体制後期(1728〜1735) |
1735年5月 | グロワス13世、枢密院会議を終え、執務室に戻った後突如意識を失う | 別れの儀式 |
1735年 | アキアヌ大公ピエル、首相就任。グロワス13世、グロワス王子の後見者としてアキアヌ大公を望む | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1735年8月20日 | グロワス13世薨去(43歳没) | 汝、暗君を愛せよ |
1735年8月21日 | 正妃アナリゼの長子 グロワス王子、グロワス14世として即位。同時に枢密院主催者を継ぐ | 汝、暗君を愛せよ |
1735年9月 | ジュール・レスパン、亡命先のアングランからサンテネリに帰国 | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1735年9月10日 | シュトロワ近郊の大僧卿座” |
王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1738年 | アキアヌ大公ピエル、首相辞任・引退。グロワス14世、フロイスブル侯爵バルデルを首相に指名 | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1740年 | グロワス14世、「国民の会議に関する枢密院令」を発する。これにより平民階級は国政に携わる公的な場を得る | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1741年 | ジュール・レスパン、初の国民会議においてシュトロワ選出議員となる | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年6月 | 記録的な大雨がサンテネリ北部を襲う(大改革の雨) | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年7月 | 旧市において暴動が発生(1742年決起|暴動) | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年7月 | ジュール・レスパン、旧市会堂を取り囲む民衆に演説(会堂広場の演説) | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年7月 | 王の一家が |
王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年7月20日 | サンテネリ共和国(第1共和制)誕生。 ジュール・レスパンが行政委員会の委員長に就任し、事実上の国家指導者となる。 |
王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年8月 | バロワ領に軍営を構える国家親衛軍近衛連隊がシュトロワに到着 | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1742年9月 | 連隊司令官メアリ・アンヌ・エン・ルロワ准将と共和国の責任者ジュール・レスパンが邂逅(シュトロワ城下の会談) | 王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1743年 | アングラン、プロザン、エストビルグの3国が、 王国の正統を糺しグロワス14世を復位させることを口実にサンテネリ共和国に宣戦を布告(祖国戦争勃発) |
王の死とその後の世界(1735〜)前編 |
1743年 | 新大陸植民地がアングランからの独立を求めて反乱を起こす(新大陸独立戦争勃発) | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1745年 | グロワス14世(当時27歳)、新大陸に上陸 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1745年8月 | 連邦共和国の暫定首都フィーリアスにおいて連邦会議が開催。 連邦共和国から連邦王国への改称(つまりグロワス14世の即位承認)を検討 |
王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1745年9月20日 | グロワス14世、連邦王国初代国王グロワス1世として即位 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1747年10月3日 | サラスの戦い開戦(3日後終了。連邦王国の勝利) | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1747年10月4日 | グロワス1世、アングラン兵からの狙撃で腹部を撃ち抜かれ死亡(28~29歳没) | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1748年 | フライシュ王太子、父王の死とともにフライシュ4世として即位。サンテネリ共和国と講和 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1748年11月 | サンテネリ、アングランとの講和会議(第二次シュトロワ会議)。祖国戦争終結 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1750年?(*1) | 元サンテネリ王国正妃 アナリゼ・ルロワ死亡(54歳没?) | ★幸せな女 1 |
1750年8月20日 | ジュール・レスパン、王党極派の青年により銃で暗殺 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1752年 | 共和国憲法改正を決議。サンテネリ国王ロベル3世が登極、その名を再びサンテネリ王国と改める(復古王制開始) | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1770年2月15日 | サンテネリ王国における最後の枢密院会議が実施 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
1770年3月1日 | 国民会は最後の枢密院令「サンテネリ共和国令」を可決。サンテネリ共和国(第2共和制)誕生 | 王の死とその後の世界(1735〜)後編 |
2015年 | グロワス13世没後280年を記念した特別企画展 「暗君の光と闇 ー近世サンテネリ王宮を彩る王と王妃たちー」が |
グロワス13世像変遷の諸要因 |
2023年10月 | メリア・フロイスブル著『評伝 グロワス13世』刊行(後書きの記載) | 王が遺したもの ー後書きに代えてー |
2046年以降(*2) | グロワス13世自身が治世の最初の4年を綴り残した、謎の言語で書かれた5冊の日記(通称黒冊子)の大筋の解読 | ★始まりの終わり |