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中国における辞書記述

最終更新:2020年03月31日 07:39

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中国における辞書記述(ちゅうごくにおけるじしょきじゅつ)
英Chinese lexicography
『言語学大辞典術語』

 中国は文字の国である.したがって古くから文字の教育や培養が行なわれ,のちには文字の芸術を創りあげた.中国の文字,すなわち漢字は優れて表語文字(logograph)であったため,一字一語の原則が夙に定着し,独特の文字観を誕生させた.中国的な考え方によれば,字が実体であり,その形,その音,そしてその意味(義)が字の属性である.これを字の形音義という.この考え方から中国の辞書記述は字を中心に行なわれ,語の記述である辞書は近代になって初めて編纂されるようになった.なお,ここでは近代以前の中国の辞書記述について略述することにする.

字の記述は,字の形・音・義の3つの属性に応じて3つの流れに沿って行なわれた.そして字の形によるものを字書,字の音によるものを韻書とよび,そして字の義によるものは特に名称がないので仮に「義書」とよんでおくことにする.

[字書]
中国では,かなり古い時代から文字の学習が行なわれた.漢字はなにしろ一字一語の原則で貫かれた表語文字であるから,アルファベットや仮名のような表音文字(phonograph)と違って,単位の字が多数になり,その学習にはかなりの時間と能力を要した.初めは貴族の子弟が,それから文字の知識が普及するにつれ,貴族以外の者も文字を学び,ことに役人になろうとする者には文字の知識が不可欠であった.そのため,学校や塾のような所で幼いうちから文字の学習に励んだが,その際,教科書となる本も作られるようになった.後世の「千字文」のような内容のもので,記憶の便にたいがい韻文の形をとっていた.漢代には「倉頡篇」とか「急就篇」といったものがいくつか用いられていたことは知られている.文字の学習は単に児童の教育にとどまらず,学問の進展に伴い,学問の基礎として文字の知識が要請され,やがて文字そのものの研究へと発展していった.字書はそのような研究の成果である.

字書の元祖は,後漢の許慎著わすところの『説文解字』である.これは略して『説文』という.許慎は生没年が不明で,およそ西暦100年前後に活動していた人で,『説文』が完成したのは100年だといわれる.『説文』はその標題の示すごとく,「文を説き,字を解い」た書物で,この場合,文は言うまでもなく文字の意味である.この本は,だいたい小篆という書体について一々の漢字の構成を説き,その漢字の本義を解いたものである.小篆はすでに漢字の原型から程遠い段階の書体であって,漢字の原始的形態や栂造をそのまま写しだすものではなかったから,今日からみれば許慎の解説にはしばしば適当でないところがあるのもやむをえない.それでもいわゆる「古を去ることいまだ遠からざる」時代に生きていたため,隷書(→書体)やその後の措書よりは字源の考察にははるかに恵まれていた.今日,漢字の古い字体,金文や甲骨文が何とか読めるのはまったくこの『説文』のお蔭である.

『説文』は,9千余字を540部に分けて構成されている.当時としてはかなり多くの文字を収録していると言えるが,その収録している文字の中には戦国時代の秦の文字といわれる籀文や東の方で経書などに使われていた古文も若干混じっている.部は,同じ義符(または意符)をもつ文字をまとめたもので,たとえば,木に関する意味をもつ語を表わす文字は木をその義符とし木部の中にまとめ,木の字をその部首とする.一より始まって(十二支の)亥に終わる部の配列は,どのような原理に従っているか必ずしも明らかではないが,それぞれの部と部との関連は,形の近似や意味の類似によっているらしい.部というものが意味的範疇によって同じ義符のもとに構成されている点からすると,ある意味的分類がなされていると言ってよい.

『説文』では,各字の意味については,その字の原始的形態ないし構造から各字の本義を簡単に述べるにすぎない.この字の本義はその字の発生に関する意味で,その字の表わす語の語源とは必ずしも一致しない.そして,それぞれの文字の形態ないし構造は,いわゆる六書(このうち,転注と仮借は文字の運用に関するものであるから,実際には象形・指事・会意・形声の4種)によって一定の形式の簡単な説明がなされている.

『説文』は以上のごとく漢字の本義を簡単に述べたものであるから,漢字各字の解説を求めようとしても無理である.各字の解説を求めようとする辞書的要求は,『説文』を基礎とする字書の発展の中に漸次満たされるようになった.
『説文』に次ぐ現存の字書は,六朝時代の梁の顧野王撰するところの『玉篇』(543)である.この字書は隷書の見出しを立て,だいたい『説文』の構想に準拠して作られている.といっても『説文』そのままではなく,巻数も30巻,部首も542,また収録した文字の数も約1万7千に及んでいる.そして『玉篇』の『説文』と異なる点の一つは,この時代には,『説文』の時代にはまだなかった反切室という中国独特の表音法が発明されていて,それを各字の解説の中に利用していることである.音の表示はその字の語の形を定めるのに重要である.

『説文』とは違うもう一つの特徴は,各字の解説が詳細になっている点である.この特徴はことに原本の『玉篇』に見られるところであって,しばしば経典などの用例を引用しており,編者の意見を明示していることもある.しかしこの原本の特色は,『玉篇』の利用が一般に進むにつれ失われていったのは残念なことであった.『玉篇』は唐代に入ってから愛用され,したがって増補され,長い間字書といえば『玉篇』というくらいに流行した.ちなみに,古い時代からわが国に将来され重用されていたので,中国にはもう見られない原本に近い写本が若干残されている.中国ではむしろその流行のために漸次その字の解説が簡略化され,宋の時代は『大広益会玉篇』とよばれるほど補強されたが,それはまだしも,元の版本となると,原形をほとんどとどめず,同義の字をいくつか並べて字義を説明するだけのつまらない字書になってしまった.

字書といえば『玉篇」ということから,字書の名に篇の字を用いるものができてきた.北宋の『類篇』(1067)がまずそれである.これは『玉篇』に続く字書として作られたもので,編纂者は丁度その他の人々が企画・編集し,名相司馬光(温公)の手によって完成したといわれる.だいたいの栂成は『玉篇』と同じく『説文』のそれによっているが,収録字数は3万を超え,それに応じて,『説文』の15巻を3倍した45巻に収めている.部首も544部.見出しの字形も,もう楷書に変わっている.

金に入って韓孝彦・韓道昭父子の『五音篇海』(または『四声篇海』)(1602)とよばれる字書が現われた.この書は15巻からなっているが,部の数を444に縮小している.この字書の特徴は,従来の部の配列を改め,部首の字を中国音韻学事の頭子音の分類である三十六字母事の体系によってその字を配列したところにある.これは,いわば表音的な順序をとったものである.

この『五音篇海』以降,明代に「篇海」の名を含んだいろいろの字書が出ている.たとえば,その一つに明の欽定韻書『洪武正韻』の編纂に参加した宋漉という人の作と称せられる『篇海類篇』(20巻)(明萬暦年間)などがある.これには,部の配列を三十六字母の体系に従うのは検索に不便であるとして,部を天文・地理・人事等々の意味的分類によって配列してある.

『五音篇海』のもう一つの特徴は,部分的にではあるが,画引きの検索法をはじめて考案したことである.それは,所属字の多い部の中で画数の小さいものから大きいものへ配列しているところに見られる.この画引きの検索法を徹底的に採り上げたのが,明の梅腐詐の『字彙』12巻(1615)である.この字書では,部首も画数の小なるものから大なるものへと配列した.そして楷書体について考えるところから,部首の数も240に縮小している.収録文字は3万有余.字の検索に実用的な利便を取り入れたこの字書は,各字の解説にも配慮がみられ,一世を風靡した.わが国でも重用され,和刻本も出ている.この字書の各字の表音はだいたい『洪武正韻』の反切によっている.

字書は,清の『康煕字典』15巻(1716)においてその極致に達する.その名の示すごとく,この字書は康煕帝の命に従って編集され,刊行されたものである.これは上述の『字彙』とそれに続いて『字彙』の増訂を図った明の張自烈の『正字通』をその基礎において,さらに質量ともに拡大した最大の字書である.字数も4万7千に及び,部首は244.その配列は『字彙』の画引き法を踏襲している.

この字書の特色の一つは,従来の字書と比べて表音が詳細になっている点である.その表音には,かつての著名な韻書(『広劉『集韻』『韻会』『(洪武)正韻』など)の反切を引き,その字音の典拠を示している.特に注目すべきは,字音と字義の関係を明確にしていることであって,その際,経書その他の古典の個所を引いて出典を明らかにしている.漢字は多くの場合,一字多義であり,また一字多音であるので,音と意味の関係がしばしば暖昧にされるため,その関係の確立は文字の標準を示す字書としては当然のことであるが,『康煕字典』はその点を明らかにしている.この点,『康煕字典』は形は字書であるが,一面,字音の標準をめざす韻書の役割をも兼ねていると言ってもよく,後にも述べるように,字書と韻書という中国の辞書記述の二大潮流がここに合流して,ピークを作っていると言っても過言ではない.その後の字書はおおむねこの字典に則っており,わが国の漢和字典もこの字典を模範としている.

ただ,はなはだ残念なことに,この字書は皇帝の命により人海作戦によって編まれたものであるから,出来栄えがはなはだ杜撰である.多くの訂正の試みがなされているが,その杜撰のために真の価値を損ねているのは惜しい.

[韻書]
字形の標準を示すのが字書の目的の一つであるのに対し,字音の標準を立てようとするのが韻書である.一つ一つの文字をどのように読むかということは,表音性の乏しい漢字としては絶えず問題になることである.経書などの古典の学問が進むにつれ,字音への関心が高まり,後漢の時代には古典の文字の解釈に音の類似する他の文字を用いる「声訓」(または音訓)といわれる語釈が行なわれたが,これは字の音に対する関心が高まってきたことを示す.やがて,六朝の初めの頃から,反切という表音法が考案された.この方法によれば,一応どのような字音も表わすことができることになった.一方,作詩の技術が発展すると,平仄や押韻を意識的に考えるようになって,ここに作詩の参考書としての辞書が必要になってきた.それが韻書である.韻書は作詩の参考書であるとともに,字音の辞書でもあって,次第に字音の標準を示すものになっていった.

六朝時代の間に多くの韻書が作られたが,晴初(A.D.601)になった陸法言の『切韻』が六朝時代の韻書の集大成として,内容も整備されていたため,大いに重用され,ために六朝時代の古い韻書はほとんど影を潜めてしまった.

『切韻』の原本はすでに見られないが,唐代の写本から推して考えると,『切韻』5巻はまず四声率(平・上・去・入)の別で巻立てを行ない(巻一・二が平声,巻三が上声,巻四が去声,巻五が入声),平声には54韻,上声には51韻,去声には56韻,入声には32韻,計193韻に分けて,約1万2千の文字を収めた.この場合,韻とは各字音の韻の部分(すなわち,字音の中核母音と末音)の同じものをまとめた分類をいう.もともと作詩の押韻のための参考書であるから,この韻の分類が必要なのであって,字音の頭子音の分類についてはまだ考慮は払われていなかった.各声の中での韻の配列は,だいたい韻と韻との音韻的関係が配慮されてはいるが,それも徹底的には行なわれていない.ただ注目すべきは,各声の間に韻の配列に対応関係がかなり明瞭に意識されていることである.各韻の内部は,同じ頭子音をもつ同じ字音の字が一括して並べられる.これを小韻という.韻内の小韻の配列順序の原理は不明である.各小韻の第一に位置する文字の注に,その字音を示す反切寧が,「某々反」(のちに「某々切」)という形で書かれる.たとえば,巻一(上平声)の最初の韻は一東の韻で,この韻の最初に東と同音のいくつかの字をまとめた小韻があり,この小韻を代表する東の字が真っ先におかれ,その注に「徳紅反」という反切でその音(tung)を示している.『切韻』の原形では各字の注は反切以外,その字義を示す注釈はきわめて簡単なもので,しばしば字義の注を省略していたらしい.というのは,韻書は字音や韻を知るためのもので,字書のように字義の解説を必要としなかったからである.

『切韻」は,晴の初め顔之推など当時の録々たる8人の学者が音韻について討論したものに基づいて陸法言が編纂したもので,その字音体系は六朝末の河南の字音を基礎としていたようである.河南は後漢以来,洛陽を初めとして政治の中心でもあり,文化の中心でもあった.この韻書は上にも瞥見したようによく整備され,また細かすぎるほど厳密な区分がされていたため,晴代はもちろん,唐代を通じて大いに重用された.たとえば,敦煙のような辺鄙なところからも,大小の写本の残巻が出ているし,日本でも多くの影響を残している.そして時間の経過に従って補正がたびたび行なわれ,字義の解説もだんだん加えられるようになった.唐代の間に作られ,現在完本で伝えられている『切韻』がある.これは王仁昫によるもので,正式には『刊謬補映切韻』(706)という.北宋に入って『切韻』は政府によって取り上げられ,『広韻』(広切韻の意)5巻(1008)の名によって公刊されたが,『広韻』では『切韻』の193韻が206韻に増加している.もっともこれは音韻の変化によって韻が増加したのではなく,『切韻』で1韻にまとめられたものをある音韻の特徴によって2韻に分けたにすぎない.たとえば,切韻では-ânと-uânは1つの韻で扱っていたが,『広韻』に至るまでに-ânと-uânを別々の韻に分けるようになっていたのである.このように唐代の間に試みられた補正の結果が『広韻』の中に盛りこまれているが,体系としては『広韻』は『切韻』の原体系を比較的忠実に保存している.

宋朝は『広韻』の公刊後いくばくもなく,それを倍増した『集韻』10巻(1039)を公にした.この韻番は採録の字を大々的に増補したほか,『広韻』の反切に多少の改定を加えているが,206韻の体系は変わっていない.この206韻の体系は現実の字音の体系ではない.すでに唐代において現実の字音はかなりの変化を遂げていた証跡がある(たとえば,慧琳の『一切経音義』の反切には現実の字音がよく反映されている).にもかかわらず,宋代に及んでなお206韻の体系を保持したのは古い中国における伝統尊重の現われである.

『切韻』系統の韻書はこのように韻書の伝統を担うものとして,その後長く伝えられた.というより,韻書といえば『切韻』系の韻書のことであると言ってもよいくらいである.そしてこの系統の韻書は,科挙(公務員試験)に作詩が課せられるところから,やがてその受験準備の参考書となった.その場合,『広韻』や『集韻』のような大部なものは不便であるから,その簡略化されたものが用いられ,それを「韻略」と言った.そして科挙は礼部という役所が司っていたので,「礼部韻略」とよばれた.その簡略化は字義の解説などにもみられるが,もっとも著しいことは韻目の併合である.『広韻』の206韻の体系は韻目のたて方が細かすぎ,詩を作る上に不便であったので,早くから韻の同用・独用が認められていた.すなわち,ある韻と他のある韻は押韻に区別しないで使ってよろしいというのが同用で,ある韻はその韻の字だけで使わなければいけないというのが独用の規定である.そしてこの同用の韻がだんだん併合していくのであるが,この併合の裏には音韻変化が進んだことがあったそこで206韻はやがて160韻となり,107韻となり,ついには106識となって,この106韻の体系が作詩の基準となり,今でも漢詩を作るときはこの体系によることになっている.

206韻を160韻に縮めたのは金の韓道昭の『五音集韻』(1212)という韻書であるこの韻書のもう一つの特徴は,従来,韻書では韻の内部での小韻の配列順位はよく分からない順序に従っていたのを,宋代にすでに確立していた頭子音(声母)の体系,すなわち「三-'一六字母」の体系によって小韻を配列しなおしたことである.

一方,206韻を107韻に削減したのも金の時代であった.南宋ではさらに106韻に縮めたが,この106額の韻略に,今度は単なる受験参考書としてでなく,字義の解説を詳細にした韻書が現われた.毛晃の『増修互註礼部韻略』5巻(1162)がそれである.これは略して『増韻』とよばれる.

元の時代に入ると,伝統的な韻略の体系と現実の音の体系との乖離はますます激しくなった.この状況を反映して面白い韻書が登場する.それは熊忠の『古今韻会挙要』(略して『韻会』という)(1297)である.この韻書は表面は107韻の韻略の体系をとっているが,各字の注に裏の体系を「字母韻」の名によって示すという表裏二重の体系からなっている「字母韻」の体系は言うまでもなく現実の体系である.また,各韻の小韻の配列は呉棫の『韻補』に従って『五音集韻』と同様,頭子音の三十六字母の体系に従っている.そして,その字義の解説が『増韻』よりさらに詳細になり,出典も豊富である.なお,この韻書は元の国字パスパ文字による韻書『蒙古字韻』と密接な関係がある.

やがて,現実の韻の体系が公然と表面に現われるようになった.元の周徳清の『中原音韻』(1324)がそれであるしかし,それは伝統的な韻書の系統の中からではなく,元の時代に盛んになった民間の戯曲の押韻のために生まれたまったく独特の韻書である構造も従来の韻書と異なり,19の韻部からなり,各韻部に陰平・陽平・上声・去声の四声と消滅した入声の配分が属している.また反切による表音もないし,字義の注もない.このように伝統の重圧から解放された革命的な韻書であって,その性質上,当時の北方の口語音に近い体系を反映していると考えられている.

明に入ると,太祖は建国早々『洪武正韻』という韻書の編纂を命じ,楽詔鳳・宋漉等々の人々がその業に当たり,これを公刊した(1375).この韻書は官韻として韻略の系統を引くものではあるが,すでに前代の元朝の間に,伝統的な韻略の体系と現実の体系のずれが表だってきており,『中原音韻』のような民間の韻書の出現をみているため,従来の体系はもはや保つことができず,それに思いきった変革を加え,76韻の体系に改めた.それには従来の韻の合併以外に,1韻のものを2韻に分けることも敢えてしており,それは現実の音になるべく応じようとした結果である.もっとも,この韻書の体系の正体はいまだ不明な点が多いが,首都南京の字音を字音の標準と定めたものと思われる.当時の南京音は現在の南京音とは異なり,揚子江南地方のいわゆる「呉語」の色彩がいまだ濃厚であったと推測される.

清朝に入ると,康煕帝の命により『音韻闘微』という韻書が編纂された(1726).この韻書は不思議な韻書である.明の『洪武正韻』が現実の字音に近い標準を定めようとしたのに対し,この韻書では,再び106韻の韻略の体系に逆戻りしている.しかし,ここでは宋の時代に確立した等韻学の体系が明白な形で取り入れられた.等韻学というのは,韻の分類を横の座標にとり,頭子音(声母)の分類を縦の座標にとった韻図によって音韻を考えようとする中国独特の審音法(音韻分析)である.『音韻聞微』はこの等韻学の体系に従って各韻の小韻が三十六字母と四等呼の組み合わせで配列されている.韻の分類が伝統的な韻略に依存しているが,これも単に伝統に固執しているのではなく,一種の理想的な体系として表面にうち出しているのである.それが現実の字音とずれていることは十分意識しており,その違いが往々各小韻の反切の中に示されている.この韻書のもう一つの特徴はその反切にある.反切そのものも時代を追って少しずつ変化してきているが,この韻書では,反切の上下字を見ればその字音が分かるようにするのが原則となって,たとえば堅の字音は,「基(ki)煙(ien)切」という反切によってkienであることが知られるというふうである.このような,きわめて合理的な表音法は,清朝の国字の満州文字がアルファベットの流れを汲むモンゴル文字の改造からでき上がった表音文字であり,その影響で反切のより合理的な表音化を図った結果である.

[字書と韻書の交渉]
中国の辞書記述の歴史の中でもっとも興味深いのは,字書と韻書の相互関係である.上にみたように,唐に入ると,字書は『玉篇』,韻書は『切韻』と,両者ともに大いに愛用された.『切韻』はもともと字音が分かればよいということで字義の解説はほとんどなかったか,あってもごく簡単なものであったらしいが,『玉篇』からの影響で唐代の写本には漸次『玉篇』から字義の解説を取り入れるようになってきた.それは,字形の構成から検索する字書にしろ,字音の体系から検索する『切韻』にしろ,検索の方法は異なっても両者とも次第に辞書的性格を帯びるようになったからである.なお,『切韻』の補正版である『広韻』の字義の注に,人名・地名に言及しているものが多いのは注目すべきことである.これらの固有名詞をどう読むかは,字音としてゆるがせにできないことである.

『玉篇』と『切韻』の平行的使用はやがて両者を一括して「篤韻」と称せられるようになり,さらに宋に入るとこの篇韻の対を意識的に編纂するほどになった.韻書の『集韻』と字書の『類篇』の編成がその初めである.続いて金の時代には韻書の『五音集韻』に対する字書の『五音篇海』が作られ,韓道昭がその両者の編著に参加し,そのいずれにも字の配列を三十六字母の順序に従って行なおうとした.元になると,字書と韻書のペアはできなかったが,韻書の『韻会』は,韻書としても表裏の二重体系を内包するきわめて特異なものであるとともに,字義の解説の面では,これに先行する『増韻』の後を受けてかなり詳細になり,経典や古書の引用も豊富で,辞書的性格を濃厚にもつものであった.つまり『韻会』は,字書の機能をふんだんに取り込んだ韻書ということができる.

明代では,まず欽定の韻書『洪武正鵠』が編まれた.この韻書に対応するものとして,金の『五音篇海』の亜流をなすいくつかの篇海類の字書ができたが,『洪武正韻』に対する字書としてはやはり『字彙』がもっとも優れていた.これは字書と韻書のペアを同時に作るのではなく,韻書を追って字書が作られた例といえるであろう.

このような字雷と韻書の相互作用は,ある意味では元の『韻会』に総合されて韻書の形で現われてはいるが,さらに大規模な形で字書の形でその総合を実現したのが清の『康煕字典』である.ここでは字書の構成で字が並べられているが,従来の字書と韻書の集大成がみごとに結実しているのであって,まことに中国の辞書記述の極致といっても過言ではない.なお,この字典に対する韻書として『音韻闡微』があるが,これは『康煕字典』の音韻の面の参考文献の機能を果たしているにすぎない.

[義書]
字形の字雷と字音の韻書に対して,字義を対象とする一連のものがある.これには特別な名称がなく,中国の伝統的な書誌分類では「訓詰」(典籍の語釈の意)という類に入っている.そこで仮に「義書」とよぶことにする.

義書の元祖は禰粗という本である.この成立状況は不明であるが,その核心の部分はすでに周代にできていたようである.その製作に周公や孔子の名をあげる伝説すらあるように,かなり古い時代からだんだんでき上がっていったらしい.この本は経典の解釈に重要であるという点からか,のちには経書の一つとして尊崇されるようになった.

『爾雅』3巻は,釈詰・釈言・釈訓・釈親・釈宮・釈器・釈楽・釈天・釈地・釈丘・釈山・釈水・釈草・釈木・釈虫・釈魚・釈烏・釈獣・釈畜の19部に分かれ,それぞれの区分に属する字に簡単な説明が加えられている.釈親以下はそれぞれの字の示す字義の意味的分類であるが,これらの具体的な事物以外の語は最初の3つの中に収められている.釈詰の詰はその字の示す通り「古語」の意で,これに対して通用の語は釈言に入る.釈訓は主として2字からなる連語(擬態語)を扱っている.この3つでは,字義の解説というよりも,類義語(synonym)を並べているにすぎない.もともと『爾雅』は経典の語釈(訓姑)を集めたものから発生したらしい.経学は一種の文献学であるから,字(語)の解釈はその重要な任務であった.また,語釈にはその語の定義に類義語を宛てて悟らせる方法しかないので,類義語の意識は古くからあったに違いない.

この『爾雅』の補篇ともいうべきものがいろいろできていったが,漢末に作者不詳の『小爾雅』というものが作られた.これは『爾雅』に欠けているものを少し補った程度のものであったが,爾雅の本当の意味の続篇が魏の張揖によって作られた(230年頃).これは『広雅』(または『博雅』)とよばれるもので,体裁や叙述形式はまったく『爾雅』に則っている.宋代に入って,陸佃の『埤雅』(1125)や羅願の『爾雅翼』(1174)が現われたが,これらは『爾雅』の釈親以下の事物の説明が詳細になり,だんだん百科事典的な方向をとるようになった.その後「~雅」という名をもつものがいくつか作られた.明の朱謀璋の『駢雅』,同じく明の方以智の『通雅』,清の呉玉搢の『別雅』,同じく清の洪亮吉の『比雅』等々がそれである.なお,この義書においても注釈がだんだん詳しくなってくるのが注目される.

この『爾雅』のスタイルをもつものに,2つの注目すべき著作がある.それは『方言』と『釈名』である.『方言』は前漢末の揚雄が著わしたもので,その名の示すように当時の方言を記した本であるが.どうやら未定稿らしい.前漢末という,かなり古い時代の方言とその分布状況が知られる点で貴重な作品である.

『釈名』は後漢の劉煕の作.この本も『爾雅』の体裁をとって,語を類別して説明しているものであるが,この本の特徴は各字の説明がいわゆる声訓(また音訓ともいう)によっている点である.声訓とは,ある字の意味を説明するのに,その字と類似の音をもつ字で説明する方法である(たとえば,「日実也」のように).

[その他の辞書]
以上,字の形音義による3種類の辞書について略述したが,中国にはこれらのほかにも辞書らしきものが若干ある.上にみたように,韻書は作詩の参考書として発生してきたが,それは押韻のためのものであった.作詩の参考書としては,詩語や詩句を探し出すということも大切なことであるから,そのためのものも当然できてきた.清の『佩文韻府』(1711)などがそれである.この詩語辞典は,元の陰時夫の『韻府群玉』や明の凌稚隆の『五車韻瑞』に基づいてそれらを補正したもので,これも康煕帝の命によって編まれたものである.なにしろ詩語をなるべく洩れなく収録しようとすると,どうしても大部のものとなる.『佩文韻府』は444巻に分けられ,字の検索には106韻の韻略の体系をその枠組みに使っている.なお,この詩語辞典の大本は,すでに散佚して今日見ることはできないが,唐の顔真卿の『韻海鏡源』360巻(772頃)であったといわれる.

中国の文献学である経学は経書の学であるから,当然,経書の語釈(訓詰)が重要となる.経学は清朝に入ると,考証学として大いに発展したが,この気運の中で経書やその他の古典の語注を集めたものが現われた.院元の『経籍饗詰』106巻(1798)がそれである.古い中国では書物の読解には辞書を引いて語義を知るのではなく,それぞれの書物の注釈によって読むというのが本筋であった.したがって『経籍饗詰』のような,ただ古い注釈が漫然と並べてあるものでも大いに役立つのである.この本も,字の検索には106韻式の体系によっている.漢字の検索にはアルファベットのようにabc…といった機械的な配列はとれないので,どうしても画引きか,韻引きか,そのどちらかによらざるをえなかった.

おそらく『経籍饗詰』を利用したと思われる古語辞典が消の時代に現われた.それは朱駿声の『説文通訓定声』(1848)である.この本の構成は,まず朱氏の上古音体系によって18部に分けられ,その各部はその韻部に属する形声声符によって,同じ声符の『説文』の文字を集めてグループ化している.つまり上古音による韻引きの辞典である.その書名にあるように,各字は『説文』を基礎としており,筆体の文字を掲げて,まず『説文』の解説をその字の本義とする.そして,その文字の転用の場合について『経籍饗詰』の注釈などを朱氏一流の考えで整理して述べている.それには2つの場合があって,その字の本義から派生した意味の場合を転注とよび,その字の仮借の場合を假借として分類する.この転用の場合が「通訓」であって,終わりにその字の声訓例や押韻例を述べているが,それが「定声」である.この辞典は,経典やその他の古典を読むにはきわめて便利な古語辞典である.‐辞書記述
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