音声言語の基本的な性質として、単位配列の一次元的な線状性が挙げられる。音声言語を表記する文字も、多くの場合は線状性を有すると考えられるが、一方では、文字は二次元に表現されるものであるため、線状性の違反や逸脱の可能性をはらむ。
ナシ族のトンバ文字における線状性違反
中国雲南省を中心に居住するナシ族(納西族)には、「トンバ文字(東巴文字)」(*1)と呼ばれる独特の文字がある。ナシ族の信仰は「トンバ教(東巴教)」と呼ばれ、その儀式を執り行う祭司が「トンバ(東巴)」である。トンバは、様々な儀礼で朗唱する経典を記すためにトンバ文字を用いてきた。なお、ナシ族の経典では、トンバ文字に比して量は少ないながら、「ゴバ文字(哥巴文字)」と呼ばれる音節文字なども用いられてきた。
トンバ経典は横長の形状をしており、一般に縦3段に区切られ、さらに各段が小さなコマに区切られている。多くの場合は、およそナシ語の読音の1~2句が1コマに相当する。コマの進み方は、左から右へ進み、一段が終わると上段、中段、下段と移る。コマの進み方自体は線状性を保ってる。各コマの中の文字の配置についても、コマの進み方と同様、おおよそは左から右へ、上から下へという基底の流れがあり、必ずしも完全に無秩序というわけではない。ただし、そこからの逸脱がかなりの頻度で見られ、それがトンバ文字を大きく特徴付けている。
トンバ経典は横長の形状をしており、一般に縦3段に区切られ、さらに各段が小さなコマに区切られている。多くの場合は、およそナシ語の読音の1~2句が1コマに相当する。コマの進み方は、左から右へ進み、一段が終わると上段、中段、下段と移る。コマの進み方自体は線状性を保ってる。各コマの中の文字の配置についても、コマの進み方と同様、おおよそは左から右へ、上から下へという基底の流れがあり、必ずしも完全に無秩序というわけではない。ただし、そこからの逸脱がかなりの頻度で見られ、それがトンバ文字を大きく特徴付けている。

トンバ経典の1ページ(黒澤撮影)。上段の左から右へ読み進み、続いて中段の左から右、下段の左から右へと読む。
トンバ文字における線状性違反のパターン
トンバ文字における線状性違反には、以下のような幾つかのパターンが見られる。
現実世界の空間感覚の反映
トンバ経典では、「天」と「地」を表す文字は、多くの場合、それぞれコマの上部と下部に配置され、さらに「地」の文字はコマの下の枠線と繋がることが多い。これによって線状性違反が発生する。
以下では、ナシ語の読音をラテンローマ字で表記し、ナシ語の単語が読まれる順に番号を付し、同時にそれを表す文字にも番号を付した。さらに、参考として和訳も示したが、ナシ語と日本語では一部の語順が異なる。
以下では、ナシ語の読音をラテンローマ字で表記し、ナシ語の単語が読まれる順に番号を付し、同時にそれを表す文字にも番号を付した。さらに、参考として和訳も示したが、ナシ語と日本語では一部の語順が異なる。
(李ほか1978,p.26より。以下全て、ナシ語の原表記からローマ字表記への変換、和訳と番号は筆者による。)
このコマの中では、トンバ文字は左半分に縦一列、右半分におよそ縦一列に並んでおり、それぞれ上から下に文字が書かれている。ナシ語の読音の線状性に従うならば、これらの文字も番号順に配置されるはずであるが、このうち左半分の列では、上から①→③→④→②と配置されており、これは「地」を表す文字が最下部に配置されることによって引き起こった線状性違反である。
ちなみに下線を付した単語以外は、文字としては表記されない。これもトンバ文字の大きな特徴の一つである。なお、上の文字のうち、③は「欠けた月」から「否定」、④は「桶(tv)」と同音の「出る(tv)」、⑤は「トルコ石(waqまたはoq、方言により発音が異なる)」と同音の「影(waqまたはoq)」、⑦は「錫(siul)」と近音の「種(siuq)」をそれぞれ表す。④と⑧の文字の上下が反転しているのは、前者が否定を伴うためである(ただし、否定で常に反転するとは限らない)。
同様に、「川」や「谷」を表す文字も、現実世界の空間感覚を反映してコマの下部に配置される。
ちなみに下線を付した単語以外は、文字としては表記されない。これもトンバ文字の大きな特徴の一つである。なお、上の文字のうち、③は「欠けた月」から「否定」、④は「桶(tv)」と同音の「出る(tv)」、⑤は「トルコ石(waqまたはoq、方言により発音が異なる)」と同音の「影(waqまたはoq)」、⑦は「錫(siul)」と近音の「種(siuq)」をそれぞれ表す。④と⑧の文字の上下が反転しているのは、前者が否定を伴うためである(ただし、否定で常に反転するとは限らない)。
同様に、「川」や「谷」を表す文字も、現実世界の空間感覚を反映してコマの下部に配置される。
(李ほか1978,同頁より)
①の文字のうち、左に丸がついた木の葉のような文字が「川」、その下の曲線が「谷、溝」である。「川」の文字は、丸で表される水源から水が流れ出る様を表す。この文字の構成と配置は、ヒマラヤ造山帯の東端に位置し、起伏の激しい当地での谷底に流れる川のイメージと重なる。
この他にも、「木」、「岩」、「積み上げた穀物」などの文字もコマの下部に配置され、コマの下の枠線と繋がることが多い。
この他にも、「木」、「岩」、「積み上げた穀物」などの文字もコマの下部に配置され、コマの下の枠線と繋がることが多い。
(李ほか1978,同頁より)
この例では、①の「木」と②の「岩」がコマの下部の枠線と繋がっているため、文字は上から③→④→①→②の順となっている。
(李ほか1978,p.28より)
この例では、「積み上げた穀物」を表す⑦の文字がコマの下部の枠線と繋がっている。左の①~④の文字と、右の⑨~⑫までの文字配置に従えば、本来ならば⑦の文字は⑥のすぐ右側に配置されると思われる。しかし、ここでは現実世界の空間感覚が、配置の文脈を上回り、線状性違反が起こっている。
ちなみに、上の文字のうち、②は「種類不明の動物(jji)」と同音の「ジ(jji)」、③は「象(coq)」と同音の「ツォ(coq)」(「ジ」と「ツォ」は古代の部族名と考えられるが、多くの場合は「人」を指す)、⑥は「足の裏(bbe)」と同音の「プミ族(Bbe)」、⑦は「積み上げた穀物(oq)」と同音の「オ族(Oq)」、⑩は、「(紐が)解ける(perq)」と同音の「パ族(Perq)」、⑪はチベット文字の借用で同音の「ナシ族(Naq)」をそれぞれ表す。
ちなみに、上の文字のうち、②は「種類不明の動物(jji)」と同音の「ジ(jji)」、③は「象(coq)」と同音の「ツォ(coq)」(「ジ」と「ツォ」は古代の部族名と考えられるが、多くの場合は「人」を指す)、⑥は「足の裏(bbe)」と同音の「プミ族(Bbe)」、⑦は「積み上げた穀物(oq)」と同音の「オ族(Oq)」、⑩は、「(紐が)解ける(perq)」と同音の「パ族(Perq)」、⑪はチベット文字の借用で同音の「ナシ族(Naq)」をそれぞれ表す。
(2)中心的文字と非中心的文字
トンバ文字では、意味的に重要な文字はコマの中心に大きく配置されることがある。多くの場合、その文字は象形的な文字である。それに対し、多くが仮借文字である非中心的な文字は、中心的な文字の周辺や空きスペースに配置される。このような配置によって、線状性違反が起こる。
トンバ文字では、意味的に重要な文字はコマの中心に大きく配置されることがある。多くの場合、その文字は象形的な文字である。それに対し、多くが仮借文字である非中心的な文字は、中心的な文字の周辺や空きスペースに配置される。このような配置によって、線状性違反が起こる。
(李ほか1978,p.27より)
この例では、④の「鶏」は他の文字により大きく、コマの中心に配置されている。それに対し、⑤の「白い」と⑥の「出る」は、鶏の上下の空きスペースに置かれており、読音とは④と⑤の順序が逆転している。
ちなみに、①の文字は「ヨモギ(bee)」、②の文字は「蛙(ba)」、③の文字は鍬で何かを打つ様子から「仕事をする(bbei)」を表し、三文字で「変化するbeebabbei」の読音を表す。また、⑤の文字は、ここでは「(紐が)解ける(perq)」と同音の「白い(perq)」を表す。
ちなみに、①の文字は「ヨモギ(bee)」、②の文字は「蛙(ba)」、③の文字は鍬で何かを打つ様子から「仕事をする(bbei)」を表し、三文字で「変化するbeebabbei」の読音を表す。また、⑤の文字は、ここでは「(紐が)解ける(perq)」と同音の「白い(perq)」を表す。
(3)文字の結合
トンバ文字では、意味や絵画的観点から複数の文字を結合することにより、線状性違反が起こることがある。
トンバ文字では、意味や絵画的観点から複数の文字を結合することにより、線状性違反が起こることがある。
Coqsseileel’eesso①, zzerq②gv hual③ perq④ rvl, rv bbei⑤ niol hoq⑥ seiq⑦.
ツォゼルグ①は、木②の上にシラ④キジ③がとまる、仕事をする⑤は自分が遅⑥かった⑦。
(李ほか1978, p.38より)
ツォゼルグ①は、木②の上にシラ④キジ③がとまる、仕事をする⑤は自分が遅⑥かった⑦。
(李ほか1978, p.38より)
この例では、「斧を持ったツォゼルグ(①と⑤)」、「木にとまったシラキジ(②と③)」が、それぞれ結合して配置されている。これにより、文字の順序は①→⑤→④→③・②→⑥→⑦となり、線状性違反が起こっている。ちなみに、上の文字のうち、⑥は「肋骨(hoq)」と同音の「遅い(hoq)」、⑦は「青羊(seiq)」と同音の完了の助詞(seiq)を表す。
さらに、次の例では、5つの文字が結合され、全体として一つの絵画的構成となっている。
さらに、次の例では、5つの文字が結合され、全体として一つの絵画的構成となっている。
(李ほか1978, p.30より)
上下に配置された「天」と「地」の文字は、「柱」を表す線で繋げられ、さらに「鉄」を表す斧の文字も柱に結合している。また、③は「四つの卵」(発音はliul-ggv)で、同音の「中間(liulggv)」を書き表すものだが、「柱」の周囲の空きスペースに分かれて収まっている。このような結合が見られる場合には、もはや文字がどの順で配置されているのかは判然としない。ここでは絵画的な構成が卓越し、線状性は影を潜めている。
ちなみに、上の文字のうち、⑥は「羊毛を切るハサミ(jjil)」と近音の「(立てて)置く(jji)」を表す。
ちなみに、上の文字のうち、⑥は「羊毛を切るハサミ(jjil)」と近音の「(立てて)置く(jji)」を表す。
3.その他の特徴
(1) 配置のずれ
コマの線状性による基底の流れは左→右、上→下であるが、いったん縦の配置になると、左右のずれはあまり気にされない。
(1) 配置のずれ
コマの線状性による基底の流れは左→右、上→下であるが、いったん縦の配置になると、左右のずれはあまり気にされない。
(李ほか1978, p.27より)
この例での③・④、および⑤・⑥・⑦の文字は、ともに上下に配置されているものの、それぞれ少しずつ左にずれており、左→右という基底の流れに逆行している。なお、上の文字のうち、②は「噛むggee」と近音の「真ggeeq」、④は「ツェの霊(zeiq)」と同音の「実(zeiq)」を表す。また、⑧の文字は「トルコ石(waq)」の文字に四つの黒点を書き加えることで「黒水晶」を表す。⑨の文字は、「岩(lv)」と近音の「塊(lvl)」を表す。
(2) パターンの混在
上記の線状性違反のパターンは、一つのコマの中で複数混在することがある。例えば、(3)文字の結合の二つ目の例では、「天」と「地」の文字は、現実の空間感覚の反映によって配置されるとともに、他の結合とも結合している。
上記の線状性違反のパターンは、一つのコマの中で複数混在することがある。例えば、(3)文字の結合の二つ目の例では、「天」と「地」の文字は、現実の空間感覚の反映によって配置されるとともに、他の結合とも結合している。
以上に見たように、ナシ族のトンバ文字においては、多くの線状性違反が発生する。そのパターンや発生頻度は、経典の異本や異なる著者によっても違いがあると考えられるが、ナシ族の創世神話を記したトンバ経典である『ツォバトゥ』の冒頭部分では、およそ半数のコマに何らかの線状性違反が見られる。
トンバ文字における線状性違反の頻度の高さは、その二次元的な絵画的性質による部分が大きいと考えられる。線状性違反は、一見すると絵画性を残す象形的な文字に顕著な特徴のように思われるが、一方では、表音的な文字においても、頻度はさほど高くはないながら、線状性違反が見られることがある 。
トンバ文字における線状性違反の頻度の高さは、その二次元的な絵画的性質による部分が大きいと考えられる。線状性違反は、一見すると絵画性を残す象形的な文字に顕著な特徴のように思われるが、一方では、表音的な文字においても、頻度はさほど高くはないながら、線状性違反が見られることがある 。
(黒澤直道)
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