上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)
『言語学大辞典術語』
『言語学大辞典術語』
日本語の,今日では同音である20前後の音節について,奈良時代およびそれ以前においてはそれが2類に分かれており,そのうちのいずれの音節を表わすかによって,万葉仮名を使い分けていた.上代文献にみられる,このような万葉仮名の使い分けを「上代特殊仮名遣」とよんでいる.
『古事記』(712),『日本書紀」(720),『万葉集』など,上代の文献には,後世にはみられない万葉仮名の使い分けがある.たとえば,ヨという音節を表わす万葉仮名には,「用・欲・余・与」などがあるが,「夜」の意味のヨを表わすときには「用・欲」の類が用いられて,「余・与」の類が用いられることはなく,また「世」の意味のヨを表わすときには「余・与」の類が用いられて,「用・欲」の類が用いられることはない.しかもこれはヨ(夜)やヨ(世)という語に限られたことではなく,マヨ(眉)・カヨフ(通)・ヨブ(呼)・キヨシ(清)などのヨには「用・欲」の類が当てられ,ヨコ(横)・ヨル(寄)・ヨシ(良)・トヨ(豊)などのヨには「余・与」の類が当てられる.すなわち,ヨを表わす万葉仮名に2系列あって,そのいずれが用いられるかは語によって決まっていたのである.
これは,音韻の違いに繋づく文字の使い分けであると解されている.後世,ヨは1種であるが,上代には音韻的に2類に分かれており,それが万葉仮名の使い分けとなって現われたものと考えられる.それらの具体的な音価の違いは,現在に至るまでなお明らかでない.しかし対立自体は明確で,今日その2類の区別を表わすために,「用・欲」の類で表わすヨを「ヨの甲類」,「余・与」の類で表わすヨを「ヨの乙類」とよんでいる.こうした区別は,ヨに限られるわけではない.同様の区別のみられる音節を列挙すると,キ・ギ・ヒ・ビ・ミ,ケ・ゲ・へ・べ・メ,コ・ゴ・ソ・ゾ・卜・ド・ノ・(モ)・ヨ・ロである.ただし,その甲乙は,ほとんど『古事記』にのみみられ,またコ・ゴの甲乙は,平安初期になっても区別のみられる文献が少なくない.すなわち,2類の区別はいずれ1類に統合されるが,その時期は音節によって遅速があったとみられる.なお,エにも甲乙の別があるとされるが,これはその性格が明らかで,甲類はア行のエ[e],乙類はヤ行のエ[je]である.
[研究史]
この方面の研究は,本居宣長の『古事記伝』(総論の部,1771成稿)に始まる.宣長は,『古事記』の仮名用法について,コ(子)の表記には「古」のみを書いて「許」を用いず,メ(女)の表記には「売」のみを書いて「米」を用いることはないというような現象が存在することを指摘した.これを受けた石塚龍麿は,『仮名遣奥山路』(1798頃成稿)において,『古事記』『日本書紀』『万葉集』などにわたる調査によって,広く書き分けの事実が存在することを確かめたが,この研究は一般の学者の理解を得るところとならなかった.それは,当時,上代文献に対する本文批判が進んでいなかったために,例外が多いようにみえたこともあり,また何よりも,こうした万葉仮名の使い分けが何に基づくものなのかという点に関する省察が欠けていたことによるものであった.
この方面の研究は,本居宣長の『古事記伝』(総論の部,1771成稿)に始まる.宣長は,『古事記』の仮名用法について,コ(子)の表記には「古」のみを書いて「許」を用いず,メ(女)の表記には「売」のみを書いて「米」を用いることはないというような現象が存在することを指摘した.これを受けた石塚龍麿は,『仮名遣奥山路』(1798頃成稿)において,『古事記』『日本書紀』『万葉集』などにわたる調査によって,広く書き分けの事実が存在することを確かめたが,この研究は一般の学者の理解を得るところとならなかった.それは,当時,上代文献に対する本文批判が進んでいなかったために,例外が多いようにみえたこともあり,また何よりも,こうした万葉仮名の使い分けが何に基づくものなのかという点に関する省察が欠けていたことによるものであった.
「上代特殊仮名遣」の再発見は,橋本進吉の「国語仮名遣研究史上の一発見」(『帝国文学』23巻11号,1917)に始まる一連の業績によって果たされた.橋本は,これが単なる文字の使い分けでなく,音韻の別に応じる文字の使い分けであることを指摘した.このことによって,奈良時代,あるいはそれ以前の音韻体系に対する従来の見方は,根本的な再検討を必要とすることになった.また,それまで1類と考えられていた音節に2類の区別の存することが明らかになったわけであるから,上代文献を扱う者にとって,この知識が必須なものとなり,各方面に大きな影響を与えた.
この事象をめぐって特に問題になったのが,この2類の音価の違いと,音韻論的な位澄づけである.橋本は,2類の違いを母音の違いと考えたが,以来その考え方を受け継いだ上で,8母音の体系を想定する説が有力であった.その後,服部四郎(『日本語の系統』,1959)によって,オ列については母音の違いと認めるが,イ列・エ列については口蓋的子音と非口蓋的子音との対立とする考え方が提出された.また,松本克己(「日本語の母音組織」『月刊言語』5巻6号,1976)は,母音体系の普遍性という観点から,それまで有力視されていた8母音体系説を批判し,イ列・エ列については口蓋化の有無による子音の対立と認め,さらにオ列母音は,音韻論的には /o/1つで,甲乙の書き分けは,単なる変異音(allophone)現象の反映であり,結局は5母音体系であったと説いて,大きな波紋を投げかけた.オ列母音の捉え方については,特に問題が残されており,今後さらに検討が必要とされる分野である.なお,『世界言語編(中)』「日本語(歴史音韻)」をも参照されたい.