訓読(くんどく)
『言語学大辞典術語』
『言語学大辞典術語』
日本では,漢字の読み方に2通りある.一つは音読であり,もう一つは訓読である.前者は漢字をその音(字音)で読むことであり,後者は漢字をその訓(字訓)で読むことである.いうまでもなく,元来,漢字は中国語の語を表わす文字である.したがって,中国では,漢字を読むときは,漢字の表わす語をその語の音形と意味とともに思い起こす.しかし,日本では,漢字は借用語である漢語をその音形と意味とともに思い起こすと同時に,その意味と等価の意味をもつ日本語をも思い起こす.たとえば,「月」という漢字は,ゲツという漢語を思い起こさせるとともに, ツキという固有の日本語を思い起こさせる.月をゲツと読む場合は,ゲツという音形をもち,「月」を意味する漢語を思い起こさせるのであって,この場合,ゲツを月の音または字音といい,ゲツと読むことを音読するという.つまり,日本語的に訛ってはいるが,古い中国語の音形をそのまま読むのである.
この音読に対して,訓読は,漢字で日本語を表わすことである.訓とは,もと「解釈」の意で,各字の意味の解釈をいう.日本人にとって,漢字は外国の文字であり,外国語を表わすものであるから,漢字を理解するには漢字の意味の解釈が必要である.そして,その解釈は等価の日本語をもってするのである.そこで,その等価の日本語を,その漢字の訓という.月の例でいえば,ツキがその訓である.
ところで,漢字の音といい,漢字の訓というのは,あくまで漢字についていうのであって,いわば漢字を実体としてその属性と考えているのである.この考え方は,本家の中国での考えの延長である.中国では,字が実体であり,字形,字音,字義は,その属性と考えられてきた.日本では,この字義を日本語でいうので,それが訓とよばれる.そして,字の属性である音と訓は,各字について慣習的に固定されている.特に,字の訓は,ある漢文のテキストの,その場その場の字の文脈的意味ではなく,一つ一つの字に,その意味を伝える日本語が文脈に関係なく決まっているのである.月であれば,その訓は必ずツキと決められている.この訓の固定化の結果,この訓が一つの読みとして働くことがある.いわゆる当て字の中で,たとえば,デタラメを「出鱈目」と智くのは,出・鰡・目という3つの漢字の訓を,読みに使ってデタラメを表わしているのである.『万葉集』で,助動詞と助詞の結合であるツルカモを,「鶴鴨」と書く訓表記も,結局は同じことである.
漢字の訓読は,日本独特のものである.同じ漢字文化圏の中にある朝鮮では,漢字は必ず音読し,漢字を訓読するということはない.ここに,中国文化受容の両国間の相違の一端がうかがわれる.もっとも,朝鮮でも,上代,いまだ漢字のほかに文字を知らなかった時代には,何とかして漢字で韓土の言語を写そうという努力がなされ,その努力の中に,漢字を訓読した形跡がみられるが,後世では,漢字は必ず音読する原則が確立するようになった.
漢字の訓読は,漢文の訓読という,世にもまれな外国語テキストの読み方を生み出した.日本で漢文を読むときは,他の外国語のテキストのように,外国語として読まない.そのテキストをつくっている字を目で追って,片端から日本語に置きかえて読んでいくのである.つまり翻訳なのであるが,その翻訳の日本語は古風な文語で,時には奈良時代の文法の特徴が残されているという.そして,その翻訳は常に原文の漢文を見ながら行なわれるので,原文から離れることはない.日本語の統語法は,中国語の統語法とは大変違っているので,原文の漢字の配列そのままに読んでいくことはできない.そこで,原文の一連の漢字を日本語の統語法に従って読む必要から,レという記号や数字や,上・中・下,甲・乙等の記号を字の左下に付けて,その順序で読んでいく.すなわち,「返り点」とよばれる記号である.また,中国語の語は孤立的で,形態構造をもたないが,それを日本語で訓読するため,日本語固有の語尾を片仮名で各字の右下に振る.すなわち,「送り仮名」である.このように,原文の漢文の漢字の流れを,耳ではなく,目で追いつつ日本語に翻訳していくという,考えてみれば極めて不思議な読み方である.
このような漢文の読み方は,古い時代の朝鮮でも行なわれたことが最近分かってきたが,朝鮮の場合はあくまで翻訳の仕方として行なわれたようであって,日本のように,漢文の読み方をこのような読み方しかしないという慣行にするまでにはなっていなかった.現に,朝鮮では,漢文は真直ぐに音読するのが原則で,そのテキストを解釈しながら読む場合にも,文節ごとに助動詞や助詞を挿入することはあっても(吏読,吐),日本のようにひっくりかえって朝鮮語で読むということはない.そして,必要であれば,朝鮮語の訳を別につけるのである.もっとも,最近,「返り点」のような符号で朝鮮語で漢文のテキストを解釈した文献が発見された.あるいは「返り点」を打つことも朝鮮から伝来したのかもしれない.しかし,朝鮮では日本のような漢文の訓読は発展しなかった.
日本流の,この珍妙な漢文の訓読がどうして行なわれるようになったかといえば,それは一に漢字が表語文字であるからである.1字の漢字は,原則として,中国語の1つの語を表わす.その表語性を受け継いで,漢字に本来の中国語の語でなく,それと同意の日本語の語を宛てることは容易である.すなわち,漢字の訓読の習慣ができれば,漢字の結合である漢文も,直接,日本語で読みこむことも自然の成り行きである.ただ,原文と離れた訳文を作るのではなく,原文を見ながら訳していくという方法が生じたのは,わが国の上代において,中国から大量の書物が導入され,その内容をいち早く吸収するために,いちいち翻訳している余裕がなかったという事情があったのであろう.いってみれば,現代の機械翻訳のしくみのようなものである.