概要
ジュール・レスパンの著作。
正式名称は『悪について ー人倫の起源としての”魔力”概念の欠如態仮説における社会構造の創建についてー』
1716年9月10日に行われた、グロワス9世校の学位授与式典出席におけるジュール・レスパンの学士号請求論文の抄録として、グロワス13世に献辞として捧げられた。
正式名称は『悪について ー人倫の起源としての”魔力”概念の欠如態仮説における社会構造の創建についてー』
1716年9月10日に行われた、グロワス9世校の学位授与式典出席におけるジュール・レスパンの学士号請求論文の抄録として、グロワス13世に献辞として捧げられた。
論証の形式と目的
『悪について』は、一見すると現行の王政を賛美する体裁をとっている。レスパンは、自らが「悪」と定義する世界の不在を証明することによって、グロワス13世の治世が絶対的な「善」であることを論証するという、逆説的な論法を用いた。
「魔力」なき世界の仮説
この論証の根幹にあるのは、「もし魔力が存在しなかったら」という思考実験である。当時のサンテネリ王国では、王や貴族が民衆を支配する正当性の根拠は、生まれ持った「魔力」の量にあるとされていた。レスパンはこの前提を覆し、魔力が存在しない架空の世界を提示する。
- 人間の本質的な平等と自由:魔力という先天的な価値基準が存在しない世界では、全ての人々は生まれながらにして平等かつ自由であると彼は説く。これが人間の原初的な状態であるとした。
- 「所有」と「争い」の発生:しかし、理性と言葉を持つ人間は、やがて「自己」と「他者」を区別し、「所有」の概念を生み出す。これが”奪い合う対象”となり、結果として人々の間に”争い”が生まれると論じた。
- 支配の「不正」:争いの結果、強者が弱者を支配する階層社会が生まれるが、レスパンはこれを明確に「不正(アンジュ)」であると断じる。なぜなら、「強い」という事実は、他人を支配する「権利」を正当化しないからだ。彼は、王の支配もその根拠が単なる「強さ」にあるならば、それより強い存在(例えば市民の連帯)が現れた際にその正当性を失うため、本質的に「不正」であると主張した。
修辞的な結論と真の意図
レスパンは、この「魔力なき世界」で起こる帰結、すなわち「全ての個人の平等と自由」こそが「悪」であると結論付ける。そし て、その対極にある「魔力」と、それに基づく王の支配こそが「善」であると皮肉を込めて論証を締めくくった。
この演説の真の意図は、魔力の不在を前提として万人の平等を説き、王や貴族による支配の正当性を根本から否定するという、極めて急進的で危険な思想を表明することにあった。
この演説に対し、グロワス13世はその真意を理解し、レスパンを「思想の王」と評した。『悪について』は、後世に彼が「導き手(コントゥール)」や「大指導者(コントゥール・グロー)」として名を残す思想の原点となった。
この演説の真の意図は、魔力の不在を前提として万人の平等を説き、王や貴族による支配の正当性を根本から否定するという、極めて急進的で危険な思想を表明することにあった。
この演説に対し、グロワス13世はその真意を理解し、レスパンを「思想の王」と評した。『悪について』は、後世に彼が「導き手(コントゥール)」や「大指導者(コントゥール・グロー)」として名を残す思想の原点となった。
歴史的影響
王権の変革
王は、レスパンの思想が自身の権威の根幹を否定するものであることを理解しながらも、その行動を容認し、むしろ賛意を示した。これは、後に王権を枢密院(後の内閣)へ委任し、国政を近代化する王の姿勢の根拠の一つとなった。
グロワス13世は、子どもたち(王太子グロワス、王子のロベル、王女のメアリ・アンヌなど)に対し、週に一度自ら「王の授業」を行った。この授業において、王はジュール・レスパンの小著『悪について』を課題本として使用した。
この教育は、当時の一般的な体罰中心の教育法を明確に否定し、子どもたちに「他者の力に頼らず自身の理性で(獣欲を)抑え込む」ことを求めた、異例かつ先進的なものであった。王は子どもたちに、知識を「克服すべき課題」と認識させつつ、将来、自らの地位の根拠である王制の否定的な側面を学ぶこととなった。この目的は、子どもたちにこの国の社会構造の根幹を正しく理解させ、将来、自分たちを否定する人々の存在から目を背けずに思想を咀嚼する時間を持たせることにあった。
この型破りな教育により、王の子どもたちは後のサンテネリの歴史に強い影響を与える存在となった。彼らは「当時の常識(古史)から脱却した新世代」であり、現代(21期)と地続きの存在と見なされうる。
この教育は、当時の一般的な体罰中心の教育法を明確に否定し、子どもたちに「他者の力に頼らず自身の理性で(獣欲を)抑え込む」ことを求めた、異例かつ先進的なものであった。王は子どもたちに、知識を「克服すべき課題」と認識させつつ、将来、自らの地位の根拠である王制の否定的な側面を学ぶこととなった。この目的は、子どもたちにこの国の社会構造の根幹を正しく理解させ、将来、自分たちを否定する人々の存在から目を背けずに思想を咀嚼する時間を持たせることにあった。
この型破りな教育により、王の子どもたちは後のサンテネリの歴史に強い影響を与える存在となった。彼らは「当時の常識(古史)から脱却した新世代」であり、現代(21期)と地続きの存在と見なされうる。
- メアリ・アンヌ王女(後の市民メリア)は、軍に奉職し、後の大動乱期に活躍したが、この教育を通じて「隣人」を認識し、王とレスパンの思想を理解していたため、内戦の危機において「不逞な平民ども」に砲を浴びせることをしなかった。
- ロベル王子(後のロベル3世)は、レスパンの思想に賛意を示し、父王が築いた枢密院体制を再構築して復古王制を開いたが、最終的には王権を国民に委譲する決断を下した。
- 王の子どもたちの間には「強固な紐帯(きずな)」が共有され、大動乱の中でも家族間の断絶を防ぎ、サンテネリが安定を保つ重要な要因となった。
後の評価
この献辞の場面は、長らく「愚かな王が、自分への批判に気づかず喜んだ」という構図で「賢いコントゥールと愚かなコントゥールの邂逅」として語られてきたが、レスパン遺稿の発見により、王が真の理解者であったことが判明し、歴史的な評価の修正が進んだ。
「片翼」の概念
レスパンは晩年、この献辞を「片翼をもがれた不完全なもの」と表現したが、これは王の演説(献辞の直前に王が語った言葉)が欠けていることを指していた。この献辞は、王の言葉というもう一つの「翼」と合わせて初めて、レスパンの思想を完全に伝えるものとなった。
思想的影響
『悪について』は、後にサンテネリ共和国憲法の祖型となった「人間の自然に関する宣言」の思想的根拠の一つとなった。
王の演説全文
サンテネリの誇る学士諸君。私は諸君の研鑽と前途に、まずは祝福を与えたい
その上で、諸君の学びとその証が、我らの日常になんら価値を持たぬ、無意味なものであることを示そう。諸君がここで研究を深めたものはつまり、この世界とは何かという問いへの回答であり、人はどう生きるべきかという問いへの多種多様な答えであろう。だが、我々の生には必要ないものだ
みなさんのほとんどは今後、法の道に進む。あるいは国家を支えるべく吏人りじんとなる。そこでみなさんは、ここで学んだことのほんの余録を使って大業を成すだろう。例えば論理学。鮮やかな弁舌で法廷を沸かす。あるいは算術。税の計算を支える神業だ。だが、みなさんが”本当に学んだもの”は顧みられることはない
この世界の成り立ち。神の存在証明。人間理性の構造。あるいは歴史の法則。全ては無意味だ。私も昔勉強したのでね。身を以て知っているよ
我々の生きる世界は以上のものを全て必要としない。それは作物を産まず、金貨を産まず、勝利を産まない。残念だと思うだろうか。しかし皆、薄々感じているのではないか? あなた方が学んだことは、せいぜい貴族達の夜会で面白おかしく脚色して”大学者”の評判を得るための衣裳に過ぎないことを。うれしいことに、”大学者様”方に自身の夜会に来て欲しいと願う高貴な方々は多い。結構なことだ。そして諸君は内心に侮蔑を秘めながら、彼らを満足させる子供だましを続ける。——それがあなた方の栄達だ
さて、その上で、私は改めて諸君を祝福したい。諸君は我が国の宝だと、声を大にして言う
なぜか。それを伝えよう。私はそのために来た。——それはつまり、あなた方が学び、研究した諸々は我々の未来そのものだからだ。あなた方が現在打ち立てた思想はゆっくりと、石に染みこむ水のように広がり、50年後、100年後には我が国の”常識”になる。それは素晴らしいことではないか? あなた方が作りあげる諸々の体系は未来永劫生き続け、我が国を、あるいは中央大陸をすら繁栄に導く。それは”偉大なこと”ではないか?
思想は時代を超える。それは素晴らしいことではないか? 我々ががんじがらめになっている社会そのものを超克する。乗り越える。我々人間オンに与えられた最上のものだ。それはおよそ人間オンになし得る最も偉大なことではないか? 諸君は誇られよ。残念ながら今生利益は得られないだろう。だが、あなた方の存在は歴史にその名を刻む。いや、違うな。あなた方は50年後のサンテネリを創始するのだ。我がルロワの始祖が、今日ご足労頂いたガイユール殿などと共にこの国を作りあげたように
つまり、諸君は思想の世界の王だ。王ならばこそ、50年後、100年後のサンテネリをよりよく導いて欲しい。現在の王として、諸君に伏して願う
献辞全文
この度私が捧呈いたしました『悪について ー人倫の起源としての”魔力”概念の欠如態仮説における社会構造の創建ー』について、この場にて簡潔な要旨説明をいたしたくぞんじます。
拙作『悪について』は、国王陛下の君臨とその御代が絶対なる”善”であることを論証するために記されました。
私は、偉大なる国王陛下の存在を善の結晶体と証明するために、その真逆の存在、つまり”悪”の存在を定義しました上で、その不在を以て善と成す形態を考案いたしました。
よって拙作の主題は”悪”であります
私はこの主題に対する思索を深めるにあたり、思考の実験として、ある世界を脳内に創造いたしました。
皆様ご存じの通り、我らの生きるこの世界は神の御裾の元、魔力に満ちあふれています。そして、国王陛下はこのサンテネリにおいて最も巨大な魔力を保持されておいでです。ゆえに王として民の上に君臨される。つまり、王の王たる正当性は魔力の存在です。
では、もし魔力なかりせば。
我らの世界はどのようなものになるのだろうか。
現実とかけ離れた、魔力の不在という馬鹿げた世界を私は創造しました
我らの生きる社会における身分と秩序は”魔力”にその根拠を持ちます。ならば、魔力なき世界——その荒唐無稽で馬鹿げた世界においては、身分も秩序も所与のものではありえません。その世界に生きる全ての個人は男女老若の区別なく、平等であり、かつ自由であります。それは人間原初の状態であり、全ての権利の根源となる権利なのです。
そんな世界において、人々は自身の力の許す範囲で、力の許す限り生存に努めることでしょう。徹底的な個として
生存のみを目指す個は、その目的ゆえに互いに争うようになる。そうお考えかもしれません。しかし、それは異なります。彼らは他者に対して適切に無関心でありましょう。禽獣とてよほど追い詰められねば同族と争いはしません。人も同様です。彼らはむしろ、自己の”存在”を愛する心情を敷衍ふえんする形で、他者への密やかな惻隠そくいんの情、柔らかく言い換えるならば”思いやり”すら持ちうることでしょう
人オンは一個の動物であり、動物はその身に本性を刻まれています。魔力が存在しないこの空想の世界に生きる人にとって、その本性は”自己愛”であり”惻隠”であると定義できます。
さて、時は経ち、やがて人々は惻隠を拡大する中で望む望まぬに関わらず、他者との意識的な交流を始めます。獣ではなくなるのです。自身と同じ存在、同じ”意志”を他者にも認める。それは意思疎通の欲求を生みます。やがてその手段たる言葉が生まれ、言葉は理性を導きます。我らは言葉なくして思考しえぬ生き物ですから、逆から見れば言葉がありさえすれば思考と理性は必然的に生まれるでしょう
言葉と理性は自己と他者を明確に区分します。結果、人は利己意識を獲得するでしょう。そして、この利己意識が必然的にもたらすものは”所有”の概念に他なりません
かつて人が持った惻隠の情は姿を消し、人々はより多くを所有することを目指すようになるでしょう。そして我ら人類の歴史に”取り合うもの”が生まれた瞬間に、”争い”もまた生まれるのです。
争いとは単純なものです。強い力を持つ者が弱い者を叩き、従える。いつしかその構造は”階層”として現れ出ることとなります
それは明確な”不正アンジュ”です。——なぜか?正当な権利からは導き出しえない状態であるからです。我々の論理学において、事実から権利を導き出すことはできません。つまり、”強い”という事実は支配の正当性をもたらさないということです。なぜならば、もし”強い”ことが支配の正当な権利を生じせしめるのであれば、より”強い”存在が現れたときどうなりましょう。その権利は消失するのでしょうか。しかし、正当な権利が消失することはありえません。踏みにじられることはよくある話ですが、それはまさに不正そのものです
強さが支配の正当性を生むことを許容するならば、より強い者が現れたとき、その者の支配の正当性をも承認せねばなりません。あくまでも例えばの話ですが、もしも魔力なき世界で王が支配の正当性を保持しているとすれば、それは”強さ”を根拠とするほかはなく、それを認めるのであれば、王を上回る存在——それが何かは分かりませんが、あるいは連帯した市民の集団かもしれません。その支配をも認める他ないでしょう。
つまり、支配被支配の関係性、いいかえれば支配者と被支配者の存在は決して正当化できぬもの、”不正アンジュ”なのです
以上のように、魔力なき世界における支配被支配の関係は明らかに不正であります。
では、不正ではない支配被支配の関係は存在しうるでしょうか。
それがありうるとすれば、両者の合意と契約に基づくものでしょう。そして、正当な契約とは両者に利がなければなりません。片方がもう片方から一方的に収奪するのみであれば、それは契約とは呼べません。隷属です。なぜなら、他者を意のままに動かすとはつまり、他者を他者として認めぬことと同義であり、それはつまり他者の”物化”——”所有”にほかなりません。
例えば私が締めたこの大判布カルールは私のものです。この”物”と私は契約を結べましょうか。それは不可能です。これが私に差し出すものは、始めから”私のもの”なのですから
魔力の存在しない空想の世界において、領主たちはこう述べるかもしれません。”我らは領民を守ってやる。その対価に隷属を得るのだ”と。
皆さんご存じの通り、魔力に満ちた我々の世界において、この考えは明らかに正当です。魔力が弱い者は”本質的に”戦えず、戦える者に守ってもらうほかないのですから、守られる者はその対価を支払うべきでしょう。
しかし、魔力無き世界においてはそれは世迷い言に過ぎません。彼らはただ”強さ”によって弱い者を脅しているに過ぎない。事実として支配は成り立ちます。しかし、先ほど述べたように、事実は正当性を生まないのです
さて、ここまで支配被支配関係の不当性を見てまいりました。では、この関係の不当性の何が問題なのでしょうか。それは簡単に説明できます。
先ほど申し上げたとおり、不当な地位は、より強い不当な力によって奪われるでしょう。まとめていえば”終わりなき闘争”の世界です。
我らの世界が”このようなもの”でなくて本当にうれしく思います。神の御裾に感謝を捧げましょう
ゆえに!この魔力無き世界は新たな方向を進まねばなりません。”力”による支配の事実を捨て去る方向に。
それはどのようなものでしょうか。
この馬鹿げた世界において、人は等しく完全に自由であり、等しく生来の権利を持つことを、我々は見てまいりました。
それを”手放す”のです。
全ての成員が自身の全権利を手放し、共同体に委ねる「合意」を成しましょう。
全ての人々は、人々の権利委任を受けた共同体に自らも属します。つまり、人々は共同体に服従しますが、一方で主権者でもあります。皆が自己を捨て、全体に権利を委ね、かつ全体の一員として”権利を行使する”権利を得る。
そこには不当な王侯貴族の豪奢も、路上に転がる幾多平民の死骸も存在しません。
皆が共同体の一員として自由であり平等でありながら、同時に共同体に服従し、服従するがゆえに自身の権利を擁護する。そのような世界です。
——このような形態においてのみ、”正当な”権力が生まれるでしょう
さて、何度も触れたとおり、この論は背理の法によります。つまり、魔力の存在する我々の世界において、以上の内容は机上の空論です。
なんとおぞましいことでしょう!
このような共同体は幾重にも論理を連ねた架空の存在であり”不自然”、つまり我らの世界の自然に反するものです。
見ての通り、魔力なき世界において王の存在は不正なものとなってしまいます。
つまり、人の存在に先天的な優劣を付ける魔力の不在と、そこから導き出される”全ての個人の平等と自由”。これこそが”悪”である。
わたしはこのように考えました
よって、この”悪”の対極たる魔力と、魔力に基づく王の支配こそがこの世における”善”そのものである。そう考察いたします。
——”善”の象徴たる王の御代が、末永く続きますように